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『白蓮聖人の島』 作者: sako

白蓮聖人の島

作品集: 17 投稿日時: 2010/06/06 16:06:18 更新日時: 2010/06/09 22:57:51
 闇夜を突っ切る金色の稲妻。
 それはその速度で暗い山中を駆け抜けていた。

 鋭い爪が映えた四肢で大地を蹴り、金色の縦縞の毛皮は梢や藪など諸共せず、引き絞った弩の弦の如き筋肉は渓谷を易々と飛び越える。爛々と輝く赤い瞳は昼間のように闇夜を見据え、その巨体のわりに小さな尖った耳は一里先で針が落ちた音でさえも聞きのがさまいと周囲の音を拾っていた。

 彼女は獣としてはある種の頂点に位置する存在であった。
 どんな鎧も容易く切り裂く鋭い爪、深々と肉を抉る刃が如き犬歯、体格や数の差を諸共せずに挑みかかる獰猛さ、そして、それとは裏腹な深い知性。彼女はこの魑魅魍魎が跋扈する山中においても一目置かれる強固な妖怪であった。

 そんな彼女を喰らおうと多くの妖怪が、そんな彼女を調伏しようと数多の修検者が、そんな彼女を討ち取ろうと数多の武士が、彼女の元へ訪れ、それら全てを彼女は鋭い爪と牙の元、屠り、喰らってきた。
 彼女は力の強い妖怪だった。

 恐怖を振りまき、常に得物を追い求めるハンターの側の妖怪だった。

 つい、今し方までは。



 彼女は疾走っていた。
 乱立する木々の間を減速することなく走り抜け、藪を諸共せず突っ切り、遙か下方、激しい流れを見せつけている谷川を飛び越え、彼女は走っていた。

 何のために?


―――逃げるためだ!


 恐怖。それは彼女の人生の中で久しく覚えていない感情だった。
 生まれたての頃ならいざ知らず、今となっては喩え自分よりも力の強い妖獣と対峙したところで決して抱かぬ感情。それを彼女は今、脳裏にべったりとにかわのように貼付け、それに震えながら、それに怯えながら、脱兎のように走っていた。

「いたか!?」「いや、あっちに逃げたぞ!」

 闇の向こう、鬼火のように揺らめく松明の明かりが木々の枝葉越しに垣間見える。敵意を含んだ多くの声が山々に木霊し、風に乗って荒くれ共の体臭と火薬の甘い香りが漂ってくる。
 彼女は追われているのだ。数多くの人間、武装した山師たちに。
 まれに人間たちは徒党を組み、彼女のような妖怪を駆り立てようと山へ分け入ることがあった。現に彼女も数回、そうした輩と対峙したこともあった。その殆どを返り討ちか戦略的撤退で締めくくり、人間たちの浅はかな行いを嘲笑ってきた彼女であったが、しかし、今回ばかりは規模が違った。
 百人は下らない数の人間がツーマンセルを徹底し、連絡を密に、蟻の子一匹を逃がさぬ布陣で彼女を追い立てている。未だかつてない高度に組織だった包囲網だった。明らかに彼女を何処替え追い詰めようとしている動き。包囲は厚く、突破は酷く困難。彼女は駄目だと分かっていても人間どもの思惑通りに逃げるしかなかった。

「追い詰めろ!」「領主様の娘を返せ!」

 藪をかき分け、倒れた赤松の幹を飛び越えた所で彼女は自動二輪よろしく、体を横向けながらブレーキをかける。土がめくれ上がり、埋もれていた石が数百年ぶりに外の世界へと投げ出される。苔の上を転がっていたそれは中空を飛び出し、そうして、奈落の底へと落ちていった。崖だったのだ。




―――ここかっ!?





 彼女はうなり声を上げた。ここへ追い詰めるために人間たちは篝火を手に、火縄銃を携え彼女に迫っていたのだ。
 速く逃げなければ、と踵を返す彼女。その頬が一発の厚い礫に抉られる。遅れて発砲音。見れば藪の向こうから槍衾のように銃口がこちらに向けて覗いているではないか。

―――追い詰められた…!

 後ろは切立った高い崖。彼女の脚力を持ってしても飛び降りることは不可能。ここから逃げられるのは翼ある者だけだ。いや、それさえも飛び立った瞬間、あの人が創りし最高の武器で射貫かれることだろう。
 万事休す、と彼女は姿勢を低く、弓矢を引き絞るように前人の筋肉という筋肉に力を込め、うなり声を上げた。
 機を伺う。
 果たして、そのタイミングは―――

「撃ェェーッ!!」

 人間共のリーダー格と思われる男の怒号と一緒に訪れた。
 火を灯した縄を引っかけてある撃鉄が薬室にバネ仕掛けで落ちると同時に彼女は走り出した。稲妻の如き突進。何人かがその動きに驚いてせっかく構えていた銃口をあらぬ方向へ向けてしまったが僅かな腕に覚えのある者たちがしかと走り出す彼女の体を捉え、礫をたたき込んだ。
 
肉が抉れ、鉛の弾丸が体内へ穿孔する。その痛みがやってくるより早く彼女は駆けた。このタイミングを逃しては逃げることなど出来ない。

 人間共の頭上を飛び越え、包囲をかいくぐる。走り抜け様に何人かの顔を切り裂いていく。悲鳴と怒号。包囲を抜けた所で今度は後ろから撃たれた。この包囲を抜けることも計算済みか。左後ろ足の股へ当たった一発が骨まで達したようで途端、左足の自由がなくなる。右耳も調子が悪い。それでも、彼女は駆け抜けた。敵を打ち倒し、銃弾を諸共せず、雷光の素早さで。

―――逃げ切れる!


 彼女は確信した。鉄砲の礫は確かに痛いが耐えられぬほどではない。
 彼女は落葉の上に己の血を滴らせながら森の中を駆け抜けていった。そうして、人の包囲を完全に通り抜けた、その刹那―――


「逃がしませんよ」

 これまでと異なる圧倒的な絶望の声を聞いた。
 雷の速度で走る自分に追いつく何者か。新手? 疑念より先に彼女は鋭い爪を振るった。それが敵には届かないと、自分の方が先にやられると確信しながら。


―――!?


