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『Sinners (上)』 作者: んh
「でも、私は真実を見る観察者なだけで、幻想郷を創るのは貴方達なのです。」
――東方花映塚:射命丸文
― 壱 ―
それはどこか荒涼とした感じのする部屋だった。
カーテンでぴちりと密閉された薄暗い室内。紙屑に一面覆われた床からはうずたかく積まれた書類の塔がいくつも伸び上がり、天井に迫らんばかりの勢いで並び立っている。さながら摩天楼のようなそれは、一種近代的な威圧感と寂寥感に満ちていた。
部屋の入口から紙のビル群をかき分けていくと、行き止まりに小さなベッドが据えられている。白木に薄いシーツを被せただけのそれは、およそ質のいいものでもない。書き損じた原稿、手帖、扇、そしてカメラ――やはり散乱する物の間に嵌め込まれたように、射命丸文は軽く背筋を丸めた格好で寝息を立てていた。
ふいに灰色の摩天楼に警報が響く。それはいつだか香霖堂で買った「目覚まし時計」という道具だった。すっかり物と同化していた文がおもむろに起き上がる。
「ん、んん……ん……」
目蓋をこすりながら、文は部屋の隅の机に置かれた時計の頭を叩いた。樫でできた無骨なつくりの作業机には、半開きの「文々。新聞」と記事の断片が無造作に散らばっている。どうやら校正作業の最中に前後不覚になってしまったらしい。薄暗い部屋の中、河童特製の電灯に照らされた机上だけが、光の中で浮き上がるように煌々と輝いていた。
文は頭を掻きながら、一刻も早く現(うつつ)の世界に戻ってこようと身支度を始めていた。艶々とした輝きを放つ黒髪は長い間ベッドに押し付けられていたにもかかわらずしなやかさを失っていなかったが、ろくに手入れもせず寝入ってしまったせいか、ところどころ寝癖が立っていた。彼女は跳ねたところを手で押し撫でる。見た目の清潔感さえ保たれていれば新聞記者として十分だ――それが文の容姿に関する考え方だった。とげとげしたショートボブも面倒だからと自分で切ったものだったが、そんなぞんざいな扱いでも枝毛一つないのは元の髪質が余程よいためだろう。
少しずつ開いてきた目は鋭く切れ上がり、睫毛は真っ直ぐ上を向いていて、鼻筋はすっと通っている。それは気後れさせるほどの利発さを感じさせたが、どこかでき過ぎているような嘘臭さも思わせた。肌着一枚の格好でむき出しとなっていた手足は幻想郷最速と評される力を宿しているとは思えないほど細くすらりとしていて、弾むような瑞々しさと思春期特有の危うさに似たものが並存している。
壁に掛けてあった白いブラウスを羽織り、黒のミニスカートを履き、ネクタイを締めてから赤の山伏帽をちょこんと頭に載せる。たちまち気だるかった体に力が戻ってきた気がした。壁に掛けてあるのはその服も合わせて同じ型のものが三着のみ、あとは下着やら雑品やらを入れる小さなタンスがあるだけで、他に室内を飾っているのはうっすら黄ばんだ壁紙だけであった。
机の隅にあった笹包みから一枚だけ鹿の干し肉を引っ張り出すと、文はそれを小さくちぎって口に放り込んだ。硬い肉を噛みしめるごとに頭が冴えていくのを感じる。ベッドの端に開いたままの格好で転がっていた手帖を拾い上げると、ぱらぱらと中身に目を通しながら今日の予定の確認を始めた。どれも文が起き掛けに欠かさず行う日課である。
「ふむ……今日こそあれの口をなんとかして割らさねばなりませんね……」
干し肉を三片ほど胃に流し込んで、文は高下駄に足を押し込みながら部屋の扉を開いた。自室に入るところだった姫海棠はたてと鉢合わせしたのは、文がそうやって朝の儀式を済ませドアから顔を覗かせた、ちょうどその時である。
「あ、ゃ、おはよ……」
「ああ、おはよ。今上がり?」
目が合うや怖気づいたように顔を伏せたはたてに対し、文はしごく平坦な調子で挨拶した。特に言葉を続けるでもなく、かといって部屋に入ろうとするわけでなく棒立ちするはたてに、文もどうしていいかわからずじろじろと視線だけを向けていた。
はたては文よりも少しばかり背丈が低く、体もやせすぎと言っていいほど華奢だった。栗色をした長髪はやけに細くて自重で千切れそうな感じだったが、手入れが行き届いているのかピンとハリを保っている。腰まで伸びたそれを二つに分け紫のリボンで結わえるのが彼女お決まりのスタイルだった。真っ直ぐ上を向いたリボンにはしっかり糊が効かせてあるのだろう、取材帰りにもかかわらずへたれた様子はない。市松模様のスカートと下駄紐を上まで可愛らしく巻きつけてある黒のソックスもよく仕立てられていて、持ち主の並々ならぬこだわりを感じさせた。
「……あ、ご、ごめんねっ」
白昼夢から醒めでもしたように、はたてはそう呟いた。文へ大仰な礼を向けると、彼女は玄関のノブをやたら勢いよく回した。
はたてが文の隣に居を構えたのはつい最近のことである。ここは天狗の宿舎であり、五階建ての古びたアパートといった造りの建物である。部屋の空きさえあれば希望者は格安で入居できるようになっており、いわば下っ端天狗達のための公営団地みたいなものだ。間取りはシャワートイレつきのワンルームと決して広くはないが、新聞を書いて呑んで寝るだけの弱小新聞記者にはもってこいの環境といえた。今はたてのいる部屋にはもともと別の鴉天狗が住んでいたのだが、毎年恒例の新聞大会でその元住居人の新聞が賞を獲り、晴れて一軒家に越すことになったのだ。そうしてできた空き部屋にはたてが転がり込んできたわけである。
「なんで謝んのよ。それよか何かいいネタあった?」
下を向いたまま足早に部屋に入ろうとするはたてを、文は呼び止めた。文の口調は丁寧で、聞く者に心地よい親しみを感じさせるものだったが、なんだか整いすぎていて白々しくもあった。口の利き方こそ違えど、取材の時もこうして普通に話している時も、こうしたよそよそしい感じは常に消えなかった。こちらはそんな口調など気にかける余裕もないといったふうで、跳ねるように肩を震わせ文を直視した。
「え、ええ! もちろんよ。ちょっとルポ物を書いてみようかと思ってね。いまさっき白狼天狗にアポ取ってきてさ、現場に密着させてもらうことになったの。これはいけるって感じがするわー」
はたては取り繕うように胸を張った。聞き手は軽く目じりだけを崩す。
「今さら天狗の哨戒なんてそんないいネタにならないと思うけどねえ。」
「せ、鮮度じゃないのよ。わかってないなあ文。こういうのはね、ありふれた日常からどれだけ真実を抉り出せるかなの。」
向けられた軽口に、はたては顔を真っ赤にしてまくし立てた。文は思わず口元を緩める。その様子がなんだかとても貴重なものに見えたのだ。手にあったカメラで、文は素早くはたてを写真を収めた。ふいのシャッター音に、はたてはしばし口をあんぐりとしたまま呆然と立ちすくんでしまった。
「ぇ、な、なにすんのよ!」
はたてはたちまち跳ね上がった。その様子も可笑しかったのでもう一度シャッターを押す。
「いや、なんかいい表情だったから、なんとなく」
「な……やめてよ、バカじゃないの……」
満悦そうにはにかんだ文に、はたてはなおも突っかかろうとしていたが、顔をいっそう赤くして口をもごもご動かすのが精一杯のようだった。もう一枚撮ろうとかと思ったが、それはなんだか憚られた。むず痒い笑みを代わりに残して、文は隣人の脇を通り廊下を進む。はたてはまた顔を伏せ居心地悪そうに突っ立っていたが、突然なにか思い出したような様子で、突き当たりにある階段を下りようとしていた文に慌てて声を掛けた。
「そっ、そういうあんたは、これからどこ行くわけ?」
「いつものところよ。」
こざっぱりした微笑みだけを向けて、文は階段を下りていった。
■ ■ ■
太陽は天頂と地平のおおよそ中間点ぐらいの高さにあった。春も峠を過ぎ、季節は早くも梅雨の入りである。おそらく昼前に一雨あったのだろう、湿気を含んだ空気と立ち昇る木々の精気が、雲の切れ間から差し込む陽光と混じり合い、柔らかな芳香をたてていた。
文は芳しい風の中をゆったりと飛びながら、時折りファインダーごしに世界をのぞく。空から見てネタになりそうな物を探すためだ。緑の中で遊ぶ妖精の群れ、紅い館と青の湖、雲間を進む遊覧船、忙しなく動く里の往来――それをパチリ、パチリとカメラに収めていく。すっかり撮影に夢中になっていたのか、目的地を示す赤い鳥居はファインダーを覗かずとも視界に捉えることができるようになっていた。
「また大盛況ねえ。」
境内に降り立った文は口元に皮肉を泳がせながらひとりごちた。確かにここ博麗神社は賑やかである。縁台の真ん中では天人と吸血鬼が黄色い声を上げながら茶をしばいていた。その横では黒猫が死臭をぷんぷんさせながら餌をねだるようにごろごろ喉を鳴らしている。奥まったところでは鬼が酒を呷って寝ているのだろう、高いびきがここまで聞こえてきた。文のように麓の様子を取材する新聞記者が不規則な生活になってしまうのは仕方ないにしても、お天道様がまだ空にあるうちからこうも多種多様な人外が集まる場所はここをおいて他にあるまい。
居並ぶ有名どころに簡単な挨拶を振りまきながら、文は縁側伝いに家の中を覗きみた。今にも宴会が始まりかねないこの賑やかな神社に、目的の人物がいないはずがないと思ったからである。
「魔理沙さーん、魔理沙さんいませんかー?」
「いないぜー」
その返事からさして間を置かず、二人の人間が居間の方へ戻ってきた。最初に駆け込んできたのは霧雨魔理沙、魔法の森に住む普通の魔法少女である。くるくると渦を巻いた量感のある金髪の奥に、あどけない造りの顔がひっそり隠れているようにして佇んでいる。瞳はくりっと大きく、頬はふっくらとして瑞々しかった。しっかりとした生地でできた白黒の魔女装束と比較的小柄な背丈が、顔立ちに残る幼い印象をいっそう高めている。
部屋の中だというのに相変わらずつばの広い黒の三角帽子をかぶっていたが、その帽子越しでも快活な表情がはっきりと窺えるので、表情そのものが光っているような感じを文は受けた。もっともその光はどこか青白くて、まるで生命そのものを削りだして燃しているような病的な輝きであった。
腰から垂らした大仰なエプロンスカートを巻き込むように荒っぽくあぐらをかいて、魔理沙は文へにかっと笑いかけた。
それにほんの少し遅れて、もう一人の少女が部屋に入ってきた。その肌は不自然なほど白く、髪の毛はなんだか鮮やか過ぎるほど黒々としていた。いつも通り纏っている赤の巫女装束と合わせて三つの原色が、一種名状しがたい緊張感を孕んだ調和を彼女にもたらしている。それは例えるなら赤・黒・白の三色が、胸元にある小さな黄色いネクタイを軸にして、絶えず互いの動向に目を光らせながら牽制し合い均衡を保っている、そんな感じなのだ。
そのくせ面立ちは薄ぼんやりとして、まるで生気というものがない。それは顔を造りに反して、――実際彼女はひいき目なしに美しかったのだが、――見る者の心に妙な違和感を残すのであった。判りやすく言えば印象に残らない、美しい以外の形容が難しい顔立ちなのである。
「なんだ文か。」
その不思議な巫女、博麗霊夢は抑揚のない声を文へ投げかけた。そしてそれ以上新たな訪問客へ注意を向けるふうもなく、台所から持ってきた急須と湯呑みを卓袱台に並べる。文は一礼しながら相伴に預かった。
「あややー 申し訳ありません。勝手に上がっておりました。」
「別にいいけどさ、何? また取材?」
「霊夢はレギュラーだからな。」
茶の注がれた湯呑みにさっそく手をつけながら、魔理沙は霊夢におどけた視線を向ける。向けられた方はほんの少し眉間にしわを寄せながら、睫毛を下へ向けた。
「やめてよ。というかさ、『巫女動静』だっけ? あれ何なのよ、あたしのプライバシー駄々漏れじゃない。」
表情はそのまま、今度は文をちらと見遣った。文はこめかみをぽりぽりと掻きながら生温い笑みを返す。
