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『Worm:メガロマニアックス』 作者: sako
何とか耐えようとしてきたけれどやはり無理だった。
私は私の人生というものをこの手紙を書き終えると共に終えようと思う。
思えば、ああ、いや、思い出したくもない。こうしてタイプライターのキーを叩いている最中にも私の固い頭蓋に収められたちっぽけな脳は誰からも忘れ去られた墓の朽ちた墓標の下、固く閉ざされた石櫃の内側の僅かな隙間に住まい首なしの罪人の骸だけを喰らって生き延びてきたダーウィンの進化論に相反する錫色の肌を持つ甲虫の金切りじみた鳴き声のようなあの邪悪且つ悪質、粗悪にして劣悪なイメージに苛まされているのだ。イメージは脳裏から消えることなく、まるで未開の地に住む忌々しき人とそれ以外のモノの血を引く混血の蛮族の末裔が、引き継がれた大半が失われ劣化した教えに基づいてなんとか再現した入れ墨のように決して消えることなく、色あせることなく常に私を苛ませているのだ。これから僅かにでも逃れるには火のように熱い酒を必要とした。けれど、それも結局は一時的な忘却…地球を何光年と離れた場所にある紫色の大気の惑星に浮かぶ二つの黒い太陽を薄曇りが隠したに過ぎないよう、一時も経てばまた壁面に死影を残すような放射線を含んだ猛烈な陽光が降り注ぐようまた私にえも言えぬ重い頭痛を与えてくるのだ。
もう、疲れた。これ以上、アルコールによる刹那の忘却の効果を頼りに生きていくこともできそうにはない。あの恐怖から逃れられるのであれば私はなんだってなげうつことができるだろう。けれど、それは私が生きている間にはとても叶いそうにない願いだ。そう、生きている間は。あの邪悪なイメージから逃れる為に私が唯一とれる方法はただの一つ。私自身の生命活動を停止させ、永遠の眠りにつくしか他、ないのだ。
家族を、私の愛おしい家族をこんな事に巻き込んでしまったのは心苦しいと思う。家族はまだアレの存在を認識していないのだ。けれど、私はあえてそれが幸せだったと思っておく。アレの存在を知ったが最後、今の私のように四六時中、アレが放った思念の残光に苛まされ、精神は蝕まれ、追随するよう体はやせ衰えていく。まるで精神を患った病人だ。いや、あながち間違いではない。アレは、アレは健全な精神の持ち主が認知して言い存在ではない。その片鱗を垣間視ただけの私でさえこうなのだ。直視すれば人妖いや神を問わず精神を犯され、心は狂気に染まり、その場で己の眼窩を貫き絶命する事になるだろう。アレは常理の裏側に住まう我々妖怪でも知ってはいけない本当の常識外れに属するものだ。あんなモノを認識するぐらいならば未来永劫、蒙昧無知でいた方がよほど懸命というものだ。けれど、私は知ってしまった。知ってしまったのだ。ならば無視はできない。あの存在は例え目を瞑り耳を塞ぎ心の眼を潰しても既に私の脳髄に刻まれてしまっているのだ。もはや私にはどうすることもできない。死による永遠の忘却しか路は残されていないのだ。
それを、私の、私の愛おしい家族に強いてしまうことを私は今なお悔やんでいる。そう、私より先に私の家族、愛する妹と愛するペットたちには先に旅立ってもらった。
今朝方、私が用意した食事の中に眠るように静かに死の床へつく薬を混ぜて、それを皆に振る舞ったのだ。朝食の最中、うとうととし始めた三人はそのままかかりつけの医者に聞いていた通り、眠るように安らかに逝ってしまった。その後、私は三人の亡骸を妹の部屋に運び、川の字に並ぶよう寝かせてあげた。ただのベッドではなく、花を敷き詰めたきちんとした棺の中で眠らせてやりたかったが仕方がない。アレが…アレがいる土中などに家族を埋めることなど私にはとてもできそうになかったからだ。
