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『『ブレスケア』』 作者: sako

『ブレスケア』

作品集: 30 投稿日時: 2012/07/08 02:58:55 更新日時: 2012/07/08 11:58:55
 へぇ、あの暗く薄汚れたお屋敷にこんな明るくて清潔な部屋があったのかと紅美鈴は驚いた。
 
 彼女が門番を務める紅魔館と言えば常に闇のベールに覆われている怪しげな洋館だ。その廊下は日中でも薄暗く、ランタンの明りが必要な場所さえある。夜ともなればその闇はタールのように粘つき、霧のように纏わり付くものに変わる。それはただ単に暗い、という訳ではない。むせ返るような濃い闇は原生林の奥深くに隠された洞穴や忘れ去られて久しい地下墓地のものと同じく、まるで敵意を持っているかのように来訪者を拒むよう空間に満ちるものなのだ。
 屋敷の内装もそれに見合ったものになっている。掃除は行き届いているが窓のサッシ、白塗りの壁、真鍮のドアノブ、全てが数百年の永きを経てなお現存するものであり、ただの清掃では拭いきれぬ何十年分ものの汚れが溜まりに溜まっていた。絨毯を叩けば霧のように埃が舞い上がり、屋根裏を覗けばそこは冬の寒村のように埃が雪景色の様をみせている。箪笥の裏は蜘蛛と鼠の亡骸が朽ち果てるままに打棄てられる墓場で浴室の黒い染みはかってそこで陰惨な事件があったことを思い起こさずにはいられない形をしている。屋敷は綺麗であっても清潔ではなかった。

 だからこそ美鈴はこの屋敷にそんな部屋があったのかと驚いたのだ。
 美鈴が今いる部屋はまるで真昼のように明るい。いや、真昼以上だ。天井からは等間隔に四つ、白熱球がぶら下がっており、更に床に据え付けられた大きなライトが美鈴の身体を斜め上から照らし出していた。壁は真っ白で埃や汚れはおろか雑菌の一株でもいないのではと思えるほど病的な白さをみせている。床はタイル張りで鏡のように一枚一枚が磨き抜かれている。当然、隙間を埋めている漆喰にも黒い汚れなどただの一つも滲みていない。
完璧に清潔で完全に明るい部屋だった。

 けれど、やはりここはお屋敷の一室なのだと美鈴は思った。薄汚く暗いお屋敷と病的に清潔な明るい部屋。こうして並べれば真逆すぎる対比ではあるがその実、本質的な部分では両者は完全に相似だと、理由もなくそう感じ取ったのだ。いや、理由ならある。両者共にその外装の裏側には陰湿という本質が隠されているのだ。

 さて、その美鈴ではあるが異様なまでに潔癖で明るい部屋で椅子に腰掛けていた。いや、座らされていたと言うべきか。飾り気のないスチール製の椅子に金属製の枷で拘束され身動きが取れない状態になっている。無論、美鈴の独力でそんな格好になるのは不可能なので明らかに何者かによる拘束を受けているのだ。
 辛うじて動く首で左右を見渡すが部屋にある調度品と言えば自分を強く照らすライトぐらいなもので他には何もなかった。部屋には窓もなく、出入りできそうな唯一の場所と言えば美鈴が座らされている場所から向かって右前にある引き戸だけだった。鍵がかかっているかどうかは傍目にはわからない。どのみち、この拘束をどうにかしなければ逃げ出すことは不可能だろう。どうにかならないものかと美鈴は身体を揺らした。椅子も床に固定されているらしくギシギシと軋む音が上がっただけで拘束はびくともしなかった。
 と、美鈴が唯一の脱出口と睨んでいた扉の向こう側から物音が聞こえてきた。何かしらものを乗せた台車を押す音。それに聞こえにくいが一人分の足音が混じっていた。誰かがやってくる。自分をここに拉致監禁した人物が様子を見に来たのだろうか。そう思い身体を強張らせる美鈴。はたして、音を立て開かれた扉の向こうから現われたのは異様な格好をした人物だった。
 背の丈は美鈴の胸よりも下、子供のように小柄な身体をしていた。性別は分らない。おろし立ての綺麗な白衣を着こみ頭も同じく白色の包み込むような帽子を被っている。その人物が金属製のキャスター付き台車を押しながら部屋の中に入ってきたのだ。だが、美鈴がその姿を見てもっとも息を飲んだのは白衣の正体不明の人物が大仰なガスマスクを被っていたからだ。
 マスクはフルフェイスのもので分厚いゴーグルの向こうの顔はようとして知れない。口の辺りには大きなフィルターが付いており、そのデザインは昆虫の感情などない冷徹そうな顔を思わせる。
 更に美鈴がぎょっと目を見開いたのはガスマスクの怪人が押してきた台車の上に乗せられていた道具の数々の凶悪な輝きが目に付いたからだ。台車の上に乗せられていたのは鋏やメス、鉗子、ピン、針金、ゴム管、注射器、小型のノコギリなどなど、どれも新品のような輝きをみせる品々だった。それらの品を眺めていた美鈴の顔からさーっと血の気が失せていく。道具はどれも手術などで使いそうなものだ。だが、美鈴の身体は何処も悪くない。ならば、どう使うのか。まさか、麻酔も施さぬまま手術じみたことをこの身体に科すのでは、そんな悪夢のような予想が脳裏を過ぎったのだ。ガスマスクの怪人の白衣という格好もそれに拍車をかける。医者の悪質なパロディ。マッドサイエンティスト。この怪人は科学の進歩のためなどと称して美鈴の身体に拷問じみた医術の真似事を行うのではないか。

