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『テスト』 作者: 紅魚群
「霊夢さん、霊夢さん」
誰かが呼びかけている。霊夢はゆっくりと目を開けて、その姿を見た。
目の前に、見覚えのある妖精の顔があった。たしか、名前はサニーなんとかって言ったっけ。
「なんでこんなところで寝てるんですか?」
「え…?」
サニーに言われて、辺りを見回した。目の前に大きな湖、視界の端には小さく紅魔館が見えた。
ここは霧の湖のほとりのようだ。そのほとりにある木にもたれて、どういうわけか眠っていたみたいである。
霊夢は頭を掻いた。なんで私はこんなところで眠っていたんだろう。全く思い出せない。
どうも記憶が曖昧だし、意識もどこかぼんやりする。
とりあえず立ち上がって、お尻についた土を手で払った。
空を見上げると、太陽がちょうど真上あたりにあった。
「まあ天気のいい日はお昼寝したくなりますよね。でもここで寝てたら他の妖精に悪戯されちゃいますよ」
サニーが八重歯を見せながら笑った。
そういうことなのだろうか。あまりのいい日和に、ついうたた寝をしてしまったのか?
覚えていないが、ここで寝ているということは紅魔館に向かっている途中だったのかもしれない。
ともかく、咲夜の淹れた熱い紅茶が飲みたい気分ではあった。
「ん…。そういうあんたは何してるのよ」
「私は鬼ごっこ中です。あ、そうだ。今の話とは関係ないんですけど、これあげます」
サニーはポケットから何かを取り出し、霊夢に渡した。それは酒瓶を小さくしたようなガラスの入れ物だった。
中に透明な液体が入っている。
「なにこれ?」
「最近悪い病気が流行ってるんですよ。顔や体に黒い斑点ができて最後には死んじゃうんですけど、これはその病気の特効薬です」
「そんな病気の話初めて聞いたわ。てか妖精に薬なんて作れたのね」
「薬草のしぼり汁を適当に合わせてたら偶然できたらしいです。まあ大勢死んで大勢復活してで、サンプルはたくさんあったみたいなんで」
「ふーん」
まあ貰えるものは貰っておこうと、霊夢はそれをポケットに入れた。
遠くから、誰かの声がした。
「あっ、サニー見つけたわよ!」
「いけない!じゃあ、私はこれで!」
「ええ、ありがとうね」
サニーはバイバイと手を振って霧の中へと飛んで行った。
さて、よくわかんないけど私も紅魔館に行きましょうか、と霊夢は伸びをして紅魔館へ向けて飛び立った。
紅魔館の門の前につくと、なんだかいつもと違う感じがした。
そうだ、門番の美鈴がいない。とうとうクビになったのかしら。
霊夢は誰もいない門を自分で開け、紅魔館の敷地内に入った。
庭園にも誰かがいる気配はなかった。やけに静かだ。
玄関口の扉を開けると、大広間の真ん中に誰かがうつぶせで倒れていた。
ピンクのドレスに蝙蝠の羽。霊夢にはそれがレミリアだとすぐにわかった。
レミリアは気配に気づき、うつぶせの姿勢のまま首だけを動かし霊夢の方を見た。顔に、黒い斑点のようなものがある。
「霊夢!こっちに来ちゃダメ!!」
少しかすれた声でレミリアが叫んだ。
「レミリア!?どうしたの?」
「強力な伝染病よっ…!近づいたら…霊夢に伝染っちゃうわ」
レミリアは辛そうだった。
霊夢はすぐに、サニーの言っていた話を思い出した。
黒い斑点の死に至る病気。本当の話だったのね。
霊夢はすぐさまポケットから、例の小瓶を取り出した。
「レミリア、これ!特効薬よ!」
「え…特効薬?そんなものどこで手に入れたのよ」
「さっき妖精から貰ったの!きっとこれを飲んだら良くなるわ」
霊夢はそれを飲ませようとレミリアの方に近付こうとしたが、
「来るなっ!!!」
レミリアの一喝で、霊夢は歩みを止めざるを得なかった。
「ど、どうしたのよレミリア?」
「妖精の作った薬なんてアテになるわけないでしょ…?パチェの魔法でも駄目だったし、あの竹林の薬師も薬が間に合わないって言ったのよ?」
「でも、試してみなきゃわからないわ」
「…そうね。1%くらいなら治ることもあるかもね。でももし治らなかったら霊夢にも伝染するわ」
「……」
そうだ。たしかにその通りだ。
そもそもサニーが言っていたことが本当なのかすらも確証はない。悪戯で薬じゃない何かを渡された可能性だってある。
仮に本当だったとしても、妖精に効いたからといって人間や妖怪にも効くかもわからない。
もしこの薬が効かなかったら、それを飲ませようと近づいた霊夢自身も死ぬかもしれないのだ。
だが、霊夢の心には確信できることがひとつだけあった。
このまま何もせずレミリアを放置すれば、レミリアは死ぬということだ。
霊夢は瓶の中を見た。透明な液体が、ちゃぷんと音を立てた。
そして霊夢はレミリアの方に、また歩みを進めた。
「だ、駄目っ!来ちゃダメ!!」
「たかだか数十年で死ぬ人間の心配なんかしてないで、もっとがめつく生きなさいよ。あんたにとっては悪い話じゃないでしょ」
「霊夢…。あなた大馬鹿者よ…」
霊夢はレミリアのすぐ横まで行くと、屈んでからレミリアの体を持ち上げ、仰向けに寝かせた。
レミリア自身は、もう腕を上げることすらできないほど弱っているようだった。黒い斑点は、顔だけではなく腕にもあった。
霊夢は瓶の蓋を開け、その蓋を盃代わりにして薬を注いだ。
そして左手でレミリアの上半身を支え、右手でその薬の入った蓋をレミリアの口へと運んだ。
透明な液体をわずかに開いた口に流し込む。レミリアの喉が、こくんと一回だけ鳴った。
「どう?レミリア」
「…そんなにすぐ効くわけないでしょ」
「それもそうね…」
「…まあともかく、おめでとう霊夢。合格よ」
「え?」
レミリアがそう言った次の瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
そしていつのまにか、霊夢はどこだか分からない真っ暗な空間にいた。
あまりに突然のことに、霊夢の思考は激しく混乱する。なんなのここは?レミリアは…?
「霊夢!信じてたわ!」
いきなり後ろから抱きつかれて、霊夢はさらに驚いた。
顔を上げると、そこには嬉しそうな顔の紫がいた。
「えっ、ゆ、紫…?」
「先に言っとくと、さっきのは現実じゃないわ。私がスキマの中に作った仮想世界よ」
笑顔のまま紫が言う。
何の話だ。仮想世界?どういうことよ?
