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『進化』 作者: pnp
「女将さーん、お酒お願いしますー」
鴉天狗の甲高い声が飛ぶ。
「はい、ただいまっ」
それに答えた女将さんこと夜雀のミスティア・ローレライの声は、至極忙しげだ。
小さな屋台に群がる妖怪、妖精、そして極一部のおかしな人間。
普段から、店の規模の割に多くの客で賑わうことで知られているミスティアの鰻屋の混雑ぶりは、その日は特に酷い有様だった。
別に誰かが集客した訳でもなく、何気なくふらりと立ち寄った客がこの日はたまたま多かっただけのことだ。
それに加えて、新聞記者の鴉天狗が、同僚二人を連れて小宴会染みた騒ぎを始めたものだから、更に忙しさに拍車が掛かった。
どこでそんな金を手に入れたのかは不明だが、入店早々、ミスティアの目が点になる程の酒と肴を注文し、追加の勢いも増水した川の流れのように、まるで留まりをしらない。
森で拾ったなけなしのお小遣いで鰻を食べに来ていた妖精が、積み上げられて塔のようになった皿に向かって羨望の眼差しを送っている。
一人で店を営んでいるミスティアは、お盆を持ってあっちへ行ったりこっちへ行ったり。それが終わったらまな板に向かって、帰る客を見送り、来る客を迎え入れ――
読んで字のごとく、目が回る様な忙しさを体験し、本当に目が回る寸前であった。
いつか、こんなに忙しい日が来る――なんて、彼女の頭の中にはなかったことだ。
元々この鰻屋は、焼き鳥撲滅の為に始めたもので、こんなに客人でごった返す予定はなかった。
ちょっとずつ忙しくなっていく日々の中で、彼女は当初の目的を忘れて、酒と鰻と彼女の唄――或いは彼女自身――を求めてやってくる客人を、心の底から歓迎し出した。
『もうお前一人で営める規模じゃないよ。アルバイトでも雇ってみたらどうだ?』
こんな感じの、白黒の魔法使いのアドバイスは、言われたその日の内に頭から抜け出て消えてしまった。彼女はとても物覚えが悪いのだ。
そのお節介焼きな白黒の魔法使いもこの日、彼女の店を訪れていた。
順調に皿の塔の高さを更新していく鴉天狗達に歩み寄り、一声かける。
「よお、文。随分と景気がいいじゃないか」
「あら、魔理沙さん。こんばんは。えへへ、すごいでしょう」
鴉天狗は射命丸文、白黒の魔法使いは霧雨魔理沙と言った。魔理沙は人間だが、妖怪をあまり恐れない。
「なんかヤバイ仕事でも受け持ったのか?」
「そんな訳ないじゃないですか。私はもっと知的に生きていきますから」
「ああそうかい。飲み過ぎは体によくないぜ。気を付けろ」
「天狗をなめないでくださーい」
すっかり酔いが回っているのだろう。魔理沙の気づかいに、妙に可愛いげな声で、ケラケラと笑いながら返事をした。
次に魔理沙は、まな板で懸命に肴を作っているミスティアの元へ歩み寄り、
「御馳走様」
と一言告げる。
ミスティアはぱっと顔を上げ、慌てふためきながら、すぐ傍の柱に大量に貼り付けられた付箋を辿り、魔理沙が支払うべき代金を計算する。
計算し終わったのは数十秒後のことで、その最中にも文から注文が飛んできたものだから、完全にパニック状態に陥ってしまっている。
指示された代金を手渡しし、魔理沙は苦笑した。
「大変そうだな」
「こんなに大変なのは初めてで……ちょっとつらいです」
受け取った代金を然るべき場所に入れて、すぐに注文された品の準備をしながら、ミスティアは囁く。
客商売だから、あまり客に愚痴を零したりしてはいけないのを、彼女なりに気遣っている。
「前も言ったけど、新しい従業員を雇った方がいいんじゃないのか」
「そうですね。考えておきます」
「そうしろ。それじゃ、がんばれよ」
そう言い残し、魔理沙は箒に跨って自宅へと飛び去って行った。
帰路の途中で、仕事が終わる頃には、恐らくさっきのアドバイスは覚えてはいるまいな、と心中で苦笑した。
*
結局、文達の勢いは、周りの客が全員返っても尚留まらずに騒ぎ続けていた。
想定していないかった程の材料の消耗によって、仕入の予定などをすっかり狂わされたミスティアだったが、それだけとんでもない売上を叩きだしたのは事実である為、複雑な気分であった。
閉店まで後三十分前と言ったところで、ようやく鴉天狗三名での小宴会はお開きになったようで、全員が席を立った。
ミスティアは皿洗いの手を止めて、会計の準備を始めた。
しかし、どうだろう。文も、その同僚二名も、ミスティアの方へ来ることなく、それどころか全く逆の方へ向かってふらふらと歩み出したではないか。
冗談じゃないと、ミスティアは香霖堂で購入した電卓を置いて、慌てて三名に駆け寄る。
「あ、あの!」
「ん?」
「お支払いがまだなんですけど」
あれだけ飲み食いしただろう、と思い知らせるかのように、すっかり汚れ切った席を指差し、ミスティアは言う。
鴉天狗三名は暫く、お互いの顔をじっと見合っていた。
そして次の瞬間、文がにっこりと笑ってミスティアに目線の高さを合わせて、口を開いた。
「本当に申し訳ございませんね、ミスティアさん。今私達、持ち合わせがないんですよ」
「え?」
金も持ってないのに、あれだけ飲み食いしたのか――そんな本音は、職業柄上口に出来なかった。
「ですから、次ここに来た時、その時にお支払いしますから」
「で、でも……」
「払いたいんですけど、無いものは無いですし。大丈夫ですよ、ぜぇったいお支払しますから、ね?」
確かに無いものを払わせることはできないと言うのは事実だった。
文は嘘を吐いているのかもしれない、とは考えないようにした。そんなことを考え出したら、文の提案は絶対に呑めなくなってしまうから。
「では、次お越しの際は、必ず払って下さいよ」
「分かりました、分かりました。ありがとうございます!」
酔っぱらって真っ赤な顔をしながら、文はミスティアの手をとって何度も何度もお辞儀をした。
その後もべらべらと安っぽい世辞を連ねた後、帰って行った。
所謂、ツケと言う奴だろう、とミスティアは思った。これまた初めての経験だった。
小さくなっていく文の背中に、漠然とした不安を覚えたが、それを振り払うように踵を返す。
すると、無人であった筈の屋台に、新たな客がやって来ていた。
閉店間際である上に、もう食べる物も飲む物もほとんど残っていないが、客は客だ。慌てて屋台へ駆け戻る。
「すみません。お待たせしました」
「ええ」
幼くもどこか威厳のある少女の声。
初めはミスティアは大した関心を示していなかったが、冷静さを取り戻していくに連れて、客人が恐るべき人物であることを認識する。
恐らく本日最後の客であろうこの人物は、吸血鬼のレミリア・スカーレット。
どう言った訳かいつも連れ回しているメイドの姿は無く、レミリア単身での来店であった。
「い、いらっしゃい、ませ」
ミスティアはひどく緊張した。
相手が吸血鬼だからと言うのもあるが、万が一彼女が気分を損ねた時、自分をフォローしてくれる者が全くいないと言う環境も緊張の要因だ。偏重はあれども、あのメイドすらいない。
一対一での吸血鬼とのやり取りなんて、なるべく経験したくない環境だ。
「ご注文は?」
「何が残っているの?」
「お酒も鰻も、少しなら」
「じゃあ、それ」
「畏まりました」
残っている、と言ういい方は、あの天狗達の小宴会を見ていたと言うことだろうか――そんなことを考えたミスティアの心を見透かすように、レミリアは口を開く。
「随分と食い散らかして逃げて行ったわね」
「?」
「品が無い。まさにカラスだわ」
塔のように積み上げられた皿を振り返り、レミリアはくすくすと笑う。
ミスティアは困惑していた。夜が明けない異変が起きた時、この吸血鬼と対峙したことがあったが、その時のイメージと、今の彼女がどうも重ならない。
一先ず何か返答しなくてはいけない、と言う義務感があり、しかし客を貶めることはしたくないので、
「逃げるなんて、とんでもない。ツケにして帰っただけですよ」
こう返事しておいた。
それを聞いたレミリアはふっと息を付き、頭を振る。
「だから逃げられたと言っているの」
「……どういうことでしょうか」
「あいつらが、本当に今日飲み食いした分、金を払うと思う?」
ミスティアの気持ちを知ってか知らずか、レミリアはこんなことを問う。
考えても仕方が無い。実現したら冗談にならない。胸中で疼いている漠然とした不安を、レミリアはつついている。
薄く笑っているレミリアと視線がぶつかる。
目を逸らしたら、それはレミリアの言い分に肯定を示すことに繋がってしまう気がする――そんな感じの変な意地が、ミスティアの視線の不動を保つ。
対するレミリアも、ぴくりとも動かずにミスティアを見据え続ける。
貴女はこれからどうするの? とでも問うているような、強い視線だ。
根負けと呼ぶべきかどうかはさておき、先に動いたのはミスティアだった。
すっかり慣れた、少し疲れたような作り笑いを浮かべ、
「心配しすぎですよ」
こう言った。
そこでようやくミスティアはレミリアから視線を外し、注文されたものの準備を始めた。
レミリアは「そう」と言った切り、何も言わずに、調理に勤しむミスティアを眺めていた。
酒を温めたり、鰻を焼いたり、とても楽しそうに仕事をしている。
そこからふと横に視線を逸らすと、柱に大量の付箋が貼ってあることに気付いた。注文された物を忘れないようにメモしているのだろうと、レミリアは解釈した。
ミスティアは楽観的なのか、それとも気付かないふりをしているのか、どちらだろうかとレミリアは考えた。
どちらにしろ、そう遠くない内に、あの健気な笑顔が崩れるであろうことは目に見えていた。
*
件の日からいくらかの日が過ぎたが、文は一度もミスティアの所へ姿を現さなかった。
一方、レミリアは何度か店を訪れ、その都度ツケのことについて苦言を漏らしていた。
あまりに巨額なツケの為、店の経営に多かれ少なかれ悪影響を与えていた。早めに払いに来て欲しかったのだが、自ら徴収に赴こうと言う気にはなれなかった。
天狗が暮らす山に、夜雀のミスティアが踏み入るのは、そう簡単なことではないのだ。
少ない資金をどうにかやりくりしながら、文、若しくはあの時の天狗の誰かがツケを払いに来るのを待ちながら、店を営み続けた。
そんなある日、遂に文達が、ミスティアの屋台に来店した。
客の一人と談笑していたミスティアは、文の来店を確認した瞬間、心臓が飛び出るかと思えるほどに跳ね上がった。
反射的に放った「いらっしゃいませ」の一言は妙に上ずってしまい、談笑していた客が不思議そうにミスティアと、やってきた客人を見比べていた。
文は、以前の迷惑など何も気にしていないように、笑みながら手を上げて挨拶に答え、空いている席に座った。
そして何食わぬ顔で酒やら肴やらの注文を始めた。
ミスティアとしては、まず前回のツケを払うことをしてほしかったのだが、せっかく来店したのにいきなり金を話をするのは失礼かと思い、注文を取った。
文達の注文は、前回に勝らずとも劣らぬ、これまた膨大な量であった。
迷惑ともとれる騒がしさ。あれよあれよという間に高くなっていく皿の塔。汚れていく客席。
前回の彼女らと何ら変わらない光景であった。
客の数が少ないので前ほどの多忙さはなかったが、それ故に増々天狗達の注文の多さが際立った。
結局、前とそう代わりない程の量を飲み食いした。同じように、他の客は全員帰った後であった。
ミスティアは、前回のツケの値段と、今日の値段の合計を計算し、カウンターで彼女らを待った。
ところが、天狗達はあろうことか、またもミスティアの元へ向かわず、帰り始めたのだ。
「ちょっと!」
怒号にも似た声を上げ、ミスティアが天狗達に駆け寄る。
声が聞こえていない筈はないのだが、天狗達は立ち止ることなく歩んでいる。
文に追いついたミスティアが、服を掴んだ。ようやく文が立ち止る。
「お金、お金を払って下さい」
息も絶え絶え、ミスティアが言うと、文はぱんと手を合わせた。
「いやー、すいません。今日は持ち合わせがなくって、払えないんです」
前回と全く同じ光景だ。前回も文はこんなことを言って帰って行ったのだ。
二度も続けて同じ失敗を許してたまるものかと、ミスティアはまたも声を上げる。
「以前の分も払ってもらってないんです。今日は絶対に払ってもらいます!」
「以前の分?」
ミスティアの言葉に反応したのは、文の同僚の鴉天狗。
「それはもう払っただろう」
「は?」
文も、他の鴉天狗も、どこか微笑を浮かべていることから、本気で言っている訳ではないのが分かる。
では、どうしてこんな見え透いた嘘をつくのか。ミスティアには分からなかった。
「な、何を言っているんですか。払ってもらってませんよ」
「そっちこそ何を言っている。もう払っただろ。なあ、文」
