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『救い』 作者: タダヨシ
穢れ無き朝が胸に流れる。私は釣られて瞼を引き揚げた。
眠りから出て優しく畳むと、布団はふわり穏やかに可愛い姿。
この静かな行動を終えると、今度は自分。
とてもとても簡単な、寝巻き姿。このままでは恥ずかしくて部屋から出る事も叶わない。
予め用意しておいた着替えに触れる。単純な色彩でおしとやか。
私は簡素な影を身に住まわせた。この着物といると、不思議にも頭が澄む。
「……さて」
朝起きたならば、必ずあれをしないと。
私は着替えの終点に止まると、部屋から出た。
挨拶はとてもとても大切なものだ。
『おはようございます』
たったの一声で人と人との繋がりを確認する優れもの。しかも、心が温かくなる。
先程私もその幸せを仲間に行ってきた。みんな様々な表情だったが、どれも心地良い温もりと優しさ。
ああ、なんて素敵な朝だろう。
天に視線を捧げると、涼しげな空と踊り囁く陽。
空気を肺に取り込むと、心に透明な水晶が生まれる。
美味しくて、体から重みが濯がれていく感覚。
この行為は大好きだ。朝はずっとこうしていたい。
だが、それにお邪魔する一つの羽音。誰かがこちらへ飛んで来る。
一体、誰だろう?
空気波打つ音に振り返る。そこには一人の女性。
あの姿には見覚えがある。たしか天狗で新聞を書いている……
「おはようございます! 『文々。新聞』の射命丸です」
そう、射命丸さん。
「おはようございます。こんな所までどうも」
私の声を耳に含んだ鴉天狗は着地して、こちらに返す。
「いえいえ、これがわたしの仕事なので。購読者の為であれば何処にだって飛びますよ」
そう、私は射命丸さんの新聞を購読しているのだ。
彼女は営業と素の入り混じった笑顔をする。
鉱石の如く、てらり光る高下駄が鳴ってこちらに近づく。そして、心地良い香りの紙が言葉と一緒に渡される。
「どうぞ、今朝刷ったばかりです」
私は彼女の新聞を手に納め、自然に口を開く。
「どうも、今日は良い朝になりそうです」
喉から漏れ出た言葉を受ける鴉天狗の表情は明るい。しかし、それはこの前見た時よりも暗さが立ち込めていた。
おかしい、表情が暗い。射命丸さん、どうしたんでしょう?
私は鴉天狗の微小な変化で、声を散らばせる。
「あの、射命丸さん。良かったらうちで少し休んでいきませんか? 最近良いお茶と菓子が手に入ったんですが……」
声帯が響き終わる前に、彼女は遮る。
「いいえ、結構です。私にはまだ他の方々の新聞配達が残っているので」
溶ける事を忘れた氷の顔で鴉天狗はこちらを見ている。
どうやら、ゆっくり話す事は出来ないらしい。
「そうですか、それは残念です」
私がそう返すと、射命丸さんは逃げる様に口を響かせる。
「すみません、それでは次の購読者のお宅に向かわなければいけないので……失礼します」
鴉天狗の新聞記者は背を向けた。憂いを纏った繊細な体が宙に浮き、天へ華奢に踊り進む。空と陽はあっという間に彼女を飲み込んでしまった。
その場には新聞を持って佇んでいる自分のみ。
一体、射命丸さんはどうしたのだろう?
綿巣の如き不安が残る。暫く考え込んだが、やはり心に付いた謎は解けなかった。
ふと、手元の新聞に目を寄せる。
まぁ、分からない事を悩んでいても仕方が無いか。
私は悩み巣を退かし、インキの香り漂う紙を開けた。
そこでは活字が様々な国を築き上げていた。大きな見出しは国家の名前。小さな文字は善良な国民。
目でさらりとその群れを撫でると、情報が囁く。
私がまだ知らない音色で。
お茶目さを塗した事件、空の表情を懸命に察する天気、面積に反比例した濃厚な将棋講座。
親指の腹で続きの頁を捲る。一体どんな出来事が詰まっているのだろう?
次の紙面には未来の健常を祈る健康特集、そして、幻想郷のありとあらゆる店を紹介する広告が……あれ?
「これは」
私は広告の部分に心を集めた。見間違いと思ったが、やはりある。
「何も書かれてない?」
そう、幾つも在る広告の中に一つだけ空白。店の種類しか記されておらず、それは組み上げ前の家屋を思わせた。
「誤植かしら? お店の場所すら記されてないなんて」
私は暫く『桶屋』とだけ記されている広告の四角に視線を零していた。だが、やがて別の部分へと視覚が転ぶ。
それは、『桶屋』の広告に隣接している別店舗の情報。
みんな、同じ場所だ。
「……どうしてだろう?」
ただ誤植と偶然の重なりだと思ってしまえばそこで終わり。しかし、私にはこの妙な広告の配置が『桶屋』の場所を示していると感じられた。
新聞広告に差し込まれた暗示的な場所を見つめる。ここから随分と遠い村だった。
「行ってみようか?」
己に質問する。しかし、答えは最初から決まっていた。
「でも、その前に朝食を摂らないと」
私は朝の恵みを得る為に動いた。
『用事が出来たので暫く出かけます。帰ってくるのは明日の朝早くだと思うので、その間の留守番をお願いしますね』
いきなりこんな言葉を掛けたのにも関わらず、仲間達は嫌の表情一つ見せずに承諾してくれた。
あぁ、自分は何と良い人達に恵まれているのだろう。
今の場所は目的地途中、だいぶ山奥まで来たものだ。
私は昼食も兼ね腰掛茶屋で団子を食べている。ちなみに三色団子。桜色の粒は仄かな花を思わせる香りで、緑粒はヨモギの青さが締まり、白粒はもち米の強さが響き上品だった。
これを発明した人は誠の天才だろう。とてもおいしかった。
「ふぅ……ごちそうさま」
茶を飲み干し、心を落ち着かせるといつの間にかお昼過ぎ。普通に目的地まで飛ぶなら、こんなに時間は使わない。しかし、今日の私はゆっくり山道を味わいたかったので徒歩。
立ち上がって茶店の奥に視線を寄せる。すると、店主がこちらに近づく。
「お会計を」
私はそう言って銭を主に渡す。すると、素敵な団子を作った男は外れかけの歯車みたいな表情。
「お客さん、代金が多いですよ。うちはそんな高級な茶店じゃありませんよ」
「いえいえ、これで正しいのですよ。実は、聞きたい事があるのです。余分なお金はその代金という事で」
茶店の主人はおかしさを煮詰めた顔。
「はぁ、そうですか。それで、一体何を知りたいので?」
私は一番知りたい事を声として送る。
「ここから一番近い村は何処ですか? あと、その村に『桶屋』があれば教えて頂きたいのですが……」
茶店の主人はすぐに自分の声へ返す。しかし、余分な情報も飾っていた。
「村でしたら、ここの道をもっと山の方まで進めば見えてきます。それと村自体も大きくないですから、少し歩けば桶屋もすぐに見つかりますよ。でも、あそこの村は本当に何もありませんよ? それに、桶屋も山を降りた里の方が立派で仕事が速いですし、おまけにあそこの村は里に比べると全体的に……」
このままこの茶店に止まれば、目的地を踏む前に夜になってしまうだろう。私は会話の花を失礼に思いながらも手折る。
「あの、もうそろそろ村に向かいたいのですが」
「あっ、そうですか! いけないいけない、つい、人が少ないもんで客が来るとこの口がね」
美味しい三色団子と茶の創造主はお茶目な顔で口に手を着けた。私もそれに釣られて微笑む。
「それでは、失礼します」
赤布眩しい腰掛けから離れ、茶店から別れる。
山道の傾いた土が足裏を撫でて心地良い。これなら目的地まで疲れずに……
「ちょっとちょっと! お客さん、待って!」
私が声に振り返ると、茶店の人が活発に息を燃え上がらせていた。
「忘れ物ですよっ!」
黒く大きな風呂敷包み。着替えや暇つぶしの道具が入っている。
「あら! いけない」
私は親切な茶店番から忘れ物を受け取り、出来る限りの声を送った。
「ありがとうございます、助かりました。これが無いと本当に困るところでした」
そう、本当に困ってしまう。これが無いと……
「では、今度こそ失礼します」
私は今度こそ茶店に別れを告げると、斜めの道を進んで行った。
目的地は茶店で聞いた通りの姿だった。本当に何も無い村。殆どが住居で、店は数える程しかない。
私は村を進み、『桶屋』を探す。だが、それを見つけるのは難しい事では無く、すぐに見つかった。
村の真ん中に位置するそれは古い家屋で、周りに大小幾つもの桶が置かれていた。これだけでも分かり易いのに、更に詳しい解説が家屋の入口に括り付けられている。
はっきりと形作る『桶屋』の看板。
「ここで間違いないみたいね」
私は年寄り家屋の口に入った。
店中はやはり桶だらけ。人なんて居ないと思ってしまう程に。だが、暫く店を見回していると、誰かの気配が匂ってきた。
「いらっしゃい。珍ぁしいね、お客さんかい? 最近来るのは知りぃ合いばっかでね」
声に目を向けると、老人が一人座っていた。その顔は人生の殆どを焚き付けた皺が刻まれ、穏やかで揺ぎ無かった。
「何の用ぅだね? うちは桶しかぁ……作ってないよ」
私は風呂敷包みから今朝の新聞を取り出し、桶屋に見せる。
「あの、ここの広告なんですが……」
記事を見た老人は綿髭を上下させながら答える。
「あぁ、広告ね。そう言えばこの前天狗ぅの記者さんが『ここの店を紹介しても良いですか?』って聞いてぇきたよ。まぁ、それだけだぁね。それでぇ、あぁ! 何だん、この広告、うちぃとこだけ何も書いてないじゃねぇか、くそ、あの天ん狗め! 大体こんな所までぇ取材に来るなんておかしいと思っとったんだよ。そんれに……」
どうやら、今日の私は会話を発芽させる才能があるみたい。しかも、今度は花ではなく大木。だが、私は特にする事も無かったので、老桶屋の口遊びを楽しむ事にした。
最近読んだ書物、村の不便さ、同世代の年々少なくなる友人、旬の料理、若い頃は……とまあ様々な出来事を老人は語った。ちなみに、私が話に差し込む余地は無く、完璧な一人語り。
日常を長大に語るのはある種の才能である。しかし、一つだけ日常が欠けている話があった。
「いや、そうふ言えば。最近ちっちゃい女の子が亡くなってぇな。年は六か七でさ、生きてたぁ時はよくうちに遊びに来たもんだよ。かわいくぅて賢い子でね、よく『おじいちゃん!』って呼んぅでくれたよ。うんでなぁ、そんで、そんぅでっ……あぁ、駄目だ、思いぃ出したら涙出てきた。ついでに鼻水も。お前さん、ちよっとそこにあるう、ちり紙取ってくれ。いや、そこじゃあないよ! そう、お前さんぅから右後ろ、うん、どっうも。じゃあちょっと失礼ぇして」
じゅふぶっ、じゅじゅっ、ぴゃっ。
ちり紙を丸めて自分の元に置いた桶屋は話を続ける。
「すまん、すまん。どうも最近涙もろくってぃなぁ、これが前頭ぅ葉の退化ってやつかぁね。まぁ、そんな事はどっでもいいとして、あの子が死んだ時は信じられっかったよ。だって寝てる様でさっ、傷も無くって、顔色ぅもそんなに悪うなかったが、お医者さま、ああ、これぇあ村の奥にいるお医者様なんだが、その医者が死んだって言いたんだ。間違ぃいない、妖怪のぉ毒にやられたって言ってたよ。それでうちは葬式用の桶も作っていてぇね、あの子の葬式に立ちぃ会ったのさ。んでもって逞しい若い二人があの子入ってる桶を埋めてぇなぁ……桶の上に冷たい土が被さるのを見てっ、それでどぉうにもたまらず悲しくなったぁよ。うぅ……んで、それんも治まった数日後なんだが、近所の墓じぃじ、いや、こいつは村の墓を管理してるやつなんだがぁね、そいつぅがどうも『あの子の墓土の様子がおかしい。掘り返して桶の中身を見るべきだ』と言いやがってなぁ。村のみんなは『あぁ、ついに墓じぃじもあれか』と思って無視してたんだが、それでも墓じぃじは騒ぐのを止めなくてぇな、しかたなくみんなで墓を掘ったんだぁ。そしたらよ、無かったんぅだよ! あんの子の体が! 誰かに持ってかれたぁんだよ! いつ頃掘り起こしたのかは知ぃらんがね。……村の者も一生っ懸命探したんだが、見つからなかったぁな。一体誰がこんな酷い事をしたのかっ色々と話もしたが、今じゃあみんな考えるのを止めてぇら。そんでもって、そのん後に知り合いの中で酒を飲んでっ酔いぃまくったよ。でも一人だけ酒じゃなくて水持ってきてぇよ、そんなんじゃあ酔えねえよ! ってみんなぁさで……」
気になる部分が過ぎても声は続く。
良くも悪くもおしゃべりは時の重みを狂わせる。
そして、いつの間にか陽は夕方へと走っていた。
「……という訳で孫は無事に生まれてきたんだぁね。てっ、ありっ? そういえばあんたぁ、何でここにいるんだっけ?」
白熱した語りに付き合うのも良い。だが、もう十分だ。
私は随分と無理矢理な別れを告げる。
「いえ、何でもありません。さようなら!」
強引な響きに釣られた老人はおかしいなぁという顔で返す。
「へっ? あぁ、さよんなら」
私が桶屋の住処から出ると、傾いた焼け陽が村一面を塗り潰していた。
もう空の輝きに赤は無く、夜へと染まっている。村を歩き回る私は困っていた。
「はぁ……どうしよう」
ここには宿屋なんて滑稽な店は無い。
勿論、他の店や普通の家屋に泊めて貰おうという考えも巡った。しかし、泊まる店や家屋の人の迷惑を考えると、結局何も出来ず夜になった。
今日は、野宿かな?
私が口端を歪ませてそう思った時、視界に朽ちかけの家屋が映った。随分と古く、この夜闇でも目立つ蒼苔が屋根を覆っていた。
「そうだ、ここなら」
私は思考に一つ星を煌めかせ、年寄り家屋の戸を叩いた。
誰も居ないだろうけど、念の為。
「すみません、誰かいますか?」
返事は無い。いや、あったら逆に驚きだ。失礼ながらも戸を引いてがたがたと家に入ると、そこには風雨の暴れを受けてくたびれた畳だけがあった。
「あら、質素で素敵ね」
私は疲弊の畳に腰を落とし、今夜の宿をここに決める。しかし、すぐに眠る訳ではなく、自分の風呂敷包みを開いた。そして、中に入っていた物を辺りに広げる。
私はその中からお気に入りのそれ――暇つぶしのおもちゃを手に取り、微笑む。
「ねぇ、あなたはとっても綺麗ね。いつでもきらきら輝いて。そう、あなたもよ。とっても良いにおいがするわ。まるで……」
崩れかけの家屋の隙間から、濁った夜が差し込む。
私は眠りの園に落ちるまで、ずっと愉快なおもちゃを見つめていた。
誰かが土を叩く音がする。ただ歩いているだけでは無く、誰にも見つからない様に注意を払っている響き。
一体、誰だろう?
