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『Escape From The 旧地獄街道』 作者: sako
じりじりと全てを溶かすような濃密な大気。六十年ゼミが地上を夢見てじりじりと鳴声を上げ、陽炎はゆらゆらと踏みならされた地面から立ち上っている。
地底は旧地獄街道にも夏、と呼ばれる季節はある。
地上のそれと違い、地下を流れるマグマの川が水量―――便宜上、“水量”と呼ばせて貰う、が増す時期、地の奥底から灼熱の泥流の熱が伝わり、地下水が水蒸気となって立ち上り、蒸し暑い地上のソレと遜色のない季節になる。また、熱量のお陰か、地底の光源となっているヒカリゴケもその勢力を増し、爛々と地底の街を照らし出している。仮に見ず知らずの人間をここに連れてきたとしても彼はここが地の底だとは夢にも思わないだろう。
その茹だるような暑さの旧地獄街道。最近作られた地上へ通じるロープウェイがある土産物市場の大通り、そのど真ん中に一人、獣人の男が立っていた。
丸ではなく頭の上に三角の尖った耳を持つ獣人だった。そと鼻が高いことを除けば外見は人にほど近い。汚れた甚平を羽織り、片方を無くした草鞋を履き、うつむき加減に肩を落としている。ぼうっとして虚ろげな瞳をしているのは暑さにやられたからか。男は動かず、ただ、ひたすらに陽炎立ち上る道の真ん中でじっと立ち続けている。
と、ぽつり、と男の顎先から液体が伝わり、雫となって地面に落ちた。熱したフライパンのように熱い地面に落ちた雫は瞬間、蒸気となって霧散するかに思われたが、そうはならず、乾いた地面に当り染みを残した。
―――赤黒い、血と腐液の混じった、汚らわしい染みを。
「うぁ…ぁぁぁぁぁ」
うなり声を上げて、何のタイミングかずるりと足を引きずるような動作で歩き出す男。
二歩、三歩と歩く度にどろりと粘度を持った雫が顎先やだらりと力なく伸ばされた指先から落ちていく。歩いた後には足跡の代わりに黒い染みが残されている。見れば男が着ているものも同様の汚れをしていた。鼻が曲がるようなすえた匂いを発している。おおよそ清潔さとは無縁そうな男ではあるが、それでも人が耐えきれる腐臭ではない。暑さで脳がやられたのか。否、暑さではない。
僅かな気配に反応して振り返った男の頭半分は真正面から鉄柱の突撃でも受けたようにえぐれていた。
砕けた頭蓋。視神経に垂れ下がる眼球。肩口までを汚す腐った血と肉片。そうして、むき出しの脳漿には蠅が集り、前足を下卑た守銭奴よろしくすりあわせていた。
いくら男が人間に比べ頑丈な獣人であろうともまともに歩けるはずのない、致命傷に等しいような傷。否、男は既に死に体だ。無事であるにも関わらず光を灯していない瞳が何よりの証左。
そう、男は死んでいるのに立ち、唸り、朧気な足取りだが動き回っているのだ。
“リビングデッド”
一般にゾンビと呼ばれる外法の道に属するもの。それが男だった。
男…ゾンビはうなり声を上げ、道をさまよい歩いている。その澱んだ視線はもはや光を感じる力すら残されていないのか、びっこを引くような緩慢な足取りで進み、バリケード…既に破られた後があるが、を張った土産物屋の立て看板にぶつかり、それでもなお気づかないのか数歩、足を進めようともがき、ややあってからやっと誰かに指摘されたように方向を変えた。
いや、違う。
ゾンビは本当に何かに反応して方向転換したのだ。
その何かは走っていた。その何かは近づいてきていた。その何かは―――生者だった。そして即ち、その何かは餌だ。男の腹を満たす食料だ。
ゾンビとなった男の頭…もはや脳細胞の煌めきも消え失せた壊疽した頭に残されているのはただ二つの行動原理、即ち食欲と破壊衝動、それだけだ。獣であれば最悪の衝動、満たされぬ乾きと、理性人であれば最低の本能、暴れる力。それだけを備えて男は死なず、ゾンビとして彷徨い、生者の血と肉と悲鳴を求め歩き回っているのだ。
その獲物が目の前からやってきた。目は見えずとも、残された聴覚がそれを伝える。男は既に何人もの生者を捕らえ、その顎門にかけてきた血肉に汚れた両腕を掲げぐるぅあぁぁ、と獣じみた低いうなり声をあげた。此度も哀れな生者を己が胃に収め、食い残せば己が仲間に。乱杭歯の間に肉片をこびり付かせた真っ赤な口を大きく開けて、走り寄ってくる生者に襲いかかる…!