ああ、久方ぶりに厨房に立ちあの邪気にやられこの所床に伏せていた私が正常な状態へ治りつつあるのだと勘違いした家族のあの暖かな視線を思い出すといたたまれなくなる。あの子たちはきっと天国に行けるだろうが私は地獄に堕ちるほかないだろう。許してくれとは言わない。言える権利などどれだけの大金を積もうとも、どれだけの償いを積み重ねようとも決して得られぬものだろう。後悔の念が不渇の泉のようにわき出てくる。だが、それでも私はあれで良かったのだと思うしかない。
少なくとも私の愛する家族はアレを…地の底であるこの場所の、更に底に封じられたアレの存在を認知する前に安らかに逝けたのだから。
私は私の独断と偽善で、家族の命を奪い、そうして次は自分自身の命を奪おうと思っているのだ。
アレから、逃れる為に。
申し遅れたがここで私自身の事を簡単に説明しておこう。
私はここ旧地獄を管理し、旧地獄街道の最奥にある地霊殿で隠遁生活を贈っている覚り妖怪―――古明地さとり、だ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ここから先はアレについて私が知り得たことを書いていこうと思う。
といっても、アレに関する知識などというものは私は持ち合わせていない。その姿形さえ未知なのだ。けれど、その醜悪さ、既知外さ、世の全てを冒涜し嘲り笑い、全ての混沌と破滅を待ち望む邪悪さについては分かっている。
覚り妖怪である私は他者の心を読むことができる。いや、できたというべきか。過去形である理由はおいおい分かるであろう。それよりも今はアレについてだ。
正直なところ、こうして脳の片鱗に思い出しながらタイプライターのキーを叩くだけでも私は相当の精神力を要している。肉体の活力と精神の麻痺をもたらす琥珀色の火の酒がなければ私はアレについて一字だって書き記せなかっただろう。アルコールの火の力が僅かにでもあの邪悪に対抗できる力になっていることを僥倖と思う。
閑話休題。話が逸れた。
私がアレを見つけたのは旧地獄街道を西に向かった先。この地底大空洞の端。俗に壁と呼ばれている場所でだ。その場所は古くは炭坑として栄えていた場所で、大灼熱地獄の炉を暖めるための石炭を採掘するため罪人の魂を使い壁に幾つもの坑を掘り進めていた場所だった。だが、灼熱地獄の炉が草水(くそうず、石油の意)式、電気式、核融合式と発展して行くにつれ古いエネルギーとして石炭は使われなくなり、それに伴い炭坑も段々と寂れていき結果封鎖され誰も寄りつかなくなってしまった場所だ。
そんな場所へ私が訪れた理由は簡単だ。近年、数百年ぶりに交流が復活した地上世界からの来訪者たちに対し廃坑を新たな観光資源として提供できないかと私が考えたからだ。地下では珍しくもないただの薄暗い穴蔵だが、地上の民はそれを有り難がる、と物の本で読んだことを思い出したのだ。もっともその時も、そうしてこうなってしまった今でもそれは眉唾だと思っている。るるぶ、と称されたあの冊子と出会ってしまったことをあらゆる意味で呪いたい。
兎に角私は自分のペットでもっとも腕っ節の強い地獄鴉の霊烏路空を伴い、数百年間使われてこなかった坑道が果たして今でも使えるのかどうかを調べるために彼の場所に赴いたのだ。
坑道周辺は寂れ、地上と違い経年劣化に乏しい地下世界に老いてでさえ長い時の流れに流されついた流木のように朽ち果てていた。炭坑の監督所か。辛うじてその形を残していた小屋はまるで死神の指先のように色あせくすんだ灰色をし、忘れ去られた掘削機械はさび付きまるで太古の恐竜の屍のようにその身を土に還しながら無造作に横たわっていた。まるで時の流れに取り残された忘却の湖の湖底の様な場所だった。
私たちは炭坑の一つを無造作に選び、その中を調べてみることにした。選んだ理由はどうと言うこともない。他の炭坑の入り口の多くが鉄門で固く閉ざされていたのに対し、その炭坑だけは人一人が辛うじて通れる程度、まるで白痴の女のように呆然と口を開けていたからだ。
