12/31 あとがきから元ネタ紹介を削除、分類を修正
OLIVE(魔理沙編) → 作品集17
OLIVE 2フレーズ目(白蓮編) → 作品集18
OLIVE 3フレーズ目(早苗編) → 作品集21
OLIVE 4フレーズ目 前編 → 作品集22
午後の部が始まって数局を消化し、トーナメントは準々決勝を迎えた。
ここから対局は『十分切れ負け』から『三十分切れ負け』と、対局時間が延びる。
Aブロック最後の試合。
会場の真ん中の席で待つ森近霖之助の前に現れたのは、一人の人間だった。
「おや?次の相手は霖之助さんですか」
霖之助にはその声に聞き覚えがあった。いや、聞き覚えがあるなんて程度のものではなかった。
たとえ忘れようと思っても、一生忘れることは無いだろう。
「稗田あぁ!!!」
霖之助は立ち上がり、その人間の、阿求の名を叫んだ。そして掴みかかろうとして、スタッフ数名に取り押さえられる。
阿求は片手で面を掴み、ゆっくりとはずし、そして捨てる。その下の素顔には笑みを浮かべていた。
「貴様!何故ここに居る!!」
「何故?変なことを聞きますね。将棋の大会なのですから、将棋を指しに来ているに決まってるじゃないですか」
「そんなことを聞いてるんじゃない!一体何の目的があって参加してるのかを聞いてるんだ!」
「…さあね。それを貴方に言う必要はありません」
阿求の態度に霖之助が再び激昂しそうになった瞬間、
「そこまでです。いがみ合いなら後にしてもらえませんか。
ここは対局の場。語り合うなら将棋でどうぞ」
さとりが制止をかける。霖之助は血が滲むほど強く唇を噛んだ。
両者が口を閉じたのを確認したさとりは、続けて話し出す。
「この対局、私はここで観戦させてもらいます。また問題が起こらないとも限りませんしね」
さとりはそう言って近くの席に腰を下ろした。
この行動と言葉から、さとりは嘘を言っているのだと、霖之助は見抜いた。
(こいつが、阿求が、僕と対戦させたかった相手だな。対局時間が延びるこの準々決勝で当たるように組み合わせてきたか。
そしてさとりが現れるタイミングがあまりに良すぎる。騒動に関係なく、最初からそこで観戦するつもりで向かってきていたに違いない)
霖之助がそう考えた次の瞬間、さとりがニヤリとした笑顔を霖之助に向けてきた。どうやら霖之助の考察は正解らしい。
「ささ、時間ですよ。二人とも席に着いてください。そして最高の一局をお願いしますよ」
さとりがそう言った時、会場に対局開始の合図がアナウンスされた。
霖之助が駒を振る。表が四枚。霖之助の先手だ。
霖之助は▲7六歩▲7五歩▲7八飛と指す。石田流三間飛車の指し手だ。
一方の阿求は△3四歩△8四歩△8五歩と指す。
図16
(初戦に続いて、またしても来いよ、か。そんなに弱そうな戦法に見えるのか?
…もしかしたら阿求はこの戦法を知っているんじゃないか?その上での挑発か?
となると、バッチリ対策を考えてあるんだろう。このまま飛び込んだら、逆に返り討ちかもな。
………いや、例えそうだとしても行くんだ。どの道僕に他の武器は無い。行け!!)
霖之助は▲7四歩と仕掛ける。
阿求は歩をとった後、△8八角と、角交換を行った。そして、
図17
△6五角打ち。霖之助の初戦と同じ流れである。初戦では▲5六角打ちと指し、△5六角、▲5七歩と、馬を作る隙を与えてしまった。
だが霖之助はこの対局でも▲5六角打ちと指す。
(馬を作りたいのなら作ればいい。その局面は一度見た!それほど悪くはならない!!)
「………」
阿求は暫らく考えた後、△7四角と指し、飛車を取った。
(……馬を作りたいわけじゃないのか)
手数は進み、20手目。
図18
(そうか。そうなのか。徹底的にこっちの土俵でやり合おうというのか。そして、それでも勝てる、と。
まったく、どいつもこいつも………僕を嘗め過ぎだ!!!)
だが逸る霖之助の気持ちとは裏腹に、すぐには攻めることはできない。
仕方なく一旦攻めるのを止め、自陣の整備に入った。次の攻めのために力を溜めていく。
阿求もジリジリと攻めの陣形を築いていく。そして阿求が先に仕掛ける。
図19
霖之助の角が狙われた。何かしらの行動を起こさなくてはならない。
少し考えた後、▲4五歩と指す。開戦である。互い、一歩も引かずに攻めあう。
(くっ!強い!だが戦局は僅かにこっちがいい!!)
霖之助が自身の優勢を確信した瞬間、阿求はふっ、と笑い、飛車を掴むと駒音を高く響かせた。
図20
その動かした先は、霖之助の金の目の前。
(ご、強引すぎだろ!!それは!!)
阿求の読めない手筋に、一瞬霖之助はたじろいた。そして攻めあうべきか、受けにまわるべきか、迷う。
そうしている間にも時間だけが過ぎていく。切れ負けルールなので時間を掛け過ぎると後々不利になる。早く決断しなければならない。
そして霖之助の心は決まったのか、駒を掴む。▲2六金、△2六同飛、▲2七歩と局面は進んだ。
(攻め合いは危険だ。一旦守る。もう一度攻めるのは体勢を整えてからだ)
霖之助が攻めの手を休めている間、阿求は自陣に駒を投入し守りを補強しだした。
再び攻めを開始しようとしたときには、阿求の玉は深く潜ってしまっていた。
その厚い守りの壁に阻まれ、霖之助の攻めは続かない。それどころか、逆に阿求が攻めてきた。
図21
▲4五桂とかわすも、阿求の攻めは畳み掛けるように続く。
霖之助も負けじと攻め返すが、阿求の玉は壁役の駒が多く、ひょい、と軽くかわされしまう。
戦局はいつの間にかひっくり返り、阿求が優勢になっていた。
図22
(ま、まずい!このままでは-----)
霖之助が劣勢を意識したとき、△8六馬と指されて、龍を取られた。仕方なく▲8六同歩と指し、馬を取って交換の形にする。
だが、これがいけなかった。
阿求は間髪入れずに、6七の地点へ金を打ち込んだ。
「ん?あ、ああああああ!!!」
一瞬遅れて霖之助は、自分の玉が詰んでいることに気が付いた。
(…僕の、負け、か……)
霖之助はまだ投了を宣言せず、最後まで指す。
▲6七同角、△6七同桂成、▲6七同玉、△7五桂打ち、▲7七玉、△7八飛打ち、▲7八同玉、△8七角。
もうどのように玉が逃げても、金を打たれて終わりである。
「……指し間違いは、しないか……僕の…負けだ……」
ここでようやく霖之助は投了した。
さとりは立ち上がり、拍手を送る。
「素晴らしい!実に素晴らしい一局でした!皆さん!この素晴らしい二人に盛大な拍手を!!」
さとりがそう言うと、周りで観戦していたギャラリーからパチパチと聞こえ出し、やがてそれは大喝采へと変わる。
阿求は立ち上がり両手をあげてそれに応える。
一方の霖之助は、俯いたまま動かない。周りの音など、まったく耳に入っていなかった。
*
準決勝第二試合。
Cブロックからは犬走椛が、Dブロックからは多々良小傘が勝ち上がり、ここでぶつかった。
二人とも早々に試合が終わっていたため、A,Bブロックの結果を待たず、先に行われることとなった。
「………」
「………」
二人は顔を合わせたまま、一言も発しなかった。
もちろん初対面というわけではない。宴会等で顔と名前は知った。道端ですれ違えば挨拶ぐらいはする。
逆に言えば、それだけの関係性だった。特に親しく話したことは無かった。
だが二人が無言なのは、それが理由ではない。
不意に近くに座っていたギャラリーの一人が、ガタッ!という音を立てて後ろに転んだ。
他のギャラリー達も、見えない何かに押されるように一歩、二歩と下がる。
そして椛と小傘を中心に、円形の開けたスペースが出来上がった。
ギャラリーには、二人の間の空気が、ぐにゃりと歪んでいるように見えた。
二人は、相手の発する気迫に負けないよう、睨み合っていたのだ。
(私は絶対に負けない!!私が早苗を守る!絶対!絶対だ!!)
