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『「産廃百物語B」 禁則事項その1 “誰ですか彼方は?”と尋ねてはいけない』 作者: sako
朝一の軽い食事も終え、人々がそれぞれの仕事に就き始めた頃、博麗神社に東風谷早苗がやってきた。
「霊夢さーん」
静かな朝だった。いつもなら屋根の上で囀り声を上げている雀も今日ばかりは何故か一匹もとまっておらず、山林の音楽である葉擦れもなかった。今朝は全くの無風であったからだ。空は晴れており、雲がまばらにあるだけだった。地上を照らす日の光も優しげで、気温は暑くもなく寒くもなくとてもすごしやすかった。
けれど、どこか居心地の悪さを憶えてしまうような朝だった。澄み渡った空から肌に優しい陽光が降り注ぎ、そうして、サナトリウムのように静かな境内。良い日である条件がそろっている。それでもどこか歯車がずれてしまっているような、歯にものが挟まっているような、そんな一抹の気味の悪さを憶えてしまう日だった。
「霊夢さーん、どこですか?」
何処か日常ではない空気が漂う朝。それに気がついているのかいないのか早苗は霊夢を捜して境内を歩き回る。必死さはない。当たり前だ。早苗はただたんに遊びに来ただけなのだから。だが、霊夢はどこにも見当たらない。普段ならこの時間、霊夢は欠伸を噛み殺しながら境内の掃除をしているはずなのに。
「離れの方かしらん…?」
今日は朝寝坊してしまったのだろうか、と早苗は考え神社の横手に回った。通路代わりの庭石にそって進む。なくとも迷わないだろうが。霊夢は神社の本殿に付属するように建てられた離れの方で生活している。平屋の粗末な、けれど、霊夢一人で住むには広すぎる家だ。確かにこちらの住まいの奥の方にいれば早苗の来訪に気がつかないかもしれない。そう考え、早苗は大きな声で霊夢のことを呼びながら住居の方へと近づいていった。
けれど、返事や早苗を出迎えに来るような気配は感じられない。誰もいないのだろうか。早苗にはそうは思えなかったが。
「霊夢さーん」
心なしか霊夢を呼ぶ声から覇気が消え失せていた。まるで病院で使うような声量。神社を満たしている静寂に毒されてしまったかのように早苗は声を小さくしていた。
「…霊夢さーん」
また、声だけではなくその歩みも牛歩じみたものに変わっていった。姿勢が低く、及び腰になり視線も定まらず、小動物のように右往左往している。
どれも意図してのものではない。意図してこんな風にビクついて歩く至極真っ当に当然な理由が早苗にはないのだから。だからこれは至極真っ当ではない理由によるもの。
「……霊夢さーん」
早苗は感じ取っていたのだ。博麗神社に漂う強烈な違和感を。その体に流れる神の血によるものなのか、常人が持ち合わせていない第六感的なもので。
だから、早苗の歩みは見ず知らずの土地に突然放り出されたも同然のものだった。この道が何処の続いているのか分らず、曲がり角の向こうがどうなっているか分らず、そうして一体何がいるのかわからない。そう言った状況に陥った者の歩みだった。
勝手知ったると言い切れるほど慣れ親しんだ庭がまるで異邦人の住まう異教の徒の異国の地に思える。景色に何一つ見覚えはなく、身の危険さえ憶えてしまう。否。それは最早早苗の中で真となっていた。
「霊夢…さん?」
そうして、それは現実においても正となる。
離れ、雨戸が開け放たれた縁側へと近づいた早苗は室内に人影を認めた。正真正銘の影を思わせる黒衣が室内でなにやらごそごそと箪笥やら小道具入れを物色していたのだ。黒衣が薄暗い室内の闇に溶け込んでいて、その姿は酷く捉えづらい。だが、霊夢などではないことは一目で分った。霊夢は紅白の巫女服しか着ないのだ。こんな黒い服を霊夢は着るはずがない。また、黒衣からは霊夢の持つ磨き抜かれた銅鏡のような神妙な気配は伝わってこなかった。もっと低俗で埃っぽく下賤な魔の雰囲気しか。これは決して霊夢なのではない。
霊夢以外が霊夢の家に家に居る。猛烈な違和感。背中に出来物でもできたような酷く気分を害する類の感覚であった。その感覚はすぐに早苗の中で変異する。驚愕や恐怖、などではなく怒りに。早苗は激情に駆られるままに縁側に身を乗り出した。そうして、
「誰ですか彼方はっ!?」
そしうて、叫んだ。口にしてはならない言葉を。
「チッ…」
それを聞いた黒衣は忌々しげに舌打ちをしながらゆっくりと振り返った。傲慢とさえ思えるゆっくりとした動作で。
咄嗟に身構える早苗。黒衣から敵意らしき鋭い気を感じ取ったのだ。だが、同時にその気配には憶えがあって…
「誰とは心外だな。私だよ、博麗霊夢だよ」
「うそおっしゃい! 魔理沙さん!」
薄暗い室内から出てきたのは魔理沙だった。暗がりから明るみに出てきたせいか眉を顰めている。
「何やってたんですか」
「いや、別に。親友の部屋に遊びに来ていただけだぜ?」
いや、むしろその顔はばつが悪そうに、と形容すべきだったか。早苗に指摘され魔理沙はそっぽを向きながら吹けもしない口笛を吹きながらそうぶっきらぼうに答えた。嘘だ、と早苗はすぐに見破った。魔理沙の手癖の悪さは早苗も知るところであった。おおかた、神社の神具か何かを無断で且つ超長期間、借りに来たのだろう。ふと、早苗は無断ではなく無理矢理、超長期間オモチャや漫画を借りていくガキ大将のことを思い出して、はたしてどちらの方が質が悪いのかと一瞬だけ考えた。
「あとで霊夢さんに殴られても知りませんよ」
「霊夢パンチはこわいな」
アイツの攻撃はすごくかいしんのいちげきがでやすい、と魔理沙。そんなことをのたまう魔理沙にいつから霊夢さんはぶどうかになったのだ、と早苗は突っ込みを入れた。
「まぁ、しかし、今は殴られる心配はない。どうにも留守みたいだからなアイツ」
「そうなのですか?」
疑問符を浮かべながらも確かに、と早苗は得心していた。あれだけ声を上げて探し回ったのに霊夢の姿は神社の何処にもなかったのだ。また逆説的ではあるが霊夢がいないからこそこの指の曲った魔法使いは部屋を物色していたのだ。
「ま、異変でもないのにアイツが神社を開ける事なんてありえない。買い物にでも出かけてるんだろ」
そう言いながら勝手知ったる他人の家で湯飲みや急須を戸棚から取りだす魔理沙。そのまま家の奥へと消えていく。恐らくお茶の葉やお湯を台所までとりに行ったのだろう。霊夢が帰ってくるまで待っていようという腹づもりのようだ。少しだけ考えた後、早苗もそれに倣うことにした。履物を脱いで縁側から室内へ上がる。
「おい、紅白饅頭見つけたぜ。おやつには早いがいただこうぜ」
見ればちゃぶ台の上に置かれた湯飲みは二つあった。紅白饅頭も二個ずつ。姑息にも魔理沙は早苗も不法侵入に巻き込もうと考えたのだろう。そんな魔理沙の考えに気がついた早苗は、これは後で一人でも菓子折を持って謝りに来よう、と内心で肩をすくめた。
魔理沙の淹れたお茶を飲み、紅白饅頭を囓る二人。とたんに神社にまた沈黙が訪れた。当たり前と言えば当たり前か。二人とも霊夢に会いに(魔理沙は更に物色しに)来ていたのだから。それでも年頃の女の子が三人寄れば姦しいというからには、二人でもそれなりの会話を交わすようになっていた。
「そうそう、あそこのサ店のケーキがすごく美味かったぜ」
「見てくださいよこのアクセ。東通りの雑貨屋で買ったんですよ。可愛いでしょ」
「こういうスペカを思い付いたんだ。なかなかの難易度だろ?」
「そう言えば風の噂で聞いたのですが、白玉楼の庭師さんと永遠亭の兎さん、お付き合いしているらしいですよ」
弾む、とは言えないものの会話は盛り上がりを見せていた。やはり二人とも女の子だからだろうか、おいしいお茶とお菓子さえあれば自然と機嫌が良くなるものなのだ。会話の内容は他愛のないものばかりだったが、それでも時間の経過を忘れる程度には――早苗が神社にやってきて既に小一時間ほど経過していた、二人とも会話に集中していた。
だから、仕方がなかった。
「それでですね、布都ちゃんってば…ん?」
最近知り合いになった仙人について話していたところで不意に早苗が小首をかしげた。
「ああ、あのちびっ子いのか。今度はあれの親玉の屋敷に行ってみたいもんだ。丙子椒林剣とか手に入りそう。高弟の青いのは石化が効くからラクショーだな。ん? どうした早苗。何かいるのか?」
早苗が台詞の途中でバグを起こしたように止ってしまったことに気がついて魔理沙も疑問符を浮かべた。早苗は魔理沙に応えずアの形に口を小さく開けたまま開け放たれている庭の方へと視線を注いでいた。どうやら誰か来たようだった。霊夢か。それとも魔理沙たちのような来客か。そんなことを考えながら、魔理沙も早苗に倣い視線を庭の方へ向け…
「誰ですか彼方はっ!?」
