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『Sinners (下)』 作者: んh

Sinners (下)

作品集: 27 投稿日時: 2011/06/17 15:13:28 更新日時: 2012/01/09 18:25:43
 


 
 
 
 
 
    「貴方の事を一番良く知っているのが私だから。」
             ――東方風神録:射命丸文








― 参 ―

目覚まし時計の機械音によって、文はまどろみから現に引き戻された。
そこは相変わらずの灰色の世界。空虚で無味乾燥な自室である。最初に目に入ったのは天井の染みと、少しだけ端がめくれた壁紙だった。目を覚ますたびにいつも視界に入るのでそのうち直さねばと思いつつ、決して直されることのない黄ばんだ壁紙。
書き損じた原稿の海をかき分けて、彼女は机の上に転がっていた目覚ましの頭を叩いた。ばさばさの黒髪を掻きながら、またいつもと同じ服に袖を通していく。そして机の隅に転がっていた干し肉を噛みながら、手帖に眼を通す。そうやってルーティンをこなすことで彼女は次第に"ブン屋"へと戻っていくのだ。

「そういえば今日は新聞大会の結果発表でしたね……」

文がミスティアの屋台ではたてと一悶着起こしてから、既に10日が経っていた。その間慧音のところで滞りなく取材を済ませ、アリスの件共々それをネタにして記事を書き、新聞大会用の「文々。新聞」を仕上げた。それがちょうど昨日のことである。寺子屋以外にはミスティアの屋台についてだったり、或いは今年の御柱祭に向けて東風谷早苗がまた常識に囚われない珍案を思いついた――そんな話題が紙面の中心をなしていた。
新聞大会に向けて特別に手の込んだ新聞を作る連中も多いらしいが、文は普段どおりの新聞でエントリーするようにしていた。そもそも彼女はこの大会の順位にたいした関心を持っていなかったのである。新聞とはそういうものではない――彼女はそう考えていた。
とは言っても一応結果ぐらいは確認しておかないと同僚との話題についていけなくなってしまう。見れば結果発表は日が落ちてからのようだ。それまでにできる取材は済ませておこうと考え、文は再び手帖に眼を落とす。無音の室内の向こうで、窓をぱらぱらと叩く雨音がする。そういえば今日は一日中小雨が降るようなことを、龍神様の予報が言っていた気がした。

「ふむ、やはり紅魔館を片付けるのが先決ですかね。」

小雨の音に包まれながら、文はレミリアに呼ばれていたことを思い出した。なんでも近々また盛大なパーティーを催すらしく、宣伝をしろとしつこく言われていたのだ。紅魔館では大体一月に一回ぐらいのペースで、――もちろんあのレミリアだからかなりムラはあるのだが、――屋敷外の人妖を招き入れての大掛かりなパーティーが開催されている。その度ごとに文は宣伝係として借り出されるので、彼女にとってもちょうどいいネタの提供源になっていることは覆しようもなかった。いわばお得意さんである。
お得意さんの機嫌はとっておかねばなるまいなと、文は新聞記者としてしごく当然の結論に至った。とりあえず紅魔館に向かって、おそらくあともう一つぐらい行けるだろうと文は思案を巡らせる。だが結局思い当たる場所は一つきりだった。

「まあ、霊夢さんもお得意さんですしね。」

そう独りごちて文は扉を開ける。廊下は少しばかりひんやりとしていて、静かなものだった。聞こえる音といえば雨どいからぽたぽたと垂れる水音くらいだろうか。騒々しい隣人とは今日も鉢合わせすることはなかった。あの夜の後、一度だけ遠目から姿を見かけた程度で、文はここしばらくはたてとは顔を合わせていなかった。決まり文句みたいな謝罪文と一緒にポストへ忍ばせておいた蒲焼は食べたようだし、時折り壁越しに物音はするので、ちゃんとやってはいるのだろうと文はあまり深入りしないようにしていた。
顔を合わせづらいのもあるが、新聞大会を控えた状況で余計な気を揉ませては悪いと考えたことも一つある。彼女がいつも並々ならぬ意気込みで新聞大会に向かっているのは、文もよく知っていた。潜入取材をしているとなれば帰宅できないことも多いだろうし、生活時間もいっそう不定期となるのは致し方ないことでもある。であれば今夜結果が出た後に打ち上げとでも理由をつけて声を掛けるのが一番いいかと考えていたのだ。
「姫海棠」と可愛らしい文字で書かれた木製プレートを横目で見ながら、文は隣人の部屋を通り過ぎていった。




 ■ ■ ■




「ではすぐに紅茶をお持ちいたしますわ、パチュリー様。」

品のある礼を残して、咲夜は手品のように姿を消した。既に誰もいなくなった空間へ礼を返してから、文は改めてこの部屋の主の方へ向き直り懇ろに挨拶を交わす。

「あや、申し訳ありません。お茶まで淹れていただいて」
「いいのよ。ちょうど時間だったし。それにちょっと寄っていってとお願いしたのはこちらなのだから。」

そう言っている最中も、パチュリーの視線は本の中を歩いていた。この生粋の魔女は、喘息持ち特有の病的な赤みを帯びた顔を常に本の中に突っ込んで、話し相手の方へ視線を向けることもあまり多くなかった。そもそも口を開くこと自体もそれほど多くなかったが、しかし特別無愛想だという印象を話し相手に与えないのが彼女の面白いところでもある。
目こそしじゅう細めているが、しばしば覗かせる瞳は穏やかな光を纏っているし、体の調子さえよければ口元に柔らな笑みがふいに浮かんだりもする。話すときも喘息ゆえ絶えず息継ぎでもしているかのような切れ切れのくぐもったしゃべり方をするのだが、声質自体はかわいらしく愛くるしさを感じさせる。人当たりは悪くないと、彼女と接する機会の多い者はみな口をそろえた。もちろん文もその一人である。
さして間をおくこともなく、咲夜が紅茶とお茶請けを運んできた。彼女であればそれこそ直ちに――ゼロ秒で――持ってくることもできただろうが、客人が主人と簡単に挨拶を交わし、席につき、しばし部屋の空気が落ち着いてからの方が適当だろうという判断らしい。無駄のない滑らかな動きで二人に紅茶を供してから、咲夜はまた煙のように姿を消した。

「それで、どうだったレミィは?」

給仕が終わるを待ってから、パチュリーはそう声を掛けた。文も主人の言葉を待っていたかのように、間を置かず答える。

「大変ご機嫌でした。今回は幻想郷史に残る宴会にするから、お前も死ぬ気で記事を書けと、まあそんな感じでして……」
「ご苦労様ね、いつもいつも。」

そこでようやくパチュリーは本から顔を上げた。苦笑いを浮かべる彼女へ、文は目を細めながら小さく頷きかける。
パチュリーの言うような苦労を、文はレミリアとの取材で感じたことはない。元来自分勝手な吸血鬼である、相手の反応を見ながらというより自分の言いたいことを好き勝手並べるという話し方をするから、文はレミリアを相手にする時には調子よく相槌を打っているだけでよかった。そうすればこの紅魔の主はますます興にのって、上機嫌で喋りまくってくれる。何か聞き出したい時を除いてこれくらい楽な取材対象はないだろう。

「いえいえ、そんなことはありません。」文は愛嬌いっぱいに続ける。「レミリアさんや紅魔館の皆様にはいつもお世話になっております。陽気な方ばかりの幻想郷でもあれだけ気さくに取材に応じてくださる方はいらっしゃいませんよ。」
「レミィの御高説にあれだけ付き合えるってのはたいした才能だと思うけどね。」パチュリーはカップに口をつけながら首をすくめる。「今日は一段と長かったもの。今日も雨が降ってるから色々と鬱憤が溜まってるんでしょうけど。まあでもあんまり調子にのせるのも考え物よ。」

文は手のひらを胸の前に置いて、やんわりと否定するようなそぶりをする。

「あやや、そんなことはありません。色々話していたら新聞を褒められてしまいました。巫女の記事はとても面白いからもっと紙面を割けとか……」
「それは指図っていうんじゃないかしら?」

パチュリーは声に出して笑った。息苦しそうな途切れ途切れの笑いだが、本人はたいそう愉快そうだった。文もへりくだるようにして笑みを被せる。そして同じタイミングでカップを取り喉を潤した。笑顔で友人の話をする彼女の姿をしっかり写真に収めてから、文は少しばかりなれなれしい調子で呟いた。

「しかし、レミリアさんも他の皆さんも、本当に霊夢さんが好きですよねえ。みんなあの記事がお気に入りのようで。いやはや……」
「あら、それは仕方ないのではないかしら。あの巫女は興味を抱くだけの価値を有しているでしょう、ねえ?」

こちらもまたいっそうなれなれしく、同意を無理やり引き出すような口ぶりで答える。ふいに先日の萃香やアリスとのやり取りが文の頭を掠めた。自信満々の色を見せるパチュリーに促されでもしたのか、文はなんとなしに尋ねた。

「どうしてだと、思われますか? その……」
「あの巫女が妖怪たちに好かれる理由?」

文は無言でもって首肯する。それを見るパチュリーの眼には、少しばかり物々しさがあった。彼女は小さくしわぶいてから、ゆっくりと口を開いた。

「力というのは当然外せない特性よね。強い者は強い者を好む。あの巫女の力は規格外なところがあるわ。スペルカードという枷を取ったとしても多くの人外を凌駕するほどの力を持っている……歴代でもどうかしらね?」
「どうでしょうか。確かに霊夢さんは歴代でも上位の力を持ってはいますが、あれだけ妖怪を魅了するほどの図抜けた実力を持っているとは思えません。」

遠慮のない強めの口調で、文は口を挟んだ。こちらはそんなものなどお構いなしといったふうに言葉を続ける。頬に刺した病的な赤みもわずかばかり濃くなったように見えた。

「強さの質が違うように思えるのよ。あれはね、なんというか遠慮がないの。子供じみてる戦い方のようにも見えるけど、たぶんそんな単純でもない。」
「それは、妖怪に対して容赦ないということですか?」
「それは一面的な理解ね。スペルカードルールを導入したのがあの巫女だという事実を、その意見は見逃している。」

ちらと威厳の色を示したかったのか、パチュリーはほんの少し間を置いてから、上機嫌に言葉を繋げる。

「遠慮がないというのは、自身によ。あの巫女は、まるで死ぬことをおそれていない。別に自分なぞどうなろうと知ったことじゃない、そう言わんばかりの戦略を組んでくる。それは相手に言いようのない恐怖を与えるのよ。」
「恐怖?」

文はそこだけ引っ張り出して聞き返した。あの日、三人の人外から出た「こわい」という言葉が、のがれようもなく彼女の頭をもたげる。パチュリーはそんな文の戸惑いを知ってか知らずか、悦に入ったようにさえずる。

「そう、だからあれと戦っていると思わず突飛な妄想に囚われてしまう。スペルカードルールを導入したのは安全かつ容易に異変を起こさせるためじゃない。異変を起こさせやすくして自分の身を危険に晒すためじゃないか、死ぬ危険を極力減らしたゲームの中で、自分を痛めつける……いや自分を殺さないように戦う妖怪を、その無様な配慮を見て嘲笑うためじゃないかってね。」
「パチュリーさんは、どうなのでしょうか……霊夢さんをこわいと思いますか?」

腫れ物に触るように、おずおずと文は尋ねた。パチュリーは火のついた脳を冷ますように熱い紅茶を一口すすってから、意地悪い笑みとともに言葉を返す。

「へぇ、変わったことを訊くものね。」
「そうでしょうか。」

言い方が幾らか粗暴になってしまったことに居たたまれなさを覚えたのか、文はそう言い終わるやいなや唇をかんだ。パチュリーは頬杖の上で微笑を浮かべながら、十分な間をとって満足げにそれを眺める。必要以上にゆっくりと、一節一節に感情を込める口ぶりで、彼女はようやく続きを話し始めた。

「人外に向かって『貴方は人間を恐れますか?』だなんて、まるで『貴方は無能ですか?』と訊いてるのと同じじゃない。滑稽だわ。」
「……なるほど。」

文は気を紛らすためにペンを取って手帖を開く。パチュリーの方はほとんど咳き込まんばかりの勢いで先を急いだ。

「いかなる人外も、人に恐れられることによって初めて力を得る。恐れられていればいるほど、その力は増す。それが我々の在りようであり、もっとも基本的な原理。そして人と妖の関係でしょう?」
「であれば、パチュリーさんも他の皆さんも霊夢さんのことを恐れているわけではない。ただ霊夢さんが皆さんのことを恐れていないだけに過ぎないと、そういうことでしょうか?」
「なるほど、貴方はそう考えるのね?」
「というと?」
「私はさっきあの巫女は恐怖を与えると言ったでしょう?」
「あや〜 よく分からなくなってきました。」

ほとんど卑下に近い調子で、文は両手を開きながら軽佻に答える。パチュリーは傲然とした態度でそれを眺めていたが、真剣さの色合いが濃くなっていくのは隠せなかった。

「例えば咲夜。」彼女は知識人にありがちなまわりくどい言い回しで、聞き手の注意をいっそう惹こうとする。「普段は私たちに対しても不遜といってもいいくらいの落ち着き払った態度を取り、レミィにすら忌憚なく意見する。でもね、あの子が私達と触れ合うことに心の底でどれだけ恐れを抱いているか、ここの住人は痛いほど知っている。だからこうやって同じ屋根の下で暮らせるのよ。もしあの子が私達のことを微塵も恐れていないとすれば、それはわれわれ妖にとって最も憎悪すべき、それこそ直ちにこの世から抹殺すべきおぞましい存在でしかありえない。
 もっとわかりやすいのは魔理沙ね。どんな妖の者であろうと、あの子は人を食ったような態度を一切変えない。でもその影でどれだけ人外の力を恐れ、羨望し、それに追いつこうと惨めにもがいているか、あの子と顔見知りの人外はみな知っている。だからこそ魔理沙は我々に愛されている。でしょう?」

パチュリーはそこで一旦息を入れると、まだ熱さの残る紅茶に口をつけた。彼女は常に相手の反応を探りながら、言葉を選んでいるふうだった。

「つまり、魔理沙さんや咲夜さんが無自覚に皆さんのことを恐れているように、霊夢さんも同じように心のどこかで妖怪を恐れていると、そう仰りたいのですよね?」

文もまた奇妙な熱情に瞳を燃やして、その見解に耳を傾けていた。もちろん面持ちはいつも通り、鋼の笑顔を絶やしていなかったが。

「根本はみな同じなのよ。」彼女は指を立てた。「我々は人外としてあるために、人間を恐れていることを認めるわけにはいかない。たとえ意識の底に目を背けたくなるような人への恐れがあるとしてもね。我々は自らの底にある恐れという感情を認めず、ただ漠然とそれを胸に秘めている。そう、我々は浅ましいぐらい内なる恐れを直視しようとしない。その代わり人間、つまり他者が抱いている恐れには、また浅ましいほど敏感なのよ。……まあもっとも、ある程度の知能を持った高位の妖怪は、そのことを多少なりとも自覚しているでしょうけど。
 でもそれはあの巫女も同じ。だから先ほどの貴方の問いに答えるとするならば、あの巫女は我々と同じである――私はそう考えるわね。決してあの巫女は乖離した存在ではない。もしあの巫女に何らかの畏れやおぞましさを感じるのならば、それはすなわち私たち自身もそういうおぞましさを持っているにすぎない。気付いていないだけでね。」
「霊夢さんも、同じように心の底で皆さんのことを恐れている。うーむ……」

文は大仰な仕草で考え込むようなそぶりを見せる。彼女は常にパチュリーの意図をずらすように言葉を返し続けていたが、さすがに憂鬱と惑乱の色は隠しきれていなかった。パチュリーはそれをしっかりと確認してから、彼女の懊悩を引き取る。

「"私たち人外"というのは偏狭な、ある意味傲慢な捉え方かもね。存在そのもの……そう表現した方がいいのかもしれない。あの子はこの世界全てを唾棄しつつ、同時に全てに対し戦慄を覚えている……そういうのはどうかしら?」

敢えて含みのある言い方で結んだパチュリーは、にやりと文に微笑みかけた。まるで結論を託すように。こちらはそんな挑発など鼻にもかけぬと、恐縮気味に頷く。

「うーん、なかなか含蓄のあるご意見、さすがパチュリーさんです。正直私なんかでは理解し切れているのか怪しいところですね……ただ、一般的な霊夢さんのイメージとは少しばかりかけ離れすぎているようにも見えます、はい。」

かなりきっぱりとした、明瞭な調子で彼女は感想を締めた。言われた方は表情を崩すことなく、熱の残った紅茶をもう一口すする。そして喉に小骨でも引っかかっていたように唾をしっかり飲み込んでから、明らかに侮蔑の色が混じった口調で言葉を返した。

「"曰く、われ汝の行いを知れり。汝すでに温くして、冷ややかにも非ず熱くも非ず。われはむしろ汝が冷ややかならんか熱からんかを願う"」
「? なんですか、それは。」
「黙示録。3章15節。」
「すみません。わたくし西方の宗教には疎いものでして。」

聞き手はなんだか脅すような慇懃さで言い返す。パチュリーはくすりと空笑いしながら、脈絡など気にかける様子もなく言った。

「そういえばすっかり忘れてた。今日、貴方にここへ来てもらったのはね、例の合同研究の件なの。」
「あや、そうだったのですか?」

文もこれ幸いとばかりに飛びついた。パチュリーは失望の色を滲ませた青白い顔で、淡々と用件を伝える。

「延び延びになってたんだけど、どうやらにとりの方の目処がついたらしくて。明日にも仕上がると思うわ。」
「ほう! それは素晴らしい。ということは、取材も?」
「急な話になってしまって申し訳ないんだけどね。実は今日も夜明け前までみなと作業していたのよ。それで貴方が今日紅魔館に来る予定だと話したら、私から伝えておいてほしいと。会場はここの中庭で、夕方の五時ぐらいでいいかしら?」
「お任せいたしますよ。今は新聞大会も終わって暇な時でして。あやや〜助かります。」