私は閉じた瞳で意識を足音に向けた。誰かの刻む地面の囁きはどんどん遠ざかり、山奥へ沈む。
こんな、夜が濃い時間に何をするのだろう?
心に謎の種が蒔かれ、思考の花が咲く。
こんな夜に歩く人が一体何をするのかは知らない。だけど、こんな山奥のこんな時間に外へ出て、妖怪に襲われてしまったら大変だ。きっと、誰の助けも来ないだろう。
頭に流れる想像は一つの行動を紡ぎ、瞼を開かせた。
「心配ね。ちょっと失礼だけど、後を付けてみようかな」
眠り体から立ち姿。おんぼろ戸を引いて外へ出る。念の為、風呂敷包みも連れて行く事にした。
外の景色は黒塗りの樹木で、家々はその上に無理して飾った貼り絵の如く存在していた。
確か、こっちの方だったかしら。
さっきまで足音がしていた方向へ進む。その速度は慌て気味のゆっくり。粘つく夜が体を撫で回す。空を見ても黄色い月は見えず、戸惑い雲が寝転んでいた。
三桁を超えない程度に歩くと、今まで見てきた夜とは別の影が見えた。
着物、あれは人だ。しかも良い物を着ている。きっと結構な金持ちなのだろう。
私はその上下する背を恋しく付けた。心配だったから。
その着物影が歩くと私も歩き、その着物影が止まると私も止まる。
その距離は常に同じ間隔を生み出し、見えない物差しだった。
やがて、自分の妙な行脚も視線先の人間が小屋に入って終了する。
とても質素で、村から離れてぽつり一人ぼっちの建物。
「はぁ……良かった」
家に入れば少なくとも並の妖怪には襲われる心配は無い。あとは私が辺りを見回りして、妖怪が居なかったら大丈夫だろう。
私はそう思い、その場から離れようとする。しかし、頭に転がり落ちる違和感で立ち止まった。
「この小屋、光取りが無い?」
言葉の通りだった。視線先の家屋には光取りどころか、穴一つすら開いていない。もし無理矢理にでも穴をでっち上げるとすれば、入口ぐらいだろう。しかし、それも今は閉じられている。
どうしよう、気になるわね……
私は好奇の糸に引っ張られて密閉の家屋に近づく。
「まっ、まぁ……ほんの少しだけ」
じっとりと軋む足元の土を踏み付け、もっと近くで小屋を見ようとする。しかし、その企みは考えてもいなかった現象に阻まれた。
ぱりっ、ぴりりっ。
足先に茨が殴る感覚。だが、視界には何も見えない。
私は驚きに足先を後退させ、唇を開いたり閉じたりする。
「結界? なんでこんな所に」
そう、進行を阻んだのは侵入者を退ける特殊な壁。今まで気付かなかったが、この夜闇でも薄っすらと小屋を被っている。
きっと、ここはとても大切な場所なのだろう。しかし……
「それにしても、強すぎる」
己の足に目を向けると、履物が焦げて乾いた香を蒔いていた。
妖怪から小屋を守る為に結界を敷くというのは理解できる。しかし、この結界は何かを守るにしては必要以上に強力、いや、強力過ぎた。
普通の人間や妖怪だったら、たった数秒触れただけで黒焦げになって絶命する。
これ程まで厳しい結界を貼り、一体何を守ろうというのだろう?
問い掛けの鼓動が暴れる。だが、目前の小屋と結界はその答えをくれない。
このまま帰ってしまおうか?
心は呟く。とてもとても無難な台本の立ち回り。だけど、それはただの演技。
「いや」
肺に蓄積された疑問符はその台本をばらばらに引き千切った。
私は結界に触れるか触れないかの所で人差し指を伸ばし、印を切る。
「あぁ、わたしって何ていけない子」
そんな事をつぷつぷ放ちながら指を動かすと、目前の壁が透明になっていく。
「まぁ、後でちゃんと元に戻すから、ごめんなさいね」
結界が夜に溶けて完全に大人しくなった。
私は十分に安全を確認すると、奇妙な小屋へと歩み寄り、戸に指を貼り付ける。
中では一体何してるのかしら?
造られて間もない木の入口を少しだけよろめかせ、小屋の秘密を窺う。
始めにその小さな隙間から零れたのはランプの灯り。
次に奥の棚や乱雑に置かれた道具が見える。
そして、最後に見えたものは……
人だ。四人いる。しかし、人数は大した事ではない。私は境目から千切れ落ちる世界に瞼を一層開いた。
あれは、何?
奥にはさっきの着物の人が立っている。
そして、さらにその手前には三人。こちらから見て右側に立つ男が一人、その左隣にも仰向けの男が一人、そして、少女が一人……ひとり、いる。
「なぁ、早くあれを射してくれよ。でないとこいつの締りが悪くてかなわねぇ」
仰向けの男が気だるさと期待を寄り合わせた声を蒔く。
「あぁ、そうだ。こいつはぁ、もう最近じゃ射してやらないと何も出来やしない。俺のを……」
右の男が声を奥へ散らしている。高価な着物を身に付けた男はそれが終わる前に返す。
「まぁ、少し待て。落ち着け。すぐだ、今すぐ打つ」
そう言って上物の衣を巻きつけた男は仰向けの男に寄る。その手には不思議な道具が握られていた。それは透明な円柱で頭に針が付き、後ろも透明で可憐な尻尾。
ランプの灯りで揺れるその影は液体を孕んでいた。
「じゃあ、打つぞ」
上衣の男が持つ幻覚じみた針が、刺さる。
そして、それは少女の白い場所を進む。
尻尾が上着物を身に付けた男の親指で押され、中の液体が蠢く。
そして、それは針を伝って少女の血へ旅行する。
ほんの一瞬時間が迷うと、変化が起きた。
今まで人形みたいな顔をしていた少女が喉奥から粉引きみたいな囁きを漏らし、眼を熱心な火に焦がす。
それと同時に今まで仰向けになって少女と繋がっていた男は、口を許容外の幸せに踊らせた。
「はは、あぁ、これだ、これだっ! この締りがないと……やはり七つは過激でいぃ!」
右の男が腰から出したそれを歪な笑みで少女に向ける。
そして、口を無駄な機械の如く動かして言う。
「さて、俺のも面倒見ろ。そのかわいい口で!」
少女は何も言わず幼い唇を滑らせ、含んだ。
まるで、溺れかけた者が何かに縋る様に。
緩慢な液が躍る子気味良い音。
「あんまり遊び過ぎないでくれよ。私の分も取っておいてくれ」
高価な着物は自分の幸せを気にして、かちかちした表情をする。
「「はいはい、分かってますよ」」
少女を溶かす二人の男は形だけの保障を投げ付け、行為を続けていた。
ランプの光が、男達の軋んだ幸せを照らしている。
私はその醜光のちらつきを見つめた。
幼い少女の姿をして男に跨る肉人形と、それに齧り付く仕掛けの男。
腰と口を意思無しに動かす子供と規定外の欲に絡まれた男達。
私は喉を鳴らし、小さく囁く。
「まぁ、何て……」
朝の騒々しい訃報が肺を叩き、ワタシは眠りに抱擁されていた瞼を退却させる。
美しい夢から逃げ、現実の非情な布団を畳む。めしゅり不快に泣き叫んでそれは大人しくなった。
体の軋む厄介なお遊びを止めると、着物へ想いを投げる。
素敵な寝巻き姿。ずっとこのままでいたいけど、他者の視線が許してはくれない。
部屋にあった布に指が滑る。派手過ぎる着物。
ワタシは精神病患者の拘束服みたいな衣を着た。身に付けると偽善な理性に漲る。
「……さて」
昼前に、厄介は片付けないと。
ワタシは朝の労働を終えると、自分の牢屋から逃げた。
挨拶する度に、人の繋がりの脆さを感じる。
『おはようございます』
たったの一声掛けないだけで、人と人の心は離れてしまう。しかも、冷たい視線のおまけつき。
さっきワタシはこの脆い行為を同胞に対して投げ付けた。同胞達もこの行為の殺伐さを分かっている様で、しかたないとばかりに笑顔を作っていた。
ああ、なんて愚劣な朝だろう。
ワタシの視線が下から逃げると、血気無い空と体を掻き毟る陽。
漂う気体を飲み込む。美味しくは無いが、依存症なので仕方が無い。
不味過ぎて体がばらばらになってしまいそうだ。
この行為は嫌いだ。できれば一生こんな事はしたくない。
だが、それを切り裂く天の羽音。一つの蛾がこっちに迫ってくる。
一体、誰だ?
ワタシは空を殺す声色に視線を向ける。そこには一匹の生き物。
あの姿はまだ忘れていない。たしか下駄を履いた化け物で言葉遊びをしている……
「おはようございます! 『文々。新聞』の射命丸です」
ああ、射命丸だった。
「おはようございます。こんな所までどうも」
ワタシの声を含んだ黒烏は失敬にも足を敷地に着け、こちらに返す。
「いえいえ、これがわたしの仕事なので。購読者の為であれば何処にだって飛びますよ」
そう、ワタシは文の紙束を買ってやっているのだ。
彼女は金と趣味の入り混じった笑顔をする。
生まれたばかりの赤子みたいに光る履物が泣き、こちらへ迫る。それから、声と共に不快な紙が渡される。
「どうぞ、今朝刷ったばかりです」
ワタシは女の新聞を手で捕まえ、無責任に唇を着けたり離したり。
「どうも、今日は良い朝になりそうです」
歯の間から散った音を受ける文の顔は馬鹿みたいに輝く。だが、それは心の底まで輝いてはいなかった。
はぁ……そうか、この女は何か悩んでいる。
ワタシは黒鴉の心を知り、言葉をぶちまける。
「あの、射命丸さん。良かったらうちで少し休んでいきませんか? 最近良いお茶と菓子が手に入ったんですが……」
声が響き終わる前に、文は害虫を潰す様に答えた。
「いいえ、結構です。私にはまだ他の方々の新聞配達が残っているので」
逆さの硝子杯で飲み物を拒む様に、烏はこちらへ眼を向ける。
話の分からない女め、どうやら悩みを独占したいらしい。
「そうですか、それは残念です」
ワタシが舌打ち代わりに放つと、文は立ち向かう様に口を響かせる。
「すみません、それでは次の購読者のお宅に向かわなければいけないので……失礼します」
お詫びを投げ付けて烏は顔を背けた。悲しく折れそうな体が浮き、血気無き空へと落ちる。無情な天と陽はすぐにあの女を食べてしまった。
ここには紙束を捕まえたちっぽけな己のみ。
一体、文は何に悩んでいるのか?
胸に楽しい蜘蛛の巣が張る。ずっと考えていたかったが、時間は許さない。
ふと、指がしがみついている紙束を睨む。
まぁ、あの烏の悩みは楽しみとしてとっておくとしよう。
ワタシは心に巣食う蜘蛛の糸を丁寧に畳み、インキに汚された紙面を暴いた。
そこではのたくる黒線が奴隷市場を経営していた。大きな見出しは店の名前。小さな文字は一文の価値も無い商品。
視線でぎゃりぎゃりとその市場を抉ると、活字が怒声を散らす。
ワタシの忘れてしまった配列で。
皮肉しかない事件、嘘に近い本当の天気、初心者零歓迎の将棋講座。
親指の背ではない方で次の情報を求む。どうせつまらん事しか書いてないだろうが。
新しい紙面には今日の不健康を嘲笑する健康特集、そして、幻想郷の数える程も無い店を律儀に紹介する広告が……いや?
