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『幻想郷讃歌 第七話』 作者: んh

幻想郷讃歌 第七話

作品集: 24 投稿日時: 2011/03/09 13:51:47 更新日時: 2011/03/17 00:23:14
 







――憤りに食を忘れ、楽しみに憂いを忘れる。 孔子が目指した生き方は、お前みたいな物だったのかもね。
                               「東方非想天則:比那名居天子」









「それでさ、やっぱりあれは異変だと思うのよ。」

酒場はそこまで騒がしくなかった。女性向けのしゃれた店というのもあるのかもしれない。堅苦しいバーでもないが、安っぽい飲み屋でもない。わびしくはないが、酒が不味くならない程度の喧騒と活気がある店だった。

「ってもねえ。隕石が地球を掠めただけでしょ。そんな珍しいことじゃないと思うけれど。」

マエリベリー・ハーンはグラスに残っていたワインを飲み干すと、軽く手を上げてお代わりを要求した。梅雨前の初夏の夜、生温い空気に自然と喉も渇く。

「メリーは分かってないなあ。あの晩は隕石だけじゃなかったのよ。各地の天文観測所で奇妙な天体運動が次々と報告されたの。うちの研究室今てんやわんやよ。私もあの時は星がしっちゃかめっちゃかに動くもんだから時間も位置もさっぱりだったんだから。」
「そりゃ蓮子は物理学が専門だからでしょ。普通の人はそんなの興味ないって。」

メリーに適当にあしらわれた宇佐見蓮子は仕切り直しとばかりに一切れだけ残っていたピザを口に押し込むと、カシスオレンジで流し込んだ。

「メリーは夢がないなあ。どんな些細な事象も見逃さないのが秘封倶楽部ってもんでしょ。」
「うちはオカルトサークルよ。天文部じゃないわ。」

蓮子は椅子にもたれかかって背伸びした。ここまで関心を持ってくれないかと、ちょっと悲しかった。宇宙論をあまりに熱っぽく語るとメリーが嫌がるのは知ってるが、今日のは共感を得られると思ってた。やっぱりこの間の誕生日パーティーで波動関数の話を延々したのがまずかったか。

「あれはね、何かのサインだと思うのよ。」

蓮子はばねのように背もたれから身を起こすと、メリーへ向かって顔を突き出した。長くなりそうな話に備えて、メリーはトマトのカプレーゼをつまんで栄養補給する。

「どこか別の世界からのサイン。おそらく何らかの助けを求めるサインなんじゃないかしら。」
「それって宇宙人? 月とか」
「うーん。それもあるかもしれないわね。なんでも月から地球へ向かう飛行物体を観測した、とかいう胡散臭いデータもあるし。」

蓮子はそこでもったいぶったようにカシスオレンジを口に含む。メリーは頬杖を付いて続きを待つ。きらきらと眼を輝かせてしゃべる蓮子は、見ている分には酒が進んだ。

「でも別の世界が外世界にだけ存在するとは限らないんですな。そ・こ・で、我らがメリーさんの結界の話とつながるわけですよ。」

蓮子は得意げに鼻を鳴らした。メリーはワイングラスの縁を指でなぞりながら、うーんと唸る。

「あれは夢の世界だからなあ。夢の中の人たちが救難信号で隕石落とすの?」
「地球内にだけ多元世界があって、宇宙は全ての世界で共通だと考えれば、辻褄が合うわ。」

ウェイターがメリーのワインと追加の料理を持ってきた。二人は空いた皿を隅に寄せてテーブルをきれいに整頓してから、話に戻る。

「また蓮子さんアレンジの多世界解釈論?」
「こないだメリーのくれた相対性精神学の論文、あれをヒントにして観測問題を最新の超統一物理学から再解釈すると、導けそうなのよ。潜在意識内で交差する可能世界という仮説が。これ論文にできたらアカデミズムにセンセーションを起こすこと間違いなしなんだけど。」
「はいはい。理論物理の将来をしょって立つ蓮子さんと食事ができて、私は幸せ者です。」

メリーは茶化すように何度も頷いてから新しいワインを口に含む。蓮子は照れたようにはにかんだ。グラスを傾けるメリーを見てると、知らず知らずに話が弾む。

「じゃあさ、最近のメリーはどうなのよ。あっちの世界はどんな感じなの?」
「うーん……それがさ、最近あんまり見ないのよね。」

チョリソーをかじる蓮子に、メリーは渋い顔を向けた。

「あとね、最近結界のほころびが多いのよ。多いっていうか、正確に言うといつまでもあるの。今までは結界の切れ目ってたいてい一日もすると塞がってたんだけどね。」
「ほら、やっぱり変じゃない。絶対何か起こってるのよ。メリーの夢の世界で。」
「とはいっても夢を見れなければ何が起こってるかわからないしなぁ。」

二人は同時にグラスへ口をつけた。少し空気が落ち着いたテーブルに、周りの席の喧騒が混じる。

「でもさ、さっきから蓮子が言ってる異変って何よ。私達の頭上に隕石降らせてまで助けを求めるほどの事件って。」

メリーはシーザーサラダの入ったボウルにフォークを突き刺した。どうも夏に向けて体重を気にしているらしく、最近は肉やご飯ものを食べないようにしているらしい。酒とケーキの量は同じだが。

「うーん例えば……戦争とか、ハイパーインフレとか、圧政に苦しむ民衆……」
「蓮子がロマンチストなのは物理学語るときだけなのね。」

頬杖に載ったメリーの顔は呆れていた。蓮子は小首を傾げて頭を掻く。

「普通さ、そういう多世界論はユートピアかディストピアとセットでしょ。なんでそんな現実感丸出しなのよ。嫌よそんな可能世界。」
「いやいやメリー君。それは多世界論に対する誤解だよ。」

蓮子は得意げにスプーンでメリーを指さした。メリーは手を差し出して「はいどうぞ、教授」と話を促す。

「例えばメリーの前にあるシーザーサラダ。体重が気になるメリーさんはチーズとベーコンをよけてレタスだけを食べることができる。でもドレッシングに入ってる油をよけて酢だけ食べようと思ってもそれは無理。」
「まあ私は太ってないけど他は同意ね。で、それが?」
「近年の物理学において、何かを要素に分解し、部分として扱うという要素還元主義には疑問が呈されてるのよ。つまりレタスだけをより分けて食べるみたいなことはできないってわけ。私達の世界はドレッシングなの。」
「ドレッシングだってがんばればお酢と油に分けられるでしょ。」
「それを突き詰めるとできなくなっちゃうんだなあ。で、超統一物理学では人間の心性においても、同様のことが確かめられている。」
「つまり?」
「つまり私達の悪い部分だけ取り除いて、或いはいい部分だけ取り出して、それだけで世界を再構築するなんて無理ってこと。それには人間の存在論的大転換を要するわ。良いところしかない人間の世界なんて存在しないし、悪いところしかない人間の世界もまた絶対に存在しない。そういうこと。」
「でもこの間蓮子は別の仮説を話してくれたじゃない。ほら、我々の世界から失われたものが住むとかいう世界。」
「ああ『反物質世界仮説』ね。この世界から失われたものから為る世界が存在するという考え方。」
「そうそれ。私たちの世界がこんなにしょうもないんだから、その幻想世界はもっとハッピーでしょ。」
「でもそれはあくまで仮説だからねえ。善悪や正邪といった『根本概念の分離不可能性原理』に反することはできないと思うよ。」
「えーとつまり?」
「せいぜい地上から消えた生き物が闊歩してたり天然のタケノコが生えてるぐらいじゃないかな。もっと根っこのところは私達とそんな変わんないってことよ。」
「夢がないなあ。」

メリーはため息とともにワインを飲み干した。まあ楽しそうにしゃべる蓮子がかわいかったからいいかと、彼女は次に注文する酒をどれにするか思案していた。





 ■ ■ ■





水橋パルスィは舌打ちした。

旧都からやってきた団体客は壮観だった。古明地さとりとそのペット、八雲紫とその式たち、そして綿月姉妹とお付きの者だ。どいつもこいつも余裕綽々といった感じで笑みを交わしている。そこになんら共感といったものは見えない空虚な笑みを。
そしてその中に、あいつはいなかった。パルスィは嫉妬でひんまがった能面をその一団に向ける。見た目だけは奴らと同じように余裕たっぷりにつくろいながら。

「あらあら。皆様どちらへ?」
「おやパルスィさん。いつもご苦労様です。この方達が地上にお帰りになるそうなので、私も少しばかり地上に行ってお見送りをしてきます。少しの間空けますのでよろしくお願いしますね。」

さとりは慇懃に挨拶した。豊姫と紫も恭しくパルスィに会釈する。力量、地位、立ち振る舞い、格――嫉妬の種が多すぎてパルスィは窒息しそうだった。

「……ああ、勇儀には私が来るなと言ったんです。彼女の方から拒んだのではありませんよ。まあ行っていいのか悩んではいましたが、ふふっ」

聞かれてもいない説明に、パルスィはさとりを睨んだ。相変わらず涼やかな面持ちのまま、さとりは哀れな橋姫の心をそっと蹂躙する。

「安心して。勇儀の想いは変わっていませんよ。鬼ですもの。貴方次第です。貴方が変わりさえすれば問題など何一つないのでは? せっかくですから頑張ってみてはどうでしょうか、ふふふっ」

発作的だった。パルスィはさとりに掴みかかった。だがそれは寸前で届かなかった。さとりの横にいた霊烏路空がパルスィを殴り飛ばす。パルスィの華奢な体は欄干にあたって地面に転がった。

「さとり様に触んなクズが。」
「これおくう。そんな口の利き方をするものではありません。」

血と泥にまみれたパルスィの上には、さとりや紫、豊姫や依姫の顔があった。絶対に手が届かない高みから、その顔は卑しい妖怪に慈悲を振りまいていた。パルスィは妬むことすら叶わなかった。

「さて、そろそろ参りましょうか。」
「はい。ではお燐、おくう。しっかり留守番頼みますよ。」

豊姫の満足そうな声にさとりは頷いた。自分に手を振るペット達へ、さとりはにこにこ微笑んだ。

「ほらあなた達、橙にも挨拶なさい。ずっと一緒に仲良く"遊んで"くれたんでしょう。ちゃんとお礼を言いなさいな。」

さとりの言葉に藍もはっとしたように橙を見る。

「ああそうだな。橙、地霊殿の方にお世話になったり遊んでもらったりしたんだろう。ちゃんと橙からも御礼を言いなさい。」
「あらそう、いっぱい"遊んで"もらったの。それはよかったわね。」

紫も満面の笑みで付け足す。そのやり取りに合点したように、お燐はいっぱいの笑顔を橙に向けた。

「あ、そうでした。橙、じゃ〜ね〜。また"遊ぼう"ね!」
「うん。私こそありがとう。また遊ぼうね!」





 ■ ■ ■





「よおし、じゃあ一気に引っ張るぞ。せーのっ!!」

忙しなく動く天狗や河童達を、洩矢諏訪子はぼんやりと眺めていた。視線の先にいる鼻高天狗は、柱を建てようと数人掛かりで声を張り上げながら綱を引いていた。その横には材木を運ぶ河童と山伏天狗、烏天狗は組んだ柱にまたがって、釘を打ち付けている。