文はおおげさに喜んで見せた。鼻歌でも飛び出しそうな陽気な面持ちで日時を手帖に書き入れながら、すっかり温くなった紅茶に口をつける。

「そうそう、魔理沙こうも言ってたわね。できれば新聞大会までに間に合わせたかった、すまなかったって。」
「いやいや、そんなことは気になさらないで下さい。」
「私もそう思ったんだけどね。ほら、あの子バカみたいに真っ正直なところがあるから。」
「世の中が新聞にあわせて動くなんて滑稽ですよ。本来報道とは逆でなければ。」
「まったく、ふふっ……そのとおりね。」

パチュリーの相槌は、たっぷりの嘲りを含んでいた。その声色に文もたまらず手帖から声の方へ視線を移してしまった。罠にかかった鼠を狩り落とすかのごとき勢いで、パチュリーの瞳がぱっと輝く。

「魔理沙、ずっと気にしてたわよ。あなたがちゃんと博麗神社に行ったかなってね。」
「あやあや……そうなのですか……」
「今日は行ったの?」
「いえ、このあと顔を出そうかなと、そう考えておりました。」

拗ねたような調子で、文はぼそぼそと言葉を続ける。

「しかし、魔理沙さんはよく分かりません。最近いつもそうなのですよ。会うたびに『神社に行ったか?』『霊夢さんに会ってきたか?』って、よく分かりません。」

この10日ばかりの間、文と魔理沙は5度ほど顔をあわせた。どちらも顔が広く行動範囲も広いということもあってか、特に約束したわけでもないのにばったり会うのはそう珍しいことでもない。だがいつもと違ったのは、その度ごとに魔理沙が文に対して霊夢のところへ行ったのかを確認してきたことだった。それはもはや尋問に近いものがあった。
文が既に行ったことを伝えると、「喜んでいただろ?」とか、「あいつもうれしがってると思うぜ」みたいなことを、思わせぶりな口ぶりで言ってくる。別の日にまだ行ってないと伝えたりすると、「早く行ってやれ」とか「あいつ今頃そわそわしてるぜ」とかそんな感じの台詞を、したり顔で文に耳打ちするのである。
もちろん文はそんなロマンスに焦がれる初心(うぶ)な乙女みたいな反応を、一度としてあの無愛想な巫女から感じたことはない。気の抜けた返事をされて、軽く茶をご馳走になって、何事もなく帰る、それだけだった。
会話らしい会話もない。博麗神社には常に多種多様な妖怪・人外が跋扈しているので、霊夢が相手をせねばならない対象が多いという事情もあったのかも知れぬ。だが、よしんば彼女たちのせいで霊夢がもどかしい想いを胸に秘めたままにしているなどという考えに譲歩したとしても、文に対するぞんざいで、興味なさげな――すなわち十把ひとからげな――扱いは明らかであった。
一度など文が愛想を振りまいても挨拶どころか一切目を合わせることなく、奥の方へぷいと引っ込んでしまったこともあった。とどのつまり、ここ数日の振る舞いから脈を感じることなど、たとえ誰であってもできなかっただろうということだ。
当然であるが今の話は、文もあの神社に毎日顔を出していたという事実を含意している。「巫女動静」のため、彼女は一種独特な義務感を持って神社に足しげく通っていた。実際あの巫女の動向など毎日確認する必要もないくらい代わり映えしなかったのだが、しかし文はそれを確認せねばあの記事を書いてはならないと、ある種強迫的な信念を抱いていた。
もっともそれは正に"顔を出す"という表現が適切な関わりでしかなかったことも付け加えておかねばなるまい。滞在時間も30分を越えたことは一度としてなかった。霊夢は重要な読者=取材対象の一人であり、そしてそれ以上でもそれ以下でもない――もし文に霊夢との関係を訊けばそういう答えが返ってきただろう。

「さっきのね、貴方の新聞に対する感想なの。」

また思いっきり脈絡を無視して、パチュリーは冷笑を口元に浮かべながら呟いた。聡い文も会話についていけないといったふうで、しばしきょとんと相手の顔を見ていた。

「さっきの、というのはあの聖書の文言ですか?」
「ええそうよ。」

しばし時間を置いた後、怪訝な表情でそう答えた文へ、パチュリーは余裕たっぷりに返した。

「私は、貴方の新聞好きよ。とてもいい観点を含んでいると思う。だからね、貴方にはもっと熱を持ってほしいと、私はそう願っているの。冷たくはない……おそらくね。だから明日の取材、期待しているわ。」

それはなぞめいた調子だった。くぐもった小声だが、かつてないほど強烈な、恫喝にも似た力強さを帯びた言葉だった。なれない口調で言い切ろうとしたせいか、上手く呂律が回らずつっかえつっかえになってしまった、そんな切実ささえ窺えた。
文は口角を柔らかに持ち上げ、しかし奥歯を噛みしめたような中途半端な笑顔でその言葉を受け止めていた。なんだか薄気味悪い感じで軽く苦笑をして、彼女は主に一礼を向ける。

「あやや……なんだかパチュリーさんの言い方は難しくてよく分かりませんが、ずいぶん期待されてしまっていることはよく伝わりました。必ずよい取材になるよう、精一杯やらせて頂きます。ええ、約束します。」
「お願いするわ。」
「では明日。」

パチュリーは本の世界に戻っていた。文は跳ね上がるような、けれどどこかぎくしゃくした動きで椅子から立ち上がると、もう一度深々と礼をしてから図書館を後にした。




 ■ ■ ■




博麗神社に文が着いた頃には、もう日は落ちかかっていた。紅魔館でのおしゃべりは予想以上に時間を食ってしまったらしい。それでも雨は、起きた時からずっと変わらずぱらぱらと地面を濡らし続けていた。もっともそれは降るか降らないかといった量で、事実鳥居の向こうの空を見れば、わずかながらの残照が雲の切れ間越しに顔を覗かせている。
文もここまで飛んできたにもかかわらず、ほとんど衣服を湿らせていなかった。風が雨を吹き飛ばしてしまったのだろう。意識せずとも飛んでいってしまうくらい、儚い雨粒だったということか。

境内に喧騒はなかった。一人の女性が縁台に腰掛けているだけであった。だが彼女はいつもの騒々しさの代わりどころかお釣りがくるほど、一緒異様な、禍々しいといってもいい存在感で、場の静謐を統べていた。

「あや。これはお久しぶりです、紫さん」
「こんばんは。貴女と会うのは確かに久しぶりね。」

文はその妖気を前にしても人当たりのよい態度を一切崩すことなく、先客である八雲紫に軽く会釈をした。こちらもまたゆとりある態度を少しも揺るがせることなく、微笑でもって新たな客を迎える。
この八雲紫なる妖怪は、なかなかつかみどころのない容貌をしている。ブロンドのウェーブがかった長髪を靡かせた、高い教養と品格を感じさせる女性であると言えば、彼女を知る者の了解を一応は得られるものと思われる。しかし、会うたびに風貌が目まぐるしく変化する忙しない人間が時たまいるように、彼女の容貌も会うたび、或いは見るたびに変化するのだ。目鼻立ちの尖った才知ある女性に見える時もあれば、きらきらした瞳と瑞々しい肌を纏ったいたいけな少女に見える時もある。眼窩に影を宿した経験豊かな淑女になったかと思うと、ぷっくりした唇とアーチ状の眉をした肉感たっぷりの娼婦にしか見えなかったりもする。全ての表情に共通するのは、口元に絶えず甘ったるい微笑を浮かべていて、愛用の扇子でその笑みを飾り立てている、それくらいしかない。その曖昧さこそが、一種名状しがたい魅力を彼女にもたらす源泉となっている。文はいまだにこのスキマ妖怪をどう形容すべきか量りかねているところがあった。

「確かにそうですね。最近はお忙しかったのでしょうか。」
「まあ暇なわけでもないけれど、ここには結構顔を出していたわよ。貴女とは来る時間が違ったのかもね。」
「あやや〜 なるほどそう言われてみればそうかもしれません。わたくしは夕暮れ前に来て、日が暮れる前に帰りますから。」

他愛ないやりとりの後に、紫は縁台に上がるよう目配せで文に促した。気にならない量とはいえまだ雨は降っている。彼女だけを外に立たせておくのは申し訳ないと思ったのだろう。快い受諾の言とともに当然の疑問を訊こうとした文へ、紫は唇に人差し指を当てながら、ちらと奥の方へ視線を向けた。文もその視線を無言で追う。
それは一瞬文を怯ませた。もし紫の注意がなければ、彼女はうっかり声を上げていたかもしれない。それほど居間の中にあった光景は奇怪で、かつ一種荘厳な光景だった。
居間では霊夢が横になっていた。卓袱台の手前、縁側から見てすぐ眼に入る位置に、彼女は横向きの姿勢で眠りについていた。だがそれはぱっと見とても眠っているように見えなかった。あえて表現すれば固まったようだった。寝息の音や、上下に動く横隔膜の穏やかなリズムなど、そこには全く見られない。霊夢はただ眼を閉じたまま、微動だにせず畳の上に四肢を投げていたのである。
不可思議なのはそれだけではなかった。霊夢の頬には、べっとりと血糊がついていた。もしいきなりこの光景を見せられれば、彼女は殺されたのではないかと多くの人が勘違いしてしまいそうなほど、赤黒いそれは彼女の穏やかな寝顔を怪しく彩っていた。文も一瞬それを疑ったが、臭いですぐにわかった。その血は人のものではなく、妖怪のもの――つまり返り血だった。
白地の大きな袖にも、雨染みに混じってやはり返り血が斑(まだら)をつくっていた。いつもの巫女装束をしわだらけにして、彼女は特に着替えるでもなくここで寝入ってしまったらしい。だらしなく緩んだ黄色のネクタイの先から、へそが無防備に顔を覗かせている。無防備なのはへそだけではない。半分まくれ上がったスカートからは、細い太ももがちらちらと姿を見せている。年頃の少女が見せる隙だらけな寝姿は、そこにいるものを虜にしてしまう危うい魅力に満ちていた。
卓袱台の上には飲みかけの湯呑みがポツリと置いてあり、そして彼女の手には――おそらくこれが一番文を震撼させたのであるが――新聞がしっかと握られていた。それは昨日書き上げ届けに行った「文々。新聞」。何度も読み返したのか、新聞はところどころしわくちゃで、幾度となく折り返されへたっていた。先日の萃香の言葉が、こみあげるように文の脳裏に浮かんだ。

「これは一体……?」
「さあ、どういうことなんでしょうねぇ?」

その想起を掻き消さんと声を上げた文に、紫は困惑顔で首をすくめる。ゆっくりと忍び足で縁台に戻った鴉天狗を横に座らせた彼女は、霊夢の方を二度三度見遣りながら言った。

「あの状態から察するに、雨の中なんとなしに空中散歩に出かけて、途中出遭った妖怪をなんとなしに退治して、帰ってきてからその返り血も拭かずになんとなしにお茶を飲みながら新聞読んでる途中、なんとなしに寝てしまった。そんな感じなのかしらね?」

その口調にはなんだか諦めの色が混じっていた。文は少しだけ迷ったが、手帖を開いてこれをメモすることにした。隣の紫は下唇に閉じた扇子の先を当てながら、その様子を眺めていた。

「あの連載記事のメモ?」
「え、ええまあそんなところです。」

ちらと手帳を覗き込むようなそぶりをして、紫は訳知り顔で問いかけた。こちらは慌てて手帖を隠すようにしながら、弁解じみた口調で答える。

「紫さんもあの記事を読んでくださっているのですか?」
「おかげさまで。霊夢のだらけっぷりがよく分かってお小言がやりやすくなったわ。」
「たはは……」

紫の霊夢に対する接し方は後見人に似たものがあった。実際博麗の巫女の選定に際しては、博麗大結界作成の中心人物とされる彼女の意向が強く働いていると一般には見なされている。そういう事情もあるのかもしれない、この大妖怪はよくこの神社に顔を出しては、巫女に対し修業やその他生活態度一般について小姑よろしく説教を垂れるというのが、昔からの常であった。
だが、その頻度は博麗霊夢になってから一段と増えたように思えた。人妖の垣根が緩んだせいか、はたまた今代の巫女が暢気すぎるせいか、文は以前からその理由を図りかねていた。

「紫さんは、霊夢さんには特に手をかけているように見えますね。」
「あら、そう見える?」
「ええまあ。萃香さんも以前そんなことを仰ってましたよ。あんなに暢気じゃ、紫さんも大変だろうって。」

文ははぐらかすようにそう付け足した。当然その手に気付きながら、紫はそれをおくびにも出さずにただ微笑を浮かべて夕焼けの雨空を見ていた。
奇妙な間だった。どちらかと言うと紫は話好きな性分であるから、この間はいっそう奇妙に思えた。文は漠然とした後悔を抱いた。彼女には、紫の顔がなにやら重苦しい決心を下そうとする寸前の表情に見えたのである。

「申し訳ないと、思ってるのよ。」かなりはっきりと愁いを帯びた調子で、紫は呟いた。「どうしてかあの子には、そう感じてしまうの。そんな道理はないはずなのに。」

文は手帖に視線を落としたまま、ちらちらと相客を窺いみていた。こちらは手の中で扇子を閉じたり開いたりしながら、誰に聞かせるでもなく言葉を続ける。

「巫女になる前のあの子を紹介してきたのは里の方だったから、私は昔のことはよく知らない。後から小耳に挟んだ話では普通の家の生まれで、両親を早くに亡くした、そんな境遇だったらしいけど。ただまだ幼かった頃のあの子を遠くから見ていた時から、おかしいなと思っていたの。
 もちろん一目見て巫女としての才能に溢れているのはわかった。あれだけ天賦の才を持っていたのは、そうはいなかったからね。でもそれだけじゃなかったの。まだ年端もいかない子どもだったのに、なんだか妙に悟りきった、感情のない眼をしていた。そしてうっすら火薬の臭いがした。」
「火薬?」
「ええ。きな臭い、今にも爆発するんじゃないかという不穏な臭い。でも同時にじめっとしていて、熱気がまるでないの。しけった火薬の塊がいつまでも燃えずに、ぶすぶすと煙だけ上げてるような、なんともいえない違和感。」

紫の声には明らかに動揺と戦慄があった。文はこれ以上この話を聞くべきではないと悟った。もし彼女がここに来る前にパチュリーから奇っ怪な暗示を受けなければ、十日前にアリスや萃香とあんな会話をしていなければ、彼女は理由をつけてとっととこの場から立ち去っていたに違いない。
たぶん文は疲れていたのだ。意味のわからない言葉で繰り返し頭をかきまわされて、判断力が鈍っていたのだ。紫は病弱な少女を思わせる青ざめた表情をしていた。

「貴女も知ってるわよね?」彼女はとうとう文の方に視線を投げた。「スペルカードルール、あれを提案したのはあの子ということになってるけど、あのルール自体はかなり前から妖怪たちの間で骨子ができていた。龍神様も御承知だった。でも、私たちはこの方法は無理だと思っていた。誰も人間を信用していなかったのよ。突然一定のルールの下で決闘しようなんて取り決めても、あいつらはまた絶対に約束を破る――ほとんどの妖怪はこう考えていた。だから人間が"自発的"にこのルールを提起しなければならないと、そして"自発的"にそのルールを遵守せねばならないと、そう考えた。
 どんな人物ならそんなことが可能か、色々と協議したわ。もし画に描いたように真っ直ぐな人間がいれば、その役目を任せられるかもしれない。もし妖怪の命に忠実に従う人間がいれば、その役目を任せられるかもしれない。力のある新参者を呼び寄せ、ルールが既に定着していると見せかければ、そいつは幻想郷のしきたりに馴染もうと進んでその役目を買って出てくれるかもしれない。でもいずれもきっかけとしては弱いという結論に至ってしまったの。
 その時に、あの子が、霊夢がスペルカードルールのことを知って、二つ返事で引き受けてくれた。人妖間の決闘に異変とその解決という理由を被せることでね。私は反対した。博麗の巫女は結界そのものの調停者。幻想郷に害を為すものを排除する絶対的な存在。それが妖怪のために弾幕遊びの相手役を務めるなんて、絶対に無理だと思った。本来幻想郷において絶対不可侵な存在たる博麗大結界の要が、必要あればいかなる存在とて問答無用で抹殺する権利を有する博麗の巫女が、妖怪どもの憂さ晴らしに借り出されるなんて、ありえないと思ったわ。
 でも霊夢は何事もなかったようにやってしまった。それも全く真逆のやり方で。あの子はまず博麗の巫女が伝統的に執り行っていた儀式をすべて廃止した。それまで築き上げてきた巫女の伝統的権威を、一つ残らず打ち棄てた。さらに里や妖怪の住処に平然と下りてきては暢気で怠惰な姿を晒して、それまでだれもが胸に抱いていた巫女に対する神秘性、不可侵性をも破壊した。そうやってまず自らが裸になって、周りの者にも鎧を脱ぐことを迫ったの。
 でもね、そこに信頼はなかった。これは断言できる。あの子は私たちを信じて自分から鎧を脱いだんじゃない。構えを取る妖怪、そして人間の前に平然と命をさらして、こちらの動揺を見て愉しんでいる、そうとしか思えなかった。でなければ幻想郷の誰もが必死に守ろうとしていた"博麗の巫女"という偶像を易々と叩き潰し、妖怪たちと何食わぬ顔でお茶を酌み交わしながら、それでもなおかつ"博麗の巫女"としての立ち位置を変えず妖怪を退治し続ける、そんなことができるとは思えない。」