炭坑の中は当然のように暗く、一寸先も見渡せない真の闇が広がっていた。地底世界の光源であるヒカリゴケは基本的に人の吐き出す二酸化炭素を栄養源に育つため、このような人の住んでいない場所では繁殖しずらく、採掘場周辺は夕闇のように薄暗かった。それを差し引いてもあの炭坑にはヒカリゴケの一株も生えていなかったのは不思議ではあったが、その時の私たちはそんなことも気にせずランタンを片手に注意しながら坑道の奥底へと足を進めていった。
炭坑の中は酷く肌寒く、まるで春先に冬が戻ってきたような寒さをしていた。加えて湿度は高く、まるで空気が粘りけを持っているようだった。山間の誰にも知られることなく山鳥さえ近寄らぬ木々の合間にできた藻の浮いた汚らわしい汚泥じみた沼に入水自殺を図ろうとしている気分。そんなものを味わったのを思い出す。
坑道に入ってからどれぐらい経っただろうか。暗黒の世界では時間の流れが把握しにくい。坑道はひたすらまっすぐに伸びているだけだったので迷う心配はなかったが、余りに深く、そうして長い間、闇に身を浸していたため一抹の不安を覚え始めた頃…ああ、そうだ、その時、私は確かに奴の怨嗟の声をその時初めて聞いたのだった。
その場所は大広間の様な空間になっている場所だった。恐らくターニングポイントとなるべき場所だったのだろう。そこから先、坑道は幾つも枝分かれし、忘れ去られたようにトロッコが一台、横転したまま誰にも起こされることなく半ば土砂に埋もれるよう倒れていたのを憶えている。
その場所、その場所に足を踏み入れ、これ以上先に進むのは危険そうね、なんてことを話している最中に私はその声を、覚りの目、サードアイで確かに感じ取ったのだ。
坑道に入ってから私の第三の目が捕らえていたのはずっと、隣を歩くおくうの声だけだった。暗いなぁ、とか、お腹空いたなぁ、とかそういったとりとめのない雑念。そして総じてそれはおくうの自身の口からも発せられていた。鳥獣の妖怪の多くの例に漏れずおくうもまた裏表のない、思ったことをすぐに口に出す妖怪だ。坑道を進んでいる間も私が覚り妖怪で声に出さずとも考えている事は分かるというのに逐一、つまずいただのしたたりあそこに落ちてるガラクタは何なのだの一々言葉に出していた。坑道の固い壁面にその声が反響し谺となって返ってきていた。
ある種の耳五月蠅さと慣れを憶え始めていた頃、唐突に感じた第三者の思念に私は驚きいなないた。それは落雷の轟きに微睡みからたたき起こされたような衝撃で、私は思わず絹を裂くような悲鳴を上げてしまった。
恐らくそれがアレの覚醒を完全な物にしてしまったのだろう。
続いて流れ込んできた濁流…それも砒素か硫化水素か、猛毒を湛えたダムが決壊したように流れ込んでくる怨嗟と絶意の思念に今度こそ私は打ちのめされた。
その場に尻餅をついて倒れ、目を見開き、喉に爪を立て、骨格が軋む程体を縮こませながら絶叫したのだ。精神の狂乱は自律神経にも作用し、それを狂わせてしまったのか私はその場で失禁してしまった。その間にも私のサードアイには邪悪なあの思念が土石流のように流れ込んでくる。ものの一秒で私の心の容積を満たし、頭痛を伴って私を発狂させようとしてくる。
恐らく、あの場におくうがいなければそうなっていただろう。
私の異変を察したおくうはすぐさま私に駆け寄り、どうしたの、と問いかけてきた。けれど、私は応える余裕がなかった。辛うじて親愛なる我がペットの声を聞いて僅かなりに平常心を取り戻せただけだった。いや、取り戻したのは平常心と言うより僅かな理性、その残滓か欠片、砂粒のような一刹那だけ浮かび上がってきた冷徹な理性だ。
私は躊躇いなく手の中のカンテラの柄を強く握るとそれを私自身の第三の目、サードアイめがけて振り下ろした。うるさい音に耳を塞ぐのと、眩しい光に目蓋を閉じるのと同じ事だ。私の精神を犯し穢し汚し殺し潰し絞り削り轢き焼き嬲り曝し斬り抉り溶かし焦し犯すあの思念から第三の目を潰すことによって逃れようとしたのだ。