「皆さんご苦労様です。お昼ごはんができましたから休憩にしましょう。」

東風谷早苗と河城にとりの声に、それまで作業に汗を流していた天狗と河童も歓声を上げる。大鍋の中味は豚汁だろうか。横には握り飯が山のように積まれている。

妖怪の山の中腹にある里では、復興作業が進められていた。里に住む多くの妖怪が焼け落ちた家屋の建て直しに奔走した。怪我人や家を失った被災者の世話から、炊き出しの手伝いまで、子供から老人まで進んで仕事を買って出た。
諏訪子はその様子を離れたところからずっと見ていた。なぜか恨みも、怒りも、そこには感じられない。降りかかった災難を祭りとして楽しんでいる――そんな風にさえ諏訪子には見えた。

「おう諏訪子、来てくれたか。」

握り飯片手に、八坂神奈子が諏訪子に近寄ってきた。神奈子は復興作業にあたって率先して動いた。被災者を守矢神社に住まわせるといったことから、材木の運搬や漆喰塗りまで、なんでも自分からやった。里で暮らす妖怪たちと一緒に、神奈子は一緒に汗を流していた。

「順調そうだね。」
「ああ。あいつらはよく働いてくれるよ。あんなことがあった後なのに、たいした奴らだな。」

握り飯を頬張りながら、神奈子は少し誇らしげだった。諏訪子は何も言わず、ただ小さく頷く。
きっとそれは、あんたが一番働いているからだろうさ――諏訪子は心の中でそう呟いた。口に出して言うのは、なぜか憚られた。

「八坂様、洩矢様。申し訳ありません。」

並びあう二柱に大天狗長が声を掛ける。彼もまた復興作業で寝る間もないのだろう。いかつい表情に似合わず、顔色はあまりよくなさそうだった。

「おお大天狗か、そちらもご苦労。」

神奈子は穏やかな表情で手を振る。大天狗長は重苦しい表情で会釈を返した。

「このようなことまでさせてしまい、本当に申し訳ありません。」
「気にするな。こんなことしかできずに申し訳ないと頭を下げねばならんのはこっちの方だ。」

神奈子は肩を叩いて大天狗長をねぎらう。諏訪子も半ば儀礼的に「そうだよ、気にするな」と続けた。

「ありがとうございます。……実は、犯人の目星がつきまして、報告に伺おうと思っていたところでして。」
「ほう。それはご苦労。」

神奈子は少し神妙な面持ちに戻って大天狗長に向き直る。

「どうやら里の者だった疑いが強まりました。こちらの確認不足だったのですが、月は武器を所持していたらしいのです。護身用だったらしいのですが。」
「つまり、里の人間がその武器を使って山を撃ったと?」
「はい、ただどうやら隙をついて武器を奪ったらしく、月の者も予想していなかったようでして。」

神奈子は「ふむ」と頷いた。それだけだった。それ以上の言葉がないことに、大天狗長が不思議そうに顔を上げる。神奈子もすまないと思ったのか、慌てて付け足した。

「ああよく分かった。調べご苦労。」
「それだけですか……? 里には何か……」
「ああそうだな……まあそれは後で考えよう。」

さっぱりとした口調だった。大天狗長も、そして諏訪子もぽかんと神奈子を見上げる。

「今の幻想郷では里への干渉はご法度だからな。里内部ではちゃんと処罰はするのだろう?」
「え、ええ……おそらくは。」
「ならよい。今優先すべきは里の再興だ。まずはそれに集中しよう。安心しろ、けじめはちゃんとつけさせる。」

そして振り返った。視線の先には炊き出しを食べ終えて作業に戻る天狗と河童の喧騒がある。

「大天狗、一つ謝らなければならないことがある。」

もう一度大天狗長に視線を戻した神奈子は、頭を下げた。突然のことに彼は、恐縮することさえ忘れてあっけに取られていた。

「先日お前に言ったな。今の山の妖怪達はてんでばらばらで、結束も誇りもないと、お前らをそう罵った。だがな、こうやって里の奴らと一緒に体を動かしてみてようやく私もわかった。被災した同胞の為に、みなが一丸となって動いている。あいつらだって火事で大変な思いをしたはずなのにだ。あれだったのだな。お前が言ったのは。そうなのだ、私はあの山頂の本殿からお前らを見下ろしていただけで、お前らの事をこの場所から見ていなかったのだ。神だのと偉そうなことを言っていただけで、ただ傲慢なだけに過ぎなかったんだ。本当にすまなかった。私は、お前ら信者のことを何も見ていなかったんだ。」

一言一言、間を置いて告げられた謝罪に、大天狗長はじっと耳を傾けていた。仕舞いの方にはうつむき、唇を固く結んでそれを聞いていた。神奈子が吐露した里の生活、神奈子が気付き讃えた里の妖怪達の生き様を、果たして自分は見ていたのか――大天狗長はただじっと聞き入ることしかできなかった。

「こちらこそ、申し訳ありませんでした……」
「お前が謝ることなんてないさ。大天狗。お前らも色々大変だろうが、よろしく頼むぞ。」

少し口元を緩めて、神奈子はまた彼の肩を叩く。後ろからは神奈子を呼ぶ天狗たちの声、彼女は振りむいて大声でそれに答える。

「じゃあ作業に戻るよ。何とか今日中にあの棟は組み上げんとな。」
「申し訳ありません。八坂様。」
「そう頭ばかり下げるな。ああ、後で裏手の方に行って材木を切りにいかねばならんから、若い白狼天狗を何人か貸してくれまいか?」

「はい」という大天狗長の言葉だけ確認して、首にかけたタオルで額を拭きながら神奈子は工事現場に戻っていった。

そのやり取りを、諏訪子はずっと横で聞いていた。聞くことぐらいしかできなかった。
諏訪子は理解できなかった。初めて会ったときから、神奈子のああいう振る舞いがどうしても理解できなかった。胸につかえたモヤモヤから逃げるように、彼女は大天狗長に声を投げる。

「あのね大天狗――」

神奈子の後に自分なんかが何を話せばいいのか、諏訪子は思いつかなかった。それでも自らを奮い立たせるように、彼女は祟り神洩矢諏訪子になる。

「この間の話なのだけど、里と地底を穢――」
「洩矢様。お願い申し上げたいことがあります。」

無理やり引き出した諏訪子の言葉はあっさり遮られた。諏訪子は大天狗長を見上げる。相変わらずしわの刻まれたその顔は、しかしなんだか丸くなったように見えた。

「どうか復興にお力を貸していただけませんでしょうか。」

諏訪子は口ごもる。頭を下げられた自分がなんだかひどく惨めに感じた。

「もちろん最初に洩矢様に立てた願は忘れておりません。必ずやこの山をかつてと同じ姿にする、その信念は変わりません。ただ、今は里の復興に専念したいのです。どうかお願いできませんでしょうか。」

諏訪子は押し黙っていた。すぐに「はい」と言えなかった。ただ神として信者の望むままに振舞えばいいのに、なぜか即答できなかった。

「……わかったわ。私を信じ、そう願うのなら、そうしましょう。」
「ありがとうございます、洩矢様。」

険しい顔を少しだけ緩ませて、大天狗長は諏訪子に蹲踞した。それは今までと同じ所作、確かな信仰の証なのに、諏訪子はちっとも嬉しくなかった。それどころか気持ち悪かった。早苗の作った豚汁の匂いがここまで漂ってくる。諏訪子はこみ上げる嘔吐感を必死にこらえていた。

「諏訪子様、お話中申し訳ありませんが、少しよろしいでしょうか?」

早苗の声だった。諏訪子は青白い顔を彼女の方へ向ける。額に浮いた珠のような汗がきらきらと輝いているのが見えた。

「向こうの区画なのですが、やぐらの柱が崩れた時に地面が掘り返されたらしく、地盤がかなり緩んでいるみたいなんです。あのまま家を建て直しても危ないんじゃないかという話になりまして、諏訪子様のお力で地均しをしていただけないでしょうか? 私にはまだ難しくて……」
「う、うん……いいよ」

大天狗長をちらりと見て、諏訪子はぎこちなく頷く。早苗の顔がたちまち明るくなった。

「ありがとうございます! では早速お願いします。」

返事と同時に早苗は諏訪子の腕を引っ張っていった。大天狗長は深々と諏訪子たちへ頭を下げていた。早苗が引っ張る先には大勢の信者が期待に満ちた様子で諏訪子を待っている。

「洩矢様が地均しをしてくださるらしいぞ。」
「ああありがとうございます、洩矢様!」
「助かります。さすが洩矢様だ。」

天狗と河童の謝辞を体一杯に浴び、彼らの信仰によってますます力を得ながら、諏訪子はその身が千々に裂かれそうになる感覚に精一杯耐えていた。





 ■ ■ ■





上白沢慧音は竹やぶをかき分けながら前へ進んでいた。
永遠亭とも別方向のその奥地は、慧音もほとんど訪れた経験がない場所だった。竹林とは思えない重苦しく蒸し暑い空気は、慧音にずしりと圧し掛かってくるようだった。

「待ってろ妹紅、今迎えに行くぞ。」

藤原妹紅は竹林に戻っているのではないかという噂は、数名の退魔師を通して慧音の耳にも入ってきた。博麗の巫女が魔法の森近辺や地底への入り口まで捜索しに向かったそうだが、そこにも妹紅がいた形跡が見られなかったことがその噂の信憑性を高めていた。
慧音はここのところ時間があれば竹林に足を向けていた。もちろんここは妖怪の住処であり、人である慧音が足を踏み入れることはその命を危険にさらすことを意味する。慧音もそんなことは百も承知であったが、竹林通いは止まらなかった。慧音は同胞を見捨てるような薄情者ではない。

前進を続けていた足がぴたりと止まる。竹の葉がざわめく音、何かの気配。慧音は月からもらった銃を構える。

「ひひひ、誰かと思えば人間様じゃあないかい。わちきはただの化け物だよ。見逃しておくれ。」

声は上からだった。そこにいたのは黒のワンピースを纏った小柄な少女。だが奇妙な形をした赤と青の非対称の翼は、彼女が妖怪であることを如実に示していた。

「消えろ化け物が。」
「ひひひ。ひどい言われようだ。でもあんた新聞読んでるかい? 人間様は化け物の住処に入っちゃいけないんだよ。ねえ、知ってるかしら? 食べられちゃうんだよ。それとも誰かにお礼でも言いに来たのかな、ひひひ」
「ぬかせ。化け物ごとき消すのは造作もない。これ以上邪魔立てするなら貴様も容赦せんぞ。」
「ひえー恐ろしい。その銃で撃たれて雲山霧消しちまうのだけは勘弁願いたいねぇ。……あ、雲散霧消か。こりゃ失敬。まーた姐さんに殴られちゃう。」

その妖怪は舌をちろりと出した。慧音とは対照的に彼女はおどけているだけのようだった。

「貴様……ふざけているのか」

慧音の殺気に彼女は手を揉んでへつらう。

「あやややや〜そんなこたぁございやせん。あっしは素晴らしい人間様に恐れをなしているのです。人間様ほど真理を突いたものもありますまいで。そんな人間様に比べれば、あたしら妖怪なんてクズでさぁ。そんなクズ共の血であなた様のお召し物を汚しちゃ申し訳が立ちませんで、もう帰ります。ひひひ」
「ふん。随分へつらうのだな。恥ずかしくないのか。」
「私たちは妖怪さ。だからでしょう。ああ人間様の後光を見ると、あんまりに眩しくてこちとら鳥目になっちまいそうです。全くあたしらみたいな生き物、なんつっていいんだかわかんねぇですね、こんなみっともない生き物。これさっきも言ったな。ああ、できるもんなら人間様からその優れたお智慧をいただいて、一生それにすがって地べた這いつくばりながら生きてみたいもんですよ。できやしないでしょうがね、ひひひ」

