満月の夜。
お嬢様は私に向かって言った。
「咲夜も不老不死になってみない?そうすればずっと一緒に居られるよ?」
お嬢様の言葉が嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
打ちふるえる胸の悦びをぐっと押し隠して、それでも私はあくまで瀟洒にこう答えた。
「私は一生死ぬ人間ですよ。大丈夫、生きてる間は一緒にいますから」
満月の夜。
大きな大きな、満月の夜。
永遠の夜の話だった。
■■■■■
「咲夜、喉が渇いたわ」
いつも通りの時間。いつも通りの場所。いつも通りの言葉。
お嬢様は振り向くこともせず、後ろに控えた私に向かってそう言った。
「かしこまりました」
それだけ言い、時間を止める。
目をつむる。目を開ける。
たったそれだけの動作で、この世界は私だけの世界となった。耳を澄ましても、なんの物音も聞こえてこない。完全なる、静寂。私は一礼をすると、ゆっくりとお嬢様の部屋をあとにした。
焦る必要はない。文字通り、時間は山ほどあるのだ。時間の止まった世界の中で時間は山ほどあるというのはおかしな話なのだが、真実であるのだから仕方がない。
私は一人、紅魔館の中を歩いていた。
廊下では、妖精メイドたちが洗濯ものを運ぼうとした姿勢のままで止まっているのが見える。大きなカゴにいっぱいの洗濯ものを入れているが、容量以上に入れているために、彼女たちの通った後の床の上に、せっかくの洗濯ものが点々と散らばっている。
「まったく」
私はため息をつくと、落ちていた洗濯ものを拾い、彼女たちの籠の中へと入れてやる。妖精メイドたちが頑張れば頑張るほど、私の仕事が増えていく。ならばいっそのこと妖精メイドを全員解雇すればいいだけの話なのだが、それでは館内がさびしくなるというので、結局は現状維持が続くというわけだ。
「今日は・・・どの紅茶にしましょうか?」
紅魔館の台所についた私は、棚に無数に並べてある紅茶の葉を取り出しては吟味していった。お嬢様は紅茶が大好きだ。そのお嬢様に、一番喜ばれる紅茶を作ってさしあげなければ。
ミルクティーをつくる。お嬢様は、ミルクがお好きなのだ。私がミルクティーをつくる時は、まず最初にミルクを入れる。先に入れるのには理由がある。熱い紅茶の中にミルクを入れると、ミルクの中のタンパク質が変化してしまい、風味をそこねてしまうからだ。茶器は先に暖めておく。水は、硬度の高い水を使う。そのことにより、暗い色合いの紅茶が出来上がる。
「では」
心を込めた紅茶を持ち、お嬢様が待たれている部屋へと戻る。
廊下にはたくさんの妖精メイドがいる。その全てが止まっている。こんなにもたくさんの命に囲まれているというのに、今、この瞬間、世界に存在しているのは私だけ。
そんな異常な状況も、慣れてしまえばどうということもない。
「お嬢様、お待たせいたしました」
誰にも聞こえてないとは分かっていながら、それでもそう声をかける。
部屋を出た時と同じように、目を閉じる。
目を開ける。
これで、時は再び動き出す。
・・・はずだった。
「え!?」
空気が震えていない。
音が聞こえない。
お嬢様はうっすらと半目のまま、少しの微笑をたたえたままで止まっていた。
私は再び目を閉じる。先ほどより、もっと強く目を閉じる。瞼の裏側が真っ黒になり、少し星が瞬いているかのように感じる。
心音が聞こえる。私は焦っていた。どうして?何故?どうして、元に戻らない?