「これは」
ワタシは広告の体を見つめた。幻覚かと思ったが、ずっと醒めないでいる。
「何も書かれていない?」
その通り、黒い広告群れに一匹だけ純白姿。店の分類のみで、それは生まれる前の胎児を思わせた。
「誤植かしら? お店の場所すら記されてないなんて」
ワタシは『桶屋』と書かれた純白の広告を見た。それから、別の部分へと視線を滑らせる。
それは、『桶屋』の広告に隣り合っている別店の四角。
すべて、一つの場所だ。
「……どうしてだろう?」
面白い配置だ。これはきっと純白の『桶屋』の居場所を示している。
ワタシは紙束広告に組み込まれた謎に眼を垂らす。ここから歩いて行ける程近い村だ。
「行ってみようか?」
自分を誘う。もちろんそれに頷く。
「でも、その前に朝食を摂らないと」
ワタシは朝の滋養物を調理する為に行動する。
『用事が出来たので暫く出かけます。帰ってくるのは明日の朝早くだと思うので、その間の留守番をお願いしますね』
ワタシは本当に人でなしだ。だが、仲間達は上記の言葉を何とも思わずに受け入れた。
あぁ、自分の仲間達ってとんだ不感症。
今は目的地中程の茶店。ここは山奥で人が驚く程に少ない。
ワタシは昼食を持っていくのを忘れたので、食事処で団子を貪る。奇妙な団子。ひと串につき三回も不味い味を見なければならない。桜、緑、白。
この三色団子を発明した奴はきっと狂人だ。どの粒もおそろしく不味い。
「ふぅ……ごちそうさま」
緑の毒液を胃へと直下させ、やんちゃな魂をいたぶるともうお昼の尻尾。飛べばすぐに目的地へ着くが、それではつまらない。今日は歩き。おかげで脚が痛い。
腰掛から食事処の亡者を見下す。すると、こちらへ寄って来る。
「お会計を」
ワタシは唇を動かして代金を亡者に落とす。そうすると、下品な団子を作った生き物は間違ってると表情で指摘する。
「お客さん、代金が多いですよ。うちはそんな高級な茶店じゃありませんよ」
「いえいえ、これで正しいのですよ。実は、聞きたい事があるのです。余分なお金はその代金という事で」
茶店の主人は物分りが悪いらしく、変な顔をしていた。
「はぁ、そうですか。それで、一体何を知りたいので?」
ワタシは別にどうだって良い事を喉から飛ばす。
「ここから一番近い村は何処ですか? あと、その村に『桶屋』があれば教えて頂きたいのですが……」
棒みたいな人間はすぐ問い掛けに答える。しかし、素敵な飾りも付いていた。
「村でしたら、ここの道をもっと山の方まで進めば見えてきます。それと村自体も大きくないですから、少し歩けば桶屋もすぐに見つかりますよ。でも、あそこの村は本当に何もありませんよ? それに、桶屋も山を降りた里の方が立派で仕事が速いですし、おまけにあそこの村は里に比べると全体的に……」
このちっぽけな茶店で夜を待つのも良い。だが、意地悪な心はそれを遠ざけてしまう。
「あの、もうそろそろ村に向かいたいのですが」
「あっ、そうですか! いけないいけない、つい、人が少ないもんで客が来るとこの口がね」
奇怪な団子と緑の毒液の生産者は畸形じみた顔で口を隠す。ワタシはそれに対して顔を苦々しく歪めた。
「それでは、失礼します」
燃え上がりそうな腰掛けから外れ、食事処の亡者から逃亡する。
地面が嫌がらせの為だけに斜面を描いて不快だ。すぐに目的地へ行こう……
「ちょっとちょっと! お客さん、待って!」
ワタシが後ろを見ると、さっきの人間がふざけた呼吸をしながら立っていた。
「忘れ物ですよっ!」
闇色の風呂敷包み。色々と塵が入っている。
「あら! いけない!」
ワタシは気の利かない男から荷物をひったくり、侮蔑の言葉を浴びせた。
「ありがとうございます、助かりました。これが無いと本当に困るところでした」
別に有っても無くても変わらない。だが……
「では、今度こそ失礼します」
ワタシはついに茶店から離脱すると、ひねくれた道を進んでいった。
村は茶店で聞いたよりも立派だった。物資が無いという意味で。みんな住居で、店は注意して見ないと分からない。
ワタシは村をうろつき、『桶屋』を見つけた。見つけたというよりも、たった今開店したという感覚だった。
この下火な住居家族にあったそれは年寄りの店舗で、周りに幾つも液体を捕らえる木の枠組みが在った。これのお陰でここが目的の店だと分かった。更に親切な事に看板まで付いていた。
ぼんやりと黒く滲んだ『桶屋』の文字。
「ここで間違いないみたいね」
ワタシは老いた家屋へ飲み込まれていった。
中は桶の展示会。人の姿が見えない大家族。しかし、桶間から人の饐えた命の揺らめき。
「いらっしゃい。珍ぁしいね、お客さんかい? 最近来るのは知り合いぃばっかでね」
息遣いを見ると、一つの老体がいた。顔は生き物の絞り粕を象徴しており、死への緩やかな準備を始めていた。
「何の用ぅだね? うちは桶しかぁ……作ってないよ」
ワタシは持ち物から紙束を取り出し、桶屋にちらつかせる。
「あの、ここの広告なんですが……」
記事を目にした死に損ないは蜘蛛の巣じみた口周りを震わせながら言う。
「あぁ、広告ね。そう言えばこの前天狗ぅの記者さんが『ここの店を紹介しても良いですか?』って聞いてぇきたよ。まぁ、それだけだぁね。それでぇ、あぁ! 何だん、この広告、うちぃとこだけ何も書いてないじゃねぇか、くそ、あの天ん狗め! 大体こんな所までぇ取材に来るなんておかしいと思っとったんだよ。そんれに……」
今日は話したがり屋ばかりか。おまけにこの老いぼれは重度だ。まぁ、いいか。面白そうだし。
いつか見た紙屑の感想、村の極端な上品さ、同胞の散り様、不味くない食べ物を摂取したい、夢の中では……とにかく色々死にかけは喋った。しかし、ワタシはそれを耳に汲むだけ。何て楽なのでしょう。
激動の人生を穏やかに語れるのは天才のみ。だが、一つだけ通常さを保っていた出来事があった。
「いや、そうふ言えば。最近ちっちゃい女の子が亡くなってぇな。年は六か七でさ、生きてたぁ時はよくうちに遊びに来たもんだよ。かわいくぅて賢い子でね、よく『おじいちゃん!』って呼んぅでくれたよ。うんでなぁ、そんで、そんでぇっ……あぁ、駄目だ、思いぃ出したら涙出てきた。ついでに鼻水も。お前さん、ちょっとそこにあるう、ちり紙取ってくれ。いや、そこじゃあないよ! そう、お前さんぅから右後ろ、うん、どっうも。じゃあちょっと失礼ぇして」
じゅふぶっ、じゅじゅっ、ぴゃっ。
無垢な紙を汚し尽くした老人は言の葉を再開する。
「すまん、すまん。どうも最近涙もろくってぃなぁ、これが前頭ぅ葉の退化ってやつかぁね。まぁ、そんな事はどっでもいいとして、あの子が死んだ時は信じられっかったよ。だって寝てる様でさっ、傷も無くって、顔色ぅもそんなに悪うなかったが、お医者さま、ああ、これぇあ村の奥にいるお医者様なんだが、その医者が死んだって言ぃたんだ。間違ぃいない、妖怪のぉ毒にやられたって言ってたよ。それでうちは葬式用の桶も作っていてぇね、あの子の葬式に立ちぃ会ったのさ。んでもって逞しい若い二人があの子入ってる桶を埋めてぇなぁ……桶の上に冷たい土が被さるのを見てっ、それでどぉうにもたまらず悲しくなったぁよ。うぅ……んで、それんも治まった数日後なんだが、近所の墓じぃじ、いや、こいつは村の墓を管理してるやつなんだがぁね、そいつぅがどうも『あのこの墓土の様子がおかしい。掘り返して桶の中身を見るべきだ』と言いやがってなぁ。村のみんなは『あぁ、ついに墓じぃじもあれか』と思って無視してたんだが、それでも墓じぃじは騒ぐのを止めなくてぇな、しかたなくみんなで墓を掘ったんだぁ。そしたらよ、無かったんぅだよ! あんの子の体が! 誰かに持ってかれたぁんだよ! いつ頃掘り起こしたのかは知ぃらんがね。……村の者も一生っ懸命探したんだが、見つからなかったぁな。一体誰がこんな酷い事をしたのかっ色々と話もしたが、今じゃあみんな考えるのを止めてぇら。そんでもって、そのん後に知り合いの中で酒を飲んでっ酔いぃまくったよ。でも一人だけ酒じゃなくて水持ってきてぇよ、そんなんじゃあ酔えねえよ! ってみんなぁさで……」
話の美味しい部分はもう無くなったが、この天才的な老人の口舌は屈強だった。膨大な時間をすり潰し、話の樹を育て続ける。
そんな時間の摩耗で、空の陽はもう帰りたがっていた。
「……という訳で孫は無事に生まれてきたんだぁね。てっ、ありっ? そういえばあんたぁ、何でここにいるんだっけ?」
この死にかけのする話は好きだ。ずっと聞きたい。しかし、それは時間が限り無く有ればの話。
ワタシは泣く泣くさよなら宣言。
「いえ、何でもありません。さようなら!」
自然な拒否反応を感じ取った老いぼれは真っ当な表情で言う。
「へっ? あぁ、さよんなら」
ワタシが楽しい気持ちで桶屋を出ると、外は落ち込んだ太陽が村を照らしていた。
もう陽は色気を失って、闇に寝込んでしまった。村を徘徊するワタシは悩んでいた。
「はぁ……どうしよう」
ここには旅人が泊まる店は無かった。
当然、そこらの家に泊まる事も考えた。しかし、どれも酷いぼろ小屋で、草叢で一晩過ごした方が幾分かましだった。
今日は、野宿かな?
ワタシが微笑みながら頭を廻らせた時、何とも素敵な豪邸が見えた。建てられてから大分経つであろうその家は、緑の苔屋根で眩しかった。
「そうだ、ここなら」
ワタシは胸に期待を飼い慣らし、小さな豪邸の扉を突付く。
きっと誰かいるだろう、こんな立派な家は見た事が無い。
「すみません、誰かいますか?」
何と返事が無い。驚きだ。無礼にも扉を開いて入ると、そこには歳月で良い具合に往なされた畳があった。
ワタシは斬新な畳に座り、今夜は目を閉じる事にした。だが、睡魔が一向に来ないので、子守唄代わりに黒い風呂敷を解放する。それから、その中身を弄った。
ワタシはそこからお気に入りのそれ――暇つぶしのおもちゃを手に取り、微笑む。
「ねぇ、あなたはとっても綺麗ね。いつでもきらきら輝いて。そう、あなたもよ。とっても良いにおいがするわ。まるで……」
前衛的な廃墟の隙間から、腐った空気が流れ込む。
ワタシは瞼が疲れるまで、ずっとその愉快なおもちゃを見つめていた。
人の形をした生き物が土を踏み付けている。踏み付けるとはいえ、だいぶ神経質に地面を殴っている。
ワタシは瞼闇の眼で足音を見つめた。旋律は少しずつ逃げ出して、木々の隙間へと潜って行く。
こんな、暗い時には大体楽しい事をするものだ。
胸の奥に興味の虫が湧き、沈着の花を喰い尽くす。
こんな夜にする事は大体決まっている。そして、その行動はどんな形にしろとても楽しいものだ。陽の出ている時よりもずっと楽しい。
心を満たす匂いは体に命令を送り、眼から闇を取り除いた。
「心配ね。ちょっと失礼だけど、後を付けてみようかな」
安らかな姿勢から疲れる立ち上がり。上品な戸をずらして家を後にする。たぶん必要になるだろうから、黒い風呂敷包みを持っていく。
外には光を否定した樹木と服従して黒く染まった家屋が転がっている。
確か、こっちの方だったかしら。
ワタシは地面の響きに向かって進む。その仕草はまるで泥棒のものだった。硬質な闇が肌を引っ掻く。天に灯りは無く、肥満気味の雲がこちらをおかしそうに見ていた。
少しばかり進むと、今まで見てきた闇とは違うものが見える。
布。人間だ。身のこなしで分かるが、農民でも職人でもない。お偉い身分の方だろう。
ワタシはそのゆらゆろする背中を追った。気に入らなかったから。
その影が動くとワタシも動き、その影が止まるとワタシも止まる。その間合いは変化しない。
そして、その無駄な散歩も着物影が家に滑り込む事で終わりに落ちた。
「はぁ……良かった」
一体何が良くてこんな事を言ったのか分からない。だが、こちらも少し夜の散歩を楽しんだら帰るとしよう。
ワタシはそう考えながら帰るふり。すぐに振り返って異常を指摘する。
「この小屋、光取りが無い?」
その通り、大正解。こんな設計の小屋だったら黴が生えてしまうだろう。もし、生えない工夫をしているとするならば、よっぽど中が乾いている位か。まぁ、そんな事をする意味は無いけれど。
おもしろい、絶対に何かある。
ワタシは抗い難い味覚に誘われて小屋に寄る。
「まっ、まぁ……ほんの少しだけ」
肥えた地面を足で押して、小柄な家に近づく。だが、その行動は予想通り廃案になった。
ぱりっ、ぴりりっ。
足下から肉挽きで肌を擦った様な痺れが走る。視界からも何となく変化が分かった。
ワタシはのんびり後退して、現状の説明をする。
「結界? なんでこんな所に」
ああ、何てわざとらしい。
始めから分かっていたが、立派な結界が小屋周りに張られていた。この黒い時間帯でもはっきりと見える。
どうやら、そこまでしてでも見られたくないものがあるらしい。加えて……
「それにしても、強すぎる」
そう、触れた者をほんの少しの時間で殺す程に強い。その証拠にさっき触れた足の部分がほんのり狐色。良い香りがした。
下らない人間や妖怪だったら調理されている。
こんな洒落た歓迎をして、一体何を楽しんでいる?
ワタシの血に放火じみた興味が投擲される。しかし、現状はそれを満たしてくれない。
このまま帰ってしまおうか?
心は教える。平和に浸かって幸せに生きる方法。しかし、そんなのは下らない理想。
「いや」
胸奥に備蓄された苛立ちは理想を突き殺す。
ワタシは結界の鼻面に気だるく指を見せ付け、適当に動かす。
「あぁ、わたしって何ていけない子」
葛藤は未来の免罪符に化けるものだ。結界が少しずつ死んでいく。
「まぁ、後でちゃんと元に戻すから、ごめんなさいね」
隔たる厄介な壁が死んだ。ワタシはもう自分が加熱調理されない事を悟ると、宝箱小屋に張り付き、入り口に手を躍らせる。
中では一体何をしているのかしら?
青臭い木戸に力を加え、中身を見つめる。
最初は油が燃え立って誕生した黄ばんだ火。
二番目は理屈じみた棚や道具。
それから、三番目は……
人間だ。四匹。だが、数は別にどうでも良い。ワタシは戸の隙間から生れ落ちる舞台に眼球を奮わせた。
あれは、そう。
奥にはさっき見たお偉い布の男。
それから、その手前に三体。右に立つ男、左に天井を向いて寝転がる男、それで、かわいい女の子が……ふふ、ひとつ。
「なぁ、早くあれを射してくれよ。でないとこいつの締りが悪くてかなわねぇ」
寝転がりは時化りと楽しみで編んだ音を吐く。
「あぁ、そうだ。こいつはぁ、もう最近じゃ射してやらないと何も出来やしない。俺のを……」
右に立つ男が喉を立派な衣に鳴らす。声を受けた上品布はそれが終わる前に口を開く。
「まぁ、少し待て。落ち着け。すぐだ、今すぐ打つ」
そんな声を散らしてお偉い布は寝転がりに歩む。繊細な指の間には医療器具が光っていた。それは水晶みたいに光っているくせに、えらく人を不安定にさせる針を持っている。
煤けた灯に描かれるその注射器は中身を持っていた。
たぶん、クスリだろう。みんなが幸せになれる魔法のクスリ。
「じゃあ、打つぞ」
お偉い着物が持つ割れた現実の様な針が沈み込む。
そして、それは女の子の肌へ。
注射器が立派な衣の手によって縮んでいき、ちろちろと輝くクスリが騒ぐ。
それから、液体は細い道を伝って少女を染める。
屑虫の一生に近い間が過ぎると、展開する。
さっきまでただの置物だった少女が口から喜楽曲を吐き、瞳を夢中夢に溺れさせた。
それに連動してずっとこの少女に寄生していた寝転がりは、歯を剥き出しにして丁寧に言葉を作る。
「はは、あぁ、これだ、これだっ! この締りがないと……やはり七つは過激でいぃ!」
今までずっと右にいた男は脚の間から高まる願望を寄せる。場所は少女の唇。
これは間違っていないとばかりに、言葉を散らす。
「さて、俺のも面倒見ろ。そのかわいい口で!」
愛らしい女の子は言葉も紡がずに口を開け、真っ赤な舌を踊らせた。
まるで、これが一番正しい事だ、とでも言う様に。
唾液と発酵した分泌液が絡み合い、愉快な詩を生み出している。
「あんまり遊び過ぎないでくれよ。私の分も取っておいてくれ」
ご立派な衣は己の喜びが心配で、ゆうゆうと小さな唸りを弾く。
「「はいはい、分かってますよ」」
かわいい女の子を嘗め回す二匹は実態の無い答を返し、正直な行為を廻す。
ランプの黄変した影で生き物たちが楽しく踊っている。
ワタシはその煌めきを眼球に入れる。
雄に跨る少女と、小さな雌を願望で突付く雄。
傀儡となった幼子とそれを賞味するだけの男達。
ワタシは口を動かし、ほんの少し呟く。
「まぁ、何て……」
小さな、汚れも分からない幼子を男達が貪って、遊んでいる。
私は囁きの続きを言う。
ワタシは呟きの終わりを喋る。
「美しいのかしら」
そう、私とワタシはこの光景に、この行動に、この悪臭に、この、この、この、この、この、この……まぁ、とにかく感動した。
心震える舞台で観客がじっとしていられない時だってある。
私は風呂敷を開き、中のおもちゃを弄くりまわして支度する。
そして、ワタシはおもちゃを両手に持ち、入り口の隙間に右爪先を引っ掛けた。
それから、右足で思いっきり戸を横に蹴る。
木と木が衝突するがぁんっ、という音。
それが何かは知らない。
だが、とにかく私とワタシの前には素敵な遊び場が広がっていた。
「楽しそうね、わたしも混ぜて」
三人の男が一斉にこちらを見つめる。
何故? という顔。
ちなみに女の子はただただ自分の仕事に集中して、こちらを見ていなかった。
私が小屋へ無礼にも踏み込むと、右の男が口を開いた。
そのお方は結構な肉付きで、いつもは力仕事をしている様。
「おいっ! お前、一体だ」
ワタシは綺麗な声が終わる前に、首を右手の銀の指揮棒で撫でた。
優しく、素早く。
「こんばんは」
それと、挨拶。
「れ゛っ? っ゛、ぇ゛っ……」
もうこの男は続きの言葉が出せない、拵える事が出来ない。それは何故か?
