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『埃か煙か影絵か―――』 作者: sako

埃か煙か影絵か―――

作品集: 15 投稿日時: 2010/05/16 16:17:59 更新日時: 2010/05/17 01:17:59
 









 旧地獄街道の南側、遊郭や飯盛旅籠、煙草屋が建並ぶ一角を私は歩いていた。











 今日はいつも雪が深々と降りしきる旧地獄にしては温かく、吹く風は湿り気を帯びていた。街頭に立つ痩せたポン引きの小男も薄手のコートを羽織り、街娼も着流しの前をあけ、胸元をさらけ出している。豊胸したと思わしき歪な形の乳房が見えた。
 どれもこれもこの地の底の旧地獄であってなお下層の位に属する輩というのにマシな身なりの服を着ている。こちらは薄手の洋服―――一張羅のそれしかないというのに。妬ましい。
 と、湯屋のはす向かいに立っていた二人組の売女が私に気がつき、視線を投げかけてきた。媚を売るような、挑戦的な目つきで左の女は胸元を、右の女は華人服のスリットを広げ、それぞれ四つある乳首と毒蛾の刺青の入った太腿をさらけ出してきた。
 眉を顰め、道ばたに垂れ流された犬の汚物…その通りなのだが、を見るような目線で返事をし、言葉を発することなくその前を通り過ぎる。あいにくと今は女を買うような気分でもないし、そもそも、財布にはなけなしの古銭が数枚あるだけだ。恐らく、あの身売り女たちよりも今の私は貧乏だろう。妬ましい。後ろから投げかける罵声。「テメコでもシテな」「萎びた瓜相手にヨガってろ」五月蠅い。その威勢の良ささえ妬ましい。
 言い返し、掴みかかるのも億劫に足早に進む。ここは人が多すぎる。いるのは女を金で買う下衆か、春を売る売女か、それらから甘い汁を吸っている寄生虫か、いずれも営みの中では最下層に位置する連中しかいないのに、そいつ等相手にさえ嫉妬の感情を抱いてしまう。その浅ましさに自己嫌悪に陥る。





妬ましさを糧に、急ぐ。妬ましさから逃れるために、急ぐ。
 早くここから離れよう。これだけ人が多いと、それだけ妬ましく思うことが多くなる。





 湯屋から四軒、向こうの曲がり角から裏路地に入る。
 表通りの華やかさとはうってかわって、すえた匂い、陰鬱な空気、冷たい風が吹きすさぶ裏通りに出る。細く狭い道には女衒宿や酒場からでた塵が投げ捨てられ、地獄烏やアニマルゾンビが生ゴミを漁っている。食い扶持があるのが羨ましい。妬ましい。その浅ましさにもはや自嘲すら覚える。



私は橋の下で野良犬に追いかけられる病気持ちにさえ嫉妬することがある。ああ、誰もいない世界に行きたい。誰もいなければこんな身を焼き焦がすような感情に囚われなくて済むからだ。腕の躊躇い傷も減るだろう。無理矢理嚥下する糞不味い二級酒の量も減るだろう。容易く、その世界に行く方法は在るのだが私には出来ない。もっと深く腕を傷つけることも、もっと浴びるようにきつい酒を呑むことも―――宇治川に身を沈めることも。自ら死を選べる奴等、その行動力、いかがわしい潔ささえ妬ましい。私には自殺する勇気すらない。死んだ奴、死ねた奴、死のうとしている奴、そいつら全てひっくるめて妬ましい。



早くここから離れよう。
威嚇してくる腐った犬を迂回しながら足早に歩く。足元には木で蓋をした溝が。私が歩く度にたんたん、と音を鳴らす。隙間からは腐臭が立ち上っている。下賤な私にはお似合いの場所。いや、ここがお似合いなのは塵を漁る畜生か、酒気か病魔に脳をやられた廃人たちだ。未だ五体満足な私の場所ではない。あんな下衆以下畜生以下の奴等にも居場所があることに嫉妬を覚える。妬ましい。どうにも止まらない。空気にさえ、この腐った匂いを混ぜられた空気にさえ、嫉妬を覚える。
もはや病気。私の精神は襤褸を纏い土塊と一体化し始めているルンペンプロレタリアート共と変らない壊れ具合をみせている。治療の施しようがない。



