風が吹いて来ていた。
諏訪子は瞳を閉じ、意識を集中する。
人の声が聞こえる。
人々が、山道を登ってくる音。
足音。息遣い。木々のざわめく音。嘆き。
(・・・で、あるか)
社の上に、胡坐をかいて座る。けだるそうな格好をしたまま、眼下に人々が集まってくるのを見下ろす。
夜。
山は暗い。
人々は手に松明を持っており、それが山道をぼぉっと明るく照らしていた。
虫たちが明りに引きよせられて松明へと飛び込み、じゅっという焼ける匂いと音とともに消えていく。
人々が何やら祈っている。
人々は白いゆったりとした服装をしており、髪の毛を顔の横で縛っている。
何を言っているのかは聞こえない。聞く必要もない。
諏訪子は空を眺めた。今宵は新月だ。月の姿はない。
どれくらいの間、そうしていたのだろうか。
諏訪子が気がついたのは、夜風が冷たくなり、頬に寒さを感じたからだった。
すでに、人々はいない。
社には、静寂だけが支配していた。
否。
それは間違っていた。
社の前に、一人の少女が座っていたのだ。
板の上に正座しているその少女は、全身、真っ白な布で包まれていた。口と両目が布で覆い隠されており、両手は荒縄によって後ろで縛られていた。
震えているのは、寒さのせいだけではないであろう。
暗い夜の社の中、少女は自分の運命を感じ取りながら、がたがたと震えていたのだ。
(今年は、そなたか)
一瞥すると、諏訪子は地面へと飛び降りた。舌なめずりをする。かぶっていた土着神の象徴でもある帽子が、ぬらりと蠢いたような気もする。
言葉は発しない。ひたひたと、ゆっくりと、震えている少女の前へと歩いていく。
「助けてください・・・」
震えながら、少女はいった。両目はふさがれているが、耳は解放されている。諏訪子の足音だけを聞いて、そのほうへと顔を向けて、もう一度いった。
「助けてください・・・」
その願いは聞き遂げられることはなかった。
目をふさがれている少女は見ることが出来なかったが、諏訪子のゆったりとした服装の内側、ちょうど股間のあたりから、無数の白い蛇のようなものが何本も何本も顔を出していたのだ。
数えきれないほどの触手。
白い触手。
瞳のないその触手は、まるで地下深くに生息しており、視力を必要としない地下生物のようにもみえた。目の代わりに、二つの鼻孔がひくひくと、今宵の生贄を求めて蠢いていた。
「助けてください・・・」
がぶり。
少女の願いは、聞き遂げられることはなかった。
白い触手たちは口を大きく開くと、まるで紐が二つに裂けたかのように、ギザギザの鋭いのこぎり状の歯で少女にかぶりついたのだ。
「・・・っ」
言葉にならない絶叫が響く。
生きたまま、少女は食われる。
一番恐ろしいのは、見えないことと、気を失えないことだった。
自分が食べられているのは分かる。
だが、気を失うことは出来ない。
ぐちゅぐちゅと自らの肉が咀嚼されているのを感じるのに、痛みはずっと続いているのに、気を失うことは、楽になることは出来ないのだ。
ある種の蜘蛛は、獲物を捕食する際に、体をしびれさせる液体を獲物の体の中に混入するという。目的は、逃げられなくすること。
しかし、諏訪子の用いる白い触手たちの目的は、その蜘蛛たちとは違っていた。
目的は、
「殺されることを、出来るだけ長く、実感させること」
なのである。
痛みは残す。感覚も残す。思考も残す。
生贄の少女は腕を食べられ、足を食べられ、耳を食べられていた。まずは、体の先端から少しずつ捕食されていくのだ。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」
声を荒げても痛みは消えていかない。それでも、声を出さざるを得ない。逃げだしたい。でも、逃げることは出来ない。
最初は、邑の人々に縛られていたから逃げることができなかった。少女の体力では、荒縄を切ることは出来ないのだから。先ほどまで座っていたひんやりとした板は、今では少女の噴き出す血によってぬめりと濡れていた。
死にたい。死にたい。死にたい。
楽になりたい。
楽にはさせない。
少女は生きながら捕食されていた。
ぐちゅ・・・ぐちゅ・・・
彼女自身の体が噛み砕かれ、飲みこまれていく音が聞こえてくる。逃げたい。でも逃げれない。もう足はないのだから。足は、食べられてしまったのだから。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
助けて助けて助けて助けて助けて
お母さんお父さんお兄ちゃんみんな
でも、助けなんてくるわけがない。
少女をここに連れてきたのは、そのお母さんなのだから。
少女をここに連れてきたのは、そのお父さんなのだから。
少女をここに連れてきたのは、そのお兄ちゃんなのだから。
少女をここに連れてきたのは、そのみんななのだから。
どうして。どうして。どうして。どうして。
どうして私が、こんな目に合わなければならないの?
