「天よ、私に命の歌を歌って下さい 天よ、私をあなたの御許へ連れて行って下さい
此処には私の嘆きを覆い隠す場所が何処にも無いのです
いつも、あなたがいないのです
側にいて下さい あなたを信じているのです
遠く離れ、たとえ触れることが出来なくとも、それは変わらないのです
心から愛しているのです
嵐の雨の中、全てが終わりを告げようとも、優しい子守唄を歌って抱きしめて下さい
どうか私に触って下さい 私はあなたの娘です
どうか私を助けて下さい 私はあなたの娘なのですから
どうか私を守って下さい 私は私の生を生きたいのです
どうか捨てないで下さい 私をこんなにも高い場所から
お父様
」
「姐さん、お夕飯の後片付けは私がしておきますから。姐さんは部屋でお休みになってくださいな、今日は辻斬りに襲われて魔力を使ってしまったのでしょう?」
「一輪、先程から何度も言っていますが彼女は修行中の剣士さんで、私は彼女のお役に立ちたいとですね………」
「いやいやお人よし過ぎる白蓮のことだから、この手の話は十分に疑問だな。本当に暴漢に斬りかかられていても、“何か理由がおありなのでしょう”とか“もしかして私に至らないところが?”なんて言いそうだ」
「んもうっ、ナズーリンまで」
一輪もナズーリンも、二人とも意地悪な微笑を湛えて白蓮をからかう。
「でも幽霊の剣士かぁ、今度会ってお話出来たらいいなぁ」
「今度は私のお寺を訪ねて頂きましょう。私や命蓮寺について何か誤解なさっているようでしたので、実際に見て貰った方が良いかも知れません。その時は村紗、案内してあげて下さいな」
白蓮は彼女を慮ってくれる部下達の気持ちを汲み、残りの仕事をお願いしてから自室に向かった。
今日は魂魄妖夢さんという方と里でお会いしました。
あの子は未熟な腕前でしたけれど剣にかける意気込みは良かったです。彼女の言う修行が完成すれば、殺すための剣ではなく生かすための剣を振るえる剣士になれるでしょう。
ふと、本来無一物という教えの説法をしてしまいました。あの子にとっての剣は特定の他者のための剣と見受けます。その相手が自分が心から心酔している方なのでしたらそれはそれで良いと思います。私についてきてくれる子達が、あの子達なりの理由でもって私を慕ってくれるように。
ですが私は魔界に封印されていた期間があります。その間私も、そしてあの子達も離れ離れになって互いを見つめ直す時間を頂きました。その時間は辛く寂しい時でもありましたが、同時に今の私を作り上げている掛け替えの無い時間であったとも思います。
妖夢さんも一度全ての執着から解き放たれ、完全な空の境地に至った後で、それでもなお共に在りたいと思える存在を確信できたのならば。私と同様に仏の教えを学んだ上で、それ自体への執着を拒絶して自分の答えを導けたのならば。
きっと、自分自身の道が、今よりも明るく照らされることになるのでは。と、思います。
「…………」
客間を出た白蓮の前に雲山が現れる。一輪のように雲山との完璧なコミュニケーションが図れるわけではなかったが、それでも長く共に居ればその意図や伝えたい事は分かるようになる。
「そうですか、あのまま魔理沙さんはお帰りになったのですね。………ええ、彼女は心に迷いを持った様子で、飛び去り方にもそれが現れていたと。大丈夫です。彼女は強い人ですから、きっと悔いの無い道を選び取ることが出来るでしょう」
「…………」
雲山は普段の仏頂面を笑顔で崩し、白蓮の考えに同意した。
「それでは私は本堂の方に戻ります。今日も幾許かの悩める方々が私を頼ってこられていますから」
白蓮は目の前の入道に微笑みかけ、その場を後にした。
「なぁんだ、意外と雲山もあの娘のことを気に入っているんじゃないですか。若い子に浮気なんて、いけませんねぇ」
洗濯物を取り込んでからという時間差ですぐ側の廊下の角で待ち、白蓮と雲山の会話(?)に割って入る事の無かった一輪が姿を見せた。
ぴゅーーーっ
雲山は逃げ出した。
「なによ、今回のはわりと真面目にからかっただけなのに」
真面目なのかふざけているのかはわからないが、ムスッと頬を膨らませた一輪は洗濯籠を持ったまま服を畳むべく客間の隣の和室に入った。
今日は霧雨魔理沙さんとお話しすることが出来ました。
御父様の話を伺ったときより、私の方から訪ねて行くべきか何度か考えたこともあります。結果から言えば彼女の方から訪ねてきて下さって良かったです。
ただ人から与えられる情報や助言。あるいは物やお金やはたまた幸福といったものまで、誰かから勝手に手渡されるよりもきっと自分自身で欲し、求めた上で手にすることが出来た方が彼女の為になるでしょう。
どなたかが最初の一押しをお伝え下さったから、彼女は自分から来てくれた。その方が全てを伝えなかったから、あるいは知らなかっただけかもしれませんが、いずれにせよ彼女を心から思いやることのできる方である気がします。
聞いた話では彼女の力になってくれる優しい友人が、この幻想郷には大勢いるとのこと。私もその一助になれたことが私にとっての幸福です。そして早くに独り立ちされた魔理沙さんが成長なさると共に貴重な友人を増やしたこと、そしてその上で彼女と御父上が和解出来るのなら。
彼女の在り様から、私自身学ぶべき所が多いやも知れません。
「聖、お客人は帰ったのですか? あ〜もうそんなことぬえにやらせれば良いんですよ、一応ここの門弟なのにまた遊びに行ったんですかあの子は」
アリスが帰り、聖は残った自分の分のきんつばを食べてお茶を飲み、そして二人分の湯呑みと小皿を手にして部屋を出た。台所までの廊下を歩き、正面から来た星がその様子を見て訊ねた。
「まぁまぁ、あの子も遊びたい盛りなんですし、私が外出を許可したので怒らないでやって下さい。このくらいどうということはありませんよ、普段から貴方達が身の回りの事を全てしてしまうものですから、私も少しくらいは動いた方がいいんです」
「あいつはあのナリでも私や聖とタメか上なんですが………。まぁそれはともかくとしてあの人形遣いは聖と同じ魔法使いとのことですが、彼女の評判は里で良く聞きます。礼儀正しく気品があって、時折行われる人形劇は過激な内容を含む事もありますが話自体は面白く、かつ勉強になる。あ、でも聖もこれくらいの事はご存知だったかも知れませんね。実際に話をしてみてどうでした?」
星は白蓮が洗い物をしに台所まで歩くのに付き添いながら聞いた。
「彼女は私の事を魔法使いとしての先輩と見込んで相談に来られました。内容については………御免なさい、この場合お話しない方が良いように思います。今日お話しした事はアリスさんの人生相談の様なものでしたが、今度は私の方が幻想郷の先輩としてのアリスさんにお聞きできる事があるかもしれません」
「相談者の秘密を守るのは当然です、私は気にしませんよ。では私はお茶請けと諸々必要なものを買い出しに行ってきます」
今日はアリス・マーガトロイドさんが命蓮寺を、私を訪ねてきて下さいました。
彼女の悩みは私の以前経験した悩み。であるはずなのに、私には未だにその悩みに対する明確な回答を得られていないような気がします。
ですが先日の霧雨魔理沙さんと同様、芯の強い女性と見受けられました。きっと彼女もまた自らの手で選んだ道を正しい道にして歩いて行けるものと信じています。
私は彼女の力になってあげることが出来たのでしょうか。
『悩みが無いのが良い人生だとは思わない』本当にそうでしょうか。悩んでも仕方の無いことや悩む必要の無い事は無くてもいいでしょう、しかし自分にとって大事なことならば大いに悩むべきで、その結果には責任を持つ。私はそれが大事なことだと思っていました。
でも結局、その悩みというものがどちらに属するものなのか、それを判断するのはその方自身なのです。
これは私に課せられた使命。私は自分の言葉や行動が、ちゃんと誰かを救う結果に繋がっているのか、あるいはより深い混乱を招いているのか、それを悩み続けなければならないのでしょう。そしてそれでもなお、誰かが救われてくれると信じて行動し続けなければいけないのです。
願わくば、アリスさんの前途が幸多きものとなるよう。その事実のみが私自身を救ってくれます。
「あぁ、白蓮。外回りから帰ったの? んん? 嬉しそうだね。ハッピーな事でもあった? 道端に5百円玉が落ちてたとか?」
「君のレベルでの幸福と比較してもな。そもそもここの周囲と里などへの道沿いにそのような物はもう無い。粗方拾ってしまって私の能力でも反応は見えないからね」
「んがっ! ズルイよナズーリン! 日課にしている散歩の醍醐味の一つが失われてしまったじゃまいか!?」
「ホントにレベル低っ!」
玄関前を掃除していたナズーリンと、それを手伝うでもなくただぶらぶらとしていたぬえが白蓮を出迎える。
「お二人は赤い悪魔の館と、そこで働いている家政婦さんの事をご存知ですか?」
「人間のメイドの事? 知ってる知ってる、人間のくせに吸血鬼のお嬢様に仕えていて、外の人間とかを食料にする時は嬉々として血を絞り出して掻っ捌くらしいよ」
「え?」
「主の方も問題のある奴だ。子供っぽい外見からやんちゃやおてんばなんて愛らしい言葉が似合うが、その実人間に有害な毒霧を幻想郷中に撒いたり、その人間の従者の能力で時を止めて明けない夜を作り出したり、おまけに手勢を引き連れて月に侵略しに行ったりしたそうだ。全く危険極まりない要注意勢力だよ」
「え? え?」
真顔で見聞きした事実らしいそれを淡々と語る。ナズーリンの言う事実は事実、ただし側面からそれを見た人の主観交じり。ぬえの人間の調理云々は、それが事実かもしれないし、噂好きのおばちゃんの妄想が混じってるかもしれない。
「何かされたの? そいつらに」
「い、いえ………」