独白のさなか文は俯いたまま、ペンさえ走らせていなかった。紫はまどろみから醒めたように何度かまばたきすると、申し訳なさげな表情でそっと隣の天狗に微笑みかける。なんだか彼女が震えているように紫の目には映ったのだ。

「……ああごめんなさい、変な話をしてしまって。」
「あややー いえそんなことは。しかし中々際どい話ですねぇ。『スペルカードルール誕生の裏側!』こんな感じで大スクープが書けちゃいそうです。」

文は霊夢が寝ているのも忘れて、思い切り素っ頓狂な声でおどけてみせた。こちらはたっぷりと時間をかけてもう一度まばたきをする。まるで文の軽薄な反応を目蓋に焼き付けるように。口元で泳がせていた扇子をすっと下ろし、紫は冷酷さを帯びた口調で短く言った。

「貴女は書かない。絶対に。」

ずいと、紫の顔が文に迫る。琥珀色の瞳がレンズのように小さな新聞記者を捉えた。紫の顔つきは威風堂々たる王妃のそれを思わせた。

「前に言ったわよね。私が藍を虐待しているとかいう記事を貴女が書いた時、ちゃんと忠告したはず。物事を一面で見るなと。貴女は変わってない。貴女の新聞は世界を一面から見たいがために、嘘と捏造で事実を捻じ曲げている。哀れなほど。」
「な、違いますっ、私の新聞に嘘などありません! 嘘など……そんな!」

文は憤懣を隠すことなく縁台から跳ね上がった。相手は驚くそぶりさえ見せず、瞳孔をぐっと開きながら慌てふためく新聞記者を仰ぎ見る。

「なぜ貴女は、霊夢が解決した異変をきちんと記事にしないのかしら?」
「そ、それは裏が取れないからです! あなた方が話をはぐらかすから……」
「私はちゃんと話したわよ。幽々子のことも萃香のことも。それに貴女はあの竹林の住民が月人だということも、あのロケット騒動の真相もある程度掴んでいる。なぜ書かないの?」
「そ、それは……」
「引っ越してきた山の神や間欠泉騒ぎに至っては直接関わってさえいた。なのに貴女はその顛末もぼやかして書いてる。なぜかしら? なぜ貴女は霊夢の日常を書き続けるのに、霊夢の本業を隠蔽しようとするのかしら? なぜここでお気楽な生活をしている霊夢しか書かないのかしら?」
「そんなことはしていません! 私は、真実を……書いています。貴方の言うようなことは、決してしていません!」
「貴女の新聞には温度がない。生温いの。それは私みたいな施政者の側からすればありがたくもあるけれど、でも虚飾でもって熱気も冷気も取り去っていることには変わらない。貴女がその視点だけで世界を見続けようとする限り、決して今の話を記事することはない。疑いの余地もなくね。」
「そんなことは……っ、私は嘘など、嘘なんて!」
「だぁれ……?」

青ざめた顔で喚き散らしていた文は、そこで我に返った。むくりと上体を起こした霊夢は、寝ぼけ眼のまま客人たちの方へ顔を向ける。

「ぅ、ん……せっかく寝てたのに……」
「そんなところで居眠りこいてるからよ。おはよう。」

ちらと文に横目を送って、紫はいそいそと霊夢に向かい合った。途中で起こされた形になった彼女は、しどけない風采を気にかけることなくむくれた顔を"小姑"へ向ける。

「ほら、ネクタイちゃんと締めて。あと顔洗ってらっしゃい。ほっぺ、血付いたままよ。」

指で拭って頬についた血を見せると、紫は型崩れした服やリボンを整えてやりながら霊夢を急きたてた。こちらは不機嫌を撒き散らしながら呟く。

「うっさいなあ」
「霊夢がだらしないからでしょ。そんなんじゃあんたいい奥さんになれないわよ。」
「なによそれ。結婚なんかしないわよ。」

しばし夢現の間を往復していた霊夢だったが、紫の予想外のお小言に眠気も失せたらしい。彼女はしかめ面で舌を突き出した。そしてやけに荒々しい手つきで頭を掻きながら、のっそり立ち上がる。その振舞いに紫は軽く眉をひそめた。今度の顔つきは貧相な田舎娘を思わせた。

「しないの?」
「考えただけで虫唾が走る。」
「あのねぇ……まあいいわ、じゃあせめてちゃんと巫女らしくしなさいな。」

その言葉に取り合う様子もなく、霊夢は大きな欠伸をかきながら台所にむかってのろのろと歩を進めていった。
ちゃんと顔を洗いに行ったことを確認してから、紫は縁台に残された文へため息交じりの苦笑いを向ける。向けられた方もさすがというべきか、先ほどまでの険悪な空気など始めからなかったように、生温い微笑を浮かべながら頷き返した。

「すみませんでした。ついかっとなってしまって。私も修行が足りません。」
「いいのよ。こっちもそうさせようと思ってわざと言ったんだし。」

紫の笑みもすっかり邪気のないものに変わっていた。ぽりぽりと額を掻きながら、文は恐縮げに卓袱台の前に座り直す。いつ淹れたのか、卓袱台には湯気を上らせた湯呑みが三つあった。文は軽く一礼してからそれを口につける。随分と、熱く淹れられたお茶だった。

「しかし、先ほどのお二人はとても仲睦まじかったですよ。思わず一枚撮ってしまいました。」
「あらやだ、いつの間に撮ったの?」

文は得意げにカメラを見せ付けた。紫はその方へ視線を向けぬまま含み笑いを返す。呆れているというより純粋に驚いているようだった。

「ええ、大変お似合いのカップルに見えました。」
「そう? 私にはあなた達の方がぴったりに見えるけど。」

話のペースをもっていこうと苦闘していた文の努力は、またあっさりと叩き折られた。今度は明らかな嘲りと、もっとどす黒いものが混じった微笑を口元に泳がせて、紫は彼女の方へ射抜くような視線を向けた。

「なぜ私があの子にいつもいつも『巫女らしくなさい』っていうかわかる?」

いくぶん苛立ちの混じった声で紫はそう訊いた。並々ならぬ調子に文はすっかりすくみあがってしまった。

「そ、それは霊夢さんがだらけてばっかりだから――」
「こわいのよ。あの子とは弾幕ごっこもしたし、一緒に異変の解決をしたりもした……そんな時ふと思ったの。あの子には果たして"博麗の巫女"としての義務感なんてものがあるのだろうかってね。あの子が妖怪を退治しているのは、ただ気紛れに、それこそ暇潰しでやってるだけなんじゃないかって、"博麗の巫女"という最高の玩具を手に入れて、私たちで遊んでいるだけなんじゃないかって、そんな馬鹿げた妄執が頭を離れない。
 たまに夢を見るの。幻想郷が幻想郷であるための要であるあの子が、ある朝目を覚まして、なんとなくそんな気分だったからなんて理由で、この大地を結界ごと全て残らず消し飛ばしてしまう、そんな根拠の欠片もない恐ろしい夢をね。
 だから何度も言い聞かせる。『貴方は博麗の巫女』なのだと。あの子にやらせてしまったこと、あの子がしてくれたこと、それを過ちだなんて思いたくない。わたし今の幻想郷のこと、とても気に入ってるから。」

それは今までで一番荒々しく、吐き棄てるような凄みがあった。だが同時にこの大妖怪が言ったとは思えないほど、純粋な狼狽と悲壮があった。文は悄然と青ざめた顔で、目だけを剥きながらその告解に耳を傾けていた。
逃げるように顔を横に向けた彼女の手に、紫は逃すまいと素早く手を重ねる。その眼には哀願の色がありありと浮かんでいた。

「だから貴女には心に留めておいてほしい。あの子とよく似た貴女には。あの子は貴女のことを――」
「ねえちょっと、湯呑みどこいったか知らない?」

紫がさらに言葉を連ねようとした時、霊夢が顔だけをひょっこり居間へ突き出した。室内に漂っていた空気など眼中にないのか、彼女は卓袱台の上に三つ並んだ湯呑みを見つけると、二人を押し分けるようにして卓袱台まで進み、腰を落ちつけてしまった。

「あら、お茶淹れてくれてたのね。ありがとう。」
「長かったじゃない。どこ行ってたの?」
「風呂入れてご飯を炊こうかと思って、薪を運んでたのよ。」
「そういうことなら手伝ったのに。」

口をすぼめる紫への返事もそこそこに、霊夢は卓袱台に並んでいたお茶にありつく。一口啜った顔には満足の色が浮かんでいたが、文にはそれがひどく気難しげに映った。

「なんかずいぶん熱いわねこのお茶。」
「あんたのがいつも温すぎるのよ。」
「いいじゃない。温い方が美味しいのよ。」

霊夢は半ば機械的に紫と受け答えしていた。文にはそれがなんだか驕り高ぶった尊大な態度に見えた。霊夢はもう片方の客人へ、隙を窺うような目つきで尋ねる。

「あんたも風呂入ってく? ご飯も今から作るけど。」
「いえ、私はこれから用事がありますので。あやすみません。」
「ふーん、そ」

また湯呑みの水面に視線を落とす霊夢と、目をそらす文。無言のまま熱いお茶を半分ほど飲んでから、彼女は一言だけ挨拶を告げ足早に神社を後にした。




 ■ ■ ■




文が妖怪の山に戻ってきた時分には、雨足は次第に強さを増していた。すっかり日も落ち、曇天のもと周囲は闇に包まれている。核融合が作る人工の光に満ち溢れた天狗の郷へ、彼女は蛾のように吸い寄せられていった。
新聞大会の結果は、天狗の郷の中央にある大きな広場に掲示されることになっている。一番めだつ場所に設置された掲示板は、いっそう明るい電灯に照らされて雨の中行きかう天狗たちの関心をがぜん引き寄せていた。
文も人垣を掻き分けて、聳え立つ掲示板を仰ぎ見る。ここにはエントリーされた新聞が全て貼られることになっている。そして掲示された位置が、すなわち順位を表すことになっているのだ。上であればあるほど、そして右側であればあるほど、順位は高い。文は上に視線を向けた。一番右上にあるのは「鞍馬諧報」、一番手堅いと言われる総合紙だ。その隣が「天孫新聞」、保守層から絶大な支持を受ける新聞である。以前文と悶着を起こした、あの新聞だ。
三番目は「弾幕新報」。直近のスペルカードバトルの結果、新しいスペルの解説、弾幕戦のセオリーや戦評など、山で行われた弾幕ごっこに関する詳細なデータが書かれた専門紙である。近頃急速に人気を集めている新聞で、確かに弾幕ごっこに興味こそあれなかなか実際にするきっかけのない山の妖怪にとっては耳目を引きそうな紙面構成と言えた。
「弾幕新報」の記者は、文もよく知っていた。以前隣の部屋に住んでいた鴉天狗である。積極的に山の外へ出て、麓の人妖ともスペルカードバトルを普通にしていた文を間近で見ていたその天狗が、ふと閃いたものらしい。今でも文とは交流があり、ヒントをくれた彼女にいたく感謝しているようだった。もっとも最近はその人気ゆえ忙しいらしく、文ともなかなか顔を合わせられずにいるのだが。

とりあえず上位の顔ぶれをざっと確認してから、文は自分の新聞を探す。真ん中辺りの列の一番右端に「文々。新聞」はあった。だいたいいつも通りの順位である。雨に濡れてしまったせいだろう、ところどころ文字が滲んで掠れてしまっている。売れ筋の新聞は資金力もあるので撥水性の紙とインキを使っているが、文あたりでは難しい。

「あやや……」

文は我が子を拾い上げるように新聞へ近づいた。掲示係の仕事が雑なのか、全体的に少しばかり傾いでいて、隅の方が折れ曲がったままの状態で画鋲止めされている。「文々。新聞」という題名の「文々」辺りが折り返されて見えなくなっていた。
文は貼り直そうかと手を伸ばしたが、なんだか気が咎めたらしくその手をすぐ引っ込めてしまった。ここら辺の順位をうろつく新聞なんて、しょせんこの程度の扱いでしかない。
一応読める状態にあることを確認してから、彼女は「花果子念報」を探そうと、ふたたび掲示板をきょろきょろ見回す。大体「花果子念報」は最下段あたりをうろついているのだが、はたてが自分から取材に出るようになってから最下段でも一番右周辺を占拠できるようになっていた。「文々。新聞」から下の方へ視線を落とし、左の方へと辿っていく。「花果子念報」は見当たらない。

「ということは……」

文は視線を上に上げる。はたての自信満々の表情を思い出した。もしかしたら本当に大躍進をしたのかもしれない。文は胸が高鳴った。下から上へ、一列一列丁寧に確認していく。「文々。新聞」をまたいで、真ん中より上の方へ、一列一列目を走らせる。気付けば最初に確認した上位三紙にまで辿りついてしまった。追い越してしまったかと、また一列一列下の方へ降りていく。何往復しても、「花果子念報」はない。

「もしかして、落としたのでしょうか?」

文は首をひねる。はたては入稿だけは絶対に欠かさなかったので、おかしいなと思った。もう一度最下段を、注意深く調べる。一番左下の新聞のさらに下に、赤い朱の判が押された白い紙がぽつんと垂れ下がっていた。


      「発禁処分 花果子念報」


雨音が、文の鼓膜を揺らした。天狗たちの喧騒は掲示板の一番片隅など鼻にもかけぬといったふうに、文のそばをすり抜けていった。どれだけそこにいたのか、気付けば彼女はすっかり濡れ鼠だった。散切りの黒髪から、雨しずくがぼたぼたと落ちる。文は視線を落としたまま、滲んでいく赤の印をずっと見ていた。

「――!?」

すっかり人の掃けた広場で、文はふと気配を感じた。鬼気迫る勢いで振り向いた先には、同じようにずぶぬれのはたてがいた。ずっと物陰から文の方を見ながら、しかし文に見つかったことをこれ以上ないほど後悔しているふうだった。

「はたて……?」
「ゃ、やめ……」

彼女は酷い顔をしていた。病的に色の失せた肌は、瞼のあたりだけ真っ赤に腫れている。二つに結わえた長髪からは壊れた蛇口のようにちょろちょろと水が滴り落ち、かぼそい手足は雨風に晒されて今にも朽ち果ててしまいそうだった。文と目が合ったはたては、この世の終わりと吠え出さんばかりに顔を歪めて、這いずるように逃げ出そうとした。文の口から、自然と声が漏れる。

「はたっ、ちょ、待っ――」
「やめて!! 来ないでっ!!」

無意識だった。文ははたての腕を掴んでいた。一連の対峙はどちらにとっても電光のように一瞬で、かつ一つ一つの動作を克明に追憶できるほど、のろのろと感じられるものであった。
掴まれた方は瞬間駆け出そうと、相手に背を向け腕を後ろへ振り降ろしていたところだった。文の手のひらに包まれる感触を手首に感じたはたては、そのまま掴んだ者もろとも腕を前方へと振り上げた。それもまた発作的な、無意識の反応であったのだろう。そしてはたての細腕からは想像もつかぬほどの、すざまじい力でもって遂行されたのだ。
文はブランコにしがみつく子供のように前に放り上げられた。はたてもその慣性に耐えられず、3分の4周ほど回転しながらよろめき地面に片手をついた。市松模様のスカートに泥がはね、硯に筆を落としたみたいに、結わえた栗色の長髪の先が水溜りに沈んだ。
文も当然つんのめった。彼女がたたらを踏む様子が、少し離れたところにいたはたてには終始スローモーションのように映ったらしい。文が泥水に膝をつかんとしていたまさにその時、二人は目が合った。はたての瞳はあたかもギロチンの刃が落ちる寸前の死刑囚の顔を見てしまったかのように、悔悟と贖罪に押し潰されていた。
彼女は目が合った瞬間なにか言おうと大きく口を開いたが、とうとう声は出てこなかった。差し伸べようとしたもう片方の手も、やはり上がり切ることはなかった。結局はたては泥を被りながら崩れ落ちる文に手を貸すことなく、何かに引きずられるようにしてそのまま駆け出していってしまったのである。








     「そう、貴方は少し業が深すぎる」 
           ――東方花映塚:四季映姫・ヤマザナドゥ








― 四 ―

目覚まし時計の騒音が頭を揺らした。

文は寝転がったまま、腕だけを伸ばす。ぎりぎり指が触れるか触れないか、測ったようにもどかしい距離に音源はあった。意地になって腕を伸ばしていた自分が馬鹿らしくなったのか、彼女は軽く身を起こして目覚ましを叩くと、またうつ伏せに崩れ落ちた。
ずぶ濡れで帰宅してから、文の記憶は曖昧だった。頭は乾いていたし、肌着も昨日とは別のものだ。腹は減っていて、喉はからからだった。目の前に手帖が転がっている。表紙の隅の方に雨染みがあった。
一度顔面をベッドに押し付けて、文は跳ね上がるように上体を起こした。手帖を掴み上げぱらぱらとめくる。染みができていたのは表紙だけだったようだ。

