朝の八雲邸は、慌しさに包まれていた。
「こら、橙。そんなにがっつかないの」
「だって、霊夢の卵焼き、ふわっふわで美味しいんだもん」
「ふふっ、ありがと」
「橙、焼き鮭はどうだ? 私が焼いたんだが……」
「うん!! 美味しい!! 霊夢のもそうだけど、藍しゃまのご飯もだ〜い好き!!」
「うぅ……、嬉しいことを言ってくれる……」
「ったく、藍ったら……」
八雲邸の居間。
霊夢、藍、橙は食卓を囲み、かしましく朝食を摂っていた。
この光景は、橙が八雲邸を訪れた日によく見られるようになった。
「ごちそうさま〜。じゃ、帰りま〜す」
朝ごはんを綺麗に平らげた橙は、マヨヒガの自宅に帰ろうとした。
「おいおい、こんなに急ぐことはなかろう」
「この後、地霊殿のお燐ちゃん、お空ちゃん、こいしちゃんと遊ぶ約束してるんです」
「あ、藍、じゃあ……」
「そうだ、橙、これを古明地殿に持って行きなさい。いつもお世話になっていますって言うんだぞ」
霊夢の注意で藍は、地霊殿当主の古明地さとりに送ろうと用意した菓子折りを思い出し、それを橙に託した。
「うん、分かりました!! じゃ、藍しゃま、霊夢、バイバ〜イ!!」
「また来なさいね」
「ちぇ〜ん!! 私達はいつでも歓迎するぞ〜!!」
橙が元気よく飛び出して行った後、冷静さを取り戻した藍も仕事に出かける準備を始めた。
「それでは、私もそろそろ出るとしよう」
「はい、お弁当」
「すまないな。では、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
藍を送り出した後、霊夢は卓の食器類をまとめ始めた。
「春ですよ〜。幻想郷の皆さん、春が来ましたよ〜」
バババババッ!!
ドドドドドッ!!
春告精、リリー・ホワイトが弾幕で春の到来を告げていた。
霊夢は手を止め、結界に守られた安全な屋内で、煌びやかな弾幕を鑑賞した。
『おはよう、霊夢』
春の到来により、
冬眠から目覚めた、
八雲紫が、
霊夢の背後に、
ひょっこり現れた。
――気がした。
霊夢は振り向いたが、
誰もいなかった。
空耳だった。
リリー・ホワイトは飛び去り、弾幕ショーも終わりを告げた。
霊夢は食卓の片づけを再開した。
最後に、伏せたまま未使用の茶碗とおわん、そして一膳の箸を汚れた食器類と一まとめにすると、
霊夢は洗い物をするために台所に運び出した。
家事を一通り終えた後、霊夢も博麗神社に出勤することとなる。
霊夢は、八雲紫の妻となってからの生活にすっかり慣れていた。
だが、紫のいない生活には、まだ慣れない。
幻想郷の管理人にして妖怪の賢者である八雲紫の元に、
幻想郷の結界守である楽園の素敵な巫女、博麗霊夢が嫁いでまだ半年も経たないが、
紫の式にして側近である八雲藍と、たまに八雲邸に遊びに来る藍の式の橙を交えた暮らしに、
すっかり溶け込んでいた。
霊夢にとって、藍も橙も、紫同様に愛しい存在である。
藍と橙にとっても、霊夢は愛しい『家族』の一員である。
だから、
紫がいなくても、
霊夢と藍達の間に築かれた家族の絆は、
失われることはなかった。
八雲邸から幻想郷を縦断して博麗神社に向かい、飛翔する霊夢。
飛行中、霊夢は知らず知らずのうちに、
紫との思い出の品である、ネクタイ代わりの黒いスカーフを握り締めていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
博麗神社。
境内の掃除。
素敵な賽銭箱の中身の確認(この日は、小銭が二、三枚入っていた!!)。
巫女の修行。
博麗大結界のチェック。
あっという間にお昼になった。
霊夢は神社の居住部でお茶を淹れ、持参した弁当を食べることにした。