刹那、
「ああっ、その本能さえ捨てて死んでられる余裕さ嫉ましいわね!」
台詞と共に放たれた鉄矢がゾンビの大きく開けられた口を穿った。
あが、と当然のように喉に異物を突っ込まれた際の反応を返しゾンビは仰け反った。鉄矢は喉を貫通し、赤い鏃を首筋に突きだしている。生者なら致命傷の傷。けれど、既に死者であるゾンビはそれでは停止しない。なおも足は前進を続ける。ならば、と続く第二矢が胸を、第三矢がむき出しの脳漿を立て続けに射貫き、ついにゾンビは、死してなお動き回らされていた男は永遠の眠りにつく許しをえた。
「美少女にまたぎ超えられるなんて、嫉ましいわね!」
その屍の上を飛び越え走るのは、たつた今し方ゾンビを鉄矢で打ち倒した妖怪、水橋パルスィだ。手には一抱えもある複雑そうな構造の自動弓が。走る速度を落としながらも何とか周囲に注意しながら新しい矢をつがえている。一朝一夕ではあるが手慣れた動作。三射中二射をゾンビの弱点である頭に命中させていることからもそれがうかがい知れる。
「まっ、待ってよパルスィ!」
「ごめんなさい。私が早く動けないから、運んで貰って…」
その後ろから同じように周囲に注意を払いつつ、決してパルスィを見逃さないように走る小柄な影が。黒谷ヤマメとその腕に抱かれているキスメだ。
「いいの。友達は何があっても助けないと」
にひり、と腕の中のキスメに微笑みかけるヤマメ。申し訳なさそうだったキスメの顔も綻ぶ。
「ああ、クソ! いちゃつく暇があるなんてえらく余裕ね。早く走りなさい。嫉ましいわ!」
「わぁ、分かったよ!」
みょんな事から一種のパーティとして三人はこの地獄を…本来の意味ではなく門の例えとしての地獄、生者の延命を許さぬ決死空間としての地獄と化した旧地獄街道を駆け抜けていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
事の発端は地底世界の秩序が完全に失われてしまった今となっては誰にも分からない。
ソレの詳しい派生時期も拡大経路も調べ上げる術は誰も持ち合わせていないだろう。事態の収束と回復のための術も。
故にこれは地獄だった。
亡者が歩き回り、路地裏で生ゴミを漁る害獣のように屍肉に貪りつき、所彼処から数少ない生者の断末魔の悲鳴が上がっている。生者が死者に、死者が起き上がり動き回り、また死者の数が増え、起き上がり動き回る。倍々ゲームに瞬く間に旧地獄の街はかつての罪人への断罪と浄化の場所ではなく、別種の、悪徳の栄えたる意味を持つ地獄へと移り変わりっていった。
それでもなおこの場所の住人はバリケードを張り、武器を手に、安全な場所に身を潜め、仲間を集め徒党を組み、生存への道を模索していた。その絶対数を徐々に減らしながら。
キスメ達のパーティもその一つだった。
偶然、同じ建物へ隠れていた三人はこのままここに隠れていても助けは来ないしジリ貧だというパルスィの提案の元、一路、脱出のために結託し、パーティを組むことになった。途中、ヒキコモリの家からボウガンを見つけ、パルスィはそれを手に先導。そのおけにはまり込んだような体型のせいで匍ってでしか動けないキスメをヤマメが抱え一行はとりあえず地上へと脱出するために、旧地獄街道の玄関口目指して決死の行軍を続けているのだった。
「そんなになってもまだ死ねないなんて…嫉ましいわね!」
片腕を消失し、脇腹から腸を零れさせているゾンビの眼球に鉄矢を打ち込み、一撃で倒すパルスィ。淀みなく次をつがえ、全力で走る。
「はぁはぁ…」
その後ろから遅れまいとキスメを抱えたヤマメが走る。こちらは両手がふさがっているため、武器は一応、民家から拝借した包丁を持っているが使えそうにはない。代わりに…
「ヤマメちゃん、右から来てるよ!」
「っ…ありがとうキスメ」
走る方向向かって右側にある家の影から飛び出してきたゾンビをするりと躱すヤマメ。武器は使えない代わりに腕に抱くキスメと合わせて四つの瞳が絶え間なく周囲を伺っているお陰でヤマメは迫り来る危機を容易く回避していた。もとより先行するパルスィが露払いしてくれるお陰でその必要も相当数少なくなっているが。
「ああっ! もう! いちゃつかないで! 嫉ましい!」
バス、バスと的確に進行方向状のゾンビを倒していくパルスィ。けれど、顔色は戦闘の高揚よりも焦燥の方が勝っている。腰に吊るした矢筒がどんどん軽くなってきているからだ。鉄砲と違い撃った矢は再利用出来なくもないが、当然、その暇はない。ましてやゲームのように無尽蔵に矢が撃てるわけはないのだ。
「弾幕ごっこなら楽なのに…嫉ましいわ」
弾幕ごっこの射撃は所詮はお遊び用の低威力、安全重視の弾。遊技ではなく本物の命のやりとりとなった時点で弾幕ごっこ用の射撃は意味を成さなくなった。S級妖怪や達人となれば話は別だろうが、非力な三人の弾幕では目くらましぐらいにしかならなかった。故にボウガンを見つけたときは百人力だと喜んだのだが…思っていた以上に連射が利かず、また、手に入れた当初、練習がてらと無駄にゾンビを撃ち倒していたことをここにきてパルスィは悔やみ始めていた。何に対して嫉妬を憶えているのか分からなくなるほどに。
「っ…キスメ、ヤマメ、あっち…あの倉に逃げ込むわよ!」
ゾンビを撃ち倒しつつ、ボウガンで前方を示すパルスィ。言葉の通り、その先には白塗りの壁の頑丈そうな造りの倉があった。二階建ての大きな倉だ。鉄製の扉は小さく開け放たれており、中へ逃げ込めば十分、ゾンビの進撃を食い止められそうだった。
走る速度を加速させパルスィは倉目指して進む。ヤマメも息を切らせながらそれに続く。
「はぁはぁ…はぁ、はぁ、はぁ…!」
激しい息。酸素が足らず視界が黒く染まって見える。それでも身体は身の危険を感じ、心臓を早鐘のように鳴らし続け、足を左右交互に繰り出させる。
それも後しばらくの辛抱だ。もう少しでとりあえず、一息つける場所に逃げ込むことが出来る。自然と瞳は倉の僅かに開かれた扉に向けられるようになり、そうして……そのせいか、ヤマメは進行方向に落ちていた上半身だけの、下半身は何処かにやってしまっているソレが、未だに動けるゾンビだとは思いもしなかった。