そう叫んだ。叫んではいけないことを。
しかもおかしな台詞であった。誰ですか、はないだろう。ここは博麗神社だ。つまり、霊夢の住処だ。そこにやってくる人影と言えば霊夢の可能性が一番高い。次点で魔理沙や早苗のように霊夢が不在なのを知らないで遊びに――紅いお屋敷の吸血鬼や妖怪の山のブン屋や墓荒らしの邪仙やらが来たという可能性が考えられる。それ以外にも少し想像力を働かせれば村の米屋が食料など生活必需品を届けに来ただとか宮大工が神社の修理に来た、という事も考えられる。或いは妖怪がお礼参りに来たとも。
だが、今例に挙げた人物の内、誰が来たとしても『誰ですか』という台詞は出ないであろう。霊夢なら当然のこと、次に上げた友人たちも当然、早苗たちの顔見知りだ。最後に例にした人々は知り合いでない可能性はありえるがそれでも出会い頭にそんな失礼なことは尋ねない。この二人が常識知らずだったとしてもだ。
だから、来訪者はそういった常識の範疇の外側に属しているものだった。一目でそうと分る異形だったのだ。
ソレは人の形はしていた。申し訳程度に。頭があり手足があり二本の足で立っている。けれど、出鱈目だった。
右手右足左目左耳頭胴体。身体を構成しているパーツ全てが歪で非対称でねじくれていた。両方の足の長さが違った。左足の膝は逆方向に曲っていた。両手も不揃いだった。ご丁寧に指の長ささえもいいかげん。右手は中指が極端に短く、代わりに小指が普通の三倍ものの長さまで伸びており、親指に至っては空気入れで膨らませたかのように太く不格好なものになっていた。そうして左手はまたまったく別の形状をしていた。顔も不気味さ極まるものだった。左方向だけ頬まで裂けた口。そこから覗く歯は幼児から老人の歯を適当にかき集めて生えていた場所も考えず埋め込んだ様に全て不揃いだった。鼻も粘土で作った胸像を悪戯半分につねった様にひん曲がっていた。瞳はどちらも大きく、右の目に至っては軟球程度の大きさがあった。そして、嫌悪感を憶えるほど不気味なことに白目というものがまったく存在していなかった。昆虫を思わせる感情のない大きな目玉が眼窩に収まりぎょろぎょろと動いているのである。そして、なによりも部屋の中の二人を唖然とさせたのはそいつが着ている服がとても見慣れたものだったからだ。紅と白の布で作られた特徴的な儀式装束。そうそいつは巫女の服を着ていたのだ。霊夢のものと酷く似通った。
ああ、そうだ、だからこそ『誰ですか彼方はっ!?』などと叫んだのだ。敵意も顕わに、警戒心を最大限に、嫌悪も隠さず、怯むことなく、親しい友人の醜悪なパロディを弾劾する意味合いで。
魔理沙ではなく早苗は。
「なっ、なんだこいつは…」
遅れて脅えながらに魔理沙はそう口にする。生まれたての小鹿のようにかくかくと関節を折りながら何とか立ち続けているソレ。その不気味な動きに魔理沙は目を背けたくなるが、逆に視界から外せばどういった動きをするのかまるで分らず、それが恐ろしくて目を背けることも出来なかった。
早苗も似たような状況だった。それに気がつき、啖呵を切ったもののそれ以上、なにかできる精神状態ではなかった。仇敵を見つけたようにそれを睨み付け、怖ろしさからか武者震いか、身体を小さく震わせている。蝦蟇の油を思わせる嫌な汗がッーとこめかみを流れていった。
また、神社に静寂が訪れる。だが、その静けさはただ単に静かだというものではなかった。忘れ去られた地下墓地のような、暗黒の宇宙のような、荒涼とした終末の大地のような、身を凍えさせ精神を摩耗させる重圧を持った静寂であった。
魔理沙や早苗ではその静寂を破ることは出来なかった。まるで呪いにでもかけられたかのように二人は大きく動くことが出来ず、僅かに身震いしているだけだった。
「ん?」
と、
なんの前触れもなく、ソレは火で炙られたように身体をのたうち回らせた。曲げてはいけない方向に関節を曲げ、力任せに手足を振う。残像さえ残る速度で頭部をシェイクし、その場でまっすぐに二度、三度と飛び上がった。
唐突に破られる沈黙に魔理沙と早苗は心臓が破れてしまったのではないかと思えるほど驚愕した。バネ仕掛けのオモチャのように飛び跳ね、脱兎のように部屋の隅まで逃げ出す。二人して救いを求めるように抱き合ったところで逃げるのは止めたが、どちらかと言えば腰が抜けて逃げることが出来なくなったと説明すべきだろう。
「うわあぁぁぁっ!?」「何々? なんですかッ!?」
懐からミニ八卦炉や御札を取りだし臨戦態勢をとる二人。けれど、血の気が失せ脅えきった顔はとても戦えるようなものではなかった。指先は中毒でも起こしたかのように震え、視線は酩酊したように定まっていない。頭も同じだろう。
「って、あれ…」
幸いだったのは、戦える状態ではない二人に対してあれもまた戦う気が恐らくなかったということであろう。気がつけば離れの庭にいつの間にか現われていた異形は、同じくいつの間にか姿を消していた。もうそこには何かがいたという形跡は何一つ残されていなかった。
「な、なんだったんだ一体…?」
魔理沙の固い声も静寂の中に漂うように消えていってしまった。
■■■
そして、次の日。同じく、農夫や商人たちがそろそろ仕事に就き始めた頃、博麗神社に一つ人影がやって来た。神社の巫女の名を呼びながら境内をゆっくりと散策する人物は、
「霊夢ーっ」
魔理沙だ。昨日の早苗のように霊夢を探しているようだった。
昨日、魔理沙と早苗の二人は霊夢に会えなかった。いや、会う前に帰ってしまったとも一応、言える。
あの後、結局、二人は霊夢を待つことなく神社から帰ってしまったのだ。いや、帰ってしまったでは少し語弊がある。正確に言えば“逃げ”帰ってしまった、だ。あの突然の来訪者に恐れ、脅え、戦いて。
今まで出逢ったあらゆる怪異とも異なる存在に驚いた二人は自我亡失同然にまで陥り、暫くの間口をきくことも出来なくなってしまった。やっと、自発的に動けるようになったのは数十分も後で、その後も二人の口からはアレについて語る言葉はひとつも出てこなかった。どちらとはなしに帰宅を促すような言葉が漏れ、それに二人とも不自然に同意したのだった。そして、昨日は結局、そこで物別れに終わってしまった。霊夢の帰宅を待つどころではなかった。ましてやアレが一体何だったのか探る勇気も。
そうして今日、胸騒ぎを憶えた魔理沙は再び博麗神社にやって来たのだった。ただ、その足は鎖でも科せられたように重いものだったが。一夜明けて魔理沙は十分に冷静さを取り戻してはいたもののその心にはトラウマのように昨日みた異形の姿が焼き付いていた。狂人の白昼悪夢を具現化したような、麻薬中毒者が垣間見た人間の真実の姿のような、あの人体の醜悪極まるパロディが。
「霊夢、いないのか…」
霊夢を捜しつつもその邪悪な姿はどれだけ経っても頭蓋骨の裏側に油汚れのようにこびり付いていた。拭うには酒か薬の力が必要に違いない。それでも表面を拭う程度で素面になってしまえばまた視界の片隅に、瞬きの一瞬に、見えぬ背後にアレの姿を認めてしまうのだ。完全に魔理沙の精神は汚染されていた。
それでも魔理沙が昨日アレを目にした神社に赴いているのは今更ではあるが昨日見なかった霊夢の姿を探してのことだ。勿論それは昨日、結局姿が見えなかった霊夢を心配してのことだったが、加えて言うなら自分の心に刻まれたトラウマを拭うため彼女の力を借りたいと思ったからである。
博麗霊夢と言えば妖怪退治のエキスパート。今まで数々の名だたる妖怪を懲らしめ、それどころか聖人や偉人、悪魔、神、はては宇宙人まで屠っているのだ。ならば、霊夢の力を持ってすればあの冒涜的な異形も人の手で御しきれる存在にまで貶めることが出来るはずだ。それは喩えて説明するならかつては自然の猛威そのものであった虎や豹などの猛獣も今や人の力によって捕えられ動物園の見世物と化しているのと同じ考えだ。霊夢にあの異形を退治してもらうなりその正体を突き止めてもらうなりして、魔理沙は『あああれだけ恐ろしかったアイツはなんてことはないただの妖怪の一種だったんだ』と思いたいのだ。その為にはシステム上、異変に対しては決して負けない霊夢の存在が必要であった。霊夢ならば相手がなんであろうと、既に形而上学上上位の存在である神も地球上の知識では計り知れない宇宙人も別次元である魔界の創造主も倒しているのだから、なんであろうと広義の意味で倒せるはずだという確信が魔理沙の中にはあった。
ならば魔理沙は布団でもおっかぶって、霊夢がアレを屠るまで震えていればよい、という考えも導き出されるだろう。現に魔理沙は家を出る一瞬前まで、そうしてなんとか神社までやって来た今でもそうしたいと考えていた。その甘美な誘惑じみた考えに乗らなかったのは偏に心配だったからである。