鴉天狗の一人は、文に問いかける。ミスティアは文を見上げた。
文は、首を縦に振った。
「ええ。払いました、払いましたとも」
心臓がばくばくと脈動する。レミリアに言われたことが現実となってしまったからだ。
悪い夢を見ているような気分であった。
ミスティアは半分泣いたような目をしながら、文の服を掴んで揺さぶる。
「嘘つかないで、嘘はやめてください。まだ、前回の分も払ってもらっていません。ちゃんとメモしてあるんです」
「そちらが忘れただけでは? ほら、あなた、物覚え悪いんでしょ」
「だから忘れないように全部きちんとメモしているんです!」
「メモし忘れただけでしょ。とにかく、私達は払いましたから。今日の分は先ほど言った通りですから、また後日……」
「私は間違っていません! ちゃんとお金を払って下さい!」
震える声を誤魔化そうと、大きな声を張り上げたが、それが文は癪だったらしく、一瞬不機嫌そうな顔をした。
だが、すぐにまた笑顔を見せ、ミスティアの肩に手を回し、彼女の耳元でこんなことを囁きだした。
「私達を疑うんですか? 夜雀の分際で?」
顔こそ笑んでいるものの、その声色は決して穏やかなものではないのが、ミスティアでも分かった。
あれこれ心中に浮かんでいた反論の言葉が、次から次へと消え去っていく。天狗と言う強力な妖怪の威圧感に恐怖しているのだ。
「いいですよ。ならば私達も抗戦しますから。どうしてほしいです? 新聞にあること無いこと書いて幻想郷に配って回りましょうか?」
「あ……うぅ……」
「それとも、痛い目に遭わないと分かりませんか?」
そう言うや否や、肩に回されていた手が、そっとミスティアの首根っこを掴んだ。
どんどん掴む力は強くなっていく。呼吸が苦しくなった上に、言葉も封じられ、ミスティアにできることは無言のまま涙を流すことくらいであった。
「二度とふざけた言い掛かりはよして下さいね。今日のツケは、今回の件の示談金としておいてあげますから」
そう言うと文はミスティアを押し退けて、笑いながら去って行った。
ミスティアは呆然としながら、一銭にもならなかった皿の塔を見ていた。
胸中に漠然とあった、微かな不安。それが現実となってしまったことを、改めて思い知る。
これからまだ、あの文達の横暴は続くのか――そう考えた途端、一度引っ込めることができた涙が、再びぼろぼろと溢れてきた。
しかし、抵抗する術が無い。あちらは天狗で、こちらは夜雀。如何なる方法で戦いを挑もうとも、勝てる見込みなどない。
さめざめと泣きながら、高く積まれた皿を流しに運び、洗い始めた頃、新たな客人が現れた。
天狗達の食い逃げのことについてで頭の中が一杯であったのか、ミスティアは初め、この来客に気付かなかった。
客人は何も言わず、涙を流しながら皿を洗っているミスティアを暫く眺めていた。
十数秒後、ようやくミスティアは来客に気付いた。
そこでようやく、泣いている姿を見られてはいけないと気付き、慌てて目の周りを手で拭った。洗剤でできた泡が目の周りに付着した。
「い、いらっしゃいませ」
なるべく普段通りの声を意識したつもりだったが、予想以上に声は震えた。
「泣いていたのね」
客人――レミリア・スカーレットは、薄く笑みながら問うた。
問われたミスティアは、無理に笑って見せた。先ほどの悲しい出来事を思い出してしまうと、また泣いてしまいそうだったから。
「ご注文は……」
「何でもいいわ。適当に見繕って下さる?」
難しい注文だったが、ミスティアは鰻を焼き、酒を温め、無難にセットメニューを提供した。
暫く無言で、出された物に手を付けずに眺めていたレミリアだったが、不意にこんなことを言い出した。
「私の言う通りだったでしょう」
「え?」
「天狗。ツケ」
ほとんどの部分を省略された一言だったが、それがどんな意味を持つか、すぐに分かった。
以前は笑って誤魔化せたが、今回はもうそんな訳にはいかない。それでも、返答に相応しい言葉が見つからず、ミスティアは黙りこくってしまった。
言葉は口を噤むことでその存在を掻き消せる。しかし、涙は目を閉じても塞き止められるものではない。
無言を貫くミスティアの双眸から再びこぼれ出した涙は、紡がれる言葉以上の想いに満ちていた。
嘲っているのか、哀れんでいるのか判断し難い微笑を浮かべるレミリア。
ミスティアはどうにか涙を止めようと懸命に努力をしているのだが、やはりそう上手くはいかない。
「聞いて、いたんですか?」
つっかえつっかえミスティアが問うと、レミリアはこくりと頷いた。
「見えたし、あなたも目に見えて元気がないし」
「そうですか……はは、隠そうと言ったって、そうはいかないものなんですね」
自嘲めいた笑顔を浮かべるミスティア。
レミリアはこれと言った反応は見せずに、暫く黙ったまま、ミスティアをじっと見据えていた。
もう諦めてしまったのだろうか、ミスティアもそれ以上、ツケの件には触れず、黙々と仕事をこなしていた。
天狗達が食い散らかした皿を、鼻歌を交えながら洗っている。
ただ、目は泣き腫らした所為で真っ赤だし、時々ずず、と洟をすする音も聞こえる。
それでも平然を装うその姿に、レミリアは狂気すら感じた。
「悔しく思わないの?」
レミリアが問うた。ミスティアの作業の手がぴたりと止まった。
しかし、視線は洗剤でできた泡だらけの皿へと向けられている。
再び、手が動き出した。
「私にどうしろって言うんです?」
「……」
「私は夜雀。相手は天狗。天地がひっくり返ったって、私にどうにかできる相手ではないですよ」
これを聞いたレミリアは、くつくつと笑いだした。
「そうね。夜雀の貴女じゃ、敵いっこ無いわ」
「そうでしょう」
「夜雀の貴女じゃ、ね」
不自然に、言葉の一部分を強調したレミリアに、ミスティアは違和感を覚え、そこでようやく顔を上げた。
レミリアと目が合う。
屋台の小さな灯光を受けてギラギラと輝く真紅の瞳に捕えられ、ミスティアは思わず息を呑んだ。
幼げな容姿に隠された、残酷で、英知に溢れる、吸血鬼本来の姿が見え隠れしている。
「ねえ、ミスティア」
「は、はい?」
「吸血鬼になりたくない?」
突拍子もないレミリアの一言に、ミスティアは言葉を失った。
とんでもない提案をしてきたレミリアは、相変わらず薄い笑みを保ち続けている。だが、決してふざけているようには見えない。
まるで、復讐の為に生まれ変わる覚悟があるかどうか、ミスティアを験しているかのような笑みだ。
そもそも、どうやって私が吸血鬼になるのだ――問うよりも先に、レミリアがそれを説明した。
「ちょっと貴女の血を頂くわ。そのついでに、私の血を貴女の中に巡らせる」
「血を……」
「そうすることで、貴女はゆっくりと、吸血鬼に生まれ変わっていく。日光や川の水は怖くなるけど……」
そこで言葉を区切り、レミリアはおもむろに左の掌を開き、そこに右の人差し指の爪で、一文字の傷を付けた。
つつ、と血が滴った。が、次の瞬間、傷はあっと言う間に修復していき、消え失せた。掌に残された血が、やけに不自然に感じられる。
「こんな素晴らしい力を得ることができる。天狗なんて目じゃないわ」
「……」
吸血鬼の絶大な力は、ミスティアにだって分かる。それを手にすることができたら、天狗も恐れるに足らなくなる。
しかし、それでもミスティアは、この提案を決めかねていた。
裏に潜んでいそうなデメリット。そして、吸血鬼への進化と言う、未知なる領域への恐怖。不安。
だがミスティアは、吸血鬼の生態の謎や、取引に潜んでいそうなデメリットよりも、現実的で切実な疑問を投げ掛けた。
「あ、あの……」
「?」
「どうして、私にこんなことを教えてくれるのです?」
こう問われたレミリアはふっと微笑み、
「貴女が大好きだから」
こう囁いた。
恋愛感情なのか、そんなに発展したものではないのか、ミスティアにはよく分からなかった。
しかし、唐突に大好きなどと囁かれ、照れている場合ではないと言うのに、顔が熱くなり、思わず目線を下へ逸らした。
躊躇うこともなく、ミスティアへの想いを言ってのけたレミリアは、別段表情も変えず、言葉を続ける。
「それと、注意がある」
「注意?」
「吸血鬼への進化は相応の苦しみが伴う。そして、吸血鬼になったら最後、もう夜雀には戻れない。これだけは理解していて」
言葉の前半よりも、後半の方が頭の中に響き渡った。
――吸血鬼になったら最後、もう夜雀には戻れない。
自分が自分でなくなる。新しい自分に生まれ変わり、昔の自分は消えて無くなる。
吸血鬼になった後の自分が、どうにも想像できなかった。
そしてその想像できない領域が、ミスティアを不安にする。
「やっぱり、私は……」
不安げな声を漏らし、俯くミスティア。
レミリアはふぅ、と息を吐いた後、
「このままでいい?」
こう問うた。
ミスティアは俯いたまま、レミリアの言葉に耳を傾けている。
「味を占めたもの。きっと天狗の横暴は止まらないわ。むしろ酷くなっていく一方じゃないかしら」
「……それはまだ、確認できな……」
「呆れた。この期に及んでまだ天狗を庇うのね」
放たれた言葉からも、口調からも、レミリアが心底、ミスティアに呆れているのが分かる。
カウンター越しでのやり取りを煩わしく思ったレミリアは、ひょいとカウンターを飛び越えた。
動揺しているミスティアの手を取り、目をじっと見据える。真紅の瞳が、再びミスティアを捕えた。
レミリアの方が背が低い為、見上げる形になっている。今のレミリアの上目遣いには、妖しげな愛嬌があった。
「天狗は嫌い?」
「嫌い……」
「思い出してみなさいな。奴らの横暴を。身勝手さを」
思い出せ、と言われると、嫌でもそのことを考えてしまうものだ。
ミスティアも例外でなく、身勝手な天狗達に味わわされた恐怖を、屈辱を、憤怒を思い返していた。
悔しさか、怒りか。再び涙がこぼれ始めた。
「悔しいでしょう。けれど、それが自然なのよ。あなたは奴らに復讐しなくちゃいけない」
「……」
「何も迷うことはないわ。悪魔になりましょう? 身も心も。復讐を果たす為に」
天狗達のこと以外にも、いろんな思い出が頭の中を駆け巡っていた。
明けない夜を喜んでいたこと。その夜の中でレミリアと弾幕を交わし合ったこと。花が咲き乱れたこと。閻魔と出会ったこと。屋台を開いたこと――
物忘れの激しい自分でさえ覚えている数々の思い出。それらが、吸血鬼になれた後も、今と変わらない形で残っているのかどうかが気になった。
だが、もうそんなことを問うのもやめた。これ以上迷いたくなかったのだ。
心中で数名の友人に分かれを告げた後、ミスティアは黙って、首を縦に振った。
レミリアはクスリと笑い、
「よく決心したわ。……ここへ跪きなさいな」
地面を指差した。ミスティアはそれに従い、ゆっくりと跪く。ミスティアの首の位置が、レミリアの口元とほぼ同じになった。
レミリアがそっと、ミスティアの肩に手を置き、大きく深呼吸をする。
「噛みつくから、ちょっと痛いけど、我慢するのよ」
レミリアがそう忠告すると、ミスティアはぐっと目を瞑った。目尻に残っていた涙が押し出されて頬を伝う。
不安げに体を震わせるミスティアを見たレミリアは、その愛らしさに思わず息を呑んだ。
可哀想な目に遭っている彼女もなかなか乙なものであったが、種族の壁をぶち壊しての交流ができる可能性に、レミリアは期待していた。
無事に吸血鬼になってくれるのであれば、夜雀ミスティア・ローレライを見るのはこれが最後になる――
そう思った途端、目の前の少女が、ひどく貴重な存在に思えた。
夜雀としての彼女の最後を見届けるのは自分なのだと言うのに気付いたレミリアは、首筋に牙を立てる前に、そっとミスティアに口づけをした。
噛みつかれる筈が、ふいに唇を奪われたミスティアは、目を丸くしてレミリアを見やった。
「あ、え……あの、あれ……」
「キスは初めて?」
「まあ、はい」
「よかった。夜雀ミスティアの最初で最後の唇は、私は頂いたと言う訳ね」
心底嬉しそうに笑うレミリア。
暫くそうした後、再び大きく息を吸い、笑みを止めた。
「それじゃあ。始めるわ。……悔いはない?」
「……はいっ」
固く目を瞑るミスティアの頭をそっと撫で、レミリアが抱きつくようにして、ミスティアの首筋に口を付ける。
噛みつく箇所を言葉を使わずに知らせるかのように、首筋の一か所に舌を這わせる。
温かく、それでいて柔らかなレミリアの舌が首筋を撫でる度、ミスティアはびくびくと体を小刻みに震わせる。
そんな彼女の動作が愛おしくて仕方がないらしいレミリアは、なかなかその行為を止めようとしない。
初めはぐっと堪えていたミスティアだったが、次第に異変を察したようで、
「あ、あのっ……」
小さな声で、この奇行について質問をしようとした。
遂に文句を言われてしまったかと、レミリアは一度口を離した。
