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『レイニーデイズマーダーケース』 作者: sako
空はまるで泥水でも流したように灰色だった。
お日様を遮る分厚い雲。今にも降り出しそうな天気。砂利が引かれたあぜ道はぬかるみ、いくつも水たまりが出来ている。追随するように流れる小川の水は茶色く、濁流になっている。湿度は高く七月に入っているというのに妙に肌寒い。陰鬱とした天気。
けれど、にとりは上機嫌でぱちゃぱちゃと長靴で水たまりの水をはね飛ばしながら一人、蛇行するあぜ道を歩いていた。
ごうごうと流れる川の音をBGMに、大きなリュックを背負って、心なしか笑顔を浮かべて。
今日は友人の魔理沙の家に行く予定だった。いくつか新作の発明品を見せに行こうと、リュックにそれらを詰めて家から持ってきたのだ。けれど、どちらかといえばにとりにとってそれは二の次で、彼女なりに本命の目的はもっと魔理沙と仲良くなることだった。できれば、友人の上のステップに。そのための方法とかそうなってくれればいいなぁという妄想じみたシチュエーションを考えて歩いていれば顔が緩んで綻んでくるのも当然。天気の悪さも無視してにとりはニコニコと魔理沙の家に向かう。
自分の家から出発して一里ほど歩いた頃だろうか。丁度、妖怪の山の麓にあるにとりの家と目的地の魔法の森の魔理沙の家との中間地点、やや魔理沙の家よりの場所にさしかかった頃、にとりは前から人が歩いてくるのを見つけた。
「…誰だろう?」
人見知りの激しいにとりはそこで足を止めてしまう。誰だろうの答えも遠すぎて分らない。前から歩いてくるのは男なのか女なのか、人間なのか妖怪なのか。
「ううっ、出来ればこんな他に誰もいないところですれ違いたくないなぁ」
囓ったキュウリが酷くスカスカで不味かったような顔をするにとり。
知らない人と顔を会わせるのがイヤで空を飛べるのにこうしてあえて歩いて魔理沙の家に向かっていたのに。幻想郷の空は下手な道よりも交通事情が込み入っており、むしろ、他人と出会いたくなかったり、渋滞に巻き込まれたくなかったらこうして下道を歩いていた方がよほどすんなりと進めるのだ。
けれど、それはやはり可能性の話で別の集落に移動する行商人や新聞を配達する天狗、気の赴くままに行動している巫女なんかには時として出会ってしまうことがある。今のように。
どうしよう、とにとりは狼狽える。軽い他人恐怖症の気。矛盾した話だが、いっそ、ここが人通りの多い町中ならにとりは群衆に紛れたその他大勢としてほとんどの人に無視され、誰にも声をかけられる事はないのだが、こうも回りに人気のないところだと外の世界と違い、人々の交流がまだ温和な幻想郷では出会えば見ず知らずの他人…それこそ種族が違っても挨拶をするのが常だ。どうしよう、うまく挨拶を返せるかな、とにとりは自分の口べたを心配する。しどろもどろに、『こ、ここにゃにゃちわ』なんて台詞を吐く自分の姿が想像できてしまうからだ。
「変な声出して笑われたらどうしよう…いっ、いったん、戻ろうかな…」
そう考えて後ろに振り返るにとり。前方と同じく蛇行しながらも川に沿って伸びる道が見える。まるで果てしなく伸びているように。
「だ、駄目…たぶん、向こうの人も気づいてるよね、私に。ううっ、ここで来た道を戻ったら逃げてるみたいじゃない。よっ、余計に変に思われるよ…」
ただでさえ端から見れば意味もなく道の真ん中で立ち止まっているみたいなのに。
「ううっ、行くしか…ないのかな」
うつむいて足早に通り過ぎれば声をかけられずに済むかもしれない。もしくは、走れば。それでも変な娘だと思われてしまうかもしれない。
自ら八方ふさがりに陥ったように、誰かに助けを求めるように辺りを見回すにとり。けれど、昨晩降り続いていた雨が上がったばかりのこの場所には助けてくれそうな知人はおろかモンシロチョウさえも飛んでいなかった。蛙の鳴き声も聞こえない。
そうこうしているうちに前から歩いてくる人はどんどんにとりに近づいてきた。思っていた以上に早い。背の高い黒っぽい服を着た人のようだ。体格から男の人かもしれない。みょんな飾りがついた帽子をかぶっているように見える。天をつくような飾りのせいで背丈が本来以上に高く見える。少しふらふらしているのは体調が悪いからなのだろうか。