小傘の頭の中では、昼休憩のときに聞いた阿求の言葉が、ずっと反響していた。
---私が始末をつけます
---私が始末
---始末
始末。つまり殺すということだ。そこはすぐに分かった。
しかし、その手段が分からない。阿求自ら殺しに来るのか、どこかの人妖に依頼するのか。
殺害方法が検討もつかなければ、対策も立てることは出来ない。
では、どうすればいいのか。今の小傘に一体何が出来るというのか。
その答えはすぐに出た。阿求が優勝しなければいい。もっと言えば、小傘が優勝すれば万事解決だ。
なんだ、変わらないじゃないか、と小傘は思った。どの道、優勝する以外に早苗を助ける方法は無いのだ。
ふと、にらみ合ったままの二人に近づいてくる者がいた。スタッフの一人、お燐だ。
別会場とは違うタイミングで対局が始まるため、お燐は直接二人の傍で開始の合図を告げに来たのだ。
「「お願いします!」」
絶対に負けられない者同士の対局が、始まった。
図23 (先後反転図)
小傘は初戦と同じ雁木。椛は矢倉であろうと思われる。
椛が先に仕掛けた。小傘はそれを捌き、自らも攻撃を仕掛ける。
そして始まる殴り合い。
(うっ!喰らった!!)
その最中、小傘は横っ腹に強烈な一撃をもらってしまう。
図24 (先後反転図)
▲6四桂による、飛車金取り。
飛車は攻撃の要であり、ここで取られるわけにはいかない。
だからといって逃げると金を取られて、下手をすると、そのまま右辺を制圧されてしまう可能性がでてくる。
横からの攻めに弱い陣形なので、右辺を制圧されてしまうと圧倒的に不利になってしまう。
究極の二択。
小傘は対局時計をちらっと見て残りを確認すると、長考に入った。
一分、二分と時間が経過してもまだ考える。
たっぷり十分程考えたところで小傘は手を動かした。
△7四飛。飛車を助け、かつ被害は最小限に。これが小傘の出した結論。考えうる最善の手。
(まだだ。金を取られても、ちょっとリードを許しただけだ。
一発喰らったからって何だ!この程度の危機は、今日何度も乗り越えてきた!!)
椛は遠慮なく▲5二桂成と金を取った。
そして再開される殴り合い。
小傘も果敢に攻め返すも、たちまち自陣の形を崩され、気が付けば玉の傍には銀が一枚のみ。
このまま指していては、小傘の負けは確定である。
(…これは、やばい!)
図25 (先後反転図)
心臓が、バクバクと大きな音を立て始めた。
まだ詰みではないものの、それも時間の問題であることは明確である。そうなる前に、この局面から相手の玉を詰まさなければならない。
小傘は再び長考に入る。時計を見ると、残り時間はあと二分を切ったところだった。
(あんまり長く考えてる時間は無い!早く読まなきゃ!)
何とかここから詰ませられないかと必死に読むが、焦りからか、いい手が浮かばない。
(…ダメだ。相手がミスでもしない限り勝てない。
かといってミスをするとは思えない何かでミスを起こさせれば驚か
せればミスするかもいやダメだこんなところで『うらめしや〜』なん
てやったら摘み出される将棋のルール内でなければああ時間が少な
くなってる急いで指さなきゃそういえばさっきの試合早く終わって周り
の皆驚いてたななに考えてる早く指さなくちゃ早く速くはやくハヤク---
---そうだ!!)
小傘は△6四飛と指して桂を取った。
椛は少し考えた後、盤上からその飛車を取り除いて駒台に置き、金を移動させる。
そして椛の手が対局時計に触れ、小傘の時間が動き出した瞬間、さっ、と7七にあった銀を取り除き、角成を叩きつけた。
ノータイムでの指し手に椛は若干戸惑ったが、自身を落ち着かせるように、ゆっくりとした動作で▲7七同金と指す。
すると、またしても椛が指した直後、小傘は△7七同歩成と指した。椛の表情が、今度こそ歪んだ。
時間いっぱいの長考から、ノータイムでの指し手。
おそらく椛は、小傘の読み筋に入ってしまったと思ったのだろう。必死に考えているのが分かる。
実際には、小傘は詰みまで読んでいるわけではない。相手の考えている時間で先を読み、『読みきった!』という素振りをしているだけであった。
(驚け驚け!!驚愕はペースを乱し、ミスが起こりやすくなる!このままノータイムで攻めて攻めて攻めまくってミスを誘発させる!!)
逃げる椛に追う小傘。ギャラリーは、これは小傘の勝ちだな、と思い始めた。
だが、次々と王手をかけるが、一向に捕まらない。
歩を打つ。斜め後ろへかわされた。
角を打つ。横にかわされた。
桂を打つ。飛車に取られた。
背後に銀を打つ。斜め前にかわされた。
いつの間にか小傘の頭の中は、焦燥で渦巻いていた。
(逃げられる!これだけガンガン攻めてるのに!なんで?!なんで!!あと一歩なんだ!勝ちまであと少しなのに!!)