答えは簡単。
だって首が横一線に裂けて、空気が漏れているから。
男は喉の亀裂から形を成さない言葉を漏らし、置物の如く立っていた。
首から幻想を煮詰めた噴霧が生まれる。変わった虹。
主成分はヘモグロビン。
人だったら誰にでもある。
その赤く輝く路は最初小さかったのに、時間と逢引しながらどんどん膨らんで行く。
容姿は炎より明るく、太陽より暗い。
「あぁ、素敵。あなた、大きなお花みたいね」
ぴぴっ……ぴちょっ。
顔に赤い花弁にして虹――男の命が咲きに来る。
それは、模範的な死を体現した灯火。
それは、水遊びをした時にも似る心地良い液体の演劇。
赤い役者、情熱的な舞台、赤い小道具、情緒的な音楽、赤い演出。
とにかく、赤い波が自分を食べて行く。
燃え立つ液体の円舞がこの世を蓋う。
もう、ランプも小屋の中も赤い眩暈に阻まれて、見えない。
消えかけの火みたいに崩れる命の囁きが、聞えた。
それは、離したくない程に愛おしい。
だが、暫くすると赤い世界が裂けて、元の場所が戻ってくる。
演劇が終わると、小屋の中は赤点々のお洒落で一杯だった。
鼻腔に愚鈍な油臭が這う。
はぁ……とても良い香り。
ワタシが挨拶した男は、元から立てなかったみたいに倒れる。
ごどんっ。
音こそは重厚な面構えだが、軽やかな印象だった。
まるで、中身の入っていない花瓶。
もう、これはただの、人の姿をした素敵な置物だ。
「ふふっ」
周りにいる男二人はこの感動的で前衛的な学芸を理解出来ていない様。
何と勿体無い。
少女の方はと言えば、真面目に腰を振っていた。
あら、ご苦労様。
私は寝転がって幼女を賞味している男に歩んだ。
この人からは甘くて重い土の匂いがする。多分、いつもは農作業に従事している真面目な人間なのだろう。
とても立派な事です。ワタシにはとても真似は出来ません。
私は左手の楽器を農奴のおでこに当てる。
仰向けの男は理解出来ない、と純粋な稚児の眼で語り掛けてきた。
ワタシはとっても親切なので、子供にでも分かる純粋な説明を添える。
「聞いて、すごく綺麗な音色よ」
強張る引金をあやすみたいに酷く動かす。
そうすると、撃鉄が狂信的な運動をして、雷管を思いやりたっぷりに殴った。
でも、残念ながら火薬入り個室はその辱めが大嫌いで、楽器の吹口に救いを求める。
そして、その硬質の逃亡は……
ぱぁん。
心臓の呻きにも満たぬ、脆弱で慎ましやかな破裂。
遊底が軽快な後退運動をした後、元の位置に孵る。
きらきら光る薬莢が逆流れ星の様に生まれ、床にことらりと着地。
これは、心臓の一鼓動も終わらぬ僅かな時間。
しかし、農作業の男は眉間を穿たれ、もう動かない。
開いた穴からは立派な赤泉がとくとくと湧き出ている。
「……あぁっ」
何と、便利な時代になったのだろう。
引金に触れるだけで、こんなに楽しい遊びが出来るなんて。
私は左手の小さいそれを感心しながら見つめた。
鉄が編み込まれて生まれた冗談。弾薬を燃焼させる誠実な香炉。
『九四式』という名のきらきら囁くおもちゃ。
気品に満ち溢れた鉄の管楽器。
ワタシはそんな事を思いながら腰を墜として屈み、小指で農奴の赤穴を弄繰る。
触れると淵がぎざぎざしていて、まるで愛玩動物みたい。
「あら、仄かなぬくもり」
さっきの人は心地良い温度で、火薬燻る匂いを咲かせていた。
私が暫く小指の運動をしていると、背後にかたらりと動く助長な質量。
「誰かいるの?」
まぁ、始めからずっと気付いていたけれど。
ワタシは待っている。背中の影がこちらへ挨拶しに来るのを。
私は期待している。まだ見ぬ憎悪がこちらへと遊びに来る事を。
そんなこんな待つと、床叩く愉快な足音。
ふふ、やっと来た。
ワタシは振り返った。上品な着物の男が光を携えて迫って来る。
この人の体は細く、手も綺麗だった。きっと、普段は知識と精緻に満ちた職業を取り扱っているのだろう。
このお方の右手には、鈍銀の刃。
随分と細い刀身。多分、あれは手術用の刃物だ。
私は体を揺らしてメスの挨拶をかわす。
でも、完全に避けたら失礼なので、急所から外れる程度に動く。
ぐちゅっ。
腹に硬質の銀が触れて、肌と肉の結合に滑り込んでいく。
ワタシは花畑で一輪、可憐な花を見つけた様にお偉い衣の顔を覗く。
その眼は恐れと生存への賢明さで燃えていた。
その震えは自己保持の為に他者を廃棄する道徳心で美しかった。
あぁ、何て健気なのかしら。
私は感動した。顔を歪めて自分を刺したこの男に。
そして、腹に開いた傷口が、喋る。
血と引き裂く痛みを撒きながら、要求している。
言えっ! 言うんだ! こんなに光栄な事は無いのだから!
目の前にこんなにも良い人がいるのだから、だから……
感謝の言葉を吐け、と劈いた。
「ありがとう、こっちもお礼をしないとね」
ワタシは礼を述べると、九四式を男の上品な右手に向ける。
そして、自分の穢れた人差し指を倦怠に引く。
ぱぁん。
男は状況を知らず、疑問極まる音を散らした。
肌色の丸みを帯びた芸術品が宙に舞う。
それは、ちょうど親指の大きさ。
男はどうしたんだろう? とまだ理解していない様。
ランプの灯火を受けた薬莢が金色に叫んで堕ちる。
いけない、もっとしないと。
私は九四式を男の純潔じみた右手に向ける。
それで、鋼鉄で構成された籤を引く。
ぱあぁん。
男は歯の隙間から、摩り堕ろした処女みたいな声を漏らす。
くるりと踊る、8mm南部弾の屍骸。
ワタシの奏でた音楽は無事に送り届けられた。
今、視界には人差し指そっくりの節が躍っている。
でも、それは何の節かは分からない。
男はやっと祝福に気付いたのか、不規則な視線でこちらを嘗め回しながら後ずさった。
でも、この小屋は狭くって、すぐに男の背中は壁に張り付く。
さぁ、もっと優しくしてあげないと。
私はその微笑ましい肢体を追い、健気な右手に楽器の吹口を見せる。
それから、火薬を燃焼させて演奏。
ぱんっ。
九四式が弾の包装を吐き出す。
男は母親に絞殺される赤ん坊みたいに言葉をぎちぎりと削った。
中指が……あらら、これはざんねん。まだ赤細いひも一本で繋がっている。
男はもう十分です、と遠慮の顔を鳴らす。
でも、自分にはその表情が餓えている様に思えた。
「いえいえ、もっと受け取ってください」
ワタシは優しさを込めて指が三本しかない右手に拳銃を翳した。
今出来る精一杯の善意を送る。
ぱあぁぁん。
薬莢は、床と水平に跳んだ。
お見事。
男は苦しみの呼吸をする聖者の音楽を零した。
薬の名前を持つ指が飛ぶ。
小屋の天井に着くか着かないかの所まで。
まあっ、新記録。
男は幸せに顔を曲げている。でも、私には分かっていた。
ああ、この人はまだ満足していない。
ワタシは九四式を白い清らかなおでこに当てる。そうすると、上品な衣の男は慌てて口を鳴らす。
「待ってくれ! たすけてくれっ! わわっ、わたしは……違うんだ! あいつらに脅されていただけなんだ! それで」
お偉い布の方はもう肉になった二人を左手で指差した。
「だから、わたしだけはわたしだけはたすけ……」
声が終わる前に、私は小枝を千切った。
それは細い細い蔓で繋がっていた。その枝には爪があって肉があって骨があってそして神経 中指みたいな
男が大きな喜びに喉を鳴らす。
だけど、それは形を成していなくって、言葉としては受け取れなかった。
でも、ワタシはそれでいい。そう、この男が幸せならばそれでいい。
男は悪夢から覚めた様に小指のみの右手を見て、顔を安心に歪ませる。
どうやら、今まで自分の指に受けた施しを理解していなかった様。
「あっ、あ、ぁぁ、あっ、あぁ……ひ」
その眼は希望以上の輝きで眩しかった。
「ひっ
ぃ
ぁあぁ
いっ!
ゆびいぃっ……
わた
わたっ
しのっの
の、のっ……の
おやっ、
ひど、
ぐずりぃっ
ながぁ
指
ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛ぃ゛い
いいい゛ぃぃぃ
あ゛゛ああ゛ああ゛ぁぁ
あ゛゛゛あぁぁああぁぁぁああぁぁ!」
゛ぁ
あ
あ゛
あ
゛あ
ぁ
ぁ゛
ぁ
!」
もう四本も喪失しているのに、この喜び様。
どうやら、この人は自分の施しをとても気に入ったようだ。
「良かったですね。もう千切った中指は痛くありませんよ」
それに、小指だけになった右手は随分と可愛く、すっきり。
でも、これだけではまだ不十分だ。
私は男の左肩に銀の指揮棒を当て、そのまま押し込む。
ずぶっ、つぷぷっ……
ワタシの右手のそれ――刃物は上品な衣を貫き、小屋の壁に刺さった所で止まった。
男は私の親切に照れて、四肢を引き千切られそうな罪人の声。
いいんですよ。思う存分味わってください。
私は左手の九四式を男のおでこに翳したまま喋る。
「静かにして、あなたの言葉によっては助けてあげる」
上物の着物を身に付けた人はとっても素直。すぐに静かになりました。
よくどこにでもいる話せば分かる子。
ワタシは口を開き、男に言う。
とても簡単で、優しい言葉。
「今からわたしの訊く事に答えて、正直に」
男は慌てて頭を縦に振る。まるで、それしか出来ないみたいに。
「はいっ! こたっ、こだえまずっ!」
「そう、わかったわ」
私は、紡いだ。
簡潔な謎。
選択肢は二つ。
どちらも正解で助かる。
「わたしって、優しい? それとも、優しくないかしら?」
男は答えた。その素直な瞳で。
「やざじいっ! やさしいっです! とても!」
あら、すごい。大正解。
「そう。じゃあ、助けてあげるわね」
言葉を捧げたワタシは男のでこから拳銃を逸らそうとする。
だけど、性悪の手はそれの位置を変えない。
もう、しょうがないなぁ。
引金から指を離す事は成功したが、その後が続かない。
男はその様子を目にして、痙攣していた頬を弛緩させた。
仕方が無い。もう片方の手を使ってずらそう。
そう思い私は九四式の左側を強く握っておでこから外そうと
ぱぁん。
謙虚な遊底が後方に躍った。
残り一発の弾丸が、弾ける。
そして、男の頭を侮辱しながら走り抜けた。
ちなみに8mm南部弾の残像は自分の体にぴしりと当たり、結構痛かった。
そして、恥ずかしながらも自分の唇を繰り、言葉を出す。
「あらららら……わたしってうっかりさん」
そう、ワタシはとってもうっかり屋さん。
すっかり忘れていた。
この拳銃も自分と同じお茶目さん。
九四式自動拳銃。
この楽器は左側面に剥き出しの逆鉤――シアーがある。そして、この部分に強く触れたり、衝撃を与えたりすると勝手に撃鉄が落ち、つまり……
暴発してしまうのだ。
私はどうしよう、と思いながら男を見た。
でも、残念ながら眉間には見事な穴が生まれていた。
「あぁ、ごめんなさい」
言葉を吐いた後、ワタシは微笑んだ。
だって、上物の衣を纏った彼の顔がおもしろかったから。
上半分が緩み、下半分が緊張している。
きっと暴発の瞬間、彼は表情を強張らせたのだろう。
でも、それすらも間に合わなくて、下半分が緊張しただけ。
「ふふっ」
まぁ、方法は変わったが、それでも助けてあげた事には変わりない。
もし優しいと言ったなら、命が無くなるまで殴る。
もし優しくないと言ったら、体が壊れるまで蹴る。
それは、どちらも素敵な救済。
私は小屋中を見回した。
何故か赤い模様替えが成されている。
喉を切り裂かれた男。眉間を撃たれた男。右の指が一本しかなくって顔を半分緊張させた男。
それから少女。まぁ、これはどうでもいい。
ワタシは部屋でぐるぐる視線を振り回しながら考えていた。
殺生はいけない事です。
人間も妖怪も大切な命で尊いものなのです。
だから、決して命を奪い、否定してはいけません。
私とワタシはそんな野蛮な事は絶対にしません。
ちろりと死んだ男達に視線を寄せる。
しかし、これはどうでしょう?
殺生でしょうか?
