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『Breaker』 作者: pnp

Breaker

作品集: 19 投稿日時: 2010/08/13 07:06:55 更新日時: 2010/08/29 11:15:47
 紅魔館の長い廊下は、明朝になって陽が昇りだしてもまだまだ薄暗い。
この館に住まう吸血鬼は日光に弱い故に、窓という窓は、いつ何時も真紅のカーテンで閉め切られているのだ。
 この廊下を一日の中で最も早く歩むのは、大抵、館のメイドを統べる存在の十六夜咲夜である。誰よりも早く起きて、一日の仕事を始めるのである。
朝は決まって時を止めずに仕事をする事にしていた。昼にならねば出来ない仕事もたくさんあるからだ。
 薄暗い廊下を歩んでいる途中、彼女の視界にあるものがぼんやりと映って来た。
一歩進んでいくにつれ、闇に紛れているあるものは、その輪郭をはっきりさせていく。
 薄い桃色の衣服を着た、幼い人間の容姿の少女だ。すぐ傍に置かれた服と同色の帽子には、大きな赤いリボンの装飾が巻いてある。
廊下の壁に凭れかかって顔を伏せている彼女の顔は、伸ばしっぱなしの薄い青色の髪が邪魔をして見る事ができない。
地面に投げ出された小さな手や脚は死体のように白く、背から出でる禍々しい悪魔の翼は、力なく垂れている。
眠っている場所が場所である為、一見すると事切れているように見えるが、死んではいない。呼吸に伴って僅かに体が上下するのを、薄暗い中でも確認できる。
 この廊下の壁に凭れて眠るものの名前は、レミリア・スカーレット。この紅魔館の、当主であったものである。
言葉通り、彼女がこの館の当主であったのは、過去の話である。今はもう、彼女は当主ではない。
 咲夜はこの廊下で眠る少女に目をやった。
服も帽子も、埃や血でひどく汚れている。恐らく洗濯など全くしていないのであろう。
元々貧相な体つきであったが、最近はより一層拍車が掛かってきているような印象を、咲夜は受けた。腕や脚の細さが病的だった。伸ばし放題の髪も手入れの形跡が微塵も無く、見っとも無い。
 しかし奇妙な事に、廊下で眠るレミリアを見た咲夜の眼には、悲しみや憤り、悔しさなどと言った感情は一切感じられない。
さも、そこにレミリアがいるのは当然であり、特殊な干渉は必要ないと言った感じの、全くの無表情だった。
そして何をするでもなく、その場を歩き去った。


 それから数時間後、まだレミリアが眠っている廊下を、別の者が歩いてきた。
金色の長い髪と、煌びやかな水晶の装飾のような羽が特徴である。着衣は赤と白が主体で、帽子にはレミリアのものと同じように、赤いリボンが巻いてある。
寝起きであるにも関わらずやけに高揚しているのか、鼻歌交じりに廊下を歩んでいる。
 そんな彼女の鼻歌が、突然消え失せた。その原因は、レミリアが視界に入った、というものである。
咲夜が見た時とそれほど変わらず、死んだように眠るレミリアを見た金髪の少女は、一瞬表情を失くしたが、すぐににんまりと笑み、眠るレミリアの目の前に立った。
立たれて尚、レミリアは眠っていた。目の前に誰かいるなど、全く気付いていない。
 金髪の少女は心の中で、10の数を数え始めた。いーち、にー、さーん……と言った、かくれんぼの鬼となった子どもがする様な、間延びした数え方で。
そして、10に到達したその瞬間、金髪の少女は眠るレミリアの顔を蹴り抜いた。折れた歯が数本、廊下に転がった。
 睡眠中の急襲に、レミリアは覚醒を余儀なくされたが、自身の置かれた状況を理解できる筈もなく、目を白黒させていた。
混乱している彼女に、金髪の少女は更に追い打ちをかける。
床に俯せの状態で倒れてしまったレミリアの頭を勢い踏みつけた。口の中に血の味が充満し、鼻からも夥しい血が流れる。
口は床に塞がれ、鼻は多量の出血で通りが悪くなり、覚醒から数秒でレミリアは呼吸すら困難な状況に追い込まれてしまった。
 レミリアの頭を踏みつけたまま、金髪の少女は満面の笑みを浮かべ、口を開いた。
「おはよう、お姉様」
 この金髪の少女は、フランドール・スカーレット。レミリアの実妹であり、現在の紅魔館の当主である。

 レミリアはどうにか立ち上がろうと床に腕を立てたが、フランドールはそれを許さない。
呼吸困難な状況が、次第にレミリアに酸欠の苦しみを味わわせ始めた。
唾液と血で湿った絨毯に顔を伏せさせられたまま、必死に呼吸を繰り返していると、フランドールが不意に足を除け、レミリアの髪を引っ掴んで体を起させた。
そしておもむろに、最寄りのカーテンに手を掛けた。
「今日もいいお天気よ、お姉様。お外を見てみます?」
「フ、フラン! やめなさ……」
 吸血鬼が日光に弱い事は、フランドールだって知っている。
知っている上でフランドールはこんな凶行に出ている。
暴力的な起こし方に目を瞑れば、姉妹間の行為故にじゃれ合っているように見えなくもないが、フランドール相手ならば話は別だ。
彼女には冗談とか悪戯とか、そんな生易しい言葉は通用しないのだから。
 横へ引けば開けられるカーテンを、フランドールは縦に引っ張って、取り付け器具ごと壊して豪快にカーテンを開いた。
レミリアは差し込んで来るであろう日光を回避する術もなく、ぐっと目を瞑るほかなかった。
 しかし、日光がレミリアの体を焼く事はなかった。
まだ朝が早かった事も影響しているが、何より空が灰色の分厚い雲に覆われていたのが最大の要因だった。
 なかなか訪れない激痛を不審に思い、レミリアは恐る恐る目を開いた。その目に、曇天が映り込んできた。
冷や汗を浮かべたまま、灰色の空に目をやっていると、すぐ後ろでフランドールが口を開いた。
「なんだ、今日は曇りなのね」
 残念そうに言うと、まるで興味を失ったようにレミリアを壁に向かって放り投げた。
壁にぶつかって静止したレミリアは、壁に凭れたままずるりとその場に腰を下ろした。
フランドールはそれ以上、レミリアに何をするでもなく、調子外れの鼻歌を歌いながら歩いて行く。レミリアは小さくなって行くその背中を眺めていた。
 フランドールの姿が見えなくなっても、暫くの間、そのままの状態でじっとして、早朝から受けてしまった傷の痛みに体を慣らした。
ある程度痛みに慣れた所で、レミリアは壁に手をやりながら立ち上がり、口と鼻から垂れてきている地を拭った。
そして、だだっ広い紅魔館の廊下をのろのろと歩み出した。
咲夜がいた頃は、時間を止めて移動させてもらう事で一瞬で目的地まで辿りつけていたが、今のレミリアはそれができない。する権限がない。
咲夜は今やフランドールのものだ。レミリアが無断で使役する事は固く禁じられている。
それに、仮にレミリアがどれだけ頼み込んだとしても、今の咲夜がレミリアの頼みを聞く事は絶対にない。
そして同時に、レミリアがどれだけ頼み込んだとしても、フランドールがレミリアの願いを聞き入れる事は、ほぼない。