霊夢は負けない。何者にも。相手がなんであろうとも。それは不文律だ。だが、世の中には常に例外があると言うことも忘れてはいけない。加えて魔理沙はどうにも昨日見たアレが霊夢と同じような巫女装束を着ていたことが喉に引っかかった小骨のように気になっていたのだ。
まさか、と脳裏に黒い予感を感じ取りながらも魔理沙は親友を、そして自分を救ってくれる幻想郷の抑止力を探し続けた。
そこへ、
「霊夢…じゃないのか。残念」
そんな声が唐突にかけられた。街中で気づかずにすれ違った知人に不意打ちで声をかけられたようなものだったが、精神的重圧を感じていた魔理沙には夜道で驚かされたようなものだった。ひゃぁ、と悲鳴を上げ飛び上がる魔理沙。
「なっ、なんだ。どうしたってのよ一体全!?」
声をかけてきた方も魔理沙の悲鳴に驚いてしまったようだ。身を半歩退き両手を逃がすように挙げている。
「お、驚かすなよ神奈子」
魔理沙に声をかけてきたのは山の上に神社を構える二神の内の一柱、八坂神奈子であった。
「どうしたんだ、こんな所で」
身体を落ち着かせながら魔理沙はそう尋ねる。ここは博麗神社であって守矢神社ではないのだ。守矢神社の神である神奈子がここにいることには少し違和感を憶える。昨日の魔理沙や早苗のように遊びに来た、のかそれとも何かまた悪巧みしている、というのであれば分らなくもないが。どうにも神奈子の強張った表情からそれはないことを魔理沙はすぐに読み取った。神奈子は魔理沙と同じように何かしら心配事を抱えているようだった。
「それが…昨日から早苗が帰ってこなくって」
成る程。暗い表情の理由はそれか、と魔理沙は納得した。確かにこの神奈子の顔は我が子の帰りを心配する親の顔つきだった。
それなら、と魔理沙は口を開く。
「早苗なら見たぜ」
「どっ、どこで!? いつ!?」
魔理沙に掴みかからん勢いで迫る神奈子。神なのに溺れる者は藁をも掴む、と言わんばかりの切羽詰まった様子だ。落ち着け、と魔理沙は窘めるように言う。
「見たのはここ。ただし、昨日だぜ」
「それは何時頃?」
「時計なんて持ってないぜ。ああ、でも丁度今ぐらいだったかな」
空を見上げ、太陽の位置を確認してそう説明する魔理沙。幻想郷でも時計ぐらいは中流の家庭なら誰しも持っているが、携帯可能な懐中時計や腕時計となるとこれは本当に一部の物好きな金持ちしか持っていない。幻想郷ではまだ日時計が一般的なのだ。分刻みの正確な時間を知る必要がない、とも言えるが。
「それで、その後、早苗は何処に行ったの?」
「いや、知らないぜ。霊夢の家で適当にお茶を飲んでそこで――それから一時間ぐらいして別れた」
てっきり帰ったものだと思ったんだが、と魔理沙。そう、と神奈子は肩を落し、それでも一応、ありがとうと小さく魔理沙に頭を下げた。
「なぁ、神奈子、実は霊夢の奴も昨日から姿を見かけないんだ。巫女が二人揃って居なくなるなんてかなり問題じゃないか」
「二人揃って…まさか、駆け落ち!?」
「そんなまさか。また、夜遊びにでも出掛けたんじゃないのか」
魔理沙の言葉に眉を顰める神奈子。実際、年頃の娘にしては早苗はよく夜遊びをする。そう言う場合、帰ってくるのは大抵、日が昇り始める頃で、こっぴどく神奈子に怒られるのがほぼ通例となっている。そのようなことを以前、小耳に挟んでいた魔理沙は今回もまたそうではないか、と言ったのだ。ただ…
「うん…でも、こんな時間になってもまだ帰ってきていないなんて今までなかったから」
神奈子は伏し目がちにそう応える。今日ばかりはいつもとは違うと、経験則から、そして、蟲の知らせめいた第六感でそう感じていたのだ。そして、それはまた早苗が夜遊びに出掛けているという可能性を口にした魔理沙も実際は思っていたことだった。
有益な情報が得られなかったためか、神奈子の顔は来た時のそれよりもほんの僅かに沈んで見えた。すまない、と魔理沙は頭を下げる。
「こっちこそ、時間をとらせてしまって申訳ない。でも、もうついでだから早苗を見かけたら早く帰ってくるように伝えてくれるかしら」
「ああ、それぐらい、おやすい御用だぜ」
どうせ今頃、身を翻して昼帰りしてるさ、とつまらないジョークを魔理沙は口にする。場を盛り上げようとしてだろう。神奈子もそれに気がついて、笑いこそしなかったものの表情に柔らかさが戻った。
「ホント。ああ、でも、ありえるかもしれないわね。一旦、家に帰るとするわ」
入れ違いになった、という可能性は確かにあった。それじゃあ、お願いね、と踵を返す神奈子。その背中を見送ろうとした魔理沙ではあったが、何を思ったのか、アッと声を上げた。
「待て、神奈子。帰るのならついていってもいいか?」
「?」
そう唐突に提案する魔理沙。どうして、そんなことを魔理沙が言い出したのか分らず神奈子は疑問符を浮かべる。
「いや、なに。実は私もちょっと早苗に用があったんだ」
要約しすぎている説明だが、事実だ。魔理沙はもし早苗が家に帰ってきてるなら霊夢のことを、そして、昨日ここで見かけたあの正体不明の存在について相談しようと思ったのだ。
そんな簡単な説明でも納得いったのか、神奈子はすぐに了承してくれた。断る理由も特になかったからなのもあった。
「じゃあ、行きますか」
今度こそ帰るために歩き出す神奈子。何故か博麗神社の離れとは逆方向の裏手側へ。何処に行くつもりだ、と慌てて魔理沙が止める。
「何処って、守矢神社に帰るに決まってるじゃない」
「飛んでいけば速いだろ。っていううか、歩いて行くにしても逆方向じゃないのか?」
「飛んでいくよりワープした方が早いでしょうが」
それ以上、魔理沙に説明することなく置いていくと言わんばかりに先に進む神奈子。腑に落ちない物を抱えながら魔理沙はその後に続く。その先にあったのは風雨に晒され色あせつつもまだまだ博麗神社本殿に比べれば出来たてにも等しい小さな祠――守矢神社分社だった。
「ああ、そう言えばお前ら神さまはちいさなほこらでワープ出来るんだったな」
「人一人ぐらい一緒に連れて行くことも簡単にできるわよ。ああ、でも、貴女も魔法使いならワープする魔法ぐらい習得してなさいよ。レベルが低いの?」
「ここだと不思議な力にかき消されちまうんだ」
そんな冗談を交わしながら神奈子は魔理沙の手をとった。別段、特別な儀式や詠唱はどうやら必要ないみたいだった。当然か。神にとって自分の神社の分社に出掛けることなど人で言うところの離れの蔵に荷物でも取りに行くよう造作もないことなのだ。一陣の風が吹き、気がつくと二人の姿はもうそこにはなかった。やはり、それぐらい容易いことなのだ。神である神奈子にとっては。
「ううっ、二度とごめんだぜ」
神である神奈子にとっては。
神社に到着した魔理沙は、けれど、無事ではなさそうな様子だった。顔を青く、悪心でも憶えているのか、時折、肩を震わせ呆けたように口を開ける。
「案外ヤワだね」
「ヤワ? 身体全部ミキサーに入れられてどろどろにされた後でまた自分の鋳型に入れられて無理矢理凝固剤で固められたような気分を味わって、こうならないのはお前らだけだぜ、絶対にな」
恨みがましい視線を神奈子に向ける魔理沙。それでも手を出さないのは偏に、激しい動きをしてしまえば手より先に朝に食べたおにぎりが出てきそうだからだ。
「さて、早苗は帰ってきてるかね」
「その前におトイレに行かせて欲しい気分だぜ」
「トイレなら向こうに…」
言って魔理沙を案内する神奈子。博麗神社とは違い守矢神社は参拝客の多い神社だ。お手洗いも参拝客用に公衆便所的なものが設置されている。ただ、わかりにくい場所にあるのか、あちらこちらに『WC→』『トイレ↑』『お手洗い↓』『(紳士・淑女のマーク)←』と立て札がたっている。元気なら魔理沙も自力で看板の案内通りに歩けばたどり着けただろうが、この気分の悪さでは案内が必要だ。
「ほら、ここ。私は本殿の方へ行ってるから」
「お、おう。サンキュー」
入り口付近に人目隠し代わりの低木が植えられている男女別のトイレ。その女子側へ入ろうとする魔理沙。
と、
「どうしたんだ神奈子?」
本殿へ戻ると言っていたはずの神奈子が何故か足を止めて山の方を見ているのに気がついた。
「早苗…?」
ぽつり、とそう呟く神奈子。視線は木々が乱立する山の方へ向けられている。そこに早苗がいるのかと、魔理沙もつられ同じ方角を見ようとする。それよりも速く神奈子は駆けだしていた。
「あっ、おい、待てっ!」
魔理沙も神奈子を追いかけ走り出そうとするが気分の悪さがそれに待ったをかける。いや、乗り物酔いしたような気分の悪さだけではない。なにか虫の知らせめいたものが魔理沙の足の動きを鈍くさせている。くそ、と毒を吐き捨てる。
「なんか騒がしいけど、早苗帰ってきたのー?」