いいえ、違います。
これは、とてもとても悲しい不幸な事故なのです。
私はただ刃物を翳して遊んでいただけなのに。
ワタシはごく普通に拳銃を演奏していただけなのに。
ある人は喉がぱっくり切れて。
またある人は頭に穴が開いて。
そのまたある人は指を欠損し、おでこを穿たれて。
死んで、しまったのです。
こればっかりはどうしようもありません。
そう、仏でも神でも。
でも、ちゃんと慈悲の心はあります。
その証拠に……
「あぁっ! なんて可愛そうに! いったい誰がっ!」
私は喉を開いている肉の傍に泣き崩れ、両掌で顔を覆う。
ちゃんと、悲しみの情はあります。
ほら、口端を歪めていますし、零れる涙も純粋そのもの。
「何て苦しそうな顔をしているの! 助けてあげないと!」
ワタシは声を捨てると、今まで腹に刺さっていたメスを引き抜いた。
ちゅぽるっ。
銀の金属は命に染まって燃え立つ宝石みたい。
「今すぐ呼吸できるようにしますからね」
彼の下顎の先端へ細い刃を置く。座標は前歯二本の間。
華奢な鮮影が、肥沃な肌へ沈む。
音はしない。でも、細胞分裂の様な充足感。
「えいっ」
メスを下へと歩かせる。ちなみに勢いが少し余って、胸手前まで進んだ。
彼の首にはたった今描いた縦一線とさっき刻んだ横一線の交差。
聖者を磔にして良い位見事な十字。その線は赤く、外枠はぼやけた肉色。
私はその切断に指を差し込み、丁寧に開く。
まるで、肉で出来た折り紙みたいに。
すると、菱形の窓が誕生した。眺めは喉の真っ赤な内装。
ワタシはその中をじっくりと視線で突く。しかし、見つからない。
「どうしてっ? どうしてなの!」
早くはやくハヤクしないとしないと。
銀の刃物で切断をもっと下へしたしたしたしたしたしたしたしたしたしたしたしたした……気付けば男の着物は何処かへ行き、股の後ろまで赤い線が伸びていた。
開く、そこには彼の部品がぎっしり。血の脂できらり光る。
「どうしよう……どこにあるの?」
私は困惑の思考と非効率な視界を共振させて行動を生む。
「でてきて! はやく出てきてっ!」
足で展開された男を叩く。
始めはどうという事も無かったが、やがて肉体の宝物庫は財宝を吐き出し始めた。
袋みたいなの、珠みたいなの、紐じみたもの、果実の様な、太陽みたいな……あぁ、駄目っ! 見つからない! もっと細かく探さないと。
ワタシは男の隙間に腕を差した。
多少汚れるが、仕方が無い。これは名誉ある汚染だ。善意の汚れ。
指先に頑固な感覚が走る。
いや、違う。これは体を支える骨組みだ。
爪に柔らかい反発が引っ掛かる。
うーん、これもはずれ。ただの赤い水を送る部品だ。
指に至極適当な刺激が産まれる。
「あった! これっ、これだわっ! やっと見つけた」
私は男の胸籠に収まっていた二つの袋を引き出した。
途中ぶちり、と何かが千切れる音がしたが、そんなのは些細な事。
酸素と二酸化炭素という瓦斯を交替させるピンクの欠片。
ワタシはそれを見つめながら、うっとりする。
「いま、息が出来るようにしますね」
双子の臓器にメスの刃を宛がう。始めは、左から。
赤色の銀が風船肉に沈む。しかし、不思議な事に破裂はしない。
左袋を貫通させると、今度は反対。
右の部品は恋する乙女の様に刃物を受け入れ、よく出来た妻の如く何も言わない。
「ふぅ、良かった。間に合った」
二つの瓦斯交換袋を貫いた自分は安心の瓦斯を吐いた。しかし、何を以ってこの行為は間に合うのか明確な基準は分からない。
多分、一瞬か永遠かの違い。
肺に穿たれた入り口は二つ。自分の眼も二つ。
思い、ついた。
ああ、そうだ。こうしたら楽しい。
私はこのピンク部品に開いた穴で世界を覗いた。
その光景は自分の視界よりも遥かに輝いている。
まるで、散りばめられた宝石の河。
暫く、見とれた。こんなにも美しいものが見えるなんて。
「はあ、すごく綺麗でした。ありがとうございました」
ワタシは手持ちの肺を散々褒めた後、小屋の壁に向かって投げ付けた。
それは空中でぶるぶると変形しながら、啼く。
ぶちょっ、むり、ずう゛ぅっ、べっ。
木壁に挨拶すると、這いずりながら落ちた。もう、これで遊ぶのは詰まらない。
私は次に頭を撃たれた農奴に近づく。
固形の茶色香る肉にはまだ、少女が跨っている。
「ごめんなさい、ちょっと退いてね」
ワタシは幼子の顔を足裏で蹴った。
そうすると、この子は質量無き服の様に宙を舞う。
それで、脚間で咥えていた農奴の一部を名残惜しそうに離し、床に転がった。
こと、らりりっ。
私はその様子を気にも留めず、男の眉間を見た。立派な赤単眼が開いている。
「まぁっ。あなた、そんな格好じゃ恥ずかしいわね。わたしが埋めてあげる」
持っていたメスで農奴の上唇を切り取る。弾力が有って、輝く粘り気。
もし、赤金剛石の蛞蝓がいたとしたら、こんな風だろう。
ワタシはその軟体動物を男の眉間口に押し込んだ。
「よし! これで埋まったわね。」
確認の呪詛を吐き、次の救済へ……
「あらっ? どうしてかしら」
という訳にも行かなかった。何故なら、また欠けた部分を見つけたから。
「上唇が欠けてる?」
そう、どうしてだか分からないが、口の上肉が無くなっていた。
慌てて私は補填行動を行う。
「だったら小指を切り取って……あれ?」
今度は小指が無い。頑張って足さないと。
「じゃあ鼻の左側を……あらら」
また体の一部が欠けている。とにかく、欠損を埋め合わせないと。
鼻が欠けています。
じゃあ、ワタシは胸の一部を切り取って足しましょう。
胸が削げています。
では、私は腰の部品を外して埋めます。
腰が貧しくて心細いです。
あら、ワタシが肩を削って補充するわ。
肩が悲哀に凹んでいます。
そう、だったら腿の筋繊維をあげる。
腿が
そうなの、なら……
農奴の欠けた部分を補修する作業は困難を極めた。
夕食を作る程に困難。
しかし、私の地道な努力と優しさによって、それは程好い時間で実現した。
「ふぅ……やっと終わった」
目の前には欠損無き、完全なる体が生まれていた。
もう、人の形をしていないが、そんな事はどうでもいい。
この人は立派な格好なのだから。
火照った指が眼窩から伸びていて、爪の部分には陰嚢の皮。
四肢は無く、胸に刺さっている。肉で構成された健やかな雑草。
腹には取り外した口の下部が埋め込まれて、眼球は接合部を朗らかに隠している。
その他の部位も、本来とは違う位置に在って飽きさせない。
それは、まさに赤と肌のプリズムだった。
「素敵、人って頑張ればここまで立派になれるのね」
そう、これはまさに生きていては成せない美しい標本。
魅力的な死が生きている。
ずっと見つめていたい。
一瞬、ワタシはそんな思考に流されたが、すぐに心を戻す。
「いけない! あともう一人助けないと」
私は泣く泣く芸術から離れて、細身の男の方へ向かう。
繊細な彼の左肩には銀色の指揮棒。
着物の股は琥珀色の液体で染められており、表情は上下で違う。
頬から昇るは安息の心、鼻から降りるは恐慌の皺。
「まぁ、こわい。でも」
ワタシは人も妖怪も見た目で判断する、高尚な生き物ではない。
おでこに開いた穴をそっと、小動物を労わるみたいに撫でる。
「いいの、知ってる。あなた、とっても素直で綺麗な心を持ってるわ」
それは少女を薬漬けにする純粋さ。
それは幼子を自分の欲のままに貪る美しさ。
ここのところ荒んでいた私の心も、あの無邪気なお遊戯のお蔭で晴やかになった。
「でも、この衣のせいでそれが表に見えないのが問題ね」
私は繊細な彼の衣を剥ぐ。すると、その下にはまた肌色の着物が見えた。
「あら、意外と厚着ね。これだと、本当の貴方が見えないわ」
乾いた赤を着飾るメスを男の腕部に滑らせた。
「こんなものを纏うよりも、素の貴方のほうがよっぽど綺麗よ」
赤銀に燃える刃を彼の奥へと沈ませ、解く。
そうして、衣の接合部に沿ってするりと手を躍らせる。ちなみに、大した抵抗は無い。
上質の粘土を大き目のへらで切り分けるのと同じ。
「ほら、綺麗になった」
腕の部分の肌衣を剥がしたワタシは男に話し掛けるが、音としての答えは無い。
しかし、おでこに穿たれた赤眼で喜んでいる事が分かった。
「もっと綺麗になりたい? 良いわよ」
私は彼の揺らめきを察すると、別の着物を剥がし始める。
華奢で純粋な男はこちらへ頼む。
胸を綺麗にしたいです。
「分かったわ」
腰を綺麗にしたいです。
「そうね、きっと腰も素敵だわ」
背中を綺麗にしたいです。
「あら、大変。じゃあ横から順に外しましょうね」
腿を綺麗にしたいです。
「ここは随分と厚着ね。頑張らないと」
頭を綺麗にしたいです。
「ええ、そうしましょう」
男はワタシに数々の労働を提供した。しかし、苦にはならなかった。
何故なら、今自分がしている仕事は心豊かな仕事だったから。
やがて、細身の彼の衣は無くなった。
今あるのは白い野花の様に咲く体。
人間も極限まで無駄を削ぎ落とすと、植物に似ている。
私は今まで男の肩に刺していた指揮棒を抜くと、一息ついた。
「うん、綺麗になったわね」
頭の中は取り除けなかったので完璧とは言えないが、全体を眺めれば殆ど白く、汚れ無き体。
反対に自分の傍には肌色と肉色と茶色、様々な色彩の古着物が転がっていた。
改めてその繊細な体を見て、感想を述べる。
「あなたは真面目、そして……」
ワタシは彼の白くて細い首に触れる。まるで処女じみた若木。
「きれい」
こきゃり。
私はその純白の茎を手折る。中には、赤い糸束が群れていた。
はい、これで完璧。
満足感に浸った後、辺りに視界を向けると不思議にも肉の部品が幾つも転がっていた。
一体、誰が散らかしたのかしら?
でも、とりあえず行動は決まっている。
「お掃除をしないと」
そう言い、ワタシは散らばった赤い塵を片付る為に動……
ぬちゃ、ぼちょっ。
滑稽な声色に顔を向けると、床に深紅の腸。
「あら、いけない」
私はしゃがんで自分の傷から漏れた腸をするすると引き寄せながら呟いた。
お腹の口から赤い綿が漏れている。
すぐ直さないと油が固まった食器の如く大変。
治癒魔法を使えば一瞬にしてこの綻びは塞がる。しかし、それでは味も品も無い。
私とワタシは小屋の中をうろうろと虫の様に探す。
棚と艶やかな道具の巣。ひとつやふたつ、あるだろうに見つからない。
「一体どこにあるのかしら?」
私は腹からだらしなく紅腸を垂らしながら本や医療器具に問う。しかし、答えは無い。
あれが無いとちょっと困る。
やっぱり、下品だけど魔法を使おうか……
「あった!」
諦めかけたワタシの先に針付き透明円柱。今まで赤点々に埋まって気付かなかった。
「ふふ、良かった。これでやっとお裁縫が出来る」
私は赤化粧の注射器を手に取り、中身を見つめた。
限り無く透明に近いのに、何かに期待させる水が入っている。
「さて、始めましょう」
ワタシは水晶の薬物ポンプを傍の棚に置くと、着物を脱いで赤子の様になった。
木組みに和紙を貼り付けただけみたいな裸。美しさと上品さには程遠い。
少し肌寒いけれど、仕方無い。
ほんの少しで終わる。
私は拘束服じみた衣を近くの棚に掛ける。
そして、小屋外に置いていた自分の風呂敷に手を伸ばした。
「あぁ、持ってきて良かった」
純白糸とくすんだ機嫌の針。
ワタシは風呂敷包みを小屋に引き込むと、戸を閉めた。
「お裁縫は女性のたしなみ」
適当な壁に寄り掛かると、腹を見つめる。
質の悪い皮とそこから零れ落ちる赤い汚物に等しき物。
「全く、ひどい。これじゃ恥ずかしいわ」
早く、裁縫をしないと。
しかし、その行為は手に収まっている糸と針だけでは遂行できない。
裁縫という行為はとても心細いので、何か励ましが無いと指が動かない。
だから……
「音楽を聴かないと」
私は注射器を手に取り、中に気泡が入っていないかを確かめる。
うん、大丈夫。これなら打っても平気。
ワタシはこの透明な旅行機の尻を親指でぎゅうと押す。
すると、針の先に流動の宝石。
健やかで汚れ無き、微かに香る愛しさ。
「うーん、ナチュラルね。わたしはケミカルが好きだけど」
そんな事を言いながら刺した。場所は何処だっていい。自分の体なら。
そして、改めて注射器の尻尾を押す。
「一体、どんな音楽かしら」
一瞬にして、私に弱者も強者も平等にする魔法が、流れ込んだ。
心臓を介し、脳を巡り、視界を作り変え、耳の働きを湾曲させる。
かたんっ。
クスリを送るポンプが、手から零れ落ちた。
演奏が、はじまる。
「あぁ……」
音楽は始めから素晴らしいものだった。
「良い曲」
うっとりする程、きれい。
まず自分の脊髄は百足に化け、出口を探して背骨をかさかさと這い回っている。
その窮屈さは腐食した弦楽器の豊かな囁き。
次に血が無数の赤蟻に変わり、自分の中を歩いている。
『仕事は何処だ、しごとはどこだ、シゴトハドコダ』
しかし、それは見つからない。無量大数の失業者。
「ふふ、たのしい」
これでやっと裁縫が出来る。
ワタシは腸を腹口に詰め込み、糸と針を動かす。
ご機嫌で、鼻歌交じり。
「ふっ、ふふふ、ふっ、ふ」
腸を詰め込んだ傷口もそれに合わせて愉快に踊る。
私もそれに負けじと糸と針を動かして縫合。
銀色の尖りが肌を潜ると、白い繊維もそれに倣う。
細い鉄が裂け目を愛撫すると、傷口が少しずつ瞼を閉じる
こうしていると生き物も、ぬいぐるみも別に変わらない。
だって、どちらも糸と針があれば直せるもの。
ワタシが温かい傷口をそぅっと撫でると、裂け目は安らかに塞がっていく。
優しい心臓はその様子を見守りながら歌う。
『我々は善という概念と相対的に悪という概念を持っている。しかし、この悪という概念の明確な定義は善との対比でしか表わせないのである。よって、善のという概念の根本に悪を生み出す要素が眠っており、さらに……』
視界が赤い羊水の様に揺らぎ、聴覚は餓死の豊満。
何て、素敵な交響曲だろう。
しかも、これが自分だけのものなんて……
私はうっとりしながら傷を縫合する。
その姿は気品で満ちていた。
まぁ、自分でいうのも可笑しいけれど。
でも、見えたのだから、仕方が無い。
「うん、お仕舞い」
ワタシはお腹を完全に塞いだ後、傷から伸びている糸を手で千切った。
糸切り鋏を忘れていたから。
「次は忘れない様にしないと」
私は糸と針を風呂敷に仕舞うと、注射器を手に取り見つめる。
それにしても、良い音楽だった。
また、聞きたい。
聞いていてとても満足
「満足?」
疑問が湧き出す。
確かにクスリを打っている時は幸せだったが、満足だっただろうか?