 結構な時間をかけて、ようやくレミリアはダイニングルームに到着した。
扉を開けて中に入ると、すぐにそこで淡々と仕事をこなしている妖精メイド達が目に映った。レミリアは何も言わず、遠巻きにそれらを眺めていた。
その中の数名がレミリアの存在に気付いたが、挨拶など愚か、会釈すらせず、すぐに目線を逸らして仕事へと戻っていく。
忙しそうに右往左往している妖精メイド達だが、よく見てみると、彼女らは何もしていない事に気付く事ができる。
何も入っていない皿をテーブルに置く者。テーブルに置かれたままで手付かずの皿を洗い場へ持っていく者。テーブルクロスの上から布巾でテーブルを拭く者。
椅子を数センチずらす者。それを直す者。またずらす者。また直す者。
 だが、こんな異様な風景もはや、レミリアにとっては見慣れたものだった。
チッと軽く舌打ちをし、レミリアはダイニングルームを後にした。どうせここでいくら待っても、レミリアの食事は用意されない。
更に奥に行けば台所があるが、レミリアが食べるものは何一つない。
口に合わないとか、生物が食せるものが置いてないとか、そういう理由ではない。
レミリアには台所の冷蔵庫や、食糧庫に蓄えてある食べ物を食べる権利がない。故に、彼女が食せるものは、ないも同然なのだ。
やろうと思えば台所へ侵入して食べ物を食べれるが、見つかった場合、妖精メイド達の怒涛の攻撃が待ち構えている。
紅魔館で働いている妖精と言えども、所詮彼女らは普通の妖精である。蹴散らす事は容易だ。
問題は蹴散らした後の事なのだ。フランドールに一体何をされるのか――想像するのも嫌であった。
 このような問題があるからと言って、食事をしない訳にはいかない。ちゃんと彼女にも、食事の時間が存在している。
彼女の食事の時間は、フランドールの食事の後である。
フランドールは、レミリア以外の者と一斉に食事をする。一緒に食事する者達は、食事の進度がどうであれ、フランドールが席を立つと一緒に食事を終える。
残った食事は全て、一つのポリバケツに入れられる。主食、主菜、副菜、汁物、なんの区別も無く。
そしてそのポリバケツの中身こそ、レミリアの食事である。バケツの中身が彼女の食事と言うのは、彼女自身が決めたことだ。こうせざるを得なかったのだ。
当然、バケツの中身の混ざり合った残飯は決して美味いものではないので、レミリアは昼食を摂らないのが癖になって来ている。


 忙しそうに動き回っている妖精メイドは、何もダイニングルームだけにいる訳ではない。
紅魔館中の至る所で、働いているアクションを起こしている。
箒でゴミのない床を掃き、モップで汚れてもいない拭き、雑巾で澄んだ窓を拭き、汚れていない皿を洗い、使われない寝具を整え、着られていない服を洗濯し――
質や意味はどうであれ、仕事の能率はレミリアの知る妖精メイド達と比べ、格段に上がっている。
 また、門へ行けば紅美鈴が、いつも通り門番をしている。最近の彼女は、居眠りが全くない。ただ、愛想も無くなってしまった。
図書館へ行けば、魔法使いのパチュリー・ノーレッジとその使いの小悪魔が魔導書を読んでいる。不気味なまでの集中力で。
そしてメイドを統べる存在である十六夜昨夜も、館内のどこかで、何かしら仕事をしているのだろう。
 レミリアには任されている仕事は一切ない。当主の姉と言う立場ゆえに、当然と言えば当然なのかもしれない。
そもそも、やりたくてもできない。彼女には、何かしら仕事をする権利がないからである。
 自室の掃除もできない。自室が無いからだ。元あったレミリアの部屋は、使われなくなったその日から、手付かずのまま放置されている。
今は鍵がかけられていて、その鍵は咲夜が管理している。故にレミリアは自室に入る事すら敵わない。
自室に入れないので、彼女は毎日、廊下などの適当な場所で眠っている。今の季節ならば蒸し暑いだけで済んでいるので問題ないが、冬などは眠る事すら困難になるかもしれない。


 彼女の置かれている環境を思えば、彼女に娯楽などない事は容易に想像できる。当然、外出の権利もない。
言ってしまえば彼女は、館内のありとあらゆるものを使用する権利を剥奪されている。
ただ朝と夜の二回――気分や空腹の度合いによっては昼を含めて三回――不味い食事を喰らい、適当な場所で眠るだけの日々を過ごしている。
過ごさざるを得ないのだ。これが、今の彼女に与えられた環境なのだから。


*


 レミリアは館内の階段に腰を降ろし、フランドールの朝食が終わるのを待っていた。
暫くすると、わらわらと妖精メイド達がダイニングルームから出てきた。表情も無くキッチリと並んで歩く妖精メイド達は、蟻の群れを思わせる程、不気味に統率されている。
全員がダイニングルーム周辺からいなくなったのを確認すると、レミリアは台所へと駆け込んだ。
わざわざ人影が無くなるのを待ったのは、台所へ行くのを見られない為である。残飯を喰らうのも公認されている訳ではないのだ。
 台所のポリバケツの蓋を開けると、ビニール袋の中に残飯が詰まっている。
パン、スクランブルエッグ、ソーセージ、コーンスープ、コーヒー、サラダ、デザート――全てがごちゃ混ぜになって、一つにされている。
それの表面にある、割と綺麗なままの食べ物を、レミリアは手でつかんで口に運ぶ。咀嚼はなるべくせず、そのまま丸飲みする。
単独でなら美味しいものだらけだが、美味しいものを全部混ぜても、残念ながら美味しいままではいられない。
いつまで経っても慣れる事ができない気色悪さに、レミリアはぶるりと身震いした。
 苦行でしかない朝食を摂っている最中、またもやフランドールが近づいて来ている事を、レミリアは気付けていなかった。
ゴミを漁る実姉の姿を見て、フランドールは声を殺して笑った。
そして一気にレミリアへ近づき、後頭部を抑えつけ、顔を残飯の海へ突っ込んだ。
スープやコーヒーやサラダのドレッシング、それの影響でふやけてぐちゃぐちゃになったパンと、どろどろのスクランブルエッグ――これらが混ざり合った中に、レミリアは顔を突っ込まされた。
臭いも、否応なく口に入って来る食べ物の味も酷い。そして何より、息ができない。
「ご飯ですか? お姉さま」
 フランドールは楽しそうな声で問うている。
暫くそうした後、フランドールはレミリアの顔を残飯の海から解放した。
ようやく呼吸が可能になったレミリアは、残飯を顔にくっ付けたままはぁはぁと荒い呼吸を繰り返し、酸素を体内へ急速に供給する。
しかしフランドールは、体勢を立て直す隙も与えず、服の襟首を掴んで、思い切り最寄りの壁にレミリアを叩きつけた。
顔面を強打し、叫ぶ事すらままならない激痛を味わった。朝受けた傷が再び開いたようで、鼻と口内に血が溢れだした。
口に残っていた、残飯の吐き気を催すような味と、血の持つ鉄臭い味が混じり合い、更なる不快感を織りなす。
 ずるりと壁を伝うように床に横たわったレミリアに、フランドールはポリバケツの中身をぶちまけた。
洗濯を許されていない身であると言うのに、来ていた衣服は見るに堪えない色へ変色してしまった。
また、臭気も酷いものである。このまま放置していれば、季節独特の暑さにやられ、より一層酷くなっていく事だろう。
最後に、空になったポリバケツを、握り拳を作って妹の凶行に耐え忍んでいるレミリアへ投げつけ、フランドールは去って行った。