以前、境内の掃除を昼食で中断した時、おにぎりには掃除の手を止める程度の能力があると思ったものだが、
どんなご馳走にも、愛しい人について思索に耽る事を中断させることはできないだろう。
そう、霊夢は自分で作った弁当に舌鼓を打ちながら、ぼんやり思っていた。
弁当を食べ終え、お茶を飲み干し、弁当箱と茶器を洗い終わった霊夢は、
しばしの読書タイムを楽しんだ。
やがて本を読み終えた霊夢は、借りた本を返すために紅魔館に向かった。
できれば、幻想郷勢力の一翼を担う紅魔館の当主にして、
霊夢の親友の一人であるレミリア・スカーレットにも会いたかった。
別に用事があるわけではない。
友に会うのに理由など要らない。
紅魔館の門前に着陸した霊夢は、今日は昼寝をせずに起きている、門番長の紅美鈴に挨拶した。
「こんちわ、美鈴」
「いらっしゃい、霊夢さん。当館にどのような御用で?」
「地下図書館で蔵書の返却、閲覧、気に入ったのがあったらまた借りるかも……」
「そうですか。図書館の業務に関することは担当者にお願いします」
「あと、レミリア、いる?」
「ええ、本日は館内で執務中です」
「そう。後で顔を出すかもしれないから。
用向きは……、『博麗の巫女の視察及び親睦のための面会』とでもしておいて」
「かしこまりました。お嬢様にはこちらから連絡しておきますので、図書館でお待ちください」
美鈴は帳面に霊夢のサインを書かせ、その後に霊夢が告げた堅苦しい来訪目的を記述した。
この入館者名簿を見たところ、頻繁にやってくる黒白魔法使いの名は無かった。
だが、高確率でここに来ている、或いは来ていた、はたまたこれから来るのだろう。
その後、美鈴は詰め所の内線電話でしばらくやり取りをした後、霊夢の入館を許可した。
霊夢は美鈴に一礼をすると、紅魔館の正面玄関から入り、大広間から直通の地下階段を下りていった。
魔術的に拡張された広大な空間と、それさえも手狭に感じさせる程の蔵書量を誇る地下の大図書館。
霊夢は入り口側にある無人のカウンター上にあるベルを手で叩き、チンチンと鳴らした。
程なく、こあこあこあ〜と言いながら、司書を務める小悪魔が飛んできた。
「いらっしゃい、霊夢さん」
「本を返すわ。あと、閲覧の許可を」
霊夢はトートバッグから取り出した本を小悪魔に渡した。
「はい、確かに。それでは、当図書館の蔵書で知識を深めていってください。
あと、当図書館では飲食、おしゃべり、弾幕は堅く禁じられておりますのでご了承ください。
もっとも、館長が許可すれば別、ですが」
霊夢は、小悪魔がちらと視線を向けた先にある、賑やかなテーブルを見た。
適当な本を見つけたら、そちらに行くとしよう。
入り口付近の棚にある、絵物語や詩集、実用書、外界の推理小説、天狗が発行する新聞のバックナンバー、等等、
堅気向きの書物の中から良さげな物を二、三ピックアップして、霊夢は少女達で盛り上がっているテーブル席に向かった。
「はい、楽しそうね」
霊夢は議論半分、雑談半分の会話を楽しむ三人の魔女に声を掛けた。
「むきゅ、いらっしゃい、霊夢」
地下図書館の館長、レミリアの参謀兼友人、七曜の魔女の肩書きを持つパチュリー・ノーレッジは、
会話中でも上げなかった顔を一瞬上げて霊夢に早口で挨拶すると、再び読んでいる書物に視線を戻した。
「最近よく来るわね。霊夢」
そう声を掛けた、人形遣いである七色の魔法使い、アリス・マーガトロイドの前には、
開かれた図書館の本と、封印されたアリスのグリモワール、そして上海人形と蓬莱人形が鎮座していた。
「よ、霊夢。最近は神社よりもこっちでよく会うな」
唯一の『人間』である普通の魔法使いにして霊夢の古くからの友人、霧雨魔理沙は片手を上げてにやりと笑った。