一瞬考える。そして答え。
「違うっ、まだ満足していない!」
透明な薬物ポンプを床に叩き付けると、それは綺麗に砕け、氷の血痕となって死んだ。
「足りない、まだ、足りていないっ!」
そうだ、まだ満ちていない。
息苦しい。
ワタシは、餓えている。
始めから、空気なんて無かったみたいだ。
呼吸が出来ない。
正確には出来ているが、妙に薄っぺらく感じる。
「何処にあるの? どうしたらいいのっ? 何が必要?」
酸素が言葉だけの存在となって、肺を満足させてくれない。
嘆きながら近くにある道具やら棚やら壁やらに交流する。
無垢な本を殴る。
これは中紙が折れて無様。
だが、満たされない。
隠居していた壁を蹴る。
これは穴あきで白痴。
しかし、乾いたまま。
医療器具の密集に乱暴。
ひび割れに嬲られている。
でも、欠けて……
「足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない足りない」
口の動かし過ぎで舌が擦れ、良い具合の味。
胸を掻き毟り、心臓を取り出そうとするが、出てこない。
血が滲んだだけ。
本も棚も医療器具達も滅茶苦茶。
しかし、私は満たされない。
空気が見当たらず、呼吸が出来ない。喉が潤わない。
どうすれば足りる? この体から肉と骨と臓器を取り外して脳と神経をクスリの海に沈めれば満足? 下半身の生物保存法則に従ってひたすら子を孕む工場となれば大丈夫? はたまた胃袋と食道が裂けるまで食物に舌を這わせれば良いの? そうでなければ全ての存在を喰らって醜く肥えた体で世界を蓋えば平気? それともこの身から全て血を流し尽くしてただの肉塊になれば幸せ? それかありとあらゆる存在に痰を吐いて辱めて自分がその上に鎮座すれば安定? 体のありとあらゆる穴から無駄を抜き落とせば豊かなの? この世の全てを知って他者の盲目を哂えば満ちるの? そうでなければ自分の姿と心を失って畸形になれば素敵? それとも愛する者全てを一片も残らない位に犯され殺されて愛別離苦すれば満足する? 見るだけで臓物が腐る嫌いなひとに会って体の全て肉も骨も血も魂ですらも侮辱されて遊ばれて怨憎会苦すれば良いの? 不足しているものがこちらから逃げてしまって追いかけても捕まらず飢え死にして求不得苦すれば治まる? 物質を埋め合わせ事象を感じ取り陰気を思い意識を黴の如く繁栄させて全てを識別して五陰盛苦すれば……あぁ、やっぱり足りない!
もはや、そんな下らないものでは満たされない。
だから、息すら、できない。
どうする? どうしたら足りる?
自分の眼が、辺りを何か無いかと見回す。
すると、一丁の管楽器が転がっていた。
そうだわ! これとあれがあれば息が出来る。
ワタシは九四式の中身を堕胎させる。
そして、風呂敷包みに飛び付き、管楽器の心――弾倉の予備を取り出した。
私はそれをくろがねの拳銃に食べさせる。
「よし、これで」
満たされる。
いや、満たされないし、空気も戻らないかもしれない。
だが、そんな事はどうでもいい。
楽しいから。
ワタシは九四式自動拳銃を捌いた男達に向けた。
やっと、息が出来る。
ぱぁん。
引金を繰ると、肉塊が飛び散り、良い芳香が咲く。
そして薬莢がことろり、と下に転がって挨拶。
あぁ、空気が美味しい。
でも、私とワタシはそれだけでは我慢出来なくて、何度も引いて、演奏した。
ぱん。
ぱあん。
ぱぁん。
ぱんっ。
ぱあっ。
かちっ、がちち。かち。
弾倉から薬が無くなって、引金の演奏だけが独り歩き。
自分の周りは不思議と8mm南部弾の副産物でぎらぎらしていた。
「ふふ、ふふふっ」
視界を瞼で隠蔽し、先程の行動を反芻。
弾薬が恋をして自殺する匂い、ひしゃげた鉄が肉と骨を抉る音、遊底の優雅な舞い。
どれも素敵だ。
まだ、予備の弾倉は沢山ある。
じっくり楽しもう。
楽器を奏でると部品の生き物が無様に千切れ飛ぶ。
そして、それは全く別の造形へと変化する。
少なくとも人ではない何かに。
自分が自分の時を喰らい、その自分が自分の楽しみを生み出す。
螺旋状に、ぐるぐる。
途切れるのだろうか?
「あぁ……」
こうしていると、自分が自分である事を証明していて輝かしい。
そう、これが自分という存在。
全てのひとは、みんな良いひとなのです。
だから、私はどんな悪人であっても恨めない。
だから、ワタシはどんな罪人であっても憎めない。
愛している。とてもとてもとても。
でも、どの悪人も罪人も生きているのが苦しそう。
自分の意思で動けずに、衝動に手足を引かれている。
あぁ、可哀想。とてもとてもとても可哀想。
だから、私とワタシは救ってあげるのです。
肉を濯ぎ落とし、臓器を逃がし、骨を取り戻して……
美しい命を否定してやる事によって。
がちっ、かちかちかちかちっ。
どうやら、弾切れの様。
「あら、もう終わり?」
肉片も穴だらけだし、換えの弾も全て撃ってしまった。
さて、これからどうしようかしら……
私は今、読書をしている。その形態は立ち読みで、裸。
本を読むのに着物は必要ありません。
この小屋の主は良い教養をお持ちだ。書物の揃えからして至極上品で豊富。
ワタシは現在手術書に視線を転がしている。場所は色白い付箋が住んでいる頁。
女性の不妊手術についての解説。
このしおれた本の持ち主は余程この術式に熱心だったのだろう。幾つも擦れた墨で書き足しが補強されている。
卵管結紮術――女性に全身麻酔をかけて腹を開き、卵管を結紮する。
「うーん、凄いわね。とてもわたしには真似できないわ」
私は一通りこの書物に目を触れると、破った。
この本がそうしてほしいと言ったから。
「他には何があるのかしら」
憐れな紙片となった手術書を天井に散らす。まるで、黄変した雪。
その気象現象が降り注ぐ中、ワタシは視線を他の本のへと至らせる。
毒草大全、催眠術の基本概念について、有毒物質抽出法、危険動物の恐怖とその生息地、対妖・対人結界集、等と色々転がっている。しかし、一番指を引かれたのは……
「『生ける死体の製造法』ですって? 面白そうね、読んでみましょう」
私は膨らむ心を携えながら不思議な手触りのする装丁に指を滑らせて、開く。
そんなに深くは読まない。全頁に目を通すが、所詮流し読み。
「えーっと、なになに。まず道具は……成る程ね。あれ、でもこれって魔術じゃないわね? 赤腹井守? テトロドトキシン? 分量調節によって死んだ様に見せかける? ええと、じゃあこれってつまり」
ワタシは本をぱたぁ、と閉めた。あまりにも酷かったから。
読んだ言葉はこんな内容を形作っていた。
まず、毒薬を用意します。新鮮な井守から抽出すると良いでしょう。
次に、対象者の傷口に毒薬を浸透させて仮死状態にしましょう。ちゃんと分量を調節しないと死に至るので注意。
第三に、対象者に解毒の施術をしましょう。この時、蘇生に成功すると対象者の前頭葉は大きな損傷を受けているので、自発的な意識がありません。よって、催眠術を使って自分の言いなりにしましょう。
その後、対象者の親や知人には死んだと嘘の情報を流しましょう。この嘘は仮死状態の対象者を見せながら医者が吐くと大いに説得力があります。よって、三番目の解毒施術と順番が入れ替わっても構いません。蘇生に差し支えが無いのであれば。
そして、ここが重要です。対象者をその親や知人の前で葬儀しましょう。もちろん対象者は生きていますが、ここでは化粧や薬品、仕込んだ催眠術等を使って上手い具合に死体に見せかけましょう。
最後、夜中に対象者を埋葬した墓を掘り返しましょう。
はい、これであなたの生ける死体の出来上がりです!
「うぅ、表題に偽りありね」
何てずれた内容。これでは『生ける死体の製造法』ではなく『死んだと誤解された奴隷の作り方』だ。
もう、ひどい。何という高貴な紙屑。自分には到底理解できない身分の言遊び。
私はこの本を躊躇無く裂こうとしたが、少女の姿が目に入って止まる。
「……あぁ、成る程」
昼過ぎに村で話した老人との会話が蘇る。
「そういう事だったのね」
どうやらあの桶屋は死にかけだが、記憶だけはしっかりしている様だ。
『あの子が死んだ時は信じられっかったよ。だって寝てるようでさっ、傷も無くって、顔色ぅもそんなに悪うなかったが……』
これはテトロドトキシンによる仮死状態。
『お医者さま、ああ、これぇあ村の奥にいるお医者様なんだが、その医者が死んだって言いたんだ。間違ぃいない……』
この事柄は対象者の親や知人に吐く嘘。しかも、医師が言っているので説得力大。
『葬式に立ちぃ会ったのさ。んでもって逞しい若い二人があの子入ってる桶を埋めてぇなぁ……』
そう、これは対象者の身内や知り合いに死んだと思わせる芝居。
『数日後なんだが、掘り起こされぇたんだよ! 墓が! あの子の入っている墓ぁが! いつ頃掘り起こしたのかは知ぃらんがね』
最後の仕上げ。奴隷掘り起こし。
これらの事象とさっきの本から組み上がる作品は決まっている。
つまり、この村の創作意欲ある男三人が、一人の幼女を生ける死体にしたのだ。
「ええと、それじゃあおじいさんの話を辿ると……」
ワタシは眼球を黒瞼で蓋い、人間関係を改めて整理する。
視界を明るくすると、そこには私が真っ白にした細身の男。
「あなたは、たぶん『お医者様』ね」
次に視線を動かすと、体から赤い宝石を撒き散らしている人形と生き物の形をしていない肉塊。
「あなた達は『逞しい若い二人』ね。それで……」
私はこの小屋の余物に目を崩す。まだ、床に転がったままだ。
「あなたが『あの子』だったのね」
声を受けた少女は息遣いをするだけで、何も答えなかった。
掃除をするのは良い事です。環境を最適化し、心も綺麗になる。
今、ワタシと私は肉塵と薬莢を片付けていた。だが、片付けると言っても一箇所に集めるぐらいしかしない。
「わたし、お掃除は好きよ。でも、捨て方が分からないの」
清掃行為の終着点は『お医者様』の穢れ無き身体。首が折れて、中より赤蔦が見える。
掻き集めると滑りある音楽が響いて心地良い。こんなに楽しい掃除だったらいつでもやりたいものだ。
だけど、神様も仏様も楽しい時間を短めに設定している様で、あっという間に終わってしまった。
「あぁ、終わっちゃった」
ワタシはおやつを一瞬の勢いで食べつくした幼子の様に後悔。
「まぁ、でも」
私の前には美しい光景が広がっていた。本来、それは汚い塵の集合。
しかし、自分の視界には全く別のものが映っていた。
それは……
「綺麗ね」
蝶だ。鮮紅の蝶。今にも飛び立ちそう。
しかし、これは普通の蝶でより遥かに大きいし、その体も独特の美しさがあった。
体を支える節は純白で骨の様で、触覚と足は人の脚や腕に似た耽美な構成。
複眼は真っ赤で人体の臓物を思わせ、翅は……はねは
「素敵な模様。見たことない」
桜色で、迷路の模様。まるで、人の腸だ。
この美しい肉虫の前では、傍らに光り輝く薬莢はただの石ころ。
「こんなに綺麗だなんて、本当に現実なのかしら?」
暫く、見とれていた。しかし、魅惑を引き裂く生理現象が襲う。
くちゅんっ。
体が縮んで、高密度の空気が鼻よりいずる。
「いけない、着替え着替え」
ワタシはくしゃみに命令されて風呂敷から新しい拘束服を取り出し、酷い裸を隠す。
着衣の動作を完了すると、改めて肉色の蝶に心が落ちる。
「きれい、とても綺麗。でもあなた、ずっとこんな所に居ては駄目よ」
そうです。そうなのです。
どんなに美しい翅を持つものでも、いつか、必ず飛び立たたねばいけない。
たとえ、それが臓物の塊だったとしても。
「おまじないをするから、早く帰りなさい」
私は『生ける死体の製造法』を力の限り小さな姿に引き裂き、美しきものに降らす。
表紙は無表情のままだったが、中の白黒頁は乾き掛けの赤水を吸って火照る。
その様子を自分の濁った眼でじっくりと見届けると、風呂敷から小さな箱を出す。
掌に収まる小さい長四角。横から押すと開く。
「わたしが照らしてあげるから、飛び立ちなさい」
ワタシは箱から赤頭の小枝を一本取り出した。そして、頭の反対側――薬品の無い純粋な木を咥える。
唇と歯を硬直させてしっかりと固定。
長四角の準備良し。左手に持っている。
腕の角度、顔の角度、共に集中良し。
私は小箱の側面で、咥えた小枝の赤頭を削ぐ。
しゃっ。
すると、小枝の先端は興奮して、光輝く衣を纏う。
ワタシはその熱い衣が口を妬く前に唇と歯を弾ませる。
ぺっ。
その運動で今まで咥えていた赤頭の枝――燃え上がるマッチが落ちた。
終着地点は美しい肉虫の上。
血の滲みた頁を飲み込み、どんどん大きくなる。
臓物の蝶を真っ赤に照らし、油の焦げた臭いをばら撒く。
じっとりと、肺に縋り付いて来る。
私は虫が赤く飛び立つ表情を見て、心転がせる。
世の中には様々な法の光がある。
どれも素敵で、みんな持っている。
愛、恋、信頼、情熱、知識、忠誠、その他色々。
様々な姿を持っている。
それで、ワタシと私の法の光は
「こんばんは、わたしの法の光」
死体を焼却する火。
邪に燃えて、何処までも黒い赤。
今は、マッチを媒介として臓物の蝶を焦がしている。
「ふふふっ、ふふふふふ、ふ、ふふふ……」
思わず笑いが漏れて、絶えずに続く。
見ていると、とても微笑ましい。
だって、苦しんでるひとが救われるのだから。
そう思った途端、笑みが口端に皺を刻んだ。
いや、本当にそう?