「いえいえ、なんでも外の新聞にはその社会の統治者の簡単な一日の動きを記したコーナーがあるらしくてですね。おもしろそうだと思ったので、はい。」
「いつの間にあたしそんなに偉くなったのよ。」
「博麗の巫女は幻想郷の調停者ですよ。それにですね――」文はもったいぶった風に咳払いを入れた。「あれは今や『文々。新聞』屈指の人気コラムです。まあつまり幻想郷の妖怪は霊夢さんの一挙手一投足に注目しているわけですよ。」
「つっても毎日茶をしばいて掃除するふりしてるだけだけどな。」
すかさず茶々を入れたのは魔理沙だった。だがその言はコラムの特徴を的確に表したものと評価して差し支えないだろう。動静といっても別に番記者よろしく一日中巫女に張り付いているわけにもいかないので、一日一回時間ができたときに博麗神社に顔を出して、その時の霊夢の様子を簡単に書き出しただけの至ってお気楽な連載記事なのだから。だから茶を飲んでまったりしていたとか、掃除のふりをして葉っぱを散らかしていたとか、縁側で眠りこけていたとか、その程度の内容でしかない。それでも彼女に関心を抱く人外は――特に実力者達は――この記事をたいそう好んだ。
「どんな行動をしているかはたいした問題ではないのですよ。」と文はしたり顔でさえずる。「ありふれた日常、それこそに最も得がたい美徳があるのですから。」
「そりゃそうだ。平々凡々、まあもっとももうちょい刺激と変化があった方がいいと私なんかは思うがな。」
「だったら今までどおりでいいんじゃない? あんたはさ。」
文の分の茶を注ぎながら、霊夢はぶっきらぼうに呟く。それは独り言のような物言いで、果たして魔理沙に向けられた言葉だったのか場にいた者が訝しむほどだった。絶えず元気に動いていた魔理沙の面立ちも、その時ばかりはおとなしくなったように見えた。三人は示し合わせたように湯呑みに口をつける。相変わらず温いお茶だった。霊夢の淹れる茶はいつもこうなのだ。
「ところで、魔理沙さん。先日から言われているあの件についてですが――」
図らずして生まれた間を逃すまいと、文はぱっと顔を光らせて魔理沙に声をかける。かけられた方は相手の腹を探るそぶりでちらと視線を遣ったが、すぐさま悪戯っぽい笑顔に戻った。
「ああ、あれか。あれは完成するまで待てって言ったろ。もうじきできるから我慢しろよ。」
「あややー せめて作業中の様子だけでも取材させてくださいよ。完成までは記事にしませんから。」
文が口を割らせようと躍起になっていたのは魔理沙だった。なんでも水面下で大掛かりな研究を進めているらしいという情報が文の耳に入ってきたのである。まあもっとも、その極秘情報を彼女に仄めかしてきたのは他ならぬ魔理沙自身なのだが。
ただ文が記者然としてその内容に踏み込もうとすると、何故か秘密主義が顔を覗かせ、途端に突っぱねられてしまうのだ。なので彼女は中途半端にだんまりを決め込む魔理沙から詳細を聞きだそうと、ここしばらく手練手管を繰り返していたのだが、このどこか頑固で一途なところのある人間魔法使いは頑としてそれ以上口を割らないのであった。
「だから完成したら作業の中身まで全部教えてやるって。」
「やっぱり自分の目で見ないことにはいい記事は書けないもんでして。なんとかお願いしますよ。」
「しつこいやつだなあ。鴉のせっかちは行水ぐらいにしとけ。」
「魔理沙、いる?」
食い下がるブン屋をあしらっていた魔理沙を呼ぶ声は、やはり縁側からだった。顔を見せたのは賑やかな色を纏った少女である。
「ばっ、アリスなんで今くんだよ……」
「昨日の話しなんだけど……あら天狗?」
魔理沙の嫌みに嫌みを返すのも忘れて、アリス・マーガトロイドは座の中にいた文へ決まりの悪い愛想笑いを向けた。たまらず顔をしかめる魔理沙を見て、文の眼にたちまち光が灯った。
「おやおやこれはアリスさんではございませんか。本日はどのようなご用件で?」
「いや、私は、そのちょっと魔理沙に話があってね……」
アリスの容姿は人形そのものという表現が正にぴったりだろう。白磁のように透き通った肌に、肌触りのいい絹糸のような金髪。紐止めの青地のベストや白のケープ、ピンクのチョーカーは、さして機能性に富んでいるとも思えない。それら全てが俗世の空気を拒絶するような、一種非現実的な雰囲気の演出に一役買っている。
顔つき自体もこれまた人形そのものといったすまし顔で、絶えず皮肉めいた薄笑いを浮かべるのが常であったが、それはどこか臆病そうにも見えた。もっともこうして少しちょっかいをいれてみるとたちまち多彩な顔に変化することは文ならずとも仲間内では知られていることである。へどもどと目を泳がせるアリスに、文は慇懃な物腰の中に威を含ませながら詰め寄る。
「ほう、どういったお話で?」
「えと、ちょっと貸してた本を返してもらおうかなって……」
「ああそうなんだ! だからさ、もういかなくちゃな。な、アリス?」
「ええ、そうね! 早く行きましょ、ほらほら――」
「そういえばさっきあんた――」
話を無理やり打ち切ろうとする二人を遮ったのは霊夢だった。
「これから紅魔館行くって言ってたわよね? なんか用事があるって。」
魔理沙は肩を震わせた。アリスはもっとひどかった。さっと顔を青く染め、眉は痙攣して白状せんばかりだった。先ほどまで魔理沙が一方的にまくし立てていただけの、さして中味のない世間話の断片を的確に拾い上げてくる辺り、さすがは霊夢ということか。魔理沙からすれば霊夢が自分の話をまともに聞いているとさえ思っていなかったのだから、この指摘は間違いなく彼女の度肝を抜いたようだった。文は勝ち誇ったような微笑を口元に載せたまま、ゆっくりと頷いた。
「あややー 実はわたくしも丁度これから行くところだったのです。紅魔館。ええ、行きましょう、行きましょう!」
「……アリス、お前ホント空気読めないよな。」
「何よ、私のせいだって言うの?」
「他に的確な釈明があるのなら是非ご拝聴したいもんだがな。」
二人はいつもどおり口論を始めた。それはこの神社へ頻繁に顔を出す者にとっては散々見慣れた痴話喧嘩である。整った顔を力一杯歪めて食ってかかるアリスに、魔理沙も可憐な顔にいつも以上の喜怒哀楽を纏わせて応酬する。言葉尻だけ見れば棘があっても、同じ場に立ち会えば思わず見入ってしまうような絵になる光景である。
だから当然カメラが自然と動いた。パチリと切られたシャッターの音に、それまで全然違う面立ちをしていた魔法使い達は全く同じタイミングで文の方へ首を向けた。
「いえ、大変魅力的な光景だったもので。なんとなく。」
「そんなわけないでしょ。」
幾分ヒステリックな調子で食ってかかるアリスに対し、魔理沙はただ眉を軽くひそめるだけだった。それすら大袈裟な反応を見せるアリスに向けられた部分が大きかったのかもしれない。
文の盗撮癖はもはや矯正の余地なしといったところで、一緒にいると気付けば数十枚撮られていたなんてことはそう珍しいことでもない。そのほとんどが新聞に掲載されるわけでもないため、皆が目的について問い詰めるのだが、その答えは決まって「綺麗だった」だの「素敵だった」だの、およそ理由ともいえない理由なのだ。彼女と顔を付き合わすことの多い魔理沙あたりの連中はもうすっかり諦めているようで、最近はさして気にする様子も見せなくなっていた。
魔理沙はもうすっかり腹を括ったような大柄な態度で、湯呑みに残っていた茶を一気飲みした。アリスはやるせない気持ちを逃がす場もないのか、じりじりと体を揺すりながら部屋の隅に突っ立っている。
この二人がもう間もなく席を立つことはその佇まいで明らかだったのだろう、霊夢は空になった魔理沙の湯呑みに茶を継ぎ足すでもなくただ淡々と、一時前の喧騒などなかったようなそぶりで茶をすすっていた。
「それじゃ。またな霊夢。」
「んー」
鼻から漏れ出たような霊夢の生返事。魔理沙はその無気力ぶりを特に茶化す様子もなく、帽子を目深に被り直してからすっくと立ち上がった。アリスも簡単に一礼だけして無言のまま魔理沙に続く。文は注ぎ足された湯呑みの中味を勢いよく飲み干すと、竹のように跳ね立った。
「では私も失礼します。ごちそうさまでした霊夢さん。」
「ん」
やはりそっけない家主にぺこりと頭を下げ、文は縁側から飛び出した。既に霊夢の回りには構ってもらえないことに不満たらたらの比那名居天子やレミリア・スカーレット、火炎猫燐が飛びつかんとしていた。霊夢はまとわりつく連中をうざったそうにあしらっていたので、文の方すら見ていなかった。
魔理沙は鳥居の下で文が来るのを待っていたようだった。もはや逃げられまいと柄にもなく降伏でもしたのかと、少々面食らった様子で駆け寄った文に、魔理沙は唇を結びなおして軽く頷きかけた。彼女もまた同じように少し意外だという印象をこの鴉天狗から受けたようだ。
「アリスは一旦家に寄るってよ。なんでも忘れ物をしたとかで。」
「それは構わないのですが、待っていたのですか、わたくしのことを?」
「ん? ああ。少し時間がかかるかもと思ってさ。」
魔理沙は口ぶりこそいつも通り快活な調子だったが、言葉尻にはなじるような苛立ちと気遣うようなよそよそしさが滲んでいた。文の顔にほんのわずか緊張が走る。探るように、彼女は努めて気さくに待ち人へ問いかけた。
「あや? えーと、どういう意味でしょうか?」
「霊夢がさ、もう一杯飲んでけとか言うかと思ったんだよ。まあやっぱりないか。」
なぜか自嘲じみた言い方で、魔理沙は文の方を見ずに答える。眉尻をぴくんと引きつらせた文へ、魔理沙は力強い、それでいて戸惑いに満ちた眼差しとともに
「いや、あいつお前のこと気に入ってるみたいだったからさ。ちょっとな。」
と続けた。文は常に柔和な笑みを絶やすまいとしながらそれに耳を傾けていたようだったが、しかしその瞳には先ほどとは異なる、粘っこい炎がうっすらと揺らめいていた。魔理沙はしばし文の返答を待っていたふうだったが、やがてこらえきれないといった様子で先に口を開いた。
「ああ、気にしないでくれ。たださ、珍しいなと思ったんだ。霊夢がこっちから頼みもしないのに茶を振舞ってそのうえ注ぎ足すなんてな。だからさ――」
「あやーそうなのですか?」
文は遮るように突然甲高い声を上げると、胸ポケットから手帖を取り出した。そして人懐っこい笑顔とともに、
「いやはや、賽銭が少ないとは聞いていましたが、そこまで困窮していたとは思いませんでした。魔理沙さんにお茶すら満足に振舞えないとは、いや全く悲しいことですね。」
と誰に向けるでもなく軽口を叩いた。文はものの二、三秒ペンを走らせると、胸元で手をぱちんと合わせるようにして手帖を閉じ、そのまま両手を掲げておどけた格好をつくる。魔理沙はずっと憤怒を腹にためたような気難しげな表情でそれを見ていたが、やがて目の前の天狗に付き合うように、力の抜けた笑みを浮かべながら小さく呟いた。
「全くだな。あいつのケチっぷりも大概だぜ。何とかしないとまずいだろう。」
「ええ、まったくです、はい」
軽妙な合いの手を入れる文へもう一度しっかりと微笑み掛けて、魔理沙はくるりと振り向き箒にまたがった。その刹那彼女が発した呟きに、やはり憂悶が混じっていたことは笑ったままの文にも伝わった。
「あいつはああ見えてさびしがりやなんだ。だからさ、お前が毎日顔を出すってのはきっといいことだと思うぜ。何とかするにはさ。」
■ ■ ■
文と魔理沙が紅魔館の図書館に辿りつくのには少しばかり労を要さねばならなかった。なにせ館から要注意人物と見なされている二人が同時にやってきたのだから。当然わけなど聞いてくれるわけもない。門番やメイドたちと一悶着起こした後、ようやく彼女たちは入館を許された。
「おいパチュリー、なんで言っといてくれないんだよ。」
「ちょっと魔理沙、ちゃんとホコリ払ってから入って頂戴。」