「ちょ、ちょっと紫、分かるように説明してよ!」
「ええ勿論よ。ちょっと長くなるけどね」
「あといつまでもひっついてないで!」
「えー?」
しぶしぶといった感じで紫は霊夢を抱いていた手を離し、数歩下がった。
霊夢は軽く服を払ってから、腕を組んだ。
「で、どういうことなの?」
「ええと、どう話そうかしら。そうね…霊夢、幻想郷には色々な妖怪や忘れられた物が入って来るわよね」
「…?そうだけど、それがどうかしたの?」
「でも入っては来るけど、出て行くことはほとんどないって思ったことはない?」
そんなことを気にしたことはなかったが、たしかにその通りだと霊夢は思った。
だがそれがさっきの仮想世界と何の関係があるというのか。
紫は続けて言った。
「実はね、幻想郷のキャパシティがそろそろ限界近いのよ」
「キャパシティ?」
「日本語で言ったら容量のことね。妖怪なりなんなりが多くなりすぎて、結界が維持できなくなってきたの。幻想の力を維持するのは簡単なことではないわ」
最近博麗大結界の"ほつれ"が多いと感じたのはそういうことだったのか。
だんだんと、話が見えてきた気がする。同時に、霊夢の心に嫌な予感が沸き起こってきた。
「結界のキャパシティを大きくすることはできないわ。もういっぱいいっぱいなのよ。だから、中身を減らすしかないの」
「その中身を減らす選別がさっきの"仮想世界"ってわけ…?」
「正解!さすが霊夢ね!」
「最後にレミリアが『合格』とか言ってたから予想もつくわ。不合格だった人が減らされるってことでしょ…」
「そのとおりよ。適当に減らしても良かったんだけど、今後を思うとそれはあんまりな気もしたのよね」
「…そう。で、ちょっといくつか質問したいんだけどいい?」
「勿論いいわよ」
紫は相変わらずニコニコ顔だった。逆に気味が悪い。
霊夢の質問は、気になることと、本当は聞きたくないことの2つがあった。
まず、気になることから霊夢は質問した。
「あのさ、なんで私が合格だったの?レミリアを助けようとしたから?」
「まあ簡単に言ったらそういうことね。あそこで病気の感染を怖がって逃げてたら不合格だったかもしれないわ」
「うーん…。でもあの状況だったら逃げた方が正解な気もするわよ。今思うと我ながら馬鹿なことをしたと思うもの」
「ポイントはそこよ。馬鹿でもいいの」
紫はピンと人差し指を立てた。
「私の理想としてる幻想郷は、人間と妖怪が共存して、醜い争いごともなくて、毎日が平穏な世界なのよ。霊夢だってそう思うでしょ?」
「…うん、まあ」
「そんな世界に必要なのは、思いやりのある心の優しい人なのよ。知略に富み計算高くある必要なんてない。むしろそんな奴は、幻想郷を脅かす存在になりうると思っているわ」
「そうなのかな…。あのとき紅魔館をすぐ離れてより大勢の人に病気の存在を知らせたり、もらった薬の効能を確かめたりする方が結果として多くの人を救えるような気もするけど」
「でも霊夢はそうしなかったでしょ?」
「だからそれは…」
「ぶっちゃけた話、私の好き嫌いによるところが大きいわ。皆のためとか言いながら目の前で苦しんでる人を見捨てるような奴、私は大嫌いだわ。偽善的でもいいの。鶏肉は食べるけど、鶏が死ぬのは可哀そう。それでいいのよ」
そのたとえも良く分からないし霊夢はいまいち納得できなかったが、紫の好みで決めていると言われたら、これ以上何を言っても無意味なような気がした。
まあ優しい人が合格という考え方そのものは、ある程度共感できる部分もある。どうにも極端な気もしたが。
一応自分が合格だった理由は分かったので、次の質問に移ろうとしたが、やはり少しためらってしまう。
だが聞いておかねばならぬことだと霊夢は腹を決めて、口に出した。
「次の質問だけど…、その、不合格だった人はどうなるの?"減らす"って、具体的に何をするの?」
「あらら、それを聞いちゃう?」
紫はオーバーアクションで額をぺちんと叩きながら続けた。
「幻想郷には置いておけない。かといって外の世界に追い出すわけにもいかない。さてさて、どうしたものかしらね」
「……」
「霊夢、そんな恐い顔しないでちょうだい。私だって本意じゃないのよ」
「…ねぇ紫、本当にもうどうしようもないの?何か別の方法はないの?」
「ないわ。霊夢よりずーっと賢い私が一生懸命考えたけど、これ以外幻想郷を維持する方法がなかったのよ。大結界が崩壊したら、もっと大勢の犠牲者が出るわ。そのためには多少の犠牲は仕方ないのよ」
「さっきと言ってることが違うわ」
「え?」
「偽善的でいいって、目の前の人を見捨てるような奴は嫌いだって!優しい人が好きって言ってたのに、あんた自身は何も優しくないじゃない!?」
「それは関係のない話よ。美人が好きな男の人が、みんな美男子であるわけではないでしょ?それにさっきの話とは根本的に違うわ。幻想郷を救うにはこの方法しかないから、選べないことに優しさもクソもないもの」
紫の言っていることは間違ってはいないのだろう。
だがどこかふざけた雰囲気の紫に、霊夢は苛立ちを覚えざるを得なかった。
「そんなの二枚舌だわ…」
「じゃあ霊夢は幻想郷が崩壊してもいいの?」
「そうは言ってないでしょ?」
「いいえ。私の方法を否定するなら言ってるも同然よ。まあ今すぐ選別をしなくても霊夢の生きている間くらいは大結界は持つかもしれないけど、そんなこと思ってるならそれこそ霊夢のエゴだわ」
「……」
霊夢はうつむき、下唇を噛んだ。その目にわずかに涙が溜まっているのを見て、紫は慌てて言った。
「あわわわ、ごめんなさい…。れ、霊夢は悪くないのよ!?ゆかりん言い過ぎちゃったわ。だから泣かないで」
紫は霊夢の体を正面から抱き、その頭を柔らかく撫でた。
すぐに霊夢はその手を払い、紫の体を押しやった。
「…わかったから。ひっつかないでって言ったでしょ」
「霊夢は優しいから辛い気持ちも分かるけど、どうか堪えてちょうだい。それにそんなにたくさん減らすつもりもないわ。そうね、大体20%削減くらいかしら」
「20%?5人に1人…"死ぬ"ってこと…?全然少なくないわ」
「個別のキャパシティは人によって違うし、合否は絶対評価だからまあ完全に5人に1人ってわけじゃないでしょうけど……あ、霊夢。言ってる間に1人選別が終わったわよ」
「えっ?」
紫は真っ暗な空間に傘をスイッと振った。すると四角いモニター画面のようなものが現れて、その中には霊夢の良く知る人物が映っていた。
「アリス!!」
モニターの中の場所はどこかの森だろうか。その森の中でぺたんと座り込んでいるアリスは、どこか虚ろな表情だった。
その周りにはちぎれた人形の残骸が転がっており、アリス自身の服もボロボロだった。
「何よあれ?何があったの!?」
「安心して霊夢。アリス・マーガトロイドは合格よ」
「酷いわ。ボロボロじゃない…」
「アリスには『自分の大切な人形を犠牲にして赤の他人の命を救えるか』を課題にしたわ。大丈夫、現実世界に戻すときは人形も全部直すし、アリス自身の記憶もちゃんと消すからこれからの生活には何の問題も生じないわ」
紫はそう言うと、また傘を振った。
モニター画面の映像が切り替わり、今度はレミリアの姿が映し出された。
場所は紅魔館内の廊下だった。レミリアはよろめきながら、足を引きずるようにして歩いている。
「レミリア・スカーレットはまだ終わってないわね」
「あ…これって」
霊夢はレミリアの顔や腕に黒い斑点があることに気付いた。
「そう、霊夢の仮想世界の設定を流用したわ。凶悪な伝染病によって紅魔館の住人は全滅。まあここまでのレミリアの行動を見た感じ、もう合格でもいいような感じはするわ。仲間思いのいい主人ね」
「レミリア…」
レミリアの頬には、いく筋もの涙の後があった。たくさん泣いたのだろう。
レミリア以外の紅魔館の住人はもう死んでしまったのかもしれない。
そう思うと、霊夢はたまらない気持ちになった。
レミリアはどこかに向かって歩き続けたが、玄関前のロビーに来たところで何かにつまづいたわけでもなく倒れた。
もう立ち上がる気力もないようだ。わずかに体をよじり、その後はただじっとしていた。
「ね、ねえ、仮想世界って言ってもレミリア自身は本物の体なんでしょ…?大丈夫なの?」
「本当に死にそうになったらその前になんとかするわ。あの病気だって私が作ったものだから、それを治す薬だってちゃんとあるし。それよりほら、霊夢の出番よ」
「へっ…?」
レミリアが倒れているロビーの玄関口の扉が開いた。そこには、たしかに霊夢が立っていた。
「さっきの霊夢の仮想世界と同じシチュエーションだけど、さてさて本物のレミリアはどうするかしらね」
「やめてよ…悪趣味甚だしいわ…」
『レミリア、どうしたの!?』
モニターの中の霊夢が叫んだ。レミリアは顔を上げて、霊夢のほうを見た。
『だ、駄目よ霊夢。こっちに来ちゃ駄目…!霊夢にも伝染っちゃうわ』
『その黒い斑点…。もしかして…』
霊夢はポケットから透明な瓶を取り出した。
『これさっきもらったんだけど、妖精が作った特効薬なの!きっと良くなるわ!』
『特効薬…?』
『そう、だから―――』
『妖精の作った薬なんて効くわけないでしょ…?それに私だけ生き残ったってしょうがないわ。フランも、パチェもみんな死んじゃって…う、ぅううう…』
レミリアはうつ伏せのまま嗚咽をもらした。
『霊夢も早く逃げて…。私のことはもういいから…』