目を開けた。
やはり、世界は動いてはいなかった。
■■■■■
私は途方にくれながら、立ちつくしていた。
時間が、動かない。まるで、私一人だけが時間の川の流れからひょっこりと取り残されてしまったかのようだ。
「お嬢様」
呟いてみる。お嬢様は何の反応もしめさない。動くこともない。吐息も聞こえない。心臓の脈打つ音すらしてこない。この世界では、お嬢様は、生きてはいない。
いや、生きていないのはお嬢様だけではなかった。
私は急いで紅魔館の大図書館へと向かった。途中で幾人もの妖精メイドたちとすれ違う。その全ての動きが止まっていた。
中には、お盆をもったまま転んでいるメイドもいた。そのメイドはありえない格好で止まり・・・手にしていたお盆からこぼれおちるコップの中の水も、空中で綺麗な円になって止まっていた。
「パチュリー様!」
重い図書館の扉をあける。
暗い。
図書館の主の意向により、本を傷めない程度の照明しか照らされていない図書館は本当に薄暗かった。
暗いのは、私の心なのかもしれない。
私は静かな・・・いつも以上に、異常なほどに静かな図書館の中を歩くと、その先で今まさにページをめくろうとしているパチュリー様の姿を見つけた。
細い綺麗な指先で、ページを中ほどまでめくっている状態のままでパチュリー様は止まっていた。その傍らで、何をいうこともなく、頭に小さな黒い蝙蝠の羽をはやした小悪魔が胸に本を抱いたままの姿勢で止まっている。
「パチュリー様」
当然のごとく、返事はなかった。失礼だとは思ったのだけれども、そっとパチュリー様の指を触ってみた。何の抵抗もない。私の動かした通りにパチュリー様の指も動き、私が動きを止めると、パチュリー様の動きも止まる。
まるで、精巧につくられた人形のようだった。生きているかのよう、という表現がこれほど似合うものもあるまい。
私は、そっと下からパチュリー様の瞳をのぞいてみた。私の姿が映る。心配そうな、瀟洒な色がまったく残っていない、私の姿。
「あぁ」
私はいてもたってもおられなくなり、走って図書館を駆け抜けた。
普段なら、たとえば魔理沙が図書館にやってきたときに「図書館では走らないように」と注意する私なのだが、今はそうとも言ってられなかった。静かな図書館の中を、走り去っていく。
紅魔館から外に出た。
ギラギラとした太陽が私を照らす。こんな太陽の下では、お嬢様も博麗神社に散歩に行くとは言われないだろう。もし言われたならば、いつもよりも生地の厚い日傘を準備しなければいけないだろう。
門には、門番である美鈴が立っていた。
しっかりを腕を組み、きっと紅魔館の外を睨みつけている。基本的に、美鈴は優秀な門番なのだ。魔理沙や霊夢がちょくちょく門を突破して、そのたびに「どうしてあなたはいつもそうなのかしら?」と皮肉を言うこともあるが、心の底では美鈴がよく頑張ってくれているということを私は知っているし認めている。
「ほら、美鈴、なんとか言いなさい」
私は、門の外と中とを何度も何度も入ったり出たりしてみた。そのたびに、美鈴の方を振り向く。だが、美鈴は動かない。視線すら動かさない。
私は絶望の中、その場にしゃがみこんだ。
紅魔館は湖の中にたった屋敷だ。
私の眼前には広い広い湖がひろがっている。いつもなら風でさざめいている湖面が、今はぴくりとも動いてはいなかった。
まるで、氷のようだ。
冬になると湖面が凍りつくことがあるが、今の湖がまさにその状態であった。ただし、冬場氷ついた時は身をさすような寒さがあるのだが、今は寒くもなんともない。
凍っているのは湖面ではなく、時間の方だった。
「夢」
夢に違いない。
私はそう思い、思いながら、心の奥底ではこれは夢ではないと気づいていながら、それでも自分で今は夢の中にいるのだと言い聞かせたくて、もう一度目を閉じた。
ぎゅっと。
力を入れて。
目が痛くなるくらいに。
そして再び目を開けた時。
やはり、世界は凍ったままだった。
■■■■■
その日一日中、歩き疲れた私は紅魔館へと戻ってきた。
一日、という表現は正しいものではないかもしれない。時間は止まっており、太陽は地面を照らしたままで動くことはなく、動いているのは私だけなのだから。