 恐怖に顔を引き攣らせ美鈴は白衣の怪人に何をするつもりなのかと問いかける。返事はおろか怪人は反応するそぶりさえみせなかった。代わりに怪人は適当な場所に台車を置くと、つかつかと拘束されている美鈴に歩み寄った。
 何をするのかと身構える美鈴に薄いゴム手袋に包まれた腕を伸ばすと無造作に顎を掴んだ。その小さな手の何処にそんな力があるのか、万力で締め上げられたように美鈴の顎が軋む。痛みと恐怖に耐えかね美鈴は悲鳴を上げたが口を押さえられていたため、出てきたのは踏みつぶされたカエルの断末魔のような声だった。

 怪人は空いているもう片方の手の人差し指を立てると無造作にそれを半開きになっている美鈴の口の中へと押し込んだ。口の中にゴムの苦い味が広がる。美鈴は何とか口を閉じようとしたが万力じみた力を発揮する手は固く顎を固定していてそれもままならなかった。薄いゴムに包まれた細い指が美鈴の口内を出鱈目に引っかき回す。他者に自分の内側を弄られるという行為に気持ちの悪さを憶え美鈴は涙目で顔をしかめた。
 それが三分ほど続いたのか、おもむろに怪人は顎から手を話し指も美鈴の口の中から引き抜いた。指にたっぷりと付いた唾液が糸を引く。奇妙な蹂躙からやっと解放された美鈴は嘔吐くように二三度、咳き込んだ。次いで涙目でマスクの怪人を睨み付け、何をするんですか、と怒鳴ろうとする。その怒りは発露されることはなかったが。
 怪人は今度は美鈴の顔を押さえると唾液まみれの指を鼻先に近づけた。そのままイボでも押さえるよう美鈴の鼻がしらを潰す。小さな子供がブタの真似っこをするような顔にされる。乙女がそんな顔をさせられたとあればさしもの美鈴も羞恥で顔を真っ赤にせざるをえなかった。やめてください、と首を振り顔を背けようとするが相変わらずその小さな手にどれだけの力が込められているのか、がっちりと美鈴の頭はホールドされたままだった。美鈴の鼻を押しつぶすのは飽きたのか、怪人は今度は指を曲げるとその背を鼻の下へと押しつけ擦りつけ始めた。その動作はかなり乱暴でゴムが滑り止めとなって鼻の下の皮膚を左右へひっぱった。それだけでは飽きたらず怪人の指は奇っ怪な寄生植物のように身を捩りたっぷりと纏わり付いていた美鈴の唾液をその鼻の下へと擦りつけた。小さな指は時に美鈴の鼻の穴にさえ進入し、またも自分の身体の内側を蹂躙されるという二度と体験したくない想いを美鈴に与えてきた。
 この行為は口内の蹂躙よりも更に五分ほど永く続けられた。鼻を滅茶苦茶にされ、美鈴は肩を震わせながら涙を流し始めた。鼻先から滴り落ちる粘液は彼女自身の唾液と鼻汁の混じったものだった。
 俯き、嗚咽を漏らす美鈴を睥睨するマスクの怪人。何かをするわけではない。ただ、ジッと美鈴のことをゴーグル越しに見ているだけだ。なんなんですか、一体と、言わんばかりに美鈴は顔を上げマスクの怪人を睨み付けた。その目が語っている。私が何をしたって言うんですか、と。

