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『水槽』 作者: あめふら
きっと、貴方はさぞ不思議に思われているのでしょうね。
雲間を漂う竜宮の使いが、何故こんな水槽の中を泳いでいるのか。
その理由を今からお話しようと思います。
もう、どのくらい前のことか、日付の感覚が薄れてしまったものですから、正確な日時は申し上げられないのですが、よく晴れた、雲一つ無い天気の日だったと記憶しています。
その日、私は特に予定も無く、普段と同じように羽衣をなびかせて空の上をひらひらと漂っていました。
私達には予定が無い日の方が多いので、何も考えず、何の目的も無しにそうしていることには、もうすっかり慣れたものなのですが、それでも二、三時間も漂っていますと、自然、心地のよい怠惰と退屈に包み込まれるようになります。
あれを見つけてしまったのは、丁度私がそんなことをおぼろげに感じ始めた頃のことです。
空の上に、飛ぶわけでも無く、かといって私のように風任せに漂っているふうでもない、ただその場に静止しているものを見つけたのです。
興味半分に近寄ってみますと、それは人のようなものでした。
いいえ、人ではありません。人のようなものです。形状は人でしたが、しかし決して人では無いのです。
では何だったのかと訊かれると、それが全く解らないのです。
そうですね、身長が百八十センチ位の、細身の男性を想像して下さい。それに赤黒いシーツを、きつく梱包するように、丁寧に巻きつけて下さい。おおよそ人の形をした、赤黒い塊が出来上がったでしょう? 丁度そんな感じのものが、宙に浮かんでいたのです。
これは随分奇妙なものを見つけたと思って、私はその人の形をした何かの周りを二、三回廻ってみました。遙か上空から見えない糸で吊られているのか、それとも何らかの方法で空中に固定されているのかといった感じで、とにかくその場から動かず、また、自身動こうともしないようでした。
一体これはなんなのだろうと、私はその思いで一杯になりました。
何度か旋回した後、しばらく逡巡した挙句に思い切って触れてもみましたが、反応は返って来ませんでした。
感触ですか? 適度な弾力があって、そうですね、人間と大差無いと思います。
結局、私は十五分ほどその場にいたのですが、何の反応もしてこない、作りかけの彫像のようなそれにも飽いてしまって、どこか別の場所へ行こうと背を向けました。
その時です。さっきまでピクリともしなかったそれが、突然動き出したのです。
もちろん驚きました。
その場で足が止まってしまって、再びその人のようなものと向かい合う形になったのですが、その動きがなんとも気持ち悪くて。
いいえ。暴れだしたのではありません。むしろその逆で、大変静かでした。
体を動かさず首から上だけが、メトロノームのようにカッタンカッタンと動いていました。
ちょっと、首を動かしてみてもらえますか?
はい。ありがとうございます。
首を動かしていても、首だけでなく、体全体が動いてしまうのが解るでしょう?
ところが、あの人のようなものには、それが無かったんです。
本当に、正確無比に、他を一切動かさずに、ただ頭だけを動かしていたんです。
今思い出しても寒気がします。
言葉にしてしまえば大したことは無いのですが、けれど、あんな不気味なものは見たことがありません。
見ているうちに気分が悪くなって、今すぐにでもその場を離れたいのに、催眠効果でもあったのでしょうか、私は不思議とその動き続ける頭から目を逸らせずにいました。
そして私は……
私は……
……ああ、すみません。あまり思い返したく無い記憶でしたので。
いいえ。お話します。
私は、あの人のようなものの声を聞いたのです。
その風体に似つかわしくない、言葉を覚えたばかりの少年のような声でした。
そしてたった一言、
「 さ か な 」
と、そう言ったのです。
ね? 訳が解らないでしょう。
確かに私は竜宮の使いですし、そういった意味では空を泳ぐ魚とも言えるでしょう。
そもそもその言葉が私に向けられたものなのかどうか。今となっては判別出来ません。
というのも、私は声が聞こえた時点で、その場から大急ぎで逃げ出していたのですから。
人のようなものが見えなくなるまで離れると、ようやく私の心に平穏が戻ってきました。
ですがそれと同時に、自分の理解の範疇を超えた何かとの遭遇に対する恐怖が襲いかかってきました。
しかも大変都合の悪いことに、その恐怖は先程聞いたばかりの声の形を取って現れたのです。
あのたどたどしい少年のような声が、洞窟の中で叫んだ時のように頭の中で幾重にも反響して、耳の奥にべったりと張り付いて取れませんでした。
耳を塞ごうと何をしようと駄目でした。本気で耳を潰そうかと考えた程です。
「さかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかなさかな」
ね? 馬鹿みたいだと思うでしょう。
私だってそう思います。
でも、本当に恐ろしかったんです。