ちらっ、と椛の表情を見る。そこからはもう、驚愕も焦りも感じ取れなかった。
椛は、数手前から、落ち着きを取り戻し始めていた。小傘の超高速指しはハッタリだと気付いたのだ。
小傘の取ったこの早指し戦術は、相手の時間が少ない時に行うと、例え必負形からでもひっくり返す可能性がある。
だが今回は違った。椛の持ち時間はまだたっぷりある。落ち着いて考える時間があるのだ。
椛は残り時間を有効に使い、じっくりと先を読み、確実に受ける。
やがて、小傘の手が止まってしまった。
図26 (先後反転図)
小傘には、これ以上続けても攻めを切られ、そして反撃されたら受ける手段が無いことが読み取れた。そして、
「……ま、け……ま、した…」
小さく絞り出すように、投了を告げた。
*
準決勝第一試合。
ぬえは、到着の遅れているAブロックの勝者を待つ間、小傘同様、阿求の言葉を考えていた。
---寺の尼公を騙したり---
これはもう、白蓮のことで間違いないだろう。つまり、以前寺へ阿求が尋ねてきたのは、白蓮を騙して何かさせようとしたのだ。
それは一体何か。阿求が白蓮に求めたもの。確か、魔理沙の安否の確認を依頼したのではなかったか。
要は、魔理沙に何か変わった事柄があったら教えて欲しいとかだったはず。
結局阿求に知らせたのは、アリスが人形を使って接触したかもという不確定な情報だけだったが。
あと、それ以外に何か要求はあったかな?…いや、無いな。それだけだったはずだ。やはり魔理沙の監視に関連する-----
-----監視?もしかして、魔理沙を監視したかったのかな?あれ?そもそも何で魔理沙を監視してたんだっけ?
何とかっていう結社が魔理沙の命を狙ってるとかだったような……。もしかして、それが嘘、か?
………ダメだ、これ以上は分からない。情報が少なすぎる。
本人に直接聞くしかないな。どこに居るんだろう?まあ、参加者みたいだから、そのうち会うだろ。向こうが負けてなければだけど。
もし、向こうが負けてたらどうしようか-----
ぬえの考察は、ギャラリーのどよめき声で中断された。どうやら対局相手が到着したらしい。
顔を上げると、さとりと共に歩み寄ってくる阿求が見えた。阿求の顔に、面は無かった。
「あれ?お面、外しちゃったの?イカしたお面だったのに。つーか、なんで着けてたのさ」
「……面を着けていたのを知ってるということは、あれが私だと判っていたのですか。どうして判ったんです?」
「声質と、アンタとさとりの会話の内容で、ああ、こいつは以前寺に来た人間だなと思ったのさ」
阿求はさとりを振り返り、問いただす。
「さとりさん。まさか貴女-----」
「いいえ、私は誰にも話してませんよ。…私は、ね。
あの時、私は聞きましたよね?『それを今ここで話してしまってよろしいのですか?』と」
「……知っていたのですね。盗聴されていたことを。…ふん。まあいいでしょう」
阿求はぬえへと視線を戻す。
「ぬえ、さんでしたね、確か。どうでしょう、私とひとつ賭けをしませんか?」
「賭け?」
「そう。もし私がこの対局に勝ったなら、ここでの私に関すること全部、絶対に口にしないで貰いたいのです」
「ふ〜〜ん、つまり、アンタが今ここに居ることと、あの会話の内容は、他人に聞かれると相当にヤバイってことだね。
まあ、そりゃあそうだろ〜ねぇ。『里の人間をぶっ殺したり、傷害事件を起こしまくったり』だもんねぇ〜〜」
阿求の顔が、一瞬引きつった。
「いいよ。受けるよ、その賭け。じゃあねぇ、私が勝ったら、ぜぇーーんぶ話してもらおっかな〜。
アンタがここに来て何をしたのか、これから何をしようとしてるのか、今まで何をやってきたのかを全部、洗いざらいだ!!」
途中からぬえの言葉は、おどけた口調から真面目ものへと変わっていった。
ぬえはずっと心に掛かっていた。
どんなに明るく振舞っても、食事している時も、将棋に集中しようとしている時も。いつもどこか心に引っ掛かっていた。
なんで私は、肝心なときに役に立てないのだろう、と。
里の人間が寺に大勢押し寄せてきた時には井戸の横で溺れていて、アリスが爆発したときは気絶して、
妖怪の山と結社の関係性を推理をすれば外し、魔理沙を救出する際も取り乱して自分の能力を使うことを思いつかず、
挙句の果てには白蓮が酷い状態なのに手を貸すこともできない。
そして恐らく、寺の住人達も(自覚しているかは分からないが)私を役立たずと認識しているだろう。寺を出るときの遣り取りでそれがよく分かった。
…なんだこれは。これがかつて伝説とまで呼ばれた妖怪の成れの果てか。大切な家族が困っているのに、何も出来ないのか。
いや、違う。出来る。必ず出来る。私が白蓮を助けるんだ。絶対に優勝して、さとりを連れ帰る!!
そして阿求。こいつは絶対事件の重要参考人だ。こいつも持ち帰って、白蓮達の前で真相を話させるんだ!
勝つ、勝つ!勝つ!!勝つ!!!絶対に、勝つんだ!!!!
ぬえは、歯を剥き出し、敵意をまるで隠さない表情に変わった。
その様子に、阿求は少し戸惑った。
「…いいでしょう。その条件で構いません。要は勝てばいいのですから」
「はっ!たいそうな自信だねぇ〜」
「…貴女は一体何なんですか?ただの道化かと思えば、急に賢くなったり、話し方も子供っぽいと思いきや、途端に年季を感じさせる。
定まってないというかなんと言うか……。全てに関して一貫してない、という表現が一番近いのでしょうか」
「ははっ。そりゃあそうだ。私に確固としたものなど、一つも無い。見る者によって私の姿は千差万別となる。
正体不明。
それが鵺、それが私。こんな僅かな時間で私を理解できると思うなよ、人間!