嫉妬。我が心に刻まれた根源衝動。



私はそれから生まれ、それを糧に育ち、それを放ちながら生きてきた。
私という自己は嫉妬によって生まれ、育ち、生き甲斐とし、それによって心壊されているのだ。
変えようのない事実。変われる奴等が羨ましい。明日から頑張ろうと決して守られない約束事を言う口さえも。




ああ、早くここから離れよう。私自身から離れよう。
ここではない何処かへ行ったからってその先で新たに嫉妬心が芽生える。誰もいない彼岸に行っても、思い出の中に住まう記憶にさえ嫉妬してしまうだろう。
 逃れるためには自己さえない完全なる虚無の宇宙へ旅立たなくてはいけない。無間地獄のような。輪廻転生さえ否定する窮極の無へ。
 詰まるところ、ただの死でさえも私には未だ心安らぐ安住の地ではない。死ぬだけで現実から逃避できる奴等が羨ましい。妬ましい。死んでさえ物想う霊魂が残るのだ。三途の川の渡し守に連れられ、忘却のアケロンの川を流れて魂に刻まれた記憶を全て禊ぎ流しても、本質は変らない。生まれ変わった先でまた私は嫉妬に身を焦がさねばならないのだ。
 私が求める永遠の安らぎの地へ行く方法は絶無だ。
 無間の地獄に堕ちる裁きを受けなければならないほど私は悪人ではない。また、それほどの悪人にも当然なれない。ジュデッカへと墜とされる外道すら、羨ましい。妬ましい。



ああ、早くここではない何処かへ、死ぬこともなく、悪事を犯す必要もない安楽な、場所へ、あの場所へ行こうと足を進める。







―――結局、私には忘却と倦怠、頽廃による逃避しか残されていないのだ。









 その場所は旧地獄街道の裏道の更に奥、入り組んだ場所にひっそりと立っていた。
 日本家屋の多いこの場所では珍しい開かれた庭のある大陸系の屋敷。けれど、庭の草は殆ど手入れされておらず藪蚊が舞うばかり。草が隙間から伸びる石畳の通路を抜け、私は入り口へと立った。
 かつては紅かったであろう、塗装のはげた戸を押し開き、中へ入る。
 





「………」

 受付のモスマンぎょろりと瞳をあげてくる。そのツラ、その様で仕事熱心なこと。この最下層でさえ発揮される勤勉さが羨ましい。妬ましい。
私はポケットに入っていた砂利銭を番台へ叩きつけるようにだす。ひの、ふのとモスマンが翼のような指で勘定を数え、よござんす、と聞くに耐えない低い声をあげる。私はそれを無視して暖簾をくぐった。




煙。息が詰まるほど濛々と立篭めるそれ越しに室内を見回す。
天井の高い二十畳ほどの広さの大部屋。そこに所狭しと三段の狭いベッドや荷台の上に茣蓙を引いたもの、堅い木で作られたデッキチェアーなどが並べられている。雑多な印象を受ける。その各々の場所に気怠げに大勢の人が身体を横たえていた。その誰もが大振りのパイプを手に煙を噴かしている。キセル、水煙草、蚊帳で囲った中で焚かれる香。誰もが陶酔した面持ちでその紫煙を吸い込んでいる。






ここは阿片窟。
頽廃と倦怠の象徴。何かから追われる者が逃げ込んだ薬物という名の避難所。掃きだめ。




インテリアであろう壁に掛けられたスクリーンに踊る影絵のハヌマーンとガルーダの姿を眺めていると係の小人の男がやってきた。私を先導し、店の奥の方へと連れて行く。
案内された場所は茣蓙をひいた高床敷きだった。靴を脱いでそこへ上る。幸い、広い高床敷きは三人ほど使用できるスペースがあったが、現在の所、使うのは私一人のようだ。なけなしとはいえそれなりの銭を支払った対価だ。もっと払えば快適な個室にも行けるのだが、それだけの持ち合わせは家財道具を売り払った今、手元にも近い将来にもない。簡単にポケットに入っている金貨を投げるだけで個室に行って旨い煙りが吸える金持ち連中が羨ましい。妬ましい。