「まあ、ね……」
霊夢は曖昧な返事を三人に返した。
「……結婚してから、いや、それからしばらくしてからだな、よく図書館に来るようになったのは」
「……そうだったかしら」
「ああ、紫のせいか……。お前が……」
「そうよ、でも、これは私が選んだ道よ。後悔していないわ」
霊夢は、西洋家庭料理の本に目を落としたまま、無表情でそう言った。
「魔理沙だって、アリスが同じことになって、後悔、する?」
「ぐっ……、わ、悪かった……、降参だぜ」
魔理沙は諸手を上げて謝罪した。
「魔理沙、言い過ぎたわね。でも霊夢、魔理沙はそれだけ貴方のことを心配していること、分かってあげて」
魔理沙とは恋仲である『魔法使い』という種族の妖怪であるアリスは、魔理沙と霊夢をたしなめた。
「むきゅん、図書館は静寂を好むけれど、沈鬱は御免被るわ。もう少し楽しい気持ちで読書して頂戴」
パチュリーは迂遠な表現を用いて、そう小声の早口でまくし立てた。
「そうだぜ、霊夢。とりあえず、謝れ」
「何、私が悪いっての?」
「まあ、霊夢が三分の二くらいは悪いわね」
「残り三分の一は?」
「魔理沙に決まっているわ。ついでに、日頃の無礼の分としてもう三分の一、加算させてもらうわ。むきゅ」
「ひ、酷いぜ……」
「まあ、お二人さんが謝って済むんだから、さあ」
「むきゅきゅ、どうぞ」
「う……」
「ぐ……」
「「ごめんなさい……」」
霊夢と魔理沙は声をそろえて頭を下げる羽目になった。
これには、気を遣ってくれた二人の気の良い魔女達に対する感謝の念も含まれていた。
「紅魔館へようこそ、博麗の巫女」
紅魔館当主、レミリア・スカーレットが、メイド長にしてレミリアの側近である十六夜咲夜を伴い、図書館に現れた。
「邪魔してるわよ。でも、言ってくれれば私からそっちに行ったのに」
「いや、朋友をいちいち出向かせるわけにはいかんよ。それに、知識の山に囲まれての茶会も乙な物だ」
咲夜は小悪魔に手伝ってもらいながら茶器や茶菓子の積まれたワゴンを図書館に搬入すると、お茶を淹れ始めた。
「こあこあここあ〜、お茶をどうぞ」
レミリアが上座に着くと同時に、咲夜と小悪魔が各人の前にティーカップと茶菓子を置いていった。
ちなみに、カップの中身はココアではなく紅茶である。
……しかし、カップが二つ足りない。
「お嬢様、どうぞ」
「こあこあ〜、パチュリー様、咲夜さんと共同制作したスペシャル・ブレンドですよ〜」
レミリアとパチュリーの前に置かれたティーカップからは異臭が漂ってきた。
中身もそれに見合ったヘドロが入っていた。
「咲夜、何かしら、これ?」
「……むぎゅぎゅ? 小悪魔、これなんてお茶かしら?」
二人は、目の前の液体について、給仕した部下に尋ねた。
少なくとも、これは人間が口にすべき物ではないことは分かっている。
「さあ? 美鈴が育てている漢方から無作為に引っこ抜いた物と――」
「――パチュリー様が手慰みに行なった実験の試薬の余りをブレンドした物ですから〜。こあ〜」
ばんっ!!
「殺す気か!?」
「殺す気!? むきゅ……げほっげほっ」
机を叩き、激高する主達を前に、従卒達はしれっと答えた。
「お嬢様がこの程度でくたばるとは思えませんが」
「パチュリー様なら落命なさるかもしれませんがね〜。ごあっごあっごあ〜っ」
「お前の冗談には、ほとほと困らされる……」
瀟洒に茶目っ気を出した咲夜にレミリアはそう言い、ため息を吐いた。
「む゛ぎゅあぁぁぁぁぁっ!!」
レミリア程寛容な心を持っていないパチュリーは、獣じみた雄たけびと共に、
読んでいた黄色い表紙の分厚い本を小悪魔に投げつけた。
ぶんっ!!