アリスは一足先に到着し、――彼女は客として丁重に迎えられたらしい、――魔理沙が到着した頃には目下の課題である術式の調整方法について持論を述べていたところだった。それに耳を傾けていたのはパチュリー・ノーレッジ、この図書館の主でもある生粋の魔法遣いだ。全体的に薄紫でまとめられたこの小柄な魔女は客人の不平に応えることなく、青白い、それでいて喘息持ち特有の病的な赤みの差したしかめ面を代わりに向ける。
もっともそうした反応が返ってくるのは愚痴を垂れた方も折り込み済みだったのだろう、魔理沙はわざとらしく咳き込むパチュリーに「すまんすまん」と言いながら、すっかり土ぼこりを被っていたエプロンスカートを叩いていた。
十六夜咲夜は数分前にナイフを向けていたゲスト達を瀟洒にエスコートすると、紅茶の時間をホストに確認して姿を消した。パチュリーは軽くしわぶいてから、魔理沙の後ろにいた文にちらりと視線を送る。
「本当に来たのね。」
「全部その七色莫迦のせいだぜ。」
「はいはいそうよ。お天道様が東から昇るのもポストが赤いのもみんな私のせい。」
毒の効いた魔女たちのやり取りも、今の文の耳には入っていないらしかった。それどころかこの招かれざる新聞記者は座の中にいた意外な人物に気をとられ、主人への挨拶さえもすっかり忘れて目を剥いていたのである。
二人の魔女が向かい合う黒檀の書斎机には、資料と思しき紙の束や魔導書が所狭しと積まれていた。手のひらほどの大きさの魔道具もいくつか転がっており、その精巧なつくりはアリスの作を思わせる。中央に並ぶ毒々しい色の液体で満たされたガラス瓶の中にはキノコが浮かんでおり、何らかの媒体として用いるために魔理沙あたりが持ってきたのだろう。そしてその奥に、およそ魔法使いの手によるとは思えない複雑怪奇な機械類と、ひどく見慣れた少女が座っていた。
「なるほど。にとりさん、貴方ですか。」
「いや……あはは、ごめん」
河城にとりはばつが悪そうに頭を掻いた。水色のつなぎに身を包んだこの金臭いエンジニアと文は、昔からの顔なじみである。天狗のカメラはすべて河童の手によるもので、修理や大掛かりな調整が必要な時はやはり彼女たちの手を借りることになるのだ。そして文が修理や調整を頼むときはいつもこのにとりに任せていた。実際腕には定評があるらしく、彼女を当てにする天狗は多いと聞く。
やや人見知りのするこの小柄な河童は、一重まぶたの上に太めの眉をのせて、頬もりんごのように赤焼けしていた。それはたどたどしい話し方と併せてどことなく野暮ったい、洗練されていない感じを人に与えるのだが、しばらく付き合えばそれが朴訥さという美徳にしか見えなくなってしまうような、そういった人を惹きつける純真さを生来持ち合わせていた。
「どうりで分からないわけですよ。にとりさんには時々魔理沙さんの件を話してましたからねえ。次からはリークに注意せねばなりませんか。」
「そういうつもりじゃ、なかったんだよ。」
「そうだぜ、そんな言い方はないだろ?」
わざとらしく肩を落とした文に、魔理沙がたまらず突っかかる。文は軽くため息をついてから、改めてあの人好きのする笑顔といっしょに図書館の主へ簡単な挨拶とここへやって来た経緯を伝えた。パチュリーは予想外の来訪者に腰掛けるよう懇ろに伝えると、手元にあったベルを鳴らす。打ち合わせより少し早いにもかかわらずすぐさま紅茶と菓子が並ぶあたり、さすがは紅魔のメイド長といったところであろうか。
「いやはやしかし、皆様が全員協働して取り組んでいるとはまさか思いませんでした。一人二人が手を貸すぐらいならあるいは、と思ってはいたのですが。」
文は感心した様子で手帖を開く。四人は誰から切り出したものかとしばし視線で互いの出方を探っていたが、結局最初に口を開いたのはいつも通り魔理沙だった。
「いやな、河童の技術と私らの魔法を組み合わせたらいけるんじゃないかと思ってさ。まあ私の閃きと顔の広さ故ってことだ。」
「あんたがやったのは溶液の精製だけだけどね。」
例のキノコ入りガラス瓶を指で弾きながら、すかさずさっきの借りを返すアリスに、にとりは困ったような愛想笑いをする。
「でもこちらとしても興味深い試みであることは確かでしょう?」パチュリーが諭すようにアリスへ声を掛ける。「山の技術というのは新鮮なインスピレーションを与えてくれる。私は私なりに十分楽しんでいるけれど。」
「いや、あたしらのなんてそんな……」
「卑下することなんてないわ。私たち魔法遣いもいろんな魔道具を扱うけれど、基本マジックアイテムの入手・生成に主眼が置かれているから、道具そのものとして見れば正直稚拙としかいえないものが多いの。私達はもっと機械について学ぶべきね。」
「そうそう。からくりの動力だけでここまで出来るなんて羨ましい限りよ。この分野に変に反発してわけのわからない魔導論をこねくり回す、質の悪い魔法使いって多いんだから。」
さっきまでの皮肉めいた態度はどこへやら、アリスも穏やかな口ぶりでパチュリーに続く。照れるにとりの肩を小突きながらへへんと鼻を鳴らす魔理沙へ、文はさらさらと手帖にペンを走らせながら尋ねた。
「それで、いったい何を作ってらっしゃるのですか?」
「それは言えないんだぜ。」
むう、とむくれる文に魔理沙はにかっと笑いかける。
「完成したら真っ先に教えてやるからよ。なあにとり?」
「うん。そうしようと思ってたんだ。だから勘弁してくれよ。」
文はうーんと唸る。そうまで言われては詮索も野暮といったものだが、それでも聞いてみたいのが記者の性分でもある。だがそれにも増して気になったのは二人の言葉の裏にあった奇妙な配慮だった。一瞬表情を曇らせたように見えた文を気遣ったのか、パチュリーは皆に紅茶のおかわりを勧めた。
「あや、これはお気遣いありがとうございます。」
軽く頭を下げた文の顔にはすっかりいつもの人当たりのよさが戻っていた。その後も彼女は現在進めている共同研究について、出来る限りのことを取材した。どうやら間欠泉騒ぎ以降この四人は折を見てこういう研究会じみたことをやっていたらしい。場所はこの図書館が多かったが、それ以外にもアリスの家やなんと魔理沙の家で行ったこともあったという。そうした縁もあって今回は一つ試しに合同で研究開発でもしてみようという話になったらしい。デバイスの製造をにとり、術式をパチュリー、設計がアリス、そして幹事が魔理沙というのが大まかな分担とのことである。
「テーマとして中々おもしろそうだったからね。」
アリスはカップ片手にそう言った。文はその先を聞こうとしたが、今しがたのやりとりを思い出して少し躊躇(ためら)った。そんな彼女を見て申し訳なさを覚えたのか、魔理沙が素早く言葉を引き継ぐ。
「ああ、おもしろいぜ。役に立つかは知らんがな。」
「それはいつものことだけど。」
「わたしは、役に立つと思うけどな……」
にとりがぼそりと言った。力強い言葉でなかったが、それは魔女達に何らかの共感を呼び覚ましたようだった。ひねくれ者ぞろいの彼女達がそろって微笑んだ。それは素敵な光景だった。そう、文の大好きな。
パシャ
「また盗撮?」
「いや、なんとも微笑ましいシーンだったもので。なんとなく。」
アリスは眉をひそめた。他の三人は気にしていなかったが、彼女は写真に撮られることがあまり好きでないようだった。「取材慣れしてないからだぜ。外出ろよ」と魔理沙はよく彼女をからかった。パチュリーはパチュリーで文がしょっちゅう紅魔館に顔を出すせいかすっかり慣れっこになっているらしい。ストロボにたじろぎもせず本を読み続ける姿は一同の笑いを誘った。
「あら、盛り上がってますのね。」
突然横から飛んできた声に、机を囲んでいた者たちの眼もそちらに集中する。いつやって来たのか、視線の先には新しい紅茶を持ってきた咲夜が立っていた。
物腰こそたおやかな佇まいの彼女だが、一方でどこか人を寄せ付けない、というか人を人とも思わないような鋭利で透明な面立ちを崩すことがなかった。才気というものが常に全身から溢れ出していて、本人もそのことを自覚した上で一切隠そうとしないところがある。しかもそれは自尊心ゆえではなく忠誠心ゆえなのだ。
一同の視線を浴びて、咲夜は少しとぼけたような笑みを造る。こういうふうに抜けたところのあった方が従者として魅力的だろうという、独特の計算を疑ってしまうような表情だった。そして垢抜けた仕草を飾り立てるように、彼女の手には茶器以外のものがあった。
「え? ちょっ、それ私のカメラ!」
「へえ、こういう風になってるのね。」
お近づきついでの気紛れか、咲夜は時間を止めていた最中に文の手からカメラをひったくったらしい。その落ち着いた品のある佇まいに似合わず珍品蒐集を好む彼女は、初めて触った天狗のカメラを興味深げに手の中で転がしていた。慌てて自分の分身を取り戻そうと体を伸ばした文を煽るように、咲夜はふざけ半分にカメラを構えた。
「返してくださいよ、ダメですって。」
「それじゃみなさん、はいチーズでよかったかしら?」
パシャ
机の方にレンズを向け、咲夜は見よう見まねでシャッターを切った。おそらくやり方をちゃんとは知らなかったのだろう、押した彼女自身もびっくりした様子だった。ストロボの光を目に浴びて、文はしばし顔を真っ白にしながら魂が抜けたように呆然としていた。
「あらごめんなさい。本当に撮れちゃったみたいね。」
「気にすんなよ咲夜。ちょうどみんなが座ってたとこがまとめて撮れたじゃんか。」
「そうそう。いや、なんかいい感じだったから、なんとなく撮っちゃいました、あややー とでも言っとけばいいのよ。」
アリスもここぞとばかりに魔理沙にのっかる。ふたたび書斎机全体が笑いに包まれた。文はへらへらと笑いながら、頭を掻くしかなかった。
「あやや……いやはや、お恥ずかしい……」
■ ■ ■
「あの……文さん、ですよね?」
東風谷早苗は草むらの奥の人影に恐る恐る声を掛けた。布教ついでの買出しのために向かった里から山頂の守矢神社へと帰る道すがら、草むらはおろか参道も薄闇に溶けた時分であった。まだ幻想郷的に垢抜けていないところのあるこの風祝は、緑髪と青の装束を茜色の夕焼けに浮かべながら、なんだかおっかなびっくりというふうだった。その人影はよく見知った者のはずだったのだが、それが本当にその人物なのか何故だか自信が持てなかったのである。
声をかけられた文はまるで捕食者に迫られた小動物みたいな勢いで振り返った。表情には戦慄の色がありありとしていて、頭は後ろに置いたまま、しかし今にも飛び掛らんばかりであった。すっかり怯えてしまったのは早苗の方である。
「あ、なんかごめんなさい……でしたか?」
「あややー いえいえ違うんです。ちょっと眩暈がしまして、ええ。」
「大丈夫ですか? 具合が悪いのなら送っていきますよ。」
「お気になさらないで下さい。ちょっと寝不足なんでしょう。締め切りが近くてですね、全く大忙しですよ、はい!」
文はばねのように体を伸ばした。そして満面の笑みとともに、早苗を引っ張って草むらから飛び出した。忙しない文にされるがままといった感じで、早苗は参道の真ん中へと引き戻される。彼女はあらためて文の顔をまじまじと見た。その笑顔はさっき覚えた動揺をほだす柔和なものだったが、やはりどこかずれているような感じだけは消えていなかった。
「あら、文さん。どうしたんですかそのカメラ?」
文は再び顔を引き攣らせる。まるで腹でも切ったかのように、腰の裏に隠してあったカメラからはむき出しのフィルムがだらんと飛び出ていた。フィルム式のカメラをまともに使ったことがない早苗にも、それがまずい状態であることは分かった。
「フィルムが、それじゃせっかくの写真が――」
「あやや〜! いやはや、実はですねえ早苗さん……」
文は早苗を抱え込んで頭を引き寄せた。突然のことに早苗は彼女の表情を窺いみる暇もないまま、囁きかけられた声に耳をそばだてるしかなかった。