 暫くの間、怪人は美鈴の怒りの籠もった視線を受け止めていたが不意に首を振い肩をすくめた。まるで物覚えの悪いペットの犬に呆れかえった主人のような様だった。その態度に一体何が言いたいのだと美鈴は眉を顰める。それが琴線に触れたのだろうか。ガスマスクの怪人は今まで以上に乱暴な動作で美鈴の頭を掴むと徐々に唾液が乾きつつある汚れた方の手を再び彼女の鼻へと近づけた。同じく、己の顔も。
 顔を寄せた怪人は何事か大声を怒鳴り上げた。だが、美鈴の耳では何を言ってるのかまったく理解できない。マスクのフィルターが邪魔をして怪人の声は何か唸り声のようなものにしか聞こえないのだ。それどころか美鈴はまた鼻や口を出鱈目に弄り回されるのを嫌がってか、怪人の手を振りほどこうと必死に藻掻いた。それが更に火に油を注ぐ結果となったのだろう。怪人は掴んでいた美鈴の頭から乱暴に手を放すと、ツカツカと足音をわざとらしく立て自分が押してきた台車の所まで戻っていった。
 今度は何をするつもりだ、と美鈴は怪人の様子を恐る恐る伺う。怪人は台車の上に乗せられた道具を乱暴な手つきでつかみ取っては放しを繰り返している。まるでとっかえひっかえ具合を確かめているみたいだ。否、みたいではなくそうなのであろう。鋏を掴んでみてはそれを開閉し、美鈴の顔を睨み付ける。それだけで美鈴は漏らしそうな程、身体を震えさせた。

 ――メス、ドリル、ノコギリ。

 怪人の手の中で煌めく凶悪な道具の数々。それが自分の身体で使われることをイメージして美鈴は奥歯を打ち鳴らし、絶望に顔を引き攣らせた。

 そうして、怪人が選んだ物は…美鈴の予想をある意味で裏切り、鋭く尖った刃物の類などではなく、ブラシ、だった。

 長さは二十センチほどだろうか。木製で他の道具同様、実用性だけを考えた飾り気のない物だ。握りの部分にフックに引っかけるためのものか孔が開いている程度で特に特筆すべきような点はなかった。刷毛の部分の材質を除けば。
 怪人が手にとったブラシの刷毛部分は短く切りそろえた馬の毛や合成繊維などではなく極細の針金で出来ていた。一本あたりの太さはコンマ数ミリ程度の毛にしては太く金属にしては細い刷毛が柄と一つながりになっている木から生えている。固く鋭い刷毛は同じような硬度の物……例えば歯車などの金属部品や岩石を磨くための物だろう。
 そのブラシを見て美鈴はある意味で安堵した。皮下脂肪や筋肉でさえ容易く切り裂けそうな鋭いメスやその下の骨もガリガリと削れそうなノコギリなどに比べ人体を傷つけられる度合いで言えば金属ブラシなどは明らかに鼻で笑えるような下位のグループに属しているものだったからだ。まだまだ怪人が一体何の目的で自分をどうするのかはまったく分ってなかったが死ぬような、あるいは死にたくなるような目にはあわせられないと美鈴は高をくくった。

 その考えが甘かったと思い知るのは僅か数秒後だったが。

 相も変わらず力任せに美鈴の頭を押さえる怪人。利手には金属ブラシが握られている。それをどうするつもりなのだと、脅える美鈴の口に怪人は躊躇いなくブラシを突っ込んだ。


「――!!」


 驚きに美鈴の目が見開かれる。まさか、そんな使い方をするとは夢にも思っていなかったからだ。ささくれだった細長い刷毛が歯茎や頬の裏に突き刺さりむずがゆいような痛みを覚える。それぐらいならまだ美鈴も耐えられたであろう。僅かな痛みと金属の苦みに耐えれば済む話なのだから。だが、そんなはずはなかった。ブラシは何かを磨く為の道具だ。磨く、という行為は刷毛を対象に擦りつけてこそ。怪人は美鈴の頭が動かぬよう固く押さえつけたまま柄をしかと握りしめ、本来の役目を果たさせるため動かし始めた。