「なかなか文句を言わないのねえ。まんざらでもなかった?」
「そう言う訳では……」
「ごめんなさいね。それじゃ、次こそ始めるから」
そう言うと、ミスティアは再び目を瞑った。レミリアも先ほどと同じ態勢になる。
唾液で濡れた首筋に、再びそっと口付けし、
「さようなら、夜雀」
最後に、そう一言添えた。
吸血鬼特有の尖った鬼歯が、ミスティアの首筋を穿つ。
柔らかい肌を貫き、肉にずぶずぶと入り込んでいく。
首筋に走ったピリリとした痛みに、ミスティアは思わず体を強張らせた。
体から歯を抜いてみたら、小さな傷から血が溢れ出てきた。
愛おしい者の血を目の前にして、吸血鬼が我慢などできる筈がない。
まるで獣のように、首筋から溢れ出てる血を啜る。ずるずるとはしたない音が鳴り響くのも厭わない。
ある程度血を吸い終わり、レミリアが口を離した。
口の周りに着いた血を手で拭おうとしたが、血は薄く広がっただけであった。
跪いているミスティアは、ぐったりと項垂れ出した。それほど、多くの血を失った訳ではないのだが、全身の力が抜けてしまった。
吸血鬼に血を吸われた、と言う事実が、心理的な作用を齎したのかもしれない。
「御馳走様。ありがとう」
レミリアが例を言うと、
「いえいえ。お粗末さまでした」
反射的に、ミスティアが呟いた。口調にも力がない。
「それじゃ、次は私が血を流す番」
そう言うとレミリアは、近くに置いてあった包丁を手に取った。
それを、掌に突き刺し、一文字を描く。ある程度深い傷を付けなければすぐに再生してしまうことを考慮しての傷だ。
大怪我と言っても過言でない程深い切り傷が、レミリアの掌に刻まれた。
その血塗れの掌で、ミスティアの首筋に空いた吸血の傷跡に触れた。
どくどくと流れ出る血は、特有のべた付きと温もりを持っていた。
血が重要であるからであろうか。血の持つそれらの特徴を、ミスティアは首筋でひしひしと感じていた。
首から背に伝って流れる生温かい真っ赤な液。首筋の小さな穴に入り込んでくる真っ赤な液。
それは悪魔の血。それは進化の素。それは絶大な力。それは復讐の刃。
熱を持った血を肌身で感じている内に、ミスティアは、この血に秘められている力を感じ取れた気がし、身震いした。
これが自分の中へ入って、自分を悪魔へと変化させる――。実のところ、半信半疑であったが、今ならそれを撤回できる気がした。
異物が体内に入ってくる感触が、体の内から伝わってくるのを感じた。
「これが、吸血鬼の――」
譫言みたいに呟いたその直後、ミスティアは気を失った。
*
目覚めた時、ミスティアは森にある茂みに、隠されるようにして寝かされていた。
衣服に纏わり付いている砂や葉を払い、茂みから這い出る。明るさからして日中であることが推測できた。
寝起きで思うように働かない頭で昨晩の出来事を回想した途端、ミスティアは完全に覚醒した。
そしてすぐさま、首筋に手をやった。小さな刺傷――吸血鬼の鬼歯が穿った穴を確認することができた。
昨晩の進化への第一歩は、夢や妄想などではなかったということだ。
いよいよ始まってしまう、進化に伴う苦痛に、ミスティアは不安で不安で仕方がなかった。
一体どんな苦痛を伴うのか。それが始まるのはいつ頃なのか、何も知らされていない。
とりあえず家に帰ろうと、ミスティアは自宅へ歩み出した。
この時点では、病気になった時のような、なるべく動きたくない怠さも、肉体的な痛みも感じられない。
じわじわと甚振られるか、突然わっと押し寄せてくる苦痛か。妙な緊張を感じながら、帰路を辿った。
結局、帰っても、そこからベッドで横になっても、特別おかしなことは感じられなかった。
感じられないからこそ、待ち受ける苦痛を恐れながら過ごさねばならず、眠ろうにも眠れず、何をしても気はちっとも休まらない。
ベッドで仰向けに寝転がりながら、左胸に手を置いた。規則正しい鼓動を感じる。
一拍する毎に、体内を血が駆け巡る。同時に、混入されたレミリアの血も、体内を巡る。
今、この瞬間も異物が体内を巡っている、と考えると、ひどく気持ちが悪かった。
眠れそうもないのに横になっているのも億劫になり、ベッドから立ち上がった。
昨日は屋台を仕舞う前に気を失ってしまっていたのを思い出し、それを片付けに行こうと決めた。
一歩を踏み出す前に、視界がぐらりと揺れた。立っていることすら叶わず、地面に手を付いてしまった。
あまりに突発的な体調の異変に全く対応できず、その場から動くこともできない。
込み上げてくる吐き気を抑えようと深呼吸を繰り返してみたが、効果などない。それどころか、吐き気に次いで頭痛やら動悸やら、様々な異常が姿を表し始めた。
これが進化に伴う苦痛なのだろうか――。漠然とそう思ったが、どうすればこれを食い止められるのかは皆目見当もつかない。
立ち上がる気力は湧いて来ず、床の上に仰向けで寝転がり、ぜぇぜぇと息を荒げながら、体調不良の収束を待つ。
しかし、待てども待てども、異常は何一つ解決してくれない。
水を飲めば何かが変わるかもしれないと、全く根拠の無い解決策を思い付き、ミスティアはずりずりと這って、洗面所へ向かい出した。
洗面所についても、すぐに立ち上がることができない。
心中でせーのと調子を取って、どうにか立ち上がり、洗ったまま放置してしまっていなかったコップに水を入れ、一気に胃袋へと流し込む。
多くが口に入らず零れて、胸元を濡らしたが、そんなことを気にしていられるような状態ではなかった。
期待と呼ぶに相応しかった「水を飲む」と言う苦痛への対処は何の効果も成さなかった。
洗面所と言う場所への到達が安心感を生んだのだろうか、吐き気に拍車が掛かった。
我慢をする必要がないし、そもそももはや我慢などできる状態ではなかったので、体が求めるまま、未消化の食物をぶちまけた。
吐瀉物を見てみると、やけに赤が強い。血が混じっているのが、一目でわかった。
自分の身に起きている異変が、至極、危険なことなのだと、血液混じりの吐瀉物を見てようやく思い知った。
後戻りはできない。止めてくれと言っても誰も止めてはくれないし、辞退もできない。
その後も暫く、ミスティアは出るもの拒まずと言った風に吐き続けた。
胃の中は早々に空になったが、胃液と血だけはどんどん出続けた。
こんなに血を出して、このまま死んでしまうのではないかと思ってはみたが、思ったところでどうしようもなかった。
吐きに吐いて、ようやく吐き気が治まったが、頭痛やら怠さやら、問題は山積みだった。
口の周りに着いた血を、服で適当に拭い、よろよろとした足取りでベッドに向かい、そこへ倒れ込む。
「屋台、無理、かなあ」
こんな状態で屋台のことを気に病んでいる自分を、そっと嘲笑し、すぐに眠り始めた。
死んでしまったかのように深い眠りであった。
それ故に、彼女の家の扉を叩く者がいることに、すぐに気付くことができなかった。
彼女が眠り始めてから、およそ一時間程度経った時の来客であった。
「ミスティア! いないの?」
声が聞こえて、ようやくミスティアは目を覚ました。
ほとんど寝惚けた状態で、客人を迎える。
客人に叩かれて、どんどんと音を立てて小さく揺れる扉の向こう側へ「はいはい、只今」と小さく声を掛け、扉を開けた。
来訪者の正体は虫の妖怪であるリグル・ナイトバグ。見知った顔であった。
しかし、その見知った彼女の表情は、扉が開けられた瞬間に驚愕を表した。
「? どしたの」
ミスティアが首を傾げると、リグルは恐る恐る、ミスティアの胸元を指差した。
「ど、どうしたのは、こっちの台詞……」
指差された所をミスティアが見てみれば、洗面所で大量に吐き出した血やら何やらですっかり汚れているではないか。
これには、ミスティアもぎょっとした。すぐにでも眠ってしまいたい一心であった為、気付いていなかったのだ。
眠った為だろうか、体調不良はだいぶましな状態にまで回復していた。
ミスティアが咄嗟に笑顔を作り、適当な言い訳をする。
「ああ。これはねえ、ちょっと、魚の解体で汚れちゃっただけなの」
「そ、そうなの?」
「うん」
リグルは顔を顰めた。返り血とミスティアは言い張っているが、血の汚れではないものも見て取れたからだ。
「それより、どうかしたの?」
「屋台、出しっぱなしだったから。どうしたのかなって。表に持ってきておいたけど」
「ああ、そっか。ありがとう」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ありがとうね」
明らかに彼女は何かおかしいのをリグルは感じ取っていたのだが、ミスティアが大丈夫と言って聞かないので、帰ることにした。
何となく、ミスティアは自分が去ることを望んでいるような気もしていた。
「無理しないようにね」
一応、そう一言添えて、リグルはミスティア宅を後にした。
体の状態がまともな内に、ミスティアは考え事を始めた。
吸血鬼への進化に伴う苦痛は、突発的に起こるものと考えておくことにした。
何の前触れもなく、急に体を蝕んでくる。そうなると、もう立っていることすらままならなくなる。
段階があるとしたら、これから余計に苦しくなっていく可能性がある。
まず、屋台の営業は無理だと感じた。
少し怪しまれるかもしれないが、屋台の営業は暫く停止することにした。
「吸血鬼になっても、料理はできるのかな」
非常に平和な不安を口にした。
*
夜、文はミスティアの屋台の出る場所を訪れていた。
屋台は出ていない。屋台が無いので、人もいないし、活気も無い。ただの寂しい森の入口だった。
「んー。逃げられましたかね」
折角ただで飲み食いできる環境を手に入れたと言うのに、その翌日、ミスティアは出てこなくなってしまった。
思わず舌打ちをする。静かな森の入口で、その音は大きく響いた気がした。
彼女は明日、この件について新聞を書こうと決めた。
幻想郷にとってもこれは大きな事件だし、あわよくば営業を再開させられるかもしれない、と踏んだからだ。
営業していない理由は何となく見当がついているつもりでいた。おおよそ、自分達の横暴な態度に耐え切れなくなった、と言った所だろう。
「逃げるだけじゃ何も解決しないってことを分からせてやりますかねぇ」
ふふ、と一人、薄く笑う文。ミスティアが泣き寝入りしていると言う憶測が完全な勘違いだなんてことには気付ける筈がなかった。
こうしている今も、ミスティアの体は着々と吸血鬼に進化しているのだ。文を殺す為に。ただそれだけの為に。
いい新聞のネタを手に入れたと、喜んで山へ帰ろうとした、その時。
「御機嫌よう、文」
何者かに話しかけられ、文は声のした方へ向き直した。
ざっ、ざっ、と、草や砂利を踏んで歩く音だけが闇の中から聞こえてくる。その闇へ向かって目を凝らす。
次第に露わになった声の主は、彼女の見知った顔であった。
「レミリアさん」
文に声を掛けたのは、レミリア・スカーレット。従者の十六夜咲夜も同行している。白が主で、赤の装飾が施された可愛らしい日傘を持ち、傍に佇んでいる。
レミリアは文を一瞥した後、きょろきょろと周囲を見回した。
「ミスティア、いないわね」
無知を装い、一言。文は頷き、こんなことを言い出した。
「いません。周囲の期待とか、信頼とか、そういうものに欠けているのでしょうか?」
断定はしない。疑問形での問いかけ。所謂印象操作と呼ばれるものだろう。
無論、レミリアはミスティアがいない原因を知っているので、そんな文の策略には嵌まらない。理由を知らなくたって、天狗の戯言を鵜呑みにする程、レミリアは愚かではない。
「さあね。理由がはっきりしないから、何とも言えないわ」
こう無難な返事をしておいた。
その後も、文はベラベラと何かを喋っていたが、レミリアは適当にうんとかええとか頷いているだけで、彼女の話など聞いてはいなかった。
ミスティアの進化は問題なく進んでいるだろうか――それが気掛かりであった。
進化の苦しみに耐えられないのであれば、早めに自害をしてなくてはいけない。
中途半端に進化した状態では、死のうにも死ねない。吸血鬼は死ににくい生き物だからだ。
「……レミリアさん、聞いてますか?」
さすがに考え事に没頭していたレミリアを見て、話を聞いている態度には見えなかったらしい文が声をかける。
それに対して、レミリアはええ、と一言。
聞いちゃいないなこの吸血鬼、と文は心中で毒づいた。
うるさい天狗の所為で考え事ができないので、レミリアはこの場を去ることに決めた。
「それじゃあ、天狗。気をつけてね」
「? 気をつけて?」
「あんまり好き勝手してると危ないわよ」
レミリアは一応警告した。ミスティアの復讐が始まる可能性を、細やかながら文に伝えておいたのだ。
しかし、嫌われ者と言う立ち位置にすっかり慣れてしまっていた文は、その警告を警告として受け止めなかった。