「ちょいと尿意を感じて草むらに入ろうとしたんです……そしたらカメラをおっとこしちゃいまして、はい。」
「え、あ……/// ごっ、ごめんなさい私ったら……」
早苗はたちまち顔を赤らめた。文は早苗を解放してからもう一度耳元へ囁く。
「だからお願いします、どぉーかこのことはご内密に。鴉天狗が野ションしようとしてフィルム駄目にしたなんて知られたら末代まで笑われてしまいますからね……」
「はい! 大丈夫です。絶対に言いませんから! 任せてください。」
早苗は逆に文の手を取って、どこか感極まった調子で叫んだ。やはり外で生まれ育ってきたせいなのか世間ずれした部分が多く、魔理沙あたりもかつて「あいつはどうもよく分からん」と首をひねっていたことがあった。
一般的には人好きのする、愛らしい見た目と言って間違いないのだが、こう目鼻立ちが全体的にぼんやりと間延びしていて、なんだか危なっかしく頼りない印象が拭えない感がある。最近は山の外へも積極的に顔を出していることもあり、彼女の人となりを知る人妖も増えたが、一人合点して突っ走る癖のせいか、そのうち変な人にだまされそうで心配だという評判が定着しつつあるらしい。
有頂天になった早苗を落ち着かせようと、文は適当に世間話を振ることにした。早苗はたちまちいつもの調子に戻り、年相応の少女らしいあけすけな態度でそれに相槌を打ったり感想を述べたりしていた。しばし参道を二人並んで歩いた後、早苗はふいに守矢の風祝たる毅然とした佇まいで、文に正対した。
「そうでした文さん。今度の御柱祭なのですが、八坂様がそろそろ日程の調整をせねばと仰っておりました。大天狗様のご都合などは――」
「そういうことでしたら私が取り次いでおきましょう。上の方も祭りの話で嫌とは言わないですよ。」
「それは助かります。それでですね、今度の祭りなのですが、参拝客を増やすために天狗の皆様の露店をもっと充実させたいとこちらでは考えておりまして……」
その後も早苗は祭りについての私案を真剣な眼差しで文に語った。聞き手の方も失礼にならない程度の愛想を振りまいて、彼女が快く会話できるように努める。
今までこの現人神が見せていた多彩な表情も、結局はこの真剣さに帰結すると考えればすべて納得がいく。要するに彼女はここで生きていこうと必死なのだ。しばし顔を覗かせる暴走もその一環であると思えば、文は彼女の振る舞いに敬意を払わないではいられなかった。
「――どうかしました文さん、なんか私の顔についてます?」
聞き手の表情が場違いなほどぼんやりとしている気がして、早苗は思わずそう問いかけた。文は眠りから覚めたようにぱっと目を見開いてから、そっとはにかんだ。
「いえいえ。なんとなくみとれてしまっただけです。一旦新しいフィルムを取りに自宅に戻りますから、新しいお祭りの案については神社で詳しく伺ってもよろしいでしょうか。いい記事になりそうですしね。」
「周りに沢山人間や妖怪が居たり、一緒に行動を行っても、常に自分一人である。実は冷たい人間なのかも知れない。」
――東方永夜抄
― 弐 ―
灰色の空間の中で、文は目を覚ました。体に半分掛かっていたシーツをまくって彼女はむくりと起き上がる。あのあと守矢神社で取材がてら一杯ご馳走になって、帰ってから校正を終わらせ山伏天狗に届けたところで記憶は途絶えている。おそらく印刷所から戻るやいなや眠ってしまったのだろう。後で刷り上った新聞を取りに行かねばと思いつつ、彼女は着替えを済ませた。昨夜お土産にもらった蝮の黒焼きをかじりながら、いつも通り手帖片手に予定を確認する。
「今日は麓の里ですね……神社には先に行っておくとしますか。」
なんとなく顔を上げ、部屋を見回す。うずだかく積まれた紙の塔は、彼女がこれまで書き溜めてきた写真つきのファイルと、捌き切れなかった新聞の在庫分、主にこの二つでできている。
文が書く「文々。新聞」は、山の新聞の中で比較すると真ん中より僅かばかり上ぐらいの売り上げ数であり、在庫が出ることも間々ある。山の外に住む人妖に注目した記事は一部の者にこそ好かれたが、元々排他的なところのある山の妖怪からあまねく支持を受ける類のものではなかった。中にはそうした紙面づくりを公然と非難する向きもあるくらいである。以前保守系で名の知れたとある新聞が「文々。新聞」をかなり扇動的な論調で批判したことがあり、文が一躍天狗社会の注目の的となった時期もあった。
ちょうどスペルカードルール導入の是非が幻想郷を賑わしていた頃であり、山の妖怪たちはその批判に対し彼女がどう論陣を張ってくるかと色めきだっていたのである。しかし文は結局その批判そのものを一切無視した。そのやり方は一部の穏健な者に賛美されたが、多くは落胆でもって受け止められた。射命丸という奴は骨のない臆病者だ――そういう評判がすっかり広がってしまったのである。
文はそういう記事を書かなかった。紙上間で誰かと意見を戦わせることもなかったし、それ以前に口汚い罵倒の応酬をさもおもしろげに書き立てる論壇風の新聞を嫌悪さえしていた。彼女が書くのは幻想郷のありふれた日常を機知と犀利で切り取る記事である。それを生温いと腐す者もいたが、文は平凡な日々こそが何よりも書き残されるべき、もっとも尊いものだと疑わなかった。世間を一時だけ騒がす"大事件"の詮索や揚げ足取りなど、読み手の心をささくれ立たせるだけだ――それが彼女の持論だった。
手早く起き掛けの身支度を済ませ、文はドアノブを回した。廊下はなにやら騒がしかった。
「――分かりました。じゃあ私の方からなんとか伝えておきますから。だからそんなに頭を下げないでください。」
「ありがとう、本当にありがとう椛!」
「でもお願いですからこれきりにして下さいよ。上の方がうるさいんで、これ以上なにかあっても私の方ではもうかばいきれませんから。」
「うん。もう大丈夫だから。今度こそちゃんとやるからさ。」
部屋の前ではたてが頭を下げていたのは、白狼天狗の犬走椛だった。はたてよりさらにもう一回り小柄な彼女だったが、仕事柄鍛え方が違うのだろう、肩や背中はがっしりとしていて並々ならぬ力感を湛えている。白みの強い銀髪は文と同じぐらいの長さに切りそろえられていて、どことなくボーイッシュな印象も受ける。実際哨戒などをやっているせいか、物腰や口ぶりも荒っぽいところがあった。
文は椛を見て一瞬表情を曇らせた。向こうも文に気付いたようだ。しばし頭の先からつま先までじろじろと、胡散臭いものを眺めるように文を睨みつけていた椛は、険悪な空気そのままに一言放り投げた。
「どうも」
「これはお疲れ様です椛さん。」
文は柔らかな語調を崩さず、軽く会釈してから二人を横切ろうとした。その態度が癪に障ったのかもしれない、椛は廊下中に響きわたるような冷笑を浮かべて、文を呼び止めた。
「"射命丸様"、本日はどちらへ?」
「まずは新刊の配達ついでに博麗神社に行こうかと。その後は人里です。」
と文は淡々とした調子で答えた。椛を遠まわしに避けるような、とってつけたところのある言い方だった。椛は頬をピクリと痙攣させて、忌々しげに吐き捨てる。
「それは結構ですが、これ以上お山の仕事を増やさないようにしてくださいませ。貴方の道楽のせいでとばっちりを食うのは我々警護班なんですからね。」
「はい、皆様にご迷惑ばかり掛けているのは心得ておりますよ。それでは。」
軽く手を上げて、文は階段を下りていった。椛は舌打ちしてそっぽを向いた。二人の会話の始めからずっと、視線を泳がせてしどろもどろしていたはたてだったが、とうとう我慢ならなかったのか、爆ぜるような勢いで文の元へ駆け出していった。
「文、ちょっと待ってよ文!」
「なに?」
階段の真ん中あたりにいた文はその声に歩を止め振り返った。口調は穏やかだったが、うっとうしいとでも言いたげなそぶりも見えた。はたてもそれを敏感に察したのだろう、呼び止めたときの威勢はどこへやら、肩をつかもうとした手を腹の前でうろうろさせて、びくついた表情で視線を落とす。
「いや、あの……なんかゴメン」
「別にあんたが悪いわけじゃない。もちろんあの子が悪いわけでもない。これは仕方ないのよ。そういうことなの。」
文は切るように言葉を並べた。はたては何か言い返したそうに口をもごもごさせていたが、果たして言っていいのか悩んでいるようだった。文はのっぺりした顔のまま、はたてが何か言うのをしばし待っていたが、やがてそれが徒労であると気付いたらしい。彼女は目を伏せ、再びはたてへ背を向けた。
「文! 後でさ、場所変えて話そう?」
ようやくはたては声を上げた。思い切りどっぱずれた調子で飛び出した声に、文はもう一度振り返る。はたてのしかめ面からは火が噴き出ていた。
「じゃあ、1時にミスティアの屋台でいい?」
「あっ……う、うん。わかった。ごめんね文、ほんとゴメン。」
ねじの外れた人形のように頭を下げるはたてへ、文はどう声を掛けたものかと戸惑っているようだった。頬を軽く掻きながら、彼女はさばさばした笑顔ではたての正面に立った。
「だから謝ることなんてないの。早くあの子のとこ行ってやりなさいよ。潜入取材とかで迷惑掛けてるんでしょ?」
「……っ、そんなことないんだから! 私は、ただ私は……」
はたてはまた顔を真っ赤にして言いよどむ。文はぽんぽんと彼女の肩を叩いた。元々器量のいい方ではない、むしろドジばかりを晒すこの新米記者がまた取材中になにかやらかしてしまったことは、直接聞かずとも十分察することができた。
はたては文より社会派を気取るところがあった。「平凡な日常の裏の見えない部分にこそ重大な真実が隠れているのよ」――それが彼女の口癖だった。最近ようやく自分から取材に出かけるようになったせいか、どこか物事をヒロイックに考えすぎている――文のはたて評はこうであった。
それでいて世渡りや交渉の類には絶望的と言っていいほど不向きな性分のため、彼女が書く記事はどうにも竜頭蛇尾な感が拭えなかった。事実彼女の「花果子念報」は新聞大会で常に下位をさ迷っている。
「気まずくしたのは私のせいなんだから、ほら、あんたは気にしないで取材行って来なって。これから潜入取材なんでしょ? 後で話聞かせてよ。楽しみにしてるからさ。」
文の言葉ははたてを慰撫しながら、しかしこれ以上ないほど彼女を侮蔑するものだったのかもしれない。文もそのことには気付いていたが、彼女にはそれ以外に思いつく言葉がなかった。いったい他に何があるだろう。それがどれだけ人を惨めにさせるとしても、言葉を掛けない方が善いなどといったい誰が言えるのだろうか。文は自分へ言い聞かせるようにもう二つ三つ似たような言葉を語りかけて、階段を下りていった。
■ ■ ■
馴染みの山伏天狗から刷り上った「文々。新聞」を受け取った文は、さっそく購読者に配るため山を下りていった。配るといっても上空から投げ落とすだけなのだが。香霖堂、紅魔館、命蓮寺、永遠亭に白玉楼――めぼしい妖怪連中にもあらかた配り終えたところで彼女は幻想郷の東端を目指した。そこにも定期購読者はいるのである。
「こんにちはー新聞でーす。」
赤い鳥居をくぐり、文は勝手知ったる様子で家主の返事も待たず部屋に上がる。目的の人物である霊夢は卓袱台の前で茶をすすっていた。
「ああ、いらっしゃい。」
「どうもどうも。」
客人に対し腰を上げることもなく、霊夢は軽く頷くようなそぶりで来訪を迎えた。文も小さく会釈を返してからさっそく刷りたての新聞を卓袱台の上に置く。霊夢の視線もこの時ばかりは新聞に向いたが、手にとって読もうとまではしなかった。ただ不機嫌にも思える無表情で、体をもぞもぞさせながら茶を飲んでいた。そんな霊夢のはすかいに、文もなんとなしに腰掛ける。
霊夢は文など最初からいないかのように、茫洋とした感じでくつろいでいた。視線もどこへ向けるでもなく宙に浮かせていたが、そこには漫然としながらも、どこか部屋の一点にある透明な物体をじっと睨みつけているような、妙な鋭さが混じっていた。
