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『地底三文オペラ』 作者: ふでばこ
始
目を覚ますと、視界が傷だらけのレコードのようにグルグル廻っていた。
とても起きあがれそうにない。下腹に渦のようなものが湧きだすのを感じる。それは拡大と縮小を繰りかえしながら、胸へ、首へと昇ってくる。
強烈な、吐き気。
とっさに手を振りまわして、何か容器になるものがないか探したが、見つからない。目が廻る。頭がガンガンする。喉が痙攣し始める。
両手で枕をつかむ。背を芋虫のように丸めてビクリと震わせ、えづいた。だが、喉の奥で焼けつく汚物は、舌にからまり、わだかまっている。人さし指をつっこみ掻きだすようにすると、真っ白な枕に面白いほどぶちまけた。
袖で口元をぬぐい、時計に目をやる。午後三時。不意にこいしが、ノックもせず部屋へ入ってきた。下着のままだ。
ベッドの惨状を見、呆れたようにさとりを眺める。
「うわ、お姉ちゃん、またラリってんの」
「こいし、水持ってきて……」
かすれた声でさとりは言う。
「シャワー浴びてきた方がいいよ」
こいしは顔をしかめて、虫を払うように手を振った。
妹の言うとおりにした。
「ねえ」
バスタオルをつっかけて浴室からでた姉に、こいしは話しかけた。
「いい加減、休んだ方がいいんじゃない? いや、もうこんな仕事、これきりに――」
「コーラが飲みたいわ。あるでしょう」
さとりは妹をさえぎり、ベッドに腰かける。
濡れた髪を梳きもせず、額にはりつけたまま、さとりは静かに目を閉じた。昨晩の映像が瞼の裏を流れる。荒々しい男たちの鼻息、割れて中身が吐きだされた酒瓶、裸の自分、倒れたテーブル。ひかえめな乳房を、乱暴な手つきでまさぐられる。酒と汗と精液にまみれた男たちの体臭。快楽に震える喘ぎ声――誰の? もちろん、自分の……
ひやりとした感触が頬をうつ。そっと瞳を開く。目のまえにはこいしがつっ立ち、コーラの缶をさとりの顔にかざしている。
受け取り、すぐに飲み干した。
「ありがとう」
こいしはとなりに座る。さとりを覗きこんで言う。
「お姉ちゃん、私の顔、見えてる?」
「どうして」
「クスリの量が多いと、刺激が強すぎて見えなくなったりするじゃない」
「そんな事、今まではなかったけど」
さとりは昨日、大した量をうっていない事を覚えている。少なくとも、朝になるまで吐き気をもよおさない程度の量だ。
「でもちょっと、頭が痛いわ」
「それはお酒のせいじゃない」
「あと――」
「こっちも痛い?」
こいしはさとりの下腹に指を這わせ、皮肉をこめた口調で言葉を継ぐ。さとりは答えない。空になった缶を屑篭に投げいれる。ベッドシーツは寝汗と吐寫物で濡れそぼっている。
「お燐やおくうに見られるよ。そのままにしておくと」
「わかってます」
あるじの威厳を保てと、警告したつもりなのだろうか。さとりはこいしの大きな両目を覗く。妹はさとりを見ていない。どこも見ていない。宙をさまよっている。透明な瞳孔。白い肌。輝くつややかな髪の毛。きれいだ、とさとりは思う。こいしのからだは何にも汚れていない。私のように、汚れてなんかいないのだ。男の体臭や、ドラッグや、精液なんかには。
――これで、いい。
こいしは目を上げた。さとりを見すえる。こいしの瞳は澄みわたり、さとりのブラウスと皮膚をとおり越え、心を覗かれているような気分になった。もちろんそんな事、できるはずがないのだけれど。
「お姉ちゃん」
「なに」
「いやだよ」
「なにが?」
「どこかにいっちゃいやだ」
さとりの瞼の裏に、ふと鮮やかな記憶の断片が浮かびあがる。ずっと昔、地上と共に捨てさったはずの情景。
叫び声がこだまする。血しぶきが舞う。生ぬるい血が頬を伝う。怒号。急ききり、途切れ途切れの呼吸音。つまづけば死ぬ。すぐ後ろに足音がせまる。つないだ右手のぬくもりだけは、損なってはいけない。何があっても、守りぬかなければ。それだけを考えながら、ただ、ひた走る――そんな記憶のかけら。
それは彼女たちの背後につらなる、膨大な過去の末端であった。そのときの自分といまの自分を横に並べて、さとりは自嘲ぎみにほほえんだ。
「大丈夫、ずっといますよ」
が、言い終えてすぐ、吐き気の第二波が襲いかかってくる。浴室に駆けこもうとしたけれど、足がもつれて転んでしまう。ぶざまな二度目の嘔吐を、こいしは悲しそうな、哀れむような目で見つめていた。
「まだ寝てなよ。私、ちょっと出かけてくるから」
「けほ、ごほっ……え、どこへ行くんですか」
「お姉ちゃんがラリってるあいだ、仕事の手伝いを頼まれたの」
ブラウスに腕をとおすと、こいしはドアノブに手をかけて言った。
「誰にです」
「勇儀さん。お姉ちゃんによろしくってさ」
その名にさとりは溜息をついた。
「また、街の方で面倒事でも?」
「闇市だって。それも、生身の」
「生身?」
「奴隷だよ、奴隷市場。地上に行き来できるようになってから、妖怪の子供をかっさらってくる商人が現れたのよ」
「ご苦労な事ですね」
さとりは床の汚物を雑巾でふきとり、屑篭へ捨てた。べちゃっ、と水音が部屋中に響く。
「まあそういうわけだから、正義の味方になって悪徳商人を蹴散らしてくるよ」
「いってらっしゃい。今日は夕飯、お燐が作ってくれるはずだから――」
ドアを振りかえると、こいしはすでに消えていた。臭いがもれるとまずいので、半開きのドアを閉める。ああ、シーツ換えなくちゃ……腕の注射あとにちらりと目を向け、さとりはベッドの皮を剥き始めた。
一
「よお、さとりちゃん、ハシシ焚いたぜ、吸え吸え」
中年の男は、脂肪がついて震える腹を撫でながら言う。髭の濃い口元を歪ませ笑っている。室内はどろどろした粘つく空気に支配されて、息を吸いこむたびに頭の奥がジンジンする。脳幹を揺さぶられ吐き気がこみあげてくるのに、汚物はからだのあらゆる器官をズルズル廻るだけで、口からはでない。だから苦しい。けれど気持ちがいい。臓器がみな性感帯になってしまったように、ひどく気分が昂揚する。
「ん……ふッ」
思わず嬌声がもれる。
「けっこう濡れてんな、もう始めるか?」
「待てよ、ちょいと一服しようぜ。俺ぁさっき一発出したばっかなんでな」
筋肉質の若い男が、煙草に火をつけて言う。ライターをベッドのうえに投げ捨て、灰色の煙を吐く。裸電球の黄色く濁った光を透かし、部屋はもうもうと渦を巻く。
さとりは一糸纏わぬ姿で、ソファに腰かけていた。頬は紅潮し、目は潤んで輝いて見える。中年がさとりのまえにしゃがみこみ、彼女の股を押し開いている。右手に掴んだ注射器をかかげる。
「うつか? モルヒネ」
「……ええ」
さとりの手首をもち、二の腕をベルトで締める。浮きあがった青白い血管に針を刺しこむ。さとりは首を反らせ、小さな叫びをあげた。耳鳴りがする。頭がガクガク痙攣し、口の端から涎がひと筋伝う。
「おい、あんま入れすぎんなよ、意識飛ぶから。それに締まりが悪くなる」
「分かってらあ」
中年は、からだから力が抜けたさとりの肩を押しやり、背中を向けさせる。
白い肌は汗に濡れている。尻は荒い呼吸にしたがい、わずかにうち震えている。
「やぁ……待って――んん、ぐぅ!」
