紫が死んでしまった。
それも魚の骨をのどにつまらせて。
これが笑い話だったらいいんだけど、よりにもよって食材の魚が竜神様の浸かっている湖から頂いたものらしい。
世界一強力な幻想魚の骨が突き刺さって、どうやっても抜けず、ついに三日間窒息で闘病したあげく死んでしまった。
息をせずに三日も長らえた紫もさすがだけど、残された幻想郷の人たちはたまったもんじゃない。
まずその庇護を一番に受けていた霊夢は、空が飛べなくなった。
重力と世間の世知辛さをまともに受けて、その後はまあごく普通の巫女がやるような、神事を行ったり、共有の慰みものになるという村社会の役割をしっかり果たしているようだ。
紫の死によって、幻想郷のありとあらゆる幻想の力が失われつつある。
さすがに紫も自分の身に何かあったときに備え、すぐに幻想郷が瓦解するようなことはならなかった。
だが、超常的な力を持つこの地は確実に破滅を迎えつつあった。
まず博麗の大結界はその機能の八割を失った。それに追従し、ありとあらゆる妖怪たちのパワーバランスが崩れ始めた。
幻想郷に集まって、化石のように取り残されていた幻想の力たちが、外の世界に、薄く薄く霧散していく。
妖怪や精霊たちは不思議な力を失い、やがて野山は本来の静寂へと姿を変えていく。
紅魔館の悪魔はただの蝙蝠に戻ってしまった。従者はこれに絶望し、自ら命を絶った。
竹林の住民はすべてここを立ち去ったか、獣に食われてしまった。
天狗や河童は今までの隆盛を失い、数で勝る人間に駆逐された。高慢ちきで美しい彼ら彼女らが、どれほどの屈辱を味あわされて人間に滅ぼされたかは想像に難くない。
地底への道は跡形も無く消え去り、宝船は地に落ちた。暴動による飢饉の中、新興の宗教は当主共々、文字通り食い尽くされてしまった。
嘆きも悲哀も今はなく、その神社のあった場所には、ただ三十メートル四方の焼け野原が、空へその身を晒している。
天界へも魔界へも繋がらない。あと少しすれば、ただつまらない日本という国へ大地が続いていく。そこが今の幻想郷なのだ。
魚の料理をした藍は責任を感じているらしく、結界の修繕に最善を尽くしているが、結果は芳しくない。
だが幻想の力が元に戻ったところで、すでにこの楽園が再び過去に戻ることはない。
八雲紫が大切に生んで、大事に大事に育てた幻想郷は、残酷にももう死んだ。
場所は白玉楼。
妖夢は何時も通り、背中に二刀を背負って庭へと旅立つところだった。
なにしろ広い庭だ。旅立つと言っても過言ではない。庭師は今日もまた道具を背に二百由旬を駆け回る。
すこし高くなった背が時の流れを感じさせた。
縁側の主人は私を呼び止めてぽつりとこぼした。
その表情は世間の喧騒を置き去りに、永劫変わらず御身の美しさを保ち続けていた。
そしてこの方は唐突にこういう何事かを零し、私に理解を求めてくる。
「妖夢、貴方様子を見てきて頂戴」
「様子…と仰いますと?」
「愚図ね。全く…見れば分かるでしょう」
そう言って幽々子様は白玉楼の庭先を見渡した。
縁側の先に広がる冥界は普段通りとはとても言い難い。幽霊が全くと言っていいほどいないのだ。
桃色に揺れる髪を手でたぐり、幽々子様は春風凪ぐ山並みを遠くに見た。
「幻想郷の様子がおかしいの。あそこ以外にある?」
妖夢にもその目線の先にあるものが分かった。
マヨイガだ。確かにそこならこの異変の謎も分かろう。
だが、この日私が取った行動は、普段のものとはかけ離れている。
一刀が走り、水色の和服を冷たい金属が貫いた。
「ついでに紫に土産物を持って…………」
「元に戻らないでしょう幽々子様。苦しくて息もできないでしょう?」
幽々子様の腹には、深々と楼観剣が突き刺さっていた。
透明がかった体は硬直しており、顔は、信じられないものを見るような目で、妖夢をジッと見据えていた。
顔はすぐに悲痛に歪み、妖夢はわざと、傷口を擦るような形で刀を引き抜く。
長大な日本刀を引く抜くには、それ相応の時間を必要とした。
「いづっ…!あっ…ぐ」
「放っておいても治りませんよ。いつもとは違いますから」
妖夢は刀を横一線斬り払った。斬ったのは顔の薄皮一枚。
亡霊の令嬢は頬を押さえて、苦しげに蹲った。
「あなたのその悟りきった顔。いつか歪めてやりたいと思っていましたよ」
うめきながら咳き込む背中に妖夢は淡々と語りかけた。
「強い力をもって生まれた方らしいです、あなたは。いつでも悟り顔、なんでも知った風で、でも自分じゃ動かない。ねえ幽々子様、最後に息を切らせて走ったのはいつです。最後に焦ったり、苦労したり、嫌な思いをしたのは。そしてそれを、どうにかしようと必死になったのは?」
傷口からは白く光る、人間で言えば血液のようなものが溢れ出ていた。
妖夢は深々とため息をついた。
「紫様は死にましたよ。だいぶ前です。私が伝えないだけで、あなたはそんなことも知らなかったんです。家に篭って、近頃おかしいな、なんて嘆いているだけで」
高慢ちきなこの女のどこを憎んでるのかと思案して、さしあたって食器洗いを手伝ってくれないところかな、と思った。
手伝おうか、と言われたことはない。たぶん生まれが違うんだろう。
長い年月を生きる中で、私にはそれが我慢できなかった。
そういう憂いた顔に汚い現実をぶちまけられて、ようやく幽々子様が私に向ける顔が、困惑から敵意に変わるころ、その首が地面に転がった。
さようなら恵まれたお嬢さん。桜の木の下でずっとお眠りください。
嫌いなご主人様ではありませんでしたよ。むしろ、良いお方でした。
「おやすみなさい幽々子様。どうぞ安らかに」
ただ、人を用いるということを分かっていなかった。
妖夢は笑った。
これで、化物級の妖怪や亡霊が死ぬと証明されたわけだ。
普段なら再生するどころか、傷つける事さえ叶わぬ者たちが、私の剣の届くところにまで降りてきた。
幻想が死に、自分より強い者たちをまさに実力で切り伏せることができるのだ。
格の違いが消えたなら、生涯燃やし続けてきたこの薄暗い泥をやっと吐き出そう。
お爺様と、そのお爺様のお爺様の魂までもが囁く。斬れと囁くのだ。
幻想郷中がまるで合戦のように混乱している。こんな機会恐らくもう二度とあるまい。
代々磨き続けた魂魄の殺傷技術が、死んだ名家がついに役割まで灰に消え、それでもそこの当主の子守りを続ける甘い茶々に耐え切れなくなった。
斬りたい。名のある者共全てを斬り殺したい。そういう心に妖夢は支配されていた。
幽々子様、誤解召されるな。武士道は邪悪だ。
「やあ、晴れやかな日だなあ」
柄にもなく、ほくほく顔で妖夢は街道を歩いていた。
すなわち誰が一番強いのか。それを確かめるために歩き出した妖夢ではあるが、未だ明確な到着地は定めていなかった。
全ての強者と戦ってみたいものの、この身は一つ。選んで決めねばならぬ。
途中不具になることもあれば、死ぬこともあるだろう。
望む対手と戦う前にそんなことになっては一大事。命のやり取りに至っては、武士は極めて事を慎重に考えなければならないのだ。
たとえ死しても力を試したいという、その狂気を前提に置いたとしても。
行きたい場所にはいくつも心当たりがあった。
「まあいいか。ふかく考えなくても。ああー、思えばずいぶん多くの仕事にわずらってきたー!」
妖夢は、ひとつ大きなのびをした。両手を晴れやかな空にのばし、背筋を思い切り張る。
「それも今日から自由ね。腕がなるわ、ふふっ」
妖夢は言って、にっこりとわらった。年のころ少女にふさわしい、見るものを清涼な気分にしてくれる、可愛らしい笑みだった。
日の光を浴びて、なんともさわやかに、足取り軽く妖夢は歩く。
「これから私の気に食わないものは、すべて私の剣で斬り倒せるのね。すごく素敵」
気の向くままに生きていける。主人の下を離れた寂しさは一抹あるが、それ以上に新しい生活への希望に満ちている。
これからの屈辱は晴らすためにあり、名家の名は打ち壊すためにあり、振るうためのみ剣がある。
体面の代わりに失ったのは後ろ盾のみ。これからの行為は全て私のものだ、その行為による復讐さえ私のものだ。白玉楼も幽々子様も関係ない。
「もはや身、ひとつ。お爺様から受け継いだ剣の腕と、鍛えた心身だけが頼りだ」
私自身も他人の欲望の対象となるのだが、そんなもの、剣を取ったときからとっくに覚悟はできてる。
さあ魂魄妖夢、いざ行かん。
妖夢のシグルイが始まる。
妖夢は妖怪の山の地を踏んだ。
かねてより知性なき妖怪の巣窟であったここは、秩序の崩壊によって一層その様相を高めていた。