体調が悪い、その事に気がつくとにとりは、あの男の人には悪いけれど少しだけ安堵した。体調が悪いのなら回りの出来事にいちいちかまっていられないかもしれない。にとりのことをぞんざいに、この場合はむしろそれがありがたい、扱うぐらいには。
そうあって欲しいと意を決してにとりも歩き始めようとした。そう、ここでこんな…他の人には堂だっていいことに悩んでいたら、魔理沙の家に着くのが遅くなってしまう。なるべく早く行って少しでも魔理沙と長く入れる時間を作らないと…にとりはそれを理由に一歩を踏み出そうとする。
「あれ…?」
その足を疑心が躊躇させる。いや、疑心ではない。蟲の知らせめいた第六感だ。何かが進むなと告げているようだった。
「………」
再び足を止めてしまうにとり。けれど、今度は自分の内面を理由に足を止めているのではなく、外的要因、蟲の知らせが告げた行くなという警告、その理由を考えているようだった。
理由…いや、もう、あからさまに言っていいだろう。蟲の知らせに当たるようなわかりやすい要因はあの前から歩いてくる男しかないではないか。
にとりは発明中の集中力を持って前から歩いてくる男を観察する。足取り、格好、表情。そのどれもがまだ遠すぎて分らない。
「そうだ…リュックに…」
ごそり、と背中に背負っていたリュックを下ろし、封を開けて中をまさぐる。出てきたのは筒を二つ横に連ねて繋いだものだった。筒の中には何枚か凹凸のレンズがはめ込まれており、その位置を調節するボタンも取り付けられている。にとりが作った対象までの距離まで測れる高性能な双眼鏡だ。
足下にリュックをおいたまま早速にとりは双眼鏡を覗きこむ。丁度、持ち手の位置に取り付けられたボタンを押して、倍委率を調整する。うぃーん、と機械音。遠かった男の姿が近くになる。数十歩で距離を縮められるような距離に。見た目上は。更ににとりは倍率を細かに調整して焦点を合わせる。ぼやけていた視界がクリアに。男の姿がありありと見えるようになる。
「…やっぱり、男の人」
最初に見えたのは脛だった。太い毛の生えた丸太のような足。角張っていてとても固そう。丈の短いズボンでもはいているのか。それを確認しようとして逆に足下の方を見てしまった。交互に動く足。妙に小さい靴を履いている。サイズが明らかに合っていないのかかかとが出ており、バシャバシャと水たまりを勢いよく踏みつけているようだった。
「変な格好の人だな…」
その他愛のない感想は次の瞬間、より強みをまして語られることになる。
「えっ…何? なんでそんな…」
視点を上に。男の首より下が見える。
男は黒い服を着ている。けれど、普通に男性が着るようなスーツやジャケット、シャツ、ましてや羽織ではない。男が着ているのは…エプロンドレス…サイズの合っていない。女の子が着るようなそんな可愛らしい系の服装だった。それに無理矢理に大柄な身体を詰め込んでいるのか片方の肩紐は切れ、スカートは身につけているというより腰に巻いているだけのよう。止めきれなかったホックがぶらぶらと揺れている。そう考えると靴のサイズが合っていないのも分る。男は…あろうことかサイズの合わない女の子の服を無理矢理に着ているのだ。
「げぇ…変なヤツ…え?」
生理的嫌悪ににとりの顔がゆがみ、更にそれが恐怖に捻れ曲がる。
男の顔は見えなかった。頭からすっぽりとかぶり物をかぶっていたからだ。代わりに見えたのは鹿…山間を駆け巡り木の皮を刮いで食べ、刺身にすると旨いあの鹿の顔…だった。牡鹿だろう。立派な角が生えた鹿の頭を男はすっぽりと…まるでかぶり物のように被っているのだ。イミテーションではない。その証左に男が無理矢理来ているブラウスは鹿の首から流れる血で赤黒く汚れていた。鹿の首の部分には穴が二つ開けられている。お面と一緒だ。外を見るための穴。そして、その鹿を捌いた道具だろう。男のふらつく手…血まみれで爪の間に鹿の毛が挟まった手にはしかと、使い古されたハチェット…手斧が握られていた。
―――なんだアイツは!? ヤバイ!!