『……』
「ねぇ紫…」
現実の霊夢は紫の服を引っ張った。
もう見ていられない。レミリアがあまりに哀れで仕方がなかった。
「もう十分でしょ…?止めてあげて」
「まあそうね。合格ということで何も問題はないでしょう。レミリアってもっと性格悪いと思ってたけど、意外とかわいいとこあるのね」
モニターの中の霊夢がレミリアに『合格』と告げた。
レミリアがきょとんとした顔をしたところでモニターの映像はぷつりと切れ、画面は真っ暗になった。
「これで同時にやってた霊夢、アリス、レミリアの分は終わったわ。次の選別テストの準備をしないとね」
「レミリアは無事なの?」
「心配しなくても体も治して記憶も消してから幻想郷に戻しておくわよ。あんまり長い間不在にさせてても良くないし」
「そう…」
それを聞いてひとまず安心した霊夢だったが、先ほどの光景はやはり見ていて気持ちのいいものではなかった。
こんなものをあとどれだけ見ることになるのか。というより、何故紫はこれを私に見せるのか。霊夢の中に新たな疑問が浮かんだ。
「ねえ紫、なんで私にこのテストを見せるの?どうして私の記憶は消さないの?」
「あら、記憶を消してほしいの?」
「いや…。それもそれでなんだか気持ち悪いけど…」
「もうわがままねぇ。霊夢は博麗の巫女っていう幻想郷の管理人なんだから、この選別テストを見る義務はあると思うわよ」
「…そうね、そうかもしれない」
「あと私一人で合格か不合格か判断に困るときに霊夢の意見が聞きたいっていうのもあるわ。私は妖怪だけど霊夢は人間だから、私とは違う評価基準も必要かなって」
「私の意見も聞いてくれるの?」
「可能な限りね。じゃあ私は次の準備をしてくるから、少しの間待っててね」
紫はそう言うとスキマを展開してその中へと消えて行った。
急に静かになる。
真っ暗な空間にひとり取り残されてみると、霊夢は無性に心細く感じた。
※
魔理沙は今の自分の状況をもう一度整理してみた。
ここは狭い石造りの部屋。天井は3メートルほどの高さで、そこにはびっしりと金属製の針がつららのように並んでいた。
出口は鉄の扉ひとつしかなく、その扉には鍵がかかっている。
扉の横に、赤と青の2つのボタンがあった。
「魔理沙、いい?青いボタンよ。それで生きて帰れるんだから…」
部屋の壁には腕が一本やっと入るほどの小さな穴が開いており、そこからアリスの声が聞こえた。
隣の部屋のアリスも鏡に写したような魔理沙と全く同じ構造の部屋にいた。
「ああ、もちろんわかってる」
魔理沙はそう答えながら、ボタンの上に書いてある説明書きを読みなおした。
◇
2人とも青いボタンを押した場合:2人とも部屋を出ることができる
1人が赤いボタン、1人が青いボタンを押した場合:赤いボタンを押した者は部屋を出た上で願いをひとつ叶えることができ、青いボタンを押した者は死ぬ。
2人とも赤いボタンを押した場合:やりなおし
(10分の思考時間が終了しなければ、ボタンを押すことはできません)
◇
読み直してみて改めて思う。なんてことはない、青いボタンを押せばいいだけじゃないか。それで2人とも助かるのだから。
願いが叶うというのは確かに魅力的だが、アリスを殺してまで叶えたい願いなんてない。
誰がなんの目的で私たちをこんなところに閉じ込めたのか知らないが、あまり見くびるなよ。
思考時間はあと5分ほど残っていたが、魔理沙の心は青いボタンを押すことで固まっていた。
「…魔理沙、青よ」
「しつこいな。わかってるって」
何度目かわからないアリスの呼びかけに、魔理沙はややぶっきらぼうに答えた。本当にしつこい。
魔理沙は少し苛立ちを覚えた。私はアリスのことを信用してるというのに、アリスは私のことが信用できないのだろうか。
私が赤を押すような奴だと思っているのか?
魔理沙はいままでのアリスとの思い出を振り返った。
一緒に異変解決をしたり、お茶を飲んだり、魔法やスペルカードの研究をしたり。
それほど長い付き合いではなかったかもしれないが、たしかに"信頼関係"と呼べるものは培ってきたつもりだ。
そりゃあ勝手に本やマジックアイテムを持っていったり冗談まじりに嘘を吐いたりすることもあったが、それはあくまで良識の範囲内のことで…。
「……」
そう思っていると、魔理沙はだんだんと自信がなくなってきた。
私自身にとっては冗談で済まされることでも、アリスからすれば実はそうではなかった可能性もある。
本やマジックアイテムを勝手に持っていったりすることも、全く迷惑でなかったと言えば嘘になるだろう。
あるいは日頃のジョーク交じりな嘘のせいで、「こいつは嘘ばかり言う」というイメージを持たれてしまっているかもしれない。
そう思われているからこそ、あそこまで何度も青を押せと私に確認してくるんじゃないのか?
残り思考時間は2分を切っていた。
…私がアリスのことを信用していても、アリスが私のことを信用していなかったとしたら。
アリスが私を信用していないなら、私が赤を押すと思ってアリスは赤を押してくるだろう。
その可能性も、否定は…できない。
もしそうだとしたら私がここで青を押せば、逆に死ぬのは―――私だ。
魔理沙の体が、意思とは無関係に震えた。
ちらりと天井を見る。金属の針の先端が、今にも魔理沙に向けて落ちてきそうだった。
そのとき魔理沙の脳内に、誰のものとも分からない声が響いた。
『あかいぼたんをおせば、ぜったいにしなない』
いつのまにか魔理沙はものすごい量の汗をかいていた。
怖い。いやだ。死ぬのは嫌だ。あまりに恐ろしい。
「魔理沙、時間よ」
「……」
「…押したわ。青いボタン」
ボタンの上にあった残り思考時間の表示が0秒になっていた。
魔理沙はゆっくりとボタンの方へ指を伸ばした。
「魔理沙、大丈夫?押した?青いボタンよ?」
「ぅ……」
「青いボタンよ。青いボタンよ。青いボタンよ。青い青い青い青い青青青青青青青」
もう魔理沙にはアリスが何を言っているのか聞こえていなかった。
指先はガクガクと震え、額から垂れてきた汗で視界が滲んでいた。
死ぬかもしれないぞ、青いボタンを押したならば。それが嫌なら―――
赤を押せ
魔理沙の指先が、赤いボタンに触れた。
そしてゆっくりと、それを押し込んでいく。
仕方ない。仕方ないんだ。アリスが赤いボタンを押すというなら、私も赤を押すしかないじゃないか。
険悪なムードの中やりなおしになるだろうけど、そのときのことはそのとき考えればいい。
今はともかく、死なないことだ。そうだろ?なあ?
魔理沙が赤いボタンを奥まで押し込むと、どこからかカチリと音がした。
何の音だ?と思う間もなく、魔理沙のすぐ横にあった鉄の扉がガシャンとひとりでに開いた。
魔理沙の思考が固まる。おかしいぞ。赤を押したら、やりなおしじゃないのか?
「ねえ、押したの?なんだか変だわ…扉が開かないし、何か変な音がする…」
隣の部屋から少し震えぎみのアリスの声が聞こえた。
同時に、たしかにどこからかカチンカチンと歯車の回るような音が聞こえた。
「ひっ…いやあああ!!天井が!天井がぁ!」
魔理沙は慌てて壁の穴からアリスの部屋を覗くと、アリスの部屋の針のついた天井がゆっくりと降下していっていた。
「魔理沙!?赤いボタンを押したのね!?なんで!!なんでええええ!?」
「そ、そんな…」
「やだぁ!!死にたくない!助けて、魔理沙ぁああああ!!!」
「あ……あ……」
魔理沙はようやく理解した。アリスは私のことを信用して、青いボタンを押したのだ。
「信じてたのに!!魔理沙のこと!!」
「うあああああ!ごめんよっ…ごめんよアリスぅ…!」
「本当にっ、悪いと思ってるの!?」
「ああ…本当に、本当にごめんよぉ…!!私、なんてことを…!」
「じゃあ」
アリスの姿は、天井が下がりすぎて魔理沙の部屋の穴からはもう見えなくなっていた。
だが、アリスの声は何故か鮮明に聞こえた。
「願いがひとつ叶うのよね…?だったらそれで、私を生き返らせて」
それがアリスの最後の言葉だった。
ガチンと音がして、天井の降下が止まった。
アリスの声も聞こえなくなった。
魔理沙は少しの間その場に立ち尽くしていたが、すぐに我に返り扉の方を見た。やはり開いている。
一歩一歩確かめるような足取りで、魔理沙は歩いて部屋を出た。
部屋を出るとすぐ目の前に、木の机とその上に一枚の小さな紙が置いてあった。
その後ろには上へと続く階段があり、外からの陽の光が見える。出口だ。
魔理沙は机の上の紙を見た。そこにはこう書いてあった。
『願い事を書きなさい』
魔理沙が見終わると、その文字は紙に溶けるようにして消えてしまった。
机の脇には鉛筆が置いてある。これで願い事をこの紙に書けということか。
魔理沙は鉛筆を手に取った。
「ああ、アリス。救ってやる、生き返らせてやるさ」
魔理沙は自分に言い聞かせるように言った。というより本当に言い聞かせようとしていた。
思考を停止しろ。今はただ余計なことは考えず、アリスを生き返らせることだけを考えるんだ。
もし冷静に考えてしまったら「アリスを生き返らせる」なんて願い事は書けないことを、魔理沙自身もじんわりと感じていた。
―――願い事が何でも叶うなんて、魔界に行ったってそうそうあることじゃない。
「才色兼備」「億万長者」「本物の魔法使いになる」
自分のために叶えたい願い事なんていくらでもあった。
(ああ!馬鹿っ!そんなこと考えるんじゃない!!)