あちらこちらに、何がしかの骨や肉片が転がっており、時折、陰惨な死体も顔を出して、定期的にここが私刑のために使われていることを教えてくれた。
妖怪は食事を必要とするようになった。幻想を失った彼らは、人間と同じようにエネルギーを食物で摂取しなければならない体になってしまったのだ。
最初から野生に近い妖怪は別として、それまでは風や霞で生きていた連中がいきなり生臭を欲するようになったのだ。
まるで普通の動物。単純に、食料不足なのだ。
狩りを行う以外にも、仲間の数を減らすことで対処する天狗もいただろう。
「まず、山の社に向かおうかしら。あちらの巫女に結界を修復されてはたまらないわよね。このまま末世が続いて欲しいし」
風の噂では博麗の巫女はすでに用立たないようだ。
八雲藍は大元の主人が消えたため式の力を失い、結界を張りなおすことは絶望的な旨、直接会ったときに聞いている。
それに山の社には二柱までもがおわすらしい。片方は戦の神だという話だ。
是非とも手合わせ願いたいではないか。
大事をとって巫女を殺しておけば、妖夢がまごついている間に幻想郷が復活、なんてこともあるまい。
道の途中、大きな獣に会うと、妖夢は木に登ってやりすごした。
常人を越える膂力をもつとは言え、所詮女の細腕。幻想の力が消えた今、二尺の太刀は妖夢に重すぎる。
この妖刀も、すでにただの鉄塊と化して久しい。
いずれ幻想が完全に消えたとき、手に余る無用の刀になるだろう。
妖夢はハッと気がついた。
「お前ももうじき消えてしまうのかもしれないね。さびしいよ」
頭のすぐ横には、もう何十年とそうしていた半霊がやはりちょこんと居座っている。
生まれてから時を同じく過ごしてきた半身。彼女にはずっと助けられてきた。辛い時は支えあい、剣技さえも共有した。
その、白く透明な姿が今にも消えそうなのだ。
共に己を高めあった同胞である彼女が無為に消えていくのはひどく物悲しい。
せめて今回の戦いは、彼女、半霊の弔いとしたい。
林の中に気配を感じたとき、妖夢はすでに木陰へと身を隠していた。
荒れた呼吸、乱れた足音、半狂乱の人間が獣道を必死の表情で駆けてくる。
傷と痣だからけの体には、わずかに布がかかっているだけだ。裸の少女は、泥と涙にまみれた顔で何かから逃げ惑っている様子だった。
妖夢は見送った。獣が襲ったにしては、楽しんだ余地がある傷。
原因など知れたもの。治安も人の目もない森の中。同性として不憫に思うが助ける義理はない。
それが見知った顔だと気付いたとき、初めて妖夢に警戒以外の感情が生まれた。
あれは、天狗の射命丸文だ。黒髪は乱れきっており、全身汚れて浅黒いが、鋭い目元やぷっくりと膨らんだ唇には面影がある。
博麗の巫女を通じての交流があり、妖夢とて知らない仲ではない。
運の悪いことに、狂乱の彼女は妖夢の方に駆けてきた。
隠れる場所でも探したのか、木陰に妖夢の姿を認めると、一瞬硬直したあと、必死なその表情を破顔した。
「妖夢、妖夢じゃない!あぁ、よかった。どうしてこんなところに…」
面倒事になりそうだ。しまった、とさえ妖夢は思った。
妖夢は息も絶え絶えの文に、落ち着いた声で応えた。
「ちょっと、大声を出さないでください。どうしたんですか、文さん?」
その声色を聞くと、文は心底安心したらしく、膝を折り、地面にへたり込んだ。
頬には冷たい雫が幾筋も流れ、ぽろぽろと泣き出してしまった。
「どうしたんです?」
「あぁ…ぁぁ、もうよかった。助かった。ダメかと思ったわ」
この時、妖夢の関心はすでに顔を湿らせた彼女から別のものに移っていた。
「先輩ー?どこにいるんですか」
突然、木々の奥から、女性の声がした。
「さて、追われる者あるなら追ってくる者があるのは当然ですけど…」
追う影がゆっくりと現れた。
文が通ってきた草葉の陰から同じように、それも、またも見知った顔だった。
違うとすれば、こちらは野山を駆けるのに適した格好をし、悠々と歩みを進めて妖夢を認めた点だろうか。
暗い林から血まみれで現れるその姿に、文は短い悲鳴をあげた。
背丈の高い女性は猟奇的な空気を纏っていた。暗い林の中から、闇がどろりと溶け出したように姿を見せる。
丸い金属の合板は死神のような冷たさを湛え、逆に、反対の手に持つ一振りは髪や歯がこびりついてるせいで、妙に生々しく生物的だった。
両手の道具のコントラストと、それを持つあどけない少女の顔が不気味に調和する。
剣は乾いた血液でどす黒く染まっていた。
その持ち主は妖夢へと目を向け、実に気軽に声をかけた。
「あれ?妖夢さん」
「あ、犬走さん。お久しぶりです」
きょとんとした表情から、本当に妖夢がここにいることが意外だったらしい。
その影は、妖夢のよく知る白狼天狗の、犬走椛だった。
彼女とはいくつかの異変以来、時々実践稽古で剣を交えていたため、人並み以上の付き合いがあった。
「御久し振りです。妖夢さんこそ、ご主人共々お元気でしたか」
「はい、息災ですよ。残念ながら幽々子様は先日……他界? えーっと……他界なさいましたけど」
「そうですか。残念ですね」
「えぇ」
妖夢は淡々と答える。直前の文の騒動などなかったかのように、二人は冷静だった。
まるで道端で会った風だ。文は、唖然として二人の様子を見ている。
「ところで今日はこんなところで一体? 私たちはほら…そこの」
狼の鋭い視線が、襤褸切れのようになった文を射抜いた。
恐怖を思い出したのか、また文の呼吸が乱れ、興奮して叫び出した。
「妖夢!こいつら犬だったんです。最低の、道徳すらない、美徳もない、誠実の欠片も存在しない。こいつらは、私達天狗を裏切ったんです!」
文は泣きながら訴えた。
大声で空へと、自らの潔白を糾弾した。
襲われたことへの恐怖と、二人の会話の平静さへの恐怖を塗りつぶすように叫び続けた。
「聞いてください。白狼天狗は、幻想郷に異変が起こるとすぐに、理性を失いました。いきなり皆を襲い出して、食ったんです。あぁ…食ったんだ。食いやがったんだ。なんて、まったくなんて誠実にかける仕打ちだ。なんてこと、彼らは恩も忘れてしまったんです。犬じゃない、犬以下です!」
狂乱の文が放った最後のセリフに、椛の表情が激変した。
目じりは釣りあがり、鋭い犬歯が口元から現れて唸り声が上がった。
怒りを露わにした椛は、まるきり狼に変貌してしまった。
「ひぃぃ…。た、助けて妖夢…」
「あれだけ普段酷使しておいて…、その言い草だと……」
椛は今にも襲い掛からんばかりの顔で文を睨み付けた。
「妖夢さん…。そいつをよこしてもらえますか…」
ふむ。暴漢かと思えば、どうやら文が渦中にあるのは、もっと厄介な問題らしい。
なるほど、これが今の幻想郷の姿なのか。
かつての大妖怪たちは皆、力を失っている。
肉体的に頑強だった者が幅を利かせ、より自然に近い強力な存在だった妖怪が地を這っている。
白狼天狗など問題にしなかった射命丸文が、まるで今は人間の小娘のようだ。その事に妖夢は一抹の寂しさを覚えた。
千年の寿命を経たものが、結局はこのような末路を迎えるとなると、空しいものだ。
徒党を組んでた烏天狗でさえ、妖力を失ってはこの通りだ。
この様子では、社会性の高い天狗組織は壊滅だろう。
逆に古い血縁関係で絆を育んでいた狼は、この通り優位に立てている。
妖夢は期待を込めた二対の瞳の前にあった。
みすぼらしく、捨てられた子犬のような目でこちらを見る烏天狗。
悩むことでもないわね。
妖夢は文の手を取った。
文の顔が喜びに満ちた。すぐに、安堵の涙が瞳から流れる。
妖夢はその顔を見送った。
「なんていえばいいのか。私たちの仲間はいままで上位天狗のやつらに、随分傷つけられたんです。それと、これが一番の理由なんですけど、お腹がすいてるんですよ」
「分かります。はい、どうぞ」
妖夢はそのまま文の体を引きずると、椛の足元へと彼女を放った。
文は、何が起こったのか分からず唖然としている。
「……え、え?」
哀れみに満ちた目で、妖夢は文を見た。
椛の手が目の前まで伸びてくると、天狗の少女はようやく事態を理解し始めた。
「あ…ぁ。ああ、いや…いやぁ!」
文の声が次第に悲痛なものに変わっていく。
「離してよ、嘘よ、こんなの、やめてよ。なんで助けてくれないの」
急いでその場を離脱しようとした文に、以前の、風と見まごうスピードはなかった。
良くて、見た目に相応な少女の脚力だ。
