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『産廃百物語B「木偶」』 作者: pnp
卓に突っ伏していた八雲藍は、九本の尻尾の一つに何者かが触れたのを切っ掛けに目を覚ました。心地よい清涼感が、時が既に夕暮れに差し掛かっていることを知らせてくれた。証拠に、小窓から見える外はすっかり夕焼けで赤い。
夕食の準備をしなくては――式として働いてきた癖であろうか、夜の淵を染めるこの寂寞たるオレンジ色を見ると、どんな状況であっても、夕食のことが脳裏をかすめるのである。例えば、敵と対峙していても。例えば、どんなに体が疲れていても。
「藍様」
尻尾の束の中から声がした。藍は身をくねらせて振り返る。量感あふれる尻尾の隙間から、黒い猫の尻尾が二本飛び出ている。藍が自身の尻尾をひょいと持ち上げると、中から彼女の式たる化け猫が姿を表した。名前を橙と言う。
橙は畳に寝そべりながら、高い所へ逃げた藍の尻尾にじゃれ付く。まさに猫である。大妖怪、八雲紫の式たる八雲藍――その式とは思えない、あまりにも幼稚で、あまりにもあどけないこの化け猫は、尚も無邪気にふさふさの藍の尻尾に手を伸ばしている。
「おいたが過ぎるぞ」
藍が穏やかにこう言うと、「はぁい」と間延びした声。それから、のろのろと起き上がった。
「藍様、こんな所で寝ていたら風邪を引いてしまいますよ?」
今更の様に橙が言う。
「少し疲れてしまっていたみたいでね。これからは気を付けるよ」
そう言いながら、藍も立ち上がった。うんと背伸びをする。
「今日の晩御飯は何ですか?」
下から橙の声。
「まだ決めてない」
「それじゃあ、今から何か買いに行きませんか?」
橙の瞳が輝く。買い物であれ何であれ、彼女はとにかく主たる藍と外へ出るのが好きなのである。
藍は顎に手をやり、少し考えた後、
「そうしようか」
穏やかに微笑んで、自身の式である化け猫の提案を了承した。橙は大袈裟と捉えられるくらい飛んで跳ねて喜んだ。
八雲藍は主である八雲紫と行動を共にしていることが多い。橙も同行することもあるが、置いて行かれることがほとんどである。単刀直入に言ってしまえば足手まといにしかならないからである。橙は、妖怪の賢者とも謳われる程の妖怪である八雲紫の式の式と言う身分でありながら、不相応に力が無い。元が只の化け猫であるとか、藍の力不足とか、要因は諸々あるが、それを逐一並べてみた所で何の解決にもならない。
そんな具合に非力な橙を、藍は辛抱強く見守って来た。紫から厳しい言葉をぶつけられたことが幾度となくあったが、藍はそう言ったものからも、橙を保護し続けた。そういう母性が、橙の藍への依存性を高めていると言える。
二人は住まいを出て、人里へ向かった。夕飯の食材になるものを売っている所は人里くらいしかない。昔は妖怪と言うだけで随分警戒されたものである。特に藍は位の高い妖怪であるから尚更恐れられたものであるが、今ではすっかり人里の人民とも顔なじみである。一方橙は、有名な悪戯化け猫として人里で名を馳せている。愛くるしい姿と人懐っこく悪賢い性格のお陰で、子ども達に大変人気である。
何が食べたいとか、それはこの前食べたからとか、そんな話をしながら、二人は夕飯の為の買い物をした。
藍が惰眠から目覚めるのがやや遅かった所為であろう、帰路に着く頃には、辺りは暗くなり始めていた。夜と昼の境目を表す夕焼けのオレンジ色も無くなった。
妖怪とは本来夜に活動するものである。まだ純粋な妖怪としての色を強く残している橙は段々と気持ちが高ぶって来ているようで、購入した様々な食材を入れた鞄をぶら下げて、忙しなく動き回っている。
「あんまりはしゃいでいると転ぶぞ」
藍が忠告する。
橙は一応「はい」と返事はするが、止める様子は無い。卵が入っているからあまり暴れて欲しくないんだが――そんなことを思いながら、藍は辺りが暗くなり出しても、さして慌てる様子も無く、帰路を辿る。
やがて道が二手に分かれた。
橙は帰る道を知っているので、右に折れたのだが、
「ああ、橙、ちょっと待って」
藍に呼び止められ、キッと急停止。
「はい?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべたような表情で、橙が振り返る。藍が左を指差している。
「少し寄り道しようか」
そんなことを言って、橙の了解も待たずに左へ逸れた。
「早く帰らないといけないんじゃないですか?」
そう言いつつも、橙は藍を追う。追わざるを得ない。二人は主従の関係だからである。式が主に意見するのはあまり褒められた行為ではない。例えそれが正しい行いであったとしても、である。主と、主の主――藍と八雲紫のやり取りを見ていると、橙はそんなことを思うことがよくあった。
「少しくらい平気だよ」
根拠も無しに藍はこう言って、帰路から逸れた道を歩いた。
数分程歩くと、森に入って行った。夜間際であるこの時間帯の森はひどく暗い。橙は本来、暗所など恐ろしくも何ともないのだが、帰路を逸れてまでこんな所へ歩み入った主の意図が全く読めず、困惑した。
「藍様……あの、どうしてこんな所へ?」
橙がおずおずと問うと、
「うん。ちょっと用事あるんだ」
藍は言下にこう言った。
「怖いのか?」
藍が薄く笑んで言う。何だか妖怪としての自尊心を傷つけられた気がした橙は、ぶんぶんと勢いよく首を横に振る。その仕草を見て、藍はくつくつと笑った。そして、橙の手を握った。
「怖くありませんよ」
橙が言い、手を振り解こうとしたが、
「分かってるよ」
藍が即答して、それを阻害する。
「手なんて握らなくても」
「握りたいから握っただけだよ」
普段の藍からはあまり想像できない一言――橙はハッと藍の顔を見る。笑いの余韻を残したような表情で、藍は飄々と歩を進めている。
橙もまんざらでもなかったから、そのまま主のこの謎めいた行動に身を任せることにした。
それからまた十分程歩いた所で、豁然と視界が開けた。そこで藍の歩みが止まり、同時に橙も制止する。
円形状に木を切り取った小広い場所が、突如二人の前に姿を表した。広場の中心には池がある。妖怪の山を流れる巨大な河川が枝分かれしたものの水が溜まっているものである。
普段は活発に幻想郷中を駆け回っている橙であるが、こんな池があることは知らなかった。風が無く、葉擦れの音さえ無い森の中、清水の流れる音が微かに聞こえるだけのこの空間は、薄気味悪さを包含した風情を感じることができる。
「こんな所があったんですね」
橙が感激した様に言うや否や、藍がまた歩み出した。引っ張られるように橙も歩み出す。
池のほとりまで歩を進めた藍が、そっと屈んだ。そして、じっと池の中を凝視し始めた。橙も膝に手をやり、身を屈めて目を凝らすが、何も見えない。透き通った水は暗澹たる黒色に染まっていて、深ささえ知れない。しかし、藍はじっと水を見ているから、きっと何かある筈だと、橙は更に目を細める。が、焼け石に水であった。
「藍様、何か見えるんですか?」
潜んでいる答えを見つけることを諦めた橙が主に問う。
藍はちらりと橙の方を見て、池を指差す。
「橙には見えないか? ほら、あそこに……」
藍の指先が指し示している所に目算で目星を付け、そこを凝視する。しかし、映るのはやはり空よりも黒い水底だけで、何があるのかさっぱり分からない。
「何があるんですか? 魚か何か?」
両膝を地面に付け、より池を間近に、藍が指し示しているらしいものを見つけようとするが、徒労でしかない。何せ藍にだって、特別珍しいものなど見えていないのだから。
不意に橙の後頭部に大きな力が加えられた。抗い難いその力は、橙の顔面を水の中へと押しやった。
ザパァン――風呂くらいでしか感じない水の感触。それが唐突に襲い掛かって来たものだから、橙は心底驚き、そして恐怖した。猫、及び式は、水が苦手なのである。そうでなくとも、いきなり顔を水へ突っ込まれては、水に慣れている者でも驚くことであろう。