新聞記者の自分を煙たがる者の悪口程度にしか受け止められなかった。慣れとは恐ろしいものである。
「ははは。大丈夫ですよ。それに、好き勝手と言う点では、貴女も負けていないと思います」
「私はいいの。吸血鬼だから」
「なら、私もいいです。天狗ですから」
「そう」
最後は、素っ気無く一言。帰るわよ咲夜、と従者に言いつけ、レミリアが踵を返して歩み出す。咲夜は恭しく一礼し、レミリアの後に続いた。
二人の住居である紅魔館への帰り道の途中、咲夜が問うた。
「ミスティア、本当に吸血鬼になるんですか?」
その一言を受け、ちらりと咲夜を一瞥するレミリア。その表情は、半信半疑を表していた。
思えば、咲夜を従者として迎えてから、何者かを吸血鬼にしたことが一度もなかった。故に咲夜は、吸血鬼への進化を知らない。
だから咲夜は、ミスティアの吸血鬼への進化を信じ切っていないのだ。レミリアの悪ふざけか何かかもしれないと疑っている。
レミリアは、こくりと頷いた。
「勿論。ミスティアが血の侵食に耐えられれば、あの子は吸血鬼になれるわ」
「苦しいのですか? 吸血鬼への進化は」
「ええ。とっても。吸血鬼は究極の生物なのよ? 吸血鬼の血を体に入れて、寝て起きたら吸血鬼になってた、なんてうまい話がある訳ないでしょう」
「確かに」
咲夜が納得したように頷く。
「咲夜は吸血鬼になろうだなんて考えてはダメよ」
「苦しいなら嫌ですわ」
とかく苦しいと言うことが分かって、次に咲夜が思い浮かべるのは、ミスティアの容態だ。
今、この瞬間も、彼女は苦しんでいるのだろうか――。それが気になった。
気になったので、これもレミリアに聞いてみた。
「今も、ミスティアは苦しんでいるのでしょうか」
「勿論」
さらりと言ってのけたレミリア。
「死にたくなるほど苦しんでるわ。きっと」
*
体の震えが止まらず、ミスティアは部屋の隅で掛け布団やらブランケットやらを巻いて蹲っていた。
体の内側から、何かが肉やら皮膚やらをぶち破いて出てきそうな、幻覚とも思える悪寒に襲われていた。
寒いから震えているのではないのは分かっていた。だが、内側から出てくる何かを抑える為に、ブランケットなどに包まっている。
時々霞む視界で、ぼーっと前方を見据えている。やけに自分の心臓の鼓動が大きく感じられた。今まで以上に、血が体内を巡ることを意識しているからだろう。
一体どれくらいの間、そうやって蹲っていただろうか。
何の前兆も無く、体の至る箇所が、引き千切れんばかりに痛み出した。
心構えなどする暇もなく発生した激痛に、夜であることも憚らずに絶叫を上げるミスティア。
気が狂ったようにのたうち回り、痛みを紛らわそうと声を上げる。
ばたばたと暴れ回っている内に、ブランケットは体を離れた。知らぬ間に蹲っていた場所を離れていた。
体のいたる箇所を、家具や壁にぶつけた。ささくれた木質の床板が細かくミスティアの手に傷を付けるが、そんな小さな痛みはもはや気にならない。
次第に激痛に耐えることも嫌になった彼女は、握り拳を作り、渾身の力を込めて殴り始めた。痛みを紛らわす為に、別の痛みを求め出したのだ。
無論、硬質な壁を素手で殴るのが痛くない訳ではない。だが、こうでもしないと、湧いて出てきた痛覚にやられて気が狂ってしまいそうだった。
一度壁を殴る度に、壁に掛けてある装飾や、時計などがぐらりと揺れた。
打ち付けていた手の甲が紫色に変色し出した。それでも、壁への殴打は止めない。止めてはいけない。止めることができない。
次第に皮膚が破れて血が出始めた。殴りつけている壁に、点々と血の跡が残り出す。
暫くそうしている内に、ミスティアはぼろぼろと泣き始めた。
死ぬ程の痛みに耐えかねて、耐えられる別の痛みを探している自分が、まるで狂人のように思えてきたからだ。
事実、今の彼女は、もうまともではない。夜雀と吸血鬼の中間に位置する、全く訳の分からない存在だ。
そうやっている間に、少しずつ痛みは収束し出した。
同時にミスティアの嗚咽も治まっていき、血だらけの手も動きが緩やかになっていく。
痛みが完全に治まった。
壁を伝いながら手を地面へと降ろす。壁に生々しい赤色の帯が描かれた。
じんじんと痛む手を摩りながら、惰性的にミスティアは啜り泣いた。
*
ミスティアが忽然と姿を消してから、一週間が経過した。
一週間ともなれば、さすがに誰もが怪しむ頃であろうと踏み、文は新聞持論だらけの新聞を書き上げ、幻想郷中に撒いて回った。
この新聞を読んで憤慨したのはミスティアの知り合いである妖怪らであった。
屋台が開かれないのが、まるでミスティアの怠惰である、と言う報道が気に食わないようだ。
事実の確認をしていないのにこんなことを書かれたのが理由である。
新聞を読んだリグルは、もう一度ミスティアの家を訪れてみることに決めた。
態度のおかしさを体調不良であると考えて、治るまでは家に嗾けない方が彼女の為だろうと思い、接触せずにいたが、こんな新聞が書かれては事実の確認をしたくもなる。
ミスティアが怠け者でないことを確認しに行くつもりで、ミスティアの家へ向かう。
そんなリグルの考えと同じことを考えた者がいた。しかも、そいつは人間であった。
ミスティア宅へ向かう途中、偶然にもリグルは、魔理沙と遭遇した。
勘を頼りにミスティアの元を訪れる予定だったが、どうしても見つからなかったと魔理沙は説明し、場所を知っているリグルに同行することにした。
「ミスティアって、本当の所はどうしちゃったんだろうな?」
魔理沙が問うたが、
「知らない。知らないけど、サボりなんて絶対にありえない」
リグルはこう返した。
「私もそう信じたい」
魔理沙もそれに同意した。
森の中の特に陽の当らない場所に、ミスティアの住まいがある。
さすがは夜雀、と言ったところであろうか。昼間訪れたにも関わらず、そこは夕暮れのように薄暗い。
森の見知らぬ場所に興味津津な魔理沙をよそに、リグルがドアをノックする。
暫く無言で待機したが、何の反応もない。
「夜行性なんだろ? 寝てるんじゃないのか?」
「ノックすれば起きてくると思うんだけど」
以前訪れた時、既にミスティアの異変を感じていたリグルにしてみれば、平常通り起きてこないことが大きな不安となった。
もう一度ノックをしてみるが、やはり反応がない。
待つのをもどかしく感じたリグルは、
「入るよ?」
と、一言添え、ドアを開いた。
屋内は外以上に暗かった。カーテンは締め切られており、灯りになるようなものが一切ない。
そんな部屋だから、リグルが開けたドアの隙間から入り込んできた、深い森の僅かな光が玄関を照らした瞬間、リグルは声にならない悲鳴を上げ、一歩退いた。
彼女の挙動を、魔理沙が不思議そうに見つめている。
「どうした?」
呼ばれたリグルは無言で振り返り、魔理沙を手招きし、床を指差した。
何があるのかと、魔理沙も歩み寄って指差された箇所を見る。
そこにあったのは、血痕と思わしき黒ずんだ染みであった。
二人は暫く無言のまま、地面のその染みに目を落としていた。
魔理沙が先に顔を上げ、恐る恐る、奥にいるであろうと思われるミスティアに声を掛ける。
「お、おい? ミスティア?」
やはり反応がない。魔理沙の震え気味な声が、やけに大きな声に感じる程、屋内は静かなままだ。
いくら声を掛けても返って来ない返事。そして血の跡。二人が、この闇の中に、最悪の結末が潜んでいる可能性を感じたのは、無理もないことだった。
前進を拒む魔理沙に代わり、リグルが意を決して先に進む。
魔理沙が止めていたが、ミスティアの安否を確認したい気持ちが先行した。
一人でいるのが不安になったらしい魔理沙も、結局リグルの後に続いて屋内へ進んでいくことにした。
二人はまず、光を求めた。屋内全体が暗過ぎて、進むのは愚か、ここにいることそのものが気が滅入る。
屋内の構造をそれとなく理解しているリグルが先行し、慎重な足取りでカーテンを目指す。
最寄りのカーテンに手が届いた所で、リグルが一気にカーテンを開け放つ。
ほとんどが木の葉に遮断されてしまい、希少なものとなった陽光が部屋を薄く照らし出す。
部屋の全貌を目の当たりにした二人は、唖然としてその場に立ち尽くした。
血の思しき黒い染みは、玄関の床にあったものだけではなかったのだ。
室内は荒れ放題で、床に落ちた本や装飾にまで乾いた血の跡が残っている。
壁にも手形の血痕がべたべたと押されている他、引っ掻いた後や殴打の跡まで見て取れる。
よく見てみれば、リグルが開け放ったカーテンも血で汚れていた。それを知ったリグルは、思わずカーテンから身を引いた。
「どうなってんだよ、これ」
魔理沙がようやく声を漏らす。
残されている血の跡から推測すると、生きているのかどうかも危うく思えた。
だが、二人に芽生えた最大の疑問は、この血だらけの家屋の中に、ミスティアがいないことだ。
「どこに行っちゃったんだろう」
リグルが呟いたが、それに答えられる者は、ここにはいなかった。
「誰かいるの?」
背後から響いた声に、二人はぎょっとして振り返る。
立っていたのは吸血鬼のレミリア。従者の咲夜と共に、家の中を覗き込んでいる。
レミリアがすぅ、と息を吸った。屋内一杯に広がっている、血の香りを堪能しているらしかった。
「お前、こんな所で何をしてるんだ?」
「それはこっちの台詞でもあるわ。あなた達は何をしているのよ」
「ミスティアの様子を見に来ただけだよ」
リグルが少し強めの口調で反論すると、レミリアは「そう」と一言。
そこでリグルらへの興味は失われたようで、今度は壁や床などに付着している血痕をぐるりと見回した。
血だらけの屋内を見ても、レミリアはこれと言って変わった反応を見せなかった。
吸血鬼と言うだけあって、血を見慣れているからだろうと二人は解釈した。
レミリアはこの部屋を見て何を思うのか、二人は固唾をのんで感想を待った。
しかし、
「帰りましょ、咲夜」
何の感想も口にしないまま、踵を返し、さっさと帰ってしまった。
取り残された二人は、あいつはこの惨状を目の当たりにしても何の疑問も抱かなかったのだろうかと、しばし呆然としたまま、無人の玄関を眺めていた。
だが、すぐに我に帰り、この異変にどんな対処をすればいいのか画策を始めた。
「酷い有様だったわね」
帰路を辿りながら、レミリアが呟く。咲夜は全くです、と返した。
愛しい者の血のにおいが充満している屋内に入れたことで、レミリアは上機嫌だった。中棒を軸に、日傘をくるくると回転させたりしている。
居眠りしている門番を、臀部を蹴ることで叩き起こし、大きな扉を開いて「ただいま」と一言。
エントランスホールで掃除の真似事をしていたメイド妖精達が一斉に「おかえりなさい」と返答する。
そんな役立たずの妖精メイド達に、微笑みかけながら手を振って去っていくレミリアに、妖精メイド達は顔を見合い、首を傾げた。
日傘を所定の位置に戻すよりも、自室に戻って一息つくよりも先に、彼女は館内のとある一室に向かった。
一階よりも下層にある、暗くて肌寒い地下にある、冷たくて感情な石を主としており、無骨な鉄の扉や、鉄格子の壁が印象的な、檻の様な一室だ。
装飾や家具の類は一切無く、光すら貴重な、吸血鬼の住まう館の中とは思えない一室。
地下室にはレミリアの妹の部屋もあるが、妹の部屋とは比べ物にならないほど、その一室は飾り気がない。
それもその筈、この部屋は元々、吸血鬼に謀反を働いた者を監禁する為の懲罰室。気遣いなど不要なのだ。
最近はすっかり出番がなくなってしまい、その鬱蒼さに拍車が掛かっていたが、今はそんな部屋に客人がいる。
部屋の前の廊下に一歩足を踏み入れただけで、咲夜でさえ血のにおいを感じることができた。
次いで、悲鳴のような、呻き声のような、とにかく苦悶に満ちた叫び声が、鉄の扉の向こうから聞こえてくる。
扉や壁に体をぶつけている為であろう、ドン、ドンと言う音が。時々、細い鉄格子に体をぶつけてガシャンと言う音が、甲高い叫び声に混じって聞こえてくる。
低音と高音が存在し、まるである種の音楽のようになっている。叫び声と自傷行為で織り成される音楽。なんとも気味が悪く、そして気色が悪かった。
その気味悪さは、常日頃からレミリアと行動を共にしている咲夜でさえ鳥肌を立ててしまうほどのものだった。
しかし、レミリアは少しも物怖じする様子はない。
不気味な声が絶え間なく流れる廊下で、じっと目を閉じ、暗闇の中でもがき苦しむミスティアの姿を想像し、恍惚とした表情を浮かべる余裕さえあった。
壁に掛けてあるランタンを一つ手に取り、咲夜に無言で手渡す。
咲夜は黙ったまま、主から手渡されたランタンに火を灯す。小さな光だが、この空間を支配している無欠の闇にとっては、大きな瑕となる存在となった。
半ば反射的に、檻の様な一室に入れられているミスティアが、その光に向かって一気に手を伸ばす。