ぐちゃり。
少女の右の目玉が白い触手に食われた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
悲鳴をあげても誰も助けてくれない。痛い。痛い。痛い。もう、右目が無くなっちゃった。もし助かったとしても、これから先、手も、足も、右目も無い状態で、どうやって生きていけばいいの?
ぐちゃり。
少女の腹が引き裂かれ、中から内臓が引きずり出された。
「ぐぎゅるるるうるるるるるるるるる」
少女の悲鳴はすでに人間の悲鳴ではなくなっていた。生きながら捕食され、死ねない悲鳴。
出来るだけ長い間、少女に絶望と苦痛を与え続けること、それがこの白い触手たちの目的であった。肉が必要なわけではない。肉を食うのは、単なる手段でしかなかった。必要なのは、目的なのは、純粋な「恐怖」
「だぁぁぁぁぁぁぁすぅぅぅぅぅぅぅぅげぇぇぇぇぇぇぇぇでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
少女は生きながら食われ、思考だけはぐるぐるぐるぐる回転し、どうして自分がこんなことになったのか、どうして自分はあの時、一番右端のクジをひいたのか、どうしてあのときは邑の為に頑張りますなんていったのか、どうしてあれから今まで邑のみんながよそよそしく優しくしてくれたことを有難いなんて思ってしまったのか、と考え続けていた。
全ての感謝を打ち砕く痛み。
今まで生きていた全ての人生を捧げてもいいから逃げだしたくなる痛み。
痛い痛い痛い痛い痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
痛いよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぐちゃり
体からほじくりだされた胃が、中身を拭き散らしながら噛み砕かれた。見えないことが、より一層の恐怖を感じさせられる。
今、自分は、どんな姿になっているのだろう?
ぐちゃり。
残っていたもう一つの目も食べられた。これでもう、多い隠された布をはいだとしても、何もみることは出来ない。
どうして、こんな状態のままですら、私は死ねないのだろう?殺してもらえないのだろう?殺してくれれば楽になるのに。
ぐちゃり。
心臓が抜き取られた。鮮血がばしゃっと顔にかかる。ぬるりとした暖かい感触を顔一面に感じる。あぁ、よかった。これで死ねる。心臓をつぶされて生きていける生物なんていないのだから。
でも、死ねなかった。
痛みだけは残っている。手を、足を、腸を、胃を、心臓を、瞳を、鼻を。
全てを失いながらも、少女は死ぬことすらできなかった。生かされていた。
「まだ、死ねないよ」
声が聞こえた。透き通った、綺麗な声。
神様の声。
「あんたは、ずっと、そのままなんだ」
本当の恐怖は、殺されることではなかった。殺されないことこそが、恐怖だった。ぐちゃりぐちゃりと捕食された自分の肉が、飲みこまれることなく、そのまま地面に吐き出されていた。
食べてくれることすらしてくれない。ただ単に、恐怖を与えるだけ、絶望を与えるだけが目的なのだから、食べる必要すらない、だから、捨てる。
じゃぁ、なんのために、私は。
絶望。恐怖。悲しみ。怒り。
その全ての感情が、もはや首から上と脳みそだけになった少女を支配する全てだった。
(あぁ・・・)
その肉塊を見て、諏訪子は、心の底から思った。
(美味しい)
諏訪子は肉を必要としない。諏訪子に必要なのは、恐怖であった。うねうねとうごめく白い触手は、諏訪子を包み込んで、まるで白い繭で包まれているような感じだった。
諏訪子はまだぴくぴくと動いている脳みそをさらけ出した肉塊を見て、その脳みそがまだ死にきれてなく、思考を続け、恐怖を感じ続けているのを感じて、思わず、じゅるりと舌なめずりをしてしまった。
なんて、美味しいのだろう。
力が満ち溢れてくるのを感じる。体の奥底から、力が沸き起こってくる。この一食だけで、またこの1年間を生き延びることが出来るだろう。
人は、肉を食べる。
神は、心を食べる。
そのどこに違いがあるのだろう?諏訪子はただ、食っただけだった。
(あんたも、どうして自分がそうなったか分からないだろうけど)
ひくひくと蠢く脳みそ。まだ、生きている脳みそ。
(私も、分からないんだ)
人間をつくったのが神なら、その神をつくったのは何なのだろう?