 強力な脚劇を受け、彼女の体が宙を舞う。
 円弧を描く、切れ味という形容さえ出来そうな鋭い足技は文字通り彼女の体を切り裂き、鉄砲の弾などとは比べものにならないダメージを身体に刻み込んできた。意識と命がただの一撃で刈り取られる。
 奈落の底へ落ちていく一刹那前に聞えたのは「尼公、ご無事ですか」と自分を一撃の下に倒した敵を呼ぶ人間たちの声と、

「はい。皆様方も、ご無事でしたでしょうか」

 落ち着いた柔和な声。
 消えゆく視界の果てに見えたのは月もない夜空を背に倒れた自分を見つめる尼の姿だった。






 この山中にて無敵を誇っていた妖獣、寅丸はここについに手痛い敗北を記したのだった。









―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 軽々と自分の身体が持ち上げられているのが分かる。
 それまで雷のようだと自負していた自分を超える速度で、山を飛び越え進んでいる。
百貫を越える自分を担いでいるのにまるで飛んでいるように進んでいる。
格が違うと虚ろげに思った。






運ばれた場所は人里にほど近い、山腹に建てられた寺院だった。
 その地下、かつては宝物庫だったであろう場所に運び込まれる。
 傷の手当てを受け、意識の覚醒と昏睡を繰り返していると自分を打ち倒した尼が人間の女子を抱いて現れた。

 気を失っているのか、静かに呼吸を繰り返す薄汚い襤褸を纏った小さな子供。いつもなら餌と思えるその人間も同じような境遇に今はある種の近親感さえ覚えていた。

『これから貴女の治療と、それと“人化の法”を行います』

 尼はそんなことを言ってきた。
 人語は理解できるがその内容までは理解できない。がう、と喉の奥から絞り出すように声を出すと、大丈夫です、全て私に任せてください、と尼は優しげに頭を撫でてくれた。人間の女の子を隣に寝かしつけると尼は道具を用意し始めた。

 鋭い小刀。太い針。縫合用の鯨靱。鉗子。丸鋸。螺旋を描く錐。金属製の皿。包帯、脱脂綿。ピンセット。

 清潔なそれらは残酷な輝きを放っている。トランペットをかき鳴らす告死天使の無慈悲さを。

 そこから先、記憶は断絶的だ。

 振るわれる刃/裂かれる肉。引っ張る鉗子/引きはがされる皮。血を吸うガーゼ/血を流す肉体。鉗子で取り出される礫。からん、と皿の上に投げ捨てられる鉛玉。手術されている。助けられる自分/捌かれる少女。骨が断ちきられ、筋が外され、内臓の位置を調整される。たびたび、悲鳴をあげ気絶する。目を見開くと顔面の皮を剥がされたニンゲンの少女と目があった。剥き出しの眼球。剥き出しの歯茎。剥き出しの鼻骨。己も同様。むせ返る血臭に息が詰まる。その喉が取り払われる。ここまで生き物が解体されどうして生きているのか不思議でならない。天井に吊らくられた宝塔の輝きが御仏の慈悲に思える。温かい光りに僅かに痛みを忘れる/死から遠ざかる。それは自分だけ。選り分け、切り裂かれ、使えるパーツと使えないパーツに選別された少女はもはや肉。食料か民芸品か、その製造過程と変らない。不要な部品はすぐに足下のブリキのバケツへ無造作に投げ捨てられる。自分の部品も同様。爪が棄てられた、見事な毛皮が棄てられた、大きな眼球が棄てられた、肉だけを消化する短い腸が棄てられた、顎ごと歯も棄てられた。ばらばらばらばら、ばらばらばらばらばらbらっbらっっbっらbrばらbらbらっっbれあっっbれわっっbrばっbtばっっbたっっbったっbっtばっっbtばbたたたtばtばらべあbらわbっらばば「ぬにされる。気が狂った。殺して欲しいと心底願った。死んでは駄目ですと諭された。貴女には大事な使命があるのです、とも。理解できない。死にたい。筋肉が糊で骨に貼付けられた。肉を埋め込まれた。長さを調節した骨が戻された。新しい眼球や内臓、骨格が嵌められた。四肢がやっと揃った。その上から肌が貼付けられた。鯨靱で縫い合わされた。包帯でグルグル巻きにされた。一日が過ぎて夜が終わって、次の次の朝がやってきた。











―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 寅丸が目を覚ますとそこは見知らぬ場所だった。
 体中が疼くように痛み、まともに動けない。
 しかたなく、霞がかって見える視線だけを動かして辺りを探る。

 使い込まれ艶の浮いた天井の板。古い障子。とどまった空気。獣の気配も鳥の囀りもない異質な静寂に満ちた空間。
 どうやらここは人間の巣、家と呼ばれる建物の中のようだと、寅丸は結論づけた。
 一昨日、対峙した敵に連れてこられたのだろう。担ぎ上げられ、山を飛び越え、古びた寺院の地下へ運び込まれた所までは覚えている。けれど、そこから先の記憶はまるで鍵のかかった箪笥にしまわれているように思い出せない。何があったのだろうか?
 浮かんだ疑問も刹那に消える。

―――逃げなくては!

 鈍痛に疼く頭で考える。
 けれど、体はまるで酷い病気に罹ったように自由に動いてくれない。視線を彷徨わせるのも、指先を動かすのも、それどころか呼吸することさえ困難だ。五感はそれに伴い昏睡一歩手前のレベルまで低下し、かろうじて使えるのは視覚ぐらい。それも体の疼きに襲われ余り長い間、使っていられない。
 体も、今どうなっているのかてんで分からない。
 どうやら温かく柔らかいものの上に寝かされているようだが…触覚が未だに死んでいるこの体では定かではない。切り裂かれた胸の痛みは感じられないが、全身を襲う鈍痛に覆い隠されているだけなのかも知れない。
 
 ごろりと目が乾いたような痛みを覚え、寅丸はきつく瞼を閉じた。その間から止めどなく涙が溢れてくる。

 痛みと―――不安と、悔しさのせいで。


 と、視界を封じたせいか、聴覚が僅かに過敏になった。
 とたとたと板の上をゆっくりと歩く音が聞えてくる。しかも、音は段々と大きく、こちらに近づいてきていることが分かった。

―――敵!?

 閉じた瞳を再び開け、寅丸は身をよじる。
 けれど、やはり、体はまるで自由に動かない。かろうじて腕を少し持ち上げることが出来ただけだ。
 その視界の隅、包帯に包まれた長く細い腕のようなものが見えた。

―――?

