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『幻想郷讃歌 第六話』 作者: んh
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――貴方には恨みはないけど、私が貴方を討つ理由など幾らでも作れるわ。
「東方地霊殿:水橋パルスィ」
「こっちだ、早く逃げろ!!」
「救援部隊はまだか!?」
怒号と悲鳴が交錯する。しかしその声も、そして声を出しているであろう天狗や河童達も、渦を巻いて立ち上る炎と煙の中では、その所在を確認することすら困難だった。
空が軋むような音を立てて、柱が倒壊する。それは天狗の里にある監視用の物見やぐらであった。かつて山の建造物でも指折りの高さを誇ったそれも、今や炭と粉塵だけと見る影も無い姿に変わり果てている。いやそんなかすかな痕跡すら跡形も無く消し去ろうとするように、炎はますますその勢いを増していった。
「皆様、ご無事ですか!」
東風谷早苗がそんな火事場に到着したのは、丁度やぐらが崩れたときだった。天狗や河童が無事なわけがないことは彼女にも重々わかっていたが、それでも早苗はそう言った。そうであって欲しかったのだ。
「東風谷様! 避難はなんとか……ただ、あちらにまだ取り残された者が。」
火消しに当たっていた天狗は、早苗の姿を見てすがりついてきた。熱風が早苗とその天狗の頬を赤く照らす。
天狗が指差した方は、里の一番外れにある貧民街だった。まだ火の手は町の中心部までは迫っていない。天狗の風がそれを何とか凌いでいた。しかし彼らの風も、街の一番外れまでは守りきれなかった。いや始めからそこを守ろうという気などなかった、というべきか。
「八坂様と洩矢様がまもなく雨を降らせるはずです。だからもうしばらく防いでください。私はあそこへ行きます!」
「東風谷様!」
天狗の制止も聞かず、早苗は火の海に飛び込んでいった。もはや彼女は人ではない。だとしても熱いことには変わらない。ガスと熱風で早苗は息をするのも辛かった。だがそれでも彼女は声を振り絞った。
「誰か、誰かいらっしゃったら返事をしてください、誰かいませんか!?」
「誰か! 助けてください!」
右手からかすかに届く声。早苗は飛んだ。炎を風で振り払いながら、ひたすら声を振り絞る。わずかな風は逆に火の勢いを強める。しかしどこに助けを求める者がいるのかもわからないのに、強い風は吹かせられない。頭を締めつける徒労感に早苗は必死に抗う。すでに大きく開いた袖は燃え、腕も赤く腫れていた。だが引くわけにはいかない。神として、救いを求める信者を置いてなど。
「誰か、誰か!!」
ようやく早苗は彼らを見つけた。まだあどけなさの残る天狗が、柱の下敷きになった老天狗を引きずり出そうと必死にその腕を引きながら、姿の見えぬ救助者に向かって助けを乞うていた。早苗は急いで駆け寄る。ようやく現れた救いの手に、若い天狗はわずかばかり力を取り戻したようだった。
「どうか、爺様が足を挟まれて、助けてください。」
「どいて。今柱を。」
錯乱した天狗を引き剥がすように押し退け、早苗は一人柱に対峙する。下でつぶされた老天狗はもう声すら出ないようだ。時間は無い。
巨大な柱は重さからして早苗が力でどうにかできる代物ではない。早苗は右手を地に押し付ける。たちまち土が隆起し、柱の両端だけが持ち上がる。
「今のうちに引き出して下さい、早く!」
脱出に十分な隙間ができたところで、早苗は後ろに突っ立っていた若い天狗にそう叫んだ。その天狗は慌てて早苗の指示通りに老天狗を引きずり出す。無事引っ張り出したことを確認して、早苗は地面から手を離した。
だが、既に火は彼らを逃げ場なく包囲していた。風を使ったとしても早苗自身を守るのがせいぜいで、他の二人まで守るのは難しいだろう。まだ他に助けを求めるものがいるやも知れぬと思うと、やはり神風を起こすことは躊躇われた。
二人の天狗は救いを求めるように早苗にしがみつく。もう迷っている暇など無かった。早苗は今度は天に向かって右手をかざす。雨乞いなどやったことは無いが、彼女は神なのだ。できるできないではなく、やらねばならない。
「風と雨で道を作ります。道ができたらおじいさんを担いで一気に走ってください。天狗の速さなら間に合います。」
早苗は自分に言い聞かせるようにそう言うと、顔を空へ向ける。すでに顔面のところどころは焼け爛れ、髪も焦げているのだろう。そんな不快な臭いも痛みも、今の彼女には瑣末なことに過ぎない。
「はあっ!!」
早苗は己を鼓舞するように叫んだ。瞬間突風が吹き、そして彼らの周りだけに豪雨が降る。わずかに弱まった火の手を見て、若い天狗は一気に駆け出した。
「早く!」
しかし、見よう見まねの雨乞いは長続きしなかった。あっという間に雨はその強さを失う。立ち上る水蒸気を飲み込んで息を吹き返し、天狗もろとも飲み込もうとする炎を、早苗は見つめることしかできなかった。
――間に合わないっ!
消えようとしていた天狗の上に降り注いだのは、洪水、いや瀑布だった。再びその力を失った炎の魔の手から、二人の天狗はからがら逃れた。
「早苗、大丈夫!?」
「にとりさんっ!」
大水とともに空から降ってきた河城にとりの声に、早苗も息を吹き返す。力の抜けかけた体を引き起こし、にとりの手をとり彼女も炎の海から脱出した。
気付けば空からはにとりの放水に混じって、大粒の雨も降り注いでいた。神奈子と諏訪子の雨乞いがようやく実を結んだのだろう。
「ごめん早苗、川の水を引っ張ってくるのに時間がかかった。」
「それより早く、まだ中に天狗が。」
一旦安全なところまで下がったにとりと早苗に駆け寄ったのは犬走椛だった。
「すみません東風谷様。到着が遅れました。」
「白狼天狗は何をしていたのですか!?」
早苗は思わず椛を怒鳴りつけた。その迫力に一瞬たじろいだ椛だったが、そんな表情を作る時間もないことはわかっていたのだろう、かまわず続けた。
「今周りの家屋を壊しています。里の中心までは燃え広がらないはずです。」
「でもあっちにはまだ天狗が大勢いるんです。にとりさん、引き続き放水お願いします。椛さん、早く、手の空いた者を貸してください!」
「わかりました!」
「こっちも任せて!」
力こぶをつくるにとりに視線だけを送って、早苗は再び火の中へ飛び込んでいく。椛もそれに続いていった。
■ ■ ■
「早朝からお呼び立てして申し訳ありません、綿月様。」
里長である霧雨翁は正座のまま頭を畳につけた。その向かいにいた綿月豊姫は眠そうな目を彼の頭上に落とす。
「構いません。我々にとって睡眠は重要ではありませんから。」
豊姫の横に座る綿月依姫は、姉とは対照的にいつも通り背筋をぴんと張りながら霧雨翁と対峙する。豊姫はひとつあくびをして彼に訊いた。
「で、こんな時間から我々をわざわざ呼び出したということは、やはりあの山火事は里が、ということなのかしら?」
顔を上げた霧雨翁は、わずかに睫毛を伏せることでそれを肯定する。彼の横で険しい表情をしていた上白沢慧音が代わりに弁明を始めた。
「我々の指示ではない。今誰が撃ったのかについて、博麗の巫女を中心に調べてさせている。」
「それは当然です。しかし我々の贈呈した銃をあのように使われたとなると、こちらとしても遺憾です。」
依姫も負けじと険しい表情をして、慧音を責め立てる。さすがの慧音も言葉無くうなずくしかなかった。
「さてこれは困りましたね。お山の妖怪たちに危害を加えたとなると、とても引き渡しどころではないでしょう。こちらの不始末でもありますし、ここは一旦交渉を断念して身を引くのが妥当ですかね。」
豊姫は大仰なしぐさで落胆してみせた。それを見た慧音が慌てて彼女にすがりつく。
「ま、待ってくれ。我々とてあなた方を貶めるつもりでこんなことをしたのではない。これはあくまで個人の暴走だ。この問題はこちらで穏便にかたをつける。八雲紫の件とはあくまで別件だ。」
「しかし山と里との交渉は禁じられているのでしょう? そんなに容易に解決できるものなのですか。」
「ぐ……それは」
「そもそもこの幻想郷の責任者は誰なのですか。我々は誰と交渉すれば引渡しが可能になるのですか。全く下賎な地上の政(まつりごと)は理解に苦しみます。」
再び慧音は依姫にねじ伏せられる。少し言葉使いが荒くなり出した妹を目配せでたしなめながら、豊姫は扇子を開く。
「皆様にとっても我々月との和睦はよいお話かと思ったのですが……人と妖の対立を徒に煽るきっかけに我々がなっては元も子もありませんからね。やはり今回は残念ですが――」
「お待ちください、豊姫様。もしこれが"悪い"きっかけではなく、"良い"きっかけであればいかがでしょう。」
知らぬ間に元通りの顔に戻っていた霧雨翁は、その体躯に似つかわない小声で、しかし力強く言った。
「我々幻想郷の人間は元々八雲だけでなく、全ての妖怪の圧政に苦しんでいたのです。それは山とて例外ではありません。今回の事件もそうした長年の関係が噴出した結果なのです。ですからもし月の皆様との和睦が可能となれば、我々人間は真の意味で妖怪から自立した存在となれましょう。」
「そ、それは確かにそうだ。今回のような事件も、人と妖の不釣合いな力関係が招いた悲劇なのだ。我々里の人間が皆武器を持ち、妖怪共と対等に戦えるようになると知れば、あんなことはありえなかった。」
落ち着き払った様子で懇願する霧雨翁と、慌ててそれに付け足した慧音に、豊姫は扇子越しに微笑みかけた。
「つまり、和睦を契機にあなた方は我々月を後ろ盾として、妖怪と一戦交えると、そういう腹づもりですか?」
「もし御力を貸していただけるならば。実を言うと我々としてはこうした緊急事態ゆえ、独自に地底と独自に連絡を取りたいとあれこれ手を尽くしていたのですが、そこに横やりを入れて妨害してきたのがあの山の連中でして。」
「ほう、つまり互いに干渉はしないと掟とやらでは言っておきながら、裏では勝手をしているわけですか。まったく、地上の政は理解できませんね。」
依姫は嘲笑混じりに呟く。慧音としては霧雨翁の言にいくらかの誇張があることは当然理解できたが、彼女はそれを気にしなかった。これは千載一遇のチャンスなのだ。あの忌々しい妖怪という存在を蹴散らすための。
「それがやつらのやり方なのだ。私からも頼む。力を貸してほしい。我々を助けて頂きたい。」
「上白沢様……わかりました。自由と平等というのは確かに尊重されるべき理念です。我々もその為に尽力することにはやぶさかではありません。それはそれで了解しました。ただ、我々の要求はどうなるのでしょうか?」
寝ぼけていたはずの豊姫は、いつの間にか冷え冷えとした姿に戻っていた。霧雨翁はその無言の圧力に露ほどのたじろぎも見せず、提案を続ける。
