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『スキャナーダークリー』 作者: sako

スキャナーダークリー

作品集: 18 投稿日時: 2010/07/08 15:51:23 更新日時: 2010/07/09 00:51:23
 乱雑に物が詰め込まれた木箱をかけ声と一緒に持ち上げる。
 ばきり、と何かが壊れる音が持ち上げた拍子に聞こえてくるが無視。どうせ箱の中身はがらくたばかり。我が家には妙な物を集めようとするネクロマンサーと名状しがたい物を拾ってくるファナテックといらない物ばかりもらってくるチェルノブがいる。重力分銅と赤城山ミサイルなんてもらってどうしろと。


 そういうわけでお屋敷はいつもがらくたであふれかえっており、こうして定期的に掃除しなければならない。せめてものの救いはゴミ捨て場がお屋敷の中にあるので捨てに行くのが楽なところだろうか。中庭にある縦穴坑道の中へゴミ箱をひっくり返せばそのままゴミは旧灼熱地獄の燃えさかる火炎の中へ真っ逆さまに堕ちていって、全部、灰も残らず焼き払われてしまう。遠くまで運ばなくても、分別も煤塵の処理もしなくていいのは楽でいい。

 今回もその腹づもり。がちゃがちゃと音を立て木箱を抱えながら廊下を進む。木箱からは折れた木刀や瓶の口、何かよく分らない歯車とバネを組み合わせた金属の塊などが飛び出していて私の視界を妨げている。これは、二回に分けた方がよかったかもしれないと今更後悔。けれど、ここで箱を下ろしてまた別の箱に詰め直すのも億劫なのでそのまま強行する。中身はどうせ、捨てる物ばかり。落として壊れても片付けるのが面倒くさいだけで何も問題はない。
 早く終わらせようと前をよく確認せずに進み、そろそろ階段だったわね、と見慣れた廊下の風景からだいたいの自分の位置を割り出して、注意しようと心に決めたとき、

「お姉ちゃん♪」

 不意に後ろから声をかけられた。同じタイミングで誰かが腰に抱きついてくる。その不意打ちに私はとても驚いてしまった。不意打ちなんて無意識下でも周囲の人の心を読み取る力を持っている私には基本、無縁な言葉だからだ。基本、と言ったのは何事にも例外があるわけで、その例外の最たる物と言えば心の目を閉じた私の妹であるわけで。

「こらっ! こいし! やめなさい!」

 私は腰に抱きついてきたのが誰なのか顔を見なくても心が読めなくても分ってしまった。

「えへへ、お姉ちゃん、遊・ぼ・っ・♪」

 私の腰に手を回したままはしゃぐこいし。輪舞でも踊るように私の身体を地獄廻りに回そうとしている。
 こいしの悪い癖だ。心の目を閉じてしまったせいなのか、ときどき妹は常人には理解しにくいことをしでかすことがある。奇声に癇癪、TPOを欠いた行動。箱の中のがらくたの中でも特に意図が分らないがらくたは妹がどこからか拾ってきた物だ。たとえばこの白黒模様が常に流動する不気味なゴムマスクなどは。

「もう、これが終わったら遊んであげるから。だからおとなしくして」

 こいしの大抵の奇行は実害のないものばかりなので私も屋敷の者も大目には見ているが、さすがに今は怒らざるえない。それでもこいしは私から離れてくれないようで、私はなんとか妹を引きはがそうと身体を大きく振るった。それがいけなかった。

「あ」

 一瞬の浮遊感。けれど、それは空を飛んでいる時に感じるそれではなくて、ツタに絡め取られているような、そんな感覚。そして、そのツタの名前は重力という。
 私はこいしを振り払おうとして、その勢いで足を踏み外してしまったらしい。運悪く、こいしに抱きつかれた場所は階段の真ん前だったのだ。

「きゃぁぁぁぁぁっ!!?」

 悲鳴を伴って転がり落ちていく姉、つまり私。ばこばこと段差や壁に身体のあちこちをぶつけながら私は会談を転げ落ちていく。中身をぶちまけるゴミ箱と一緒に。

「痛い…」

 結局、私の身体が止まったのは階段の一番下の踊り場までたどり着いてからだった。痛む節々を押さえながら、がらくたに埋もれた身体を起こす。

「お姉ちゃん、大丈夫?」

 階段の上からこいしが覗きこんでくる。心配そうな顔。いくら原因とはいえ妹の心配そうな顔を好んで見たい姉はいないと思う。私は自分の無事をアピールするために片手を持ち上げようとして、

「あれ…?」

 それが酷く難しい事に気がついた。
 何とか持ち上げた手は鮮血の紅に汚れている。
 それでも、なお、大丈夫よ、と声をだそうとするけれど、出てきたのは

「げほっ…」

 血の塊だった。
 見ればお腹から折れた木刀の柄が飛び出している。切っ先には紅い血と肉。私の。視界がカーテンでも引いたように黒くなっていく。

「お姉ちゃん!!」

 妹が階段を駆け下りてくる。
 ああ、そんなに急いじゃ転げ落ちてしまうわよ、私みたいに。そんなどこか他人事みたいなことを考えながら私の意識は闇の縁へと落ち込んで行ってしまった。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――













 深い闇色の泥から引き上げられる/遙か高みから自由落下する心地/氷河から溶け出す感じ

 蘇生

 私は
     生き返った


 どうやらそのようだ。







 けれど、頭はまだまだ虚ろでまともにものが考えられないでいる。まるで現実感がない、夢の中にいるようだ。或いは永遠の夢の中? もしかすると蘇生の感覚すらステアウェイトゥヘヴンを登り切った時に憶えたものなのかもしれない。

 生と死、夢と現、色即是空空即是色、あらゆる境界がいびつに交わる刹那、自意識が確立されない。その微睡みのような間ただ中でかすかに自分を呼ぶような声が聞こえる。ともすれば眠りに落ちてしまいそうなほど気だるい身体を何とか動かす。声のする方へ。







「お姉ちゃん…大丈夫…?」

 振り向き、焦点を合わせると涙に瞳を腫らした妹の顔が見えた。
 後ろにはペットのお燐とおくうの姿も。みんな、私のそばにいてくれている。

 その泣き顔、そして喜んでいる顔をみてやっと自分が生きているんだと、実感することが出来た。

「大丈夫よ、こいし」

 ほほえみ、あの時、言えなかった言葉を告げる。妹の心配そうな顔を止めるために。











――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――







 私が階段から転げ落ち、お腹に木刀を突き刺すような大怪我を負ってから数ヶ月。私は迷いの竹林の永遠亭が経営する病院へ運び込まれ、治療をうけそうしてそのまま入院生活を送っていた。
 一時は生死の境を彷徨ったようで、かなり危険な状態だったらしい。
 それがこうして歩けるようになるまで回復したのはひとえに永琳先生の腕のたまものだろう。
 今はお腹の傷が完治するまで病室の一つをあてがわられ、みんなのお見舞いを受けながらリハビリに励んでいる。
 今日もこいしたちが帰った後でこうして私は壁に手をつきながら院内を適当に歩き回っていた。

 ぺたぺたとリノリウムの床をスリッパで踏みならしながら歩く。
 僅かにお腹に引きつるような痛みが走っている。治ったばかりのお腹の新しい筋肉はまだまだなれていない動きに固まっているのだろう。それを慣らすのがリハビリだと永琳先生はおっしゃっていた。この病院には専門のそういう施設があるのだが、私はあまりそこを使わないようにしている。ある理由で。
 だから、今、目指しているのは別の場所。人気の少ない手術室や霊安室のある棟だ。今日は手術はないとさっき検診に来たここで働いている因幡の看護婦さんに聞いたので大丈夫だろう。

 他の患者さんを避けているのは私が妖怪だからではない。ここには里の人間以外にも傷ついた妖怪や妖精たちが訪れている。もっともその数は身体が頑丈な妖怪の方が圧倒的に少ないが、時折、待合室のソファーを陣取って将棋を打っている舟幽霊や鵺の姿を見ることがある。病人怪我人である以上、種族の分別無くここでは患者なのだ。
 では、どうして私が他の患者を避けているのかというと…いや、やはりそれは私が妖怪だからなのだろう。つまり…