椛は剣を振るった。触れる直前で剣先が反転し、剣の背が少女の足首の関節を横から砕いた。
「ぎゃああああ」
文は、獣のように叫んだ。
背が丸まり、激痛で地面をのた打ち回る。
「斬れば出血してしまう。もったいない」
両手で砕けた足をかばうが、椛は容赦なくその箇所を掴みあげた。
妖夢の耳に甲高い悲鳴が届く。
妖夢は言った。
「ごめんなさい文さん。割に合わないんです」
私にはこの人を助ける義理も情もない。
無償でとりあえず助ける、という善意の選択肢が、妖夢の中には特になかった。
また、白狼天狗は戦えばてこずりそうだ。
「痛いよぉ…。離してよ椛…!助けてよ…!ごめんなさい、私がわるかったから」
「先輩、うるさいですよ? いま、妖夢さんとお話してるんです」
「いぎっぎゃ…!痛いからやめて。黙るから」
掴まれた足の先があらぬ方向に曲がっている。
「妖夢さんもいかがですか?」
「いいえ、わたしは…」
妖夢は躊躇った。
そして、すぐに腰の巾着袋を見た。
「いいえ。わたしはまだ、お握りがありますから」
「なるほど、白米ですか。うらやましいです」
「お一ついかがですか?」
腰の袋を解いて椛にひとつよこす。
椛は軽く妖夢に礼を言うと、静かに口をつむいだ。
「どうしてここに?」
先ほどまでの世間話ではない。本気の目だ。
妖夢は正直に答えた。
「山の社に用があって。しばらく剣術修行の行脚をしたいのです」
「…はぁ。修行? ……ああ、なるほど。ついに貴方が。それなら、白狼天狗は守屋の信者ではないですから、存分に腕を振るってください。私たちは一族が縄張りで食べていければなんでもいいんです」
「ありがとうございます」
「頑張ってください。またいつか、手合わせしましょうね」
「はい。また」
「こんな世の中になって大変ですけど」
「そうですね。でもちょっと気に入っています」
二人は口元に笑みをつくった。
妖夢と椛には通じ合うものがあった。
正気ではまかり通らない一線。彼女はそれを野生で、妖夢は武士道で越えていた。
向こうも妖夢の意図を一瞬で理解し、了承してくれた。
神社がどうなろうと、自分たちは関与しないと。
ここの神社は、妖怪にも信者がいるから注意が必要だ。
「神社と言えば、今、山の上は下界より悲惨ですよ。お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
見れば、最後まで妖夢に助けを求める文の様子は哀れを誘う。すこし罪悪感があった。
「そうだ、毒ですね。さっきの握り飯には毒が入ってたんですね!さすが妖夢です!」
「そんな馬鹿げたことするわけないでしょう……」
「嘘だ!そうやって、敵を騙すには味方から騙すんですね。妖夢は兵法に通じてます。わかってますよ」
椛の目は、もはやかつての大妖怪を見るものではなく、獲物の一匹を見下ろす冷たい視線に変わっていた。
「ほら、先輩。行きますよ」
「私たち友達ですよね妖夢。だから助けて、はやく。はやくはやく。助けろ、助けろって言ってんでしょ!いやあああ!食べないでええぇ!」
そういった椛は、抵抗する文の足を掴んで、山中へ消えていった。
文はか細い腕で必死に何度も何度も椛を引っかいたが、まるで意味はなく、爪から血が流れるだけだった。
見送った妖夢は、ほぅと一息ついた。
同時に自分を囲んでいた複数の気配も去っていく。
「やっぱり狼は群れで狩りをするんですね…」
妖夢は山道の途中、腰に下げた握り飯を頬張りながら考えた。
二つに減った握り飯。先のことが思い返された。
妖夢は振り切るようにかぶりついた。
大きく口をあけて含んで、米を一粒一粒しっかりと咀嚼する。
まず塩味が舌に感じられた。続けて米の甘さが口中に広がる。
うまい。たっぷり味わいながら丹念に噛み潰していく。
歯と舌に唾液がからまり、艶やかに細かくなった米粒を喉に送り込む。
次に、腰に下げた水筒の水で口を漱ぎ、満足感と共に飲み下した。
「…ふぅ」
見上げる空はなんとも、青い。
「それにしてもやはり…」
変わったものだ。この幻想郷も。
弱い者たちが数に物を言わせて強者を駆逐する。
価値のない大勢が、偏見と恐怖で絶対唯一を滅ぼす様は嫌悪すら覚える。
これも諸行無常というものか。
妖夢は道中様々なものを見た。
打ち捨てられた妖怪の巣。滅んだ河童の集落。骨と思しき白い欠片の沈む川。
参道を歩むうちに出会った人々は皆飢えと病に取り付かれていた。
妖夢はこの末世においても、確固たる自分を保つ決意を固めた。
すでに顕界において人の命は路傍の石。
だが私は、命の価値を蔑むことなく、しかし、命を捨てる覚悟で武士道を極めるのだ。
しばらく進み、神社の境内を手前にさしかかったとき、妖夢はひどい臭いに気がついた。
妖夢はすぐに感づいた。
これは麻薬だ。麻の葉を燃やして、幻覚をみせているのだ。
境内は陰気に包まれていた。
真昼の太陽が夕闇に飲まれる頃、炎に揺らめく黒い影が生き物の如く幾重にも蝉のような戦慄きを始めた。
低い陶酔のうめき声に呼応して、人間の肉がうごめき、獣の臭いと汗の湿気が辺りに満ち満ちた。
それは人の群れだった。正気をなくした肉の群れは、ある種、理路整然と、統率された動きで揺れ動いている。
人の林の中心からは煙が立ち上っていた。天に昇るその袂では青草が焼け、その一部が爆ぜて周囲に撒き散り、集団に高揚と催眠をもたらす。
褐色の灰が立ち込めたその神社に集まる人々は、まるで樹液におびき寄せられた虫のようだ。
若い女の経典が天に響けば、それを追従する信者たちの言葉が地を揺らした。
境内の異様な光景は、まるで全体が一個の臓器になったような生々しい様相を呈していた。
その中では、延々と神を讃える成文が反芻されている。神聖なはずの経典は、もはや邪教の呪文と何の違いもない。
低く復唱が続けば、それにおびき寄せられたかのように暗い夜が迫った。
遠方で日が沈み、次々と地が闇に没していく。灯火と大麻の明りに照らされる一際大きな影があった。
地表から立ち上がるその姿は、少なく見積もっても成人の三倍を越えており、炎の袂へゆっくりと近づく様は、常識を逸したこの場所ですら、際立った異形を見せ付けていた。
人々はそそり立つ巨人を迎え、より一層興奮の度合いを増し、悲鳴をあげる者さえも現れた。
「さあ、讃えなさい。守矢の威光を。二柱に祈りを捧げるのです」
女性の周りに風が舞った。
青臭く、ひどく原始的な臭いが境内を侵す。
「奇跡の御業を見なさい」
強烈な悪臭は神経を麻痺させる。
仕込みだ。社の裏手にはたっぷりの薬剤が瓶に入っている。
やがてこの興奮剤は揮発して風に乗り、炎をねぶって信者の心を陶酔に導く。
青い光が闇の空を照らした。明るすぎる空だ。
『オオオオオオォォォォォォ』
この幻想的な風景を作りだす若い女は、群集の歓喜の合唱に酔いながら扇動を続けた。
ここにきて、東風谷早苗の宗教は完成していた。
「私こそは諏訪大社が大明神、八坂神奈子に仕えし現人神、東風谷早苗です。風祝に生まれ、今こそこの末法の世を二柱の御力で導くことこそ私の天命と心得ました」
少女は大仰に手を振った。
「祈りなさい。叫びなさい。神はごく近くにいらっしゃいます。私達の声で迎えるのです。幸いにして前身で在らせられる諏訪子様の顕現に際し、まさに守矢は隆盛を迎えました」
群集に向かい、風の唸るような声が響く。
怒号の如き礼賛が返礼として少女に浴びせられた。
「我らを害する敵の末路をしかと見届けなさい。守矢を信じぬ者はこうなるのです」
早苗の発する号令で、巨人の顔が炎であぶられ、あらわになった。
その正体は巨大なカカシにくくりつけられた、哀れな人間にすぎなかった。
人々に運び込まれて動くカカシが、まるで大きな人間のように見えていたのだ。
無残にも全身をいたぶられ、今にも息絶えそうな女性が、縛られて、先端につるし上げられている。
女性の口が、助けを求めるようにかすかに喘いだ。
東風谷早苗は微笑んだ。
これこそが宗教の完成形である。
絶対の存在である神と同じくらい重要なのは、セットでお得な"神の敵"。
今までの守矢にはこれがなかった。だから、これまでは信仰が少なかった。
そして、はっきりいって神の敵など誰でもいい。
飢えで苦しむ愚かな人間たちは、苦しさを誰かのせいにできればいい。
そんな矮小で下賎な連中だ。いずれその立場が自分になるかもしれないのに。
ま、いいですけど。だって
「もちろんそいつは絶対に、私以外の誰か」
早苗は微笑んだ。
落差が、落差こそが早苗を苦しめていた!