橙は何者かに、顔を水に押し込まれている。その何者と言うのは、橙にも見当がついているし、それは間違っていない。八雲藍である。水の中にあるとされた、ありもしない何かを探すのに夢中になった橙の後頭部を押し、顔を水面へ押し付けているのである。
橙はどうして藍がこんなことをするのかまるで理解ができなかったが、とにかく早く顔を上げねば息が出来ずに死んでしまうと、必死に抗うのだが、藍の力からはそう易々と抜け出すことはできない。
藍からはふざけた様子など微塵にも感じられない。冷然たる面持ちで、足をばたつかせ、手をめちゃくちゃに動かして水面を叩いている橙を眺めながら、彼女を溺死へと誘おうとしている。飛んで来る水飛沫が鬱陶しそうである。
手から逃げることはできないと悟った橙は、思い切って全身を池の中へ投じた。バシャンと、一際大きな水飛沫があがる。
その瞬間、橙の式が外れた。
式とは、化け猫たる橙に憑依しているもので、彼女が化け猫らしからぬ力を持っている由縁である。水に弱く、濡れると外れてしまう特性を持つ。
只の化け猫になってしまったが、とりあえず命の危機は助かったと、泳げないながら必死に手足をばたつかせ、なんとか岸に辿り着いた。
しかし、目の前に藍が立ちはだかる。
見上げた先に立っている藍の瞳は、ぞっとする程温か味の無い、冷たいものであった。水の冷たさもあって、思わず橙はブルリと身震いしてしまった。
「藍様、何を」
問う間も無く、藍の両手が橙の首根っこを掴んだ。力の込められた二本の親指が的確に気道を塞ぐ。溺死の危険から逃れられたと思ったら、こんどは窒息死の恐怖である。水の中に顔を入れていた時と違い、最愛にして最恐の加害者である八雲藍の顔が見えてしまう分、余計に始末が悪い。
伸ばされた手を払い除けようと腕に手をやるが、ぴくりとも動かない。
力で敵わないのならば言葉でと画策するも、気道が塞がれており、喋ることは勿論、呼吸すらままならない。
そうこうしている内に視界や意識がぼんやりとし始めた。いよいよ絶命の輪郭が濃くなってきて、橙は大いに焦燥し、憤怒すら覚えた。主の手に掛かっているとは言え、理由も不明瞭に命を奪われようとしているのだから、無理もない。
残り僅かである余力を手に集中させる。しかし、やはり主の力には敵わない。今までと何ら状況が変わらない。
どんどん視界が狭まって行く。確かに世界は夜へと向かってひた進んでいたが、こんなにも急速な日の傾きなどあるものか。闇など少しも怖くないと前述したが、この未だかつて体験したことの無い暗黒に視界が染まって行くのは、例外的にどうしようもなく恐ろしく感じられた。
死の淵へ追いやられたその時、心の一番心底にある理性的な反抗心が目覚めた。橙は猫特有の鋭い爪で、藍の腕を引っ掻いたのである。この一撃に藍はやや顔を歪めたものの、式の首根っこを掴んだ手は、遂に離れることはなかった。
その悪あがきを最後に、橙は急激に脱力してしまった。苦しげに呼吸を荒げることもしなくなった。どうにかして手を退かそうとしていた動作もなくなった。死んでしまったのだ。化け猫の少女は、理由も聞かされることがないまま、主の手によって、天へ召されてしまったのである。
“元式”の死を確認した藍は、そっと首から手を離した。生々しい親指の跡が、くっきりと喉に残っている。
次いで、苦し紛れに放たれた爪の一撃による負傷の具合を見た。式の死などお構い無し、と言った様子である。
四つの爪痕が平行して十センチ程伸びている。傷はなかなか深いらしく、藍が思っていたよりも出血量が多く、広々とした服の袖に血がとっぷりと溜まっている。
ペロリと傷口を一舐めした後、人里で買ったものを入れた袋を拾い上げた。そして、橙の骸を池へ蹴って放り込むと、無感動な面持ちで踵を返し、帰路を急いだ。
「ただいま帰りました」
主――八雲紫の住まいへ戻ると、偶然にもすぐに主と出くわした。
「今日は随分遅いのね」
珍しいこともあるものだ――紫の瞳はそう言っている。藍が自ずからまるで規律であるかの様に設定している時間を破ることなどほとんど無いからである。
「ちょっと別の用事を済ませていたものですから」
藍はこう釈明した。叱責を恐れたが、今日の紫は機嫌がいいのか、別に何を言う訳でもなかった。
「すぐに夕食の準備をしますので」
そう言い、藍は小走りで台所へ向かう。
「藍、その腕、どうしたの?」
すれ違いざまに紫が問う。白と青を基調とした服であるが故に、赤色の血は目立ってしまうのである。藍はそれを隠すように袂を上げ、
「何でもありません。ちょっと、切り傷を負っただけです」
そう言ってまた駆け出した。
橙を殺す前も後も平静を務めてきた藍であるが、内心あまり穏やかではない。長年連れ添ってきた式を自らの手で殺めたのだから、致し方あるまい。
あまり他人と接触したくない気分であったのだが、そんなことは知らない八雲紫は、退屈凌ぎに台所へやって来た。夕食の内容を聞いたり、日中経験した笑い話なんかを語ったりして暇を潰している。藍は適当な返事をしてやり過ごしていたのだが、
「ところで、橙はどこへ?」
話題が橙へ移ってしまった。ぴくりと、藍の体が震える。
「今日の夕飯、橙の要望に応えたものでしょう?」
夕食の内容を聞いただけでそんなことを当ててしまうとは、思いの外細かいことを覚えているんだな――藍はこんなことを思った。
「ええ、まあ」
藍は曖昧な返事をする。
「だったら早々に台所へ来てつまみ食いでも画策してもいいと思うのだけど……あの子もあれで忙しいのかしら? それとも……」
「死にました」
紫の言葉を遮るように、藍が冷たく言い放つ。
「は?」
聞こえた言葉を疑うように紫が藍の方を見やる。しかし、藍は振り返ることもせず、せっせと夕飯の支度をしながら応答する。
「橙は死にました。今日。先程」
話す内容は俄かには信じ難い陰惨なものであるのに、その態度はまるで世間話でもするかのように軽々しいものであるから、紫も状況の把握に時間を要した。
「橙が死んだって……何で?」
「私が殺しました」
「どうして?」
「不要だから」
「不要」
「そう。不必要」
「あなたの式なのに」
「式だからこそです。いつまで経っても、あいつは使い物にならなかった」
言下にみそ汁の塩加減をみる為、藍の言葉が止まった。紫もすぐに言葉を紡ぐことができず、ぽかんとしたまま藍の後ろ姿を見るばかり。台所は一瞬にして静まり返ってしまった。汁物が鳴らすことことと言う音が一際大きく、空しく聞こえてくる。しかし、これを重苦しいものと感じているのは紫だけであり、藍は何とも思っていない。
「新しい式を迎えるのね?」
やっと紫が口を開いた。
「勿論です」
「そう」
紫はそう言うと、座っていた椅子から立ち上がり、台所を出ようと歩み出した。
「英断ね」
去り際、こんな言葉を残して言った。藍も同意見であった。
*
翌日、藍は新たな式を召喚したのだが、奇しくも今回もまた化け猫が選出された。容姿は橙とさして変わらぬものであるが、橙よりも遥かに利発そうで、そして地力も圧倒的に上の、優秀な化け猫であった。
藍はこの新たな化け猫に自らの式神を憑依させた。そして、橙にやって来たように、式として生きて行くとはどういうことか、八雲紫の式の式としての自覚や仕事のことなんかを言って聞かせた。
この新しい式は、すぐにその才能の頭角を見せ始めた。どちらかと言えば放埓であった橙とは違い、大妖怪の式の式に選ばれたことに喜びと誇りを感じているようで、一日でも早く式として役立てるようにと、勉学に勤しみ、経験を積んだ。
非常に気遣いと機転の利く賢い妖怪で、家事までしっかりこなすものだから、藍への身体的、精神的負担はぐっと抑えられた。