しばし黙したまま同じ卓を囲んでいた来訪者に茶が供される気配は一向に見られない。文はどこかさっぱりした表情でゆっくりと茶をすする霊夢を眺めていた。相変わらず相手へなにか話題を振るでもなく、のんべんだらりと、だがどこか居心地悪そうにも見えるそぶりで二人は向かい合っている。文は来て早々席を立つタイミングをうかがっていた。せっかちなこの新聞記者は、他の連中のようにこの神社に長々と留まることはほとんどなかった。
ちらりちらりと部屋を見回す。昨日と違って人妖の声もなく、聞こえるものといえば茶をすする音ぐらい。薄暗い部屋の中には夕焼けが差込み、残光が畳の上で遊んでいる。時たま霊夢の顔にも斜陽が差し込んだ。それは憤怒を呑み込んでいるようにも、何か苦悶を堪えているようにも、わけもなく薄笑いを浮かべているようにも見えた。
10分ほどの沈黙を置いて、霊夢は湯呑みにあった茶を飲み終えた。急須を持って立ち上がろうするのを見て、文も頃合いと立ち上がる。
「ではそろそろ――」
「あら、今お茶淹れるわよ。ちょっと待ってて。」
戦慄を隠しきれなかった。返事を待たず台所に向かおうとする巫女を、文は衝動的に組み伏せようかとすら思った。立ち上がる瞬間巫女がほくそ笑んだ――そんな気さえしたのである。
「いえ、わたくしちょっと用――」
「れいむー、今何時?」
がらりと奥の襖が開いた。現れたのは鬼の伊吹萃香、やはり彼女もここの常連である。昨日は鼻提灯をぶら下げて居間の隅で寝入っていたが、今日は隣の部屋にいたらしい。寝起きでも酒臭さが文の方まで漂ってくる。昨夜もずっと呑みっぱなしだったのだろう。
「まだ日は沈んでないわよ。」
「そっかぁ、どうりで眠いわけだ。」
大きな欠伸をかく萃香に、霊夢はうんざりといった感じでため息をついた。萃香は単純な背丈こそ小さいが、頭に二本生えた歪な角と長い腕のせいか小柄という印象を全く与えない。むしろ一つ一つの所作にずしりとした重みがあり、密度が濃いという形容の方が適切に思われる。山吹色の髪には癖が全くなく、毛先までぴんとハリを保ったまま腰まで伸びていて、持ち主の性格をそのまま表したようだった。
「お、天狗じゃん。新聞?」
「はい。今刷り上ったところでして。」
文は座ったままの格好で軽く萃香に会釈を向ける。一応鬼は天狗の親分であるのだが、萃香は――というより鬼はといったほうが適切やも知れぬが――あまり肩肘ばった関係を好まないこともあってこういうことにはおおらかだった。むしろ形式に走った面従腹背こそ彼女が何より嫌うものである。
千鳥足で卓袱台までたどり着いた萃香は、急須片手に立っていた霊夢へ赤ら顔を向ける。
「あにゃ、霊夢お茶淹れんの? じゃああたしにも頂戴よ。」
「めんどくさいなあ。あんたはお酒呑んでればいいじゃない。」
「いいじゃーん。ついでにおくれよ。」
「……へいへい」
霊夢は頭を掻きながら仏頂面で部屋を出て行った。文にはそれが何故だかひどく憂鬱げに見えた。ご機嫌な萃香は横で青白い顔をしていた部下に威勢のいい声をかける。
「お、これがその新聞かい。じゃあ読ましてもらうよー」
「え、ええ。どうぞどうぞ。」
どぎまぎした様子の文とは対照的に、彼女はのっそりと新聞に手を伸ばし、鼻歌交じりにそれをめくる。
「えっと……プリズムリバーが旧都で初ライブと……おお、また月都万象展やんのか。ふむふむ……今月のラッキー天候はと……」
酒が抜けていないせいか、萃香は終始ぽやっとした顔で紙面にふらふら目を泳がせていたが、ある頁で焦点が定まった。「巫女動静」の頁だった。
「あはは、霊夢はホントだらけてばっかだよなあ。これじゃまた紫が説教しに来るねぇ。」
いかなる理由であれ、自分が書いたものを喜んでくれるのを見るのは有難いことだろう。文は笑い声を上げる萃香の方を見ながら、穏やかで満足げな表情を浮かべていた。終いの方まで読み終わった萃香は綺麗に新聞をたたんで卓袱台の上に置くと、腰から下げていた伊吹瓢を一口呷る。
「呑むかえ?」
「あやや、では遠慮なく。」
「よしよし」
萃香は上機嫌で笑った。文もつられたように笑みを浮かべる。面倒な上司であることは確かだが、根は真っ直ぐなので文も個人的に付き合うことに抵抗はなかった。こちらがしっかり筋さえ通せば妙なことをする連中ではない。
「やはり萃香さんもあのコラムがお気に入りですか?」
文は出し抜けにそんなことを尋ねた。あのコラムの受けがいいことは方々から耳に入っていたが、読者に対して直接感想を訊いたことはなかった。
「霊夢の? まあそらねえ、好きな奴の話は気になるもんでしょ、誰だってさ。」
萃香は臆面もなくそう答える。文は涼やかな微笑みを返した。鬼らしい裏表のない告白だと思えば恥じらいも起きない。
「そういうものですか。」
「そういうもんだろ? 違うかい?」
じれったい間ができた。文が尋ねようとした問いを萃香は先取りする。
「嘘吐かないし、それにやっぱり強いしね。あんな強い人間は本当に久しぶりだよ。」萃香は誇らしげに一つ笑う。「それにさ――」
手帖にあった文の視線が萃香を向いた。声色が一変したような気がした。それはおよそ鬼が出すような声ではないと文は感じた。
「なんかさ、放っとけないんだよ。上手く言えないんだけどさ。ちょっとこわいんだ。大丈夫かなって不安になる。」
「……どういうことでしょうか?」
文はたちまち怪訝な表情に変わる。この鬼から「こわい」という言葉が出たことがにわかに信じられなかった。萃香は畳へ足を投げ出し後ろ手をついてのけぞった。そして文の方をちらと見遣る。同意を求めてられている気がした。
「お前は感じないかい。霊夢と一緒にいてさ。なんかさ、心配というか、突然巫女とかぜんぶほっぽっちゃって、どっか消えちゃうんじゃないかっていうか……」
文は押し黙っていた。目の前の鬼には見たこともない表情が浮かんでいた。それはどちらかというと人間の表情――彼らが自分たち妖怪へ向ける表情を思わせた。萃香は天井を仰いで一つ息を吐く。
「よく、わかりませんね。」
「そうかい、天狗らしい答えだ。」
萃香は上を向いたままからからと笑った。文は墓穴を掘ったような気がした。萃香の笑いに合わせて、彼女は頭を掻きつつこわばった笑みを返す。
「いやはや、ははは……」
「ほら、霊夢はさ、わたしのこと好きじゃないだろ、はっきり言って。」
さっぱりとした言葉だった。萃香はからりとした笑みを崩さず続ける。
「好きじゃないってのは上手い言い方じゃないね。どうでもいい――そんな感じじゃん。いてもいなくても別に構わないっていうか。」
「まあわたしだけじゃないけどね」萃香はそう付け足した。そうでなければ自尊心が持ちこたえられなかったのかもしれない。文は失礼にならないように引き締まった表情をつくる。
「博麗の巫女というのはそういうものなのではないでしょうか。」
「うーん、でもさ、本当にそれで平気なのかなぁって時々思うのよ。そんなんで霊夢は大丈夫なのかなって。だから気に掛けてるって想いぐらいはいつも向けておきたいんだよ。受け入れられるとかそういうんじゃなくて、ただ心配でさ。霊夢にはずっとここにいてほしいから。」
そう言った顔はまばゆいほどだった。文は恥じ入るように眼を伏せてから、写真を撮っていいかと頼み込んだ。先方はいやな顔一つしなかった。萃香はにんまりと笑いながら、淡々と撮影をすませる天狗の肩をぽんと叩く。
「そんな顔するなって。いや、酒が不味くなる話になっちゃったのは謝るよ……でもこんな話したのはね、お前だからなんだよ。」
萃香は軽くウインクした。その顔に絶望的な悲壮があることを文のファインダーは見逃さなかった。
「霊夢、お前の新聞いつも楽しそうに読んでるんだ。一回じゃないよ。何回も何回も、舐めるように。私もお前の新聞嫌いじゃないけど、でもまあちょっと嘘があるからね。」
「嘘とは心外です、嘘なんてことはありません……ええ。」
文はほとんど呻くように言った。萃香は話をそらされたことも気にかけず、にかっと哂う。しかし今度のは嘲笑だった。
「まあそうかもしれないね。お前にとっちゃさ、これが真実ってことなんだろうね。」
「……なにか、引っかかる言い方ですね。萃香さんらしくも……」
と精一杯の皮肉を返そうとした文だったが、終いまでちゃんと言い切れなかった。見れば萃香はやけに真面目な顔つきに変わっていた。
「わたしはね、お前にはあんまり嘘をつかないでほしいんだ。特に霊夢には。あの娘のためにね。」
「お待たせー」
なにか言い返さねばと文が思ったその時、ちょうど襖が開いて霊夢が戻ってきた。萃香は悪戯っぽく文に笑いかけてから、お茶の到着に喝采を上げる。
「はい、これあんたの。」
霊夢はぞんざいな、しかし変に馴れ馴れしいところのある手つきで文の前に湯呑みを置いた。よく見ればそれは昨日出された湯呑みと同じ柄だった。文はごくりと唾を飲み込んでから茶をすする。霊夢は茶葉が切れそうだなんだとぶつくさ愚痴を垂れていたが、それはすべて文の耳をすり抜けていった。その言葉には何の意味も無いような気がしたからである。代わりに萃香の言葉が、そして少し温めに淹れられた茶が、ぎりぎりと彼女の胸を締め付けていた。突然何かが弾け飛んだように、文は勢いよく立ち上がった。
「あややー すみません霊夢さん。実はこれから取材の予定が入ってまして、そろそろお暇せねば。」
「あら、まだお茶あるわよ。おかわりしてけば?」
文の湯呑みに茶を注ぎ足そうとする霊夢を丁重に制して、文は満面の笑顔を振りまいた。
「いえいえ、もう十分です。ごちそうさまでした。ではまた。」
霊夢はまだ何か言いたそうなそぶりに見えたが、文はそれを無視してそそくさと居間を駆け出していった。
■ ■ ■
文が里に来たのは、配達ついでに上白沢慧音からアポを取るためであった。寺子屋での授業風景を記事にしようと考え前々から彼女に打診していたのだが、なかなか色よい返事がもらえずにいた。それでも先日ようやく許可を得て、詳しい日時を決めるところまでこぎつけたのだ。今日文に来てほしいと連絡してきたのは慧音の方である。
文の新聞は麓の妖怪だけでなく、人里に住む一部の人間からも購読されている。スペルカードルールを導入してから人妖の距離がぐっと縮まったこともあり、妖怪社会に興味を抱く好事家が増えてきたことも一因かもしれない。
前に述べたように「文々。新聞」は山での評価こそ真ん中あたりをうろうろしているが、麓の人妖に広く読まれているという他にはない特徴を有していることもあって、天狗社会の中でも一種独特の立ち位置を築いていた。いつだか巫女と魔法使いが山に攻め入ってきた際、交渉役として文に白羽の矢が立ったのも、つまりは上層部がこうした彼女の立ち位置を認知しているからに他ならない。
「っとまだ授業中ですかね?」
寺子屋の中からはまだ子供の声がした。夕暮れにはまだわずかばかり時間がある。中の様子を見てみたいという衝動にかられたが、これからの交渉を考えると、自制した方がよいと文は判断した。
木陰で少しばかり時間を潰していると、教室から拍手が鳴り響いた。どうやら授業が終わったようだ。賑やかな声と一緒に人間の子供達がぱらぱらと飛び出してくる。しばし遠巻きから寺子屋の前で戯れる子供達を眺めつつ、数枚その様子をカメラに収めた文は、人けが掃けたのを確認してから扉を叩いた。
「ああ射命丸か。すまないなこちらから呼びつけてしまって。」
「いえいえ……おや貴方は――」
文は目をぱちくりさせた。慧音の後ろではアリスとその人形達が忙しなく片づけをしていた。彼女も文の姿に気付いたのか、片付けの手を止め、首だけをそちらへ向ける。
「あらこんにちは。珍しいわねこんなところで。」
「アリスさんこそ、こんなところで何を?」
「いや、私が頼んで人形劇をやってもらったんだよ。たまにはこういう趣向もいいかと思ってな。」