「ああ、五時でしたね……」

正直もう一寝入りしたかったが、時計を見ればもう二時は過ぎている。文は手帖片手にのっそり立ち上がると、おもむろに水場へ向かった。水垢でくすんだガラスコップを取り、桶から水を汲んで一気飲みした。だるかった体に、少しだけ生気が戻る。
シャワー室の前にはぐしょ濡れのまま丸まった衣服と、タオルが転がっていた。どうやらシャワーぐらいは浴びたらしい。重い体を引きずって、水気の残る服を軽く絞り、しわを伸ばして窓際に吊るす。
窓の向こうには一応青空が広がっていた。ただ遠くの方には灰色の雲が糸を引き、風はずしりとした湿気を含んでいる。この分では夜はまた降り出すかもしれない。まあ共同研究の披露に支障はないだろうが。
もう一度桶から水を汲み、文は軽く顔を洗った。ぐっと眉間を指で押してから、跳ねた毛を手でまさぐり撫で付ける。この部屋の洗面所には鏡がなかった。
軽く伸びをしてから、文は着替えをした。一着駄目にしてしまったので残りは二着、一つは錦の柄が一部に織り込んであるもので、もらいものだった。しばし迷って、彼女は柄つきの方を選んだ。腹は減っていたはずなのに、干し肉は一欠けしか喉を通らなかった。
もう一杯水を飲んで、文はまず昨晩寝てしまったせいで手つかずのままになっていた作業を片付けてしまうことにした。レミリアに言われた記事の草稿と、書きかけだったもう一つの記事の仕上げ。そして次の「巫女動静」だ。
ペンが紙の上を踊る音だけが、灰色の部屋に響く。文は常に部屋のカーテンを開けない。机の上にぶら下がった電球だけが、この部屋の光だった。隣の部屋からは物音も人の気配も感じられない。文はなんとなく壁を叩いてみる。返事はない。
筆は遅々として進まなかった。レミリアの記事は何とか書き出してみたが、読み返してみてもパッとしない文章だった。これでは依頼主の機嫌を損ねるだけだろうと思い、とりあえず別の記事を仕上げにかかる。妖精達を取り上げた記事で、これはほとんど仕上がっていたこともありすぐにできた。出来としても悪くはない。
「巫女動静」に至っては全く筆が動かなかった。気晴らしに一杯引っ掛けようと思ったが、あいにく酒は切らしていたらしい。また水を流し込み、もうひと踏ん張りしてみようと席に着いたところで、時計の針は四時半を指していた。
カメラの調整を念入りに済ませてから、山伏帽子を被って文は部屋を出る。念のためはたての部屋のドアをノックしてみたが、可愛らしいプレートが揺れるばかりで、一切人けを感じなかった。文は簡単なメモをドアの下から滑らして、深いため息とともに階段を下りていった。




 ■ ■ ■




文は約束の時間より10分ほど早く、紅魔館の中庭に着いた。今日は事前に聞かされていたのか、門番は特に何をするでもなく彼女を屋敷に通した。魔理沙あたりは30分くらい遅刻してくるだろうと思っていた文だったが、既に約束の場所に全員そろっているのを見て少々面食らってしまった。彼女はひどく申し訳なさそうな面持ちで、その輪に駆け寄る。

「あやや、すみませんすみません。遅れてしまいました。」
「おう来たか。」
「別に遅れてないわよ。こっちが早いだけ。」

パチュリーのやや重々しい口調に、彼女はもう一度だけ四人に向かって頭を下げた。そして真剣な面持ちをした一同を覗きみる。どうやら最終調整に勤しんでいるようだ。文は彼女たちが作っていた物を、はじめて目の当たりにすることになった。
それは箒に似ていた。だが、今も魔理沙の手にあるそれとは明らかな相違点もある。それは節ばった竹からではなく、金属からできているように見えた。もっともどんな金属なのか、すべて金属からできているのか、それとも特殊なコーティングが施されているだけなのか、一瞥しただけでは文にはわからなかったが。
柄の部分は滑らかな銀色に輝き、穂先の方はブラシ状ではなく、無骨な円柱をいくつも束ねたようになっている。円柱の何本かは真下や真横を向いていて、その全てに魔法使いにしか判読できぬ、呪文のようなものがびっしりと書き込まれていた。
柄の先端にはハンドルのようなグリップがついていて、そのグリップの真ん中には手のひら大のパネルがあった。そこには計器や超小型のマニピュレーターみたいな、およそ文にはなんだかわからないような細々したものが、ずらりと並んでいる。

文の横では、待ちきれないといった感じで魔理沙が頬を緩めていた。並び立つ二人の視線の先では、アリスがパネルの奥にある心臓部へ特注の魔石を埋め込みながら、動作確認に勤しんでいる。時折り横に立つパチュリーへ問いを投げつつ、彼女は一緒にしゃがみこんだにとりと真剣な顔つきで計器の反応をチェックしていた。
パチュリーは術式が書き込まれた分厚い資料片手に、二人の上へなにやら言葉を――むろん文には何のことだかわからない専門用語を――落としていた。魔理沙には何のことかわかるのだろう、ある単語が増えてきたあたりで三人に近寄ると膝に手をついて作業を覗き込みながら、二度三度言葉を挟んでいた。

「よし、いけそうね。」

ようやく顔を上げ、アリスは一つ頷いた。にとりもうれしそうに頷き返す。魔理沙が喝采をあげるそのよそで、今度はパチュリーが文に近づいた。

「ごめんなさい。ちょっと最終調整に途惑ってしまって、昨晩からぐだぐだしちゃっててね。」
「それはお疲れ様でした。あの様子だと、無事完成ですか?」
「ええ、完成。」

文もうれしそうに笑顔を浮かべた。パチュリーは小さくしわぶいてから、視線で魔理沙を呼んだ。説明役はやはり彼女の仕事なのだろう。

「待たせちまったな。何とかできたぜ。」
「そんなそんな。で、あれは何なのでしょうか?」
「簡単に言うと空飛ぶ機械だ。えと、名前なんだっけ?」
「第三種物理平面連続転送型有人式魔導加速運航機。」
「まあ、ジェット機だね。」

小声の早口で呪文を唱えたパチュリーに苦笑しながら、にとりが気恥ずかしげに答えた。にとり同様パチュリーに呆れ顔を向けていた魔理沙だったが、戸惑い気味の文を見つけるとたちまちそっちの方を向いて笑いかけた。

「あや、つまり高速で空を飛ぶ機械でしょうか。」
「そんなとこだな。これのポイントは動力源に魔法を使ってるが魔法使いでなくとも乗れるってとこだ。」
「ほう、それはおもしろいですね。」

文は我慢できないといった感じで次々と質問を重ねた。詳しい仕組みはよくわからないが、要するに動力面を魔法、操作面を機械で行えるようにシステムを構築することで、簡単な機械操作だけで魔法による高速飛行を可能にした、そういうものなのだそうだ。動力源としての魔力は燃料として嵌めこむ形になっているので――さっきアリスが嵌め込んでいた魔石がそうだ――魔力を持たない者でも一定時間飛行可能となっている。
もっと簡単なつくりにして誰でも乗れるようにするというアプローチも選択肢としてはあったが、今回は純粋に機能を極限まで追求しようという方針のもとで、機械操作も複雑化させスピードを徹底したつくりになっているらしい。

「いや、たいしたものです。それで、これから早速飛行実験を?」
「ああそうだ。で、テストパイロット役をにとりにやってもらうと、そういうわけなんだぜ。」
「いや、あはは……」
「やや、それは楽しみです!」
「それでさ……」

目を輝かせた文に、にとりがすっと近づいた。文はうっかり見落としてしまった。ずっと待ちわびていた取材に冷静さを失っていたのかもしれない。にとりは唾を一つ飲み込んでから、並々ならぬ決意を帯びた声で文に言った。

「文と一緒に飛びたいんだ……」

しんと、場に静寂が訪れた。おどけたり、持ち上げたりして懸命に取材に勤しんでいた文は、瞬間たしかに固まった。八つの瞳が、その方をじっと見つめる。やがて真っ青な顔をひん曲げて、文はとんでもなく間抜けな声を上げた。

「へ?」
「文みたいに飛んでみたいって、誰よりも速く飛んでみたいってずっと思ってたんだ。だから、わたしと競争して、くれないかな……」

消え入りそうな声で告げたにとりを引き取って、魔理沙が笑顔で続ける。文にはその顔がまぶしすぎて見えなかった。

「いやな、どうせなら最高に性能のいいやつ作ろうって話になったって言っただろ、それならお前を目標にしようってことになったんだよ。お前と勝負して勝てるぐらいの作ろうぜってな。」

少し照れた様子で、しかし迷いなく口を出た言葉に、文は何も返せなかった。ただあわあわと視線を泳がせて、何かを搾り出そうとしていた文に、俯いていたにとりが不安げな様子で目を上げる。

「や、かな……?」
「いえ、嫌なんてことは! 嫌なんてことはないんですよ!」文は突如てんでばらばらな音程で叫んだ。「ただ、ほら、別にわたくしじゃなくても、他にも鴉天狗はいますし。あや! 何ならはたて呼んできましょうか?」
「幻想郷最速はお前だろ? 一番速い奴に勝たないと意味ないじゃん。」

魔理沙は今更何をといったふうだった。

「あや〜実はですね! あれ嘘なんです。あはは……わたくし別に一番っていうわけじゃ――」
「そんなことないよ。文が一番速いって、みんな言ってるよ。」

今度は少し誇らしげな調子でにとりが否定する。文はもう体裁など気にかけず、見苦しいほど取り乱していた。

「あややっ、そういえば今日は雨が降ると言ってました。このコンディションだとテスト飛行は難しいのでは?」
「河童の機械だから耐水性は抜群よ。それにしばらくは降らないわ。」

指で空を指しながら、パチュリーは判決でも下すように厳粛な口ぶりで言った。その言葉通り、曇天だが雨の降り出す気配はない。

「あやややや、実はわたくし、きょう月の物で――」
「カメラ借りるわよ。」

なおも足掻く文から、アリスがカメラをひったくった。取られた方は呆然と、何がしたいんだか両手を胸の前でひらひらさせていた。

「ぃっ! ちょっ! なにするんですか!?」

突然スイッチが入ったみたいに、彼女は猛然とアリスへ食ってかかる。そんな空しい抵抗など気にも掛けぬと、アリスは相手に向かって威を示しながら首をすくめる。

「だって、あなた競争してる最中は写真撮れないでしょ。真剣勝負なんだし。だから私が代わりに撮ってあげる。」
「そっ、そんなこと――」
「大丈夫。この日のためにちゃんと練習してきたから。香霖堂で似たようなカメラ買って、知ってそうな奴に手当たり次第聞いてやり方教えてもらったし。まあそりゃ本職と比べたら上手くはないでしょうけど、スタートとゴールのシーンはちゃんと撮るわ。ほらこんなふうに。」

そう言ってじゃれるように文へ向けシャッターを切った。たまらず彼女は腕で顔をかばう。

「やっ!!」
「ああごめんなさい。眩しかった?」

そうわざとらしく言いながら、アリスはバランスを崩した文に駆け寄り体を引き寄せた。抱き合った格好のまま耳元へ、もはや脅迫にも似た調子でそっと囁く。

「――約束、覚えてるわよね?」

体を押さえ込まれていたせいで、彼女が体を震わせたことに気付いたものはいなかったようだ。アリスの肩の向こうには、文を見つめるパチュリーの顔があった。じっと燃えるような目つきで、やはりアリスと同じ言葉を眼で告げていた。文の肩をぐいと掴みながら、アリスは小声で、しかし刺し違えんばかりの語気で囁き続ける。

「にとりがね、前に言ってたの。あんたみたいに空を自由に飛べたらどれだけ幸せだろう、あんなふうになれたらいいなって。屈託のない、無邪気な笑顔で、あんたへの憧れをぽつりと口にしたの。
 文だって私たちの仲間なのに、あいつだけ新聞のネタになれないのはなんか不公平だよなって、魔理沙が馬鹿みたいな顔をして私たちに言ったの。あいつも交じれるようなネタを考えれば、一緒に新聞に載れるんじゃないかって二人で楽しそうに話してたの。……わかるわよね?」

アリスは耳元から顔を離し、それを文の真正面に据えた。噛み付かんばかりの距離でアリスは文を見つめる。アリスの眼には口調にあった威圧感はなく、ただ懇願の色だけがあった。文には眼を反らすことすらかなわなかった。能面をところどころ痙攣させながら、文は小さく呻いた。

「わ、わかりましたよ……」



スタート地点は紅魔館の上空だった。折り返し地点は妖怪の山と反対方向の小山にある無名の丘。そこに今朝のうちに準備しておいた人形が二つある。それを取って先に紅魔館まで戻ってきた方の勝ち――そういうルールらしい。
にとりはあふれ出る喜びを隠しきれないといった様子だった。珍しく大きな声を弾ませながら、魔理沙とふさげあう感じでヘルメットに頭を押し込んでいた。しかしそれも魔理沙にヘルメット姿をネタにされたところまでで、そこからまた真剣な顔つきに戻るとアリスを含めた三人で打ち合わせを始めた。どうやらポイントは折り返しらしい。この無邪気なパイロットは計器の意味に関して何度もアリスに確認をとりながら、箒のりの教官である魔理沙から細かい体の使い方について、散々聞いたはずのレクチャーを念押しされていた。
そこから少し距離を置いたところに、文はいた。相変わらず顔面は蒼白だったが、先ほど見せたようなうろたえはすっかり姿を消していた。代わりに妙に覚悟を決めたような、追いつめられた人間が最後になにか一発やってやろうと決心したときのような、気味の悪い平静を纏っていた。
すぐそばにいたパチュリーは、少し申し訳なさげな、ただそれよりもおそらくは文のそんな態度に言いようのない不安の感じたが故の重苦しい調子で、探り探り呼びかけた。

「大丈夫?」
「ええ、大丈夫ですよ。いつでもいけます、はい。」

こちらはさばさばと答える。なおも案じ顔のパチュリーに、文はにやっと笑いかけた。

「そうでした、伺うのを忘れていました。どうしてこのような企画をなさろうと?」
「別に理由なんてないわ。」

同じように穏やかな笑みが返ってくる。パチュリーはちらと後ろの三人へ視線を遣って、気持ちのこもった声で呟いた。

「強いて言えば貴方と同じ。ただなんとなく素敵だと思ったからよ。それだけ。だからお願い……貴方が本当に幻想郷を美しいと思い愛しているのなら、今貴方がなすべきことは一つしかない。」
「ええ、わかってます。わかってますとも。」

曰くありげにまばたきをしながら、文はちぎって捨てるように語気を強めた。パチュリーはそれでも文から視線を外さなかった。その眼には並々ならぬ力が宿っていた。文はたまらず目を背ける。

「おし! じゃあそろそろいこうか。文、準備いいか?」
「全く問題ありませーん」

二人の対峙は魔理沙の掛け声によって幕を閉じた。文は根拠のない自信を振り回す連中がやるような、極めて軽々しい口調で魔理沙に声を掛けると、にとりの横に立った。相手はヘルメット越しでも伝わるくらい、恐縮しているらしかった。
文はおざなりのやり方でにとりの健闘をたたえながら、しかし手は差し出さなかった。にとりから握手を求めるなんてことは、できるわけがなかった。

「レディー……」

魔理沙が旗を上に掲げる。二人はスタートの構えを取る。アリスはファインダーを覗きこんだ。

「ゴゥ!!」

着火ラグの分、わずかににとりのスタートが遅れた。文はその隙にどんどん先行する。突風で森の木々が傾いだ。だがにとりも負けていない。スタートこそ出遅れたが、加速度では天狗を凌いだのだ。みるみる距離が縮まっていく。魔理沙は自身も箒にまたがりながら、その対峙をできるだけ間近で見ようとついていったが、一秒も経たぬうちに置いていかれてしまった。豆粒みたいになった二人に、彼女はうれしそうに微笑んだ。
魔理沙が微笑んだ頃には、既に両者とも折り返し地点に辿り着いていた。先に人形を取ったのはおそらく文。だがおよそ肉眼で追える差でもない。折り返しはにとり自身も驚くほどスムーズだった。魔理沙に教わったとおりに体を傾け、自身の作ったグリップを思い切り引く。計器はアリスが予想した通りの値を出し、パチュリーの組んだ魔導回路はにとりの意志に寸分たがわず応えた。それは完璧だった。減速することなく、彼女たちは文に食らい付いた。
信じられなかった。にとりはヘルメットで塞がれた視界の中、自分のすぐ隣に文がいるのを感じていた。夢のようだった。全力で飛ぶ文の横に、自分がいる――それはいつまでも続くように思われた。ゴールは目前。にとりは砕けんばかりの衝撃波の中、さらにアクセルを切る。たとえここで星屑になっても構わない、きっとそう思えるぜ――魔理沙の言葉通りだった。
そして全てが起こったのも、まさにその刹那だった。パチュリーはゴールラインで勝負判定用の魔法を展開していた。アリスはファインダーを覗いており、魔理沙は途中まで追いかけた場所に留まったまま、二つの流星を眺めていた。おそらく彼女にとって結果は瑣末なことだったのだろう。二人が全力で対峙できたこと、それだけで心が一杯だったのだ。だから彼女は遠目からそれを見ていた。
ゴール寸前、文とにとりは完全に並んでいた。アリスにもパチュリーにもそう見えた。二人も思わず手に汗握ったのだ。それくらいの接戦だった。だが次の瞬間にとりが前に出た。いや正しく言えば文が下がった。文のスピードだけが明らかに落ちたのである。
アリスはファインダーを通してその様子を包み隠さず見ていた。その一瞬、文がゴールではなく横を、にとりの動きを確認したことを、にとりが先にゴールにたどり着いたのを確認したことを。ほぼ惰性で二番目のゴールを切った彼女は、そのまま山に帰ってしまうのかと思うほど、はるか彼方まですっ飛んでいった。

「勝ったの!?」

にとりの第一声はこうだった。彼女はヘルメットをうっちゃって、パチュリーの元に駆け寄った。にとりが何を訊きたかったのか、"誰が"勝ったと言ってほしかったのか、それはよく分からない。ただ彼女は真剣な剣幕で、そう口にしたのである。