「我々里の人間は今回の引渡しについて、月との交渉を断念したという形をとります。しかたなく綿月様は単身地底へと向かい、地霊殿の主である古明地さとりという妖怪と独自にお話をつけにいく、そういう話に致しましょう。」
「なるほど。それぞれのテリトリー内部で独自に話をつけるということでしたからね。」
「そちらでこう提案しましょう。新体制後、山の横暴は目に余る。そこで月、里、地底で挙党体制をとり、山を幻想郷に対する反乱分子と見なして制圧しようと。地底への見返りは地上への帰還の自由と山の譲渡。」
「しかしそれでは山と地底が置き換わっただけでしょう。」
豊姫の反論に霧雨翁は淡々と答える。
「地底の妖怪共を一掃するのはその後でも問題ありません。向こうは月の皆様の現在の力を把握していないでしょう。あわよくば山と地底の同士討ちも狙えます。」
「しかしそれでは里を介するメリットが我々にはありませんわ。」
「西行寺幽々子については里内につてがあります。元従者です。彼女を使って隙を突き、こちらで捕縛しておきます。綿月様は八雲を連れて里にお戻りください。西行寺をそこで引き渡します。その間山の天狗共はこちらで誤魔化しておきます。」
「なるほど、その時点で最初にこちらが里の皆様へ提示した引き渡しの依頼は成立しますね。我々は"両名"とは言っておりませんでしたから。我々は事前に提示した条件を守った里と同盟関係を結ぶことになる、そういうことですか。」
「はい、それに――」
霧雨翁はそこで一旦言葉を切った。
「月の皆様が我々里の人間に銃を渡したことが山に知れれば、山は我々だけでなく月へも攻め込もうとするでしょう。あれは仲間意識が強い。であれば、ここで我々と共に連中を叩き潰した方が得策と存じますが? 八雲の代わりに火の粉を持ち帰ったとなっては、綿月様の立場にも傷がつきましょう。」
また一つ間ができた。豊姫は扇子を口元から下ろす。あらわになった唇にはいまだ笑みが浮かんでいたが、それは醜く歪んだものだった。
「ふふっ、土臭い民が我々を脅しますか。まあいいですわ。その話呑みましょう。」
「豊姫君!」
「あら依姫君、これはこちらにとっても悪い話ではないわ。この大地を這い回る妖怪をひねりつぶすのなんて造作もないことですし、月に攻め入ろうと画策する愚か者をまとめて始末するいい口実になるもの。月夜見様もお喜びになるでしょう。」
依姫の忠言を受け流すように、豊姫は手に持った扇子を泳がす。そんな余裕たっぷりな場の雰囲気から浮いた慧音が、たまらず口を開く。
「しかし、地底には古明地がいるのだぞ。あれは心を読むと聞く。」
「心配はない。」
短く、きっぱりと断言したのは霧雨翁だった。
「その為にそなたがいるのだ。今までの会談の歴史を関係者から全て消してしまえば客観的な証拠は何一つ無い。たとえその覚が心を読んだところでそれは単なる個人の一証言に過ぎん。地底の連中にあれこれ詮索させる暇など、端から与えるつもりなどないのだからな。」
「まあもしその古明地というのが厄介ならば、条約締結が済んだ直後に始末すればいいだけですわ。挙党体制をとるためといってそいつだけ地上におびき出して。それも山のせいにすればよいのでしょう? 地底の妖怪とやらを焚きつける理由としては最適ですもの。」
無機質な顔のまま頬だけ吊り上げて、豊姫はそんなことを提案した。霧雨翁はようやく口元を緩めて、小さく頷き返した。
■ ■ ■
「お前らはなにをやっていたんだ! なぜ連絡が遅れた?」
八坂神奈子は目の前の大男を怒鳴りつけた。大天狗長はあわせる顔が無いといった様子で、頭を下げていた。
「申し訳ありません……ちょうどその時間は、哨戒の交代時間でして、その、発見が遅れたといいますか……」
「ではなぜお前ら大天狗に一切報告が回っていなかったのだ。」
「その、天狗の代表会合がありまして……緊急の会合故現場の者に場所が伝わっていなかったため、白狼天狗との連絡がつかず……」
「天魔は?」
「はい、公務が詰まっており――」
「もういい!!」
神奈子は拳を畳に落とした。部屋全体がきしむ。横に座る洩矢諏訪子も、東風谷早苗も、神奈子をどう落ち着かせればいいか困り果てていた。これほどに感情を露にする神奈子を見るのは、諏訪子でさえ久しぶりのことであった。
天狗の主力は皆クーデターの準備にかかりきりだった。現場に残るのは不慣れな新兵か役立たずだけ、掟もあって外への警戒は無いに等しかった。今回火災を守矢神社へ報告したのは仕事帰りに呑みに行こうとした普通の烏天狗であり、当初消火救出活動に当たったのも、繁華街にいた山伏天狗や下っ端鼻高天狗といった下級役人や河童だった。たまたま近くにいた早苗や彼らの頑張りがなければ、被害はさらに拡大していただろう。
「神奈子、ちょっと落ち着――」
「落ち着いてなどいられるか! 山が攻めにあったんだぞ!」
諏訪子がようやく搾り出した言葉も、猛る神には焼け石に水だった。眉間にしわを寄せた眼で、神奈子は大天狗長をギロリと睨み下ろす。
「で、誰がどこから撃ったのか判ったのか。」
「それが……」
そこで大天狗長は口ごもってしまった。神奈子の奥歯が軋む音は、彼にそれ以上の発言を許さなかった。
「貴様らはいったい何をしているんだ!?」
「それが、当時近辺にいた天狗達は目立った光や音等の類を一切目撃しておらず、また河童のレーダーにも全く反応が無かったので……」
神奈子は舌打ちをして畳をむしった。諏訪子は無言のまま、神奈子の手を握って落ち着かせようとする。
「心当たりはないのか。」
「いえ、このような攻撃を受けたことは初めてでして。」
「誰か可能は者は。八雲紫は?」
神奈子の口から飛び出した名前に、大天狗長も思わず頭を上げる。神奈子からすればそれは十分に想定されうる名前だった。
「ま、まさか。八雲は現在地底に――」
「確かか? 脱走した可能性は。」
「いえ……」
「他に地底で可能は者は?」
「古明地こいしならできるかもしれません。あの覚は誰にも知覚されることなく行動できます。」
答えたのは早苗だった。彼女も沈痛な面持ちをしていたが、大天狗長よりずっと冷静そうに見えた。
「ち、地霊殿ですか?」
「奴らが八雲に翻ったという可能性をお前らは考慮しなかったのか?」
言い返す言葉も無かったのか、大天狗長は再び頭を下げた。その姿にはいつもの風格も、威圧感もなかった。神奈子は見た目よりも縮こまってしまった大天狗長に指示を飛ばす。
「幻想郷の能力者リストと照らし合わせて、今回の奇襲が可能なものを残らずピックアップしろ。生息地も動機も一切無視だ。全ての偏見を排除してもう一度洗いなおせ。」
神奈子の眼光は神のそれであった。彼女の土地が攻められたのだ、それは当然のことだった。
「それともうひとつ。月の連中が攻めてきたという可能性は?」
それもまた当然の指摘だった。山の妖怪の追跡を許さないような攻撃を受けた――そんなことができる可能性が今一番高いのは紛れも無く彼女達のはずである。
「それはないかと思われます。彼らは兵器の類を所持していないと……」
「それは確かなんだな?」
「は……」
神奈子の猛々しい語気に、大天狗長はまた目をそらすようにして頭を畳に押し当てる。それはあまりに煮え切らない態度だった。
「その情報源はどこだ? 烏天狗の情報か、白狼天狗の監視か?」
大天狗長は返事に窮した。それは答えられない質問だった。諏訪子が口を挟む。
「神奈子、そんなに天狗を責めても……幸い死者は出なかったんだし、こいつらだって必死に――」
「これのどこが必死だ!!」
神奈子は大天狗長の胸倉を掴んで咆えた。今度は神社全てが揺れる。突然のことに、諏訪子も思わず神奈子から手を離してしまった。
「……だめです、諏訪子様」
抗ったのは、早苗だった。諏訪子はぎょっとしたように振り向いた。
「あの火事で九名の方が大怪我して、百名以上の方が住むところを失ったんです。それを、"幸い"だなんて、言っちゃだめです……」
その吐露に神奈子の咆哮のような威圧感はなかった。だが聞くものをえぐる強さがあった。気落とされたように立ちすくむ諏訪子の横で、神奈子は吐き捨てるように言った。
「大天狗。我々がこの山に越してきた時、お前は自信満々に言ったはずだ。『我々はみな山の妖怪としての誇りを持ち、固く結束している。たとえ個々の力では及ばなくとも、集団として立ち向かえば誰にも負けることはない。今更神の御加護など無くとも、我々は最強なのです』と。それが今はどうだ。今の貴様らは皆てんでばらばらな方を見て、神経が切れた百足のようだ。あの時私に言った『結束』とはこんなものだったのか? 『誇り』とやらはどこにあるのだ? これが最強の集団だとでもいうのか?」
大天狗長はまた答えられなかった。彼が絶対に答えなくてはならないはずの問いだった。彼が取り戻したいと目指したもの、それは神奈子の問いそのものだった。しかし彼は返答できなかった。
青白い顔をした大男に、神奈子はバツの悪そうな顔を返して手を離す。彼女もまた自分の目指すべきものが何だったのか、答えられる自信はなかった。
「すまん……言い過ぎた。私がこんなことを言えた義理ではないな。この山の神は私だというのに……どこに行っても無能は無能でしかないのかもしれん。こんなときに信者を怒鳴るしかできんとは、まったく情けない……すまないな、こんな役立たずで。」
■ ■ ■
フランドール・スカーレットはそろそろ帰りたかった。
なんだかよくわからない嫌な気持ちも晴れ、すっかり落ち着きを取り戻していた。心身も回復していた。しかし晴れ晴れとした気分には程遠かった。紅魔館を出て永遠亭にもぐりこんでからまだ何日しか経っていない。にもかかわらず彼女にはそれがずいぶんと長く感じられた。
何にも無い地下の部屋も、咲夜のお菓子も、美鈴の変な体操も、パチュリーのよくわからないお話も、そして姉であるレミリアのえらそうな態度も、もうとっくに飽きていたはずなのに、今は懐かしくてたまらなかった。千年ぐらい家出してやろうと計画を練っていたはずのフランは、たった数日外出しただけで紅魔館に帰りたいと思っていた。初めての家出に人間も妖怪も関係ないのかもしれない。
「こんにちは。」
フランがいた病室の入り口から、紅と紫紺の派手な衣装を着た金髪の少女が頼りなげに顔を出す。フランが寝ていた病室は結構奥まったところにあるので、外からの不審者とも思えなかった。
「誰?」
「私メディスン。永琳さん帰ってきた?」
「しらない。鈴仙っていう兎はいるけど。」
そっけないフランの返事に、メディスン・メランコリーはしょんぼりと頭を下げた。
「そっか。じゃあ鈴仙さんは?」
「うーんと、少し前にこの部屋に来たけど、それから見てないや。探そうか?」