銃口はなおもその正体不明の妖怪へ向けられたままだったが、慧音の殺気は明らかに薄まっていた。目の前でへこへこ頭を下げながら命乞いする妖怪は、彼女に嫌悪感と優越感を同時にもたらした。

「失せろ、見苦しい。」
「あややー、寛大でいらっしゃる。たとえ体半分吹っ飛ばされてもこのご恩は忘れないようにしたいもんです。そうだ、見逃してもらったお礼に一ついいことお教えしましょう。これ妖怪退治の基本。ひひひ」

やはりふざけているようにしか見えないその妖怪は、たちまち空へ舞い上がった。

「右向いて左向いてまっすぐです。そこにいますよ。じゃあ失敬。せいぜい長生きしておくんなまし、ひひひ」

慧音が銃口を上に向けたとき、既にそいつは忽然と姿を消していた。慧音はしばし辺りの気配をうかがっていたが、やがて音を立てぬように、再びそろりと前進を開始する。



しばらく藪の中を直進すると少し開けたところに出た。明らかに人の手が加えられたその場所には、竹を編んで作った粗末な掘っ立て小屋と、その家主がいた。

「も、妹紅……

藤原妹紅は懐かしい声に思わず振り返る。その顔には動揺もあったが、それ以上に申し訳なさが勝っていた。

「慧音、どうしてここが……」
「馬鹿野郎、探したんだぞ。帰ってこなくて、心配したんだ、馬鹿……」

慧音は妹紅に駆け寄り、そして泣き出してしまった。思ってもみない反応に妹紅はどう言葉を掛けていいかと頭を掻く。こういう慧音を見るのは彼女にとって初めてのことであった。



「さ、妹紅。帰ろう」

ひとしきり泣き晴らした慧音はそう言って妹紅に手を差し出した。妹紅は視線を落とす。

「わたしなんか……戻る顔がないよ。」
「なに言ってるんだ。みんなお前のことを心配している。さ、早く行こう。こんなところおさらばだ。」
「私は……みんなを置いて逃げたんだよ。無理だよ。」
「そんなのたいしたことじゃない。一言謝ればすむ話だ。それに途中でいなくなったからって妹紅を責める奴なんかいないよ。そんなのたいしたことじゃないんだ。」

二度繰り返された言葉に、妹紅はピクンとはねた。

「たいしたことじゃ、ないのかな……」
「当然だよ。そんなこと気にするな。」
「それは、私が人間だから?」

ふっと、妹紅が霞んだ気がした。慧音は歪んだ空気を戻すように、明るく振舞おうとする。

「な、何を言ってるんだ? 妹紅、どうかし――」
「昔さ、あの薬を飲んですぐだったかな。」

妹紅は慧音を遮るように突然脈絡のない話を始めた。

「みんな私のことを『化け物』と言って蔑んだ。それがすごく悲しくて悔しくて、奴らみんなを呪ったよ。でもね、百年、二百年と住む所を転々としながら過ごすうちに気付いたんだ。そう、随分と昔のことだから忘れていたよ。一番嫌だったのは私のことを『化け物』と呼ぶその顔じゃなかった。それ自体は自覚していたもの。何より嫌だったのはね、私のことを『化け物』と言った奴が、その直後に仲間と顔を見合って、自分が『化け物』じゃなかったと安堵する、あの顔だったんだ。」

妹紅はずっとうつむいていた。慧音はおろおろとうろたえていた。妹紅がどんどん遠ざかっていくような気がして、彼女は慌てて手を伸ばす。

「ごめん、慧音。」

その手は宙を泳いだ。妹紅はふわりと舞い上がると、慧音に背を向ける。

「用事があるんだ。大事な用事が。だから、慧音と一緒に里には戻れない。ごめんね、本当にごめん。」





 ■ ■ ■





チルノが紅魔館に辿り着いたのは、夕刻のころだった。
初夏の麗らかな斜陽をいっぱいに浴びて、あたりに無造作に転がった館の残骸はその紅をほんの少し橙に染めていた。かつてチルノもよく遊んだ庭園はむき出しの土に覆われ、花も芝生も何一つ残っていない。以前門が立っていたところはいくつかのひしゃげた鉄パイプが地面に刺さっているだけで、紅くそびえていた壁も、愛想のいい門番の出迎えもなかった。

「チルノちゃん!」

慌てて後を追ってきた大妖精の声は、チルノには届いていないようだった。ふらふらと力なくガレキの門をくぐるチルノは、そこに先客を見つけた。

「何やってたんだよバカ野郎……」

ルナチャイルドがようやく絞り出した声は、おそらくチルノだけに向けられたものではなかったのだろう。横にいたサニーミルクはただ呆然と茜空を見上げるだけだった。プリズムリバー三姉妹はチルノへ頷きかけるように小さく会釈する。それに挨拶以上の意味がこめられていたことは、魂が抜けたようなチルノにもなんとなくわかった。
小ぶりなガレキに腰掛けて肩をわななかせていたのは秋穣子だった。この光景は、横にたたずむ風見幽香から受けた説明に絶望的なまでの説得力をもたらしたのだろう。比那名居天子はそんな穣子を慰めようとしていたが、どうしたらいいかわからずただおろおろするだけだった。
思わず膝が折れそうになるチルノを、後ろにいた大妖精が支えた。準備の間ずっと明るく会話を交わしていたのが嘘のように、皆視線をばらばらな方に向けて、誰も言葉を発しようとしなかった。

「あの、すみません」

長い沈黙の後、消え入りそうな声がガレキの山にこだました。スターサファイアだった。

「中から人の気配がするんです。二人ほど。」




サニーとルナの能力で煙幕を張りながら、一団はスターが指差す方へ向かう。煙幕は幽香の発案である。気配の主が何者か分からぬ以上、警戒はするべきだという意見だった。
ガレキが積みあがった廃墟の中心――おそらくそこにはかつて真っ赤な館がそびえていたのだろう――その中に潜り込むようにして進む。大小様々なガレキが積み上がることで、内部には複雑に入り組んだ空洞が形成されているようだった。

「あっちです。あの突き当たり。」

ガレキでできた急な階段を下り、さらに進んだ先には確かにうっすら光があった。文字通り音もなく、チルノたちはそろりとそろりと光の方へ歩を進める。ほの暗い光の中には人影が動いていた。そのシルエットにピンとくる者はチルノたちの中にはいなかった。しかしそうであってもその傷だらけの影に危険がないことは一目瞭然だった。
サニーとルナは能力を解く。すぐ近くで突然気配を感じた小悪魔は、恐怖に引きつった顔をして、チルノたちの方に振り向いた。

「だ、誰ですか? 私たちに止めを……」
「落ち着いて。そうじゃない。」

錯乱する小悪魔へ、ルナサはあやすようにゆったり声を掛けた。小悪魔の顔にはまだ不信と憎悪があったが、やってきた集団に人間がいないことを理解すると、力が抜けたように小さなガレキの上にへたれこんだ。

「小悪魔。客か?」

か細い声がした。視線が声の方へ集中する。それはそこにいるもの全てに聞き覚えのある声だった。

「魔理沙さん、目が覚めたんですか?」

チルノたちを放って小悪魔が一目散にくぐっていったのは人一人がようやく通れるような隙間だった。だがその先は意外とひらけているようで、部屋一つ分はありそうな空間があった。床に散らばった書籍の残骸は、そこがかつて図書館であったことを暗示していた。部屋の隅にはありあわせの残骸で作ったベッドが据えられている。霧雨魔理沙はそこにいた。

「魔理沙!」
「魔理沙さんだ!」

三月精がベッドに飛びついた。他の者達も次々と部屋に入る。しかし魔理沙は体を起こすことなく、彼女達に弱々しい視線だけを送る。一瞬明るくなった三月精の顔はたちまち曇った。

「なんだ。随分と、賑やかな面子だな。どうした」
「宴会をしようと思って来たのよ。」

声を掛けたのはメルランだった。それを聞いて魔理沙は微笑む。苦しそうな笑顔だった。

「ははっゴホォッグフォ」
「魔理沙さん無理しないで!」

小悪魔は慌ててベッドの横にあった魔導書を開き詠唱する。ほのかな光に包まれて、魔理沙の呼吸は多少落ち着きを取り戻したようだ。だが、それはチルノたちに現実を突きつける光景だった。これ以上ないほどはっきりと。

「よく、無事だったね。」

ルナサの声に魔理沙は小さく顎をしゃくりあげ頭上を指した。魔理沙が横たわるベッドの上には人形の破片が転がっている。

「アリスさんが、最期に人形で庇ってくれたんです……パチュリー様は私達を泡で包んで……なんで、どうして自分にかけなかったの……」

そこで小悪魔が崩れ落ちた。ルナサと天子が抱き起こそうとする。部屋の隅にあった小さな机には、パチュリーのリボンとアリスのチョーカーが寂しく並べられていた。彼女達は約束を守ったのだ。二人きりの図書館で交わした、あの約束を。

「霊夢の言うとおりだよ」

魔理沙がポツリと呟いた。薄暗い部屋にゆらゆらと、自嘲が舞う。

「結局何もできなかったんだ。星も墜とせず、魔力の使いすぎで自滅してこのザマだ。なのにあいつらに守られて、私だけがおめおめとここにいる。霊夢の言うとおりだ。結局私はみんなに助けてもらってるだけで、何にもできやしないんだ。」

静まり返った部屋に、すすり泣く声だけが響く。揺らめくろうそくは、今にも消えてしまいそうだった。

「あたい、バカじゃん……」

ポツンと声が漏れた。チルノはうつむいたまま、唇を震わせていた。

「魔理沙がこんなになってるのに、宴会とかいって騒いで、あたいバカみたいじゃん……こんなときに宴会とか、あたいただのバカじゃん……」

鼻をすすりながら、肩をしゃくりあげながら、チルノはそれでも呻き続ける。

「ごめん……あたいほんとバカだ。宴会なんか――」
「ふざけんなバカチルノ!!」

チルノの胸倉をサニーが掴んだ。掴んだ方の眼も真っ赤だった。

「ふざけんなよ……一緒に準備してきたあたしらも、天子や穣子さんも、知ってるのに来てくれたちんどん屋や幽香さんも、みんなバカだって言うのかよ!」
「だって、こんなの……宴会なんかできるわけ――」
「お前最強の幹事なんだろ、何とかしろよ! 何とかして、みせろよ……」

ルナとスターに引き剥がされたサニーも、大妖精に引き剥がされたチルノも泣き崩れた。続く声はない。再び無音に沈もうとする部屋を、音が包んだ。優しい夜想曲だった。


「音が、出るよ。よかった、音はちゃんとあったんだ。」

リリカだった。穏やかに、幻想となった旋律が響く。

「やろうよ。私はやりたい。ここでライブをしたい。」
「私もやりたいな。」

皆が驚いたように魔理沙を見た。

「チルノとな、香霖堂で約束したんだ。今度宴会やるって。でも私はそれを守らなかった。忘れていたよ。でもこいつはちゃんと覚えていて、その約束を守ろうとしてるんだ。だからさ、やろうぜ。」
「魔理沙、さん……」
「そうだな、私の快気祝いとかどうだ? 明日やるんなら準備できるだろ? それまでにピンピンになってやっからよ。どうだ最強の幹事様?」