そこに母屋の方から小さな影が現われた。守矢神社の二柱の片割れ、洩矢諏訪子だ。トイレの前で気分悪そうにしている魔理沙を見つけあからさまに落胆した顔色を見せた。
「なんだ魔理沙か。早苗は?」
「知らないよ。いや、そうでもない。なんか神奈子の奴が見つけたみたいなんだが…」
言って神奈子が駆けだしていった山の方を指さす魔理沙。その方角には山を駆け上っていく神奈子と緑髪の巫女服を着た人影があった。
「なっ…!?」
早苗…ではない。遠目にも分る。別人だ。早苗の体格と言えば背丈は平均的、胸は大きく、それなりに肉付きも良い。決して左右の手足の長さがてんでまちまちで一抱えもあるような巨大な頭はしていない。アレは、と魔理沙はその姿を認めて怖気を憶えた。アレは早苗と一緒に博麗神社で見たあの異形だった。
決して、早苗などでは――
「誰だお前はッ!?」
ない。
そう言わんばかりの神奈子の大声が山中に響き渡った。
「アッ!? コラ待て!」
その大声に驚いたのであろうか、それとも早苗と同じ服と髪をした真っ赤な偽物だとばれたからだろうか。強烈な電流でも浴びたように異形は四肢を伸ばした状態で身体を猛烈に震わせると踵を返し――カカトなどと呼べそうな部位はその異常に細い足には付いていなかったが、一目散に逃げ出した。腕を振り回し、身体を大きく捻りながら走るその様は一見すれば無様でさえあった。だが、異様な速さであった。木々が乱立し梢が生い茂った斜面。猪や熊でもそれほど早くは走れないであろう場所をあろう事か異形は飛脚が平地を走るような速度で走り出したのだ。鍛錬とも人体力学とも無縁の不格好極まる走り方で。その走りはただ速いだけではなかった。視る者の恐怖心や嫌悪感を呼び起こさせた。当然か。その手足を忙しなく動かし、異様な速度で斜面を駆け上っていく動きは蜚蠊(ゴキブリ)や船虫(フナムシ)を思い出すから。
「気持ち悪いっ…」
その動作を見てさしもの両生類たちの主も二の腕に鳥肌を作り、自分の身体を抱いた。既に吐き気を催していた魔理沙などは死人のように顔面を蒼白にし、言葉もなく震えるばかりであった。
「アッ、待て!」
唯一、神奈子だけが血気盛んであった。叫び声を上げると異形が作った獣道を走り、追いかけていく。異形は既に山の奥深くへと入り込んでしまっていて、枝葉の影に時折、その大きな頭がちらちらと見えるだけだ。追いかける神奈子ではあったがその距離はどんどんと離れていってしまっている。道を選んでいる余裕はなかった。神奈子は梢に身体を引っかけながらも無理矢理走る。
「神奈子っ!」
諏訪子も寒気をぬぐい去り走り始めた。ただ、こちらは追いかけるつもりなのは化け物ではなく神奈子の方だ。既に茂みの向こうへと消えつつある神奈子は諏訪子の声が聞こえなかったのか振り返りもしなかったが。
「ううっ、ああっ、もう! 待てよ!」
置いてきぼりにされるのは嫌だったのか、悪態をつきながら魔理沙も続く。
既に魔理沙の視界には神奈子もあの異形もなかった。諏訪子の小さな背中だけが見えている。その背も段々と距離が離れてしまっている。
「まっ…待て…」
流石に道もないような山の中を走る事には慣れていないのか、魔理沙はすぐにへばってしまった。だが、気がついていないのか、諏訪子は足を止め魔理沙を気遣ってくれる様子も見せない。そのまままっすぐ神奈子たちが消えた方向へと走り続けている。
「畜生…」
結局、魔理沙の足は僅かに開けた山中の空白の様な場所で止ってしまった。大木に身体を預け肩で息をしている。頭を上げるのも億劫なのか、俯き口端から涎を垂らす。そうして、次に頭を上げた時、諏訪子の姿も消えてしまっていた。
「諏訪子っ」
呼べど返事はない。ただただ水中のような重く耳に痛い静寂が広がっているだけだ。顔を上げ、ぐるりとその場で当りを見回してみるが見えるのは乱立する杉の木のみ。誰の姿もなかった。
「クソ。こっちの方か…」
悪態をつきながら魔理沙は闇雲に歩き始める。自分がどちらから来たのか、諏訪子はどっちに行ったのか、まるで分らないのだ。人が滅多に足を踏み入れぬ妖怪の山。その山頂付近ともなれば神域に等しい。原生林が生い茂り、空は見えず、方位磁石は意味を為さない。諏訪子を見失った魔理沙が迷ってしまうのも無理はない話だった。
「諏訪子ー神奈子ーおーい」
声を上げて歩くが、音量は小さい。もう大声を張り上げる気力も残っていないのか。とぼとぼと左右に目配せしながら歩く。その動作はイタチのような小動物じみていた。
「……」
いや、気力切れだけではない。恐ろしい、のだ。魔理沙は。
山中に取り残されたから、だけではない。無論、それも心細さを誘発させる材料だが、メインは違う。
「クソ…また出やがった」
あの異形だ。神社で見たモノと似通った形をしたアレ。人の形を悪夢じみた発想でパロディ化した、見る者の正気を削る冒涜的な存在。再びアレを見てしまったのだ。一晩経ち、何とか持ちなおした魔理沙の精神はアレで再び掻きむしられたかのようにささくれ立ってしまった。それは身体にも影響を与えている。心臓は不整脈を繰り返し、体温は低下し、肌は悪い病気でももらったかのように鳥肌を立てている。だが、何より作用として現われているのは体調などではなく行動だ。
「なんだって…」
山の中を独り、歩く魔理沙。その視線は忙しなく動いている。ただ、見ているのはせいぜい一メートル先程度だ。はぐれてしまった諏訪子や神奈子を捜す目線ではない。かといって山中を安全に歩くために注意しているとは言いがたい視界の取り方だ。
何故そんな目配せの仕方をしているのか。魔理沙のささくれだった心は幻視してしまっているのだ。直立する杉の木の裏側から覗く巨大な眼球を。茂みからこれ見よがしに伸びる五指の長さが出鱈目な腕を。陰鬱とした苔むす原生林に佇むあの異形の姿を。
実際にそのようにあの異形が姿を現すかどうかは定かではない。だが、ちらりと脳裏を掠めた妄想でも最早魔理沙の疲弊した精神には真実に等しかった。それを見たくないが為に魔理沙は余り遠くを見ず――かといって目を瞑って歩くわけにも、ましてや諏訪子や神奈子の姿を探さねばならず、こうしてなんとも中途半端な距離に視点を置いているのだ。
右を見て倒木の影に異形が隠れていないことを確かめ安堵し、左を見てまさかそこの岩陰からのそりと現われるのではないかと恐怖し、何もいないことを確認しても自分が目を離している隙に右側に現われたのでは、といらぬ妄想を抱く。
歩みは当然遅い。危なっかしい視野狭窄に陥った上に足はその場でへたり込むのを望んでいるかのように重いのだ。まるで強制収容所から脱走した敗残兵のようにビクつき脅えながらそれでも足を前に出さざるを得ない自由意思のない者の歩みだ。
「…諏訪子…神奈子」
森は静かで魔理沙自身が立てる音しか耳に届かない。野生動物や鳥の鳴声も一切聞こえず、風に揺れ互いに擦れ合う枝葉の音も、谷間を流れるせせらぎもない。無音が耳に五月蠅く、三半規管を締付けてくる。かといって大声を上げる勇気もない。諏訪子や神奈子を呼ばなくてはいけないのだが、裏を返せば大声を上げるということはもしかするとアレも呼び寄せる結果になってしまいかねなく…
「諏訪子…神奈子…」
こうして魔理沙は尋ね神(びと)の名を小さく呟きながら山中を徘徊しているのだ。二柱を探す努力を放棄した行動。当然のようにそれは無為だ。相手から見つけてもらうのを待っているのも同じ受け身の姿勢。だが、諏訪子は神奈子を、神奈子はアレを追いかけ走り出したのだ。二人とも自分を探しているわけもなく、そうして探さなければいけない義務もない。本当に二人が見つけたがっているのは魔理沙などではなく早苗なのだから。
「早苗、アイツも何処へ行ったんだ…」
結局、今のところ早苗が何処に行ったのか有益な情報は一つも手に入っていない。昨日、博麗神社で魔理沙とお茶を飲んでいたのが最後の目撃談だ。それ以後の足取りは不明。夜遊びに出掛けた、なんて茶化した言葉も魔理沙は吐いたが、それは自分でも薄ら寒い冗談だと言うことは痛く分っていた。アレを見た後で暢気に遊びに出掛けるなど、常識では考えられない行動だ。同じくあの異形を目の当たりにしてしまった魔理沙なら分る。少なくとも魔理沙はアレを見た後、暫く身体の震えが止らず、何かしらの呪いでもかけられてしまったかのように気分が優れなかった。あの後、魔理沙はすぐに家に帰ったが、それでも気分が落ち着かず、夕暮れ時まで何をするでもなく部屋の中を歩き回ったりして過ごし、陽が沈んでからきつい酒を煽って酔いに任せるまま眠らざるをえなかったのだ。自分がそうだったのだから、と魔理沙は早苗も同じような状況に陥っていると考えたのだ。否、それは魔理沙の考えなどではない。アレを直視した健全な精神の持ち主ならば誰であろうとそうなるという事実だ。
