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『リョナグロモツドバ系アイドル』 作者: pnp
十六夜咲夜が大きな袋を担いで紅魔館へ帰って来た。
担がれている袋はあちこちが出っ張っている。その様子から、中には平たく角ばったものが大量に詰められているのが分かる。
そんな形状に該当する物を、レミリア・スカーレットはすぐに想像することができなかったから、
「咲夜、それは何?」
こう聞かずにはいられなかった。
呼び止められた咲夜は、廊下のど真ん中にその袋をどんと置いた。中でがしゃんと音が鳴る。
袋の口に手を入れ、ぎゅうぎゅうに詰められている内容物を一つ手に取って、レミリアに手渡した。
透明で四角いケースに、見知らぬ人間の写真が入れられている。
その写真上部には謎めいた文字が書かれているが、背表紙のようになっている所にもそれがあったので、この四角い物の名称であろうとレミリアは察した。
裏面にもやはり写真がある。
周辺を見回してみると開閉が可能であることが分かり、ケースを開いてみると、中には薄い円盤が入っていた。円盤にもやはりこの物の名称が刻まれている。
中心には小さな穴が開けられている。そこを押すと、円盤をケースから取り外すことに成功した。
裏返してみると、鏡ほど綺麗ではないが、自分の顔が映った。光を反射する効果があるらしい。
粗方この謎の物品のスペックは理解したが、用途や正式な名称は全く分からず、
「で、これは何なの?」
結局こう問うた。
咲夜も同じように袋からこの物品を取り出した。レミリアに手渡した物と全く同じ物だ。
「これは『シーディー』と言うものなんです」
「しーでぃー?」
聞き慣れない言葉に、レミリアが首を傾げる。
「レコードのようなものらしいです。外界で大流行してるアイドルの『シーディー』らしい、と、香霖堂の店主は言っておりました」
「人気なのにどうして幻想郷へ?」
「さあ……外界の事情は存じませんわ」
言いながら咲夜はケースを開き、中のシーディー――コンパクトディスクことCD――を取り出した。
「専用の機器があれば中に込められている音が聴けるらしいですが、うちにはありませんね」
「じゃあ何でこんなに持って帰ったのよ」
「庭に飾ると烏避けになるらしいので……。鬱陶しい新聞記者を撃退できるかと」
「まあ、本当? こんなので鴉天狗を退けられるなんて」
レミリアは感慨深げにCDを眺めた。
次に、二枚程CDを取り出してもまだ重たそうな袋を見やる。
「まだ沢山あるのね……。全部同じもの?」
「はい、すべて同一の品です。よほど沢山売れたんでしょうね」
「それにしては、こんなにたくさんこっちに入って来るなんて。外界の人間は飽きっぽいのかしら」
そんなことを言いながら、レミリアはCDのケースを見やる。
満面の笑みを浮かべている女性の写真はケースから取り外すことができ、更に見開きになっていて、中には歌詞が書かれている。
歌詞を見ても特に面白みはなく、レミリアは写真をケースに仕舞った。
「流石はアイドルと言うだけあるわね。容姿端麗……とまではいかないけど、かわいい人間ばかりだわ」
写真の女性を見てレミリアが言ったが、
「そうですか? 私は特にそうとも思えませんが」
咲夜は顔を顰めて反論した。
各々の好みについて言及する気はレミリアにはないようで、次に彼女は袋の中を覗き込んだ。咲夜の言った通り、本当に同じCDが大量に入っている。
写真も全て同じものだ。かわいい人間も、ここまで沢山同じものが集まると気味が悪く見えた。
「一体どれほどの売上になったのかしらね」
「さあ……計り知れません。私が持って帰ったこれらが全てではありませんし」
「まだあるの?」
「沢山ありましたよ。そんなに必要ないと思って持って帰りませんでしたけど」
「この持って帰った分も不必要だと思うのだけど」
「うーん……。ちょっと欲張りすぎでしたわ」
袋の中のCDだけでも、軽く見積もって五十枚はある。それでも尚、CDは無縁塚に山のように放置されている。
どれだけ単価を安く見積もったとしても、合計すればかなりの額になる。
「アイドルって、そんなにお金になるものなのかしら」
レミリアがぽつんと呟く。咲夜は、主が何を言い出すか何となく予想できていたが、特に反応はせず主の動向を見守っていた。
いつになく真剣な目つきでCDを見やっていたレミリアだったが、ふと咲夜へ向き直して言った。
「咲夜、アイドルを雇いましょう!」
予想通りの一言であったので、咲夜は別段驚いたりはしなかった。
主の突拍子もない思い付きに付き合うことは嫌いではなかった。
「アイドルなんてどこにいるのです」
「歌って踊れて容姿がそれなりなら大丈夫よ。いなければ作ればいい。こういうには先駆者が勝利を収めるものなの。さあ咲夜、優秀なアイドル候補を探してくるのよ!」
そう告げるとレミリアは図書館へ向かって飛び立った。
「パチェ! アイドル雇用のノウハウを教えて頂戴!」
小さくなっていくレミリアの背中にそっと「いってきます」と囁いて、咲夜はいるかいないかも分からないアイドル候補を探しに出掛けた。
外では太陽が燦々と輝いている。たっぷりの陽光を浴びて草花達がいつも以上に彩よく見える。
アイドル候補に目星を付けている最中、その草花が目に入り、咲夜の頭の中にぱっとある妖怪の顔が浮かんだ。
「歌って踊れる……あの妖怪なら」
咲夜は進路を森へと定めた。
*
どう言った訳か図書館にあった、アイドル成功の秘訣とか、アイドルをプロデュースする本など、そんな書籍を読み進めているパチュリー・ノーレッジの横で、レミリアは咲夜の帰りを今か今かと待ち侘びていた。
「ねえ、レミィ。このアイドルプロデュースって成功するの?」
言われるがままに経営学を勉強し出したパチュリーだったが、この行いが徒労に終わることを懸念し、こんなことを問うたが、
「しなけりゃしないでやめればいいじゃない?」
レミリアに言っても何も解決しないことを思い知った。
しかし、今まで読んでこなかったタイプの書籍を読むいい機会かと割り切り、読書を続けた。
それからおよそ数十分後、咲夜が帰って来た。彼女の思う、アイドル候補の手を引いて。
「あ、あのあの、一体これはどういうことです?」
妖怪はすっかり困惑している様子である。無理もない。
いつか起こった、夜が明けない異変で出会った強力な人間と恐ろしい吸血鬼の住まう館に、大した事情説明もないまま手を引かれて導かれてしまったのだから。
パチュリーはちらりと本から目を離し、アイドル候補を見やり、特に何も感じないと言った風を装って本に視線を戻した。
内心、「こんな奴がアイドルになれるの?」「真面目に人選したの?」等、言いたいことがいろいろあったのだが、咲夜の手を煩わせるのも不憫だと感じ、何も言わなかった。
一方レミリアは、「おおー」と感慨深げに唸り、ぱんと音を鳴らしながら手を合わせた。
咲夜の選んだアイドル候補にすっかり満足している様子だ。
レミリアのそんな反応を受けて、咲夜はしたり顔。連れてきた妖怪の背を押し、レミリアの前に立たせる。
そして、勿体ぶった口調で連れてきた妖怪を紹介する。
「幻想郷初のアイドル候補、夜雀ミスティア・ローレライですわ」
レミリアはうんうんと頷き、咲夜の頭をよしよしと撫でてやり、次いでミスティアを見やり、またも頷いた。
「そうね。歌は上手だし、容姿もなかなか。踊れそうにはないけど、まあ……オーディション、だっけ? そんな感じのは合格よ。おめでとう」
「あの、一体何を言っているのですか?」
咲夜が事情を説明しなかったせいで、ミスティアだけが置いてきぼりを喰らっている。自身が置かれている状況をまるで理解できていない。
そこでレミリアが、沢山のCDとこれまでのあらましを説明し、簡潔に状況を知らせてやったのだが、
「どうして私がアイドルになんて!? できる訳ないでしょそんなの!」
適当に連れてきた人材とあって、そのモチベーションはかなり低いものであった。
折角手にしたアイドル候補をそう簡単に逃がしてはなるものかと、レミリアが説得する。
「いつも歌を歌ってるじゃない。あんな具合に、自分が歌いたいように歌えばいいの。歌は得意でしょ?」
「そうですけど、私の歌を好いてくれてるのは若い妖怪だけで……人間なんてきっと怖がって聴いてもくれませんよ」
「そこは私がなんとかして万人に受ける体勢を整えてやるわ。歌ってお金がもらえるのよ? 屋台の経営とかも楽になるのよ?」
騙されている気がしてならなかったが、これ以上口答えするとレミリアが怒りそうなので、ミスティアは曖昧な返事をして答えを濁した。
住み込みのメイドと同じように、専用の部屋を準備しておいたので、そこらをうろついていた妖精メイドに案内をさせた。
ミスティアの姿が見えなくなってから、咲夜が問うた。
「それで、万人に受ける体勢とは、一体どのようなもので?」
「どうしようかしら」
「やっぱり考えてなかったのね」
パチュリーが呆れた口調で言う。
しかしレミリアは悪びれた様子もなく、寧ろふふんと胸を張り、
「三人寄れば文殊の知恵。みんなで考えた方が絶対に上手くいくわ!」
上手い具合に自身の不備を正当化した。
とりあえず咲夜がぱっと思い付いた案を口に出す。
「性的なアピールでファンを獲得するとか?」
しかしレミリアは首を横に振る。
「安直な! 性的アピールなんて猿でもできるわ!」
「それじゃあ純粋に歌唱力で勝負するのですか」
もう一度咲夜が発言した。しかしやはりレミリアの反応は芳しくない。
「それは人間でもできる。あの子は妖怪なんだから。妖怪にしかできないことをやらなきゃ」
「妖怪にしかできないこと……」
咲夜は口に手をやり考え込み始めた。レミリアも腕を組みながらそこらをうろうろと歩き回り、ミスティアの魅力を最高に引き出せる戦略を練る。パチュリーは相変わらず本を読んでいる。
誰も一言も喋らず、場は静まり返った。普段は見せない驚異的な集中力が、自然と場に静寂を湛えた。
呼吸音、足音、本の頁を捲る音――こんな些細な音でさえ、今この場においては貴重すぎる音源であり、異様な存在感を持つことができる。
それ故に、
「咲夜さん! 知らない間に夜雀が館内に入っていましたけど一体何なんですかあれは!?」
紅美鈴が蹴破るようにドアを開けてこの部屋へ入って来た際の音と声が、爆音と認定されても何ら問題ないことは言うまでもないだろう。
そして瀟洒なメイド長である咲夜は即座にその爆音に反応し、爆音を鳴らす不届き者を殲滅せんとナイフを投げつける。
投げられたナイフは美鈴の頬を掠めた。考え事から即座に戦闘体勢に切り替わった為、少々照準が疎かになってしまったらしい。
咲夜は大きく舌打ちをする。一瞬にして静寂は崩れてしまい、レミリアも大きくため息をついた。パチュリーもばすんと荒々しく本を閉じ、怒りを露わにする。
入室早々ナイフを投げられたり、居合わせた者達が不機嫌になったりで状況が全く飲み込めず、美鈴はただただ硬直するしかなかった。
「い、いきなり何をするんですか咲夜さん!」
やっとの思いで発した一言だったが、咲夜は至極興味がないような目つきで美鈴を一瞥した後、壁に刺さったナイフを引き抜いた。
「うるさいから投げちゃったのよ」
「刺さったらどうするんですか! 大怪我ですよ!」
「妖怪なんだから、ナイフが刺さりそうになったくらいで文句を言わない。どうせすぐ治るでしょ」
「治りますけど痛いものは痛いんです!」
ぎゃあぎゃあと大声で文句を言う美鈴と、右から左へ聞き流している咲夜を見ていたレミリアが、ふいにぽんと手を叩いた。
「これだわ! 妖怪にあって人間にないもの!」
その場に居合わせた誰もがレミリアを見やる。この(咲夜やパチュリーにとっては)バカバカしいやり取りの中に何を見出したのか、皆目見当がつかなかった。
事情を知らない美鈴は頭上に「?」を浮かべたような表情で首を傾げている。