 今のは? そんな疑問。けれど、その回答を思いつく前に静かに障子が開けられた。

「ああ、やっぱり、起きたのですね」

 何とか視線だけを動かすと開け放たれた障子の間に立つ、尼の姿があった。
 ゆったりとしたゴシック調の法衣。ウェーブがかった長髪。優しげな、けれど、どこか底の知れない感じのする笑み。一昨日の記憶のままの尼の姿だった。
 忌々しげに寅丸は喉を鳴らし敵を睨み付ける。
 体は動かないがお前に屈するつもりはないという敵意の現れ。
 
 それを意に介さないよう、尼は寅丸に近づき傍らに腰を下ろすと。口元を綻ばせ柔和な笑みを形作った。

「これこれ、そんなに興奮してはいけませんよ。まだ、縫合痕が繋がっていないのですから。興奮すると傷口が開いてしまいますよ」

 諭すような優しげな言葉。人語を理解できる寅丸は、敵の言葉だが一理ある、と少しだけ唸った後、気を落ち着けるよう一度だけ瞳を閉じて、尼から視線を逸らした。
 今は指一本動かせないのだ。敵意を剥き出しにしても為す術もない。さぁ、煮るなり焼くなり好きにしろ、と半ば自棄気味に寅丸は天井を強く見据えた。

「ふふふ、よろしいです。ところで、お腹は空いていませんか? まだ、内臓も本調子ではないでしょうから簡単なものを作って来たのですが…」

 死にかけている鼻腔に僅かに美味しそうな匂いが感じられた。ぎゅるる、と休暇中の胃が叩き起こされたように脈動し、音を鳴らす。視線を匂いの方…尼の方へ向けると、畳の上にお盆に乗せられた料理が見えた。たしか、あれは人間の食い物で粥というやつだと寅丸は思った。稲穂の実を煮込んだもの。肉食を基本としている寅丸なら普段は鼻にもかけないような食い物だ。けれど、何故か異様にお腹が空いているこの状態ではそれさえもごちそうに思えた。
 喉の奥から息を振り絞って、がう、と声を上げる。ヨコセ、という意味だ。

「ああ、申し遅れましたが、私は聖、聖 白蓮というものです。この寺で僧をやっています」

 けれど、敵…聖 白蓮と名乗った尼はそんな寅丸の言葉を無視して自己紹介を始めた。言葉が通じない、いいや、この人間はこちらの心ぐらい普通に読んでくる、そう憤る寅丸。がう、と抗議の声をあげた。

「がう、ではありません。私の名前は聖。いいですか、ひ・じ・り。はい、言ってみてください」

 どうやらこの聖とやらは寅丸に自分の名前を呼ばせたがっているようだった。けれど、無理だ、と寅丸は思う。自分のような獣と人間では喉の作りが違うのだ。うなり声以外、自分の喉は奏でられない。九官鳥じゃ在るまいし。

「ひじり、ひじりですよ。ほら、こんな風に口を動かして喋るんです」

 顔を寄せて自分の唇を指さし、実演してみせる聖。そこでやっと寅丸はこのゲームのルールを理解した。自分がこの聖の名前を呼ばない限り、すぐ手の届くような位置に置いてある食事は与えられないのだと。アレは食事ではなく褒美なのだと。寅丸は聖を睨み付けた。

「が、がぅ、ぐ…」

 けれど、結局、食欲には勝てなかった。聖を真似て口を動かし、喉の奥から声を漏らす。びりびりと口の周りが痛い。喉もだ。使い慣れない使い方をしたからだろうか。当然、出てきたのは似ても似つかないうなり声のようなものだった。

「ひ・じ・り」
「ぎ・ぎ・ぎ」

 ゆっくり、一語一語、合わせるように声にする。今度は母音は合った。聖の顔に期待の笑みが浮かぶ。

「ぎぃ…ひ…じ…りぃ…」

 絞り出すように、何度か挑戦してやっと似ている音が喉から出てきた。瞬間、ぱぁあっと聖の顔が明るくなる。

「よくできました。やれば出来る子なんですね、やっぱり」

 聖が腕を伸ばし、寅丸の頭を撫でる。包帯に巻かれた頭では殆ど何をされているのか分からなかったが、少しだけ寅丸は嬉しくなった。その嬉しさに応えたのか、お腹がきゅるるる、と声を上げた。

「ふふ、お腹が空いているんですね。さ、食べさせてあげますから…あーん、してください」

 お盆を寅丸の側に寄せると、その上に乗せられた粥を杓で掬い、口を丸く開けて食べる真似をしてみせる聖。倣うように寅丸も小さく口を開ける。そこへ、聖が優しい手つきで粥を食べさせてくれた。薄く塩で味付けされた雑穀粥。初めて食べたものなのに何処か懐かしい味がして寅丸は涙を流してしまった。

「あらあら、そんなに美味しかったですか?」

 聖はハンケチを取り出すと、それで包帯へ吸い込まれる涙を拭き取った。
 寅丸の中で聖の評価が少しだけ変った。恐ろしき、忌むべき敵だと思っていたのに、その母のような優しさに少しだけ評価を変えたのだ。
 けれど、それも少しだけ。こいつは自分を蹴りとばして攫ってきた敵なんだと、寅丸は内心で頭を振るった。そうして、もっとよこせ、と抗議の声を上げた。
 今は何より栄養と休息、怪我を治すための力と時間が必要だった。
 食いしん坊さんね、と微笑む聖を一瞥し、寅丸は一心不乱に口に運ばれてくる粥を咀嚼した。
 


 食べ切れたのはお茶碗に盛られた粥の内の三分の一程度だけだった。お腹は空いているのに、それ以上食べても胃が消化しきれない感じだったのだ。
 それから寅丸はうとうととし始め、気がつくと眠ってしまっていた。
 その日はそれで終わりだった。








―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












 そんなことが一週間の間、日に二、三度、繰り返された。
 寅丸が目を覚ますと決まってタイミングを測ったかのように聖は粥を手に部屋へとやってきた。
 けれど、その美味しそうに湯気を立たせる粥を聖は一度としてすぐには食べさせてくれなかった。
 必ず先に何か、人語を話すよう寅丸に強要してきたのである。
 最初こそ抵抗していた寅丸だが、矢張り空腹と馴れには勝てず、次第に聖に言われたとり、人語を話せるように練習し始めた。
 まずは昨日の復習から、そうして、次は新しい単語、簡単な会話へと。

 それに伴い食事の量も増えていった。お茶碗一杯のお粥を食べきれるようになり、更に付け合わせにお漬け物が出るようになり、お粥にも大きな芋や魚の解し身が入れられるようになった。