(今はアリスを…アリスを生き返らせることを…!)
気付けば、"ア"の字を書いたところで魔理沙の手は止まっていた。
アリスはもう死んでいる。
私がここでアリスを救わなかったとしても、もうアリスは私を責めることはできない。
私はアリスを一度は裏切った。恐ろしさのあまりだったかもしれないが、赤いボタンを押すという裏切りをしたのだ。
だから生き返らせたとしても、いままでのような関係はもう築けないかもしれない。
アリスは私のことをもう信用していないだろうし、私だってアリスにどんな顔向けをすればいいのかわからない。
…ああ、もう駄目だ。私はアリスを救えない。
魔理沙は一文字目だけ書いた"ア"を二重線で消した。
もういいんだ。自分でも最低の行為だと思う。でもここで自分のために願い事をしたほうが、絶対賢いし得じゃないか。
アリスを生き返らせなければ、アリスに咎められることはない。
そうだ、本物の魔法使いになれるようにお願いしよう。そうなったら、他の願い事だってある程度自分の魔法で叶えることができるぞ。
魔理沙は鉛筆を持ち直した後、自分の頭を思い切り机に叩きつけた。
「があああああああああ!!」
ガツンと音がして、魔理沙の額に痛みが走る。魔理沙は机に突っ伏したまま、奥歯を強く噛みしめた。
アリスは…私のことを信用してくれていた。
アリスはいつだって優しかった。私が物を盗んでも、嘘を吐いても、アリスは私を受け入れ続けてくれた。
霊夢やパチュリーだって私の友人ではあるだろうが、彼女たちにとっての私は数いる友人の中の一人でしかないだろう。
でもアリスは、私のことを大切な友人だと思ってくれている。
本人がそう言ったわけではないが、私にはそう感じられた。
ちょっとした用事があって、私は真夜中にアリスの家に行こうとしたことがある。
その途中、十分警戒していたつもりだったが妖獣に襲われてしまった。
なんとか命からがら逃れてアリスの家に着いたが、傷だらけの私の姿を見たアリスの怒りようは、今でも忘れることができない。
「馬鹿魔理沙っ!!こんな時間にひとりで外に出たら危ないに決まってるでしょ!?」
わざわざ苦労して会いに来ていきなり怒られたので、私もカチンときてそのときは口論になってしまった。
でも今思えば、アリスは私のことを本当に心配していたからこそあそこまで怒ったのだろう。
若干険悪なムードにはなったが、その後のアリスの治療が手を抜かれたようには思えなかった。
人間である私に、アリスは対等に接してくれた。
笑っているアリス、怒っているアリス、泣いているアリス。
アリスは私にとっても、かけがえのない親友だ。
そうだ、私はアリスのことが…好きなんだ。
…魔理沙は鉛筆を握り、紙に願い事を書いた。もう迷いなどなかった。
願い事を書いた文字は、また紙に溶けるようにして消えていった。
「魔理沙」
直後、魔理沙の背後から声がした。
振り返ると、そこにはまぎれもなくアリス・マーガトロイドがいた。
「うぅ…ぁ…」
自分が間違った判断をしていたら、もう会えなかった。
でも、今はもう目の前にアリスがいる。
魔理沙はアリスの方へ駆け寄り、その体に思い切り抱きついた。
「うわぁあああん!ごめんよぉ、アリス…!会いたかった、会いたかったよぉ!!」
「私の言った通り願い事をしてくれたのね。嬉しいわ、魔理沙」
アリスは胸の中で泣く魔理沙をやさしく撫でた。
「ぐすっ…。ごめんよぉ…許してくれよぉ…」
「大丈夫よ、魔理沙」
「うっ…うううう…」
アリスは魔理沙の耳元でささやいた。
「おめでとう、合格よ」
※
霊夢はぺたんと膝を折ってその場に座り込んだ。
危なかった、本当に。あそこで魔理沙がアリスを生き返らせる願い事を書かなかったら、確実に不合格になっていた。
紫はくすくすと笑いながら言った。
「霊夢、魔理沙が合格で安心した?」
「…不合格になってほしいなんて思うわけないでしょ」
霊夢はぶっきらぼうに言ったが、内心は気が気ではなかった。
魔理沙は霊夢にとっても十分気の知れた仲だった。
幻想郷における数少ない人間の友人だし、何より歳も近い。
そんな魔理沙が目の前で不合格(=死)になるなど、霊夢にはとてもじゃないが受け入れられることではなかった。
仮に不合格になってもゴネるにゴネてやるつもりだったが、その必要もないならばそれに越したことはないと、霊夢は胸をなでおろした。
少し平静になったところで、霊夢は紫に聞いた。
「…そういえばさっきは何人か同時にテストしてたみたいだけど、今回もしてるの?」
「ええ。それに今回は全員魔理沙のと同じ内容でしてるわよ」
「同じ内容って、あの赤と青のボタンの?」
「そうよ。魔理沙以外には3人いるんだけど、そのうちのフランドール・スカーレットはもう終わってるわね。フランドールの隣の部屋はレミリアにしといたんだけど、ちゃんと青を押して一発合格よ」
「まあ姉妹だし…それはそうよね」
「どうかしら。フランドールはレミリアのことを全く信用してなくて、なんか自分は死んでもいいみたいな感じで青を押してたわ。このテスト方法は失敗だったかもしれないわね。まあ再試験なんてしないけど」
「……」
「青を押すか、赤を押してもその後の願い事で生き返らせるかすれば合格。こんな方法で優しさを量ろうとしたのが間違いなのかしら。心って難しいわね」
紫は傘を振って画面を切り替えた。同時に、もうひとつモニターが現れる。
左の画面には蓬莱山輝夜、右の画面には藤原妹紅がいた。どちらも例の石部屋の中にいる。
霊夢も交流こそそこまでないが、2人のことは知っていた。
「これが残りの2人?」
「そうだけど、こいつらはどっちも本物だけど特別に隣同士の部屋にしてあるわ」
「えっ?隣同士って、そんなのテストになるの?」
「ん?」
「だってそれだと1人が青を押してもう1人が赤を押してたら、青を押した方が合格の前に死んじゃうじゃない」
「死なないわよ。蓬莱人だもの」
「あ…そっか」
霊夢は合点する。そう、輝夜と妹紅は蓬莱人という、死んでも死なない呪われた人種なのだ。
だが死を怖れない分、気軽に青を押せるから簡単に合格できるのでは?と霊夢は思ったが、画面を見るとそう上手くは行っていないようだった。
『妹紅…青を押せって言ったでしょ…』
『そういうお前だって赤を押してるじゃない』
ボタンの上の思考時間表示が残り10分に再セットされている。どちらも赤を押したから、やりなおしになったのだ。
それを見ながら紫はため息をついた。
「はぁ…これでもう10回目のやりなおしよ。いつになったら終わるのかしら」
「ねぇ紫、こいつらにこの方法を取ったのが間違いだったんじゃないの?」
「どうして?」
「いや…良く考えたらあいつら相当仲悪かった気がするし、それこそ永遠に白黒つかないわよ」
「霊夢、永遠なんてないのよ。いつかはどちらかが青を押すわ」
「いつかっていつよ…何時間も何日も決着つくまでこうやって見てろって言うの?」
「大丈夫よ、私の空間内では時間も操れるから。早送りしましょうか」
紫がこつんと傘で足元を突くと、画面の中の輝夜と妹紅が突然目にも止まらないほどの速度で動き出した。
画面の中の時間が加速しているのだと霊夢には分かったが、音や会話はキュルキュルと不快な高音が聞こえるだけで、何を言っているのかはわからなかった。
紫は難しい顔をしながら何度も傘で足元をこつこつ叩いている。
時間はどんどん加速しているようだった。もう霊夢の目では2人の動きを追うことはとてもじゃないができなくなっていた。
次第に、画面の中の動きがなくなってきた。
相変わらず画面は加速しているはずだが、2人ともほとんどの時間を部屋の隅で寝そべっているばかりだ。