「えっ、きゃぁぁぁぁ!?」
足首をつかまれ盛大に転ぶヤマメ。腕の中からキスメが離れ、道を転がっていく。
「ああもう、こんなところでドジっ娘アピールできるなんて…嫉ましいわね!」
それに気がつき、パルスィは足を止め、急に方向転換。転がったせいで身体のあちこちをぶつけ痛みに震えているキスメを拾い上げるとヤマメの側まで駆け寄った。
「早く立ちなさいよ! 休んでられるなんて嫉ましいわね!」
「うわぁぁぁ、離せ、このっ!!」
足にかぶりつこうとしてくるゾンビの頭を数度、蹴りつけ、嫌な感触がしたところでそいつは動かなくなった。服についた埃を払う余裕もなく、ヤマメは急いで立ち上がる。
「ヤマメちゃん、大丈夫!?」
「う、うん…」
「ほら、行くわよ!」
再び駆け出す三人。けれど、そのポジションは変わってしまっていた。キスメを片手で抱えたことで武器も使えず、全力で走ることも出来なくなったパルスィ。ゾンビに捕まれたせいか、足首を痛め、びっこを引くようにしか動けなくなってしまったヤマメ。機動力を大幅に失ったパーティにゾンビの群れが襲いかかってくる。
「早く早く!」
それでも幸いだったのは倉までの道の障害は殆ど全て撃ち倒してしまった後だったことか。もはや、三人は脇目もふらず倉を目指して走る。その後ろからゾンビが群れを成して迫る。
「早く…はぁはぁ、中へ」
間髪、追いつかれる前に倉へ辿り着いたパルスィ/キスメ。そのタイミングは紙一重と言っていいほどですぐさま扉を閉めなければならないほど余裕はなかった。ならば、その後ろを走っていたヤマメは…
「まっ…て…!?」
腕を伸ばし先行くパルスィの服を捕まえるヤマメ。同じくゾンビも…ヤマメの身体を捕らえていた。
「なっ…」
引かれた拍子につい振り返ってしまったパルスィ。その目が見たものは津波のようになって押し寄せる幾多のゾンビと助けを求めるよう、自分の服を掴んでいるヤマメの姿だった。
「助けて…」
はたして、ヤマメの呟きはパルスィに聞こえたのか。いや、聞こえてはいなかっただろう。
ゾンビの数、沢山/自分に助けを求め追いすがってくる仲間、一人/ボウガンにつがえられた矢、一本
簡単な算数の問題だった。
パルスィは半身を捻り、ヤマメの手をふりほどくと、その動作のまま手の中のキスメを倉の中へ投げ込んだ。そうして、続く動作でボウガンを構える。狙いは敵ではなく味方で、ゾンビではなくヤマメだった。
「あ」
嘆息/スローモーション。
暗い倉の中へ放物線を描いて投げ込まれるキスメは見た。友人の、大切な友達の顔がゾンビに捕まれたときよりもなお暗い、絶望の色に染まっていくのを。
そうして、
“バシュッ”
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「っあ…! ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ…!!!」
自身も倒れるように倉の中へ逃げ込むパルスィ。後ろ手で鉄の扉を閉め、閂をかける。
そうして、荒い息をついて鉄の扉にもたれていたのも一瞬。激しい実践を繰り返してきた淀みのない動作でパルスィは矢をつがえると薄暗い倉の中へボウガンを構え、視線を左右に走らせた。安全確認。やがて、暗闇に目も慣れ、倉の中が見渡せるようになるとやっと、ボウガンを下ろし、力尽きたように膝を折ってその場に嘔吐した。激しい運動のせいか。
「うわぁぁぁぁぁぁ!! ヤマメ、ヤマメちゃん!!!」
否、初めて生きている人を撃ち殺してしまったせいでだ。
道中、パルスィは何体もの動き回る死者を、ゾンビをやっつけてきた。それは生き残るための闘争でゾンビたちは如何な方法を使っても生前の姿を取り戻せないと道理的に理解していたからだ。倒すしかない死者。けれど、今の一打は違う。今の一打は根本的に違う。パルスィが撃ち殺したのは助けを求め追いすがってくる仲間、まだ、生きている仲間だったのだ。その事実、強烈な罪悪感に身体は拒絶反応を起こし嘔吐したのだ。
「ヤマメちゃん! ヤマメちゃん! うわぁぁぁ、ぱ、パルスィさん、開けてください! ヤマメちゃんが! ヤマメちゃんが!」
向こうに取り残され、そうしておそらくはゾンビ共の食欲と破壊衝動の餌食になってしまっている親友の名を叫びながら、鉄の扉を叩き続けるキスメ。背が低いせいで自力で閂を外すことは出来ない。キスメは助けを求め、パルスィに声をかけたが嘔吐した姿勢のまま彼女は動かなかった。
「ヤマメちゃん! ヤマメちゃん! ああっ、ああっ…」
やがて、扉を叩き疲れたのか。それとももはや遅いと覚ったのか、キスメも床に泣き崩れた。嗚咽を漏らし、ささくれだったぞんざいな造りの床板に爪を立てる。
「なんで…何で撃ったんですかパルスィさん! ヤマメちゃんを!!」
「仕方なかったのよッ!」
それでも激情は収まらないのか、睨むような目をパルスィに向けるキスメ。パルスィもそれに声を荒げて応える。
「あの状況…何かで『奴ら』の気を逸らさないと間に合わなかった。何かを囮にしなきゃいけなかった! 誰かさんに捕まれたせいで扉を閉めるような余裕もなかったの! 私も! アンタも! 助かるためにはあの子を撃たなきゃならなかったのよ!」
怒るような声で自分の正当性を証明しようとするパルスィ。けれど、緊急事態だからと言って誰もが理性的に考え、合理的に判断できるはずもない。それはキスメも、いや、親友のヤマメを殺されたキスメだからこそそんなことは不可能だった。
「五月蠅い! 嘘だ! あなたはヤマメちゃんが嫌いだったから撃ったんだ! この人殺し…人殺しッ!!」
憎悪を持った視線を投げかけキスメは泣き叫ぶ。その声に反応して外のゾンビたちが鉄の扉を激しく揺さぶる。
「人殺し!」
ガンガン
「人殺し!」
ガンガン
「人殺し!」
ガンガン
「人殺しッ!!!!」
ガンガン!!!!