「ひぎっ!! 痛ッ…痛い、いだいいだいいだいだいだいいいだいだぢだだいだいだい!!!!」

 そう、美鈴の歯を磨くために。
 思えば清潔な白衣と美鈴の顔を強く照らすライトは歯科医のソレだ。この殺風景で病的なほど潔癖で明るい部屋で行われる暴虐は悪質きわまりないそのパロディだった。

「あガッ…ギギギギギぐぎぎっぎぎっぎゃぎゃぎゃくっ…ぎゃっ!!!」

 顔を引き攣らせ、目を見開き、声ならぬ悲鳴を上げる美鈴。ささくれだった千本もの針金が柔い口内を蹂躙する。歯茎を裂き、頬の裏側を抉り、舌先に突き刺さる。口端から流れ出る涎には朱が混じっている。口の中に広がる鉄の味に美鈴は激しい悪心を憶えた。

「いぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢぢ!」

 舌や頬裏を自分で噛んでしまった人や熱いお茶で火傷した人はいるだろう。だが、口の中を金属ブラシで磨かれるという経験をした人ま滅多にいまい。美鈴にとっても当然、この暴虐は初めての経験であった。口の中という普段早々、痛みに晒される事のない場所、触覚以外に味覚が備わっている場所を無慈悲に傷つけられる身悶えする痛覚。完全に道の傷みだった。それでも口内に根を伸ばす神経系は逐一、その未測の痛みを美鈴の脳へと伝えていく。

「いだい、やめで…やめで…やめ、やめでぐだざび…おね、う゛ぁいしま…ず」

 涙を流し、出来ようものなら平身低頭、額を床に擦りつけてでも止めてもらおうとお願いを申し上げる美鈴。既にその精神に尊厳などなかった。この苦痛から逃れられるのならどれほど屈辱的な真似でさえすることであろう。その美鈴の殊勝さに惚れたのか、すっと怪人は口の中に差し込んでいた金属ブラシを抜き取った。

「うぁ…あああ…」

 白痴のように涎を垂らしながら美鈴は拷問を止めてくださった怪人の姿を見た。朱色の涎が服を汚している。そんな美鈴に一瞥さえくれず怪人はまた台車の所まで戻っていった。怪人は金属歯ブラシを刷毛の部分が触れぬよう台車の端に置くと身を屈め台車の下の段を探り始めた。椅子に座った美鈴からは怪人が何を取りだそうとしているのかは見えない。痛み止めの麻酔か、口の中のようなデリケートな場所にも使える傷薬なのか、既に奴隷のような卑屈な心を持ち始めている美鈴はぼんやりとそう考えた。もっとも美鈴を丁寧に扱う必要は主人である怪人にはこれっぽっちも存在しないのだが。

 と、目当てのものを見つけたのか、あえて見せつけるよう怪人はそれを台車の一番上の段に置いた。ポリ製の四角い容器だった。あれはなんだろう、と美鈴は考える。激しい痛みと涙で視界は朦朧としているがなんとかピントを合わせ、それを見定める。注意書きと思わしきラベルには赤字に黒の×点が表示され、その隣には取扱注意の文字が見える。美鈴からは見えないが細かな説明文の中には主成分:水酸化ナトリウム、苛性カリなどと書かれている。怪人が取りだした容器の中身は洗剤だ。それも素手で扱えるようなものではなく、廃水パイプの洗浄などに使われる強力な物だ。
 学のない美鈴ではそこまで容器の中身がなんなのか分らなかったが、それを手に自分の所に戻ってくる怪人の雰囲気から危険なもので、それで再び自分の口内を虐げるだろうということは理解した。愕然と目を見開き、か細い声でやめてください、と懇願する美鈴。けれど、願いは虚しく怪人は容器の封をきると、片腕で美鈴の顎を押さえつけ、力任せに上向けると無理矢理口を開かせ、中身の液体を流し込んだ。

――!