初めは慣れ親しんだ式の式がいなくなってしまったことにやや感傷的であった紫も、この優秀な新たな式の式をすぐに気に入った。無論、橙のことを綺麗さっぱり忘れた訳ではないが、突然訪れた悲しい別れの対価として相応しい才知をこの妖怪は秘めていたから、それ程気分が悪い訳ではなかった。
新たな式を迎えて一カ月と少しが過ぎたある日、藍は式と風呂を共にした。
主と一緒に湯浴みなど恐れ多いと、式は初め断ろうとしていたのだが、結局藍に言い包められ、主と共に入浴した。
「お背中を流します」
式に言われ、藍は従者に背を預けた。
絶妙な力加減で主の背中を流している最中、ふと式は、藍の右腕に刻まれた裂傷の跡を見つけた。
「藍様。この腕のお怪我はどうされたのですか?」
何の気なしに問う。まさかこの傷が、藍が以前の式を殺めようとした際に与えられたものとも知らずに。
藍は自分に橙と言う前任者がいたことを、今の式に話していない。わざわざ不信感を募らせる必要もあるまいと言う思いからである。式殺しの主など、あまりいい印象は持たれないことは明白である。
「ちょっと、野暮用でね」
こんな風に応えて茶を濁した。
しつこく詮索しては失礼だからとは思いつつも、式はもう少し問いを重ねた。
「いつ頃できた傷でしょうか?」
「一か月と少し前……丁度お前を迎えた頃だよ」
藍が答える。式は「はあ」と簡素な返事をした後、言葉を続ける。
「その頃に負った傷でまだこの具合となりますと、少々治癒が遅いですね」
「傷が深かったからね」
へえ……とだけ言った式の声はどこかぼんやりとしたものであった。
「そんなにこの傷痕が気になる?」
藍が問う。そこで式は、すっかり背中を流す手が止まっていたことに気付き、「失礼しました」と早口に言い、慌てて手を動かし始め、それから藍の質問に応えた。
「何と言うか、こんな傷があるとは存じなかったもので……少し驚いてしまいました。藍様程の妖怪でも、こんな傷を負うものなのだなと」
「あはは」
藍は乾いた笑い声を漏らして、些かの動揺を隠した。この傷を負った時の記憶に、別に悔いなど感じていないが、あまり思い返して気分のいいものではなかったからである。
それから式はこれ以上、傷について質問はしないで、主の背中を洗うことに専念した。
風呂でこのようなやりとりがあった所為か、藍はその晩、なかなか寝付くことができず、布団の中で輾転反側していた。どうしても、ひとつ前の式――橙のことが思い返されてしまう。
初めて橙を式として迎えた時、藍の胸中を過ったのは安堵であった。大妖怪の式と言う重役故に押し付けられる幾多の激務。これによる過労が、ようやく緩和されると。
心に余裕ができて、ようやく藍は他人を愛せた。自分の繁忙を分かち合える者として、橙を慈しんだ。
しかし、橙は藍の期待に応えることのできる逸材ではなかった。いつまで経っても、彼女は化け猫に毛が生えた程度の存在であり続けたのである。
初めは寛容であった藍も、段々と橙に不信感を募らせ始める。それでも辛抱強く、橙の晩成を信じて過ごしてきたが……遂に我慢の限界が訪れてしまった。
この頃は紫も暇になったのか、世の中が平和になったのか、とにかく昔の様な活動性は失われており、藍に課せられる仕事も減りつつあった。まさに猫の手も借りたいような、忙しく、そして苦しい、油断していると気が狂ってしまいそうな日常からは脱け出せていた。その隙が、藍に一つの残忍な衝動を与えてしまった。この平穏の中でならば、新たな式を成長させる時間的余裕がある――と言うものだ。
もう一度橙を教育し直そうとは思えなかった。今は亡きあの化け猫はそのような可能性など秘めちゃいないと言うことを、藍は彼女を教育して行く中で悟ったのである。
そして藍は、橙に手を掛けた。
八雲紫の式の式として相応しくない――と言うのが建前であったが、あの凶行には多かれ少なかれ、私怨の念が混じっていたことは事実である。下手な期待を持たせておいて、何も出来ないどころか、藍に余計な労力を齎した化け猫への恨みである。自分で召喚しておきながら随分身勝手なものに感じられるかもしれないが、藍は橙に出来る限りの支援と教育を施したつもりでいる。それで尚あの有様であったのだから、藍が苛立つのも無理はない。
橙を殺めてひと月以上が経過した。殺めた時の手の感触も、犯行前後に付き纏った微弱な罪悪感も、橙について記憶も、少しずつ薄れつつあった。しかし、今日の風呂での一件で完全にぶり返してしまった。
はあ――と大きなため息を吐く。
死して尚、お前は私を苦しめるのか。お互い忘れ合った方が幸せだろうに――死してどこへ召されたかは知らないが、この世ではないどこかにいる橙に、藍は心中で毒づいた。
*
風呂での一件があった翌日、式は藍に頼まれた仕事をしに、一人で住まいを出た。
空は飛ぶ野鳥以外の物が見られないくらい広々としていて、何にも阻まれることなく地上に辿り着いた陽光が眩しく、そして暖かい。
式は、草いきれ混じりの暖かい空気を肺いっぱいに溜めこむと、勢いよく駆け出した。
野を越え、茂みを越え、河を越え、人里も越えて――やがて式は森に辿り着いた。この森に群生している特殊な野草を拾ってくると言うのが、主たる八雲藍に任された仕事である。薬の調合について学ぶということであった。
書物で読んだ草の特徴を思い返しながら、式は野草を一つ一つ調べて行く。木の葉が生い茂っているのだが、快晴の空から降り注ぐ一際強い陽光のお陰でそれなりに森の中は明るく、野草探索に困ることはなかった。
目的の野草はそう時を待たずして見つかった。形状が似ているものがいくつかあったが、とりあえずそれと思われるものは全部持ちかえっておこうと、式は夢中で野草を千切った。
必要量に相当する草が集まった所で、さて――と式は一息ついて、辺りを見回す。
すぐに帰るべきなのであろうが、式はこの森の自然にすっかり魅入っていた。特に今日のような日差しの強い日は、木々の織り成す木陰が非常に心地よいのである。大自然の空調が効いたこの空間からすぐに離れてしまうのは勿体ないと感じた。
いつまでに帰って来いと言う指示はされなかったから――と、式はもう少し、この辺りをうろつこうと決めた。探検でもするような気分で、どんどん森の深部へと踏み込んでいく。
しばらくの間は、ただただ木々が連続するだけの単調な光景ばかりが続いていたのだが、ふと式は、前方の視界が大きく変貌したのを感じた。何かあると分かるや否や、その歩みは速くなり、すぐに駈け足となった。
ぱっと視界が開けた。木々が円形状に切り倒された空間に出たのである。真ん中には池があり、強い日差しを乱反射して、きらきらと輝いている。
今日のような暑い日にはもってこいの清水の壺。加えて丁度喉が渇いてきていたものだから、式は大喜びで池へ駆け寄った。
近付いて池を覗き込む。澄み切った水を湛えた池は、底まで見える程の透明感である。生物が生きている様子は見られなかった。
式は水に濡れると外れてしまうので、式が取れてしまわないよう留意しながら、式は両手で水を掬ってみた。相変わらず水は透明で、おまけにひんやりと冷たい。口に運んで、喉の渇きを潤した。
水浴びでもしたいくらいの気温であったのだが、さすがにそこまで遊んでいる暇は無いと、やや名残惜しくはあったものの、式は帰路に就こうと決めた。帰ったらこんな美しい場所があると言うことを主に報告しよう――そんなことを思った。
踵を返し、一歩歩み出した。その瞬間。
背後からぷくぷくと、水泡が弾けるような音が聞こえてきた。
式はさっと後ろを振り返る。先程見た感じでは、生物はいなかったように思ったのに、何かの気配がするものだから、余計に気になった。
式はもう一度、池を注視した。しかしこの澄み切った清水を湛える池に視界を遮るものなど無いに等しいのだから、注視などしようがない。それでも、しばらく池を見やっていると……
一つの水泡が、水底より浮き上がってきて、弾けた。