 フランドールの去った台所で、レミリアは朝と同じようにふらふらと立ち上がった。
肩から脹脛まで満遍なくぶちまけられた残飯が、床に落ちてべちょりと生々しい音を立てた。
脚部に付いていた残飯の一部はそのまま脚を伝って、靴の中まで侵入してきた。
 掃除する権利など持ってはいなかったが、放置して去るのも気が引けた。鼻血を拭い、口内の血を飲み込むと、一先ず体に付いた残飯を地面に落した。
粗方落とせたが、残飯に含まれていた水分を衣服が大量に吸ってしまっていて、不快感は拭いきれなかった。
衣服の汚れは後でどうにかする事として、レミリアは近くにある掃除用具を取りに行った。
一歩進む毎に、ぐちゃり、ぐちゃりと、靴の中の残飯が掻き回され、蠢き回る。靴下越しに感じるその感触は最悪であった。
 生まれてこの方、自らの手で掃除などまともにしたことがなかったので、使用すべき用具や手順はさっぱり分からなかった。
とりあえず見よう見まねでやってみようとモップを手に取り、慣れない手付きで掃除を始めた。
残飯を一か所に集めて取って捨ててしまおうと、モップを駆使して残飯を集めようとした。
だが、床に薄く広がってしまうばかりで、ちっとも集まらない。経験の浅さが如実に表れてしまっている。
 このままでは埒が明かないのだが、始めてしまったものを中途半端に投げ出す訳にもいかず、やれるだけやってしまおうと奮闘した。
 床の塵や埃が残飯に絡んで、色に灰色や黒色が混ざり始めた。只でさえ気色の悪い形をしていたと言うのに、それにさらに拍車が掛かる。
状態は違えど、先ほどまでこんなものを食っていたのかと思うと、見ているだけで気分が悪くなってきた。さっさと終わらせてしまおうと、なるべく残飯を見ないように、作業の手を速めた。

 そんな感じで四苦八苦していたが、どうにか残飯を一か所に掻き集める事に成功した。後はこれをティッシュか何かで取って捨てればいい。
モップを壁に立てかけておいて、ティッシュを探し出した。
それを見つけるのには苦労しなかった。流し台のすぐ傍に置いてあったからだ。
ビニールの包装に入っているティッシュペーパーを数枚抜き取ると、床に残飯を集めた場所へ戻り、屈んでそれをティッシュで包もうとした。
 が、床の残飯の塊へ手を伸ばした時、レミリアの手の中に、抜き取った筈のティッシュペーパーはなかった。
このおかしな事態に気付いたレミリアが驚く暇も無く、何者かが背後から、屈んでいるレミリアの頭を蹴った。
前のめりに倒され、苦心して一か所に集めた残飯に、顔から飛び込まされてしまった。
 だが、蹴られた事や、顔を床にぶつけてしまった痛みなんかより、嫌悪感や悲しみの念が勝った。
埃まみれの汚い残飯に顔を埋めた事による嫌悪感。そして、自身をこんな目に遭わせた者の正体を知った悲哀――
「お食事ですか、お嬢様」
 この暴力の主は咲夜だったのだ。
『悪魔の犬』とも謳われた従者が、自らの主の顔を汚物の塊へ飛び込ませている。悲しそうでも、楽しそうでも無い、全くの無表情で。
これが自身の義務であるかのように、淡々とした様子である。手中には、止まった時間の中でこっそり奪っていたティッシュペーパーが握られている。
「う……ぐぅ……! さ、さくや……!」」
 レミリアが悲痛な声を漏らしてみても、咲夜は眉一つ動かさず、真っ黒い残飯へと、主であった者の顔を押し付ける。
何を言っても無駄だと悟り、必死に口を噤んではみたものの、上下の唇の間の隙間から、口内へと微量の残飯が侵入してきた。
塵や埃の他に微量の砂を交えたそれは、口内にざらざらとした感触を持って入り込んでくる。
 自身を踏み躙る元従者に抵抗する事数十秒。
ふと何かを思い出したように、何の突拍子もなく、咲夜は脚を退け、どこかへと去って行ってしまった。
レミリアが振り返った時には、時を止めて移動した咲夜の姿は、完全に掻き消えていた。
口の周りに付いた残飯を手で拭い取り、流し場に口の中の残飯を吐き捨てた。
そうした後、ようやくレミリアは台所の掃除を完遂した。


*


 残飯に塗れて汚れた衣服で生活するのは、さすがに気が引けた。
そうでもなくとも、彼女の着ている衣服はもう数週間洗濯をしていない。したくても、その権利がないのである。
洗濯に使う一切の道具を使用している所を誰かに見られると、それだけで彼女は只では済まされない。それ故、密かに事を運ばねばならない。
ティッシュペーパーで衣服に付着している残飯を落とせるだけ落とし、レミリアは洗濯場に向かった。
 館内は相変わらず、忙しそうなメイド妖精達がうろうろと歩き回っている。仕事はしているが、成果はほとんどない。
無駄な仕事をしている者ばかりだからである。そしてレミリア以外、誰もその事に気付いている者はいない。
 ダイニングルームから洗濯場へ行くには、エントランスホールをを通る必要があった。
そしてそのエントランスホールでは、多くの妖精メイドが掃除をしていた。これまた無機質で、質がいいとはとても言い難い。
そんな様子の妖精達の群れの中を、レミリアは速足で通り過ぎていく。傍をレミリアが通っても、やはり妖精達は何の反応も示さない。
 妖精メイドらがレミリアを避ける事は絶対にない。故にレミリアは意識して妖精メイドを避けて歩いていた。
しかし、何を考えているのか察し難い彼らの軌道を読むのは至難の業であったようで、遂に一人の妖精が使っていた箒が、レミリアの足に当たった。
それに躓き、レミリアはバランスを崩して転倒しかけた。妖精の方はと言うと、障害物でも見るかのような表情でレミリアを睨みつけた。
掃除の邪魔をされたのがいたく気に入らなかったらしく、
「邪魔」
 と一言、小さく呟いて、掃除を再開した。
 妖精如きにこんな小言を言われて、吸血鬼であるレミリアが屈辱を感じない筈がない。
だが、ここでどれだけ怒鳴ったり、怒ったりしても、彼女に有利な事など何一つない。騒動が起きれば罰せられるのはレミリア一人だ。
沸々と怒りが込み上げてきたが、面倒事を起こさぬように、何も言わずに突き進む。
 だが、ようやく妖精の群れから抜け出せそうになった時、またもレミリアは妖精とぶつかった。
今度の妖精はぶつかるや否やいきり立ち、持っていた箒でレミリアを殴りつけた。
それ単発の威力はどうと言う事はなかったのだが、この妖精の攻撃を皮切りに、周囲の妖精が突然掃除の手を止め、寄って集ってレミリアを袋叩きにし始めた。
数にものを言わせた猛烈な攻撃。反撃に出ようと思えば出られるのだが、後々手痛い制裁を与えられる事になる。
だからと言って、この妖精達の攻撃は生易しいものではない。
妖精と言えど、吸血鬼の住まう紅魔館で働き、稀にある侵入者を迎撃、撃退する程度の力は持ち合わせているのだから。
 大量の妖精に囲まれて逃げ場を失ったレミリアにできる事と言えば、栄養の不足でげっそりと痩せ細った手で頭を庇うくらいの事であった。
箒を持つ者はそれでの殴打を繰り返し、持たない者は自身の手や足での暴力を浴びせる。口々に「邪魔」「邪魔」と、壊れた蓄音器みたいに繰り返しながら。

 暫くすると、誰が何かを言うでもなく、暴力は自然と静まっていった。妖精達はぞろぞろと散開して、再び掃除をし出した。
蹲って暴力を受けていたレミリアだけがその場に取り残された。
唐突に暴力がやんだ事を不審に思い、恐る恐る周囲を見回した。誰もいない事に気付き、一先ずほっと息を付いた。
 頭を護り続けていた腕を見ると、血が滲んですっかり変色していた。
更に手へと目を向けると、爪が数枚割れているのにも気付いた。身を守るのに必死で、割れた瞬間には気付けなかった。
完全に剥がれて落ちているものや、付け根で皮一枚だけでくっ付いているものまで、損傷は様々だ。
 腕は痛むが、どうする事もできないので、そのまま洗濯場へ向かった。