「咲夜、パチェ! ミスティアの所へ行くわよ! これは新しい! 新感覚アイドル誕生よ!」
そう言うと、咲夜もパチュリーもレミリアへ歩み寄った。
美鈴は置いてきぼりをくらってしまっているが、そもそも事情を知らないので疎外感はなかった。
「あの、お嬢様、一体何を言って……」
「あんたはいいから……ほら、これを門前に飾っておきなさい」
一秒でも早く自分の考えを披露したいらしいレミリアは、事情説明もせず、美鈴に大量のCDを手渡し、さっさとミスティアのいる部屋へ向かって歩いて行ってしまった。
その場に残ったのは大量のCDが入った袋を抱えた美鈴だけであった。
袋の中を覗き込んでみたが、内容物の用途はさっぱり分からなかった。
しかし、とりあえず言われた仕事はこなしておかねばと、袋を持って門前へ駆けだした。
ミスティアは自分専用らしい個室で、本当に羽を伸ばしていた。
駆け回れるくらい広い部屋に、触れたこともないくらい柔らかいベッド。上質なテーブルと椅子に、一人には大きすぎるソファ。
今まで自分が住んでいた家とは一体何だったのか――そんなことを思う程であった。
普段着のままベッドに飛び込み、俯せで真っ白いシーツに頬ずりをする。
あまりの心地よさに「ふにゃあ」なんて変な声を漏らしながら、翼と尻を小刻みにぴくぴくと動かしたりなんかしていた。
そこへ急にレミリアが入って来た。勿論、快楽に溺れて晒していた痴態もばっちり見られてしまった。
「何をしてるの! アイドルの癖にあられもないわね!」
「は、入る時はノックくらいしてくださいよ!」
顔を赤くして声を荒げるミスティア。やはりレミリアは悪びれた様子もなく、どこか誇らしげに笑ってみせた。
「見なさい、もう大物アイドルらしい言動を始めているわ。やはり咲夜の目に狂いはなかったのね」
「勿論です」
「それはそうとミスティア、あなたの方向性――キャラクターが決定したわ!」
話の腰を折り、レミリアが声高らかに言う。ミスティアは首を傾げ、咲夜とパチュリーは胸を躍らせた。
レミリアは一呼吸置き、そして言葉を紡ぐ。
「人間と妖怪の違いはいろいろあるけれど、真っ先に浮かぶのがやはり『死にづらさ』だと思わない?」
「しにづらさ……まー、確かに人間は脆いですね」
ミスティアも同意した。レミリアは自身の考えに誤りが無かったことを確かめるようにうんうんと頷く。
「ただ可愛く歌って踊るだけのアイドルは外界の人間でもなれる。あなたはそれと違うことをしなくてはいけない」
「はあ」
「そこで私は思い付いたの! 妖怪の死にづらさ、耐久性、治癒能力――これらを生かす手はないと!」
徐々にレミリアの語りに熱が入っていく。ここまでテンションの高い主は見たことがなく、咲夜はただただ圧倒されている。
パチュリーは何度か見たことがあったので、特に思うことはなかった。ただ、そういう時はろくでもないことを考えていることが多かったし、文脈からろくでもない計画であることが明確なので、この時点でかなり嫌な予感がしていた。
「ミスティア! あなたはリョナグロモツドバ大出血系アイドルを目指すのよ!」
しばらく誰も何も言わなかった。
まず『リョナグロモツドバ』とは一体何なんだろうと誰もが思っていた。
レミリアはそんな言葉を一体どこから覚えてきたと言うのか。咲夜はそんな風に育てた覚えはなかった。
パチュリーでさえ意味が分からず懊悩していた。勿論、ミスティアも全く意味が分かっていない。
しかし、レミリアの語ってきた『死にづらい』とか『耐久性』なんて言葉から察するに、それは何か残酷で凄惨なものを指すことが想像できたから、
「嫌ですよ! そんな、えっと、りょなぐろもつどばなんて!」
ミスティアはとりあえず嫌がっておいた。物覚えの悪いミスティアだが、あまりにも意味が分からなすぎて衝撃的な単語だったので、一度聞いただけで短期記憶として脳内に残すことに成功していた。
嫌がるミスティアに、レミリアは更に語りかける。
「あなたが幻想郷で成功するにはこれしかないの! アイドルなんて幻想郷では前代未聞よ? これは幻想郷の未来の為でもあるのよ!」
こんな具合にスケールを大きくして説得してはみたが、ミスティアからいい返事はなかなか返って来ない。
しばらく二人の言い争いが続いていたが、咲夜の質問がそれを制止した。
「ところでお嬢様。そのリョナグロモツドバとは一体何なんですの?」
ミスティアとの論争に夢中だったレミリアはキッと咲夜を睨みつけるように振り返り、
「簡単に言えばグロテスクな感じよ! 血が出たり骨が折れたり内臓が出たり」
言葉の意味を包み隠さず説明してしまった。
これを聞いたミスティアは目をまん丸にして驚き、反射的に席を立った。
「そんなのやりたくないです! 帰らせてもらいます!」
部屋を出ようとしたミスティアの手を、慌ててレミリアが掴む。
「待ちなさい! 殺しはしないわ! 絶対よ! 我が紅魔館には優秀な魔法使いがいるんだから! 攻撃、補助、治癒なんでもOKの! 竹林には毎日暇な薬師の知り合いだって……」
「死なないんだったらレミリアさんがやればいいじゃないですかー!」
「私は確かに麗しいけど、あなた程歌って踊れないの! この仕事はあなたにしかできないのよ!」
「ところでお嬢様。その言葉を一体どこで……」
「うるさい! いいから咲夜も説得しなさい!」
交渉と言うベールに包まれた説得はおよそ三時間も続いた。
雇う側も雇われる側も次第に発する言葉を失くしていき、最後の方は子ども同士の幼稚な口論以外の何物でもなくなっていた。
しかし、なんとミスティアは最終的に、首を縦に振ってしまったのである。
彼女から金銭的な悩みが払しょくできなかったのは事実であったし、頭の悪い夜雀にとっては口論終盤の幼稚な口論の方が返って分かりやすかったのかもしれない。
報酬金は必ず支払うこと、身体的に無理だと感じたらすぐに止めさせてもらえることなんかを盛り込んだ契約書。
レミリアがそこに人差し指を切って血のサインを示す。ミスティアも横に名前を書いた。こうして、交渉が成立した。
「ありがとうミスティア。時が止まった幻想郷発祥の前衛的アイドル――必ずこのビジネスを成功させてみせるわ」
「殺さないでくださいね」
真顔で言うミスティアの手は少しだけ震えていた。
ここまで漕ぎ着けてしまえば、後はビジネスの成功に向けて全力を尽くすだけである。
レミリアはよし、と一声発して気合いを入れ、それぞれに指示を出す。
「まずこのCDってのを沢山作らなくちゃいけないわね。河童に頼めば大丈夫かしら!」
「歌をこれにどうやって録音するんです?」
その場に残っていたCDを一枚摘まみあげて、ミスティアが問う。
レミリアはうーんと唸った後、
「パチェ! 任せたわ!」
パチュリーに丸投げした。
「……録音の魔法? まあ、作ってようかしら」
なかなか無茶な要求であったが、自身の知識を深めるいい機会かと割り切り、パチュリーは図書館へ戻って行った。
「CDにはこの歌詞の書かれた写真が必要ですわね」
「写真と言えば鴉天狗ね。河童の所へ行くついでに依頼しましょう。ミスティア、あなたはしばらく自室待機! 歌でも作ってなさい!」
「どんな歌を歌えばいいのです?」
「どんなでもいいわよ。いつも通りに歌って、歌詞とかメロディとかを記憶しておけばいいの。私は妖怪の山へ出掛けるから、勝手に外出しちゃダメよ!」
そう言い残し、咲夜を引き連れて紅魔館を出たレミリア。
すぐさま妖怪の山へ行こうとしたのだが、思わぬ人物に呼び止められてしまった。
「どうもレミリアさん。この変わった飾りは? 一体何が始まるんです?」
レミリアを呼び止めたのは、鴉天狗の射命丸文。
美鈴が指示通り門前に飾った大量のCDを、物珍しげにシャッターに収めているではないか。
「何が烏避けよ! 寧ろ寄って来てるじゃない!」
「おかしいですわねえ……店主は確かに烏避けになると」
「しかしいいタイミングだったわ。鴉天狗、大スクープよ。幻想郷が遂に外界の一歩先を行く瞬間が訪れようとしているわよ」
「なんと! お話を聞かせて下さいますか?」
こうして、これから誕生する前衛的アイドルの宣伝を成功させたレミリア。
運命など操らずとも、このアイドル事業が成功することが手に取るように分かった。
成功を確信している彼女であったが、もう一つ、大きな課題が残されていた。
それは他ならぬミスティア――アイドルの育成だ。今のままではミスティアはただの夜雀であり、鰻屋台の店主である。とてもアイドルなんて言える器ではない。
しかし、レミリアは怯まない。寧ろ、この育成に関しては絶対的な自信を持っていた。
先代の吸血鬼が紅魔館に残して行った数々の拷問道具――長い間埃を被り、錆つき、すっかり鈍ってしまっているそれらが、ついに日の目を浴びる日がやってきたのだ。
吸血鬼らしい残酷さを発揮できると言う大いなる喜びに、レミリアは思わず身震いしてしまった。
*
「アイドルは常に笑顔でなくてはいけない」
書籍に記載されている一文を咲夜が声に出して読み上げると、ミスティアがすぐにそれを復唱した。
次いでレミリアが声を張り上げる。
「これはなかなか難儀なことね。特にリョナグロモツドバ系を目指すあなたにとっては最大にして唯一の試練となるでしょう! どんなに酷い目に遭っていても、あなたは常に笑顔でないといけない!」
「それはちょっと厳しいかも……」
「いきなりやれと言われても無理な話よ! まず、あなたは痛みに慣れなくてはいけない!」
そう言うとレミリアは、用意していた工具箱の中からペンチを取りだした。
早速出てきた不謹慎な用具に、思わずミスティアは生唾を飲み込み、
「それで何を?」
と問う。
レミリアはその言葉を待っていたと言わんばかりにふふんと不敵な笑みを浮かべ、ミスティアに歩み寄り、彼女の手を取った。
そして思い切りテーブルに手を押し付けて固定した。
「今から爪を剥ぎます」
「ええっ!?」
あまりにも唐突に残酷なことを言われ、ミスティアは目を丸くした。そして拘束から逃れようとじたばたと暴れ出した。
しかし吸血鬼のレミリアに力で敵う筈がない。思い切り抵抗しているミスティアの横で、レミリアは涼しげな顔をしている。
「いつか出すCDの特典に爪を入れるのよ。十枚集めて握手会に来れば腹パン一発の権利を与えるの」
「何ですかその特典!」
「こういうえげつない特典こそCD大量販売の鍵なの! 曲なんて二の次! メインは特典!」
「そ、そんなにすぐに爪は生えてきませんよ……」
「咲夜が時間を操ってものの三秒で爪を伸ばしてくれるから平気よ。さあ観念なさい! そして靴を脱ぎなさい! ニーハイソックスは私が預かるわ」
抵抗を続けて埒があかないので、結局レミリアが強引に靴を取り、ニーハイソックスを脱がせてしまった。
準備が整い、遂に爪を剥ぐ時が訪れた。まずは手から剥いで行こう、と言うことになり、ミスティアの腕が専用の台に固定された。
手首と肘の部分に半円の枷が取りつけられ、腕を置いている台に繋がっている。注射の際の台を彷彿とさせる無骨なデザインが恐怖を増幅させる。
爪を剥いだくらいで死ぬことはないのは確かだが、目の前で爪を剥がされる恐怖は計り知れないものであった。
目にうっすら涙を浮かべがたがたと震えるミスティア。こんなことを了承してしまったことを早速後悔していた。
咲夜が細い木の棒をミスティアに差し出した。用途が分からず、ミスティアが咲夜を見つめる。
言葉はなかったが、咲夜はミスティアの言わんとしていることを察したようで、自身の唇を指差し、
「口に咥えるの。思い切り歯を食いしばれるように」
こう説明した。
説明を受けたミスティアは、自由な方の手で木の棒を口に運んだ。
ふー、ふー、と言う、自身の荒い息遣いが耳に入りこんでくる。緊張しているのは明白であった。
「覚悟はできたわね?」
レミリアが問う。ミスティアは大きく深呼吸し、こくりと頷いた。
「それじゃあ始めるわよ。精神を集中させて! 成せば成るわ、自分を信じるのよ!」
ペンチがミスティアの手の親指の爪を摘まんだ。