さあ始めようか。知識に頼り、想像することをやめた人間よ!正体不明の手筋に怯えて死ね!!」
その言葉が合図となり、対局が始まった。駒振りの結果、先手は阿求、後手はぬえとなった。
「「お願いします」」
初手、角道を開けた阿求に対し、ぬえは初戦と同じ△4四歩。
阿求を含めたギャラリー全員が、ん?と唸った。さとりだけは、ほう、と感心していた。
阿求は手を止めて、考え出した。
「ほらほら、どうしたのさ。まだ考えるような局面じゃないよ」
「…対局中は静かにしてもらえませんか」
三分が経過した。
「思い出しました。この戦法は確か、角で歩を取らせた後に飛車を四筋に持ってきてからの、乱戦狙いの戦法ですね」
「へえ、これを知ってるんだ」
「ええ、見たことあります。かなり昔の事ですけどね」
「それでどうするのさ。怖かったら逃げたっていいんだよ」
阿求は、ふん、と鼻を鳴らし、▲4四同角と指す。
「逃げる?何故逃げる必要があるんです?これの正体は既に割れている。恐れる必要など、まったく無い」
「そう。じゃあ、遠慮なく行くよ!」
図27 (先後反転図)
局面はぬえのペースで進んでいった。技が見事に決まり、早くもぬえの駒得が確定している。
「あれぇ〜。何か大口叩いた割には大したことないねぇ〜」
「…そんなこと言ってられるのも今の内ですよ。この局面は、すでに『知っている』のですから」
阿求は歩を掴むと、4四の地点に打ち込んだ。と金作りだ。
これを見たぬえの手が止まった。
と金作りを阻止しようと馬を引いて歩を取ると、結果、桂と香を守られてしまい、ぬえの駒得のチャンスが無くなってしまう。
では4二歩打ちで受けたらどうだろうか。
だが、そうは指さなかった。なんだか相手の言いなりになっている気がしたのだ。それはつまり、気合い負けしていることに他ならない。
この戦法は強く指すことが求められる。混沌、混戦が本筋。と金作りは受けるべきではない。
そう考えたぬえは△9九馬と指す。
「ふふ、やはりそう来ましたね」
この言葉にぬえは一瞬、どきっ、とした。もしかして読み筋だったのか、と。
だがすぐに思い直す。これはただのハッタリだ。いつもどおり指せ、と。
阿求は、そんなぬえの考えを見透かすように不敵に笑う。そして飛車を掴んだ。
図28 (先後反転図)
(しまった!!軽視しすぎたか!!)
阿求の狙いは、ぬえの左辺。これを放っておくと、金と銀が持っていかれてしまう。
ぬえは被害を抑えようと、受けにまわった。しかし-----
図29 (先後反転図)
結果として銀を取られた。
ぬえは4一の地点に飛車を打ち、交換の形で局面を収める。結局、折角のリードを少し奪い返されてしまった。
(…強い。この私がいいようにやられている。このままじゃあ、ちょっとマズイかも…)
ここに来てぬえは長考に入った。
「どうしました?考えるような局面じゃあありませんよ」
「うっさいなー。対局中は静かにするのがマナーだよ」
ぬえは盤から目を離さずに言葉を返した。
(このままのんびりやってたら絶対にマズイ!ジリジリと追い上げられて逆転されるかも……ならば!)
ぬえは顔をあげると、桂を5五の地点に打った。
(ならば!一気に踏み込む!!勝負だ!!)
阿求が桂を取りにくるが、構わず玉の目の前に歩を打ちこんだ。
図30 (先後反転図)
そこから、ぬえの怒涛の攻めが始まった。
持ち駒を出し惜しみせずどんどん使い、攻め立てる。
図31 (先後反転図)
だが、届かなかった。持ち駒を全部使い果たしても、締め上げようとする腕から、するりと抜けられてしまった。ぬえの攻めは、完全に切れた。
(……ダメだったか。くそっ!!チクショウ!!!!)
「いやあ、惜しかったですね。だけど、あと一歩が届きませんでした。さて、まだ投げないんですか?」
「……うるさいよ。黙って指せ」
「ふふっ。ではそうします、よ!」
次の手順、▲7二馬と、阿求が王手をかけてきた。受けても受けても、絶え間なく攻められ続ける。
途中、ぬえの視界が霞んだ。目をこする。そして、自分の目から涙が溢れていることに気付いた。
いつしか、ぬえから嗚咽が漏れだした。それでもぬえの手は止まらない。ぬえは泣きながら最後まで指し続けた。
そして、完全に詰んだところで、
「……ま゛……ぐずっ………ま゛…け゛……ま゛………しだ…」
と、小さく鼻声で投了を告げた。
図32 (先後反転図)
その投了図は、見ていたギャラリー全員がそこまでやるかと思うほど、徹底したものだった。
「さて、賭けは私の勝ちですね。約束どおり、私のことは他言無用でお願いしますよ」
阿求はそう言うと、席を立つ。ギャラリーは思わず後ずさりし、阿求に道を開ける。
その背中を見詰めるギャラリーには、阿求が、ただの人間であるはずの阿求が、何か途轍もなく恐ろしいものに見えた。
*
決勝戦。
椛は思わず、ついにここまで来た、と呟いた。
あと一勝。それでこの長かった戦いに終止符を打つことができる。そして、願いを叶えることも。
(やっと、全部終わる)
椛の脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のようにめぐった。
早苗が青年を連れて山を歩いていたこと。
(まるで見せ付けるかのようでちょっとムカついたよな)
その青年が殺されて、復讐のために監視役をやらされたこと。
(あの時の早苗は、こいつ本当に人間かよってぐらい怖かったな)
香霖堂に呼び出されて、人の死骸を手に入れたこと。
(今思えば、これがまずかったな。何が何でも、断ればよかったんだ)
事件の関係者を捕まえて氷室に閉じ込めたこと。
(…まあ、これはしょうがないな。惰性ってやつだ)
大天狗からの使いが来たこと。
(そうして、山を追い出される羽目になってしまった)
地底に来て、真剣師の真似事を始めたこと。
(もう毎日必死になって指したな。こんなに将棋漬けになったのは、今まで生きてきた中でも一度も無かった)
将棋大会に参加して、ここまで勝ち抜いたこと。
(だけど、終わる。この決勝戦に勝っても負けても、賭け将棋の日々は、これで終わりだ)
スタッフの一人が、椛を呼んだ。
決勝戦はAブロックの会場で行われる事となった。
椛が会場に入ると、気付いたギャラリーたちが道を開けた。
そして見えたのは、片付けられたフロアの真ん中に椅子が二つとテーブルが一つにその上の将棋盤が一つ。
椛側の椅子には当然誰も居ない。対面側の椅子には、
「よろしくお願いします」
事件の元凶、主犯格、全ての原因、稗田阿求の姿。
「…貴女、生きてたんですか」
「?? ええ、勿論。…どうして私が死んでいるものと思われたのですか?」
「東風谷早苗を、知ってますよね?」
阿求の顔が、引きつった。
「以前、早苗さんが貴女の部下?からいろいろと聞き出しているとき、私もその場に居ましてね。