帰って来た時の、いや、里で咲夜と話をした後の嬉しい気持ち、自分とは別の形で自分の理想の形を実現していた少女との出会いを喜ぶ気持ち。二人に悪気があったわけではないが、意図せずとも白蓮はその気持ちに水を差されてしまった格好だ。うってかわって残念そうにうな垂れる。
「そろそろご飯が出来てますかね………」
フラフラと力無く歩いて二人の横を、玄関を通り抜けていった。
「………なんかまずい事言ったかな?」
「だとすればどっちがそれを言ったか、あるいは私達二人ともか分からない。ここは一つ、責任の擦り合いは回避して適当にフォローしよう」
「ぶ、ラジャー」
今日は十六夜咲夜さんという方とお会いし、お話をしました。
彼女の事は当初良く知らなかったのですが、皆が名前を知っている程には有名な方らしく、その噂も千差万別でした。最初に彼女と彼女の主の良くない噂を教えてくれたナズとぬえも、同様に良い噂も聞いていたらしくてそれらも食事の時に教えてくれました。
やはりこの手の事柄は偏った情報に基づく先入観よりも、直接自分の目で確かめたことの方が良いと思います。
その点、私は幸運でした。咲夜さんと会う以前にはそれ程彼女の事を知らず、ただ妖怪であるレミリアさんを主と仰いで敬愛なさっているという事だけ。
今の私は他の咲夜さんを知りません。知っているのは力強い言葉で人と妖怪は分かり合えると口にした彼女だけです。紛れも無い咲夜さんの心の言葉だと思います。両者は違う存在だと十分すぎるくらい理解しながらそう言える彼女だけです。
また機会があったらお話しがしたい。きっと彼女は私の知らない人と妖怪のあり方に既に気がついているから。
きっと彼女は自身の主か周囲の方か、いずれにせよ素敵な方と素敵な関係を築けているからそのように言えるのでしょうね。
今日は檀家に対して行う説法もそれ以外の仕事も無く、久しぶりにだらだらとする時間が出来ている。白蓮は縁側に座り、ナズーリンによって手入れが行き届いた境内の枯山水を眺めていた。
「ぉ〜〜〜〜ぉーーーーーお―――――い!!」
遠方から徐々に近づき、ドップラー効果によって僅かばかり高い声になって届くそれを聞きながら、実際に彼女が目の前に降り立つまでは座って待っていた。
ズザーーー
勢いのままに庭園を滑りながら着地する。
砂によって波状に描かれた模様が壊れる。ナズーリンがこの場にいたら激怒して説教をしていただろう。
「よぉ白蓮、決めたよ。そいつらに会う」
新しい門出の決意をした少女に、この様な事で小言を言って水を差したくは無い。後でナズーリンに事情を説明して彼女の説教を自分で受けようと思った。
「よく決心されましたね。きっと、良い一日になります」
「おおっと、一応言っておくが親父には会わないからな。返事のことも白蓮の方から言っておいてくれ」
「そんな回りくどいことをなさらずとも、会ってお話しをすれば良いではないですか?」
「何と言われてもこれだけは譲れないね、ガキんちょ達から話を聞いてそれからっていうならありだが………。い、いやいや何でもない! あいつとは口をきかない!」
意地を張りながらもつい本音が口から漏れてしまう。惰性で続いていた関係を見直すきっかけが欲しかっただけ、そのきっかけの一部になれたことがたまらなく嬉しい。
白蓮は微笑んだ。
「〜〜〜っ! じゃ、じゃあそういうことだ。頼んだからな!」
少女は飛び立つ。大きなバックブラストと共に。
吹き飛ぶ砂、散らばる石。
「………お説教、一時間ほどで終わるでしょうか?」
魔理沙さんは自らの手で人生の道を切り開き始めました。
いえ、元より自分の力で開いてきた道、普通の魔法使いとして生きる道を多くの友人の側で歩みながら、御父様の歩まれている道に近づけるようほんの少しだけ向きを変えた。この方が正しいかもしれません。
今はまだ距離があるようで、その間を私のような者が取り持たなければいけませんが、いつかは普通の親子に戻れるのでしょう。
私は私の存在が不要になる瞬間が待ち遠しい。その瞬間に私は無用者となり、二人を遠くから眺めて静かに消え去る。その幸福のために尽力したい。
今日のナズーリンのお説教は2時間半続きました。
コン、コン
「はいはい、どちらさま?」
「私です。聖白蓮です魔理沙さん」
魔法の森の霧雨魔法店。人を惑わす魔法の森も白蓮ほどの魔法使いには太刀打ちできないらしく、初の来訪となるのに全く迷わずに一直線で目的地に着いた。
ガチャッ
「もしかして日取りが決まったのか?」
ドアを開け、ずずいと詰め寄るようにして聞く。
「ええ、お察しの通り私はその日の事を伝えに―――、あら?」
「んん?」
言葉の途中で小首を傾げる白蓮。つられて同じ方向に動く魔理沙の頭。白蓮は魔理沙の肩越しに家の中を見ている。
スタスタスタ
「お、おい!?」
急に早歩きで魔理沙の脇を抜けて家の中にあがりこむ。魔理沙から見て礼儀正しい彼女としては珍しい行動だと思われた。
「…………」
「一体なんだよ急に?」
所々でキノコが養殖されているゴミ屋敷寸前の魔理沙の家の中で、黙ったまま肩を震わせている白蓮の背中に問いかける。
魔理沙的にはここ数日悶々としていた気分を誤魔化すために片付けや掃除を行っていたのでこれでも割と綺麗な方。で、本人はなんとも思っていない。
「魔理沙さん?」
「はい?」
「お掃除しましょう、なんなら私も手伝います。心気一転晴れて爽快、爽やかな気分で爽やかな人になるにはきれいな部屋の方がずっと良いです。こんな部屋ではモヤモヤジメジメ暗い人になってしまいます」
「大きなお世話じゃ。前の方が酷かったけれど、私は生まれてこの方さっぱりとしたイイ性格の人間で通ってるんだ。誰に聞いたってそう言うさ」
H:災厄から守る親切心で警告してあげたのに邪魔するなと言われ、えんがちょされた上に撃破されました
Y:自分の住んでる場所をジメジメした陰湿な場所と言われ、やる気の無い状態で撃破されました
N:仕事があると言ったのだが、逃がすと勿体無い気がするという理由で追撃され撃破された
一同:さっぱりとしたイイ性格をしている
「ダメです! 自分の家を他人である私にとやかくされたくないということならば理解できますし尊重もしますが、とにかくご自分だけでもいいですからちゃんと片づけをしなければいけません。清浄な場で心の清浄について考えるということも―――」
「分かった分かった、ところで日取りと場所を教えてくれよ。重要なことを話もせずにお説教で満足して帰られたらたまらないからな」
「むぅ、ちゃんと覚えていますよ。こちらの手紙を頂いてきましたので日時等はこちらに。もう一つ私から、その日貴女の妹さんと弟さんは夕方まで家のお手伝いも免除され自由に遊べるそうです。ですから適当な所でそれまで遊んであげて下さい、いいですね?」
「ああ、まぁ魔法使いの私を尊敬しているらしい有望な児童だ、もとよりそれくらいはするつもりだったけどな」
相好を崩す白蓮、またまたつられて笑う魔理沙。
いい二人だ。魔法使い同士というだけの意味でなく。
当初魔理沙が勘違いしたくらいに、新しい母と言われても違和感無かったかもしれない。
「準備の方は大丈夫ですか? お手伝いしましょうか?」
「アリスに協力してもらってる。そっちは大丈夫だ」
「アリスさんに? それは良かったです。貴女はご友人に恵まれています、これはとても幸せなことですよ」
「知ってるぜ」
魔理沙さんも、彼女の御父様も、アリスさんも。人も妖怪も同じ地平で、みんな繋がって生きています。
自らの解脱を至高の目的とした修行だけの僧に、どうやってこの真理にたどり着くことが出来るというのでしょう。
見苦しい自己正当化かもしれませんが、私は私の選んだ道は間違っていなかったと思うのです。
今日のようにそれを心から思える瞬間に立ち会い続けること、それが私の生きる理由になります。
「今日はいい日ですね」
「そうですね、聖。聖がお休みを取るのも珍しいですけれど、たまにはこういうのもいいと思いますよ」
「それによく晴れました。洗濯物が良く乾きそうです」
「まぁ、いいんじゃないかな? 最近ご主人のご主人は働きすぎるくらい働いていたきらいがあるし」
「ね? ね? 聖輦船でドライブしようよ、たまにはこのメンバーだけで大空を飛び回りたい〜」
「正体不明の種こうげきー!」
全員で縁側にでて、ただ無為な時間を過ごす。
お茶とお菓子を持ってきてくれた星。朝のうちに洗濯仕事を終わらせた一輪がその成果を眺めながら満足そうに目を細める。ナズーリンは主人と仰ぐ相手が淹れたお茶と菓子を堪能して感想を述べ。このような落ち着いた雰囲気よりロックンロールを好むのかしきりに船を運転したがっている村紗。柿を丸ごと頬張り中の種を口から撃ち出して遊ぶぬえ。
賑やかで楽しい時間が流れる。
昼の12時を回り、皆でご飯を食べに中に戻った。
今日は夜遅く霧雨魔法店のご主人が、霧雨魔理沙さんの御父上がお見えになりました。私に御仕事を頼みにこられ―――
達筆な白蓮の文字が途中から震え、そして文章は中途で唐突に終わっている。
魔法の鍵がかかった引き出しの中にしまわれた日記帳は、他の誰の目にも触れられることは無いだろう。
白蓮自身がそれを必要としない限り。
この日から先の日記はない。
此処は幻想郷の端っこ。
ガスッ ガスッ
何も無い空間で打撃の音が生まれる。
ガスッ ガスッ
何も無いように見えるその場所で、白蓮は拳を振るう。
ガスッ ガスッ
核闘技の素人でしかない白蓮の拳はただ闇雲に見えない壁を殴りつける。
ガスッ ガスッ
それでも身体能力を強化しきっている彼女の拳はその壁に波紋を打たせ、揺らせるまでには強い。
ガスッ ガスッ
同時に自分の拳の皮は剥け肉は切れて、中指の付け根など骨が露出している。一介の力自慢風情に破壊されるほどやわな造りでないそれは、白蓮が与えた分と同じだけの反作用の力を白蓮の拳に返した。
ガスッ ガッ!