どこに行けばいいのか分からなくなった私は、どこにいくこともなくふらふらと屋敷の中をめぐった後、最終的に、お嬢様のいる部屋へとたどり着いていた。
泣きたくなる。
叫びたくなる。
けれど、お嬢様の姿を見ると、そんな弱い自分でいてはいけないのだと思い知らされる。私は昔を思い出す。生きているのか、死んでいるのか、分からなかった自分を。時を止める力を、何の気なしに使って見せ、周囲の大人たちから悪魔の子と言われ虐げられてきた自分を。
私は今、紅魔館にいる。
私がいていいのは、この紅魔館だけ。
私はやおら立ち上がり、お嬢様を見つめると、うやうやしく礼をした。
「有難うございます」
何に対しての有難うなのかは分からなかったが、そう言わざるをえなかった。
今日は駄目だった。今日、といっていいのかは分からないけれど。
時間の狭間に落ち込んでしまったのは、自分が今まで何の気なしに時間を弄んでいたせいなのかもしれない。
もしかすると、時間を止めることのできる限界というのは決まっていて、知らず知らずのうちに、その限界を超えてしまっていたのかもしれない。
「それでも」
私は、紅魔館のメイドなのだから。
必ず、お嬢様のところに戻ります。
手を伸ばせば触れることのできる距離にいながら、私のお嬢様との間には絶望的な断絶が広がっていた。
それでも。
私は、必ず戻って見せる。
この世界ではなく、お嬢様のいる世界に。
■■■■■
決意が揺らぐまでに、それほどの時間はかからなかった。
時の流れのない世界で、時間を気にするのは正しいのかどうか分からないけれど。
最初にあったのは、焦り。
なんとかして、早く世界に戻りたいという焦り。
次に来たのは、恐怖。
このまま戻れないのではないかという、底知れぬ恐怖。
その後に来たのは絶望。
もう終わり。どうしようもないという絶望。
それから、怒り。
どうしてこの世界で私だけ?という怒り。
そして・・・虚無。
何もない。何もない。何もない。何もない。
「ははははははははははははははははははははははははははは」
私は笑った。
空を見て、いつ果てることもなくずっと地面を照らしつけているあの憎らしい太陽を見つめて。
この世界で、私だけが動いている。
一番怖いのは、一番我慢できないのは、音がないことだった。
本当に、まったく、何の物音も聞こえない。完全なる静寂だった。生命が生きていくうえで、音を発しないことは決してない。心臓の音、呼吸の音、動く音、何をするにしても、どんな些細なことでも、生きている限り音はするものだ。
それが、まったく、聞こえない。
音のない世界は、死んだ世界だ。
「ははははははははははははははははははははははははは」
私は笑った。笑うことで、狂人を装うことで、ようやく、私はまだ狂っていないのだと実感することができた。この世界の中で、音を出すことができるのは私だけだ。もしも私がいなくなれば・・・この世界は、完全に死んでしまう。
ガン、ガン、ガン。
私は手にした箒で、紅魔館の壁を叩いていた。
私は何かの音を立てないと、気が狂いそうだった。それでも、ずっと動き続けることはできない。
どれだけ大きな音を立てたとしても、結局は私は疲れ切り、壁に背をつけてその場にしゃがみこんでしまうのだ。
そうすれば、世界は静寂に包まれる。
否。
正確には、無音ではない。
私の心臓の音が、脈の音が、体を流れる血液の流れる音が、耳の裏側から聞こえてくるからだ。
その音によって、私は「まだ生きている」のだと実感することができ・・・同時に、世界が死んでいるのだと再確認させられることとなる。
時間の経過は分からない。
私が手にした銀時計は、あの、お嬢様に紅茶をさしあげようとした時のまま、固まって動かなくなっている。
どれだけの間、自分がこの死の世界に、時の止まった世界に取り残されているのかは分からなかった。
最初は、自分のした食事の時間を覚えていた。
ただそれも、正確な時間であるとは分からなかった。私の中の体内時計はどうなっているのだろう?