慧音が引き継ぐ形で文の疑問に答えた。文は「ほうほう」と興味津々の様子である。その顔つきで言いたいことは伝わったのだろう、アリスはため息交じりに慧音へ視線を投げた。
「――分かったわよ。話してもいいかしら慧音さん。」
「まあ別に構わんが。ただあまり変に書き立てないでくれよ。」
慧音もまた分かっていたようだ。思わぬ拾い物に文はほくほく顔で一礼した。
慧音との打ち合わせを手早く済ませた文は、アリスを引き連れてそのまま近くの喫茶店に向かった。じっさい慧音との打ち合わせはたいした時間をとらなかった。時期は三日後、できるだけ授業の邪魔にならないよう隅の目立たない所で取材して、挨拶以外に子供たちへ話しかけるのはできるだけ控えてほしい――こんなものだった。もっと細々と記事の中味にまで口を出されるのかと思っていた文は、少し拍子抜けさえした。
「それで、何から話せばいいかしら?」
運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけながら、アリスは少しおちょくるような仕草で文に問いかけた。二人が向かい合っているのは通りに面したテラス席で、他の席もよく賑わっている。この洒落たつくりの喫茶店はなかなかに評判がよいらしく、文も里に立ち寄る際にはしばしば利用していた。
アリスも何度か来たことがあるらしいが、文は他にもこの店で顔見知りの人外を見かけたことがある。といっても当然客のほとんどは里の人間だ。そもそもこの店の主はごく普通の人間なのである。最近の人里ではこういう光景を見ることが多くなった。事実オープンテラスから見える往来には、行き交う人間に混じって妖怪や半妖の姿がちらほらと見受けられる。
「いつからああいったことを?」
「今日で二回目かな。前によくこの先の広場で小遣い稼ぎに人形劇をやっていてね。そしたらあの先生がわざわざうちまで来てやってくれないかって。なんでも子供達の人気者だったらしいわよ、私。」
自虐気味におどけるアリスに文はペンを走らせながらにこやかに微笑んだ。続けて運ばれてきたお茶請けのスフレを食べながら、アリスは細々した質問にもいやな顔一つせず受け答えしてくれた。なんでも劇を見せるだけでなく、裁縫の基礎なんかも教えていたらしい。
「今日はどのような劇を?」
「あんまり子供っぽいのでも面白くないかなと思ってね。聖書の話を引っ張っていくつかやったわ。今日は『罪の女』、ルカ伝7章36節から50節のところね。」
「魔女が聖書とはとんだ皮肉ですが、あいにく私は西方の土着信仰に疎いもので……」
恐縮げにはにかむ文に一瞬はっとしたような顔を向けたアリスだったが、すぐさま「あら失礼」としとやかに表情を崩した。
「イエスが食事に招待されてある人の家に入ったの。そしたらその町にいた一人の罪深い女が彼の足を拭って、足に口づけをして、香油を塗るのよ。怪訝な表情をする家主を余所に、イエスは『貴方は多くを愛した』と言ってその女の罪を赦すの。そういう話。」
「うーん、子供向けじゃないような気もしますが。」
「子供は大人なんかが考える以上にしっかりした感受性を持ってるのよ。むしろああいう感性は大人になると衰えるものよね。まあ前回やったレギオンの方が受けはよかったけど。やっぱり化け物が出たほうが興味を引けるのかなあ。」
「化け物も駄目な気がしますが。」
「あら、いいじゃないあの話は。悪霊の憑いた豚の群れが崖から落ちて溺れ死ぬ――正に私たち人外の歴史そのもの。実に示唆的だわ。」
アリスはおそらく人が考える以上におしゃべりである。単にそういう機会を作ろうとしないだけで、きっかけさえあれば止まらないのは魔法使い一般の特質と言えるかもしれない。次々とアイデアを頭の中から取り出しては、それを文に聞かせた。なんでも次は「ペテロの否認」でもやろうかと考えてるらしい。最も忠実な弟子であったはずのペテロが、イエスの預言どおり、異教徒から尋問された際に師イエスのことを三回知らないと言う、あれである。
文も問いを挟んだり合いの手を打ったりしながら、饒舌なアリスを写真に収めていく。どうやら事前に許可さえ取れば彼女も構わないらしい。「心の準備もないのにいきなり撮られるとなんか気持ち悪いでしょ?」とはアリスの弁である。
「しかし、随分とやる気ですねえ。少し意外ですよ。」
「あらそう?」
邪気のない皮肉を混ぜた文の言葉に、アリスはストローをくわえたままふざけ半分に目をぱちくりさせる。
「別に嫌いではないしね。それにああやって頼まれたら、本腰入れざるを得ないじゃない?」
「というと?」
しかしこの返答には本当に面食らったようだ。あっけにとられた顔にほんの少し嘲りを載せて、アリスはスフレをひとかけらだけ口に含む。しばし生まれた間に文はじれったそうな様子でコーヒーカップに手を伸ばした。
「寺子屋の取材、なかなか許可が下りなかったんでしょう? 理由は知ってると思ってたけど。」
「いえ全く。」
逡巡の気配すら見せない文を愛でるように、アリスはまた間をもたせる。やはり彼女はひねくれ者であった。
「何人かの親御さんが猛反対したんだそうよ。天狗なんておっかないってね。」アリスは薄笑いを絶やさずに続けた。「その説得に時間が掛かったんですって。まあ私も似たような感じだったらしいけど。けど仕方ないわよね。こうやって妖怪同士が気楽に人里の喫茶店で談笑できるようになったと言っても、それはごくごく一面的な話。今でも人外を毛嫌いして一切関わらないようにしてる人間は山ほどいるわけだし。あのハクタク先生も半獣。気苦労は絶えないんでしょうね。」
そう言ってアリスは店の軒先を顎で指した。そこに吊るされているのはハンカチ大の赤い旗――「妖怪入店可」という印である。
「あやや、全くです。慧音さんは立派な方だと思います。」
「でもこうやって融和が進んでからまだ数年しか経ってないことを考えれば、たいした進歩だとは思うけどね。霊夢が博麗の巫女になってスペルカードルールが広まってからでしょう、こんな風に私たちが気軽に話せるようになったのは。」
「そうですね。霊夢さんのおかげです、はい。」
「人間と妖怪だけじゃない、山の天狗と森の魔法使いが午後のお茶会なんて、少し前は想像すらできなかったわ。」
グラスの縁を指でなぞりながら、アリスは文の方を覗きみる。彼女は引き出そうとしていたのかもしれない。先ほどからずっと人好きのする笑顔で相槌を打っていた新聞記者から。うっすらと火薬の臭いがしたのをアリスは感じた。
「――ああ、ごめんなさい。新聞記者を相手にこんな話をするなんて身の程知らずもいいとこだったわね。」
「いえいえ、なかなか興味深い見解でした。」
愛想よくペンを走らせる文に、アリスは背もたれに軽く体を預けながら、ひょいと首をすくめた。
「あらそう? あんたはこういう話嫌いだと思ってたんだけど。」
そう言ってにっこりと微笑む。明らかな嘲笑であった。
「あや? そんなことはありませんよ?」
文も愛嬌たっぷりに微笑み返す。傍から見れば朗らかなやり取りの中、ピンと張った空気がテーブルに立ちこめていた。
「今日の『文々。新聞』、出掛け前に読ませてもらったわ。」アリスはなにやらもったいぶったそぶりで一旦睫毛を伏せた。「とても素敵よね、あんたの新聞。記事の中の人はみんな楽しそうで、穏やかで、愛に満ちていて……まるでこのスフレみたい。ふわふわしていて、まろやかな口解けで、そしてひどく甘ったるい。」
スフレをフォークで押し潰しながら、彼女は文をじっと見つめる。そして少しおちょくるような口調のまま
「さっき言ったわよね。霊夢のおかげって。あいつが里でなんて呼ばれてるか知ってるかしら。」
と訊いた。みえみえの挑発にも、向かいの少女は一切振る舞いを変えない。返答を待つ気など端から無いように、アリスは間を置かず続ける。
「"化け物"って言われてるのよ。」
「あや? そうなのですか。」
文はとぼけたような声を上げた。それはなんだかむきになって気さくな態度をし続けているふうにも見えた。
「怯えてる人もいる。無性に毛嫌いしてる人もいる。かと思えば狂ったように崇め讃えてる人もいるのよ。でもみんな同じ。人間達はあの子を畏怖して、まるで人でないように扱ってる、それだけは一緒ね。たしかに愛想は悪いけど、ちゃんと妖怪退治の務めは果たしてるのにねえ。」
アリスは白々しい態度を隠そうともせず、手で口元を覆いながらくすくすと笑った。文はふむふむと頷きながら手帖に軽く視線を落とす。
「いやはや、それだけ巫女としての格があると言うことでしょうか。」
「去年だったかな。」文の相槌を無視してアリスは続けた。「霊夢が小さな子どもと一緒にいるのを見たの。珍しいなと思ったんだけど、その子ずっと泣いてるのよ。なんで泣いてるのか自分でもわかってない感じで、ただ霊夢を見て泣いてるの。あいつは目の前で子どもが泣いてるのにどうとも思ってないみたいな顔していてね。あやすでもなく、怒るでもなく、ただじっと、泣いてる子を見てるの。ひどくつまらなそうに。
ああそうそう、ひとつ忘れてたわ。その時あいつ、子どもに手を差し出してたのよ。ほら、よくあやす時にやるでしょう? お手手つなぎましょうって。でもそれがひどく変わっててね、あいつったら、手を離れたところに差し出すの。いや、正確に言うとね、ちょうど子どもが霊夢の手を取ろうと腕を伸ばした時、ぎりぎり中指の先が触れるか触れないかの位置に、手を置くの。その子どうしたらいいのかわからず、あいつの顔を穴の開くほど見ながらえんえん泣き叫んでたわ。
そしたら真っ青な顔した親が飛んで来てね。どうやらその子、隠れて里の外へ遊びに出た道すがら妖怪に襲われそうになって、それをたまたま通りがかった霊夢に助けられたみたいだったんだけど、その親は霊夢の顔を見た瞬間礼も言わずに子供をひったくっていった。失礼な話よね。でもそんな感じ。大人も子供も、それこそ妖怪にでも襲われたみたいにあれをこわがるのよ。本能的といってもいい。」
長い挿話の最中も、アリスは文から一切視線をそらさなかった。その顔つきに変化はない。彼女は探るように言葉を連ねながら、グラスの氷をストローでぐるりとかき回す。
「まあでも、仕方ないのかもね。」彼女は芝居がかった高慢な口ぶりで続ける。「さっきも言ったように、変革はまだ端を発したばかり。どんな人間や妖怪だって心安らかではいられないでしょう。こういう時に溜め込んできたものが表に噴出するのは世の常。安っぽい懐古主義や、白痴じみた急進主義、行き先知らずの反動主義……なんでもござれってとこね。霊夢なんてそれこそわかりやすいイコンだから、どんな立場であれあいつを仰ぎ見ずにはいられない。たいしたもんだと思うわ。あんな役目、頼まれたってやりたくない。」
「大変でしょうね。いやはや、私なんぞでは想像すらできません、はい。」
「そうね、想像もできないわ。あいつはあの通りの朴念仁だからそういうのおくびにも出さないけど。ただあいつのおかげでいろんなことが変わったのは動かしようもない事実。あんなふうに暢気に暮らしてるけど、やったことは革命と言っていい。一体どれだけのものを抱えているのか、どうすればあんなことができるのか、考えただけでもこわい……ああ、これじゃ結局私も同じか。あいつを化け物扱いしてる連中と。」
そこで一つ空笑いが入った。「こわい」という言葉に、目の前の少女はかすかな反応を見せた気がした。アリスは一瞬うつむくそぶりをしてから、いっそう力の入った目つきとともに言葉を投げかける。
「でもね、いやだからこそと言うべきかしら。あんたの砂糖菓子みたいな新聞を、あのお気楽な連載記事を読んでるといつも感じてしまうのよ。まるでそういうものからわざと目を背けているような、そんな息苦しさを。」