他人の垢と埃で汚れた煎餅布団の上に身体を横たえ、高い枕を頭の側面に、私は横向きに眠るような格好を取る。
そのまま、小人の男が煙管の準備をするのを横目で眺める。

男は銀製の薬入れを空けた。中身は芥子の実の液を煮詰めて練ったもの。つまるところの阿片。それを匙で刮ぎ、リボン状の削り滓を作る。出来たリボンを適度に丸めると、軽くランプに近づけ種火を灯す。普通の煙草を吸う物よりも大仰な竹で出来た煙管を手にとると、火皿の口を開け、火が灯った阿片を匙で中に詰めた。その作業を三度繰り返して、準備は終わりだ。小人は寝転がったままの私に煙管を手渡す。
受け取った煙管に口をつけ、火皿をランプの上へ翳す。四方をガラスで覆われた加熱用のランプ。そのまま火の上でじっとし、火皿を熱して何度か軽く息を吹きかけ酸素を送ると火種の火が大きくなり、火皿の隙間から煙が立ち上りはじめた。
その紫煙、古来より司祭と生け贄が神に陶酔するために使われ、近代において麻酔代わりに用いられた紫煙を肺一杯に吸い込む。








「げほっ、けほっ」

 むせ返る肺。咳き込む喉や鼻から煙が立ち上る。
遅れて、刹那、浮遊感。陶酔感。脳が綺麗さっぱり漂白される。目の前に映し出されている光景が狭くなる。向かい側で水煙草を拭かしていた食死鬼の姿が見えなくなる。視界の端に捉えていた四段ベッドの各々の段に身体を横たえていた連中の存在が認識から消える。スクリーンに映し出されていたハヌマーンとガルーダも今は何処かへ。かろうじて見えるのは私のすぐ側、四角いお盆の上に置かれた二種類のランプや阿片が入れられた薬入れ、匙、水差しとコップ、それとにこやかな笑みを浮かべる職人の小人だけだ。
付き添い係の小男が手を伸ばしてくる。私は次第に弛緩していく筋肉を何とか動かし、パイプを一旦、男へ返した。そうして、寝返りを打ち、仰向けになる。
蚊帳越しにヤニに汚れた天井や梁が見える。
奇妙な高揚感。寝起きのような気怠さが全身を包んでいる。店に入るまで、いや、煙を吸うまでに心中を苛ましていた自虐と嫉妬の念は当に消え失せている。開放感。あらゆるしがらみ、束縛、社会的重力から解き放たれたような感覚。つられ、身体も浮遊感を得る。夢見心地。舟に揺られている気分。忘却のアケロンの川を渡るときはこんな陶酔感が得られるのか。死でさえも今は望ましい。
顔が笑みに形作られる。こうでもしないと得られない幸福感。至福の時。
あは、と小さく開いた口から声が漏れた。私の声? ああ、こんな声も出せるんだとアンニュイに思う。



暫く、その陶酔を楽しんでから私は横向けになり、手を出した。
もう一服。その合図。付き添い係の小男がまた阿片の用意をして、パイプを私に渡してくれた。
二服目。少量を口に含んで味わう。今度はそのまま横を向いた状態でパイプをランプに翳しながら、立ち上る煙を少量ずつ、味わうように飲む。
煙を味わう度に口内から幸福感が広がる。金色の甘い乳液が染みこんでくるイメージ。埃っぽい、垢で汚れた布団の汚さも気にならず私は全身の力を抜いて、眠るようにリラックスする。ささくれだった畳に目がいく。端の方では埃が積もっている。天窓から僅かに差し込む光蘚の疑似陽光に舞い上がる埃が煌めく。漂ってきた煙が浮き上がる。私と煙の境界が薄くなる。使い古され、角の飾りが取れたお盆。盆の上に並べられた二つのランプの光りが室内の弱い風の流れによって揺らめく。煙管や匙、薬入れの影がうつろう。ゆらりゆらゆらりゅらりゆらゆら。
 
 そんなランプの光りと影のコントラストを眺めていると付き添い係の男が立ち上がり、私の身体に汚れた麻のシーツを掛けてくれた。そうして、ついでに、何の意図があってか、ランプの上に何かを置いた。薄く切った竹で出来た細工。よくよく見ればそれはハヌマーンとガルーダの形をしていて、ランプの熱に煽られ手足や頭、翼や武器などの位置を変える玩具だった。あの影絵の映写元だ。
 熱に炙られ、動くそれを見ながら私は阿片の煙が与える陶酔の中へ陥り込んでいった………