フランはなんとなくそう提案した。目の前のメディスンという少女があまりにも頼りなさげで危なっかしく見えたからかもしれない。それにフラン自身としてもこれ以上ベッドの上でじっとしているのは耐えられなかった。
「本当? じゃあ一緒にいこ。貴方お名前は?」
「えーと、フランドール。フランでいいよ。」
「じゃあ行こう、フラン。」
メディスンはうれしそうにぴょんぴょん跳ねた。ずいぶん幼いんだなと、フランは自分のことを棚に上げて思った。その癖メディスンと一緒に歩いていたらなんとなくつられてきたようだ。フランも段々足取りが軽くなっていった。肩につけっぱなしになっていたリボンのワッペンが、それにあわせてゆらゆら揺れる。
一緒に探すと言ってはみたものの、フランはこの永遠亭という屋敷に不慣れだった。一度探検しようと思ったのだが、あまりに広く、そして同じ風景が延々続くので嫌になった。やはり紅魔館の方が居心地いい気がした。
不慣れなのはメディスンも同じだったらしい。結局二人は仲良く迷うこととなった。
ふらふらと当ても無くさまよう最中、フランはメディスンについてあれこれ尋ねた。メディスンはやな顔ひとつせず楽しそうに答えてくれた。何でも彼女がいつもいる鈴蘭畑にはめったに人妖が訪れないので、こういう会話一つにしても新鮮なことらしい。フランもその気持ちはよくわかった。
また、メディスンは最近生まれたばかりで幻想郷のことがよくわからないそうだ。生まれたばかりというわけではないが、ずっと地下にいたフランにはその気持ちもよく理解できた。
それで最近ここの永遠亭の人と知り合いになって、「永琳さん」という薬屋さんに集めた毒草を届けにいくのが日課になっているのだそうだ。あの鈴仙という兎はその永琳さんの弟子らしい。
「でもね、最近永琳さんいないの。今日もいっぱいお花摘んできたんだけど、どうしちゃったのかな?」
「ふーん。」
魔理沙みたいなものかな――フランは無理やり自分に当てはめようとした。仲のいい人が会いにきてくれないさみしさについて、フランはそれくらいしか思い当たらなかった。メディスンは自分から会いに行くのだから逆だけれど。
「それで、フランはどこに住んでるの?」
今度はメディスンがフランに訊き返してきた。自分が質問されることを想定していなかったフランは一瞬戸惑う。知らない人と会話を交わすという経験がほとんどなかったのだから仕方ない。
「ええと、湖の近くにある紅魔館ってお屋敷。そこでお姉さまとかと一緒に住んでる。」
「へー、お姉さんがいるの? いいなあ、プリズムリバーみたいな感じ?」
「うーんと……どうなのかな?」
プリズムリバーといわれてもフランにはよくわからなかったが、聞き返すのも気が引けたのでとりあえず言葉を濁した。プリズムリバーの話を続けられても困るので、フランは紅魔館の住人の説明を始めることにした。
「えーと、お姉さまの他にあと咲夜っていうメイドがいて、いつもおいしいお茶とケーキを持ってきてくれる。あと、パチュリーっていう暗いけど本をいっぱい持ってる奴がいて……ああパチュリーの横にいつも悪魔がいたな。たまにお菓子くれたりするんだ。あと美鈴はいつも家の前に立ってて……そういやあいつ何してんだろう?」
「いーなー。そんないっぱいお友達がいて。」
わかってもらえたのか判断に迷う返事をされて、フランは小首をかしげながら自分自身に問いかけるように口を動かす。
「友達……でいいのかな。んーと、いつもおんなじ家に住んでて、別に仲良くないかもしれないけど、いつも似たようなもの食べて、おんなじことして、うーん結構昔から一緒にいる。友達……なんか違うなあ?」
「あ、それ家族っていうんだよ。こないだ永琳さんが言ってた。」
「家族?」
それはフランにもなんとなく聞き覚えのある言葉だった。メディスンはにこにこと話を続ける。
「家族は友達とは違うんだけど、でもとっても大事なものなんだって。私もほしいなあ、家族。」
「……ん」
「あら、メディスンと……フラン? どうしたのこんなところで。」
フランが口ごもったのと軌を一にするように、廊下の曲がり角から鈴仙・優曇華院・イナバが飛び出してきた。意外な取り合わせとの鉢合わせに驚く鈴仙に、メディスンが抱きつく。
戸惑う鈴仙に、フランはメディスンが探していたから一緒に探してたんだと説明した。鈴仙もそれで事情を把握したのか、はしゃぐメディスンとフランを連れて、診察室まで戻る。
フランの前を並んで歩きながら、二人にだけわかるような会話をする鈴仙とメディスンを見て、彼女はさっきの「家族」という言葉を思い出していた。肩にあったワッペン、レミリアからもらったワッペンが、どことなくむずがゆく感じられた。
「ねえ鈴仙。私そろそろ紅魔館に戻っていいかな? これ以上留守にするときっとお姉さまに怒られちゃうし。」
なんとなく口から出た言葉だった。なのに鈴仙は肩を震わせた。明らかに動揺の色があった。
「え、ぇと……まだ、帰らない方が、いいんじゃないかな……体も治ってないみたいだし……」
「えー、もう元気だよ?」
「いや、えと、あの、じゃ、じゃあ検査しよう。本当によくなったか、検査して、それで良かったら帰る、とかどうかな……?」
落ち着き無く、鈴仙は目を泳がせる。それはメディスンですら首をかしげるほどだった。やはり鈴仙は医者には向いてないのかもしれない。患者に伝えにくい事実を伝えることは、彼女には到底できそうになかった。
気付けば診察室は目の前だった。鈴仙は病室までの行き方をフランに伝えて、逃げるように診察室へ戻っていった。メディスンはフランに手を振って、「また遊ぼうね」と言ってから同じ部屋に入っていく。フランも小さく手を振ってそれに応えてから、病室へ向かってふらふら歩き出した。
さっきの鈴仙の態度が、なんとなくフランの脳裏に引っかかっていた。何であんなに慌てたんだろう――もやもやした思いがフランを覆う。まっすぐ自分のベッドへ入る気にはなれなかった。病室の位置だけ確認して、またぶらぶら屋敷の中を散歩することにした。
途中、何人かのイナバとすれ違った。フランはここのイナバのことも好きになれなかった。皆一様に暗い顔をして、フランをねちっこくじろじろ眺めてくる。妖精メイドはいつも能天気に遊んでいるが、愛想は悪くない。やっぱり我が家の方が良い気がした。
「わっ!」
物思いふけっていたフランは、突然開いた襖から出てきたリグル・ナイトバグに対処できなかった。肩同士をごつんとぶつけ、両方とも後ろにすっころぶ。謝ろうとリグルの方を見たフランはまた嫌な気持ちになった。彼女もイナバたちと同じく、暗い、どろりと腐った眼でこちらをじろじろ見ていた。
「リグル、大丈夫?」
部屋の中から出てきたのは、ルーミアだった。リグルについては、いつだか診察の時に鈴仙の横にいたのを一度見ていたフランだったが、ルーミアを見るのは初めてだった。リグルと同じその陰気な顔は、やはりフランに不快感に似たものを思い起こさせる。
「ああ。大丈夫だよ。」
「あ、ごめんね……」
「別に」
先ほどのメディスンとは対照的に、リグルは乱暴に言葉を切った。まるでフランそのものが拒絶されているようだった。リグルを引っ張り起こしたルーミアは、なんだか憐れむような、馬鹿にするような眼でフランのことを見回していた。
「じゃあ……あたし行くね。」
なんとなく彼女たちのことが好きになれなくて、フランは足早にその場を立ち去ろうとする。しかし、そんなフランを呼び止める声があった。
「ねえ、貴方フランドールでしょ? ちょっとつきあってよ。いいこと教えてあげる。」
ルーミアだった。ひどく暗くて冷たい声に、フランは少しだけ声を荒げながら歩き出そうとする。
「ごめん。もう部屋に戻らないと。」
「貴方の家族、紅魔館の話だよ。」
"家族"という単語に、フランはたまらず振り返る。同じ単語でも、メディスンが言うのとルーミアが言うのでは、こんなに違うのかとフランは思った。
「あそこ、つぶされたよ。何にも無くなった。あんたの家族もみんな殺されたよ。誰もいなくなった。」
無機質な表情を動かさず、ルーミアはそう言った。その能面のような顔は、泣いているようにも、嗤っているようにも、怒っているようにも見えた。
「は……?」
フランは口をあけたまま固まった。ルーミアの冷え冷えとした言葉は、彼女の耳に入って脳には届いた。しかしそれ以上の行動を封じてしまった。
「あいつらが……人間共がやったんだ……」
代わりに声を上げたのはリグルだった。ねっとりと燃え盛るような声だった。
「あの里の奴らが、ミスチーを殺したあいつらが、許さない……絶対殺してやる」
「そうなんだ。私ら、あいつら殺すんだ。ここのイナバたちと一緒に。てゐさん殺されたイナバたちと一緒に。だから貴方もいっしょにやろうよ。貴方のお姉さんを殺したあいつらを。」
さっきまで無表情だったリグルの顔には、憎悪と憤怒がべちゃべちゃに塗りたくられていた。ルーミアは凍りついた表情のまま、フランを誘う。気付けば回りには同じような表情をしたイナバがたくさんいた。
「……ぅ、うそだ。お姉さまが死ぬもんか! 咲夜が、パチュリーが、美鈴が死ぬもんか!」
電池の切れかけたおもちゃのように、それまで呆然としていたフランは突然わめきだした。そんな反応すら織り込み済みだったかのように、リグルはフランに向かって新聞を投げた。
震える手でフランはそれを取り、開いた。
「あ、ぃ、うそ……だ……」
どこから手に入れたのか、それは山の新聞だった。紅魔館へ乗り込んだ討伐隊の活躍をただ賞賛するだけの、面白くもなんとも無い提灯記事だった。しかしそこには書いてあった。美鈴も、咲夜も、パチュリーも、魔理沙も、アリスも、そしてレミリア・スカーレットも殺されたということが、鼻白んでしまう美辞麗句がちりばめられた文字列の中に、しっかりと書いてあった。
「しんだんだよ。みぃんなね。ここにいた永琳も里に連れてかれたんだ。メディスンはそんなことも知らないで、ずっとずっと待ってるんだよ。」
立っていられなくなったフランの上に、声が投げ落とされた。それが誰のものだったか、フランにはわからなかった。彼女はわななく肩を掴み、その身を支えようとする。姉からもらったワッペンの感触が、手のひらを通して伝わった。それは華奢な肩を潰すのではないかというほど、大きく、そして重く感じられた。
あの晩初めて味わったのと同じ感情に苛まれながら、フランの頭の中には一人の名前がずっと回っていた。一番大きな写真で紹介されていた人物、誇らしげで幸せそうな顔をしていた人物、レミリアを殺したという人物、東風谷早苗という名前が。
■ ■ ■
秋穣子は、ちょっと怯えていた。