「そうゆーの、止めて下さらない?」
後ろから声が掛かり、拳は見えない壁に衝突したところで止まっている。拳と壁との間で血が滴っていたが、白蓮がゆっくりと手を離すと壁に付着しているであろうはずの血は、拳の側に付くかさもなければ地に落ちた。透明な壁は透明なまま、ありもしない向こう側の風景を表面に投影している。
「………はい、勿論です」
白蓮はやつれた顔に笑顔を貼り付けて振り返った。
「貴女ねぇ………。家主がいるかいないのか、はたまた居留守を使っているのかすら分かりもしないのに、ピンポンピンポンってインターホン連打するみたいなことやめてよね、いい年なんだから2時間も大事な結界を殴らないで頂戴な」
「貴女様にお会いしたいと思っても、私にはどうすれば良いのか分かりませんでしたので。お許し下さい、幻想郷の管理者にして結界の守護者八雲紫様」
慇懃に頭を下げて話す。
「それで、何の用なの?」
「はい、この度の件でお話しをさせて頂きたいと思いました」
「何か聞きたいことでも?」
「どうしてこのような事が?」
「さぁ? …………他に聞きたい事はあるかしら?」
「博麗神社に居られるという鬼さんはご無事ですか?」
「萃香のこと? ええ、まぁ。今は私の家にいて少し落ち着いてきているわ。一時は自分を責めるあまりに鬱状態になってお酒の一滴も飲まずに部屋の隅で体育座りをしていたのだけれどね。彼女のしてきたことを教えてあげても慰めにはならなかったみたい。自分の理不尽な力が誰かを傷つけてしまったって事実が辛かったのでしょうね、過去を思い出したりしてうなされていたわ」
「その萃香さんはもう大丈夫なのですね?」
「あの子は他人にも自分にも嘘がつけないものだから、今回の彼女の所業と自分の行為は別のものとして悩んでいるのよ。普通なら、“なんだ、事故ったけれど相手極悪人じゃん。ぶっ殺せてよかったw”なーんて自己正当化して誤魔化せるんでしょうけれど、というより今回は実際にそれでいいのだけれどね。普段いい加減なくせに、こんな時だけ真面目に悩まなくてもいいのに。でもまぁ、立ち直れるわよ。何はともあれ霊夢と自分も含めて、4人が厄介事に巻き込まれる前に止めたんだから、実際誰も責めないしね」
「………彼女の方は? 亡くなったのですか? 家族の方達が連れ帰ったとお聞きしたのですが」
僅かに言いよどんでから聞いた。
「死んではいないわ、というより死ねないといった方が良いかしら? 今回の件に関係なく、元よりそう易々とは死なせてもらえない。なにせ地獄の苦しみが16分の1に感じるとまで言われる苦痛を、“本当に死ぬまでの予兆”として味わわなければいけないのだから」
「…………残酷すぎます。もしや彼女はそれを悲観して?」
唯でさえここ数日食事も喉を通らずにゲッソリとしていた顔に、さらに深く影が差す。仏教の僧侶である彼女には知識として知りえていた事柄だ、だがそれが実際に如何なるものなのかは白蓮には知る由も無い事。自分にとって縁の無い事だとすら思っていた。
「だとしても不思議ではないわね、この凶行に及んだ時には自覚があったようだし。悲観したかどうかは知らないけれど」
「私に何か出来ることは無いのでしょうか? 私ではその方を救って差し上げることは出来ないのでしょうか?」
「貴女に出来る事は何も無い。貴女はあの子を救う事は出来ない。死んでしまった子達に対して何も出来ることが無いように」
「仮にそうだとしても、行動をすることに意味は無いのですか? その方を取り巻く者達の誰一人として彼女を救う気が無いと言うのなら、誰か一人でも彼女の力になってあげるべきなのではないのですか? その事実が重要なのだと思います」
この言葉を聴いて唐突に紫はケラケラと嗤い、この二人の話し合いが醸し出していたピリピリとした空気をぶち壊した。
そして、より肌を突き刺すような、凍てついた世界が二人のいる場所を包み込む。
「馬脚をあらわしたわね。貴女はあの子を救うことが出来なくとも、救おうと行動する事実が必要だと言った。その事実すらも今のあの子には無意味でしかない。貴女の行為は自己満足に過ぎないのよ」
「ええ、そうです。これが私の道です。これが私の生き方です。私は自分がこれまで行ってきたことが、生きてきた生が間違っていないことを示すために、私が正しいと思うことをし続けなければいけないのです」
「勝手なことね。それでいてそれを使命とか、天命とか、それともまさか正義とでも言うつもり?」
「呪いです」
「………そう」
紫は口元に浮かぶ笑みを押さえていた扇子を閉じる。白蓮には聞こえない小さな溜息を吐いた。
「魔法で寿命を延ばし若い体を手に入れた私は、自らに魔法をかけ続けることをやめた時に先送りにしてきた終焉が迎えに来ます」
「別に貴女だけじゃないわよ。私達みたいに長く生きると、皆呪われるのよ。それが気にならない程呪縛の弱い者もいるし、生き方の全てを拘束される程に強い者もいる」
「貴女様もなのですか? あぁ、そういえば貴女様は………。そうでしたね、だからこそ私は貴女様にお会いしたかったのに、今の今まで失念していたなんて」
「今更幻想郷の管理者を辞める訳にもいかないでしょう? 貴女が貴女自身に、他者の為に尽力しながら生きる呪いをかけたように。私が私自身にかけた呪いは“いかなる事があっても幻想郷を愛し続けること”私が嫌いになったからと言って結界の維持を放棄して御覧なさいな、いろんな相手から怒られちゃうわ」
「それに、妖怪でらっしゃる貴女様には」
「それをアイデンティティと呼ぼうがレゾンデートルと言おうが同じこと。妖怪である私も人を超えた貴女も、誰彼とて関係ない。存在する理由を失ってまでも存在し続けるのは辛いことよ。ただ私達妖怪は人よりちょっぴり、辛いことに耐えるのが苦手なだけ。わらっちゃうわよね」
「なればこそ、ご理解頂けるはずです。私に私のしたい事をさせて下さいませ」
「駄目よ」
扇子でパシン、パシンと一定のリズムでもう片方の手のひらを叩いて音を出す。
笑ってしまうと言いつつ、紫の笑顔は乾いたものだった。そしてそのままの顔を維持したまま、口だけが動き喉を震わせて否定の文句が飛び出す。
「何故なのですか?」
「貴女がそれをしてやる義理はあの子には無い。此処で苦しんでいる者達が大勢いるのに、諸悪の根源を救済するためにこの場所を離れるなんて。貴女は良くて現実逃避、悪くすれば連中の仲間と周囲には思われることになる。貴女自身はそれで良くても、貴女が置き去りにしてゆく娘達は一体どうするの?」
「あの子達なら解ってくれます。行動しない事によって延々と後悔し続けるよりも、他人にどう思われようが行動する事を選びます。封印の原因になったことをその間考えてきましたが、あの時私がした事は間違っていなかったと今でも思うのです。辛い目にあわせてしまったあの子達が、長い時を経ても私を慕ってくれたように。きっと、私が私の心に嘘をついたならば、あの子達も私を見限ってしまうでしょうから」
扇子が打ち付けていた手をそれごと握り締める。
「さっきも言ったけれど、あの子にとっては全くの無意味よ。貴女には、いえ、誰であれあの子を救済する事は出来はしない。あの子はただ、貯めてきたツケを支払っているに過ぎない。会ってもしょうがないし何もする事は無い。私は貴女をその不毛の境地に赴かせたくない」
「…………」
「やっぱり貴女、イカレているわね。失礼。貴女の言葉を借りるなら、呪われているわ。貴女ならきっと私や魔界の神と同じように、世界を創り管理する資格のある存在になりえるわ」
「世界を?」
「ええ、貴女の望む人と妖怪の平等でもいい。恒久的平和の世界でもいい。箱庭を構築して自分の好みに調整する、それだけのために生きる歯車になれる」
「…………」
「貴女の理想を実現する最も手っ取り早い方法よ?」
「私はそんな大それた存在ではありません。…………ですが、時々思う事はあります。時代が変わってしまったのかと。世界が変わってしまったのかと」
「そう思う?」
「最初は長く封印されている間に私が変わったのかと思いました。でも今回の事も含めて、世界は私の理解を超えてしまいました。恨みや怒りという心の底から沸き起こる感情でもなく、自らの恐怖心ゆえの自己保身でもなく、ただ、ただ自分の人生を生きる人達を傷つけて回るなんて。相応の理由無く彼女達と彼女達を取り巻く全てを破壊してしまうなんて。全てが混沌の坩堝に投げ込まれた、戦争という巨大な現象が個人の中にあるような、こんなことを私は知りません。たぶん私は疲れているのだと思います。自分自身に課した使命を盲目的に遂行することに。彼女の力になりたいというのは、私にとって分岐点なのです。全てを投げうって救済の道を歩み続けるのか、それとも信じられなくなった理想を掲げたまま寺の子達と共にそれを目指す振りだけして生きて行くのか」
「諦めが3つ目の道を示してくれる。私が外の世界で妖怪達の存在を守り通すことを諦めたように。外の世界で彼らが存在していくことが難しいのならば、彼らの在り様を維持したまま暮らせる世界を自らの手で作ればいい。人々が幻想の存在を、彼らの言う“正しい知識と認識の共有”で追い詰めてゆくならば、私は私の望む“正しい知識と認識”で構築された世界を創ってそこに引き篭もる事にした。貴女の言う人妖平等も、誰も傷つく事の無い平和な世界も、私や他の誰かが世迷言だと一笑に付すならば。貴女が外の世界にもこの幻想郷にも絶望し、理想の実現を諦めることができるのなら。貴女はきっと世界を創る資格を得るわ」
長い沈黙。
「どうしてこのような事が?」
「さぁ?、ね。同じ質問を前にもしているわ。ただ、貴女は勘違いしているわね。これは、確実」
「勘違い?」
「ええ、貴女はこの件を極めて異常な事態だと思っている。理解の及ばないものだと。世界が、人々がどこかおかしくなってしまったのではないかと。そのくせあの子の事を理解したがっている。被害者遺族を慰めるため? 同じような事態が起きるのを防ぐため? いいえ、ただ自分の中の恐怖をかき消すためでしょう? 勘違いも甚だしいわ。こういう事は稀にある。今までだって唐突な悲劇や意味不明な理不尽はあちらこちらでおきている。規模の小さいものも大きいものも。人間の一生なら巡り合わずにすむ可能性が大きいほどの巨大災害のようなものも」
「そうは思えません」
「思えようが思えまいがそうなのよ。もう一つ付け加えるなら、今回の件を巨大災害と感じているのは数人から数十人。当事者でなければ対岸の火事。長くを生きて世界を俯瞰できるようになれば、貴女にもわかる。震源地に近い場所から遠く離れれば、徐々に揺れは小さくなることが」
「………………お話し下さって有難う御座いました」
白蓮は紫が現れたときと同様深々と礼をすると殴りつけていた結界から反対の方向にゆっくりと歩き出した。
紫は両手を血まみれにした聖人の姿が見えなくなるまでその場でその背中を見つめていた。
誰にも聞こえないこの幻想郷の端っこで紫は呟く。
ねぇ白蓮
「そう、こういう事は昔も今もあったし、そしてこれからもあることなのよ」
ねぇレミリア
「慣れていかなきゃいけないわ」
ねぇ幽々子
「それが出来ないまま長く生きるのは辛すぎるもの」