一打目で丸い覚り特有の器官が拉げる。ランタンも同様に。二打目で目蓋が切れたのか、血が飛び散ったが外法を身につけし千の魔道の使い手が唱える呪詛じみた思念は尚も私の心になだれ込み続けた。三打目で先にカンテラが壊れた。中の液体燃料が零れサードアイに降りかかり引火し傷口を焼く。その痛みさえもそよ風が頬を撫でるが如く、まだ常理の内側の感覚だった。次の一打を放とうとしたところでおくうに止められた。カンテラを持つ手を羽交い締めにされ、その表紙にカンテラは遠くへ飛んで行ってしまった。私は離せと泣き喚きながら自由になった手を伸ばし、サードアイを鷲掴みにした。目蓋の間に指を差し入れ、手鞠小の大きさのサードアイの眼球をえぐり出そうとする。ミチミチと目蓋が裂け血混じりの涙が流れる。発狂しそうな痛み。だが、遅い。その時私は確かに狂っていたのだから。火に火をつけても燃えあがらないように、狂気こそが私の精神だったのだ。私は高笑いしながら目蓋に指を突きれたままサードアイを地面に何度も何度も叩きつけた。おくうの止めるように言う悲鳴のような懇願も耳には遠い。私はサードアイの瞳孔部分に中指を突き立てると自分の指を杭に力一杯、地面に叩きつけた。ずぶり、と沈み込む中指。暖かくどろりとした感触が指先に伝わる。これが水晶体か。眼球に突き刺さった指を引き抜くと穴から血混じりの粘液があふれ出してきた。その時になってやっと邪悪な思念は私の心には届かなくなっていた。
痛みと発狂しそうな思念から逃れられたお陰か、私はしばらくの間呆然とその場にへたり込んでいた。泣きじゃくり私に抱きついてくるおくうに構うこともできずされるがままだった。
放心したように私は残った両の眼を闇に向けていた。
あの思念は一体何だったのだろうか。覚り妖怪として長い時を生き、他人の表裏ある精神の醜悪さを見せつけられるのに嫌気がさし、こうして地底まで逃げてきた自分であったがああもドス黒く邪さだけで形取られた思念はついぞ、感じ取ったことがない。如何な邪悪な存在がここにいるのかと段々と落ち着きを取り戻してきた私の心は次いで恐怖を思い起こすようになってきた。
一体、どのような存在ならばあんな思念を発することができるのだろう。あれはまともな存在の思念ではあり得ない。この宇宙全てにあるものを恨み妬み嫉み、そうしてその混沌の果ての破滅を望むではなく盲目的に確信している究極的な邪悪、この世全ての悪を煮詰めて濾しだしたその混沌の極み故に純粋な悪とでも言うべき思念は。
私は放心状態に徐々に満ち始める恐怖心のまっただ中に一粒の好奇心のようなものを芽生えさせていた。
ああ、そうだ。ここだ、ここが本当に最後のラインだった。ここで泣きじゃくるおくうに連れられ帰路についていればまだこんな事にはならずに済んだのだ。あの坑道を封鎖し、未来永劫、誰も踏み入れないようにしておけば。
だが、私は見つけてしまったのだ。私の手を離れ広間の丁度中心辺りに落ちて、残りの燃料を燃やし、小さな炎を上げている壊れたランタン。その傍にある妙な物を。
その後の私の行動は全て無意識にといっても過言ではない。
私は無言のまま立ち上がると、不思議そうに私の顔を眺めるおくうを置いて燃えるランタンの残骸の傍まで歩いて行った。揺らめく炎に私自身や朽ちたトロッコ、地面に落ちた石ころなどが影を伸ばしている。それと同じく、ソレはそこに小さな影を作っていた。それは半畳程の大きさの鉄板と思わしきものだった。そこだけ地面の質感が違っていたため気がついたのだ。どうしてこんな物が敷いてあるのだろう。穴ボコでも開いてそれを塞ぐために敷いているのか。いいや違う。私はその鉄板に手を伸ばそうとして、そこで確かに再び耳にしたのだ。
あの怨嗟の、
この世全てを呪う絶意を。
鉄板の、
封の、
その、
向こう側から!