まるで画面が止まっているかのようにも見えるときもあった。
紫は再度こつんと傘を突いた。
「時間を等倍にしたわ。久々に変化があったみたいだから」
「久々って…始めてからどのくらい経ったの?」
「3年と124日よ」
「さ、3年…?」
「妖怪からしたらどうってことないわ。ことに蓬莱人ならなおさらね。それよりほら、1年ぶりの会話をしてるわよ」
画面の中の2人はどちらも床に寝転がっていたが、たしかに何か話をしているようだった。
『ねぇ輝夜…。私青を押すよ』
『…あら、そう言って何回赤を押したかしら』
『お前は赤を押せばいい。でも私は青を押す』
『……どういうつもり?』
『輝夜、ここに来てどのぐらい時間が経ったか分かる?』
『さぁね』
『たぶん3年くらいよ。このまま続けてたら10年や100年なんてあっという間に経っちゃう』
『この呪われた身で何を怖れているのかしら。別にそれでもいいじゃない』
『何百年って経ってからここを出ても、前と同じ幻想郷があると思う?』
『は?』
『里の知ってる人間も、慧音も死んでて、そもそも幻想郷だってあるのか分からない。私はそんなの嫌だ』
『あらあら、寂しがり屋なのね』
『永琳のいるお前にわかるもんか。一人の辛さなんて』
『…あなたが青を押して私が赤を押しても、あなたがここから出られるかは分からないわよ』
『このまま粘っててもお前は絶対青を押さないでしょ。もう私の負けでいい。うんざりよ』
妹紅は立ち上がって扉の前まで行くと、ボタンを押した。
『ほら、青を押したわ。輝夜も赤を押して』
『…どうしようかしら』
『何…?』
『"輝夜様どうか赤いボタンを押してください"って言って土下座したら押してあげるわよ』
『お前…っ』
『まあ嫌なら別にしなくてもいいわよ。そしたら私はずっとボタンを押さずにいるだけだから』
『……』
妹紅が黙ったので輝夜は勝ち誇ったように笑ったが、
『…輝夜様どうか赤いボタンを押してください』
その後の妹紅の言葉を聞き、輝夜は慌てて立ち上がって壁の穴から妹紅の部屋を見た。
妹紅は両手を地面について、まぎれもなく土下座をしていた。
『あなた、プライドとかないの?』
『…約束よ。ボタンを押して』
『……ちっ』
輝夜は不愉快と言わんばかりに舌打ちをすると、わざと足音を立てるようにしてボタンの前まで行った。
そこで少し固まる。
『どうしたの?早く押してよ!』
『ちょ、ちょっと待ちなさい』
輝夜の人差し指が、青と赤のボタンの間を行ったり来たりした。
霊夢はそれを見て不思議に思った。
「ねえ紫、輝夜はどうして赤と青で悩んでるのよ?赤を押せって言われたんじゃないの?」
「…霊夢が思っている以上に2人の仲は悪くないのよ。それに蓬莱人は、基本的に無欲よ」
紫の言葉は霊夢にはいまいちピンと来なかったが、悩んだ挙句結局青いボタンを押した輝夜を見て、霊夢は打ちのめされたような感覚がした。そして、自己嫌悪する。
ここまでのやりとりを見て、輝夜は不合格になっても仕方のない奴かもしれないと心のどこかで思っていたからだ。
ガシャンと音がして、部屋の扉が開いた。
輝夜と妹紅の部屋、そのどちらともの扉が開いた。
妹紅は信じられないようなものを見る目で扉をしばらく眺めた後、おそるおそるといった感じで部屋の外に出た。
すぐ横に、輝夜が立っていた。
『青を押したとき"しまった"と思ったわ。あんたが私に青を押させるために一芝居打ったんじゃないかってね』
『なんで青を押したの?』
『そんなこと聞いてどうするの?余計なこと言ってないで、帰るわよ』
『…ええ』
2人は階段を上り、外へ出た。
そこへ、遠くから永琳と慧音が何やら叫びながら猛烈な勢いで走って来る。
『姫ぇ!おめでとう!!』
『妹紅ぉ!よくやったなぁ!!』
あっけにとられた輝夜と妹紅が顔を見合わせたところで、画面はぷっつりと切れた。
その画面を見ながら、霊夢はまたひとつ、安堵の溜息をついた。
※
「こいし、目を覚ましたのね」
古明地こいしはうっすらと目を開け、さとりの声を聞いた。
「おねえちゃん…?ここはどこ?」
「こいし、何も覚えてないの?」
「うん」
こいしは辺りを見回した。
瓦礫や岩が折り重なってできた小さな空洞のような場所だった。
こいしとさとり以外にも、燐と空の姿もあった。
空洞の中にひとつだけ浮いている鬼火が、ほの暗く辺りを照らしている。
さとりはつぶやくような声で、こいしに言った。
「大きな地震があったの」
「じしん?」
「そう、それで地霊殿が崩れちゃったのよ」
「なんでお燐とお空もいるの?」
「揺れ始めてからすぐ、2人が駆け付けてくれたの」
「でも間に合わなかった…」
「ごめんなさい…」
燐と空がしゅんとして首を垂れる。
そんな2人の頭を、さとりは優しく撫でた。
こいしはもう一度この空間を見回した。
「掘って出ようか」
「無理よ。地上まで何百メートルもあるし、土は掘ったら量が増えるからすぐ生き埋めになっちゃうわ」
「じゃあどうするの?」
「助けを待つしかないわね」
「ふーん。わかった」
こいしは壁から突き出していた折れた柱のようなものに腰掛けると、退屈そうに足をばたつかせた。
助けが来る。それは一体いつになるのだろうか。
ここは地下数百メートル。数日そこらで助けが来るわけがないことは、誰が考えても明白だった。
閉じ込められて3日が経った。
10日が経った。
1ヶ月が経った。
全員妖怪とはいえ、全くの飲まず食わずだとさすがに限界が近かった。
「お姉ちゃん、すごく喉が渇いたよ」
「そうね…」
力なく岩壁にもたれているこいしに、さとりは膝を丸めて俯いたまま答えた。
こいしは手のひらを見た。かさかさになり、所々皮がめくれていた。
「さとり様…。お燐が変だよ…」
燐と寄り添うように座っていた空が、燐の体を揺すりながら言った。
「お燐?」
さとりが四つん這いの姿勢で燐に近付く。
こいしはその様子を、座ったままじっと見た。
さとりは燐の体に触れ、そっと自分のサードアイに手を添えている。
そして、静かに涙を流した。
「お燐っ…。ごめんなさい…」
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「…お燐は、天国に行ってしまったわ」
「死んじゃったの?」
さとりは、静かに首を縦に振った。
空が、ワッと泣いて燐の体に抱きつく。
体の水分がほとんどなかったので涙は出なかったが、声だけはわんわんと出して泣いていた。
「小さな穴を掘って、お墓を作ってあげましょう…」
さとりがそう言うと、空は泣き顔のまま大きく頷いた。
だがこいしは、不思議そうな顔をして言った。
「お燐すぐ埋めちゃうの?」
「どうしたのこいし?お墓を作ってあげないと可哀そうよ」
「だってお燐の血とかお肉を食べたら、みんな元気になれるでしょ?もったいないよ」
さとりと空はこいしを見たまま固まった。
こいしは今私変なこと言った?とばかりに、また不思議そうな顔をする。
空がまた泣きそうな顔になった。
「こいし様…そんなの酷いよ…」
「なんで?」
「だって……ぐすっ……お燐は私たちの……」
「…いいえお空、こいしの言うとおりにしましょう」
「さとり様っ…?」
さとりは下唇を噛んだ。
辛うじて零れた涙がぽたりと燐のスカートに落ち、しみ込んで消えた。
「お燐を食べれば、私たちはもっと長く生きていける。助けが来るのを、長い間待ってられる。優しいお燐なら、きっと許してくれるはずよ」
「さとり様…」
「お燐の分まで、私たちが生きるのよ」
「じゃあお姉ちゃん、お燐食べてもいい?」
さとりは目を輝かせるこいしから視線を背けるように目をつむると、「ええ」と短く言った。