式は驚いた。水泡があると言うことは、底に何かいると言うことである筈なのに、いくら見てみても、池の底には何もいないからである。
疑問と好奇心に押され、式は両膝を付いて池を間近に眺める。揺れる水が、何か図形を形作っているように見えるような気がしてきた。
――杞憂か、ただの光の反射と底にある岩の具合が、何かの形に見えただけか。……いいや、やっぱり何かある。もう少し、もう少しで、何かが見える気がする。
式は懸命に目を細め、池に落ちる寸前の所まで身を乗り出し、水中を注視する。
そんな式の頭を、突如として水から出でた二本の少女の腕が引っ掴んだ。
*
藍は絶望的な気分になっていた。
死んだように白い顔をしたまま目を閉じ、布団の上に仰向けになっている自分の式の傍で、藍はもうかれこれ数十分泣き続けている。
野草を取りに行かせたきり、いつまで経っても帰って来ないものだから、不審に思った藍が式を探しに行ったのである。主たる藍は自らの式の居場所をそれとなく察知することができるから、探索にはそれ程困らなかった。
見つけてからが問題であった。
藍の式は森の中に倒れていた。全身ずぶ濡れで、式は外れていた。一体何があったのか、藍にはさっぱり理解できなかったが、とにかく無我夢中で住まいまで運んで、応急処置を施した。しかし、式は未だ目覚めていない。心肺は動いているものの、それも随分微弱である。折角手に入れた優秀で誠実な式を失おうとしている現実が、藍は悲しくて堪らなかったのである。
ずぶ濡れになっていたから、水で溺れたのだろうと藍は察し、水を吐かせた。予想通り、式は大量の水を吐いた。しかし、式が倒れていた近くには川など無かった。藍が橙を殺めた池が同じ森の中にあるのだが、発見現場からは遠く離れている。何とも不可解な状況であった。
付きっきりで看病していた藍の身を案じ、紫が休むようにと勧めた。藍も肉体的にも精神的にも疲弊が激しかったので、主の言葉に従うことにした。
しかし、心身ともにへとへとであるにも関わらず、式のことが気になってちっとも眠れなかった。
布団へ入り、寝つけたのはおよそ一時間後。目覚めたのはようやく寝付くことができてから僅か二時間程度しか経っていない時のことであった。
中途半端な睡眠の所為で余計に気怠さを感じながらも、藍はのそのそと起き上がり、式の様子を見に行こうとしたのだが――立ち上がろうと床に手を付いた瞬間、腕がびりりと痛んだものだから、思わず布団に倒れ込んでしまった。
何事だろうと腕を見ると――前任の式が死に際に与えてきた四本の爪痕が妙に赤くなっており、おまけにぷっくりと膨れて上がっているではないか。そろそろ完治してもよい頃であるこの傷が、どうして今になって余計に悪化してしまっているのか……。藍には分からなかったが、だからと言って今すぐパッと治してしまうような術を持ち合せている訳でもない。無駄な思考は取り止めにし、式の元へ向かった。
式は相変わらず眠っていた。取り留めて変わった様子は認められない。藍は式の傍に座り、今に目を開けてくれるのではないかと、祈るような気持ちで寝顔を見続けていた。
しばらくそうしている内に、藍は布団も何もない場所で卒倒するように眠りに落ちていた。
この惰眠も長く続かなかった。何者かの呻き声に起こされたのだ。
式が眠る布団の傍で横になっていた藍は、その呻き声に反応してハッと目を覚まし、慌てて式の顔を覗き込んだ。
果たして、式は意識を取り戻していた。苦痛に表情を歪ませ、唸っているのがその証拠である。生き延びたことはいいのだが、その状態は決していいものとは言えないことが一目で分かり、藍は一寸足りとも喜ぶことができなかった。
「大丈夫か? どこがつらい?」
準備していた濡れた手拭で式の額の汗を丁寧に拭き取りながら藍が問う。式は何も答えないで、とにかく唸るばかりであった。
状態はよくないが、とにかく生きてくれていてよかったと、藍はこの意識の回復を好意的に受け取った。
まだまだまともな精神状態となるには程遠い状況であるが、式が目を覚ましたことで、藍はだいぶ心を落ち着けることができた。このまま順調に快復に向かえばいい――そう思いながら、藍はまた私室に戻り、布団へ倒れ込んだ。その後は蓄積してきた疲労感に、死んだように眠りに誘われた。
たっぷりと休眠をとることができた藍の目覚めはすこぶるよいものであった。これまで無理をしてきたツケであろう、万全の体調とまではいかなかったが、式が意識を取り戻したこともあったし、久しぶりに睡眠らしい睡眠をとることもできたお陰で、体中が鋭気に満ちていた。
体調がよかろうが悪かろうが、寝ても覚めてもやはり気にかかるのは式の容態である。目覚めて間もなく、布団から這い出して式の様子を見に行った。式の寝ている部屋は藍の私室として扱われている一室の隣である。
音も無く襖を開け、部屋の中に入る。しかし部屋は暗く、式の状態がよく見えない。そこで藍は、部屋の窓に掛けてある窓掛けを開いた。遮蔽されていた陽光が入り込んでくる。そして、藍が眠っているその間に、見るもおぞましいものとなってしまった式の体が露わになった。
陽の光に照らされた時、式は体の大部分を掛け布団で覆っていたのだが、そこから飛び出している右の腕を見た瞬間、藍は戦慄を禁じ得ず、思わず身を震わせた。叫び声を上げたい気持ちは、高じ過ぎて寧ろ彼女から声を奪ってしまった。
これまで藍が、献身的に式の面倒を見ていたことは事実である。幾度となく式の体を見てきた。八雲紫に心配されるくらい、ある意味病的な程だ。
だからこそ、式の右腕にまだらに奔っている、ミミズが這ったような浮腫を見て慄いたのである。こんな醜悪なものはこれまでは無かったのだ。驚きもする。
「お、おい……どうしたんだ? どうしたんだよ!?」
寝ていることも厭わないで、藍は式の体を揺らす。式は目覚め、薄っすら目を開いた。
「藍様……?」
苦しげな声。まだ体調はよくないらしい。だが、藍は構わないで続ける。
「おい、この腕はどうしたと言うんだ」
藍にこう言われ、式も自身の腕を見る。そして目を剥いた。事故後、これほど感情的な動作をしたのはこれが初めてであった。
式はさっと布団の中に腕を引っ込めてしまった。何も言っていないが、その瞳には動揺の色が憎たらしいくらいに生き生きと浮かんでいる。死に瀕したこの妖怪が、身に覚えの無い異常事態を目の当たりにし、より活発な生命活動を営んでいると言うのだから頂けない。
「何とか言え! いつの間にこんなことになったんだ!」
「わ、分からないです」
式は目に薄っすら涙を溜めて言う。藍は真っ直ぐ式の瞳を見据えていたのだが、不意に式の目線がちらりと逸れたのを見て、そちらを向いた。目線の先には自分の腕があった。橙から受けた四本の爪痕――は、そこになかった。傷跡はほとんど一体化してしまったと言っていい程に腫れあがり、一つの巨大な浮腫と化していたのである。式に負けず劣らず、醜い腫れである。
*
陰惨な腕の浮腫を目の当たりにした所為で精神的に壊れてしまったのか、今まで続けてきた献身的過ぎる式の看病が身体を壊してしまったのか、或いはその両方か――藍は翌日から、大きく体調を崩してしまった。高い発熱と止まらぬ吐き気に見舞われ、眠ってみても悪夢に魘された。
悪夢の舞台は見知らぬ花畑であったり、見慣れた我が家であったり、通い慣れた冥界にある亡霊の令嬢の住まいであったりと様々であったが、そこには決まって、ひとつ前の式――橙が登場した。藍から遠く離れた所で無邪気な笑顔を浮かべて、ぴょんぴょんとそこいらを跳梁しているのである。
藍を見つけると動くのを止めて、こちらへ駆け寄ってくるのだが、その時の彼女に、つい先ほどまであった筈の笑顔はない。能面の様に無感動な表情で持って、脚の動きに不相応な驚異的な速度でこちらに近づいてくるのである。当然、藍はその姿を見る度に不気味に思って逃げるのだが、どうしても橙に追い付かれてしまう。そして、追い付かれた途端、決まって眼が覚めてしまうのである。