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
その後のことは憶えていない。気がつけば私は地上にある永遠亭診療所で寝かされていた。
自ら潰したサードアイ以外、体に異常はなかったそうだが私はうなされながら三日三晩、目を覚まさなかったそうだ。原因は不明とカルテに書かれたが私自身には分かる。あれだけの邪気に当てられたのだ。精神が狂い、体内器官も重大な変調を起こすのも無理はない。或いはあの邪悪な思念をそのまま呪いとして受け取ってしまったのか。そのどちらか、或いは両方だ。
後から聞いた話によると私はあの鉄板に触れようとした後、この世の物とは思えぬ悲鳴を上げて一目散に逃げ出したそうだ。いくら一本道とはいえ完全な闇の中をカンテラも持たずに走る事は不可能だったのか、おくうの話だと途中で白目を剥いて倒れていたそうだ。果たしてそれが躓いて頭でもぶつけたせいなのか、はたまた発狂した精神に脳髄が耐えきれず神経を焼き切って気絶しててしまったのか、定かではない。
兎に角私は一命を取り留めた。取り留めてしまった。
私はその後も、数ヶ月にわたって入院し続けることとなった。目覚めたものの精神の安定を著しく欠き、夜な夜な奇声を上げて暴れ出すことしばしば。とてもまともな日常生活は送れなかったからだ。囚人服のような両手足を拘束する服を着せられ、固い物が一切ない、壁さえもソファーのように柔らかなウレタン地に包まれた部屋に移され、しばらくの間、どろどろとした離乳食のような食事を与えられ精神病患者さながらの扱いを受けていた。まともな病室に返されるまでには半年近い時間を要した。今、自分の屋敷に戻ってきているのもリハビリの一環に近い。完全な退院許可は下りていないのだ。
長い入院期間だったが私はあの時の出来事を誰にも語って聞かせてはいない。前述の通り、私自身が恐怖の余りあの出来事を無理に思い出そうとしなかったからだ。日が落ち部屋の中が暗くなったり、あの半畳程の広さの鉄板を思い起こさせるような物を見ただけで私はあの時の出来事を思い出し発作を起こしたように叫び声を上げ暴れることになるのだ。なればこそ、誰かに語って聞かせることなど無理な相談だ。
いや…そもそも、私は誰かがアレをどうにか、言うなれば殺すことなど不可能であると思っている。アレはこの世の断りの外側に座す存在だ。宇宙と宇宙の狭間。虚無と虚無とが隣接するアインシュタインの考えもユークリッド幾何学もアリストテレスの教えも及ばない既知の暗黒宇宙に属する存在だ。如何な存在がそんなものの相手をできるだろうか。宇宙の外側に生れたものの相手を宇宙の内側で育ったものができる道理はない。その道理さえも当てにできぬ相手なのだ。そのような存在がどのようにしてあんな場所に封じられているのかは分からない。或いは最早、千年の時を生きた妖怪でさえ見聞きしたことのない古の神々がその身を呈してあそこに封じたのかも知れない。地球上に現存するあらゆる神話からも、千年王国の興亡を共に過ごしてきた大老の知識からさえも消え失せてしまった語られぬ偉業。地の底の更に奥底にアレを封じた者どもの行いに万年ぶりに謝辞を。
だが、私はそれだけ危険な存在が封じられているからといって安心できる程の胆力は持ち合わせていない。いや、それ以前に私は聞いてしまったのだ。自ら潰した読心の力で。あの将門公ですら大らかであると思える程の超絶な呪詛じみた怨嗟の声を。あれを聞いてしまったが最後、私の心に平穏の二文字は永劫に消え失せてしまった。絶えず地雷が埋まっているフロアで踊りを続けているような、そんな絶望的な気分にかられるのだ。
あの封印が一体、どれほどの時を経てきたのか想像すら及ばない。だが、これからもこの後も未来永劫、あの封印が破られることはないという保障はないのだ。もしそうなった場合、世界は、この宇宙はどうなってしまうのだろうか。それは思考の片隅に思い起こすだけでも恐ろしい。
私はそんな恐怖には耐えられないのだ。
耐えられないからこそ、せめてこの世界からは逃げだそうと、私は己の死を望んだのだ。そうして、家族には知らぬ間の安息を与えようと。
薬に関しては私は八意医師に謝っておかなくてはならない。