 瞬間、熱湯でも流し込まれたような激しい熱を美鈴は口内に感じた。元より、地肌に触れないよう注意書きが記されているような強力な洗剤なのだ。それを敏感な口の中、しかも金属ブラシによってその表面は削ぎ落とされたように傷だらけなのだ。傷口を文字通り溶かし、血や抉れた肉、その他、歯の隙間に詰っていた食べ滓などを綺麗にしていく。

「ぶはっ…!」

 美鈴はすぐに口の中に注ぎ込まれた洗剤を吐きだした。怪人はその直前に美鈴の横側に回り込んでおり、噴出物を浴びることはなかった。だが、美鈴のその反応には当然不服であったようで、えづく彼女の口に容器の口をあてがうと力任せに上を向かせた。大量の洗剤が流れ込んでくる。口の中に収まりきらなかった分は溢れ、美鈴の身体を濡らしていく。
 またも美鈴の喉は自発的に動き、流し込まれた劇薬を吐き出そうとするがそうはさせないと中身が空になった容器を無造作に捨て、怪人は美鈴の口を平手で覆った。そうしてそのまま――シェイク。頭を両手で押さえ前後左右に振う。

「――ンっ! ――ンっ!!」

 見開かれた瞳から留処なく流れ出る涙。瞳からは徐々に輝きが失せつつあった。口内同様、精神が融解しつつあることの表れだ。
 美鈴にとっては永遠と思えるような――実際はものの数秒ほどのシェイクは怪人に飽きが来たのか、唐突に終わりを告げた。前後左右に揺さぶっていた首を最後はそのまま取り外してしまうような勢いでもって下向かせる。最早、吐き出すではなく自然とそうなったように朱色の液体が美鈴の口から膝の上へと流れ出て行った。

「うぁ…」

 もはや言葉など発することは出来ない。劇薬で喉を焼かれ、口内は傷だらけの上に爛れている。口回りも薬液によって漂白されてしまったのか、頬辺りと比べると明らかに病的な薄桃色に変色してしまっていた。
 敗残兵のような有様の美鈴。その背後に怪人は音もなく回り込むと、今までの乱暴さでは考えられないほど優しげな手つきで打ち拉がれている美鈴の顔を正面向かせるよう持ち上げた。その逆の手には金属ブラシがまたも握られていた。その輝きを目にし、ひっ、と短い悲鳴を上げる美鈴。まだ、『歯磨き』は終わっていなかったのだ。

 後ろから再び美鈴の口に金属ブラシを突っ込む怪人。もはや、美鈴は抵抗する気力すらないのかされるがままだ。もっともそうだったのは入れられる瞬間までだ。鋭い針金の刷毛がまたも柔い肉を削ぎ始めると美鈴は声に鳴らない悲鳴を上げ始めた。

「ぎゃぁ!! あぁ、あがががが!!」

 口から溢れ出いるのはもう血混じりの涎というより涎混じりの血だった。粘つく赤い雫が糸を引きながら服の上へと流れ落ちていく。

――じょりじょりじょり

 泡を立て前歯の辺りを往復する金属ブラシ。唇もその蹂躙に巻き込まれ、薄皮が裂け、血の紅(べに)をひいていく。

「ひぃひぃひぃ…ッ!!」

 苦痛と絶望に彩られていた美鈴の顔つきに変化が生じる。血塗れの口の端を歪ませ、眉尻をあげ、笑みを浮かべ始めたのだ。人間、怒りや苦痛が行きすぎると嗤うことがあるという。気が狂いつつある証左だった。自分がこんな風に酷い目に逢うはずがないと現実逃避しているのか、それとも主人に歯を磨いて貰い感謝の極みに達しているのか、それは美鈴の混沌と化しつつある精神を図にでも表せなければ判断できない。

「あば、あば、あばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばばば」

 口にブラシを突っ込まれた状態で病的にまで白い部屋に哄笑を響かせる。血と涎の飛沫が散り、身体は苦痛から逃れようとしてか四肢を犠牲にしても構わぬと言わんばかりに無理矢理に拘束を解こうとしている。強固な枷はそれを許さず両手首足首に肉が露出するほどの擦過傷を生み出す。全身は電流でも流されたかのように痙攣しているが頭だけは微動だにしていなかった。怪人が強固な力で押さえつけているからである。