No Country for Old Women
あとがき
No Country for Old Women 直訳すれば【婆さんのための国(土地)は無い】意訳ならば【年寄りには住みづらい場所】となりますでしょうか。
当初は感銘を受けた映画及びコーマック・マッカーシーの原作と同様、その名の通り白蓮と紫の対話で終了させようと思っていました。その中で彼女について二人が好き勝手考察し、第三者からの事件の展開と収束と言う形で終わらせてしまおうと。
ですが自分には彼女を“純粋悪”や“無慈悲な災害”という風にはどうしても書けなかったのです。途中から彼女を徹底的な悪に貶めた作品を書ききる自信が無くなってしまったのかも知れません。或いは最初の魔理沙編を書いていた時から対比としての親子像を描きたくなってしまっていたのかも知れませんが。
その結果として彼女自身の行為は理解不能で残虐でありながら悪意の有無すら見えず、また彼女自身にとっても意味の無いものという表現となりました。
これより以後は本編の一つとして書き上げたつもりです。
ですが前述のように彼女の道程を描くことで、或いは読者諸氏は彼女を理解したいと望んで下さるかも知れません。
理解できない存在を描きたかったのに最終的には自分自身の恐怖ゆえか理解を試みてしまう、理解し得る存在として彼女を定義し直してしまう。そんな自分はこの場に向いているのかふと考え直してしまいました。
お付き合い下さる方はこの先の【黒】に、元に戻す場合は【白】にマウスカーソルを合わせて下さい。
現在、携帯電話からの動作確認は行っていません。自分でも確かめてみますが不具合が御座いましたらご報告頂けると有難く思います。
【白】
【黒】
私は不良らしい。
不良とは読んで字の如く良くない者の事だ。
悪いというのとどう違うかと言えば、明確に悪いことをしているかどうかではなく、模範的であるかどうかが判断基準ではないだろうか。
ついでに私達天人にとっての模範的とは何かと言うならば、“天人であり続けること”や“悟りを開いた涅槃の後、浄土へ赴くこと”を純粋に希求している連中なのだろう。
ある日の朝、起きた私は不快感を伴っていた。
暑くも無いのに寝巻きが体に張り付いていた。
環境が整っているこの天界で、汗をかいたりすることも珍しい天人の私が、だ。
浴室で服を脱ぐ。服は脂汗で湿り、体を擦ると垢が落ちた。
私はこの状態を知ってはいたのだが、最初に思った事は
「御父様が私に会ってくれる口実が出来た」
だった。
「総領様、天子様がお見えです」
衣玖に頼んで御父様に会った。このとき衣玖には私の事を話さなかったけれど、空気を読んでくれたのかいつもよりあっさりと聞き入れて貰えた。
御父様は天界で研究をしている天人に私を診るよう指示を出し、私がそれを回避することが出来るように、私を助ける為に力を尽くすとかなんとか言って部屋を慌しく出て行った。
今でも時々判断に困る。あれは私の為に心から慌てて部屋を駆け出していったのか、それとも私といることに耐えられなくなって逃げ出したのか。
「ねぇ、衣玖。とまぁ、こうこうこういう訳で私の天人五衰が始まったみたいです。しばらくしたら私は死んじゃうけれど、それまで一緒にいてね。勿論私はもうお稽古とかお仕事とかしなくてもいいんだから。それと貴女も当面は他のお仕事をしなくてもいいように御父様にお願いしておいたから」
「総領娘様」
「ねぇ、衣玖。こんな事を伝言係の貴女に頼むのは筋違いかしら? でも私他に知らないからさぁ、私と一緒にいてくれそうな人」
「私で良いのですか?」
「貴女が良いのよ」
「総領様は?」
「私の状態を治すための方法を探すのに忙しくて、一緒に居てくれる時間を取れないみたい。ねぇ、衣玖。貴女はこれから私が死ぬまで一緒にいて、私と過ごした時間や私の様子を御父様に伝えるのが仕事だったりする? 今は何も言われてないかもしれないけれど、そう命じられたらそうする?」
「御父上様は私に伝令たることを望まれました。総領娘様は私に私であることを望まれました。少なくとも今お話しされている女は貴女様の衣玖です」
「うん。ありがとう、衣玖」
「ねぇ、衣玖」
「はい、総領娘様」
「そうそう、それなんだけれどさぁ。名前で呼んで欲しいなって思って」
「………えっと―――」
「天子ちゃん、とか。………ダメ?」
「え、えっと……」
「ほれほれ早くぅ」
「〜〜〜っ。―――総領娘ちゃん♪」
「語呂悪ッ!? 衣玖がボケた!?」
「はい、勿論冗談です。急に言われたのでちょっと混乱しました………天子さん」
「惜しい、もう一声!」
「て、天子ちゃ…ん」
「くぅーー!! キターーーーコレ」
「やっぱりちょっと呼びづらいです………天子様」
「ん、まぁいっか」
「ねぇ、衣玖」
「はい、天子様」
「どうして天人ってあらゆる快楽に満ちたこの天界で、進んで仕事だの苦役だのを行おうとするんだろうね?」
「…………以前お教えしたではないですか。徳を積むことで悟りを開き、仏陀となって極楽浄土に赴く。これが天に住まう者達の到達すべき至高の目標です、と」
「でも実際にそうなれたのはお釈迦様以外に一人もいないんでしょ? やり方間違ってるんじゃないの?」
「えっと…………」
「いや、別に衣玖が悪いなんて思ってはいないけれど。あ〜、でも私みたいなのが御父様や他の連中よりずっと早く死んじゃうっていうのは関係ありそうかも」
「天子様………」
「まぁそれでも数百年も生きたし、死神も倒してきたけれどね。あ〜あ、あっけないねぇ。っていうかなんで皆こんなに楽しい場所に来ているのに苦しいことばっかやってまで長生きしたいかねぇ?」
「ねぇ、衣玖。御父様は?」
「すいません天子様、私には総領様からの指示やその他は一切入ってきていないのです」
「御父様、私が長生きする方法見つけてくれるのかなぁ」
「信じてお待ちしましょう」
「一緒に居てくれるだけでいいのに。そもそも御父様自身は研究者じゃないんだから、部下達に指示だけして私の側に居て欲しかったなぁ」
「…………」
「でも、かわりに衣玖が居てくれるから平気♪」
「はい、私で良ければずっとお側に」
「だから貴女が良いんだってヴぁ」
「ねぇ、衣玖」
「はい、天子様」
「今の私って、臭う?」
天子は目が覚めた後、言葉通り一日中側に従う衣玖を伴って湯浴みをする。今まで身の回りの世話をしていた者達は皆外れている。クビにしてやったのに何処と無くほっとした顔を覚えている。
衣玖に体を洗ってもらい、お返しに衣玖の体も洗ってやる。当初は衣玖の方が戸惑っていたが、天子にとって衣玖は世話係ではなく友人として側にいて欲しいらしい。
湯浴みの後、寝室で尋ねた。
「いいえ、全く。強いて言うならば天子様の匂いがします。あ、あと少しだけ桃の香りも」
洗ったばかりでは天子の言う様な臭いなどするはずが無い。
天人五衰の次の事象が発現し始めたのでない限り。
「そっか。うん、良かった。…………あのさ、衣玖。私さ、そのうち体がどんどん汚くなって臭くなっちゃうからさ、その前に衣玖にして欲しい事があるんだけれど………。ダメ、かな?」
「天子様、私で宜しいのでしたら」
「だから貴女が(ry」
「どう、でしょう? 私の指は気持ちいいですか?」
天子の秘裂に指を這わせて撫でるように愛撫する。
「う、うん。なんだかお腹の辺りが熱くなって、気持ちいい、かも」
「キス、してもいいですか?」
右手の指を股座に差したまま、すぐ側まで顔を近づけて聞いた。
「ふぁあ、衣玖意外と積極的だよぉ。私の方があれこれ指図するつもりだったのにぃ」
「ご冗談を。未経験の少女に手玉に取られる私ではありませんよ」
天子の返答を待たずに唇を奪った。
「んくっ、ん〜〜!」
「っぷはぁ。次はもっと良くして差し上げます」
衣玖は足で天子の顔を跨いで尻を向ける。立場を考えれば絶対にありえない態度、伽だとしてもありえない体位だろう。
「んちゅっ」
「ふぁぁあああっ!」
顔を恥丘に埋めて陰核を舐める。舌で皮を剥き、吸う。
「いい反応ですね、天子様♪」
「うくっ! 私だってぇ!!」
「ひゃぁぅん!!!」
チロリと出した舌で割れ目を舐め上げただけ、それなのに天子よりも大きな反応をして仰け反った。
構わず自分がされたことと同じようなことを真似してやってみる。勃起すると少し大きめの陰核をおしゃぶりのように吸い付きながら膣に指を挿入するというアレンジ付きで。
「ああっ! ど、何処でこのような事を!? 許せません! 私の天子様になんて不埒な!!」
チュバチュバ キュポン
「いや、貴女以外としてないわよこういう事。真似してみただけだし」
(衣玖性格変わりすぎでしょ………。でも、ま、嬉しいけど/// ふ〜ん、私の天子ねぇ ムフフ)
「ふぁっ! 先にイっちゃいます〜。ああんっ」
「え? ええっ!? うわっ!!??」
プシュッ
互いの体を洗いっこする湯浴みのときですら淑女全開だった衣玖は、タガが外れるとこうなるらしい。快楽のメーターはとうに振り切ってプライドだけで持たせていたのが、天子の言葉によってその堰も崩された。
口と指だけで絶頂に導かれ、愛液が天子の顔に降り注いだ。
「…………す、すいません」
変態という名の淑女である一面を露呈した衣玖は、淑女モードに戻ってから素で謝る。
「う、くくっ、くは、あはははははははっ♪」
「うぅ〜」
その様子を見てさも可笑しそうに笑った。
その日は一日、何度も体を重ねた。何度も何度も衣玖はイかされ、その度に一方的な反撃(ご奉仕とも言う)の時間を要求した。
対等な関係を望んでいた天子に却下され、二人は互いを愛し合える体位を取り続ける。シックスナインに始まり王道の貝合わせ、どこからとり出したのか(というかいつから準備していたのか)衣玖が持ち出した道具を使ったまぐわい。
天子は一度も絶頂を迎えなかった。
それは初体験だった天子にも分かったし、相手の衣玖にも分かった。
無論感じていないわけではなく、ラウンドが終わるたびに充足感や満足感はたっぷりと味わえてはいた。
衣玖が下手だったわけでは無いだろう。生まれながらにそういう体質の人もいるし、何より今の天子は
「ありがとう、衣玖」
「天子様、私―――」
言いよどむ衣玖の胸の谷間に顔を埋めて自分の両手でぱふぱふする。
「あったかいね」
「はい」
「うん、これでよし。それじゃあちゃんとお仕事しなさいよね、私はもう大丈夫だから」
翌日、唐突に出かけると言い出したかと思うと、ついて行きたいと言う衣玖をなだめて元の仕事をして欲しいと天子は頼んだ。
「御父様にお会いしてくる」
衣玖は誰からも仕事を言いつけられてはいない。龍神の言葉を伝令する生来の仕事以外は。
「それからちょっと幻想郷の方に遊びに行ってきます。でも心配しないで、私の帰ってくる場所はここだから、衣玖の胸の中だから」
そう言ってふざけた様に衣玖の胸に飛び込み、諸手でモミモミした。
「御父様のおまけでなった天人だったけれど、衣玖と会えたからそれだけでも良かったと思うよ」
衣玖は自分の胸に顔を埋める天子の頭の匂いを嗅いだ。髪はしっとりと纏まらず、不精な女性のように萎びていたが、天子の匂いは“まだ”天子の匂いだった。
「それじゃあちょっと行ってきます」
何が大丈夫だというのだろうか?