さとりの最後の小さな抵抗を無視して、男のペニスが彼女をつらぬく。前戯はない。だが痛みもない。ヌルヌルした液が、性器から次々と溢れだす。もはやどうしようもないほど彼女の股間は濡れている。部屋に充満するハシシが、鼻や口や毛穴から浸透してくる。からだが熱い。性器と脳味噌が自分のものでないように跳ねまわっている。男たちの体臭、倒れたグラスからこぼれ落ちる酒のしずく、燃えつきて灰皿のうえで粉の塊になった煙草、ボウルに乗せられたポテトサラダ、それらすべてがさとりの性器から入りこみ、血管と臓器を駆けめぐって頭のなかで膨張しているようだ。たくさんの色が混じりあった意味不明のイメージが、アメーバのように這いまわる。
しだいにイメージはミキサーにかけられたみたいにグチャグチャにかき混ぜられ歪んでいき、ふたたび血管をめぐって性器へ戻り、一点に集束してふっと消えさる。次の瞬間、その一点から生ぬるい液体が、さとりの小さなからだに満ちていく。射精、長い射精だ。時間が麺うち棒で引き伸ばされているように、延々と液体の流入はつづく。
「代われよ、次俺だ」
疲れきりベッドに倒れこむさとりに、若い男は嫌らしい笑みを浮かべながら近づく。
夜はまだ始まったばかりだ。さとりはカラカラに乾いた喉へワインをひと口流しこみ、炙った注射針を手の甲に刺しいれた。
勇儀は息を切らし脚をきしませ駆けていた。が、目標は彼女の健脚をもってしても追いすがる事さえかなわず、どどうどどうと黒煙を吐きながら遠ざかっていった。
「畜生!」
街道の向こうへと走りさったトラックに悪態をつく。
後ろから足音が聞こえるので、振り向くと、こいしがこちらに歩いてくる。手を振っている。
「勇儀さん、どうだった?」
「もう少しで押さえられたんだが、すんでのところで逃がしちまった」
「しょうがないよ」
こいしが慰めるけれど、勇儀は肩を怒らせて遠くの荒野を睨んだままだ。土をえぐる轍を踏みつけ、
「あいつら、絶対につぶしてやるッ」
「どこにいったか分かるの」
「駄目だ、逃げていったのはあっちだが、どうせ私らを撒くつもりで遠まわりをしてるに決まってるからな」
「だろうね」
どうしようもないので、ふたりはひとまず酒場に向かった。勇儀はいつものとおり酒を、こいしは蜂蜜ミルクを注文した。飲みものがくるまで、どちら共ひと言も口をきかなかった。
「それで、さとりの方は、どうだい」
ひかえめな調子で、勇儀が切りだした。
「どうって……変わらないよ。お姉ちゃんは何も変わらない」
こいしの瞳に影がさす。
「まだ、あの仕事……」
「やめてないよ。やめられないんだきっと。クスリ漬けで、もうどうにもならなくなってるのよ」
言葉には諦観の色が濃いけれど、こいしの表情はまだ死んでいない。当たりまえだ、どうにもならなくなっていいなんて、そんな事考えているはずがない、と勇儀は思う。
「さとりはおまえさんにこの仕事の手伝いさせるの、許してくれたかい」
「うん、もちろん。お姉ちゃんは私のやる事に、口をはさんだりしないから」
こいしはいつの間にか、蜂蜜ミルクを飲み干していた。
「おかわりいるか? 私の奢りだ」
「ありがとう。でもいいや。もうお腹いっぱいよ」
と、こいしは答え、さみしそうに笑った。
勇儀は何か言ってやらねばと思ったが、下手な慰めや甘言などを並べたところで、こいしにとって何の薬にもならない事は分かりきっていた。
結局、今日中に敵の尻尾をつらまえるのは無理だろうという話になった。また明日ここで落ち合う事に取り決め、遅くまでつき合わせたおわびに、あとでお菓子か何かもっていくよ、と勇儀は言った。それきりふたりは別れた。
さて、酒場の暖簾をくぐるこいしを、往来にとめたトラックの影から見張っている男がいた。そのとき、こいしの心はさとりへの思いにいくらか乱されていた。だから、後ろからソロリと彼女を追跡する男に気がつかなかったのも、仕方のない事だろう。彼はこいしのあとを追い、彼女が人通りの少ない街外れまで来ると、背後に音もなく歩み寄り、棍棒で無防備な後頭部を一撃した。
二
燐と空は、ふたりきりで夕食をとっていた。ねえ、醤油とって……うん……そんなさみしいやりとりだけが、食卓のうえを流れていく。
あるじたちの空席を見、どちらともなく溜息をつく。
「さとりさまはともかく、こいしさま、遅いね」
「うにゅ……ふたりだけで食べてもつまんない」
「まったくだ。勇儀お姉さんのところへ行くって言ってたけど」
さとりの方はとなると、ふたり共口を閉ざさざるを得ない。
彼女たちはさとりが毎晩どこへ行き、何をしているのか、薄々感づいていたから。一度こいしを問いつめたときの反応や、さとりの部屋にあった粉のついたアルミホイルの包み、注射器、それに経口避妊薬。それらを総合するに、さとりの自称する“仕事”とやらの正体は、そういう方面に疎い燐と空にも、推測する事ができた。
そして、さとりの稼ぎによって、たくさんのペットを囲う地霊殿が立ちまわれている事もまた、ふたりは知っていた。
「うにゅう、さとりさま、大丈夫かな」
空は、不安げな調子で言う。燐も心配だった。さとりさまはいまどこにいるんだろう、嫌な事を無理矢理されてるんじゃないか、あんなに遅く帰ってきてからだを壊したりしないだろうか、また昔みたいにみんなで揃って一緒にご飯が食べたいな――さまざまな思いが溢れだし、胸を締めつける。今夜はこいしがいない分、余計に寂しさは募りふくらんでいった。
「ああもう! やめだやめ!」
燐は頭を掻き乱し、叫ぶ。
「お燐?」
「こいしさまも帰ってない事だ、いたらとめられるだろうけど、ちょうどいない。さとりさまのところへ行って確かめようじゃないか。そして連れて帰りゃいい。仕事ならあたいたちがいくらでも頑張りますから、さとりさまはここで休んでてくださいって、そう頼みこめばいい」
「お燐……うん、そうだね、それがいい!」
空はにっこり笑ってうなずいた。
一応こいし宛ての書き置きを残し、地霊殿の横に据えつけられた車庫から、真紅のスポーツカーを出す。これは燐が、より効率のいい死体運搬をと思って、猫車に代わり旧都の闇市から買いいれたものであった。旧来使用していた猫車に愛着はあったが、泣く泣く地霊殿の年若い火車に譲ってやった。
爽快なエンジン音をほとばしらせ、燐と空を乗せたスポーツカーは、地底の生ぬるい風を切り裂いていく。
と、さとりに会いに行く事に決めたはいいが、彼女の居場所は無論知らない。だだっ広い旧都の、一体どこに働いているか、てんで見当のつかない事に、燐は今さらながら思い至った。
「さてどうしようか、おくう」
「うーん、パルスィさんにでも会いに行ってみる?」
「ああ、そうだ、あのひとがいたね。善は急げだ、飛ばすよ!」
ハンドルを切り、旧都の大通りを駆け抜ける。轢かれそうになった乞食が、欠けた歯の隙間から泡を飛ばし、拳を振りあげて威嚇する。
「ぶち殺すぞクソ野郎! こんなとこで車なんか乗りまわすんじゃねえ!」
「ごめんよお兄さん!」
彼女たちがもの凄い勢いで往来をとおり越している後方で、一台のトラックが、路地の奥へと轍を刻んでいった。錆びた鉄製荷台の内に、首輪の鎖をじゃらつかせながら……
ふたりが水橋パルスィの自宅へ辿りついた頃には、腕時計が午後九時をさしていた。
「いつ来ても陰気臭いのは、まあ仕方ないね。パルスィお姉さんの家だし」