 食べる量も増えたお陰か、身体の調子も良くなりつつあった。身体もある程度、動かせるようになり、起きてられる時間が長くなった。
 教えられた言葉も僅かではあるが喋れるようになり、簡単な意思疎通ぐらいは出来るようになっていた。


 それでも、あれだけ鋭かった五感はある程度までしか回復しなかったが。








 そんなある日、リハビリの次のステップを進むように聖はこんな事を申し出てきた。

「今日は、身体を起こしてご飯を食べてみましょう」

 今回はどんな言葉の練習なのか、そう思っていた寅丸は面食らうことになったが、ややあって、ああ、成る程と内心で頷いた。体調はかなり回復しており、布団の上で軽く身をよじるぐらいは出来るようになっていた。
 今日は、今の身体でどれぐらい動けるのか、その実験ということなのだろう。

「わかった  です  ひじり」

 拙い言葉で区切るように理解を示す寅丸。にこりと聖は秋桜のような笑みを浮かべた。

「それじゃあ、私が手伝いますから、がんばってみましょう」

 そう言って聖は寅丸身体の上にかけられていた布団をめくりあげると、優しい手つきで腕を寅丸の首の下へと通した。
 包帯越しに触れられた首が疼き、ぐぅ、と寅丸は悲鳴を漏らす。

「大丈夫ですか?」

 心配そうな声。矢張り止めましょうか、と聖は眉尻を下げる。けれど、寅丸はがう、と声を上げ、

「だいじょうぶ  です ひじり」

 そう気丈に応えた。
 分かりましたと聖は頷き、首の下へ回した腕に力を込めた。寅丸もされるガマまではなくお腹へ力を込めた。ずっと眠っていたせいか、イメージして動かそうとする筋肉の位置と実際の位置がずれている気がする。それでも、微調整を繰り返しながら寅丸は何とか身体を起こした。
 そうして―――

「―――!?」

 声にならない声で感嘆符と疑問符をあげた。
 今まで布団の下に隠れて見えなかった身体は想像通り、隙間なく絶え間なく包帯に包まれているものだった。まるで木乃伊男。包帯という毛皮を着ているみたい。
 けれど、寅丸が驚愕し我を忘れたのはそれが原因ではなかった。
 身体が―――違っていたからである。
 百貫を越えていた巨体は今は見るも無惨に十分の一ほどの大きさになってしまっている。それはいい。死ぬような怪我を負って数週間以上眠っていたのだ。それぐらいやせ衰えることもあるだろう。
 けれど…だからって、身体の形が変るのはおかしくはないか?
 地を蹴るために胴体の横から飛び出していた腕は今は出っ張った肩から伸びている。長くて細く力を込めれば折れてしまいそうなほど弱々しい。包帯に包まれているが指も同様だろう。そして、今も布団に包まれている足も、身体の横からではなく下へ、二本の足で立ち上がるのに適したような形で伸びているのが分かる。
 ああ、この身体は―――この身体の形は―――

「どうですか、貴女の新しい身体を初めて見た感想は―――?」

 この尼公、聖 白蓮と同じ脆弱な人間と同じ形状をしているのだ。
 ああぁ、とうなり声を上げて寅丸は包帯に包まれた顔に触れてみる。目鼻耳、その全ての位置が変ってしまっている。鋭かった爪も、強靱だった筋肉も、分厚い毛皮も失われ、今の自分は忌むべきあのか弱い人間の姿になってしまっているのだ。

 その絶望、自分の身体の形が変ってしまったという絶望の余り、寅丸は気を失いかけた。目を見開いてカタカタと震え、あああ、と声を上げる。

 なんだ、これは。一体、どういうことだ。私は、私は、一体、どうなんてしまったんだ―――!?


 混乱した頭では何も考えられない。
 震え、涙を流し、絶望し、寅丸は嗚咽を漏らした。

「大丈夫です―――落ち着いてください」

 優しい声がかけられる。気がつけば、聖は寅丸の頭を胸に抱き寄せていた。
 耳に聖の心音が伝わってくる。とくんとくんという小さな音。まるで、母の胸に抱かれているような。

「貴女の身体をそんな風にしてしまったことは謝ります…けれど、そうしなければ貴女は死んでしまっていたのですから、どうか、どうか赦してほしい…」

 諭すような、絞り出すような聖の声。いつしか寅丸は狼狽えるのも忘れ、その暖かさに身を任せ、その言葉に聞入っていた。

 曰く、あの夜、自分を追い詰めていたのはこの地方の豪族たちの武者や山師たちであったこと。その目的はあの山で妖怪に攫われた領主の娘を捜し出し、その妖怪を退治すること。自分はその妖怪に間違えられてしまったと言うこと。聖はその討伐隊に加わっていて、ご息女を攫ったのは妖怪ではなく敵対している他の豪族ではないかと領主を説得しようとしていたこと。けれど、その話は聞き入れられず、結果、寅丸を確実に助け出すにはむしろ瀕死の重傷を負わせるような目にあわせて、それから延命手術を行うしかなかったということ。

「では ひじり は…」
「はい、私は貴女たち妖怪の味方です」

 日尻は寅丸から離れると法力を展開。蓮の図面の魔方陣を背にふわっと浮き上がった。
 人を越えたチカラ…それは道理の外に生きる妖怪にも通じる力だ。
 更に聖は続ける。
 自分は人間と妖怪の平等を説くために、虐げられている妖怪たちを助けて回っているのだと。そして、人間たちに平等の尊さを説いて回っているのだと。
 それが酔狂などでないことは寅丸にはすぐに分かった。

 これまで必死に自分を看病してくれたこと。毎日、食事を与えてくれ、夜半にも身体の痛みで悲鳴をあげる自分のところへやってきて痛み止めの薬を処方してくれたこと。優しげにいろいろなことを押せてくれたこと。種族の違う、忌むべき相手同士であるはずの自分にそこまで献身的に尽してくれたこと。それに酔狂や胡散臭い偽善で尼がまさか助けるべき妖怪を一度、瀕死に陥るような目にあわせてまで助けるはずがない。その理知深さに寅丸は痛く感心した。