本能的に藍は橙を恐れており、恐るべき存在から夢中で逃げているのだ。夢は本人の心情が曝け出される場である。藍にとって橙は、心底逃避したくなる相手となっている。
殺した当時、自分のしたことに後悔は無かった。これは確かだ。だが、現在はもはや状況が違う。
式の腕に突如として現れた醜い浮腫。同じ頃に起きた、橙に引っ掻かれた時に出来た藍の腕の傷の不自然極まりない変貌。これらから橙のことを連想しないのはあまりにも愚かであろう。一体何が起きているか、藍にさえ分からない。分からないが、とにかくひとつ前の式が何かしら絡んでいると言う考えはどうしても拭いきれない。そんな意識が、彼女に悪夢を見せ、起きている間も耐え難い恐慌を与えるのである。
藍の主たる八雲紫は、その絶大な力をもって藍の心身の傷を癒してやると言うことはしなかった。病気は病気として受け入れると言う美学に基づくものである。
しかし、自らの式が謎めいた病に苦しむ姿を見て無心でいられる筈がない。月の頭脳たる薬剤師、地底に住まう土蜘蛛、鈴蘭畑の毒人形等、この原因不明の病の原因を究明してくれそうな者に片っ端から診断を依頼した。効きそうな薬草は何でも試した。してやれることは何でもした。結局、原因は分からずじまいであったが。
万策尽きても、いっそ殺してやろうという気は起きなかった。藍の優秀さを知っているからである。式の再起を信じ、そして願っていた。
――八雲紫程の大妖怪でさえ、自身が使役する者が苦悶する姿を見て心を痛めている。
対して八雲藍はどうであったか? 愚鈍な式であったとは言え、長年連れ添った仲間を殺しておいて、彼女は悲哀の念も、後悔の意も抱かなかったのである。
病に伏している自分にありとあらゆる手を尽くしてくれる主に、藍は泣いて謝るくらいしかできない。そんな自分の不甲斐なさを嘆き、同時に役立たずとして殺した式に猛烈な罪悪感を抱き始めた。
この頃から、藍はそれとなく気付き始めたのである。
これは病などではなく、呪いなのであろうと。
半月程が経過した。
藍の腕の肥大化は増々進行し、もう大人の男が両手の中指と親指を使って輪を作っても、藍の浮腫をぐるりと一周することができない程にまで大きく膨れあがっている。薩摩芋の様なグロテスクな紫色の浮腫は、見る者に想像を絶する不快感を与える。表面に奔る血管が心拍の度にびくりと蠢く様は、体表付近にミミズを飼っているかのような薄気味悪さである。あまりに醜悪なこの腫れ物を、第三者は勿論、藍さえも見たくなかったので、しばらくして包帯をぐるぐる巻きにするという処置を施した。気色の悪い紫色は隠れたが、浮腫の異形は隠せない。
床に伏してばかりいる藍であったが、食欲が無に等しく、無理に食ってもほとんど戻してしまう為、今はげっそりと痩せ細っている。豊かであった胸も今はまるで餅巾着の様にしなびてしまった。羽織っている浴衣から見える、浮き出した鎖骨が痛々しい。
働き者であった藍にとって、半月も無為な時を過ごすと言うのは耐え難いくらい心苦しいことであった。加えて、悪夢による睡眠妨害に、極度の摂食障害、そして呪いと言う実体を持たぬものの圧力による心労から、彼女は軽く精神を病み始めていた。
正常とは言い難い頭脳が、不意にこんな命を発令した。
「働かなくては」
大きく腫れた腕を庇いながら、藍は幾日かぶりに立ち上がった。生まれたての小鹿のようによろよろとよろめきつつ、彼女はほとんど無意識に、隣室にいる式の所へ向かった。本能的に看病してやらなくては、と言う想いに駆られたのである。
減退するばかりの体力を掻き集めて襖を開ける。その先に敷かれている布団の上で、式が眠っている。寝息は穏やかである。自分程病状が重くないようだ――藍の苦悶の表情に、微かな笑みが混ざった。痛ましい笑顔である。幸福などというものとは程遠い。
倒れ込むようにして、藍は式の傍へ辿り着いた。ばたばたと音がしたが、式は目覚めない。もしかしたら、久しぶりに快眠なのかもしれないと藍は思った。眠れぬ日々を過ごす彼女だからこそ感じられることである。
さて、式の看病をする為に部屋を訪れたのだが、襖を開けて隣室に移動するという動作さえ満足にできない藍にできることなどある筈もなく、藍はぜぇぜぇと息を荒げ、眠る式を見下ろすことくらいしかできない。そもそも、眠っているのだから無理に起こすこともないだろうとも思った。だから、あまりあれこれしてやるのは止めておき、腕の状態を見ておく程度に留めておこうと決めた。それだけの為に苦しい思いをしてまでこの部屋へ移動してきたのか――と言う感じが否めないが、満身創痍の藍にとってこれは結構な重労働であり、現在彼女は妙な達成感に浸っている。
掛け布団をそっと捲り、式の腕を見る。相変わらず、式の腕も醜く腫れ上がっていた。藍と同じように包帯が巻いてあるが、腕の一部分だけこんもりと盛り上がっており、やはり異常性は隠せていない。
「かわいそうに……」
今現在の腕の状態を生で見てやるべく、藍は包帯を取り去り始めた。ぶるぶると震える痩せこけた藍の手はまるで老人のようである。包帯を取り去る手付き、その緩慢なことと言ったら――優秀な大妖怪の式であった彼女の面影はどこにも見られない。
随分時間を掛けて包帯を取り去った。真っ白な包帯の下にあった腫れ物は、やはり藍のものと同じく、濃い紫色をしていた。ああ――と、藍は哀哭の声を漏らす。式の痛ましい姿に、涙まで零れ落ちてきた。
恐らくこの腕を見る者のほとんどが嫌悪を感じるのであろうと思った藍は、慈しみの念を持って、腕の腫れを撫で始めた。誰に何と言われても、絶対に自分だけはお前の味方をしてみせる、と。
そうやって気を違えたように式の腕を撫でていた藍であったが――涙と疲弊で霞み切っている視界に、ふと不審なものが映ったような気がした。
式は現在、手首や掌を上にして眠っており、藍は天井を向いている面を撫で続けていたのだが、床に付いている肘の辺りに、赤色の何かが見えるのである。
何かと思って藍は目を細めるのだが、視界は一向によくならない。
見えぬのであればと、藍はその赤色の何かに手を伸ばした。人差し指と親指で、その赤色の何かを摘まむ。
触れた瞬間、赤色のものの正体が分かった。
綿である。
藍は首を傾げる。――どうして綿が、それも赤色のものがこんな所に?
それをすっと持ち上げた、その瞬間、
「痛い!」
眠りこけていた式が突然こう叫んで飛び起きた。藍は驚いて、その綿を摘まんだまま後ろへ引っくり返った。
式は腫れ上がった自らの腕を抑えて、痛い、痛いと泣き喚いている。藍はそんな醜態を晒す式と、今しがた摘まみ上げた綿とを見比べた。
綿は正真正銘、綿である。蚕の繭から作られる、ありふれたものだ。赤色なのは、血が付いているからであるらしい。げんに藍の指には、綿がたっぷり吸収した血液がべっとりと付着している。
式が抑えている腕からどぽどぽと血が溢れ出て来ており、布団を血の色に染めている。どうやら浮腫に傷穴が空いたらしいのである。
改めて藍は、綿と式を見比べる。血塗れの綿。傷穴。痛みにのたうち回る式。
「おい、落ち着け、おいッ!」
藍が死に物狂いで一喝する。こんな状況でも、式とは主に悲しいくらい忠実で、ひぃひぃと咽び泣きながらも藍の命令に従い、おとなしくなった。
藍は震える手を式の腕へと伸ばして行く。
「手をどけて」
傷穴を抑えている式の片手をそっとどける。そこには、直径五ミリ程度の小さな傷穴があいている。その小さな黒点から、とくとくと血が流れ出ている。
霞む眼をじっと凝らして、藍はその傷穴を見やる。
穴から血染めの綿が飛び出ているではないか。
藍はわなわなと綿を摘まんで思い切り引っ張った。また式は痛いと泣き喚くのだが、今の藍にそんなことへの気遣いをしている心の余裕など無かった。
――これはどういうことだ? どうして体の中から綿なんてものが出てくるのだ?