「いや〜 おめでとうございます。」

パチパチパチと、安っぽい拍手が場に響いた。いつの間にかゴール地点まで戻っていた文は、無言のまま俯くパチュリーに代わってにとりにへらへらと笑いかけた。

「わたくし、負けてしまいました。いやはやお恥ずかしい。」
「え、じゃ、じゃあわたし勝ったの!? ホント! わたし勝っちゃったの?」

にとりは取り乱した様子でパチュリーの方を向く。パチュリーは必死の思いで顔を上げ、笑いかけた。

「ええ、そうよ。よかったわね。」

もうにとりは完全にわれを失っていた。パチュリーの手を取り、今の気持ちをどう表したらと、声にならない声を上げていた。しまいには感極まって今にも泣き出しそうになってしまった。そんな様子を見て、パチュリーは手をしっかりと握り返したり肩を叩いたり、一生懸命なだめつかそうとしていた。だが、その最中にも彼女の腹の中にはまったく別の感情が止みがたく燃えたぎっていた。取り乱すにとりと引き攣った笑顔で彼女を讃えていたパチュリー、そんな二人の下へ軽薄なにやけ面で近づいてきたのは文だった。

「あやややーまさかここまでとは思いませんでした。最後の加速は、もう私びっくらこいてしまいました。本当に素晴らしいです〜」

四肢を振り回しながら、もう下劣といっていいおどけっぷりで彼女はおべんちゃらを次から次へと並べ立てる。パチュリーは決してそちらを見なかった。彼女の腹を駆け巡っていた感情は肺にまで達したのかもしれない。今や彼女の顔からは青みすら失せ、真っ白になっていった。にとりに掛ける言葉も徐々に切れ切れと、息苦しさが混じってきた。文もそんなパチュリーを視界に入れないようにしながら、

「やはり皆さんのチームワークの勝利でしょうかね〜ええ、私なんぞでは太刀打ちできません、いや全くです! あややー」

といった感じで全員まとめて担ぎ上げていた。二人は全く視線を合わせず、まるで競い合ってでもいるみたいに全力でにとりを褒めあっていたのである。
さっきまで狂喜乱舞と言ってもいい様子で感情を爆発させていたにとりも、その微妙な空気に気がついたらしい。もともと彼女はこうした空気を察することに長けていた。弾けていた喜びはみるみるしぼみ、探るような照れ笑いに置き換わっていく。
最初彼女はパチュリーの体調を案じた。その苦しげな様子は、自身が演じた番狂わせの勝利によって彼女のもろい体に余計な負担を掛けてしまったためではないかと。にとりは申し訳なさそうにパチュリーの方をうつむき見た。
それはパチュリーに一つの誤解を生んだ。虚弱な体には持ちこたえられなかったはずの憤怒が、再び腹の底から燃え上がった。顔は白いままだったが、しかしその白さは病的なものではなく、爆熱の閃光のようであった。
もしアリスがその輪に加わるのがもうあと一秒遅ければ、パチュリーは目の前でげらげら哂う少女に殴りかかっていたかもしれない。失望で口の中を一杯にしていた彼女の肩を掴みながら、アリスは投げ捨てるような荒っぽいやり方で文にカメラを返した。

「はい。一応撮れたと思うわ。」
「あやや、ありがとうございますー これで次回の一面は決まりですかねぇ。ただ……」

文はとびきり醜悪な笑みを浮かべた。

「天狗がかけっこで負けたなんて記事を書くと、上のお叱りをまた受けてしまうかもしれませんねぇ……最近どうも検閲が厳しいもんで、下手なことを書くとすぐ発禁処分になっちゃうんですよ、へえ。あや、もちろん任しといてください。そこらへんは上手く書きますから。皆様の素晴らしい発明を世に広めそれが後世まで伝わるよう、しっかりと記事にします。あやや。」

そう言い終わるやいなや彼女は痙攣するように忍び笑いを始めた。アリスはその罵詈讒謗(ざんぼう)を、眉一つ動かさず聞いていた。予想通りだといわんばかりの顔で、しかし得意げなところは微塵もなくただ冷え冷えと落胆に満ちた虚ろな顔をして。その間も文は手で額を覆うようにしながら引き笑いをして、絶えず彼女達を讃える言葉を豆鉄砲みたいに撒き散らしていた。
にとりはもうすっかり恐縮してしまったらしい。今や彼女の顔にあったのは後悔だけだった。唇をきゅっと結んで、にとりは突然文へ向かってぺこりと頭を下げた。彼女は彼女なりのやり方で、場の状況を理解したのだった。まるで懺悔でもするように、彼女はポツリポツリと言葉を紡ぎだした。

「あの、ごめ……私一人で喜んじゃって……文の気持ち考えないで、ごめん……でも私、うん……ごめんね、勝っちゃって」

滑稽に踊り続けていた文も、ぴたりと騒ぐのを止めてしまった。にとりの濁りのない声は、明らかに文の中に残っていた何かを削りとったようだった。どんな顔をつくればいいのかと、彼女は口をもごもごさせる。魔理沙がゴール地点まで戻ってきたのは、丁度このタイミングであった。
遠目からでも文の卑劣な行いは見えたのだろう。そしてにとりとは違ったやり方で、彼女はその行為の意味を察したらしかった。魔理沙は帽子を取ると、すっかり微動だにしなくなった少女の前へおずおずと俯き立った。一種荘厳さすら感じさせる苦悶と悔悟に満ちた彼女の表情は、文の狼狽など雑作もなく捻じ伏せてしまったらしかった。惨めな烏天狗に向かって、魔理沙は憐憫に満ちた声で、押し出すように呟いた。

「あの……ごめんな文、やな思いさせちゃったな……」




 ■ ■ ■




自分がどうやってそこまで戻ってきたのか、文はわからなかった。彼女達にどんな顔を向けて逃げ出してきたのか、想像すらできなかった。ただわかっていたのは、自分が今どすどすと足を鳴らしながら、自室へ向かう階段を上がっているということだけだった。
廊下の先から下品ながやがや声が聞こえてきた。文がそいつらとすれ違ったのは、彼女が階段を昇りきって廊下伝いに曲がろうとしたその時である。

一団はぱっと見七名ほど。みな質のよい錦の天狗衣を羽織って、鼻持ちならない臭いを体中からぷんぷんさせていた。先頭を歩いていたのは大天狗。ごろつきの腰巾着をはべらせ、査察と称してはろくでもない振る舞いをしていると評判の男だった。文もこいつに関してろくな噂を聞いたことがない。誰に対しても尊大で、常に自分を大きく見せようとするところがあった。それでも蛇の道は蛇というべきか、高等警察としてみれば中々鼻の効くところがあるということで、上からもお目こぼしを受けているらしい。
脂ぎった小太りにだぶだぶの二重顎を垂らした風采で、大天狗にしては妙に背が低い。それでもなかなかに年相応の貫禄というものは纏っていた。だが感情を平然と表に出すところがあり、それがその貫禄を陋劣なものに見せている。感情が昂ぶると喜怒哀楽に関わらず口の中でのべつ幕なしに舌を鳴らす癖があり、ちょうど今もそんな感じでさえずっていたのだった。
横には白狼天狗が数匹。一匹は女で文も見覚えがあった。麓から帰る途中で、哨戒中の彼女から特に理由もなく怒鳴られたことが何度かあったのだ。任務の最中は始終むくれた、自分に腹でも立てているような苦々しげな顔をしているが、今日はやけに楽しそうで、前をずんずん進む大天狗の隣にぴったりと寄り添って、自分がその位置にいることを往来に見せびらかしたいような様子であった。
二匹のすぐ後ろにへばりついていたのは岩みたいに角ばった初老の白狼天狗で、しわくちゃの険しい表情を常に崩すことがない男だった。そして自分がいついかなる時もそんな顔を保っていることを誇りかなんぞに思っている感じで、やたら胸を反らせて歩いていた。
もう一匹の白狼天狗はかなり若い、ひょろりとしたやせぎすの男だった。まるでこの場に混ざっていることが最大の栄誉でもあるかのように、彼は先輩達へのべつ幕なしに羨望の眼差しを向けていた。文と会ったのはこれが初めてだったが、目が合った瞬間まるで不倶戴天の仇と運命の出会いをしたとでもいわんばかりに、文のことを激しく睨みつけてきた。
こういう輩によく見られる傾向として、家に帰るとその仇を犯す妄想で自慰行為にふけるというものがある。しかもそれは実はその相手が自分のことを深く尊敬し心の底から崇拝しているという、全く馬鹿げた妄想なのだ。彼もその例に漏れないと思われる。
鼻高天狗も二匹。いずれも書類の束が入った段ボール箱を抱え、はるかかなたに視線を置きながら行進みたいに歩調を合わせていた。片方は異様に膨れ上がった体をしていて、大きいはずの鼻もぶくぶくに太った顔に埋もれてどこにあるのかよく分からなかった。
もう片方は鼻以外全く印象に残らない平坦な顔をぴりりと引っ攣らせて、がめつそうにあたりをじろじろ嘗め回していた。もし彼の近くで小銭を落とせば、すぐさまその音を聞きつけ振り返るに違いない――そう思わせる顔つきだった。
後はおまけみたいな鴉天狗が一匹いた。確か薄っぺらいゴシップものを書いている奴だったが、めったに新聞を刊行しない怠け者だったので、文はとうとうその新聞の名前が思い出せなかった。そのくせ発行しさえすればそこそこ数をさばいていたことだけは覚えている。
たえず薄汚いカバンからボロボロのノートをちらちら覗かせて歩いている男で、どうやらそれは「俺はすごい秘密を握っているぞ」という示威行為のつもりらしい。もちろん傍から見ればろくに整理もできない不潔な能無しという印象しか与えないのだが。そいつは首からこれ見よがしにカメラをたらして、仲間に向けて卑屈な愛想笑いを振りまいていた。
そして一団のしんがりに、椛がいた。文は最初気付けなかった。椛が隠れるように一団の隅っこで体を小さくしていたせいかもしれない。居心地悪そうな面持ちで、彼女はもぞもぞと足を前に動かしていた。連中から少しだけ離されながら、しかし遅れまいと必死に。


大声で腹をよじるようにげらげらと笑っていた先頭集団も、迫ってくる文の形相を見て一瞬怯んだらしい。しばしあっけにとられたふうにぽかんと口を開けていた。ただがりがりの白狼天狗だけは、切り掛らんばかりの剣幕で文の前にちょこちょこ出てこようとしたが、数歩で足が竦んだようだった。鴉天狗に至っては鼻高天狗――連中だけは歩調を変えなかった――の背中に引っ込んでしまった。椛はもう愕然とした様子で、体をくねらせながら逃げ場を探すようにあたりをきょろきょろし始めた。
だがこの大天狗はやくざ者なりの勘で何かを悟ったらしかった。たちまちいつものにやけ面に戻ると、肩を怒らせて連中を突っ切ろうとする文に、思いっきり肩をぶつけ返した。小柄といえど体格では向こうに分がある。文はたまらず横に弾かれた。女の白狼天狗は露骨に噴き出した。やせっぽちはなにやら雷にでもうたれたように、感極まった顔で小さく拳を握っていた。
おそらく大天狗は文が何か反応してくると思っていた、いやそれを待ち望んでいたのだろう。彼は横目で彼女を凝視しながら、その出方を窺っていた。だが残念ながら文の方にはそんな気持ちなぞ露ほども持ち合わせていなかったようだ。彼女は肩などぶつからなかったといった感じで、そのままつかつか歩き出した。
これが連中の心を大いに逆なでしたらしい。特に怒ったのは――なぜだかわからないが――しわくちゃの白狼天狗だった。彼は自分が侮辱されたとでも言わんばかりの勢いで、憤然と文を呼び止めた。

「君! 名前は?」
「……射命丸文ですが」

しかし彼の威厳は、文と目が合うと同時に消し飛んだらしかった。まるで貴方のためにやったんですよとでも言いたげなへりくだった仕草で、彼はなぜか得意げに大天狗の方を向いた。残りの取り巻きの視線も自然と彼に集まる。ただ椛だけが、文とその大天狗の双方に忙しなく視線を動かしていた。

「なにか御用でしょうか?」

文は手早く訊いた。一刻も早く離れたいという感情を繕うそぶりも見せず、彼女はすさまじい嫌悪の情をほとばしらせる。大天狗は薄笑いを崩すことなく、話の最中も絶えず舌を鳴らしながらもったいぶった調子でそれに答えた。

「はは、いえいえ。ちょいとこみいった仕事でしてね。射命丸さんには関係のないことです。」
「そうですか。それはご苦労様です。では。」
「ええ。本当に忙しくてたまらんですよ。」彼は話を打ち切ろうとする文を無視して続ける。「なにやら少々問題のある記事を書いた鴉天狗がおったらしくてですね。それで念のため資料を押収してこいとのお達しが上のほうから飛んできましたという次第で。ふは」

そう言って彼は横の女白狼天狗と目配せする。文の顔色が一変した。たちまち事態を悟り、彼女は廊下の端に突っ立っていた椛を睨んだ。その小さな体を縮こめて、椛は文の形相から眼を背ける。くしゃくしゃになった顔は真っ白で、今にもかき消えてしまいそうだった。

「一体、どういう問題が!? 誰ですか!?」
「それは機密事項です。」

肥えた鼻高天狗がにべもなく言った。取り巻き連中は慌てふためく彼女を見て、忍び笑いを浮かべている。大天狗もすっかり満足したのだろう、やけにいやらしい手つきで文の肩を揉むと、当然の権利とでもいわんばかりの物言いで囁きかけた。

「まあ君もあまり余計なことに気を回さず、おとなしくしておった方がいいですよ。もっとも、石橋を叩いても渡らない射命丸さんには無用な忠告かもしれませんがね。ふは」

連中はまた高笑いを上げながら階段を下りていった。椛だけが、地面に突き刺さったようにその場に残っていた。文はまた憤激に燃えた眼で彼女を睨みつけようとしたが、それは途中で頓挫せざるを得なかった。椛は泣いていたのだ。惨めに肩を震わせながら、だが涙だけは決して眼からこぼすまいと。
自分の中からたちまち熱が失せていくのを、文は感じていた。先ほどまでの狼狽っぷりが嘘みたいに、ただそこに立ちすくんでいたのである。視線だけは椛のいる方向へ置いたまま、まるで蝋人形のように。こちらには文の心の変化をおもんばかる余裕などあるはずもなかった。とうとう眼から涙を溢れさせた椛は、命乞いのように呻いた。

「違うんです……ちが、私じゃ……」

その言葉にならぬ声さえも今の彼女には持ちきれなかったのか、もうそれ以上口からは何も出てこなかった。文もやはり何一つ言い返さなかった。逆向きの二つの力が、彼女の心を引き合い押し留めているようだった。なにかを告げようと口元を細かく痙攣させながら、しかしそうはさせまいと顔全体をへし曲げている、そんなふうに見えた。
突然階段の方から椛を呼びつける怒号が響いた。声の主はあのいかつい白狼天狗、どうやらぐずぐずしていた部下へまた癇癪を起こしたらしい。何でもお見通しだぞと言わんばかりに、例の大天狗、そして他の連中の馬鹿笑いが引き続いて起こった。椛の顔に任務中の真剣さが戻る。しかし泣き顔とない交ぜになったそれは無様に歪んでいた。文は口を真一文字に結びながら目をそらす。自室の隣、プレートが掛かったドアの方へと。いま彼女の心にはなぜか安堵感があった。椛はちらと文の方を見たが、その視線が自分の方にないことを知ると、足をもつらせながら廊下を駆け出していった。


しばし呆然と「姫海棠」と書かれたプレートを見つめていた文だったが、椛の足音が聞こえなくなったと同時に意識が戻った。瞬間すさまじい勢いでそのプレートの掛かったドアを跳ね開け、猛然と室内に入っていった。

「はたてっ!!」

文がこの部屋に入るのは初めてだった。彼女自身特に入室を希望しなかったこともあったが、家主であるはたてが文の入室を頑として認めなかったことが一番大きかった。部屋は可愛らしく装飾された、まさに女の子らしい部屋であった――つい先ほどまでは。

家具類はあらかた壊されていた。薄紫のキルト地でできたカーペットの上に引き倒された家具の残骸が堆積し、同じ柄でそろえられたクッションも白い綿を噴きだしている。天板にクロスの掛けられた小ぶりな衣装ダンスも、その横のクローゼットも残らず中身がうっちゃられ、上にあった小物類も、きちんと統一された食器類も、細々した衣装類も何もかもすべてがごちゃ混ぜになって放り投げられ、無残に踏み荒らされていた。電灯こそ割れていないが、被せられたステンドグラス調の傘には無残にひびが入っている。
隅にあったのは作業机。やはりピンクと薄い紫で飾り立てられていたそこも、かつての面影はない。机上にあったであろう写真や資料類も、横の棚に丁寧に分類されていたであろうファイルも、足跡だらけの破れ紙を除いてきれいさっぱりなくなっていた。そのがらんどうの棚だけが、あたかもきれいに整頓でもされたかのように、乱脈を極める部屋の中で異様に浮き上がっていた。机の前の壁にはボードが掛けられている。そこには年頃の少女らしくプライベート写真がコメントつきで画鋲止めされていたが、押収作業の最中に弄られたのか、ボードごと斜めに傾いでいた。
机と向かいの隅にはベッドがあった。やはり華やかな柄のキルトカバーが掛けられたシーツとマット、枕だけはどこかに吹っ飛んだのか姿が見当たらない。その代わり、押し潰されたようにへたれこんでいたはたてが、ベッドの少し奥で嗚咽を漏らしていた。髪は片側だけほどけ、上着はボタンのところからブラジャーごと引き裂かれていたようだった。スカートは履いていたが、その下はベッドの隅に転がっていた。何度か抵抗して殴られでもしたのか、頬のあたりが青紫に腫れている。真っ白に血の気の引いた肌の中、そこだけが異様な存在感をもって浮き出ていた。雄の臭いが立ち込める室内で、ところどころ残っていた可愛らしい装飾類の方が却って場違いにさえ見えた。