声にならない悲鳴を漏らして双眼鏡から目を離した瞬間、男はそれを合図にしたのか腕を振るい、小さな靴を履いた足で、いきりたったようにいきなり走り出してきた。にとりの方へ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ほとばしる悲鳴。にとりは混乱した頭ながらも双眼鏡を手にしたまま、一目散に逃げ出した。
―――何アレ? 何だアレ? 何だアイツ?
ヤバイやばすぎる、とにとりは必死に走って逃げる。追われているのは確か。そして、おそらく追いつかれた結果も。あの格好。あの凶器。間違いなくあの男は狂人。レン高原の彼方に聳える旧支配者が遺した不定形生物と心を通わせる常理の向こうを覗く者だった。捕まれば殺されてしまう…いや、死ぬより酷い目に遭わされる。にとりは悲鳴を漏らしながらはね飛ばした水たまりの泥水で服が汚れるのも躊躇わず必死に、文字通り必死に走る。
時折、振り返っては顔を引きつらせる。被った鹿の頭のせいで表情は全く読めないが、雄叫びも上げず黙したまま自分を追いかける殺人鬼の姿がまだそこにあるからだ。
「誰かッ! 誰か助けてッ!!」
叫ぶ。けれど、声は曇り空へ消えていく。他人と出会うのがイヤでこんな人気のない道を選んだ自分が恨めしい。自力で逃げるしかない。けれど、相手はキチガイでも体格のいい大人の男だ。小柄の自分ではどうあっても逃げ切れない。空を飛べれば何とかなるかもしれないが、あいにくとにとりは空を飛ぶのが苦手で、飛び立つまで数秒の溜が必要になる。しかも、こんな切羽詰まった状況では数秒が数分になるかもしれない。そうこうしている間に追いつかれて…
「ううっ…なんで、私がこんな…」
涙が出てくる。脳裏をよぎったのはあの切れ味の悪そうな手斧が自分の頭をかち割るその瞬間のイメージだ。このままでは程なくして現実になる耐え難いイメージだ。
あふれる涙をぬぐって激しい呼吸にあえぎながらもにとりは走る。
どうにかして逃げないと…早々に追いつかれてしまう。
と、にとりはある地点で唐突に右に折れた。
向かってにとりの家の方の左手側は川が流れている。妖怪の山から流れる普段は流れの緩やかな川。けれど、今は最近毎日降り続いている雨のせいで濁流とかし、茶色いうねりを見せている。あんな流れ、いくら泳ぎの得意なカッパでも飛び込めば古典にあるように流されてしまう。その結果は良くて水死。悪ければ行方不明で魚の餌だ。殺人鬼に殺されるよりかはマシかもしれないがにとりはそこまで絶望していなかった。だから逆に…うっそうと茂った雑木林の方へ足を向けたのだ。
ガザガサと濡れた落ち葉を踏みしめ林の奥へにげこむにとり。
足下はぬかるみ、茂みや乱立する木々に阻まれ非常に走りにくいがそれは追いかけてくる殺人鬼も一緒のこと。むしろ、身体の大きなあの男の方が走りにくいかもしれない。それなら、小柄な自分なら上手くやり過ごして逃げ切れるかもしれないと踏んでこちらに逃げ込んできたのだ。枝葉を折って、藪をかき分けて逃げる。後ろから聞こえてくる気配が如実に弱まったような気がする。林に逃げ込んだのが功をせいいたのか。苛立たしげに鈍い刃が枝葉をかき分け切り落とす音が聞こえてくる。
「やった…後は、適当に距離が離れたところで飛んで…逃げれば…」
うれしさの余りか、荒い息をつきながら無駄ににとりはこの先のプランを口走る。それが自分の注意を散漫させてしまうとは露にも思わず。
「あっ…!?」
足がもつれる。走り疲れて疲労が出てきたせいか、注意力が落ちたためか、にとりは葉っぱに埋もれていた出っ張った木の根っこを見逃し、それに足を引っかけてしまう。無様に雨に汚れた腐葉土の上へ、受け身もとれずに顔面から突っ込む。
「うぇっ…うう」