この薬は私が自信の自殺をほのめかした時、長時間にわたる医師の説得のすえ、ある種の反面教師の見本としていただいた物だ。口のついていない完全密封の瓶に詰め込まれた毒薬。手元にあえて安易な自殺の手段を置いておくことで、逆にいつでも死ねるのだから、今すぐに死ぬ必要はないと思わせる為の本物のイミテーション。煙草などを止めるためにあえて封を切っていない煙草の箱を持ち歩くという考えを発展させたものだ。
八意医師は自殺を図ろうとする私を何とか押しとどめるためにこの薬を処方してくれたのだが結局、私は毒薬を本来の使い方で使ってしまった。
机の上、キーを叩く間に吞んでいる内にすっかり空っぽになってしまったウイスキーの瓶の隣、半分に割れた瓶の中に白い錠剤が詰め込まれている。これがその毒薬だ。朝、家族の食事にこっそりと混ぜ、そしてこの後、私が服用する死の錠剤。けれど、今や私の目にはこれがヒロイックピルにも見える。
これだけが今や私の救いだ。これがもたらしてくれる厳かなる死だけが甘美なる美酒となって私の精神を許し、救い、助けてくれるのだ。
そうだ、これだけが…
駄目だ。アルコールが切れてきた。脳のしびれが収まってきた。最早、グラスにも瓶の中にもアルコールは一滴も残されていない。肌が泡立ち、神経が尖り、猛烈な頭痛と目眩、耳鳴りが起こる。
またあの声が聞こえてきた。キチリキチリと盲目の老魔術師が回す羅針盤の軋みのようなあの忌々しい音が。私の心を蝕み犯し穢す、あの憎悪と憤怒の果て、絶意の哄笑が。地の底、更に最低、分厚い今はもう製法さえ失われてしまった未知なる魔法金属の蓋を内側から激しく叩き、外の世界全て、風に舞う蝶も陽光に枝葉を伸ばす木々も小川のせせらぎに泳ぐ魚も村々に営む人間も、妖怪も、全て、全て、全てを呪い殺さんとすあの暗黒の意志が。ああッ!! ああッ!!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――文章はここで終わっている
「しかし、嫌な事件ですね映姫様」
宇宙の闇のように暗い坑道の中をランタンの明かりを頼りに四季映姫・ヤマザナドゥと死神、小野塚小町は歩いていた。後ろには得物を携えた獄卒が数人、ついてきている。
「一応、妹さんとペット二人は無事だったんですよね」
「ええ。肉体的には。八意永琳の話では古明地さとりに渡した薬は過剰摂取しても死に至らない特別製の睡眠薬だったそうです。転ばぬ先の杖に更にもう一つ、転倒防止装置をつけていた、というところですか。まぁ、それでも…」
そこで映姫は一旦言葉を区切り、足を止め、眉をしかめる。一歩だけ進んでしまった小町も足を止め、四季様と疑問符を投げかける。
「投薬ではなく投身自殺を計ったのはあの天才にしても読めなかった結果でしょうが」
深々とため息。結局、死んださとりの魂は幻想郷の閻魔である映姫の元には現れなかった。発狂死した者の魂は生前の精神と同じく、狂気にうなされ良くて地縛霊か、悪ければ邪気としてそのまま大気に霧散してしまうのだ。さとりの場合はどうやら後者だったらしい。
つられたように小町もため息をついたのを見て映姫は再び歩き始めた。
「でも、本当にこの先に家族ごと心中してしまう方がマシだと思えるような危ない奴が封じられているんでしょうかねぇ。あの遺書にはそう書かれてましたけど」
「それを確かめる為にこうしてわざわざ旧地獄までやって来たんでしょうが。幻想郷で亡くなったのに私の元へ訪れない魂についてはきちんと調べなくてはいけないという定めがありますし。もっとも…」
そうこうしている間に映姫たちはあの広間にへと辿り着いた。
二人を守るよう、後ろからついてきていた獄卒たちが前に出て広間を調べ始めるが映姫は歩みを止めなかった。何の躊躇いもなく話にあった広間の中央まで歩いて行く。
果たしてそこには確かに壊れたランタンの残骸と古錆びた鉄板が敷かれていた。
ごくり、と恐怖と緊張故か小町の喉が鳴る。
「ここですね…」
「そうね。いいでしょう。貴方たち、ちょっとこれを動かしてみてください」
僅かに脅えた調子を見せている小町を前に映姫は躊躇いなくそう獄卒たちに命じた。えっ、と声を上げる小町。獄卒たちも同じ考えなのか普段ならば機敏な動作も今は陰りを見せている。
「四季様、流石にいきなりってのは…心の準備、じゃなかった、戦闘準備をしてからでないと」
「大丈夫ですよ小町。ほら、見てみなさい」
そう言ってランタンを翳し動かしてみせる映姫。うっすらと埃が積もった地面の凹凸がそれでくっきりと浮かび上がる。