そんな心境とは裏腹に、穣子の頭上には向日葵がその大きな花を天へ向けている。秋の神様である穣子にとって、一面咲き誇る向日葵畑を見るのは初めてだった。そしてそこにいるという噂の妖怪に会うのも、また初めてだった。
横にいる比那名居天子は、そんな穣子の心境を気にかけてもいないようだった。鼻歌交じりに向日葵畑を跳ね回る彼女を、穣子は複雑な表情で眺めていた。力的には頼りになるが、おつむに問題があることは穣子もこれまでの付き合いからよくわかっている。じゃんけんで負けた自分の運の無さを穣子は恨んだ。
興味津々といった感じで荒っぽく向日葵畑をかき分けていく天子に、穣子ははらはらしていた。たしかここに住む花の大妖怪は、花を傷つけられるとすごく怒ると聞いたことがある。
「あ、広場めっけ!」
天子はそんな穣子の心配を露にもかけず、大きな声を上げて飛び出していった。穣子はたまらずあたりを警戒する。警戒したところで自分にどうかできる相手ではないだろうが。
「だれかいなーい? えっと、名前なんだっけ?」
広場の真ん中まで進んでいった天子は穣子の方に振り向いて手をぶんぶん振った。穣子は無言のまま人差し指を唇に当て、静かにするように伝える。
「何?」
最初、その言葉はジェスチャーの意味がわからなかった天子が聞き返してきたものだと、穣子は思っていた。だが聞こえてくる方向がおかしく、さらにあの能天気天人にしては異様に落ち着き払った声だと気付いたとき、穣子は死を覚悟した。
「貴方、どなた?」
穣子はゆっくりと振り返った。振り返らない方がいい気がしたが、たぶんどっちにしても手遅れだと思ったので、一応振り返ることにした。初夏の陽光を傘で覆いながら、風見幽香は不思議そうな顔つきで穣子の引きつった顔を見ていた。
「あ、はっけーん。あんたがお花屋さんね。」
天子も幽香に気付いた。穣子の方へてけてけ駆け寄ってくるその間抜けな面構えを見て、幽香は何かを感じ取ったらしい。
「ねえちょっと頼みがア゛ダァッ!!」
近づいてきた天子のおでこを、幽香は傘の先で刺した。衝動的な犯行という他なかった。なんとなく苛めないとダメな気がしたのだ。
後はいつも通りだった。当然と言えば当然だが、天子は怒って反撃した。幽香もそうくるだろうと思っていた。震える穣子を置いて適当に殴り合った二人は、とりあえずなんらかの合意に達したらしい。気付けば二人の間には奇妙な友好関係ができていたようだ。あれを友好的と言っていいのか、穣子にははなはだ理解に苦しんだが。
「で、改めて何の用かしら。」
「だーかーらー、お花がほしイデエ゙ェッ!」
礼儀のなってない天子を、幽香はまた傘でぶん殴った。なぜか二人とも息ぴったりのタイミングに見えた。穣子は早く用事を済ませようと、話を切り出した。
「あのですね。実は宴会をするらしいのです。」
「宴会?」
幽香は戸惑ったような顔を見せる。穣子はその反応に一瞬違和感を覚えたが、恐怖の方が勝った。
「ええ。妖精がやろうと言い出しまして。それで、紅魔館でやるらしいんですが、お花が咲いたところでやりたいと、それで貴方に手伝ってくれないかと言うのです、その妖精が。もちろん貴方にもお礼としてお酒を振舞うからと。」
「その妖精って、チルノ? 寒いバカ。」
「……ああ、そうです。まず間違いないです。」
若干困り果てた顔をして穣子は答えた。あっけに取られたような顔をしていた幽香だったが、それを聞いてたちまち笑い出した。ひどく嬉しそうに。穣子はちょっと怖くなった。
「ああそう、紅魔館でね……いいわ、とっても素敵だと思う。是非参加させていただくわ。」
目じりに浮かんだ涙を拭いながら、幽香はその申し出を受け入れた。穣子は安堵する。もっと怖い人かと思ったが、どうやら違ったようだ。やはり噂なんてあてにならないものだ。
「じゃあ自己紹介しましょう。私は風見幽香。貴方は?」
「比那名居天子よ。かつて幻想郷を恐フゴッ!!」
「秋穣子です。八百万の神です。たいした神じゃないですけど。」
今度は頬を打たれた天子は、なぜか楽しそうだった。穣子はもう二人に構わないことにした。愛想笑いだけ振りまいてさっさと紅魔館へ向かおうとする。しかし話は終わっていなかった。なぜだか判らないが、幽香はある種の確信を抱いていた。
「貴方はどうして宴会に参加しているの?」
「そもそも私が言いだしっペギャッ!!」
「えーと。お酒を造りたいとこの天人と妖精達に相談されまして……ついでに姉を探しに行こうかと思ったのもありまして、ええ。」
穣子の言葉に、幽香は息を詰まらせた。だが、やはりそれを言わずして宴会に行ってはならないと思っていたのだろう。できるだけ声色を変えないように努めながら、幽香は訊いた。
「お姉さんというのは、もしかして秋静葉さんという方かしら。」
「ええそうです。もしかしてどこかで会いました?」
眼を輝かせた穣子へ、幽香はゆっくりと、視線をそらさず伝えた。
「お姉さんは、殺された。」
時間が止まったようだった。向日葵だけが変わらず上を向いていた。
■ ■ ■
リリカ・プリズムリバーは、ちょっとスランプだった。
「ほらリリカ、音出てないよ。」
姉のルナサ・プリズムリバーがセッションを止める。リリカはぶすったれた顔をしていた。出ていないのではない。出す音がないのだ。
「まあいいじゃん姉さん。どうせしばらく暇なんだし。」
二番目の姉であるメルラン・プリズムリバーは能天気にくるくる回る。リリカは姉達が羨ましかった。
リリカはめったにソロライブをやらない。嫌いなわけではない。彼女にはこだわりがあった。いい演奏ができそうにない限りソロの依頼は引き受けない、そう決めていた。そしてその基準は「そこに音があるか」という至極単純明快なものである。
リリカは幻想になった音を拾って旋律をつむぐ。だから依頼された場所に幻想があればリリカは喜んでライブをやる、それだけだ。姉たちは気質が決まっているからもっと単純なのかもしれない。客から気質の音を集めればそれだけで演奏ができるわけだ。リリカはそういうわけにいかない。納得のいく演奏ができないのなら、ライブを引き受ける気にはならなかった。それは彼女なりのプロ意識だった。
そして今の幻想郷に、音はなかった。
「練習しないわけには、いかないよ。私達は騒霊なんだし…」
「だって、ライブの依頼なんかとーぶんこないでしょ。のんびりいきましょーよ」
「すみませーん。おねがいがあるんですがー」
飛び跳ねていたメルランはずっこけた。言ったそばからこれだ。
「私行ってくるよ。」
リリカは姉たちの返事も待たず飛び出していった。二人の姉は狐につままれたような顔を突き合わす。リリカが率先して客を出迎えるなんて滅多にないことだった。
三月精は無人の洋館を歩き回りながら声を張り上げていた。向こうが出てくるまでどこにいるか分からないのが困りものである。
「なんだ、妖精じゃん。」
ようやく出てきたのは確か三女だったか。ライブでの印象が薄いのか、三人の反応は鈍い。
「あのさ、ライブやってほしいんだけど。」
「はあ、これから?」
ルナチャイルドの申し出にリリカは素直に驚いた。まさか本当にライブの依頼だとは、さすが妖精だ。
「リリカ〜 誰が来たの?」
メルランとルナサも後を追ってきた。今度はライブで印象に残っている顔だったのだろう、サニーが二人に飛びつく。
「こんにちは。実はね、宴会やろうってことになって、それであなた達にライブをしてもらいたいなあって思って来たの。」
「宴会……?」
ルナサはうつむいて考え込む。妖精の言い出すことに大した意味などないはずなのに、彼女らしい振る舞いだった。代わりにメルランがサニーの申し出に問いを返す。
「宴会! どこでやるの?」
「はい。紅魔館でやろうと思っていまして、今みんなで分担して準備中です。」
スターサファイアの少し誇らしげな説明は、メルランでさえ狼狽させた。スターはその反応を見て、自分が何か変なことを言ったのかと表情を曇らせる。
「あ、あの……私何か――」
「紅魔館で、あはは、ああそうなんだ。」
メルランは慌ててその場を取り繕ろうと明るく振舞う。しかしそれは彼女の気質をもってしても無理があった。
「紅魔館で、誰がやるのかな?」
「え、ええとチルノが言いだしっぺで、あと暇そうだった天人だとか、お酒を造れる神様だとか、それとあと幽香さんをこれから呼んでくるって……」
ルナサの薄暗い問いに、ルナは急きたてられるように答えた。なぜか怒られている気がした。ルナサはその面子を聞いて一つため息をした。
「そうか。悪いことは言わないよ。やめておいたほうがいい。」
「な、なんでよ!」
サニーが詰め寄った。太陽の精に照らされた憂鬱の騒霊は、それでも口調を変えることなく告げた。
「紅魔館は、もうないんだ。」
沈黙ができた。さっきまで喚いていたサニーもぽかんと口を開けるだけ、他の二人も呆然とする。
「この間戦いがあったんだ。里の人間達と紅魔館の。それで紅魔館は負けた。今は誰もいないし、建物もないよ。」
「すごかったのよ。ここからでも見えたんだから。星が降ってきて、後もう少しで落ちるところだった。それからお札の光が空へ昇っていってね。最後に屋敷全部がきらきらーって。でも楽しそうには見えなかった。」
メルランはあくまで陽気に、でも少し切なげに付け加えた。
三人の妖精はただ口を開けたまま躁の騒霊を見ていた。まるでどこか遠い国の話を聞いているようだった。
「あれは、とても綺麗だったけど、とても悲しい音だった。そしてよく知っている音。」
「あの白黒魔法使いと、暢気な赤巫女の音だったね。そして白黒の音は聞こえなくなった。」
とつとつとしゃべるルナサにリリカが相槌を打つ。彼女はあくまで淡々と言葉をつむぐ。
「他の奴ら、吸血鬼やメイドや魔法使いの音も消えた。だからきっとあそこはもう――」
「そんなわけないよっ!」
サニーは空しく叫んだ。だが彼女にも、ルナやスターにも心当たりがあった。先日見た紅魔館の花火、それはこの三姉妹が説明する光そのものだった。サニーはそれを否定する言葉を引っ張り出そうと、口をもごもご動かしていたが、結局何も出てこなかった。それはルナやスターも同じようだった。
また沈黙ができた。ルナサが三人の妖精を慰めようと肩に手をかけたその時、無音の屋敷に声があがった。
「ねえ、ライブやってもいいんじゃない? 姉さん。」
メルランだった。ルナサは少し不機嫌そうな顔をして妹を見た。
「なに言ってるの…こんなときだよ。」
「こんなときだからよ。私だって音楽が何かを変えられるなんて思ってないよ。でもこの子達は私達の音楽を聞きたいって言ってくれてるんだよ。だったら行くべきじゃない? たとえそれがガレキの山でも、戦場の只中でも。」
それがメルランのプロ意識だった。だが世情を鑑みて当面ライブを自粛すべきだと考えていたルナサは渋い顔のままだった。それもまたプロ意識のあり方だろう。