こいしはそんなさとりを気にかける様子もなく、燐の体に走り寄ってその服を両手で引き裂いた。
空が「あうっ…」と情けない声を上げる。
「じゃあまずお腹からだね」
こいしの手が、お燐の白く柔らかい腹に突き刺さった。
ブポッと音がして、血がたらりとこぼれだして来た。
「あっ、もったいない」
こいしは直接顔を腹に近付け、こぼれだした血をすすった。
心臓が止まっているためそれほど勢いよく出血はしなかったが、それでもこいしの喉を潤すには十分な量だった。
「おいしい!ほら、お姉ちゃんも飲みなよ」
「え、えぇ…」
さとりも顔を近付け、血をすする。
その様子を見ながら、先ほどまで泣き顔だった空がごくりと生唾を飲んだ。
「お肉も食べよう」
こいしはさらにえぐり込むようにして燐の腹に手を差し込み、小腸を引きずり出した。
腸の周りについた血を舐めとりながら、こいしはそれにかぶりつく。
「もがっ、だんりょくがあっへ、おいひいね」
こいしは口の周りを真っ赤に染めながら、幸せそうな顔をした。
さとりも腹の肉を手で小さくちぎり、それを口に運んで噛みしめた。
「もぐもぐ。お空も食べなよ。頭とかもきっとおいしいよ」
「う…うん」
空はまた生唾を飲んだ。
地面を見て、手ごろな尖った石があったのでそれを手に取る。
「うぅ…。お燐…ごめんね…」
空は両手でその石を握ると、燐の額に向けて打ち下ろした。
一度目は燐の額に赤い傷ができただけだった。
二度目でバキリと音がして、石の先端が少し額にめり込んだ。
三度目で燐の頭蓋が完全に割れ、ざくろのようにばっくりと燐の頭が開いた。
裂けた頭からトロトロと血の混じった透明な液体がこぼれ出る。
空はそれにむしゃぶりつくと、目の色を変えて必死に喉を鳴らして飲んだ。
空洞の中に強烈な血の匂いが充満し始めてからおよそ1時間後。
燐の体液という体液は飲まれ、肉という肉は食べられ、そこには骨と硬い筋だけが残った燐が横たわっていた。
こいしは満足げにお腹をさすりながら、壁にもたれて休息していた。
さとりと空は、石を持って黙々と穴を掘る。
骨だけになった燐を埋めるための穴だった。
※
「最っ低……」
霊夢はモニターに背を向け、体をわなわなと震わせながら吐き捨てるように言った。
紫はそんな霊夢の様子に、戸惑いを隠せずにいる。
「れれれ霊夢…?何をそんなに怒ってるの?」
「あんたそれ本気で言ってるの?」
「ちょっと霊夢にはグロすぎたのかしら…」
「……そういうことを言ってるんじゃないの。燐を死なせて、ああいう流れに持っていこうとしたあんたが気に入らないのよ」
燐は当然、本物ではなく紫の作りだした存在だろう。
だからこそ燐が最初に死んだのも、紫が意図的に仕組んだことだ。
さとりにしてったそうだ。さとりにちゃんと止めさせれば、こいしも燐を食べたりなんてしなかっただろう。
霊夢にはそれが許せなかった。
「仲間を食べる」という非道徳的な行為にこいしを誘導したことが、許せなかった。
加えて、霊夢には先ほどの光景はあまりに衝撃的だった。
霊夢は妖怪ではなく、人間だ。
妖怪退治を生業にしているとはいえ、血や猟奇的なシーンを見慣れているわけではない。
正直なところ、吐き気を堪えるだけで精一杯だった。
「わ、わかったわ。そういうシーンは次から飛ばすようにするから」
「あんたね……」
「はいっ!じゃあまた時間を飛ばすわよ!」
紫は霊夢の言葉を遮り、傘でコンコンと足元を叩いた。
画面が目まぐるしく加速する。
再び紫が傘で叩いた時には、画面の中にはさとりとこいしだけが映っていた。
空がいない。霊夢はまた、紫に怒りの視線を向けた。
「ねえ、空はどこいったの?」
「霊夢怒らないで!初めにもう筋書きは決まってるから、今更変えるわけにもいかなかったのよ」
「また死なせたのねっ…!」
「今二人が大事な話してるからっ!怒るのは後にしてちょうだい!」
霊夢は睨み付けるように画面を見た。
たしかにこいしが、さとりに何か言っているようだった。
※
「お姉…ちゃん。二人だけに…なっちゃったね」
「そうね」
「またお腹も…すいて…きたね」
「そうね」
「いつ…になったら助…けは来るの…かなぁ」
「……」
さとりが黙ったので、こいしはわずかに首をかしげた。
さとりは泣いていた。こいしの体力は、もう誰の目にも尽きる限界だった。
地面に四肢を投げうったように倒れ、焦点の合わない目でただ天井を見上げることしかできない。
こいしのサードアイも、どす黒く変色していた。悟り妖怪の体調は、サードアイを一目見れば分かる。
「お姉ちゃん…?泣か…ないで…」
「うぅ…ひっぐ…。こいし…ごめんね。なんにもできないお姉ちゃんで…」
「ううん。私、お姉ちゃんのこと大好きだよ…」
こいしは最後の力を振り絞って、ゆっくりと右手を上げた。そしてそれを、突然自身の首に突き刺した。
ぶしゅりと音がして、こいしの首と口から血が流れる。
さとりは慌ててこいしの右手を掴んで引き抜いたが、もう遅かった。
「こ、こいしっ!?なんでこんな……」
「お姉ちゃん…私を…食べて。お姉ちゃんは助かっ―――て―――」
こいしの手から力が完全に抜けた。
さとりはこいしの胸に顔を覆い被せると、大声で叫ぶようにして泣きわめいた。
※
「はいストーップ!!」
紫は傘を振って、画面を暗転させた。
すでに画面は見ておらず俯いている霊夢に、紫は恐る恐る言った。
「ごめんね霊夢。ちょっとグロいのも映っちゃったけど、ここまで見とかないと訳わかんないかなと思って…」
「何よあれ!?こ、こいしは無事なの!?」
「はい?」
「こいしはどう見ても死んだようにしか見えなかったけど、被験者の体は本物なんでしょ!?」
「ちょっと待って霊夢。霊夢は誤解してるわ」
「なによ!?」
「被験者はこいしじゃなくて、古明地さとりよ」
「へ?」
なんですって?紫の言葉に、しばし霊夢の思考が停止する。
こいしではなく、さとりが被験者?
最初に登場したのも、一番動きがあったのもこいしだった。
誰が見たって、こいしが被験者のようにしか見えなかった。
だが、そういえばいつもは誰が被験者なのか言っていたが、今回紫はそんなこと何も言っていない。
霊夢は紫の意図を理解し、大きくため息をつきながら頭を掻いた。もう怒りを露わにする気力もない。
「…紫、あんたわざと私がこいしを被験者だと誤解するような見せ方にしたでしょ…」
「あら、バレちゃった?でもおかげで先入観なく見れたでしょ?」
「ふざけないで。じゃあそもそも燐を食べようって流れになったのも、あんたがこいしにそう行動させたからなのね」
「でもさとりも結局同意してたじゃないの」
「最初はそのまま埋葬しようとしてたでしょ!?あんたがこいしにあんなこと言わせなければ!!」
やり方が汚い。さとりの心の醜さをどうにか引き出そうとしているかのようだ。
故意に被験者を不合格に近づける行動をさせているようにさえ感じられえる。
「ごめんなさいね霊夢…。なんていうか、ちょっとした遊び心だったのよ」
「遊び心ですって……?」
「ねえ霊夢…本当になんでそんなに怒ってるの?実際に誰かが死んでる訳ではないのよ…?」
「あんた、さとりを不合格にしようとしてるでしょ…?さっきから合格ばかりだからって、そんなの不公平だわ」
「そんなつもりはないわ。現にここまでのさとりの行動じゃ、合格も不合格もまだわからないもの」
「はい?」
「見てれば分かるわ」
いつのまにか画面にまたさとりが映っていた。
さとりは倒れたこいしの前で泣いている。
ここまでで合否がわからないってことは、これからの行動によって決まるってこと?