どがっ!!
「ごあ゛っ!!」
『タウンページ』というタイトルの外界の書物は、小悪魔の脳天にクリーンヒットした。
「全く以って、パチェは心根が貧しいのね」
「むっきゅ、レミィが無頓着すぎるのよ!!」
何時の間にか、レミリアとパチュリーの前には、他の者と同じ紅茶が置かれていた。
「じゃ、改めて、お茶を楽しみましょ」
堅苦しい言葉遣いを止めたレミリアの言葉によって、お茶会は賑々しく執り行われた。
小悪魔は、まだ目を覚まさない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
気の置けない友人達との他愛無いおしゃべり。
咲夜手作りの美味しいお菓子とお茶。
楽しい一時は、あっという間に終わった。
小悪魔がまだ伸びたままなのでパチュリーが自ら貸し出し手続きを行なった本と、
お土産の西洋菓子を持って、
霊夢は紅魔館を後にして、博麗神社に戻った。
霊夢は、神社の居住区でお茶を啜りながら、借りてきた本を読んで時間を潰した。
もっとも、何時、何が起きるか分からないので、
すぐに博麗の巫女として出動できるように、
航空自衛隊のスクランブル待機している戦闘機パイロットのような、
緊張感は維持していた。
この日は異変も妖怪退治の依頼も起こらず、
図書館で会ったばかりの魔理沙も、
酒飲みの鬼である伊吹萃香も、
はた迷惑な天人くずれの比那名居天子も、
今日は橙と遊んでいるであろう、霊夢の膝の上で眠ることが大好きな火車の火焔猫燐も、
悪戯好きの三月精も神社を訪れなかった。
結局何も起こらず夜になったので、
霊夢はトートバッグに読んでいた本と乾いた弁当箱をしまい、
神社の雨戸を閉め、戸締りをすると、八雲邸への帰路に着いた。
家にはまだ、藍は帰ってきていなかった。
霊夢は夕飯の準備をして、ご飯が炊ける間に風呂桶の掃除とお湯張りを行なった。
風呂の準備ができた頃、藍が帰宅した。
「ただいま」
「お帰りなさい、藍。お風呂にする、ご飯にする?」
霊夢は藍から空になった弁当箱を受け取り、まるで新婚家庭の主婦のようなことを聞いた。
本当は、紫に言いたいのだが……。
「うむ。じゃあ、先に湯を頂こう。その後で食事にしよう」
「分かったわ。その間に準備しておくから」
藍が風呂に入っている間、霊夢は鼻唄を歌いながら、下ごしらえしておいた食材でおかずを作った。
豚肉の生姜焼きを千切りキャベツが盛られた皿に載せ、それをマヨネーズの容器と共に食卓に並べ終えたところで、
藍が室内着兼寝巻き代わりのトレーナー姿でやってきた。
「お、今日も美味そうだな」
「ありがと」
霊夢は席に着いた藍にコップを渡し、冷えた麦酒を注いだ。
「霊夢も」
「おっと……」
藍はお返しに、霊夢のコップに麦酒を注いでやった。
「では、今日も一日――」
「――ご苦労様」
チン。
コップが軽く打ち鳴らされ、二人きりでも楽しい夕餉が始まった。
本当に、ここに紫がいないのが残念だ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
食後に、霊夢と藍は紅魔館でもらった菓子でお茶を楽しみ、
その後、洗い物は藍に任せ、霊夢は風呂に入った。
霊夢が風呂から上がった頃には、居間の卓上は綺麗に片付けられ、藍は自室に戻っていた。
まだ仕事をしているのだろう。
『博麗の巫女』が職業である霊夢には、『八雲紫の名代』である藍の仕事を手伝うことができない。
もっとも、藍は霊夢が来てから、家事にかける手間が格段に減ったと言ってくれたが。
そんな霊夢にできることといったら……。
こんこん。
「藍、いいかしら?」
「どうぞ」
入室を許可された霊夢は、藍の部屋である、そこそこの広さの洋室に入った。
「お夜食どうぞ」
「ありがたい。丁度、小腹が空いてきたところだ」
藍は机から乱雑に積まれた書類束を脇にどかして作ったスペースに、
霊夢から受け取った、きつねうどんと七味唐辛子の容器が乗せられたお盆を置いた。