藍はたちどころに、自らの式が堪らなく恐ろしいものであるように見えた。無理も無かろう、腕に醜い浮腫があると言うだけで見る者に相当な不快感を与えると言うのに、そこから原理は全く分からないが、とにかく綿なんてものが出て来たとくれば、嫌悪や恐怖を感じるなと言う方が無茶である。
藍はばたばたと隣室にある自分の布団へ逃げ帰る。死に瀕したズタボロの体も何のそのと、手足を非効率的に動かして。こんな体でもこんなに動けるなんて――その時の彼女を見た者は一同にこう感ずることであろう。
別に布団には彼女を護る力など備わっていないのだが、恐怖の存在たる式と共有している空気と一枚布を隔てられると言う、それだけのことが、藍に並々ならぬ安心感を与えた。だから、全身を襲っていた心臓が凍り付かんばかりの緊張が、布団の間際まで逃げることができた時、藍はその緊張をいくらか緩めることができた。
その油断にも似た弛緩と、半死半生の身体が災いを呼んだ。彼女は地面に突起があるでもないのに転倒してしまったのだ。
衰弱し切った彼女にしては猛烈な速度で動いていたものだから、転倒の勢いもまたすさまじかった。咄嗟に手を前に出したから顔から床へ突っ込むと言うことは無かった。しかし、食事がまともにできず、また寝てばかりで長らく刺激を与えられていなかった藍の骨は、まるで麩菓子のように密度が無いものとなっていた。その脆弱な腕骨は転倒の衝撃に耐えることができず、あっさりと折れてしまった。折れたことで体勢が崩れ、逃走の惰性で畳の床を僅かに滑った。腫れあがった腕が畳で擦れた。
ただでさえ苦痛に満ちた毎日を送っていると言うのに、また新たな痛みを加えられ、藍はもう恥も外聞もなくひたすら泣き喚いた。
怪我の程度を確認するべく、藍は自身の腕を見た。包帯の向こうで出血しているのが分かった。包帯が赤色に染まっているからである。
仔細な状態を見ようと、藍は包帯を取り去った。
畳の細かな溝の形が、爪痕の様に浮腫を奔って傷を作り上げている。そのきめ細かな傷痕から血が流れ出していて、紫色の浮腫にべったりと赤黒い着色を施していて――。
ここで藍はまたもおかしな点を見つけてしまう。
やけに黒が強い部分がある。
先程、式の浮腫から綿が出て来たことを思い返す。あれを受けてから自分の浮腫にも違和感を見つけてしまうのは気分がいいものではないが、見て見ぬふりをするような勇気は無かった。
血肉の狭間から姿を覗かせる、その黒色に指を添える。
ふわりとしていた。まるで獣の毛のような、そんな感触。
手が震えたのは衰弱の影響ばかりではないだろう。
摘まめる程度の硬質さを秘めた、毛むくじゃらの黒色。
それをしっかりと摘まんで――引っ張り上げる。
ずるずると、腐れた様な腕の肉を押し退け、汚らしい血液といっしょに、黒色の全貌が露わになる。
それは、耳であった。猫の耳である。
見慣れて、見飽きて、そして見捨てた、黒猫の、
*
綿やら耳やらを見つけたその日から、藍はすっかり気を違えてしまった。元々少しばかりおかしくはあったのだが、かの一件が止めを刺したと言った具合である。
食事には前以上に手を付けなくなった。紫の献身的な看病にはもはや興味を示さず、ありがとうともごめんなさいとも言わなくなった。ただただ、布団を被って呆然と時を過ごしていた。
あの騒動の後、紫が見た時、腕の腫れが少しだけ引いたように見えた。紫は回復の兆しかと心密かに喜んでいたのだが、見当違いも甚だしい。浮腫に入っていた猫の耳を引っ張り出したとあれば、腕の膨張だって少しは引くに決まっている。ただ、普通に考えれば、浮腫から猫の耳が出たなんて突拍子もない考えには行き付けないのだから、紫の勘違いも仕方が無い。
どちらにせよ、スキマ妖怪の喜びもそう長くは続かなかった。結局、腫れが元に戻った……いやいや、それどころか、前にも増して大きく腫れあがったのである。紫にとっては回復が遠退いたと言うだけの失望であるが、藍からすればそれには留まらない。また浮腫の中に、非自己たる何者かの欠片が舞い込んだのではないかと言う恐慌に見舞われた。そして、それを確かめずにはいられなかった。怖いもの見たさとか、そんなものではない。純粋に、何者かを自分の中に溜めこんでいるかもしれないと言う現実に耐え切れなかっただけである。
紫のいない時を見計らい、藍はまたも包帯を外して、浮腫を露わにした。傷は塞がっていた。だが、問題のモノは、あるとすれば浮腫の中にある。外から見ていたのでは埒が明かない。
何か切開に使える道具は無いかと辺りを見回して――すぐに藍は適したものを見つけた。自らの手の爪である。妖怪と言うこともあり、長らく切らずに伸びていった爪は人間のそれよりも遥かに鋭い。
人差し指の爪の先を浮腫に刺し込んだ。組織が壊死しているのか、血は溢れ出てきているのに、ほとんど痛みが感じられなかった。
それをすーっと、横へスライドさせていく。やけにすんなりと切り開かれて行く腕に――脆すぎる自らの身体に、藍は恐怖と悲しみを覚えた。
一文字の切創を刻みつけることに成功すると、藍は恐る恐る、それを人差し指と親指で開いて、中を除いてみた。
途端に中から、ぼろぼろと藍の血に塗れた指が零れ出て来た。藍は小さな悲鳴を上げる。
浮腫から零れ出て来て布団の上に転がった指は六本。同じ手の同じ指は一つとしてない。藍のものよりも遥かに小さな指である。
自傷行為による出血になど目もくれないで、藍はその指を拾い上げ、わなわなと震えた。
「……橙、なのか?」
誰に問うでもなく、こんな独り言を呟いた。
藍は息も絶え絶え布団から這い出ると、特に使用していない小箱に、指をしまい込んだ。以前摘出した耳も同じ小箱にしまってある。
そして、不器用に包帯を巻き直して、布団に潜り込んだ。腕の傷について、紫にどんな言い訳をしようか、などと考えながら。
爾来、藍にとって腫れの再来は、楽しみとも恐れとも取れない日常の一つと化した。
三度目の切開で確信したのである。この醜い腕の腫れの中には、橙が宿っていると。
三度目に出て来たのは尻尾であった。黒色の二股に分かれた尻尾。ずるずると浮腫から取り出すのはある種快感でもあった。
四度目に手の指がそろった。それから、足の指の収集が開始された。
五度目には片方の耳が出て来た。よくよく探して見ると、予想通りピアスの穴が空いていた。
六度目に足の指があと一本と言うところまで近付いた。それから眼球が一つ、姿を表した。眼だけ見てみても前任の式の顔は想像ができなかった。
次で眼が揃い、歯がぽろぽろと現れた。足の指が揃わないと嘆いた。
その次で念願の足の指が揃った。髪の毛の束のようなものが現れたが、さすがにそれだけでは式の面影を見ることはできなかった。
さて、次は何が出てくるんだろう――薄気味悪い笑みを浮かべて腕が腫れるのを待ち侘びている藍。今や浮腫は、床に伏すだけのつまらない生活の中の一つの楽しみとなっていた。その浮腫の影響で、このような生ける屍のような生活を強いられていると言うのに。
ある種異様な楽しみを見出せたところで、またも藍は絶望の淵へと叩き落とされることとなる。
浮腫の腫れが引いたまま元に戻らなくなってしまったのである。
紫は大層喜んだが、藍は何とも複雑な気分であった。腫れては切り開き、その中にある他者の体を取り出したお陰で、腕は変に裂けたり、肉が捲れ上がったりして、見るも無残な状態となっている。そんな犠牲を強いてでもやってきた楽しみが絶たれてしまったことが、藍は悲しかったのである。
それ程腫れは酷くなくとも、まだ中に何かあるかもしれないと言う妄執にとり付かれ、腕を切り開いてみたこともあった。その都度紫は藍を叱咤するのだが、藍は聞く耳を持たない。干ばつでぱっくり割れ目を刻み付けた荒野の様相を呈する腕に、更なる切創がいくつも刻まれて行く。そんな自傷行為を繰り返している内に腕の神経は死に絶えてしまった。今の藍は、例え目の前で腕をのこぎりでねちねちと切り落とされても、何の痛みも感じないことであろう。