「ッ!!」
打ち鳴らされる扉とキスメの敵意にパルスィは激高した。ボウガンを床に落とすと肩を怒らせ、のしのしとキスメに歩み寄り、その前にしゃがみ込むと腕をつねり上げ耳元で大きく叫んだ。
「だから仕方なかったって言ってるでしょ。ああ、その無神経さ思慮の浅さが嫉ましいわ! クソ、このっ!!」
そうして乾いた打撃音。パルスィがキスメの顔を打ち据えたのだ。しかも、一度や二度ではない。
「だいたいねぇ! 嫌いだから殺すんなら! アナタから殺してるわよ! そのナリで! 出来ることと言えば多少の見張りぐらい! 身体もちっさくて非力で! 誰かがいなきゃ走ることも出来ないじゃないの! 嫉ましいわね、楽させてもらえて! ああ、畜生! アンタの方を囮にすれば良かったわ! 役に立たないアンタの方を! 畜生! 畜生!」
あるいはその激高は自分自身の罪から逃れるための方便だったのかも知れない。
パルスィはもう一打、加えようと大きく腕を振り上げたところで、両腕で自分を庇うようキスメが泣いているのに気がついた。
「あっ…」
一瞬、驚いたような顔をしながらパルスィはゆっくりと腕を下ろし、バツが悪いように顔をしかめた。
「っ…兎に角、過ぎた事はもう忘れなさい。でないと、死ぬわよ。私も、アナタも」
パルスィはそう吐き捨てるが、倉の中にはおんおんと泣き続けるキスメの声だけが響き続けた。ゾンビたちがその声に集まり、がりがりと鉄の戸を引掻く。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「いい加減、気が済んだかしら」
それから半時ほど、もう涙も涸れたのか、桶の中へ潜り込むように俯いていたキスメにパルスィが声をかけてきた。
キスメは一瞬、無視しようとしたが続くパルスィの「相談したいことがあるの」という言葉に面を上げざるえなかった。
「二階で話すわ」
そう言ってパルスィは許可もえずにキスメの身体を抱えあげる。もっとも仏頂面のキスメがはい/いいえの返事をしたとは思えないが。
キスメを抱え、パルスィは木製の軋む階段を上りに登って四階へ。窓際に忘れ去られたように置かれている机の上にキスメを置いて、突き上げの窓を上げつっかえ棒を差し込み開けっ放しにする。夏の熱気に死臭が混じった嫌な風が入り込んできた。
「アナタが嫉ましいことに泣いている間にこの倉を調べたんだけど、籠城には適していないわ。造りは頑丈だけれども、食べられそうなものは何一つなかったわ」
倉のあちこちにうずたかく積まれた木箱の中身は瀬戸物や鋳物、古い掛け軸、鑑定書付きの壺、古銭など地底社会の秩序が保たれていれば一財産と呼べるような骨董品ばかりだった。けれど、秩序が崩壊し、死人が歩き回り生者が息を潜めて生き延びる道を模索しなければならない今、それらの骨董品はガラクタも当然だった。サヴァイバルに役立つものなど大してないだろう。
「だから、私たちはさっさとここに見切りをつけて逃げ出さなきゃならないの。もちろん、今までみたいに闇雲に逃げるんじゃなくて、きちんと目的地を定めてね」
そこまで言ったところでパルスィは窓のすぐ側まで移動した。開け放たれた窓から身を乗り出し、「あれ、見える」と外を指さす。キスメはがたがたと机を揺らしながら方向転換。窓の方へ向き直り、パルスィの指さす方向へ目をこらす。家々の屋根を挟んで向こう隣、すぐ側は地底の外壁になっている場所に建っている真新しい建物が見えた。
「アレ、知ってる? 最近、地上との連絡用に作られたロープウェイの発着場よ。ほら、あそこ見て。ロープウエイのゴンドラが見えるでしょ」
指の角度をずらし、建物の側をパルスィは指さす。真っ赤な真新しい鉄の籠の屋根が見えた。
「あれを使えば地上まで脱出できると思うの」
ロープウェイは地上への直通だ。落石や危険な妖怪も多い地域の交通手段のため、造りはかなり頑丈で、あれならば確かに安全に地上まで逃げることが出来るだろう。
「あっち見て。手前の橋が何でか知らないけれど焼け落ちてるから『奴ら』もあの回りにはあんまりいない」
別の方向を指さす。ロープウェイ発着場の手前を流れる川にかかる橋はパルスィの言うとおり、油でも撒いて火でもつけたように焼け焦げ、中程で川に落ちている。川は流れは緩やかだが水面まで結構な高さがあり、落ちればすぐには這い上がってこれない。その為か川のこちら側にはゾンビはいるが向こう側には見る限りその姿を見つけることは出来ない。
「逃げ出すなら今よ。ああ、あんなに安全な場所があるなんて―――嫉ましいわね」
そう呟いて、パルスィは窓から身を引いた。
「でも、それは実は難しそうな話なの」
ロープウェイ発着場まではほんの200m程の距離。幻想郷の少女ならあってないような距離だ。だが…
「飛んでいければいいんだけれど、難しい相談なのよね」
そう言ってパルスィは術符を一枚取り出した。飛翔の字を崩して翼のようなデザインの呪文が書かれた符だった。パルスィはそれを手近な壺に貼り付けて、魔力を込めて窓の外に投げ捨てる。
ある程度、飛んでいったところで宙に浮遊する壺。パルスィの魔力に反応した符が擬似的な反重力を作り出し壺を浮かべているのだ。
と、その下で彷徨いていたゾンビたちがにわかに騒ぎ始めた。目は見えないはずだろうに上を見上げ、動くことを止めた肺を無理矢理動かし、絞り出すような声を上げている。そのうちの一匹、全身の生皮を剥いだ様な姿をした他のゾンビたちとは一線を記すような、強固な四肢を誇る個体が雄叫びを上げ、そうして…あろう事か、そいつは地上四階の高さまで一気に跳躍。壺をその船のアンカーを思わせる鋭い爪で一撃の下に粉砕した。