鉄格子の隙間から這い出た手は、光には届かず、虚空を掴む。
「あ、あああ、あう、うあああ」
手を伸ばしながら、ミスティアが声を漏らす。ランタンの光に照らされた彼女は、血と埃でぼろぼろの状態だった。
レミリアはにっこりとほほ笑み、首を傾げる。
「ミスティア。お友達が、貴女の家を訪ねていたわ」
「ううっ、あ、あぁ、ぐ、ああっ」
「みんな貴女のことを待っているわ。早く立派になった姿を見せてあげましょうね」
まるで生徒を諭す教師の様な口調で、レミリアは言葉を紡ぐ。
しかし、ミスティアはぶんぶんと首を横に振る。
「ぉ、して」
「ん? なあに?」
何か単語のようなものを聞き取った気がして、レミリアが耳をそばだてる。
ミスティアは、何度か呂律の回らない口で、難解な言葉を数度発した後、
「ころして」
確かにこう告げた。この奇跡とも言えそうな一回は、咲夜でも聞きとれた。
それを受けたレミリアは、そっと、鉄格子の間から這い出てきているミスティアの腕を掴んだ。
そして、その腕を、吸血鬼の怪力を以って握りつぶした。
ぐしゃりと、まるで泥でできた団子を握りつぶすみたいに、いとも簡単に腕の骨は砕け、あらぬ方向にぶらりとひん曲がった。
無論、痛くない筈がなく、収束しかけていた叫び声が舞い戻って来た。
ひぃひぃと呻き、泣きながら潰された箇所を摩るミスティア。静かになった所で、レミリアが口を開く。
「ほらね? もう痛くないでしょう」
レミリアの言う通りだった。痛かったのは潰された瞬間と、その後十数秒の間だけ。すぐに痛みは消え去った。
恐る恐る、ミスティアが潰された箇所を押してみると、砕けた筈の骨が元に戻っていた。
「もうちょっとなのよ」
「――」
「殺すのも面倒な体になってる。もうちょっとの辛抱よ」
「もう、ちょっと?」
「ええ。もうちょっと」
レミリアがランタンの火を素手で消した。少し焦げた指先をぺろりと舐めて、踵を返す。
「もうちょっとで、あなたは悪魔となるの」
そう言い残し、地下室を去って行った。
レミリアの「もうちょっと」と言う言葉が効いたのだろうか。
それとも、彼女に言われた通り、本当に進化が終わりに近づいてきているのだろうか。
はたまた、その両方か。
次第に痛みが和らぎ始めたような感覚がした。慣れの可能性もある。
大の字になって仰向けで寝そべり、時々体を駆け抜けていく痛みにびくりと身を震わせながらも、歯を食いしばって終わりを待つ。
ころんと首を動かし、伸ばされている自分の腕の先を見る。
長かった爪は、暴れている最中に折れてしまった記憶があったが、また前と同じくらいに伸びていた。心なしか、鋭さが増しているような気がした。
おもむろに右手を動かし、自分の腹部に、その長く鋭い爪をぴたりと当てる。
少し力を入れると、ちくりとした痛みが走る。それに耐えながら一層力を加えてやると、外皮や肉を貫いて、爪はずぶずぶと腹部に沈んでいく。
穿たれた穴と爪の合間から、血が溢れ出てきた。
すぽんと、爪を引き抜き、爪に付いた舐め取る。鉄を噛んだような不快な風味が口の中に充満する。
だが、心なしか、その嫌であった筈の味も、今の彼女にとっては妙に愛おしく思えた。
爪を舐め尽くした後、そっと、爪を突き立てた箇所に手を持っていってみたが、傷は既に塞がっていた。
傷より溢れ出し、横腹を伝って地面へ滑り落ちて行った血の軌跡が、やけに不自然な存在となって目に映る。
その後も、幾度となく痛みを感じながらも、ミスティアは仰向けになったまま、静かな時を過ごしていた。
無意識の内に、腹部に爪を刺し、血を舐めていた。段々と頻度も上がっていき、数を重ねる度に、血の味を好きになって行くのを感じた。
そんなことをしている内に時間は過ぎ、いつの間にかミスティアは眠りについていた。
これまで激痛に苛まれ続けていた為、ろくな睡眠をとれていなかった彼女にとっては、久しぶりの安眠であった。
その日の深夜、地下室で轟音が鳴り響いた。
頑丈なものを力任せに壊したような、とにかく大きな音であった。
時間が時間であったので、多くの者は聞くことすらなかったか、聞き取って目覚めたものの、特に何も思わずに再び眠りにつくかのどちらかであった。
レミリアの妹が寝惚けて壁や床を壊すことは、度々起こっていた出来事だったからだ。
そんな中、咲夜は咄嗟に起き出して、寝間着のまま音源の方へ向かった。
どうせ、寝惚けた主の妹の所業だろうと思ってはいるのだが、音が鳴る度に、彼女はいつも起き出している。万が一のことがあってはならないからだ。
時間を止めたままの状態で、地下室へ続く階段へ到達した時、彼女の目に、いつもとは異なる光景が映った。
階段を上っているのはミスティアだったのだ。
その目は、一体どこを見ているのか分からないくらい虚ろだ。散々のたうち回って出来た傷や汚れが、気味悪さを更に助長させている。
一体どこへ向かう気だろうと、咲夜は物陰に隠れ、時間を動かす。
のろのろと、一歩一歩を踏みしめるように、ミスティアはゆっくりと地下室を離れている。
歩いていると言うより、倒れていないだけと言った方が適切に感じるくらい、危なっかしい足取りだ。
夢遊病でも発症したのだろうか――そんな憶測を立てながら、ミスティアの動向を監視していると、ふいに何者かに肩を叩かれた。
反射的にナイフに手をやり、即座に振り返ると、人差し指が頬に触れた。
後ろにいたのはレミリアだった。振り返った咲夜の頬に人差し指を立て、くすくすと笑っている。
「お、お嬢様?」
「いいのよ、咲夜。放っておいてあげなさい」
そう言われ、咲夜が振り返った頃には、ミスティアの姿は消えていた。
あの足取りで、無事に出口に辿り着けるかどうかが不安であった。
「きっと、夜の闇が恋しいのよ。地下室の無粋な闇じゃなくて、本当の夜の闇を求めてるんだわ」
「闇にも質があるのですか?」
「あるの。吸血鬼には分かるの」
「……では、ミスティアは、もう?」
「ええ。恐らくね」
勿体ぶったように一呼吸置いて、
「吸血鬼のミスティア・ローレライの誕生よ」
突然、まるで焼けた鉄か石でも地肌に押し付けられたかのような痛みが、ミスティアを襲った。
びくりと体を震わせると同時に起き上がり、弾けるように、この焼けるような痛みを自分に与えている何かから逃避しようと駈け出す。
咄嗟に、最寄りの茂みに飛びこんだ。どうやら森の近くで倒れていたらしかった。
茂みへ逃げ込んでみると、激痛の余韻だけが残った。
一体何をされたのだと思い、自分の腕を見てみたものの、目立った外傷は見られない。
代わりに、自分の体から、霧の様なものが上がっているのに気付いた。この霧は一体何なのか、ミスティアには良く分からなかった。
そもそも、あまりの苦しみに耐えかねて、助けを求めに紅魔館へ行った筈であったのに、どうして自分がこんな所にいるのか。それさえよく分からなかった。
自分を苦しめ続けた痛みは、嘘のように和らいでいた。
完全に消えた訳ではないし、体調は万全とは言い難いが、今までとは比べ物にならないほどまともな状態となった。
「……屋台」
譫言のように呟く。体調が元に戻ったのだから、仕事をしなくてはいけない――そんな考えが脳裏をよぎった。
慎重に茂みから手を出してみると、やはり手が焼けるように熱くなった。
「もしかして、日光?」
レミリアにいつか言われた、吸血鬼の弱点を思い出した。まさかこんなことを思い出せるとはと、自分に驚いた。
そしてすぐに、自分に吸血鬼特有の体質が備わってきたことに気付いた。
一見何も変わっていない自分の手を、暫くまじまじと見つめた後、
「とにかく帰らなきゃ」
ミスティアは日光を避けるようにしながら、自宅へと向かった。
大荒れのまま放置していた自宅はすっかり片付けられていた。家を訪れたリグルらが整理したのだ。それをミスティアが知る由もなかったが。
屋台の準備をしようと思った時、川の水が苦手になると言われたことも思い出した。
水道から流れ出る水に触れてみたが、日光程の苦痛はなかった。
しかし、川に行けないので、鰻を獲ることができなくなってしまった。
万全でない体調のままでの考え事は非常に億劫で、もう鰻を獲る術を考えることを捨てた。
日が暮れるのを待ち、鰻に代わる食材を買い求めることにした。
*
夜になり、いつもの場所に開かれている夜雀の屋台を見つけ、目を丸くした。
血塗れの家を放置して忽然と姿を消していたミスティアが、何事も無かったかのように姿を現し、仕事を始めたのだから。
騒ぎを聞きつけてやってきたリグルが、薄っすらと涙を浮かべながら、ミスティアに抱き付いた。
「ミスティア! どこに行っていたのよ!」
「ごめんね。いろいろあって、隠れてた」
「いろいろって?」
「いろいろは、いろいろだよ。でも心配しないで。もう大丈夫だから」
薄く笑いながら茶を濁すミスティア。
ミスティアの口調は、あまり深くまで追及されたくない意思を感じることができた。
なので、あまりしつこく問い詰めることはできないと判断したリグルは、一番の疑問を最後の問いとすることに決めた。
「ねえ、あの家の有様は一体何だったの?」
「家?」
他の者に聞かれないよう、周囲を窺った後、リグルが耳元で囁いた。
「血だらけだった」
「ああ、あれ? 慣れない生き物を捌いてただけだよ」
そう言い、ミスティアは、持ってきた材料をリグルに見せた。
「鳥肉?」
「うん。意外としぶとくてね。切ったら逃げちゃって」
にわかに信じられなかったが、とりあえず、リグルは納得した素振りを見せておいた。
「けど、いいの? 前はあんなに鳥肉を嫌がってたのに」
「いいの、いいの。それじゃ、準備するから」
追い出されるように客席側に戻されたリグルは、少し疑わしげな視線でミスティアを眺めていた。
吸血鬼化はほぼ完了したと感じていたが、相変わらず料理はできたし、唄も歌えた。
勘が鈍ってはいるが、慣れていけば以前と同じようにやっていけるだろうと思った。
少し危なげな手付きで仕事をしていて、ふと顔を上げ、視線を夜の闇の中へ向けてみて、
「あ」
ミスティアは思わず声を漏らした。
前にいた客が何事かと後ろを振り返り、ぎょっとして席を外した。
レミリアが屋台へやってきたのだ。咲夜はおらず、一人での来訪だった。
空席となった席に座り、
「ミスティア」
注文よりも先に、店主に声を掛ける。
ミスティアが振り返ると、レミリアは薄く笑み、
「おめでとう」
そっとそう告げた。
屋台の復活を祝しているのか、それとも別のことか。ミスティアには分からなかったが、
「ありがとうございます」
どちらの場合にしろ、ミスティアはレミリアに感謝していたから、こう返しておいた。
ミスティア復活の話はあっと言う間に広がり、翌日には復活を祝し、多くの客が彼女の屋台を訪れた。
長い間、無断で休んでいたにも関わらず、客の入りは前とそう変わらない勢いであることに心底安心していた。
変化らしい変化は、自分の体調くらいなものだと実感した。
まさに、彼女の思った通りだった。
忌々しい三人の客が、遂に来店してきたのだ。
「ミスティアさーんっ」
妙に明るい声で名前を呼ばれ、ミスティアが顔を上げると、見たくも無いくらい憎らしい顔が映った。
射命丸文を筆頭とした、三名の天狗。彼女に進化の決意をさせた、憎むべき存在。
「いやあ、ずっと心配していましたよ」
「そうですか。どうも」
あまり興味がない風を装いながら、ミスティアは素っ気無く答えた。
それが気に入らなかったのか、天狗の一人が低い声を漏らす。
「素っ気無いね。何か気に入らないの?」
「すみません。ちょっと体調が優れないもので」
小さな声で、屋台の新商品である焼き鳥を作る作業の手は止めずに即答する。
どこか生意気な態度をとるミスティアに、三人は少し不快感を覚えたが、すぐににんまりと笑い、空席に座った。
「とりあえずお酒ください!」
文が声を上げた。これを皮切りに、天狗らの小宴会が始まった。前とほとんど変わらない光景であった。
変わったことと言ったら、食っている物が変化したくらいなものだ。
相変わらず、天狗らの頼む品の多さは異常であった。
代金を払う気など毛頭ないのだから、何の躊躇もなく注文を続けている。
ミスティアは文句を言うでも、嫌な顔をするでもなく、黙々と仕事をしている。天狗らからすればその態度は、精一杯の強がりにしか見えていなかった。
まさか彼女が、自分達を凌駕する生物に生まれ変わっているなど、知る由もないのだ。
客の姿が疎らになっても、まだ天狗達は注文を続ける。
多めに仕入れた筈の鳥肉がどんどんなくなっていく。注文内容が書かれた付箋がどんどん枚数を重ねていき、柱が付箋だらけになった。
やけに頭が冴えた。天狗達が支払うべきおおよその合計金額を、頭の中で計算することができた。