腕から何も出ないまま一週間が経過した頃、藍は腕を切り開くことをしなくなった。と言うのも、絶え間なく傷付けられ続けた藍の腕は、弾けたザクロの様な醜悪な傷口を露わにしたまま、遂に修復することさえやめてしまったのだ。切創を刻む意味が失われたのである。彼女はいつでも、浮腫の中を探索する環境を手に入れてしまった。
赤黒い罅の間に指を突っ込んで、ぐちゃぐちゃと血肉をかき回しながら、藍はその中に潜んでいるかもしれない何かを探し続けた。しかし、浮腫の中にあるのは己が血肉と骨くらいで、目新しいものは何一つ発見できない。面白くないと思ってはいたものの、浮腫の中から非自己を探し出す作業はもう習慣となっていて、藍は気が付けば浮腫を弄ってしまう状態になっていた。
その日もぼんやりと天井を見上げながら、浮腫に刻まれた罅に指を突っ込んでぐちゃぐちゃとやっていた。当然、何も見つからない。しばらくして、ため息をついて藍が腕を布団の上に投げ出した。
そうしている内に、藍はふと、隣室にいる式のことを思い出した。式も今も原因不明の浮腫と体調不良に悩みながらも生き長らえていることを知っている。よく、隣室から聞くに堪えない苦痛に喘ぐ声が響いてくるからである。しかし、藍は彼女を看病したあの日以降、式と一度も対面していない。
腫れの中から綿が出て来た時は大層驚いてしまったものだが、藍だって今や腫れの中から他人の体が出て来てしまった身である。五十歩百歩どころか、寧ろ藍の方が薄気味悪い。
久しぶりに藍は式に会いに行ってみたくなった。長い間放置していたことへの罪悪感もあった。
前と同じようにやっとの思いで式のいる部屋に辿り着いて、愕然とした。
式の眠る布団の枕元に、大量の綿が積まれているではないか。浮腫の中から摘出したものであろうことは、血に塗れていることから一目瞭然である。式よりも先に綿に目が行ってしまった程の存在感が、その赤と白の山にはある。
それをまじまじと見つめた後、ようやく藍は式の寝顔を拝見した。やや苦しげに眠っている。苦痛に歪む幼顔は、藍に異様な劣情を齎した。
痩せ細った式に以前の様な凛々しさや力強さは感じられない。歳不相応と言っても過言でない弱々しさの所為で、把握している実年齢よりもずっと幼く見えた。
――橙もこんなものだったか。
浮腫からの人体発掘の影響か、藍は今更前任の式のことを思い出していた。
その瞬間である。藍の脳裏にある一つの陰惨な閃きが過った。
その閃きに伴う異常性や倫理性を思考する程の理性や体力が、今の藍には残っていなかった。やろうと思ったことは、できるかできないか、善か悪かの判断さえろくすっぽせずに行う――子どもの様な無邪気さである。
式の眠る布団の枕元にある綿を全て持ち去った藍は、綿で糸を紡ぎ始めた。道具は自室を引っ掻き回して見つけた。まだ体が健康であった頃、紡績をやっていた頃もあったのである。
雀百まで踊り忘れずとは言ったもので、死に瀕した体でありながらも、紡績を行うことができた。血を含んだ綿は非効率的に、どんどん質の悪い綿糸にされていく。
一体どれくらいそうしていたかは分からないが――とにかく、綿をある程度糸にすることに成功した。藍は狂ったように喜んだ。やにわに元気を取り戻し、病体となってからにしては機敏な動きで更に部屋の中を探索し、縫い針を見つけ出した。それから、小箱にしまっていた、浮腫の中から取り出した前任の式の欠片も持ち出し、眠っている現任の式の元へ駆け付けた。
眼、耳、指、歯、尾、髪――小箱の内容たるそれらを全て畳の上にぶちまける。
迷った挙句、先ず左手の小指を拾い上げた。
それを正座している自分の腿の上に置く。そして、眠る式の左手を持ち上げ、小指の付け根に鋭く伸びた爪を押し当て――一気に刺し込んで、降り抜く。
小指が切断された。血と絶叫が迸る。以前は眠っている最中に何の宣言も無しに腫瘍から綿を抜かれて痛い目を見たが、今度は指を切断されてしまうとは、病に伏してから、式は藍からろくなことをされていない。
激痛を与えてきた者が誰であるかを知るよりも先に、命の危機を感じた式は逃げようと試みたのだが、長い病床生活が災いして、その場を動くことができなかった。
「動いちゃ駄目だ」
藍が命じるように言う。式は恐怖や病状などの要因から、縫い付けられたように動きを止めた。
藍は切り落とした指を遠くへ放り投げると、自身の浮腫から取り出した指を取り出した。そしてその断面へ、小箱に入れ続けて腐敗が始まりつつある指の断面をぴたりと宛がい、先程容易した綿糸で縫いつけ始めたのである。雑な縫い方である。そもそも今の衰弱し切った藍に精細な裁縫など行える道理はない。加えて式も痛みに耐え切れず、藍のこの理解し切れぬ暴虐から逃れようとして手を動かすものだから、その雑さに拍車が掛かる。真冬の冷たい外気に晒されているかのように震える藍の手が、たどたどしく、浮腫から出て来た指と落ち着きの無い式の手とを縫い合わせて行く。
時間を掛けて小指の縫い付けを終えると、すぐさま別の指に取り掛かった。額に玉の様な汗を浮かべ、ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、藍は次々に指を切り落とし、小箱に収納していた指を縫い付けて行く。
「藍様、何をするのです。痛いです。やめてください」
式の悲痛な叫び声も、藍の耳には届いてはいない。
藍は以前から、なんとなく感付いていたことがあったのだが、小指を縫い付けた時点で、その漠然とした憶測は確信に変わった。浮腫から出でた体の欠片と、式の体が驚く程にピタリと合致したからである。
病に倒れ、痩せ細った式は、あの頼り無くて役に立たない前任の式たる橙とよく姿形が似ていた。ただ、大雑把に見れば似ていたと言うだけであって、細部にはいろんな違いが散見できた。その細部の違いを修正するものこそ、藍の中から出てきたあの指や尻尾なのだ――藍はこんな狂言染みた仮説を立て、それを無根拠に信じ切った。
今の自分を苦しめる異常が病でなく呪いであると何となく感付き始めた頃から、藍の橙へ対する罪悪感は強まるばかりであった。
そして、半狂乱状態で過ごす毎日の中で、幾度も藍は橙の再生を願った。自身の過ちを、どうにかして是正したいと思ったのである。
浮腫から橙のものと思しき体の欠片が出てきた時、藍はこれを好機と見た。橙の体の部品全てが浮腫から出でるのであれば、そこから橙を組み立てられる、橙を再生することができるのではないか、と。
しかし、思惑は外れた。浮腫からは耳や眼や歯等、細かな部品が出てくるばかりで、全身は出て来なかったのである。
それから行きついたのが、大雑把な『型』に、その細かな部品を組み立てて行くと言う、何とも酸鼻極まる手法であり、藍は今まさにその常識外れの所業をやってのけているのである。おあつらえ向きの『縫い糸』の素材が、『型』たる式の浮腫から出てきていることも、藍の背中を後押しした。
指を切り落として指を縫い付ける。
尻尾を切って尻尾を縫い付ける。
耳を千切って新たな耳を縫い付ける。
歯を抜いて歯を埋め込む。
眼球を抉って眼球をはめ込む。
髪を毟って髪を添える。
そうすればきっと、橙がそこに復刻する。
橙にはどんな言葉をかけてやればいいんだろう――藍はそんなことばかりを考えながら、血生臭い人形作りを進めて行く。
指の付け替えが完了した。指と手の断面が合わないものが多いのは必然である。凸凹した指の付け根に、安っぽくやけに太い紡績糸の縫い跡が生々しい。血が止まらないのだが、そんなことに気を使っている暇は無かった。
仰向けで寝ている式の尻尾を取り去るのは骨の折れる仕事であったので、とりあえず後回しにし、先に耳を千切った。爪でちょっと切れ目を入れて、そこから紙を裂くように耳の上部を取り去った。そこに、浮腫から出て来た猫の耳を縫い付ける。やや色が合っていないのだが、死に目に瀕している藍からすれば、黒みがかった灰と漆黒の見分けなど付かない。