「立派な体つきね、嫉まし…くないわね!」
瞬間、既にある程度狙いを定めていたパルスィは矢を射った。ばすり、と見事に鉄矢は化物のこめかみに命中。壺の破片と共にそのゾンビは地上へ落下。受け身も取れず地面に叩きつけられた身体は無残にも潰れ、そこへ腹を空かせた他のゾンビたちが群がってくる。
「…どうも、『奴ら』は音だけじゃなく、魔力とか霊力にも反応するみたい。普通の『奴ら』なら無視してもこの高さなら大丈夫なんだけれど、たまにいるあんな強い『奴』が下にいたら…」
壺と同じ運命を辿るわよ、と声を低くパルスィは言った。説明はそれだけだった。いや、実際の所、話を聞くまでもなかった。飛翔の術が使える者も多いこの地底。それなのに空を飛んで逃げている人はついぞ、見かけることがなかった。おそらくは今の壺のように安全だと思って空を飛んでいるうちにやられたか…若しくは、その前にあの飛び上がった個体のような姿に成り果ててしまったのか。どのみち、宙も安全だとは言い難かった。
「……どうやって」
「え」
「どうやって、向こうまで行くつもりですか。パルスィさん」
それだけ説明してやっとキスメは言葉らしい言葉を発した。けれど、固い声色と険しい表情。理性では納得しようとしているが、感情では納得し切れていない、そんな顔だ。
パルスィもそれを分かっているのか、眉をしかめつつも事務的に話を続ける。
「だから、アナタを呼んできたの。他人任せで嫉ましいわね、ホント。でも、ここまでよ」
そう言ってパルスィはキスメを残して歩いて行くと、四階の部屋の隅に積もれた木箱の上に置かれた、ソレを持ち出してきた。
「これをボウガンの矢で向こうの壁に打ち込んでそこを伝わっていこうと思うの」
それ、とはロープだった。長く使われていなかったせいか埃まみれになっているが解れて千切れたりはしなさそうな感じだった。長さも200mは優にある。それが箱の中に三つ四つほど纏めて入れられているのをパルスィは見つけこの作戦を思いついたのだ。
「でも、ボウガンの矢で打ち込んだだけじゃ、恐らく、私の体重は支えきれない。私の体重を支えるんなら、向こうの柱にでも結わえ付けないと、とても無理」
実験したから、とパルスィ。確かに見れば窓のすぐ下に壊れた木箱とその中身だったであろう鉄鍋が散乱している。そして、その上、窓と発着場を結ぶ直線にはロープが蛇行するよう伸びていた。試したのだろう。発着場に突き刺さった鏃は木箱―――パルスィの体重と同じぐらいの、重さに耐えきれず、すっぽ抜けてしまったのだ。
「じゃあ、どうやって、行くんですか」
「ここまで説明してまだ理解できないの。その無能さ、逆に嫉ましくなるわね」
辛辣な言葉をパルスィに返されるキスメ。いや、キスメ自身はもう分かっていたのだが聞き返してしまった。聞き返さざるえなかったのだ。その絶望的な理由に。
「身体の小さいアナタなら簡単にロープを伝わって向こうにいけるわ」
「―――」
返事など出来るはずはなかった。顔を青ざめさせ、キスメは何とも言い難い表情を作るしかなかった。
「無理…です。そんなこと出来ません」
「出来る出来ないじゃないの、やるしかないの。それとも何? いつか誰かが助けに来てくれると思ってるの? 楽観的ね。嫉ましいわ」
俯いてぶるぶると頭を振るうキスメ。
「そんなわけないでしょう。行動しないと、ここで飢え死ぬか、『奴ら』に喰われるか、そのどちらかなのよ。なんとしてでも逃げ出さないと」
「イヤだ! イヤだ! 無理です、絶対に落ちます! 襲われてしまいます!」
聞き分けのない子供のように泣きじゃくる。だが、それも無理もない話か。地上四階。符術で飛ぶことを封じられ、地上には亡者があふれかえっている。そこをいつすっぽ抜けるとも知らぬロープを伝わって200mもの距離を渡れと言うのだ。軽業師でも倦厭する難易度。力の弱いただの妖怪でしかないキスメには荷が勝ちすぎるのも確か。
けれど、現状は逼迫しており、二人が助かるためにはもうあり得ぬ希望の成就を望むか、それしかなかった。可能性としてはまだ後者の方が高い。
「このっ…いい加減に!」
ぱしん、とまた乾いた音。パルスィがキスメの頬をひっぱたいたのだ。
「イヤだと言っても無理矢理、行ってもらうからね」
そう言ってパルスィはキスメの桶の取って部分を持ち上げてみせる。いざとなればそこにロープを通すと言っているのだ。選択肢はなかった。
ロープをくくりつけられた鉄矢が宙を切って飛び、屋根を飛び越え、川を横切り、発着場の真新しい木の壁に突き刺さる。ゾンビが一匹、その音に気がついたが、すぐに興味を失ったように彷徨い始めた。その様子を見てパルスィは額の汗を拭った。続いて、机の脚に仮に結わえたロープを解き、多少の力では外れないかどうかを確認、倉の柱に結わえなおす。ピンと張られたロープは固く、ちょっとやそっと重いものを吊っても鏃は外れそうにない。矢の残りの数は少なかったが、何とか一発で成功したようだった。
「ほら、大丈夫そうだから、行って」
「ううっ…」
キスメを持ち上げ、今し方、張ったばかりのロープを握らせるパルスィ。イヤダイヤだとキスメは首を振るったが、パルスィはそのままキスメの身体を窓の外まで運ぶと耳元で暗く、威嚇するように一言、告げた。
「ロープを掴まないと放すから」
「ひっ…」