*

 紅魔館の洗濯場には、沢山の水道と盥と洗濯板、そして、幻想郷には珍しい洗濯機がある。
スイッチ一つで大量の衣服を自動で洗ってくれるこの機械は、毎日大量の洗濯物を出す紅魔館に大きく貢献している。これまた、レミリアは使った事がなかったが。
 レミリアが洗濯場へ到着した時、そこには誰もいなかった。
だが、洗濯機は稼働していた。どうやら誰かが先に使ってしまっていたらしい。
レミリアはもう一度、自身の手を見た。爪が割れて完全に無くなっていたり、爪が捲れ上がって、血が乾いて大きな塊となってくっ付いていたりしている。
洗濯機は使えないから、服を洗うには盥に水を張って、自らの手で洗うしかない。
爪は割れ、切創だらけの手を水の中へ入れるのは気が引けた。しかし、残飯をぶちまけられた服を着たまま過ごす訳にはいかない。
 仕方が無く、レミリアは歯を食いしばり、中途半端に残っている爪を強引に千切って捨てた。
洗濯の邪魔にしかならないからだ。洗濯機での洗濯が終わるのを待つ時間は無かった。彼女には本来、洗濯をする権利が無いからである。
千切ったと同時感じたピリリとした痛みに、思わず体を震わせた。
 盥の一つを手に取って水を張り、服を脱いだ。この段階で、傷ついた手はずきずきと痛む。
そして、なるべく指を水へ当てないよう、慎重にその衣服を水の中へ沈めた。怪我が無くても、吸血鬼は水が苦手なのだ。
衣服が吸っていたドレッシングやらスープやらが、あっと言う間に透明な水を濁らせてしまい、すぐに水を入れ替えなくてはならなかった。
そうやって水へ浸け、入れ替える作業を数度繰り返した後、本格的な洗浄に取りかかった。
 石鹸を服で揉んで泡立てる。出来たばかりの手の傷が、石鹸が触れる度にじんじんとしみた。
それに、先ほども述べた通り、吸血鬼は水が苦手だ。本来なら、手洗いなどするべきではない。
怪我による痛みと、水に触れる事による身を焼かれるような苦痛に耐えながら、レミリアは慣れない手付きで懸命に服を洗った。誰かが来てしまう前に終わらせなくてはいけない。

 服を洗いながら、洗濯機は咲夜が導入してほしいと言ったので置いたものであったのを思い出した。
冬になって、急に咲夜が提案したのだ。冬の手洗いは、さすがの咲夜も堪えたようで、手荒れが気になるし、仕事の効率上昇の為に是非置いて欲しいという意見だった。
レミリアは部下の仕事のつらさなどはよく分かっていなかったので、初めは消極的だったが、咲夜の粘り強さに折れ、遂に二人で香霖堂に洗濯機を探しに行ったのだ。
寒い日で、二人ともマフラーを巻いて出かけた。空は曇り空で、ひゅうひゅうと音を立てて風邪が吹いていた。落ちた木の葉がその風に弄ばれ、かさかさと音を立てて地を転がっていた。
香霖堂に幾つかあった洗濯機の中で、一番新しいらしい型を選んだ。
洗濯機は思ったより重くて、咲夜が持って帰ることができなかったので、渋々レミリアが担いで帰った。咲夜は申し訳なさそうに、何度も謝っていた。
帰路で雑用係を受け持たざるを得なかったレミリアはとてつもなく不機嫌であったが、帰った後の咲夜の嬉しそうな顔を見ると、苛々も吹き飛んだ。
まるで、新しい玩具を買い与えて貰えた子どもの様なはしゃぎ様だった。あれほど嬉しそうな咲夜は初めてであったような気さえした。
何度も何度もありがとうございますと、咲夜はお礼を言っていた。

 あの咲夜は、もういない――
 何度こう考えても、やはりレミリアは涙を堪える事ができなかった。
咲夜だけではない。
居眠りばかりであるが憎み切れない門番の紅美鈴も、親友のパチュリー・ノーレッジも、その部下の小悪魔も、もう昔のような面影はない。
皆、変わり果ててしまった。
 滴った涙が盥の水に落ちて波紋を生んだ。僅かに水に映った自身の顔がゆらゆらと揺れたのが見えた。
その瞬間、レミリアはまるで水に映る自身の泣き顔を打ち壊すかのように、水の中へ衣服を乱暴に沈ませた。
手の痛みなどどうでもよかった。情けない顔をした自分を見る方がよっぽど酷であった。
 水から服を引き上げ、絞って出来る限り水気を落とすと、洗濯場からテラスに出た。近くに置いてあった日傘を差して、慎重に。
物干し竿に自身の服を引っ掛けると、空いた手で傍に干してあった大きなバスタオルを手に取った。
そして再び洗濯場へ戻り、肩からバスタオルを掛け、洗濯機に凭れかかって服が乾くのを待った。
どうせやれる事など無いし、他者の洗濯は終わっている様子だから、暫くこの部屋に誰か入って来る事はないだろうと思ったからだ。
ゴトゴトと音を立てながら衣類を洗っている洗濯機の音をバックグラウンドミュージックにして、レミリアはぼーっと、実の無い考え事を始めた。
考え事、というよりは、回想と言った方がしっくりくる内容であった。
変わり果ててしまった紅魔館の住人達と織り成した様々な思い出を、レミリアは思い出していたのだ。
笑い話もあれば、深刻な問題が持ち上がった事もあった。諍いや喧嘩もした。とにかく、たくさんの思い出があった。
 しかし、その記憶のほとんどに、フランドールだけはいない。

 だが、記憶に表れない――交流が無い――からこそ、今のこの状況が生まれてしまったのではないかと、レミリアは思っていた。
 彼女のこの憶測が絶対に正しいものだとは言えない。
彼女の今の境遇は、単なるフランドールの暴走によるものとしか思えないと言う者だっているだろう。
現にレミリアは、その狭間にいる所為で、こんなにも悩んでいるのだから。
「一体、誰のせいなのかしら」
 彼女の問いに答えられる者はいない。


*


 幻想郷の一般人の視点から見た時、レミリアが生活する上での不自由と言ったら、無駄に多い彼女自身の弱点くらいなものであった。
外界で時折現れた、吸血鬼を滅さんとする鬱陶しい輩に追われる事は幻想郷ではもう無い。貧困に喘ぐような事もないし、強大な力を持つが力故に、他者から蔑まれる事もなかった。
優秀な従者と信頼のおける部下に囲まれ、残酷な吸血鬼のイメージを完全に覆すような平穏な生活を送れていた。
それが、今はこの様だ。だがそれには、相応の理由があった。
 前述したレミリアの平穏な生活と言うのは所詮、この紅魔館を外野から眺めた感想である。唯一無二で、しかも最大の欠点が、館の地下に封じられている事など、外からは確認できる筈がなかった。
その最大の欠点と言うのこそ、レミリアの妹であるフランドールだった。
 フランドールは幼い頃から、誰の目から見ても狂っていた。
言動、挙動、表情、情緒――何を取っても、考えている事がまるで理解できなかった。
ふと思い付いたように暴れ回ってみたかと思ったら、急にぱたりと倒れて無邪気な顔で可愛い寝息を立てながら眠り出す。
わんわん泣きながら生き物を殺した。そして次の瞬間には目に薄っすらと涙を残しつつゲラゲラ笑いながらその骸を磨り潰し、原形がなくなると不機嫌になった。
 言い聞かせようにも、話を理解しているのか、そもそも話を聞いているのかすら分からない有様だった。
かと言って力任せに黙らせようにも、レミリアはこの狂った妹を食い止める程の力を持ち合わせていなかった。決してレミリアが非力な訳ではない。フランドールが強すぎたのだ。
 困り果てたレミリアは、遂にフランドールを地下室に監禁する事に決めた。
酷な事ではあるが、誰の手にも負えない以上、こうする他無かったのだ。
しかし、この処置に悲しみを覚えたのはレミリアだけであった。紅魔館内のレミリアの部下は勿論、フランドール自身もこの処置に何の文句も言わなかった。
 成長に伴って落ち着いて行ってくれればいいとレミリアは楽観視していたが、現実はそう甘くは無い。
改善も無ければ、改悪も無い。どれだけ待っても、フランドールは何も変わらなかったのだ。
相変わらず何を考えているのか察し難い生活ぶりのまま、長い年月が過ぎた。