諏訪子は、信仰によっていきている。その信仰の大本となるのが、恐怖だった。気が付いたら、諏訪子は恐怖を食べていた。自分が生まれた時のことなど覚えていない。記憶にあるのは、いつか、この山の社の中で、恐怖をくらっている自分の姿だけだった。
(雨を降らせよう)
諏訪子は手をかかげた。
今は夜。
明日、日が明けたら、雨を降らせよう。それは神徳となり、また村人が潤うことだろう。たった一人を神にささげるだけで、邑が、助かるのだ。
諏訪子はしばらく目を閉じ、大気の流れを感じ取っていた。空気中に含まれる湿気を感じ取り、雨の降らす場所を思考する。
その時。
諏訪子の鼻腔に、血の匂いが入り込んできた。
振り向くと、まだ少女の脳みそが蠢いている。
「・・・ごちそうさま」
それだけ言うと、諏訪子は脳みそを踏みつけて社の奥へとはいっていった。足跡はしばらく血の色で続いていたが、やがて何も残らなくなった。
■■■■■
人々が働いているのが見える。
諏訪子はなんとなく山の頂上へいくと、そこから自分の治めている邑全体を見回していた。額に汗を流しながら、働いている邑人の姿。
先日の雨のおかげで、田畑は潤っている。山の中も川が流れ、獣たちが元気よく動きまわっている。全てが、うまく回っている。
邑人の中で、あの少女のことを覚えている者がいるのだろうか?
家族なら覚えているかもしれない。
知り合いなら、覚えているかもしれない。
彼女に感謝しているのだろうか?
分からない。
「平和だねぇ」
諏訪子は立ちあがると、背伸びをした。全身を震わせる。ゆったりとした服装の、さらにゆったりとした袖が風ではためく。
金色の髪が、風に吹かれて舞う。諏訪子は目を細めて、遠くを見つめた。
豊かな邑。
この邑を狙う者たちは、いつでも、どの場所にもいる。
諏訪子は力が満ちていた。
「行くか」
諏訪子は飛んだ。
たぁん。
たぁん。
たぁん。
気がつけば、そこは戦場だった。
諏訪子の邑からほんの少し離れた場所。山と山の間のくぼんだ平地。荒涼としたその地の上には枯れかけの草花がわずかながら生えていた。
ここは、諏訪子の統治する邑ではない。
故に、雨を降らす必要もない。
ここは、人々の生活を豊かにするための場所ではない。
ここは、邑人を守るための場所なのだ。
諏訪子は、瞳を細めた。
10・・・100・・・いや、もっとか。
手に武器をもった屈強な男たちが、憎悪の瞳でこちらを見つめているのが分かる。諏訪子は、びくっと体を震わせた。
(その目だ。その目がいい)
ちろりと、舌なめずりをする。あぁ。やはり。
(美味しい)
必死の形相でこちらを見つめているが、心の奥底では、自分に恐怖しているのが分かる。一人でないか、集団でいるからこの場に立つことが出来ているのだが、もしも一人だとすれば、恐怖のあまりに逃げだしてしまっていることだろう。
(ようこそ)
(侵略者さん)
諏訪子は笑った。諏訪子は邑を守ると同時に、自らの食事をもとることが出来る。それはなんと、有難いことなのだろうか。
屈強な数百人の男たちは、手にした青銅製の武器をちらつかせると、何やら諏訪子に向かってどなりかけてきていた。そんな言葉に興味はない。また、男たちも、諏訪子自身に興味があるわけではないだろう。
彼女の後ろにある、豊かな邑が目的なのだ。
その邑を手に入れるためには、この荒涼とした場所を通り抜けなければならないのだ。
(鉄よ)
諏訪子は手をかざした。
荒涼の大地の中にある小さな小さな鉄の塊、鉄の粒。
その全てを両手に集中させる。
(鉄の輪)
それは、男たちにとって具現化した悪夢だった。
男たちは勇気を振り絞って襲いかかってきて・・・まさに、文字通り、蹂躙される。
「はは・・・は・・・・ははははははははははははは」