殺人予告に等しい脅し文句だった。恐怖に背中を押され、キスメは否応がなしにロープを掴まざるおえなかった。ロープは固く、ささくれが指に突き刺さり、痛い。
「さっ、早く行きなさい」
キスメの身体に向こうに着いたとき、太い柱に結わえる自分用のロープをくくりつけて、ぱんぱんと手を叩いてパルスィは出発を促した。キスメは小さく呻るような声を出した後、ロープを伝い始めた。
ぎゆ、ぎゅ、と固く布巾を絞ったような音を立てロープが軋む。アフリカの奥地に住むテナガザルのようにキスメは交互に左右の手を繰り出してロープにぶら下がった状態で進む。
「っ…!」
思わず、下を見てしまい身体が心底震えた。高いところは苦手ではない。釣瓶落としという妖怪は高いところから落ちてきて人を驚かす妖怪だからだ。だから、キスメたちつるべおとしにとって下方とは自分たちの食事である人の恐怖が広がっている畑、のようなものなのだ。だが、今は違う。今、下方に広がっているのは血と殺戮の荒野。自分自身が恐怖を覚える死の場所だ。手を離せばそこにあるのは暖かな食事ではなく、冷たく腐った死。眼下は無数に剣山が乱立している様を夢想し、ひっ、と短い悲鳴を上げてキスメはわずか数メートル進んでしまっただけで押し固まってしまった。
「はやく!」
後ろから急かす声。苦虫でも噛み潰したように顔を歪めるとキスメは下を見るな、下を見るな、と二回、呪文のようにつぶやいて、また進み始めた。
速度は亀の歩みより遅い。それから数メートル進んだだけでキスメの手はすりむけはじめた。硬いロープは滑りこそしないが代わりに鋭いささくれがキスメの柔肌に突き刺さり、薄皮を小削いでいくのだ。もう少し進むと手が痛くなり、幾つもマメが出来ていた。休もうかとも考えたが、それは無理そうな相談だった。下にいるゾンビはキスメの存在にまだ気がついていないが、今やその『奴ら』と同じぐらい怖い人にキスメは睨みつけられ、監視され、急かされているのだ。そう思うと立ち止まって…ぶら下がってではあるが、止まることなど出来そうにもなかった。
「はぁはぁ…キツイなぁ…」
額から流れた汗が目に入るが拭うこともできない。止めどなく汗は流れ、着物は水に浸したように濡れそぼる。大気は熱く、六十年ゼミの鳴き声が耳にうるさい。
先日まではこの暑さも気にはならなかった。うだるような暑さの毎日に確かに気が滅入っていた。それでも今ほど、憎いとは思ってはいなかった。蝉の鳴き声も。そうだ、三、四日前にヤマメと蝉を捕りにいく約束をしていたんだ、とキスメは両手を交互に自動的に繰り出しながら思った。蝉取り、水浴び、かき氷、祭り、夏。いつもの夏の風景。それも今は過去の話か。もう、二度と感じることの出来ない自然な暑さなのか。いいや、そんなことはない。生き延びて、誰かがこの地獄を終わらせればいつかまた地底でそういうことができる日が訪れる。絶対に。再び。けれど…それを楽しめるのは自分だけだ。もう、蝉取りに誘って、かき氷を奢ってくれて、一緒に花火を見て楽しんだヤマメはいない。『奴ら』に襲われ、撃たれ、死んでしまったのだ。大気と同じ温度になってしまった体はもうなにも楽しむことが出来ない。何も感じることは出来ない。終わってしまったのだ。死んでしまったのだ。
「ヤマメ…ちゃん…」
っ、とキスメの頬を汗ではない悲しくて冷たい液体が流れ落ちていく。
そうして、キスメは縄に自分の血の跡を残しながらも何とか発着場までたどり着いた。
矢は発着場の窓のすぐ側へ突き刺さっていた。
キスメは辺りに注意しながら窓枠に手をかけた。中は寄宿舎なのか、空っぽの二段ベッドと机が一つ、枯れかけた観葉植物が一つ、あるだけで他には何も、誰もいなかった。
キスメは疲れた腕に鞭打って、片腕でぶら下がると何とか窓をあけるよう、格子をつかんで引っ張ってみた。幸い、鍵はかかっておらず、窓は簡単に開いた。キスメはまた両手で窓枠を掴むと呼吸を整え、体をゆすり、タイミングを合わせて手を離した。一瞬の浮遊。ニスが剥げかけた埃っぽい板間の上に転がりながら着地。すぐに起き上がろうとするが、今まで酷使していた腕は痺れたように動かず、キスメはそのマメと擦過傷だらけでボロボロに成った自分の手を暫く見つめるしかなかった。
しばらくして、手が動くようになったのを確認するとキスメは部屋を逡巡。大きな二段ベットに目をつけた。そこまで這って近づくと、パルスィに言われたとおり、自分の桶に結いつけてあったロープを外し、今度はベッドの足にしっかりとそれを結び直した。土蜘蛛のヤマメに教えてもらった解けない結び方。何度教えられてもいまいち上手く出来なかった結び方。だけど、今だけは成功した。
「これで大丈夫、かな」
何度かロープを引っ張ってきちんと結ばれているかどうかを確認。今度は部屋の中に置いてあった椅子を窓際まで運び、それによじ登ると、更に窓枠まで上り、一応、護身用として持ってきていた包丁をケースから取り出して掲げた。ヒカリゴケの猛烈な陽光が刃先に反射する。蔵にいるパルスィにロープを結び終えたことを知らせるための合図だ。程なくして向こう側からも同じ光を反射させた合図…パルスィは伊万里の皿を使って、行ってきた。暫くそこで外の様子を眺めているとしっかりと張られたロープをゆっくりと伝い始めるパルスィの姿が見えた。
向こうで待っている間に作ったのだろう。腰に命綱をつけ、それをロープに回し、時折、それに体重をかけながら手足を休ませている。
「……」