―――痛

「っ…!」

 不意に脳裏にそんな声…いや、声にならない感覚のようなものが走る。
 私は頭痛を憶え、眉をしかめつつも胸元にぶら下がっているサードアイ…私たち、さとり妖怪特有の器官を軽く握りしめる。押さえつけられたサードアイは軽く瞼を落とし、その間、ずっと響いていた痛い、痛い、痛いよぉ、という泣き叫ぶ声は無視できるレベルにまで小さくなっていく。

 私がこの病院で他の患者を避けている原因はこれだ。さとり妖怪のマインドリーディング能力。こいしのようにサードアイをつぶさない限りは特に能力を発揮しようとしていない自然体でいても周囲の人の心を読んでしまう力。
 他人が表情の裏に隠してある妬みや嫉み、疑心、怒り、傲慢、そんな感情を聞き取るのがイヤで裏表のない動物たちとずっと暮らしてきた私ではあったが、この所…あの、『間欠泉事変』を境に私は昔のように多少は裏表のある動物ではない普通の人たちと接するようになってきた。ちょっとした心変わり。何百年も裏表のない動物たちと接しすぎたせいでむしろ疑心暗鬼と被害妄想が常な連中と刺々しいつきあいをしてみたいと思ってしまったのかもしれない。なんたる天の邪鬼。それでも、多少は普通の人を真っ正面に相手が出来るようになってきたのだが…今でも、いや、何度心の声を聞いても慣れない人たちもいる。
 たとえばこの病院に毎日やって来ては病室のベッドへ放りこまれる患者などは。
 
 私のように酷い怪我を負った者。酷い死病に冒され余命幾ばくもない人。原因不明の高熱にうなされる病人。これらの人が心中に浮かべているのは大抵の場合、苦悶だ。その啼き、喚き、慟哭する声はたとえ衰弱して半ば気を失いかけていても、顔面を覆うほどの包帯に巻かれていても私には聞こえる。痛い、痛い、痛いよぉと。そんな怨嗟の声じみた言葉、まともな精神で聞き続けられるはずがない。

 そういうわけで私は他の患者…少なくとももはや生命活動を停止して何も考えられなくなっている人以外にはなるべく近づかないようにしている。重病人の声を聞くのは断末魔の悲鳴を耳にするに似てとても耐えきれないからだ。今のように。

 そんなことを考えているとまた、頭が痛くなってきた。先ほどから聞こえていた激痛に泣きわめく声が如実に大きくなったように思えたからだ。
 これはたまらん、と踵を返そうとしたところで声――妙に甲高くけれど女性ではない、語彙の少ない心の声――の持ち主が子供であることを知った。おおかた、転んで膝をすりむいた子供が連れてこられたのだろう。そう思った。しかし…

―――お腹っ! お腹が痛いよぉぉぉぉぉぉぉ!!

「っう…!」

 引きずり込まれ私もお腹に酷い痛みを覚える。傷口が開いた、なんてことはない。余りに大きすぎる声は私の脳みそがそれを私自身の声と誤認、フィードバックを起こしたからだ。この痛みは幻で実際に私の身体に何か起こった訳じゃない。けれど、何も起こらないとは限らない。幻の痛みを感じ取りすぎた脳みそがそれを真実にしようと身体をいじってしまうことがあるからだ。もっともそれは希な出来事だが、それでも痛いのには変わりない。私は特に集中してサードアイの力を押さえると声が聞こえる方へと足を向けた。






「こまったなぁ…泣き止んでよもう」

 待合室の隅、疎むようなけれど表だって何か言えるような立場でもない、そういった心の内側に鬱憤を溜め込んでいる空気の中、はやくなだめすかせろよという願望を一心に受け泣きじゃくる子供をあやしているのは院の看護婦因幡の一人、一応、看護婦長の立場にある鈴仙さんだった。
 膝立ちにおんおんと顔を真っ赤にとめどなく涙を流している丸坊主の男の子…年の頃は五つか六つぐらいを前に狼狽えている。

 私は男の子の声…心と現実の両方、にこめかみをひくつかせながらも二人の側に近づいていった。

「こんにちわ、鈴仙さん。どうかしたのですか?」
「あ、古明地さん。それがですね、この子、さっき、親御さんに連れてこられたんですけれど…お昼過ぎから急に泣き出してしまったそうで…話を聞いても痛い痛いの一点張りで…何がどうして痛いのかさっぱり分らないのですよ」

 意味のない会話だった。どうしたのですか、と問いかけた時点で私は鈴仙が考えている事はすべて読み取れている。鈴仙の言葉に補足説明を入れさせてもらうとこの子は八人兄弟の末っ子で親御さんは他の子供の面倒や家の仕事をする必要があってもう帰ってしまったということ。永琳先生は今、別の人を診察中で手が離せないということ。鈴仙はこの子のお守りを別の因幡…てゐという名前のウサギ、に押しつけられてしまったということ。それぐらいだ。
 その鈴仙の声を聞いている間にも耳を劈くような男の子の泣き声は止まらない。本物の耳とサードアイの両方に聞こえる鳴き声は。

「なんで痛いのか分れば私でも対処のしようがあるんだけれど…」

 誰か助けて、と漠然と考えている鈴仙。私は暫く考えてため息をついた。この子泣いているのを止めるのはどうやら自分の心の平穏のためでもあるようだから。

「何が原因か、何処が痛いのか、それが分れば何とか出来そうなんですね」

 え、に続く鈴仙のハイという言葉も待たずに私はしゃがみ込んで涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしている男の子と目線をあわせるとサードアイの力の調節に集中した。
 男の子の頭に軽く手を触れ、その頭の中に渦巻いている心の声、嗚咽と悲鳴にサードアイを傾ける。意識の集中に伴い私の本当の耳が捉えている音が脳みその処理から除外される。代わりに大きくなるのはサードアイが聞いている男の子の心の声。音量のつまみを大きく捻るように捉える音を多くする。自然とその大音量に私の灰色の脳髄はそれを私自身の心の声と誤認。身体にその悲鳴の内容をフィードバックしていく。言語では表現しきれないファージ―な部分さえも再現される。そうして…

「ッう…痛っ」

 苦痛に顔がゆがむ。この子が受けている苦痛は私が読み取った残滓の十数倍はくだらないだろう。なるほど、それなら耐えきれない。こんな小さな子供じゃなくてもこんな痛みを受ければ大の大人、力の強い妖怪でものたうち回ることだろう。むしろ、これで暴れないこの男の子の我慢強さをほめるべきだ。

「脇腹…」
「はい?」
「右脇腹の辺りがすごく痛いようです。それこそ、説明できないぐらいに」

 何分の一か、薄めた感性を受け取っている私だから説明できること。それを伝えると鈴仙は少し狼狽えた表情を見せて、ごめんね、と男の子の服をめくり、お腹に手を当て始めた。鈴仙の頭の中にはなにやら難しい専門用語や学術書の1ページが写ったりしている。

 やがて、何処を押さえれば男の子の悲鳴が大きくなるかでその痛みの原因をある程度特定した鈴仙は私に適当にお礼を言うと、半ば無理矢理に男の子の手を引っ張って走り去っていってしまった。向かっている先は永琳先生のところのようだ。その心中は焦燥と不安。それ以上は専門的なイメージばかりで私には理解しがたかったが、時は一刻を争うという鈴仙の焦りだけはしっかりと理解できた。けれど、今ならぎりぎり間に合うだろうという安堵も。
 取り残された私ではあったが、泣き叫ぶ声、それと尊い命を助けられたことで私は十分満足だった。











 明日の永琳先生の検診の時、私はこの些細な人助けが酷く裏目に出たことを思い知る事になる。















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











「昨日はありがとう」

 私のお腹の縫合後の具合を診ながら永琳先生はそう切り出してきた。私は間髪入れずこう強く先生に言い返す。

「やりませんよ」
「まだ、何も…いいえ、無駄な会話ね、これ」

 聴診器をお腹に当てたまま肩をすくめる永琳先生。もう、その時にはすでに何を言わんとしているか考えついているようだ。そして、それに対する私の反応もいくつか想像がついている模様。二段飛ばしに私は応える。