まるで注射を恐れる子どものように、ミスティアは自身の手から視線を外し、その上きゅっと目を瞑った。
双眸に溜まっていた涙の粒が、つつと頬を伝って落ちていく。
まるでその涙を号砲としたかのように、レミリアが思い切りペンチを持つ手を捻った。
べきっ と嫌な音がして、ミスティアの爪が親指から剥がされた。
猿轡の代わりとなっている木の棒を咥えたまま、ミスティアはくぐもった絶叫を響かせる。
うまく声を出せぬ状態であれど、それはそれは悲痛に満ちたものであった。そして、そんな絶叫を生み出すこととなったミスティアの指の傷――。
咲夜でさえ思わず目を逸らしてしまう生々しさがあった。
まだ始まったばかりであるにも関わらずこの有様なので、レミリアが喝を入れる。
「親指一本くらいで喚かない! 泣いちゃダメよ、笑うのよ! 涙は流してもいいけど、笑顔だけは絶やしちゃダメッ! 次、人差し指いくわよ! 笑いなさい! さあ!」
剥いだ爪を専用の器に投げ入れる。血の付いた爪が器の中でからんと音を立てて踊って赤い軌跡を刻み、やがて静止した。
そして間髪入れずにペンチを人差し指の爪へ押しやり、同じように爪を剥ぎ取った。
親指の爪が剥がされた時点でずっとミスティアは泣いていたのだが、人差し指の爪が剥がされた瞬間は更に大きな声を上げて泣いた。
「いいわよ、いいわよ! さっきより声が小さく感じるわ! 痛みに慣れている証拠よ!」
レミリアが出鱈目なことを言ってミスティアを鼓舞するが、彼女のエールはミスティアには全く届いていないようで、相変わらずミスティアは気が触れたように泣き喚いている。
人差し指の爪も専用の器に投げ入れて、次は中指。それも器へ入れて、次いで薬指。そして小指……。
両手の爪を剥ぎ取り終えると、今度は足の指に取りかかった。
手とはまた異なった痛みに、ミスティアは終始悶絶し続けた。
咲夜は片方の手が終わった時点で気分的に参ってしまったようで、
「爪を治す時になったら呼んでください」
と言い残して退室してしまっていた。
およそ五分で、全ての爪を剥がし終えた。
たった五分程度の出来事であったが、ミスティアには二十分にも三十分にも感じられる、地獄のような時間であった。
涙と洟で顔面をぐちゃぐちゃに汚したまま、ミスティアは台に突っ伏していた。
泣き叫び疲れたのであろう、はぁはぁと呼吸を荒げており、時折ずずと洟を啜る音も聞こえてくる。涎に塗れた猿轡が台の上に転がっている。
執行人たるレミリアは戸惑っていた。
思いの外、爪を剥ぐのは難しいものなのだな――と。
この時間を短縮するには、とにかく回数をこなしていくしかないと思い、咲夜を呼び寄せた。ミスティアの爪を治して貰う為である。
咲夜がおずおずと部屋へ入って来た。
台に突っ伏すミスティアと、爪の入った容器を交互に見やり、思わず目を逸らしてしまった。
なるべくそれらを見ないようにしながらレミリアの元へ歩み寄り、問うた。
「お嬢様、まだ続けるんですか?」
「当然。まだ二十枚しか手に入っていないわ」
「夜雀は大丈夫なんでしょうか」
「耐えて貰うしかないわ」
そう言うとレミリアは、台で嗚咽を漏らしているミスティアの元へ歩み寄り、ぽんと肩を叩いた。
「休憩はお終いよ。爪を治すから、手を出しなさい」
ミスティアは顔を上げた。そして、爪の無い自身の手を見やる。
「まだ、まだやるんですか……?」
「まだまだよ」
「あとどれくらい……?」
「それは分からない。だから早くあなたも痛みに慣れるの。爪剥ぎくらい、笑顔でピースサインを送れるくらいにならなきゃ、アイドルなんてやっていけないわ」
先の痛みを思い出し、ミスティアはまたも泣き崩れた。
あの痛みの中、他人にピースサインを送れるようになれるとは、どうしても思えなかったのである。
だからミスティアは深々と頭を下げ、言った。
「あの、ごめんなさい。やっぱり無理です。今回の話は、なかったことに……」
今度の契約の破棄を申し出た。契約書には、無理だと思った時に辞められると言う誓約があったからだ。
しかし、レミリアは首を横に振ったのである。
「それはできないわ」
「ど、どうして!? 辞めたい時にやめられるって……」
「まだあなたはアイドルとして始まっていないからよ! つまりまだアイドルじゃないの! だからあの誓約はまだ無効なの! 続けるわよ! 咲夜、爪を成長させなさい!」
あまりにも夜雀が不憫であったが、主の言うことに歯向かう訳にもいかず、咲夜はミスティアの爪の部分の時間を操り、爪を伸ばした。
剥がされる前と何ら変わらぬ爪を見て、ミスティアは狂ったように泣き叫んだ。自身の爪に恐怖しているようであった。
「耐えるの! 耐えるのよミスティア!」
そんなことを言いながら、再びレミリアはペンチをミスティアの手の親指に押し当てた。
絶叫を聞きながら、咲夜はそそくさと部屋を後にした。
一体何度、部屋を出入りしただろうか――咲夜は途中から数えるのを止めてしまったので分からなくなっていた。
横目でちらりと見た、赤みがかった爪の小山が形成されている器を思い出し、思わず身震いした。
そして自身の手をぱっと開いて、指一本一本の爪を凝視する。
この爪を何度も何度も剥がされる痛みを想像し、そのありもしない痛覚をどこかへ飛ばしてしまおうと、思わず手をぷるぷると振ってしまっていた。
傍にあるソファに腰を降ろし、パチュリーの録音の魔法とやらの進行具合なんかを気にかけていると、
「咲夜ー」
レミリアが愉快な声を発しながら扉を開け、ひょっこりと顔を出してきた。
もう爪の修復の時間かと、咲夜は心の中で大きなため息をつき、部屋へ赴く。
入室早々、咲夜は思わず立ち止まってしまった。
夜雀の爪を剥ぐ作業だけが淡々と、川の流れで回る水車みたいに機械的に行われているだけであった筈の部屋に、大きな変化が生じていたから。
暴虐による絶叫。尾を引く激痛に伴う苦悶と嗚咽。これらこそ、この部屋を構成していた数少ない要素であった。
そこに新たに加わった――或いは、それらを糧にして生まれ育ったと言えるであろうか――新しい要素。
笑いだ。なんと夜雀が笑っているのだ。
顔は相変わらず、涙やら洟やら汗やらで汚れてはいる。しかし、口元が緩んでいる。
嗚咽と嗚咽の合間に「えへへ」と言う声も聞いて取れる。
指先からだらだらと血を流し、腕を固定されてろくに動けぬ状態のまま、ミスティアは笑っているのだ。
狂気しかなかった。これほど人を不安にさせる笑声はなかなかないだろう。
爪を剥がされて、恐怖や痛みに泣き、叫び、死んだようにぐったりしていた時の方がよっぽどまともであるように感じられた。
鳥肌を立たせたままその場に佇む咲夜の背後で、レミリアが自慢げに語り始めた。
「さっきからあの調子よ。あの子は遂にアイドルの卵となったのよ」
「……気が狂ったとしか思えないのですが」
「そうかもね。でも、目的は達成されたわ」
上機嫌なレミリアが咲夜を追い越し、ミスティアの元へ駆け寄る。それから咲夜を手招きし、爪の修復を促す。
引きつった笑顔を浮かべるミスティアの所へ、咲夜も歩み寄る。そしてこれまで通り、時間を操って爪を元に戻してやる。
治った爪にレミリアがペンチを当てても、ミスティアは抵抗することも、目を逸らすこともなく、じぃーっとペンチと爪を見やっている。
咲夜は事が始まる前に退室しようと思ったのだが、
「待ちなさい咲夜」
レミリアにと呼び止められた。
「何でしょう?」
咲夜は振り返って言う。
この部屋にいても、彼女にとっていいことなど何一つない。凄惨な光景を目の当たりにする前に部屋を出たいと言うのが本心であった。
レミリアはそんな咲夜の心情に気付いているのであろうが、彼女らは主従の関係。従者の気分を気に留めてやる必要はない。
「ミスティア、特訓の成果を見せてあげましょう」
放たれた主の一言を、咲夜は何となく予想していた。
見たくないのが本心だが、ここはやはり見ねばならないのだろうと、咲夜は退室を諦めた。
ミスティアも乗り気であるようで、こくこくと頷いて見せた。
そのやる気に、レミリアもご満悦の様子だ。
ペンチがミスティアの親指の爪を摘まんだ。
初め見た光景を思い出し、早速咲夜は少し体調に異変を来していたが、ぐっと堪えた。
行為は唐突だった。掛け声や音頭はなかった。あまりにも突然に、レミリアはミスティアの爪を引き剥がしてしまった。
その不意打ちぶりは咲夜を驚かせた程だ。見る者の心の準備と言う配慮はレミリアにはなかったらしい。
ミスティアは、叫ばない。
「んぅぅっ」と小さく呻き、ぼろぼろと涙を零しながら、引きつった笑みを浮かべるのである。
痛いのだろう。痛くない筈がない。だが、笑っている。泣きながら笑っている。
そんな調子で、大した音も無いまま、あまりにもあっさりと十枚の爪が台の上に転がされた。
ミスティアの頑張りを褒めてやるべきなのか。それとも、こんな狂気を目の当たりにし、人としてたじろぐべきなのか――咲夜はどうすればいいのか分からず、ただ満足げに笑う二人を見やっていた。
爪があった場所を、レミリアがつんつんとつつくと、ミスティアは「きゃっ」と可愛らしい小さな悲鳴を上げた。
「ミスティアー? 痛かったー?」
レミリアが幼子をあやすみたいな声で問うと、
「い、痛かったぁ」
と震える声で返事が返ってきた。
ついでと言った感じに、足の爪も剥がしに入った。
悲鳴と嬌声が見事に混ざりあった声を上げるミスティアの傍で、レミリアが呟く。
「しかし、やればできるもんよねえ。まさかこんなに早く慣れてくれるなんて」
「本当ですね。……ところでお嬢様」
「なぁに?」
「これ、本当にウケるんでしょうか?」
「わざわざこんなねちっこいことは、人前ではやらないわ。本番はもっと派手に血飛沫を飛ばすんだから」
「派手に血飛沫を飛ばすのはウケる、と?」
「勿論。みんながやりたくてもできないことをやってみせるんだから。あなたは人妖を殺し慣れてて何も感じないんでしょうけど」
「本当でしょうか……」
「バッタをカマキリと戦わせたり、蜘蛛の巣に虫を引っ掛けたり……それの延長線上みたいなものよ。つまらない筈がないわ。はい、足も終わりっと」
足の爪剥ぎも雑談の間に終わってしまった。
爪をそれぞれ対応した容器に放り込む。
爪の小山を見やったレミリアは、こんなもんかな、と呟いて、ミスティアの拘束を解いてやった。
そして咲夜に爪を修復させ、次いでぱちぱちと小さな拍手を送る。
「お疲れ様ミスティア。初仕事はこれで完了よ」
「おしごと……おしまい?」
「そうそう。さあ、お部屋に帰って曲作りをしていなさい」
はーい、と間延びした返事をし、ずずと洟を啜り、涙を拭い、よろよろとした足取りでミスティアは自室へ戻って行った。
大量の爪が入った容器を見て、レミリアはうむむと考えた。
「爪に血は付いたままの方がいいかしら。それとも洗って綺麗にするべきかしら……」
*
『幻想郷に新風が巻き起こる時が訪れる』
レミリアから何とも興味深い話を聞かされてから一週間後、射命丸文は再び紅魔館を訪れた。
以前来た時にあった珍妙な飾りは全て取っ払われ、殺風景な門前が帰って来ていた。
門番は事前に文の来訪の話を聞いていたらしく、大したやりとりもなく、すんなりと館内へと文を通した。
エントランスホールで彼女を待ち構えていたのは、レミリアと咲夜――いつも通りの顔ぶれであった。
「どうもこんにちは、レミリアさん、咲夜さん」
「ようこそ鴉天狗」
簡単な挨拶を交わした後、早速仕事の話となった。
「今日は写真を写せばいいんですね?」
「そうそう。CDジャケットってのとか」
「はあ」
聞き慣れない単語に、文は生返事を返した。
三人は写真撮影の会場となる場所へ向かって歩き出した。先頭に咲夜、その後ろに文が付き、最後にレミリアと言う順番で歩み出す。
文はてっきり屋外かと思い込んでいたのだが、二人が歩む方向からして館外へ出る様子はない。
バルコニーか。それとも思い切りめかし込んで、西洋的な雰囲気の写真を撮るのか――?