首すら回せぬ魔理沙は、崩れそうな天井に視線を泳がせながら、それでも人を食ったような口調に戻っていた。

「やろう。やれるわ。」
「そうね。素敵だと思う。」

ルナとメルランが続いた。天子も頷く。ルナサはちょっと困ったようにはにかんでから、小悪魔に目配せする。小悪魔は魔理沙の方をちらと見た。魔理沙は眼で頷いてくれた。小悪魔は涙を拭く。
天子は穣子の肩をそっと撫でた。それまでずっと泣いていた穣子を、皆の視線が包んだ。

「お願い、貴方にお酒を造ってほしい。私達じゃできない。貴方がいなければお酒はできなかった。だから、お姉さんに届くくらい、思いっきりやりましょう。」

穣子は神様だった。そこにいる全ての者が、天子と同じく自分のことを信じていた。自分と、ここにいない姉のために祭りをしたいと言ってくれた。思い切り騒いで、姉を讃えてくれると言ってくれた。

「……うん」

穣子は唇をぐっと結んで、大きく頷いた。

へたれ込んだままのチルノの手を、スターがとった。

「ほら、幹事さんなんでしょ。しっかりしなさいよ。」

スターの助けを借りてチルノは立った。今度はチルノがサニーの手を引いて、「ありがと」と告げた。サニーはまだ泣いていたが、気恥ずかしそうに頷く。
チルノの横にいた大妖精は涙でぬらした頬をほころばせる。本当に始まるのだ。チルノのとっぴな思い付きが本当に実現するのだ。

リリカものってきた。シンプルな旋律が幾重にも転調しながら折り重なる。泣きながら、笑いながら、みんな顔を見合ってもう一度頷きあった。


「あ、ちょっと待てよ……」

突然上がったすっとんきょうな声に皆が振り向く。それは穣子だった。

「明日、やるんだよね?」

そして顔がぎこちなく歪む。天子は不安そうに穣子へ声を掛けた。

「何、なんかまずい?」
「いや、どぶろく、お酒造るのって一日じゃできないんだけど……」
「え、お酒ってもう仕込んであるんじゃないの?」

たまらず聞き返すメルランに、天子と穣子の顔が引きつった。魔理沙は思わず吹き出す。

「はははっ、なんだそりゃ……」
「もしかしたらまだ地下にワインがあるかもしれません。探してきます。」
「ダメよ」

小悪魔を制したのは、今までずっと部屋の隅で彼女達を見つめていた幽香だった。

「それじゃダメ。この子達が造ったお酒でなければ、意味がない。」
「と言っても……」

幽香がなぜそんなことを言ったのか、差はあれどみな理解はできた。だからそれ以上誰も反論しなかった。

今部屋を包んでいるのは黙考。
妙案をひねり出そうとする妖怪、妖精、騒霊、天人、神様、魔法使いに囲まれて、小悪魔は大事なことを思い出した。
運命に導かれるようにポケットへ手を突っ込む。それはまだあった。メイド長からもらった、あのカード。


――ワインの熟成を早めたり、相手の攻撃を一瞬止めたりぐらいはできますわ。


「大丈夫です。お酒、できます。」






 ■ ■ ■






博麗霊夢は顔を背けた。

「紫、ああ紫……」

霊夢の横にいた西行寺幽々子は向かいに立つ八雲紫へ声にならぬ声を掛ける。幽々子と同じく拘束された状態の紫は引きつった表情を返した。古明地さとりは横でくすくす笑っている。その場違いな笑みに、幽々子はさとりを睨みつける。

「貴方がさとりね。紫に――」
「大丈夫です。手荒なことはしていません。ご安心ください。しかし――」

さとりは紫にそっと耳打ちする。

「随分と歪んでおられるのですね。貴方の御友人は。」

紫はやはり無言のままさとりを睨む。「おやまあ」と首をすくめて、彼女は綿月豊姫に場を譲る。

「ただいま戻りました霧雨様。」
「お疲れ様でした、綿月様。」

霧雨翁は向かい合う豊姫たちに敬礼する。

「貴方が古明地様でしょうか。」
「はい、地霊殿の任されております、古明地さとりと申します。貴方が霧雨様ですね。本日は素晴らしいお誘いありがとうございます。」
「いえ。こちらからお呼び立てして申し訳ありませんでした。本日はよろしくお願いします。」

「お気になさらず」と、さとりは柔和に微笑んだ。そして「つまらないものですが」と言いながら手にあった包みを霧雨翁に渡した。それは鬼が仕込んだ極上の酒らしい。だらだらと続くさとりの社交辞令を見ても、霊夢にはなんの感慨も沸かなかった。ただただ、その横にいる紫から逃げたかった。
双方の自己紹介がひと段落するのを待って、今度は豊姫が問いただす。

「山には気付かれていませんね?」
「はい。上白沢殿と博麗の巫女に頼んで幻術を張りました。しばらくは気付かれません。」

霧雨翁の隣にいた上白沢慧音が力強く頷く。豊姫は「そうですか」と小さく微笑んだ。
綿月依姫は無機質な表情を崩すことなく、紫と八雲藍を縛った縄を荒っぽく引いた。食い込んだ縄に呻きを漏らす紫に、幽々子は悲痛な声を嗄らした。霊夢は再び顔を背ける。

「では、西行寺幽々子をこちらに引き渡していただけますか。」

豊姫の声に、霊夢は無言で歩を進め、幽々子を突き出す。そのまま紫の前に放り投げられるように依姫の手に収まった。久しぶりの再会を偲ぶように、二人は頬だけを寄せあう。彼女たちに言葉は必要ない。

「ご協力有難うございました。では、さっそく調印式に入りましょうか。」

豊姫はにっこりと笑ってさとりと人間達に腰掛けるよう促した。霧雨翁は緊張をほぐすように一つ息を吐く。豊姫は胸元から巻物を取り出し、座の中心に広げた。

「古明地様、霧雨様。まず内容を検めくださいませ。」

霧雨翁はその契約書に眼を通す。事前に話をつけていた内容と寸分たがわぬものだった。彼は小さく、しっかりと頷いて同意する。さとりも頷いた。

「では」

促されるまま、まずさとりが契約書に拇印を押した。続けて霧雨翁に捺印を促す。汗ばむ手を拭いて、彼は親指を朱肉に押し付けた。
慧音も拳をぐっと握る。霊夢だけが別の世界にいるようだった。


「ところで霧雨様」

親指を書面へ運ぼうとした丁度その時、声を掛けられた。さとりだった。

「今日はマリコさんの月命日ですよね? よいのですか、こんなことをしていて。」

霧雨翁はギロリとさとりを睨み上げた。顔には浮かんでいない感情は、狼狽というより憤怒に近かったのかもしれない。

「なんのことですかな?」
「貴方が孕ませた妾ですよ。産んだ娘の名前は――」
「関係ありませんな」

彼はさとりの言葉をそこで強引に切った。いまだ顔に動揺が表れないことに、さとりは感嘆した様子を見せる。

「どういうおつもりですかな。このような場で児戯とは感心しませんが。」
「私は同盟相手が信頼に足る存在なのか不安なだけです。ふふっ」
「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ。」

慧音は苛立たしげにさとりに突っかかった。さとりは少しびっくりしたようにつくろって、慧音をぬるりと覗き込む。

「妹紅さんは、今頃誰と何をしているんでしょうね?」

今度は大きく表情に出た。霊夢が機械的にさとりへ迫る。依姫が双方に切っ先を向けた。

「皆様落ち着いてください。冷静になって聞いてくださいな。里とお山が密通していると、私の第三の眼がそんな声を捉えたのです。そちらの霧雨様からね。」

幽々子は「やっぱりそうなのね!」と叫んだ。霧雨翁の表情は変わらない。霊夢はたじろぎ、慧音は暗い笑みを浮かべる。

「あの枢密院においても、上白沢様と天狗が口裏を合わせてあんな掟を通した。そもそも八雲様を姦計にかけたのも霧雨様と天狗――」
「嘘をつけ!!」

叫んだのは霊夢だった。その声も明らかに動揺していた。それを事実と認めるわけにはいかない。そんなことはあってはならない。それは終わった話なのだ。

「龍神様が判断したことなのよ。そんなことあるわけが――」
「それが残念なことに龍神様の遣いを誑かして我々を陥れていたようなのですよ。」
「ははっ……はーっはっはっはっは!」

わなわなと震える霊夢の横で、慧音は勝ち誇ったような笑い声を上げた。

「証拠はあるのか? 貴様が読んだという心の声とやら以外の客観的な証拠が。貴様が嘘をついていないと、誰もが納得できる証拠があるのか?」

最高の笑みだった。顔が真っ二つに裂けたかのような、満面の笑みだった。さとりは目を伏せる。それは正に勝利の瞬間だった。

「綿月様、こいつこそ信用なりません。このような土壇場で根も葉もないことをのたまうこんな妖怪こそ。やはり地底は切り捨てましょう。」
「うーん困りましたわねぇ。私どもとしてもこのような契約を結ぶ上で山との密通など到底看過できない行為ですが、客観的な証拠もなしに突然言われては。」
「地底には核融合炉施設がありますが、その施設は山の神社との共同経営であると聞いております。地底の民こそ山との密通があるのでは。」

打ち合わせ通りにとぼける豊姫へ、霧雨翁は静かに告げた。表情にこそ出ていないが、やはり自信に満ちた口調だった。彼も間違いなく、勝利を確信していた――



カチッ


――まあそれならいい。商いはどうだ? こちらも交渉材料として河童共に色よい返事がしたい。早いところ山と里の流しの方策をまとめておこうと思うのだが。
――おかげさまで河童が作る武器類はよく売れているよ。里の自衛心を煽っているからな。山との独占関係が復活すると聞いてうちの商い衆も鼻息荒い。妖怪が里に介入してくるようになってからは自由化自由化と突き上げばかりくらっていたからな。これでようやく効率的な商いができるというものだ。

それは大天狗長と、霧雨翁の声だった。


キュルキュル カチ


――お前、月と交渉する気か?
――里全体としては、そういう意見が多いのは事実だ。だからこそこうして頼んでいるんだ。地底とコネを持つのはあなた方を置いて他にいない。こちらからも条件ははずむ。流しのレート、そちらの値をのもう。


キュルキュルキュル カチ


やはり大天狗長と、霧雨翁。香霖堂での会話だった。


キュルキュル カチ


――まず最初に嘘をついてしまったことをお詫びしなくてはならない。月は武器を持っていた。
――なぜ言わなかった。
――護身用としか知らされていなかった。こちらとしてもあれほどの威力があるとは想像すらしていなかった。