「…治療費無料はありがたいですけれど私は、ああ、もぅ」

 余りの頭の回転の速さに心を読んでいるはずの私の方が追いつけていない。三言目にはもう、チェックメイトじみた考えが永琳先生の頭の中に渦巻いていた。
 よくお話なんかで頭脳派系キャラクターを追い詰めるのは私のようなマインドリーディング能力者の姿が書き表されているが、実際、それが通用するのはある程度、頭の早さが同じぐらい、せいぜいプラス500rpmぐらいまでだ。先生のように私の頭の早さとは1兆rpmぐらい回転速度が違っているといくら思考が読めてもそれを圧倒的に上回る速度で対抗策や千日手、詰みゲーを行ってくる。対処のしようがそもそもないのだ。そういった点ではさとり妖怪の弱点…考えてもいない出来事、本人さえも予想だにしていなかった相手の行動、失敗がこの天才の弱点なのかもしれない。

 思考がそれていたが前述の通り、私は八方ふさがりにあった。なまじ、考えが読めるせいであがくことも出来ない。
 盛大にため息をついて恨めがましい目で―――サードアイも含めて、永琳先生の顔を睨み付ける。
 先生はそんな私の顔を了承の合図と思ったのかにっこりと微笑んだ。サードアイは勝利の喜びを読み取っている。確信ではなく確定を。
 私はもう一度だけあからさまにため息をついた。

「お給料ははずんでもらいますよ」

 いいわよ、と永琳先生は私に一枚の紙を差し出してきた。履歴書だった。















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――













「わぁっ、イメクラみたいですねさとりさまっ♪」

 マジ萌えですと目を輝かせながら私の仕事着姿を見て出てきたお燐の最初の感想はそれだった。そのペットの反応だけで私はこのアルバイトをやらざるおえないことになってしまった自分の運命を呪った。畜生、八意め。

 私が今着ているのはいつものフリルのついたブラウスとガウンでも入院着のシャツでもなく、清潔そうな淡い水色のワンピース。少し厚めの割に柔らかい布地の七分丈の白衣だ。頭には同じ色合いの丸いキャップ。胸元のプレートには『研修生・古明地さとり』の字が躍っている。真新しい汚れ一つ無く洗濯しずぎの生地のよれもないその格好はどこからどう見ても新人のナース、とうううかそのものだった。

 あの診察の時、永琳先生が話そうとしていたことはこれだった。私のさとりの能力を生かして、昏睡に陥るような重い症状や口や喉の周りに酷い怪我を負った人、幼い子供やコミュニケーション障害者などの口頭で自分の症状をうまく伝えることが出来ない人の為に、その人の心を読んで代弁するという仕事だ。それだけなら別にこんな看護婦みたいな格好をすることはないのだけれど、私服姿のままよりは他の看護婦と同じ格好の方が患者さんたちも安心するだろうという永琳先生のお達しでこんな服を着ることになってしまったのだ。もちろん、永琳先生の本心は恥ずかしがる私を観察する、というのが大部分だったが。とにかく私はお腹の傷の治療費と、それと賃金の過多分をお給料にもらうという理由でナースのまねごとみたいな仕事を引き受けたのだ。
 今でも若干の後悔を憶えながら。




「いやいや、マジ似合ってるうさ」

 なおも恥ずかしがっている私にそう感想を漏らしたのは私と同じ格好の、けれどサイズは幾分下の、名札に書かれている名前を見れば『因幡てゐ』という名前のウサギだった。彼女もここのナースの一人。私のところへ新しいナース服を持ってきてくれた一応、私の先輩になる人だ。
 この病院では嘘つきで有名らしいがあいにくと覚妖怪の私に嘘は通じるわけはなく、出会った頃はあからさまに警戒されていたが、今ではそれも慣れたのか、口にしていた言葉は確かに本心のようだった。お陰で余計に恥ずかしさが増し、私はむぅ、と唸ることしかできなかった。

「じゃあ、早速働いてもらううさ」

 否応がなしに、とはこのこと。私はお燐に見送られ早くも患者さんの容体を見ることになった。









 最初に担当を頼まれた患者さんは集落の製粉所の先代所長だった。齢八十を超え、人間でいえば十分に老人で見た目だけなら私よりも妖怪然としているのかもしれない。
 てゐ先輩に半ばジョークじみた嘘だらけの紹介をされてよろしくお願いします、と頭を下げる私。けれど、老人は私の挨拶にもてゐの説明にもなんの言葉も返さない。ぼうっと天井の木目に注がれていた。その虚ろな視線は木のうろと同じでどこかを見ている風ではとてもなかった。

「先代はアルツハイマー…ボケがひどいうさ。しゃべったり動いたりすることはないけど、それでも生きてるうさ。優しく接してやってほしいうさ」

 静かなてゐの言葉は心からの言葉だった。嘘つきなこのウサギもベッドの上で自力では動くことも出来ないでいる老人には酷い言葉はかけられないのだろう。哀れみと嘆きと、優しさと、てゐはこのご老人にその感情を抱いている。

 それからいくつか患者さんの面倒を見るに当たって注意しなければいけないことを聞いて、床ずれを防ぐために定期的に自力で動けない患者さんの身体を動かす方法を実演してもらったりと仕事の段取りを教えてもらい、私は早速、先代さんの面倒を見ることになった。
 まぁ、それもすぐに終わりそうだけれど。

 てゐがここを私に任せ出て行ったのを確認。サードアイの力で周囲に人がいないことも調べると私はおもむろに先代の側に近づき、そのしわだらけのたるんだほっぺたを思いっきりつねった。

「どうもこの病院は看護婦も患者も嘘つきが多いみたいですね。ばれてますから、普通にしてくれますか」

 ぎゅぅぅ、と指先に力を込めつつそう先代に話しかける。けれど、先代は案山子に書かれた顔みたいにいくら私が力を込めても表情一つ変えない。たいした精神力だ。
 仕方ないので私は精神的に攻める事にする。どちらかといえばそちらが本分だ。

「『なんだこいつ。噂の高齢者虐待か? 畜生、えらいヤツが担当についちまったぜ。みてろよ、後でひでぇ目にあわせてやるからな』ですか。ふむ、下衆らしいアレな考えですね」

 そう私が臨場感たっぷりに言葉にしてやると先代は驚いた顔をしてぎょろりとこちらを睨んでくる。さらりとその秋口の頃の盛りのついた猿のような目を受け流す私・

「てっ、手前ェ、何者だ! 何で俺の考えてることが…!」
「ああ、やっぱり元気じゃないですか」

 ぱっとつねっていた頬から指を離す。

「ボケ老人のふりをして女の子のお尻を触ったり、人のものを盗んだりするのはあまりいい趣味とは言えませんよ」
「ちっ、おまえか、この前、入院してきたさとり妖怪の娘っ子ってのは」

 私がこの人が入院している理由を丁寧に説明してあげると、先代は盛大に舌打ちを返してきた。心中は怒りに満ちているが、同時に僅かにおびえの色も見える。
 たたみかけるように私はとどめの言葉を告げる。

「まぁ、それだけ元気ならすぐにでも粉挽きの仕事に戻れるでしょ。先生に元気になったと伝えてきますね」

 とどめの言葉。けれど、先代ははん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らしてくる。ちっ、と今度は私が舌打ち。私は自分の敗北を覚った。

「あいにくだな、その先生も俺とグルなんだよ」

 かかか、とベッドの上で片膝をたて、そこに腕をかけて笑う先代。その時すでに私はこの下衆が健常者であることを永琳先生が知っている理由を他でもない先代の考えから読み取る。

「スパイですか。あの先生は諜報機関みたいなことをしますね」

 永琳先生はなにも伊達や酔狂でこの偽患者を入院させているわけではなかった。盗みや痴漢を許す代わりにこの男に院内の噂話や陰口、そのほか諸々の情報を集めさせているのだ。確かにさっきのてゐを見ても分るとおり、その演技力はすばらしいものであのウソエイトオーオーのウサギでさえだましてのけているのだ。悪口を言っている人がそこいらの花瓶や絵に描かれた人物に注意を払わないように、口もきけない頭もおかしい重病人がまさか自分の話に聞き耳を立てているとは思わないのだ。