日本の女子高生という立場からいきなりの転落。
飢饉という圧倒的災害。その恐怖の坩堝の中へ投げ込まれ、見た人間の真相が汚らわしさを前にどうして変わらずにいられようか。
神事の延長、単なる細事の手伝いだと思って幻想郷にやってきた早苗に、この醜さを直視するのは負担が大きすぎる。
いや、誰であろうと飢えに苦しむ人間たちの争いを前に、心の純潔を保てようか。
では東風谷早苗の精神は、くじけてしまったのだろうか。
汚い現実を前に、その膝を折り、もはやはかなく心を散らしてしまうのみであろうか。
「奇跡の力を授かりたい者よ、生贄を神に捧げるのです!このような動乱、飢饉干ばつが起こるのは全て生贄が足りないからです!」
いいや、違う!
「この東風谷早苗の名において、神に血を捧げるのです!」
否、否である!
「そうすれば全てが救われます。讃えよ、神を!」
元来あった気質であろうか!もしくは、奇跡を起こす彼女の力であろうか!
現実を前に打ちのめされた早苗の精神は、すみやかに強靭となって蘇った!
もう二度と困難に屈しないよう!もうその現実に絶望することないよう!
強く生まれ変わるべく、自らの心を闇色に染めたのである!
「汚らわしき者を、ここへ」
カカシの縄が断ち切られ、女性は頭から地面に落ちた。
歪に曲がる首の音も、誰一人の関心をひくことはない。
興奮の最中にある人々にとって、かつての恩師への興味など、もはや生死以外にはないのだ。
その顔は裂傷でひどく変貌していたが、上白沢慧音のものだった。
足から覗く股ぐらは、白濁した液と、赤黒い染みで汚れている。
どれほどの長い時間の暴行を受けたのか、そこは殆ど原型を失くしていた。
豊かだった白い胸は何箇所もえぐられている。
浅くむさぼった跡からして、人の口で噛み千切った様子だった。傷口からは黄色い脂肪と血管がよく見える。
その両胸の、最も男の興味を引くピンク色の突起は、焼け爛れ、繋がっているのがやっとだった。
仰向けの慧音の呼吸は浅く、瞳は虚空を見つめ続けている。
早苗は地面に転がる女性の瞳を覗き込む。
「最期になにか言いたいことありますか?」
すこしして何の反応もなしと見ると、早苗はすぐに興味を失った。
そして麻薬に陶酔した群集に向き直る。
「この女は浅ましくも我らが神社を罵りました。耐え忍べば明日は来るなどと皆さんを謀り、守矢への信仰を反対したのです」
透き通る大声は、色めき立つ人間たちの耳に心地よく落ちていく。
「幻想郷を見てください。守矢だけが充足しています。私たちだけが満ち足りています」
麻薬でね、と早苗は聞こえないように付け足した。
「貴方達だけが正しい選択をしたのです。素晴らしいことです。人里の皆さんは殆ど、守矢の信者となったのです」
その後も早苗は民衆を煽り続けた。
いままで人里がどれほど妖怪に苦しめられていたか。長年の恨みを、これぞ我が怒りと謳った。
それを、慧音が妖怪であることと結びつけた。論理がズレはじめ、次第に今回の異変ですら慧音の仕業になっていった。
これほど理不尽な説得で、かくも正しい民衆の怒りは発生する。
早苗は笑った。
その時、もはや意識朦朧とした慧音の頭が、早苗の言葉を理解し、その唇が、最期の望みを発する。
「あ……。妹紅は…」
声はかすれている。
自分が守り続けたものに裏切られた絶望。もうそれすらも関係ない。
表情には一片たりとも希望はない。それは慧音の、死に際の未練だった。
「彼女、だけは……。許して…あげ…て」
早苗は驚いた。
これほど全て枯れ果てた女から、一筋の涙が流れたからだ。
なんという執念。死にゆく者とは不可思議なものだ。
だが早苗は、すぐに口元に笑みを作って教えた。
「ねぇ。私の神社のまかないの肉…何を使ってたんだか分かりますか?」
慧音の瞳は動かない。
「馬鹿ですねぇ。まだどうにかなるとでも?あの無限に復活するやつは、手足をしばられ、延々と嬲られてますよ」
早苗は境内の裏の森を指差す。
薄暗い風景が広がっていた。
「ほら神社のすぐ裏手の小屋ですよ。殺しても殺しても死なないのでずっと皆さんのはけ口になってました」
そして嬉々として語った。
「壮絶でしたよ。性欲と食欲を一片に成り立たせた光景」
「あ…。う…っ。やめて……」
「すごい悲鳴でした。寝る間もない陵辱。何ヶ月もずっと止まらないんです。興奮しました」
早苗は、大げさに身振り手振りでその様子を表現しようと腕を振り回す。
人の体には、股には、どれだけの大きさの物が入るのか。どれくらい伸ばせば、人体は千切れるのか。
生きたまま焼かれて食われる人間はどんな悲鳴をあげるのか。自分の子宮を見せ付けてやると、女性は一体どんな表情をするのか。
早苗は丁寧に解説してあげた。
「うふふ…まあ、幻想の力が消えて、私の奇跡でなんとかもたせてたんですけど、遂に復活しなくなって逝っちゃいましたけど」
早苗は頭に手をやって、失敗しました、と気軽におどけた。
「さあ皆さん。憎い裏切り者、人里を惑わせた上白沢慧音に復讐の時がきました。おやりなさい」
農作業具や棍棒などを携えた怒れる民衆が迫ってきたとき、慧音は静かに目を閉じた。
唇が親友の名を、続いて謝罪の言葉を述べる形をとる。
慧音はこのような最期を迎えてしまった人生の選択を、決して後悔していなかった。
人を信じたことも、不死人と友人になったことも。
それが自分の人生に対する、ちっぽけなプライドだった。
後に残ったのは、挽き潰れた半人半妖の肉だけだ。
妖夢は極めて冷静に、感情に囚われることなく、この神社を唾棄すべき集団だと判断した。
無論、妖夢にありふれた正義感はない。
唾棄すべき一点は、この者らが全くの弱者であり、烏合の衆だという点である。
世相の乱れが極まれば必然、信者達の、己の心に描いた神が暴れ出す。
それは神という名の自我である。この神は往々として、ひどく何かを憎む。
妖夢の慧眼は境内の一部始終を捉えた。
里の民衆は、自分たちの守護者を嬲り殺してしまった。これは常道の理性では考えられない。自分を守ってくれるものを排斥する、自虐のような行いだ。
彼らは我慢ならなくなったのだ。彼らは過酷な自然や猛獣に食い物にされてばかりだから、遂に自分で自分を食べるしかなくなったのだ。
あまりに弱者すぎて、己の未来くらいしか食べる物がないのだ。
飢えに耐えて生きるのを放棄した。ひどく嫌悪すべきことだ。
「だけど、討つに値するかは微妙なところね」
武士は理由もなく危険は冒さない。それは相手が聖人君子であっても畜生であっても変わらない。
妖夢は感情を戒めた。
「守矢の巫女はこの混乱を喜んでいる。今の信者を手放したくないなら、むしろ幻想郷の崩壊を歓迎するはず。より強い信仰を求めて、暴れ回ってくれるかもしれないわ」
妖夢は乱世を歓迎する。
目的が同じならわざわざ労をして早苗を斬ることもない。
妖夢は奥まった林に身を隠し、場の情勢を伺った。
なんにしても動くのならチャンスが必要だ。
そして、単独でこの神社を敵に回して無事な保障はない。何らかの要因が必要だと妖夢は冷静に処断した。
様子を眺めると、どうやら更なる火種を孕んだ何かがここに現れるようだ。
遠めに拝顔した教主の顔は、控えめに見ても、その信者である物狂いと大差はないように見えた。
「これでも信じますか、人間…。ふふっ」
早苗は微笑した。守護者の心中を慮れば喜悦はとめようが無い。
高校の教科書に載った道徳や人道なんて幻想でしかない。人間の善性なんてやはり嘘っぱちだと証明された。
大体、この地の時代遅れの人間など、ただ風祝である自分を持て囃すためにいればよかった。
「はやくしておくれ、早苗。もう消えそうだよ。さっきの守護者じゃ足りないよ。とにかく、早く信仰を」
「分かってますって」
「頼む。早苗、早く生贄をおくれよ」
早苗は軽侮の眼差しを隠すことなく自らの神を見た。
神社の大部屋から顔を出した神奈子の顔面は蒼白だ。早苗は鬱陶しそうに手を振って追い払う。
すがるような視線が伺えた。
彼女は今にも命運が尽きそうだった。
かつて膨大な神力を備えた体は透明がかり、向こう側が透けて見えるあたり、まるで霞のようだった。
しかしその眼だけは異常な執着の意志を持ち、爛々と輝いていた。