「はた、て……?」
「ぁ、ぁ……」

文の姿を見つけた時の、彼女の心中はいかほどだったろうか。驚愕に身を震わせながら、彼女はまず何にも先んじて破けたブラウスからはだけていた部分を手で隠した。そして片手で胸元を押さえたまま、もう片方の手で脱がされたショーツを探し始めた。それははたてのすぐ横にあったのだが、彼女はとうとうそれを見つけられなかった。
もう一度文の顔を見て、彼女は今度こそ恥辱に慄いたようだった。はたては突然凄まじい形相で文を睨みつけた。まるでこれは全部お前がやったんだとでも云わんばかりに。だがそれは一瞬だった。彼女はたちまち自己を呵責するように二の腕へ爪をぎりぎりと立てながら、歯を食いしばり真下を向いてしまった。

文はなんの言葉を掛けられなかった。もし彼女が万全であれば、いつも見せる親しみのこもった話術と人当たりのいい物腰で、この場の空気を換えようと必死に踊り狂えたかもしれない。しかし彼女もすっかり打ちひしがれていた。今の文からは、この場で機転を利かす余裕などとうに残っていなかった。
なんだかへつらうような場違いな表情をして部屋の入口に立ちすくんでいた文は、しかしなぜだか異様に頭が澄み切っている気がした。部屋の惨状がまるで別の世界で起きているような、そんな馬鹿げた想念すら覚えたのである。

「……ねがい……」

どれだけの見つめ合いだったのか、やっと引きずり出された声は、はたてのものだった。

「はた――」
「おねがい、今日はもう帰って。」決然たる低く重い声で、彼女は口を開いた。「明日になれば全部元に戻るから。ちゃんとシャワー浴びて、なにもかもきれいに洗い流して、うがいして歯磨いて、トリートメントして、お肌のお手入れして、服も全部縫い直して、バシッとメイクも決めて、頑張って取材して新聞書いて賞獲って文の隣にいても恥ずかしくないような、立派な鴉天狗になってみせるから……だから、だから今は私のこと見ないで……」

そしてまた嗚咽が漏れた。おそらく、いや疑いなく、文が無言のままはたてに寄り添い抱きしめさえすれば、そのまま彼女は泣き崩れただろう。泣きに泣いて、一晩中文の腕の中で泣き続けて、そして明日には元の、いやもしかしたらもっと別の姫海棠はたてになれたかもしれない。だがそうはならなかった。文は依然として部屋の隅で突っ立ったまま、ひんまがった笑みを浮かべているだけだった。
はたても心のどこかで文の抱擁を期待していたのかもしれない。だが彼女は強かった。はたてはベッドからすっくと立ち上がると、目は伏せたまま文の真横を通り過ぎた。そしてしっかりとした足取りでシャワー室に入り、ドアを閉めた。シャワーの水音が、一人取り残された文の方にまで響く。その音が大きくて、すすり泣く声はもう聞こえなかった。

そして文は浅ましかった。彼女はこの状況のなか自分でも信じられないくらい冷静だった。はたてがシャワー室から戻ってこないことを確認するためにしばし間をとってから、彼女は速やかに行動を開始する。途中開け広げになっていたクローゼットの姿見に、自分の姿が映った。彼女は叩き割らんばかりの勢いでその大鏡を横に向け、机の前に立った。
机の上には壊れた機材や破り捨てられた記事の断片が散乱していた。文はそれには眼もくれず、壁に掛けてあったボードを睨みあげる。そこにあったプライベート写真は、はたて本人のポートレートや、宴会や旅行での思い出の一枚といったごくありふれたものだ。もらい物もいくつかあり、文が撮って彼女にあげた写真もいくつか見受けられる。
写真以外にはメモもあった。文が時折りドアに挟んでおいた定型文みたいなメッセージも、ところどころ貼ってあった。その言葉には色とりどりの線が引かれ、まるで座右の銘か何かのように座った時すぐ目に入る位置に据えられている。
そしてボードの中心に、それはあった。文は最初に室内の状態を確認した際それを見逃さなかった。あろうことか彼女はこの惨状の中、すすり泣くはたてを前にしてもなお、まず真っ先にその写真を見つけ出し、それに絶えず意識を奪われていたのである。
その写真には二人の少女が写っていた。一人は気恥ずかしげにレンズへ視線を向ける姫海棠はたて。そしてその隣には、よそ見をし撮られたことに気付いていない様子の射命丸文。おそらく文が何かに気をとられている隙にはたてが撮ったのだろう。二人は顔を並べて、しかし全然違うところを見ながら写真に収まっていた。
文はすんでで躊躇した。許されないことは、彼女もわかっていた。しかし彼女はそれでも許せなかったのだ。この荒れ果てた室内で今更写真の一枚消えたとしても、あの子は自分の仕業とは思うまい――そんな下衆な計算さえしっかり働いていた。無残に叩き壊されたこの部屋の中、しかし文にとってまず第一に処理されねばならなかったのは、この一枚に他ならなかったのだ。もう一度シャワー室の様子をちらと窺ってから、その写真を盗って、そそくさとはたての部屋を後にした。



鼓動が文の頭を締め付ける。それははたての部屋のドアのノブを回してから、自分の部屋に入るまでずっと続いていた。とうとう気が触れたに違いないと、文は部屋に入る前までは思っていた。しかしそれは馬鹿げた想念だろう。もし今の状態が気違いだというのなら、とうの昔に自分は狂っていたはずじゃないか。
たちまち落ち着きを取り戻していくのを文は感じていた。一息入れることもなくポケットから写真を取り出す。憎悪、いやもはや呪詛ともいえる目つきでしばしそれを睨みつけていた彼女は、写真上辺の真ん中あたりを両の親指と人差し指でつまむ。そして、ゆっくりとそれを半分に裂き始めた。時間を掛けて少しずつ、慎重に。

今日の出来事が彼女の頭を巡っていた。にとりも、魔理沙も、アリスも、パチュリーも、みな素晴らしい人たちだ。友人の願いを叶えるため骨折ることを厭わない。 夢のため、目標のため一丸となって努力し、一歩ずつ前に進んでいる。そしてそれをみなで共有し楽しんでいる。本当に素晴らしい人たちだ。あんな人たちと出会うことができるなんて、なんて幸せなのだろう。

ゆっくりと、細心の注意でもって写真は二つに別けられていく。片方には絶対にしわがつかないようしっかりと固定して、そしてもう片方は二度とこの世界の光を浴びないよう、ぐしゃぐしゃに丸め込みながら手のひらの奥底に隠して。
余計な傷をつけずに、彼女はその写真を半分に裂き終えた。写真の中でぎこちなく微笑むはたてと、彼女は眼があった。その笑顔は不器用だけど、必死に世界を生きようとするものにしかできない笑顔。真摯で善なる存在の証。だから、こんな代えがたい笑顔の横に、にとり、魔理沙、アリス、パチュリー、あんな素晴らしい人たちの輪の中に、こんなクズがいてはならないのだ。絶対にそんなことがあってはならないのだ。"射命丸文"などというゴミが、この素晴らしき理想の世界に、絶対にあってはならないのだ。

「ここにも、ここにもいる……っ!!」

憤然とカメラを掴み上げ、裏蓋を開けると毟るようにフィルムを引き出した。いくらでも出てきた。その中にはきっといくつも写っている。あの純真無垢なにとりの横に、友人のために方々を駆け回っていた魔理沙の横に、そんな二人のために協力を惜しまなかったアリスやパチュリーの横に、あの忌まわしい"射命丸文"が写っている――文は狂ったようにフィルムを掻きだして、そしてカメラもろとも壁に叩きつけた。
鈍い音が室内に響く。灰色の、何もない、ゴミ箱みたいな部屋に。カメラは壁に跳ねて、うずたかく積まれた紙の塔を一つ崩した。床一面に散らばったのは売れ残りの「文々。新聞」。幻想郷の人妖が喜怒哀楽を浮かべながら、その紙面を彩っている。完璧で、平穏で、満ち足りた世界がそこにはある。そう、「文々。新聞」の中にはいないのだ。"射命丸文"が、理想の世界を不幸に陥れる、素敵な住人たちをことごとく穢すあの寄生虫が。


シャワーの音が、ここまでも聞こえてきた気がした。




 ■ ■ ■




予想通り、日が暮れる少し前ぐらいから雨粒が落ちてきた。そして止む気配もなくさらさらと、それは永遠に続くかのように地面を穿ち続けた。
射命丸文は、そんな雨に濡れた参道を歩いていた。いつからだったかはわからない。隣から響いてくる水の音に段々耐えられなくなって、雨音の中に逃げ込んだ、そこまでは覚えている。そこから先の記憶はなかった。
彼女にとってそれは記憶する必要のないことなのだ。取材の間と記事を書く間、美しいものに触れている間以外は、彼女にとって何の価値もないのだから。全身ずぶ濡れの格好で、彼女は悪霊みたいにのろのろ歩を進めていた。

文はそぼ濡れる鳥居の下をくぐった。大きなしずくが一つ鳥居から垂れ、境内の石畳をたたく。気付けば彼女はここに来ていた。幻想郷の東端、博麗神社に。
だって今日はまだ霊夢の様子を見ていないのだ。これでは「巫女動静」が書けない。「文々。新聞」が発行できない。あの理想の世界が、書けなくなってしまう――文はやはり狂っていたのかもしれない。
カメラも手帖も、赤い山伏帽もなく、昨日と同じように黒髪からしずくをぼたぼた落としながら、文はあの縁側に目を向ける。雨戸は固く閉ざされていた。

「あれ文。どうしたの?」

文は戦慄を隠そうともしなかった。後ろからの声、水溜まりに落ちる足音。振り向いた先には博麗霊夢がいた。

「ぁ、やや あはは……」

引き攣ったような笑みを浮かべる文へ、霊夢は不思議そうな顔を向けていた。右手には番傘、左手には薪を抱えている。その表情はやはり気だるい仏頂面だったが、なんとなくいつもに比べて人当たりの良さそうな印象も受けた。霊夢は文に歩み寄ると、

「なんだかよくわかんないけど、そんなとこで突っ立ってると濡れるわよ。」

と言いながら、彼女を傘の中に入れるよう体を寄せた。文はもうすっかり慌てふためいてしまった。訳も判らず傘の中から逃げようとした。だが霊夢はそう反応してくることを見透かしていたようだった。逃げようとする手を素早く掴み、腕をきつく絡める。文は何がなんだか分からなくなってしまった。もう完全に頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうしたらいいかわからなくなってしまったのだ。もう泣き出さんばかりの顔になった彼女と腕を組んで、霊夢は無言のまま玄関へと進んでいった。

文が博麗神社の玄関をくぐったのは、随分と久しぶりのことだった。いつもは縁側から入って、縁側から出て行く。雨戸が閉まる時間までここにいたことなど、なかったのだから。霊夢はそこで少し待つよう不憫な客人に告げると、ひとり足早に部屋の奥へ上がっていった。水浸しの格好で土間に突っ立っていた文は、その影をずっと目だけで追っていた。
ゆっくりと、回らない頭が回り出す。巫女に会うためにここに来たはずなのに、文は霊夢を見るやいなやすっかりうろたえてしまった。こわい――瞬間そう思ったのである。声、振る舞い、そして掴まれたあの手の感触――そこに無限の敬愛を覚えたのだ。それがひどく恐ろしかった。それが今自分に向けられている、そんなふうに思えたのである。

「ごめんね文、待たせちゃって。」

いそいそと霊夢が戻ってきた。その手には大きなタオルが数枚と、着替えがあるらしかった。淡々とした調子のまま、彼女は文へ靴を脱いであがるように言う。文はやはり戸惑ったが、結局その通りにした。何故だか逆らえなかった。誘蛾灯に吸い寄せられる羽虫のように、彼女は一歩一歩神社の奥に呑み込まれていった。

「足拭かないとね。」

霊夢は文の前にひざまずいた。文は今にも卒倒せんばかりだった。そこからは甲斐甲斐しく動く霊夢の頭が見える。彼女は手にあったタオルで泥まみれになっていた文の足を丁寧に拭っていた。本当にこれがあの博麗霊夢なのか、別の人間が霊夢の巫女装束を着ているだけなんじゃないかと、そんな馬鹿げた考えが脳裏をよぎった。だが、足を拭き終わって立ち上がった少女は、紛れもなくいつもの霊夢だった。

「早く服脱いで。体冷えちゃうわよ。」

と言いながら霊夢は文のブラウスのボタンに手を掛けた。文は本能的にその手を払う。霊夢は少しびっくりしたようなそぶりをつくってから、愛想よく口元をゆがめた。

「ああ、ごめんなさい。じゃあ着替えここ置いとくわね。脱いだ服はそのままにしといていいわよ。後で干しとくから。お風呂、今入れてるからもう少し待っててね。」

従順な物腰で必要なことだけ告げると、霊夢はまた奥へ入っていってしまった。文は何故ここで帰らなかったのか、それは今でもわからない。鍵が閉じられていたわけでもないし、もう動けないほど弱っていたわけでもない。この程度で風邪を引くほど、天狗はヤワではないのだ。なのに、彼女は帰らなかった。霊夢が見せる仕草の一つ一つが、彼女の心に粘りつき離さないのであった。柄の入った天狗衣を脱いで、一糸纏わぬ姿で体を拭いてから、気付けば彼女は操り人形のように木綿の白襦袢に袖を通していた。


霊夢の仕事ぶりは文を大いに驚かせた。失礼ながら意外だとさえ思ったのである。風呂の湯加減も、そのあと出てきた料理の味も、万事そつがなかった。彼女の家事は隅々まで配慮が行き届いていて、なのに一切の堅苦しさというものがなかったのだ。それは文の疲弊しきった心と体をすっかり掴んでしまった。さながら砂に水がしみこむように、霊夢のもてなしは文を無意識のところから慰撫したのだ。
神社には他に誰もいなかった。ひっきりなしに人外が往来するこの神社にしては珍しく、風が雨戸を揺らす音が時折りするぐらいで、後は全くの無音であった。二人はいつも通り特になにか相手へ話を振るでもなく、無言のまま向かい合う形で夕餉に箸をつけていた。
献立はどれもありふれたものばかりだが、質と量は充実していた。文が泊まることを事前に知っていたのかと思わせるほど、しっかりした二人分の食事が出てきたのである。味は奇を衒ったものではないがどれも滋味深く、ほっとするやさしい味付けであった。つまり全てがよくできていたのだ、傷心の文を癒すための仕掛けとして。

「いきなりだったからこんなものしかできなかったけど、大丈夫だった?」

やはり懇ろに、しかし先ほどより少しなれなれしい感じで霊夢は尋ねた。表情は柔らかだったが、なんだか腑抜けたふうにも見えた。

「……ええ、とても美味しかったです。ご馳走様でした。」

ここに来てから初めて文は問いに答えた。依然声色には弱々しさが残っていたが、落ち着きを取り戻しつつあるようだった。霊夢はぎこちない様子で、こくりと頷く。

「ならよかった。お茶のお代わりここに置いておくから少しのんびりしていて。私お風呂入ってくるね。」

と言って立ち上がった霊夢はすっと頭のリボンをほどいた。艶のある黒髪がふわりと宙にたなびいて、肩まで落ちた。文は見とれてしまった。続けて袖を外す。細く白い二の腕が文の前に現れた。小指を立てながら髪留めを外し、黄色のネクタイを緩め始めた頃には、文はすっかり顔を真っ赤にして俯いてしまった。
霊夢は文の方をちらと見て、その手を止める。反応を確認でもするように客人の様子をしっかり見届けてから、かすかな笑みを口元に浮かべた。艶やかだが、物憂い微笑だった。

「ああ、ごめんなさい。」

そのまま彼女は風呂場の方へ引っ込んでいった。脱ぎ捨てられた髪飾りと袖だけが、文とともに室内に取り残される。文は二度三度その方に視線を向けたが、結局また顔を下に向けてしまった。言いようのない不安が彼女を襲ったのである。のっぴきならない獏とした違和感――そう、文はあの霊夢に一切見覚えがなかった。今まで自分が見たどの霊夢とも、そして人から聞いたどの霊夢とも、今夜の霊夢は異なる気がした。唯一心当たりがあるとすれば、ここ数日魔理沙から繰り返し仄めかされていた、あの霊夢だけだった。
家のつくりのせいか、風呂の水音はここまで届くことはない。文は冷静だった。多少落ち着きを取り戻し、疲れが癒えたといっても万全には程遠い。だがそんなこととは無関係に、文の脳の一部はいかなる時でも常に冷徹な悟性でもってただ一つの事案について判断を下すことができた。今彼女に警告を鳴らしているのもその部分であった。

霊夢が戻ってきた。首から手拭いを掛けながら、文と同じ木綿の白襦袢を一枚だけ羽織っている。頬も紅潮していたが、全体的に青白くもあった。首の汗を拭うたび、襦袢の襟から鎖骨が顔を覗かせる。

「今、お茶淹れるわね。」

その言葉には、声の主に似合わぬ親密さがあった。文は怯えたように顔を上げた。先ほどからの警告――この巫女が、"射命丸文"を想い慕っているのではないかという恐るべき疑念が、もはや隠しようもなく頭をもたげたのである。霊夢は急須から湯呑みに茶を注ぐため、文のすぐ横で中腰のまま身をかがめていた。その襟口からは胸元がちらと見える。さらしも巻かず、無防備きわまりない肌が眼前に晒されている。
背中に悪寒が走る。突飛な想念が今、抗いようもない確信を伴って彼女の頭を射抜いたのである。そう、目の前の少女は、巫女装束とともに今や"博麗の巫女"を脱いだのだ。それはつまり――紫の、パチュリーの言葉が文の脳裏に甦る――彼女の目の前にいる襦袢一枚のウジ虫にも"『文々。新聞』の記者"を脱ぐよう、迫っていることに他ならないのではないか?
霊夢もその視線に気付いた。二人は初めて見つめあう。霊夢は薄笑いを浮かべていた。まるで千年待ち望んだ救世主の降臨に打ち震える修行僧のように、恍惚としながらもズタズタに磨耗し切った笑みを。

「私お茶飲んだら寝るわ。文も早く休んだら? さっきお布団敷いといたから。」



居間と隣り合った一室、霊夢は普段からそこを寝室として使っている。文が風呂に浸かっている間、彼女は既に床の準備を済ませていたようだった。
文は霊夢の誘いを断った。「もう少ししてから寝ます」という彼女の返答を、霊夢はしおらしい様子で目を伏せながら聞き入っていたが、特になにか言うでもなくそのまま寝室へ向かって行った。
文は悩んだ。今度こそ帰るべきではないかと。帰る? どこに?――思考が反転する――いったいどこに帰るというのか、あの灰色のゴミ溜めにだろうか? それともいっそはたての部屋にでも行くか? あの子の隣で寝ることになるのはどちらも同じじゃないか?