「かかか、分ったか。さとりの姉ちゃん。あんたもどうせ、その俺より優秀そうな盗聴器をセンセにかわれたんだろ? ってことは俺たちは仲間じゃねぇか。これからもよろしくな」

 助平な上に指が曲がっている下衆野郎。どうして、先生が私の初めての担当にしたのか今、理解できた。この病院には他にもこういう輩がいるからそこは無視しろという命令なのだろう。あえて一番酷い例を見せつけることで永琳先生は私にスパイの説明の代わりにしたのだ。

 私はここでの仕事の前途を嘆き、盛大にため息。初めての患者さんに向き合ってこう告げてあげる事にした。

「ええ、今までありがとうございました同士」

 へ、と私の言葉に目を丸くする先代。と、私の後方、3mぐらいのところにある引き戸が勢いよく開かれた。

「あー、そうそううさうさ、さとりん、伝え忘れたことがあったうさってぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!! せ、先代が、起きてる! みて、先代が起きてるわ!」

 あがー、と目を見開いて叫んでいるてゐ。目尻からは滂沱と称せるほどの涙が。当たり前か、奇跡を目にしているんだから。

 ぬぁ、と驚いているのは先代も一緒だ。どちらかと言えばこちらは夜中にお台所に行って電気をつけたら慌てて物陰に逃げ込む油虫か鼠の様だが。

「お、おい、さとりの姉ちゃん! 誰か来てるなら言ってくれよ! 油断しちまったじゃねぇか! いや、それよりなんか弁明を…」
「まさか。『もし、君の身に何かあっても当局は一切関知しない』の台詞を知らないの」
「手前ェ!!」

 凄みを聞かせて先代さんは私を睨むが後の祭り。私たちの奇妙なやりとりにも感動の余り、まるで気にしていないてゐはそのまま先生を呼んでくるうさ、と病室から飛び出して行ってしまった。

「それでは。私の患者第一号が無事退院してくれて嬉しいわ」

 にっこりと営業スマイルで告げてあげる。
 けれど、私の心にはまだ影が差していた。もしかして、永琳先生はこれすら見越して私を指名したのではないかと。そして、おそらく、私が先生に覚えている恐怖も先生の思惑通りなのだろう。末恐ろしい頭脳。私はこのアルバイトが無事終わってくれることを何とか祈るしかなかった。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 とはいうものの、それから私が担当した他の患者さんについては至極まっとうな…というと語弊があるかもしれないが、普通の病人怪我人ばかりだった。
 泣きじゃくる子供。衰えてしゃべることも出来なくなった老人。酷い怪我でミイラ男のような姿になってしまった炭鉱夫。私はカルテを手にそういった人の心の声を聞き、仕事をこなしていった。

 その仕事もだんだんと範囲が広がり始めた。
 最初は契約通り、コミュニケーションが取りにくい患者さんを相手にしているだけだったが、人手が足りないとか回復した患者さんに私に看てもらいたいからと言われるようになり、それにハイハイと頷いている内にいつの間にか私は一般の患者さんまで担当するようになってしまっていた。
 それも無理からぬ事かな、と私は他の看護婦…ナース因幡たちの働きっぷりを見て思う。小さな子供ぐらいの知能しかない因幡たちはすぐに仕事をさぼったり言われたことを忘れて遊んだりしている。頼りになる、と言えるのはてゐや鈴仙だけで、その二人も前者はサボり癖が強く、後者は真面目なのだが自分がしたくない仕事は決してしないという我が儘を見せている。永琳先生が間者を放ってまで病院を経営している理由がよく分った気がする。もしかすると先生は私の能力以上にまともに働く人材が欲しかったのかもしれない。
 いつの間にか私は前任者二人を抜いてよく気がつく真面目な看護婦…裏ではex婦長さんと呼ばれるようになってしまっていた。

 その好意が少し歯がゆい。

 私がよく気がつくのはそれは相手の心を読んでいるからで、決して観察眼が優れているわけでも優しいわけでもない。
 それでも結果が同じならば、同じ好意を返されるのか、私をさとり妖怪と知っている患者でさえ裏表なく、私に感謝の言葉をかけてくれるようになった。









 そんなある日のこと…
 私は事故で両腕を骨折した少年を担当することになった。


 少年は年の頃、十代半ばだそうで、なんでも山で遊んでいて運悪く登っていた木から足を滑らせて落ち、運悪く腕の骨を折ってしまったそうだ。運悪く器用なことに両方とも。

 ベッドの上で身体を起こしている少年の両手は動かないようしっかりと石膏で固められその上から幾十にも包帯が巻かれている。痛々しい姿だ。
 私がノックして病室に入っていくと少年はびくりと身体を震わせてから、錆び付いたコックでも捻るかのような緩慢さでこちらに視線を向けてきた。何か慌てている感情が読み取れるが詳細は分らない。普通に会話できる患者さんと接するときは極力、さとりの能力を押さえているからだ。表層心理しか読み取れない。

「食事の時間ですよ」

 少し不思議に思いながらもがらがらと荷台を押して部屋の中へ。両手が使えなくて、三番目ぐらいに困ることは食事もままならない、ということだろう。一番は背中がかゆいとき。

「今日は芋と竹の子の煮物ですよ」

 そうコミュニケーションを取りながら配膳の準備をしようとすると少年は私に目を向けようともせず、そっぽを向いたままいいですから、と言ってきた。

「いいですから、って。お腹、減ってるみたいだけれど」

 私に指摘されたかのようにぐ〜となり始める少年のお腹。当然だろう。病院食は質素でとてもじゃないが育ち盛りの子供には腹半分にもならない量しかでてこない。たまに病室を抜け出して、庭の柿を盗み食いしている悪ガキどもや配膳室のおばちゃんに無理を言って食事を分けてもらっている大人たちを見かける。この少年もそうしていなければ昨日の晩から何も食べていないはずだった。

 少年の言葉を無視して食事の準備を進める私。少年は執拗にいいですから、と繰り返すが空腹には勝てないようでちらりちらりとお盆の上の湯気が立つ料理に視線を向けるようになった。

―――おねえさん

 いや…

 僅かに読み取った少年の心には何故か私の姿が映っていた。えらい満面の笑顔で。はて、と私は小首をかしげながらも椀を手にまずは玉葱の味噌汁を食べさせてあげようと尺でひとすくい、少年の口元へ持って行ってあげる。近くに私がいるから心の中に私の顔が浮かんだのだろう。
 少年は暫く尺の上に乗った玉葱の切れ端と壁の模様とを見比べていたがやが、やっと決心してくれたのかどう猛な獣のような勢いで一口で味噌汁を食べてしまった。その後も、私がよそったご飯を次々に勢いよく、噛みもせず飲み込んでしまう。

「そういう食べ方はあんまり関心出来ないけど」

 私の小言にいいんです、と視線を合わせず唸る少年。虫の居所が悪いらしい。それでも少年の無茶な食事ペースに付き合い、次々に食事を運んでいく。
 と、

「あ」

 箸の間から芋の煮っ転がしが転げ落ちてしまった。一休宗純の小話か。小芋はタレの跡を残しながら布団の上へ転がっていく。

 ごめんね、と私は箸を置いて布巾を取り出す。早く取らないと布団にシミが残ってしまうからだ。布団の上の芋を拾おうとすると少年が足を動かし、それを拒む声を上げた。

「コラっ、じっとしなさい」

 布団の上を転がって汚れを広げていくお芋。慌てて私は腕を伸ばして芋をつかむ。

「もう、布団が汚れたじゃないの。どうしたって言うの、さっきから」

 叱るように少年の方へ視線を向ける。途中、少年の太ももの上を渡すように乗せたお盆の下、少年の股の部分が妙に膨らんでいるのが見えた。

 遅れてイメージ。ああ、もう、イメージだから比喩でいいじゃないの。松の根の間からにょっきり頭を伸ばす松茸というか上を向けた固い蛇口とか。

 私は顔を赤くしながらも少年がどうして食事を拒み、早く食べ終えてしまおうとしていたのかを覚る。ああ、確かにこの年頃の人間の男の子ならそういう時もあるだろう。そういう時、どう処理すればいいのかぐらい私も知ってる。お燐の持ってた本を盗み読んだだけの知識だけれど。けれど、確かアレはああいうの…ええっと、そう、うん、しゅ、手淫と書くぐらいなんだから手を使わないと駄目なんだろう。それがこうして両手とも使えないんじゃ、処理することも出来ない。処理できないとどうなるのかは知らないけれど、詰まった水道管が破裂するみたいに大変なことになったりするのだろうか。

―――お姉さん?