古びたトタン葺きの二階建て、窓はすべて真っ黒のカーテンに閉ざされている。ノックをひとつするが、なかでものが動く気配はない。
「ありゃ、留守かな?」
「裏手にまわってみよう」
空の提案にしたがう。そういえば、おくうはパルスィお姉さんと仲良くしていたな、と燐は思いだす。平生から死体運びに忙しい燐と違い、空の方は火力調節という仕事の性質上、合間にけっこうな空き時間ができる。そうすると暇をもてあました彼女は、旧都にフラフラ遊びに行くなどしていたので、自然さとりと親交のあるパルスィにも、行き会う機会が多かったのだろう。
くすんだ色をした壁伝いに家の裏へ向かい、窓をたたく。十回ほどガンガンやると、カーテンの端が捲れあがり、パルスィの緑の目がこちらを覗いた。
「パルスィ、話があって」
空が言う。パルスィは玄関を指さし、カーテンを閉める。
燐は、面倒なひとだなと苦笑しつつ、扉のまえで鍵のまわる音を聞いた。
「……あんたたちふたりで来るのは珍しいわね。いいわ、入りなさい」
パルスィが顔をだす。声も顔も纏う空気も常のとおり陰鬱であった。だがそれが彼女の一般である事を、ふたり共知っていたので、別段畏縮するでもなく彼女のあとにつづいた。二階にあがる。
とおされた部屋は建物の外観と比較して、割合きれいに整っている。促されるままソファに腰かけ、パルスィの運んできた紅茶に口をつける。彼女は向かいに座った。三人のあいだに沈黙が降りる。
なぜ燐と空がパルスィを頼って訪ねてきたのかといえば、彼女とさとりが旧知の仲であったからだ。それこそ、ふたりがさとりのペットになる以前からの。それに、旧都に関するあらゆる事柄について、非常な知識と経験を有しているひとでもあったからだ。ふたりはパルスィが、夜の仕事を週に幾度か請け負っているのも知っていた。
「実は、さとりさまの事で、ちょっと……」
口を切ったのは燐であった。
ひととおり判明しているさとりの現状を伝え、さとりさまはどうしているだろうと意見をうかがってみる。が、燐と空を見つめるパルスィの顔には、何の変化もきざさないばかりか、むしろ不機嫌に歪んでいるように見えた。
パルスィはしばらく無言で、煙草を数本吸った。銀の灰皿はガムやらつぶれた虫の体液やらで汚れている。ひとしきり煙を吐いたあと、重々しい口調で話し始めた。
「あんたたちは、もしさとりが推測どおりやましい仕事をしてるとして、どうするつもりなのよ」
「どうするって、連れて帰るさ」
「さとりの仕事のおかげで、あんたたちが三食欠かさず、毎日食べていられるのだとしても?」
「そりゃ、そんなのよりさとりさまのおからだの方が大事だもの」
パルスィの目つきは鋭い。五本目の煙草を灰皿に擦りつけ、
「じゃあ、その仕事を、さとりが好んでやっているのだとしても?」
ふたりは言葉につまった。
そんなはずはない、とすぐ切りかえせばよかった。だができなかった。さとりが燐と空に隠してそれをやっている以上、さとりの真意など無論分かりはしないのだから。もし生活のためだけでなく、地霊殿のためだけでなく、自らの快楽のためにこそ、その仕事をつづけているのだとしたら。
首を振った。いつものさとりを想起してみる。毛を櫛で梳いてくれるさとりの手のひらの温度を、さあご飯よと言って手料理を運んでくるさとりの笑顔を、今日はこいしもいるみたいだし、どこかに遊びに行きましょうと提案するさとりの声色を――記憶のなかのさとりは、どこまでいっても理想のあるじで、大好きなあるじに変わりなかった。
しかしパルスィの視線は依然厳しいまま、まっすぐにふたりを射抜く。
「あんたたちは、それでもさとりを無理矢理連れ戻す? さとりのからだが心配だと言って、無理矢理連れ戻せるの?」
「さ、さとりさまは、そんな事……」
「やりたがってなんかいない? どうしてそう言いきれるの? さとりさまはいつも優しくて清楚で――って、言うんでしょう。それがあんたたちの理想のさとり像で、何があっても揺るがないものだと、そう信じきっている」
「だって、本当に優しいよ、それが本当のさとりさまなんだよ!」
空は思わず叫んでいた。パルスィはそしらぬふうで、煙草をふかす。
「ええ、それも本当のさとりかも知れないわ。でも、それだけが本当のさとりじゃないのよ。あんたたちはさとりを見ているようで、見えていない。見ようとしていない。見る気がないくせに、彼女がわざわざ隠したがっている事情に、根掘り葉掘りつっこんでいくべきじゃないのよ」
「……分かった。もういいよ」
燐は立ちあがる。鋭い視線をパルスィに投げかけて。
「あたいたちはあたいたちで、さとりさまを探しにいくさ。行こう、おくう」
が、空が席を離れるまえ、不意に部屋がふっと翳った。元から暗くはあったが、瞬時に足元さえ見えないほど真っ黒に染まったのだ。
「それなら、私は私で、あんたたちを阻止するわ」
ふたりの眼前に、緑色をした真ん丸の光がふたつ灯る。
途端、視界は鮮烈な幾多の弾幕群に埋めつくされた。
「妬符『グリーンアイドモンスター』」
三
こいしは肌に張りついている、痛みのような鋭い冷たさに目覚めた。
瞼を開いたはいいが、まるでまだ夢の延長にいるように、辺りは真っ暗である。起きあがろうとして、首が引っぱられるのを感じた。何だろうと手を触れようとして、それも自由に動かせない事を知った。首と、手首が、締めつけられているように冷たい。身じろぎするたび、ジャラジャラと鉄の擦れる音がする。
拘束具をつけられているらしい、とようやく思い至る。
頭がクラクラする。からだが皮膚から溶けだし、暗闇のなかに混じっていくようだった。鈍い思考は昂然と、彼女の脳味噌を踊り狂っている。
「あぅ……」
声はかすれ、言葉にならない。しだいに花火が散るように七色の光が瞼をかすめ、はじけていく。
これはLSDか何かうたれたな、と鉛のような頭で思う。
どうにかおかれている状況を把握しようと、首をめぐらしてみる。毒々しい光の幻覚よりほかに何も見えないのは変わらなかったが、よく耳をすますとどこからか声が響いた。ごく小さなものであったが、聞きとれぬほどではない。
「……で、どうだ、今回は。いいのがいたか?」
「地上の奴隷市は値が張らんからな、それがいいにはいいが、その分上玉も揃いにくい。仕方ない事だ……まあ聞けよ、それより面白いのをもってきたんだ」
これを聞いてこいしは、勇儀の血眼になって探している奴隷商人が、この声の主たちである事を悟った。
「ん? なんだ、希少種か?」
「違う違う、もっと金になるかも知れんやつだ」
ここで男のものらしい声は、一段低くなった。
「……あの、地霊殿のとこの妹をかっさらってきた」
「何だと! さとりの妹か!」
相方は興奮して思わず叫んだ。
「馬鹿、静かにしろ。誰かに聞かれたらヤバイぜ」
「どうすんだよ、暴れられたら。あいつの妹――こいしちゃんといやあ、メチャクチャ強いって街でも評判だぜ」
「なあに、幻覚剤うって眠らせてある。起きたところで、ラリって何もできやしねえさ」
と、言ってヘラヘラと笑う。
「顔見てこいよ。姉と同じくかなりいけるぜ」
「おまえ、こいしちゃんを人質にしてさとりから金をせびり取る気か」
「ああ、いくらゲスな覚妖怪っつっても、肉親と引きかえなら大人しく出すだろうよ」