混迷の只中で、ふと文の脳裏にはたての姿が浮かんだ。これまでにないくらいくっきりと、彼女の姿が浮かんだのである。それは先ほど彼女の部屋でみた光景だった。ずっとすすり泣いていたはたてがおもむろに、力強く立ち上がる。そして部屋の隅で突っ立っていた自分に近づき、横を通り過ぎて、シャワー室へ入っていく。それが繰り返し繰り返し彼女の頭の中で流れたのである。
次第に再生速度が遅くなり、一つ一つの細かい部分までもが克明に浮かび上がってきた――荒らされた室内、体中に刻まれた引っかき傷、殴打の痕、そして彼女が最後まで見せようとしなかった体の奥底の傷痕まで。そしてはたての表情、ほんの刹那こちらに向けた視線がはっきりと思い起こされた。それが文に対する失望と嫌悪に満ちた視線であれば、彼女はどれだけ救われただろうか。
しかしそうではなかった。確かにはっきりと目蓋に焼き付いていた。その目には、未だ文に対する憧憬の念が強く浮かんでいたのだ。彼女はああまでなっても、文を慕い、仰ぎ見ていたに違いなかったのだ。そこで追憶が途切れる。遮断したのは脳みそのあの部分だった。

ここで寝ればいいじゃないか、――文は見苦しく譲歩を続ける――襖一枚隔てたこの場所なら何とかやり過ごせるんじゃないか? 彼女はそう信じた。粗末な襖が今や彼女にとって最後の砦となったのだ。ついうとうとしてしまったとでも言えば、別に不自然ではない。馬鹿げた想念も、何度も何度も信じ続ければ、固い信念に変わるときがある。他にすがるものがないと思っているときは特にそうだ。今の文もそれに近かった。
かなり長い時間、文はそこで横になっていた。行灯の火もとうに消え、暗闇のなか彼女は絶えず隣室の気配を窺いながら畳の上に寝転がっていた。気が休まるはずもなかったが、疲労と極度の緊張は彼女から集中力さえ奪ったらしい。無限に続くように思えた時間の中、気付けば文はまどろみの中に落ちてしまった。

夢か現かわからぬ半睡の中、文は一つだけ夢を見た。静かな夕暮れ、小さな木陰の下に仰向けで横たわっている夢だった。体は全く動かなかったが、それに対する恐れというものはまったく感じなかった。彼女は頭をはたての膝の上に載せていた。逆光で表情は窺えなかったが、瞳だけは見えた。それは先ほど想起した、あの文を慕い敬う輝きを纏っていた。
はたては横たわる自分へ視線を落としながら、まるで子供をあやすように絶えず頭や頬を撫でていた。気付けば文は涙を流しているようだった。それを慰めるように、はたては無言のまま彼女を慈しむのであった。
ふと視線を横に向けると、はたて以外にも人がいた。それは椛とにとり、そして魔理沙。やはり彼女たちも仰向けのまま微動だにしない文へ慈しみのこもった視線を投げかけていた。彼女たちは文を囲みながら、自分の胸にそっと手を置き、頭を垂れ祈りを捧げているふうに見えた。
やがて文は自分がもう死んでいることに気付いた。彼女たちは二度と目を開くことのない自分を弔い憐れんでくれているのだと、そう考えたのである。それは間違いなく悪夢だった。


「――ダメじゃない、文。」

優しい声が頭上から降り注ぐ。文は夢から跳ね起きた。割れんばかりの動悸が彼女の胸を打つ。目を白黒させる彼女の前には、しゃがんだ格好の霊夢がいた。妖艶な笑みの上に、ぎらぎらと青白く輝く瞳を浮かべて。

「こんなとこでうたたねすると体によくないわ。お布団敷いてあるって言ったでしょ?」

やけに舌ったらずな口調で、霊夢は文に語りかける。長くおろした黒髪が、薄闇の部屋の中できらきらとなびく。戸惑う文の手を掴み、彼女は半ば強引に引っ張り上げた。

「れ、霊夢さっ、痛いっ!」

確かにそれは信じられない力だった。うめき声をあげる文へ、霊夢はちらと背中越しに視線を向ける。並々ならぬ好奇の色がそこにあった。距離にすればせいぜい十歩ほど、手を繋いだまま寝室にたどり着いた二人は、その手をほどく。

「蚊帳、下ろすね。」

霊夢はそう言って蚊帳を吊り上げていた紐を緩める。中は小さな行灯の揺らめきだけ、麻の帳の先はもう何も見えない。仄かな明かりに照らされた霊夢の顔は熱に浮かされたようにぼうっとしていたが、佇まいは妙に居心地悪そうに見えた。

部屋に敷いてあった布団は、一つ。やけに大きい布団だった。それは本当にさっきまで人が寝ていたのかと思うほど、きれいに整ったままの形を保っている。布団のすぐそばで棒立ちしていた文は、しかしなぜか異様に落ち着き払っていた。先ほど居間でうなされていた時に頭を苛んだ諸々は、とうに彼女から消えうせたらしい。激しく胸を打ち鳴らしていた鼓動が、すぅーっと奥底へ溶けていくように感じた。
霊夢はもう一度文の手を、今度はそっと握る。そしてゆっくりと、相手をじっと見つめたまま胸の中へと引き寄せた。

「やっと、二人きりになれたね。」

そっと文の胸に掌を寄せる。それは一種独特のやり方だった。霊夢は決して文の体に触れなかった。襦袢の上から薄紙一枚離れたところに手を添えたまま、彼女は体を撫で回すのだ。胸から臍へ、じっくりと。生温い手のぬくもりだけが伝わってくる。もし文が少しでも気を許せば、霊夢の手は文の健康的なふくらみに、きゅっと締まった腹筋に触れることができただろう。だがそれはなかった。文はまるで霊夢などいないように、ぼんやりとした表情でそこに立っていた。霊夢はやはり触れるぎりぎり一つ手前に頬を寄せ、

「文の髪、綺麗だよね。」

と言いながら今度は黒髪を撫で上げる。頬を伝う感触は、ざらざらしていて、やはり生温く感じた。霊夢の頬は朱が差していたのに、伝わる温度はべとりとしていた。相手のかすかな震えをしっかり受け取ってから、霊夢は言葉を続ける。

「黒くて、ふわふわしていて。体もきゅっと締まっててシミ一つない。」

また体を嘗め回す。今度は腋の下から腿までをつぅっと。やはり不快でしかなかった。掌を通して霊夢の鼓動が伝わってくることもない。口をだらしなく半開きにしたまま、霊夢は文の前髪をかき上げた。滑らかな額と、整った眉、そして淀んだ瞳が姿を見せる。それは目の前の少女から注がれる賛辞への無関心、いやある種の憎悪に満ちていた。

「顔だってこんなに綺麗。きりっとしてて頭がよさそうだし、唇だって――」
「やめてくれませんか」

ひどく冷たい、刺すような文の一言。霊夢はそっとはにかむ。まるで甘い言葉でもかけられたように。なのにその笑みには押し潰したような苦しげな響きがあった。
しばしの沈黙が二人を包む。霊夢は文の呪詛を吸い込むように、ゆっくりと深呼吸をした。文は自重でたわんだ顔を真横に逃がす。その瞳には先ほど自分が発した言葉に対する後悔の色がありありと浮かんでいた。

「お布団は一つしかないのでしょうか?」

最大限事務的に文は訊いた。ちらと布団の方だけ一瞥してから、霊夢に視線を戻す。そして渾身の力で食いしばった歯の隙間から、愛想のよい笑い声を引きずり出した。

「あやや、それなら私はあちらで寝ることにしますね。ではおやすみなさい。」

文は背筋をピンと張って霊夢の脇を横切る。蚊帳に手を掛けようとしたその時、霊夢が振り返った。そしてうっとりと、吐息まじりに彼女は

「いいの?」

と囁きかけた。文はぴたと止まる。何が言いたいのか分からなかった。それはもはや文を誘惑する口調ではなく、なじる口調であった。

「紫が来ちゃうかもよ。スキマから直接この部屋に、私とエッチしに。ああ、今夜は萃香かもしれないわね。霧になって私が一人きりになるのを待ってるのかも。」

霊夢はくすくすと笑い出した。慎ましやかだが、下品な嗤い声だった。彼女は音もなく文に近づく。

「紫はね、キスがとっても上手なの。舌を絡めてると、それだけでゾクゾクしちゃう。いいの? 文が寝てる横で私たちはじめちゃうよ? あいつ私の気持ちよくなっちゃうところ全部知ってるから、きっとわたし文がいても喘いじゃうよ?」

文の顔に痙攣が走る。霊夢は逃がさない。

「萃香はすっごいタフなの。寝かせてくれない。でも優しくしてくれるのよ。とっても大事に扱ってくれる。こっちの反応見て、ちゃんと強弱をつけてくれる。文は知ってる? あいつが甘えて求めてくるときどんな声を出すか。」

顔を真っ青にして文は後ずさる。気付けば二人は布団の上に戻っていた。

「レミリアはそれに比べちゃうと乱暴よね。でもあいつはこっちから責めると意外とかわいい声で鳴くのよ。アナルが弱いの。ねえ知ってた? 早苗は最初誘ったら女同士でヤるのにびっくりしてたけど、ここじゃ普通よって言ったらとたんに乗り気になったわ。あいつ喘ぎ声が無駄にでかいのよね。でも変に研究熱心だし。たぶんあれ素質あるわ。」

腰が抜けてしまった。へたれこむ文に覆いかぶさりながら、霊夢は執拗に続ける。「文々。新聞」の上にインキを一滴一滴垂らすように、彼女は文が讃えた人妖の名を一人ずつ、一人ずつ上げていく。そしてそのインキで「文々。新聞」を真っ黒に汚すように、この部屋で繰り広げられた彼女達の痴態を、一つ一つ文に囁きかける。
わななく文の唇に、霊夢の瑞々しい唇が迫る。それはやはり髪の毛一本ほどの間を残し、そこでぴたと止まった。まるで文がキスしてくるのを待っているかのように。あまったるい、爛れた吐息が文の鼻腔を犯す。

「アリスはやっぱり器用。指だけでイかされちゃう。あいついつも澄ました顔してるくせにこういう時には結構大胆なのよ。パチュリーはいつもイクとき声を我慢するの。二人っきりしかいないのに顔真っ赤にして。とってもかわいいのよ。咲夜はそれとは違って、なかなか面に出してくれない感じかな。でもレミリアと寝た夜のことを囁きながら弄ると、あいつ顔を真っ赤にして私を睨みながらびしょびしょに濡らしちゃうの。天子はメチャクチャ敏感で、クリトリスいじっただけで潮吹いちゃうし、地霊殿のペットとはよく三人で――」
「卑劣漢!!」

薄明かりだけの空間に、悲鳴がこだました。文はのしかかる霊夢を引き剥がそうと、肩を思い切り突いた。しかし何故か体から力がすっかり抜けてしまっていたらしい。霊夢は上体をわずかに反らせただけで、腰から下は文の腹にしっかと根を張っていた。揺り戻った霊夢は文の両肩をぐいと押さえ込む。

「みぃんな、ここであったことよ。この布団の上で。こうやって誘ったら、みんなここで股を開いてくれたの。私のために。」
「だまれっ!! だまれ卑劣漢! はなせぇっ!!」

文は四肢を振り乱してもがく。瞳は激憤で燃え盛っていた。一番大事なものを穢されて、文は狂い猛りながら泣き叫んだ。霊夢は蔑みに満ちた目つきのまま、文の目尻に唇を沿わせ、そこに溜まっていた雫を舐めとる。狂喜と汚辱の嵐が、彼女の体の中を吹き荒れているようだった。文の涙をこくりと飲み込んだ霊夢は、顔を歪めながらひどく途切れがちな声で、しかしずっと前から練習してきたかのように滑らかな口調で言った。

「聞いてほしいの。文だけに。文には知ってもらいたいの。」
「しゃべるなっ! もう何も言うなっ!! 汚らわしい、二度と口を――」
「魔理沙の処女を汚した話。聞いて?」

その言葉は文の激昂をも捩じ伏せる力を帯びていた。医しがたい戦慄に歪んだ文の面持ちは、もはや笑っているようにも見えた。ぴったりと寄せていた顔を少しだけ離してから、霊夢はゆっくりと、言い聞かせるふうに言葉を押し出していく。その声には快楽に身を打ち震わせるような、同時に不快感に身を悶えさせるような絶望的な響きがあった。

「紅い霧が消えた少し後だった。あいつは連日のようにここに泊まりに来ていた。私はすごく嫌だった。いつもあいつが隣にいて、飯を食って、隣で寝てる。段々耐えられなくなってきたの。あいつの顔を見てるだけでなぜかひどく腹が立ってきた。だから隙を窺っていたの。あいつはひどく無邪気に莫迦やってるのに、でもどこか人を拒絶するところがあるでしょ。絶えず様子を探りながら、どうやったらあいつが守ろうとしている一線に踏み込めるか、どうすればあいつを辱められるか、妄想に耽った。それは愉しい時間だった。自分の卑しさにどっぷり浸ることができたから。
 ある日、もうなんだったかも忘れたけど、ふとしたきっかけで口論になってね。弾幕ごっこになった。まだ暑さの残る時期、むっと生温かい空気が充満した夕方ごろのことだったと思う。当然私が勝った。負けた方には、――まあいつもあいつなんだけど、――下らない雑用をしてもらう決まりがなんとなく二人の間にできていたの。ご飯を作ったり、風呂を炊いたり……まあそんなやつね。あいつも当然そんなふうに思ってただろうし、私も勝つ前までは何にも考えてなかった。ふっと思いついたのよ。突然うす汚い手が頭をもたげた。あの苛立ちが噴き出してきたのかもしれない。こいつをめちゃめちゃにしたいと思った。
 膝枕を頼んだのよ。ちょっと疲れたからって言って。表面上はおどけてたけど、あのうろたえようったらなかった。顔を真っ赤に引き攣らせて、声も消えちゃいそうに小さくなって、でもその目は爛々と輝いてた。吐きそうになった。ものすごく憎たらしくなったの。あいつは段々口すら利かなくなったわ。膝枕の上で足をくすぐってみたり、頬をお腹にこすりつけてやったり……緊張で体がガチガチにこわばっていくのが、みるみる伝わってきた。あいつの顔を下から覗き見て、頬を撫でてやって、色々囁きかけてやったりもした。何を言ったかも覚えてない。文ならわかるでしょ? そういう時、どうやって人の心を解きほぐすか。そうやっただけ。もうあいつ耳たぶまで真っ赤だった。もし私が頭を膝に載せてなかったら、一目散に逃げ出したんじゃないかしら? 胸が高鳴っていくのを感じた。憎悪と期待がない交ぜになって、頭が蕩けてしまいそうだった。もう我慢できなかったの。
 ネクタイを緩めて、あいつにもたれかかって押し倒した。首に腕を回して、寝言みたいに耳元へずっと囁き続けた。でもそれ以上は誘わない。ただずっと私は待ってた。あいつが自分から体を差し出すのを。その瞬間がずっと見たかった。ふいにあいつが私の頬を掴んだ。そのまま、唇を重ねてきて……私は慄えた。その唇はひんやりしてた。やつの顔は、悲壮感に満ちていて、そして私のことを憐れんでた。あいつは自分から服を脱いで、肌を重ねてきて……あれは初潮もまだだった。知らなかった。破瓜の瞬間もあいつの私に対する憐憫の情は消えなかった。私は服も脱がないで、一方的にあいつの体を弄んだ。でもそんなふうに扱われてもあいつは私に情欲も憎しみも、愛すら抱いてなかったの。ただ怯えと、赦しだけ。あれほど不愉快だったことはない。そして、あれほど興奮したこともなかった。
 終わったらあいつはすぐ帰っていった。最初だけ唇をきゅっと結んで何かに耐える顔をしてたけど、それも一瞬だけ。口調だけはいつも通りに戻って、卑屈な笑みを浮かべながら、ただ私を憐れむあの笑顔だけは最後まで消えなかった。きっとあいつは私のことを心配して、励まそうとさえしてたんだと思う。
 一人になって襲ってきたのは恐怖だった。なぜかは判らない。でも私は罰せられねばならない、そういう確信が頭を離れなかったの。言いようのない屈辱と、初めて覚えた興奮と、そして身を裂くような恐怖……頭が割れそうだった。眩暈がして、息をするのも辛い。突然あいつが今どうしてるのか気になった。今一人きり、あの森の中、あのあばら屋の中でどんな顔をしてるのか、知りたくてたまらなくなった。夢中で飛んでいった。でもあいつの家が視界に入った瞬間、怒りがこみ上げてきた。目に映る全てが忌々しく感じた。
 その時ね、木陰に妖怪を見つけたのよ。たぶん妖獣、どうってことない雑魚。知能もろくにないような、妖怪の底辺をはいつくばってるようなやつ。無意識にそいつの方に向かってった。叩き殺そうと思ってね。私が誰だかもよく判らなかったんでしょうね、いきなり襲い掛かってきた。その下衆な、馬鹿面を見た瞬間思ったの。すさまじい興奮が体を走った。それだけで倒れちゃいそうになった。
 わざと負けたの。思いっきり惨めに。それでみっともなく命乞いした。食べられたくないよぉ、殺さないで、代わりに何でもしますからぁって、破けた服をはだけさせて、そいつにすり寄って、股ぐらに頬ずりした。畜生なりに意図は伝わってみたいでね。犬みたいに犯された。後ろから圧し掛かられて、頭を地面に押し付けられながら、何度も犯された。何回イったかわかんない。あいつの家のすぐ近くで、処女を散らしながらよがり狂ったの。ボロ雑巾みたいに扱われながら、自分は本当にクズのクズだったんだって心の底から実感できた。終わった後そいつを八つ裂きにして、血と精液にまみれながら帰ったわ。
 ねえなんでそんな顔するの? 文ならわかってくれるはずだよ。文なら知ってるはず。あの不快感、文も味わったことあるよね? 決して私の心に触れないでいてくれた、誰よりも私をこわがって、そしていつも私の隣にいてくれた文なら、あの感覚が決して消えることなくいつまでも胸を捉えて離さないってこと、知ってるでしょ?
 今でも夢に出てくるの。昼間ぼぅっとしてる時も、あの憐れみのこもった眼が、ふいに視線の先に浮かんでくる。いや違う。私は絶えずあの日の、あの眼を自分の意志で思い出して、それを毎日堪能してるの。あれが忘れられなくて色々試したけど、ダメだった。どんなやつと寝ても、あの日の感覚は帰ってこない。むしろ遠ざかるばかり。どれだけ体が絶頂しても、心はなんにも思わない。退屈にしか思えない。
 あいつは今でも私がちょっと仄めかせば体を開いてくれる。同じように、憐れみを込めて。でもそれにも心が動かないの。むしろ不快なだけで、だからあいつとはしばらくご無沙汰。知ってるよ、最近あいつ文にずっとけしかけてたんでしょ? 別に私がなにか言ったんじゃないわよ。あれはあいつの気遣いなの。あいつは何も言わなくても判ってくれる。そうまるで私の――」
「この……この化け物っ!!」