「――――――――――――――――――――――――――――――――」

 そして逆の手は淀みなく美鈴の歯を磨き続けていた。一本一本丹念に。歯の表面は当然ながら、その隙間。歯茎との結合点に至るまで。ジョリジョリと、ジョリジョリと泡を立て。乱暴に。汚れているのなら汚れごと回りの肉を削ぎ落としていけばいいのだと言わんばかりに。この暴虐の中で歯そのものは案外、無事であった。当たり前だ。歯の硬度は実は水晶に匹敵する。金属ブラシをなでつけられたところで傷は付かないのだ。だが、その土台の歯茎はそうはいかない。風雨によって台地が浸食され出来上がる奇景のように歯だけを残し歯茎は一回りも二回りも小さくなっていく。そうして、

「あ」

 左下の犬歯がついに脆くなってしまった歯茎から抜け落ちてしまった。口の中からこぼれ落ちたそれは椅子の手すりに当り、跳ね、床に血の跡を残しながら転がっていって台車の足下あたりで止った。『歯磨き』も。

「……」

 転がっていった歯を追いかけるように怪人もまた汚れた歯ブラシを手に台車の所まで行く。今度はブラシを無造作に置き、またも腰を屈め台車の二段目からポットと小さなグラスを取りだした。なみなみとグラスにポットの中身を注ぐ怪人。その光景を見て辛うじて美鈴に残されていた理性が小さく短い悲鳴を上げさせる。また強力洗剤を口に含まされると思ったのだ。
 案の定、液体が注がれたグラスを持って戻ってきた怪人はコップの縁を美鈴の唇にあてがうとその中身を口の中へと流し入れようとする。もう、美鈴は抵抗する気力も意思も失せてしまったのか完全にされるがままだった。それも液体が口内に流れ込んでくるまでだった。傷口から剥き出しの神経はまたも美鈴の脳に激しい痛みを伝え――そうでもなかった。痛いことは痛いが先程、洗剤を口の中に無理矢理流し込まれた時ほどではない耐えられる痛みであった。
 そうして、洗剤の時同様、口を押さえつけられ頭を揺さぶられる。ぐちゅぐちゅぐちゅ。どぱぁ。四五回、揺さぶられたところで流れるがままに美鈴の口から液体が溢れ出てきた。それは混ざってしまった美鈴の血と唾液は兎も角として無味無臭で特に害のない液体――ただの水であった。当然と言えば当然か。歯を磨いたのだからその後、口内を濯ぐのは。
 怪人はそれをもう一度、二度、繰り返す。美鈴の口の中は流れ出る血のせいで一向に綺麗にならなかったが…怪人としては『濯いだ』という行為自体が大事なのだろう。中身が空っぽになったところで怪人はグラスを置きに戻った。

「ううっ……」

 うめき声を上げ美鈴は顔を上げる。その視線の先で怪人はゴム手袋を外し、白衣も脱ごうとしていた。見慣れた洋服が露わになる。脱いだゴム手袋は台車の三段目にあるゴミ箱へ、白衣は台車に無造作に引っかけ、ガスマスクの怪人は美鈴の元へ歩み寄った。
 そうして、それだけは肌身離さず持っていたのであろう小さなボトルを取りだした。ボトルは霧吹きになっていてガスマスクの怪人は美鈴の口回りにシュッと一吹き、中身を吹付けた。薬と消毒液、それと自分の血と唾液の臭いしか嗅ぎ取っていなかった美鈴の鼻に薔薇を想わせる芳しい香りが届く。ボトルの中身は香水だった。

「これで分ったでしょう」

 ガスマスクの怪人はマスクを脱ぎながらそう窘めるように言った。けれど、顔にはまだ一抹の不満が浮かんでいるようだった。だが、仕方ないだろう。ガスマスクを被っていた怪人――紅魔館当主レミリア・スカーレットにとって美鈴がしでかしたことはとても吸血鬼としては看過できないことだったのだから。