 そこで私ははっと顔を上げた。芋を掴んだまま押し固まっている私を少年が不思議に思っている、その声を聞いたからだ。いけないいけない。私は看護婦で今は彼にご飯をあげている最中なのだ。職務をこなさないと。
 それでもなお、顔が赤くなっているのを気にしながら、芋を捨てて先ほどと同じように少年の口へご飯を運んであげる。

 むしゃむしゃぐちゃぐちゃごくり。

 大きく開かれる口、唇から糸を引いて離れる箸の先、租借のためしきりに動く頬、嚥下に音を立てる喉。駄目だ、妙に意識してしまう。

 それは少年の方も同じようでしきりに少年の表層意識に私の顔が写る。
 いや、顔だけではない。ナース姿の私。笑顔で顔を寄せて事細かく容体を訪ねているシーン。少年は腕を怪我しているのに彼の服の前をはだけ、そこに私は聴診器を押し当てている。『どこか変なところはないですか? たとえば痛いほど膨れあがってるところとか』小悪魔的な悪戯っぽい笑み。気がつくと私のナース服も胸元がはだけている。真実とは異なる異様に色っぽい黒いレースの下着が覗いている。胸の谷間も。私の胸はそんなに大きくない。ごくり、と少年の喉が鳴る。イメージではなくリアルで。顔が紅潮する。拙い。少年の妄想に私も引き込まれかけている。身体の芯が熱くなる。まるで噴火前の火山のよう。駄目だ駄目だ、と心中でかぶりを振るう。それは少年のイメージで本当にしている事じゃない。少年の下腹部に私の手が伸びて。違う。そういうのは職務協定外だ。静かにズボンごとパンツをずらしてあげて。だから、駄目だって! その下でまるで雪の下で早くお日様を浴びたい浴びたいともがいていた土筆のような彼自身にそっと触れてあげて優しく五本の指を使って包んであげる。私は、私はそんなこと望んでない。本当に? いきりたった少年のものに顔を寄せて…






「こういうのは…知らないかしら?」






 お姉さん? と疑問符調で話しかけられ私はまたもはっと顔を上げた。目の前には少年の顔が。異様に近い距離にある。いつの間にか私はお食時の手伝いを忘れてしまっていたようだった。上気した少年お顔が見える。涙に潤んだ瞳に私の同じような顔が写っている。

 拙いって、と少年から離れようとした刹那、少年は意を決したように、いや、尻に火をかけられた牛のような勢いで私のことを呼んできた。もう、どうにでもなれと私は目をつむり…そうして…


















「こんにちわ〜、さとりさま。遊びにきました〜」

 がらがらがらと無神経に引き戸を引いて現れたのはおくうだった。どうやらてゐに私の居場所を聞いてやってきたらしい。あの子がすんなりと真実を言うのは珍しい。きっと簡単にだませすぎて逆に本当のことを教えてしまったのだろう。うにゅ、と疑問符を浮かべ一瞬前まで見つめ合っていた私たちに疑問符を投げかけてくる。

「なにやってるんですか、さとりさま」
「な、な、なにゅって…その…!」

 しどろもどろになりながらも何とか言い訳…いえ、事実を応えればいいのよ、少し前の、と冷静さをすぐに取り戻す私。

「この子にご飯をあげていたの。ほら、彼、両手を怪我してるから。ね、そうでしょ」

 同意を求めるように話を振った少年の心中は…




―――うにゅうぅぅぅぅぅ♥ すごい♥ すごのぉ♥ もっと、もっと、バコバコつぃてぇ♥♥♥ おっぱいも♥ もっといじめてぇぇぇぇぇぇぇ♥♥♥

 妄想の中でウチのペットの胸をもみしだきながら犯している少年自身の姿だった。












 私は躊躇いなく、過不足なく、間髪の隙も入れず、握り拳を作るとそれを石膏で固められた少年の腕へ振り下ろした。
 瞬間、院内すべての窓を振るわせるような悲鳴が上がる。

「さ、さとりさまぁ…?」
「ちょっと、青少年を健全な道に進むよう育成していたの。さ、おくう、行くわよ。永琳先生に気分が悪いようですからこの子のご飯は二、三日は必要ありませんって言いに行かないと」

 肩を怒らせ、お盆の上の食事をそのままに踵を返す。少年が後ろから何か言ってるがガン無視。とっととおくうをつれて私は病室を後にした。

 くそぅ、男どもめ。そんなにおぱーいが好きか。畜生。















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











 そんな感じで楽しい毎日が過ぎていく。いつの間にか私はこれが天職であるように思うようになってしまっていた。
 乱暴な子供の相手をするのは疲れるし、寝たきりの老人の溲瓶を取り替えるのはイヤで、ただの軽い怪我なのに俺は死ぬんだと心底泣きわめいている人の相手をするのは心底疲れる。それでも早く元気になるのを待ちわびている子供やお見舞いに来てもらって喜んでいるご老人、退院の日に看護婦や同室だった患者さんに見送られ、自分のお家へ帰って行く人たちと付き合うのは本当に楽しかった。


 けれど、そう、病院という場所は楽しいばかりではないということを私はその日、イヤと言うほど思い知ることになる。










 永琳先生に渡された札を柱に取り付けられた木箱の小窓にかざすと自動で開く障子をくぐり、特別病棟へ。
 足取りは酷く重い。顔も同じく。

 この先の患者の相手をするならセクハラ好きの老害共五人を相手にしておいた方がまだマシだと思える。
 それほどイヤな患者がこの先にはいるのだ。

 もう一枚、入ってきたときと同じ方法でしか開かない引き戸を開けて病室へ。
 見た目上の造りだけは他の部屋と代わらない病室。その中央にはこれまた他のものとそう変わりない形をしたベッドが置かれ、その上には一見、五体満足そうな中年の男性が身体を横たえていた。

「こんにちわ。気分はどうですか?」

 彼の身体を拭くためのタオルとぬるま湯を用意しながらそう、話しかける。けれど、返事はない。彼本来の喉からも、心からさえも。

 男は猟師だったそうだ。ここに来る前、元気だった頃は腕のいい猟師だったのだろう。身体を拭くためにその肌を見れば分るが所々に猪に噛まれたような痕や熊に引掻かれたような傷が残っている。屈強な身体に数多の傷。猟師の見本のような身体。けれど、それも今は片方だけ。柱の節みたいな傷が残っているだけだ。ベッドの上に横たわった身体は枯れ木のそれでとてもかつては屈強だった猟師のそれには見えない。
 ここに来ることになった原因も余り猟師らしくない。猟のない日、居酒屋で酒を吞みすぎて倒れ、その時にしこたま頭をぶつけ、何ともないだろうとその時は家まで帰ったそうだが、次の日、奥方がいくら呼んでも布団の中から起き上がらなくなってしまっていたそうだ。
 その時は息も止まっていたそうだが、偶然、彼の住む集落にやってきていた永琳先生の件名の治療で何とか命だけは助かった。あくまで命だけは。
 それから彼はまったく動かなくなってしまった。それは自分の意志で、などという生ぬるいものではない。ここの病院にも何人か入院している全身麻痺の患者さんたちとは違い、この人は心の動きさえも麻痺させてしまっているのだ。

 初めてこの人のところに案内されたとき、永琳先生は私に死体の相手をしろと言っているのかと思った。この人からは生きているのなら、気絶していても眠っていても感じられる精神の波のような僅かな感情すら読み取れなかったからだ。
 再三の実験で深層心理まで読み取ろうと努力はしたものの、いくら深く精神の海に潜るよう、深く深く聞き耳…サードアイの力を強めても彼からは何も読み取れなかった。