ゆらりと揺れる諏訪子の服に触れることすらできない。諏訪子の何倍もある体格で、諏訪子を取り囲むように襲いかかってきているにも関わらず、まるで、諏訪子は舞っているかのようだった。
ひらりとかわし、鉄の輪を、その質量のままで叩きつける。優雅な動きでありながら、まるで優雅ではない結末が待っていた。
血しぶきと脳漿を噴き出しながら、男は文字通り「壊れる」
飛び散った肉片と血の匂いが、さらに男たちの狂騒に火をつける。仲間が死んだ。とむらいだ。敵はただ一人だ。なんだ、小さい少女じゃないか。
ごぶり。
ごぶり。
諏訪子が舞うたびに、男たちが肉片とかしていく。この地が荒涼としているのには、わけがある。まずは、肥沃な土地にする必要がないため、諏訪子が極力この地に雨を降らせていないこと。
そして、邑に向かうためにはどうしてもこの地を通らなければならないので、今まで幾度となくこの地で戦いが行われたため。そして最後に、血。
この地は、血の匂いで満ちていた。草木は雨ではなく血をすって成長してきた。
ごわぁん。
ごわぁん。
諏訪子が舞うたびに、男たちが崩れていく。狂騒は恐怖心を覆い隠してきていたが、それは、自分が死ぬとは思っていなかったからだ。
集団で、集団で襲いかかっているから、自分の番は回らないはずだったからだ。
血の色。赤い色。
男たちは気づいてしまった。
死んで行くのは昨日まで一緒にいた仲間たちで、友人で、一緒に酒を飲み食わした男で、帰れば家族がちゃんといる男たちで、そして。
次に順番が回ってくるのは自分なのかもしれないと。
「はははははははははははははははははははははははははははははははははは」
諏訪子が高笑いを続ける。
諏訪子は、遊んでいる。男たちの命と血と肉片をまといながら、遊んでいる。男たちは命をかけているのに、諏訪子は遊んでいるだけだ。
本当は、遊びですらなかった。
諏訪子は、恐怖を食らっていた。
陽が沈むころ。
その場に立ちつくすのは、帰り血の一つも浴びていない諏訪子の姿と。
からん。
地面に落ちた、血まみれの二つの鉄の輪。
そして、幾百の男たちの死体だけだった。
■■■■■
その日。
けだるそうにな諏訪子の前に、毎年のように、一人の少女が横たわっていた。
板きれの上にのせられた少女。震える少女。
夜半で、月も出ていない社は暗く、邑人たちの姿もすでになく、消されたはずのたき火が少し残り火を残してちらちらと赤い火をあげている他には、神前にささげられる神酒の入った巨大な甕が何個か置いてあるだけだった。
いつものように。
毎年のように。
諏訪子は食事をしようとして、そこで、立ち止まっていた。
匂いがする。
少女以外の匂いだ。
「く・・・くくく」
諏訪子は思わず笑った。愉快ではないか。昨日と同じ今日、今日と同じ明日がずっとくると思っていたのに、実はその因果を決めていたのはほかならぬ自分たちだけで、別に決められていたことではなかったのだと気づかされたのだ。
諏訪子は、いつの間にか、鉄の輪を持っていた。
綺麗な真円に形どられているその鉄の輪を、諏訪子は振り向きもせずに投げた。
がしゃん。
音がして、甕が割れる。
中から、神酒と共に、一人の男が出てきた。
寒さに震えながら、奥歯をガタガタと震わせながら、それでも、手に青銅製の剣を握りしめ、それをお腹にあてて切っ先を諏訪子の方へと向けている。
「こここここここ、ここまでだ」
ろれつの回らない言葉を、諏訪子は面白そうににやけながら聞いていた。
「お、お、お、お前は、神なんかじゃない」
「ふぅん」
諏訪子は笑った。光のほとんどない夜なので分からなかったが、それは妖艶なほほ笑みだった。
「おふぃいひゃん」