―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












 それから数年後。




「まったく…汚い場所ね」
「さとりさま〜、全部、壊しちゃっていいんですか〜?」
「全部は駄目よ。この建物だけね。周りに被害が及ばないように気をつけて」
「うにゅ、難しいなぁ」











 間歇泉事変の後、旧地獄街道には地上から温泉や宿場町を目当てに旅行客が訪れるようになった。
 旧地獄を統括する古明地の現頭首、古明地さとりは旅行客でごった返すようになった旧地獄街道の再開発及び公衆道徳上不必要だと思われるものの排除が必要と考え、地元の有力者たちとの話し合いの元、区画整備に踏み切った。
 道路は拡張され、旅館は大きく建て直され、売春宿や賭博場は再開発に協力的だったものは街の行政団体の傘下へ入り、上納金を対価に存在が許され、それに逆らうものは営業停止処分と公衆良俗法違反として旧針の山地獄の鉄鉱石採掘場へ強制連行された。そうして、建物は再利用が可能なもの以外は全て取り壊される運命にあった。
 その日もさとりはペットである霊烏路空を連れて、廃棄相当の建物を見て回っていた。
 場所は街道の南の外れ、表通りよりも更に退廃的な娼館や違法な薬物が取り扱われていた最下層に位置する区画だった。
 建物の殆どは老朽化や薬物汚染が進みまともに使えるものは残っていなかったのでいっそ、絨緞爆撃による一斉更地化計画も立てられていたが、住民が残存している可能性も考えて却下。さとりはこうして一軒一軒を虱潰しに調べながら解体作業を行っていたのである。人の心が読めるさとりならではの捜索作業だった。

「それじゃ、ぶっ放しますかー」

 制御棒/お空バスターを構え、核熱エネルギーをチャージする解体担当/お空。
 と、さとりは一瞬、訝しげに眉を潜めるとお空に止めるようにと腕を差し向けた。

「中に…誰かいる…?」
 
 胸のサードアイに届いた僅かな声。いえ、鼾のようなそんなうめき声を聴く。
 さとりはお空を伴ってもはや白く地を晒してしまったかつては紅かった扉を開けて廃屋の中へ入っていった。
 家の中も外同様の荒廃ぶりだった。
 足が折れたテーブル。砕けたランプ。その他、さとりには用途も分からない器具の数々。それらが埃に飲込まれ、存在を失おうとしていた。
 お空からカンテラを借り受け、さとりは声が聞こえた方へ、瓦礫を踏み分けて進んでいく。
 蜘蛛の巣が顔に張り付き、服はあっという間に埃で真っ白になる。付いてくるお空も似たような様。後ろから、誰もいないから出ましょうよ、と抗議の声をあげている。それを無視してさとりは最奥へと進んだ。











「これは………」

 はたして、そこにいたのは…
 壁に背を預け、項垂れるような格好で座る、木乃伊。
 手には黒い竹で出来たパイプが握られている。

 もはや、呼吸もなく、忘却と倦怠、幸福の彼方へ飛び立ったその姿は―――





END
「嫉妬の心は!」
『父心!!』
「押せば命の泉湧く!」
『見よ、嫉妬マスクは赤く燃えているぅぅぅぅぅ!!』


以上、焼き肉喰いに行った帰りの車内で。男四人の会話でした。


バカルディ呑みながら書きました。
阿片どころか煙草すらまともに吸ったことありませんよ。
sako
作品情報
作品集:
15
投稿日時:
2010/05/16 16:17:59
更新日時:
2010/05/17 01:17:59
分類
パルスィ
1. 名無し ■2010/05/17 01:47:51
燃え尽きてやがる・・・吸い過ぎたんだ・・・
2. 名無し ■2010/05/17 06:10:22
パルスィも煙になっちまったか
3. 名無し ■2010/05/17 14:53:54
ラリりながら逝った魂はせめてしばらくはラリっていられるんだろうか
そうであることを願いたくなる
4. 名無し ■2010/05/18 17:08:30
「阿片」というと、他の麻薬より一気に退廃的な雰囲気を私が感じるのは、
阿片戦争の清の惨状や昔読んだホームズの阿片窟の描写に拠る物でしょうか。

パルスィ的にはハッピーエンド…?
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