「消えてたまるか…。私はこの世に未練がある。生きてたいんだよ」
「分かってますから、神奈子様はちゃんとそこでどっしり構えててくださいよ。信者の方々の手前なんですからね」
元々、彼女の存在は八雲の結界に守られているところが大きかった。
結界内の幻想を失えば、数千人程度の人口規模では、異常ともいえるこの信仰をもってしても、神奈子の存在は希薄になってしまう。
隣にいる祟り神の力もあってやっと心を保っているくらいだ。
「最も力が溜まるのは人身御供だ。捧げるんだよ早苗。私の復活のためだよ。それが人々の将来のためでもある」
「神奈子の言うとおりさ。早苗が私たちの頼りだよ」
「二柱ともご安心を。本日のメインイベントはこれからです」
早苗は言った。
たとえ形だけの神とはいえ、今は奉る必要がある。早苗の力の源なのだ。
いずれ直接人心から信仰の力を得るようになるまではありがたい身内だ。
「さて皆さん、始まりますよー!」
そう、この守矢神社には一月に一度の大イベントがある。
こちらこそが今日の本番なのだ。
その名も、妖怪卸し。
『ウオオオオオォォォ』
人々の唸り声に、早苗は早くも満足そうな顔をした。
「本日この場へと召喚したのは、かつて恐るべき妖力で畏怖された大妖怪です」
早苗は仁王立ちで、毎度となる口上を述べあげた。
「こうして我ら守矢の力で捕えることができたのは皆さんの神を信じる信仰心の賜物といえます。我らを苦しめた罰を与えましょう。此度の飢饉はこいつら妖怪が一端を担っているのです」
信者でない妖怪を皆で屠り去る。それがこのイベントの真髄だ。
標的は人型の妖怪であればなんでもよい。捕り物をして鬱憤を晴らすのだ。
もし捕まらなかったら信者の内から選ぶこともあった。
ただ今日の獲物は早苗にとっても特別な意味をもった。
その容姿は完成されていた。頭髪は豊かな太陽の恵みを一身に受け、柔肌からは暖かな色香を放っている。
縛られて地に転がされて尚、不遜な態度を取り続けるその女は、太陽の畑の主人である風見幽香だ。
この妖怪の捕縛にあたって早苗は慎重を期した。
何しろ幻想郷で最強クラスだった妖怪だ。というのも信者の要求がどんどん過剰になったからで、生活苦を誤魔化すための不満のぶつけ先も、より大きな存在にする必要があった。
信者たちを何重も肉の盾にして追いやり、執拗に嫌がらせを行ったあげく、ミジャグジの力で弱ったところを無理矢理封印した。
博麗結界時代の強大な力など殆どを失った挙句捕まったのだ。
だがこの女は、尚この態度。怯えればすこしは可愛げがあるものを。
「この妖怪のために数多くの同胞が犠牲になりました。邪悪な体をいたぶり、その罪を自覚させてやるのです。哀れな妖怪に屈辱を与え、救いの道を示してやるのです。皆さんの清浄な心が試されるときがきました。苦しみの元凶を自分の手で成敗するのです」
早苗の声に呼応して再び信者たちが雄たけびをあげた。
手を振りかざし、神風を巻き起こしてもう一度声を張り上げる。
「さあ、この妖怪は、我々の苦しみの、なんですか!」
『元凶!!』『元凶!』『元凶!』
人々の口から一斉に決まりの文句が踏み揃った。
狭い境内に集まった人間たちの熱気が肌に纏わりつく。
股座がジンとした。下半身が熱い。
早苗は喜悦を浮かべた。
本当に、特別な獲物だ。遂に落ちた大妖怪は、早苗自身の力が幻想郷で最高の段階まであがったことを意味している。
もうこれで自分に逆らえる者は殆どいない。
「うふふ……あはっ!いいですねぇ。聞きましたか。あ、ちょっと待って…」
早苗は、縛られて横たわる大妖怪の下に歩み寄り、その顔を足で小突いた。
幽香はそれを屈辱に思う様子もなく、つまらなさそうな表情を浮かべていた。
その瞳はどこを見ているのか、睨み付けるではなく、遠く風景を遠望するような色だった。
そして何度か小突くと、揺れる前髪の下、やっと真っ赤な瞳が早苗を見た。
「なに、鬱陶しそうな顔してるんですか…?ご自分の立場分かってるんですか」
早苗は上から見下ろした。
「はぁ…。紫のヤツほんとに死んじゃったのね…」
幽香はため息をついた。
その態度が早苗を苛立たせた。頭に血がのぼり、顔が赤くなった。
この妖怪は、自分を無視している。
早苗はその端整な妖怪の顔に唾を吐きかけた。
それに反応して、一度だけ瞳が早苗を鋭く貫いたが、それ以降は、やはり無関心な顔に戻った。
「うっざい…。なにこの女…。私なんかに興味ないってことですか」
しかしその鋭い視線にも早苗は全く恐怖を覚えることはなかった。
縛られて、何の力もなくしてる女だ。
強がって大物振ろうとも、足元に転がる蛆虫に変わりない。
「どんな気分ですか。怖いですか?これからアナタはそこに転がってる半分妖怪の女みたいになるんですよ?」
早苗は近くに散らばった肉片を指差した。
煙の臭いが充満していなければ血生臭さが鼻についただろう。
しかし幽香はそちらを見ることもなく、そんなことに関心は払わなかった。
そこで早苗はハッと気がつき、表情を明るくして言った。
「聞いてくださいよ。そういえば、うちの神社、近ごろ食料が足りなくなってきてるんです」
困った風もなく、早苗はわざとらしく首をかしげる。
「ねっ。困りましたよね」
口の端が釣りあがり、嬉しそうに早苗は語りかける。
「知ってましたか?ヒマワリの種って食べられるんですよねー」
嬉々として早苗は続けた。
「炒って食べるとおいしいらしいですよ。ねえ、どう思いますか?」
この妖怪が普段、あれほど大切にしていて、一緒に居続けた太陽の畑だ。
まさに我が身のような存在だろう。
そんな大事なものが陵辱される様を想像すると、早苗は体を戦慄かせた。下腹部から全身に快感が走る。
「平気そうな顔してるけど分かってますよ。怖いんでしょう? むかつくんでしょう?」
早苗は、幽香の腹を蹴った。
「あは。ねえ、なんとか言ったらどうなんですか」
二度目。ドン、とくぐもった音が響いた。
「無視ですか?」
蹴るペースがあがっていく。
「ねえ、ねえってば」
最期に一度強く蹴った。
だが地面に横たわる幽香は動かなかった。
表情も同じだ。
早苗は再び、イラついて言った。
「ええ、そうでしょうとも。貴方はお強い妖怪です。殆どの妖怪が妖力を失くしてるのに、まだ力があるなんてすごいですよ。だからこうして私の在りがたい呪符を何重にも注連縄で縛り付けてるんです」
吐き出した言葉が優位な現状を思い出させてくれる。
苛立つ自分に気がついて、早苗はふっと笑った。
見下ろす瞳には再び優越感がこびりついていた。
「そんなことも分からないんですか。それとも力だけあって、頭は馬鹿なんですか!」
早苗は足を思い切り引きつけた。大きな溜めを作って、もったいぶってから容赦なく体を蹴りつける。
横腹から、小さく無機質な音がした。
「あはっ、折れてしまいました」
だが相変わらず幽香の顔はすこしたりとも歪まなかった。
ここまで反応がないと痛覚の存在も怪しい。死体のようだ。
傷を与えた確かな証拠が、口元から、つと一筋こぼれ落ちた。
早苗は再度、その顔を足で踏みにじった。
ぐりぐりと足の裏を押し付けて、憎憎しげに呟く。
「反応しろよ…。この不感症女…」
早苗は振り返って、場を離れていった。
「…もういいです。アナタの強がりがどこまでもつか見せてもらうことにしましょう」
おあずけを頂戴した信者たちは、早苗の指示で黙っているものの、今にも飛びつきそうだ。
その光景を覗く者は、強者をなじる行為に猛烈な怒りを感じるただ一人の武士除いて、原始的な興奮の極みにあった。
「おやりなさい」
嬲りが始まった。
怒涛のごとく信者が殺到する。
男も女も関係なく、我先にと、輪になってひたすらかつての大妖怪を殴り続けた。
綺麗だった顔が、柔らかだった腹が、膨らんでいた胸が、次第に青あざとなり、裂けて元の形を失くしていく。
血飛沫はただ一人から出たとは思えないほどに広がっていた。
地面に染みた血液と、飛び散った肉片はすでに致死量を越えている。その度にありがたい奇跡が、妖怪を延命した。
だが、暴行の騒音に対して、被害者は悲鳴一つあげない。その光景は異常だった。
大妖怪を食い潰すごとに、信仰の力が二柱を満たした。
