Deprecated : Function get_magic_quotes_gpc() is deprecated in /home/thewaterducts/www/php/waterducts/neet/req/util.php on line 270
『産廃百物語B「単眼さとり」』 作者: 智弘
『燐。まず自室に戻り、扉に鍵をかけて、一人でこれを読みなさい。私にはもう、あなたと空だけが頼りなのです。けっして、取り乱して無分別なまねをしてはいけません。私を助けられるのは、あなたたちだけなのだから。なにか、おそろしいことが私の身に起きたのです。明日にでも死んでしまうというわけではありません。しばらくの間は堪えられると思います。ですが、いずれ生死にかかわる問題になることは間違いありません。空を連れて、もう一度私の部屋に来てください。それから、あなたにわかってほしいことが二つ。猶予はあります。あわてないで。慎重に行動してください。もう一つ。こいしに、私のことについてぜったいに話さないようにしてください。気付かれたりしないよう、普段通り振舞うこと。大丈夫、あなたならできます。あなたならやってくれると、私は信じています』
火焔猫燐は、紙片に書かれた内容を読みおえると、しばらく自室をぐるぐると歩きまわった。そして荒々しい呼吸がしずまるのを待ってから、ようやくふるえる手つきでそのメモをポケットにしまった。
燐は口をひらいたが、そこから一言も漏れでることはなかった。たかぶった感情が彼女のまるい目をひと回り大きく広げた。彼女の頭には、先ほどの紙片の文字が焼きついていたのだ。
『いずれ生死にかかわる問題』
死んでしまう! さとり様が死んでしまう!
燐は不安におののき、大声で主人の名を叫びながら、飛び出したい衝動に駆られた。しかしその瞬間、彼女の頭上にさとりの悲しげな顔が浮かびあがった。途端にそんな顔にさせた自分に腹が立ち、フゥゥフゥゥと噛みしめた歯のすきまから言いつけも守れない自分を吐き出そうとした。
とにかく、さとり様と話がしたい。会って、確かめなければならないと燐は心に決めた。
それから彼女は、そっと自室を出て、仲間の集まるいくつかの場所へ向かった。
「あ、お燐。仕事おわった? おわったよね? 遊ぼ!」
燐があたりを見回しながらやってくるのを見て、霊烏路空は大きな黒い羽を広げ、飛びかかった。
いつもの燐ならば、ここで空を抱きしめてやっただろう。その豊かな黒髪を指ですいて、ぬくぬくと親友の体温を味わう気持ち良さを燐は知っていた。
だが、そうしていられるのは誰のおかげかということもよく知っているのだ。燐はすかさず、空の首根っこをつかみ、親友の部屋に急ぎ足で向かった。もちろん、空の口をおさえることも忘れなかった。自分たちは慎重に行動する必要があるのだから。
空の部屋に入ってから、燐はようやく彼女を解放した。そしてすぐに、おそろしい事態について説明した。
どうも近頃、様子のおかしい主人になにかあったのかと聞きたくて、部屋を訪ねたこと。ノックをして名乗っても返事は一切なく、しばらく待っているとドアの下のすきまから紙片が顔を出したこと。そして、その紙片に書かれた内容のおぞましさ。
燐は努めてゆっくり話しているつもりだったが、実際のところその口述は一度や二度では聞き取れないほど速さで過ぎ去り、空の耳もそのはるか後方に置き去りにされていた。
燐は相手の鈍感さにじりじりさせられた。彼女はその焦りをつばと共にごくりと飲み込むと自分のポケットのわずかなふくらみのことを思い出した。そして、しまっていた紙片を空に差し出した。
「これなぁに?」
「さとり様からなんだ。いいかい、落ち着いて読むんだよ」
空は不思議そうな表情を浮かべながら、燐の言葉にうなずき、それから食い入るように紙片に目をやった。
燐はその間に気を落ち着かせようと、首をぐるりとまわした。あちらこちらによくわからないがらくたの山があり、変わらないなとため息をついた。
空の部屋は、彼女の性格をよくあらわしている。彼女の雑多な宝物が、室内のあちらこちらを陣取っていて、それらの間にあるわずかなスペースが部屋を行き来するための道になっていた。
うずたかい山々の多くは、薄いほこりの膜をかぶっている。だが、その中にはっきりと最近扱ったとわかる山があった。その山はてっぺんを削り取られ、いびつな積もり方をしていた。燐はおや、と首をかしげた。