文はまた霊夢を突き飛ばした。今度は木の葉のように、彼女は布団の反対側まで吹っ飛んでいった。霊夢はゆらりと身を立て直す。迷妄の泥沼に耽溺するがごとき物憂げで沈鬱な顔には、艶やかな笑みが浮かんでいた。文は引きずり出されるように立ち上がる。霊夢はつんのめりながら文に迫った。それはどこかギクシャクした、自身を持ちきれない者が見せる不自然な動きであった。
文は蚊帳伝いにぐるぐると逃げ回ろうとした。だが狭い空間で逃げ切れるはずもない。みっともなくもがく文の足元へ、霊夢は犬のようにすり寄る。そして一度文の顔を仰ぎ見てから、足をそっと両の手で包み、恭しく口づけした。

「……ゃ……もう……やめて、よぉ……」

文は全身が硬直してしまった。まるでその唇から電気を流し込まれでもしたかのように。ひどく生温い、ぬめっとした感触が足に残る。文は蚊帳にしがみつき、せめてその不快な感触から一ミリでも距離を置こうと、上体を懸命にのけぞらせていた。霊夢はすっくと立ち上がる。そして苦痛の果てに達したものにしか浮かべることができない薄笑いを、恐怖に押し潰された文へ向ける。少しだけ離れたところから、まるでそれ以上近づくことが赦されないかのように畏まった態度で。

「文のこと、愛してる。」

吐き気をこらえるように口元を歪め、だが淀みなく霊夢はそう告げた。荒い息遣いのまま額に汗を浮かべ、口角を引き上げながら霊夢はなおも続ける。

「わたしね、文の新聞大好きよ。記事の中の世界はいい人たちばかりで、あの中にいる"博麗の巫女"はとても楽しそう。『文々。新聞』の中の世界、文の頭の中の世界、とっても素敵。だから読んでてわかったの、同じなんだって。私達は世界を守るためだけに生きてる。文は新聞の中の世界、みんなが愛する文の頭の中の世界。私はこの世界、みんなが生きている世界。
けれど私は……そしてきっと文も、その世界の輪に加わることができない。だって私は自分がこの理想世界を信じていないことさえ信じていないから。私はこの幻想郷に、言いようのない"ズレ"みたいなものしか感じることができない。その不快な"ズレ"に身をうずめて、それで自分を慰めることしかできないの。でも文は違う。文は自分の頭の中の理想を守るためならなんでもできちゃう。"射命丸文"を理想の世界から駆除するためなら、文を慕ってくる人でさえ平気で愚弄しちゃう。そんな積極的なこと、私にはできない。」
「ちがっ、ちがうぅ……私はそそんな――」
「知ってるよ。あの白狼天狗も、そうやって見捨てたんだよね。自分の頭の中だけの世界を守るために、あの子の想いを踏みにじったんだよね。それでまたやっちゃったんだよね。だからここに逃げてきたんでしょ? わかるよ。だって私たちは同じだもの。
 文は逆立ちしてるの。文は美しい世界を守りたいんじゃない、文が醜いんだってことを守りたいんだよね? 世界なんてどうなろうと関係ない、ただ自分さえ呪うことができれば、後はどうでもいいの。それがとても羨ましい。私はもう何かを憎むことさえできなくなってしまったから。私は自分を虫けら扱いすることにも飽きてしまった気がするの。でも文は羨ましい。その情熱を持ち続けていられる、文がとても憎い。」

霊夢は着物の紐を解いた。白の襦袢がすとんと落ち、一糸纏わぬ肢体が露になる。なおも見苦しく逃避を繰り返す文を、霊夢は崇拝と侮蔑が交じり合った目つきで仰ぎ見る。

「文は希望なの。もう私には文しかいない。だから文のすべてを受け入れる。全部あげる。もし私を喰らうというのなら、喜んでこの体を差し出す。もし文がこの幻想郷を引き替えにしてでもそうしたいと願う、そんな覚悟があるのならば。」

そして文の手を取った。両手で包み込みながら指を絡め、そっと答えを待った。狂おしいばかりの好奇が、瞳の中を奔流していた。
文は顔をひんまげながら霊夢の告白を聞いていた。そして自分が立っていたことにようやく気づいた。いつの間にか体に力が戻っていたことに気づいたのである。瞬間すさまじい憤激が彼女を駆け巡る。拳を握り締め、文はこの部屋に来てはじめて霊夢のことを見据えた。そして確信した。根拠のない、馬鹿げた考えであることは承知していたが、それでも文はそう確信せざるをえなかったのだ。

もし彼女が本気で拳を振るえば、この女の頭は粉々になるだろうと。
そしてこいつは、腕をかざして身を守ろうともせず、その一撃を喜々として受け入れるだろうと。
そして、この感極まった狂喜の笑みは、顔が砕けていくその瞬間でさえ、けっして消えることはないだろうと。

確かに霊夢の微笑みは狂信者のそれを思わせた。絶対的な承認の見返りに、彼女は文の啓示を待っていたのだ。それがいかなるものであろうと、差し出された回答が自分のすべてである――そう言わんばかりの表情で、文の心を抉り貪っていたのである。文は拳を上げることができなかった。たとえどんな選択肢を選ぼうと、自分はもうこの女の奴隷でしかない、そんな気がしたのである。そしてそうなったとき自分が何を選ぶか、この女はとうに知り抜いているのだ。そうやって自分を蹂躙して愉しんでいるのだ。文は心底から彼女がおぞましいと思った。

見つめ合いが続いた。時間感覚など、とうに二人からは失われていたのかもしれない。
文にはもはや何も残されていなかった。すべてが粉砕されてしまった気がした。そうなったとき自分の中になんの寄る辺もないことに、ふと気付いた。思わず自嘲さえ漏れそうになるほど、心にはなんにも残ってなかったのだ。にもかかわらず――いやだからこそというべきだろうか――脳みそのあの部分だけは淡々と動き続けていることを、彼女は自覚していた。文は自分の口が動き出したことに気付いた。

「そのお気持ちは大変ありがたいです、はい。でも霊夢さんと私なんかでは、とてもとても。ええ、つまるところそれはきっとよくある一時の気の迷いってやつで、だから……申し訳ありません。」

やけに上ずった声になったなと思った。霊夢の手をそっとほどき、ゆっくりと居間へ向け足を動かす。

「やはり私は向こうで寝ますね。平気です。天狗は丈夫にできてますから、問題ないですよ。」

蚊帳をくぐり、そう誰にとでもなく告げた。三度目の拒絶に、霊夢は振り返ることなく立っていた。かすかにわななく背中は、恍惚ゆえか絶望ゆえか、それは判らなかった。

「やさしいなあ、文は。」

襖を開く音が寝室に響いた時、霊夢は一人そう呟いた。独白なのによく通った、艶のある声だった。襖が再び閉じられようとした瞬間、霊夢はまた一人ごちた。それは恋人にじゃれつく時のような、幸せに満ちた声だった。

「いくじなし」

その声が届いたのか、それはよく判らない。霊夢がそう呟いた時にはもう、部屋には彼女しかいなかった。









   「文がショットを撃たないのは優しさではなく写真に自分の弾が入るのが嫌だからです。」
                            ――東方文花帖









最後に簡単な後日談を書いておこうと思う。

文は次の日には取材に戻った。魔法遣い達とは少しだけ疎遠になりかけたが、魔理沙が取り持ってくれたおかげで半年もした頃には元と同じように取材に応じてくれるようになった。
はたては数週間ほど謹慎が命じられ、部屋も引っ越すことになった。でもその後は今までどおり新聞記者として懸命に取材にあたっている。以前より少しやつれたようにも見えたが、文とは相変わらずつかず離れずで仲良くやっているらしい。椛は小隊長に昇格した。つまりそれまでどおりの暮らしが続いたのである。

ただ一人だけ変わった者がいた。あの夜から三日後、霊夢が突然婚約を発表し博麗の巫女を辞すると言い出した。相手は里の人間で、里の隅の小さな田畑を耕しながら、掘っ立て小屋で暮らしていたびっこの男だった。最初その話が出たとき、里人の誰もが彼の顔を思い出せなかったくらい、人付き合いの少ない、無口で印象の薄い男だった。
霊夢と親しかった妖怪や人間はこの突然の話に驚き戸惑い、ある者は反対さえしたが、結局は彼女の意志を尊重するという形で、みなそれを祝福した。後に子供を三人もうけ、里の人間としてひっそりと余生を送ったのだそうだ。

「文々。新聞」もこの結婚を大いに報じた。文は霊夢がこれまでいかに幻想郷のため尽力してきたか、彼女がいかに幻想郷を素晴らしいものに変え多くの者に愛されたかといった点を丁寧に取り上げ、霊夢のこれまでの功績と人柄、そして今回の結婚と今後の人生を讃えた。その後も折りがあるごとに、文は霊夢の近況とその貧しくもつつましい生活ぶりを褒め称え続けた。

霊夢は巫女を辞した後も終生「文々。新聞」を愛読したという。里の者によれば、すべての号を丁寧に保管して、暇さえあればなんども読み返し、そして満ち足りた笑顔を浮かべていたそうである。


ひどい新聞♪
  
  
  
  
  
全年齢向けのほのぼのカプ物でも書いてみようかな……→あやれいむにしよう→せっかくだから機械じゃない霊夢を考えてみよう→金閣寺で死にまくる→文って殺人事件嫌いなんだ→うはw悪霊おもしれえwww→あ、あれ……?

どうもコメントありがとうございます。
  
>1さん
どうもありがとうございます。ぶっちゃけ思いついた解釈を吐き出してるだけなのでうれしいです。
引用は趣味なんです。権威主義者なんで

>2さん
なんか申し訳ないです。こうゴチャゴチャしてて嫌な気持ちになる話ばっかりなのでそうじゃないの書けるようにしたいです

>NutsIn先任曹長さん
いつもすみません。そろそろ違う路線でと思いつつ、いつもこんな感じになっちゃいますね
最近自分が本当に幻想郷が好きなのか自信がなくなってきました

>4さん
最初はなんだったかな。ご指摘の台詞も大事な発端だったのは確かです(金閣寺で死にまくって何度か見たんですよ)
あと、アリスに言わせた聖書の箇所と、霊夢の妄想と、あとすとらいぷぱたーんさんの「Beautiful World」も頭にあったような気がします

>5さん
遅れてすみません。こういう理念型から実在の人物を感じてくださるのはうれしいです。たぶんこの天狗三人娘を足してアリスぐらいの毒気に薄めると私です

>6さん
こんな下がった奴にわざわざコメントしてくださってありがとうございます
キャラの作りこみを書くときの目標にしていたので、愛おしさを覚えてもらうと光栄です。

>7さん
気付くの遅れすぎましたごめんなさい。こんな下がったのにコメ下さりありがとうございます。
実はエピローグは首吊り自殺した「彼女」の遺書ってことにしようと思ったんですが、色々考えてやめました。
んh
http://twitter.com/sakamata53
作品情報
作品集:
27
投稿日時:
2011/06/17 15:13:28
更新日時:
2012/01/09 18:25:43
分類
地霊殿自機メンバー
はたて
趣味に走ったあやれいむ
1/9米返し
1. 名無し ■2011/06/18 15:32:18
感動するほど好みの話だった、ありがとう
いつもながらあなたのキャラ解釈の仕方と原作台詞の使い方が非常に好きだ
それにしてもこの射命丸いいなあ
2. 名無し ■2011/06/18 19:03:02
愛されているかと思えば恐れられて、愛しているかと思えば自分を陥れているだけである。
歪んだ愛のベクトルがゴチャゴチャ。
それでも結末には納得できずに、虚しさゆえの涙を流してしまいました。
噛み合うことの無いラブストーリーでしたが、とても楽しませていただきました。ありがとう。
3. NutsIn先任曹長 ■2011/06/18 19:58:15
この罪人達、きな臭い。
私のおニューのモーゼル大型拳銃からは、ガンオイルと換装した紫檀製チェッカーグリップの香りしかしない。

このお茶、温い。
私が飲んでいるウィスキーはよく冷えており、喉に流し込むと灼熱と化す。

中立って、辛い。
普段は安全、有事は危険。
クールな知性にホットな感情。

それは、物語の中の『正義の味方』というもの。
どっちつかずの、両陣営から怖れられる『中立』は、存在するだけで『罪』となる。

『罪人』は己の罪を嫌悪し、慈しみ、破滅的な自己愛に走る。

素敵な素敵なユートピア。
皆仲良し理想郷。

紙上の極楽を作り上げたのは、罪人の一人。
紙上では、もう一人の罪人は大人気。
筆者は存在が許されない素敵なセカイ。

現実の幻想郷は、自虐的な罪人の地獄であった。
誰からも愛され、誰からも怖れられた。

もう一人の同類を自分と同じ高みへと堕落させようとした。
試みは失敗した。
失敗した事で、罪人は赦された。
彼女は、理想郷に住まう身となった。

もう一人は相変わらず罪人である。
彼女自身の存在しない理想の世界で皆を救うために。

今日も、黒翼の天使は万里を駆ける。





はい。今回の大作も魅せてくれましたね。
お得意の、上っ面の綺麗事と、裏のドロドロ。

清く正しい嘘つき。
絶対中立の英雄である下衆。

矛盾を孕む彼女達は、絶対に結ばれない。

セカイを維持するのって、ホント、難しい。胃が痛い。
4. 名無し ■2011/06/19 11:32:39
典型的な天狗な尊大で傲慢な射命丸が多いのでこの射命丸は新鮮だった
もっと社会正義を貫く清く正しい射命丸増えろ

あと個人的に最後の原作の台詞はこの作品の始点に感じられた
5. 名無し ■2011/07/07 23:54:05
ああ、だから俺ぼっちだったんだ…文の姿をした俺がいるよ
6. 名無し ■2011/08/20 21:37:24
なんと言えば良いか分らないけれど、登場人物が全員愛おしい。
素敵な虚構の世界を描く者を描いた、素敵な素敵な虚構の世界でした。
もみじもみもみ
7. 名無し ■2011/11/24 21:52:59
もう何回読み直したことか
先が分かっているのに読み返さずにはいられない
むしろ彼女らがコマされたのが分かるから余計に面白い
彼女の頭のなかが壊れたifストーリーとか妄想して楽しんでます
8. 気ぐるみ ■2014/09/30 19:13:26
自分が大っ嫌いな文ちゃんにシンパシーを感じた。
霊夢化け物だわ。自分にも他人にも全く容赦がない。
そして多くの登場人物のが策士。熾烈な腹の読み合いが面白い。
また読み返したくなるような作品です。
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