しかし全くの無反応だった幽香が途中、早苗の漏らした一言で初めて肩を震わせた。
「……フフッ。…ハハ、アハハハ」
幽香の真っ赤に染まった髪が振り乱れた。
「…は?どうしたんですか。遂に痛みで頭イカれちゃいました?」
「アハハハハ!やだわ、ほんと!おかしいったらないわ」
早苗は群集に暴行をやめさせた。
全くの静寂が訪れる。その中で幽香の笑い声だけが大きく世界に木霊した。
「アハハハハッ、アハハハハハハハハハ!」
「…なんですか。何がそんなにおかしいんですか」
幽香は血を吐いて咳き込んだ。
「だって、アンタがあんまり的外れなことを、真剣な顔で言ってるんだもの」
早苗は硬直した。
その滑稽な顔を幽香は初めてしっかり意志をもって見た。
そして幽香は口を開いた。
「ごめんなさい?私たちと神奈子様のためには犠牲になってもらうしかないんです?」
骨すら見える頬を気にせず、幽香は高々と笑っていた。
「アハハッ、間抜け、これを笑うなって方が無理よ!なんの冗談かしら」
幽香は、早苗の中に残った最後の少女を嘲笑った。染まりきった心に残った一つだけの罪悪感をなじった。
誰にも聞こえないように呟いていた、未だに残った良心の姿は実に滑稽だった。一体誰に対し、何を謝っているのか。
笑い続ける幽香を前に早苗はおろか、信者たちは全員唖然とした。
ひとしきり愉快な声を発散すると、信者たちの心を満たすための生贄はピタリと笑いをやめて告げた。
「天狗が死んで風が止んだ。河童が死んで雨が止んだ。私を殺すことは大地の恵みを殺すこと。助からないわよ。アンタら全員、すぐ死ぬわ」
幽香は面白そうに周囲の人間を見渡す。
どれも薬と狂信に逃げ込んだ哀れな顔。一層笑いを引き立てる。
「幻想郷は人間でもってるんじゃないの。妖怪で保ってるの。この神社は明日咲くはずの種を今日食いつぶしてるだけ」
そして幽香は、見るものを魅了してしまうような、とびきりの笑顔で言った。
「残念だったわねぇ?」
その言葉に対して、しばらく無音の時が続いた。
耳鳴りがひどく鼓膜を打ちつける。
認めがたい言葉を前にして早苗が出した結論は、ただの妖怪の負け惜しみ、だった。
「ふ、ふふ…。何を馬鹿な。大体、そうならないように今私は結界術を作ってるんですよ」
「あら、結界?そう、そうなの。それはすごいわね」
幽香は微笑みながら関心した。
「こ、これが完成すれば守矢大結界は、幻想郷のあらゆるものを守り、守矢のために捧げ…」
「ええ。紫でさえ百年かかった大結界をアナタが。頑張ってね」
早苗は動揺の極みにあった。
背筋を寒いものが這い回り、目の前の幽香の笑顔がとても見ていられなくなった。
焦るように口から大声を放つ。
「だからお前は死ねってのよ!おやりなさい、信者の方々!!」
だが、最初の群集が幽香の体を切り開く前に、信者達の後方で幾人かの人間が倒れた。
綺麗な放物線を描き、西瓜くらいの大きさの物が降ってきて、地面を数度転がった。それは人間の頭だった。
妖夢は疾風のごとく二刀を持って駆けた。
無防備な背中の、どれもこれもがひどく汚れていた。
長大な日本剣を力まかせに振り切ると、いとも簡単に二つの首が飛ぶ。
返す刀で三ツの胴に大きく切れ込みが入る。
一瞬の後、大きな赤い花火が爆裂した。
群集はまだ反応しない。
妖夢は踏み込みも鮮やかに、首を斬って斬って斬りまくった。
襲撃からきっちり七秒。最初の悲鳴があがる。
その間に斬った数、実に十余人。
恐怖にひきつって慌てる顔。その顔めがけて刀が走る。
焦って転ぶ。その胸に剣が突き刺さる。
斬れた皮膚からは一瞬白い肉が覗き、すこしの後、勢いよく血液が噴出した。
刀傷の肉は白い。
「理由があるから、もはやためらう必要はない。死に場所ここに見つけたり」
これだけの人数相手に飛び出して、妖夢自身、無事ですむとは思っていない。
だが足は止まらない。正体不明の怒りが妖夢の心に火をつけ、斬る理由が体を後押しした。
足に力を溜め込み、妖夢は踏み込みの苛烈を生み出す。
裂ぱくの呼吸が口から洩れた。
「……ハッ!」
五メートルの瞬間的な移動。胴の高さを凪いで飛ぶ。
刀を手に添えた妖夢の軌跡に続いて、次々と腸が一直線にこぼれていった。直線状に五人倒れる。
縦横無尽に駆け回り、妖夢はここぞとばかりに斬り殺した。
群集は暴徒と化して逃げ回った。
人々は互いの足をひっぱりもつれあい、かえって脱出が遅くなった。
転んだ者に斬りつける時間が惜しい。
妖夢は下敷きになった者は走るついで、首の骨を踏み折っていく。
早苗が場の異変に対処を始めるまで二十秒。
信者たちの後ろ、鳥居の階段側から迫り来るものがある。だが、体躯の小さい何かは人ごみに紛れている。
人の悲鳴を押し分け、血のあだ花が正体を明かさず迫っていた。
「なっ…!なんですか一体!」
腕が、足が、首が飛ぶ。
妖夢は一人の男に狙いをつける。
股下から剣を思いきり振りぬくと、下半身がいとも簡単にぱっくり割れた。
この世のものとは思えない叫び声があがった。
妖夢はボソリと呟いた。
「それくらいで人は死なぬ」
妖夢はその人間を、大麻が燃える境内の中心の焚き火へと蹴り入れた。
焼けて暴れる男のせいで、煙が一気にあたりを覆いつくす。
妖夢は早苗へと斬り進んだ。
肌色の山。肉の群れ。もはや自分が何を斬ってるか分からないほど妖夢は斬った。
ふと、地面を転がる女と目があった。
この状況を多少意外そうに驚いていたが、動揺はしていなかった。
妖夢はこの女と一言も交わさないのに、視線が交わって、何か通じ合うものを感じた。
それが何かを確かめない内に、妖夢はすぐに女を縛る縄を切った。反射的な行動で、特に意味はなかった。
特別な縄は、一度光ると、すぐにその効力を失った。
「やめろ!!私の信者だ!勝手に殺すな!あぁ、減る。信仰が減ってくよ…!」
早苗は、後ろで騒ぐ神奈子に気がつき、駆け寄った。
「何が起こってるんですか神奈子様!」
「ちきしょう。私の体が消える。くそう、早苗、曲者だ。撃ち殺すんだ。風見のが逃げた」
「何を仰って…!」
神奈子の元から、人間並みの大きさの柱が何本も飛んでいった。
煙の中へと、御柱が勢いよく突き刺さる。
そしてそのまま手当たり次第に、信者達を巻き込んでぶち当たった。
「神奈子様、信者の方々になんてことを……」
「はずしたか。おのれ」
「何を仰ってるんですか…。くっ、風よ!」
早苗は額に汗しながら、印をきって風を巻き起こす。
信者たちの後ろから何かが来たと思ったら、阿鼻叫喚の図が始まった。
何がなにやらわからない。
煙の中に響き続ける悲鳴。
いくらかして、ようやく暴風が煙を吹き飛ばした。
なぜという疑問より先に、信者を失った強烈な怒りが早苗を支配する。
人々の嘆きと叫びの中で悠々と佇むその姿を、早苗はやっと捕えた。
境内に集まった三百を越える信者のうち、三割方が血溜まりに姿を変えていた。
白色の頭髪は今や真っ赤に染まりきっている。
魂魄妖夢は悠然と立ち止まり、血にまみれた刀で真っ直ぐに早苗の首を指し示した。
「私は強い者と戦うのが好き。それとどうやら、集まって暴力になる弱者の集団が相当嫌いみたいね。死ねばいいと思うわ」
言葉は悲鳴に紛れて会話にならない。
だが早苗は叫んだ。飛び出さんばかりに目を血走らせて能力を発現する。
「奇跡の力よ。この不心得者を呪い殺すのです!」
今まで逃げ回るだけだった暴徒が一斉にうなりをあげて妖夢に殺到する。
もはや瞳には意志など宿っていない。
所詮、妖夢は剣士に過ぎない。前方に神を据えて、全方位からの攻撃など受けられない。
これを凌げるのは、一度や二度斬られたくらいでは動きに支障のないタイプの生き物だろう。
これくらい妖夢だって分かっていたのだ。強烈な嫌悪のため、死闘を覚悟して斬り入った。
しかし人間たちの前に立ちはだかるものがあった。
先ほどの傷口から覗くのは植物の蔦だ。緑色の根が幾重にも重なって、体を屈強に修復している。
暖かで優しい緑色と、人の血の赤の迷彩を塗りたくったその妖怪は、惨劇の予感に反して、心底楽しそうに、まるで無垢な少女のように笑った。
「ねぇ、一人も逃がさないわ。あそびましょう?」
開始された大虐殺を背に、妖夢は神へと突貫する。