眠たくなったら、眠る。太陽が照りつけるままなので、まぶしくて眠れないときには、地下室にいって妹さまの隣で眠ることにしていた。
妹さまは、地下室の中でお気に入りのくまの人形を宙に投げたままの姿勢で止まっていた。私はそのくまをそっと手に取り、妹様の膝の上に置いていた。
私が眠る時、毛布は自分の部屋から持ってきていた。
妹様の傍には行かない。
恐れ多いというのもある。大事な主人であるか、というのもある。
だがそれ以上に。
まったく、物音がしないのが、怖いのだ。
まるで、妹様が、そのくまのぬいぐるみと同じように、命のない存在なのだと感じてしまうのが怖いのだ。
「お嬢様、お嬢様、お嬢様」
私はガタガタ震えながら、それは寒さではなく、怖さのためであり。
私の記憶の中では、この紅魔館の中にはお嬢様がいて、妹様がいて、パチュリー様がいて、美鈴がいて、小悪魔がいて、メイド妖精たちがいて。
たくさんの命に囲まれていたのに、今もその命に囲まれているはずなのに、それなのに、凍りついた死の世界の中に自分ただ一人が取り残されているのだと実感してしまうのが怖くて、それでガタガタ震えていた。
記憶がだんだんとあやふやになっていくのも怖かった。
実は私の記憶の方が間違っていて、最初から誰も生きてはいなかったのではないだろうか?という妄想に取りつかれるのが怖かった。
現実とは何だろう?
目を閉じる。
目を開ける。
何度繰り返しても、目の前の光景は変わらない。
凍った時間だけが、ずっと永遠に続いていくかのようだ。
月のものは、ちゃんとやってきた。
いつもは、どうしてこんなめんどくさいことが起こるのか、もういっそのこと、妊娠でもしてしまえばこんな苦労はしなくてもすむのに・・・と思っていたことがあったが、今では逆に、このことが有難かった。
「まだ、私の中に、時間が刻まれている」
食事の回数も。
睡眠の回数も。
呼吸の回数も。
何もかも忘れたとしても、月のものだけはちゃんときっかりめぐってくる。
どれだけの月日が流れたのだろう?
それを知るすべは、自らの女性の部分である月経だけが知っていた。
股の間から鮮血が流れ落ちるたびに、あぁ、これでまた、一人きりの一月が過ぎ去ったのだと、私は思い知らされることになる。
■■■■■
紅魔館から外に出ることもあった。
私が最初に向かったのは、竹林だった。
あの、時間を超越した二人なら、私のこの状態を感じてくれるのかもしれない。分かってくれるかもしれない。もしかすると、時間に閉じ込められているのは私だけではなく、同じように、あの二人・・・輝夜と永琳も一緒に閉じ込められているのかもしれない。
心をドキドキさせて向かった永遠亭で、その希望は打ち砕かれた。
輝夜も。
永琳も。
二人とも、止まっていたのだ。
「・・・なによ」
貴女は、永遠と須臾を操ることができる存在じゃないの?どうして、時に支配されているのよ?
私は悪態をつく。あらんかぎりの悪態をつく。聞くものが聞いたら、殺されても仕方のないほどの悪態であり、普段の咲夜を知る者からはまさかこの瀟洒なメイドがこんな言葉を吐くことができるとは夢にも思わない程度の罵詈雑言だった。
しかし、言葉の後にきたのは沈黙だった。
「・・・」
私は、肩で息をしていた。そっと後ろに気配を感じたような気がして、振り向く。そこに気配は何もなかったが、永遠亭に訪れた時と同じように、永琳がそっとその場に座っていた。
「・・・怒った?あなたの大事な大事なご主人様を馬鹿にされて、怒ったの?」
私はうすら笑いを浮かべた。永琳の表情に変化はない。もしも、私のお嬢様に対して私がさっき言ったような罵詈雑言をいったものがいれば、私はたとえ自分の体がどんなものになろうとも、地の果てまでも追いかけて、そのものを生まれたことを後悔するほどに追い詰めることだろう。
永琳だって、同じはずだ。
同じ、「仕えるもの」として、気持ちはよく分かる。
「悔しいでしょう?情けないでしょう?あなたの大事なご主人様が、こんな目に合わせられているのよ?」