「へへっ、ならどうだ、ラリってるうちに一発やらねえか? こいしちゃん使ってよ」
嫌らしい耳ざわりな笑い声が、ふたりのあいだに沸き起こる。
「姉はすげえビッチだったもんなあ。こいつもどうせヤリまくってんだろ、ガバガバのなかに出したってバレねえよな、へへ」
こいしはドラッグでフラフラのからだを、小さくこわばらせた。
燐はなかば吹きとばされるように、閉めきられた窓を蹴破って外へ飛びだす。
あとからパルスィの放出した大量の弾幕が、大蛇のかたちをなして這い降りてくる。
「ひええっ」
腰をかがめて着地する。すぐに体勢を立てなおし、駆け逃げる。一歩でも遅れれば、大蛇にひと呑みされてしまう。
一方、空は襲いくる弾幕のことごとくを翼で払い落とし、パルスィと向かい合っていた。
「ねえ、どうしてこんな事するの!」
「私はあんたたちと別のやり方で、さとりを助けようとしてるのよ」
くわえた煙草の先端が、じゅっと音をたてながら灰になって、床に落ちた。彼女の後ろから、次々と緑の弾幕が押し寄せる。
「さとりの邪魔をするな」
パルスィの声色は、平生とまるで異なっている。剥きだしの感情を纏った言葉が、空の肌をつらぬいた。
「さとりの事を知ろうともしなかったあんたたちが。さとりの言葉を聞こうともしなかったあんたたちが! 今さら主人をどうこうしてやろうなんて、そんな虫のいい話はないわ!」
「パル――」
突然左からあらわれた弾幕に反応できず、空はわき腹をしたたかうちつけられる。喉の奥から、苦いものがこみあげてくる。だが、必死で歯を食いしばり、目のまえのパルスィを見すえる。
「けほっ……パルスィは、さとりさまの事、私たちの知らないさとりさまの事まで、知ってるの?」
「ええ、知ってるわ。どうでもいいでしょう。あんた、そんな事気にしてる余裕ある? あるならもっと本気でやるわよ」
パルスィは片手を振りあげた。手のひらに緑色がゆらめく。
「さあ、せいぜい逃げなさい。そして燐と一緒に帰りなさい。今までみたいに地霊殿でさとりを待っていてあげなさいよ」
手のひらのゆらめきは凝縮して、ハートのかたちをとった。
空はまだ彼女を見つめたままだ。その目には、苦痛も憎悪もこもっていない。ただ懸命に、パルスィだけを見ている。
「はやく、どうしたの」
パルスィが問う。空は何も言わない。
「逃げないなら、うってきなさいよ」
パルスィが呼ぶ。空は一歩も動かない。
「何かしろって、言ってんのよッ! 嫉妬『ジェラシーボンバー』!」
パルスィが叫ぶ。ハートの弾幕は一瞬鼓動をうち、爆発した。
けれどその瞬間、左の窓をつき破って飛びこんできた燐が、空をつかみ反対側の窓から躍りでた。
「ふう、間に合った……馬鹿ッ、どうして避けないんだ!」
「ねえ、パルスィ、どうしてあんなに怒ってるのかなぁ?」
地についた手を払いながら、二階を見あげて空は言う。彼女の声に緊張の色はない。純粋な感情を言葉に乗せる。
「そんな事知るもんか。とりあえず逃げなくちゃ。パルスィお姉さん強いよ、手加減なしだよ、さっきの弾幕であたいもうボロボロだ」
「駄目。パルスィは何か知ってるんだ、さとりさまの事」
トンと爪先をつき、パルスィがふたりの後ろに降りたった。
空は振りかえる。黒髪が風になびく。燐は空の背中越しに、パルスィの顔を見た。そのとき、ふと奇妙な違和感を覚えたのだが、初めは何がおかしいのか気づけなかった。
「パルスィ、さとりさまの話を聞かせてほしいんだ」
「嫌よ。帰りなさいよ」
「私たちが帰って、ただ待ってれば、それだけでさとりさまは本当に幸せになれる?」
「なれるわ。ううん、さとりはもう幸せなのよ、満足なのよ!」
「嘘。パルスィはそんな事思ってない」
空は静かに言う。燐はようやく違和感の正体に思い至った。
「なぜ」
「だって、それならパルスィ――」
彼女はポーカーフェイスを得意としていた。でなければ、相手をつき放そうとするかのように不機嫌なものであった。
パルスィは元来、ひどく表情の動きに乏しいひとなのだ。だのに、いまの彼女からは、はっきりと感情の色が読みとれた。燐でさえはっとしたのだから、彼女と親交の深い空ならなおさら強く、そのおかしさを感じた事だろう。
「そんな、泣きそうな顔するはずないもの」
空は言った。そのとおり、彼女の顔はごくわずかながら、むせび泣くまえの子供のように歪んでいる。パルスィはぎゅっと唇を噛みしめて、
「……うるさいわ、地霊殿に帰りなさい」
「私たちはさとりさまのペットだからさ、さとりさまの事をちゃんと考えてきたつもりでいたんだけど、でも、私、頭よくないから、馬鹿だからさ、さとりさまを知らずに傷つけたりしてる事も、あったかも知れない」
頭を掻きながら、空は言う。
「パルスィが言うみたいに、もっとさとりさまが喜んでくれるような事をしてあげたい。だから、どうすればいいか知ってるなら、教えてほしい」
「……そうね。あんたたちがギタギタにぶちのめされて帰ってきたら、さとりはさぞかし悲しむでしょうね」
パルスィの周囲に、あらたな弾幕が張られる。
「まずはそれを防ぐ事が、第一関門じゃないかしら? それができたら、教えてあげるわ」
彼女は泣きそうな顔で笑う。それが合図だった。
弾幕はふたりめがけて、うなりをあげながら飛びこんでくる。
空と燐は視線を交わし、うなずいた。
「そうだねえっ、じゃあ本気で行くよ、お姉さん!」
燐が弾幕を展開するのに合わせ、空は制御棒をパルスィに向ける。
降りそそぐ緑の弾幕を、燐がどうにかうち落としているあいだ、空は標準を合わせ、制御棒にエネルギーを充填する。
燐はしだいに押され始める。自分だけでなく空の方へも気をまわさねばならないのだから、手数で劣るのはもっともであろう。壮絶なうち合いのすえ、ついにパルスィは好機と見たのか、前方をまもる燐に肉薄し、スペルカードを取りだした。
だが、そのとき、燐の赤い瞳と唇が、ニヤリと笑みのかたちにひん曲がるのを目の端で捉えた。
「そこ、踏んでくれてありがとう」
「えっ?」
突然、パルスィの足元がボコッとえぐれる。雑草一本さえ生えない赤茶けた土が、めくれあがった。
直後に彼女の足首をつらまえたのは、灰色のほそい腕であった。
「呪精『ゾンビフェアリー』」
燐は、パルスィがいずれ調子づいて襲いかかってくる事を予期し、呪精の罠を張っていたのだ。
思いがけない伏兵に、彼女は体勢を崩してつんのめる。――と、同時にちょうど空の準備が完了した。
鈍くかがやく制御棒を真正面から臨み、パルスィは一瞬、ほほえんだような気がした。少なくとも、空にはそう見えた。
「爆符『メガフレア』」
光の洪水が、彼女を静かにつつみこんだ。
四
さとりが帰宅したのは、午後十時をまわった頃である。
平生仕事が終わるのは十二時辺りなのだが、今日は上司の男たちが、用事があると言って大分はやく閉店したというわけだ。
いつにもまして館のなかが静かなので、不思議に思った彼女がそこらを歩いていたペットに尋ねてみると、こいしは分からないが、燐と空はどこかへ出かけたのだと教えられた。
「それは変ですねえ」
「にゃあ」
ペットたちは腹がへったと言う。なるほど餌皿には肉も何も入っていない。今日の当番は燐のはずだが、用意をし忘れたまま外出したらしい。
「まったく、お燐たら。大丈夫、私が今から作ってあげますから」