「僥倖!」
眼前に迫る五芒星の弾丸を妖夢は一足飛びで避けた。
激怒した風祝は咆哮をあげて、輝く弾丸を連射する。
「うああぁぁ。死ねぇぇ!」
射線上の信者が吹き飛んだ。
妖夢はそれを横目に、右足に力をこめて、加速しながら左にかわした。
かわした先に御柱が天から突き刺さる。
直感により、なんとか妖夢はブレーキをかけた。
柱の衝撃で地面がめくれあがる。
五芒星と御柱の弾幕を妖夢は駆け抜けた。
接近以外に生きる道はない。
「戦神に戦いを挑む、その愚かさよ…」
後一歩のところで、地の底から響くような声と共に、突如巻き起こる神風に飛礫が乗る。
石の雨は容赦なく妖夢を打ちのめした。
向かい風のせいで前進の速度が落ちた。
このままでは狙い撃ちだ。
「ならば」
妖夢は早苗に小刀を投げつけた。
二人の集中が乱れた一瞬。足の筋を痛めることを覚悟で妖夢は大きく跳躍した。
天に高々と刀を突き上げて振り下ろす。狙いは戦神。厄介な方を先に片付ける。
時の流れが鈍化する。
早苗に向かった小刀を弾くため不覚をとった戦神、その焦り顔がまじまじと確認できる。
だがすでに時遅し。
「がっ…!」
妖夢は血を吐いた。
「くあ…。ぬかっ…た…」
今にも斬りかからんとしたその時、巨大な口が地面から妖夢を食らっていた。
ちょうど、腰のあたりから下が土くれの蛙に齧られている。
傷は致命傷だ。圧力で肋骨飛び出し、妖夢のピンク色の臓器がはみ出ていた。
神社の縁側から諏訪子は姿を見せた。
「油断大敵ですわ。魂魄妖夢。もはやここまでだよ」
「ゴフッ」
蛙が口を擦りあわせた。
妖夢は、上半身だけでぼとりと地面に落ちた。
早苗はその光景をしばらく見つめ、ようやく自分を取り戻した。
そして怒りに身を任せて、半身だけとなった妖夢を蹴りつける。
「よくもやってくれましたね!この糞女は!」
目を血走らせて早苗はどなった。
「こんなクズのために、守矢の信者たちが…。ありえないです、こんなふざけたこと!」
「どいてな早苗」
数十本の御柱が、妖夢がいた場所に次々と轟音をあげて突き刺さっていく。
二人の後ろから諏訪子の声がかかった。
「落ち着きなよ二人とも。まだ風見が暴れまわってるんだ。いますぐに抑えないと」
「落ち着いてられるかい諏訪子。なんだってこんな物狂いがうちに来た。畜生」
神奈子は口惜しそうに顔を歪めた。
「いいから、冷静になりなよ。早くまた風見を封印し……」
諏訪子の言葉は最期まで言い切られることなく途切れた。
神社の屋根から降ってきた妖夢が、その背後からばっさりと小さな背中を斬り付けていた。
唖然とした表情のまま、諏訪子は肩口で別離していく。意識の最期に諏訪子は悔しげな表情を見せた。
妖夢は自分が殺された場所を見やり、しっかりと頷いた。
「半霊。最期のお仕事、見事でしたよ」
幻想の力を使い果たした相棒は、白いもやとなって消えていった。
目の前の事態にやっと脳の理解が追いついたその時、神奈子の脳天から足元までを白楼剣が一気に駆け抜ける。
小刀による流れ一線。御柱が宙に浮き始めたところで落ちた。
神奈子の骨を絶つには至らず、体の前面が不自然な角度に開いた。
妖夢は、早苗へと歩みを進めた。
「何度も討ち漏らすと痛いわよ」
「はっ?何言ってるんですか、近づかないでください」
早苗は反射的に後ずさる。
「こっちに来たら、奇跡の力でどうにかなっちゃいますよ、アナタ」
妖夢は無言で早苗の持つお祓い棒を叩き落した。
早苗は痛みに顔をしかめ、傷を抑えて焦って言った。
「や、やだ、切らないでくださいよ。もし傷が残っちゃったら、水着とか、着れなくなっちゃうじゃないですか!」
妖夢はあまりに見当違いな発言にあきれた。
「自覚がないまま楽になれるんだから…。いいわね」
妖夢はゆっくりと構えると、嫌がる早苗に構うことなく腕を突き出す。
妖夢は正確に早苗の胸を突いた。
「ぎゃああぁぁ!痛い痛い痛いイタイイタイ!」
早苗は左胸から刀の柄を生やしたまましばらく暴れた。
「う…ああぁぁ!!痛いよぉぉ!」
「意外と元気ね。やっぱり白楼剣じゃ効き目が薄いのかしら…」
「助けて、痛い。ぬけよ…痛いよ、痛い!」
妖夢は不審に思った。
早苗は心臓を貫かれても息があった。
一瞬にして早苗の両手首の腱を切断する。
妖夢は激痛で錯乱する早苗を地面に押し倒した。と、ついで左、右と、流れるように踵の腱に刃を入れる。
人体で極めて丈夫なこの繊維を切断することで、人間は殆どの抵抗ができなくなるのだ。
また少しして、ようやく早苗は死の恐怖を思い出し、自分の神が妖夢に負けたという現実を認識したようだった。
「いやああぁぁ!!」
早苗は苦痛に耐え切れず大声で叫んだ。
瞳から大粒の涙がとめどなく流れ出す。
「ぎぁっ!ああぁぁ…。いだい…殺さないでぇ…。あの二人に命令されたのよぉ…」
「なんで死なないのかしら?」
「やめでぇぇ…。痛いよぉ…!」
妖夢は早苗の細い腰に馬乗りになった。
「これでどうだ」
白楼剣を逆手にもって、何度も何度も胸を突き刺した。
「やめ、いっ、いぎゃぁぁ!いだっ!いっ!あっ!」
「動かないで」
「ギャッ!どけ、どけ!どけぇ…どいてぇ…」
その度に傷口から、ピュッと血液が飛びだした。
服も体も血液で赤く染まっていく。冷たい刀が、早苗の白くなめらかな肌を通り、生暖かい肉の奥深くへ侵入していく。
絶え間ない激痛が早苗に襲い掛かった。
早苗は妖夢を払いのけようとするが、手足の腱を切断されているせいで、せいぜい腰が動いて身を捩るくらいしかできなかった。
むしろ、その度に狙いが逸れて、苦痛の時間を引き伸ばした。
妖夢はしばらく刺し続けると、痙攣を始めた早苗の体を見下ろした。
別に妖夢とて、わざと苦痛を味あわせようとしているわけではない。
「こういう時は首を落とすに限るわ」
白楼剣の刃を首筋にあてると
「あ…やめ……」
「御免」
一気にひき斬った。
洪水のように血液が噴出する。
一気に噴き出した血は、やがて、勢いをゆるくしていく。
早苗は白目をむいて激しい痙攣を繰り返す。足元に違和感を感じて、見ると、尿が漏れていた。
即死に至る傷だ。
だがしかし、しばらく待っても呼吸は止まなかった。
奇跡的にもまだ早苗は生きていた。
妖夢は呟いた。
「これは……。そうか。奇跡を操る能力か」
風が吹き抜けるようなカスれた呼吸を繰り返す早苗に、妖夢は奇跡が終わるまで刀を刺し込み続けた。
ようやく早苗は事切れた。
しかし、神には人間のような死は訪れない。
白楼剣で斬られた諏訪子の体は緑色の液体に変化した。
迷いを断ち切る妖刀の神秘が、皮肉にも神である彼女の体に接触することで効果を発揮したのだ。
ただの人斬り包丁である白楼剣が、神の体内を通過し、なけなしの幻想を取り戻した。
諏訪子は生きることに辟易としていた。祟り神として、あらゆる感情を体験し、人の世の儚さや美しさを達観するに至った。すでに生き飽いている。
それに最期の未練である神社も、幻想郷が滅べば全部おじゃんになってしまうだろう。
もういい、死のう。諏訪子はそう思った。
泥水になったその姿で今生の自分の最期を見つめる。
境内で繰り広げられる殺戮を前にして、諏訪子はそれさえ小さなことにしか感じられなかった。
液体に数個の泡がたつ。
守矢諏訪子は消滅した。
神奈子の体に宿る神力の全てが生への渇望に満ち溢れていた。
生き足りない。神力が消滅に逆らい疾走を始めていた。
風と雨、操ってきた幾億の自然の記憶が荒れ狂って出口を探す。
神奈子が人の身から神へと昇格したのは死を疎んでのことだった。
生への盲執が種族の壁を越えた彼女にとって、逆もまた同様の発想だ。
迷いは断ち切れた。神の最後の奇跡によって、斬られた神奈子の御身は光に包まれる。
「……っつかはぁ!…はぁ…。はぁ…」
神奈子は焦燥しきった顔で膝を着いていた。
全身が汗にまみれ、荒く息をついている。
「こ、これは…」
神奈子は自分の手をまじまじと見た。
肌が白く、若々しかった。
「…受肉している?」
その声に対応するかのように手首の筋が脈打っていた。
妖刀の神秘と、天地創造に近い神の力で一つの奇跡が起きていた。
「おお…なんて素晴らしい」
神奈子の全身に喜びが満ちた。