したたかに打ち付けた手のひらが酷く痛い。すりむいているのは確かだった。口の中へ土や腐った木の実が入り込み、起き上がると同時にぺっぺっとつばと一緒に吐き捨てる。ほっぺたに張り付いた葉っぱやお気に入りのブラウスにしみこんだ泥水が気持ち悪いがどうにかする余裕がない。逃走を再開しようとにとりは慌てながらも立ち上がり、そうして、
「ッ、痛…」
死霊の手に捕まれたように痛む足首に顔をしかめる。どうやら、転けたときに捻ってしまったようだ。一歩、二歩と進むが、痛みは引くどころかどんどん増しており、五歩も歩いたところでこれ以上、走るのは無理だと覚った。それでも、側に落ちていた手頃な木の枝を拾い上げて杖代わりに、這うような速度で逃げる。
けれど…
「っう…追いつかれちゃう」
痛みを堪えつつ耳に神経を集中すると離れたばかりの音は先ほどよりも近くに聞こえるようになっていた。まっすぐこちらに向かってきているところを考えると向こうもにとりを見失っていないようだった。
焦燥が再び心の底から浮かび上がってくる。
どうすれば、どうすれば…もう、逃げることは出来ない。
どうにかしてやり過ごさないと…
にとりは足を止めて考える。
と、にとりは先ほどまで自分は何かを手にしていたことを思い出した。
何だかな、と一秒思案。自分が作った高性能双眼鏡だったことを思い出した。
何処へやったのかと視線を彷徨わせるがすぐに探すのは無駄だと覚る。見つかっても今は必要ない。捨てるしかないだろう。せっかく、魔理沙に見せようと持ってきたのに。他にもいろいろ。そのリュックも道の真ん中に置いてきてしまった。後で取りに戻らないと…
そこまで考えてにとりは思考がそれていたこと、それにこの場から無事に逃げ出せるなんて事を簡単に考えていたことについて乾いた笑いを浮かべてしまった。自虐的な笑い。心に絶望の色が差し込んでくる。こんな泥だらけの格好で、足を痛め、自分の秘密道具のほとんどを忘れてきた状態では絶望もするだろう。
「秘密道具…全部? ううん、まだこれが…」
そこでとりとめもなく巡らしていた頭から自分が助かるかもしれないパーツ、そのとっかかりを掴みあげる。
腕を持ち上げてみせるにとり。
合成樹脂絵出来た防水性のだぼだぼのレインコート。
光学迷彩搭載の人見知り専用スーツ。これがあれば…
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
藪を切り分け狂人が姿を表した。
肩で息をして、苦しそうに、鹿の皮の間から呼吸を繰り返している。妙にふらついているのは疲れたからだけではなく、重心が頭の上にいっているからだろう。それでも明らかに邪魔な鹿頭を取らないのは狂った思想のためか。その真意を知ることは深淵をのぞき見るに等しく、恐ろしい。
狂人は藪を越えると、そこで足を止めた。荒い息をつきながら左右を見回す。ここに来てついに狂人はにとりの姿を見失ってしまったのだ。あるいはにとりの足が無事なら彼女はこのまま狂人から逃げ切れたかもしれない。けれど、狂人は狂っていながらもある程度は理性的な行動をとれるようだった。ゆっくりとした、それでいて何故か力強い、オオトカゲを思わせる緩慢とした動作で狂人は腰を下ろすと、視線を地面に近くした。葉っぱが降り積もった腐葉土を眺め、にとりの足跡を探しているのだ。
と、狂人が何かを見つけた。
にとりの足跡だけではない。妙に地面が荒らされている場所の近く…にとりが転んだところ、その側に壊れた双眼鏡が落ちているのを。
男はおもむろに双眼鏡に近づくと、子細にそれを調べた。
割れたグラス、ヒビの入った本体。もう使い物にならないだろう。修理も出来るかどうか分らない。もう、ゴミになってしまったそれめがけ、狂人は手斧を振りかざすと躊躇いなく振り下ろした。
―――ウォォォォアァァァガァァァッァウラァァアァァ!!!!!