もうさとりだけになってしまったこの状況で、どう合否にかかわるほどの行動があるというのか。
まさかこいしを食べたら不合格と言うんじゃないでしょうね。
しばらく泣いたさとりは涙を拭うと、なにやら地面に落ちている石を漁り始めた。
その中でも鋭利に尖っている石を拾い上げる。
霊夢はさとりが何をしようとしているのか分からなかった。こいしを解体するための石だろうか。
たしかに今まではこいしが死体を解体していたので、こいしより非力なさとりはそういった道具を必要とするのかもしれないが…
「自殺よ」
「へ?」
「さとりが自殺をしたら不合格よ」
紫はじっと画面を凝視しながら言った。
さとりは石を両手で握ると、尖った部分を自身の首元のほうに向けていた。
紫の言った"自殺"を、決行しようとしているようにしか見えない。
「な、なんで自殺したら不合格なのよ!?早く止めないと…」
「死んでいった燐も空もこいしも、皆さとりに生きてほしいって思いながら死んだのよ。自殺するという行為は、それらを踏みにじるものだわ」
「意味わかんないこと言ってないで早く止めてよ!本当に死んじゃうわ!」
「止める必要はないわ。自殺したら不合格なんだから、手間が省けていいじゃない」
霊夢の中で何かがはじけた。霊夢は思わず拳を握り、地面を蹴って飛び掛かると、紫の頬を思い切り殴った。
紫はよろめいて、尻餅をついた。画面が一瞬、ぶるっとぶれた。
「…痛いじゃない、霊夢」
「あんたさとりがどれだけ辛くて、どれだけ悲しくて自殺しようとしてるのか分からないの…?大切な人がいなくなって、自分一人で生きていられないって気持ちが、どうして分からないの?」
「霊夢も大切な人を失ったことがあるの?」
「ないわ。でも、大切な人はいる」
霊夢は画面を見た。
さとりは躊躇っているようだった。いくら悲しくても、やはり死ぬのは怖い。
だがさとりの手に込められている力は徐々に強くなっているようだった。あの石の切っ先がさとりの喉を貫くのも、時間の問題だ。
「早く止めて」
霊夢が静かに言うと、紫は尻餅をついた状態から黙って立ち上がり、乱れた髪を軽く手でといた。
画面の中のさとりが、意を決して石を握った手を喉に打ち付けた。
だがその手からは、いつのまにか石が消えていた。
石はどこにいったのかと混乱しながらあたりを見回すさとり。
立ち上がった紫の手に、その石が握られていた。
「つまり霊夢は、さとりは合格でいいって言いたいのね?」
「当たり前でしょ!?死んだ仲間に涙を流して自殺する奴の、どこが優しくないって言うのよ!?」
「そうね…その通りだわ」
さとりはまた新しい石を探し始めたようだったが、紫は傘を振って画面を消した。
紫は言った。
「古明地さとりは合格よ。全く、難しいものね」
「あんたがあんな悪趣味なシチュエーションにしなければいいだけの話よ」
「やっぱり霊夢に見せるのはやめておいた方が良かったかしら…。どうする?あんまり見るのが辛い様だったら、私ひとりでやるけど…」
「…紫ひとりに任せてたら、どんな理不尽な判定があるか分かったもんじゃないわ」
「そう。やっぱり霊夢は、私の基準に納得できないのね」
紫は目をつぶった。何かを考えているのだろうか。
少しの間そうしていたが、紫は目を開けると同時に言った。
「じゃあ次のテストの合否判断は、霊夢にすべてまかせるわ」
「えっ…?」
「でも次は不合格筆頭よ。いくら霊夢でも、不合格にしちゃうかもしれないわね」
紫は傘を振った、現れた画面には、風見幽香が映っていた。
※
幽香は向日葵畑を歩いていた。
どこか不機嫌そうな顔だったが、彼女を知るものならあれがいつもどおりの顔だと言ったかもしれない。
そんな中、幽香の視界にあるものが目に入った。
向日葵畑の一角が、黒ずんだように枯れてしまっているのだ。
その一角で、幽香の友人でもあるメディスン・メランコリーが楽しげに踊りながら歌を歌っていた。
向日葵が枯れている原因は、メディスンにあることは明らかだった。
幽香はメディスンに近付くと、抑揚のない声で聞いた。
「メディスン、どうしてこんなことをしたの?もう毒の制御は出来るようになったはずでしょ?」
「えっとね、こっちってヒマワリばっかりだから、スーさんも分けてあげようと思―――」
言い終わるより先か、幽香は持っていた傘を一振りした。
次の瞬間メディスンの上半身は粉々に吹き飛び、その破片が四方八方に飛び散った。
残された下半身が、ゆっくりと後ろ向きに倒れる。
幽香は自分の妖力で枯れた向日葵を元に戻すと、砕け散ったメディスンには目もくれずその場を離れた。
また向日葵畑を少し進むと、今度はリグルが何かをしていた。
「ほら、たーんとお食べ」
もう少し近付いてみると、リグルの周りに生えている向日葵にイモムシやらイナゴやらが大量に群がり、バリバリと向日葵の茎を食べている。
向日葵でなくても、食べさせる植物なんていくらでもあるはずだ。
リグルは幽香に気付き声をかけようとしたが、それよりも早く幽香はまた傘を一振りし、リグルの体を粉々に吹き飛ばした。
血が辺りの向日葵にべしゃりとかかり、イナゴは飛び去ってイモムシはボトボトと地面に落ちた。
幽香はイモムシを踏みつけて殺し、かじられた茎を元に戻してから、その場を離れた。
幽香が次に会ったのはチルノだった。
チルノは何本も向日葵を凍らせて遊んでいる。
「あたいったら最強ね!」
幽香は短くため息をついた。そしてまたチルノの方にゆっくり近付く。
チルノも幽香の方を向いた。
「あ、幽香!今向日葵を凍らせて遊んでたんだよ!すごいでしょ」
「ねえチルノ、ここはどこ?」
「へ?どこって、太陽の畑じゃん」
「いいえ、違うわ。ここは幻想郷の中ですらない。あなただって、本物のチルノではないわよね?」
「え?」
チルノが困った顔をする。
「幽香が何言ってるのかわからないよ」
「とぼけなくても結構。こんなくだらないことする奴ひとりしか知らないわ。あなた、八雲紫でしょ?」
「……」
幽香に言われ、チルノは俯いて黙り込んだ。
そして肩を震わせている。笑っているようだった。
「ふふふっ…」
「笑ってないで何か言ったら?」
「…まさかバレることがあるなんてね。ここが偽物の幻想郷だって気付いたのは、あなたが初めてよ」
「どういうつもりなの?」
「どういうつもりかしらね」
「……」
「まあバレたんなら教えたところで不具合もないかしらね。話せば長くなるんだけど…」
チルノは幽香に説明した。
幻想郷のキャパシティが限界近いこと。
それを解消するためには、幻想郷の妖怪たちを減らさなくてはいけないこと。
これがそのテストであること…。
「そのために全員にこんなことしてるの?馬鹿じゃないのあなた」
「あたいは馬鹿じゃないよ!」
「それ以上不愉快にチルノのマネをしてごらんなさい。殺すわよ」
「おお、こわいこわい」
チルノがオーバーアクションで身をすくめる。
幽香は傘を開いて、それを日傘にした。
「で、私はどうなるの?メディスンとリグルを殺したから、不合格かしら?」
「偽物だって分かっててやったんでしょ?なんかビミョーだわ。不合格にしてほしいならしてあげてもいいけど」
「かまわないわよ、不合格でも」
「はい?」
「そのキャパシティとやらのためには誰にせよ殺さなきゃいけないんでしょ?いいわよ、私を殺しても。私の命でメディスンたちが助かる可能性が高まるなら、それでいいわよ」
※
幽香の予想外の発言に、紫も判断をあぐねいていた。
「仮想世界がバレちゃうのもそうだけど、まさか幽香が自分は不合格でもいいなんて言うとは…」
紫は額に手を当てて上空を仰いだが、すぐにハッと何かに気付いたように目を見開いた。
「霊夢、騙されちゃいけないわ!幽香はああいえば私に殺せやしないと思ってワザと言ってる可能性があるわ!」
「判断は私がすればいいんでしょ?」
「ああ…そういう約束だったわね…」
霊夢は考えた。
不合格でもいいというのなら、不合格にした方がいいのだろうか。
どのみち何人かは不合格にしなくてはならないのだ。
霊夢の見る限りここまで全員合格だということを考えても、ここは不合格に取っておく方がいい気もする。
だが「優しい人は合格」というコンセプトを考えるなら、自分を犠牲にして他の人を助けようとする幽香は、優しい人だ。
紫の言ったように演技である可能性もあるにはあるが、こちらの判断で不合格にしやすくなるという事実は変わらない。
自分を犠牲にしようとしていることに、変わりはないのだ。
霊夢はいくら考えても分からなかった。分からないからこそ「不合格」だなんて言えるわけがない。
それに、自分が不合格と言うだけで幽香が死ぬなんて、そんなの…。
「私…ダメだわ。不合格なんて言えない…」
「本当に?」