 ある日、紅魔館の面々は、いつもと何ら変わりない、普段通りの夜を過ごしていた。
夕食の後に咲夜が紅茶を淹れて、お菓子を用意して、ダイニングルームで取り留めの無い談笑を交えながら食べていた。
 いつかレミリアが起こした、日光を遮ろうと霧を出した事件の後、フランドールに館内を出歩く権限を与えていた。
そんな権限を与えてはみたが、フランドールは別段他者と交流を深めようとするような事は無く、彼女の好きな時に地下室を出て、館内を歩き回っていた。
だからその日、夕食後のお茶の時間にフランドールが欠席していたのを、誰もおかしなことだとは思わなかった。
同じように、暫くしてからダイニングルームにふらりとフランドールが姿を現しても、誰も何も思わなかった。
どうせ何を考えているのかは分からないから、彼女を理解しようなどとはほとんど誰も思わなかったのだ。
 ただし、レミリアだけは違った。姉として、彼女の味方であろうと努力をしていくつもりでいた。
「フランドール。丁度良かった、あなたも紅茶を飲む?」
 レミリアが言うや否や、傍にもう一人分の紅茶とお菓子が用意された。咲夜が時間を止めて用意したものだ。
 妖精メイドも集まってのお茶の時間であったので、その時ダイニングルームには、紅魔館の居住者全員がいた。
大勢集まった紅魔館の居住者達に、フランドールは目を丸くしていた。
今までろくに館内を見回った事がなかったので、館にこんなに多くの生物がいるとは思っていなかったらしい。
暫くそんな様子でダイニングルームにいる者を全員を見回した後、
「うん、飲む!」
 と、かなり遅れて姉の問いに返事をした。
レミリアが隣の空席を勧めると、フランドールは喜んでそこへ座った。咲夜の手によって目の前に紅茶とお菓子を置かれると、ありがとうとお礼を言った。
最近雇われた妖精メイドの中にはフランドールを見た事が一度も無く、噂でしか聞いた事のない者もいた。
そういう者は、噂に聞いていた気が狂った妹様が、意外とまともな者であったことに少し驚いた様子だった。
 そんな周囲の奇異のまなざしを感じているのかは、相変わらず彼女の表情からは全く読みとる事ができない。
いただきますと大きな声で言ってから、へたくそなフォークの使い方で、今夜のお菓子である苺のショートケーキを突き始めた。
レミリアが正しい使い方を指導しているが、フランドールは全く聞き入れようとしない。
規則正しく並んでいたホイップクリームはあっと言う間に崩壊した。
カステラに挟まれている美しい赤と白のストライプも上段が皿へ落ちてしまった為、台無しだ。
普通、綺麗な形のショートケーキを目の前に出されたら、なるべく形を崩さぬように食べようとするのが定石だろうが、フランドールにはそれが通用しない。
美しいショートケーキを崩していくのを、楽しんでいるようにも見えた。

 そうやっている内にケーキは完全に崩壊してしまった。平たい皿の上で、クリームとカステラと潰れた苺が全部一緒になってしまっている。
フランドールはそれをフォークで掬って食べ始めた。奇特な食べ方だと皆思ったが、食べている本人は幸せそうである。
本人がいいならそれでいいだろうと、レミリアはそれ以上は干渉しなかった。
 黙々と崩れたケーキを口へ運んでいたフランドールだったが、レミリアの手元を見た時、突然その手を止めた。
横で忙しなく動いていた妹がピタリと静止したのを、視界の片隅で見たレミリアは、目線を横へ向けた。
フランドールはこれといった表情無しに、自分の皿と周囲の人たちの皿を交互に見比べていた。
そして、ぽつんと呟いた。
「お姉さまは私と違う食べ方をしている」
 レミリアは側から縦にフォークを入れ、切り取った一かけらを口に運んでいる。
ぐちゃぐちゃにして皿の上に伸ばしてから掬って食べると言う方法をとったフランドールとは大きく異なる食べ方だ。
「そうね」
 こうレミリアは答えた。フランドールは続けざまに質問をした。
「どちらが正しいのかしら」
「さあ、どっちかしらね」
 こう返したが、実際の所、少なくともフランドールの方法が正しいとは到底思えなかった。
だが、自分の方法が正しいと言う証拠はないので、無難にこう答えておいた。
フランドールは、そう、と小さく呟くと、また黙々とぐちゃぐちゃのケーキを食べ始めたが、その後も頻りに他者の皿を見回していた。
見かねたレミリアが問うた。
「さっきから落ち着かないわね、フランドール」
「だって、私だけ食べ方が違うんだもの」
「気になるの?」
「うん」
「そんな事、別に気にしなくても……」
「どうせみんな私の事を頭のおかしい奴だって思っているんだわ」
 レミリアの言葉を遮って放たれたこの言葉は、ダイニングルームに不快な沈黙を招いた。
何人かの妖精メイドが、気まずそうに視線を下へと落とした。図星を突かれた証だ。
フランドール自身もこの発言の後、フォークを皿の傍に置いて俯いてしまった。
「フランドール、そんな事言わないの」
 あまり多くの言葉を掛けず、レミリアは妹を励まそうとしたが、効果は無かった。
そっと肩に置かれた姉の手を撥ね退け、フランドールは更に言葉を続ける。
「やっぱり私はおかしいのね。おかしいからみんなと違う食べ方をしているのね」
「あんまり悲観的になっては駄目よ」
「ああ、おかしいんだ。やっぱり私はおかしいんだわ」
 フランドールはぼろぼろと涙を零し始めた。あまりに急すぎる感情の激変に、誰もが動揺していた。
しんと静まり返ったダイニングルームには、狂った悪魔の妹の嗚咽だけが響いていた。
姉であるレミリアすら掛ける言葉に迷ってしまい、出来る事と言えば、背中を摩ってやる事くらいであった。
「どうして私がおかしいの。どうして私だけみんなと違うの?」
「フラン――」
 さめざめと泣く妹へ何か言葉を掛けようとした瞬間、
「それとも、みんながおかしいんじゃないかしら?」


 この言葉の終わりと同時に、ダイニングルームに爆音が轟き、閃光が走った。
唐突に放たれたフランドールの攻撃に爆砕された床、テーブル、椅子、食器、妖精メイドの肉片が宙を舞う。
ダイニングルームは瞬く間に、砂埃と瓦礫、逃げ惑う生き残りの妖精メイド達の悲鳴、そしてフランドールの笑い声に包まれた地獄と化した。
 先の攻撃で深手を負ってしまったパチュリーの元へ咲夜が駆け寄った。
レミリアと美鈴は、目に薄っすらと涙を残したままゲラゲラと笑っているフランドールと対峙する。
「そうよ、私がおかしくても私がまともでもいい、みんな私と同じにしてやるわ。そうすれば誰もおかしくなんてなくなるじゃない! みんなおかしければみんなまともになれるわ!」
 そう言うとフランドールは、自身の両手の小指側の側面をくっ付け、落ちてくる水を受けるような手を作り上げた。
するとどうだろう。彼女の小さな手のひらの中に、ぼこぼこと幾つもの“目”が発生し出した。
“目”と言えども、これは物を見る為の“目”ではない。
彼女の持つ、『ありとあらゆるものを破壊する能力』が使われている証拠だ。
この世のあらゆる物には“目”があり、それを破壊すると物は壊れてしまう。フランドールはこの“目”を破壊する事ができるのである。
 手から溢れださんばかりの“目”を、これ見よがしに見せつけるフランドール。
それらが一体何の“目”なのか、レミリアや美鈴には分からない。だが、フランドールは大量に何かを破壊しようとしているのは理解できた。
「な、何をするつもりなの!」
「すぐに分かるわ」
 “目”が手一杯になった所で、フランドールは一層笑みを深くした。
そして、小指、薬指、中指、人差し指、親指と順番に、ゆっくりと手を手を合わせていく。
いくつもの“目”が、フランドールの手によってぶちぶちと音を立てて潰されていく。
それと同時に、何人もの妖精メイドがびくりと体を痙攣させ、力なくその場に倒れていく。
その様子を目の当たりにした美鈴が、フランドールを向き直した。
「その目は一体何の……」
 この問いを受けたフランドールは勿体ぶった手つきで、合わせた手を自身の胸の前にやり、答えた。
「心よ」
「心……? じゃあ、もうあの子達は……」
 美鈴の震える声に対して、フランドールは無言で頷いて見せ、胸の前にやった手の片方を伸ばし、倒れた妖精メイドを指差した。
彼女の指し示した妖精メイドはのろのろと立ち上がり、何を見ているのか分からないような目でボーっとその場に棒立ちを始めた。
「もうあの子に心は無いわ」
 この声を皮切りに、倒れていた妖精メイド達が次々に起き上がり、焦点の定まらぬ瞳で虚空を眺め始めた。
人形のように生気の無い瞳を投げ掛ける人型のものが、幾つも幾つも直立しているその光景は、ひどく不気味なものであった。
一見すると、玩具屋の店先にぞろぞろと並べられる人形や、衣服を着せられたマネキンの群れのようでもある。
しかし妖精メイドらは、それらよりもずっと精巧で、ずっと生々しく、ずっと瑞々しい質感を持っている癖に、ぴくりとも動かないので、よけいに異様な光景に見えてしまう。
 