「御父様に会いたいの」
「申し訳ありません総領娘様、父君は貴女様を救おうと必死になっていらっしゃいます。こちらにはご不在です」
何度この問答を繰り返したのだろうか?
父が仕事場として足を運びそうな場所を手当たり次第に当たっても帰ってきた答えはすべて同じ。それ以外の場所にいるのか、それとも今まで回ったどこかにいたのか。それは分からなかった。
天界の宮から離れ隅っこの方、幻想郷に近い場所で、天子は家から持ってきた箱を取り出した。
下界の祝い事や記念日と無縁な天界で、ただ唯一父が天子とお祝いをする日。父が天人となり、天子がそのおまけでここにやって来た日。
最初の百年は盛大にお祝いしていた気がする。父も良く私に会いに来てくれた。
次の百年は仕事が忙しくなったのか他の日はなかなか会えなくなったけれど、その日だけは忘れずにお祝いした。
いつからだろう? プレゼントだけが私の部屋に置いてあったり、部下が渡しに来るようになったのは。
何百年か分のプレゼントは全てとってあり、今年のその日はとうに過ぎたけれどどれが何時の物か、時系列順に並べろと言われたらたぶん出来る。
箱を開けた。
コインが入っている。8枚の硬貨。外の記念硬貨。
流れ着く外の物を扱う幻想郷の古道具屋に使いを出して買いに行かせたのかもしれない。天人も御父様くらい偉くなると自由になる外とのパイプを持っているのかもしれない。妖怪隙間女が父の威光にひれ伏して献上したのかも………、これは無さそうだ。
一枚一枚手に取って眺め、ポケットにしまう。去年のお祝いで貰った高価そうな懐中時計も同じポケットに入れておいた。
ついつい一人で笑ってしまう。私が持っているモノはみんな御父様から与えられた物だ。私が手に入れたものは何一つ無いんだと。
箱はそこいらに捨てた。
シュタッ!
天界から飛び降りて幻想郷の大地に降り立つ。こちらはまだ明け方で動物達が起き始めた頃合のようだ。
緋想の剣も要石も持って来れなかったが、まだ簡単な能力は使えるようだ。衣玖の言葉を信じれば自分は酷い臭いを放つまでには至っていないらしい。もっとも、彼女を疑う気などないが。
キョロキョロと辺りを見回して自分の場所を把握する。ここは魔法の森らしい。近くに住む友人は二人。とりあえずその片方の家に向かって歩いた。
霧雨魔理沙という少女の家の前で身なりを整える。髪だけは梳かしても梳かしても無駄でチョロチョロと跳ね上がる。いつもの帽子を深く被ると気にならない程度には抑えられた。
コン、コン
「誰だ?」
ガチャッ
問いかけと共に玄関が開く。
「裏ね」
「裏だな」
魔理沙は表と宣言し、コインは裏を向いて地に落ちた。
「残念だったわね、拾ってもらえるかしら?」
「仕方ない、こいつはお前のものだ。ほらよっと、惜しいことしたな。まったく、一大決心の日だって言うのにケチが」
バシンッ
魔理沙は床に倒れ伏した。
「よいしょっと」
左側のポケットから取り出し、魔理沙に投げられて床に落ちたそのコインを拾い上げて右側のポケットに仕舞う。
まず一つ、御父様のコインは私の物になった。魔理沙がそれを選んだから。
霧雨魔理沙は大事な用事があるという日に短い生涯を閉じた。魔理沙がそれを選んだから。
別段私の罪を転嫁する気はない。ただ私がそうしようと思ってそうしただけの事。彼女の所為では無い。そういうこともある。それだけ。
私は私の意志で天人になったのではない。天人になりたいと願ったわけでもない。父が誇らしかったし、私自身偉くなったような気もして当初は気分が良かった。今更どうしようもない。そういうこともある。それだけ。
魔理沙の家を出て次の場所に向かう。一番近いのは同じ森の中にあるアリスの家だろう。
アリスの家は静かな場所にあった。
日の光が差し込む小さく開けた場所。魔理沙の家で感じたジメジメした印象ではなく、こんな場所にありながらも気品のある家だった。
側にハーブも植わっていてなんとも西洋の趣のある一軒家だった。
コン、コン
「今行くわ」
落ち着いた声で部屋の中から返事が聞こえた。
コインを押さえていた手を離す。
「表ね」
「表だわ」
アリスはコインを大事そうに手にしてくれた。
「大切にするわ」
「ううん、貴女の好きなようにして構わないわ。売ってもいいし誰かにあげてもいい、捨ててもいいのそれはもう貴女のものだから。お茶、美味しかったわ。じゃあね」
本心からそう思う。あのコインは彼女の物だったのだ。ただ一時的に父の手に渡り、私が預かっていただけ。本来の持ち主の手に返った。ただそれだけ。
カップのお茶を飲み干す。独特の甘みと渋み、そう彼女は言っていただろうか。私には味はなにも分からなかった。だがこう見えても私は天人、長い時を生き、徳が積めるのかどうか知らないけれど習い事も数多くした。
ティーポットに残る出涸らしを見、匂いを嗅げば大体解る。薬草や漢方の知識も持ち合わせている。無病息災の天人が一体何のために? 客人を持て成してくれる主人を騙す為にだったらしい。
「もう味覚もやられたのかしら?」
とりあえず人里の方に歩きながらそんなことを口にした。
何気なく里の外れにある茶店に入る。客は誰もいない。寂れた店なのだろうか? その割には小奇麗な内装だが。
「如何されますか?」
初めての店なのでメニューをくるりと見渡した。
五衰の顕現として感覚が一つずつ消えていくらしいが、その先方として味覚が無くなったのかもしれない。触覚視覚聴覚と比べれば嗅覚や味覚はわりと重要度が低いのではないか。などと今の自分の置かれた状況を楽しんでしまった。
「ところてん、って酸っぱいやつ?」
「はい、三杯酢で味付けております。しかし当店のそれは酸味だけでなく深みのある味わいとなってます」
「どうやって?」
「とある出汁を加えておりますが、そのあたりは企業秘密ということで」
「うん、じゃあそれ」
「毎度有難う御座います」
奥に引っ込んだ店主はしばらくしてからところてんの入った皿を持って出てきた。
琥珀色に輝く汁に浸された透き通るように透明なそれが目の前に置かれる。
「お待ちどうさまです」
「いただきます」
ところてんを口に運ぶ。チュルンとした食感が心地いい。
お酢の酸味も、店主が誇る出汁の味わいも、何も分からなかった。
カラカラという音がして戸が開く。新しい客が入ってきた
「あら、奇遇ね」
本当に奇偶だった。これから訪ねようとしていた相手の一人。以前天界で神社の施工記念の宴会を開いたとき、来てくれた少女達の一人。
「貴方もここに?」
「はぁ。それでコイン投げの勝負との事ですが、博打は勝負とは言えないと思います。自分の努力やその成果が反映しないような勝負はしたくありません」
妖夢は賭け事が嫌いらしい。
「別に良いじゃない。私が勝手に自分のコインを賭けるだけで、貴女はそれに付き合ってくれるだけでいいのよ。それに貴女の言う様な勝負事だって、時として運が関係する事だってあるのではない?」
「剣士は相手の筋肉の動きや呼吸、その他相手から発せられる気などを読み取って戦うのです。そこに運などというものが介在する余地はありません。仮に運否天賦で決まるような状況に陥ったとすれば、それは修行が足りなかったからに他なりません。その状況を回避しより有利な状況に持ち込める筈だったのが、実力が至らず“運”などという不確定なものに委ねる羽目になるのですから」
彼女の言いたい事は分かる。だが、仮にそれを望んでいたとしてもそうならない時もある。
彼女が運に頼らずとも私より強いなら、きっと私がこれからする事は防がれてしまい返り討ちにあうだろう。それはそれで良いのかも知れない。
「そっか、受けてくれないんだ。残念だなぁ………」
お椀を持って席を立った。もう片手にはコインを持ち、懐には切っ先が鋭く斜めに割れた箸を忍ばせて。
ピーーーーン
妖夢の横を通る際にコインを放った。
彼女はそれを一心不乱に目で追った。
カンッ
「裏です」
ワンバウンドしてから表裏を宣言する。彼女の実力が確かなら的中しているのだろう。勝負を受けなかった彼女にも自分にも最早関係のないことだが。
妖夢は背後に立ち割り箸を振りかぶる自分に気がつかない。
普段の自分だったらこのような事は出来なかったに違いない。最早何も心が揺れ動かない。まるで家の下にある石のように、ただ無感情にそこにあるだけ。それに妖夢が気づけなかっただけ。
魔理沙を殺したときもそうだったが、五感の前に心が死んでしまったようだ。
私が自らの生を諦めたその瞬間に。
ドズッ ゴンッ!