縛られていた板の上の症状が、体をゆすって動いた。いつもの生贄と同じように、両目と口元は布で覆われているので、姿を見ることはできないはずだ。しかし、ただならぬ状況に気がついて、出来るだけの勇気をふりしぼって声を出したのであろう。
「ろうひて、ほほに」
「いいから、お兄ちゃんにまかせておけっ」
言葉は震えているものの、先ほどまでと違い、その奥底に芯が通っているのを諏訪子は感じ取った。これは、なんといか、面白い。
「邑を助けるために、お前が犠牲になっていいわけがないっ」
じりじりと、諏訪子を中心として円を描くように、男は動いた。逆に、諏訪子はその場を動かない。場所は動かないが、体の向きは男に合わせる。それはまるで、諏訪子を中心とした時計が動いているかのような動きだった。
「いいか・・・動くなよ・・・」
青銅製の剣を諏訪子に向けながら、男は生贄の少女の所にまでたどり着いた。諏訪子が動かないのを見て、右手だけで剣を持ち、あいた左手で少女に手をかける。
「もう、安心だ」
そう言いながら、少女の視力を奪っていた布をはぎとった。同時に、口にされていた布もはぎ取る。
「お兄ちゃん!」
「よーし、よし」
切っ先は震えたままだ。男が恐怖を感じているのが分かる。諏訪子はぺろりと舌なめずりをした。それはまるで、爬虫類が、蛇が獲物を前にしてする行動に似ていた。
「こんなことをして、大丈夫なの?」
「大丈夫も、なにも、あるか!」
男は声をあらげた。
「邑は間違っている。生贄なんて、そんな無駄なことをする必要なんてない。お前だけが犠牲になるなんて、間違っている。みんなで、ちゃんと考えなければならないことなんだよっ」
(ほぅ・・・)
諏訪子は、男を見つめた。
怖さに震えている。それは分かる。けれど、じっとこちらを見つめてくる瞳の中に迷いは見えてこない。
「でも、こんなことしたら、もう邑には帰れないよ」
「いいさ」
男は、笑った。
「お兄ちゃんにまかせておけ。邑になんて戻らなくてもいい。お前を犠牲にして助かろうだなんて、そんな薄情なものばかりがいる邑になんて、戻る必要なんてないさ」
「でも・・・」
「でもじゃないっ」
男はいった。
「大勢を助けるために、一人が犠牲になるなんて、間違っている!」
諏訪子は、黙ったままで二人のやりとりを見ていた。どうやら、この二人は兄妹らしい。生贄を選ぶ方法は、全て邑人にまかせてある。そもそも、生贄を言い出したのも諏訪子ではないのだ。邑人たちが自分たちで決め、自分たちで守ってきた約束事なのだ。この数百年の間、一年もかけることなくそれは続いて来ていた。
(最初にどちらが言い出したかなんて、関係はないか)
諏訪子は思った。
大事なのは、約束を誰がしたのかではなく、約束が続いて来ていたという事実だけだろう。ならば、この男は、自らの都合で約束を破るつもりなのだ。
「問おう、人間よ」
諏訪子は、口を開いた。男はびくっとして、目をきょろきょろとさせながら、それでも必死の形相で諏訪子を見つめた。
「な、な、な、なんだ」
「生贄を要求したのは私ではない、そもそもはお前たちが始めたことだ。それを破るというのだな?」
「・・・馬鹿なことをいうな!」
「馬鹿なこと?」
「俺たちが、毎年、どんな思いで生贄を出していたと思う?」
「ほう」
面白いことを言う。
諏訪子は、社の上に腰かけると、男が言葉を続けるのを待った。
「お前のせいで、毎年、どれだけの人が泣いていたと思う?お前はそんなこと考えたこともないのだろう?」
「・・・ないなぁ」
諏訪子は笑った。考えたこともない。当たり前だ。
「もう、お前の好きにはさせない」
「そうか」
「お前なんて・・・お前なんて・・・」
ガタガタと震えている。その姿が滑稽で、諏訪子は少し楽しくなる。
「もう一度、問おう、人間よ」
男が、諏訪子を見つめる。