「わん」
疲れてはいたが、どうせほかにやる事もないので、すぐキッチンへ向かう。タッパーに刻んだ野菜がいれてある。さとりは包丁を握るのを避けていた。いつも燐や空に切ってもらっていた。包丁を見るのが、怖かった。ふとひらめいた思い出を、彼女は頭を振って胸の奥に押し戻す。
十分ばかりでスープを用意し、餌皿にすくって並べてやる。
食欲はないけれど、なにか食べておかないと妹たちに叱られるから、リビングにクッキーくらいならあるだろうと思い、行ってみる。部屋の電灯をつけたとき、テーブルのうえに置かれた紙に目がとまった。『こいしさまへ』という独特の斜体文字は、燐の筆跡だろう。
手紙には、所用ができたから旧都へ行く旨が書かれていた。彼女らがこの置き手紙を残したという事は、やはりこいしはまだ帰っていないようだ。
はて、こいしがこの時間まで帰らないとはどういうわけだろう、と、さとりは首をかしげた。たしかに彼女はしばらくまえまで、無意識にフラフラ出かけていっては、一週間ほど家を空けるなどという事が多々あった。しかし、最近は何があっても、夕飯どきには食卓につくようになっていたのだ――これはさとりが風俗店へ勤め始めた頃と、時期が一致している。こいしがとり残されるペットたちを可哀想に思って、なるべく一緒にいてあげようと考えての行動であったが、無論さとりはそれを知らない。
「勇儀の手伝いが遅くまでかかっているのかも知れないわね」
そう結論づけ、案の定無造作に置かれていたクッキーのつつみを開ける。
ひと口くわえつつ、テーブルの真ん中に据えられた燭台を引き寄せた。蝋燭に小さな炎がゆらめいている。ポケットから注射器を取りだし、テーブルに置く。針をはずして、半透明な炎のまたたきのうえにかぶせた。パチパチと十秒ほど炙ってから、針を填めなおす。砂糖用のスプーンを洗い、アルミホイルにつつんだヘロインを微量乗せる。それにスポイトで水を一滴垂らす。注射器でスプーンのなかを吸いとって、さとりは溜息をついた。
腕にバンドをきつく締め、浮き立った青白い血管を見る。斜めに針を刺しいれ、注射器にあてがった親指を押す。ヘロインが体内に流れこむ。
しばらくじっと、彼女は座りこんでいた。しだいに、総身に重くのしかかっていた疲労がほぐれていく。思考がまとまらず、どうでもよくなってくる。何も考えられない、蝋燭が瞼の裏でかがやく。とても幸福な気分だ。こいしも、お燐もおくうもペットたちも、みんなが私の周りをとり囲んで、笑っている。みんな楽しそうだ、私も楽しい。みんな嬉しそうだ、私も嬉しい。光は膨張し始め、部屋を波うたせる。笑い声、こいしの手のひらが私の肩に乗せられている。白い手、あたたかい手、そうだ、私はこれをまもりたかったのよ、ねえこいし、あなたをまもりたかったのよ。ねえ、私はあなたのお姉ちゃんでいられましたか? ねえ、お燐、おくう、私はあなたたちの主人でいられましたか? 気持ちいい、楽しいわ。ねえ、みんな、ねえ――
勇儀はこいしと約束したとおり、旧都の老舗和菓子店の饅頭をかかえてやって来た。
地霊殿の大きな門前、ベルをひとつ鳴らすが、あらわれる者も音もない。もう一度ベルを押す。三分ほどつっ立っていても、やはり彼女を迎える気配はない。
「ありゃ、変だな。こいしちゃん、とっくに帰ってるものと思ってきたんだが……また出かけたのか?」
さとりはまだ仕事中なのかも知れないが、燐と空だっているはずだろう。こいしと彼女らふたりが、地霊殿をこの時間に離れている事は、ちょっとおかしい。不審に感じて取っ手をつかむと、たやすく開いた。鍵はかかっていなかった。
エントランスをとおって二階に上がる。暗い廊下のさきに、ひと筋流れる光があった。リビングの扉が半開きになっている。
入ってみると、予想外な事に、座っていたのはさとりであった。
「お、さとり。帰ってたのかい」
「勇儀……」
さとりの顔色は悪い。蒼白にうじゃじゃけた頬を電灯の下に照らしながら、ゆっくりと勇儀の方を見やる。
その声がはかなく弱かったので、はっとして近づき顔を覗きこむが、病気というふうではない。ただ、額ににじんだあぶら汗は、尋常の量ではなかった。
「おい、大丈夫か。すごく調子悪そうだぞ」
「ええ、大丈夫です。……それより、こいしはいないの? あなたと仕事をするんだと出ていったきり、まだ帰らないのですが」
「え――なんだって?」
こいしと別れてから、もう数時間が経っている。
さきにお菓子を届けるからと言い置いていたのに、寄り道などしてくるだろうか。――勇儀の脳裏に不吉なものがよぎった。
「私はこいしちゃんを二、三時間まえに帰したんだ。さとり、おまえさん、いつここへ帰ってきた?」
「十時頃です。私よりまえにこいしが帰宅した様子はありませんでした」
ようやく、さとりの蒼い顔に血色が戻ってきた。しかしそれは、こいしに対する心配が首をもたげだしたからであるらしかった。
「まさか、あの子に限って、襲われるという事も考えられませんが……」
口ではそう言うものの、表情には明らかな不安がしみだしている。
「私が連れだしたんだ、大丈夫だろうとは思うけど、探しに行ってくるよ」
「私も行きます」
さとりは立ちあがった。けれど、不意にフラリとくずおれたので、勇儀は慌てて背中を抱きとめた。
「どうしたんだ!」
「ごめんなさい、ちょっとめまいが」
うったコカインの量が多すぎた。最初は前後不覚になるほどトリップできるが、のちにからだに拒絶された反動が、肉腫のように盛りあがり、彼女の足を震えさせたのだ。耳鳴りや頭痛もする。何より、気持ちが悪い。今にも吐きそうだ。
「少し寝ていた方がいいんじゃないか」
「いえ、平気ですから」
吐き気をおさえ、足を踏みしめる。姿を見せないこいしの事が気がかりであった。さっきから、妙な胸騒ぎを覚えているのは、吐き気のためだけでないような気がする。
外套をとりにリビングをでようとしたところで、限界がきた。
手を冷たい床につき、喉がうねる。せめて棚のうえにあった茶碗に吐けばよかった、と、苦くて酸っぱい味を舌先に感じながら考えたが、もう遅い。店で食べたポテトサラダや、さっき口にしたばかりのクッキーがふやけて胃液にまみれている。明るい茶色をした吐寫物の匂いが、ツンと鼻をさしつらぬく。
「さとり、おまえさん、なんかの病気なんじゃないか」
背中をさすられ、とりあえず椅子に腰かけさせられる。勇儀は心配そうにさとりの額に手をあてがう。もちろん熱はないのだが。さとりは唇を噛んで、首を振った。情けないのだ。燐と空はどこかへ出かけた。妹はゆくえをくらましている。というのに、自分は男たちと乱交し、ドラッグをうって現実逃避して、あげく汚物にまみれて虚脱している。あまりに自分がぶざまで愚かしい。こいしにも、燐にも、空にも、合わせる顔がない。――さとりは、自分には姉でいる資格がないと思った。地霊殿のあるじでいる資格がないと思った。やっとの思いでつかんだはずの、一番大切なものたちは、ことごとく手のひらからこぼれ落ちてしまう。
かつてあじわった事のない深甚な恐怖感がさとりをとらえた。
勇儀はさとりを置いて、ひとりでこいしを探しに行くだろう。たとえ無事にこいしが帰ってきたとしても、自分はおかえりなさいと言ってやる口がない。言葉がない。それらは、こいしの姉を失格した口と言葉だ。