「やめなさい、やめなさいフランドール!! 何をしているか分かっているの!?」
 状況を察したレミリアが悲痛な声を上げたが、フランドールは笑みを保ったまま言った。
「お姉様は私が何をしようとしているか分かっている?」
 そう言いながら、“目”の破片が付着する手に、再び数多の“目”を発生させる。
事の成り行きから、それらはやはりこのダイニングルームにいる者の心の“目”なのであろう。
これ以上、部下の心を破壊される訳にはいかないと、止むを得ずレミリアは床を蹴り、フランドールへ襲い掛かった。
しかしフランドールは、素早く手中の“目”を破壊し、レミリアの急襲を避けた。
また数名の部下が犠牲となってしまったが、そうなってしまったものは仕方がないと、レミリアは唇を噛んだ。
その後は“目”を破壊する隙を与えぬよう、休む間もなく攻撃を続ける。
 そのつもりであったが、咲夜が背後で放った言葉が、それを阻害した。
「パチュリー様! 目を覚まして下さい!」
 親友であるパチュリーの身に何か起こったのを聞き取ったレミリアが、一瞬そちらに気を取られた。
その隙を、フランドールは見逃さない。――むしろ彼女は、こうなる事を想定していた。だからこそ、パチュリーの心の“目”を破壊したのだ。
 回避に徹底していた消極的な戦いから一転、一気に距離を詰め、渾身の力を込めてレミリアの腹に拳を減り込ませた。
柔らかな腹部の中にある臓器の感触が感じられる程の快打。血と、食べたばかりの茶と菓子が混ざったものが、ぼたぼたと口から零れ出てくる。
堪えられず床に膝をついたレミリアの右腕を蹴り抜き、追い打ちをかける。
蹴り飛ばされたレミリアは壁にぶつかって制止した。あらぬ方向に曲がっている様が、右腕が使い物にならなくなった事を表している。
 余裕綽々と言った感じで、フランドールがレミリアに歩み寄る。
壁に背を預けているレミリアは、この接近を受けても動く事ができない。
この原因は、腹部を殴られた痛みによるものでもあったが、それよりも恐怖が先行していた。
ここで立ってどう足掻こうとも、目の前の妹には絶対に敵わない――彼女は自然とそれを察したのだ。
 姉の様子から、もう立ち上がらない――否、もう立ち上がれないと言う確信を得たフランドールは、歩きながら新たな“目”を手中に出し、破壊した。同時に美鈴が倒れた。
 こうして、ダイニングルームに残った心は、三つになった。
レミリア・スカーレット、フランドール・スカーレット、そして、レミリアの従者である十六夜昨夜――
「や、やめ……やめて、フランドール」
「大丈夫よ、お姉様。お姉様の心はとっておくから」
 そう言うとフランドールはくるりと振り返り、呆気にとられている咲夜の方を向き、にこりと微笑んだ。
可憐な笑みであると言うのに、その笑顔は、咲夜には見た事もないほど気味の悪い笑顔に映った。
 目標が定まったのを察したレミリアの視界が真っ暗になった。
縋りつく様にフランドールの脚を掴み、ぶんぶんと首を横に振った。
「だめ、だめよ、絶対に! 咲夜は……」
「だめ、だめよ、絶対に。 お姉様」
 幼子の遊戯のようにレミリアの言葉をほとんどそっくりそのまま返したフランドールが、手に“目”を発生させた。
 それを見たレミリアは、気が触れたように金切り声を上げた。
「逃げて、早く逃げなさい!! 咲夜!! 咲夜!!」
 我に返った咲夜が懐から時を止める為の懐中時計を取り出したが、時を止める前に時計が音を立てて炸裂した。
細かな時計の破片が咲夜の手に突き刺さり、床に血が滴った。
先ほど、フランドールの手中に現れた“目”は懐中時計の“目”であったらしい。
 吸血鬼の従者と言えども、咲夜は人間である。吸血鬼から逃れる術などある筈がない。
逃げる事ができなくなってしまった咲夜と、どうにか咲夜を逃がしたいレミリアの二人に見せつけるように、新たな“目”を手中に発生させる。
今回の“目”こそ、紛れも無く、咲夜の心の“目”だ。
「止めろ! 止めろ止めろ止めろ止めろ!!」
「止めないわ」
 勿体ぶった手付きで、“目”がフランドールの真っ白く小さな手に包まれていく。
ぶつん、と、目の型が崩れた音が鳴った。
同時に咲夜がびくりと体を震わせ、床へ伏した。
その後、指を動かし、壊れた“目”を更に潰しにかかる。ぐちぐちと生々しい音が手の中で響いている。

 棒立ちの部下が集うダイニングルームは、笑い声も、叫び声もなくなり、しんと静まり返ってしまった。
変わり果ててしまった部下達を目の当たりにし、レミリアはぼろぼろと涙を零した。
目の前には一仕事終えて、ふっと息をついている実妹。全てが悪い夢のように思えた。
「次は、私なのね?」
 震える声でレミリアが問うた。
しかしフランドールは首を横に振った。
「いいえ」
「え?」
「言ったでしょう。お姉様の心はとっておくから」
 静かなダイニングルームの心の無い住民達に、フランドールは大声で語りかけた。
「みんな、見て? お姉様は私の前に屈したわ」
 そう言うと、誰もがじろりと、フランドールの方を見た。
誰も心が無いから、反抗する者はいなかった。
「故に今日から私がお嬢様。私がこの館の当主。私の言う事が全てで、私の言う事には絶対に従う事。いいわね?」
 一斉に棒立ちの住民達が首を縦に振った。
しかし、レミリアだって黙ってはいられない。
「ちょっと、何を言っているの?」
「あなたは私より弱いんだから、こうなるのはごく自然な事じゃあない? ねえ、みんな? 異論はないでしょ?」
 フランドールの問いに住民達は、決まり事のように首を縦に振る。
あまりに呆気なく、あまりに唐突で、あまりに理不尽な当主の座からの陥落に、レミリアは呆然とその様子を見守るしかなかった。
 とりあえず掃除をさせようと歩み出したフランドールが、崩れたテーブルから落ちたケーキを見て、再び大声を上げた。
「明日から、ケーキは潰してからフォークで掬って食べましょうね」