喉から雄叫び…鳴動する地獄の大釜のような声を張り上げ、一心不乱に双眼鏡めがけ手斧を振り下ろす。バシン! バシン! ただの一撃で双眼鏡は真っ二つになり、続く二打目、三打目でもう接着剤でくっつけても元の形にするのは難しいほど破壊し尽くされてしまった。レンズと本体の破片が辺りに散らばる。打撃は双眼鏡が落ちていた地面、そこに埋まっていた木の根にまで及んだが狂人は攻撃をやめようとはしない。まるで世の中の何もかもが憎いように。憎悪に満ちた動作で。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ひぃぃぃぃぃぃ…!
その狂人の暴れる様をにとりは隠れながら少し離れた位置から見ていた。
もう、これ以上逃げ切れないと判断したにとりはこの場に隠れて殺人鬼をやり過ごそうと思ったのだ。それが少しばかり裏目に出てしまった。
まさか狂人が自分がなくした双眼鏡にあんな興味…破壊衝動を催すなんて、一抹さえも予想だにしなかったのだ。いや、当たり前か。狂人の行動はおそらく本人にさえも理解できないだろう。盲目にしては口の噛みがかき鳴らすラッパの調べに我が身を踊らせるがごとく、狂人はこの宇宙ではない別のどこかのルールに則って行動しているのだ。それが予想できるはずもない。
にとりはお願いだから早くどこかへ行ってよと切に願いながらじっと息を殺して堪え忍んだ。
やがて、狂人は破壊活動に飽きたのか、それとも暗黒宇宙から中止の命令が毒電波に乗ってやってきたのか、あるタイミングでぴたりと手斧を振り下ろすのをやめてしまった。
呼吸を整えるよう肩で息をしながら周囲を見回し、ややあってから再び歩き始める。だらりと垂れ下がった腕に今し方、恐ろしい破壊を見せた手斧がぶら下がっている。
ざっざっ、と落ち葉を踏みしめ歩く。
その足は血まみれ。折れた木の枝や欠けた石が突き刺さっている。素足に小さい靴のかかと部分を踏みつぶして履いているのだ。それであんなに激しく走り、こんな林の中までくれば分厚い皮をしている足でもああいう風に傷だらけになるだろう。けれど、狂人はまるで気にしているそぶりを見せない。痛みを感じていないのか。説得や取引、そういった話し合いで解決する精神はすでに男の内にはないのだろう。どうかその狂気に見とがめられませんように、とにとりは隠れたまま山の神様に祈りを捧げる。
男の身体が近くなる。
手を伸ばせば触れられそうな距離。そうした瞬間、腕が中程で断ち切られるイメージがわく。おぞましい想像に吐き気がわいてくる。それを必死に堪えにとりはただひたすらに息を殺して殺人鬼が立ち去るのを待つ。そこで何を思ったのか殺人鬼は足を止めてしまった。いやk、完全に止まったわけではない。狂人特有の第六感を持って何かを感じ取ったのか、その場にとどまり、周囲を探り始める。
―――はやく、はやく、何処かへ行って…
切に願う。けれど、願いは却下され 更に男はにとりに近づく。
至近距離。
狂人の格好がありありと眺められる。恐ろしくて目を瞑ってしまいたがったが、そうすれば何かあったとき、行動が遅れると必死ににとりは両の眼を開けていた。
狂人の格好がありありと眺められる。
袖を破いて突き出ている太い腕。血と泥とで汚れ、にかわのようにごわごわになった服。虚ろな瞳の死んだ鹿の頭。その中に納められている男の顔。鹿の首に開けられた穴から覗く瞳は宙界の闇のように濃く、覗きこんだ者すべてを飲み込み圧縮しぐちゃぐちゃにして擦り握り潰し殺してしまうかのようだった。