 ある意味で私の最初の感想はあながち間違っていないと思う。
 彼は骸だ。
 呼吸して心の臓を動かし、血管から栄養をとって何とか生きながらえているも、身体も心も動かないとあっては霊安室に横たえられているソレと何ら変わりはない。



 無駄なことをしているのでは、そんな諦念に苛まれながらも皮膚に突き刺さっているチューブに注意しながら入院着を脱がせて、汚れた身体を拭いてあげる。身体を綺麗にしていると言うよりは物を綺麗に掃除しているような気分。私は掃除婦として雇われている訳ではないのに。

 と、彼の身体をあらかた拭いたところで控えめなノックの音が聞こえてきた。どうぞ、と声を空けると空気圧で引き戸が開き、失礼します、と男性と同じぐらいの年頃の女性が入ってくる。男性の奥方さまだ。

 こんにちわ、と挨拶を交わし、私は部屋の壁に立てかけてあった折りたたみの椅子を用意。奥さまに座るように促す。ありがとう、とよどみなくそこへ腰をかけ、一年以上、会話を交わしていない夫の方へ向き直る。




 奥方さまは男性が運び込まれたからこうしてほぼ毎日、お見舞いに来ているそうだ。息子二人がもう、大きくなっているのでそれほどでもないと本人は語っているが、家事や自分の仕事もあるだろうに大変なことだ。

 邪魔しちゃ悪いと私はカルテを手に先生に言われている計器の数値をチェックして早々と退室しようと思う。奥方さまは物言わぬ男性に、今日は何々があった、上の息子と下の息子があんたの後を継いで山には入るようになった、などなど、日常のたわいのない出来事を逐一報告するように話しかけている。それに返事はない。それが…酷く、私には辛く思えた。


 まるで遺影か物言わぬ姿似の人形に奥さまが必死に話しかけているように見える。
 これは、たぶん、マインドリーディングの能力を持たない人が、昏睡状態が続いている患者にその親族が話しかけているのを見ているのとは絶対的に超えられない一つの線引きの向こうで憶える絶望なのだろう。なぜなら、私は昏睡状態の彼が心さえも麻痺してしまっているのを知っているから。心が読めなければ身体は動かなくても、きっと、話しかけてくれる方のことを考えているのだろうと希望を抱くことは出来る。そういった考えにすがることが出来るのだ。けれど、私は違う。そんなことはないとはっきりと断言できてしまうからだ。

 だからこそ、私は心を痛める。
 男性と同じく、日に日にやつれていく奥方さまの姿に。無駄なことを繰り返し、ありもしない希望にすがって生きているこの哀れな女性に。







「あの…」
「看護婦さんは、私が無駄なことをしてると思ってますか」

 意味もなく、言葉をかけようとしたところで不意打ちのように逆に話しかけられる。えっと、と言葉に窮すると奥さまは図星ですね、と乾いた笑いを浮かべた。

「私も人の心が読めるんですよ」
「嘘ですね」

 さとり相手に嘘をつくなんて。けれど、条件反射でそれを否定しただけで私は心底、そう思っているわけではなかった。

「はい、嘘です。でも、半分だけ本当ですよ。私は夫の心だけは読めるんですよ」

 夫婦生活が長いですから、と奥さま。

「家でもこの人が『おい』って言っただけでお風呂なのかご飯なのかお茶なのか、すぐに分りますし、黙っていても機嫌がいいのか悪いのかぐらい分ります。だから―――」

 言葉尻は消えていた。女性はうつむいて涙を流していた。色あせたもんぺの上へ、涙のシミがいくつもできあがっていく。
 私は頭をふるって二人の側へ近づく。もう、これ以上、盲目的な思いに囚われているこの女性の不幸を見たくないと思ったからだ。

「こういうことをするのは…とても、酷いことかと思いますが…それでも…貴女はもう、自由になっていいと、こんな死人同然の人に囚われてはいけないと、私は思います」
「あ、貴女に…!」

 私の言葉に激高する女性。涙で濡れ、赤くなった瞳でキッと私を睨みつけてくる。私はソレを厳格な面持ちで受け止める。

「『貴女なんかに私の気持ちは分らない!』ですか…そうですね。確かに貴女の心は読めても私に貴女の気持ちは理解できない。だから…」

 真実を読ませてあげます、と私はチューブにつながれた男性の手を取り、懐からスペルカードを取り出す。想起の符。私の主力カード。それをかざして術式解放。弾幕ごっこではないけれど、私は私の能力を最大限に発揮する。



 瞬間、床が抜け落ち、私たち二人は深い闇に飲み込まれる。その錯覚。













「ここは…?」

 宙に浮くような格好のまま、辺りを見回している女性。けれど、見えるのは闇ばかり。他には前に浮いている私の姿以外は何も見えないだろう。

「私のスペカで旦那さんの精神の世界を投影してみました。私が普段、サードアイで読み取っている感覚を拡張した物です。それを私だけでなく、貴女にも見せています。
 普通なら、たとえば貴女の心から読み取った情報を拡張して表示すればそこには貴女だけの貴女の世界が広がっていますが、ご主人の場合は…」

 そこから先は口にするのが辛く、言葉に出来なかった。精神の世界のマッピングが出来ないと言うことはつまり心がないからだ。何もないものを投影すればこうして宇宙の闇のような世界が広がるだけだ。


 呆然としている女性に更にとどめを刺すように辛い言葉を投げかける。

「おわかりいただけましたか。ご主人にはもう、想うべき心という物がないんです。肉体は生きていたとしても心はとうに死んでしまっているんです。貴女が毎日、病室に来られどんなに大切なお話をされても、ご主人はなんの反応も返しません。返すべき心が、精神が死んでしまっているからです。だから、もう…」

 病院には来られない方がいいですよ。






 その言葉を、

「いえ…違います…聞こえ…ませんか…声?」

 遮るよう、女性はそんなことを言い出す。

「?」

 感覚的に耳をすますよう、闇の向こうへ神経を集中させてみるが何も聞こえない。この精神世界で幻覚というのもおかしな話だが、女性は慣れない体験でそういうことを覚えているのかもしれない。
 と、私の弁明を聞く前に女性ははやしたてられたように男性の心のもっと深いところへ潜ろうとした。

「こっちです…!」

 指を指してどんどん、下へ…前後左右も関係ないこの世界で下というのもおかしな話だが、深層域の方へ女性は潜っていく。引き留めようと慌てて私は後を追いかける。

 この世界において深い場所へ立ち入るのは自殺行為にひとしい。この世界では自分自身だと思っているこの姿はただの入出力端末…ヘッドフォンのプラグに過ぎず、ましてや回りには他人の精神が色濃く渦巻いているのだ。前にもマインドリーディングによるフィールドバックが肉体に影響を及ぼすこともあると書いたがこの場合はそれが更に顕著になる。受け取る情報量が余りに膨大なため、どれが自分の精神でどこからが相手の心なのは鑑別がつかなくなり、脳の許容がパンクし、最悪の場合、廃人に至ってしまうからだ。
 危ない危険だ、と私は女性を追いかけるが奥方さまは振り返ることなくもっと深く、深くへ潜っていく。

「この辺りだと思うのですが…」

 女性が足を止めたところでやっと追いついた。重苦しい空気を感じる。どうやら、相当深いところまで潜ってしまったらしい。これより下はイドの領域。危険ではなくそこに行くこと自体が自殺よりなお酷い名状しがたい自傷行為に近い、そんな場所のすぐ上だ。
 こんな場所、長居すべきではない。私は奥方さまの手を取ると有無を言わさず現実世界へ連れ戻そうとした。

「えっ…!?」

 その瞬間、それまで波一つ無かった暗黒の世界に一陣の風が吹いてきた。冷たく黴の生えたような酷く乾燥した風。気のせいかと周囲を見回すとそれに呼応するように風は強くなり、嵐のように吹きすさばってきた。