私はそう言いながら、輝夜の髪の毛を引っ張った。
何の抵抗もなく、輝夜はその場に頭から倒れこむ。意識がないのだから、受け身もなにもとることができない。顔面から、その綺麗な鼻から、床にたたきつけられた。
それでも、永琳は動かない。
視線すら動かない。
今の時間に、いない。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
私は気が狂いそうだった。
「なによ!どうしてよ!なにかいってよ!私を一人にしないでよ!殺してもいいから、犯してもいいから、痛くしてもいいから、だから!」
私は、崩れ落ちる。
「私を一人にしないで・・・」
しかし、返事はなかった。
私の言葉がながれおちた後は、残されるものは、完全なる静寂。
沈黙。
■■■■■
稗田阿求の所にも行ってみた。
誰も返事が返ってこないことが分かっていながら、
「失礼します」
と声をかけて屋敷の中に入る。
歴史を描きとめている彼女の書斎に入り、ちょうど筆を持ったままの姿勢で止まっている彼女を見て、またため息をつく。
ここでも、時間が止まっている。
ここでも、歴史が止まっている。
私には有り余るほどの時間があった。しばらくは、この稗田阿求のいる屋敷が私の通い場所になった。書物を読む。ここ幻想郷の歴史を読んでいく。紅魔館から屋敷までの道のりはかなりのものがあったが、歩いている間に日が暮れるということはなかった。
世界はずっと昼で、夜の存在はなかった。
いつしか、私は夜の存在を忘れていた。
夜?そんなもの、本当にあっただろうか?
記憶にだんだんと霞がかかってきてぼぅっとしてくる。
人は、一人で生きていくには弱すぎる。
私は強い人間だと思っていた。実際、人間を強い存在と弱い存在に分けたなら、私は強い部類に入るだろう。だが、それがどうというのだろう?そんな分け方に意味はない。時間に取り残された私には、本当のことが分かった。
人は強いも弱いもなく、すべからく、弱いものなのだ。
自分の存在は、他人という存在があって初めて認識できるものなのだ。私は本当に生きているといえるのだろうか?
こんな閉ざされた世界で、誰にも何も合うこともなく、まるで人形だらけのこの世界で、一人で息をして、一人で食事をして、一人で寝ることに、なんの意味があるというのだろう?
私は稗田の屋敷でたくさんの本を読んだ。本だけは、私に語りかけてきてくれる。
人間との会話はないけれど、書物との会話をすることはできた。
何百年も前の人間の言葉が、この時の止まった世界の私に届いてくる。書いた本人も、まさか何百年も後で、こんな状況でよまれて、そして感謝されるとは夢にも思わなかったことだろう。
私も本を書こう。
閉ざされた時間の中で、私がそう決意した。
■■■■■
夜もない世界。
音もない世界。
紅魔館の中で、私がペンを走らす音だけが響いていた。
何を書けばいいのかは分からない。ただ、私の「言葉」を届けたかった。
「お嬢様」
閉ざされた時間の中でも、それでも私は、自分の体内で一日が過ぎたと思えば、その時にまた、お嬢様の為に紅茶を入れていた。
お嬢様は、私に対して喉が渇いたと言われた。
従者である私がすべきことは、主人の思いをかなえることだ。
時間の流れないこの世界では、物は腐敗しない。
ほこりも舞いあがらないので、掃除をする必要もない。エントロピーも増大しない。
完全に清潔な世界は、死の世界だ。
意味のない行動なのかもしれない。それでも、私は、お嬢様のために出来たての紅茶を差し上げたかった。
いつか、時間がもとに戻るかもしれない。
そうすれば、お嬢様が私の出された紅茶を飲んでくださるはずだ。その際に、少しでも美味しいものを飲んでもらいたい。
それだけが、私の願いだった。
■■■■■
私は筆を止めた。
背を伸ばす。
今日の所は、このあたりにしておこう。最近、体が疲れるのも早くなってきた。