「……勇儀、ちょっと話があります」
「ん? なんだい」
さとりは謝ろうと思った。こいしに謝って、燐に謝って、空に謝って、ペットたちに謝ろうと考えた。こんな姉を、あるじを、もたせてしまってごめんなさいと。
さんざん逃げてきた罰を、せめてせいいっぱい受けようと、たったいま、そう思った。
そのためには、話さなければならない事がある。多分、まだパルスィしか知らぬであろう、彼女の遠い過去を。言い訳にしかならないが、どうして自分がドラッグに浸かり、セックスに逃げるのか、聞いてもらいたかった。
さっき注射器を炙った蝋燭の灯は、さとりの横顔を暗く焼きつける。
「ずっと昔の話です。私とこいしが、地底に追放されるまえの話です」
辛辣に語り始めるさとりの面影、細く染まって惨また惨――
五
道ばたの小石にさえ劣る命であった。
姉妹は小さな山村に生まれた。覚といえば嫌われ妖怪の筆頭であるが、彼らは当時すでに迫害の色濃い通俗社会から離れ、山奥に集落をつくって暮らしていた。
覚一族には、女が大変少なかった。閉鎖的な集落は、希少な女にとって地獄のような世界だった。姉妹は幼い頃から村中の男たちによって輪姦された。父親と母親は村のおためだと言って、よろこんでふたりの子を差しだした。
性器が擦りむけて出血しても、誰ひとりかまう者はなかった。幼い姉妹の子宮は、まだ未発達で子を宿せなかった。彼女たちは同胞の快楽のために毎日もてあそばれた。
両親がその裏で、ひそかに男たちから金を巻きあげている事を姉が知ったのは、妹の誕生日の前日であった。妹にあたえられたのは、服でも玩具でもなく、男の情欲をそそるために縫われた、卑猥な下着ひとつだけだった。
肥だめのような生活のなか、妹はまもなく瞳を閉じた。
姉は妹のために涙を流した。その塩からささえ精液の匂いに侵されたとき、姉はついに両親を殺す事にした。
殺意を極限まで研ぎ澄ましたナイフの一本で、驚くほど簡単に大人たちは死んでいくのだと、姉は初めて知った。――血にしぶくナイフをひるがえし、自分たちを犯した男たちも皆殺しにした。
深夜、村の空気の末端までが寝静まった頃である。
刃がやわらかい肉をさしとおる感覚は、幼い姉の小さな手のひらに、いつまでもこびりついて離れなかった。
寝ていた妹をたたき起こし、妖怪に襲撃されたと嘘をついて、たったふたり、夜の集落を抜けだした。
姉は信じていたのだ。村をでさえすれば、こんな畜生以下の扱いは受けずにすむだろうと。妹はこれ以上心とからだを痛めつけなくていいのだろうと。――その希望がうち砕かれるがはやいか、姉はまたもナイフを血に染めなければならなくなった。
ひとびとに追われ、逃れた。逃走劇は幾月もつづき、そのたびに屍を踏み越えた。妹にかくれ、殺して殺して、ひたすら目のまえの命を切り裂いた。たったひとりの肉親をまもるために。姉は死骸のひとつも妹に見せる事なく、自分が殺人者だと知られる事なく、逃げきった。長い旅路の最後に姉妹がたどりついたのは、自分たちと同類の、嫌われ者の楽園であった。
この世に命をあたえられてから、初めて居場所を得た。
橋姫と知り合い、その友人の鬼と知り合い、彼女を訪ねていた閻魔と知り合った。仕事がほしいと頼んだ。手にいれた幸せな日常をまもるためだった。
そして地霊殿という住居を得た。あるじという地位を得た。ペットという家族を得た。
けれど、心にしみこんだ血の色と断末魔だけは、いつまでも姉のなかから流れさってくれなかった。……
「……さとりにいまの仕事をすすめたのは、私なのよ」
パルスィは低く呟くように言った。
燐と空と、三人は半壊した彼女の部屋にいる。ボロボロになった服もさして気にとめず、約束どおりに話して聞かせたのである。
ふたりは呆然として、パルスィを見まもっている。
「さとりさまとこいしさまが……そんな……」
「さすがに私も嫉妬できるような経歴じゃなかったわ、あの姉妹は。むしろ同情したくらい」
泣きそうだった顔が、ふっとさみしそうにほほえんだ。
「あいつは声におびえていたのよ。殺してきた連中のたくさんの悲鳴と怨嗟が、心の声が、今度はあいつの心を侵し始めた」
ひとりでいるさとりを物陰からコッソリ観察すると、必ず彼女はもの憂げな顔をしていたように思う。ここまで聞いて、燐は、さとりがどこか悲痛な空気を身に纏わせていた事があった、と考える。
どうしていつも、猫の身の自分を膝にかかえたりはするのに、決して撫でてくれなかったのか。どうして自分ではまな板のまえに立たず、彼女たちに包丁をあつかわせたのか。
たしかに考えてみれば、おかしいところはいくらでもあった。
正しかった。パルスィの言った事は正解だった。彼女たちは自分にとって都合のいいさとりしか、見ようとしてこなかったのだ。きれいで純粋な主人だけを、さとりに求めていたのだ。ペットたちの心を読んださとりは、理想どおりになろうと頑張っていたのだ。血まみれの自分の過去を、必死にかくしておびえながら。
「だから私は言ったわ。妹をまもりぬいたのだから、あなたは姉として最善の行いをしたのよ、だからもう、羽を休めてもいいんじゃないかって」
「それでさとりさまは……」
「ええ、私の周旋した風俗店で働くようになった。息ぬきだった。旧都の路地裏なんて犯罪の巣窟みたいなところだから。あいつはドラッグにも手をだした」
と、かすれた声で言って、また泣きそうに唇を歪める。
「私はさとりに同情したの。純粋に助けてあげたいと思った。すぐそばにいながら、さとりに何もしてやらないあんたたちを馬鹿だと思った。私の方がずっとさとりの力になってあげられると思った」
「……」
「でも違ったのよ。私じゃ駄目だった。こいしと、あんたたちと、ペットたちじゃなきゃ駄目だったの。さとりが望んだのは地霊殿の家族だった」
嫉妬の炎が、パルスィの緑の瞳に宿る。けれど、見る間にぼやけて掻き消えてしまった。
あとには泣き疲れたような、虚しい表情だけが残った。
「ドラッグも、性交渉も、何ひとつ、あいつの薬にはならなかった。だって、そうでしょう、それならさとりは笑うでしょう。あんなさみしそうな、つらそうな顔、しなくてすむはずでしょう」
「パルスィ――」
空は彼女の声に、ひどく悲痛なものを感じた。痛いまでのいたわりで、悲しいまでの嫉妬だった。
「正しいのはあんたたちよ。私は嫉妬したわ。なにもかも知って、力をつくしてさとりを救おうとしてる私より、何も知らずに、のほほんととなりに座ってるあんたたちが、やっぱりさとりには必要だった。私は嫉妬したのよ」
絞りだした言葉は正直で、まっすぐだった。
「私は憎いわ。さとりを助けてあげられるあんたたちが憎いわ。でも、それはあんたたち家族の役目なのよ」
その緑色の目は透明できれいだと空は思う。
「だから、もうどこにも行くなと言いなさい。ずっと地霊殿で主人をしてろと言いなさい。そしたらさとりはきっと、自分はひと殺しだと告白するわ。それを許すか許さないかは、あんたたちが決める事」
「もちろん、ゆ……」
「私には言わなくていい。言うべき相手に、はやく会いにいきなさい」
パルスィはペンをとって、メモ帳を引きちぎり、何か走り書きした。そうしてふたりに手渡したのは、さとりの店の住所が書きこまれた用紙だった。
「ありがとう」