山への襲撃騒ぎ直後の会談だった。


キュルキュルキュル カチ


――ふむ、あの時の八雲の愕然とした表情、あれは傑作だった。ぬしにも見せてやりたかったものだ。
――まさかあやつも龍神様に手を噛まれるとは思いもせんかっただろう。


カチ



霧雨翁の顔は真っ青だった。何が起こったのか全く理解できなかった。

「もういいですよ。こいし。」
「はーい」

霧雨翁の真後ろから、小さな人影が現れた。人懐っこい笑みを浮かべて、姉であるさとりの横に座る。依姫は刀を収めた。もはや霊夢にも慧音にも、抗う意志は見られなかった。

「い、つから……」
「えー ひどいなあおじさん」

古明地こいしはちょっと心外そうに唇を尖らす。首からかけられたテープレコーダーをゆらゆら揺らして、彼女は場違いなほど楽しそうだった。

「ずっとずっと隣にいたじゃない? おじさんが魔理沙の家の前に来たときも、そこの巫女と魔理沙の話になりそうになったときも、巫女に魔理沙とは縁を切ったから気にするなーって言い切ったときも、道具屋さんに魔理沙への献花を提案されて断ったときも、そんなこと言ったくせに自分で花束を作ってみたけど恥ずかしくてゴミ箱に捨てたときも、その花束を道具屋さんから見せられてびっくりしてたときも、ずっとずっとおじさんの隣にいて、おじさんが情になびかないようにって無意識から支えてあげてたじゃない。」

霧雨翁の手は震えていた。彼ははじめて知ったのかもしれない。妖怪の恐ろしさを。

「これね、魔理沙からもらったんだ。音を閉じ込める機械。あの道具屋さんで壊れてたやつを魔理沙が見つけて、河童に直してもらったんだって。とっても面白いでしょ? あとね、あの花束を道具屋さんに持っていったのも私だよ。せっかく一生懸命作ったのに捨てちゃもったいないもんね。」

「貴方は、愛娘に負けたのですよ。本当によくできた娘さんでしたね。」


呆然とする霧雨翁をさとりは無慈悲に慰撫する。それは閉幕の言葉だった。霊夢は愕然とその場に膝をついた。

「嘘だっ! そんな音声、貴様らが勝手に捏造したんだっ……そうに違いない。私はだまされんぞ、このうそつきが!」

慧音の遠吠えに、誰も反応しなかった。依姫は紫と藍、幽々子の縄を解く。

「さて八雲。私たちの役目はこれで終わりということでよろしいですか?」
「はい。今までご協力くださりありがとうございました。綿月様。」
「私からも無理なお呼び立てをしてしまい、申し訳ありませんでした。」

紫に続いて幽々子も豊姫たちに謝辞を述べる。

「別に礼などいりません。こちらへ堕りることは月夜見様にも了解を取ってあることです。」
「事前の約束さえ守っていただければ、我々としてはそれでよいのです。」
「わかっております。必ず。」
「貴様らも、グルだったのか! 私たち人間をだましたのか!」

慧音の喚き声に、豊姫はめんどくさそうに眉をひそめた。それは彼女がはじめて明確に示した、嫌悪感だった。

「残念ですが、あの話はなかったということにしましょう。数日ですがこの里に留まり、我々もあらためて得心いたしました。あなた方人間はあまりに愚かで、智慧浅く、身勝手で、欲深く、穢れきっている。およそ月が対等に付き合うに足る存在ではありません。あなた方は今までどおり、妖怪の庇護の下、身の丈にあったつつましい生を全うすべきかと存じます。」


襖が開いた。八意永琳とレイセンだった。

「終わった?」
「ええ、首尾よく。」
「それはよかったわね八雲さん。一応緊急の報告だそうでお伝えしに参りました。山を襲撃した真犯人が見つかったとのことで。」

あまり反応はなかった。それでも永琳は伝える。おそらく慧音だけに。

「半妖が住む区画から行方不明となっていた銃が発見されました。今里の住民総出で半妖を狩り出していますわ。」
「依姫様。彼らは例の銃を半妖狩りに持ち出したそうなのですが、如何なされますか。」
「奪還してきなさい。あのような者共には過ぎた道具でした。今後のことも考えて一つ残らず。抵抗するのなら手段は問いません。よろしいですか、地上の妖怪?」
「ええ、そうして頂けると助かります。きちがいに刃物と申しますし。」

紫の返事を待たずレイセンは駆け出していった。完全に停止していた慧音は、先ほどより一層大きな声で突然喚いた。

「そんなバカなことがあるものか! 半妖が……嘘だ!!」

慧音はレイセンを追うように部屋を飛び出していった。誰も気にするそぶりすら見せなかった。もうすでに、いや最初から彼女はどうでもいい存在だった。


「さてお二方。何か申し開きがあれば伺いますが。」

先ほどまで豊姫が座っていたところに紫が腰掛ける。霊夢は白昼夢から目覚めたように、紫の顔をまじまじと見た。


「ごめんなさい……」

長い沈黙を置いて、霊夢はそう声を絞り出した。崩れ落ちるように、彼女は頭を下げた。それがどれほどの意味を持つのかなんてわからない、ただ謝りたい、謝らなければならない、それだけだった。

「ごめんなさい。私は紫を……本当にごめんなさい、信じられなかった、あの時紫の言葉を信じてれば、ごめん、なんで私、なんで信じられなかったんだろう……あんなに紫のこと好きだったのに、大好きだった、今でも大好きなのに、なんで、なんでっ……」

えずきだした霊夢の頭を紫はそっと撫でた。

「霊夢がだまされてずっと苦しい思いをしていたのはわかってる。大丈夫、私は貴方に言ったことを忘れてないから。」
「ゆか……ごめっ、本当にごめんなさぃぃ……」

紫はすっと、霧雨翁に顔を向ける。さすがだと、思わず感心した。

「あの掟は、廃止しましょう。里での妖怪の商いを完全に自由化します。里の商工組合は全て解散し、露店以外の営業形態も可能となるよう制度を一新します。」

霊夢も思わず顔を上げた。この男は狂ったのではないかと思った。彼の表情はすっかり元に戻っていた。

「以前の会合で問題となった共有地は、完全にそちらへ譲渡します。皆様への年貢は四割増で如何でしょう。」
「五割ね。畜産を重点的に。」
「今年度は四割五分でご容赦願えませんでしょうか。来年度以降は五割にします。」
「まあいいでしょう。あと、こちらで在庫がだぶついている外界の品なんだけれど。」
「はい。そちらの流通も完全に自由化しましょう。霧雨商店が八雲様と独占交渉するという形であれば、無益な価格競争に巻き込まれることもないかと存じますが。」
「こんな状況でも賢しいことね。」
「あんたっ!」

霧雨翁に殴りかかろうとする霊夢を、今度は紫がスキマで捕縛した。もがく霊夢を愛でるようにあえて放置したまま、紫は霧雨翁に訊いた。

「そうだ。もう一つ大事なことがあったわ。次代の博麗の巫女をいただけます?」
「ふむ、巫女の受け皿ですか……」
「紫、あんた何言ってるの!?」

こちらも霊夢の絶叫など気にも留めず、霧雨翁は頷いた。

「ああ、一人うってつけの者がおります。巫女の受け皿にするには少々年を食っておりますが、実力は折り紙つきです。しかも精神を病んでおりますので、人格も再構成しやすいかと。」
「それならいいわ。緊急事態ですから、あまり高望みはできませんものね。」

有意義な取引は終わった。スキマから伸びる手に体中を押さえ込まれ、口すらふさがれた霊夢へ、紫は唇が触れ合いそうになるほど顔を寄せる。

「そう、貴方に一つだけ失望したことがあるの。あの枢密院、どうして貴方は臨時委員を引き受けたの? あれでシナリオが全部台無しになりかけたのよ。」
「……貴方に一目会いたかったから、だそうですよ。ふふっ、いじましいですね。」

さとりの暴露に紫はあきれたようにため息をついた。

「最初想定していた委員は六人。あの吸血鬼の性格上3対3の同数決着になることは確実だった。なのに稗田の浅知恵にのって急遽貴方が入ったせいで委員が七人になった。焦ったわ。貴方がちゃんと白沢の指示通りに動けば一応問題なかったけれど、土壇場で私に無罪票を入れる危険性は十分にあった。そうなったら予定が狂ってしまう。私たちだけじゃない。山も里も、みんなのシナリオがあれで狂いかけたの。」
「そう。しかも紫は既に捕縛されて対応策を練ることもできない。私も焦ったわ。どう理屈をつけて貴方に臨時委員入りを思い留まらせるか、それだけを考えていた。その時古明地さんが機転を利かせてくれたの。」
「ええ、事情を伺いましてね。ああいう形で出席できないかと天狗を通して打診したのです。音声だけでもいい、私が出席すればまた八に戻るとね。向こうも不測の事態に慌てていましたから問題なくのってくれましたよ。」

幽々子はさとりに小さく微笑みかける。さとりも微笑み返した。

「さとりが適当に話をあわせて同数に持っていってくれたのよ。貴方の票と全部逆になるように、最終的に予定通り同数に落ち着くようにね。」
「でもまさか無効票とは。あれにはびっくりしましたよ。茶番とはいえどう小理屈をつけようか悩みました。」

今度は紫とさとりが目配せする。霊夢は体を振り乱した。でも動かなかった。力が抜けたようだった。

「色惚けして勘が鈍ったといっても、誰も望んでいないようなことをしでかされては困るわ〜 ねえ紫。」
「そうね。まあ潮時だったということなんでしょう。でも安心して。貴方はもう博麗でも霊夢でもない。何にも縛られないただの女の子。約束したでしょう? 貴方がもっと自由に生きられるようにする、私たちがもっと幸せでいられるようにするって。これからはずっと私と一緒。飽きるまで愛してあげる。」
「ゅ――」

返事を待つことなく、その少女はスキマに飲み込まれていった。やはり室内の反応はなかった。彼女も今やどうでもいい存在であった。紫は穏やかな表情を湛えたまま、先いた席に戻る。

「では霧雨様。里長として伺いますが、里の人間は山の天狗に脅されて今回の片棒を担がされたということでよろしいのですね。」
「はい、その通りです。八雲様。」

紫はゆっくりと頷き、再びあの契約書を広げる。そして豊姫が捺印するはずだったところに印をした。そしてその書状を霧雨翁にさし返して、こう告げた。

「ではこちらに印を。これから我々地上の妖怪、地底の妖怪、そして幻想郷の人間が一致団結して、山の妖怪と守矢を叩きたいと思います。協力願えますか?」

霧雨翁は躊躇なく親指を書面に押し付けた。紫は満足げに微笑む。

「では例の掟に従い、幻想郷の裏切り者共を協同して殲滅することといたしましょうか。さとり、地底の鬼達は?」
「すぐに上がれるよう勇儀達には事前に伝えてあります。うちのペットも討伐隊に加えましょう。」
「ありがとうございます。藍はいけるかしら?」
「はい紫様。」

藍は険しい表情で即答した。それ以上彼女が物申せる雰囲気が、この部屋には一切なかった。

「じゃあうちは妖夢を出しましょう。」
「里からは私が出るわ。一人おまけもつけて。」

永琳の言葉に幽々子は驚いたそぶりを見せる。

「あら、貴方が行くの? 私は一旦白玉楼へ帰るわよ。死者を迎える準備をしないと。」
「そちらへは姫を行かせるわ。約束のものはそこでお願い。」
「ああ。それならいいわ〜」