 その時にはもう、自分の姿形がどうかなったことなどどうでもいいことのように思えた。

「ひじり だいじょうぶ わたしは ありがとう おもってる」

 そう、寅丸は腕を伸ばした。皮膚を焼くような疼きなんてもう、忘却の彼方だ。

―――この人についていこう…

 寅丸は確信するようにそう思った。









―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








 それから寅丸はよく食べよく眠りよく学習した。
 新しい体の使い方にも慣れ始め、一週間もすれば自分で杓を握りお粥を食べれるまで鳴っていた。
 もちろん、しゃべり方の勉強もした。それ以外にも人間の一般常識や教養、聖が信仰している毘沙門天の教えなども教えられた。
 寅丸は大変教え甲斐のある生徒だったようで、二人は一日の多くの部分を一緒に過ごした。
 それは病気の娘を介護する母親のような関係だったのかも知れない。


 ある日、聖は大きな一枚の鏡を持って寅丸のところへ訪れた。
 それは、と寅丸が訪ねると聖は鏡を手にしたまま、微笑を湛えてこう言った。

「今日は、そろそろ貴女のお顔の包帯をとろうと思いまして」

 寅丸の身体をグルグル巻きにしていた包帯の多くはもう取り外されていた。今は、四肢の関節に僅かに巻かれているだけだ。それと顔。聖が言うには綺麗な顔の再生というのは難しく、特に入念に経文が書き込み法力を込めた包帯で長い時間、治療しなくてはならなかったと言うことだ。
 それがきちんと出来ているのかどうか、それを今日は確かめる。そう言う話だった。

 聖は寅丸に身体を起こすように言うとその手に鏡を取らせ、自分は後ろに回り、するすると頭の包帯をほどき始めた。
 長い布が布団の上に滑り落ち、寅丸の新しい顔が露わになっていく。

「これが…私?」

 鏡に写る姿を見て驚きの声を上げる。鏡の向こうの彼女も驚いているようだった。
 短い金の髪。少年のような太い眉。丸い瞳。少し低めの鼻。年の頃は十といったところか。ニンゲンの幼い少女の顔がそこにはあった。
 寅丸はそっと自分の頬に触れ、その具合を確かめる。柔らかく、すべすべとしている。暫く、どうしていいのか分からず、ずっと自分の頬をなで続けていた。

「可愛いですよ」
「かわいい、ですか」

 後ろから聖にそんなことを言われる。可愛い、人間の美的センスは寅丸には未知の領域だったが、聖にそう言われると自然と頬が綻んだ。感情と筋肉の連動も問題はなさそうだ。
 にひり、と笑顔を作ると鏡に映った自分の顔はとても嬉しそうに見えた。

「聖」
「なんですか」

 鏡を持って自分の顔をいろいろな角度から眺めつつ、後ろに座っている聖の名前を呼ぶ寅丸。

「歩く、訓練もしたい。はやく、私も一人で動けるようになりたいから」
「………まだ、早いですよ」

 少しだけ間を置いてそう聖は返した。けれど、寅丸は頭を振るう。

「聖に、迷惑かけたくないから…」

 早く治して助けてくれた恩を、そうして、自分も虐げられている妖怪のためになにかできる事をしてあげたいから、そう寅丸は応えた。

「聖…」

 後ろからそっと抱きかかえられる。お香の心が落ち着くような匂いが聖の髪から漂ってくる。

「分かりました。けれど、無理は駄目ですよ。明日から、ゆっくりと、ね」

 背伸びする我が子を諭すような言葉だった。寅丸は聖の腕を押さえると、うん、と頷いた。涙が視線と流れ始めた。









「はい、あんよは上手。あんよは上手」
「二本の足で立つのは難しい」

 次の日から聖が言ったとおり歩行訓練が始まった。
 まずは立ち上がることから。
 聖に手をとって貰い、足で踏ん張り、前屈みになりながらも寅丸は立ち上がる。まだ、二本足でバランスをとるのは難しいのか、ぷるぷると身体は震えている。
 そのままで数秒ほど持ちこたえたが、十分に馴染んだとはいえ一ヶ月近くも布団の上から動いていなかったからでは立つことでさえ相当、労力を使う。

「あっ…!?」

 かくり、と膝が折れ、倒れそうになる寅丸。慌てて聖は寅丸の腕をひいて自分の身体の方へ倒れかけさせ、その身体を受け止める。

「大丈夫ですか」
「う、うん」

 しっかりと抱きしめて安否を気遣う聖。寅丸は顔を赤くしながら頷いた。

「今日はこれぐらいにしましょう」
「い、いえ。もっとがんばれます。がんばりますから」

 布団に寝かせようと腰に手を回してきた聖に否定の意を示す寅丸。聖は暫く考えた後、分かりましたと応えた。
 聖は二歩だけ、寅丸から離れるとその手を引いた。寅丸は震える両足に力を込めて、離れた聖に近づくように一歩、足を踏み出した。

「っ…」

 それは酷く難しい動きだった。病み上がりと言うこともあるがそれ以上に、以前まで寅丸は四本の足で歩いていたのだ。それが息なり半分になったとあれば心許ないにも程がある。けれど、寅丸は勇気を振り絞り、これからはこれが普通になるのだと自分に言い聞かせ、もう一歩、足を進めた。
 そうしてそのまま、また、聖の胸の上に倒れ込む。
 柔らかいクッションのような聖の胸に顔を埋める。

「よくできました」
「えへへ、ひじり」

 歩けたこと、それと褒められたことで寅丸は子犬のように喜んだ。彼女は虎だったが。








―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 それからも歩行訓練は続けられ、今では寅丸は普通に人間の様に生活できるようになっていた。食事の用意も自分でして、勉強も聖に本を借りて一人で行っている。それ以外にも寺の掃除や畑仕事など、寅丸は進んで聖のお手伝いをした。

 そんな日が何日か続いた。
 その日が訪れるまでは―――


 その日はとても天気がいい日だった。
 心地よい風。それに雲はなく、暖かな日差しが降り注いでいる。絶好の散歩日和な日だった。

 だからか、寅丸は歩行訓練に行ってきますと聖に告げ、寺に来て初めて一人で寺の外まで出ることにした。
 山道を空を仰ぎながら一人で歩く。今ではもう走ることだって出来る。以前ほどの早さはなかったけれど、聖が言うにはこの身体なら魔法の力も使えるそうだ。
 聖が時折見せる不思議な術―――火種もないのに火を起したり、翼もないのに自由に空を飛んだり、五日は自分もそんな力が使えるようになるのかとそんなことを考えながら歩いていた。
 だからだろうか、道に迷ったと気がつくのが遅れたのは。