「私は、行きたいな。」
それはリリカだった。珍しく積極的な末の妹の意見に、ルナサは少し驚いたようだった。
「この妖精たちから音が聞こえるの。久々にいい演奏ができそうな気がするんだ。行こうよ姉さん。」
■ ■ ■
香霖堂の空気は、ずしりと重たいものだった。梅雨はまだ先だというのに、そこだけは滴り落ちんばかりに湿気を含んでいた。
魔法の森にある小さな道具屋、その一番奥まったところにある小部屋に、霧雨翁と大天狗長は膝を付き合わせて座っている。
「先日の火災、大変申し訳なかった。」
長い沈黙が続いていた部屋に、霧雨翁の重々しい声が響いた。大天狗長は相変わらず押し黙ったまま、向かいの霧雨翁を睨みつけていた。
「まず最初に嘘をついてしまったことをお詫びしなくてはならない。月は武器を持っていた。」
「なぜ言わなかった。」
大天狗長は吐き捨てるように言った。
「護身用としか知らされていなかった。こちらとしてもあれほどの威力があるとは想像すらしていなかった。」
霧雨翁も一息で答えた。そこで大きく息を吸って、彼は言葉を続けた。
「だが、先ほどの述べたとおりそれを盗み出して撃ったのは我々里の人間だ。その点は何をもってしても償いきれん。」
「つまり、里の誰かがその月の兵器を持ち出して、山へ向かって撃ったということか。」
霧雨翁は沈痛な面持ちをつくろって頷く。大天狗長は思い出したように、硬直していた表情をほんのわずか歪めた。
「下手人は?」
「目星はついている。追放された前の里長の周辺だ。」
大天狗長は「そうか」と呟いた。ぶっきらぼうな声だった。霧雨翁はわずかに睫毛を伏せる。
「もう、我々は月とこれ以上交渉するつもりはない。」
大天狗長は、それまでぼんやりと宙に浮かせていた焦点を慌てて霧雨翁にあわせた。
「やつらも了解した。自分で地底へ行って下の妖怪と交渉するつもりらしい。」
「それはつまり地底の連中となにか和議を結ぶということか?」
「知らん」と霧雨翁は切り捨てた。向かいに座る大天狗長から眼を一度切って、彼は心底嫌そうなそぶりを見せ付けながら口を開く。
「我々には地底の連中のことはわからんからな。ただ月の連中も、山に傷をつけて、これ以上幻想郷と喧嘩の種を作りたくないとは言っていた。本音かは知らんが。」
洩矢諏訪子は二人の大男の横にいて、ずっと彼らのやり取りを聞いていた。森の湿気は彼女の肌に潤いをもたらしていたが、その肌は気だるそうな様子で、ピクリとも動かなかった。目の前で振舞われる嘘の羅列に、彼女はなぜだか満ち足りない思いを抱いていた。
「そなたたち山の妖怪も今は天魔打倒に向け大事な時だろう? 我々としても奴らに振り回されるのはもううんざりなんだ。」
大天狗長は諏訪子に視線を送る。彼は月の行動の真偽を計りかねていた。彼もまた心ここにあらずといった様子で、頭が回っていないようだった。
「確かに、今こちらは里の復興と被災者の面倒で手一杯だ。勝手にカタをつけてくれるのなら、願ったり叶ったりかもしれんな。どうでしょうか、洩矢様。」
大天狗長の吐露に、諏訪子は居眠りから目覚めたように体を揺らした。
「うん、いいんじゃない。それが終われば帰るわけで。もう里には戻らないんでしょう?」
諏訪子もまた、気が抜けたような声で人の嘘を流した。霧雨翁は諏訪子がかけたカマを予期していたように、その問いに答える。
「はい。もう里には金輪際戻りません。八雲を連れて即帰還すると、そう聞いております。」
霧雨翁は、拍子抜けした顔をして諏訪子と大天狗長を見送った。もっと緊迫した交渉を予想していた彼は、寝ぼけたままやってきたような二人に肩透かしを食らった形になった。
そこに無事彼らを騙しとおして計画を前進させたという快感はない。あるのはすっきりしない気持ちと言い知れぬ不安感だけだった。なにかどうしようもない失敗をしたような違和感がどこかにあった。
霧雨翁は大きく深呼吸をする。森のじめじめした空気が肺にまとわり付いた。彼はそれを吐き出すように、もう一度深呼吸をする。弱みというのは外から来るのではなく、己の心の内から来るのだ。だから心を強く持てば弱みは姿を現さない、それが彼の持論だった。
「オヤジさん。」
重い闇から森近霖之助が姿を見せた。提灯の光にぼんやりと照らされた彼の顔は、しかしひどく厳しいものだった。霧雨翁も、弟子に似つかわないその表情に怪訝な様子で正対する。
「ひとつお伺いしたいことがあります。」
師の了承を待たず、霖之助は手にあった物を突き出した。カサリと、軽い音が聞こえた。しわの刻まれた霧雨翁の顔がほんの少し引きつる。それは傍目には到底気付きえぬ変化だったのかもしれない。しかし霖之助にはそれで十分だった。師がこれほどまで動揺を表に出すのは滅多にないことだった。
「この花束、今朝うちの玄関前に置いてありました。見覚えありませんか?」
「……知らんな。」
霧雨翁はぼそりと呟いた。霖之助が持っていた小さな花束は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。どう草花を配置していいかわからぬまま、とりあえずあるものを押し込んでみた、そんな不器用さがあった。
顔を別方向へ向けたまま沈黙を守り続ける霧雨翁を、霖之助はしばらくじっと見ていた。その顔にはもう落ち着きが戻っている。たとえこのまま千年待ったとしても、彼は沈黙を守り続けるだろう。そういう人だった。
「わかりました。心当たりがなかったもので。どうもすみませんでした。」
「別によい。」
霧雨翁は霖之助にそれ以上構うことなく里へ向かって歩を進めた。霖之助は後を追わなかった。護衛がいることは彼にもわかっている。それでも師を見送ろうと毎回努めたのは、曲がりなりにも敬愛しているからだった。
だが今日はその気になれなかった。師に失望したからではない。ただ普段ならありえない隙を見せた霧雨翁の振る舞いに、漠然とした不安感を覚えたからだった。師の衰えに気付いてしまうことは、何よりも辛いことに違いなかった。
■ ■ ■
「ご主人、鍵山雛を連れてきたよ。」
ナズーリンの声に、洩矢諏訪子は白昼夢から醒めた。何を見ていたのかは覚えていない。なんとなくぼんやりしていただけのような気もする。
それまで腰掛けていた岩から立ち上がって、軽く伸びをした。少し疲れているのかもしれない。
「ん、ありがとう。」
小さく呟く諏訪子の前に、鍵山雛が転がされた。その目には怒りと恐怖がしっかりとあった。諏訪子は少し安堵する。
「遅れてすまない。なにやら山から逃げようとしていたようで、発見に手間取った。」
「へぇ。どこ行こうとしていたのかしら?」
「貴方達には関係ないわ。」
雛は気丈に言い放った。チルノの宴会のことなど、目の前の連中に教える気にはならなかった。厄神である彼女は、存在の正邪に敏感だった。
「いい返事ね。まあいいわ。今は時間がないものね。」
諏訪子は白い蛇を大地から召喚する。それは大きくはなかったが、一匹ではなかった。無数の蛇が地面から湧き立つように這い上がり、群れなして雛に迫る。その穢れの多さに、雛の顔が青ざめる。
「祟りや穢れってね、広がりやすいのよ。滞留して土地をゆっくりと侵食するんだけど、爆発力に欠ける。穢れを一点に集め留めておくのって難しいの。」
諏訪子は雛へ声を投げ落とした。いつものように愉快でたまらないという声だと、諏訪子自身は思っていた。
「そこで貴方。貴方は厄や穢れを吸い寄せることができる。だからね、貴方には贄になってもらいたいの。私が垂れ流す穢れを吸って、消化不良を起こすほど厄を溜め込んで、幻想郷中を永遠に爛れさせるほどの爆弾の核になってほしいのよ。山もね、大量破壊兵器が必要らしいの。均衡のために。だから頑張ってね。」
男の腕ほどの蛇が、諏訪子の言葉を待ちきれないといった風に雛の口へ飛び込んでいった。喉奥を犯され涙目でもがく彼女のスカートを、諏訪子は引きちぎる。
「こっちからも挿れた方がいいでしょう。不浄の門だものね。」
ショーツを引き摺り下ろす時間すら惜しいといわんばかりに、蛇が列を成して雛の女陰と菊門に襲い掛かった。二つの穴へ、数匹の蛇が同時に頭を突っ込んでぴちぴちともがいている。
お預けをくわされた蛇たちが我先にと、眼、耳、鼻――ありとあらゆる穴めがけて飛び込んでいく。悲鳴を上げる間もなく、雛は蛇の群れに飲まれていった。
「ミジャグジ達をここにおいて置くから見張りをお願いねナズーリン。今この大地にある穢れの量なら、2,3日もせずに幻想郷を腐らせるだけのものができるでしょう。」
「了解した。」
ナズーリンは諏訪子に一礼した。雛が蛇に犯されるのを何食わぬ顔で見ていた彼女だったが、目の前の主人の顔つきには引っかかるところがあったようだ。顔を上げたナズーリンは諏訪子に尋ねる。
「ご主人、なにか問題でもあるのかい?」
「いいえ。何故?」
「浮かない表情をしているからさ。あまり見ない顔だよ。なにか気になる点があるなら調べさせるが。」
視線を遠くへ泳がせたまま、諏訪子は無言でそれを断った。あくまで実務に徹するナズーリンは、今の彼女にとって一番居心地がよい存在だったのかもしれない。
どこの誰へ向かってというわけでもなく、諏訪子はとつとつと独り言をはじめた。それは祭りの時間にはふさわしくないものだった。
「ずっとね、不思議だったの。人も妖も、どうして祭りで遊ぶということができないのか。最初は楽しそうに遊んでくれるのよ。でもね、段々彼らは形式的に、義務的に祭りをこなすようになる。特に楽しそうでもなく、無事終わらせなければならないという責任感を背負いながら、必死に祭りを実行するの。そして最後には今祭りしているのかどうかすら、うやむやになってしまう。
なぜなのか、私には理解できなかった。責任を果たすことが楽しいなんて、自分を偽りながらなぜそうまでして楽しくもない、遊ぶつもりなんてこれっぽっちもない祭りを続けるのか。嫌ならやめればいいのに。」
諏訪子はそこで一旦言葉を切った。今度は遠くへではなく、一番近くへ諭しかけるように独白を続ける。
「でもね、ふと思ったのよ。祭りを楽しんでいないのは彼らではなく、神自身だったのではないかと。神は祭りでちゃんと遊んでいるのだろうか。我々もまた無駄な義務感に支えられて、信者のためといって自らを偽りながら、だらだらと祭りを続けているだけなんじゃないかと。」
「私は誰かに仕えるという生き方しかしていないからね。よくわからない。ただ――」
返答するナズーリンの口調はそっけないものだった。それは冷たさ故ではなく、自分が到底理解できない問いへの真摯な応対故だった。
「自己欺瞞も延々と続けると本当になったりする。いや何が本当だかわからなくなる、というべきかな。」