だから、魔理沙はまさか早苗が帰ってきていないとは思ってもいなかった。絶対に自分と同じように安全な我が家に戻り、自室に引きこもるか二柱に慰めてもらっているかと思ったのだ。
「……」
そうではなかった。
早苗は守矢神社には戻ってきておらず、行方知らずだ。まるで、霊夢の様に。そうして、もう一つ、いや、二つ、早苗と霊夢に共通する点があった。二人とも巫女で――そして、二人の格好をしたあの異形が魔理沙の前に現われたのだ。
偶然とは考えにくい。居なくなった巫女とそれに合わせて現われた彼女らの格好をした異形。できすぎている。そして、そこには一つ法則性のようなものがあるような気がしてくる。
「クソッ!!」
その法則を明確に頭で思い描かぬよう、ここに来て魔理沙は野鳥を驚かすような大きな声で悪態をついた。その考えをはっきりと纏めてしまうとまるでソレが事実となり、そうして、次は――と考えてしまうからだ。
クソっ、クソっと最早、諏訪子の名も神奈子の名も呼ばず、魔理沙は前だけを俯き加減で見て足に任せるままに山を下っていった。
と、
「?」
一瞬、視界の端で何かが動いたような気がした。落ちていた帽子が動いたような。視線も感じてしまう。なんだ、とそれを確かめようとして恐怖が身体を石に変えてしまったかのように強張らせる。ミルナ、と本能に近いレベルが教えてきたのだ。
――なんだよ。ミルナ、って。
自分の本能に逆らい首を動かそうとする。だが、動かない。辛うじて足だけは自動機械みたいに動き続けている。否、その場から即刻立ち去ろうと、ただし、回りに刺激を与えないよう静かに、これもまた本能に従い動いているのだ。ニゲロニゲロ、と内なる警鐘が魔理沙の身体を突き動かしているのだ。魔理沙の理性も最早それに抗わず、むしろ進んで逃げだそうと尽力していた。
――そうだ。とっとと帰って寝てしまえ。引きこもって寝てりゃいつのまにか解決しているはず。いつもみたいに。いつものように。だけど、今はその解決役がいなくって、それで…
「ちょ、どこに行くの魔理沙ぁ」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
不意に肩を叩かれ声をかけられ、心理的重圧を受け続けていた魔理沙の精神は完全に決壊してしまった。耳を劈く大きな悲鳴を上げ、そのまま飛び上がりそうな速度で駆けだし始める。だが、ここは足場の悪い山中だ。走り始めた魔理沙の足はものの数歩と進まないうちに木の根にとられ、盛大に転ぶ。そうして、転倒した魔理沙の身体は走る勢いのままゴロゴロと斜面を転がり落ちて行ってしまった。
「ッ、ぐぐぐ」
幸いにしてその身体は赤松の幹にぶつかり、山の麓まで転がり落ちていくことはなかった。
「ちょ、大丈夫? 死んでない?」
そこにかけられる心配そうな声。痛みとショックで朦朧としながらも目を開けた魔理沙が見たのははぐれてしまった二柱の内の一柱、諏訪子だった。
「もー、いくらなんでもビビりすぎ。いくら私でも祟っていない相手を事故死させるのは夢見が悪いんだからやめてよね」
「お、おう…」
まだ、ショックから立ち直れないのか魔理沙はそう曖昧に頷くことしか出来なかった。
諏訪子に手を貸してもらい身体を起こしてもらう魔理沙。幸い、身体はかすり傷や打ち身程度で大事には至っていないようだった。
「神奈子は…?」
落ち着いたところで魔理沙は諏訪子にそう尋ねた。いや、聞くまでもないことだっただろう。諏訪子が神奈子を放って置いて魔理沙の所へ来る理由があるはずがない。つまるところ神奈子も見つからなかったのだろう。早苗と同じく。
「へっ、神奈子なら一緒に…って」
いや、どうやらそうではなかったらしい。
逃げる魔理沙がちらりと見たのは諏訪子の帽子だ。この辺りは完全に守矢神社のテリトリー、ましてや山中ともなれば諏訪子、神奈子ならばどれだけ距離があろうとも隣の部屋に移るように容易く移動できる。だから、神奈子を見つけた諏訪子は取り敢ず、置いてきぼりにしてしまった魔理沙と合流しようとして…
「誰、お前?」
諏訪子の傍らに立っていたのは神奈子ではない何かであった。神奈子の格好をした何かであった。
アンシンメトリカルな身体。被り物のような巨大な頭部。白目のないぎょろりとした瞳。悪夢から這い出てきた異形。それが手足をくねらせ立っていた。
「あ」
黒い瞳が魔理沙を見据える。感情のこもっていない昆虫のような目。磨き抜かれた黒曜石を思わせる表面に魔理沙の顔が映る。絶望と恐怖に彩られた顔。
「ひぐっ」
短い嗚咽のような悲鳴が漏れる。とたん、魔理沙は口を押さえるが遅い。今朝食べた物が胃から食道を通り、逆流してくる。押さえた指の間から吐瀉物が溢れ、そうして、魔理沙の瞳がぐるりと反転。魔理沙の意識はついに闇の縁へと呑まれてしまった。
■■■
――市中。
往来を歩く人々の影。暖簾や提灯が掲げられた店先。台車に荷物を載せ走る運び屋。はしゃぐ子供。連添って歩く恋人たち。だが、無音。町は静寂に包まれ、一切の音が耳には届かない。耳が聾にでもなってしまったのかと思ったが、そうでもない。自分の足音だけは聞こえる。耳は潰れていない。
時刻は日中なのか。空には太陽が輝いている。暗褐色の大きな太陽が。数万年後の終焉の世界のような巨大な太陽。ただ、不思議とその輝きは強烈なものではない。むしろ暗いぐらい。ただし、空気は酷く乾燥していた。まるで砂漠地帯のように肌がひび割れを起こしてしまうのではないかと思えるほど、口を開けば喉が張り付いてしまうのではと思えるほど空気には一切の水分が含まれていなかった。漂う空気にも独特の臭いが含まれていた。鉄さびのような、枯れ草のような、言いがたい、不快とはいいきれないもののどこか心が落ち着かなくなる臭い。立ち並ぶ家々も赤銅の汚水をかけた後、乾かしたように汚れている。道も素焼きの煉瓦のように固い。ただ、まったく見たことがない場所というわけでもなかった。立ち並ぶ家々の形状には見覚えがある。集落の一角だ。瀬戸物屋の隣はタバコ屋でその裏手には美味しい定食をだす料理屋がある。そして、二区画向こうには飛びだしてきた実家の道具屋がある。
記憶通りの並び。けれど、その風景の全ては悪夢じみたパロディを演出していた。暗褐色の巨大な太陽。乾燥しえも言えぬ匂いに包まれた空気。赤茶けた町並み。そして、往来を行く異形立ち。
そのどれもこれもが歪な形をしていた。人型は人型をしている。けれど、手足の長さはどれも、いや、指の長さでさえまちまちであった。右だけが異様に長いもの。両足は長いが両手は極端に短いもの。手足の指だけが長いもの。彼らは一様に歩きにくそうに身体を左右に振りながら歩いている。当たり前だ。その不揃いな長さの手足でまっすぐ歩くのは不可能だろう。ましてや肩の上にはお化けカボチャのように巨大な頭部が乗っかっているのだから。感情の読み取れぬ崩れた顔。黒目だけの眼球。摘みひん曲げたような鼻。ナイフを突き刺し無造作に広げたような口唇。法則もクソもなく出鱈目に埋め込んだだけの歯。人の形状を邪悪極まる想像で再構成した形。それが往来を歩いている。まともな形をした人は一人といない。一人としていないはずなのにどいつもこいつも普通の五体満足な常人のように生活している。声は聞こえぬが談笑しながら歩き、店先で買い物をし、楽しそうに一般人の生活の真似事をしている。怒りさえこみ上げてくる低俗な模倣。人伝いに聞いた異国の光景を想像だけで真似たような愚かさが伺える。そんな下手くそどもが人の真似事をしているのだ。我々こそが人だと言わんばかりに。
と、
往来を歩いていた異形の内の一体がこちらに気がついた。
いや、一体だけではない。その一体を皮切りに次々とこちらにその喉黒飴の様な眼球をこちらに向けてくる。黒い眼球からは感情は読み取れない。ただ、弱い敵愾心の様なものは伝わって来ていた。白い卵の中に一つだけ混じっていた鶉の卵に向ける感情のようなものが。
なんだよ、と怒鳴るが異形たちは答えない。元より答える能を持っていないのか、答える気が無いのか。ただただジッとこちらに視線を注ぎ続けてくる。いつの間にか周囲には壁、と称せるほど異形たちが集っていた。隙間は一分もない。逃げられない。逃げること叶わない。四面楚歌。在敵中。孤立。独。
なんだよ、なんなんだよ、ともう一度怒鳴る。相も変わらず異形立ちは応えない。ただ、その内の一匹…いや、全てが腕を上げ、人ならば人差し指と呼ぶ指をこちらに向けてきた。そうして、
――お前だけ違う
そうだ。反論する。私は違う。私はまともなんだと。
全てが狂っている中でも私だけはまともなままなんだ。私の形は正常なんだ。これで正しいんだ。
――全てがこうなってるのに? お前だけが違う形をしているのに?