「まだ、かかりそう?」
「ああ……、まあ、な」
「無理しないでね」
「お前が生まれる前からやっていることだ。どうという事は無い。
お前が紫様の嫁になってから楽になったぐらいだ」
「そうなの……? まあ、程々にね」
「うむ……」
藍はパソコンのモニタにしばし視線を向けた後、
退室しようとした霊夢を呼び止めた。
「なあ、霊夢……」
「ん、何?」
「ちょっと、いいか?」
「いいけど……?」
霊夢は藍に促されるままに、ベッドに座った。
椅子は、藍が使っている物しかないからである。
「何?」
「霊夢……、紫様がいなくて、辛くないか?」
「……辛くない、と言えば、嘘になるわね」
藍は、何時に無く真剣な面持ちでいた。
「私は……、紫様から命じられた。『霊夢を守ってやれ』と」
「今の所、自力で何とかなってるわ」
「いや、異変や妖怪退治のような荒事ばかりではない。
お前は何かと自分の気持ちを押し殺すところがあるからな。
お前の心も守ってやらなければならないのだ」
「……ずいぶん、おせっかいな命令をしたものね、紫も」
「いや、これは私の判断だ」
「これは、いわゆる『拡大解釈』ってヤツね」
「かまわん。私がそうしたいのだ」
藍は霊夢の前まで来ると床に膝をつき、ベッドに腰掛けた霊夢と視線を合わせた。
「霊夢……」
藍は両手で、霊夢の両手を包み込むように掴んだ。
「藍……、何の真似?」
「私は本気だ。だが、霊夢、お前は本気になる必要は無い」
藍は自慢の九尾を震わせて言葉を続けた。
「お前が紫様に操を捧げていることは重々承知している。
そして、私の紫様に対する忠誠も変わらん。
だから、私とは退屈しのぎの遊びでかまわん。
だから、だから……っ、私に、霊夢を助けさせてくれ……っ!!」
本人が言ったように、藍は、本気だ。
霊夢は、藍から目を逸らした。
逸らした目は、藍が握り締める自分の手に向いた。
藍の指の間から、紫とお揃いの結婚指輪が光っていた。
「う……、ううぅ……」
霊夢は、泣いてしまった。
人に恋することが嬉しいことは、既に知っている。
だが、人に恋する喜びを知った後で、
他の人に恋されることが、
こんなにも苦しいものだとは、知らなかった。
藍は、黙って霊夢の手を離した。
恋した女性(ひと)を泣かしてしまった。
どう見ても、嬉し泣きではなく、悲しみからの涙であった。
自分は、主である紫に次ぐ知慧を持っていると思っていた。
自惚れも甚だしい。
自分は最低なことをした。
重大な失態を犯したという、結果のみが残った。
「すまなかった……。霊夢……」
藍は立ち上がり、霊夢に背中を見せた。
霊夢はベッドから立ち上がった。
「今夜の件は、忘れてくれ……っ。
いずれ、けじめは付ける……」
霊夢は出口に向かった。
藍は霊夢を見れなかった。
霊夢は部屋を出る――
――前に、こう言った。
「忘れないわ。私を思ってくれた人のことを。
ただ、私は不器用で、優しくしてくれた人を誰でも恋愛対象だと勘違いして、勝手に混乱しただけの事。
だから、不器用同士、お互い様って事で。
じゃ、また明日。おやすみ」
その言葉に、藍は救われた。
霊夢はさらに言い足した。
「おうどん、伸びちゃう前に食べてね」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なんやかんやがあったが、霊夢と藍は良き家族でいられた。
それから、さらに数日が過ぎた。
今日は、霊夢も藍も休みの日であった。
霊夢と藍は二人で作った朝食を食べた。
霊夢が、藍の作った豆腐とお揚げの味噌汁の具と出汁と味噌のパーフェクト・ハーモニーを褒めると、
藍は、霊夢が作ったベーコンエッグのベーコンカリカリ、卵半熟の焼き加減を褒めた。
そして、いずれも味は絶品であった。
和気藹々とした雰囲気で朝食を終え、
食後のお茶を楽しみながら、二人は居間からのんびりと外を見ていた。
「春ですよ〜!! 幻想郷のみなさ〜ん!! 春たけなわですよ〜!!」
ズババババババババババッ!!