諏訪子は答えなかった。答えなどいらなかった。どういう結論であろうと、神である彼女にできることなど最初から決まっていたのだから。
■ ■ ■
――ワシじゃないんだ、ワシじゃない……
博麗霊夢の頭にさっきからずっとその言葉が反響していた。先ほど耳にした言葉だ。言葉にした人物とは一応面識があった。前の里長だった男である。
――次は、私でしょうね
じわじわと、頭を巡る声が別のものへと変質していく。小柄な老人だった里長が慧音たちに引きずられていくのを見ていた霊夢の横で、稗田阿求が呟いた言葉だった。今日もうんざりするほど色々な言葉を聞いたはずだったのだが、霊夢はそれしか覚えていなかった。
「ごちそうさま」
半分以上手をつけぬまま、霊夢は夕餉の食器を流しに持っていった。今日のおかずは里で狩った雉の焼き物と、山菜のおひたし、冷奴だった。味は覚えていない。
茶を淹れる元気もなく、霊夢はちゃぶ台の前に腰をどすんと落とす。綿月は里を出て地下へ潜るらしく、分社にはもう霊夢一人しかいなかった。
ここ最近霊夢は出ずっぱりだった。山を襲撃した人物の捜査は難航していた。持ち前の勘はすっかり動かなくなっていたようだ。だがその捜査もあの里長が口を割れば終わるはずだ。
一つ行方不明になっていた銃をあの貧相な老人の家で見た――なんでもそういう密告があったらしい。逆に言えば証拠はそれしかない。
加えて霊夢達の元へ届けられる密告は絶えることがなかった。てんでばらばらな名前を挙げる密告者の顔を見るたび、彼女は気が滅入った。どいつもこいつもおんなじ顔――反吐が出る顔ばかりだった。
そして元里長への密告へ飛びついた慧音も、また大して変わらない顔をしていた。あの分ではもうすぐ捜査も終わるだろう。早く終わってほしいと霊夢は思っていた。
風呂を焚く気にもなれず、霊夢は布団を敷いてとっとと寝ようと重い腰を上げる。この分では温泉など夢のまた夢だろう。
「霊夢さん、すみません。」
玄関の方から声がした。出迎えるのもおっくうで、霊夢は大声で入ってくるよう伝えた。大声を出すのも一苦労だが。
ぴょこりと顔を出したのは玉兎のレイセンだった。てっきりまた密告者だと思っていた霊夢は、少し意外だという表情をする。
「どったの?」
「えへへ……忘れ物をしてしまいまして。」
恐縮した様子で、レイセンは先日まで綿月姉妹が寝起きしていた部屋に飛び込んでいった。しばらくして出てきたレイセンの手には豊姫の扇子があった。霊夢は顔をしかめる。
「そんな危ないもの忘れたのあいつら?」
レイセンはすまなそうにはにかんだ。
「まあ、使い方を知らなければ普通の扇子と同じですし。」
「そういう問題じゃないと思うんだけどね。」
頭を掻く霊夢に、レイセンはちらちらと視線を送っていた。霊夢もそれに気付いたのか、ぶすったれた顔をレイセンに向けなおす。
「なんか言いたげね。」
「……あの、元気にしてますか。八意様とか、鈴仙さんとか。」
霊夢はかったるそうに視線をずらした。そのままぶっきらぼうに続ける。
「さあ。最近会ってないからね。」
会話が途切れた。霊夢の中に消し去ったはずの感覚が戻りかける。衝動的に口から漏れそうになった言葉を、彼女はぐっと飲み込んだ。
「やはり、綿月様のおっしゃったことは正しいと思います。」
レイセンはまっすぐ霊夢を見据えた。霊夢はたじろぎそうになるのを必死にこらえる。
「以前貴方が私を神社へ運んで手当てをしてくれたとき、月に滞在していたとき、貴方はそんな顔をしていなかった。そんな風に眼をそらして話したりしなかった。今の貴方はなんだかとっても惨めです。」
まっすぐ射抜くような視線だった。霊夢はまた頭を掻きながら眼をそらす。レイセンの言うとおりだった。
「黙れ」
「地上も前とは違ってみえます。今は息をするのも辛いです。」
「いろいろあったのよ。」
霊夢はそこで言葉に詰まる。"いろいろ"の中身が、彼女の心を奔流していた。
「よくわかりません。でも、こんなに短い間に変われるものなのでしょうか。」
「月とは違うわ。私達はすぐ変わってしまう。」
「これはよい変化とは思えません。」
続けようか迷っていた言葉を、レイセンに先取りされた。無邪気にふわふわ耳を揺らしながら、彼女は拳をきゅっと結ぶ。
「"変わる"ということが、私にはよく分かりません。でも、悪いものであるならなぜそれを防ごうとしないのですか。」
「そんなのわかんないのよ。その当時だって、今だって、悪いか良いかなんて誰にもわからないのよ。」
「ではわかったら直すのですか。」
「もう無理じゃない?」
霊夢は他人事のように答えた。レイセンはむっとした顔になった。
「なにかするんじゃないんですか。謝ったりとか」
「そんなのもう遅いわ。悪いとわかってから謝ったってもう遅い。許してくれないわ。」
「なら許してくれるまで謝ればいいじゃないですか。ずっと謝って、いつか許してくれるまで。私だって月から身勝手な理由で逃亡して、戻ったらどんな辛い罰を受けるんだろうって怖かった。でも綿月様は宮殿でお二人にお仕えすること、償いはそれだけでいいと仰ってくださいました。」
霊夢はレイセンを見た。あまりに純真無垢な顔をしていた。返す言葉が出てこなかった。
「そのあと綿月様が仰ってました。先代の鈴仙さんは脱走を悔いているようだったけれど、そんなのたいしたことじゃない。ただ一言謝ればそれでいい。なのになぜあの子はそれができないんだろうって。教えてください。地球では、謝罪しても許してくれないのですか。この大地では悪いことをしたときに、どうすれば許しを得られるのですか。」
霊夢は眼をそらしたまま、レイセンが帰るのをただ待っていた。
時間だけがつらつらと過ぎていく。
眼前の巫女がすっかり貝になったことをようやく悟ったレイセンは、玄関へ踵を向けた。
「やっぱり、貴方達のことは理解できません……」
■ ■ ■
星熊勇儀は旧地獄の一番外れを目指していた。そこには地上との唯一の連絡口である、朱い橋が架けられている。
そこへ行くのはずいぶんと久しぶりのように感じられた。紫たちを迎えに行ったのはつい数日前のことだったにもかかわらず、である。客の出迎えは一応勇儀の務めだった。いい加減やめたいと思いつつ、頼まれると断れなかった。鬼の頭角なんてかっこいいこと言っても、所詮こういう出迎えみたいな雑用をおっかぶされてるだけだ。別に小間使い自体は嫌ではない。ただ、「四天王」なんて肩書きにひっ釣られて言い寄ってくる、そういう手合いが大嫌いなだけだった。
「やあパルスィ、久しぶり。」
橋の真ん中にいた水橋パルスィは、舌打ちだけを返した。別にそれでよかった。その舌打ちが世界のどこへ向けられたか分からないようなものではなく、自分へまっすぐ投げかけられたものならば十分だった。なぜこんなにパルスィのことを気にかけるのか、勇儀自身もよく分からなかった。今日もそれ以上何か言うでもなく、ただパルスィの横に体を置く。
欄干に身を預けながら橋の下を意味もなく見つめるパルスィと、欄干にもたれながら閉じた空をぼんやり見上げる勇儀。欄干の上の勇儀の手は、パルスィのそれと10cmと離れていなかった。この10cmが、二人をずっと隔つ距離だった。パルスィの細いうなじが、勇儀の視界の隅に入る。それだけでよかった。それ以上は無理だった。
今ここで触れてしまえば、自分もあの不誠実な連中と同じなのではないか――勇儀はいつもそう逡巡する。
いや、実際とっくにそうなのかもしれない。自分も卑しく不誠実な存在なのだろう。でも――勇儀はいつもこの結論に至るのだが――パルスィにはそうありたくなかった。
さかさまの場所を見ていた二人が、やはり人影に気付いて双子のように同じ方を向く。それは橋の向こうから迫る三つの、まばゆいほどの存在だった。
「あんたらが、連絡よこした綿月かい。」
勇儀は胸元から一枚の書簡を取り出して宙に泳がせる。それを見た綿月豊姫は、丁寧に会釈をして迎えの鬼に自己紹介を始めた。
「はい。月から参りました綿月豊姫と申します。こちらが綿月依姫とレイセンになります。」
綿月依姫とレイセンも、豊姫の言葉に合わせて軽く会釈する。勇儀はいつも通りのざっくばらんな態度で彼女たちに名乗った。
「あんな高いところからわざわざご苦労様。私は鬼の星熊勇儀だ。旧地獄の代表として、あんたらを迎えに来た。」
「それはわざわざありがとうございます。」
「さ、早く行こうか。あんたらの素性が旧都の連中に知られるといろいろ面倒だしね。」
「お気遣い痛み入ります。」
勇儀と和やかに言葉を交わす豊姫に、パルスィは忌々しげな視線を向けていた。彼女達が目もくらむほどの高貴な存在であることは、一目見て分かった。だからその立ち振る舞いも、漂う気品も、あの作り笑いも、何もかも妬ましかった。パルスィは豊姫たちを先導する勇儀の前に立ちふさがる。特に目的はなかった。
「パルスィ、ごめんよ。今からこいつらを地霊殿に運ばないといけ――」
「知ったことか。お前ら、ここから先は掃き溜めだ。あんたらみたいなやんごとなき連中の来るところじゃない。この橋は貴様らみたいなのが渡っちゃいけないんだ。とっととうせろ、妬ましい。」
「パルスィ、分かって――」
なだめつかせようとする勇儀をパルスィは振り払った。
「黙れ勇儀。嗚呼お前も妬ましい。こんな奴らと話をして、地霊殿なんかに入り浸って、嗚呼妬ましい妬ましい。消えろっ、もう二度とくるな!!」
刀を抜こうとする依姫を、豊姫が制した。パルスィの前に立った彼女は、神々しい笑顔を哀れな橋姫に突き出す。
「貴方の橋を"穢し"てしまい申し訳ありません。今日は我々が無理を言って地霊殿の主に会いに来ただけなのです。用件が済めばすぐ帰ります。別にこの鬼さんに会いたかったわけではないんですよ。誤解させてしまいましたね。」
パルスィはあらん限りの力で顔をひん曲げて、豊姫の笑顔に唾を吹きかけた。いよいよ切りかかろうとする依姫を再び制し、豊姫は何事もなかったようにパルスィの横を通り過ぎていく。
ようやく誰もいなくなった橋の上で、パルスィはあの荘厳な嘲笑を、いつまでも妬んでいた。
「わざわざ御足労頂き、ありがとうございます。」
地霊殿に入った豊姫たちを迎えたのは、古明地さとりと八雲紫だった。まだ白の襦袢一枚の紫は、顔を真っ赤にして目をそらす依姫に気付いて詫びる。
「申し訳ありませんこのような格好で。今式が服を持ってきますので。」
「では着替えてから出てくればいいだろう。全く貴様は……」
「まあいいじゃない依姫。」
豊姫はころころ笑いながら依姫をたしなめる。依姫は憮然とした様子で、紫に突っかかった。
「しかし我々を駒扱いするとは。八意様の命がなければこの場で叩き切ってやるところですが。」