「ここは―――どこだろう…?」

 周囲を見回しても見えるのは乱立する杉の木だけ。鳥の鳴き声に驚き身体を震わせ、梢が風に揺れる音に深い不安を感じ、じとじとと湿った苔の匂いに孤独を覚えた。
 天を仰ぎ見ても見えるのは黒い枝葉の隙間越しに青空が見えるだけ。
 それも闇雲に歩き回った後では赤い黄昏時に変っていた。

「ひじりーっ! ひじりーっ!」

 助けを求め声を上げる。けれど、当然、返事はなく聞えるのは自分の声の山彦だけだ。
 歩き疲れ、誰が創ったのか、寅丸は苔むした地蔵の隣へと腰を下ろした。
 三角座りに、足の間へ自分の顔を埋めすすり泣く。
 以前の妖獣の身体なら、自分の匂いを辿れば一発で帰り道が分かったというのに、人間に近いこの身体ではそれは出来ない相談だった。聴力も弱く、僅かな音しか聞き取れない。

 だからか、彼の接近に気がつかなかったのは―――


「なっ―――!?」

 梢をへし折り裂く音に顔を上げる。見上げれば点が黒い影に覆われていた。何者かが樹上から襲いかかってきたのだ。姿の確認すらままならぬ間に着地したそいつは丸太のような腕を振るい、座っていた寅丸を殴打した。地蔵を倒し、苔むした古道の上へ転がる寅丸。

「ううっ…痛い…」

 悲鳴を漏らし立ち上がろうとする。それより早く敵に組み伏せられる。
 荒い息。鼻が曲がるような獣の匂い。鋭い爪と針金のような剛毛に覆われた腕で首を押さえられ、身動きが取れなくなる。
 もがき、腕で打ち据えるが大黒柱のように硬い腕はぴくりとも動かない。蚊に刺されたような痒みも感じていないようだった。
 痛みで流れる瞼をこじ開ければ爛々と輝く白目のない赤い瞳が見えた。山に住まう妖獣の一種、狒々だった。
 狒々は開いている方の腕を寅丸の胸元で乱暴に振るうと身につけていた麻布の粗末な袈裟をただの一撃で破りさってしまった。薄い、未成長の胸が露わになる。
 何を、と絶望に震えると狒々は嫌らしい笑みと分かるそれを浮かべ見せつけるように歯垢がこびり付いた汚らしい舌をなめずった。何をされるのか、寅丸にも理解できた。
 狒々は口を開けると赤い舌を伸ばし、寅丸の胸元へ顔を寄せた。ぽたり、ぽたりと妙に粘度の強い涎が胸の上へ滴り落ちる。

「ッあ―――」

 嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!!!!


 そう悲鳴をあげようとした所で狒々の動きがはた、と止まった。
 舌をしまうと、鼻をひくつかせ、寅丸の首元へそれを近づけた。スンスンと鼻を鳴らし匂いを嗅いでいる。その動作は先ほどの獣性を感じさせるものではなく、それなりに理性的な行動のように感じられた。

―――お前、寅丸か?

 そして、ややあってから狒々はそんなことを言ってきた。妖獣の言葉で。
 寅丸は一心不乱に頷き、そうして、少し落ち着いてから自分を襲おうとしていた狒々がかつて自分がまだ虎の姿だった頃、知り合いだった妖獣だということを知った。

―――何故、人の形をしている?

 狒々は寅丸から離れるように身を起すと、詫びの言葉もなくそう問いかけてきた。寅丸は上がった息を整え、未だ混乱する頭の中で何とか自分の身に起こったことを整理して狒々に伝えようとする。

 けれど、それは最初のぐうの音も出なかった。
 一発の銃声にかき消されてしまったからだ。

「化物が! 娘っ子から離れろ!!」

 怒号。それと胸に赤い花を咲かせる知人の狒々。狒々はうなり声を上げた後、爆ぜる勢いで飛び出したが続く二度の銃声にその身体を落葉の中へ埋めてしまった。

 寅丸が胸を隠そうともせず身体を起すと、未だ紫煙立ち上る猟銃を構えた漁師の姿が三つ、道の向こうにあった。
 漁師の一人は手早く猟銃に弾を込めると残りの二人が鉈や山人刀を抜き、倒れた狒々に警戒しながら呆然としている寅丸に近づいていった。

「大丈夫か。怪我は…なさそうだな」

 男の一人が寅丸と目線を合わせるように腰を下ろし、そう語りかけてきた。落ち着かせるためか肩には手が置かれる。けれど、寅丸は知人が打たれたショックの余り動けそうになかった。
 しっかりしろ、と寅丸の身体を揺さぶる男に、仲間が上着、着せてやれ、と倒れた狒々から注意を逸らさず、助言する。寅丸の格好が酷い在昌だと言うことに気がついて、赤面した男は急いで狸の皮を継ぎ接ぎして作ったジャケットを脱ぐとそれを寅丸に着せてあげようとした。

「なんで…」

 半ばされるがままに上着を着せられていた寅丸がそんな声を上げる。やっと返ってきた反応に男は笑みを浮かべながら、どうした、と返事した。

「なんで、撃った…?」
「?」

 涙を流し、切に訴えるよう、喉の奥から言葉を絞り出す寅丸。男が疑問符を浮かべる。と、仲間が、おい、と男に耳打ちしてきた。

「この娘っ子…領主さまのご息女じゃないのか? ほら、先月行方不明になった…」

 男は暫く考えた後、ああ、と声を上げた。

「確かに。けれど、どうしてこんなところに…今まで何処かに隠れていたのか? それにしてはそれなりに身綺麗そうな服のようだが…」

 破けてはいるが寅丸が身につけていた服は十分、清潔できちんとしたものだと男は見とった。どういうだと、男たちは顔を見あわせ首をかしげる。その間も寅丸は嗚咽を漏らし、ああ、ああ、と震えていた。

「あれは、アイツは…私の…私の、しり…」

 そうして、やっと絞りだそうとした真実はけれど、そこに現れた第四の存在によって遮られてしまう。

「ああ、ここにいたのですか。良かった」

 安堵するような声。全員が振り向くとそこには息を切らせながらもゆっくりと近づいてこようとする聖の姿があった。

「白蓮尼公! どうしてここに…!?」

 慌てて佇まいを正す男たち。聖はこの辺りでは豪族に継ぐ権力があると目されているのだ。

「その子が行方不明になっておりまして…探していたのですよ。あなた方が助けてくれたのですか?」
「は、はい。けれど、白蓮尼公、この娘っ子…いえ、嬢はご領主様のご息女では…?」