あれこれ想定してみていた文であったが、彼女の予想はまたも外れた。
先導する咲夜は無骨な鉄格子の扉を開き、地下室へ向かい出したのだ。
洒落たシャンデリアも、ふかふかの絨毯も、高級そうな絵画も、上質なカーテンもいつの間にかなくなってしまっていた。
三人が歩む階段はと言えば、草臥れた裸電球に、冷たい石質の床と壁。窓なんてものはないから、カーテンなど存在する筈がない。
四六時中薄暗くて気味の悪い雰囲気が漂う館であるのに、それが段々強くなってきている。
「あの、こんな所で撮影するんですか?」
堪らず文が問うと、レミリアが背後から問いに答えた。
「そうよ。もう少しで着くわよ」
「も、もしや妹さんの撮影ですか?」
気が狂っていると噂の吸血鬼の妹を相手にするのは、いくら何でも少々勇気がいるので、つい身構えてしまったが、
「違うわよ。被写体は夜雀。ミスティア・ローレライ」
これまた否定されてしまった。おまけに被写体は見知った妖怪だと言うではないか。
さっきから考えていることが何から何まで外れてしまい、文は少し調子が狂ってしまったようだ。
うーんと唸りながら難しい顔をして、
「ちょっと変わったコンセプトの写真なんですねぇ」
こんなことを呟いた。
「そうかもね」
レミリアは笑みを交えて答えた。
「そうですわね」
咲夜は少し強張った表情で呟いたが、前を向く彼女の表情は誰に見られることもなかった。
その後は口数も少ないまま歩き続けて、間もなく階段を降り切った。そして最寄りの鉄の扉を開ける。ぎぃぎぃと耳障りな金属音が三人の耳を劈く。
扉の錆び具合から、この扉が長年放置され続けていたことが窺える。扉を押した咲夜の手にも僅かに錆がくっ付いた程だ。
扉の向こうの部屋の中は妙に明るかった。ごうんごうんと言う低い音も聞こえてくる。
上階よりも地下室の方が明るく賑やかとは一体どういう了見だ――なんて考えていた文の頭の中は、次の瞬間目に飛び込んできた光景で真っ白に塗りつぶされた。
被写体が、夜雀がいた。
磔にされ、両方の掌に太い鉄の杭を打ち込まれている。ぼろ布のような衣服の合間から覗く体には幾つもの切創が刻まれている。
左腿にはきっと本来は観賞用であろう、三本のお洒落な銀色のナイフが刺してある。右脚はと言うと、膝から下が無い。切り離された残りの部分は端に除けてある。
光の宿っていない瞳は伏し目がちで、ぽかんと開けられた口からだらしなくべろりと出されている舌の先からは、血と涎が混じった液体が生々しく糸を引きながら地面へ落ちていっている。
文は呆然と、被写体である少女――ミスティア・ローレライを見やっていた。
一体何が起きているのか、何が起ころうとしているのか全く理解できなかった。
しかし同時に、この行為の真意を問うことに恐怖を感じた。聞いてはならないような気がした。だから黙って見つめるしかなかったのだ。
本当に、この吸血鬼は一体何を考えているんだ――? 嘲りの含まれた苦笑が漏れそうになったが、必死で堪えた。この場に笑みなど、あってはならないものだと、本能が察している。
――これは何かの間違いだろう。
自身の中ではそう解決しようとしたが、今日の彼女の勘は尽く外れてしまう。
「なかなかお洒落でしょう? 私がやったの。風情ある残虐性を目指したのだけど、風情あるかしら?」
何も間違いではなかった。レミリアは撮影の為に夜雀をこんな目に遭わせたのだ。
おまけにレミリアの態度がいつもと何一つ変わらないものであったから、余計に文は困惑した。
いつも通り振る舞って大丈夫なのだろうか――この不安はそう簡単に払拭できるものではない。
「あの、レミリアさん。これは一体?」
「アイドルのCDジャケット。それから初回特典用ポストカードの写真」
「アイドル? これが?」
「そう。斬新でしょ?」
したり顔のレミリア。
文は全く理解できない、と言った風な表情で、もう一度ミスティアを見つめる。
その時、僅かに顔を上げたミスティアと目が合った。
ミスティアは、文に笑って見せた。
全身の痛みに耐えながら見せるその笑顔は、狂気的であり、しかし生物の持つ劣情を擽る、異様な笑顔であった。
それに、死に際にこんな笑顔を見せてくれる少女は、幻想郷は愚か、外界を探しても恐らくいないだろう。
これこそ、まさに非現実。まさにアイドル。“偶像”を名乗るに相応しい化粧を施された少女が、文の目の前で磔にされている。
恐怖する時の心臓の鼓動と、恋に落ちた時の心臓の鼓動は同質の物と言われる。
文の心臓は、磔にされたミスティアを見た瞬間から、ずっとやかましく暴れ回り始めていた。
そして今も変わらず暴れ回っている。
同じ心音だ。しかし、質が、心の持ちようが違う。
恐怖が消えていたのだ。そこへ芽生えた新しい感覚――文は完全にミスティアの、そしてレミリアの虜になっていた。
光を失った黒き瞳が。滴り落ちる紅の滴が。腿で輝く銀の刃が。妄想の余地を築く煤色の衣が。何もかもが愛おしく思え始めていた。
「この子を、撮ればいいんですね?」
文は惚けた顔でカメラを構える。
思いの外驚いた様子が見受けられなかったことに、咲夜は驚きを隠しきれない様子だ。
そして当然と言うべきであろうか、レミリアはそんなこと一切気にしない。早期にいい返事をしてくれたことが嬉しいらしく、にっこり微笑んで頷いた。
「そうそう。かわいく撮ってあげてね」
「合点承知いたしました……ッ!」
どこか興奮した口調で文が返事をした。
*
人里の一角がてんやわんやの大騒ぎになっている。
それもその筈、山から舞い降りた(いろんな意味で)恐ろしい鴉天狗――射命丸文が、見慣れぬ物品をそれはそれは大量に持ってやって来たからだ。
文の持って来た物は、言うまでもなくCDだ。
新生アイドルのミスティア・ローレライが、文字通り体を張り、死ぬほどの苦労をしてジャケットを撮影して出来たCDが、遂に完成したのだ。
勿論、プレーヤーに入れることで音楽を楽しむことができる。ディスクそのものは河童に頼んで大量生産の機械を即興で作り上げてしまった。
その機会はまだまだ改善の余地が残っている。これから更にディスク生産の効率は上昇していくことだろう。
中には二曲ほど音楽が録音されている。パチュリーの録音の魔法も大成功であった。
実は録音に際し、「演奏はどうするんだ」と言う問題が浮上したが、これまたパチュリーが魔法で解決してしまった。メカニズムは全く不明だが、魔法で様々な楽器の音を再現し、演奏をしたらしい。
これによる作曲が面白くてたまらないらしく、パチュリーは連日のように頼んでもいないのに作曲を楽しんでいる。
紅魔館の事情の変化はさておき、人間達はこの謎の売り物に興味津津である。
何せ半裸で血塗れの少女の写真が前面を飾っているのだ。おまけにこの妖怪は割と人間達と触れあう機会の多い妖怪であった。
鰻屋台の経営をしていたことで、それなりの知名度を築いていたのだ。
そこのかわいい女将さんがどうしてこんな目に遭っているのかはさておき、そこには確かな魅力があった。
非力な人間達ではなかなか見ることは叶わない瀕死の妖怪の姿。
おまけに、暴力沙汰や殺し合いで出鱈目に傷ついた体とは違う。魅力ある傷、人の嗜虐心を的確に擽る傷――とでも言うのだろうか。
そう言ったものに興味がない者、若しくはそれを苦手とする者、それに子どもなんかはそそくさとその場を離れていく。
残った者達は、確実にこの製品に心を奪われていた。
CDプレーヤーなど、幻想郷ではまだ珍品だ。誰でも持っている訳ではない……と言うより、持っている者の方が稀であろう。
しかし、CDジャケットだけでも、十分すぎるほど買う価値があった。
瀕死のかわいい妖怪の写真など、どうすれば手に入れられるものか。
極めつけに、CDに同封されている大量の特典――これまた残った顧客達の心を動かす。
「あ、あのぅ」
ざわつく群衆の中から野太い声。太った男性客が手を上げている。質問があるらしかった。
「何でしょう?」
文は得意の営業スマイルを浮かべて質疑に応答する。
「特典の写真と言うのは、その、この表紙の写真のようなもの?」
「勿論です。磔、奴隷、屠殺、通り魔、首吊りの五種があり、一種につき三パターン、総計十五枚。その内の一枚がランダムで封入となっておりまァす」
明るい笑顔と明るい口調で文が説明すると、男性客は「そうですか」と一言呟き、次いで自身の財布を見、更に値札を見た。
そして意を決したように頷くと、CDを十枚手に取った。それを見た群衆は「おお」と感嘆の声を上げる。文も目を丸くしてしまった。
「じゅ、十枚、下さい」
文はしばらく、差し出されたCD十枚をぽかんと眺めていたが、はっと我に帰り、
「あ、ありがとうございまーす!」
金銭とCDを交換した。
男性客は人々を掻き分けて人ごみから離れると、鼻息を荒くしながら人目も憚らずCDを開封し出した。
群衆の目は皆、そちらに向いた。特典の写真が気になって気になって仕方が無いのだ。
ケースを開き、歌詞カードを開くと、男性客が突然甲高い叫び声を上げた。どうやら特典の写真が入っていたらしい。
「こ、これは、これは通り魔版っ!?」
などと独りでぶつぶつ呟いている。鼻息は一層荒くなり、汗まで流れ出てきている。心なしか、股間にも僅かな膨らみが見られる。
これほどにまで人を興奮させる写真とは如何なるものなのか――群衆は、それはそれは気になった。
「お、おい、俺にも見せろよ」
別の客が駆け寄ったが、男性客はさっと写真を懐に隠してしまった。
「これは僕が金を払って買った物だ、見せてやるものか!」
そう言うと男性客は買ったCDを全部持って、駆け足で帰宅してしまった。他の写真が気になって仕方が無いのだろう。
こうなってはもう、人々の購買意欲を鎮めることなど到底不可能。暴徒化寸前の人々が次々とCDを買い始めた。
流石に一気に十枚も買う猛者は多くはなかったが、それでも売れ行きは文が想像した以上のものであった。
この日で売り切ることはできなかったが、飛ぶようにCDは売れた。
金を入れる袋は文の想像を遥かに超える重量を得ていた。
中身を見てくらりとした。売れない新聞を売って得る金がゴミのように感じてしまうほどの大金だ。
「早速レミリアさんに報告ですね」
手早く売店を畳むと、文は紅魔館目掛けて飛び立った。
ずっしりと重たい袋を、紅魔館の大きなテーブルに置く文。その顔はどこか誇らしげであった。
想像以上の収穫に、咲夜は労いの紅茶を乗せた盆を持ったまま、目をまん丸くして立ち尽くすばかり。レミリアでさえ言葉にできない感動を覚えているようで、目をキラキラと輝かせている。
「成功するとは思っていたけれど、まさかこれほどだなんて!」
「人間も思いの外、残酷なことが好きなんですね……」
ようやく我に返った咲夜が、文に紅茶を差し出す。
文はそれを一口啜って喉を潤した後、すぐに口を開いた。