「下賎な地上の民ゆえの身の程知らずと御容赦下さい。それにこれはお二人にとっても、そして八意様をはじめとする幻想郷の月人のためにもなることなのです。」
紫は頭を下げる。さとりは少し感心しているようだった。彼女がこうやって自分から頭を下げるのを見たのはおそらくはじめてだった。
「紫様。お召し物です。」
「藍、ありがとう。」
紫色のドレスを持って現れた自分の式の名を、紫は久しぶりに呼んだ。八雲藍は気恥ずかしさを抑えながら、主人の身を案じる。
「紫様。その、大丈夫でしたか。」
「ええ、萃香のおかげで。殴られたのは結構あったけど、犯されたのは十回ないかな。」
「……あら酷い。その時も陰茎だけスキマで移動させて、犯されてるふりしていたんですか?」
「あいつらどこに挿れて悦んでたのかしらねぇ。」
おどける紫をさとりがなじる。豊姫は笑っていたが、依姫は明らかに不愉快そうだった。言葉だけ聞けば藍は心が痛んだが、紫の佇まいを見るとその苦しみも幾分和らいだ。
ひとしきりの近況報告を済ませた紫は、改めて藍に目配せをした。藍も視線を返す。それだけで十分だった。さとりも二人だけの会話を覗き見て優しく微笑む。
先に部屋で待っていましょうと申し出たさとりに続いて、月の一行は応接間に進んでいった。残された二人の八雲は、軽く頷きあう。
「では早く着替えて私達も行きましょう。藍、着替え手伝ってくれるかしら?」
「はい、紫様。」
「本日はかのような高き場所から、このような穢れた所までようこそおいでくださいました。それで、本日はどのような御用件でしょうか、綿月豊姫様?」
役者がそろった応接間で、最初に口を開いたのはさとりだった。教えてもいない名前を呼ばれて、豊姫は驚いたような顔だけを造る。
「まあ、本当なのですね。心が読めるというのは。」
「卑しい力に過ぎませんよ。それで……はい、引き渡しの件ですね。」
「とても楽ね。」
いつかの巫女と同じことを言う豊姫に、紫の頬も思わず緩む。
「ふふっ……それは愉快ですね。紫様、地上の人間共は月の方々から頂いた銃を使って最初に何をしたと思いますか。なんと山に一発ぶっ放したそうですよ。豪気ですね。」
「あら意外。てっきり近場で雑魚でも狩る程度かと思ってましたわ。」
久しぶりに扇子を泳がせながら、紫も驚いたような顔だけを造った。同じく扇子を手の中で玩んでいた豊姫が、軽く身を乗り出す。
「それで、里から提示された条件なのですが、読み取ってくださいます?」
「喜んで。……月と地底、里が同盟を組み、幻想郷のルールに反する行動をした山を共同戦線で討つそうです。交換条件として山を我々に差出し、地上への往来も自由となる。なるほど、素晴らしいですね。」
満足げに頷くさとりに、紫も頷き返す。
「予想以上によくできた条件提示ですわね。人間もずいぶんと賢くなったものだこと。萃香の言うとおりだわ。」
「……西行寺幽々子様とは里で待ち合わせだそうです。ああ、私も行くのですか。久しぶりに蒼い空が拝めるのですね、うれしい。」
心にもない喜びを見せるさとりに、紫が訊いた。
「あらそうなの。随分と強気に出ましたわね。さとりに心を読まれても構わないと、そういうことなのかしら。」
「なんでも私は契約が済むとすぐ殺されてしまうそうですよ。まあ怖い。」
おどけるさとりに紫も付きあった。勇儀も藍もレイセンも、この三人が何を話しているのかよく分からなかった。依姫は聞かされていたのだろう。しかしそれを見る眼は、不機嫌を如実に示していた。いくら月で散々こういうものを見慣れてきているといっても、やはり依姫はこういうのが好きではなかった。
「待っとくれさとり。あんた一人で行くのかい。それじゃあ危ないだろう。奴らが何を考えてるか。」
「大丈夫ですよ勇儀。ちゃんと護衛をつけますから。貴方達は地底で待機していてください。」
真面目に心配顔をする勇儀に、さとりは余裕たっぷりに返した。
和やかな空気で進む会談を讃えるように一つ頷いた豊姫は、改めて姿勢を正して要求を告げた。
「ではこの条件で八雲紫の身柄を我々に引き渡し、地上へ連れ帰ることに同意して頂けますか?」
「「ええ、喜んで」」
その要求に、さとりと紫も首肯した。
■ ■ ■
「ふっふっふ、やーっと見つけたぞ。」
竹林を分け入った先の先、およそ誰も来ないような奥地にチルノの間の抜けた声がこだました。横にいる大妖精はこんな奥まで来たことがなかったのだろう、薄暗い妖気の漂う場の空気にすっかりおののいているようだった。
「はぁ……?」
チルノに指差された藤原妹紅は、どう反応していいか困った様子だった。竹でできた掘っ立て小屋を修繕する手を休め、向き直ってチルノの言葉を待つ。
「そーだんがある。タケノコくれ。」
「そこらへんにいっぱい生えてるじゃない。好きなだけ採ってけば。」
「でも、その、私達にはよく分からなくて。」
チルノの後ろから大妖精のかぼそい声がした。確かに竹林に不慣れな妖精には分からないかもしれない。妹紅は反省するようにこめかみを掻いた。
「ああ、わかったわかった。でもタケノコは早朝採った方が柔らかくて美味しいよ。何なら明日採っておいてあげるからまた来る?」
「いや、そのひつよーはない」
チルノは相変わらず自信満々にふんぞり返っている。その自信は一体どこから来るのか、妹紅はそのうち是非聞いてみたいと思った。
「お前が来ればいい。宴会をするんだ。"かんじ"はあたいだ。とーぜんお前も招待する。」
「えんかい?」
妹紅は思わず聞き返した。しかしチルノの顔に動揺は微塵もなかった。
「そうだ。あたいたち妖精がやる宴会だ。酒から造るんだぞ。あたいは今食材係をしててな。宴会にはタケノコが不可欠という結論になった。」
妹紅は噴き出した。笑ったのはいつ以来だったか、なぜだかこらえ切れなかった。大妖精は突然のことに戸惑っている。しばしの間腹を捩じらせた妹紅は、息を切らしながら要請の依頼に応じた。
「……わかった、わかったよ。タケノコがいるんだな。好きなだけやるよ。」
「やったー」
チルノは飛び上がって喜ぶ。大妖精もほっとした顔をする。
「そういや、よくここがわかったね。」
チルノが落ち着くのを待って、妹紅は尋ねた。口調からは切迫したものが薄まってはいたが、それでも刺すような強い口調だった。
「兎の妖怪さんが教えてくれたんです。」
その切迫感など気にも留めぬという風な大妖精の返答に、妹紅はしばし思案を巡らせる。もうこの場所が永遠亭にばれているのであれば、念のため移動も考えなくてはならないかもしれないなと妹紅は思った。もっとも大妖精の言うウサギが、因幡てゐだと聞かされていたなら別の考えに至ったろうが。
「そうか、分かった。で、タケノコはどこに届ければいいの?」
「紅魔館だ。」
妹紅の顔色が反転した。それは大妖精はおろか、チルノでさえ気付くほどだった。微動だにしなくなった妹紅に、二人の妖精は不安そうに近づく。
「ど、どした?」
「なにか私達変なこと言ったんでしょうか?」
「その、そこ……紅魔館で、宴会をするの……?」
毛穴から搾り出したようなかすれ声に、チルノもどう声を掛ければいいか戸惑う。大妖精は既におろおろしている。
「そ、そうだけど、なんで?」
妹紅は答えられなかった。どう言ったらいいか分からなかった。何も知らないこの子たちにあの晩のことを語る権利が自分なんかにあるのか、妹紅は決心が付かなかった。
「ご、ごめん。やっぱり行けないや、私には無理だよ……」
「な、なんでだよ!?」
チルノは思わず怒鳴った。妹紅の豹変ぶりは、チルノにとって到底納得できるものではなかった。邪険にされた子供のように、チルノはふてくされた顔を向けて妹紅に突っかかる。
「なんであたいの宴会をそんな嫌がるんだよ。なんか気に食わないことでもあんのか。おい、なんか言えよ!」
「ち、ちがうんだよ……そうじゃなくて……」
「お前もバカにすんのか、あたいには宴会の"かんじ"なんてできないって。魔理沙みたいに……宴会の約束すっぽかしてどっかいっちゃったあいつみたいに!」
チルノは妹紅のズボンをつかんで何度も引っ張る。「魔理沙」という言葉が止めだった。妹紅にはもう限界だった。
「紅魔館は……もうないよ。」
「え?」
すっとんきょうな声を上げたのはチルノだったのか、大妖精だったのか、その両方だったのか。長い沈黙はそれほどの時間を感じさせなかった。
「私が、壊したんだ。中に住んでた連中も、一緒にいた魔理沙もみんな死んだんだ。」
妹紅は崩れ落ちた。土下座するみたいに、妹紅は地面にはいつくばった。
「な、なに言ってんだよ……そんなわけ――」
「それだけじゃない。幻想郷の奴らはみんな対立して、みんなバラバラになったんだ。もうできないんだよ……宴会なんて、もうできないんだ。」
「そんなわけない!!」
大気が凍りつくような絶叫だった。
「そんなバカなことあるもんか! 今から紅魔館に行ってくる。確かめてきてやる。そんなわけないって。待ってろ。絶対そんなわけない。タケノコ用意して待ってろ!」
言い終わる前に、チルノは狂ったように駆け出していた。くずおれたままの妹紅へ、大妖精の影がそっと覆いかぶさる。一言も告げずにこの打ちひしがれたままの蓬莱人を置いていくことは、彼女にはできなかった。
「あ、あの……ごめんなさい。チルノちゃんがまた変なことを――」
「いや、いいんだ。あいつは変じゃない。おかしいのは、私達だよ……」
大妖精は胸を詰まらせる。正直妹紅が何を言っているのか、ただの妖精である彼女にはよく分からなかった。だから、何故だかくぐもってしまった声で、大妖精はこれだけを告げた。
「あの、でも、やっぱり来てほしいです。チルノちゃんだけじゃなくて、いろんな人が協力してくれて、本当に宴会ができそうなんです。こんなこと初めてで、チルノちゃんとってもうれしそうで、だからお願いします。あの宴会をなくさないでほしいんです。」
■ ■ ■
小野塚小町は苛立たしげに廊下を歩き出した。あの大仰な装飾は相変わらず邪魔くさかったが、そんなことはどうでもよかった。不機嫌を撒き散らしながら是非曲直庁の廊下を進む彼女に、すれ違う職員達は皆道を譲る。
ある者はその理由を知っていたのだろう。小町の背中越しからひそひそ話と忍び笑いが飛んできた。それに突っかかる気も起きず、彼女は憤懣やるかたない様子のまま自分の控え室に飛び込んだ。
「私の異動が決定したそうです。小町、おそらく貴方も幻想郷の担当からは外されるでしょう。今からしっかり準備をしておいてください。」
上司である四季映姫・ヤマザナドゥからさっき告げられた言葉はこれだけだった。あとは何を言おうと彼女は取り合ってくれなかった。さすがに堪忍袋の緒が切れて、あの無駄に大きいだけの椅子をぶっ壊して映姫を問い詰めようとしたところで鬼神長に取り押さえられ、部屋から放り出されたのだった。