 男の問いかけに少しだけ聖は眉を顰めた後、やはり、と呟いた。

「この子はこの山中で大怪我を負っている所を私が見つけ、寺で療法させていたのですが…矢張り、領主殿のご息女でしたか。いえ、私もそうではないかと思っていたのですが、確信に至れず…」

 眉を伏せ、申し訳なさそうに説明する聖。途中で虚空に消えた言葉に男は食い入るよう、話の続きを求める。

「と、言いますと?」
「この子、怪我のせいか、それとも妖怪によほど酷い目にあわされていたのか、記憶を失っており…それで、詳しい話しも聞けず、取り敢ず寺に置いてくことにしたのですよ」

 もう少しこの子が元気になれば領主殿のところへ問い合わせに行ったのですが、その労がなくなりました、と聖。ああ、そうでしたか。これは領主様もお喜びになられる、と男たちは我が子のことのように胸をなで下ろした。

「聖…あの、アイツは私の…知り合いで…その」
「大丈夫ですよ」

 心配そうに自分の顔を見上げてくる寅丸を抱き寄せ、聖は安心させるように笑みを浮かべる。

「耳を、塞いでなさい―――」

 そうして耳打ち。え、と寅丸が声を上げると、聖は寅丸から離れ、ある程度の距離まで倒れている狒々の方へと近づいていった。

「尼公、危険です! そやつはまだ…!」
「大丈夫ですよ」

 寅丸にかけたのと同じ言葉。けれど、金剛石じみた固さを持った声色でそう返し、聖は妖銃へ掌を向けた。
 危険を察したのか、息も絶え絶えだった狒々は逃げだそうと身体を起す。けれど…

「逃がしませんよ」

 光り輝く聖の指が中空に魔方陣を描く。蓮の花を模した文様。それは瞬く間に現実の厚みを持ち、花弁の中央にある蕾から矢よりも早い光線を放った。光線を受けた狒々はあっという間に炎に包まれ、瞬く間に消し炭と化してしまう。

「おお、流石は白蓮尼公。すごい法力だ…」

 只人を越えた強力な法の力に男たちは感嘆の息を漏らす。
 さも当然だと言わんばかりに、燐光を振りまきながら聖は振り返る。
 そんな中、ただ一人、寅丸だけは絶望に目を見開いて打ち震えていた。

「どうして…」

 かすれる声で問いかける。けれど、声は余りに小さく聖には届かない。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 寅丸は絶叫した。かつて虎の姿だったときのように。

「落ち着いて。もう大丈夫ですよ」

 歩み寄ってきた聖がそっと寅丸を抱きかかえる。
 けれど、寅丸はそれから逃れようと身をよじった。
 
 狒々が殺されたことにショックを覚えている訳ではない。それよりも、聖が狒々を殺したことがショックだったのだ。
 なぜ、どうして、と寅丸は狼狽える。

「でも、聖。あの妖怪は私の知り合いで…聖は妖怪の味方だと…」

 嗚咽を漏らしそう聖に問いかけた。

「ええ、そうです」

聖は何の抑制もない言葉で返す。

「私は弱い妖怪の味方です。そして、強い人間の味方でもあり、強い妖怪の敵、弱い人間の敵なのです。要は―――平等なのですよ。力の強い妖怪はそれこそ神に匹敵するような力を持っています。対し、力の弱い人間はそれこそ蜻蛉ほどのはかなさしか持ち合わせていません。これは―――不平等でしょう。ですから私は鉋で出っ張りを削るよう、節穴を埋めるよう、強い妖怪を殺して、強い人間を助け、弱い妖怪のために弱い人間を使うのです。丁度…弱い妖怪であった貴女を助けるために弱かった領主のご息女の身体を利用したように。これが私の人間と妖怪の平等を説くための善行、なのです」

 平坦な、事実だけを説明するような言葉が寅丸の心へ突き刺さる。言っていることが一つも理解できない。いや、言葉としては理解できるのだが、その並の感性を凌駕する圧倒的な正義感に寅丸の歯垢は沈黙してしまったのだ。
 結局、泣くことしかできず、寅丸は聖に抱かれたまま大粒の涙を流し始めた。

 男たちはそれを恐怖から解放された喜びの涙だと、かってに勘違いしてくれた。

「そう言えば、一つ、訪ねたいことがあるのですが」
「はい、何でしょう」

 寅丸を抱き寄せたまま聖は男たちに問いかけり。妖怪もいなくなり、すっかりリラックスした雰囲気の男が応えた。

「この子の―――名前です」
「え?」

 嗚咽を漏らす寅丸を抱き寄せ問う。男が疑問符をあげるのは当然だ。

「実は…今まで二人っきりだったので不便に感じていなかったのですが、記憶と一緒にこの子は自分の名前も忘れてしまったようでして…教えて頂けませんか? 今更ですが、名前で呼んであげたいのですよ。この子を」

 ああ、なんだ、と男たちは納得し、頷く。そうして、領主の娘だったあの子…あの晩、寅丸の隣でバラバラに解体されて死んでしまった娘の名前を男たちは聖に耳打ちする。
 有り難うと、微笑み、頷いて見せる聖。そのまま聖は寅丸を身体から離すと、向き合うような姿勢をとった。

「星、貴女の名前は星、と言うらしいですよ。いい、お名前ですね―――星」
「違う…私は…寅丸…そんな名前じゃ…」

 涙を流す寅丸/星の身体を再び聖は諭すように抱きしめる。

「星、私は人間と妖怪の平等を説くものです。貴女には、その私が説く平等を体現してもらいたいのです。人の身体に妖怪の魂。貴女こそが私の言う平等を全て示す存在なのです。貴女こそが真の平等の具現、その御使いなのですから。今後とも、私のために―――我が平等を体現し続けてください」

 震える耳にそっと聖は告げる。寅丸 星の身体を治した真意を。一辺の悪意も偽善もない、彼女なりの真っ直ぐな正義でもって。

 ああ、と、寅丸 星は嘆息を漏らした。
 聖のその余りに強すぎる、妥協を許さない、圧倒的な正義に。
 自分はこの人についていこうと思った。けれど―――はたして、こんな正義に追いつけるのか、と。










―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








 その次の日、寺の境内で寅丸 星は涙を流す男に抱きつかれていた。
 星の父親、ここいら一帯を収める豪族の男にだ。

「よかった…よかった、無事で…」

 止めどなく涙を流し、寅丸 星の胸に額を埋めて嗚咽を漏らす男。従者たちも感極まって鼻を啜っている。
 後ろに控えている聖もそうだ。けれど、寅丸 星だけはどんな表情をしたらいいのか、分からないと言った風情で何とも言えない表情を顔に貼付けている。