「これは、お前たち邑全体の総意と考えていいのだな?」
「・・・」
男は返事を返さなかった。当たり前だろう。そもそも、これが邑の総意であるなら、最初から生贄の少女を連れてくることはないだろう。泣いている人もいるのかもしれない。いや、むしろ、それも当然だろう。だが、それを邑人は必死に耐えているのだ。
「人間よ」
「・・・」
「生贄が許せないというのなら、どうして、今まで、止めにこなかったのだ?どうして今、ここで、止めにくるのだ?」
諏訪子は笑う。敵を前にした時に見せる、妖艶な笑みだった。
この男は、今までの生贄の儀式では、心で何を思っていたかは別にして、行動をしてこなかった。沈黙は、黙認になる。男も、生贄を認めてはいたのだ。ならば、問題に対する答えは単純で、一つしかなかった。
「他人はよくても、身内だけは許せないのだな」
「・・・っ」
男は、激昂した。
「お前が言うな!お前に・・・お前に何が分かる!?身内をとり殺される気持ちが、何が分かると言うんだ!?」
「確かに、分からないな」
急激に、諏訪子は興味を失っていた。目の前の男にも、生贄として連れてこられた少女に対しても、どちらに対しても、興味を失っていたのだ。
「好きにするがいい」
それだけ言って、諏訪子はたぁんと飛び上がり、その場を立ち去った。
「・・・」
「・・・」
残された兄妹二人は、しばらくの間、押し黙っていた。状況が理解できない。自分たちは、許されたのだろうか?どうなのだろう?分からない。分からない。
一つ分かることは、とりあえず今、自分たちは助かったということだけだった。
「・・・お兄ちゃん」
生贄の少女が、泣いた。
「怖かった・・・怖かったよう・・・」
「よしよし・・・もう大丈夫だ・・・これからは、お兄ちゃんが、ずっと一緒にいてやるからな」
そう言いながら、頭をなでる。さらさらの黒髪が、男の指と指のすきまをつたって流れていく。
「・・・でも、もう、邑には戻れないね」
「安心しろ、と言ったじゃないか」
男は優しく、それでいて力強く、答えた。
「一人なら無理かもしれないけど、二人なら大丈夫だ。邑に帰らなくったって、二人でなら、生きていけるさ」
そして、妹を、ぎゅっと抱きしめた。
しばらく抱きしめられるままだった妹も、やがて、そっと、抱きしめ返す。
暗い暗い夜の中、風が、風だけが、吹いていた。
■■■■■
(私は、なんなのだろう)
諏訪子は、ぼぅっとしたままで、空を見つめ、流れていく雲の形を目で追っていた。遠くの空に浮かぶ雲は赤い。風は強く、少し気を抜くと雲は形をかえて過ぎ去っていっている。
あの兄妹を見逃してから、ずいぶんたつ。
もともと、邑人に強制などしてはいなかった。必死になって止めるのも馬鹿馬鹿しい気持ちになっていたというのもあの兄妹を見逃した理由の一つなのだが、それ以上に大きな理由というのは、はたして、自分という存在はいったい何なのだろう?という素朴な質問だった。
昔から、漠然と思ってきていたことだ。
邑人を守っているのは自分だ。それは分かる。生贄をささげられると力が沸き起こってくる。それも分かる。邑人が生贄をさせげて来てくれるのだから、その見返りとして、邑に雨をふらせて邑を豊かにする。それも、分かる。
だが。
考えてみれば、疑問が次から次へと湧いてくる。
(どうして、私は)
生贄をささげられると、力が出るのだろう?それを決めたのは、自分ではない。今までの経験から、生贄をさせげられると力が湧いてくるというのは分かるのだが、でははたして、どうして自分がそうなったのかと尋ねられると、明確な返事を返すことが出来ないのだ。
(人の上位の存在として私がいるとして)
諏訪子は思う。
(私の上位の存在も、どこかにいるのだろうか?)