「かはっ! がっ、がぁーがぎごぉ!?!?」
腰の剣を引き抜き、続けて刺した。
まるで何度もリハーサルを行った演劇の殺陣のように。その場合は鬼気迫るシーンを演出しながらも実際には誰も怪我をしないのだが、反対に観客にも役者にも分からない自然さで以って致命傷を与えた。
「―――――!!!!!」
刺突の痛みに硬直したはずの妖夢が、力なき少女の驚愕の目から、守るものを持つ真の侍の瞳となって一瞬だけ動く。
パキンッ―――――
今度は私の方が先程の妖夢と同じ、あまりに滑らかな動きに取り残される。
手にしていた刀が折られた。
私は折れた剣の柄を一瞬だけ見やるとそれを捨て、もう一つの剣を手に取った。
ゴトン チャキンッ ヒュバッ――――――
正直彼女の行為の、その意味は分からなかった。
なぜあの状況で刀を折ることに傾注したのか。
どうでもいいことだ。
背負っている大きい刀を抜いて回転しながら切りつけ、半身を分断した。
ガタッ 「カハッ―――!」
放っておけば死ぬだろう。
妖夢は死ぬまでの間、とても痛くて苦しい思いをするに違いない。
救ってあげれるのは私だけなのだ。
ドスン
妖夢の剣で頭を貫いた。
「ヒッ―――!」
店主が戻ってきた。
手近な武器を見渡し、天子は床に落ちていた折れた剣を思い出す。
店主を絶命させてからコインが乗った机の上を見る。
妖夢の宣言通り裏だった。
少しだけ考えたが、このコインを手にしたのは妖夢のような気がする。まぁ、そういうこともあるだろう。
二人の命を奪い、かつそれに何の感慨も無く店を出る。そこで思い出した。
食べた分のお金の支払いを済ませていないと。普段天界でそういう事はあまりしないし、仮にしても父親のツケにすればそれで済んだから。
2万円とかなり多めにお金を置いておく。支払うことを出来なくさせてしまった妖夢の分も含めて自分が出す。
再び店を出る前にもう一つだけ思い至る。
自分が支払ったのだから、妖夢が注文した菓子は自分が持ち帰る権利を持っているのではないか、と。
無論大食漢の亡霊姫が食べる分量など必要ない。
厨房を借りて天子は三色団子の桃色団子だけ数個とって集めると、自分の体を傷つけて流れ出た血を混ぜ込んで練り直す。元の色とあいまって違和感は無い。
ただ、普段なら刃も通らないような自分の体から出た血に、天人としての性質が宿っているのかは試してみなければ分からないことだが。
ツンツン
「んあ?」
目を覚ます。目の前の少女が自分の鼻の頭を突っついていた。
「おはよう」
「…………」
軽く自己嫌悪。これほど近づかれて無防備な姿を晒してしまうとは。
「目ぇ覚めた?」
「おかげさまで。紅魔館に何か御用ですか?」
「ここに住んでる咲夜っていうメイド長とパチュリーっていう魔女さんに会いに来たのだけれど、通して下さらない?」
美鈴はジロジロと相手を見る。
「残念ですが、比那名居天子さん。貴方はうちのブラックリストのかなり上位に記録されています。上の判断を仰がなければそう簡単に中にお入れするわけにはいきません」
「え〜〜?」
「わざわざ寝ている私を起こした位ですから侵入者とは扱いにくいのですが………。貴方は門番の私にとっては初見ですし、もう少し普段の素行を良くして此処の方々に信頼されてから招待されて下さい。その時は心からお招きしますので」
「う〜〜ん」
そういうわけにはいかない。そんな時間は自分には無い。この門番にも用は無いのだから。
「………ねぇ、貴女。もしかしてあっちの方にある花壇を手入れしている妖怪って、貴女のことかしら?」
そう言って指差す。
「ええ、まぁ。貴方の様な方にも知られているとは、意外と有名になってしまいましたね」
「空の上から見えていたわ。とても色取り取りで綺麗なお花畑。真上からの俯瞰も美しかったけれど、実際にその場で花々に囲まれるというのもさぞ素敵でしょうね」
「いや〜/// まぁ、それ程でもありますけれどね」
スタスタスタ
「あっ! ちょっと天子さん?」
花畑の方に向かって歩き出した天子と、それを追いかける美鈴。
「………本当に綺麗、凄くいろんな種類のお花がある。葉や花びらにも色々な形あってとても素敵ね」
(葉や花びらの形?)
「ええ。いい匂いがするでしょう? 紅魔館自慢の花壇ですよ」
先日の事もあり、この場所は晴れて当主レミリアの公認の場所となった。美鈴はお墨付きをもらえて単純に喜んだが、実際は花壇の出来をレミリアが自分の手柄のように自慢できるという理由もある。
「うん………、そうね」
しばらく天子は花々を愛で、戯れていた。
「そろそろ私は門に戻りますね。紅魔館に入るにはどなたかの招待があるのが一番なのですが、此処だけならいつでもいらして下さい。全部なんて無茶を言わなければ花を摘んでいって下さっても結構ですから」
「うん、貴女いい人ね。ん? いい妖怪さんかしら? これはお礼、食べて頂戴な」
天子は懐からトウモロコシの葉で包まれた団子を取り出した。
「賄賂を頂いてもお通しする訳にはいきません。………ですが貴方が私の花壇で喜んで下さったのでしたら、お礼としてなら受け取っておきましょう♪」
何だかんだと回りくどく言いはしたが、最終的には嬉しそうに受け取りそれを頬張った。
「んん? なんか変な味ですねぇ。血の味みたいな………でも人間の血じゃな」
言葉を失い目を見開いて目の前の天人を見つめ、全てを理解した後で膝から崩れ落ちて花畑に沈む。
妖怪にとってのみ猛毒である天人の肉、ならば血はどうなのか? 天子はそれを見届けた後、空を仰いで呟いた。
「まだ私は天人なんだ」
色の感じられなくなった目で灰色の空を見上げながら呟いた。
「お邪魔します」
館の正面玄関から入り周囲を見渡した。誰もいない。広い館とは言えもう少し女中が行ったり来たり仕事をしていても良いのではないだろうか。メイド長と魔女に会いたかったのだが、二人が何処にいるのかは知らない。たしか魔女の方は図書館に篭りっきりだった気がする。上から見た館でそれらしい大きな別館の方に当りを付けて適当に歩いた。
「大図書館、ここね」
大きな扉の上にある金のプレートに彫られた部屋名を読み上げてから入る。
「どちら様ですか?」
赤い髪に翼を生やした少女が待ちうけ、来客と勘違いしたのかそう尋ねられた。
「パチュリーっていう魔女さんと知り合いなのだけれど、こちらにはいないのかしら?」
「パチュリー様でしたら向こうで読書をなさっています、ご案内致しましょうか?」
「お願いするわ」
パチュリーの使い魔と自分を紹介した少女はその仕事に慣れた様子で自分を主に引き合わせる。
「あら、不良天人が何の御用かしら?」
「こんにちは、ちょっと久々に降りてきていろんな所を訪ねてまわっているのよ。これ、博識な貴女ならご存知だったりするかしら?」
左のポケットからコインを取り出して見せる。
「5000の数字、OSAKA EXPO’90の字。外の記念硬貨ね?」
「さすが、知識の魔女さん。花と緑の博覧会記念のコインよ」
「正直、私には縁の無いイベントね」
「そうかしら? ここの門番さんは園芸の心得があったみたいだし、この表の面、花冠の少女というのはなかなかの絵柄ではない?」
「そういう言い方をするという事は、それを私に譲ってくれるということかしら?」
知識の魔女らしく天子の求めていることを目ざとく察するとニヤリと口元に笑みを浮かべて尋ねた。
「察しが良くて助かるわ。私と賭けをしましょう、コインをかけてコイン投げの勝負。表裏を貴女が当てるだけの簡単な勝負」
「私の掛け金は?」
「特にいらない。これは私の遊びで、何人かの幻想郷の人や妖怪に付き合ってもらって数枚のコインを一人一枚ずつ賭けて勝負しているの。全員終わって何枚が私の手に残るか、っていう私の中の勝負」
「あらそう。でも私としても何も無しというのも気分が良くないわ、貴方の指した本を一冊だけ、まぁそれが貴重な本じゃなければという条件付だけれど、私が負けたら持って帰ってもらって結構よ」
「へぇ〜。………じゃああれなんか良いかしら?」
本棚の上段にある本を指差した。その指先をパチュリーの目線が追う。
「どれ?」
「あれあれ、“こうぎえん”って書いてあるやつ」
「…………一文字違っているけれど良いの?」
「え? 広技苑ってもしかして貴重な本?」
「いえ、いいわ。私が負けたらあれをあげる」(惜しくないし)
外で幻想入りして回りまわって大図書館の蔵書となった。外だと攻略Wikiとか簡単に見れるようになったし、裏技バグ技の情報が簡単に共有されるようになってソフト毎の単発情報の本なんて誰も買わなくなってしまったのだろう。
「それじゃあいくわね」
ピーーン カンッ パシィッ
「表か裏か、Choose ― heads or tails?」
「………裏」
机からコインを押さえていた手を離す。
「表だったわね」
「みたい」
「はぁ、仕方ない。持って行きなさい」
「うん、ありがとう」
天子は飛ぼうとした。だけれども少しだけ浮くのにも凄く力が必要だった。本の高さに届くのが精一杯の力しかない。
(もう自力じゃあ帰れないんだ)
本を手にして力を抜く。ふわりと体が重力に従って落ちた。
ゴツン!