幽々子の言葉に依姫はようやく表情を崩した。豊姫はようやく永琳へ視線を向ける。それは幾霜ぶりという言葉が生易しく感じるほどの再会。


カチ

「これ、そなた名をなんと申す。」

豊姫はずいぶんと高飛車な口調で師に声を掛ける。

「はっ、永琳と申します。」

永琳は深々と頭を下げ、ずいぶんとかしこまった様子で答えた。

「ふむ……そなたはこの里で暮らしておるのか?」
「現在はそうであります。」
「であればこの里の庇護を受けておるのか。」
「仰るとおりです。こちらへ居を移す前は、ここからすぐの竹林で妖怪様の庇護の下、診療所を開いておりました。」

豊姫はふむと頷き、依姫と目配せした。

「となるとそちはこの大地の人間か。」
「その通りにございます。現在はこの郷の人間として、同郷の少女と共につつましく生活しております。」
「それはすまなんだ。そちによく似た女性と以前知己があってな。もしやと思ったのだ。」
「畏れ多いことです。口に出すのも憚られるほど高貴な月の方と、わたくしごときが知り合いであるはずがございません。」

永琳は額が廊下に付くほど、深々と土下座した。その所作に二人は満足したようだ。依姫が声を掛ける。

「もうよい。頭を上げなさい。我々の勘違いであった。」
「ははっ。ありがたきお言葉にございます。」

カチ


こいしはレコーダーの録音停止ボタンを押すと、豊姫の方に駆け寄ってそのレコーダーを手渡す。豊姫は大事そうにそれを受け取ると、紫の方を向いた。

「では八雲、我々の視察はこれにてすべて完了いたしました。それではごきげんよう。地上の皆様。」
「本当にありがとうございました。綿月様。」

豊姫と依姫はもう一度永琳に視線をやった。永琳もちらと二人を見上げる。感傷的な言葉などいらない。その視線だけで、想いはすべて伝わっていた。





 ■ ■ ■





フランドール・スカーレットは思い切って病室を抜け出した。目的地は一つ、あの鈴仙というウサギがいる診察室である。
フランはもう確認せずには一時たりとていられなかった。あの時ルーミアとリグルとかいう妖怪に告げられた話の真意を。

鈴仙は姿を消してしまった。検査をするとか言っていたくせに、いつまでたっても病室には来なかった。再度問い詰めようとルーミアとかいう奴を探そうとしたが、やはり姿がなかった。
勝手にこの屋敷を出て行こうかとも思ったが、なぜか足がすくんでしまうのだった。おそらくフランが今一番ほしかったのは言葉だったのだ――「そんなことないよ」という温かい一言が。

フランは記憶を頼りに廊下を進む。この日ばかりは辛気臭い顔した因幡ともすれ違わない。進むごとに不安が募っていく。

「あ、フランだ。」

聞き覚えのある声にフランは安堵した。メディスン・メランコリーは廊下の向こうからフランに大きく手を振っていた。フランも急いでそちらに駆け寄る。

「こんにちはメディスン。あのさ、鈴仙知らない?」
「知らない。私も探してるの。」

メディスンは相変わらず明るい。フランも笑顔を取り戻した。

「ねえ聞いてフラン! 今日とってもいいことがあったの。さっきね、ここに来る途中で永琳さんに会って、これからお山に行って遊びましょうって言われたのよ!」

メディスンは感情を爆発させた。フランも顔が明るくなった。それは彼女がほしかった言葉に近いものだった。

「そうなの? よかったじゃん!」
「だからね、鈴仙にも教えてあげようと思ったんだけど……いないねー」

メディスンはうずうずしていた。フランは少しだけ表情を崩して、メディスンの肩を叩く。

「行ってきなよ。鈴仙には私が言っとから。永琳さん待たせちゃ悪いよ。」
「ほんと? 教えておいてくれる?」
「うん。」

メディスンは飛び上がって喜んだ。フランはやれやれといった顔をした。でもフランもうれしかった。メディスンの話は彼女に希望を与えた。永琳はちゃんと帰ってきたのだ。

手を振り合ってメディスンと別れ、フランは再び鈴仙の診察室を探した。確かここだったはずだ。前入っていくのをフランは見て覚えていた。

「鈴仙、いる?」

部屋は真っ暗だった。フランは頭を掻く。とりあえず何か手がかりがないかと部屋をあさることにした。物が散乱した部屋は、薬品の臭いがぷんぷんしている。フランは鼻をつまみながら奥に進んだ。
混沌とした室内で、一つだけ妙に整った空間があった。フランはその方へ吸い寄せられるように向かう。そこにあった小さな机にはノートが一冊ポツンとのっていた。ずいぶんと手あかが付いており、使い込まれているようだった。
最初そのノートを見つけたとき、フランは見てはいけない気がした。しかしその部屋にあるものの中で、動かせそうなものはそれしかなかった。一つ唾を飲み込んで、フランはノートをめくる。



・倉庫内の兵器について
現在でも稼動するものは八割。イナバに訓練させる。一月ほどで使えるようになるはず。

・リグル・ルーミア
瞳を使って狂気に染めることに成功。単純な戦闘力としては一人当たりイナバ20匹分と想定される。

・リグルの毒蟲の効果を高めるための薬品について→文献A-219:p221-240参照
 人間に特に効果が高いと思われる蟲
  ・ツツガムシ
  ・ハチ類(スズメバチ)
  ・サソリ
  ・蜘蛛(種類については後日確認)
  ・蚊
  ・ダニ

・各種毒性成分について
…………
*遺伝子改良によって毒性の強化、掛けあわせが出来ないか(F-120)

*里に毒を散布することの問題点;師匠や姫が穢れてしまわないか? 綿月様への影響は?
毒と穢れについての考察(I-234:p346-501)

・ルーミア
闇を使える→眼くらまし?
狂気の瞳と併用すれば錯乱状態に陥らせやすいのではないか。
幻覚剤との併用。→胡蝶夢丸ナイトメアの転用(文献C-92:p129 or C-982:p112)
 *要改造!

・てゐの蘇生について
細胞培養によるクローン技術(文献F-231:p3-78)
問題点;記憶・人格の再生と定着→霊魂が必要?
霊魂の再構築技術;×××論との関連?→月の古代文献参照(Z-002:p32-98)
依代が必要。黒魔術に近いか? 紅魔館の文献は使用不能?

・メディスンについて
人形なので狂気の瞳が完全に効かない。洗脳できず←幼すぎる?
人形の操作について(D-198?)
人形遣いの家に有益な文献が残っていないか→後日調査

・各種拷問器具について
倉庫内の器具はほぼ全て使用可能(取扱説明書はS-22だけ?→イナバに探させる)
苦痛を高める薬(C-221)→感覚そのものの肥大(過剰?)化(C-231)
苦痛を持続させる薬(C-455)
感覚を喪失させる薬(D-130)脳機能の遮断?
記憶の消去(D-125)→C-056とあわせることで、慣れてしまった苦痛を忘れさせることが可能であると思われる
治療薬・強精剤(B-13,B-2) *蓬莱の薬?(文献?)
止血剤(B-12)
麻酔(B-12)*特定の感覚だけを残す方法について(p45-63)
睡眠剤(B-24)→感覚だけ残す(p33-50)
力の制限(LEVEL1「希望を与えるだけの抵抗を許す」〜LEVEL5「完全な拘束」) (B-20)
体内を腐敗させる薬(R-98)…再生法が他と異なる?(穢れが多い)
脳機能を破壊する薬(C-99) 複数の破壊パターンが考えられる…F-210がヒント?
人体の解体技術(いかに痛みを最大化・最小化するか)
人体構造(切断の手順・意識を保ったまま刻める限界)
人間の循環器について(窒息の限界)
人体の皮膚構造→熱は? 水は? 薬品への耐性、放射能、圧力etc...
→人体構造については文献F-399(一部データ不足につき後日確証実験が必要→イナバで代用可能?)
*イナバの身体構造については文献F-312

・狂気の瞳の強化
A案…薬(C-201:p87-98,F-443:p12-45)*問題点;効果が弱いのでは? *国士無双の薬
B案…手術(F-245:p30-56)*問題点;誰がやる?
強化内容…狂気の深度 *他の強化内容はないか
→後日ピックアップ! 対象?

・フランドールの利用可能性
…………



「あらフラン。どうしたのこんなところで?」

フランは震えた。その声はすぐ近くで囁かれたようにも、遥か彼方から投げ掛けられたようにも感じた。

「あ、ごめ……」

フランはおもわず謝った。何に謝ったのかもわからずただ謝った。真っ暗な部屋に、鈴仙・優曇華院・イナバの真っ赤な瞳だけが浮いている。

「それ、みたんだ?」
「あ、ぅ……」
「別にいいよ。」

鈴仙の声色は穏やかだった。信じられないほど穏やかだった。診察に来る彼女とは別人なのではないか、フランはそう疑った。別人だったのかもしれない。

「あのね、さっきメディスンがね、永琳さんに会ったって……だからね――」
「うん。だろうね。」

フランの頼みの綱はあっさり受け入れられた。鈴仙は平坦な口調のまま、機械のように音声を吐き出す。

「もう、終わったんだって。人間どもは同士討ちして殺しあってるんだってさ。お似合いだよね。」
「あ、うん……」
「もうすぐ師匠も姫様も帰ってくる。うれしいな。でもてゐは帰ってこない」

そこでぐにゃりと口調が反転した。
フランはまた恐怖した。もし今までのように眼前の不快な存在の頭をつぶせば、フランは多少落ち着けたかもしれない。でもそれではダメだと彼女は知っていた。一番聞きたいことを聞かぬまま壊しても、自分の気が決して晴れることはないことをもう理解していた。

「ねぇフラン。いいこと教えてあげようか。」

そして鈴仙もフランの成長を理解していた。再び穏やかに、診察の時のようにフランに語りかける。

「これから、みんなで山の奴らを皆殺しにするらしいよ。私も行きたいけれどこれからやることがあるから。フランはどうする?」
「わ、私は、帰りたい……」
「帰る? どこに? おうちはもうないよ? もう帰るところなんてないよ?」

フランは鈴仙を睨み上げる。聞きたくなかった言葉だった。鈴仙の声に嘲りはない。哀れみもない。何にもなかった。鈴仙はフランの肩をさする。姉からもらったワッペンを弄びながら。

「私は行ったほうがいいと思うな。だってあそこにいるんだよ。東風谷早苗。」

鈴仙からその名前が出てきたことにぞっとした。何かを見透かしているように、紅く光る狂気の瞳はフランを捉えたまま離さない。

「大切なお姉さんを殺して、得意げに神を気取ってる奴が、妖怪達と仲よく、今もあの山の上でのうのうと暮らしてるんだよ。ねえフラン?」
「お姉さまは、死んでなんか――」
「死んだんだよ。」

あっさりとした断言だった。怒りすら、心に沸き立ってこなかった。ぽっかりと穴が開いたようだった。鈴仙はワッペンをつまみあげる。

「ほら、お姉さん泣いてるよ。行ったほうがいいと思うな。ちゃんと仇はとらないと。ねぇ?」

とんと肩を叩いて、鈴仙はフランに踵を向けた。そのまま別れの言葉もなく部屋を後にする。紅い眼をしたフラン一人を暗闇の中に残して。





 ■ ■ ■





上白沢慧音は竹林を駆けていた。一人きり、暗い竹林の中を。

半妖の居住地区から行方不明になっていた銃が見つかったのは確かだった。だが確かなのはそれだけだった。どこにあったのかも、誰が持っていたのかも、そもそも本当に撃ったのかも分からなかった。そのことを知った自警団が、有無を言わさず半妖を片っ端から皆殺しにしたのだから。
慧音が現場に着く前に、片はついていた。「里に巣食う化け物どもを退治したのです」――着いた後もらった報告はそれだけだった。