「きゃぁぁぁぁ!!」

 女性が悲鳴を上げ抱きついてきた。けれど、かまっている余裕がこちらにもない。風は嵐となり、嵐は颶風となり、私たちを中心に黒い竜巻となる。ごぅん、ごぅん、と山を越える巨獣のうなり声のような音を立て、黒い風が渦巻く。
 これは…

「夫の…あの人の声が…」

 奥さまの声にはっとなる。私たちを中心に渦巻いている風は、むろん大気の流れではく、男性がかつて目にし、記憶していた自然現象でもなく、男性そのものの心の、声だ。感情のうねり。七情の根源。心象風景などではない心そのものの流れ。
 拙い、と女性を抱き寄せ、脱出をはかる。早く早く、上へ。表層心理へ。外へ。

 飛び立つ私たち。けれど、颶風は私たちを追いかけてくる。ごうごう、と。僅かでも進路を誤れば身を切り裂きそうなほど鋭く風が周囲を渦巻いている。悲鳴を上げる女性を強く抱き、必死の形相で私は疾く飛ぶ。

「っう…!!」

 風が迫ってくる。嵐に意志などあろうはずもないがまるでこの男性の心は私たちを殺そうとしているみたいだ。健常者に対する呪いがかった妬みか。いや、そんなことを考えている余裕はない。早く早く疾く疾く上へ上へ。余りの風圧に目を開けていられないほど風が迫っている。追いつかれる! そう、腕を伸ばした刹那。








―――死にたい…






「っああぁぁぁぁ…!」

 バタリと床の上へ倒れる私たち。
 ぐしゃり、と魔力を失い灰になり、私の手に握りつぶされるスペルカード。間一髪、現実世界に戻ってきたようだ。危ないところだった。未だに腕のすぐ側をあの死風が吹き抜けているように悪寒を覚える。一瞬でも遅れていれば私も奥さまもあの風に巻き込まれ、今頃、男性と同じような廃人同然の姿になっていたことだろう。


 深層心理の僅かに上の部分で渦巻いていた風…感情のうねり。喜怒哀楽よりも更に下位の、本能すれすれのところに吹き溜っている言葉に出来ない精神の活動だ。あんなものに触れれば精神がボロボロになってしまうのも当然。

「しかし…あれは…最後に聞こえたのは…」

 いや、違う。アレは感情の根源などではない。あのどす黒い、澱みのようなものは…あれは根源ではない。あれは…あれは…残滓。かつて感情だったものの死骸。川底に溜ったヘドロのような物だ。そして、最後に聞こえたあの言葉は…

「っう…」

 私は絶望の余り、唇をかみしめる。
 アレは、アレは、死に尽くした心に最後に残っていたもの。心が死んでしまった最後の原因。いま、私が覚えているものと同種。絶望という名の病、だ。
 ああ、今まで私はその事を考えてこなかった。この自らの意志で動けず、かろうじて生きているだけの男性がどうして心まで死んでしまっているのかを。頭の怪我のせいではない。きっと、怪我をしてすぐの頃、男性の心はまだ生きていたのだ。動かない身体をもどかしく思いながら、明日には治る。明後日には動けるようになる。一週間もたてばきっと良くなる。そう、毎日、希望を抱いて、自由にならない身体の中でじっと耐えていたのだ。

 それが二週間たち、一ヶ月たち、半年が過ぎても何も変わらなかったらどうなる? 屈強な、どんな困難でも乗り越えてきた山男でも、その絶望、身体が動かせず、周囲に自分のことを伝えられず、ただただやせ衰えていくだけの毎日を過ごしていけば。

 その答えがこれだ。
 精神の死。
 彼は絶望のあまり、健常者が首を括るように自分の心を絞め殺してしまったのだ。
 私たちが彼の暗黒の精神の中でであった嵐はその残滓。殺意の残り香。きっとアレは死にかけの追跡殺戮機械のように男性の心の中に入っていた私たちをまだ生き残っていた男性自身の心と間違えて殺しに来たのだろう。


「ううっ…」

 やるせない気持ちと絶望と自己嫌悪で唇を噛み切ってしまう。血の味が口内に広がる。
 いや、自分はマシだ。そんなことより…あの方に、奥さまに謝らなければ。
 私は奥方さまを気遣おうと立ち上がり、その姿を探した。奥さまは私より早く回復したようで、青い顔をしながらも椅子に手をつき立ち上がろうとしているところだった。

「大丈夫ですか…その…すいません」

 話すべき言葉を探しながらとりあえずそう切り出す。

「私の監督不行届でした。あんな事になるなんて…でも…これで…」
「いいえ、いいんです…」

 私の言葉を遮るように掌をかざしてくる女性。その心は…何故か怒りや憎しみ、絶望ややるせなさといった物ではなく、一抹の、そう、一抹ではあったが希望が浮いていた。

「奥さま…?」

 疑問符を浮かべる。奥さまは涙を流しながら立ち上がると夫の元へ近づき、その力ない手を握りしめた。

「看護婦さん、さっき、その…難しいことは分りませんがこの人の心の中へ行った時、この人の声が聞こえませんでしたか?」
「え…?」

 それは聞こえていた。けれど、それを説明しろと言うのか。訝しむ私であったが、その時、奥さまが考えている事を読み取り、押し黙った。奥さまは私と違う言葉を聞いている。

「この人さっき、私の名前を呼んでくれたんですよ…ええ、たぶん、看護婦さんも聞いた『死にたい』って酷い叫び声の間にかすかに、ですけど。あれって…あれが、この人の心の、声、なんですよね」

 ふるふると震えながら私に説明を求める奥さま。けれど、私はイエスともノーとも言えない。私はその声を聞いていないからだ。逃げるのに必死だったから? いいや、違う。精神世界においての聴力は素人の奥方さまより私の方が断然優れているはずだ。だから、きっとそれは…

「あの…」

 その事を告げるか、それとも黙っているか。今までこの仕事をやってきた中でこれほど悩んだことはない。
 私は歯を食いしばって、左右非対称の表情を浮かべて、馬鹿なこと、それだけで何を言わんとしているのかさとりでなくても分ってしまうのに、そんな顔をして奥さまの顔を見つめていた。
 けれど…奥さまは私のそんな考えなんて知らないといった風に微笑んでから、そっと、ベッドに身体を横たえたままの、虚無に視線を投げかけたままの、心が死んだままの旦那さまの耳に唇を寄せた。そうして、呟く。




「アナタ、起きてください。もう、朝ですよ」




 そんな他愛のない、日常のような言葉を。私が、無駄だと、無意味だと思う言葉を。







 けれど………それは………









 ―――うぁ










 私の間違いだった。

「えっ…?」

 かすかにサードアイに届いた唸るような声。私でも奥さまでも、聞き耳を立てている第三者でもない、この場所にいるもう一人の声。いや、声とすら呼べないもの。ただの感情のうねり。けれど、確かにそれは風もない湖畔に広がった波紋のような、奇跡のような出来事だった。

 ああ、私は幻を視る………

 台所から聞こえてくる規則正しい包丁の音。ことことと揺れる火にかけられた鍋。エプロン姿の奥方さまの後ろ姿。朝食の準備中。そうして、後ろの襖が無造作に開き、そこから寝ぼけ眼で頭を掻きながら洗われる旦那さんの姿が……

「あっ…あの…今…」
「大丈夫です。私にも聞こえました。ねぇ、だから言ったでしょう。私も人の心が読めるんだって。この人…限定ですけれど」


 ほほえみを見せる女性の顔は何より強い妻の顔をしていた。
 遠からず先ほど垣間見た幻が現実になることを思って私も微笑み返した。





















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



















「こう言うと、安っぽい悪役そのものなのだけれど…実験は成功みたいね」

 病室を出るとすぐにそんな台詞を言われた。
 廊下の壁の手すりに腰をかけ、暇つぶしに読んでいたのであろう、何かの研究のレポートの束から視線をあげ、一仕事を終えた私を出迎えたのは永琳先生だった。

 今なら分る。先生の思惑をすべて読み取ったから。私はあの猟師の男性の心を生き返らせるために雇われていたのだと。先生でも治せなかったあの男性を助けるために雇われていたのだと。この天才で賢者で医者は、医者故に患者を治せないのが許せなくて、賢者故にその手段を自分以外にさえ求めて、天才であるが故に一つっ切りでも治せない人がいることがイヤだと完璧主義な事を考えていたのだ。私はその先生の願望を満たすために雇われたのだ。