「これは…足跡? さとりさんやおくうさんの物…にしては小さいですね。子供のような。少し古いっぽいですし」
「ええ、その推測は間違っていないでしょう。ほら」
映姫はランタンを駆け寄ってきていた獄卒の一人に手渡すと、代わりに懐から一枚の鏡を取り出した。閻魔の裁判道具の一つ、浄玻璃の鏡だ。本来は亡者の生前の人生やその影響が他者にどう反映されたのかを映し出す鏡ではあるが、使いようによっては縁を辿り過去の風景の一部を映し出すことも可能である。
小町が覗きこむと浄玻璃の鏡には今現在、彼女らがいる広間が映し出されていた。ただし、現在の光景ではない。鏡の中に映っているのは如何にも悪戯好きそうな数人の子供たちだった。子供たちはランタンや提灯を片手に暗闇の中ではしゃぎ回っており、そうして…
「あっ、鉄板を!」
開けて中に何かを落とし込んで閉じ込めて遊んでいた。
そのシーンが見れたことに満足したのか映姫は手鏡を懐へしまった。
「十年程前の映像です。何百年と誰も足を踏み入れていないと謳われていましたが、その実、悪童たちの格好の遊び場だったようですね」
「じゃあ、この中に封じられているのは…子供でも捕まえられるような…」
みなまで言う必要はないと映姫はこくりとうなづく。獄卒たちに目配せをし、鉄板をずらして開けるよう命ずる。
牛頭と馬頭、二人の獄卒はしゃがみ込むと鉄板の縁に指をかけた。鉄板はかなりの重量がありそうだったが、筋肉隆々のこの二人にとっては半紙のように軽いものだろう。ずず、と僅かに鉄板はスライドすると土埃を溢しながら軽く持ち上がってしまった。
「第一、ここには私が察する限り魔道的神道的、あらゆる意味で物理以外の法の力は働いていませんよ。それにそんな大それた邪悪が出てくるのなら八雲紫や博麗霊夢が黙っていません。けれど、彼女らが動いていないところを見るとこれは恐らく異変でも何でもないという解に辿り着きます。つまるところ、この中に閉じ込められているのは…」
獄卒たちが開けた鉄板の下は案の定、岩でも退かしたのだろうか、大きな隙間があった。そこから数十年ぶりに外の大気を吸うために現れたのははたして―――
「こんなのが…?」
小さな黒一色の体表を持つ芋虫のような妖怪だった。
逃げ出そうとするそれを小町はつまみ上げる。捕まえられた蟲は身を捩って逃れようとするがくすぐったさこそ与えど、僅かに力を込めただけの小町の指を解くことはできなかった。
「おそらくはもっと大きな個体だったのでしょう。悪童に虐められ閉じ込められている間に力を使い切りそのような小ささに。けれど、閉じ込められた恨みと恐怖は反比例するように肥大化。何時しかこれは狂い、自分はこの宇宙の外側で生れた大邪神の眷属――とでも思うようになってしまったのでしょう。その妄想があまりに真に迫っていたため、その思念を呼んでしまった古明地さとりは哀れにも―――」
後は言うこともない、と映姫はそこで言葉を句切る。そんな、とあまりにあっけなくあまりに悪趣味な事の顛末に小町は言葉を失い震えた。
その手から蟲は逃れ地面へ落ちる。
あっ、と小町が声を上げるより先に、
「一寸の虫に五分の魂、とは言いますがこの小さな形に黄河如き大それた敵意を持つことはそれ自体が悪です。古明地さとりを計らずとは言え狂わせ自殺させた罪を加え、もう七生畜生道で生きることを命じます」
映姫は逃げようとした蟲を踏みつぶした。こうして旧地獄は打棄てられた坑道に封じられていた究極の邪悪は潰えたこととなる。
END
作品情報
作品集:
22
投稿日時:
2010/11/30 16:41:15
更新日時:
2010/12/01 01:41:15
分類
さとり
遺書
一家心中
なんちゃってクトゥルー神話風
さとりの場合は心を読む程度の能力だが
二次創作で他者の心を弄ぶさとりが一匹の虫けらの怨嗟で破滅するとは、
彼女もまた、メンタルが弱い妖怪ということか…。
沖縄ですか…。用事で一度行ったことがありますが、今度は遊び目的で訪れたいですね。
行きと帰りの二度、空港で私だけがボディチェックを受けたのも、良い思い出です。
本当にお見事
しかしそりゃあ10年も閉じ込められればたいそれた敵意も抱くさ
映姫様容赦ねえなあ
さとりんとんだピエロや…
いい意味で肩透かしを喰らいました
このままでも素敵だけど、出来れば読んでしまったにしてほしいところ
あとは完璧
いや〜よかったです