殺戮を先導した対妖魔部隊も今はいない。先に現場へ向かった玉兎が銃を奪還しに来たのだ。部隊はそれを拒んで抵抗したが、向こうの装備の前には相手にすらならなかった。月は武器をまだ所持していたのだ。もっと最新鋭の武器を。玉兎一人にあっさりと里の精鋭部隊を壊滅させられ、人の暴動はまたたく間に沈静化した。慧音が到着したころには、何もかもが終わっていた。

慧音がここに来た理由は明快だった。里の人間が里の人間を殺したのは、妖怪のせいだ。だから竹林の妖怪が所有している月の兵器を使えば、人間は妖怪を殺すから人間は殺さない――それは今の慧音にとって非常に合理的な結論だった。

「はぁっ、はぁっ……蔵は、どこだ?」

久しぶりの永遠亭は、何一つ変わっていなかった。よくよく振り返ってみればあの掟が施行されてからまだ一週間と経っていないのだ。変っていないのは永遠亭に限った話でもない。
慧音は蔵を求めて広大な屋敷をさまよった。敷地を駆けずり巡りながら、血眼になって月の技術を探した。

「ここか!? ここが蔵だな。どこだ、銃はどこにある!?」

ようやく見つけた宝物庫の鍵を破壊して、慧音は飛び込む。高価な玉も書物も今の彼女にとってはなんの価値もない。慧音はそのゴミをなぎ払いながら地下にもぐる。

「あった。あったぞ!!」

バルカン砲も、プランク爆弾も、戦車も、以前の博覧会で見たものが全てそこにあった。とりあえず壁にかけてあった自動小銃を取る。力が湧くようだった。それは麻薬だった。

「今行くぞ。化け物どもを蹴散らしてやる。待ってろみんな。全部元通りにするからな」
「――あのーすみません。」

慧音は銃を構えて振り返る。そこにいたのはただのイナバ、妖怪兎だった。

「ここに入ると危ないですよ。」
「黙れ化け物が、死ね、貴様らみんな死ねぇっ!」

慧音は銃を振り回した。しかし光も、音も出ない。イナバは耳を揺らしながらスキップして近寄ってくる。

「それ、そう使うんじゃないですよ。ここの安全装置を外さないと撃てないんです。」

イナバは慧音が手にしているのと同じ銃を壁から取り、丁寧に説明し、そして実演した。


   パンッ


軽い音だった。腹を撃たれた慧音はその場に転がる。イナバは心の底からバカをしたような眼でそれを見下ろしていた。
蔵が暗闇に包まれる。蔵は最初から暗かったはずだが、そういう表現がぴったりだった
慧音は術を使って光を灯そうとする。無駄だった。それはちゃちな光など飲み込む、本物の闇だった。

「近寄るな、化け物が! どこだ? でてこい!?」

慧音のわめき声も、闇に飲まれて消えた。もはや自分のいる位置すら、彼女には分からなかった。
視覚は役に立たなかった。周りは完全な無音、鼻につくのは血と火薬の臭いだけ、舌を撫でるのは鉄の味、最後の触覚が捉えたのは、あまりにおぞましい感覚。

「ひぃっ、なんだ、なんだこれは!?」

先ほど撃たれた傷跡に、蛆がたかっていた。そいつらは傷口を食い広げながら、慧音の体の中へ、中へともぐっていく。半狂乱となってその不気味な蟲を振り払うも、数が多すぎた。慧音は生きたまま死肉を貪られる感覚を味わっていた。

「よかったですね。ウジ虫は貴方のこと必要としてくれているみたいですよ。」

誰かの声だった。耳元で鼓膜を揺すっているようでもあり、遠くから響いてくるような声であった。すぐ横から届くようでもあり、真正面から呼びかけられたようでもあった。平衡感覚すら、今の慧音は奪われていた。

「どこだ……どこにいる!!」
「かーごーめ かーごーめ」

今度は炸裂音。爆光はやはり闇に飲まれた。どうやら下半身が吹き飛んだようだ。腰の高さから落ちた上半身だけの慧音は、落下の衝撃ではじめて自分が立っていたことを理解した。蛆には喜ばしいことだったろう、断面積が増えて食べやすくなったのだから。出血はたいしたことなかった。ナマコほどの蛭が折り重なるように傷口を舐めている。血を吸ってぶくぶく太るそれは、慧音が死なないようにと、必要以上の出血を抑えてくれているようだった。

「かーごーのなーかのとーりーはー」

どこからか歌が聞こえた。大勢いるようだった。

「ひぃ……あぎぃ、ぃやだっ、やめろ、やめて……」
「いーつーいーつーでーやーるー」

無様にあえぐ慧音の髪を、誰かが掴み上げた。少しだけ目線が上がった人間を、妖怪達は玩具みたいに引きずっていく。


「だいじょうぶ。殺さないから。絶対に殺さない」
「よーあーけーのーばーんーにー」
「そう、いつまでも殺さない」
「つーるとかーめがすぅべったー」
「私たちの心が退屈に染まるまで、ずっとずっと生かしておく」
「うしろのしょーめんだーぁれ?」

「だから安心して?」

――本当の化け物がどんなものか、たっぷり教えてあげる





 ■ ■ ■





香霖堂の扉がゆっくりと開いた。
森近霖之助は、それを待っていた。いつか終わりが訪れるだろうと、覚悟を決めていた。だから、来客が全く予想と違う者であったことに、驚きの色を隠さなかった。

「はじめまして。比那名居天子といいます。」

比那名居天子は厳しい表情のまま一礼した。一緒に店に入ってきたチルノも、柄でもない神妙な顔つきをしている。

「一体、どういう用件かな?」

霖之助は疲弊した表情をとり繕うことなく椅子にもたれかかり、そのまま机の上に視線を落とした。きれいに整頓してあったその机には、花束だけが載っている。彼はその格好のまま天子の返答を待った。

「魔理沙のことで聞きたいことがあるの。」

ああそれかと、霖之助は合点した。遊びに来たついでに知ったのだろう。この能天気な天人は。

「ああ、魔理沙ならもう――」
「魔理沙には家族はいないの? その、お父様とか、お母様とか。」

意外な質問だった。霖之助は顔を上げる。切羽詰った態度を崩すことなくこちらを見据える天子に、彼は観念したように口を開いた。

「母親は亡くなった。父親は、いるよ。きょうだいは……いないかな。」
「会ってお話ができないかしら。お父様と。」

脅すようなお願いだった。霖之助は苦虫を噛み潰したような顔をする。

「あの人は里長だ。君らなんかが会いたいと言っても、難しいだろう。」

天子は口をつぐむ。悲痛な表情は、魔理沙だけに向けられたものではなかったのだろう。その言葉は天子自身耳にたこができるほど聞かされてきたものに他ならなかったのだから。

「父親って、どいつもこいつも同じなのね……」
「一体君達は何しに来たんだい。魔理沙なら――」
「魔理沙生きてるんだ。」

うっとうしいと言いたげだった霖之助の態度は、チルノの言葉で見るも無残に瓦解した。

「今日紅魔館にみんなで行ったんだ。魔理沙は、死にそうなんだって。」

今自分はどんな顔をしているのだろう、霖之助は想像ができなかった。

「……それでもダメなの? 自分の娘が今にも死にそうで、すごく苦しんでるのに、それでも魔理沙のお父さんは会いにきてくれないわけ?」

「無理だろう」ときっぱり言えればよかったのかもしれない。「まかせてくれ」と前向きになれたらよかったのかもしれない。霖之助にはどちらもできなかった。

「……はっ、そう。やっぱりそうよね。そんなもんよね。バカみたい。そんなのとっくにわかってたのに、なんで私こんなこと言いに来たんだろう。」

天子は自嘲気味に続ける。

「この子に聞いたの。あんたのこと。あんたならって。でももういいわ。ごめんなさい。もう帰る。」
「待てよてんし」

うつむいたまま背中を向ける天子のスカートを、チルノが引っ張った。

「おいこーりん。明日紅魔館で宴会やるんだ。魔理沙が元気になるようにって。あたいが"かんじ"なんだ。お前も来い。」

チルノの表情も真剣だった。天子は霖之助に顔を向ける。その眼には涙があった。

「行けるわけないだろう……僕は、魔理沙を、皆を裏切ったんだ。僕がずっと見ないふりをしてきたせいで、皆を、魔理沙を苦しめたんだ。行けるわけがない。」
「そういうのはどーでもいい。あたいが来いって言ったんだ。来ればいいんだ。」

チルノは胸を張った。天子は霖之助の反応を待っているようだった。霖之助は首を縦にも、横にも振れなかった。煮え切らない態度に終始する彼に、天子は詰め寄る。

「あんたはなんなの? あんたは、魔理沙のなんなの?」

嫌な質問だった。霖之助は押し黙る。だが天子は答えを聞くまで梃子でも動くまいと、全身で告げていた。

「こーりん、お前魔理沙の"ほごしゃ"だろ? こないだそう言ってたじゃん。」

他意のない妖精の言葉だった。だが確かに自分が言った言葉だった。青ざめる霖之助に、天子は口を開く。それは吐き捨てるようでもあり、懇願でもあった。

「だったら絶対来なさいよ。もし保護者だっていうなら這ってでも来なさい。もしあんたまで魔理沙を見捨てるというのなら、私はあんたを許さない。」

天子は香霖堂を飛び出していった。チルノも「また明日な」と一言残して出ていった。一人きりに戻った店内で、霖之助は机にあった花束を掴みながら突っ伏した。





 ■ ■ ■





その話を八坂神奈子から聞かされたとき、洩矢諏訪子に感慨などなかった。
里が山を裏切り、その結果妖怪達の罠に嵌って墜ちた。そして奴らは総出で山に攻めてくる。特に興味を惹かれる話ではない。何度も見聞きしてきたような話だ。
自分が関わるとたいていこういう結末になる。だから神奈子と組んでからは目立ったことはやらなかった。別に改心したつもりはない。単にそういう邪な信者が諏訪子に寄っていなかったからだ。それだけ神奈子はいい神様だったということだろう。

向かいに座る神奈子は険しい顔を諏訪子に向けている。彼女はその表情にも心動かなかった。なんと言われるか、どれだけ罵倒されるか、そんなことを考えながらさばさばした顔をしていた。それは諏訪子の神としてのあり方なのだ。どれだけ蔑まれようと、そういうものなのだ。

「諏訪子、すまなかった。」

だからその言葉を聞いたとき、諏訪子ははじめて驚いた。目の前に座る盟友がしょげているのだと思ったのか、神奈子はもう一度頭を下げる。

「私がもう少しまともだったら、天狗達を押さえつけていられたんだ。」
「いいよ、神奈子。あんたはなんも悪くない。」

思わず口に出た。それは本音だった。諏訪子はもう一度自分を取り繕おうと、祟り神の面持ちを造る。

「私は知ってたんだよ。天狗がやってたこと。」
「しかし私は知らなかった。天狗のことも、お前のこともだ。」

何の意味もなかった。諏訪子はもうどう振舞えばいいのかさっぱりわからなくなっていた。
遊んでいたはずだ。愉しんでいたはずだ。いつからだろう。おかしくなったのは。愉しめなくなったのは。