 それを怒る道理は私にはない。結果的に男性の心を助ける…少なくともそのとっかかりを作ったのだし、それは誰に目にも喜ばしいことだからだ。先生のある種、不純な動機なんてどうでもいい。私はさとりで看護婦なのだから、目の前の患者さんを助けることだけを考える。



 そんな私の使命感を見取り、先生が少し微笑んだ。変わった人だ。私に、さとりの私に本心さえ読ませない行動をしておきながら、こうして同じ人命救助の道を進もうとする同士が増えたことを素直に喜んでいる。天才とはこういうものなのか。感情と理性と欲求をすべて別に考えられる。
 もう暫く、この先生と付き合わないとそれは分らないだろうと、暫く先生の顔を見つめていると本棟の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。それよりも大きな動揺と焦燥、助けを求める声。

「先生っ!」
「ええ、足音でだいたい分るわ」

 急患ね、と頷いたとき、もう私たち二人は廊下を走り始めていた。曲がり角で永琳先生を探しにやってきた鈴仙と合流。非道い状態の患者が運び込まれてきたと聞かされ、私はそのイメージをサードアイに受け取る。


 因幡たちによって応急処置が施される人物。それは人物と称せるほど人の形を成していなかった。
 断ち切れた四肢。焼かれた肌。つぶされた顔。おおよそ、生きているのか疑わしいほど破壊尽くされた身体。

 私はこみ上げてくる吐き気を押さえるために手のひらで口を覆う。けれど、それでも足を止めない。

「さとりさん、貴女は休んでなさい。さっきの治療で疲れているでしょう」
「イヤです先生。私にも…私にも出来ることがあるはずです…!」

 永琳先生の言葉を即座に否定する。
 そうだ。永琳先生は患者の身体を治せても心までは治せない。その結果があの猟師の男性だ。あの男性の身体もいつかは先生が治すことだろう。けれど、もし、私がさっき、あの男性の心を生き返らせるその一端の手伝いをしていなければ? この病院で働いていなかったとしたら? もし、私がここに訪れなかったとしたら? あの人は身体が治っても心は死んだまま結局、ベッドの上から離れられずやがては死に絶えてしまったことだろう。私が、私があの男性の心を助けたのだ。治療したのだ。

 私は永琳先生や鈴仙を追い抜き、その件の急患の元へ走る。

 今度も私が助ける。さとりの力は読み取るだけで心に直接、話しかけるなんて真似は出来ないけれど…それでも心の一端に触れられるなら何か出来るはずだ。あの男性のように動かぬ身体の中に閉じ込められて精神を自殺させてしまうような真似は絶対に止めなければならない。私は、私の出来ることをしなくちゃならない。看護婦として。さとりとして。



 だん、と両開きの扉を開き、緊急治療室へ足を踏み入れる。驚いた顔の六ばかりの赤いウサギの目に迎えられる。応急処置中の因幡たち。てゐもいる。見るも無残な形になりはててしまった患者の身体に懸命に治療を施している。焦る心と惨状、まるで野戦病院のさま。
 心が鋭くなる。
 さぁ、私も職務を果たさないと。
 サードアイに神経を集中し、さとりとしての本領を発揮する。看護婦の使命を果たすために。







「え………?」
















 その使命感が絶望に、打ち砕かれる。
 そう、病院という場所は楽しいばかりではないということを、使命を果たせる試練の場所ばかりではないということを私はこの瞬間、イヤと言うほど思い知ることになった。






 読み取り、浮かんできたのは私の顔。私自身の笑顔。
 そして、家族たち。地霊殿に一緒に住んでいる家族の顔。同じ笑顔。
 中庭で羽根突きをして遊んだり、旧地獄街道の屋台で立ち食いしたり、ホームパーティでぐでんぐでんに酔っ払ってしまったり、そのままみんな、一つのソファーで集まって眠ってしまったり、そんなそんな日常の光景だった。他愛のない、他愛のない、そんな日常。その風景だけ、それだけだった。

 そこで…終わりだった…

 走馬燈のように巡っていた日常の光景は、蝋燭の火を消したように綺麗さっぱり消え失せ何も見えなくなってしまった。
 何も見えず、何も聞こえず、何も感じず、なにもなにもなにも…何もなくなって…


「あ…あああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」


 私はその場に膝をつき、悲鳴のような嗚咽ような慟哭のような、非道い叫び声を上げる。




「さとりさん! いったどうしたんですか!?」

 遅れてやってきた永琳先生が私に尋ねてくる。けれど、私は一つの事実を口にするのが精一杯で、それでその後、自分の心をコロシテシマッタ。











「先生…あの子、あの子、私の身内です…あの子は…×××」




END
こう毎日暑いとただでさえない集中力もでないね。
チルノが1ダースぐらい欲しいものだ(※もうしゃべらないものに限る。


ラムの紅茶割り吞みながら書きました。
sako
作品情報
作品集:
18
投稿日時:
2010/07/08 15:51:23
更新日時:
2010/07/09 00:51:23
分類
さとり
永琳
ナース
最近は看護師さんというらしいね。つまり、看護婦さんが幻想郷入り
1. 名無し ■2010/07/09 01:25:21
面白かった。
面白かっただけに最後の展開が腑に落ちない。
打ち切り漫画みたいな感じ
最後の患者はお空なのかお燐なのかこいしなのか……
さとりがこいしになっちゃったけど
2. 名無し ■2010/07/09 01:55:55
そそわに有ってもおかしくない位綺麗に終わったと思ったら最後の最後で産廃だった。
うん、まぁ俺もやっぱこの話に関してはハッピーに終わって欲しかったかな。
でも面白かったです。2時間ドラマっぽくて。
3. 名無し ■2010/07/09 03:00:35
コラじじい
てゐ先輩の純粋な心を踏みにじりやがって

最後の落差にどきっとした
欲を言えば、さとりの心の壊れる前後をもうちょっと読みたかった
4. 名無し ■2010/07/09 03:59:37
長めだったけど面白くてすいすい読めた。

永琳先生
アルバイトの報酬は、おぱーいの大きくなる薬にしてあげてください。
5. 名無し ■2010/07/09 09:19:51
さとり「医者って……医者ってなんなんですかぁ!」
――ヤゴコロエーリンによろしく
ラストシーンの後、絶望しながらも周りの人々に支えられ、改めて医療に携わる決意を固め、多くの患者と触れ合い、苦しみ、再び希望を抱きながら歩む看護婦さとりを脳内補完しました。
6. 名無し ■2010/07/09 10:35:12
↑素晴らしい補完だ、俺は支持する。
7. 名無し ■2010/07/09 11:39:28
えんま「おい、地底の管理はどうした!?」
8. 名無し ■2010/07/09 12:28:58
sakoさんの作品はいつ読んでも幸せな気持ちになれます
心の清涼剤みたいなもんです
古明寺さとれないの誕生ですねw
9. 名無し ■2010/07/09 19:41:16
原作では嫌われ要素にもなってるさとりの能力を肯定的に捉えた良い話だけど最後はちょっと投げやりかなぁ
最後の×××は地霊伝の住人の名前が全員三文字でだから誰だかわからない想像の余地があるとこは上手いけど
10. 名無し ■2010/07/10 00:30:43
もっと産廃的な産廃話を
11. 名無し ■2010/07/10 00:48:30
相変わらず描写が美しいです。×××に何があったか気になる・・・
12. 名無し ■2010/07/10 12:49:59
さとりん……慰めの言葉もないが言わせてもらう

おぱーいはマッサージ次第で大きくなる
13. 名無し ■2010/07/10 17:11:28
おいぃいぃいいいい!!
最後どうしたんだうおおおおお!!!
折角面白くなってきたのにいぃぃいい!

おぱーいってマッサージ方法ミスると
脂肪が崩れて形が悪くなるらしいけど…本当?
14. 名無し ■2010/07/11 15:20:28
閉じこめ症候群はきついな
確かに精神崩壊してもおかしくないわ
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