パルスィが移動する間、キスメはじっとその様子を眺めていた。少し進んでは休み、また、少し休んでは進む尺取り虫の動き。その動作はのろく、いつまで経っても終わる気配は見えなかった。
「……」
やがて、暇になったのか、キスメはちらりと視線を他方へ向けた。監視する必要があったパルスィと違いキスメはロープを渡る彼女のことを注視していなければならない理由はないのだった。ゾンビで溢れかえり、ところどころ火の手も上がっている町並みをぼうぜんと眺め、何の感慨も湧いていなさそうな無表情をつくっていた。
と、
「あ……」
亡者の群れの中に見知った顔を見つけた。見つけてしまった。キスメほどではないが周りのゾンビどもよりも頭二つ分小さな背丈。そのかわりにぽっちゃりとした体。虎を思わせる黄色と黒の縞模様のモンペ。そして、胸から痛々しくも鉄の矢を生やしたあの姿は―――親友のヤマメ、その成れの果ての姿だった。
「ヤマメ、ちゃん…」
知らずのうちに、亡者となってしまった親友の名前を呼んだ。肩口は噛みちぎられ、傷口から下は赤黒く染まっている。それでも虚ろげな視線で低い声を漏らしながら当てもなくさ迷うように歩いている。もう、キスメの知っているヤマメの姿ではなかった。
「……ううっ」
また、涙がこみ上げてきた。悲しさか、悔しさか。わからない。けれど、キスメは目をこすり、涙をこらえた。また、泣いていたらパルスィに怒られると思ったからだ。
「ヤマメちゃんならそんなことしなかったのに…」
ヤマメとの楽しい思い出が走馬灯のようによぎり、対比するように現実世界には死んで『奴ら』の仲間入りをしてしまったヤマメと、生前のヤマメのようにロープを伝わって移動するパルスィの姿が見えた。
「……」
かみ合わない歯車のような、そんな違和感を覚える。
何処か間違っていると、疑問が浮かぶ。
疑問と違和感は混ざり合い、無意識の行動になっていた。
「あ…」
或いはそれは復讐だったのかもしれない/もしくは狂った行い。
「あ…」
一瞬前、キスメが発したものと同じ嘆息をパルスィは漏らしていた。軽い浮遊感。続いて、自分の傍らにあり、自分を守ってくれていた大木が朽ち枯れ果て喪われたような絶望。
どうして、と疑問を浮かべるパルスィはそのまま重力に引かれ落ちていった。丈夫で、パルスィの体重を支えていてもびくともしなかったロープが切れたのだ。
いや、切られたのだ。
「キスメェェェェェェェェ!!」
彼女の手によって。
自由落下するパルスィは民家の屋根の上に落ちた。そのまま屋根の傾斜に沿って体は転がり、軒下へ落ちる。したたかに背中を打ち付け、痛みに目の前が真っ暗になり、呼吸さえできなくなる。体が土埃まみれになるのも気にせずのたうちまわるパルスィ。それが数秒か。最初の一呼吸と同時にやっと、視界が元に戻った。
その瞬間、
「あ…」
顔の上に影がさす。何か細長い棒のようなものが伸びる奇妙な影だった。
「やめて…たすけ、て」
懇願。けれど、遅い。
落下の音に反応して多数のゾンビが集まってくる。
倒れたパスルィに初めに襲いかかってきたのは胸から鉄矢を生やしているヤマメのゾンビだった。
「ぎぃ、や、あぁぁぁぁッ!! がッ!? はなぢで…やべ…ごふっ…あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
首筋に噛み付かれる。突き飛ばそうと伸ばした腕がそのまま捕まえられ、指を食いちぎられる。二本の足を暴れさせるが、その倍の数の腐敗した腕が伸びてきて、太ももやふくろはぎをひっかいた。スカートが剥ぎ取られ、ドロワーズが顕になる。上から体格のいいゾンビにのしかかられ、服を下着ごと破かれる。薄い胸板が顕になり、そこに噛み付かれる。ごぶり、と乳房ごと、肋骨が見えるほどに胸の肉を引きちぎられる。もはや、その時、生命活動は限界だった。ごぶり、と血の塊を吐き出して、パルスィの肺は呼吸するのをやめた。最後に助けを求めるように手を伸ばし、光り輝く地底世界の天井をまぶしそうに見つめ、それを―――覗き込むように迫ってきた『奴ら』に遮られてしまった。それが水橋パルスィの見た最後の光景だった。
多数のゾンビに蹂躙され、血を啜られ、肉を齧られ、骨をしゃぶられ、腸を引きずりだされ、パルスィは無残な最期を遂げた。
キスメはその様子を安全な場所から狂った笑いを浮かべながら眺めていた。
腹を満たしたゾンビたちが離れるまで。キスメが決めた、ヤマメの復讐が終わるまで。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「発車させるにはまず、このボタンを押して…」
ひとしきり、蔵の中で泣いていた時間と同じぐらい狂った笑い声を上げたキスメは、満足したのか、一人で地上へ逃げ出す算段を立てていた。
寄宿舎から出て、発着場まで移動。何とかゴンドラの制御室の鍵を壊して中に侵入すると、新品のまま殆ど使われていない発車のためのマニュアルを片手に制御盤をいじっていた。
操作は簡単だったが、キスメの背丈のせいで作業は少し難航していた。それでもキスメは逐一、マニュアルの説明文を読み返しながらきちんと手順通り、発車のための準備をした。
「このメモリが五十を超えれば充電完了。後はブレーキレバーを外せば…」
えい、と勢いよくレバーを押し上げる。ごうん、と一度、大きく揺れた後、断続的な振動音を響かせながらゆっくりとゴンドラは地上目指してトンネルを登り始めた。やった、とキスメは限界まで足を伸ばした制御室の椅子に力尽きたようにもたれかかる。後は自動運転だ。地上までは半時ほどでつくようになっている。