「むぎゅぇ!?」
そのままパチュリーの頭の上に本を打ち下ろす。頭蓋が砕けて血と脳漿が辺りに飛び散った。
飛ぶ力は弱まってもまだ多少の筋力は残っているようだ。体を捻って返り血を浴びない彼女の背後に着地しながらの一撃を決めることが出来た。
本で殴られて大きな音をたて、奇妙な断末魔をあげて図書館の主は絶命した。だが誰も駆けつける気配は無い。
メイド長の咲夜も、使い魔の小悪魔も。
後者は少し離れた所でうずくまっていた。帰り際の天子が遭遇する。
「パチュリー様が、パチュリー様が、パチュリー様が、パチュリー様が、パチュリー様が………」
「お前が殺したお前が殺したお前が殺したんだぁーーー!!!」
召喚者、使役者が突然に逝去して壊れかけている。だが別段彼女の狂気の矛先は間違ってはいない。
飛び掛ってきた小悪魔の鋭く伸びた爪をすんでのところで避ける。そのまま彼女の背後から羽交い絞めにして首を極める。
「ウ、ガ、ガッ」
左腕は喉下に完全に入り込んで左手は右上腕を握り完全に首を固定する。
これが絞め技ならフリーの右手で左手首を強く手前側に引っ張り、頚動脈を押さえて相手を落とすのだろう。
天子は右手のひらで小悪魔の頭頂部を強く抑え、そのまま前に力を込める。
左手でがっしりと首を引き付けて抑え、頭だけを前に。
ゴッ
絞首刑の受刑者が自分の重みと位置エネルギーによってそうなるように、小悪魔はC5−C6、すなわち第五・第六頸椎が破壊、分断されて神経が切断された。
召喚者の死亡からある程度の時間が経てば自動的に魔界に帰還できたものを。彼女には契約以上に主やこの館に対する思い入れがあったということだろう。
同じ道を通って館を出る。やはり咲夜とは会うことはない。
途中すれ違う数人のメイド妖精も自分の事は関せずに適当に仕事をしていた。目的のない生と無意味な仕事の仕方に天界の天人を思い出す。彼らは憤慨するだろうが、この妖精達と天人達に十分な違いを見出すことは出来なかった。
博麗神社までの道のりを歩く。あの場所なら巫女と子鬼、もしかすると主に付き添っているメイド長もいるかもしれない。
館を出て歩いている途中で気がつく。草花の、下界特有の匂いがしない。大抵の天人なら下賎で穢れていると忌み嫌う臭い。天子は人間だった頃を懐かしめてわりと好きになれそうだった匂い。
味と色と匂いのない世界を天子は歩く。博麗神社への道のりを一歩一歩踏みしめながら。
一歩一歩、ゆっくりと。聴覚は弱ってはいたが聞こえていた。
「うわーーーい、てんしぃ〜〜〜!!」
遠くで自分を呼ぶ陽気な声がする。楽しかった宴会の模様を思い出し、その幻影に向かって手を伸ばした。
ズシャッ
子鬼は泣いていた。
冗談のつもりで踏みつけた天人は、普段ならば泥まみれにはなっても無傷で起き上がり、自分に対して怒って追いかけて来るはずだった。
普通の人間が巨大化した鬼に踏みつけられればそうなるように、グチャグチャに潰れてしまった天子だった肉塊を萃香は見た。しばらく呆然とした後、両手で掬っては元の形になるように寄せ集め、涙を流した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。こんな事になるなんて、こんな、こんなことに………。ううっ、うわぁーーーん」
子鬼は泣いた。自分の浅はかさと罪を嘆き、大切な友人の一人を自らの手にかけたことを心底悔い、悲しみと絶望の中で涙を流す。天子の血の上に涙がぼろぼろと零れ落ちて混じり合う。
萃香に抱きかかえられるひしゃげた体。その左ポケットの中には4枚の硬貨が、右ポケットには2枚の硬貨がそれぞれ入っている。
それとは別にお尻のポケットに入れていた懐中時計が地面に落ちた。
風防は粉々に砕け散っていたが、かろうじてその文字盤には針がのっている。
完全に機能を停止していた時計だったが、その時刻だけは記録していた。
12時
衣玖は天界の隅っこでただ立っている。少しだけ離れたところに空っぽの箱が落ちていたが衣玖は気がつかなかった。
ただただ衣玖は静かに凛と立っている。
竜宮の遣いは龍神の声を聞き、それを届けるのが使命である。一番端っこのこの場所で、その時が来るの待ちながら立っている。
空間に裂け目が開いた。中から落ち着いた風貌の婦人が現れる。
衣玖はそちらの方に体ごと目を向けた。知っている相手ではなかった。
「貴方様が天人様で御座いますか?」
現れた女はキョロキョロと周囲を見渡してから私に尋ねる。
「いいえ、私は天界に住む竜宮の遣いです」
慇懃にものを尋ねる彼女に、ただ事務的にお答えして差し上げた。
「私は聖白蓮という名の僧侶です。最も、私めは仏の教えに背を向けた生を送り、天人様とも天界とも縁遠き人間に過ぎませんが」
「それでその破戒僧さん、天界に何か御用でも?」
白蓮は困ったような顔を一瞬見せ、すぐさま信念と決意で心も顔も塗り固めて応える。
「こちらに比那名居天子さんという天人様が居られるはずです。私は彼女の力になってあげたいのです、彼女を救って差し上げたいと思うのです」
「貴女は天子様と見知りなのですか?」
「いいえ」
「天子様が幻想郷でどの様なことをされたかご存知ですか?」
「はい」
「今の天子様の事を把握しておられますか?」
「八雲紫様がお聞かせ下さった事だけではありますが」
「あの方がお許しに?」
「はい。3度お話しして、その都度諭されて良く考え直し、そしてなおお願い致しました。4度目で、お聞き届けて下さいました」
断られる度に白蓮は魔理沙の父に会い、アリスに会い、レミリアと咲夜に会い、幽々子に会い、萃香にも会わせて貰ってそれぞれと話をした。
そして、再度頼み込む。紫は白蓮を信頼したのか、あるいは無意味と知りつつ熱意を酌んだのか、……ただ面倒になって根負けしたのか。
「そうですか、天界の宮はあちらに。天子様は離宮の方におわします」
衣玖は白蓮から視線を外して体を背ける。白蓮が天界に赴く前と寸分違わぬ姿勢に戻った。
「有難う御座います、竜宮の遣いさん」
白蓮は衣玖の背中に深々と礼をした。
「お帰りの際にはまたこちらへどうぞ。私の方から紫様にお伝え致しましょう、それが私の仕事ですので」
微動だにせず、言葉だけを返す。
「…………私は比那名居天子さんを救うために此処まで来ました、それが成されるまで帰る心算はありません。私如きにそれが成せるかどうかは分かりません、しかし何かをして差し上げたいのです。きっと、誰よりも救いが必要なのは天子さんであるはずですから」
衣玖は背を向けたまま何も応えなかった。
白蓮は再び深々と衣玖の背中に礼をする。
そして白蓮は衣玖の指し示した天界の街がある方向に歩き出した。
「天子様!」
下級天人達によって移送された天子は離宮に運び込まれて寝かされていた。
離宮という呼び方は実に適切だ。総領の領地にありながら、主人は一度たりとも訪れた事の無い様な、それ程には普段使用している屋敷やその他人々の行き来する場所からは遠く離れている場所だった。豪勢な外観と豪奢な内装、そして一応家政婦によって行われる毎日の清掃が無ければ、そこは小屋や倉庫となんら変わることのない場所だった。
「天子様、私です。貴女様の衣玖で御座います」
衣玖は連絡を受けてから飛ぶようにして此処へ向かった。
総領の部下である下級天人が面倒そうな様子で衣玖に伝えに来た。いろいろと厄介な問題を処理するのに追われ、優先度は低いと後回しにされつつも何れは必要だろうとようやく来た連絡だった。
「あ、あ、衣玖………」
天子は天子だったけれど天子ではなかった。
「はい、遅くなりましたがこれから衣玖はいつまでも貴女様のお傍にいます」
髪は全て抜け落ち、ぐちゃぐちゃに潰れた体は酷い臭いを発しながら現在進行形で腐り続けている。
「い、く。 ちゃ、んと しゅく。 だい 終わら、せたよ。も も、たべ いこ」
果たして挽肉のように潰れてからその体が腐りはじめたのか、あるいは生きながらにして腐敗を始めた体に受けた衝撃がこの形をもたらしたのか。それは衣玖には知る由も無い事だった。
「ええ、ええ。一緒に食べに行きましょうね天子様」
体は崩壊と再生を繰り返しながらゆっくりと、残酷なまでに実にゆっくりと終焉に向かって行く。体がこのような状態になっていながら未だ言葉を発することが出来るのは奇跡的なことだった。
「そ んな、いじ……わる こと。い、わな いで。また つぎ の、おけい…こ?」
腐った顔が残念そうに歪む。中で発生したメタンがボコボコと皮膚表面を押し上げ破裂したクレーターの出来た顔でも、衣玖はただ愛おしそうに見つめその表情を読み取り、その声を聞いた。
「いいえ、今日のお稽古はサボってしまいましょう。天子様のしたいことをしても良いのです、お付き合い致しますから」
グズグズになった天子の手を優しく握る。潰れてしまわないように、しかして自分の体温を彼女に与えてあげれるように。
「総領娘様には言葉も接触も、こちらからの何物も最早届きはしませんよ。先程からも何かうわ言の様にぶつぶつ言ってますが、会話は一切成立しません。棒で突いても何の変化も見えませんでしたから」
棒で突いた事があるのか、世話役を命じられている女中の天人が言い放つ。衣玖は振り返って睨み付けたが、彼女はそもそもこちらを向いてなどいなかった。直に触れたくも無いくらいに気持ち悪がって顔を背けている。嫌々だろうがこの苦行を耐えれば徳を積んだことになる。そういう天人独特の価値観と仕事で彼女はここにいる。そして衣玖自身は大事なお役目があるといっても、竜宮の遣いという妖怪であり天人よりは下の立場である。
だがその下の者である衣玖でも、釈迦以来誰も仏陀となって浄土へ行った者がいないというその理由は分かる。こいつらの醜い勘違いがそうさせていると。いかれた屑共め、生きるだけ生きて苦しんで地獄に落ちるがいい。
「へ、へへ。にげ ちゃう、もんね。 ここ、まで。おいで」
天子の目付けを言い渡されてから当初、彼女は父の与えた苦行の一環である稽古事や勉強、そして仕事を放り出して遊んでいた。
衣玖が来る前の彼女は実に分かりやすかったと言う。つまり父が直接天子に言いつければ、それがたしなめるような言葉であれ高圧的な命令であれ、天子は忠実に実行した。そしてそれ以外の者が、父の部下などが言葉だけを伝えに来たときは決まってサボった。
今なら分かる。叱りに来て欲しかったのだと。もしかしたら下界での事もそうかもしれない。そうではないかもしれないが。