 当主の座から落ちたレミリアは、その後、紅魔館内で、一体何なのか分からない、とても無価値な存在となった。
当主の姉であるが権力はなく、だからと言って何か仕事が任されるようなこともない。干渉を極力避ける事も、意味の無い暴力も、全てフランドールの指示で決まった事だ。
心の無い住人達は、この決定に疑問など持たない。異議も唱えない。そして実際に事を起こす時、躊躇もしないし、心も痛まない。そもそも、痛む心がない。
機械的に、作業や義務であるかのようにレミリアを虐げるようになった。


*


 頬に触れた冷たい感触と、同時にやってきた痛みで、うとうととしていたレミリアは覚醒を余儀なくされた。
洗濯場へやってきた妖精メイドに、濡れたモップで頬を殴られたのである。
今度の妖精メイドは、「邪魔」の一言も言葉を掛けなかった。とにかく洗濯機の前で眠っていた邪魔なレミリアを殴ってどかした、と言う動作を起こしただけであった。
口から垂れた血が床に滴り落ちていく。低い声で呻いていたが、妖精メイドは見向きもせず、洗濯機の中の衣類を取りだし、テラスに出て、衣類を干し始めた。
暫く干していくと、物干し竿の場所が足りなくなったので、先に干してあったレミリアの服を地面へ放った。生乾きであったレミリアの服は、砂が付いて再び薄汚れた。
 その妖精メイドが去っていった後、レミリアは日傘を差してテラスに出て、地面へ放られた自分の服を拾った。
もう一度乾かそうかと思ったが、物干し竿に空いているスペースがない。仕方なく着いた砂を手で払ってから室内へ戻り、生乾きの衣服を身に纏った。

 湿った衣服が体に纏わり付く不快感を感じながら洗濯場を出ると、すぐ傍にフランドールが立っていた。
まるで、レミリアが洗濯場から出てくるのを待っていたかのように。
「何をしていたの」
 洗濯場から出てから即座にこう問われたが、すぐには返事を返さなかった。
そっと扉を閉め、一呼吸置いてから、
「服を洗っていただけよ」
 と、素っ気無く返してフランドールのいる方向とは反対の方向へと歩き出した。
歩き出した方向に用がある訳ではないが、何処へ行っても満足にこの館を使う事ができないのは同じ事だ。
 すると、フランドールもレミリアの後ろへ付いて歩きだした。
「洗濯の許可なんて与えていないわ」
「汚れが酷かったから仕方がなかったのよ」
 後ろにいるフランドールを振り返りもせず、レミリアは淡々と言葉を返す。
 鬱陶しいのでさっさと離れてしまおうと歩みを速めたが、合わせてフランドールも歩む速度を上げてくる。
「今日は朝から生意気ね、お姉様」

 こう言ったフランドールは、突然弾幕を放ってレミリアを攻撃してきた。
狭い廊下であると言うのに、窓や床や壁の破損を全く気にしていない程の勢いで。
だがレミリアは、気が狂っている妹が背後に立っている時点で、常時相手の出方を警戒をしていた。
それが功を奏し、一見すると完全に不意打ちであったフランドールの攻撃を回避する事に成功していた。
 即座に振りかえり、レミリアは抗戦の体勢に入った。
ここまで事が大きくなれば抗戦するのはいつもの事であるし、何より洗濯場で昔を思い出していた所為か、やけに気が立っていた。
 いくら考えてみても未だに分からないのだ。
どうして彼女がこんな事をするのか。何が目的で自分をこんなに冷遇するのか――

 吸血鬼である二人の、常軌を逸した能力を駆使して行われる姉妹喧嘩は、いつでもただでは済まない。
この日も例外ではなく、あっと言う間に廊下の一角は廃墟にも似た状態へと変貌した。
 初めは弾幕での戦いが続いていたが、次第に近接戦へと移り変わっていく。
 ある瞬間にフランドールが飛び退き、手に巨大な剣を発生させた。
それに応えるように、レミリアも自身の手中に紅い槍を生み出し、強く握った。
 二人は獣染みた雄叫びを上げながら、各々の手に持つ武器を振った。
紅い剣と紅い槍が交わると、真紅の閃光を発生させながら、耳を劈くけたたましい甲高い音が鳴り響いた。
その交点で発生している未知なるエネルギーと、それに伴う衝撃に吹き飛ばされぬよう、二人はギリギリと歯を食いしばっている。
 両者ともその場から動かない、完全な均衡を保っていたが、時が経つにつれてそれに変化が生まれた。
どういった訳か、ほんの僅かではあるが、フランドールが後退したのだ。その微動は二人とも感づいていた。
レミリアはここぞと言わんばかりに残気を振り絞り、フランドールを圧倒する。
 ぶつかり合う過剰な力は、遂に小爆発を起こした。
視界は紅い光に遮られ、同時に熱と爆音と衝撃が生まれ、二人は強制的に引き剥がされた。
 ぼろぼろの床を滑らされたレミリアの背に、床や壁、窓ガラスの細かな破片が突き刺さった。
せっかく洗った服は、先ほど起きた小爆発ですっかりボロ布と化してしまった。
 痛む体を起こして、反対側へ吹き飛ばされたフランドールへ目をやる。
彼女は目を瞑り、仰向けで倒れていた。
まさか死んではいるまいと、警戒を怠らぬまま、レミリアはゆっくりと倒れている妹へ歩み寄る。
彼女の服もまた、レミリアと同じようにぼろぼろになっている。暫く倒れている妹を眺めてみたが、起き出す様子がなかった。
 ここでレミリアの頭にふと浮かんだのは、この無意識のフランドールを殺してしまう事であった。
こんな機会は、二度とないかもしれない。否、ある筈がない。
 再び手に紅い槍を生み出し、倒れているフランドールに更に歩み寄る。
頭の横に着くと、槍を両手で握り締め、頭を一突きにしてやろうと両手を振り上げた。
 だが、一瞬迷いが生じた。憎い憎いと言えども、今殺さんとしているのは、自身の実妹であるからだ。
他者を憎み切るのはなかなか難しい事である。
レミリアの脳裏には、まだおかしくなかった頃のフランドールとの記憶が蘇っていた。
ほんの僅かな期間の記憶ではあるが、それ故にその価値や輝かしさは高まるばかりである。


 この甘さが命取りとなった。
 レミリアの知らぬ間に、フランドールはその手の中へ隠すように“目”を発生させていた。妖精メイド達の心を破壊した能力である。
そして気付かれない内にその“目”を破壊した。
“目”の内容は、レミリアの腕。
 “目”の破壊と全く同時に、レミリアの右腕が吹き飛んだ。
痛みよりも、いきなり右腕の感覚が無くなってしまった事への違和感が先行したようで、
「え、あっ――」
 腕が無くなった反応とは思えない程の薄い反応を示した。
 右腕が破壊された事に気付いた時には、もう片方の腕も吹き飛ばされていた。
紅い槍が地面へ落ち、暫くするとふっと消え失せてしまった。
「あっ、あああぁ!! うああああああああああああああっ!!」
 ようやく状況を理解したレミリアが絶叫した。
しかし泣けども叫べども、破壊された腕はそう簡単には戻ってこない。
二頭筋の部分の粗く汚らしい断面から噴き出す血液が、痛みに耐えながら洗った衣服を真っ赤に汚していく。
 フランドールは、完全に腕に気を取られているレミリアに足を掛け、転倒させた。
仰向けに転倒させられたレミリアに対し、フランドールはすぐさま立ち上がった。一瞬にして立場が逆転した。尤も、フランドールは初めからこれを狙っていたのだが。
 腕が無いレミリアが自力で立ち上がる事など叶わない。
ばたばたと地面でもがいているレミリアの右脚を、フランドールがにんまりと微笑みながら踏み潰した。
「あああああああああああああぁぁぁぁ!」
 無様な叫び声を上げるレミリアを見て、フランドールはげらげらと笑った。一しきり笑ってから、レミリアの傍へゆっくりと座った。
四肢の内唯一残っている左脚を、勿体ぶった手付きで撫でながら、フランドールが口を開いた。
「甘いわ、お姉様。堕落し切った生活ばかりしているからこんな事になっちゃうのよ」
 こう言われても今のレミリアには、三か所の激痛に耐えるのが精いっぱいだった。
はぁはぁと荒い息をして痛みに耐えている実姉を見て、フランドールは再度笑みを深くした。
「かわいいお姉様」
 邪気の無い笑みを浮かべて、フランドールはこう言った。