違う。狂ってるのはお前たちの方だ。なんだその気持ちの悪い体は。吐き気がする。目眩もする。気分が悪くなる。とっとといなくなれ。
――そんな寂しいこと言うなよ
異形たちの一匹が歩み出てく。その格好は知っている。よく知っている。親友の格好だ。紅と白を基調とした巫女服。いつも隣で見ていたから知っている。それと同じ格好を狂った異形がしている。なんで手前がそんな格好をしているんだと叫んだ。次の瞬間、異形は翠と碧と白の巫女服を着ていた。山の神の格好をしていた。土着神の格好をしていた。メイド服を着ていて野暮ったい縦縞の服を着ていて、和装をしていて、大陸の道士服を着ていて、ワンピースを着ていたり、僧侶の格好をしていて、けれど、どれもこれも彼女たちとは似ても似つかない歪で異なる形をしていた。異形だった。異形だった。異形だった。普通じゃなかった。
――普通? 普通って何? 普遍的に通常って意味でしょう
――だったら、この中では貴女こそ異形よ。異形中の異形。世界中で貴女だけがそんな形をしている。お前だけがそんな形をしている。奇妙で歪で異なっているのはお前の方だ
違う違う違う!
――普通の魔法使いを名乗るのならお前も同じ形にならなければ可笑しい
――そう思うだろ、霧雨魔理沙
うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!
異形。異形。異形。
左右長さの違う手足。節の多い指。大きな頭と眼球。白目はなく瞳は黒いビー玉。唇は円弧に裂け、覗く歯茎は狂った鍵盤じみた形をしている。当然、その内にある意識もまた歪。今までの常識は全て棄却。非常識が常識となり何もかもが流転、カオスとなる。感情も今までそう呼んでいた物とはまったく別の精神作用に取って代わられ、記憶と知識はシャッフルされた後、出鱈目に並べ替えられる。死が先に始まり、精通が老いてより始まり、思春期は身体が熟してから、第二次性徴など生れて間もなく、一次はその後。飲酒喫煙、道徳、火葬は同等に扱われ、魔法と秩序、スコアアタックはそれぞれその順番に優劣が定められる。
意味不明。意味不明。意味不明。
否、これからがそれが常識となるのだ。その狂った身体と同じく――
■■■
「およよ、死んでるものだとばかり思ってましたが、案外、頑丈ですね」
そう声をかけられ、魔理沙が目を開けると自分を覗きこむ顔が見えた。セミロングの髪。左右対称の顔立ち。白目がきちんとあるつぶらな瞳。まっすぐした鼻に小さな唇。まともな人の顔だった。そして、見覚えのある顔だった。文だ。射命丸文。里に最も近い天狗。伝統の幻想ブン屋。鴉天狗。魔理沙の友人。その知識に間違いはない。
「ッ…私、私の身体!」
文がまともだと認識した途端、魔理沙はバネ仕掛けのように身体を起こした。そして、自分の身体をためつすがめつ眺めながらべたべたと触り始める。手足の長さ…まとも。指…確かに三つの関節で出来ている。顔…記憶取りの位置に目鼻はある。最後の確認に…
「な、なぁ、文、ちょと、私の写真を撮って見せてくれないか?」
「え? いや、今の魔理沙さんの写真撮ってもなんだかレイプの犯行現場みたいで興が乗らないんですけど」
「いいから!」
魔理沙に言われしぶしぶ文は写真を撮った。出てきた写真を文から受け取るより速く引ったくるように奪うと魔理沙はそこに浮き上がってきた自分の映しを見た。
「よかった…普通だ」
傷だらけで、顔は青ざめているが異形にはなっていなかった。ほっと胸をなで下ろす魔理沙。
「…何かあったんですか? 大体、こんな山の中で一人で傷だらけで寝てるって…本当になにか酷いことされたのでは」
魔理沙の乱心じみた行動に心配そうに文は顔を覗きこんでくる。魔理沙は今まで起きたことを説明しようとして口を開いたが、上手く唇は動いてくれなかった。動揺とトラウマが枷となって魔理沙の行動を阻害しているのだ。
「取り敢ず、怪我の治療でしょうかね」
言って文は腕を貸し、魔理沙を立ち上がらせた。
「幸い、守矢神社はすぐそこです。まぁ」
気落ちしている魔理沙を励ますためか、必要以上に言葉数を多くしている文。けれど、それは余計な事だった。
「留守なんですけれどね」
「えっ」
留守。誰もいない。人っ子一人いない。早苗も神奈子も、そして諏訪子もいないと言うことだ。知らずの内に魔理沙は肩を抱いていた。
「兎に角行きましょう。話は――記者として早く聞きたいですけど、今は友人として黙っておきます」
それをショック状態か何かかと勘違いしたのか、文は魔理沙の腕に自分の肩を通すとそのまま彼女を気遣いながら山を下りていった。
「早苗さーん、神奈子さーん、諏訪子さーん」
軒先から住人の名前を連呼するが返事はない。当然だ、と痛みと動揺でぼやけている頭でも魔理沙はそう考えた。
いるはずがない。だって三人はもう…
「ま、いないならいないで勝手に上がらせてもらいましょうか」
おじゃましまーす、と下駄を脱いで家の中へと入っていく文。動きに迷いがないのは不法侵入はいつもの事だからだろうか。魔理沙もそれに続く。適当な部屋に入ると文は魔理沙を座らせ、傷薬や絆創膏がないか探し始めた。
「むぅ、勝手知ったる他人の家、とはいきませんね」
ただ、上手く見つけられないようで文はあちらこちらの引出を開けたり閉めたりを繰り返していた。
「……そこの戸棚の一番上じゃないか」
「ん? ここですか」
魔理沙に言われたところを調べるとすぐにそれらしき樹脂製の蓋に大きな赤色の十字架が書かれた箱が出てきた。それとはなしに薬臭い。これで間違いないだろう。
「凄いですね。知ってたんですか?」
「いや…」
そこら辺の勘の良さは他人の家に忍び込んでは永久にレアアイテムなどを借りていく魔理沙ならではだ。文も魔理沙の語尾が消えていった否定にそういうことかと気がつく。少ない言葉から裏の事情を読み取る術に長けているのは新聞記者たる文の力か。
「しかし、本当に不用心ですね。誰もいないなんて」
治療中、黙り続けているのも気が滅入ると思ったのか、世間話のように文は魔理沙にそう話しかけた。無人の守矢神社についてだ。文は魔理沙を見つける前に守矢神社に一度、寄っていたらしい。恐らく取材のためであろう。
「吸血鬼のお屋敷もそうですけど、ここも案外、幻想郷じゃ珍しい物が一杯ありますからね。最近、外の世界からやってきたばかりですから。場所が場所だけに並の人間はなかなかやって来れませんけど、山の妖怪や天狗にも結構手癖の悪いのはいますからね。知ってます? ここの結界って結構、強力な奴なんですよ。まぁ、それを差し置いても三人とも留守にしてるなんて、いくら何でも、ねぇ」
泥棒さんウェルカム状態、です。まぁ、自分としては泥棒が入ってくれた方が新聞のネタになっていいのですが、と不謹慎なことを言う文。
「ヘンな奴も紛れ込んでましたし」
「ヘンな奴…?」
と、黙って文が喋るに任せていた魔理沙が唐突に口を開いた。その一言が気にかかったのだろう。擦りむいた膝小僧に吹付けられる消毒液が染みているが、その痛みも頭にまでは届いていないのか、顔を上げ文を見やった。
「ええ、なんかとっても気持ちの悪い奴。新種の妖怪ですかね。今まで見たことないタイプでしたけど。手足の長さがおかしくて、頭が大きくて。ああ、そうそう…」
その時の事を思い出しながら説明する文。顔には僅かに陰りが。余程、気味が悪かったのだろう。その『ヘンな奴』とは。
「洩矢諏訪子の格好をしていましたね。コスプレイヤー、というやつなんでしょうか。一体、誰だったんでしょう?」
あまりの気味の悪さに『気持ち悪ッ!』と叫んでしまいましたよ。写真に撮っておけば良かったかも、と文。その説明を聞いて魔理沙は愕然とした。
「ああっ…」
震え、絶望した面持ちで文を見、涙を堪えるように顔を歪める。魔理沙の急変に治療をしていた文も一体どうしたのですか、と困惑気味だ。
「なんですか。もしかして、魔理沙さんもご覧になったとか? いや、確かにアレは人間にはちょっと刺激が強すぎますよね…」
言葉を発することも出来なくなってしまったのか、幼児退行を起こしたように魔理沙は涙を流しながら俯いた。そんな魔理沙にどう対応すればいいのか、文はまるで分らない様子だった。えっと、と言葉に詰りながら助けを求めるように視線を左へ流すが当然、助け船を出してくれるような誰かはいない。
「えっと」
いたたまれなくなったのか、不意に文は立ち上がった。
「治療も終わりましたし、ちょっとお花を摘みに行ってきますね」
そう言い、踵を返す。すると魔理沙の手が伸びてきた。文のスカートの裾を掴み、行かないでと視線で訴えかける。本当に子供のようだ。親元を離れ心中不安で一杯な子供のような。一瞬、文はたじろいだが、けれどではどうすればいいのかということは何一つ思い付かなかった。重要事件にかかわり固く口を閉ざす者とのコミュニケーションには慣れているが心に傷を負い精神を病んだ人の相手なんてとても無理だ。それは新聞記者の仕事ではなく精神科医の仕事だから。
「あは、あははは、す、すぐ戻ってきますから」
心苦しいものを憶えながらも文は半ば無理矢理に魔理沙の手を振り払うとそのまままっすぐ部屋から出て行ってしまった。