同時に、払われなかった時の損失もほぼ見当がついた。
もしもまた払われなかったら。また訳の分からない言い掛かりをつけて帰って行ったら。
そう考えただけで、体中が熱くなり、視界がぶるりと震えた。怒っているのを感じた。
包丁を握る手に力が入る。木製の柄がみしみしと音を立てる。
食材を切る作業が段々と雑になっていく。大きさが疎らになり、まな板を叩く音が大きくなり、記憶をさかのぼっている内に視界がどんどん狭まっていく。
少しずつ、忙しく動く包丁が、食材を抑える手に近づいて行き、
「あっ」
親指にぴりりとした痛みが入り、ようやくミスティアは我に帰った。
思わず漏らした声は意外と大きかったようで、残っていた客のほとんどが、一斉にミスティアの方へ視線を向けた。
親指から血を流しているのを見るや否や、数名が「大丈夫か」と問う。
ミスティアはほほ笑みながら「大丈夫、大丈夫」と返しながら、カウンターの裏手にある救急箱を開けた。
ごちゃごちゃしている中身を掘り返し、やっと絆創膏を見つけ、一枚取り出した。包装を剥いで、傷に当てようとしたのだが、その手をピタリと止めた。
傷が見当たらなかったのだ。
付着している血をもう片方の手で拭ってみたら、既に傷は塞がって、少し盛り上がった一文字と化していた。
吸血鬼の驚異的な再生能力の存在を、すっかり忘れていた。
不審に思われるかと思い、傷のない親指に絆創膏を貼って、仕事を再開した。
時間は過ぎていく、どんどん客の数が減っていくが、やはり天狗達は席を立つ気配はなかった。
結局、またも天狗達は、閉店の時間になっても騒ぎ続けていた。
閉店の時間に気付いていない天狗達にミスティアが歩み寄り、
「すみません。閉店の時間です」
こう告げた。
完全に酔っぱらっている天狗達は、呂律の回らない口調で「あぁもうそんな時間?」とか、そんな感じのことを口々に漏らした。
天狗達が席を立つよりも先に、ミスティアは予め計算しておいた注文の合計金額を告げた。
まさかミスティアが、普通に金銭を要求してくるとは思っていなかったのであろう、天狗達は暫く無言でミスティアを見据えていた。
長期休業する前にあれほど脅したのに、ミスティアは恐れる様子もなく、天狗達に支払いを命じてきた。
鳥頭だからもうあのことを忘れてしまったのか――こんな風に天狗達は、ミスティアを心中で嗤っていた。
文はくつくつと笑った後、今まで通りの言い訳を口にしようとした。
「いやあ、すいませんミスティアさん。今日は持ち合わせが……」
「認めません。それから、休業前のツケが残っています。支払いをお願いします」
文の言葉を遮り、ミスティアが淡々とした口調で言い放つ。
やけに強気なミスティアに、僅かな違和感と、大いなる怒りを覚えた天狗達が一斉に席を立ち、ミスティアを取り囲む。
自分よりも背の高い三人の天狗に囲まれても、ミスティアは物おじせずに、文の目を見据えていた。
吸血鬼になれたことで天狗が恐ろしくなくなったことよりも、体調不良に耐えながら立っているのが苦痛になり始めた為、さっさとやるべきことを済ませて眠りに就きたいと言うのが大きかった。
文は怒りを露わにしないよう、とびきりの愛想笑いを浮かべつつ、言葉を紡ぐ。
「払いたいのはやまやまですね? 無いんですよ、お金」
「山に帰ればあるでしょう? 誰か取りに帰ればいいではありませんか」
「待たせちゃあなたに迷惑ですし、お金がある時に……」
「払われない方がよっぽど迷惑です。さっさと払って下さい」
文のどんな言い分にも、ミスティアは即座に、淡々と返答をする。
あまりの返答の早さに、文でさえ言葉に詰まってしまうほどであった。
天狗達は顔を見合わせた。ミスティアの態度の変化に少し戸惑っていた。
しかし、態度が変われど、所詮敵は単なる夜雀。天狗達が恐れるに値しない、小さな妖怪だ。
天狗の一人が、ミスティアの胸倉を引っ掴んだ。
暴力での解決――単純明快な、天狗達の最終手段だ。
「あんまり天狗をバカにしない方がいいぞ?」
ぐいと押し上げられたミスティアの顔は、相変わらず怖気づいた様子は見られない。
どうしても自分達を恐れようとしないことが、天狗達にとって不快であり、その不快感は、言い知れぬ恐怖と焦燥感へと変化していく。
胸倉を掴んだ天狗が握り拳を作った。
「お前、いい加減に……ッ!?」
天狗の言葉が不自然に途切れた。
それからほんの少しだけ遅れて、ぴゅっと、赤く温かい液体が、四人に満遍なく飛び散ってきた。
あまりに突然のことであったし、何しろ周囲が暗かったものだから、液体の正体に気付くのは容易なことではなかった。文と、天狗の一人は、怪訝な顔をし、その液体の正体を探りだした。
ミスティアと、彼女の胸倉を掴んでいた天狗は何の行動も起こさなかった。その液体の正体に、端から気付いていたから。
ミスティアが、胸倉を掴んできた天狗の大腿部に、隠し持っていた刃物を引き抜くのと同時に、天狗が絶叫した。まるで、包丁が栓の役目を果たしていたかのように、絶叫が響きわたる。
現状の把握ができていなかった二人も、そこでようやく何が起こったのかを理解した。しかし、どう行動を起こせばよいのかを即時に判断できず、慌てふためくばかりであった。
仲間の止血が先か、ミスティアを遠ざけるか――。
次の行動を決めるよりも先に、もう一人の天狗の喉に刃物が突き刺さった。
ミスティアには迷いがない。この我儘な客人を殲滅する。ブチ殺す。倫理とか、払われない代金のこととか、そんなことはもはやどうでもよかった。
とにかく封じる。さっさと無力化して、後片付けをして、眠る。至極単純で、簡単な行動だ。
大腿部を刺した方の天狗はまだ生きていたが、喉元に刃物を喰らわされた天狗は、仰向けに倒れてそれっきり動かなくなった。
仲間の一人があっと言う間に死んでしまうや否や、刺傷を負った天狗は、次は自分の番かと、狂ったように喚きだした。
血だらけの刃物を握り締めたまま、ミスティアが次なる目標に目をやった、その瞬間、文が渾身の蹴りをミスティアに見舞った。
その一撃はミスティアの左腕を砕き、彼女の体を数メートル吹っ飛ばすことに成功した。
「夜雀風情が、調子に乗るなッ!」
倒れたミスティアに追撃を加えようと、文が瞬く間に距離を詰めた。
俯せになっているミスティアに、死に物狂いで追撃を浴びせる。
「さあ、死になさい! 死ね! 死ねッ!」
文は笑っていた。殺すことが楽しい訳ではない。驚異の相手を圧倒できているこの状況に、心底安心しているのだ。
もはや彼女の目に映っているミスティアは、夜雀などではなかった。夜雀と瓜二つの、もっと別の生物であった。
文の目測通り、彼女はもう夜雀ではない。吸血鬼と言う究極の生物だ。究極の生物相手の優位が、そう長く続く筈がなかった。
ある瞬間に、追撃の傷は愚か、蹴りすらまるで効果が無かったかのように思わる機敏な動きで、ミスティアが文の足を掛けた。
攻撃に夢中であった文がこの唐突な反撃に反応できる筈がなく、文が転倒した。その隙に、手放してしまっていた刃物を引っ掴み、ミスティアが起き上がる。
あっと言う間に形成が逆転してしまった。砂や泥の汚れの合間に見えた傷は、文の目の前であっと言う間に元に戻ってしまった。
文は唖然としたまま、今まさに自分を殺そうとしている少女を見上げていた。
尻餅をついたままずりずりと後退するが、した分だけミスティアは前進する。
不意にミスティアが横をちらりと見た後、そちらに刃物をぶん投げた。
闇の中から「げぇ」と呻き声がし、ざっと、草が何かに潰される音がした。大腿部を刺されていた天狗が死んだのだ。
闇に隠されていたお陰で見えはしなかったが、ミスティアの投げた刃物は天狗の右目を貫き、脳にまで到達していた。さすがの天狗も即死であった。
死体は見えないものの、仲間が死んだことは分かったようで、文はがたがたと震え始めた。
もう頼れる者がいない。残るは自分だけ。
暫く性懲りも無く後退を続けていた。スカートやその中の下着は、地面の泥が吸っていた水分や、恐怖による失禁ですっかり濡れ切ってしまっている。
この期に及んでその湿りによる不快感など感じ始めたのは、彼女が生きるのを諦めた証であろうか。それとも、思考が混乱しているだけであろうか。
ミスティアは相手の出方を窺っているのか、追い詰める過程を楽しんでいるのか、全く手を出そうとしない。
無意味な追いかけっこが終焉を迎えた。ミスティアの屋台に、文の背がぶつかった。もう後退することはできなくなった。
ぐらりと屋台が揺れ、カウンターから空の酒瓶が落ちてきた。無意識の内に文はそれを掴んで、ミスティアに向かって投げつけた。
酒瓶はミスティアの額にぶつかって割れた。額からつーっと血が垂れてきたが、傷はやはりあっと言う間に修復した。
ミスティアは、頬にまで伸びてきた血の跡をぺろりと舐め取って、余裕を表した。
「化け物……!」
文は思わず呟いた。それを聞いたミスティアは、ふっと笑んだ。
「確かに。化け物だわ」
そう言った後、割れた酒瓶の破片を手に取った。飲み口となる細い部分を柄のようにして持ち、更に文に近づいて行く。
みすみす凶器を作り出してしまったことを、文は後悔した。
「ま、待って下さい!」
文は、とりあえず急所となる頭を手で守りながら、素っ頓狂な声を上げた。
「払います、払います! 今すぐ! すぐにお金持ってきますから」
「もう払わなくていいよ」
必死な口調とは裏腹に、ミスティアの声はひどく落ち着いている。
「謝罪でも賠償でも何でもします! 何でも! 宣伝だってしてあげます! ですから……!」
「ですから、何」
「いっ、命だけは」
「ああ。それだけは嫌」
割れた瓶の破片を、ガラ空きの足へと投げ付ける。尖った瓶の破片が、文の足を傷付ける。
瓶の破片は更に砕けて細かくなり、文の足の上に散らばった。
ミスティアはその散らばった破片ごと文の足をぐりぐりと踏みつける。
「うあああああぁぁぁぁああ!!」
文の絶叫を聞いても、ミスティアは何にも思わなかった。スカッともしないし、哀れみも感じない。
憎らし過ぎて憎らし過ぎて、この程度のことでは満足できないのかもしれない――。
そう思い、
「ねえ天狗」
「はっ、はひぃ」
「殴らせてよ」
「え……あ、あの、そうすれば命はぁ゛ぅっ!?」
文の言葉など聞くつもりはないようで、有無も言わせぬ内に、ミスティアが文の腹を蹴りつけた。
しこたま飲んできた酒が、食ってきた肉が、胃液と混じって一気に胃から外界へ吐き出された。
文の髪を引っ掴み、地面に広がった吐瀉物目掛けて顔を叩きつけ、酷い臭いと顔面の痛みにひぃひぃ泣いている文のわき腹を蹴りあげる。
腹を守り始めたら、今度は頭を殴りつける。反射的に手は頭へ行くので、またも腹を狙う。
次第にその応酬すら煩わしく感じ、右腕も左腕も折ることで、遂に防御行動そのものを封じてしまった。
足はずたぼろになり、腕も砕かれ、動くこともままならなくなった文への暴力は、暫く続いた。
初めは泣きながら謝罪を繰り返していたが、段々と声が小さくなっていき、最後は譫言みたいに「ごめんなさい」を呟くだけになり、それでも殴り続けていたら遂に何もしゃべらなくなった。
返り血だらけのミスティアが、口に入った血を吐き捨てた。吸血鬼である為、血には飢えているものの、文の血など飲みたくはなかったらしい。
気を失って動かない文を担ぎ上げて、ミスティアは夜の闇の中へ消えて行った。
満身創痍の文を自宅付近にある倉庫に放り込み、きっちり施錠した。その後、残してきた天狗の死体二つを回収した。
二つの死体を仰向けにして並べて、鉈のような刃物を持ち、この死体をどう解体するかを考え始めた。
峰を手に当て、ぱしぱしと音を立てながら、ああでもない、こうでもないと試行錯誤する。
考えてはみたが、大した案は浮かばなかったし、何よりさっさと眠りたかったので、関節ごとに切り分けることに決めた。
首、肩、肘、手首、腰、腿、膝、足首に、力任せに刃物を振り下ろし、骨ごと強引に切断していく。
あっと言う間に解体は終わり、一部は冷蔵庫に入れ、入り切らないものは干した。
飛び散った血を洗い、後片付けをした後、文の容体を確認し、床に就いた。
*
真っ暗な倉庫の中で目を覚ました文は、反射的に立ち上がろうとした。しかし、腕を使うことができず、バランスを崩し、倒れた。
「ミスティアさんっ!?」
不安げに声を震わせ、あの恐るべき屋台の店主の名を叫ぶ。返事はなかった。
自分がいる場所がどこなのか。どうして殺されずにここに残されているのかが分からず、闇の中で蹲っていた。
暫くそうしていると、不意にどこからか、錠が外れる音がした。
次いで、闇の所為で見えなかった扉が開き、外の光が入り込んできた。そうなったことでようやく、ここが倉庫として使われている場所なのだと言うことを、文は知ることができた。