どれだけの本を書いたのだろう?意味のある言葉もあるし、意味のない言葉もあるかもしれない。私は大きな声をあげてみた。
「あーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」
言葉はすぐに空気の中に溶けて消えて行ってしまった。
何も残りはしない。私の言葉は、誰にも届かない。
だから、本を書く。
いつか、凍った時間が溶け始めた時に、私の言葉が届くように。
私は、自分の掌を、そっと見つめてみた。深い皺が刻まれている。しわしわの手だ。血管も、青暗くなって私の手首からすぅっと伸びて浮かんでいるのが分かる。指を動かすたびに、ぽきぽきといった音がなった。ずっと筆を持っていたからというのが、理由の一つ。もう一つの理由は、私が年をとったということだろう。
「そういえば」
月経が来なくなって、もうずいぶん長い時間がたつ。
時間の流れを知るすべは無くなってしまった。今も、この紅魔館の外ではギラギラとした太陽が地面を照りつけているし、それでも地面が熱くなることはないし、門の外では美鈴がじっと外を見つめて侵入者を排除しているし、図書館ではパチュリー様がページを開こうとしているはずだ。
私は立ちあがる。
もうすでに、しゃんとはっきり立つことは出来なくなってしまっていた。
腰が曲がっている。
人間は、年をとる生き物なのだ。
いつかは死ぬ生き物なのだ。
昔は・・・時の止まった世界の中で昔というのも変な話なのだが、それでも「昔」という表現以上の言葉を私はついに見つけだすことが出来なかったから「昔」と使わせてもらうのだが、その昔は、私も紅魔館の外をよくで歩いていた。
稗田の屋敷にはよく通ったし、博麗神社にも、魔法の森にも、永遠の竹林にも、この幻想郷の中で私の足の踏み入れていない場所はないだろう。
その全ての場所にたくさんの人がいて、その全ての人が動きを止めていて、私一人が歩いていて、そして、私一人が年をとっていく。
ふと、鏡を見つめた。
そこに立っているのは、メイド服を着た老婆の姿だった。
「いつの間にか、年をとったねぇ」
私はそうつぶやき、曲がった腰に手をやると、頑張って背を伸ばそうとする。しかしよる年波には勝つことが出来ず、私はくらっとめまいがしたのでそのまま椅子に倒れこんでしまった。
「年はとりたくないねぇ」
しゃべり方も、わざと老婆のように変えてみる。
誰も聞くものもいないが、一応、それが人間というものなのだと思う。
私はしばらく息をととのえた後、お嬢様のいる部屋へと向かった。
何事も起こらないと分かっていても、それが私の、一日の終わりを告げる一種の行事となっていた。
お嬢様は、あいもかわらず美しい少女の姿のままで、あの時と同じ姿で佇んでおられた。
「紅茶をおさげいたします」
そう言って、私は紅茶をさげると、ふかぶかと一礼をする。
「また、明日」
明日がくるのかは分からないし、そもそも時間の止まった世界の中で「明日」と表現すればいいのかも分からないのだが、それでも、私の中でだけは時間が流れていた。
・・・もう、その時間も残り少ないと分かっていたけれど。
■■■■■
私には、虫歯がなかった。
時の止まった世界では、虫歯も、病気もないのだとう。
細菌すらも、ウィルスすらも、凍った時間の中では無意味で無価値なのだ。
ただ、少しずつ、私の時間は朽ちて行っていた。
時間は私の体を壊していっていた。
どれだけの時間がたったのかは分からない。
私は時間から取り残されていたのだから。
その日も、明るい部屋の中で私は目を覚まし、節々が痛む体をそれでも動かして、まずは朝の紅茶をつくっていた。
お嬢様に、美味しい紅茶を飲んでもらいたい。
どれだけ時間がたっても、この気持ちだけは消えることがなかった。
私が狂うことなくこの時の凍った世界で生きることができたのは、お嬢様のおかげだった。そもそも、お嬢様がいなければ私は存在する意味もないのだから。