「人里だけでこのセールスです。妖怪相手に売り出したら、それはもうとんでもないことになるでしょうね」
「妖怪も人間と同じようにこれに興味を持ってくれるかしら」
あまりに上手くいきすぎていることが、逆にレミリアの不安を煽ったのであろう。
柄にも合わずレミリアは不安を口にしたのだが、
「恐らく大丈夫です」
文は自信あり気に頷いた。
根拠はなかったが、気休め程度にはなったらしく、レミリアは俄かに明るさを取り戻した。
「それじゃ、妖怪達へ売る分も早く作ってしまいましょう。熱の冷めない内に新商品も売り出さなくちゃ。パチェの新曲の調子を見てくるわ」
そう言ってレミリアはパチュリーの元へ去って行った。
「私は何をすればいいのかしら」
いまいち活躍の場を見出すことができない咲夜がぽつんと呟くと、文が飲み終えた紅茶のカップを咲夜に差し出し、
「では、次の特典となる写真のアイデアを出してみるとかどうです?」
こう付け加えた。
カップを受け取り、盆に載せ、それから「はぁ」と生返事。
「どうせ暇ですし、やってみようかしら」
そう言い残し、咲夜はぱっと姿を消してしまった。
文も宣伝活動なんかをやりに、すぐさま紅魔館を後にした。
*
文の憶測通り、妖怪相手にもCDは爆発的なセールスを記録した。
ただ可愛く歌って踊るだけのアイドルであったならば、こんな売上は記録できなかったことだろう。
幻想郷では常識に囚われてはいけない――この言葉が示す通り、常識外れのアイドルであるからこそ、幻想郷で一世を風靡できたのだ。
熱が冷めない内にと言うレミリアの意向に沿って、すぐに次なるCDが発売された。
今度のは特典として写真の他に、いつかミスティアが泣き喚きながら剥がされ続けた爪が同封された。
当初の予定を少し変えて、十枚集めると握手会でミスティアの腹を殴れる、と言う特典が付くと、人間を中心にやはり売れに売れた。
可愛い子に合法的に酷いことができるのだから、売れない筈がなかったのだ。
握手会当日。
会場となった魔法の森の入口には長蛇の列。人妖問わず、いろんな種族が仲良く列を作っている。
そしてほとんどの者が、手や、衣服のポケットなんかに、特典である爪を十枚持ってやってきている。
長い長い列を見て、ミスティアの心臓はどきどきと高鳴った。
一体今日、自分は何発お腹を殴られてしまうんだろう――? 思わずお腹を摩ってしまった。
腹を打たれるなど未経験のことだが、不思議と恐怖はなかった。
いつしか痛みを痛みとして認識しなくなっていた。誰かの為に傷つくことに、全く躊躇いを感じなくなっていた。頭がおかしくなったと言っても過言ではないだろう。
あれこれ考えている間に、イベント開始の時間となった。
列の先頭に並んでいたのは妖精であった。種族ぐるみで盗みを働いてお金を貯め、仲間で十枚のCDを買い、仲間を代表してやってきたらしい。
「がんばってね!」と可愛らしい声援を送り、握手をした後、したり顔で爪を十枚、ミスティアの隣にいる文に見せる。
ミスティアは横目でその爪を見やる。爪を無理矢理剥がされて泣いていたのはそんなに昔の話ではないが、遠く前のことのように感じられた。
「はい、爪十枚。どうぞどうぞ」
爪と引き換えに腹への殴打の権利を与えられ、妖精は大はしゃぎし、ミスティアの前に立つ。
そして、自身の出せる最大の力を発揮し、ミスティアの腹へ殴打を繰り出した。
渾身の一撃。しかし、所詮は妖精。それにまだ一発目だ。痛くないと言えば嘘になるが、ミスティアでも何ら問題なく耐えることができた。
「ありがとうございました。これからも応援よろしくお願いします」
ちょっと苦しげな笑顔を浮かべ、腹を摩りながら、ミスティアが囁く。
幻想郷で名を轟かせているアイドルのお腹を殴ることができた妖精は、大喜びで帰って行った。
こんな調子で、一人、また一人と、ミスティアの腹部へ拳を減り込ませていく。
回数を重ねるに連れてミスティアの耐久性も甘くなり、一撃で加えられる痛みが増す。蓄積してきた痛みも相まって、痛みはどんどん加速していく。
腹筋はすっかり弛緩してしまい、もう耐えることさえ困難になりつつある。
人間客が多い、と言うのが不幸中の幸いであった。妖怪より人間は非力な場合がほとんどだからである。
そう、ほとんど。例外も存在する。そしてその例外は、よりによって中盤以降に現れた。
末端へ向かうに連れて淡い紫色のグラデーションが目に美しい金色の長い髪を靡かせて現れた、少しおかしな人間。
一歩歩くと豊かな胸がぷるんと揺れる。その姿は、ミスティア目当てでやってきた人間の視線をも釘付けにしてしまっている。
本人はそんな視線に気付いていない。だが、御供している毘沙門天の代理をやっている妖怪は視線に気付いているようであるが、しかしどうして注目されているのかを理解できてはいない。
「こんにちは」
おかしな人間――聖白蓮が微笑みを湛えて挨拶をする。次いで、御供である寅丸星も挨拶をした。
文はこの来客に目を見開いて驚き、少しばかり警戒を始めた。
白蓮は平等とか、妖怪にも人間にも優しくとか、そういう点で非常にうるさい。
もしやこの常識外れの商売に文句を言いに来たのではないか――文はそんな警戒をしたのだ。
先に星が握手を行った。彼女は十枚もCDを買うことはなく、握手しに来ただけらしい。
「これからも素晴らしい楽曲を期待しています」
ミスティアのファンには本当に稀である、楽曲のファンであるらしかった。本日の握手会で初である。
アイドルとは本来、こう言ったファンを獲得するべき職業である筈なのに、いざまともなファンが現れると、ミスティアはなんだか拍子抜けしてしまった。
お次は白蓮の番である。ミスティアの前に、相変わらずにこにこと微笑んだまま立ちはだかる白蓮。
まず普通に握手をした。変な真似を起こさないよう、文はじっと睨みを利かせている。
握手を終えると、白蓮は星から小さな包みを受け取った。それを開くと――中にはなんと、爪が十枚。彼女も“腹パン”の権利を得ていたのだ。
これにはさすがの文も唖然としてしまった。まさかあの白蓮までもが腹を殴りに来るとは、あまりにも予想外であった。
「粉骨砕身、ご自分のファンの為にその身を捧げる健気な姿、奉仕の心。感動致しましたわ」
「はあ」
「つきましては、私もその活動の担い手となりたいと願いまして、微力ながら、CDを十枚ほど……」
「ありがとうございます。えっと、それじゃあ、腹パンですね?」
難しい言葉で褒めちぎられ、調子の狂ったミスティアは、早々に話を切り上げて殴打へ移行する。
人間の女性客は非常に少なく、初めて体験するタイプの相手であったが、散々男性客の拳を受けてきたのだから大丈夫だろうと、ミスティアは高を括っていた。
しかし、彼女は無知であった。白蓮は遥か昔、魔界に封印された偉大な魔法使いで、その魔法で自身の身体能力を向上させることができる。このことを知らなかったのだ。
やるなら全力で――そう思った白蓮は、勿論魔法で自身の腕力を大きく向上させ始めた。
足元や空中に摩訶不思議な魔法陣が表れ、青白い光線や光球を発し、それらが白蓮を包み込む。星は不安げにその様子を眺めている。
やがて白蓮は、不思議な青白いオーラに包まれた状態になった。
身長は伸び、腕どころか様々な箇所の筋肉が状況されている。豊かで柔らかだった乳は、今や屈強な胸筋でしかない。
「お待たせしました。さあ、始めますよ」
それでも笑顔の白蓮。ぐっと握り拳を作る手は、握手した時の二倍くらいにまで大きくなっている。
思わずミスティアもたじろいだ。人間の女性だと思って侮っていた客が、今日相手にしたどんな客よりも大きく、強そうになってしまったのだから。
しかし、逃げる訳にはいかない。すっかり弛緩してしまった腹筋に、今加えられる最高の力を込め、
「どうぞっ」
こう言い放つ。
白蓮は笑顔のまま、手をばきばきと鳴らし、次いで腕をぐるぐると回転させる。
「では、遠慮なく」
そう言った次の瞬間、まるで丸太でもぶつけられたかのような衝撃がミスティアの腹へ加えられた。
みしみしと軋む骨。皮膚も肉も腹筋もまるで無いもののように扱って内臓を捉えてきた改造人間白蓮の手。
視界が白黒になり、明るくなり、暗くなる。客の成す雑踏が一瞬消え失せた。
昼食に食べたミートソーススパゲティの未消化分が一気に胃から口へとせり上がって来た。
立っていることなど不可能だった。前のめりに倒れ、鼻で精一杯呼吸をし、口いっぱいの吐瀉物の外界への進出を妨害するのに精一杯であった。
「まあ、ちょっと強すぎました?」
言った頃には魔法の効力は解けて、白蓮は普通の人間の女性らしい姿に戻っていた。
「とんでもございません! きっと今日では最高にナイスなパンチでしたよ!」
文がそんな風に白蓮を褒め称えた。
後ろに控えている客人のことも知らずに。
「へぇー? 人間の拳が最高だなんて、聞き捨てならんなぁ」
次の客だと悟るや否や、ミスティアは吐瀉物を死に物狂いで飲み込み、よろよろと立ち上がり、どうにか笑って見せた。「こんにちは」と言う言葉を添えて。
一方、文は客人の声に聞き覚えがあり、同時にさぁーっと顔を青くした。
一応逃走路の確保をと、周囲をきょろきょろと見回してみたが、
「何どもってるんだよ、天狗」
現れた客人――地底に住まう鬼である星熊勇儀に声を掛けられ、びくりと硬直してしまった。
「ど、どうも、勇儀さん……地底から遥々ようこそ……」
鬼は、天狗や河童と言った、地上で大きな顔をしている古参の妖怪の上司に当たる様な存在である。文でさえ頭が上がらない。
その証拠に、勇儀が現れるや否や、文はすっかり委縮してしまった。先ほどまでの狡猾そうな姿が嘘のようだ。
ミスティアでも鬼の恐ろしさはそれとなく分かっている。彼女の経営していた鰻屋台にも、時々小鬼がふらりと姿を現し、浴びるように酒を飲み、山ほどの鰻を食って帰っていったことがある。
そうでなくても、普通に暮らしていれば鬼の恐ろしさなら聞くことがあるし、また、恐ろしい物の象徴として鬼はしばしば現れる。
地位とかそういうものを介さずとも、鬼が恐ろしい、と言うのは万人の共通の認識だ。
列に並んでいた人たちはさぞや恐ろしかったことであろう。
しかし、列を乱したり横入りすることなく、律義に並んでいた所が、鬼の妙な生真面目さを表していると言える。
しどろもどろしている文にはそれ以上関わらず、勇儀が大きな大きな手をずいとミスティアに差し出した。
「こんにちは、夜雀さん。おー、怪我してない姿も可愛いねえ」
「あ、ありがとうございます」
「音楽の方はやかましいばっかりで、ちょっと私にゃよく分からなかったけど、まあこれからもがんばっておくれ」
それから二人は握手を交わした。大きくごつごつとした勇儀の手と、小さなミスティアの手が交わる。手の大きさからも見れる通り、二人の体格差は凄まじい。