笑い声が、人から醜い生物のそれへと変わっていく。
まるで、抵抗する小鳥を錆びた小刀で頭から削り落とすみたいな音。
喉が、きち、りりり、きりりぃ、と叫ぶ。
違う、嘘だ。ワタシ達はそうじゃない。
唇から洩れるそれはもはや、意味を持つ言葉ではなかった。
「、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、」
肉片が焦げる度に、脳漿が甘く変質する。
「、、゛、、゛、、、゛゛゛゛、、、、、゛、、、゛、、、゛、、、、、゛゛、、、、」
慈善を行っているならば、こんなに気持ち良くはない。
「゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛゛」
自分の欲の為。薄汚い飢えを誤魔化す。
「、゛、、、゛゛、、゛、、゛゛、、、、゛、、゛゛、゛゛、、゛゛゛゛゛゛、、、、」
でも、目の前の蝶はきらきらと輝いています。
これは良い事? ひとの為?
「、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛、゛……」
違う、否、違う、否、違う、否、違う。
いいえ、そうじゃないの。
ただ、壊してやりたいだけ。
私とワタシは自分の歪な法の光でありとあらゆる者を潰し、汚したいだけ。
救いなんて、建前。
ただ、可哀想なひとたちを愛したいだけなの。
でも、普通の方法でやったら愛せないから……
だから、私とワタシは殺め、焼く。
愛しい悪人と罪人を。
それはとても誠実な行為で、意味ある汚れに満ちている。
暫く続いた死にかけの獣みたいな笑いが途切れると、肉蝶はその姿を黒く染め、もう飛び立っていた。
後には、黄赤に暴れる鱗粉しかない。
もうじき、この家屋全てを黒灰に変えるだろう。
「さて、わたしもそろそろ」
小屋を出よう、と出口を向いた時だった。
床に転がる少女が見える。その腕の注射痕以外は死体みたい。
はて、あれは一体何だろう?
私は床の女の子へ屈む。そして、髪を掴んで顔をこちらへ向け、問い掛ける。
「あなた、どうしたの? ここにずっと居たら、黒焦げ料理になってしまうわよ」
少女は何も答えなかった。
震えすらも無い細脚から二つの影が伸びている。
一つは黄色いランプの誠実な光の残像。
もう一つは自分が放った淫らな火の残像。
ワタシは床に転がる銀の指揮棒――刃物を彼女の喉に翳し、問い掛けた。
非常に難しい問題。
選択肢は無限に在り、どれも複雑。
「あなた、どうしたいの? 場合によっては救ってあげる」
少女は何も答えなかった。何も含んでいない瞳。
ふと、彼女の姿を見る。
白く平らな下腹部には縫合痕。
もう、子供を孕む事は出来ない。
無駄無き腿からは白んだ液の乾き。
女性のそれは壊れ、もう恋をする事も出来ない。
最後にまた硝子じみた眼。
これは、意志が欠落していた。
もう、生きている意味も無い。
この子が元の村に戻っても、村人達は彼女を厄介な死体としか思わないだろう。
だって、死んだと思われ、意思も無くぼろぼろの身体だから。
生きる、意味が、無いから。
「そう、わかったわ」
私はそう言い放つと、銀の刃を優しく動かした。
朝の到来を知ると、わたしは目覚める。
起きて、今まで眠っていた布団を畳む。
この行動を終えると、次は着替え。質素な寝巻きから更に質素な着物に着替える。特に目立った美しさは無いがお気に入り。
「……さて」
みんなに朝の挨拶をしよう。
わたしは部屋から出て、愛すべき者達に会う。
『おはようございます』
この行為は素晴らしい。どんな目的があっても互いに声を掛けるという行為は良いものだ。
仲間達もその考えに賛同していて、嬉しそう。
「うん」
何となく声を放ち、最後の仲間に挨拶する為、部屋前に立つ。
障子を通して部屋の中に呼び掛ける。でも、返事は無い。
「入りますよ」
わたしは大きく警告してから扉を開けた。そして、挨拶する。
「おはようございます」
しかし、相手はそれに答えてはくれなかった。
でも、いつもの事だから気にしない。
「お腹が空いたでしょうから、朝ご飯を食べましょう」
その声を聞いた相手は首を前に折り、わたしに寄り添う。
この子はちゃんと躾がなされている。
言われた事には何でも従うし、食事も排便もきちんと出来る。
きっと、あの『お医者様』の教育が良かったからだろう。
「さぁ、台所で一緒にお料理を作りましょう。きっと美味しいですよ」
相手――年は七に見える女の子は頭を縦に振った。
そして、わたしと少女は部屋を出て目的地へ向かう。
ふと、その途中で自分はぼんやりと思考する。
結局、持って帰ってしまった。
もう、これで十日目。『あの日』から随分と経つ。
あの時見た、蝶のせい……
「そう、わかったわ」
私はそう言い放つと、銀の刃を優しく動かした。
そして、輝くそれを風呂敷に仕舞う。
無回答のひとに勝手な救いを与えるのは失礼だ。
だから、この子はここに置いたままにしておこう。
きっと、全てに平等な炎がこれを適切に処分してくれるだろう。
ワタシは少女から視線を離すと、小屋を出た。
「あぁっと、いけない」
外に出てすぐ振り返ると、もう小屋は赤い白粉を塗し初めていた。
「閉めなきゃ」
ぴしん。
私は窓無き小屋の戸を締めると、そこから離れる。
背中から耳を伝って木の拍手が聞えた。高温に曝された植物の歓喜。
ありがとう! ありがとう! これでやっと死ねます。
「どういたしまして」
ワタシが無欲に返事をすると、今度は炎に会話を求められた。
どうです? わたくしと踊りませんか。楽しいですよ!
「御免なさい、今は忙しいの。わたしが桶に入る時間になったら踊りましょう」
私は小屋からどんどん離れる。それが正しく魅力的な行為だと思ったから。
しかし、その行動はきりきりと断たれた。
視界に突然の訪問者。
あら、これは。
こんな夜に、蝶が飛んでいた。
だがそれは先程飛び立った鮮やかな肉色の蝶ではなく、地味な灰色の蝶。
ひらひらと枝と闇を潜り抜け、自分と擦れ違う。どうやら行き先はあの小屋みたい。
ワタシは思わずその影を追って、振り返る。
「あら、どうしたの? そっちは……」
火があるから、危ないわ。
と、忠告しようとしたが手遅れだった。
小屋の大部分を占めている炎が、灰色の蝶を飲み込んだから。
そして、音も立てずに灰色の空飛ぶ葉は消えた。
私はその迷いの無い飛翔を見て、悟る。
あぁ、そうなの。
あなたはそれを望んでいたのね。
きっと、あなたにはさぞかしあの光が魅力的だったのでしょう。
だから、焼かれて死んだ。
そんな感想を述べて、再び小屋から離れようとした。
だが、その行動はまたもや反転する破目になった。
黄金に燃え立つ小屋の戸が、動いている。
そして、それは少しの隙間を組成し、止まった。
「あれは、何?」
ワタシは炎上家屋へ少し歩んで、詳細を眺める。
小屋の入口から、黒い何かが這い出て来た。
その体は深紅の輝く衣を纏っている。
私はさらに近づいて、這い出たそれを見つめた。
頭があって、手があって、足があって、そして……
何も無い眼がある。
あぁ、成る程。あなたなのね。
ワタシはやっと気付いた。それの正体に。
これは、小屋の中に置いてきた少女だ。
だが、その面影は今はもう無い。
肌も髪も執拗な火が伝って、全くの、別物になっていたから。
私はそれに素直な感想で喉を震わせ、呟く。
「何て、美しいのかしら」
しかし、一つだけ疑問があった。
何故、彼女はこんな状態でも生きているのだろう?
生きていても意味が無いのに。
つまらないだけなのに。
でも、そんな事は目前の少女だったものに絞殺された。
生きている。
この子は生きている。
肌を失い、五感を焼き、息も切れ切れなのに、まだ真っ直ぐに何処かを見ている。
本当の『生ける死体』が、火葬されながらも、這い進んでいる。
ワタシと私は震えた。そして、哂って笑った。
口端がぴりぴりと甘く裂け、詠う。
嬉しかった。
凄く。とても。
ただ、美しく無意味に生きているそれが。
うれしい。
嬉しい。
どう、この喜びを表現したら良いのだろう。
もう、自分の体だけではその役は担えない。
「そうだ! こうしましょう」
私とワタシは風呂敷から銀の指揮棒を取り出し、ぎりぎりと握る。
そして、私はその銀色を自分の腿に突き立てた。
塩臭い赤泥が噴き出す。
何て、酷い香り。
だが、喜びを表わすにはこれしかない。
ワタシはいけないと思って刃物を引き抜き、腿を治癒魔法で塞ぐ。
でも、私はそれも終わらぬ内に輝く挨拶で自分の腹を切る。
豊かな肉紐が地面に広がって挨拶。
折角縫合したのに、また腸が零れ落ちた。
ワタシはいけないと思い、治癒魔法を囁く。
テェプが逆再生した様に赤い紐が腹に入って元通り。
私は銀の刃物で指を撫でた。
すると、小さな五本の枝がぽろぽろと舞う。
ワタシは楽しいと感じ、治癒魔法で指を始めの位置に戻した。
この手品は、楽しい。
私は手に持った指揮棒で目の掃除をする。
すると、二つの球が出てきたので、握りつぶした。
小動物を潰した様な声が響く。
ワタシはもっと楽しみたくて、治癒魔法を唱えた。
すると、掌で潰れたそれがぱんぱんに膨らんで、頬を這い瞼下にずるりと入り込む。
何て、素晴らしい視界なんでしょう。
私は胸を刃物で突く。
すると、血液を送る道具が罅割れ、亀裂から赤い涙の滴が零れた。
でも、それは実に汚れた赤で、到底見れたものではなかった。
さっき殺めた男の人の方が綺麗。
ワタシは自分の醜さを咎めながら、治癒魔法。
泥じみた赤が蛇となって胸へと帰る。
傷口が塞がって、銀の指揮棒を吐き出す。
さて、次は首、頭、背中、掌、口、それから……
とにかく、私とワタシはうれしくって自分を壊して喜んだ。
命の美しさと尊さに痰を吐いて。
ひたすら、私とワタシは未来へと己を傷付け、過去へと己を直す事を繰り返した。
そこには、確かに現在の下らない自分がいた。
どれ位時間が経ったのかは分からない。
いつの間にか、夜が死に掛けて白い肌を見せている。
もう、黒白の着物は自分の体から出た赤い泥で残念な一色になっていた。
私は何となく、足元を見つめた。
すると、一つの物が地面に転がっている。
その姿に火衣はもう無い。
体の半分は焦げて暗く輝き、もう片方は半熟の柘榴石みたいだった。
「まぁ……あなた、なんて綺麗なの」
ワタシはそれ――全身火傷を負って今にも死にそうな少女を褒めた。
その命は残り少なく、息も浅い。生きる義務から解放されるまであと僅か。
もう少ししたらこの子は世にも『美しい死体』として生きる事が出来るだろう。
この子はどんな、死体になるのかしら?
私はこの女の子が『美しい死体』になった姿を想像する為、瞼を閉じる。
思考の中には可憐な芸術となった彼女。
赤く熟れた四肢から、光る蜜が滴る。
みんなに愛され、蠅までその身を頂く。
黒焦げの臓器が、土に同化していく。
何もしていないのに世界に愛される、幸せ者。
生き物では絶対手に入らない、『美しい死体』。
うん、これ以上無い美しい生き方だわ。
ワタシは瞼を開いて少女を見た。
顔も髪も口もどろどろに溶けていて、区別が付かない。
赤く蕩けた林檎みたいに、甘くて、おいしそう。
もうすぐ、あと、もう少しで死ぬ。
私は微笑みながら彼女の死を待つ。
あと、心臓の鼓動は二十回。
それが終われば死ぬ。
にじゅう。
じゅうきゅう。
じゅうはっち。
じゅーしち。
じゅうろく。
じうご。
じゅーよん。
じゅうさん。
じゅうにぃ。
じゅういちっ。
じゅう。
きゆう。
はち。
なな。
ろくっ。
ご。
よん。
さん。
にぃ……
でも、ワタシは意地が悪かった。
今、『美しい死体』になろうとしている少女に、指を向ける。
そして、治癒魔法を紡いだ。
とても酷い魔法。
何故、私はこんな事をしたのでしょう?