「だって…幽香は何も悪いことはしてないもの…」
「…まあ最初に約束したし、今回の判断は霊夢に任せるわ。合格でいいのね?」
霊夢は黙って頷く。紫は困ったように微笑んだ。
画面の中のチルノが、幽香に告げた。
『幽香は合格だよ。良かったね!』
『あら…不合格でもいいって言ったのに。どういう吹き回しかしら』
『私の判断じゃないわ。霊夢よ』
『霊夢と一緒にテストしてるの?あはは、甘えんぼさんね』
『もう、ほっといてよ。これでテストは終わりよ』
『私も本気だったんだけどね』
紫は画面を消した。
幽香の声が聞こえなくなり、空間に静寂が戻る。
どこか落ち込んだ風の霊夢は、うつむいたまま言った。
「私、紫のこと悪趣味だとか非情だとか言ったけど、私が判断してたらたぶん誰も不合格に出来ないわ…」
「あらあら、それじゃあ困るわね。何人かは不合格にしなきゃいけないのに」
「さっきはこのテストを一緒にするって言ったけど、やっぱり止めた方がいいのかもしれない…」
「どうして?」
「だって、不合格にしたら死んじゃうだなんて……ぐすっ……そんなの……あんまりだわ…」
「霊夢…」
霊夢の目から、光るものがあふれ出た。
紫は霊夢の元まで歩み寄り、その背中をそっと抱いた。
今度は霊夢は、拒むようなことはしなかった。
小さく嗚咽を漏らし、紫の胸に顔をうずめた。
紫は霊夢の頭を撫で、呟くように言った。
「でも…霊夢が判断するまでもなく、一人だけ確実に不合格な奴がいるわ」
「ぇ…、誰?」
「私よ」
霊夢は顔を上げた。目を見開き、紫を見る。
「…な、何言ってるの?紫が死んでどうするのよ…!幻想郷の管理だってこれからやっていかなきゃいけないんだし…」
「そんな大したことやってないわよ。博麗の巫女だけで十分やっていけるわ」
「あ、また冗談で言ってるんでしょ…?私がオタオタするのを見てそんなに楽しい?」
紫は言い返さず、霊夢をさらに強く抱きしめた。
紫の心臓の鼓動が、とくんとくんと霊夢に伝わる。
言葉で言わなくても、冗談ではないと言っているかのようだった。
「さっきの幽香のときと同時に比那名居天子のテストもしてたんだけど、彼女にも霊夢だったら合格の判断をしたでしょうね」
「結局合格にしたの…?」
「ええ、霊夢の来る前も、何人か『不合格になりそうな人』を優先してやったけど、結局みんな合格。このまま続けてても、さとりのときみたいな理不尽な判定でもしない限り、不合格者は出ないでしょうね」
「でもだからって紫が死ななくても…」
「じゃあどうするの?私の代わりに誰を何人殺すの?言ってごらんなさい」
「やめてよ紫…そんなこと言わないで…」
霊夢の目からまた涙がこぼれた。
「…意地悪言ってごめんなさい。でも、こうするしかもう道はないのよ」
「紫……」
「やっぱりこんなテストで判断すること自身が間違ってたわ。あんな一回きりの短いシチュエーションで、その人の善悪なんて判断できっこないわ」
「じゃあテストをやり直して――」
霊夢はすがりつくように言ったが、紫は静かに首を振った。
「今回のテストをやっても十分キャパシティを確保できなかったら元々死ぬつもりだったから。私すごいのよ?私ひとり死ぬだけで、20%くらいキャパシテシィが浮くわ」
「…私は?私が死んだらどのくらい浮くの…?」
「残念でした。霊夢が死んでも1%も浮かないわよ。だからそんなこと考えなくてもいいの」
紫は霊夢の肩に手を置き、ゆっくりと一歩下がった。
霊夢と紫の間に距離が空く。
「じゃあね霊夢。霊夢と一緒にいた時間は、とっても幸せだったわ」
「駄目よ紫…。死んじゃやだぁ…」
霊夢はすぐに距離を詰め、また紫に抱きついた。
紫は自分の目じりを、指で拭った。
「いやだわ…。泣かないつもりだったのに、霊夢がそんなに私のことを想ってくれてたのが嬉しくて…」
「紫っ…!今じゃなくてもいいでしょ…?私が生きてる間は結界は持つんでしょ!?」
「…それは霊夢のエゴだって言ったじゃない」
「エゴでもいいの!嫌よ紫、いかないで……うっ、ぅうう、ふぇえぇええん…」
霊夢は泣いた。声を上げて泣いた。
紫を離すものかと抱きついて、これでもかというほど服に涙をしみ込ませた。
紫は柔らかな笑みをたたえながら、優しく霊夢の頭を撫でた。
泣き崩れる霊夢の耳元で、紫はそっと呟いた。
「おめでとう霊夢。合格よ」
END
色々難産だったような気もするけど何はともあれゆかれいむ可愛い。
Thank you for reading!
追記
たくさんのコメントありがとうございます。紫が何を思っていたのか等、真相があいまいな部分もあったかもしれませんが、むしろ皆さんの様々な解釈のコメントを見ることができて面白かったです。"優しさ"をテーマにしてたので、それが伝わっていたのなら何より。
蓬莱組や地霊殿組はあまり動かしたことがなかったので、キャラに違和感がなかったかが少し心配でした。ともかく、いろんなシチュを詰め込めたので書いてて楽しかったです。
百物語、出れたらいいな。ホラーなんて書いたことも読んだこともほとんどないので、ちょっとしんどいかもしれませんが…。
紅魚群
- 作品情報
- 作品集:
- 30
- 投稿日時:
- 2012/07/04 11:16:24
- 更新日時:
- 2012/07/13 17:49:03
- 分類
- 霊夢
- 紫
- 他
こいしちゃんは優しくない子だから合格出来なさそうだけど…
優しい人が犠牲を選ぶのはかなり難しいことかもしれないけど、それは結局本末転倒だぞ霊夢ちゃん。犠牲の元に発展があるのだから。
紫は絶対霊夢を見てニヤニヤして、最後は内心歓喜してたと思います
妙に不合格がでないと思ったらこういうわけか。
何はともあれ、面白かったです。このラストは残酷なのかな、それとも……。
テストといっても、こんなの出題者のハラ一つで合否を決められるじゃないですか!!
……って、なるほど。正しいとかそういうのではなく、苦悩してでも、それが間違いでも我を通すことができるかをテストしたのですね。
思いっきり『遊び心』が入ってましたがね。
ゆかれいむ万歳!!
紫がやや原作と離れている性格をしていると思ったらこういう結末だからこそだったのですね。
次の貴方の作品を楽しみにしています。
そして何よりも霊夢がかわいすぎます。この霊夢はそれがどんなに馬鹿げてても、みんなで幸せになるために全力でがんばっちゃうんだろうなと感動しました! そんな霊夢を紫が合格とするのは、自分にない物を彼女に求めているのかな、と思います。もしもの時にはたぶんこの二人は対立してしまうのだろうけど、それでも、いやだからこそ求め合うのかな、なんて。
すばらしい作品をありがとうございました!!
全員落とすけどな
素晴らしい作品でした!
オチへの持っていきかたが実に美しいです
是非次回作も楽しみにしてます!
それはさておき大変素敵なお話でした。
みんな良い奴だ。心から良い奴らと思えました。だからこそ惨たらしい
ラストでぞくっとしました。
この霊夢が合格した理由ってそんな綺麗なものではなく、ゆかりんのことを大切に思っているかが基準なのではないかと思った私は心が汚いのでしょうかw
蓬莱人は結局倫理観もないだろうから合格といってもなんだか釈然としないなあ。無駄キャパ喰らいといいますか。
ともあれ最後まで隙間なく面白く読ませていただいたことに感謝です。
しかしこのオチを見ると、霊夢以外は誰が真実の存在なのかと考えさせられますね。紫の語っていることもどこまで真実なのやら。実はこのテストを行っているのは紫ではなく、それどころか幻想郷のためでもなく、謎の第三者が実験感覚でやっている遊戯にすぎない……なんて展開まで考えられてしまうスケールの大きさにぞくぞくきますねぇ……!
八雲紫、いつも通りの身勝手さでまわりを振り回すのだろうと思っていた。
…今回は負けを認めます
理不尽空間だからこそ垣間見れるその者の本質。実に興味深かったです。
蓬莱組は切っ掛けがないと世界が滅亡しても続けてそうでゾッとします。
てっきり最後の最後で容量的に一人しか救えなくなるのかと思いましたが
それだと霊夢自信が犠牲になることを提案して終わりですね
産廃の霊夢って冷酷無血(特に魔理沙に対して)というイメージがありましたがこういう感情的な霊夢もいいですね
幻想郷の容量も気になりますが、冥界や地獄も容量的に大丈夫だろうか・・・
こういう話は好きなんだけど、幻想郷のキャパシティが限界という初期設定が
個人的になんかピンとこなかった…というのはこの話を読む上で損してますかね?w
惜しむらくは途中から結末が読めちゃった事かな
一つ一つのテストもしっかりと作りこまれていて、紅魚群さんの発想力と構成力に感服いたしました。
それだけです