特にミスティアはついさっき、自身の肉体を大幅に強化した白蓮を相手にしたばかりだから、余計に彼女の凄さを感じられやすい。
魔法だなんて細工をしていないにも関わらずこの威圧感――今日初めて、ミスティアが不安を覚えた瞬間だった。
握手が終わり、「さて」とぼやいて一呼吸付いた後、勇儀がスカートのポケットに手を突っ込んだ。
ミスティアの不安が現実となることを、その動作が表している。
勇儀の手中に収められた十枚の爪。勇儀の大きな手の中では、爪はひどく小さく見えた。
「腹を殴らせてもらえるんだろ?」
にっこりと、爽やかな笑顔を浮かべる勇儀。しかし、当のミスティアはさすがに恐怖に慄いていた。
文も同じだ。鬼なんて規格外の力を持つ者に殴られてもミスティアが無事だなんて補償はどこにもない。
そう言うことを考慮し、彼女は地底へのセールスは断念していた。それなのに勇儀は爪を持って来た。
「あの、勇儀さん。その爪、どこで……」
「古明地の妹さんが『地上で珍しいものを売っていた』と言って、一枚ちょろまかして来ててね。特典についての紙が同封されてたから、もう九枚買いに行ってもらった」
「う、うそ……だって、そんな人影見た覚えがありませんよ」
「無意識を操れるんだから、知らない間に商品と金銭を交換なんて簡単なことだろ」
「と言うか、一つは盗品なんですか!?」
「そういうことになるね。でも安心しな。その分の金はちゃんと持って来た」
そう言って、反対側のポケットから金銭を差し出した。文は拒絶する訳にもいかず、おろおろとそれを受け取る。
「これで文句はないね? 思う存分殴らせてもらうよ」
「い、一発ですよ? あと、その、こ、殺してあげないでくださいね?」
「分かってるよ、それくらい」
けらけらと笑う勇儀であったが、文に冗談の気は一切無い。それくらい、鬼とは恐ろしい力を持っているのだ。
ミスティアの前に立った勇儀が、室内に居残っていた白蓮を横目でちらりと見やる。
そして、ぴっと人差し指を白蓮に向かって指した。
「よく見てろよ人間。ホンモノの力ってのをさ」
「……ええ」
白蓮は微笑み、静かに応えた。
文は裏方で待機している医療班にすぐに行動できるようにと告げ、次いで勇儀の一撃を固唾を飲んで見守る。
勇儀も白蓮と同じように、手を鳴らし、腕を回し、深呼吸をし……少しばかり目を閉じて精神を集中させた後、よしと呟き、目を開いた。
いよいよ鬼の一撃が放たれる――その場にいた誰もがそう思った。
ぐっと握り拳を作り、殴打の体勢に入ると、勇儀はにんまり笑って、
「ねえ、夜雀。洋服を捲って見せておくれよ」
こんなことを言った。
勇儀からの一撃に備えて心の準備を整えていたミスティアだったが、おかしな要望ですっかり調子が狂ってしまった。
しかし、『ファンサービスは重要』と言うレミリアからの教えを守り、衣装をぺろんと捲って、散々殴られてきた腹を見せる。
腹部は内出血で真っ青に変色していた。日焼けを知らない白い肌に浮かび上がる青痣。
その痛ましい光景に、居合わせた誰もが目を見張る。ミスティア自身、まさかこんなことになっているとは思っていなかったような驚きようだ。
しかし、彼女のファンとしては、こんな光景でさえご褒美であるのだろう。
「可哀想になあ。こんなになっちゃって」
「い、いえ……愛されてる証拠ですから」
「ほほう、言うねえ。……それじゃ、私も愛を込めてこの一撃を送ることにしよう。準備はいいね?」
「はいっ」
上ずった声でミスティアが答える。そして、一瞬の間を置き、怪力乱神を操る能力を持つ勇儀の拳が、ミスティアの腹を打った。
果たして、その瞬間轟いた音を耳にした者の何名が『殴打の音だ』と気付けるであろうか?
ドンと言う重低音は、重火器でも放ったか、重機械でも駆動させたのか、鈍器でも振るったのか――肉と肉がぶつかり合った音だとは到底思えぬものであった。
加減はした。鬼は正直者だ。加減はしたのだ。ただし、鬼はあまりにも強すぎた。
命中した点の周辺にあった骨と言う骨は軒並み白旗を上げ、暴風に弄ばれた樹木の枝のようにぽきぽきと折れてしまった。
万全の状態からは程遠い状態であった腹の筋力が鬼の拳を受けることができるなど、考えることが烏滸がましい。盾になどなれる筈がなかった。
腹を貫かんばかりの一撃は腹の深部にある臓器を直に殴ったかのような衝撃を齎した。臓器の変形を、ミスティアはその身で、ほんの一瞬だけ感じ取っていた。ほんの一瞬。
何せその次の瞬間には、ミスティアは想像を絶する痛みで気を失ってしまったのだから。
お腹を抑えて前のめりになり、しばらくじっとしていたのだが、その時点で視界は真っ白であった。
程無くして口からぼたぼたと吐瀉物が流れ出し、次いで前方へどさりと倒れ込み、自身の吐瀉物の海へ身を沈めた。
ぎんと目を見開き、ヒューヒューと荒い呼吸を繰り返したまま、びくん、びくんと体を痙攣させ、起き上がる気配すら見せない。終いには尿まで垂れ流した。
場は騒然となり、イベントは無論中止となった。
残りの列の者達には後日個別に対応すると文は約束し、すぐにミスティアを竹林の奥深くにある治療院へと搬送した。
事故から一週間程経過した日。
「ふーん。そんなことがあったの……ちょっと信頼失っちゃった感じ?」
イベントで起こった事故の詳細を、いつもの撮影場たる地下室に向かう階段を降りながら聞いたレミリアは、別段深刻そうな素振りもなく応える。
「個別に対応するとは約束しましたけど」
文はおずおずと自身のとった行動を報告した。
現場の監督を一任されていたので、今回の失態の責任は大きいかと内心ビクついていたのだが、
「それなら平気ね。さ、気を取り直して、仕事よ仕事」
レミリアは特に気にしている様子はなさそうであり、文は心底ほっとしていた。
名誉挽回の為に、次なるCDの特典に付随させる写真はとびきり良質なものに仕上げて見せようと意気込む。
すっかり通い慣れた地下室の扉を開けてみると、被写体たるミスティアと、先に写真撮影の準備をしていたパチュリーと咲夜がいた。
「どうもこんにちはー」
文が声を掛けると、半裸のミスティアに有刺鉄線をぐるぐると巻き付けていた先人二人がそちらを向く。
「こんにちは」
咲夜は挨拶を返したが、パチュリーは会釈だけと言う薄い反応を見せてから、すぐに撮影準備の作業に戻った。
所々錆ついている有刺鉄線は、ミスティアの左肩から胸元を経て、右の脇の下を通る。
そして背中を横断した後、左の脇腹辺りから体表へ戻り、臍を横切り、臀部でぷつんと途切れている。
胸元の棘を、パチュリーがぐっと押し込む。痺れるような痛みにミスティアが一瞬ぴくりと体を震わせた。
棘が刺さった胸元からたらりと血が滴る。
「いい演出ね」
レミリアが微笑む。パチュリーも薄く笑んで返した。
「右腕はぐるぐる巻きにして全部刺してしまいます?」
「それがいいわね。でも巻き過ぎないようにね。あんまり綺麗な有刺鉄線じゃないから」
「畏まりました」
「薔薇の花びらでも撒いておくと病的な雰囲気が出るんじゃないかしら」
「ちょっとお洒落すぎやしない?」
「頭に包帯を巻いて片目を隠してしまうとか」
「それは名案ですわね」
「うーん。露出が多すぎたかしら」
「今更着替えられませんよぅ」
「リストカットの跡とかどうです?」
「それは別のコンセプトに使うから今はダメね」
*
精力的な活動が功を奏し、『CDを出せば売れる』状態となって、今や一部の人間に信仰とも言える人気を獲得したミスティア。
レミリアの予想を大きく上回る速度での躍進であった。
そして、彼女は次なるステップに踏み出そうとしている。
アイドルが行わなくてはいけない、ファンとの交流イベントの真骨頂――コンサートだ。
無論、このコンサートもただ歌って踊るだけに済ますつもりは、レミリアは到底なかった。
彼女はリョナグロモツドバ系なのだ。コンサートでこそ、彼女の一風変わったコンセプトを発揮しなくてはいけない。
今まではそのコンセプトを発揮するシーンは、猟奇的な写真や、握手会での軽い暴行で済ませてきた。
そう言った成分を吸収していくに連れ、ファン達は更に良質な、更に凄惨な物を求めてくる。当然のことだ。
そして、それを遂に実現させる時が訪れた。ファン達が日夜、特典の写真を見て頭の中に思い描いている下賤な妄想を形にする時が訪れたのである。
大好きなアイドルがこっ酷く傷付けられるのだ。リアルタイムで。目の前で。
猟奇的な写真を見るだけで鼻息を荒げて、夜な夜な――人によっては朝でも昼でも――自慰行為に耽っているような奴らの目の前で、血飛沫を飛ばし、臓物をひり出し、四肢をぶっ飛ばす。
「手足を使わずに射精させる、なんてのも夢じゃないわね」
レミリアは不敵に笑ってこんなことを言った。
会場は紅魔館の前に指定した。
地底の鬼達に頼みこんで、解体、組立が可能がステージがあれよあれよという間に完成した。
そこで、本番の流れなんかをレミリアが説明するのだが、これがまた酷く大雑把であるし、ミスティアの記憶能力の悪さも相まって、傍から見ている文は俄かに不安を感じてしまう程であり、
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
思わずレミリアに問うてしまった程だ。
文の心配など、レミリアはどこ吹く風と言った感じに受け取った。
「どうせ歌目当てでくる輩なんてそういないわよ。要は演出、パフォーマンスさえ成功すればこっちのもの。ミスティアに必要なのはそれへの心構えよ」
「はあ……」
レミリアがそう言うので文もそれ以上言及しなかったが、不安は払しょくできなかった。
「いい? こっ酷い目に遭っても、あんたは笑うのよ! 泣いてもいいわ、でも笑うの!」
「は、はいっ」
「うーん……一回予行練習しておいた方がいいかしらね?」
「それじゃあ、一応」
「分かったわ。ちょっと! 誰か鉈か何か持ってない?」
凄惨たる予行練習を重ね、遂に初のコンサートの日が訪れた。
ステージの裏で、ミスティアは緊張でがちがちに固まっていた。文がいろんな言葉を掛けて緊張を解そうとしているが、大した成果は上がっていない。
レミリアはちらりと、客席を見た。
種族を問わず、実に沢山の客が集まっている。思わず身震いしてしまった。
「こりゃまた沢山集まったわね」
弾む心を抑え切れない様子のレミリアが、弾んだ声で言う。
文はチケット販売の段階で、この盛況を予見していたのだが、それでも実際に集まった所を見てみると圧巻であった。
「いいこと、ミスティア。今回は失敗は許されないわ」
「分かってます」
「大丈夫大丈夫。あれほど予行練習したもの。きっと今のあなたなら笑っていられるわ」
「はい……」
「さあ、行ってきなさい」
レミリアがぽんとミスティアの背中を押し、その勢いを殺すことなく、ミスティアがステージへと駆けて行った。