チュドドドドドドドドドドンッ!!
ビリビリッ!!
何時に無く、リリーの弾幕が強烈だ。
着弾した結界の振動がこっちまで伝わってくる。
「春〜!! 春です――」
ヒュッ!!
バキャッ!!
「――グエッ!?」
ひゅるるるるる〜〜〜〜〜……。
リリー・ホワイトは、何者かに撃墜された。
ガシャンッ!!
結界を破って、リリーを打ち落とした物が庭先に降って来た。
霊夢は護符を構えながら庭に出て、藍は後方支援の態勢に入った。
霊夢が庭先で見つけた物。
それは、くず鉄と成り果てた、目覚まし時計であった。
霊夢と藍は、顔を見合わせた。
二人は、慌てて邸内を走った。
その部屋は強固な結界で封鎖されていた。
なのに、呪術で鉄壁と化した部屋と廊下を隔てる障子に、穴が開いていた。
内側から、穴が開けられていた。
霊夢は、障子に手をそろりと掛けた。
以前、この部屋を開けようとした時は、衝撃波が全身を襲い昏倒した。
今回は、そんなことは無かった。
霊夢は、力いっぱい、障子を開け放った。
室内では、
八雲紫が、
巻物状態になった布団に抱きつき、
惰眠を貪っていた。
藍は室内を見た。
案の定、
枕元にあった目覚まし時計が無くなっている。
八雲紫が、
冬眠から目覚める時が、
やってきたのだ。
「紫……、紫……」
霊夢は、紫を優しく揺すった。
紫は起きなかった。
「霊夢、そんなんじゃ駄目だ」
今度は、藍が紫を起こそうとした。
「紫様、春でございます。お目をお覚ましになって下さい」
ゆっさゆっさ。
藍は、紫を乱暴に揺すった。
それでも、紫は起きなかった。
「藍……、私に任せて……」
「ひ……」
ゴゴゴゴゴ……。
どす黒いオーラを纏わせた霊夢が歩み出たので、
藍は生命の危機を感じて、場を明け渡した。
「紫ぃ……」
紫は若干顔をしかめたが、それでも起きなかった。
もし、ここで起きていれば、その後の悲劇は回避できたであろう。
「おっきろ〜〜〜〜〜っ!! この、宿六があああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
どがばぎぃぃぃぃぃっ!!!!!
蹴りに定評のある巫女の、黄金の右足によるキックによって、
紫の体はサッカーボールの如く、宙を舞い、
紙風船の如く、壁に激突して潰れた。
「ぐえ゛……」
紫は、二度と目を覚ますことはなかった。
――かと思うような衝撃であった。
「ゆ、紫様〜!! 大丈夫ですかっ!?」
ばしっばしぃっ!!
藍はピクリともしない紫の両方の頬を叩いた。
かなり力を込めて叩いた。
霊夢は、
あっちゃ〜、殺っちまったかな〜?