礼を言うふたりを無視して、パルスィは煙草に火をつける。壁に穴が空いているから、煙は空気によどまない。街の光が射しこんで、三人の顔を照らしている。はやく行け、と、パルスィは先端の灰を振った。彼女たちはもう一度、ありがとうと頭を下げて別れた。
冷たい風が吹きぬける。真紅のスポーツカーが轍を刻んで駆けさるのを、パルスィは開け放した二階の窓から眺めていた。金色の髪が揺れる。
こんな結末、自分らしくないなと笑いつつ、煙草を灰皿に吐き捨てた。
六
勇儀はさとりの話を聞き終え、しばらく黙りこんだ。
「ドラッグをうつと、心が読めなくなるんです。第三の眼が見えなくなる。頭がグチャグチャになって、何も聞かなくてすむ。何も考えなくてすむ。私はそうやって逃げてきました」
さとりは力ない微笑を浮かべる。
「皮肉な話です。死ぬほどほしかった平和な毎日を手にいれたのに、今度はまた、そこから逃げだそうとしてる」
「さとり……」
「私も一緒に行きます。ドラッグは大分ぬけましたから」
「こいしに会って、どうする」
勇儀は尋ねる。目のまえのさとりは、さっきまでのさとりではなく、罪をかぶったさとりだ。ひとをたくさん殺してきたさとりだ。が、勇儀はそんな事を気にしてはいない。もとより地底は、そういう後ろめたい過去をもった者のための居場所である。
ただ、知りたかった。こいしの姉のさとりは、地霊殿のあるじのさとりはどうするのか。
「私のすべて、つつみかくさず話して謝りたいのです。ひとを殺して、さんざん逃げてきた私を正直にさらしたいのです」
「……そうか」
「とりあえず、はやくこいしを探しに行かないと」
「ああ、そうだな」
ふたりはすぐ旧都に向かった。こいしが普段訪れるような場所をめぐってみたが、どこも首を振る。半刻ばかりまわっていくと、そのうち『地霊殿のさとりと星熊勇儀がひと探しをしている』と、話が街中に広まったらしく、ついに知っているという者が名乗りをあげた。
歯が欠けて、みすぼらしいボロを纏った乞食である。実は彼、数時間まえにパルスィ宅へ奔走する燐たちに轢かれそうになった乞食だが、怒ってそれを追いかけているところへ、こいしを見かけたというのだ。
憤然としてスポーツカーを睨んでいると、すぐまえをこいしがとおり過ぎた。いつも無意識の彼女に会えるのは珍しい機会なので、怒りを鎮めがてら眺めていたそうだ。
「おっさん、そのあとどこに行ったか、分からないか?」
「うーん。俺だってそこまで注意してたわけじゃねえからなぁ……」
「おねがいします、なにか気がついた事でも」
「ええーと……駄目だなあ、札束の匂いを嗅げば思いだすかもしんねえが――って、冗談ですよぉ、勇儀さん」
睨みをきかせた勇儀に恐縮したのか、乞食は手を擦りあわせて、
「あッ、そうだそうだ。こいしちゃんの後ろから男が歩いてきてたぜ。そっちにゃ酒場もねえし、どこ行くんだろうって思って見てたが」
「男の特徴は?」
「中年で、たいそうなデブだったなあ」
「他には?」
「そいつ、しばらくするとまた戻ってきたよ。でっけえ麻袋かかえてさ。多分運搬関係の仕事してんだろうな。トラックに積みこんで、ホラ、そっちの路地裏へ運んでいったぜ」
乞食は顎をしゃくり、酒屋にはさまれた暗がりを示した。
さとりははっとした。その路地のなかには、さとりが勤務している風俗店もあったから。
勇儀と視線を交わす。
「さとり、その男がもしかしたら」
「ええ、そんな気がします。行ってみましょう。どうも、情報ありがとうございました」
乞食に札を握らせ、さとりは歩きだした。勇儀もつづく。
屋根と屋根のあいだに竿がいくつもたてかけられ、黄ばんだ布やら服やらが干されているため、ひどく暗い。
藁を地べたに敷き眠っている老人、ストリップやピンクサロンの客寄せ、ラリってヤンキーに殴られ鼻血を垂らしている若者、さまざまなひとびとがひしめき合っている。裏路地。ここではドラッグの横流し、人身売買、なんでも行われている。
しばらく進むと、真っ黒のトラックがとめてあった。男の特徴からまさかとは思ったが、トラックの裏はさとりの風俗店だった。
「こいしはここにいるのかしら。さて、どうしましょう……」
と、そこへ背後から駆け足でやってくる者がある。跳ねるような靴音。
「あれ、さとりさま!」
燐であった。
こいしはフラフラのからだを両脇からかかえられ、トラックから降ろされて、いまは暗い建物の個室にいる。
ネオンがかがやく卑猥な看板や、なかの様子を見るに、風俗店であるらしい。
奴隷商人はふたりの男だった。ひとりは肥った中年、ひとりは筋肉質の青年。こいしは大きなベッドに寝かされている。ドラッグのうえに、ウイスキーまで飲まされたのだから、ほとんど頭は使いものにならない。
男たちは煙草をふかしたり、酒をあおったりしながら、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべている。
「ホントにいけるな、妹の方も」
「へへっ、なあ俺もう我慢できねえよ、一発、こいしちゃんの顔にぶっかけていいかな」
「馬鹿、やめろっ、てめえの汚ねえ精液なんか見せられたらたたねえよ」
「ああ?」
耳鳴りがする。こいしは、金属をうち合わせたようなキー……ンという音と男たちの会話を、ぼんやり聞いていた。
熱病にかかったように思考はふやけてしまっているけれど、ひとつだけ、脳裏にかがやき明滅する姿があった。
さとりの手のひらがあって、声があって、ぬくもりがあった。
助けてくれると思う。お姉ちゃんなら、私がどこにいても駆けつけてきてくれると思う。かつて、遠い昔にそうされたように、今度もまた私の手をとって、私の肩をだいて、助けてくれるのだと思う。何があっても、それだけは嘘じゃないと、こいしは信じて、ただ待ちつづける。
「んじゃあ、そろそろやるか」
「おい、あんまり派手な傷はつけるなよ、あとで身代金せびるときに面倒になるからな」
「分かってらあ」
中年はズボンを脱ぎ、腹を揺らしながらベッドへと近づいた。勃起しきったペニスは、こいしの膣を軽く引き裂いてしまうほど剛健だ。こいしは身をちぢめたが、動く力はもはやない。
毛布のふちに脂ぎった手が乗せられたとき、若い男が突然声を低めて、
「こいしちゃんを隠してズボンをはけ、すぐにだ」
「え? なんで」
「足音がする。誰か来るぞ」
「チッ、嘘だろ……」
男はハンカチをこいしの口につっこみ、ベッドの裏に彼女を横たえ、シーツやら布団やらをかぶせた。それからテーブルを引っくりかえし、瓶や皿を床にぶちまけた。
コンコンとノックをして、入ってきたのはさとりであった。
ふたりの男は内心ヒヤリとしたが、
「おお、さとりちゃん、どうしたこんな時間に」
「いえ、忘れものをしたようで」
さとりは愛想よくほほえみながら、辺りを見まわす。――しかし予想したとおり、犯人はさとりの上司たちで間違いなかった。こいしは彼らにさらわれていた。彼女は瞬間、ふたりの心を読んだのである。
男たちは、さとりの能力が具体的にどういうものか知らなかったのだ。
「随分散らかしているようですけど、何かやっていたの?」
「ん、ちょいと新しい子が面接にきたんで、一発やってたんだ」
「その子は?」
「さっき帰ったぜ。それより忘れものはいいのか」