今にも感情が爆発しそうな様子でしたので、てっきり貴女の元へ殺しに行かれたものとばかり…」
「そうでしたか。どうやら、貴女の口も封じなければならないようですね」
「『も』?まさか…」
「いえ、先ほど私の事を根掘り葉掘り聞こうとした輩がいましてね。その方には黙っててもらうことになりました」
「……早苗さんは、どうなされました?」
「確かに彼女は来ましたよ。世にも恐ろしい形相でね。
私はなんとか逃れましたが、代償として手駒を全て潰されてしまいましたよ」
阿求は深いため息をついた。椛は眉を顰める。
「……『早苗さんは』、どうなされました?」
椛は、早苗の名を強調して、もう一度問う。
「どうやら彼女は意識不明で入院中らしいですよ」
椛の問いかけに答えたのは、さとりだった。いつの間に来たのか、二人の傍に立っていた。
阿求は少し不満げな表情を浮かべた。
「そう怒らずに。いいではありませんか、これぐらい。
どうせ先ほどと同じく、賭けを行って口を封じるつもりなのでしょう?私には丸分かりですよ」
さとりは阿求にそう言ったが、椛には先の会話の中に、何か喋ったら阿求にとって不都合な点は無い様に思えた。
疑問をそのままさとりに問う。
「どういうことです?何を喋るなと?」
「どうやらこの方は、自分がここに居たことを秘密にしたいらしいのですよ。理由はよく分かりませんがね」
「……何が原因で、また私の計画に支障が出るか、分かったものではありません。単なる保険、可能性潰しですよ。
あと、それとは別に、貴女が地上で見聞きした、私に関するものについても、今後一切口にすることを止めてもらいます」
椛はやっと得心が行った。要するに、地上ではまだ阿求のしてきたことが公になっていないのだ。
椛は、とっくの昔に早苗によって真実はばら撒かれたと思っていたため、特に誰かに話すということはしていなかった。
そして公になってない事を知った椛の口を、今ここで封じたいのだ。
「…賭け、でしたよね、その要求は。
では、私が勝ったなら、貴女がしてきたこと全てを文さんに話してもらいます!」
「なんですって?!」
「それが賭けの条件です。洗いざらい話してもらいます」
阿求は苦虫を噛み潰したような表情になった。対照的にさとりの表情は嬉しそうだ。
「…何故、あの鴉天狗に?」
「聞くまでもないでしょう。文さんは新聞記者ですよ。この大スクープを新聞に載せて、幻想郷中に知らせてもらうんです」
阿求はますます不機嫌になっていく。
そこに、さとりが会話に割って入ってきた。
「と、いうことは、貴女が優勝した場合の願いは、『鴉天狗のPTSD(※6)を消して、地上に送る』でよろしいのですね? (※6:心的外傷後ストレス障害)
それですと、貴女が山に帰るチャンスを捨てることになりますが。もうこんな機会は、二度と無いかもしれませんよ?
それに貴女、現在無職でしょう?その上、所持金もほぼ底を突いている。正直な話、このままだと野垂れ死に確定ですが」
「構いません。そんなことよりも私は文さんの方が大事です」
「…分かりました。
それでは、やっと話もまとまったことですし、そろそろ始めましょうか」
「ちょっと待ってくれませんか」
早く対局が見たいさとりに、阿求が待ったをかけた。
「…なんでしょう?」
「まだです。まだ話は終わってない。
賭けの内容ですが、私の要求を変更させていただきます。
このままでは賭けるものが釣り合ってません。あまりにも私にばかりリスクが高いと思われます」
「はあぁ?!!急に何を言い出すんです!賭けが成立した後に内容の変更って!!」
椛は不満を露にした。だがさとりはそれを無視して阿求に内容を尋ねる。
「一応、聞きましょうか」
「はい。私が勝ったなら、彼女の就職先を私が決めさせて頂きます」
阿求の思いも寄らない言葉に、椛は訳が分からないという表情を浮かべた。
「それは-----」
会場の全員が、阿求の発言に注目する。
「-----公衆トイレです。それも殿方のね」
一瞬静まり返った後、言葉の意味を理解した男性ギャラリーが、会場を揺るがすほどの大きな歓声をあげた。そして一斉に椛を見詰める。
その男性ギャラリー達の視線に、椛は凄まじい寒気、嫌悪を感じた。
「ふ、ふ、ふざけるな!!そんなものは認めない!!」
「いいえ、私が許可します。賭け成立ということで、早速始めてください」
「!!! さとり!!!何を言っているんです!!!」
「何って貴女。周りを見て下さいよ。凄い盛り上がってるじゃないですか。これを白けさせることは、私が許しません。
そもそも貴女、負けたら犬死しかなかったのですから、何も変わってませんよ。まあ、勝っても死ぬ可能性大ですけどね。
どう転んでも死ぬしかなかった貴女に、肉便器という未来への岐路が追加されただけのことです。
それに、勝てばいいんですよ、勝てば。そうすれば問題無い。勝負の前に負けることを考えていたら、勝てるものも勝てませんよ」
椛は言い返さなかった。もう何を言っても無駄だと思ったのだ。
それに、さとりの意見も一理あるとも思った。
勝負の前に負けることを考えていたら、勝てるものも勝てない。そのとおりだ。勇気をもって前へ進まなくては、何も得られはしない。
「…わかった!その条件でいい!!」
会場が、再び沸いた。
「ふふ、さあ面白くなってきましたよ!では、始め!!」
さとりの合図で、対局は始まった。
椛が駒を振る。表が三枚。先手だ。
「「お願いします!」」
椛は目を閉じる。
二度、三度と深呼吸する。
ゆっくりと目を開く。
歩を、右手の人差し指と薬指の間にしっかりと挟む。
右腕を大きめに振りかぶる。
そして、バチイィィ、と駒音を響かせ、中指で盤へと押し込むかのように力強く指した。
その駒音は、歓声で煩い会場においても、高々と響き渡った。
椛の初手は、▲5六歩。この手は、いきなり自分の戦法は中飛車だと宣言したに等しい。
阿求は一瞬考えた後、△3四歩と角道を開ける。
椛が▲5八飛と指すと、阿求も飛車を掴み、動かした。
図33
(相振り飛車になりましたか)
この局面に、さとりは少し疑問を感じた。
相振り飛車は、定跡らしい定跡がない。そのため非常にセンスが問われる。実力者になればなるほど、序盤の作戦がとても重要になるのだ。
阿求の強さはその記憶力にある。
古今東西ありとあらゆる膨大な量の棋譜、定跡を記憶し、その中から最適なものを思い出し、そのとおりに指す。
(---だと思っていたのですが、違うのでしょうか。少なくとも、鵺との対局ではそう指していたように見えましたが…)
阿求にしてみれば、これは自ら相手の土俵に飛び込むに等しい行為ではないだろうか。
しかし、それでも勝てると踏んだからこその相振り飛車だろう。
ではその勝算とは何か。この大事な一局で自らの武器を捨てる行為の意味は?