「何なのよ……」
 体が痛みに慣れ始めた所で、ようやくレミリアはこう言った。
急に言葉を発した姉にフランドールは少し驚いている様子だったが、レミリアの言葉に耳を傾け始めた。
「なぁに、お姉様」
「何なんだって言ってるんだよ!」
 激痛の影響で震えている声でレミリアが叫んだ。
「何が目的よ!? 何がしたいのよあんたは昔から! 私が憎いんだろう? 私が気に入らないんだろう? それならさっさと殺せばいい! どうして生かしてるのよ! 何で殺さない!」
 フランドールはこの言葉を受け、ぽかんとしていた。
「ああ、そうか、こうやって私を甚振って楽しんでいるのね?」
 心中に秘められた憎悪を、そのまま表情や口調に表すかのように、レミリアは声を張り上げ続ける。
「答えなさいフランドール! 目的は何なの!?」
 多量の出血で意識が朦朧とし始めたのか、レミリアは一層呼吸を荒くして、フランドールの返答を待った。
当のフランドールは、初めとさして変わらない様子で、レミリアを見下ろしていた。
 暫くすると、レミリアを見下ろす彼女の表情が一変した。
笑ったのだ。声を上げて。あまりに可笑しいようで、お腹を抑えてその場でばたばたと脚をばたつかせ始めた。
「何がおかしいのよ……!」
 レミリアの問いに、フランドールは息も絶え絶え答えた。
「だって、お姉様、楽しい事をするのに特別な理由が必要?」
「楽しい事……?」
 フランドールの言葉を反芻したレミリア。
それに対してフランドールは頷いて見せ、更に言葉を紡ぐ。
「そうよ。楽しい事。別に私はお姉様に恨みなんてないし、憎くもないわ」
「う、嘘よ! 楽しいですって!? こんな事が!?」
「嘘じゃないわ。私がどうしてお姉様を恨まなくてはいけないの」
 笑いながらフランドールは、レミリアに抱きついた。
「かわいいかわいいお姉様」
 両腕と片脚を失っているレミリアの体を、フランドールはいじらしい優しく撫でまわし始めた。
その優しげな手は次第に下へ、下へと進んで行き、残っている左脚で制止した。
「かわいいからこそ、こんな事がしてみたくなるの」
 そう言って、長く伸びた人差し指の爪を、左脚の腿へ突き刺した。
小さな刺傷から、血が溢れ出てくる。
爪を刺したまま、まるでメスを入れるように脚の肉を引き裂いて行く。鋭利でないが故の激痛がレミリアを襲う。
またもレミリアは叫ぶのだが、フランドールは手を止めない。
最愛の姉が惨めに泣き叫ぶ様を、面白そうに、愛くるしそうに見つめるばかりである。


 どうすればこの悪夢のような生活から逃れられるだろうかと、レミリアはいつも考えていた。
きっとこの悪夢には、何かしら原因が潜んでいて、それを根絶させれば、また以前のような生活に戻れる筈だと。
それを探しながら、妹の凶行に耐え忍んできた。
だが現実には原因などなかった。全ては気が触れている妹のお遊戯で、大した意味すらなかったのだ。


 どうしようもない絶望を目の当たりにしたのと、多量の出血の影響で、段々と視界が霞んできた。
感覚も鈍っていたようで、片脚を切り取られた痛みはほとんど感じていなかった。


*


 目を覚ますとそこは、紅魔館のある一室の扉の前だった。
締め切られているカーテンと窓の隙間からは、ほんの少しの光すら入り込んできていない。
まだ朝が早いのだろう。
 昨日、妹に吹き飛ばされた両腕両脚は、一晩ですっかり元通りになっていた。
再生したばかりの肢体を使って立ち上がる。
――こんな所で寝ているとまた散々な目に遭う。
そう察したレミリアは、人目の付かない場所へ移動しようと歩き出した。
 しかし、その歩みはすぐに段々と速度を失って行き、遂にレミリアはその場に静止した。
どうせ何処へ行こうとも、妹のお遊戯から逃れる事などできない。
そして同時に、大した理由や意味の無いそのお遊戯を止める術もない。
何をしても、何処へ行っても、どんな言葉を掛けても、もう意味などない事を、昨日悟ったのだ。
 もしもここで自ら命を絶ったら、次の妹の標的は誰へ移るのだろうかと考えた。
心の無い誰かが選ばれてしまうのか、館外へ飛び火するのか。どちらにしろ、誰かに迷惑を掛けてしまう事に変わりは無い。
ならば、せめて姉として、狂った妹の面倒くらい見てやろうではないか――
 レミリアは全てを諦め、廊下に横たわった。いつまで続くか分からない、妹のお遊戯の終わりを祈りながら。
pnpです。

 とにかく理不尽な暴力と言うのが今回のテーマでした。
理不尽とはなんだと自問自答している内にこんな作品に仕上がりました。
『理由が特にない暴力』って、一番どうしようもない気がして。やめさせようにもやめさせられないですし。
 なかなか悩んだ末の結果です。


 因みに今作で東方のSS、丁度30作目となります。
これからも飽きるまでは頑張ってみようと思います。よろしくお願いします。

 ご観覧、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++
>>1
両者合意だとコメディになれますね。

>>2
今思ったのですけど、続けられそうですね。 続くかも。凄く気が向いたら。

>>3
ありがとうございます。
どうしようもないと言えば理由がないしか、私には思い付けませんでした。

>>4
フランが落ちついたら……そこでおぜうがどうするのでしょうね。
そしてフランは心のない皆をみて何を思うのでしょうね。

>>5
オプーナ幻想入り……。 因みに私は買いましたが、全然やらずに飽きました^^;

>>6
フランちゃんも喜ぶでしょうが、命の保証はありません。

>>7
ありがとうございます。
 辺に凝るより、こういう形のが分かりやすい事もありますよね。

>>8
目を大量に潰す様子は、私も想像してみていいなと思いました。
pnp
http://ameblo.jp/mochimochi-beibei/
作品情報
作品集:
19
投稿日時:
2010/08/13 07:06:55
更新日時:
2010/08/29 11:15:47
分類
紅魔館
暴力
1. 名無し ■2010/08/13 16:39:57
レミリアとフランがイチャイチャしてるだけかと思った
2. 名無し ■2010/08/13 20:27:41
姉妹愛に焦点を当てた物語で、産廃ならではの良い話と思いました。
最後のレミリアの決心が良かった。レミリア可愛いよレミリア^^
3. 名無し ■2010/08/13 23:20:57
祝・30作〜!
ほんとにどうしようもないよなあ、これは
4. 名無し ■2010/08/14 00:04:57
レミリア…なんといういい姉…
しかしフランの狂気が一旦落ち着いたらどうなってしまうんだか…
5. 名無し ■2010/08/15 05:31:34
彼女はオプーナを買うことができない
権利がないからだ
6. 名無し ■2010/08/15 06:23:15
仲良さそうでよかった
フランちゃん、後でいい子いい子してあげるからね〜
7. 紅魚群 ■2010/08/19 16:39:29
30作品おめでとうございます。
フランちゃんじゃないけどこのレミリアはかわいいなぁ。
自分はやっぱりこういう(産廃的に)オーソドックスな話が好きです。
8. 木質 ■2010/08/19 21:34:47
姉としての職務を全うしようとする
このレミリアには敬意を払いたい

手から溢れる目を潰していく
フランちゃんの姿を想像したら痺れました
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