と、言うような顔をして、頭を掻いていた。
紫の両頬が腫れあがり、
藍は今度はグーで殴ろうかと考え始めた頃、
ようやく、紫は目を覚ました。
「う゛ぅぅ……、な、なに゛ごど……」
「紫様、うなされておりましたよ。ほれ、このように寝乱れて」
「う゛、ぞう゛ね゛……、う゛う゛、あ゛だま゛がいだい……」
「紫!!」
霊夢は紫に駆け寄り、全身に治療護符をペタペタと貼り付けた。
見る見るうちに、紫の顔の腫れが、全身のダメージが消えていく。
「霊夢……?」
「そうよ!! 紫、自分の妻の顔を忘れた?」
紫は、目を擦り、若干寝ぼけた様子で、目覚めた時にする挨拶をした。
「おはよう、霊夢、藍」
「おはよう、紫」
「おはようございます、紫様」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
顔を洗い、歯を磨き、長時間にわたる化粧を終え、ドレスに袖を通した紫がようやく、霊夢達の前に現れた。
「待たせたわね」
「本当にね。紫、一体何に時間かけてんの?」
「女はね、愛しい人に見てもらうために、自分磨きに精を出すものよ」
「私、すっぴんの紫も、好きよ」
ぼっ!!
真っ赤になる紫。
何故か、真っ赤になる霊夢。
二人を見て、苦笑する藍。
ほのぼのした光景であった。
「あら、霊夢」
「?」
「そのスカーフ……」
「ああ、これ……?」
紫は、霊夢のスカーフが黄色でも紺色でもなく、黒であることに気付いた。
「紫と外界に新婚旅行に行ったときに買ってもらった思い出の品だから……」
「そうなの。てっきり誰か近しい人が亡くなって、喪に服しているのかと思ったわ」
「……そうかしら?」
「でも、何で黒を身に着けようと思ったの? 確か、他にもいろんな色の物を買ったと思ったけれど……」
霊夢は、途端にもじもじしたかと思うと、意を決して口を開いた。
「だって、紫、言ってたじゃない。
『黒を身に付けると、女の魅力が上がる』って……」
紫は、記憶の糸を辿って、その発言をした時の事を思い出した。
「あ……、あぁ、あれね。
あれはねぇ……、こ・う・い・う、意味よ」
そう言うと、紫はドレスのスカートをたくし上げた。
足の付け根にちらりと見える、黒のレース生地。
霊夢はそれを凝視した後、あわてて顔を背けた。
ドキドキ。
意味は通じたようだ。
か、可愛い……!!
紫は欲情してしまった。
「れ、霊夢……。私の寝室に行かない?」
顔を真っ赤にしてうつむく霊夢に、豊満な胸と股間を押し当て、そう耳元で囁く紫。
胸の谷間にも、黒のレース。
霊夢は、愛しい良人の濃厚な誘惑に何とか抗い、紫を両手で押しのけた。
「だ、駄目よ!! 紫のお布団、干さなきゃなんないし……」
「も〜う!! 霊夢のいけずぅ〜」
紫は頬を膨らませ、ぶ〜たれた。
「だから……、夜に、ね……」
俯き、顔を赤らめながら霊夢は言った。
「ほんと!? 絶対!? 龍神様に誓う!?」
「ち、誓うから!! 誓うから、そう、迫らないでぇ!!」
目を期待に潤ませながら眼前に迫る紫に、ドン引きの霊夢であった。
「じゃ、私は食器を洗うから、霊夢、紫様の食事の支度を頼む」
「分かったわ」
「ごっはん〜、ごっはん〜、霊夢と藍の手作りご飯〜、おなっか、ぺっこぺこ〜」
てきぱきと洗い物や味噌汁を温める藍と霊夢に、
子供のように両手を振り回し、調子外れの即興の歌を歌いながら朝食の支度が整うのを待つ紫。
霊夢は、卓に伏せられたままの、
紫の茶碗とおわんを取り上げた。
これから、食卓は一層賑やかになることだろう。
霊夢は、再びやってきた八雲一家の団欒に胸を膨らませ、
紫の茶碗に、ご飯を妖怪の山盛りにするのだった。
・・・・・絵のほうも結構センスあるじゃない・・・!
ゆかりんはいつも全裸で寝るんだよ
紫という枷が微妙な関係を醸し出して心躍ります。
僭越ながら分類タグでネタバレになっているのが気がかりでした。
藍たちとの微妙な空気も、きっとすぐに落ち着くことでしょう。
この世界はこんなにも優しいのですから
藍と霊夢がすんごくかわいくてしかたないとです。