男の荒い呼吸音さえ耳に届く。それぐらいの至近距離。いっそ、大声を張り上げたい凶荒に駆られる。狂気が感染してくるよう。理性や本能以外の名状しがたい衝動に突き動かされそうになる。だめだ、とにとりは自分を叱咤する。自分をしっかり持て。大丈夫、見つかっていないわ、と自分自身を励ます。そうしていないと恐怖に押しつぶされてしまいそうだから。ともすれば悲鳴を上げたくなってしまうほど、心は動揺している。鳴りそうになる奥歯をかみしめ、動揺で震える身体を抱え、縛るように押さえつける。息が上がる。けれど、激しく呼吸することは許されない。あっという間に見つかってしまうからだ。
せいを求め激しく繰り返される呼吸と殺したように静かな呼吸。どちらが殺人鬼のものでどちらが逃げ隠れているか弱い自分のもなのか。混乱する。
―――はやく、はやく、はやくはやくはやくはやくはやくはやく…はやくッ!!
呪詛のように心の中で繰り返される願望。
にとりの心が狂気の縁に片足をかけ始めている。
もう、駄目だとにとりが白目を剥き始めた刹那―――
「…………」
狂人は興味を失ったかのように一歩を踏み出した。
音もなく、安堵のため息を漏らすにとり。
助かった―――?
否、運命は残酷なり。
男が足を一歩踏み出した刹那、にわかに空が明るくなり、腹の底を振るわせるような低い音が轟いた。
雷だ―――!
にとりが思うより早く、雷に追随するようぽつりぽつりと雨が降り始める。
最初こそ生い茂る葉を適当に打っていただけの雨であったが、ものの数秒で激しさが増し、辺りに霧が立ちこめるほど激しく降り始める。まるで天のバケツをひっくり返したよう。ざぁざぁと降り注ぐ雨はどんなに小さな当たり判定でも被弾してしまうほど激しく、それは光学的に不可視になっているものでも同じだった。
ステルス迷彩に気づかれる………!
降りしきる雨の中、雑木林にまるで幽霊のように立つ影の姿が現れる。何も見えない中空で天から降り注いできた雨がソレに当たり、流れ落ちる。輪郭が露わになる。姿が消えていても見えなくなるだけで無くなったわけではないのだ。オプティカルカモフラージュの弱点の一つ…サーマル探査や高性能集音マイクが無くともそうと分る自然のソレ、大気を覆うほどの砂塵や霧、降りしきる雨。それがこのタイミングでにとりの元へやってきたのだ。
「…………」
当然のようにその姿を発見する殺人鬼。
すぐには腕を振り上げず、じぃぃっと降りしきる雨の中に立つ幻影の姿を眺めている。シリアルキラーとファントム。奇妙な組み合わせ。霧立ち上る雑木林の中で対峙する両者の姿は酷く幻想的でありながら強烈な絶意を催す神経毒じみた作用があった。
そうして殺人鬼は手斧を振りかざすと無造作に幻影………ステルス迷彩搭載のにとりのレインコートめがけソレを………
振り下ろした。
ばちり、と雷光が散る。ステルス迷彩の電子部品が壊れ、断末魔の輝きを見せたのだ。
けれど、それだけだった。にとりの悲鳴も、肉を切り裂き骨を砕く音も、そうして、狂人の手に凶器から伝わる手応えでさえもありはしなかった。
雨によって露わになったステルス迷彩の中…それを羽織っていたのはにとりではなく、にとりが途中で拾い杖代わりにしようとした木の枝だった。
そう、にとりは雨が降りそうなのを察して保険にとステルス迷彩を不可視の案山子に仕立て上げ、そちらに殺人鬼の注意が向くように仕向けたのだ。何のため? 殺人鬼の隙を突くためだ!