彼女が姿を現した瞬間、客席は鼎が湧くような狂騒に包まれた。
言葉にもなっていない言葉を叫ぶ者、飛び跳ねる者、ステージ上の愛しい夜雀の名前を叫ぶ者――。
各々のの想いを我武者羅にぶちまけて、それらがぐちゃぐちゃに混ざりあい、暴力的な盛況を作り上げている。
あまりの騒がしさに、思わずミスティアはたじろいでしまったが、そうしていては事が進まないので、マイクを使って声を張り上げる。
「みっ、皆さん!」
鶴の一声、と言うべきか。彼女が口を開いた途端、暴徒化寸前であったファン達がぴたりと静まり返った。
誰もがミスティアの次の言葉を待ち侘びている。ぎらぎらと目を輝かせ、口をへの字に曲げてきゅっと紡ぎ、ふぅふぅと鼻で荒い呼吸をしている。
そのあまりの落差に、またもミスティアは驚いてしまい、しばらく間を置いた後、思い出したように、
「こんばんは!」
と一言。ファン達は「こんばんは」と大きな声で返事をする。
その後ミスティアは、いつもありがとうとか、今日は楽しんでいってくださいとか、簡素な挨拶を述べた。
別段大したことは言っていないのだが、ファン達にとってはありがたい言葉であるようで、客席に狂騒が戻って来た。
そんな騒々しさの中、予定通り、初めに歌う曲のイントロが流れ出した。華々しき彼女のデビュー曲である。作詞、作曲はミスティア。演奏はパチュリーの魔法によるものだ。
客の多くは、彼女の流行の起爆剤となったこの曲に大興奮しているのだが、中には財力や物流の関係で未だに曲を聴いたことがない者もいた。そう言う者は、今日初めて彼女の歌を聴けることになる。
ある意味悲願でもあったミスティアの曲――泣き出す者まで現れる始末だ。
すぅ、と息を吸い、歌い出しの一文字を口にしようとした、次の瞬間。
予定通り、彼女の左腕がどさりと地面へ落ちた。肘の辺りからぷっつりと切り離されてしまっている。
勿論、種も仕掛けもない。正真正銘の左腕切断だ。
尤も、咲夜が時間を止めて切り落としたものなので、客から見れば突然腕が落ちたようにしか見えないので、手品と言えば手品に見えるであろうが。
言うまでもないが、客席からは拍手と歓声が巻き起こった。
――これでこそミスティア・ローレライ! これでこそ我らがアイドル! これでこそ幻想郷的演出!
ミスティアは激痛に苛まれながらも、叫ぶことはなかった。
ほろほろと涙を零しながら、もう一度すぅと息を吸い込んで、少し遅れて歌を歌い出した。
手負いの美少女による、痛みを堪えた震える声での歌唱――これがまた、見る者の嗜虐心を、倫理観に覆われて普段は見ることのできない、人々の心の根底にある『弱い者いじめの精神』を擽るのである。
相当切れ味のいい刃物で切断されたのであろう、腕の傷はすらりと平たく、美しい。絵に描いたような腕の断面が、ミスティアの小刻みな体の揺れに合わせてゆらゆらと揺れ動く。
真っ赤な血がぽたぽたと滴り落ち、ステージに血溜りを作り上げた。その血溜りを、ミスティアがびちゃりと踏みつけた。
ぱぁっと血が撥ねて、ミスティアの身に付けている白色のスカートに赤い斑模様が描かれた。全体的に薄い色の衣装を身に纏っているのはこれの為であろう。
そんな具合に、涙声で一曲歌い終えると、間髪入れずに次の曲のイントロが流れ出す。
痛みに気を取られてばかりいたので、歌詞が頭の中からすっぽり抜けてしまったらしく、虚空を見つめて必死に歌詞を捻り出す。
その最中、ステージ横から一本のナイフが投擲された。銀色のナイフで、手に真っ赤なリボンが蝶結びにしてある。
投げられたナイフは、見事にミスティアの腿に突き刺さった。その驚異的な命中精度は、客席から感嘆の声が上がった程だ。
歌詞のことばかりに気を取られていたミスティアは、この急襲への心構えが全くできておらず、思わずがくんと膝を折ってしまった。
腿から流れ出る血がニーハイソックスの側に赤い染みを作り上げる。
風に煽られ、ナイフの柄のリボンがひらひらと揺れて、グロテスクさと同時に可愛らしさを演出している。
曲が始まっても歌い出せず、歌うどころか立っていることすらままならず、ミスティアは跪いていた。
それでも、『如何なる時も笑え』と言う指示通り、彼女は精一杯笑顔を作っていた。
痛みも苦しみも、笑顔で隠してしまおうとでも言わんばかりの弱々しい作り笑いではあったが。
しかし、俯き加減の彼女の顔はファン達には見えず、彼女の努力は正当に評価されなかった。――そんな努力が無くとも、ファン達は大いに喜んでいるのだが。
「しっかり歌えよ!」
不意に客席から飛んだ野次。嗜虐心を抑え切れなくなったファンの、ある意味声援の一種であったのだろう。
だが、これは想像以上の波及を見せた。ファン達が口々にミスティアに野次を飛ばし始めたのである。
傍から見ればいじめにしか見えない。しかしそれでこそミスティアの弱々しさがより一層引き立つ。
野次を聞いたミスティアは顔を上げ、ゆっくりと、ふらふらと立ち上がった。痛がっている場合ではないと気付いたのである。
脚をがくがくと震わせながら懸命に直立する姿は、生まれたての小鹿を彷彿とさせる弱々しさだ。
何度もかくん、かくんと体勢を崩しながらも、その都度踏み止まり、相変わらずか細い声で歌を歌っている。
その劣情を煽る仕草が、遂にファンの一人の気を違わせた。
「ミ、ミスティアちゃんっ!」
最前列中央に立っていた男性が急に声を上げた。彼はそれまで、ミスティアの姿に見惚れるばかりで大して声を出していなかったので、急に発せられたこの一言は周囲を驚かせた。
そればかりか、彼はなんとステージに上り始めたのである。贅肉だらけの重たい体をのそのそと、しかし必死の形相でステージに上げている。
あまりに大胆なこの行動を見て、他の客はコンサートの関係者かと勘違いしてしまった程だ。勿論、彼は一ファンであり、関係者でもなんでもない。
歌っていたミスティアも思わず歌を止め、その男性を見やる。縦横共にミスティアを圧倒する巨漢である。
彼の手には、刃渡り三十センチ程度の和刃物が握り締められている。
裏方で見守っていた文やレミリアが彼を制止するよりも早く、その和刃物はミスティアの腹部を穿った。
白亜の衣装に赤色の染みがジワリと滲む。どよめく客席。
しかし男性はそんなどよめきに対してたじろぎもしない。それどころか、刺しただけでは収まらないようで、その和包丁をありったけの力を持って横へ薙いだ。
刺傷は切創へと変化した。出血量は夥しさを増し、衣装の白い部分がどんどん赤色に侵食されていく。
おまけに破れた衣装の隙間から、臓物をチラつかせる大サービス。前列に陣取ったファン達は感嘆の声を上げる。
これまでの傷に加えてこの一撃――さすがのミスティアも堪らず二、三歩退いた後、ばたんと仰向けに倒れてしまった。
加害者の男性は倒れたミスティアと、返り血塗れの自身の手を見てぶるぶると震えている。
「や、やったぞ……ミスティアちゃんのお腹を、この僕が……!」
そんなことをぶつぶつと呟いた後、この感動を他の客にも分けてやろうと、倒れたミスティアを抱きかかえ、なんと客席に放り込んだ。
ロックバンドのヴォーカルが自ら客席に飛び込むと言うパフォーマンスは外界に存在するが、ファン腹部を刺され、おまけに客席に放り込まれた者など、果たしているだろうか。
恐らくいないだろう。さすがは前衛的アイドル、と称賛されるべきなのであろうか。
男性の行った行為は身勝手で許されざるものであった筈であったが、ミスティアを客席に投げ込んだことが大きく評価され、ファン達は憤りを忘れて熱狂した。
臓器をはみ出させ、血を流しながら、ミスティアは胴上げされながら客席の奥へ、奥へと流されていく。
荒ぶる海の如しファン達のうねりは留まる事をしらず、容赦なく彼女の体躯を流していく。
彼女の血を浴びたファンは奇声を上げて喜びを表現する。臓物にタッチすることに成功したファンは、今日一杯は手を洗わぬことを心に誓った。
茫洋とした大海を流れる流木のように、なされるがままにされるミスティア。
血を流しすぎた為であろう、視界がぼんやりとし始めていたが、それでも彼女の笑顔は崩れてはいなかった。
多少のハプニングはあったものの、初めてのコンサートも一先ず成功に終わった。
その後もコンスタントに新しい曲を次々に販売し、付随する特典の写真もより過激なものになっていく。
ミスティアも次第に痛みに慣れ始め、暴虐を暴虐とも思わぬ精神力でファン達の為に尽力した。レミリアらの思い付く様々な残酷なシチュエーションに受けて立ち、ファン達の心を魅了し続けた。
人気は絶頂。好敵手の存在も無い。幻想郷のアイドル業界を独走する彼女。
その凄まじい勢い故に、あまりにも突然訪れることとなる彼女の終焉に、驚かない者はいなかった。
*
ミスティアは白昼の森を歩いていた。
紅魔館で夜から昼前くらいまで、これからの活動の段取りなんかを話し合っていたのである。
吸血鬼も夜雀も夜行性なので、夜に活動した方が頭も働くのである。文や咲夜は眠たそうであった。
よりよい仕事の為にあれやこれやと意見を出し合っていたら夜が明け、朝が来て、お天道様は頭の上まで昇り始めていた。
徹夜慣れしている文に、時間を止めて仮眠をとっていた咲夜は活発化し始めたが、今度はレミリアとミスティアが眠たくなる番となった。
丁度区切りもよいところであったので、そこで会議を打ち切り、解散となった。
ミスティアは自宅への帰路を辿っていた。彼女に逃げる様子が見られないので、彼女は自宅からの通勤を許可したのである。
白昼と言えども森は薄暗く、人影もほとんどない。
闇を好む傾向にある妖怪達の巣窟となっているので、野生動物も住みづらいし、人間もなるべく近寄ろうとしないのである。
おまけに昼と会って、ほとんど妖怪は寝ているか、もっと暗い場所へ移動しているか、森なんてつまらない場所を離れて活動しているかのどれかだ。
横になったらあっと言う間に眠れてしまいそうな状態のミスティアは、大きな欠伸なんてかきながらのろのろと家路を辿る。
脳みその中心部に空気でも入っているかのようなひりひりとした感触が鬱陶しくて、ふるふると首を振ったり、頭をこつこつと叩いたりしてみたが、効果などある訳が無い。
早く眠りたいとは思いつつも、疲れもあって急ぐ気にはなれず、相変わらずゆっくりとした歩調で歩んでいた。
その時であった。背後にある茂みががさがさと音を立てて揺れた。
音にミスティアは気付いていたが、いちいち草木の多い森で葉擦れの音に気を取られていては切りがないし、何より眠たくてまともな思考が働かず、無視して先へと進んでいた。
しかし、何やらかさかさと小さな音がいつまでもいつまでも背後にぴったりとついてくる。
茂みが揺れるではない。落ち葉を踏む音だ。つまり、これは足音なのだ。そしてそれがいつまでも止まぬと言うことは――誰かが自分を尾行している?