歯を叩き割るべく、傍にあった湯呑を引っ掴み、あらん限りの力を結集させ、式の口を殴りつける。唇の上からの強い衝撃が、歯と言う歯をぼろぼろと崩して行く。奥歯はどうしようもなかったので、後回しにした。叩き割るまではよかったのだが、うまく歯が歯茎に収納されなかった。困った藍は、歯を落としておきながら、この問題を後回しにした。
次に訪れたのは眼であるのだが、これは何とも簡単であった。眼窩に指を突っ込んで、眼を無理矢理抉りだし、変わりの眼を収めてしまうだけでよかったのだから。動作は簡単なのだが、式に襲い来る痛みは尋常でないものである。飄々と作業する藍とは対照的に、式はもはや悲鳴とさえ認識できないような聞き苦しい声を上げるばかりである。
髪の移植に取り掛かろうと、藍が式から眼を離した。
式はもう痛がるとか、恐怖するとか、そういうことはそっちのけで、ただひたすら、こんな意図の読めない暴虐を仕出かす主に殺意を抱いた。
そのどうしようもなく殺したい相手が眼を離した。瞬く間の隙を、式は見逃さなかった。
繰り返される陰惨な所業と、永遠とも思える病の苦しみで枯渇しかけた生命力を奮い立たせ、藍に躍りかかった。
藍は呆気なく、従者に押し倒された。どちらも瀕死の体であるものだから、藍も易々とは式を跳ねのけることができない。
爪も歯も、凶器を握る手も無い式は、我武者羅に自らの手を、藍の口へ突っ込ませ、出来るだけ奥へ奥へとその手の先を届かせた。痩せ細った式の手は藍の咽喉の奥へ到達する。
気道を塞がれた藍は狂ったように暴れ回って抵抗するが、明確な殺意をもった式を、遂に突っ撥ねることができなかった。
増々霞んで行く藍の視界には、出来損ないの橙の偶像があった。憎悪と憤怒に塗れたその形相に、藍はひたすら恐怖するばかりであった。
そして改めて、あの黒猫を自らの都合で殺めてしまったことを後悔した。
二人の陰惨極まりない骸を発見したのは八雲紫であった。悲しみと同じくらいの安心感があったことも事実であった。
一体全体、式と、式の式を襲ったこの不可思議な出来事は何だったのであろう――幾度も病の状態を診続けていた永遠亭の薬師の問いに、紫も表情を曇らせるばかりであったが、
――式としての橙の扱っていた妖術とは、人に危害を与える術。式の外れた橙は人を驚かせる力を持っていた。
藍に殺される際、橙は藍に渾身の妖術を掛けて藍を呪い、何かの拍子に式の外れた橙の霊魂が、新しい式にもまた呪いをかけたのではないか。藍には純粋な呪いを、式には渾身の驚愕を与えたのだと思うわ。式の浮腫から綿が出て来た時は、本当に驚いてしまったもの。
こんな憶測を残している。
以降、誰一人として、この奇怪な病や出来事について語ろうとする者はいなかった。
こんにちはpnpです。
怖い話とはやはり難しいですね。
初めて怖い怖いと意識して書きましたが、如何でしたでしょうか。
今回題材にしたのは「テラトマ体」と「綿ふき病」です。
藍や橙でちゃんとしたSSを書くのは初めてであったので、そういった面でも新しい経験ができてよかったです。
短い作品なのでもう一話くらい書こうかと思ったのですが、うまくまとまらないのでやめました。
考えたことを実行する力を養わなくは。
ご閲覧ありがとうございました。
熱中症などに気をつけて、夏をお過ごしください。
++++++++++
>1 語る価値もないですしぬぇ。
>2 すごい!!(小学生並みの賞賛)
>3 分かりづらい表現でごめんなさい´`
>4 ありがとうございます。
>5 正確に言えば指が使い物にならない手と言った感じです。
>6 そんな感じです。
>7 どういたしまして。今後もよろしくお願いします。
>8 まともな精神状態でないといちいち周りを見ていられないのさ。
>9 ありがとうございます。文章褒められると特にうれしいです。
>10 元々ゆかりんにそんな優秀なもの必要ないんじゃないかしら。
>11 火事場の馬鹿力って表現は作中で使おうとしたけど造語なのか否かの判別つかなくてやめたもの。
>12 「もう式には頼らない」 ゆかりんは本気を出すべき。
>13 少年漫画とかだって敗北間際に強くなるのはデフォだから、死してから強くなるのは何もおかしいことはないと思います。
>14 前述した通り文章褒められると特に嬉しいのです。ありがとうございます。
>15 小傘だってきっと怨恨の最中に死んでいけばこれくらい余裕ですよ。(無根拠)
>16 死後に大成することの価値ってあまり無いのでつくづく出来損ないなのかもしれない。
pnp
- 作品情報
- 作品集:
- 30
- 投稿日時:
- 2012/08/20 09:23:12
- 更新日時:
- 2012/09/08 10:31:01
- 分類
- 産廃百物語B
- 八雲藍
- 橙
- R-18G
主の体内で身体の部位を再構成、後任で接続糸を作成しての復活。
かりそめの復活で行ったことは、最大の驚愕。
八雲 紫の式の式は、最大のタブーとして、幻想郷に名を残したのでした……。
さておき。
淡々と、しかし引き込む魅力を持って進むストーリ、文字通り『口数の少ない登場人物たち』、病理解剖しているかのような正確な描写。個人的に『衰弱する』というお話をあまり読んだ事が無いので大変勉強になりました。ご馳走様です。
さて、最後殺意を抱いたのは本当に『新しい式』だったんでしょうかねぇ・・・。
(´・ω・`)?
こちらが正しいかと。
それはともかく、何時も読ませていただいております。今回の作品も実に引き込まれました。
毎度のことですが狂った/狂っていくという描写に引き込まれ文章に埋もれていく感覚が癖になります。危うく溺れかけました。
ようやく熱くなり始めた夏の夜も何とか乗り切れそうです。ありがとうごさいました。
指を断ち切って縫いつけただけですから動かすのはもちろん無理。「凶器を握ることが出来る手」が無いだけであって「式の手」はきちんと存在していると思います。
さすがpnpさん、こんなに凄惨な終わり方をするとは予想できませんでした。
呪いは弱者が強者を滅ぼす最後の希望なんでしょうか。
藍を殺すほんの瞬間、橙はこの世に蘇ったんだと思います。
素晴らしい作品を読ませていただき、ありがとうございました!
前のが良かったなんて言っても「代替品」も「前任者」も困るよね。
後悔と罪悪感から「橙」を作り直した藍様は何も見てないかわいい!
呪いの描写が生々しくて佳い怖気を味わえました。
九尾の狐なんて大層なものを素材にしても傘でぶったたかにゃならん程度の式しか作れないあたり、この方法はそれ自体に問題があるんじゃねぇのと思えてなりません。復讐の時だけ気合入れるなんて、とんだ失敗作だ。
殺されそうになって初めて本気の呪いが出せたって辺りが橙の小物ぶりを感じさせてくれる。
だがそれ以上に、追い詰める事で橙の力を引き出せる事に
呪いが視覚化するまで気付けなかった藍もまた主としては雑魚。
御役御免を言い渡すのに殺害なんて手段を選ぶなど、天狐ともあろう上位妖獣がなんたる愚挙を!
…さて、紫はこの後、これ以上の式を見つける事が可能なのだろうかね?
周囲を巻き込むほど強い呪いと橙の悲劇的な運命は、「リング」の哀愁のある怖さがありました。
あの作品はジャパニーズホラーの傑作。
後任の式の子がとばっちりすぎて・・・なんていうか・・・その・・・下品なんですが・・・フフ・・・興奮、しちゃいましてね・・・
なんてぼやきはともかく、死者の念の恐ろしさを感じられました。
藍の体内で蘇生するのかと思いきや部分再生&狂気の移植とは…一本とられました。
傷口から呪いが感染するのがそこだけ妙に生物的なのが巧みです。
死後に大成?するのは超晩成って言うのでしょうか?
新しい式、どんなに才能があっても橙のようになんだかんだで経験が多い者には負けてしまうものですね。
橙は力を出す場所を間違えたんだとしか言いようがない。
藍が病に伏してからの一連の狂気は引き込まれる様な楽しさを見出しました。