「今だ!!」
藪の中、自分の身体を落ち葉に埋めていたにとりはそこから飛び出した。転けたせいで汚れた格好はこうして落ち葉の中に身を隠すのにはうってつけだったからだ。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
泣きじゃくるような雄叫びを上げながら、捻った足の痛みも無視して殺人鬼に体当たりをかますにとり。余りの不意打ちに恰幅のいい男の身体も揺らめく。そのまま殺人鬼はにとりに突き飛ばされ、茂みの向こうへ転がり落ちていく。
位置もばっちりだった。この先は斜面になっていて、そこへ突き落とせば、この雨でぬかるんだ地面ではそう簡単に上れないようになっている。さぁ、今のうちに逃げれば…そう考えたところで、茂みの向こうから獣じみた怒声も斜面を駆け上がろうとする音も聞こえないことを知ってにとりはいぶかしげに思った。
速く逃げろと理性は急かすが、好奇心が勝ってしまった。
にとりはレインコートを立てかけるのに使っていた棒を拾い上げるとそれを武器に、おそるおそる藪へと近づいた。そうして、自分も落ちないよう側に生えていた木の幹をsっかりと掴んで斜面を覗きこんだ。はたして、そこには…
「ああっ…嘘だ。そんな…でも…」
斜面から生える杉の木を背もたれに、眠るように身体を横たえている狂人の姿があった。
鹿の頭は外れ、男の更に下へと転がっている。男の素顔は直視できないほど鹿の血と肉に汚れていた。
そうして胸からは一つ、男が武器にしていた使い込まれた片手斧が深々と胸板を突き破って刺さっていた。
にとりに突き飛ばされた拍子に何かの反動で自分の胸に突き刺してしまったのだろう。
どう見ても即死。
にとりを恐怖で追い詰めた男は自分自身の兇刃によって斃れたのだった。
「ああっ、そんな…殺すつもりは…無かったのに…」
その場にへたり込むにとり。
ショックの余り自我忘失している。
けれど、深々とついたため息は明らかに安堵のソレだった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その後、我を取り戻したにとりはふらつきながらも何とか飛び上がり、予定通り、魔理沙の家に向かうことにした。
いや、予定通りというよりは未だに恐怖で震える身体のままではとても一人っきりの家に帰れはしなかったからだ。
友人の心温かいケアを求めにとりは雨が上がったばかりの幻想郷の空を飛ぶ。
危なっかしいランディングで魔理沙の家の庭に着地する。約束の時間から酷く遅れてしまったみたいだった。
「ごめん、遅れたよ、ディアフレンド」
扉をノック。けれど、返事はなく、魔理沙は出迎えに現れない。
もしかすると遅れたことに怒っているのかもしれない、とにとりは鬱に思う。仕方なかったんだ、とも。
でも、事情を説明したところで信じてくれるかどうかは怪しい、とやっと冷静になりつつある頭で考える。遅刻の理由が殺人鬼に襲われたなんて。冗談にしてみれば最悪のレベルだ。
「いっそ、川に流されたなんて嘘でもついた方がいいかも…」
冗談交じりに乾いた笑い声をあげる。
と、その時にとりは魔理沙の家の扉がおかしいことに気がついた。
ドアノブがついていないのである。
ドアは何か鋭いものを叩きつけたように壊され、取っ手が見当たらない。どこへ、と視線を巡らせると玄関のすぐ側の庭の芝生の上に落ちていた。雨に濡れて心中の取っ手が光っている。その捜索の最中、にとりは酷くイヤなものを目にした。