入ってきたのはミスティア。片手で大きなお盆を持っている。
「ミスティアさん、ここはどこなんです? 私をどうするつもりです!?」
文は問うたが、ミスティアは質問には一切答えず、持っていたお盆を地面に置いた。
お盆の上には、肉料理の盛られた皿が乗せられていた。できたばかりのようで、湯気が立っている。
意図が分からず、地べたに置かれた料理とミスティアを交互に見比べる文に、
「食べて。毒なんて無いから」
とだけ言い残し、ミスティアは倉庫を出て、施錠をし、去って行った。
食え、と言われても、作った者が作った者だし、こんな怪しげな場所でぽんと料理を出されても、食いたいなどと思える筈がない。
腹は減っていたが、結局文は、それに少しも手を付けることはなかった。
緊張の所為で少しも眠れず、しかも退屈を凌ぐ娯楽も無く、気が遠くなるような時間を過ごしていると、またもミスティアがやってきた。
やはり彼女はお盆を持っていた。
地面に置かれた、手付かずの料理を見るや否や、持っていた料理と置いてあった料理を持ち替え、文に歩み寄りだした。
近づいてくるミスティアに恐れを成し、ずりずりと後ずさる文を捕まえると、朝出した料理を地面へ置き、それに文の顔をぐっと近づけた。
「どうして食べないの?」
「あ、あの、その……」
「あんなに食べてあんなに飲んでたじゃない。食べなさいよ」
「お腹、減ってな」
「食べなさい」
「でも」
「食べなさい」
段々と、声が低く、小さくなっていく。さすがは歌姫と言うべきであろう、若々しく可愛い声であると言うのに、確かな威圧感があった。
結局ミスティアの掛けてくる圧力には耐えられず、文は眼前の料理を喰らい始めた。
腕は痛んで使えないから、犬のように、皿に盛られた料理に顔をうずめて。
「残さないでね」
先ほど持ってきた料理も傍に置き、ミスティアは帰って行った。
夜も同じように食事が出た。翌日も、前日と同じように朝昼晩と食事が出た。残してはならないと、腹は減っていなくても、文は必死に食事を平らげた。
三度の食事は、普段食べている量と比較してみても、明らかに多めであった。
これだけ食べるのに、倉庫の中に閉じ込められているだけで、少し腹を空かすことができない。おまけに、貯まっていくエネルギーを消費することもできない。
厠などないから、部屋の隅で用を足さざるをえなかった。
そんな生活が始まり、一週間程度経ったある日のこと。
いつも通り、朝食を持ってきたミスティアが、文の姿を見て、くすりと笑った。
「何がおかしいんです」
殺す素振りも無ければ、解放の意思も見られない、全く何をしたいのかが理解できないミスティアに、いつしか文は苛立ちを覚えていた。
文句を言われたことに、ミスティアはこれと言って反応はしなかった。
ただ、薄い笑いを保ちながら、
「別に」
と一言呟いた。
食事を置き、踵を返し、去っていくミスティア。
扉を閉める直前、ちらりと後ろを振り返り、薄い笑みを少しだけ深くした。
「何なんですかあなたは! 言いたいことがあるならはっきり言え!」
囚われの身であることも忘れ、文が声を荒げる。
それでもミスティアは、くすくすと笑っているだけであった。怒りもしない。悲しみもしない。
扉を閉め、施錠をした後、ミスティアが扉に向かって一言、呟いた。
「随分肥えたわね、あなた」
連続した高カロリーの食事と運動不足が祟り、文はいつの間にか、ぶくぶくと肥ってしまっていた。
その姿がミスティアはおかしくておかしくて仕方がなかったのだ。
思い出すだけで笑えてくる程、醜悪な姿に変わり果てた文を思い出してくすくすと笑いながら、ミスティアは今後の予定を画策し始めた。
それからもう一週間が経過した。
文は、以前よりも更に肥えた。身に着けていた衣服は裂けんばかりに張りつめている。
細身で身軽そうだった面影は、もはや全く無い。幻想郷最速と謳われていたのが嘘のような姿に成り果てた。
文自身、自分の体型の変化には気付いていた。だが、それを受け入れたくないようで、なるべく自分の体に目を落とさないようにしていた。
ミスティアは、食事を運びに来る度に、そんな文を見て笑った。
時の経過によって、いつ殺されるのだと言う不安感すら消えて無くなってしまっていた文は、ミスティアの嘲笑を感ずる度、物陰に身を隠すようになった。
見っとも無い姿を晒すのが嫌だったし、それを嗤われるのも嫌だったから。
夜になって、定刻通り、ミスティアが倉庫にやってきた。
しかし、今回は食事を持っていない。この時間に、食事を持たずミスティアが倉庫にやってくるのは初めてのことだった。
一体何をするのかと文は身構えていたが、ミスティアはそんな文を見て、またもふっと笑い声を漏らす。
笑いに来ただけ――そんな憶測を立てるや否や、文の怒りが頂点に達した。
「何をしに来たんです」
「何でもいいでしょ」
「あなたは何が目的なんですか! 何がしたい!? 私にこんなことして、何をしたいんだ!?」
「それはもう終わり。だから安心して」
ミスティアはほほ笑みながら言った。
そして、何やらいろんな言葉で怒る文を宥めながら、彼女に近づいて行く。
ミスティアが攻撃が届く範囲に入ったのと同時に、文は自棄を起こし、抵抗に出た。
治った腕や足を駆使し、今できる最大限の抵抗をする。
だが、相手は吸血鬼。全くと言っていいほど動いていない文にどうこうできる相手ではなかった。
「とろいよ、ウスノロ」
そんな言葉が、嘲笑染みた口調で聞こえたのを最後に、文の視界が真っ暗になった。
夜の紅魔館の扉が叩かれた。
既に門番は撤収していた為、偶然近くを通りすがった妖精メイドが玄関を開けた。
現れたのは、天狗を担いだ見知らぬ妖怪。
「レミリアさんはいるかしら」
怪しい人物だと思いながらも、妖精メイドはレミリアを呼びに、彼女の私室へ向かった。
呼ばれたレミリアは、愛しの吸血鬼が来訪したことを、いたく喜んだ。
「ミスティア」
「こんばんは、レミリアさん」
「何か用?」
「進化の御礼をしようと思いまして」
*
異様な熱気を感じ取った文が目を覚ますと、エプロンを着用したミスティアが目に入った。忙しそうに右往左往している。
エプロンは、屋台で身に着けている物とは全く異なるものだった。エプロンに関する知識など無かったが、心なしか上質なものに見えた。
覚醒直後の朦朧とした意識でそんなことを考えた後、ようやく完全に目を覚ました文は、周囲を見回した。
だだっ広い部屋だった。暖炉やテーブルが置かれているので、屋内だと分かった。
別の方向を見てみると、またもテーブルがあり、その横に見覚えのある人物が立ち、文の方をじっと見つめていた。
「レミリアさん?」
思わずその人物に声を掛ける。レミリアはにこりと微笑み、会釈をした。
「これは何なんですか? ここは?」
「ここは紅魔館。何が起こるかは、私はよく分からないわ」
そう言うと、レミリアは椅子に座り、テーブルに置かれた酒を口にした。
エプロン姿のミスティア。椅子に座って酒を嗜むレミリア。燃え盛る暖炉。
これだけの要因を目にすれば、何となくここで始まろうとしていることは理解できる。
それはずばり、食事だ。
食事が始まると言うのに、食材らしい食材が見当たらない。
そして、手足を縛られて身動きがとれない自分。認めたくはないが、すっかり肥えてしまっている自分。
まさか、と顔を青くするや否や、目の前のミスティアが、付近の台に置いてあった巨大な刃物を手に取り、くるりと振り返った。
彼女は笑っていた。心底嬉しそうに。心底楽しそうに。
「ミ、ミスティアさん? それで、何を」
「料理」
刃物を持った手をだらんと伸ばし切ると、刃物の刃先は地面に到達する。それほど、刃物は大きなものだ。
一歩前へ進むと、刃先は地面を削ってがりがりと音を鳴らす。
ミスティアがゆっくりと文に近づく。いよいよ自身の身の危険を察した文は逃げようとする。ミスティアからすれば、もはや見慣れた光景であった。
文は拘束されていて動くことができない。
「来るな、来るなっ!」
逃げられないとなり、今度は言葉で威嚇しようとするが、それも全く効果を成さない。
自力での逃亡、撃退の手段が無いと分かると、文は横にいるレミリアに向かって声を張り上げる。
「レミリアさんっ! た、助けてください!」
文の必死な形相とは裏腹に、レミリアは穏やかに、二人の成り行きを見守っている。
声が届くと、ゆっくりと文の方を向き直し、ふっと微笑んだ。
「な、何笑っているんです!」
「あなたを助けたら私の夕ご飯が無くなっちゃうし?」
「食事なら何だって御馳走しますから、早くこいつを……」
必死にレミリアを説得している内に、ミスティアが文の足元にまで迫っていた。
巨大な刃物の柄を両手で握り締め、ぶんと振り上げる。振り上げられた刀身が影になり、文の視界が仄かに陰った。
視界が元に戻るのと、左脚に激痛が走ったのがほぼ同時であった。振り降ろされた刃は、腿に突き刺さっている。
銀色だった刃物は、切断された脚から噴き出す血が付着し、その輝きを失っている。
一度脚から引き抜き、傷口目掛けてもう一度、刃を振り降ろす。それでも切断することができなかったので、もう一度。この動作は、切れるまで行われた。
絶叫する文を尻目に、ミスティアは遂に左脚の切断に成功した。足首を掴んで、それを持ち上げた。
細くて食う部分など無さそうだと思っていた文の脚も、今や長きに渡る育成のお陰で丸々と肥えている。
粗雑な断面から噴き出る血が、借り物のエプロンを汚していくが、ミスティアは勿論、所持者であるレミリアすら気にしていない。
「どうです、レミリアさん。美味しそうでしょう」
「ええ。とっても」
レミリアは微笑みながら頷いた。記憶の中にある文の姿と似ても似つかない脚を見て、あれをどう調理するのか、心底楽しみにしていた。
雑談を好機と見るや、文は体をもぞもぞと動かして逃げようとした。
部屋を見る限り、扉は一つしかない。片脚を失い、手も使えない彼女にとっては、扉への道はあまりに長い。
そもそも、五体満足な敵が二人いるこの部屋から、この状態で逃げ出そうと言う発想があまりにも愚かだった。必死に生へ執着するその姿は、もはや滑稽ですらあった。
そんなことは厭わず、文は少しずつ、確実に、出口の扉へと向かって進んでいく。
その間、ミスティアは文の脚の解体を始めていた。
靴を放り、靴下を捨てた。足首を骨ごと強引に切り離し、更に膝にも刃を入れた。足首と腿をまな板の上に載せ、使い慣れた包丁で切り開き、骨を取り除く。
取り除いた骨は血を洗い流して、茹だる鍋の中に放り込んだ。それが終わると脹脛の肉の一部を切り取って骨を剥き出しの状態にし、腿と一緒に焼き始めた。剥き出しになった骨は、後に柄となるのだ。
焼き色を見ながら肉をひっくりかえしたりしている内に、文は扉に到達していた。
しかし、ノブを回すことができない。手が拘束されている為だ。
それでもどうにかノブを回そうともがいている内に、ミスティアが完成した料理をレミリアの元へ運び出した。
「お待たせしました」
「まあ、美味しそう」
湯気を立たせている文の脚を材料にした肉料理に感激したレミリア。
いただきますも言わずに、ナイフで腿肉であろう肉の塊を切って食べ始めた。
物を口に入れている間は喋れないので、感想は聞くことができなかった。だが、その食事の様子から、気に入って貰えたことを確信したミスティアは、満足げに頷いた。
そして、逃げ出そうと必死な文を捕まえに、彼女の元へ向かった。
狂ったようにノブに立ち向かっている文の襟首を掴み、ずるずると引き摺って調理場の方へ連れ戻していく。
苦心して到達した扉が遠ざかっていく悲しみと、またミスティアの料理が始まることへの恐れから、文はばたばたと暴れて抵抗した。
「やだ、やああああ!! 放せ! 放せっ!」
「うるさいな。ほら」
言われるがままに、ミスティアはぱっと文の襟首を手放した。
頭を地面に打ったが、そんな痛みは気にしないで、文はまたも扉へ向かって這いずりだした。
どうせあっと言う間に追いつけてしまうので、別に急ぐでもなく、ミスティアは置いておいた先ほどの大きな刃物を手に取り、また文へ歩み寄っていく。
「とても美味しいわ、ミスティア」
横からレミリアが声を掛ける。
「ありがとうございます」
「天狗料理なんていつ会得したのよ」
「あいつの仲間も一緒に屠ったので、その肉で」
文に追いつく足は止めずに、ミスティアは笑いながらそう返した。
重たい刃物を、またも地面にがりがりと擦りながら歩む。付着した血が刃先に溜まり、細い赤色の線を描く。
結局すぐに追いついてしまい、文の体を踏みつけて進行を止める。
残っている右脚の腿に、ぴたりと刃を付ける。素振りをするように、とんとんと刃を腿に小刻みにぶつける。一度刃が腿に触れる毎に、文はびくりと体を震わせている。