棚も、高い段に置いてあるものは手に取ることが出来なくなっていた。
いつのころからか、私は全てのものを、手の届く位置に置くようにしていた。
杖をつく。
紅魔館の廊下の中を、私の歩く足音と、杖の音だけがこつんこつんとさびしく響いていく。
メイド妖精がいた。
相も変わらず、洗濯ものを手にしたままだ。
私はにこりと笑い、「今日もおつかれさま」とだけ言って、その横を通り過ぎた。
「お嬢さま、失礼いたします」
そう言って礼をして、扉をあける。
部屋の中には、私の主人である、レミリア・スカーレット様の後ろ姿が見える。
私の一生は、この背中を見るためだけにあった。
「お嬢様、紅茶をお持ちいたしました」
そっと、テーブルの上にカップを置く。
「今日は、アールグレイです」
ことん。
紅茶の香りが部屋に充満する。
「アールグレイは、ベルガモットの落ち着きのある芳香が大きな特徴でして・・・」
その言葉を言いきることなく。
私は、倒れた。
目の前が暗くなる。
耳の奥で、血液のごぉっとした音が聞こえる。
何かが、どこかで、切れたのが分かった。
ごふっと、私の喉から血の塊が出てきた。
あぁ。
そうか。
私は、ここまでなのだ。
意識がだんだんと白濁していく。
こんなにゆっくりと、最後の時を迎えることが出来るとは思わなかった。
「・・・お嬢様・・・」
(私は一生死ぬ人間ですよ。大丈夫、生きてる間は一緒にいますから)
指が動かない。
指が冷たい。
あぁ。
「・・・咲夜は、お嬢様にお仕えすることが出来て、幸せでした・・・」
意識が混濁していく中。
そっと。
お嬢様が、ほほ笑んだような気がした。
■■■■■
■■■■■
■■■■■
「咲夜、喉が渇いたわ」
レミリアはそう言うと、鼻をひくひくさせた。
「あら」
気がつくと、テーブルの上にカップが置いてある。
「さすが咲夜ね」
咲夜の姿はない。
いつも通り、時間をとめて紅茶を準備してくれたのだろう。
レミリアはそっとカップを手に取り、一口すすった。
「美味しいわ」
そして、カップを置く。
おだやかな時間が流れる。
扉の向こうでは、妖精メイドたちのせわしく動き回る音が聞こえてくる。
窓の向こうでは、風が窓を揺らす音が聞こえてくる。
レミリアは陽光に弱いので、昼の間は窓という窓を閉じているのだ。
「いい香り」
紅茶の匂いを楽しむ。
咲夜の入れてくれる紅茶は美味しい。今まで様々なメイドを雇ってきたが、咲夜ほど美味しく紅茶を入れてくれるメイドはいなかった。
とくに、今日の紅茶は美味しい。
いつも美味しいのだが、それ以上に、美味しい。
まるで、咲夜が、長い長い時間をかけて熟練の腕をさらに成長させたかのような、完璧な味だ。
「咲夜」
返事はない。
咲夜は、ここにはいない。
「いいわ」
レミリアは紅茶をまた一口すすった。
今日はいい天気になりそうだ。
こんな日は、博麗神社にいってこよう。
日差しが強いだろうから、咲夜に日傘をさしてもらおう。
いつもと同じ日が始まる。
いつもと同じ時間が流れる。
咲夜は、掃除にでもいっているのだろう。
この広い広い紅魔館を、実質的にはたった一人で切り盛りしてくれているのだから。
「咲夜が帰ってくるまで、それまで、ここで紅茶を飲みながら待つことにしましょう」
そして、レミリアは再び、咲夜の入れてくれた紅茶をすすった。
窓の外では、柔らかな、温かい風の音が聞こえてきていた。
おわり
時が止まった小さな檻の中にいる咲夜さんが切なくて愛おしい
ああ、咲夜さんの淹れた紅茶が飲みたい
永遠亭や本の件もすごくよかった
まさか産廃でこんな気分になるとは思わなかった
お婆ちゃんになってもメイドの精神を忘れず主に尽くす・・メイドの鏡です
感動した。実に。
ずっと飲まれることのない紅茶をずっと・・・
あとやっぱり名前分けるのはいいですね。
「投稿者:うらんふ」だとビクッっとなってつい身構えちゃいますからw
『目の前で輝夜が突然鼻血をドバドバ出して倒れていた』
な…何を言ってるのか(以下略)
面白かった。