「ダメ…行かない、で」
魔理沙の声もその背中には届かない。障子戸に廊下を横切る文の影が映っていたのは一瞬で、次第に足音も聞こえなくなってしまった。
「あ」
他人の部屋に一人取り残される魔理沙。身体は傷だらけで黒痣が痛む。疲れもあるがそれ以上に身体を動かす活力が残っていなかった。当たり前だ。身体以上に心は傷つき、その動きは停止寸前になっているのだ。わき上がる感情と言えば不安や悲しみといった負に属するもの。それもやがては絶望という名の停滞に至る。心身の動きが緩慢なのはその為だ。
文がいなくなってしまう事への不安は確かにあったが、それを止めようとする強い意志は魔理沙の中には生れなかった。なすがままに絶望を受け入れてしまったのだ。
「文…」
いや、或いは淡い希望に縋ったのかも知れない。鴉天狗の文と言えば幻想郷最速、といっても差し支えないほどの足の持ち主だ。或いは。もしかすると魔理沙の思い過ごしだったのかも知れない。ああ、そうだ。早苗は兎も角神さま二柱がいいようにやられるはずなんてない。ちょっと、ピンチに陥っているだけだ。じきに大逆転して何もかもが元通りになる。そうら、文もそろそろトイレから戻ってくるはず。
「…まだかよ」
魔理沙がどれぐらい茫然としていたかは分らない。それでもそれなりに長い時間が――風呂桶に張った水が湯に変わる程度には、経過していた。
魔理沙の心に再び黒い影が差し込み始める。
「おい、文…」
立ち上がり文が歩いて行った方へ…消えていった方へ足を進める。他人の家だが迷うことはない。そういった勘は今でも健在だ。まっすぐ魔理沙の足は住居のトイレの方へ向かう。先程、結局使うことが出来なかった外の参拝客用のトイレではない。完全個室の家庭用トイレだ。
「文っ」
戸の前に立つ。飾り気のない開き戸。下に青色の清潔そうなマットが敷かれている。声をかけたが返事はなかった。ただ…誰かが中にいるような気配は僅かながらに感じた。
「おい、文」
今度はノックする。遅れて同じようにノックが返ってきた。入ってますよの返答。けれど、どうして口で言わない。文には喋る口が言葉を発する能があるだろうに。
「長すぎやしないか。もしかして大きい方か」
もはや救いを求めるようにそうドアの向こう側に話しかける。返事はない。ない。沈黙が続く。耳が痛くなるほどの沈黙が。声を発しているのは魔理沙だけで、他には誰も喋らない喋れない。
「なぁ、おい、いい加減出てこいよ」
いるのは魔理沙だけだ。
ドアノブに手をかけると鍵をかけ忘れていたのか自然と扉は開いた。タイル張りの内装。レースのカーテン。陶器に入れられた芳香剤や増加の飾り。トイレットペーパーホルダーにはお手製のカバーがかけられている。可愛らしいトイレ。その中に、いた。
「うあ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
文の格好をした異形が。狭いトイレの中に長い四肢や巨大な頭部を折り曲げながら。
ぎろりと、その黒い感情のない瞳が魔理沙を捉えた瞬間、彼女は尾に火を放たれた馬のようにその場から逃げ出した。
■■■
――走る
「あぁぁぁぁぁぁ!!!!」
――走る
「うわぁぁぁぁぁぁあ!!!!!!!」
――走る
「ひぃあ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!!!」
何処をどう走ったのか魔理沙はまるで憶えていなかった。自分にそんな体力があったとも思えなかった。それでも魔理沙は走り続けた。転び、膝を擦りむき、息が上がり、途中で何度も吐いても、走り続けた。逃げるために。逃げるために。逃げ。
けれど、何処に逃げても一緒だった。
ちらりと視界の端に映る異形。日常の光景に溶け込もうと彼らはしていたが、その余りに異質な姿は淡いセピアの写真に蛍光塗料の一滴を落したように目立った。どんなに注意しても意識しないということはできなかった。
そして、それは幻想郷に住まう他の人たちも同様で…
「誰だお前は!?」
その異形を目にした者は一様に叫んだ。その姿が知人友人親類に似ているからだろう。似ているだけで絶対に本人ではなく、ましてや他人のそら似ではないことは一目瞭然だからだ。誰も彼もが誰だお前は誰だお前はダレダオマエハとその誰かを誰だと問い詰める。応えはない。当たり前か。その誰かは。誰ではないのだから。誰かの格好をした誰なのだから。誰。誰。誰。誰?
そして、誰かと尋ねたその誰かは誰かになってしまう。入れ替わったのか変質したのか。それとももっと複雑怪奇な仕組みなのか。それは分らない。ただ誰かがいなくなり替りに代りに変りに誰かがやってくる。それがルールだ。変動はない。少し変質するだけだ。そう、手足が長くなったり短くなったり不揃いになったり頭が大きくなったり間接が増えたり白目がなくなったり黒目ばかりになった口が裂けたり鼻が曲ったり歯が不揃いになったり、そういう風に変わってしまっただけだ。何も、変わらない。変わらない。かかか、変わらない。か、変わらない、まま、ままま、魔理沙は家に、自分の家に家に帰ってきたからから、命からから喉がカラカラ、からから、からんからん、から。
「ッ――」
どれぐらいそうしていたのだろう。気がつくと魔理沙は自分の家の廊下で倒れていた。全身が軋むように痛く、身体を動かすのが億劫と思えるほど強烈な倦怠感に溢れていた。できれば今日は丸一日、いや、明日も何もしないで身体を休めていたくなるような気分だった。
それでもそうも言ってられないだろう。脳裏にカレンダーを思い描き今日のスケジュールを再確認する。
「そうだ、今日は確かアリスの奴が遊びに来る日だった」
こんな所で寝てはいられないと身体を起こす。痛みに思わず顔が渋柿でも食べたように歪む。取り敢ずは怪我の治療と着替えだ、と魔理沙は考えた。疲れているのは後でどうにかしよう。アリスにお願いすれば何か栄養たっぷりの料理を作ってくれるかもしれないし。
そこまで考えたところで
「あ」
どうして自分がそんなに傷だらけで酷く疲れているのか、今まで何があったのかを思い出し、同時に、
「あ、アリス…?」
異形の来客の姿を認めた。
開け放たれた玄関に立っていたのは都会派の魔法使い――その格好をしたアリスではない気味の悪い形だった。
「うぁ」
魔理沙の口から嗚咽が漏れる。どうして、そんな、と絶望の怨嗟が漏れる。救いようのない結末に世の全てを呪う声が漏れる。
「だ…」
知らずの内に異形を指さし魔理沙は口を開いていた。続く一文字を言えば全ては終わるだろう。魔理沙も他のみんなと同じく、早苗のように神奈子のように諏訪子のように文のように、誰かに取って代わられる。それで終わりだ。何もかも。
それは酷く甘美な誘惑だった。夢で垣間見たように全てが変わってしまえばそれは異常ではなくなり、現在の非常識が常識となる。自分も異形に成り果ててしまえばこうして恐ろしい思いに捕らわれずに済むのだ。
「いや、ああ、アリスじゃ…ないか。いら、いらっしゃい…」
それを魔理沙は退けた。勇気や正義からではない。完全に恐怖からだ。それは死に対するものと差して変わらないだろう。変質とはつまり今の自分がいなくなることであり、消失を意味する死と大差変わりはない。その恐怖に魔理沙は屈し、本心を抑え込んで欺いたのだ。他の誰でもない。自分自身を。
「そ、その来てもらって悪いんだが、ちょっと今日、わ、私は体調が悪くてな…か、帰って…」
怖ろしさで混乱する頭で必死に文面を考え言葉にする。アレはアリスだ。アリスに間違いない、と自分自身に言い聞かせ嘘を並び立てる。いや、あながち嘘でもない。現に自分は今にも倒れてしまいそうなほど疲れ、そして、傷だらけなのだ。だから、この言い訳は間違っていないはず。
と、
「いや、だから…」
魔理沙の予想に反して、まるで聞く耳は持たないと言わんばかりにアリスの形(なり)をした異形は土足のまま霧雨邸に入り込んできた。出来の悪い機械仕掛け人形を思わせる緩慢な動作。なんだ、と思う間もなく異形は魔理沙の側まで歩み寄ると手を伸ばしてきた。
「ヒッ…!?」
何かされる、と思ったのか、けれど、対抗手段を持ち合わせていない魔理沙は結局、目を瞑り顔を背けることしかできなかった。
ナナフシを思わせる手が魔理沙の手首を掴んだ。このまま何処か位相の異なる次元にでも連れていかれるのか、と魔理沙は心底恐怖した。だが、異形が魔理沙の手をひいて連れて行ったのは、なんてことはない居間の方だった。
「あ…」
しまった、と魔理沙は己の迂闊さを呪った。確かに実際のアリスなら傷だらけの自分を見れば帰ってくれと言ったところで素直に帰るはずがなかった。絶対に無理矢理に怪我の治療をして、何から何まで魔理沙の世話をして、そうして少なくとも今日一日は泊っていく。アリスとはそういう性格の持ち主なのだ。ならば必然、アリスの似姿をとっているこの異形もまた、同じような行動をとるのではないか。現に居間まで魔理沙を引っ張っていった異形はまるでこの家のことなら何でも知っていると言わんばかりに傷薬や止血帯の用意をし始めたではないか。