「ええと……そのベッドの後ろに落としたような気がするわ」
明らかな動揺が、彼らの顔をよぎる。
「そ、そうか。何を忘れてたんだ? 俺が探してやるよ」
若い男が立ちあがり、ベッドの裏をまさぐる。焦りか、緊張か、彼の額には汗がしみだしている。
「ちょっと、妹を忘れてきてしまったようで」
とっさの事だった。若い男は布団を蹴りあげ、こいしの首に腕をまわすと、腰からコルト拳銃をひっつかんで彼女のこめかみに押しあてた。
中年は狼狽しきって腰をぬかした。
さとりはニヤニヤ笑っている。
「……もっと穏便に事をすませようと思ったが、仕方ねえ。取引だ」
「いくらです?」
「もの分かりがよくて助かるぜ。……六千万だ! ヘッ。はした金だろ、てめえにとっちゃあ。地霊殿でお役所仕事してからだまで売ってりゃ、たんまり金は入ってくるんだろうからなぁ」
下卑た笑いをたてながら、男はコルトでこいしの頭を小づく。
「ホラ、かわいい妹のためだ、はやくもってきやがれ!」
「仕方ないですね……わかりましたよ。おりーん!」
さとりがのんきな調子で言い終わるか終わらぬか、個室の壁が、轟音を響かせて崩れた。中年がふっとび、反対側の壁にたたきつけられた。が、なかなか頑丈らしく、うめきをあげながら立ちあがる。顔には苦痛より、むしろ混乱が色濃く張りついている。
壁をたたき壊してとびこんできたのは、真紅のスポーツカーであった。運転席に燐、助手席に空が乗りこみ、ハンドルを切って若い男に突進する。
彼はすんでのところで避けたが、こいしを放してしまった。とっさに空が首根っこをつらまえ、車に引きあげてやる。
「このッ……ハメやがったな!」
「ええ、ハメました。ついでですから、辞表も提出しておきます。いままでお世話になりました」
「黙れ、畜生! ぶち殺してやる!」
コルトを振りまわし、唾を吐きながら男は叫ぶ。
と、車の後部座席から勇儀が降りてきた。けれど若い男は気がつかず、さとりに銃口を向ける。中年は驚いて、
「ゆ、勇儀じゃねえか! おい、逃げろッ」
その声が男の耳に入るよりさきに、勇儀はとびかかる。頬に一撃喰らった男は三回転して悶絶した。
慌てて窓からとびだそうとした中年は、燐に股間を蹴られて失神した。
崩れた壁から、冷気が静かにしのびこんでくる。空にだかれたこいしの髪は、透きとおりそうなほど白く薄靄にけぶっている。朝だ。こいしのなめらかな肌と瞳と髪を、さとりは眩しそうに見つめた。こいしはにっこりほほえんだ。
「えへへ。ただいま、お姉ちゃん」
終
「……なるほどねぇ。こいつらが奴隷売買の主犯だった、と。道理でこいしちゃんをさらう手際がよかったわけだ」
大分回復したらしいこいしは、事の詳細を語った。勇儀は思わぬ収穫に、満足げな表情をしていた。
燐と空はさとりの店まで向かったが、ちょうど勇儀と一緒にいるところへ、バッタリ行き会ったのである。そこでこいしがつかまっているらしい事を聞いた。
さとりは合図で裏側から突入してほしいと、燐に頼んでおいたのだった。おかげでボンネットがへこんでしまったようだが。
「ごめんなさい、お燐。修理代はちゃんと払うわ」
「いや、いいんです。こいしさまは助かったし、……それに、さとりさま」
「ん?」
燐はためらいがちに、
「もう、ずっと、一緒にいてくださるんですよね」
さとりはすぐに口を開こうとした。謝罪の言葉をつむぐために。
が、いきなりこいしに後ろからだきつかれて、喉元まできていた文句は引っこんでしまった。
「お姉ちゃん、絶対助けてくれるって思ってた」
「こいし、私は――」
こいしの手をとってやるだけの強さがない。こいしをだきしめてやるだけの資格がない。
「私は、あなたたちにたくさん、たくさん謝らなくてはいけません」
「知ってる。お姉ちゃんはへたれだよ。いっつもなにかにおびえて、逃げて、かくれて、ひとりになろうとする」
こいしは手を離さない。そのあたたかくて優しいからだをピタリと添えたまま、さとりの瞳を見つめる。まっすぐで透明な目だ。網膜の裏から心が覗けてしまえそうなほど、きれいな瞳だ。
さとりはそれを覗きたいと思う。こいしの心を知りたいと思う。
「お姉ちゃんは弱くてさみしいから、ひとりになったら生きていけないよ」
「私、……」
「お姉ちゃんはへたれで怖がりでさみしがりだけど、私のたったひとりの、お姉ちゃんなんだから」
「それに、あたいたちの、たったひとりのさとりさまですよ」
こいしと、燐と、空がいる。みんながいる地霊殿の風景。
ずっと昔に渇望したものが目のまえにある。
いつだってとなりにあったはずなのに、自分でその手を離しかけていたものがある。
さとりは姉の、あるじの資格がないと思った。
けれど、心の底からもう一度、資格がほしいと思った。
資格をつかんで、目のまえの家族をだきしめてやりたいと思った。
初投稿です。ラリってるさとりさんが書きたかったんです。
ご読了ありがとうございましたー。
以下、コメ返です。
>>NutsIn先任曹長さん
姉妹には退廃的な雰囲気がとてもお似合いだと思っとります。毅然としたさとりさんもかわいいですが、たまにはへろへろになってもいいですよね。
>>2さん
嬉しいです。地霊殿のメンバーはみんなどす黒いものを背負ってるイメージ。場所が暗いからなんでしょうかね。
>>3さん
もうどうしようもないくらい堕として終わらせるのもいいですが、今回はハッピーエンドの方が、さとりさんのかわいさは引き立つような気がしたのでした。
>>4さん
こちらこそありがとうございます。ふたりは薬物地獄から這い上がる事はできないのでしょうか。彼女たち次第ですけれど、それはそれで面白い展開になりそうです。
>>5さん
俺のSSにはもったいないお言葉です。ホントありがとうございます。次回は、さらに面白いと思ってもらえるものを書きたいですね。
>>6さん
うおお、ひそかにチェックしててよかった……奴隷とかドラッグとか、ゴチャゴチャしたものに囲まれたデカダンスな地底風景って、なんかロマンを感じませんかね。
>>マジックフレークスさん
ありがとうございますっ。文章力にも構成力にも自信は皆無ですが、試行錯誤して頑張っていこうと思います。
ふでばこ
- 作品情報
- 作品集:
- 24
- 投稿日時:
- 2011/02/06 11:13:12
- 更新日時:
- 2011/04/05 11:57:52
- 分類
- 古明地さとり
- 古明地こいし
- 火焔猫燐
- 霊烏路空
良いですね。退廃的な地底セカイ。
不幸のどん底に堕ちたものが足掻いて足掻きまくって、立ち直る物語。
下種野郎共が報いを受けるってのも良いね。
では、また素敵な作品をお願いします。
地霊殿最高
パルスィも渋かったし、さとりんもラリ具合が可愛かったけど、誘拐犯(デブ)もちょっとだけ、超ちょっとだけ憎めなかったw
一回ドラッグぶちこまれた古明地姉妹の本当の地獄はこれからでしょうけど、うん
ドラッグぶちこんださとり様の描写は神がかってたよ
良いものをありがとう
素晴らしいお話、ありがとうございました。
雰囲気にムラがなく、薬と煙草と風俗な退廃的な感じの中に、それでも消えない仄かな光を感じたぜ
おもしろかったです
ダークな背景の中で最後に皆が幸せになる情景がありありと浮かび、ほんわかとした気分を頂きました