理由は簡単。
何故ならワタシと私が、目の前の美しい少女に嫉妬したから。
このまま彼女が『美しい死体』に成る事が悔しくて、殺したかった。
『美しい死体』として生きる事を、どうしても殺したかった。
足元の少女の鼓動が増えていく。どくりと血を飲み込み、嘔吐する。
いちっ。
さん。
はちっ。
じゅうよん。
にじゅーご。
ろくじゅっろく。
にひゃくさんじゅいち。
せんごひゃくきゅうじゅうご。
いちまんよんせんななじゅうなな。
よんじゅうごまんろっぴゃくはちじゅうさん。
ななひゃくごじゅういちまんさんぜんごじゅうろく。
ななせんななひゃくよんじゅうよんまん……
だめ、もう数え切れない。
ワタシは治癒魔法で殺めた女の子を見つめた。
全身火傷だらけの肌。
でも、私はそんなこと気にせずに、彼女の頭を掴む。
「すてきなお洋服ね、わたしにちょうだい」
そして、ぐちゃぐちゃに熟れた皮を剥いだ。
そんなに抵抗は無く、湿った蜘蛛の巣の様に簡単に取れる。
艶やかな弾力が啼き、少女の体から逃げていく。
指に、確かな重力が掛かる。
それは、引き離されたかつての柔らかい外枠。
かわいい女の子の、肌。
ワタシは両手からはみ出した肉の洋服を眺め、心の海に浸かった。
あぁ、きれい。
綺麗。
こんなに美しい衣は見た事が無い。
左半分は黒曜石の如き輝いて、右半分は柘榴石の様な燃え立ち。
頭の部分には両方とも炭化した灰色の紐飾りがだらりと延びている。
機会があったなら、自分も纏ってみたい。
でも、残念ながらこの服は私とワタシの体には合わない。
小さすぎる。だから、眺める事しか出来ない。しかし、それでも満足だった。
とにかく、美しかったから。
ふと、私は下にいる醜いそれを見て、同意を求めた。
「ねぇ、きれいでしょう?」
醜いもの――ワタシの治癒魔法により体を再構成された少女は頷いた。
「ふふ、あなたもそう思う?」
足元の女の子は白く汚れた和紙みたいな体で同意する。
私は憂いを含みながら見つめた。
『醜い生き物』である彼女を。
そして、思う。
ワタシは何て酷い人なのだろう、と。
あのまま放っておけば、彼女は『美しい死体』として生きる事が出来たのに。
死ぬ事も無く、幸せだったのに。
私とワタシはこの女の子を『醜い生き物』に変え、殺した。
生きていても、何の意味も無い塵に留めてしまった。
少女が、こちらを見ている。
だが、どうしてよいのか分からない。
自分はとても、酷い事をしたのだから。
そんな事を考えていると、一つの光に気付いた。
それは、ちょうど女の子の後ろ。
私はその源に目を向ける。
そこには、金色に輝く一つの灯。
夜はとっくのとうに自殺して、大きな太陽が顔を覗かせていた。
ぎらぎらと、陰気に騒いでいる。
「……もう朝?」
それでワタシは理解する。とても簡単な事。
もう、これで夜のお遊戯はお仕舞いなのね。
「ふふ、ふふふっ」
意味無き笑いが洩れて、私は少女に言う。
指差して、命令する。
「御覧なさい。あれが貴方の法の光ですよ」
彼女は振り向いて眩しい球体を凝視した。だが、何も言わずこちらに振り向く。
目から感情は見えないが、顔には分からないという仕草。
私はその視線を受けて、今まで自分が彼女に名乗っていない事を思い出した。
「あら、御免なさい。わたしは」
そう、私とワタシの名前は……
「ごちそうさま」
わたしは手を合わせて朝食の恩恵に感謝した。それに少し遅れて女の子も食べ終わる。
空の食器を水場に集めて濯ぐ。こういう作業は早ければ早い程良い。時間が経つと色々と固まってしまうから。
ちなみに、彼女も手伝ってくれた。
まあ、『どう、一緒に洗いますか? 楽しいですよ』と誘っただけなのだが。
わたしは食料台の洗浄を済ませると、台所を離れて外へ出た。
また『一緒に朝の空気を吸いませんか? 美味しいですよ』と誘ったので少女も付属。
自分の住居から出ると、良い景色が見えた。
灰色の空、くすんだ空気、老いた木々。
「さぁ、吸いましょう」
肺から既存の空気を追い出し、外界の酸素を一気に取り込む。
「すぅ……」
どんな場所の空気であっても、深呼吸は良いものだ。
どんな空気が注いできても、心は流されて零になる。
「はぁ……」
息を吐き出すと違う自分が生まれ、今日への想いが湧き立ってくる。
やはり、朝の深呼吸は良い。どんな日の朝であっても。
わたしはそう思いながら隣の少女を見た。
すると、驚くべき事にまだ息を吸っている。
その時間、一分程。
「あぁ、ちょっと! もういいわっ! やめて!」
その声を耳にした彼女は空気のやっと吸い込みを止め、酸素を排出する。
ふう、良かった。
安心の息を口端から漏らす。
危うく文字通り過呼吸になる所だったわ。
わたしはそんな風に思いながら少女をじぃと見つめた。
この子は言われた事『しか』出来ない。自分の考えが無いのだ。
あのお医者様は大層な教育をしてくれた。
多分、この子はもう一生治らないだろう。
ずっと、人の命令に従う人形のまま。
「さぁ、戻りましょう」
わたしはそう言って彼女を元の部屋に返そうとする。しかし、その命令は中断された。
「……待って」
空を叩く、ひとつの羽音。
そこに視線を向けると、黒髪とカメラと高下駄。見覚えのある顔。
たしか、このひとは烏天狗の新聞記者にして新聞販売員。
「おはようございます! 『文々。新聞』の射命ま……」
突如、射命丸さんの挨拶が止まった。わたしはそれに謎を懐いて問い掛ける。
「おはようございます。どうしました?」
着地した天狗は高下駄をいつもよりも不規則に鳴らし、返した。
「いいえ、何でもありません。それよりも新聞を」
わたしの疑問を上手い具合に流した射命丸さんはこちらに歩む。
そして、言葉と一緒に薫り高き紙面が手渡された。
「どうぞ、昨夜刷ったばかりです」
わたしは真面目な新聞記者兼販売員の商売を受け取り、お礼の言葉を送る。
「どうも、今日は良い朝になりそうです」
喉から生まれた感謝を耳に飲み込んだ射命丸さんの顔は輝く。しかし、それはこの前見た時よりも明るく、何故か戸惑いも混じっていた。
おかしい、表情が明るい。何かあったのかしら?
わたしがその謎を探ろうと口を滑らせる前に、烏天狗が唇を動かした。
「あの、白蓮様?」
負けじと自分も声を返す。別にどうだって良い事。
「そんな、白蓮様だなんて、聖でいいですよ」
烏天狗は一瞬妙な顔をし、喉を奏でた。
「は、はぁ……そうですか。では、聖さん。ちょっと訊きたい事が」
わたしはその音に操られ、声を引き出す。
「はい、何でしょう?」
射命丸さんは口をむずむずさせながら言った。
黒髪の天狗が何に興味を持ってるかは分かってる。
「聖さんの隣にいるその子は、一体?」
新聞記者兼販売員はわたしの陰にいる少女を見た。
いや、やっと見つめるようになった、と表わすべきか。
とにかく、はっきり見ていた。
わたしは目前の烏天狗に濃い口の三文劇を演じる。
「この子、ですか……」
頬と眼で悲しそうな顔を造り、わざとらしい間で引き伸ばす。
「とても、不幸な事がありまして、だから、わたし、可哀想になってしまって……それで、わたしはこの子を引き取って、一緒に暮らす事にしたのです」
滅茶苦茶な声色、無茶苦茶な言葉。だが、これは感情に訴えるには最適の演技。
射命丸さんは声を受け取ると、苦い声色を咲かせた。
「そう、ですか。それは大変でしたね」
それは控え目に、冷たく、響く。
だが、わたしは知っていた。
烏天狗の悩みと不安が消え去っていくのを。
眼球が、清流の底の如く落ち着き、ゆらゆらと詠っていた。
どうやら、この新聞記者と販売員の複合体は安堵したらしい。
じゃあ、今度はわたしの番。
口を躍らせ、謎を訊く。
「あの、射命丸さん? ちょっと訊きたい事があるのですが……」
烏天狗はほんの少し窺わせた安心を仕舞い込み、声を打つ。
「はい、何でしょうか?」
わたしは十日前から知りたかった事を持ち出す。
それは、あの新聞の『桶屋』の事。
でも、直接に言ったら品が無いので、随分と遠回し。
「もし、あなたがどうしようもない事実に出会ったら、どうします?」
始め、黒髪の天狗は顔全体に疑問符を並べた。しかし、それはほんの一瞬。
どうやら、ちゃんと理解してくれた様だ。
「どうしようもない、事実ですか。そうですね、私は……」
射命丸の眼球が縮んだ。いや、正確には密度が増したと言うべきか。
それは、新聞記者でも新聞販売員でもない視線。
決して、感情を表出させない、観察者の輝き。
「託します。その事実を」
だが、この烏のそれは変わっていて、行き過ぎた非情が優しさへと反転していた。
「託す?」
わたしが文字通り阿呆みたいに聞き返すと、烏は迷い無く意見を光らせた。
「はい。そのどうしようもない事実を解決できる賢さと勘のあるお方に」
素晴らしい。何て良い答え。自分はこんな事思い付かない。
だが、わたしは湾曲した精神でその解答の問題点を指摘した。
「そうですか。でも、もしその事実を託された方が悪人だったらどうするのですか?」
その声に烏天狗は冷やかに微笑んで答える。
「善悪の違いで解決する程度の事実でしたら、始めから誰にも教えませんよ」
悲しくも、滑稽そうに。
「ふふ、それもそうですね」
わたしは同意を掲げてから、お礼の声を送る。それは実に粗末なもの。
「的確な答え、ありがとうございました」
射命丸は観察者の眼を仕舞い込み、いつもの新聞者に戻る。
「いえいえ、これ位の事でしたらいつでも答えますよ」
もう、この烏天狗に用は無い。だから、追い払う事にする。
「射命丸さん、他の方々の新聞は? もうそろそろここを離れた方が良いのでは?」
その指摘は随分と適当。しかし、天狗記者には随分と的確だったらしく、いけないとばかりに言葉を編んだ。
「そうですね。まだ話の種はありますが、それはまた今度の朝にしましょう」
どうやらやっと何処かへ行ってくれる様。
わたしはその離脱を急かす為、別れの声を紡ぐ。
「さようなら。今日は空が荒れているのでお気をつけて」
射命丸も別れの声を紡ぎながら、天を眺めた。
「お気遣いどうも、それでは……」
高下駄の歯が地面から浮く。黒烏の体は自由になり、お別れ。
「さようなら」
烏天狗は地上の束縛を解き、灰色の空へ昇っていく。
その華奢な身体を軋めていた苦悩は、もう存在しなかった。
わたしは命蓮寺を離れるその影を見つめながら、ある小さな囁きを聞いた。
それは、上唇と下唇の合わさって起こる僅かな摩擦。
空が射命丸を呑み込み何事も無かった様に振舞うと、わたしは傍らの女の子に問うた。
「『ありがとうございます』ですって。一体、何の事でしょうね?」
放った声を受けた少女は何も答えなかった。
だが、わたしはそれでも良かった。
べつに、この問いに答えがあるわけではないのだから。
ふと、手元の新聞に目が寄る。わたしはある記事を見て、のんびりと声を奏でた。
「まぁ、今日も幻想郷は何て平和なんでしょう」
その記事は小さな記事で、愉快な『小屋』『全焼』『男性三人の焼死体』という文字達で眩しかった。
わたしは一通り紙束に視線を潜らせると、女の子に言う。
「さて、もう命蓮寺の中に戻りましょう。あなたにはやってもらいたいお仕事があるの」
自分の部屋に七つの子を引き込んだわたしは黒い風呂敷を弄り、取り出す。
ちなみに幼子の方は椅子に小さなお尻を乗せている。
「あなたのお仕事はこれ。このぼろ布で銀のおもちゃを磨いて」
わたしはそう言って少女にSolingen産の指揮棒と年寄りの繊維を渡した。
「刃の部分は切れて危ないから、気を付けて磨いてね」
彼女は複雑で簡素な説明を聞くと頷いて、早速仕事を始める。
鏡の様な刃物を、鏡の様な瞳で凝視していた。
「さて、わたしもお仕事を始めようかしら」
風呂敷に手を伸ばし、内容物の一部を取り出す。
豚毛ブラシ、油、複数の布、棒、8mm南部弾、そして……
九四式自動拳銃。
「あなたはこの前大分遊んだから、洗わないとね」
わたしは椅子に腰掛けると、その仲間達を近くにあった卓にぶちまけた。
鉄の管楽器を細かく臓器に分解して、その一つ一つを布で擦る。
これで、大抵の汚れは流れてしまう。
次に豚毛ブラシを使い、愛らしい隙間に隠れる弾の残像を落とす。
ぱらりぱらりと落ちて、実に面倒。
だが、これをしている時は実に楽しい。日常が悪質な幻覚に思える位。
今度は頼りない棒に油滲みた布を纏わせ、楽器の吹口にお邪魔する。
奥までその杖を伸ばし、左右にくりくりと廻すのは実に愉快。
その後、それぞれの部品を油香漂う布で撫でる。
磨かれて輝く鉄の臓器は、実に愛おしい。
このままずっと観察していたいが、それでは楽器としての意味が無いので、組み立て。
鉄の香炉を完成させると、最後の仕上げ。
8mm南部弾をぼろ布で綺麗にする。
別に意味は無いが、良い音楽を奏でる為の儀式。
「さて、おしまい」
音楽の卵を弾倉に詰め終えたわたしは道具達と楽器を卓に置いたまま辺りを見た。
女の子はまだ銀の刃物を磨いている。
いつも通りの小物と家具。
部屋は平凡と平和で満ち溢れていた。
わたしは何となく部屋の光取りに視線を寄せ、外の景色を眺めた。
そうすると、見つけた。
「あらっ! あなたは……」
『あの日』も、ずっとこちらを見ていたひと。
「どうしたんです? ずっとわたしなんか見て」
その人は答えなかった。ただ、ぼんやりとこちらを見ていた。
わたしは卓から楽器と弾倉を取って、尋ねた。
「どうして、わたしを読んで、見ているのです?」
視線先のそれは何も言わなかった。でも、わたしはそれが楽しくて声を続けた。
どうしても、訊きたい事があったから。
「まあ、そんな事はよしとしましょう。実はあなたに質問があるの」
わたしはくろがねの香炉をそれに翳し、紡いだ。
「ねぇ、今からわたしの訊く事に答えて、正直に」
わたし――私とワタシは唇を奏でた。
『わたしって、優しい? それとも、優しくないかしら?』
答えは聞こえなかった。でも、私とワタシはそれで充分だった。
お礼を、してあげないと。感謝、しないと。
「素敵な答えをありがとう。じゃあ……」
あなたを、救ってあげるわね。
私とワタシは幻想郷の外でこちらを見つめて読んでいるひとに九四式自動拳銃を向けた。
果たして、届くのだろうか?
あんなにも遠い場所へ。
おまけにあのひとの手前にはモニターが邪魔をしている。
それがパソコンのものなのか、携帯電話のものなのか、それとも全く別の電子端末か、石なのか紙なのかさえも分からない。
だが、私とワタシにはそんな距離や時間、次元、法則なんてどうでもいい。
別に弾が届かなくても良いし、どれ位時間が掛かっても良い。
右手で楽器に8mm南部弾を噛ませ、遊底を手前に誘う。
ただ、自分の心がモニター越しの魂を貫き、轢き潰せればそれでいい。
左手で火薬の香炉をしっかりと握り、吹き口をそれに向ける。
「この救いがいつになるのかはわたしにも分からないけれど、許してね」
そうやってわたし――私とワタシはモニター越しのひとに謝る。
そして、九四式自動拳銃の引金を引いて……
ぱ
ぁ
ん
。
タダヨシ
- 作品情報
- 作品集:
- 17
- 投稿日時:
- 2010/06/26 10:41:36
- 更新日時:
- 2012/01/14 23:15:24
- 分類
- ※ハッピーエンドなし(ヌクモリティなし、感動なし)
- これはあるとても優しい尼公のおはなし
- 新聞記者
- 性描写あり、暴力描写あり、その他色々あり
- 93.5KBと長いので本当にお暇な方どうぞ
実に狂った話だった
何気に文がいい味だしてる
最大級の賛辞を送らせていただきます。
ひじりんは……どうしよう……
白蓮はもちろん、文のキャラも地味にいい味を出していました
この話の内容は忘れる気がしません