「人の体だ。肉の体だ。霞のように消える神なんかじゃない。あんな不確かなものじゃない」
言って、神奈子は一筋の涙を流した。
八坂神奈子という神は、神としての死より、人としての生を選んだのだ。
迷いを断ち切る能力が幸運にもその思いを、幾重にも乗算した。
たかが人の小娘が生贄に捧げられてから、神に奉られて数百世代。
ついに神奈子はここに還って来ることができた。矮小ながらも、生気に満ちた清浄な体だ。
信仰などという不確かなものに支えられたその身から、懐かしい母の愛情でできた肢体に立ち返った。
目に入る景色が、香る風が、鳴る音が、すべてが色づいて感じられる。
もはや望郷の念と呼ぶにはあまりにはるか昔、あの少女時代の、あの言い表せない日々が記憶をよぎり、懐かしい快感に全身が打ち震える。
「ありがとう…。もう顔もおぼえてない両親と、そしてこの巡り合わせよ」
神奈子は諏訪子と違い、生きることを選んだ。
もう日に日に濃くなる死の影に怯えることはないのだ。
「………あっ?」
神奈子は不思議な衝撃を感じて、辺りをきょろきょろと伺った。
おかしい、と思って違和感のあるところを見ると、自分の体の、丁度腹のあたりから妙なものが生えているではないか。
妙に硬そうで、まるで無機質だった。触ってみると冷たく銀色で、人の体には全く不釣合いなもののように感じた。
そのおかしな物が生えてる根元、つまり自分の腹の皮膚から、一筋の赤いものが垂れた。
「あ…」
神奈子の思考は停止した。
「あぁ……」
口から、ため息とも、笑いともつかない奇妙な声が漏れる。
「ああぁぁぁ」
それが何なのか、決して気付きたくはない。
しかし、腹から生えるにしては妙で、突き刺さっていると言い直した方がよほど自然だった。
「やめて…。せっかく還ってこれたのに」
気付けば神奈子は泣いていた。
剣の先端は神奈子の腹を後ろから貫いていた。
後ろから、無骨な声がかかる。
「悪いわね。禍根は断っておくものよ」
腹の刀が、ゆっくりと下降を始めた。
「もう、神社もいらない。何もいらない。何もしない。だから、助かるかもしれないからこのまま引き抜い……いっ!!」
刃が、肋骨の一本を切断した。
ついでその下にある肝臓に入刀する。
「いぃぃぎゃあああぁぁぁぁああああ!!!」
恐ろしい悲鳴があがった。
体の内部ではピンク色の臓器が押し潰れ、太い血管が変形したあと引きちぎれた。
肝臓に密着するように存在する大腸が刀を弾力で押し返す。
しかし妖夢は力を込めてさらに刀を降ろした。
「ギッ、あが!やめ、ぎゃあああああああぁぁ!」
新鮮な血がほとばしり、妖夢の両手をベタベタにした。
刀が腸を引きずりながら、さらに腹の肉を下へとミンチに仕立てていく。
続いて膀胱の袋をズタ袋にしてから骨盤へと白楼剣を突き立てた。
妖夢は刀の鍔に膝をのせた。
骨を切断するため、体重を乗せてナタのように刀を使うのだ。
「ギャがアアあ!そこは、お願、やめてよぉぉ!!」
顔中をあらゆる体液で湿らせながらも、凄まじい精神力で神奈子は言葉を口にする。
「やっと、赤ちゃ…!!?」
断頭台が、子宮と卵巣をグチャグチャに処刑した。
股下から、恥骨を割って一気に刀が躍り出た。
神奈子の体から、膣を斜めに切断して金属の刃が生まれた。
性交に使うその穴が真っ二つに割れ、体の中身が次々と零れ落ちる。
腹部に収めた数々の肉たちが地面に付着していく。ボトボトと大量の血液も流れ落ちた。
その臓器たちの湿った着地音。まるで足元から血と臓物の泉が湧き出たようだった。
それを見たとき、神奈子は絶命した。
妖夢は、血塗れの刀を振るって立ち上がった。
妖夢は空を仰いだ。
遂に妖夢は神を殺す武士になった。
一勢力を滅ぼし、数多くの人間を斬り殺した。
強い者を殺した、えも言われぬ快感があった。
命がけの争いの興奮があった。
相手の生命を停止する、にわかな優越感があった。
斬り殺した者の数だけ強くなれる気がした。
だが一方で、その思考がまごう事なき殺人者のものである自覚もあった。
間違えてはいけない。
殺すために斬るのではない。
斬るために仕方なく殺すのだ。
野ざらしになった死体は今も私を睨んで果てているのだ。
「病み付きになるところだったわ。気をつけないと」
妖夢は自分を戒めた。
強者が死ぬ無常があった。
命を賭す恐怖と絶望があった。
相手の人生を消してしまうことには、わずかな悲しみがあった。
「もう救いようはないけどね…」
この先に何があるのかは分からない。
だが進んだ無情の果てが荒れた死の荒野であっても、妖夢は進むことをやめるつもりはない。
斬りたい、という衝動を止めることは出来なかった。
境内で幽香に別れを告げ、妖夢は新たな道を歩き出す。
「まあいいわ。斬れば分かることね」
その身が尽きるまで、妖夢のシグルイは続く
完
ところで無粋とは思うけれど疑問点が二つほど
・幻想の力が失われたら“妖夢の剣術を扱う程度の能力”も無くなるんじゃね?(あるいは楼観剣&白楼剣の能力)
・神奈子が力を取り戻したのは幻想の力というより単純に信仰だから、特別弱体化はしないんじゃない?
霊夢は、持ち前の勘生かして失せ物探しとかしてそう。
井戸掘りの水脈探しとか、不作になったら余計に重要になるし。ある意味、原始的なシャーマニズムのシャーマンに先祖がえりか。
集落の慰み者パターンは、幻想郷みたいに女性が普通に権利あるところ(あっきゅんが史書編纂してる辺り、例が無いほど女が強い)
ではないらしいですね。一度そういう文化になったら、飢饉とかの混乱でも変わらないですし。
(逆に、男性の権利が無茶苦茶強い集落だと美人は無条件で共有物だったとか)
……ってここまで考えて、女性の方が目立った働きをする事自体が幻想なら、
藍の結界修復が成功しても、
これからの幻想郷は少女の弾幕ごっこじゃなくて、男達の筋肉で勝負が決まるの事に。
※1
確かに、外にいた頃から実体化してたなら、そのままでいそう。
>剣の背が少女の足首の間接を横から砕いた。
関節かと。
早苗が居なければ、人里の混乱はけーね軸にして割と早く収まったんだろうなぁ。
押し寄せる人間相手に、河童が機械で対抗する所が見たかったかも。主に巨大ロボで。
光学迷彩も有効なままだし、潜水能力生かして湖底の隠れ里にでも隠れてるのかな?
一段落したら妖怪の山最大勢力になってそう。
×諏訪子は生きることに霹靂としていた。
○諏訪子は生きることに辟易としていた。
それでいて全く以て話の進行に無理を感じさせない順を追った妖夢の行路とそれに伴う舞台世界の説明
登場する者達の現況とそれに至る経緯が回りくどくなくそれでいて判り易く描かれる
最後の最後まで文章の、そして妖夢の勢いを失うことなく文字が自分の中を駆け抜けていきました
作中の全キャラが愛しく感じてたまらない、幽香りんと神奈子様は特に
今のところ誰も突っ込んでないから一番乗りさせてもらおう
ゆっ ゆっ ゆかりん かわいいよ〜♭〜♪〜 (死に方なんか特に
戦闘始まったら読みふけってしまった
息をもつかせぬ展開だわな
来る前から吸血鬼だったんだから、いきなり蝙蝠にはならないだろーとか思ってたけど
戦闘描写と、妖夢の覚悟っぷりが格好よかった。
これ以上言葉に表せない位面白かった
妖夢や椛の剣術は身につけたもの
対して文のスピードや風は幻想の力そのもの
ここで大きく差が出たのか
魔理沙もアリスもパチュリーも聖も普通の人間になっていると
気付いたら終わりまで読んでいた…
ゆうかりんと慧音が良かったです
辻斬りは背負うものがいてはいかん
全てが死に行く中、己一つで斬り込んでいくのが最も輝く時だ
続編があるならうれしいわ。
ってか冒頭の馬鹿げた死に反して惨状えぐいw
一線を超えてる椛や妖夢もだけど人間臭い早苗さんや神奈子様も魅力的だったぜ
そしてゆうかりんかっこよす
インチキ能力に頼っていた奴にとって平等な世界は無慈悲
逆に本当の実力で生き抜いてきた奴にとっては本来あるべき世界
幽香・慧音・椛がとても良かったと思う
しかし前半のギャグから中半以降のシリアスのギャップが激しいw
続編に期待
こりゃ俺の中では傑作だ!!
かっこいい妖夢に惚れ直したぞ