「ううっ」
苦悶の声が漏れる。傷の痛みではない。怖ろしさだ。仲間たちの多くと入れ替わったあの異形が同じ部屋の中にいる。それだけでも発狂ものの状況だ。今すぐにでも逃げ出したい気持ちに魔理沙は駆られていた。だが、不可能だ。そんな力は残っていない。されるがまま異形の好きなようにさせるしかないのだ。それがより一層、怖ろしさを加速させた。どうやらアリスの異形は本物のアリスと同じく魔理沙の怪我を治すつもりのようだ。ただ、それは完全に同じとは言いがたかった。その狂った形状と同じく、異形の行いはどこか歯車がずれている様におかしかった。
「ッ、滲み…」
今、自分の傷口に吹付けられているのはなんだ、と魔理沙は思った。消毒液ではないのは確かだ。見ればソレはオーデコロンだった。香水だ。花を思わせる芳しい香りが広がるが魔理沙の心に落ち着きは生れなかった。当たり前だ。そんなものを傷口に吹きかけられたのだ。続いて傷口に塗りたくられたのは軟膏などではなくそれによく似たマーガリンだった。べったりと容器から長い指を使ってすくい取りそれを無造作に傷口に塗りたくってくる。ぎこちない手つき。乱暴、とはちがう。酩酊しているように、神経の一本や二本断裂しているような、運動中枢の一角が壊疽を起こしているようなそんな動きだった。人形遣いであるアリスの繊細な動作とは大きくかけ離れた指使いだった。傷口を保護するために巻く包帯も普通の木綿の綺麗な布ではなかった。何処から持ってきたのだろう、赤い色をしたレース付きのリボンだった。擦りむいていない綺麗なままの足に巻けばそういうファッションになったかも知れないが、血の跡が残り香水臭くその上、マーガリンまで塗られた足に巻かれたリボンは滑稽を通り越して何か前衛芸術のようでさえあった。
「あ、ありがとうアリス」
魔理沙がお礼を言うと異形は顔を上げた。微笑んでいるのだろうか、口端が歪み目蓋が少しだけ閉じられた。気味が悪かった。夢に見そうな顔だった。吐き気を堪え魔理沙は奥歯を噛みしめ、全身に力を込めて余計な事を言わないよう、必死に務めた。
その後も異形のアリスは魔理沙の世話を続けた。
着替えさせ――ズボンを上着に、ドロワーーズを頭に被せ、手袋を足に、スカートの代わりにタオルケットを腰に巻き、食事させ――見た目は粥に近かったが中に入っているものの多くは食べられない物だった。ボタン、ちぎった新聞紙、硝酸etcetc…魔理沙は当然食べられないそれらを口に入れるだけ入れて、隙を見て全て吐き捨てた。涙を流しながら美味しかったよ、とお礼を言った。
もう、なんのためにこんな事をしているのか魔理沙は分らなくなりつつあった。気味の悪い異形のままごとじみた行為の相手をしなくてはいけないのか。こんな酷い目に遭わなくてはならないのか。心には常に悪魔の誘惑のように『あの言葉を言え』と言う囁きが谺していた。それを必死に魔理沙は抑え込んだ。天使の思惑ではない。ただ単に、自分がこうなってしまうのが恐ろしかったからだ。殺人鬼に捉えられ、酷い目に遭わされてたとしても死にたくないと願っているのと同じ事だった。異形のやることは全て受け入れた。そうしていないとつい口にしてしまいそうだったからだ。
「ううっ、うううっ…」
悪心と身体へのダメージで意識がもうろうとし、酷い頭痛を憶えているのか魔理沙は常にしかめっ面をしていた。精神はもう限界であった。満水になったダムのように導火線に火を点けたダイナマイトのように、すぐにでも破裂してしまいそうであった。それでも魔理沙は耐えた。自分を殺して耐えた。いつまで続くのだろうと、世界に時間の流れなんて物があることを呪った。自分の運命を呪い、世の全てを呪い、この異形を呪った。それでも我慢した。こうはなりたくなかったから。誘惑に常勝し続けた。一晩中。
■■■
「そ、それじゃあ…あ、ありがとうなアリス…ッ」
夜が明けた。朝焼けを背に異形が立っている。その影は悪夢じみている。魔女の森に生えている齢千を数える捻れ狂った古木の様だ。吐き気がする。気分が悪い。正気を削られる。でも、それもこれまでだ。
一晩中、この化け物に付き合い、精神は死滅の手前だったが、差し込んでくる陽光のように一抹の希望が魔理沙の心には灯っていた。もうそろそろこの異形は帰ろうとしているのだ。後はそれを見送るだけだった。それで解放される。やっと魔理沙の顔にほんの僅かではあるが笑みが浮かんでいた。自分は戦いに勝ったのだと確信する者の顔だった。
異形はそんな魔理沙を肩越しに見やって手を振った。風に揺れる死衣のような動きだった。いいから早く消えろ、と魔理沙は心底思った。口にはしなかったが。
と、
「えっ」
そのまま帰るかに思われた異形は、一瞬だけ動きを止めた後、向きを変えた。魔理沙の方に。オイオイよしてくれよ、と魔理沙は冷たい汗を流す。また、耐えなきゃいけないのか。もう無理だ。勘弁してくれ。許してくれ。泣きそうに顔を歪める。その顔にそっと異形は手を触れた。
あっ、と魔理沙の脳裏に以前の記憶がフィールドバックする。そうだ忘れていた。いや、意図的に思い出さないようにしていた。アリスは帰る前に、魔理沙に口づけを…
「止めろ」
小さな呟き。けれど、否定の意思はとても強い。
「止めろ」
聞こえないのか、異形の顔は近づいてくる。避けた唇。不気味な黒い瞳。不揃いの歯。胃を掴まれそのまま捻り上げられたような嫌悪感がこみ上げてくる。耐え難い。耐えられない。忌避しろ。
「止めろ! 気持ち悪いッ!!」
ドン、と魔理沙は近づいてくる異形を突き飛ばしていた。思いの外、異形の身体は簡単に魔理沙から離れた。細長い身体は見た目通り、枯れ木のような重さしかなかったのだろう。そこに大きな頭が付いているのだ。突き飛ばせば簡単によろめき倒れる。
「あ」
庭石の上に尻餅をつく異形。しまった、と魔理沙は声を上げるがなにがしまったのだろう。ルールは一つ、『お前は誰だ』と言ってはいけない。それだけだ。ならば、異形とはいえアリスを突き飛ばしてしまったことに対して、しまったと口走ったのを悔やんだのか。それも違う。魔理沙はこれをアリスだとは認めていなかった。仮にこれが目の前で虎に襲われても助けないで傍観し、あまつさえほくそ笑む自身があった。これを殺せるだけの力や武器があるなら躊躇いなく行えるほどの恨みをもっていた。だから、突き飛ばしてしまったこと自体は『しまった』ことでもなんでもないのだ。ならば、何がしまったのか。まさか、『お前は誰だ』と尋ねてはいけない以外にルールでもあったのだろうか。そして、魔理沙はそれに気がついたとでも言うのか。
それは是だった。異形はその通りだと証明するように機械的な動作で体を起こした。それは突き飛ばされてショックだとか、一体何が起こったのか分らないと言った感情がこもっている動作ではなかった。あくまでルールに則った形で、そうしなければいけないから体を起こした、そういう動作だった。
そして、魔理沙が止める間もなく、守矢神社裏手の山で見せたような昆虫じみた動作で走り去って行ってしまった。
「なんで…」
がくり、と力尽きその場で膝を付く魔理沙。
その時やっと彼女は完全に理解した。
――禁則事項その2 "気持ち悪い"と言ってはいけない
そういうルールだと言うことを。
魔理沙の目の前でバタンと音を立て家の戸が閉められた。
暫くの間、魔法の森には耳に痛いほどの沈黙がたちこめ、再び開いた霧雨邸のドアから現われたのは――
作品情報
作品集:
30
投稿日時:
2012/08/19 14:36:57
更新日時:
2012/08/19 23:36:57
分類
産廃百物語B
魔理沙
異形
入れ替わり
認識についてのルールが改定されるまで、この悲劇は続くのか……。
それを解決する方法は……
読んでいる最中の息苦しさがまだ残っててきついな。
自分の中の「恐怖」にすら従えない魔理沙は小物かわいい!
一言言ってしまえば、楽に慣れたのに、なにかに代わられる恐怖に負けて、結局自身を追い詰める。
ほんと、魔理沙は自滅が好きだなぁ。
魔理沙以外が異形の世界。
もしかしたら魔理沙の眼がおかしくなったのかも知れないですね。
ただ異形になることは本当に心の平穏をもたらすのでしょうか?
……そう、魔理沙ちゃんだけがおかしかったんだねぇ。
そして不気味な文字に置き換える。
おどろおどろしい素敵な小説でした。
狂っているのは魔理沙なのか、それとも酒で完全に出来上がっちゃってる私のほうか、
今一度自分の心に問い詰めるとしましょう。
わからない物に対する恐怖は、ジャパニーズホラーの醍醐味ですな…。素晴らしいホラーを、ありがとう。
ただ、途中から文章の表現も相まって頭の後ろがゾワゾワして、
分からない故に常に恐ろしいものを見せ付けられているようでした。
なんといいますか、ひとつの魔理沙の理想像ですね!
ありがとうございました。
終盤の魔理沙が異形アリスとの付き合いに耐えるシーンは垂涎ものだった。
この世界では死ですら救いにならないのではないか…
異形からゆめにっきのあのこをレンソウしたのは私ダケナノダロウカ
..
うん
最高でした!