 あの後、聖たちと分かれた猟師たちは集落に帰るとすぐにその事を領主の元へ伝えに行った。もはや、死んだものとばかり思っていた娘が生きていたという事実に対し、領主はすぐさま寺へと訪れた。感動の、再会のため。

 けれど、そこに寅丸 星の涙は含まれていなかった。
 当然だろう。男と寅丸は赤の他人どころか、種族さえ違う身分なのだ。
 抱きつかれ、涙を流されても何の感慨も湧かない。当たり前の話だ。

「しかし…本当に、本当にワシのことは覚えていないのか…?」

 その寅丸 星の困惑した表情を領主たちは記憶喪失のせいだと判断した。違った理由で涙を流しそうになりながらも領主は問いかける。寅丸は申し訳なさそうに首を縦に振る。

「はい、すいません…お父さん」
「………そうか」

 お父さん、いつもとは違う呼び方で呼ばれ領主は顔をしかめた。以前は父上と呼んでくれていたのに。猛烈な違和感は凝りのように彼の喉に張り付いたままだった。

「白蓮尼公、その…申し訳ないが…」
「はい、分かっています領主どの」

 領主は立ち上がると後ろに控えていた聖に視線を向けた。聖は頷き、そうして、未だに不安げな顔をしている寅丸 星を一瞥する。

「昨日、この子と話し合いました。記憶がないまま貴方の元へ戻るのは辛いし、きっと貴方にも迷惑をかける、と。その子は自分の意志で決めました」
「………そうか」

 寂しげな言葉。けれど、領主は心の何処かでそれを望んでいたようだ。

「分かった。星はこの寺に出家させる…そういう事にしよう」

 涙を飲み込むように、苦痛を耐える面持ちで領主は応える。
 はい、わかりました。ご息女の面倒はしっかりとこの私が観ますので、ご安心ください、と聖。

「星―――いい子にしているんだよ。なに、お前が死ぬ事に比べれば…余り会えなくなることぐらい、どうということもない」

 精一杯の強がりを見せると領主は、名残惜しそうに強く寅丸 星の頭を撫でた。そうして、立ち上がると最後に娘をよろしくお願いしますと、無言で聖に深々と頭を下げて、部下を伴って夕日の向こうへと帰っていった。






「………………」

 その後ろ姿を何の感情も持たず見送る寅丸。
 そして、その後ろ姿が見えなくなって十分経った後、唐突に寅丸は口を開いた。

「聖、あの男は殺さなくてはいけませんね」
「………どうしてそう思うのですか」

 寅丸の言葉に面食らったように瞳を丸くする聖。
 いや、寅丸の言うとおりのことを聖も考えていたのだが、その真意を、聖は寅丸の考えていることを知りたくて訪ね返したのだ。

「はい、あの人は―――弱い人間です。娘が死んでしまった事実に目を背けて、偽物の私を娘として受け入れている。あの人は、私が星ではないことに気がついていました。
 そして、おそらく、こうも考えているはずです。『星がいなくなったのは妖怪のせいだ』と『やっぱり、妖怪は殺さなくてはいけない』と。星が攫われた時、山狩りをすぐに敢行したことからもうかがい知れます」

 寅丸の言葉に聖は何の言葉も挟まず頷くことすらせず聞入った。自分の考えと何の違いもないことを寅丸が言ってくれたからだ。

「そうです。あの方は弱い人間です。弱いからこそ恐ろしいもの、弱い妖怪を恐ろしいものと決めつけて滅ぼそうとするのです。私のように強ければ、そんな莫迦な考えには至らないでしょうに。とても、とても残念です」

 聖は悲しそうに眉を潜めた。本当に、本当に悲しそうに。倒さなければならない敵にどうしてそんな悲しそうな顔が出来るのか、まだ、寅丸には理解の範疇の外だったが、聖の言葉は絶対なのだと自分に言い聞かせた。
 そうして、続く聖の言葉にも同じ考えで自分の中で決着をつけた。

「ああ、ですが、一つ貴方に訂正を教えなければいけません。あの山狩りの発案は、私です。私が領主どののところへ直々に提言にいったのです」


 その真意はこの時、未だ寅丸にはうかがい知れなかった。
 理由が分かったのはもっと後、寅丸が聖の代行として、毘沙門天の弟子になりこの寺を切り盛りし初めてからだ。
 そうして、聖が封印されることになったときも寅丸は半ば以上、これは聖の思惑通りなのではと、信じていた。













 真の平等への道は長く険しい―――時に、弾圧を敢行し、虚偽を振りまかなくてはならない程度には。





END
ひじりんの仏舎利カッター(623+K)はMAX状態で根本から当てると即死。

10/06/09>>追記
>>3さま、恐らく、誤字だと思われる所を修正しておきました。

命連寺→寺

多分、これでOKな筈…
といううかこの時代、白蓮の家って命蓮寺って名前じゃない可能性があるんだよなー、ってことで単純に寺に。

ああ、やはり、国語と推敲は苦手だ…
sako
作品情報
作品集:
17
投稿日時:
2010/06/06 16:06:18
更新日時:
2010/06/09 22:57:51
分類
寅丸
白蓮
昔の話、略してムカバナー
1. 名無し ■2010/06/07 08:11:45
前半でどろろを思い出して、後半の白蓮さんの色々と超越した凄さにゾクゾクして、あとがき想像して(笑)。
2. 名無し ■2010/06/07 09:43:45
がうがう寅丸かわいいよ寅丸
3. 名無し ■2010/06/07 13:38:52
この人はいつもすごくいい話を書くんだけど、
毎回必ず誤字誤変換があるのがものすごくもったいない、と、思う。
4. 名無し ■2010/06/08 01:59:57
白婆狂ってるな
寅丸毒されつつあるな
5. 名無し ■2010/06/09 02:31:22
がうがう
かわいいなオイ
6. 名無し ■2010/06/10 06:44:04
これがカルトというものか…
聖様、怖いよ聖様
7. 名無し ■2010/06/10 20:18:24
なんと言いましょうか、投稿されてすぐに読ませて頂きましたのですがどうも的確なコメを思いつけず…。
兎に角好きですこの作品。がうがう。
8. 名無し ■2010/06/14 17:41:40
がうがう
描写が好きだ
手塚作品(>1とか火の鳥)にあるような「エセ外科手術による変身」の血生臭さが
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