さとりは真意を探るため、心を読む第三の目を阿求へと向ける。
(……これは…)
そこから読み取れた阿求の思考は、記憶から棋譜を思い起こしているのではなく、先の展開の予測であった。
驚くべきはその読みの深さである。一体何通り、何手先まで読んでいるのだろうか。
その思考深度に、さとりですらはっきりとは読み取れなくなってきた。
そうか、とさとりは呟く。
阿求は一から十まで、棋譜どおりに指しているだけではなかったのだ。さまざまな棋譜を咀嚼、飲み込んで自分の力に変えていた。
将棋を指す者からすれば『そんなこと、誰でもやってるよ』と言われそうだが、この場合、その量が桁違いなのだ。
一体、どれだけの棋譜を記憶したのだろう。十万や百万ではすまないかもしれない。
その上、一度見聞きしたものを忘れない能力であれば、研究の内容も忘れるということが無くなり、結果、質も共に跳ね上がる。
将棋の研究に持って来いの能力とはよく言ったものだと、さとりは思った。
不意に、おっ、という言葉がギャラリーから聞こえ、さとりは我に返る。盤を見ると、大分手数が進んでいた。
考えるのに夢中になって途中を見逃してしまい、さとりは、ちっ、と舌打ちした。
図34
▲1八香。椛は穴熊(※7)に組もうとしていた。
(※7:最強の硬度を誇る囲い。これを組めさえすれば作戦勝ちだと言われている。だが、完成までに手数が掛かってしまうのが難点)
それを見た阿求も△9二香と隅を開け、穴熊に入る様子を見せる。
そして49手目。
図35
先に穴熊を完成させたのは、椛だった。
(よし!穴熊、完成だ!!この勝負、勝てる!!!)
心の中で喜ぶ椛に、阿求から笑い声が漏れたのが聞こえた。
「何がおかしい!」
「ふふっ。もしかしたら穴熊が完成して、勝てる!なんて思っているのではないかと想像したら、おかしくておかしくて」
図星を指された椛は僅かにたじろいた。
「どうやら当たりのようですね」
「だっだら何だ!これの堅さを知らないわけじゃないだろ!」
「ふん、そんなもの、柔い柔い」
阿求は歩を掴み、△2六歩と指す。
「跡形も無く消し飛ばして差し上げますよ!」
ドン!
ドン!!
ドン!!!
ドン!!!!
図36
(あ、穴熊が、ホントに跡形も無く……)
「消し飛んでしまいましたねぇ」
阿求は顔を上向きに、見下すかのような笑顔を椛に向けた。
対照的に椛は下を向き、表情を歪め、無意識に右の親指を噛みながら、必死に活路を見出そうと考えている。
「ほらほら、貴女の玉には詰めろ(※8)がかかっていますよ。どうするのですか?」 (※8:受けなければ詰むこと。詰む一手前の状態)
「……分かってます。静かにしてもらえませんか」
「ふふっ、考えたって無駄ですよ。私の勝ちは決まりです。
貴女、肉便器になることが確定した訳ですが、今どんな気分ですか?」
「………だまれ…」
「ほら、辺りを御覧なさい。今か今かと、殿方達が貴女の投了を待ち兼ねてますよ。
もうこの場で始める気なのでしょうかねぇ。袴の帯を緩めてる者も居ますよ。
一対千以上。世紀の大乱交ってやつですね。私はゆっくり、貴女が壊れゆく様を観賞させてもらいますね」
「ッッ!!だまれと言って-----」
激昂し叫びだした椛の視界が、不意に暗くなった。それを認識した瞬間、顔面へ強烈な衝撃が加わり、後方へと転がる。
何が何だが分からないまま目を開ける。前方に見えているものが天井だと認識するのに、数秒かかった。
そして、時間が経つにつれ顔に、じわぁぁ、と痛みが湧き出してきた。
「対局中はぁぁ!!!し!!ず!!か!!にーーー!!!!」
そう言った人物、お空は、制御棒を野球のバットのように、ブンッ、ブンッ、と振り回していた。
椛は、お空のフルスイングを顔面に直撃させられていた。
「…お空、おやめなさい」
荒ぶるお空をさとりが宥める。
「でもさとり様、いつも対局中は静かにしなさいって…」
「今はいいのです。みんなで盛り上がっている所なのですから、水を差してはいけませんよ」
「うにゅ……ごめんなさい…」
「いいのよ、お空。分かってくれれば」
しゅん、とするお空の頭をさとりは、よしよしと撫でまわす。
「…邪魔です。退いて貰えませんか」
いつの間にか椛は立ち上がり、さとりとお空の傍に立っていた。その顔からは、鼻血がダラダラと流れ出ていた。椛は右手の甲で鼻血を拭う。
椛の手が、赤くなった。
「あら、すいませんね、うちのお空が---」
「構いません。気にしなくていいですよ。騒がしかったのは事実ですから」
椛は左手で、退いてくれと掃う仕草をする。さとりとお空は後ろに下がる。
「…随分と、落ち着いてますね」
「ええ、頭に上っていた血がうまいこと抜けたみたいです」
椛は席に座り、盤に向き直る。そして駒を動かす。
「まだ諦めてなかったのですね」
阿求はため息混じりにそう言った。
椛の指した手は、▲8三桂左成。阿求の玉に王手をかけた。
「諦める?何を言っているんですか。まだ私の玉は踏みとどまっています。勝負は終わっていません」
「ふん、悪あがきですね。でもまあ、すぐに一歩も動けなくしてさしあげますよ」
口ではそう言ったが、阿求はここから長丁場になるな、と思った。
阿求もギャラリーも、△8三同金、▲8三同桂成という別方向から手を作る流れになり、
阿求の玉がこれを取ったとしても、逃げたとしても、椛は▲2八金打ちと指し、結果、受けが成立すると読んだ。
阿求の現在の持ち駒では、この状態になった椛の玉をすぐに詰めることはできない。局面は一度落ち着き、力を溜め合う展開になる、と。
だが椛は、大方の予想に反した手を指した。
図37
「こ、これは!」
阿求は思わず叫んだ。ギャラリーもざわつく。
椛は一切受けに回ることなく、いきなり阿求の玉を詰みに来た。
(一手たりとも受けてたらダメだ!今!ここで!!一気に終わらせる!!!)
玉で銀を取る。歩を目の前に打つ。
その歩を取る。桂が成る。
逃げる。打つ。
取る。打つ。
逃げる。
局面は、完全に詰め将棋の様相を呈していた。
阿求は時間を使い、考えに考えてから指していた。その為、持ち時間が目に見えて減っていった。
「や、止めにしませんか…」
不意に阿求が話しかけてきた。
椛が顔を上げ、阿求に向き直ると、阿求の顔は蒼白になっていた。阿求には、今後の展開が最後まで読めてしまっていた。
「も、もう止めましょう、こんなこと。私にはやらねばならないことがあるのです。
私の計画を、さ、里の人に知られるわけにはいかないのです!
お願いします!投了してください!!」
阿求は頭を深々と下げた。
椛は意に介さず、駒を打つ。時間が切れても負けの為、仕方なく阿求も駒を動かす。
「そ、そうだ!賭けの件でしたね!!こんな賭け、よくありません!や、や、やめにしましょう!ね?ね?!