控え室のドアに寄りかかった小町はなにか思い切り叫んでやろうと思ったが、声がうまく出せなかった。代わりに持っていた鎌を床に叩きつけた。鈍く弾ける音と、乾いた金属音が暗闇に反響する。それで終わりだった。
小町の頭に散発の打開策が浮かぶ。まずはもう片方の閻魔に話を付けにいく。といってもこちらに交渉の材料はない。十王なんぞに嘆願書を出しても無駄なのは分かりきっていた。思い切って十王へ殴りこむかと考えたあたりでいい加減バカらしくなったらしい。明かりもつけぬまま、小町はソファーに体を投げた。寝てしまえれば楽だったろうが、いつまで経っても眠気は襲ってこなかった。
感情のもっていき場を探すように、小町は上体を伸ばして横のテーブルにある水差しを取ろうとした。
「はい、お水。」
小町はぎょっとした。いつの間にか一人の少女が水の入ったコップを持って目の前に立っていた。途方にくれた小町へとてとてと近寄り、その手にコップを握らせる。
「飲まないの?」
「あ、ああ……」
なし崩し的にコップを受け取った小町は曖昧な返事だけ返す。当然飲む気にはなれなかった。一旦停止していた脳みそをかき回しながら、小町は少女に改めて声を掛ける。
「何もんだい……あんた?」
「んー匿名の使者とかどうかな。死神のおねえさん。」
暗くて顔はよく見えない。亡羊と浮かぶシルエットの下には何も入っていないような、そんな薄ら寒さがあった。小町がかろうじて確認できたのは少女にまとわり付く管と、胸のところにたらした瞳だけ。それは十分な手がかりだった。
小町は無言のまま問いかける。この妖怪の恐ろしさを彼女はよく知っていたが、その上で小町はその限界を見出していた。彼らは傲慢すぎる。自分達の持っている恐るべき力を平然とひけらかす。それは弱さだ。単に驚かす程度ならそれでいいかもしれない。だが本当にぎりぎりのところでは、真っ先に自分の手の内をさらけ出す者は生き残れないだろう。彼らは戦闘には向かないのだ。
そんな小町の挑発めいた想念に、目の前の"覚"は露ほどの反応も見せなかった。小町はいっそう警戒感を高める。こいつは本当に覚なのか、自信が持てなくなってきた。いつまでも口を開こうとしない死神の態度に思い当たることがあったのだろう。少女はどこへ向けているのか判別しづらい声で小町に呼びかける。
「ああごめん。私は心は読めないんだよ。よく勘違いする人がいるんだけれど。」
「そうかい……」
その投げやりな返答は「信じられない」と暗に告げていた。こういう反応にも慣れているのだろう、彼女は構わず続ける。
「今日はね、死神のおねえさんに大事なお話があって。ほら、おねえさんの大事な上司さんのお話。」
小町の肩がピクンと跳ねる。闇に眼が慣れてきた。目に飛び込んできたのは黄色と緑の服、それは人を不安にさせる色合い。
「なんのことだかよく分からないね。」
「優しいなあおねえさんは。そうやって強気に振舞うことで自己を防衛しているんだね。そういう人は繊細な人が多いんだよ。」
心を読んでいるようには聞こえなかった。何かもっと別のものを見られている気がした。もし能力を使って距離をとったとしても、こいつは自分の"どこか"にずっとへばりつくだろうという懸念を拭いきれない。小町は鎌を投げ捨てたことを後悔していた。
「大丈夫。その情動は正常だよ。おねえさんはとても鋭くて強い心を持っている。だから目をつけたの。」
少女はまとっていた妖気をほんの少し緩める。小町はようやく息ができた。違和感は心にこびりついたままだったが。
「ずっと見てたのよ。おねえさんが冥界で上司さんの身を案じたときも、庭師の子の出発に心苦しい思いをしていたときも、あの上司さんに声を掛けられずもどかしい思いをしていたときも、ずっとそばで見てた。それで安心できるって思ったの。もうすぐ幻想郷で政変が起きる。だから注意していて。取引は二者がいなければ成り立たない。だから死神のおねえさんがほしいものは、身内ではなく取引相手が持っているかもよ。」
「ちょっ、あんた一体――」
声を上げようとしたときにはもう小町一人だった。手にあった水の注がれたコップは、しかしそれが夢ではなかったことをはっきりと告げていた。
■ ■ ■
「あー。まただー。」
融合炉から地霊殿に戻ってきた霊烏路空は頬を膨らませた。視線の先には、ベッドの上で全裸のままくつろぐ火炎猫燐がいる。
「ありゃりゃ、まーたみつかっちゃった♪」
お燐の横には橙がいた。シーツにくるまったまま、壊れそうな心を何とか持たせようと石のように硬直していた。シーツからわずかに顔をのぞかせた鎖骨にはキスと噛んだ痕が残っている。
「もう、どうしてそうやっていつも浮気するの?」
「だーかーらー、これは浮気じゃなくてコミュニケーションなの。ねぇ橙ちゃん?」
橙は答えなかった。表情を動かせば涙がこぼれてしまいそうなのか、無表情のままカタカタと震えるだけだった。
「もうそんな嘘ばっかり! 今日は我慢ならないわ。とっちめてやる。」
「おくう、勘弁しとくれよぉ〜」
空はそんな言い訳に耳を傾けなかった。むくれたままベッドに詰め寄る。
「ぐふぅっ!!」
容赦なかった。白く柔らかな腹を、空は思い切り踏みつけた。続けてわき腹を蹴り飛ばす。重い一撃に四肢を振り乱しながら部屋の隅まで吹っ飛んでいった。空は拾い上げて壁に叩きつける。
「私はこんなに大好きなのにさ。どうしていつもこういうことするのかな。訳わかんないな。」
「あたいはおくう一筋なんだけどなあ。」
壁に当たって跳ね返ってくるのを待ち構えていたように、空はひたすら蹴った。腹を、腰を、尻を。衝撃で吐いたものが空の靴下にかかった。気に食わなかったのか、下腹部を踏み潰す。血尿が吹き出た。
「だったら私だけ見てよね。なんでこんなやつなんか。ああムカつくなあ。マジ死ねよ。」
「おくう。もうそろそろやめといたらー」
ベッドでくつろいでいたお燐は、景気づけに阿片で一服していた。空は痣だらけの橙を引きずってお燐の元へ戻る。
「べつにいいじゃん。また後でこいし様に頼んでトラウマ抑圧してもらうんだし。思い出せないでしょ。」
「にゃはは。ちゃうちゃう。おくうはキレると手加減できないんだから。前のみたいに死なれたらまずいじゃん。あんときさとり様に一日ご飯抜きにされてあたいすっげえ辛かったんだよ。」
「うにゅー」
不満げに突き出した空の唇に、お燐は唇を押し当てた。阿片とお燐の甘い香りに、空の眼がとろける。
「しょーがないなー。お燐がそう言うんだったら我慢するかぁ。」
「そーそ。我慢は大事よ。我慢は。」
空は橙の片足だけをつかんで持ち上げた。だらしなく上を向いた橙の股間に、十分熱せられた制御棒を押し当てる。悲鳴が地霊殿に反響した。
「本当はこの穴にぶち込んで使い物にならなくしたかったんだけど、これで我慢するね。」
「えらいえらい。さすがあたいのおくう。」
お燐は空に腕を回して、頬をぺろんと舐めた。それで火がついたのか、そのままむさぼるように舌を絡めあう。肉感的とはいえないが、健康的に引き締まった裸体が空に絡みつく。橙は焼かれたままだった。お燐は股ぐらを空の太ももにこすりつける。肉が焦げる音と香りが、二人の興奮を高めていく。
「あー火傷は痕残るかなあ。」
「まあ顔じゃなきゃ大丈夫っしょ。一応妖怪だもん。」
橙を無造作に放り投げ、空は服を脱ぎ出す。長身だが細く引き締まった体は、お燐とよく似ていた。空の準備が整う間、泡を吹いて白目をむく橙の顔をお燐はぺろぺろ舐めていた。
「橙ちゃんはやっぱりかわいいなー。おくうと終わったら、またしようね♪」
■ ■ ■
魂魄妖夢は階段を上っていた。
いつもは飛んでしまうから、掃き掃除の時以外に徒歩で階段を昇るなんてことはした記憶がなかった。妖夢はそれを少し恥じる。この屋敷のことで自分が知らないことはないと思っていたからだ。階段から見上げる満開の葉桜は、そこが冥界であることを忘れさせるような生命観に満ちていた。
一歩一歩、妖夢は階段を踏みしめる。その度に体の奥底から力がわいてくる気がした。里で形だけ打ち直してもらった楼観剣と白楼剣も、この屋敷の空気を吸って元の力を取り戻しているようだった。
門まではあと数段だった。妖夢はそれを少し惜しいと思った。一歩ずつ浄化されていく己の迷いが果たしてそこで完全に消えるのか、彼女は少しだけ案じた。思ったより大きかった白玉楼の門が、ゆっくり開く。それはちょうど妖夢が階段を上りきったのと同じタイミングだった。
妖夢はまず笑いかけた。深々と頭を下げた。そして頭を上げた。
「ただいま戻りました。幽々子様。」
妖夢は安堵した。門の向こうにいた西行寺幽々子は、最後に別れたときと全く同じ笑顔で、妖夢を見てくれていた。迷いは晴れた。
「おかえりなさい、妖夢。」
さらに十歩、妖夢は門をくぐる。そしてもう三歩、幽々子の前に立った。言葉はなかった。必要なかった。妖夢は手にしていた筒状の包みを幽々子に差し出す。
「これはお土産です。月で熟成された、最高のお酒です。」
「動くな!」
茂みから飛び出たのは、博麗霊夢と里の退魔師。彼らは門全てを囲う強力な結界を張り、見つめ合う二人を押さえ込みにかかる。
幽々子は抵抗しない。妖夢も主人を守らなかった。動きを封じた霊夢たちが二人の主従を捕縛する中、妖夢は為すべきことを忠実に守っていた。そして幽々子も妖夢のその姿勢を穏やかな視線で讃えていた。
酒瓶を割らないようにしてほしい、妖夢はそれだけを霊夢に告げた。縄をかけられながら、幽々子は妖夢へ、ゆっくりと深く頷きかけた。
「よろしい。」
これでようやく里と紅魔館にそれぞれ集結となります。
このパートは書いてる途中に膨らんでいった部分が多く、容量が無駄に増えすぎた一因です。
曹長様へ
二人のうち一人はいけなくもなさそうで迷ってます。一人はちょっと難しそうですが。
んh
- 作品情報
- 作品集:
- 24
- 投稿日時:
- 2011/03/05 17:12:02
- 更新日時:
- 2011/03/09 22:52:55
- 分類
- 里
- 地霊殿
- オリキャラ
- チルノ
- フラン
お山への奇襲は、黒衣に身を包み、AKをベトコン陣地に乱射したような気分。
後は、個々の心情の問題ですが…。
こればかりは、それぞれで何とかしてもらうしかないですね。
ご伝言賜りました。一読者としては、面白い作品を拝読できれば僥倖ですので、作者様にお任せいたします。
どこがどうなっててどこが優位なのかこの期に及んでも見通せず、しかし状況はすでに
決着に近づきつつある。残り二話……どう転ぶか楽しみです!!
ここから物語は佳境に入るでしょうが、自身に納得のいく結末が描けることただただ祈るばかりです