そもそも。
そこで、諏訪子は自嘲ぎみに笑った。
(私が人の上位の存在だというのも間違っているのかもしれないな。私は、力を持っているようで、人々からの信仰がなければ力を出すことが出来ない)
実際に。
今の諏訪子は弱っていた。
生贄をささげられなかったからといって、諏訪子が死ぬわけではない。ただ単に、食事が一回ぶん減るだけだ。
あの兄妹が去った後。
見てみると、妹が乗せられていた板の上に、血が飛び散っていた。匂いをかいでみると、その血は獣の血だった。どうやら、あの男たちが、黙って逃げるのではなく、一応、生贄の儀式だけは終わったと見せかけるために工作をしたらしかった。
「はは・・・は・・・」
滑稽だった。
それ以上に滑稽だったのは、邑人もそれを疑うこともなく、板を持ち帰ったことだった。男がいなくなったことに気がつかないのだろうか?そう思い、黙って邑の様子を見に行ったことがある。別段、邑人の暮らしが変わっているようには見えなかった。男の家を訪ねてみてみた。そこは、みるも無残なあばら家であり、中に誰も住んではいなかった。
(たった二人の、身内だったのだな)
諏訪子はそう思った。思いながら、そのぼろぼろの小屋を見てみる。本当に、ひどい小屋だった。少なくとも、人がすむような小屋ではない。
(生贄はくじ引きで決めていると聞いていたが)
裕福な家庭の娘たちは、元からはずされていたのかもしれない。
そんなことを思いながら、諏訪子は自分の社へと帰っていた。
あれから、力が出ない。
雨を降らすことが出来ない。
邑から怨嗟のの声が聞こえてきていた。
(生贄をささげたのに)
(どうして、雨を降らせない)
(何故だ、何故だ、何故だ)
不満は信仰の減少につながり、その事がまた、諏訪子の力をさらに弱めることにつながっていた。
今ではもう、姿を隠すことすらできない。雨を降らすことなんて、もっての他だ。
(それも、いいか)
諏訪子は、無気力になり、ずっと空を見つめていた。
(こうして、消えていくのもいいのかもしれない)
雲は、いつしか、消えていた。
■■■■■
日照りは続いていた。
もともと食事をしなくてもいい諏訪子にとっては、ただ暑い日々が続くだけだったが、邑人にとっては一大問題となっていた。
「もう一度、生贄をささげるのがいいのではないか?」
という意見もあれば、
「生贄をささげたからといって、どうなるわけでもないということが分かったじゃないか。今は、そんなことよりも、これからどうするかを考える方が先決だ」
という意見もあった。
ちなみに、前者が裕福な者の意見であり、後者が、貧窮している者たちの意見であった。公平であるはずの、生贄を決めるためのクジ。それが公平でないことは、邑の誰もが分かっていたのだ・・・そして分かっていながらも、それを止める実力がないということも。
あまりに雨が降らない日が続いたことで、邑の迎える状況は危険な位置へと推移してきていた。今はまだ、貯蓄していた食料が底をついてはいないので何とかなっているのだが、このままでは、来年に使うための種もみにすら手を出さなくてはならなくなる。
それでは来年からどうやって生きていくのか、という声もあがったが、来年を生きるためにはまずは「今」を生きなければならないということも理解していた。
飢えは、邑全体を支配していた。
■■■■■
山の木々が枯れている。
流れる川が無くなっている。
動物たちを見る機会が、めっきり少なくなってきてしまっていた。
諏訪子は、ふらふらと山の中を歩いていた。
日差しが強い。