文の表情を、アリスはひと時とも逃さないように窺っていた。顔面に貼り付けたような笑顔は依然として動揺の色を見せていなかった。しかしアリスは確かに見て取った。その瞳は、一瞬燃え盛った火がみるみる力を失っていくように、すぅっと色をなくしていった。文は一度大きくまばたきをしてから、ほとんど卑屈と言っていい面立ちでにっこりと微笑んだ。
「読者からの貴重な意見、痛み入ります。そんな深読みして頂けるとは恐縮ですよ、はい。私はただ、ここで生きる人妖の素晴らしさを書き残したいと思っているだけです。」
文は温くなったコーヒーをこくりと飲み込んだ。丁寧に煎られた、深みのある味だった。やはりここの店主はよい腕をしている。後で写真を撮らねばと彼女は思った。
「そう、ただそれだけなのです。だから、私の新聞に愛が満ちているのならば、それはすなわちこの幻想郷に愛が満ちているということに他ならない、そういうことなのでしょう。」
「――そう。」
小さく呟いたアリスは伝票を持って立ち上がった。気付けば空には星が瞬いている。
「いえいえ、ここは私が払います。今日は取材ということでお付き合いさせてしまったのですから。」
「いいわよ。これはお詫びの気持ち。例の共同研究、ちょっと遅れ気味なの。記事も待たせちゃうでしょうから悪いと思って。だから気にしないで。」
「あや、そんなことはできません。」
文はしばらく食い下がった。そこにはよくある儀礼めいた様子はなく、なんだか決死の覚悟が垣間見えた。アリスはそれを巧みに御しながら、人形を使ってさっさと支払いを済ませてしまった。彼女はこういう点においても、妙な器用さがあった。結局文は押し切られる形でこの人形遣いの好意に甘えることとなった。
「本当に申し訳ありません。必ず御礼はしますので。」
「あらホント?」
ずっと嘲りが混じっていたその笑顔に、月夜の闇が射す。それは最初から自嘲であった。
「じゃあ約束ね。あの共同研究、ちゃんと記事に書いてよ。」
「ええもちろん。きっと素晴らしいものになるでしょうから、私も全力を出しますよ。」
文は、弾むように髪を揺らす。アリスはずっと同情していた。目の前に立つ人当たりのよい天狗は自分と近い存在なのではないかと、彼女は以前から疑っていた。
「期待してるわ。」
■ ■ ■
魔法の森の入口から里へと伸びる路地を少し進んだところに、煌々と光の射す一角があった。いつもは梟の鳴き声しかしない夜の森も、その時ばかりは活気に満ちた喧騒が響いている。ぼんやりと光る赤提灯の下には、一畳ほどの大きさの屋台があった。その回りにはランタンの明かりに照らされたテーブルがぐるりと輪を作っている。テーブルを囲む連中はみな顔を赤らめながら、供されるヤツメウナギの蒲焼に舌鼓を打っていた。
「はいお待ち〜♪」
屋台の調理場から向かいのカウンター席へ、ミスティア・ローレライが愛想のよい笑顔と一緒に蒲焼を差し出した。伊万里の丸皿に載った蒲焼は、屋台の明かりを受けて褐色に輝いている。カウンターに腰掛けていた文は小さく礼をしてからそれを受け取ると、隣に座るはたての前に置いた。女将は残りの蒲焼を大皿にこんもりとのっけると、軽やかな足取りでそれをテーブル席へと持っていった。
ミスティアは文より一回り小柄であったが、歌を披露するときと同じく、その小さな体を目一杯使って露店を四方八方に飛び周り、女将の勤めをこなしていた。その様子は少しばかり危なっかしく見えることもあったが、しじゅう明るく元気に歌を絶やさないせいか、見ていると思わず笑みがこぼれてしまうような、そんな愛くるしさがあった。それはよくできた曲芸が客をはらはらさせつつも同時にその心を掴んで放さないのと、似たところがあるのかもしれない。
「ほれ、食べないの?」
「あ、うん、いただきます」
ひょいと串をつまんで小粋にかぶりついた文に促されて、はたてはバタバタとした動きで串を取る。なんだか今日のはたてはいつにも増して落ち着きがないように文の目には映った。何かに見とれてぼんやりしている、そんなふうにも見えたのである。リスのようにもぐもぐと、一心不乱に蒲焼にかじりついていたはたてに、文は日本酒の注がれたコップを差し出した。
「じゃあとりあえず乾杯。」
「ふぇ、でも……何に?」
蒲焼を口いっぱい詰め込んでいたはたては、いきなり掛けられた声に顔を真っ赤にしながら口を手で覆ってどもる。文は小さなため息をついた。別に理由なんていらないだろうと、そう思っていたからだ。
しかしよくよく考えてみるとこうして文とはたてが"さし"で呑むのは珍しいことであった。二人は新聞に関する話となると遠慮のない言い合い――もっともそれははたてが一方的に突っかかるだけなのだが――をよくしていたが、こういう場を設けることは双方とも意図的に避けてきたようなところがあった。二人とももちろん酒は好きなので、いっそうそれは不思議に思えた。
「うーんじゃあ、今度の新聞大会に向けて、互いの健闘を祈るってことで。」
「そうね、うん、それなら。じゃあ」
「「乾杯」」
チンとタンブラーが宙でぶつかって、中の液体が彼女たちの喉を滑り落ちた。女将も含めてどこもやかましいほどに盛り上がっている酒場の中で、そこだけはむず痒いような、えもいわれぬ空気に満ちていた。
それでも宴が進むにつれ酒も回ってきたようで、いつもの尊大で自信家の面が次第にはたての顔に戻ってきた。この華奢な鴉天狗は、内向的な者が一般に持ちうる特性として、気が緩むと悪意のない傲慢さが透けて出る傾向があった。思いっきり無配慮な調子で文に報道かくあるべしという持論をぶつはたてを見ながら、ミスティアもその演説に歓声でも送るかのようにノリのいい歌で合いの手を入れる。
はたての唇にはうっすら紅が載っていた。よく見ればタンブラーにもピンクの唇紋がところどころ残っている。口紅だけでなく、おしろいや眉墨もしっかりつけてきたようだった。幼い顔立ちを隠そうといういじましい努力は一定の効果を上げてはいたが、不相応に背伸びしているという印象は拭えなかった。
「それで、どんな感じなの。その潜入取材ってやつは?」
とりあえず十杯ほど呑んで喉を潤してから、ぶしつけに文はそう尋ねた。ふわふわとした酔いに浸っていたはたては、ぎくっと肩を震わせた。
「そ、そりゃ絶好調よ! 今度の新聞大会はマジでいただきって感じかなー みんな私の新聞読んだら腰抜かすわね。」
「ほうほう、そりゃ景気のよろしいことで。」
文はうんうんと頷きながらコップを傾けた。はたてはむっとした様子で唇を尖らせる。
「何よ、信じてないって顔ね。」
「別に。それならいいの。朝のことがあったから気になってたのよ。順調だってんならそれで十分。頑張ってね。」
はたてはどぎまぎしたようにしおらしく俯いた。文は頬杖をつきながらちらと横目で覗く。なんだか無性にカメラに収めたいと思ったのだが、それは憚られた。
「今朝は、ごめん……」
はたてはそれまでの調子を一変させてポツリと呟いた。文は一つ息を吐いて彼女の方へ向き直る。はたてがますます小さくなったような気がした。
「だから気にしてないって。あの子とはいつもああなのよ。あんたは気にすることないの。」
「ん、いや違くて……そうじゃなくてね……」
はたてはやはり何か言いたそうだった。文はどうしたものかと頭をかく。とりあえず追加の注文を入れてから、運ばれてきた酒を彼女の前に滑らせた。
両手でコップを持ってこくりと一口呑んだはたては、ぽつりぽつりと、おぼつかない口調でしゃべりだした。
「文はさ……いや椛はさ、昔あんたに憧れてたんだよ。あいつとは白狼天狗になる前から知り合いなんだけどね。うん、250年ぐらい前かな、白狼天狗になった時はとってもうれしそうで、これから山の警備隊として頑張るんだって言って張り切っちゃってさ。すごくこう、なんというか燃えてたというか……」
「そんな感じですねあの子は。」
文ははたての方を見ることなく呟いた。
「でも100年ぐらい経ってさ、仕事柄なかなか都合がつかなくて、そんなにしょっちゅう会ってたわけじゃないんだけど、久々に見たらなんか椛すごく変わっちゃってて……えと、いい言い方じゃないけど、なんだかだらけちゃったというかさ。呑みに行ったら『白狼天狗なんてなるんじゃなかった』『哨戒なんて何の意味もない』『鴉天狗になりたかった』とかずっと愚痴ってて、すごく荒れててね。」
「まあずっとやってるとそんなこともありますよ」
文の口調はひどく他人事でぶっきらぼうだった。はたてはちらちらと文の方を見ながら、少しでも上手く伝えるのが義務であるかのようにあえぎあえぎ必死に続ける。
「そんな時、あいつ文のことを知ったんだよ。どういうきっかけだったかは覚えてないけど、でもあいつ文の新聞読んでさ、すごくうれしそうになって、こんな素敵な記事が書ける人がいるんだって、感動してたもんよ。あんたも覚えてるでしょ。あのころ椛のやつ仕事の合間合間にあんたの手伝いにきてさ、まるで助手みたいに引っ付いて。あん時の椛、すっごく幸せそうだった。」
文は何も答えなかった。はたては何か答えて欲しいと期待していた。じれったい間を持たせようと、コップの中味を何度かちびりちびりやっていたが、ピクリともしない文に彼女はとうとうしびれを切らした。
「でも、ほらあの時。あんたがどこだかの新聞にケチつけられて大騒ぎになった、その頃だったよね。椛があんたから離れていったの。でもあん時あいつさ、『文様は腑抜けじゃない』『文様はすごいんだ』『こんな出鱈目を書かれて黙ってなんかいられない』ってずっと泣いてたんだよ。でも文はずっとだんまりを決め込んで。しまいにはあんた椛のことまで無視しだして、それであいつ激怒して……」
「なにがいいたいわけ?」
はたては肩を震わせた。ひんやりと刺すような返答は酒の力に身を任せていた彼女をまた怖気づかせたようだった。文は苦痛を忍ぶように唇をぐっと結んでいたが、まごつくはたてを見てすぐさま表情を崩した。
「ごめん。言いすぎたね。」
「いや……私が変な話をしたから。ただ私はね、あんたと椛に――」
「いいのよ。もう昔のこと。結局あの子とは合わなかったのよ。それだけ。」
文は軽く伸びをして顔を上へ向けた。炭と油で煤けた屋台のひさしが目に入る。立ち上る煙がやけにしみた。何度か目をしばたたかせながら、文は少し誇らしげな口調で続けた。
「でもそんな椛も今じゃ九天の滝の主力でしょ。たいした出世じゃない。結果的にそれでよかったのよ。」
「う、うん……」
文が言った九天の滝とは、麓と山の中腹にある天狗の郷をつなぐ要所にあたる。故にここには白狼天狗の中でも特に選りすぐりが配属されることになっていた。椛は数年前からその九天の滝に配属されている。これはすなわち彼女が白狼天狗としての出世街道を歩んでいる、そういうことを意味していた。
「あんたの取材だって、椛の紹介があったからできたんでしょ。あたしらあの子に足向けて寝れないわね。」
眉間を軽く指でつまんでから、文はほとんどおどけたそぶりではたての方に顔を向けた。
「あんたは、文はそれでいいの? だってそれじゃ――」
「私は全く問題ないわよ。」
断ち切るように、文は鋭くそう言った。
「私は今までどおり『文々。新聞』書いて、それだけで十分。次の新聞大会のネタも確保できたし、読者も私の新聞読んで喜んでくれてるみたいだし……ねえはたて。今日ね、読者から新聞のこと素敵だって褒められたのよ。本当幸せね、こわいくらい。」
言い聞かせるように言葉を宙へ放り投げていた文、その頭には今日アリスや萃香と交わした会話のことが浮かんでいた。徐々に鮮明化するその記憶を飲み込むように、彼女ははたてにもう一度しっかり微笑みかける。笑みを向けられた方は、なんだか恥じ入るかように、でもどこか歓喜に満ちたような感じで小さく俯いてしまった。
「やっぱ文はかっこいいな……」
「え……?」
それは言ったはたて本人すらも思ってみなかった吐露だった。彼女は慌てて取り繕おうと手足をばたばた振り回す。