「これで…助かったんだ…」
目元から涙が一筋、流れ落ちてきた。
この数日間の出来事が思い出される。ヤマメと隠れていた事、パルスィと一緒に逃げたこと/ヤマメがゾンビに襲われ置いてきぼりにされたこと、パルスィをゾンビに襲わせ間接的に殺したこと。
何もかもが混沌としていて、それをまとめあげれるほどキスメには体力が残されていなかった。気がつくとまぶたは帳のように降りてきて、すやすやと寝息を立て始めていた。
少しばかりの休息を。ここならば安全だと、キスメは眠りについてしまった。
「んっ…」
目が覚めたのは僅か十五分後、何かの物音でだ。
体は疲れきっているのに僅かな物音で目が覚めてしまったのは、ここ数日、死が隣にあるという危機的状況に身を置いていたせいか。異常に神経が過敏になってしまっているようだった。
「何…?」
眠い眼をこすりながら前方を見る。上を目指し、延々と伸びる暗いトンネル。光源はゴンドラの前方に取り付けられたヘッドライトだけだ。その光に照らされて見えるのはトンネルの天井部分に張られた太い鉄製のワイヤーと下方に転がる黒っぽい岩石だけだ。それ以外は何も。
いや、違う。
進行方向から目のように輝いている二つの光が近づいてきているのが見えた。眠気も何処へやら、知らずのうちにキスメは包丁の柄を強く握り締め、身構えるよう、光に向かって目を凝らしていた。
「ああ、そうか。こっちが上がってくるんだから、上の発着場からは降りてくるゴンドラがあるはずよ」
その正体はすぐに分かった。ここのロープウェイは循環式だ。二つあるゴンドラは常に片方が下へ、片方が上へ向かうように作られている。邂逅の時間も丁度、到着時間の半分だ。反対側から来るゴンドラを見て乗客はもう半分まで来たことを知るのだ。もっとも、上から来るゴンドラには誰も乗っていないだろうが。
それでもキスメは何か少し、感慨深いものを覚えて、二度寝するようなことはせず、すれ違うゴンドラに視線を向けた。
まったく同じ形のゴンドラが自分の乗るゴンドラの横を通りすぎていく。
一つはたった一人のために上へ。もう一つは無人で下へ。あるいは違う誰かが脱出のために使うかも、とキスメはとりとめもなくそんなことを考え…
「え…?」
降りていくゴンドラが無人などではないことを知った。
十人がけのゴンドラにはすれ違うときに見た限り、三、四人ほどの人影が見えた。
座っている人は誰もいない。
誰もが肩を落として、両腕を力なくぶら下げ、俯き加減で、ゴンドラの揺れにあわせて体を揺らしている。
その顔色は土気色。その瞳は淀んでいる。その口には血肉の破片が。その心の臓は止まり、その肺腑は腐敗を始めている。
ゴンドラの窓には無数の紅葉を思わせる手形の血糊の跡。
“乗客”の一体が上ってくるキスメが乗るゴンドラに気がついたのかぐぁ、と声を上げた。
地底で、あの地獄でなんども聞いた声。乗客は何度も見た姿。
ああ、地上からやってきたゴンドラの乗客はあろうことか―――『奴ら』、ゾンビだった。
「あ、あああああああ…」
絶望の面持ちで進行方向へ視線を向けるキスメ。
登っていく先は天国ではなく、地の底と同じ地獄、だったのだ。
END
HOTDが面白すぎるんでゾンビものを一つ。
バイオ2とリメイク版のドーンオブryから入った口なのでお約束の描写はあんまりないかも。そもそも迸るエロスがねぇや。
10/09/01>>修正&追記
3さま、8さま、誤字の指摘ありがとうございます。他の部分と合わせて修正しておきました。
11さま。
そこには元気そうにハイタイムからエネステを連発する早苗さんの姿が。
「かなこさま、すわこさま。楽しすぎて狂っちゃいそうです!」
sako
作品情報
作品集:
20
投稿日時:
2010/08/29 09:51:07
更新日時:
2010/09/01 23:02:08
分類
キスメ
ヤマメ
パルスィ
幻想郷OfTheDead!!
ゾンビに食べられてるパルスィを想像したら、ちょっと抜(ry
>>HOTDが面白すぎるんで〜
真っ先に頭に思い浮かんだのが、マジシャンだった
それはHODでしたね、ごめんなさい
蜘蛛の糸は弾幕以外でも使えただろうに、
一番使える能力の奴が真っ先に脱落するのはお約束ですよね。
>仲間を集め郎党を組み、
サムラーイにジョブチェンジしたのでなければ、徒党を組みじゃないかと。
ってなってるんだろうな。
なんだかんだ言っても、みんなで助かろうとがんばってたのに。
パニックホラーとはよく言った
>睨むような目をパルスィに向けるキスメ。パルスィもそれい声を荒げて応える。
それ以上に声を……かな?
なんだかんだで実力者は生き残ってそうだけど、他人を助けてる余裕はないだろうね。
紅魔館や永遠亭に助けを求めて追い返される魔理沙が見たいです。
箒をなくした魔理沙は人間視点でもがいてくれそうで素晴らしい。
地上だと、やはりゾンビ映画名物である、遊び半分のゾンビ狩りを早苗さんあたりが調子こいてやってそう。
魔理沙と早苗さんに関しては行動から末路まで容易に予想できるから困るw
こういうパニックホラーだと慧音は何もしなくても死亡フラグだよなぁ
同志よ!!
キスメもパルスィを温存してれば或いは地上でも暫く生き残れたかも知れないものを…。
HOTDは最近のゾンビ物にしては珍しくゾンビが走りませんね、そういえば。