「お前が何をしていたのか、私は知りもしないんだ。」
「じゃ、じゃあ教えてやるよ。私がどんなことをしていたか――」
「お前は神として振舞っただけだ。私はそれすらできなかった。」

なぜ祭りなんかしたんだろう。

寅丸星が過ぎた理想を相談してきたからだろうか。
大天狗長が天魔への怨み節をこぼしてきたからだろうか。
秋静葉が妹への嫉妬を口にしたからだろうか。
姫海棠はたてが同僚への羨望を告白してきたからだろうか。

全てばかばかしい仮定だった。こんな奴らはどこにでも転がっている。それに応じて、彼らを導いたのは諏訪子自身なのだ。そうやってずっとやってきたのだ。それが洩矢諏訪子なのだ。
己の全存在をかけて抗おうとする諏訪子を、神奈子は手で制した。

「こんな段になって申し訳ないが、一つだけ頼みたいことがある。」
「……何?」
「早苗を頼む。」

諏訪子はぎょっとした。全く想定していない頼みごとだった。

「私はこの山の神だ。何があってもここを離れるつもりはない。でもお前たちは違う。お前たちまで巻き込みたくない。」
「だから私は――」
「他にはいない。早苗は、あの子は犠牲者だ。この土地に連れてきた時から、いや風祝になった時からずっと。だから、頼む。お前はあの子の"親"だ。お前がどれだけあの子のことを大切に思っているか、それくらいはずっと付き合ってきて知ってる。だから、お前しかいない。」

神奈子はまた頭を下げた。諏訪子はそれをぼんやりと見ていた。自分のどこが親だというのだろう、自分の一体何を知っているというのだろう、こいつも、私も、ただの神でしかないのに。

「何も言わなくていい。お前には初めて会った時から迷惑ばかりかけてきた。だから、後は全部私に任せてほしい。」

神奈子は諏訪子の言葉を待たず立ち上がった。すれ違いざまに諏訪子の肩を叩いて、彼女は天狗達の集会所へ向かっていった。


「わからないよ……神奈子、私にはあんたが理解できない。」





 ■ ■ ■





水橋パルスィは橋のたもとでうずくまっていた。
少し疲れているようだ。最近橋の通行人が多すぎるせいかもしれない。誰かと会うのは苦手だ。
だが、地上と地底をつなぐ橋の忙しなさは止むことがない。橋に近づいてくる気配を感じて、パルスィはけだるい体を持ち上げた。それは大所帯だった。
目ぼしい鬼は全ている。鬼以外にも名の知れた妖怪はあらかたそろっていた。大名行列の先頭近くにいた黒谷ヤマメがパルスィに軽く手を振る。パルスィはそれに応えなかった。
やはり疲れているのだろう。妬み甲斐のありそうな奴はそろっていたのに、睨みつける気にすらならなかった。
霊烏路空と火炎猫燐もパルスィの横を通る。生ゴミを見るような眼で一瞥してきた。反論する気にもならない。それは事実だ。見下した方も同じだと留保すればだが。

行列のしんがりが見えてくる。彼女はやはりそこにいた。いないわけがないと、パルスィにも分かっていた。

「萃香。ごめん、先行っててくれるかな」

伊吹萃香は軽く手を上げた。そんな野暮なこと言うなというそぶりだった。友人の気遣いに軽く眼を伏せて、星熊勇儀はパルスィの正面に立った。よく考えれば向かい合ったのは初めてだったかもしれない。

「パルスィ、元気かい」
「そう見える?」
「はは、そうは見えないね。ごめんよ」

空笑いが二人きりの橋に響く。うつむいたままのパルスィに、勇儀はどうしたものかと頬を掻いた。ここから先が、いつも悩みどころだった。

「また今度はずいぶんと団体様ね。引越しでもするの? 出てってくれるんならありがたいけど。」
「戦、なんだ。」

勇儀は一つ息を入れた。相変わらず下を向いたままのパルスィに、こぼすように話しかける。

「山の連中がバカなことをやったらしくてね。上の妖怪と討伐しに行くんだ。」
「あんたらってほんとお人よしよね。バカなんじゃない?」

今日のパルスィは饒舌だった。疲れているからだと、彼女は自分に言い聞かせることにした。

「そうなんだろうね。返す言葉がない。」
「天狗共を懲らしめたらそのまま山に住んだら。ここも静かになるわ。」
「いや、私はここに帰ってくるよ。」

パルスィは顔を上げそうになるのを必死にこらえた。勇儀はそっとパルスィの手をとる。

「またこの橋の上に戻ってくるから、待っててくれるかい。」
「……しらない」

二人は固まってしまった。手をつないでからのことを、どちらも考えていなかった。勇儀があまりにもやわらかく握るので、パルスィも力を入れていないとほどけてしまいそうだった。それは少し妬ましかった。ずるいやり方だと思った。

「……少し休むわ。あんたも早く済ましてきなさい。」
「あ、ああ……そだね。」

腹が立ったので最後に思い切りその手を握りしめて、パルスィは橋の下へ降りていった。手を離すとき抵抗してこなかった。やはり卑怯なやり方だと思った。
別れ際に勇儀が何か呟いた気がした。パルスィはそれが聞こえなかったふりをして、背中越しに軽く手を振った。



 
次回ラストになります。

次回も含めてこれまで出てきた記述を転用して使ってる部分がいくつかありますので(ぬえのキメラ台詞とか)、読み手に優しくない仕様になってます。例の小道具も一応関係者の台詞で臭わせようとはしたんですが……


あと後書きで余計なことを書いたせいで、いらぬお気遣いをさせてしまったようですみませんでした。以前から書き溜めて骨格とパーツはあらかた書いてありまして、最近は足したり削ったり組み替えたりしていただけです。追加できそうな部分が残っていたんで調子こいてあんなことを書いてしまったのですが、誤解を招く言い方でした。申し訳ありません。

3/17 ご指摘のミスを修正しました。秋姉妹ゴメン……
んh
作品情報
作品集:
24
投稿日時:
2011/03/09 13:51:47
更新日時:
2011/03/17 00:23:14
分類
魔理沙
オリキャラ
1. NutsIn先任曹長 ■2011/03/09 23:51:39
事態が動き始めました。しかし、ちょっこし悪い方向に動いてますね〜。
冒頭の秘封倶楽部が言うように、幻想郷はLotus Landじゃないんですよね〜。

だが、しかし、

こっちの世界にはいない、個性的な連中が事態を面白おかしく転がしてくれる。
そのサイコロの目は、誰にも読めない。
それこそ、超幸運に恵まれた、誰かさんじゃない限り。

次回、霊夢のリミッターが解除されますかね。
散々、勘が鈍った理由が語られてましたから、その理由が無くなったら…!!

戦場では不測の事態は起きるものです。
例えば、地霊殿の有力ペットがピンチに陥ったとき、八雲一家の救援がたまたま間に合わなかったり…。
人、それを『因果応報』という。



最後に、んhさん、貴方の作品を、私を含めた愛読者達が楽しみにしています。
それと同じくらい、貴方の身を、私を含めた愛読者達が心配しています。
くれぐれもご自愛下さい。

いよいよ、次回ラスト、気合入れて待っています。

幻想郷とは何か?
博麗の巫女の本分は何か?

この分かりきった解が提示される事を願います。
2. 名無し ■2011/03/10 00:39:19
この長編、毎回ハラハラしながら読んでいます。

幻想郷を巻き込んだ策謀は紫側の勝利のようで。
道化まで演じてもぎ取った勝利、後は散々栄華を誇った山を総力で平らげるのみ。かくして幻想郷を、八雲紫を讃える歌は―響くのか?
多くの妖怪が、半妖が、人も大勢死んだであろうこの騒動。紫が美味しいところを全部持っていったとして、それは勝利足りえるのか?残るのは紫の味方、友人、手駒のみなのか?
そして紅魔館に集った面々は最強の幹事の宴席で何を見るのか?

wktkしながら最終話、お待ちしています
3. 名無し ■2011/03/10 08:42:36
悪とか善とか関係なく、因果応報する奴らが多かったですね。
中途半端に想いに縋って傍観しか出来なかった霊夢は事態の集束にすら中途半端な立場に収まったし、極端に走りすぎた慧音は破滅したし。
いずれにせよ、いよいよ訪れる結末がどうなるのか? 気になります。
ここは産廃。どんな終わり方でもあり得る……しかし! 陰謀策謀の傍らで駆け続ける純粋な想いを私は信じる!
チルノェ! お前は俺にとっての新たな光だ!
4. 名無し ■2011/03/10 13:12:16
後一話あるけどこれはもう紫組の勝ちほぼ確定か? 結局こいつらが終始一強だったと。
なんかすげぇあっさり終わったので、正直紫組の勝利に重みを感じない……
霊夢とかレミリアとか、深く苦しみ傷ついた連中がただの道化として処理される展開も
すげぇ不愉快だし、なんか今までの展開が半分くらい「いらなかったんじゃないかな」なものに
今回の話でなってしまったと感じる。この展開で幻想郷賛歌が響いても俺は感動できん。
期待して読んでただけに残念。いやラストでまたすごいどんでん返しがあったら感心するけど。
5. ローゼメタル ■2011/03/10 14:23:32
紫組が強いとかいうけど俺から見れば雑魚
一秒で殺せる
6. 名無し ■2011/03/10 21:15:09
騙されていたとはいえ霊夢が許されるわけではないと思うが…
このまま霊夢が紫と幸せになるのは許容しかねる。
とはいえ、作品自体は非常に面白いです。
チルノ組の宴会の結果と所々出てきた亡霊?達の正体。
次回の結末を楽しみに待っております。
7. 名無し ■2011/03/11 11:11:15
結局ルールは一番強い奴が作るということだな
誰が一番になるかはまだわからんが
8. 名無し ■2011/03/11 11:43:14
霊夢には利用されていたとはいえ重い罪があり、それに対して
悩む描写も多々あったのに、この状況において完全空気&
なあなあで許されちゃうのか。これ結構重大なテーマと思ってたけど……
このへんさらっと流されると、話の終着点がわからなくなってくるなあ。
このまま山をあっさり陥落して紫たちは幸せになりました、よかったね。
とはなりそうにない雰囲気だが……後一話、どう締めるのか楽しみ半分
不安半分ってとこだなあ。
9. 名無し ■2011/03/12 21:46:58
兎こわい
てゐってあれでも一応神だから肉なくても生きてたりしてな
10. 名無し ■2011/03/13 04:51:41
最終勝者は陰謀にハブられ犬死にみせかけた紅魔館勢…だといいな

>秋静葉が姉への嫉妬を口にしたからだろうか。
これは「妹」ですよね?
11. 名無し ■2011/03/14 13:17:45
今までの「ひひひ」はぬえちゃんだったのか?
まさか鈴仙がここまでぶっとんだことやらかすとは…

なんつーか続きが待ち遠しすぎてやばい
フラグ山積みすぎて誰が死んでもおかしくないんだよな
チルノー!早く何とかしてくれ―!

…けど誰が死んでも悲しくなるんだろうなあ
そうさせるんhさんの技量はすごいよホント…
大天狗長なんて最初出たときは印象最悪だったのに、今は死んでほしくないと思う自分がいる
冒頭のメリーが言ってるように、いいところしかない奴も、悪いところしかない奴もいないんだよなあ…

ラスト一話でまとめるの大変だと思うけど、期待して待ってます
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