ギラギラとした太陽が身を焦がしている。
(力が抜ける)
もう、どれだけ長い間、食事をとっていないのだろう。諏訪子の食事は普通の人間がとるような食事でなく、人々の恐怖という名の信仰が食事であった。邑に雨が降らず、飢えが広がっていくのにつれて、諏訪子への信仰も減っていき、諏訪子は弱ってきていたのだった。
(・・・空が青い)
そう思いながら、手を握る。拳に力が入らない。中からさらさらと何かが落ちてこぼれて行っているようなきがしていた。
その時。
山の中に、小屋があった。
手作りの小屋で、見た目は悪いながらも、しっかりとしたつくりで出来ている。
(・・・これは?)
疑問が沸き起こる。以前は、このような小屋はなかった。少なくとも、昨年まではなかった。ということは、今年に入って誰かが作り上げたものということになる。
諏訪子は何の気なしに、ふらふらと、その小屋の傍にまで近付いて行った。
すえた匂いがする。
小屋の周りに草木は生えていなかった。というよりも、山全体で草木が枯れており、生きているものの姿自体がほとんどなかったのだが。
諏訪子は小屋に近づき、木枠で出来た窓から中をのぞいてみた。
部屋の中に、一人の男が座っていた。
何やら、食事をとっているようだ。こちらに背を向けているのではっきりと見ることはできないが、背中が少し動き、時折、ごり、ごりっという音がするので間違いはあるまい。
興味を覚えた諏訪子は、特にやるべきこともないことを思い出し、それならばと、興味のむくまま、小屋の周りをくるりと回り、中へと入った。
明るい外から暗い中に入ったので、しばらく目が見えない。
こり・・・こり・・・こり・・・
音だけが聞こえてくる。
諏訪子は目を細め、中を見つめた。
中には、男が座っていた。
この男には、見覚えがある。
生贄の娘の兄だ。
こり・・・こり・・・こり・・・
男は、食事をとっていた。
諏訪子は、引きよせられるように、ふらふらと中へと入って行く。
小屋のなかは、生きているものの匂いがしなかった。小屋の中は、死の匂いで満ち溢れていた。
山も、生きているものの匂いはしない。しかし、山には死の匂いはなかった。山には何もなかったのだ。しかし、この小屋の中には死が満ち溢れている。死が。死が。
こり・・・こり・・・こり・・・
「・・・お前」
諏訪子は、男の前に立った。
男はうつろな目で諏訪子を見つめる。落ちくぼんだその瞳の中に生気はなかった。うすどんよりとした瞳の中に、諏訪子の姿がうつっている。
諏訪子は少女の格好で・・・
「ここにいるのは、お前だけか?」
こり・・・こり・・・こり・・・
「あの妹はいないのか?」
こり・・・こり・・・こり・・・
「・・・」
こり・・・こり・・・こり・・・
「・・・お前・・・」
何を、食べている?
「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
男は笑った。
乾いた笑い声だった。
何もない、笑い声。何も残っていない笑い声。
死が。
この小屋の中には満ち溢れている。
からり。
音がして、男は手にしていたものを床におとした。
それは、骨だった。
一人の、少女の、骨だった。
お前は
何を
・・・食べている?
後編に続く
自分が今までしてきたことを見せつけられて吃驚したか。
他のキャラも書いてほしい
流れが洩矢の王そっくりなんだけど生贄を題材とした作品が似るのは必然なのかな
それにしても産廃らしい人食い描写が良いです
実際はこんな物かもしれませんな。