いくら眠気に襲われているとは言え、後を付けられているのはいい気分ではないし、さすがに不信感も芽生えるもの。
訝しんで振り返った時には――何もかもが手遅れであった。
振り返るや否や、ミスティアの胸元に木製の槍が突き刺さり、おまけに背を貫いたのである。
木製の槍はどう見ても御手製のものであった。凶器の所持者が妖精と言う点も、その憶測の正しさを物語っている。
凹凸があり、至る所がささくれ立っている野性味溢れる荒削りな尖端が齎す粗雑な痛み。鋭利な刃物で切り裂かれるよりいくらか傷が痛んだ。
――狩猟採集民族の罠に掛かる。いいシチュエーションかも、これ。
振り返ったら妖精に胸を穿たれた。あまりにも理解し難い状況に、ミスティアは混乱しているようであった。寝不足もそれに拍車を掛けたことだろう。
しかしそれでも尚、仕事のことを考えた彼女の労働意欲と言うのは素晴らしいものである。
意欲があるのはいいことだが、命あっての物種。彼女はすぐさま逃げるべきであったのだ。
彼女の初コンサートで、ステージに上がり、彼女の腹を切り裂いた男性。彼はファンの間で英雄と謳われた。
腹を裂いて英雄とあらば、もっと酷いことをすれば、英雄を通り越し、もしや神と崇めてもらえるのでは――?
ステージ上で吼える“英雄”の姿を見ていたこの妖精はそう考えた。
もっと酷いことを、彼女なりに考えていた。四肢を絶つ。目を抉る。頭を割る。膣を焼く――。
考えに考えた挙句、彼女が辿り着いた答えは、ミスティアの命を絶つこと。
しかし、それは彼女との今生の別れを意味する。それは悲しかった。
だから、妖精はミスティアを殺し、自分も死することに決めた。彼女の為に死ねるくらい、自分はミスティアの熱狂的なファンなのだと幻想郷中に知らしめ、ファンの間の神に昇華しようと、この妖精は心に誓ったのだ。
妖精は腰にストックしておいた槍を、更に胸へ、次に喉へ、そして目へ、急所となりえる所にぐさぐさと刺していく。
ミスティアは抵抗しなかった。若しくは、できなかった。
痛みに泣いていてはいけない。アイドルは常に笑顔でなくてはいけない。その教えの通り、彼女は薄ら笑いを浮かべていた。
命の危険を察したのは、眠気が急激に加速し、どこもかしこも痛くなくなった瞬間だった。
死ぬような思いは今まで何度もしてきたが、それとは全く違う、異常な程開放的で、体がふんわりと浮き上がるような感触。
長く続いた会議の疲れがあれよあれよという間にすっ飛んで行く。
あれ、なんだかこれはおかしいな――と、思った頃には、無傷であった片方の視界も暗くなり始めていた。
槍で刺された訳ではないのは分かった。ゆっくりと、ゆっくりとしていた。太陽が西へ沈んでいくみたいに、ゆっくりとした黒色の侵食。
そして視界が完全に闇に閉ざされ、以降彼女の瞳に光が差すことはなかった。
突然の凶報は瞬く間に幻想郷中に知れ渡った。
多くのファンが絶望に打ちひしがれ、涙し、早すぎるアイドルの死を嘆き悲しんだ。
そして誰よりも、何よりも、商売が軌道に乗り始めていた頃であったレミリアらが意気消沈してしまった。
レミリアはずたぼろのミスティアの骸を呆然と眺め、すとんとその場にへたりこんでしまった。
「まさか……こんな終わり方、あんまりだわ……」
関係者らは掛ける言葉を見つけられず、神妙な面持ちで骸に目を落とすばかり。
文は惰性でぱしゃりとシャッターを切った。
そして、深いため息をついた後、重々しい口を開いた。
「仕方がありませんよ。次のCDを遺作として、今回のビジネスは終了ですね」
「みんなの熱の冷めない内に売りだしてしまいましょう、お嬢様」
骨抜きになってしまったレミリアを励ますように咲夜が言った。
数日後、ミスティアの遺作となったCDが発売された。特典の写真は出し惜しみしていた分の全てを放出した。
ミスティアの死によって心に空いた隙間を埋めようと、多くのファンがCDを買い求めた。
この遺作は、過去最大のセールスを記録した。
しばらくの間、天狗達の新聞は彼女のことで持ち切りであった。
この死について様々な憶測が飛び交った。ファン達の間でも多くの論争が起き、派閥が生まれた。
しかし、数週間もすれば段々と熱が冷めていった。
論争は次第に集約し、真実はどうかなどどうでもよくなり始め、天狗達が新聞のネタにする率も段々と減って行った。
遂には、あれほどミスティアとべったりであった文でさえ取り上げることをしなくなった。
沈み切っていたレミリアも、なくなったものは仕方が無いと割り切り、元気を取り戻した。主の元気な姿を拝めれば咲夜は幸せだった。
そしてひと月も経った頃。
そこには、アイドルのいなかった時代の幻想郷が戻って来ていた。
こんにちはpnpです。
タイトルがネタバレですが気にしていないです´` いつも通りですもの。
今作品は、Twitterでの某氏との会話から様々な着想を得て完成しました。
某氏に多大なる感謝を。ありがとうございました。
ぱっと思い付き、前述した会話を経て、がたがた書いて完成となりました。
酷い目にあってるみすちーを可愛く書くことを目標としました。
如何でしたでしょうか。
ご観覧ありがとうございました。
次回は改装後にお会いしましょう。
++++++++++
>>1
この場合は結局みんな見た目に魅了されていただけであり。曲さえよければもう少し長続きするかもしれないですけど。
とか真面目に語りつつも私もよく分かりません´` しかし妖怪は飽きっぽいイメージがありますね。
>>2
萌えましたかあ、よかったです。がんばって可愛さを意識して書きましたから^^
現実にこんながいたらPTAが黙っちゃいないですぜ。
>>3
本格的にSSを書き始める前に書いた東方の百合SSがレミリア×ミスティアだった。私の中で彼女らはそれくらい古き仲なのですヨ。
風刺だなんて、そんなすごいもんなのか分かりませんけども。
>>4
どうぞどうぞ。臆病者の私はこうして文字に起こすしかできそうにないんだ。
>>5
両者承諾しての拷問ってあんまり書いたことなかったんですよねえ。かわいそうな魔理沙以来でしょうか。
熱の入りすぎた人々は怖いですよねえ。餅巻きの時のお年寄りですら恐ろしいですからねえ。
>>6
カリスマですもの、天才に決まっておりますとも。
>>7
変なファンが現れずとも過労で死ぬ。一生愛され続けるアイドルなんておらん筈。
しかいしやはりレミリアの運命操作は便利すぎますわね。
>>8
熱しやすく冷めやすいのはほとんどの人が同じことでしょうし、過激な奴らの新参お断りみたいな雰囲気も出てくるでしょうし。
(アイドルは別にそんな事ないか)
>>9
確かにある種異様な光景でしょうね、いろんな人が美少女のお腹に拳を減り込ませて帰って行くのって。
私は絵が描けませんので、そこはもうどうしようもないです´` 私も見てみたいです。
pnp
作品情報
作品集:
29
投稿日時:
2011/09/04 11:46:20
更新日時:
2011/09/25 06:58:48
分類
ミスティア・ローレライ
レミリア・スカーレット
射命丸文
十六夜咲夜
グロ
一回でいいから私も腹パンしてみたいですね。
そして、あれだけブームになったのに1ヶ月で忘れられるとは……。
熱しやすく冷めやすい、これはどこの世界でも共通なんでしょうかね……?
こういうアイドル現実に居ないかなぁ。
傷つきながらも最期まで皆のアイドルであった、ミスティア・ローレライ。
彼女は本当に愛おしいと思えました。
商業主義に囚われ、アイドルを文字通り『偶像』という物にしか見ていない芸能界の風刺と、
そんなアイドルを神、正確には邪神を崇める狂信者と化したファンの狂気が織り成すスパイシーな風味が、
私の食欲をそそりました。
――肉を千切り、内臓をほじくり、血を啜り、脳みそに顔を埋め、骨の髄液をしゃぶり尽くして、
食っちまいたいぐらいになぁ!!
みすちー以上にファンサービスの出きるアイドルは二度と現れないでしょう。
しかし、行きすぎたファンというのはどんな存在よりも厄介ですね。
無理だな!どう転んでも避けられない運命というものがあるのさ!
過激化するとすぐ終わっちゃうのはどこも同じなんだなあ
CDジャケットのミスティアは是非絵で見てみたい・・・(ゴクリ
後味悪い終わり方も産廃らしくていいですなぁ
久々に産廃らしい作品を読ませてもらった
実際腹パンしたのに「ありがとうございました」とか苦しそうに微笑まれたら、
罪悪感とかサドっ気とか色んな物を刺激されて「この子を応援していかなくては(腹パンした責任取らなきゃ)とか思いそう。
でも、最終的には死んじゃうのかなぁ。悲しい。けど嬉しい。複雑!!