「いくら私たちが留守とは言え、ぎょーざ、という名前だったかしら、あの支那風カルツォーネなんてものをこの屋敷で作らないで頂戴」

 まったく、お陰でアレを食べた妖精メイド、全員物理的に馘首にしなきゃ鳴らなくなったじゃないの、とレミリア。その台詞の『アレ』の部分には仇敵の名を呼ぶような忌ま忌ましさが込められていた。否、仇敵で間違いない。
 レミリアとその妹フランドールがメイド長の咲夜を伴って屋敷を離れたある日、残された屋敷の使用人たちは全員が全員、腹を空かせていた。屋敷を離れたメイド長は食事係も兼任していたからだ。そこで美鈴は久々に肉切り包丁と鉄鍋を握った。祖国の味をみんなにも披露してやろうと思ったのだ。幻想郷ではなかなか食べられない大陸の味に妖精たちは空腹というスパイスも相まってか盛大に舌鼓を打ったのだが、それに使われている原材料に問題があった。そう美鈴が皆に振る舞った餃子には当然ながら大蒜が使われていたのだ。
 大蒜と言えば十字架、聖水、太陽の光に次ぐ吸血鬼の弱点だ。レミリアがアレ呼ばわりするのも無理はなかった。彼女ら吸血鬼にすれば置いていった使用人たちが自分の身体に毒になるものを食べていたのだから。レミリアの立腹も理解できない訳ではない。

「しかも、歯磨きも忘れて。貴女も一端の淑女なら、清潔を心がけなさい」

 更に美鈴たちにとって不運だったのは、食べ物を振る舞ったのだからお酒も、と秘蔵の紹興酒をあけてしまったことにあった。一日ぶりの食事は気がつけば宴会に変わっており、そうしてレミリアとフラン、咲夜、それについでだからと魔理沙の所へ遊びに行っていたパチュリーが帰ってきた時、屋敷、特に食堂と調理場は大蒜の臭いによる汚染が吸血鬼たちにとっては危険レベルにまで達していたのだった。まずフランが白目を剥いて倒れ、本当なら大蒜は別段、身体にとって害にならないはずのパチュリーももらい昏倒し、なんとか気を失いまいと当主の威厳を保とうとしていたレミリアもまたその場で激しく嘔吐、さしもの咲夜も慌てふためき…現場は阿鼻叫喚の地獄となった。

「あとでフランにも謝っておくのよ。まったく」

 この『歯磨き』はその落とし前、ペナルティ、戒めとしての罰であった。丸一日たってもまだ大蒜臭かった美鈴の口内の洗浄を兼ねての。

「ああ、でも、あれだけみんながばくばく食べたのだから相当美味しいのでしょうね。美鈴、今度可能であれば大蒜ぬきのアレを作りなさい」

 試してみるわ、とそう言いながらもう事は終わったのだとレミリアはガスマスク片手に眩しいほど明るく病的にまで潔癖な部屋から出て行った。その背中を見送りながら今回ばかりは反逆を企てる奴隷の心を持ち、美鈴は――まっぴらごめんだ、とそう思ったのだった。



END
たまにはわかりやすいリョナSSでもどうですか?
sako
http://www.pixiv.net/member.php?id=2347888
作品情報
作品集:
30
投稿日時:
2012/07/08 02:58:55
更新日時:
2012/07/08 11:58:55
分類
美鈴
1. NutsIn先任曹長 ■2012/07/08 16:07:31
確か、そういう行為をする医療従事者の名を持つ拷問がありましたっけ。
主の弱点ぐらい把握しておけよ、門番。
パチュリーはエレエレしたのかな?

次回は、美鈴はフランちゃんにお詫びの意味を込めて、小耳に挟んだ言葉を誤解してレバニラ定食を作ったりしてね。
2. 紅魚群 ■2012/07/08 20:19:45
あるようで最近は少ない、産廃ならではのオーソドックスなSS。それでいて美鈴という珍しいキャラチョイスや、拷問内容も趣向が凝らしてあり、思わず口の中が痛くなりました。仕上げはお嬢様〜♪
ニンニクなしの餃子も普通においしいので、お嬢様も今度振まってもらうといいですね。もっとも、次はニンニクの代わりに毒が入っているかもしれませんが。
3. 名無し ■2012/07/09 14:49:58
これは美鈴が悪い。お嬢様が正しいよ。
4. 名無し ■2012/07/11 00:55:06
痛みが想像できて、申し訳ないが歯磨きのシーンは斜め読みしちゃったよ。
いやはや、紅魔館の罰とは恐ろしいものだ。
5. 名無し ■2012/07/11 19:54:59
さすがに吸血鬼の館で大蒜入りギョウザの大盤振る舞いは想像力に欠けてるといわざるを得ないよほんみりん

しかし濃厚そうな味と比べてオチはすっきりさわやかなのであった
6. 名無し ■2012/08/07 21:16:38
美鈴、良かれと思ってやったことなのにカワイソス
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