貴女もやめることに同意すれば、賭けは無かったことになります!ほ、ほら、その駒から手を離してください!」
椛はまたしても意に介さず、バチィ、と駒を動かした。
その音に、阿求は、ビクッ、と体を震わせた。落ち着き無く震える手で王手をかけていた駒を取り、玉をそこへ移動させる。
「さ、さっきの発言なら、あ、謝ります。申し訳、ありません…
ですが、これも勝負に勝つための、さ、作戦というやつです。どうか了承してもらえませんか?」
椛は無言のまま阿求の銀を取り、成桂を移動させる。
阿求は玉で成桂を取った。もう、阿求の玉を守る囲いも駒も、無くなった。
「貴女、生活するお、お金が、な、無いのでしたね!
今、投了してもらえれば、地上での貴女の生活はずっと私が保障します!
こんな薄暗い地底で一生を終えることなんてありませんよ!
私と共に地上に出て、日の当たる場所に行きましょう!!」
椛は銀を打ち、そして睨むように上目遣いで阿求を見る。
阿求は玉を逃がす。
「わ、わた、私、私は…こんな所で…終わるわけには行かないのです!
私には人間の里を、人間を守る使命がある!貴女、それでも私を貶めようというのですか!!」
「だったらなんだ」
椛の言葉に、阿求はつららで突き刺されたように感じた。
「だったら何だというんだ!あぁ!!人間の里を守る?何ふざけたことを言っているんだお前は!!
同じ人間に手をかけたお前が、言うこと欠いて『人間を守る』だと?!
お前は里の英雄としてではなく、罪人として里に戻るのが相応しい!!おとなしく裁きを受けろ!!!」
椛は玉の斜め後ろに角を打った。阿求はそれをかわす。すかさず歩を正面に打ち込む。
次の瞬間、周りのギャラリーが、あ!!、と叫んだ。ギャラリー達にも、阿求の玉が詰んだことが分かったのだ。
そこから4手指したところで、ビーー、と対局時計が鳴った。阿求の残り持ち時間が無くなったのだ。
図37
完全に詰みであったが、阿求は最後まで、投了を口にしなかった。
代わりにさとりが高々と宣言する。
「阿求さんの時間切れです。これで決まりですね。
大将棋大会。優勝は、犬走椛さんです!!!」
会場中が、わああぁ!!、と沸いた。
歓声で騒がしい中、椛は席を立ち、うな垂れる阿求の方を向く。
「賭けは私の勝ち、ですね。約束どおり後ほど貴女には洗いざらい全部喋ってもらいます」
阿求は聞いているのかいないのか、グッ、と拳を握り締め、体を小刻みに震わせていた。
やがて震えが止まったその瞬間、素早く懐から短刀を取り出し、鞘を捨て、刃を自身の喉へと突き刺そうとする。
自害し、自らの口を封じようとしたのだ。
だが、短刀の刃は喉の皮膚に触れたところで止まった。
「うぐっ…」
「…何をしてるんです、貴女は」
阿求の腕を椛は掴んでいた。
二人の様子に気が付いたスタッフ数人が、阿求から短刀を奪い取り、床に組み伏せる。
さとりは、ため息を一つつくと、阿求の目前へと歩み寄った。
「は、離して!」
「おやおや。いけませんねぇ、こんな所で死なれては。
ここでの賭けの約束は、絶対に履行されなければならない。
貴女は賭けに負けたのです。その清算が終わるまで拘束させていただきます」
「さとりさん!お願いですから、見逃してください!!何でもする!また私の体を、ぐぁはあ!!」
さとりは阿求の顔面を蹴っ飛ばした。
「連れて行きなさい。くれぐれも死なれないよう、気を付けるように」
「や、やめ!やめて!!だ、誰か!た、たす、助けて!!」
阿求は大声で喚き、ジタバタとするが、鬼の腕力に敵うはずも無く、四肢をつかまれ会場の外へと運ばれていく。
やがて会場のドアが閉められると、あれだけの音量を出していた阿求の声は、まったく聞こえなくなった。
*
大会閉会後、さとりに願い事遂行の念を押した後、椛は自分の部屋へと帰ってきた。
そして畳の上に胡坐を掻き、ため息をついた。
所持金を数えようと、座机の上に硬貨を並べる。小銭が数枚あるだけだった。
この残金では、もう将棋道場で『真剣』を指すことは出来ない。早急に職が見つからなければ、餓死確定である。
だが椛には、焦りや不安といった感情は、一切湧いてこなかった。
それどころか、雨上がりの空のように、清々しい気分だった。
こんな気分のときに音楽が聴けたらな、と思い、電池が切れているはずのウォークマンの電源を入れてみる。
すると、小さなディスプレイに光が灯り、ウォークマンは起動した。
電池の残量が少ないとの表示が出ていたが、一曲くらいは聴けそうであった。
少し考えた後、椛はある曲を聴くことに決めた。
アーティスト名からアルバムを選び、曲を選択し、再生ボタンを押す。
曲が流れ出すと、椛の表情からは、自然と笑みがこぼれた。
椛が選んだ曲。
それは奇しくも、あの事件の日、
霖之助が死にゆく魔理沙に聞かせ、魔法の森で白蓮が耳にし、病室で早苗のラジカセから流れた曲と、同じものだった。
その曲のタイトルは-----
*
射命丸文は、地霊殿の入り口で、さとり、お燐、お空に見送りを受けていた。
「なんか、不思議な光景ですね。貴女方に捕まった私が、こうして見送られるのは」
そう言った文には、『躾』された痕跡は、もう無かった。
文はさとりによって、地底に来てからの記憶の一部が消去されていた。
文は、早苗に頼まれ地底に来たこと、さとりと賭け将棋を指したことまでは覚えている。
だが、対局の前後から今日までの記憶が、ぼんやりと霞がかかったように思い出すことができなかった。
大会終了から一ヶ月程が経過し、文の意識がはっきりしだした時に最初に目に映ったものは、
寝かされている自分の顔を覗き込む、さとりの顔だった。
いつの間にベットに寝かされていたのか疑問に思い、問いただすため、とりあえず起き上がろうとすると、途端に頭が痛み出した。
手で触れてみると、頭には包帯が巻きつけてあり、患部と思われる箇所には、ぽこっとした膨らみがあった。
まるで、記憶が無くなるまで鈍器でぶん殴られ続け、それを治療した跡のようであった。
さとりは文の意識が正常に戻ったのを確認すると、現在の文の状況を教え、軽い食事をとらせ、ペンと手帳を手渡した。
暫らくすると、阿求が、逃げられないよう縛られた姿で、お燐に連れてこられた。そしてお燐は用意した椅子に阿求を座らせた。
「では、最後の約束の履行を始めましょうか」
さとりはそう言って阿求が座っている椅子を強めに蹴った。