暫くそうした後、ミスティアはすぅと息を吸った。
「切るよ」
「は? え?」
「歯を食いしばってみたらどう?」
そう忠告した数秒後、振り降ろされた刃が、一撃のもとに文の右脚を切断した。まるで骨など無かったかのように、あっさりと。
絶叫が再び、だだっ広い部屋の中に木霊した。
切り離した右脚を掲げて、
「レミリアさん。これお土産です。みんなで召し上がってください」
こう言うと、服を汚しながら食事に勤しんでいたレミリアが顔を上げ、うんと頷いた。切り離された脚を見ても、食欲が失せた様子も見られない。
吸血鬼故か、そんな残酷な景色も別に何とも思わないらしい。
遂に両方とも失われてしまった自分の脚を見ても、文にそれを気にする余裕はないようで、激痛に苛まれ涙を流しながら、またしても出口の扉を目指し出した。
お土産用の右脚を綺麗な場所に置いたところで、性懲りもなく逃げようとしている文を捕まえに向かう。
「どうせ逃げらんないよ。おとなしくしてて」
「もうっ、もうやめて! やめてください、放して、帰してくださいぃ!」
「それは無理」
冷めた口調で即答すると、ミスティアは両足を失った文を壁に立てかけた。
両脚は切断され、手は後ろに回されて縛られている、ほとんど四肢の無い、まるで達磨の様な状態の文の目の前に立ち、ミスティアは文の全体を見る。
暫くすると、首を傾けた。
「ちょっとこうして」
「は、はい?」
「いいからさっさとして」
逆らうことはできまいと、文が首を片方に曲げた。
ミスティアは「そのままじっとしてるのよ」と言い、またも刃物を両手で握り締める。
彼女の目が全く動かなくなった。ある一点を狙っているようにしか見えない。
「あ、あの、ミスティア、さん?」
文が声を震わせ、名前を呼んでみても、ミスティアはそれに応じない。
彼女は、一太刀で肩を切り落とそうと目論んでいる。狙いが外れては上手く切れないので、集中しているのだ。
目の前で凶器を握り締め、狩りを行う獣のような目をしている、悪魔の様な所業を繰り返す少女を目の前にして、誰がじっとなどしていられるものか。
唐突にぐんと振り上げられた、赤と銀の刃。
このまま振り降ろされ、文の体のどこかを傷付けるのは、被害者である彼女からしても明白だった。
刃が当たる寸での所で、文は体を横に倒した。行動に伴う結果がどんなものかは知ったことではなかった。
だが、とにかく何かしら抵抗しなくてはいけないと言う、浅はかな防衛本能に抗うことができなかった。
肩を落とす為に放たれた一閃は、文の横腹を切り裂いた。
分厚い脂肪は刃を撥ね退ける鎧とはならず、あっさりと鉄の刃を受け入れてしまった。
「うぎゃあああああぁぁぁぁ!!」
肩が落ちなかったのは幸か不幸か。
容姿は保たれたが、中身を失う羽目になった。大きく裂かれた横腹から臓物がずるりと溢れ出てきたのだ。
出てきたモノの全貌があまりにも醜悪で汚らしく、こんなものが自分の中に入っていたと言うのが信じられないと言った眼差しを自分の臓物に送る文。
生臭いにおいが充満した。しかしそれでも、レミリアの食欲は衰えないようで、
「今度はモツ煮込みでも作ってくれるの?」
と、骨付きの肉を齧りながら問うてきた。
ミスティアは小さく舌打ちをした。
「肩を落とすつもりだったのに。動くなって言ったじゃない」
「あ……うぅ……かはぁっ」
文の様子が急激におかしくなった。いくら死ににくい妖怪と言えど、内臓を露出させるほどの傷は耐えられなかったようだ。
本当はもう少し、レミリアにこの殺戮ショーを見せる予定であったが、こうなっては食材の鮮度が落ちる。
それに、あまりに醜い見た目なので、レミリアの食欲に影響が出るかもしれないと判断し、横たわったまま苦しそうに長い呼吸を繰り返す文の首筋に、刃を当てる。
「あっ……が……み、みすてぃ……ぁ……」
「最後に何か言いたいことはある?」
興味本位でミスティアが聞いてみると、
「ごめ……な……」
文がこう答えたのを、ミスティアはどうにか聞き取った。
ミスティアはふっと微笑んで、
「やだ」
こう返事し、首を撥ねた。
*
復帰してからメニューに変化が現れたミスティアの屋台は、以前にも増して賑わいを見せた。
鰻はミスティアが仕込みにくくなったので少し値が上がったが、新たに始まった焼き鳥も人気が出た。
やはり、酒にはこれ、と言う先入観があったらしく、鰻以上に人気が出た。
料理に一層磨きが掛かったのは勿論のことだが、得意客の一部は、ミスティア自身の変化に気付いていた。
「ミスティア、前よりしっかりした感じがする」
魔理沙がふいにこんなことを言った。
「そうですか?」
ミスティアは控えめにこう返す。魔理沙はうんと返事をし、
「進化したな、お前」
事実を知らぬであろう魔理沙がこう言った。
ミスティアは照れ臭いのやら、まさか事のあらましを知っているのではと言う疑念やらで、苦笑いした。
そんな雑談をしながら仕事をしていて、ふと目線を逸らしてみると、ある二人の客人が目に映った。
先ほどから飲み食いしていたのだが、急に席を立ち、屋台を去ろうとしているのだ。
ちらちらと自分の方を窺っているのも分かったが、ミスティアは無視する振りをして、魔理沙との雑談に花を咲かせていた。
そして次の瞬間、その二人の客が、闇の中へ消えて行った。残ったのは空の皿とコップと、散らかり放題の机のみ。
当然、代金を払われていない。
文に感化された者だろうか――。
体中の血が、ざわつくのを感じた。
「それじゃ、私はこれで」
あらかた話を終えた魔理沙が、代金をカウンターに置き、席を立った。
「これからもよろしく頼むよ」
そう言った魔理沙に、ミスティアは笑顔を見せる。
「はい。またの起こしをお待ちしております」
踵を返した魔理沙に、こう告げた。
「お得意様専用メニュー、なんてものも始められるかもしれませんから」
バイオハザード2、ウィリアム・バーキンを見ていて書きたくなったSS。
文らしい文が書けたのがよかったと思います。これぞ文、といった感じで。
グロテスクパートはやはり書いていて楽しかったです。
文がデブったのは、Twitterのお陰です。ありがとうTwitter。
ご観覧ありがとうございました。
――――――――――
>>1
こんなSSでよろしければ、どうぞ夜の御供に///
>>2
ためになるだなんて、恐れ多いですわ。
>>3
お腹が減ってる時に調理パート書いていたのが功を奏したかもしれません。
>>4
バーキン博士並みの進化を遂げさせるのは、容姿が崩れるのでできませんでした。
>>5
みすちーは可愛いので見た目を崩すのは気が引けるのです。
>>6
ミスティアとレミリアのペアには本当に昔からお世話になっております。 まさに文!
>>7
フォアグラ食わせろと言う意見を多く頂きましたが、フォアグラって発想が無かったです。悔しいです。
>>8
悪者が叩かれるのです。これほど爽快な話もありますまい。
>>9
ありがとうございます。
>>10
Wiiのゼルダの伝説でも薬か何かパクると鳥みたいなのに追いかけられるんですよね。
>>11
フォアグラェ……。知識の無さが露呈した瞬間です……。おお。
>>12
進化の過程は書くの大変でしたが、お気に召して貰えたようでよかったです。
>>13
どういたしまして。今後もどうぞよろしくお願いします。
>>14
『進歩』では足りない程の変化を感じ取った、と言った感じです。
>>15
確かにLunatic Kitchenに続きそうですね、これ。書いてて全く気付かなかったです^^;
>>16
どういたしまして。楽しんで頂けたようでよかったです。
>>17
私の中ではこんな目に遭ってようやく文が輝きだすのです。
>>18
料理も歌も割と身近なものだから、より魅力を感じられるのかもしれません。すごいですみすちー。かわいいですみすちー。
>>19
空腹時に書いたシーンですから、その影響を受けているかもしれません。
>>20
恐縮です。今後もどうぞよろしくお願いします。
>>21
ありがとうございます。今後も喜んでもらえるような二人を書けるようがんばります。
>>22
鍛えたというか生物そのものが変化したのが今作。それはまるでGウィルスのような。
>>23
レミリアの悪戯が伝わっていてよかったです。
>>24
ありがとうございます。
>>25
私も今後ももっと精進していきたいと思います。
pnp
http://ameblo.jp/mochimochi-beibei/
作品情報
作品集:
23
投稿日時:
2011/01/29 12:53:26
更新日時:
2011/02/12 12:16:56
分類
ミスティア
射命丸文
レミリア
グロ
命乞いするぽっちゃりあやちゃんが可愛すぎて抜けるレベル
無銭飲食ダメゼッタイ
悪魔との取引は高く付くといいますが、みすちーは吸血鬼化して得た身体能力と知性で、
レミリアに素晴らしい『お礼』をしましたね。
また、悪魔と付き合うと破滅するだけともいいますが、ここは幻想郷。
徳の高い高僧が下手コくこともあれば、デーモンロードが救いの手を差し伸べることある、と。
幻想郷の悪、それは、決まり事を守らないもの。守っていれば非道なことも許されるし、
守らないものは何されても文句は言えない、と。その際たるものがスペルカード・ルールですが。
文がぶくぶく太ったことで、おおよその末路は見当が付きました。
ブロイラー。食われるためだけに存在する鳥。
飽食三昧の文に相応しい末路。
弱肉強食。強者は弱者を食い物にする。
だが真の強者は、弱者を庇護し、外道を貪る。
みすちーは道を踏み外さず、良かった良かった。
魔理沙、みすちーのことを『進歩』ではなく『進化』――高位の者に変化したことを感じ取ったみたいですね。
この魔理沙、友達思いだし代金もきちんと払うし、良い。彼女なら、人肉料理にならないですね。
では、また素晴らしい、ためになるお話を楽しみにしています。長文失礼しました。
因果応報という分かりやすい構図が実に良かったです。
今回は被害を受けたミスティアがレミリアのおかげで自力で復讐できたのも良かった。
魔理沙は今回はいい奴ですね、もちろんレミリアもかっこよかったです。
サクサク読めて、肉が食いたくなりましたw
バーキン博士を見てなぜこんなに気持ちのいいSSを書けるかが知りたいですw
食い逃げダメ。絶対。
こういう見た目変わらないのに一点だけ逸脱するってのも良いなあ
こんな関係性もいい!と思わせる作品でした
うーむしかし文が文らしすぎて困る
せっかく太らせたんだから、これを見逃す手はないでしょうよ。
とりあえず、下衆鴉の脂肪肝になってフォアグラ化した肝臓を軽くバターでソテーしてください。
夜雀から吸血鬼になっていく過程の描写が生々しくて好き
自分の身に起きたことの様に痛みを想像させられました
もしかしたら魔理沙は知っているのでは・・・
この時の魔理沙はこんなにいいヤツだったのに……どうしてああなった
妖怪らしい因果応報が綺麗に書かれていてすっとしました。ありがとうございます。
にしても素晴らしい作品ですね、ゆっくりに音読させて聞いていたい位です。
ミスチーカッコイイー
ってか、歌と料理って二つの全く別の特徴あるのがみすちーの魅力の一つなんじゃないかと、最近氏のSSで思うようになった
今回のレミリアはかっこいいなあ。魔理沙もイイヤツだし
吸血鬼みすちーの文の処遇が、まさに無銭飲食の末路にはふさわしかったな
食った分を身体で返してもらう。或いは、食った分を投資としてより美味い食材を得る。
しかもその餌にはお仲間さんを使って経費節約! すごいぜ、みすちー!
文ちゃんくいてぇw
五回も読み返しました。私的に理想のお嬢様。みすちーも魅力的。
みすちーとお嬢様の性格・関係はpnpさんのが一番好きです。
前半の文に対するイライラも後半で凄くスッキリしました。
あと、これ読んでお腹が空きましたw
なのに……喰った、本当に喰っちゃったよ
一瞬でも“美味そう”とか思った自分が、何か嫌だorz
>反射的にナイフに手をやり、即座に振り返ると、人差し指が頬に触れた。
“とんとん”“くるっ”“ぷに”を仕掛けるおぜう様に萌えざるをえない
きめえ丸はおぜう様に食われてハッピーな終わり方ですね。
そして、みすちーはきめえ丸に復讐を果たせてよかったよかった。
pnpさんの作品を読ませていただいて大変勉強になりました。
嫌でも自分のSSのレベルの低さを痛感してしまうような
いやあこういう話はいつ読んでもスカっとして良い
もうみすちーなんて呼べねぇミスティア様だ
しかしなぜあややはこうも下種が似合うのかwww
欲を言えば、最後文ちゃんの往生際の悪い見苦しい抵抗をもっとみたかったです。