何がって、声を聞いているうちに、だんだん自分が魚のような気になってくるのです。
自分は本当は竜宮の使いでも何でもなくて、ただ水面を漂う魚なのではないか。陸に打ち上げられた一匹の魚なのではないか。それが何かの間違いで、空を飛ぶ夢を見ているのではないか。
もちろん、そんなもの違うと解っています。私は正真正銘の竜宮の使いです。それは、貴方にも証明していただけるでしょう。
けれどその半面で、どうしても自分が魚であるとの空想が、影のように付き纏って、隙あらば私の理性を喰おうとするのです。
私はパニックに陥りました。呼吸もままならなくなって、森の中に墜落しました。
幸い怪我は無かったのですが、気分が悪くなってその場で吐きました。
胃液が逆流して、喉が痛くなって、そして、水が欲しくなりました。
水です。どうしようもなく水が欲しくなったのです。
初めは口の中を洗うためのコップ一杯の水を、しかし時がたつにつれて、桶に、盥に、浴槽にと、心の中で沸き起こる水への欲求が抑えがたきものに変わっていきました。
とにかく、なんでもいいから水に触れたい。何でもいいから水に浸りたい。大量の水に体を沈めたい。
湿気の多い森の中で、私はひたすらに乾いていました。酸欠の金魚のようにだらしなく口を開けて、木々に寄りかかって体を支えながら、というよりも、ほとんど四つん這いに近い状態で彷徨い歩きました。
水が欲しい。水が欲しい。
葉の表面に付いた水滴ですら舐めながら進みました。
多分、水たまりがあったら、たとえ泥水でも私は飲んだと思います。
異常ですよね。
でも、私はその異常に気付けなくなっていたのです。
自分は魚なんだ、と思いました。
だから水が無ければ死ぬんだ、とその時は当たり前のように心から信じていたのです。
だから、形振り構っていられませんでした。生きるか死ぬかの瀬戸際に立っていたのです。実際、私は徐々に徐々に呼吸が出来なくなりました。息を吸っているのに、肺が空気を受け付けないのです。おかしな表現ですが、自分の息で窒息するんです。
視界がだんだんと黒ずんで、手足が痺れるように力が入らなくなりました。
はい。死ぬと思いました。
ですがこうして生きているのは、森の中に運よく一軒の家を見つけたからです。
家、というよりは、その時の私には、その家の脇にある井戸しか見えていませんでした。
私は最後の力を振り絞って、這いずりながら井戸へと身を乗り出しました。水を汲む体力など、残っていませんでしたので。
井戸を覗き込んだとき、底に見える水面の揺らめきが、どれほど輝いて見えたことでしょうか。
私は何のためらいも無く、井戸へと身を投げたのです。
その後、何かが飛び込んだらしい水音に、家主が直ぐに飛んできて、私を井戸から引き上げました。
自殺だと思ったそうです。それはそうですよね。
井戸の傍らでべたりと横になる私に、しきりに思い止まるように声を掛けてきました。
しかし、私はその話を半分も聞いていませんでした。
一度水の中にどっぷりと浸かってしまったためなのか、全身が空気を受け付けなくなってしまったのです。
その時の私は、まさしく打ち上げられた魚でした。
呼吸も出来ず、自力で動くことも出来ず、水に触れていないと生きていけない体になってしまったのです。
そうです。
私がこうして水槽の中にいるのは、水中に身を置かなければ呼吸も出来ないからなのです。
以来、この狭い水槽が私の全てです。
空には一度も帰っていません。帰れないんです。
竜宮の使いも、続けることは出来ません。
もう諦めているんです。
きっと死ぬまでこの中です。
そうですね。この羽衣も意味の無いものになってしまいました。
けれど、これすら失ったら、私は本当に身も心もただの魚になってしまいそうで、怖くてたまらないんです。
本当に、どうしてこんなことになったのでしょう?
私が何をしたっていうのです?
何故こんなことになってしまったのでしょう?
一体どうすれば良かったのでしょう?
こんなのって酷いと思いませんか?
本当に……。
長々とお話に付き合っていただいて、どうもありがとうございました。
叶うことなら、私の身に起きた不幸を沢山の人にお伝えして下さい。
一体何が悪かったのか、そもそも悪はあったのか、それすらも解りません。
ただ、世の中にはこういうことがあるという事実を知っておいて欲しいのです。
降りかかった当人ですら理解出来ないような、いいえ、こちらの理解など最初から求めていない、不幸としか言いようが無い、何を怨めばいいのかも解らない、あまりにも理不尽な出来事があるのです。
ただ、それだけです。
どうもありがとうございました。
- 作品情報
- 作品集:
- 21
- 投稿日時:
- 2010/10/14 15:52:39
- 更新日時:
- 2010/10/15 07:00:04
- 分類
- 衣玖さんと何だかよく解らないものの話
ただし、衣玖でやる必要のなさと、そもそも東方でやる必要なくね?感があるかな。
急に戻れなくなった場所に思いを馳せてる状況が好き
夢に出た。泣きたい
原初的な恐怖を感じた