「なに、アレ―――?」
鉄のような臭いをしたたらせる大きな肉塊。首からどろりと流れ出る血が雨水と混じり土を汚している。その死んだ獣の臭いを求めてもう大きな銀蠅が飛び回っていた。
頚のない鹿の、死骸だった。
「ああ、ああ、ああああああああ」
警鐘が鳴り響く。早く家に帰れ。帰って布団にくるまってじっとしていろと蟲が知らせてくる。早く帰れ、早く帰れ、自分が気づく前に。見てしまう前に。
そう、あの自分の襲った殺人鬼が来ていサイズの合わない服のことを。
全く違う体型の人間が着ていたせいで元の持ち主が誰なのか全く分らなかったあの服のことを。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
慟哭/悲鳴/嗚咽。
もう遅かった。
自分の顔に爪を立て喉から声にならぬ叫びをほとばしらせるにとり。その隣、殺人鬼の手によってドアの用途を果たさなくなった扉が、ぎぃぃぃと立て付けの悪い音を立て自然に開いていく。
同じ緩慢さで黙りこくったにとりは玄関の方へ視線を向ける。
そこに魔理沙はいた。
手斧で四肢五体六腑をバラバラにされた上で七孔全てに辱めを受けた魔理沙の身体が、そこにはあった。
うぇぇぇ、とにとりはその場で胃の中のものを全て戻した。
涙が流れ落ちた。
END
水曜やってたプレデター見逃した…
プレデターズ超観に行きてぇ…
ピクルス食いながら書きました。ポリポリ。
>>10/07/11>>追記
>>1さま、3さま
このお話に出てくる殺人鬼のモデルはメリケンの都市伝説からモロパクリです。いや、元の格好はスーツで鹿の頭を被って、しかも、都市から離れた山間に出てきたって感じでしたが、確か。
>>5さま、6さま
くとぅるふネタはいつか書きたいと思いつつ、所詮、デモベから入った私には暗黒神話体系を綴れるような実力はないような…ああっ、窓に!窓に!
………
馬鹿め! sakoは死んだわ!
sako
作品情報
作品集:
18
投稿日時:
2010/07/09 17:03:57
更新日時:
2010/07/11 23:03:51
分類
にとり
殺人鬼
ステルス迷彩
実際似たようなレベルの殺人鬼いるから困る。アメリカとか。
「誰かに毒を盛られたために血液が粉になってしまうので、血液を補充しなければならない」
と言って人の臓器をミキサーにかけて飲んだりする奴とかいるしな
それはそうと、にとりのような小心者キャラはこういうホラー話が合うね
しかし貴方の作品は地の分や恐怖の描写がいつもうまい。次も期待してます。
…ところで作品によくクトゥルフネタが混じりますが、それほど好きならいっそネタで主体にして書いてみてはw?
何が怖いって状況がリアルに頭の中で映像になるのが怖い
>クトゥルフネタ主体
なんという俺得
しかし、ピクルスすげぇ………
可愛いよにとりハァハァ
何故か殺人鬼の姿がスネークで脳内再生された……
なんで鹿の頭なんてものを被っているんだ!
頭の中に自分も一緒に追いかけられてるイメージが鮮明に沸いた
産廃でこういうのがあると
主人公が助かるかどうか判らないのが良いよね。
※1
先進国になるとゲイと異常犯罪が増えるってカーチャンが言ってた
今日プレデターズ観てきた
期待通りの愛すべき糞B級映画だったw
鹿の逸物サックで
アドミナブルアンドサイ
これはこえええええ!
やっぱ怪人は無言じゃねえと
にとりちゅっちゅ