阿求はビクッ、と体を震わせると、酷く慌てた様子で語りだした。
幻想郷縁起を改版したがあまり売れず、それを里の危機感の低下に関係していると考えたこと。
秘密歴史結社や野良妖怪と接触し、いろいろと事件を誘発させたこと。
屋敷の侍女が反対しだし、妖怪使って始末したこと。
その現場を見られた魔理沙の口封じのため、死刑に陥れたこと。
白蓮を騙して魔理沙周りの調査させ、アリスが魔理沙と接触したことを知り、爆破を指示したこと。
早苗と霖之助に全てが知られてしまい、屋敷に押し掛けられたこと。
二人に、手下として使っていた結社の人間と野良妖怪を皆殺しにされたこと。
なんとか逃げ出し、地底に逃れたこと。
文はそれらを余すことなく、スラスラと手帳にメモしてゆく。
阿求の話が、地霊殿に来たところに差し掛かり、さとりとの会話を語ろうとしたとき、さとりは阿求の椅子を軽く蹴った。
阿求はビクッ、と体を震わせ、口を噤んだ。
文が、どうしたんです?と尋ねると、阿求は何でもないと返し、将棋大会の日のことを語りだした。
やがてそれも語り終えると、阿求は下を向いた。そして意を決したように顔を上げると、文に新聞に載せないでくれ!と叫んだ。
尚も叫ぼうとする阿求を、お空は右手の制御棒で殴り、黙らせる。
さとりは黙ったまま頭を動かし、お燐に合図する。お燐は頷くと、阿求に再び猿轡をし、部屋から連れ出した。
それが一般の人間や妖怪における、阿求の姿を確認できた最後の記録となった。
そして時は現在へと戻る。
「これで椛さんとの約束は、全て終了です。貴女はこれで自由の身となります。これからどうなさるおつもりで?」
「まずは地上へ帰り、この大スクープを新聞にして幻想郷中に知らせます。それが終わったら、椛を捜しに、必ずここへ戻ってきます」
「言いにくい事ですが、おそらくは………」
「いいえ、椛は生きています。私には分かります」
「…職も無く、所持金も底を突いているんですよ?しかも、日にちも大分経過しています。食事なしで過ごせる日数ではありませんよ」
「さとりさん、貴女、椛を嘗めすぎです。所持金が無くとも、椛なら何とかできますよ。伊達に妖怪の山の哨戒をやってたわけじゃないんです。
それに案外、新しい職が見つかってるかもしれません。
大会で優勝したのでしょう?今、地底における椛の知名度は、そうとう高いんじゃないですか?
どこかが欲しいと思っていても不思議ではありません」
「…まあ、貴女がそう言うのなら、そうなのでしょう」
文はさとり達に背を向ける。
「では!文々。新聞の新刊を楽しみにしててくださいね!」
そう言うと文は地霊殿を後にした。
お燐とお空は姿が見えなくなるまで手を振っていた。
さとりはキョロキョロと辺りを見渡し、あら?こいしは?と呟いた。
文が旧都に差し掛かったときだった。
「ちょっと待って〜」
文の背後から、呼び止める声が聞こえてきた。
急停止し後ろを振り返ると、こいしが追ってきてた。
「なんでしょう?私、忘れ物しました?」
「うん。ほら、これ!貴女が撮った写真でしょ?!」
こいしは封筒を一つ、文に渡す。文は封筒を開け、中に入っていた写真を取り出し、見る。
「こ、これは!!」
写真に写っていたのは、さとりとこいし。二人がベットの上に居るところを撮ったもののようだ。
そこまでなら問題無い。『大変仲の良い幼女姉妹ですね』で終わりである。
問題なのは、写真のさとりの格好と、こいしが手に持っている物である。
さとりは仰向けになり、頭に猫耳を模したカチューシャをつけ、肛門がある辺りから尻尾のようなものが垂れていた。
その尻尾の付け根は、小さく丸いボール状のものが2,3個、数珠繋ぎになっているのが見て取れた。
こいしはピンク色の太い棒状のものを、さとりの股間に-----
「はっ!!いけない、つい見入ってしまいました。私、何時の間に、こんなお宝写真を撮りましたっけ?」
「覚えてないの?貴女が地霊殿に侵入してきた時だよ!結局お姉ちゃんに気付かれて、捕まっちゃったけど」
文は頭が痛むのを感じた。同時にこの写真を撮った時の記憶が少し蘇ってきた。
地霊殿に来たはいいが門前払いされたこと。
手ぶらで帰るわけにもいかず、不法侵入したこと。
天井裏を移動していると、声が聞こえてきたこと。
あまりの素晴らしい光景に、夢中でシャッターを切りまくったこと。
物音をたててしまい、捕まったこと。
頑としてカメラを渡さない文に、さとりが賭けを持ちかけてきたこと。
対局中のさとりの、鬼も逃げ出しそうな表情のこと。
「思い出した?」
「ええ、少しですが。
…いいんですか?私にこれを返すということは、新聞に載るということですよ?」
「うん!載せてちょうだい!最近お姉ちゃん、忙しいとか言ってて全然構ってくれないの。だから、お、仕、置、き♪
あ!でも、新聞に私のことと顔は出さないでね!」
「ええ、分かりました。写真のこいしさんの顔は、加工して誰だか分からなくします」
「よろしくね!」
こいしは文に向けてブンブンと手を振りながら、飛び去っていった。
「さて、と。これで私の新聞の売り上げ向上は間違いないですね。ネタは鮮度が命!急いで帰って原稿を書かねば!!」
文は自身の出せる最高速度で地上を目指し、飛び出した。
地獄街道を越え、旧都を越え、地底との境の橋を越え、地上への縦穴を昇っていく。
途中、白髪の誰かが文を見ているような気がして、振り返る。
だが、誰も居なかった。気のせいだと思い、再び地上に向けて加速した。
やがて文の前方に、小さく地上の光が見え始めた。
だんだんとその光は大きくなっていき、文の視界を強烈な光で埋め尽くしていき、思わず目を閉じた。
そして光に目を慣らすため、ゆっくりと瞼を開ける。
文の視界に飛び込んできたのは、澄み切った、青空だった。
椛が負けて肉便器履行させられるのもありかなと思わないでもなかったですけどww
あらゆる事象が可逆であったなら、人々は恐怖を忘れる。恐怖を克服する術を忘れる。
死者は死んだままにしておくべきである。死ねない蓬莱人になれとでも言うのか。
人の生き様を邪魔してはいけない。例え、それが愚かしいことだとしても、それがその人たる重要な要素なのだから。
長編大作、お疲れ様でした。
完璧ではないが、登場人物がベストを尽くして叩き出した及第点のエンディング。現実的で素敵です。
良い時間を過ごさせていただきました。