「どこまでも追いかけて行きますよ。だてに今まで天子様とのかくれ鬼ごっこで鍛えられてはいません」
衣玖にはそれが出来なかった。
彼女の意思はどうあれ、ただ単純に無理なのだ。
逃げも隠れもせずここにいる天子の中に入っていけなかった。
そこにはただ物理的にもそれ以外の方法でも入っていけないという事と同時に、先客がいたのだから。
天子は衣玖の思い出と共にあったから。
「えへへ…………」
地獄の苦しみを16倍するといわれる天人五衰の只中にありながら。
天子は笑った。
何度も何度も。
衣玖は何日もこの部屋で過ごし、常に天子の傍らに寄り添っていたが、女中の言うとおりこちらの言葉は届かなかった。
「天子様、今日はお茶を立ててみませんか? 茶道のお稽古にもなりますし、何より美味しいですよ」
それでも衣玖は話しかけ続け、世話を欠かさない。
父とは違う形で自分を信頼し、心を開いてくれた天子。それを成しえた衣玖。
天人で長くあり続けること、あるいは悟りを開いて輪廻から解脱することを至上命題とする天人達。それぞれがただ、天子、衣玖でありたかった二人。
いつしか天子は言葉を発することも出来なくなり、その顔からはもう表情も読み取れない。
「天子様、私は天子様に出会えてよかった。貴女が天人になって、貴女のお父様が私を使ってくださらなかったら私はただの竜宮の遣いのままだった。決して、永江衣玖という個体になることは無かった。貴女の事を悪く思う者も多いでしょう。貴女の生まれと存在を呪う者すらいるかもしれません。でも貴女は私を救って下さったのです。少なくとも私の生に意味を持たせて下さいました。ですから私からも一つお返しをさせて下さい。貴女の生には意味があったのです、天子様」
長い時の果てに、死が天子を癒すまで。永劫に続くかと思われるような苦痛と苦悩の中で
天子は心の片隅に創り出した幸せな夢を見続けながら生きる。衣玖や、天界に遊びに来てくれたお友達
西行寺幽々子、伊吹萃香、パチュリー・ノーレッジ、アリス・マーガトロイド、霧雨魔理沙、十六夜咲夜、魂魄妖夢、博麗霊夢
記憶の中の彼女達も交えて
「天子様」
衣玖は甲斐甲斐しく世話をする。例え天子が自分を認識できなくても。例え状態の進んだ天子がうわ言すら呟くことが出来なくなってしまったとしても。例え顔の表情筋が機能しなくなっても。そもそも世話という行為に何の意味も無いとしても。
「天子様」
もし天子が衣玖の言葉を聴くことが、衣玖の手の温かみを感じ取ることが出来たのならば。
彼女はいつまでだって此処にいて天子に寄り添っていただろう。それこそ使命など投げ出して。
もし天子がうわ言で衣玖を求めてきたら、寂しいと、側にいて欲しいと望んだならば。
彼女は天子の下に参じるべく行動しただろう。あるいは彼女の言う友人のもう1人でも連れて行くべく、全く以って無意味な行為を躊躇い無くしただろう。
「天子様」
だが天子はそのどちらでもなかった。
腐りながら、天子は衣玖や幻想郷の面々との思い出と共に、ただ天人の行き着く義務でしかない生の最後のプロセスを生きていた。
現実の衣玖を縛る事無く、体を蝕む苦痛と心を蝕む苦悩の中で幸せな思い出で満足しながら。
少なくとも衣玖が天子の側で耳を傾けている間、ただの一度も“お父様”の単語は耳にしなかった。
「永江衣玖、御前にはそろそろ竜宮の遣いたる仕事に戻って欲しい。と、総領様が仰せである。今日付けで総領娘様の教育係の任を解き、本分に勤しめとここに通達する」
衣玖は天子の傍らを離れ、天界の隅のこの場所でただ龍神からの言葉を待つことにした。
「…………」
衣玖が出来る事は何も無かった。
元々何か有ったかと言えば、それは竜宮の遣いの使命だけだった様な気もする。
ただ天子の世話をする仕事を負わされてからの、彼女と過ごした日々が無くなっただけの話であって、元の状態に戻ったのだ。
衣玖自身が側にいなくとも、天子は思い出の中の衣玖とずっと一緒にいる。だから龍神の言葉を聴き、それを伝えるという大事な役目に衣玖は戻れた。
これほど苦痛の少ない天人五衰は無いはずだ。そう思えてならない、いや、そう思うしかない。
ただ自分の寿命を延ばし勘違いしたまま涅槃を目指した挙句に、結局自分には何も無い事に気がつきながら救いのない苦悩に塗れて死ぬよりは。
もう衣玖が出来る事は何も無かった。
ただ、かつて愛した主人が速やかに死ぬことを祈る他には。
「天よ、私を哀れんで歌って下さい 天よ、あなたのもとへ連れて行って下さい
あなたのいないこの場所で悲しみ以外の何を見出せるのでしょう 昼も夜もあなたが恋しいのです
私がここにいる事が奇跡であって 全てはあなたとの運命の星のお導きのままに
なのにどうしてこんなにも寂しいのでしょう 私は今以上にあなたのもとへ行きたいのです
私たちはとても近い そしてあなたを信じています こんなにも近い筈なのに、遠くて触れられないのです
いつか私を抱き締めて 私はこんなにもあなたを愛しているのだから
雨の時も嵐の時も、全てが過ぎ去っても あなたの子守唄に包まれたい
天よ、私に命の歌を歌って下さい 天よ、これが夢ならば目覚める前にお救いください
あなたの目に留まらないならば、私は天に召すでしょう 日が昇り、沈んでも、あなたを呼ぶ私の声がする
悲惨が呼びすまされる瞬間 哀れな魂はそれが正しい道かも知らずに落ちて行く
決して私を独りにしないと誓ってくれますか? あなたの腕に自らを委ねたい
私たちは近くて、私はあなたを信じている それなのに触れられないのはあなたが私を閉ざしているから
あなたが受け入れてくれる事を待ってるの 私の心だけがあなたでドキドキしている
風に煽られ、情熱に焦がされ、やがてそれらが過ぎても あなたの優しい声だけは、最後まで残っているわ
あなたに導かれて 立っていられる
そこがあなたの腕の中でなかったとしても 私は我慢する
それが終わりの時だったとしても、それでも私の愛はそこにあり続けるでしょう
私たちはこんなにも近い この誠意による愛になぜ疑問を持っているの?
そして閉ざしている だからどこか触れられない 抱き合っている筈なのに
でもそれがあなたで、私はこんなにも愛している
涙に明け暮れて、感情に押されて、やがてそれらが落ち着いても
あなたの存在だけは子守唄のように胸に有り続ける
私たちは似ている だからこそ近くて、不安を感じているのにこんなにも愛を信じられる
この愛に終わりがくる前に遠くへ行って そしたら私はまたあなたを求めるでしょう
そしたらまた抱き合って 私の心臓だけがあなたの鼓動を知っている
風に煽られ、情熱に焦がされ、やがてそれらが過ぎても
私たちの優しい歌声だけは、最後まで残っているわ」
紫によって連れて来て貰ったという尼僧がしっかりとした足取りで天界の宮に向かい、衣玖の背中から徐々に遠ざかってゆく。
衣玖はただ静かに自分が必要とされる使命の時を立って待っていた。
衣玖は一度だって後ろを振り返る事はしなかったが、空気が伝える気配を読んで背後の尼僧の歩いている位置を把握していた。
天界の隅でただ立っている衣玖との距離は大きく開いていた。
衣玖は天界の隅っこでただ立っている。
ただ静かに凛と立っている。
僅かに口が動いて何事か呟いたが、その言の葉は誰にも聞こえることは無く虚空に消えた。
【黒】
【白】
「気安く救いを口にするんじゃねぇ」
長生きした者の義務、というか道楽。惰性で続けるシリーズ物のゲーム。途中で止めたらなんか気分が悪い、見たいな。
今回は演出に凝っていますね。訳の分からない真相と単純明快な結論。
今までの『事象』は、『彼女』が起こした人生の理不尽の代行、具現といったところか。
私はそれほど博識って訳じゃないですよ。ちょいと無駄に年を食っているだけで。
それでは、また素晴らしい作品を書かれる事を楽しみにしています。
色々と失っていく彼女が“友達”を訪ねていく……泣かせるじゃないですか!
趣味や思考、好意や性癖なんかも全部『呪い』なのかもしれませんね。
そういう自分を本気で悩んでるつもりが全然深刻じゃない、みたいな
その事について深い絶望を覚える、とか考えながら実は本気でどうでもいいみたいな
こういうの並べてああもういいや、ってなるのに絶望するとか思っててもやっぱり本気でどうでもいいみたいな
だからこういう真剣な人の話を見るのが好きです
「黒」を押してしまう自分は震源地の遠くで好奇心に動かされる若造なんだろなと思いました。
「友達」になりきれなかった文はこれをどう伝えたのだろう。
幽香の暇つぶしかとも思っていました
残された人たちのその後とかもしあるのでしたら読みたいです
こちらこそこんな良いものを読ませていただいてありがとうございました
言われてみれば納得出来るミスリード(?)は面白いので大歓迎
ああ、しかし、そうか。天子は別に天人になりたかったわけじゃないんだよな
だからこそ、同じく与えられるままだったコインで、なりたくて天子のものになったんじゃないコインを手に、
彼女が自分自身で手に入れた友人たちを訪ねていっていたのか
もう一度読み返してくるわ
この話は、魔理沙もアリスも、妖夢も咲夜さんも、美鈴も、白蓮も、衣玖さんも、そして天子も。好きだ
ギミックとかいろいろ面白くて面白かった
>「むぎゅぇ!?」
これなんなのぜw
どうしても笑うのだけど
悪い意味での「産廃だから」的な妥協が無い様に感じられ、読後も良い映画(それがGOOD、BADENDかの作品の内容に関する感想とは別の、映画としての完成度に於いての意味)を観た後の様な清々しい気分です。
やった事はこの間バスで包丁で人を切り付けた事件の「終わりにしたかった」という犯人の男と同じで、死人が出てる分こちらの方が悪質とも言えますが、
一概に「消えたきゃ一人で消えろ」と切り捨てられない位には天子が哀れで…しかし、共感出来るかと言われればそれはそれで追いつかない。
悪で在りながら同情出来て、且つあくまで悪で破滅的という個人的に物語の悪役として大好きなタイプ(『シャイニング』の親父的?『夕日のガンマン』のインディオ?『ジパング』の草加?)の天子、良かったです。
映画みたいですね。ラストシーンが切な過ぎる。
天子が東方キャラの中で一番好きということもありますが、
ずっとずっと心に残る、それこそ一生残るくらいの作品になりそうです。
この作品の意味とか意義とかについて大したことは書けませんが、
こんな作品を生み出せる作者様に、只々感謝と尊敬するのみです。