「いやちがっ、違うの! これは違くてそういうんじゃなくって、ただ文がね、私はなんかそういう大人っぽく割り切るとかできないから、えと、そのあのただそう思っただけで……なんかね、うん、ゴメン……」
「やめてくださいよ」
真っ赤になってぶんぶん振り回していたはたての顔が、石のように固まった。吐き捨てられた言葉は、芯から凍りついた、嫌悪に満ちた語調だった。たちまち現実に引きずり落とされたかのように、はたては今度こそ恥辱に染まった顔を下へ落とす。唇に塗られたかわいらしいピンクの口紅が、真っ青な面立ちの上で居心地悪そうに浮いていた。そしてそれと波長を合わせるように、文の顔もみるみるうちに青ざめていった。その目は居場所を探し、ふらふらと宙を泳いでいる。
「そ、だよね……文は私みたいなの、そうだよね……ゴメン」
「いや、そういう意味じゃないです。ち、違うんです。」
柄でもなく慌てふためいた調子で文ははたてにすり寄った。しかしどちらの視線も相手の方を向くことはない。
「いや、いいの。私みたいなのにまとわりつかれても、文は迷惑なだけだよね……」
「だから違うんです。そうじゃなくて、えと、あの……」
ほとんど泣きつかんばかりだったのは文の方だった。はたては視線を地面に突き刺したまま、肩も唇も戦慄(わななか)かせ、だが懺悔だけは決してやめようとしなかった。なぜか文の方が惨めに見えた。
「うん、分かってはずだったのに、端からそうだって分かってたのに……なに私調子乗ってたんだろ……バカみ」
「だから違うって言ってるでしょうッ!!」
酒場の暢気な空気が、その一瞬びりびりと震えた。顔を真っ赤に歪めて躍り上がった文は、しかしそのまま呆然と立ちすくんでいた。それはさながら自分が上げた絶叫で頭を撃ち抜かれでもしたのかのようだった。はたてばかりか、ミスティアや騒いでいた客すら稲妻のごとき怒号にしんと静まり返る。
「ぁ、あ、ごめんなさい……」
はたてはポケットからつかみ出した有り金をカウンターに叩きつけると、半ば機械的に漏れた文の謝罪を置きざりにして飛び去っていった。当然文の頭にも後を追うという選択肢ぐらいは浮かんだだろう。しかし一向に体が動いてくれなかった。ただ病的に青ざめ息を切らしていた彼女は、すくみあがっていた足からとうとう力さえも抜けてしまったように、椅子の上に崩れ落ちた。
「はい。お水。」
首をもたげたまま微動だにしない彼女へ、ミスティアはそっと水の入ったコップを差し出す。文が何がしかを口に出す前に調理場を飛び出したミスティアは、踊り跳ねるような仕草でテーブルを飛び回りながら、「今日は出血大サービスだ!」と言って歌と小鉢を振舞った。一瞬気まずい感じになった客達も女将の機転に救われたのか、徐々に以前の喧騒を取り戻していく。その様子をずっとカウンターから見ていた文は、弾むような足取りで戻ってきた彼女に決まりの悪い苦笑いを返す。
「どうも、すみません……」
「いいのいいの。気にしない気にしない。」
そう言うとミスティアは「もう一杯いかが?」と訊いてきた。少しだけ間を置いてから、文は快くそれを承諾する。
ちなみに帰り際の話であるが、ミスティアは「これサービスね」と言って、蒲焼を一包み文に持たせた。固辞する文にこの女将は「なんか余っちゃったから、後で食べて。せっかくだからあの子にもさ」と鼻歌交じりに告げたのだった。文はその気遣いに心から感謝した。
この屋台が繁盛しているのは味のせいだけでないことを彼女はもう何度も紙面で伝えてきたが、今日もそれが間違いでないことを実感できた。彼女が折を見て店主の写真を撮っていたのは言うまでもない。
客と自分の分の酒を注いでから、ミスティアは軽く目配せだけして文と乾杯する。傷心の客は染み入るようにそれを口にした。
文がそのグラスを呑み終わろうとしていたころ、屋台に新しい客がやってきた。テーブルで騒ぐ連中も彼女とは知己だったのだろう、軽妙な掛け合いが酒場に響く。景気よく浴びせられる軽口をかいくぐるように、新客である霧雨魔理沙は暖簾をくぐるとさっきまではたてが座っていた席に腰掛けた。
「よう文じゃん。」
「おや、魔理沙さんですか。」
軽く会釈をした文の表情はまだぎこちなさがあった。その理由を知らぬ魔理沙は女将へ注文を飛ばしながら、いっそう快活な口調で文に話を振った。ミスティアが上手く取り持ってくれたおかげか、それとも隣の魔理沙がみせる底抜けの明るさのおかげか、先ほどまで文の口に残っていた苦々しさも徐々に酒の中へ溶けていった。
魔理沙は帰宅途中に匂いにつられてやって来たらしかった。当たり障りのない世間話を交わしながら、彼女達は杯を酌み交わす。
文はここに来るまえ里でアリスを取材した話を持ち出した。寺子屋で人形劇をしていることと、研究をしっかり記事にしてくれと頼まれたことだけを、彼女はところどころ脚色を交えながら魔理沙に伝えた。魔理沙は上機嫌でアリスを腐しながら、「またあいつをいじくるネタができたぜ」と目を輝かせていた。まあそういう関係なのだろう。ミスティアも真面目に取り合うことなくそれに茶々を入れていた。
「それで、魔理沙さんは今日どちらへ?」
「うーん、にとりのとこで例のやつの話し合いした後、香霖堂で飯食って、その後は霊夢んとこだぜ。」
「いつもどおりですねえ」と文はにやつく。魔理沙もにかっと笑ってコップにあった酒を飲み干してから、文に顔を寄せた。
「そういやお前は行ったのか。霊夢んとこ。」
「ええ、新聞を届けに。萃香さんもいらっしゃいました。」
「そうかそうか、そりゃ良いことだ。」
一升瓶から酒を注ぎながら、彼女は何度か深々と頷く。
「あいつ喜んでたろ?」
「あやー いつも通りでしたよ、はい。」
文は軽く首をすくめた。お茶のことが少しだけ頭を掠めたが、口に出すことはしなかった。
「そうか? さっき顔出したときは機嫌よさそうだったけどな。」
「そうですか? うーん……」
文は返事に困った。魔理沙は言葉を濁す相客の肩をぽんと叩く。文はため息まじりの苦笑いを返すしかなかった。
「しかし萃香さんも先ほど似たようなことを仰っていましたが」と彼女は突然なにやら思い出したように口を開いた。「霊夢さんはそんなに私の新聞を愛読していらっしゃるのですか? なんでもよく読んでいると伺ったのですが。」
「うーん、ま、そうかな。」
「私そんな光景を見たことがないのですが。」
「そりゃあいつは新聞よりお前の方が気になるんだろ。お前が来てるときはお前の方を見てるんじゃないか。」
「そんな馬鹿な」
魔理沙はびっくりして振り向いた。彼女が知る文からは想像もつかない、冷たく刺々しい口調だったからである。怪訝な顔を向ける魔理沙へ、文もはっとしたような顔になった。そしてひどくばつが悪そうに、慌てて言い繕った。
「ああ違いますよ。つまりですね、霊夢さんはめったに私の方を見たりなんかしないという意味です。他の方と同じく。」
「……ああ、そういうことか。」
魔理沙もまた間が悪そうに、力ない笑みをつくりながら文の言葉を引き受けた。唇をかみしめ、この気まずくなった空気を変えようと頭をひねっていた文へ、魔理沙も探るようにちらちらと視線を投げていた。じりじりと続いていた間はしかし、なにやら決心したように相客の方へと向き直った魔理沙によって破られた。
「まあ、お前らは似てるからな。そういうやり取りになったも仕方ないのかもしれん。」
「似てる? 私が?」
また随分と高飛車な言い方になってしまったと、文はすかさず悔いているようだった。もっとも魔理沙はもう彼女の口調をあまり気に掛けていなかったらしく、呵責の念に苛まれる文を横目でじっと見つめたまま、淡々とした口調で、
「ああ、本当のこと言わないのがそっくりだぜ。」
と言葉を続けた。文は少しあげつらうような調子で、
「失礼な、私は清く正しい射命丸ですよ、ええ。」
とすかさずやり返す。もちろん妙な空気になってしまったのを変えるため、ふざけて言ったに過ぎなかった。だが魔理沙はその軽口に応じる様子を見せなかった。文は押し黙った魔理沙の顔を不審げに覗きみる。それはひどく青ざめていたように彼女の目には映った。わずかな沈黙の後、この小さな魔法使いは慌てて小生意気な笑みをつくり直す。
「つまりさ、ああやってるけど、実はあいつ誰か来るとうれしがってるってことだぜ。だからできるだけ行ってやれよ。な?」
「はいはい、善処しますよ。」
文は軽く手を振ってそう答えた。このやり取りをずっと向かいで聞いていたミスティアは、魔理沙が柄にもなく必死な、どこか悲痛さすら覚える口ぶりで話しているなと感じていた。特に最初彼女が発した『そういやお前は行ったのか。霊夢んとこ』という言葉を聞いた時、この女将は霊夢が病気か何かで一人寝込んでいて、それを案じた魔理沙が見舞いに来いと文にせがんでいるのだろうかと妙な勘違いさえ起こしたのである。
文から感触のいい応えを得られなかった鬱憤を逃がしたかったのか、魔理沙はミスティアの方にも人懐っこい笑顔を向けてきた。
「おう大将、お前もどうだ。たまには霊夢んとこにさ。お前とかそのお仲間あたりは全然神社に顔出さないじゃん。」
「うーん……」
それまでぽんぽんと歯切れよく受け答えしていたミスティアが初めて困ったような顔つきになった。しばし調理に没頭するようなふりをしてから、彼女は申し訳なさげに口を開いた。
「いや、やっぱりさ、なんかこわいじゃん。あの巫女って。」
「こわい?」
文は思わず聞き返した。その言葉を聞くのは今日三度目だった。魔理沙も気付けば色のない表情に変わっている。
「こわいでいいのかな……なんか上手く言えないんだけどどうも近寄りがたいというか……いやまだ私なんかはいいんだよ。宴会みたいに他の奴が一緒にいる時なら別に気にならないし、弾幕ごっことかもできるし。でもさ、私よりずっと低級な、いやもちろん夜雀だってたいした妖怪じゃないけどもっと位の低い妖怪なんかだと、あの巫女の名前出しただけですっごいいやな顔するよ。まあいつも問答無用で退治されるわけだしね。……うーん、やっぱりあの巫女と一対一ってのは、ちょっと想像できないなぁ……」
ミスティアは「たはは……」と苦笑いしながら、それ以上なにも言おうとはしなかった。魔理沙と文は無言でちらと目配せする。双方とも何か言いたそうで、しかし言葉が出てこないふうであった。また空気を悪くしてしまったと、決まりの悪そうなミスティアがどっぱずれた調子で歌をうたいだした。それで淀みかけた空気も飛んでいったらしい。
文がお愛想したのは、それからもう数杯魔理沙に付き合った後であった。彼女ははたての分まで勘定を払って、――彼女が叩きつけた金は文が預かり、帰り際蒲焼と一緒に彼女の玄関のポスト口に入れておいた。――店主の心遣い片手に颯爽と酒場を後にしたのだった。
長くなったので特に意味もなくここで切ります
どうもコメントありがとうございます
>NutsIn先任曹長さん
人物を書くのに嵌ってしまいまして、だらだら書きました
書いてる分には楽しいんですが
んh
- 作品情報
- 作品集:
- 27
- 投稿日時:
- 2011/06/17 14:54:55
- 更新日時:
- 2011/06/25 23:16:07
- 分類
- 地霊殿自機メンバー
- はたて
- 椛
- 趣味に走ったあやれいむ
- 6/25米返し
全て客観的に見たまま。
皆をそのように見る『中立』は、好印象をもたれなくて当然。
昨日飲み過ぎて、ちょっと頭がぼ〜っとしてます。
この大作、気合を入れて読まねば。
後編は後ほど、所用を済ませて、腰をすえて読ませていただきます。
萃香や魔理沙のような明るい印象のキャラでさえ少し掘り下げると抱えている闇がはみ出す。
一見すると和気藹々とした日常を描いているが、その実ぴんと張りつめた緊張感がある。
そんな雰囲気がすごく好きです。
こりゃ後編を読むのが楽しみだ。