お空もようやく集めたものを愛でる楽しみを知ったのか。いや、どうかな。あの山だけというのがやけに気になるのはどうしてだろう。
あれこれと考えに没頭しはじめた燐だったが、その耳におそろしくかん高い音が突然滑り込んできたので、皿を不注意でがしゃんとやってしまったようにびくりと身をふるわせた。
空の悲鳴だった。
「死んじゃう! さとり様が死んじゃうよぉ!」
「わかった。わかったから」
泣きわめく空に、燐は彼女の頭をゆっくりと撫でてやり、それから舌で涙をすくいとる。
ざらついた猫の舌は、空のふっくらとした真っ赤な頬をじっとりとしめらせた。
すると、癇癪から一転して、すっかりいつもの笑みが空の顔に戻る。燐は満足げに、その顔を眺めてから言った。
「いいかい、さとり様があたいらを頼りにしてるんだよ。こんなことは今までなかった。だから、助けてあげなくちゃ」
「うん。さとり様のところに行こ!」
「慎重にね」
「そういえばさ、なんで私とお燐だけが頼りなんだろうね。ほかにもいろんな子がいるのに」
空は紙片の見つめながら、つぶやいた。
「簡単なことだよ」
片目をつむって、燐は落ち着いた口調で言った。
「文字の読めるペットはあたいらだけさ」
「んー、ん? じゃあ、こいし様は?」
「……そこなんだよね」
燐は困ったように頭をふった。
なぜ、妹のこいしを頼らないのかと、紙片を読んだときから彼女は考えていた。
あの文面から察するに、さとり自身も事態の真相については手が届いていないように思える。覚りという希少な種族だからこそ起きた厄介事なのかもしれない。ならば、今はそうでないにしても覚りだったこいしの方が、なにかしらの知恵を持っているというものだ。
だが紙片の内容には、こいしにはさとりの身に起きた一切を話してはいけないという言いつけが書いてある。ひょっとして、さとりはこいしが不幸を寄こしたのだと考えているのではないか。いや、しかし。
「ねえ、お燐。早くしないと!」
突然、ぱっと視界がまぶしくなり、燐は顔をあげた。目の前には自分の腕をぐいぐいとひっぱる、空の姿があった。
ああでもないこうでもないと、頭をこねくりまわすことについ没頭してしまったようだ。こんなことではいけない。燐は自分の頬をぱちりと叩いた。
「そうだね。行こう!」
二人は力強い歩調で、さとりの部屋へと向かった。
距離はそこまで遠くないが、彼女たちはその間に倍の時間を感じていた。
紙片の言いつけを守っていたせいだった。慎重に。そして、こいしに注意する。
こいしはまぶたの裏を通してでないと見えないような気配の持ち主だ。頭の中がはっきりしている限り、彼女の影すら踏むことはできないだろう。
しかし、それえでも二人はさとりの言いつけに忠実に従った。今、彼女たちにあるのは主人を助けたいという一心だった。そのためにするべきことを、燐と空はよく理解していたのだ。
慎重な行動のためか、それとも天の気まぐれか、二人は無事にさとりの部屋の前にまでたどり着いた。
空はすぐに扉を激しく叩いた。
「さとり様! 大丈夫!? お腹痛いんですか! さとり様! さとり様!」
「お空! ちょっと、ちょっと待った!」
「さとり様! さとり様! 空だよ、なんで開けてくれないの!」
燐は全身を使って、空を扉の前から引き離した。すると彼女はウゥゥと、せまい場所に入り込んだ不満げな風のように低い声でうなった。燐が押さえこむのをやめると、空はそのまま背中を曲げてぐったりとした表情で座りこんだ。
燐には空を怒鳴りつけるようなまねはできなかった。空がいなければ、代わりに自分がやっていただろうとわかっていたからだった。
しばらく気をしずめるために、燐はその場に立って、じっとした。
それから、ゆっくりと扉をノックして、静かな声音で呼びかけた。
「さとり様。燐です」
すると、燐の耳に、戸口まで足をひきずるような音が聞こえた。
扉越しに、か細い吐息を感じた。頑丈なチョコレート色の扉をへだてたところに、さとりがいるのだと燐の本能が告げた。
それから、扉の下から紙片が滑りでた。燐はすかさず、メモを拾い上げ、目を走らせた。いつの間にか、彼女の背中には空がはりついていて、その目はやはり、内容を一字たりとも逃すまいと紙片を見つめていた。
『燐、空。私の頼みを、注意して読んでください。私の指示に、正確に、そして慎重に従ってもらう必要があるのです。理解できたなら、ノックをしてください。これから扉をあけますが、部屋に入る前に約束してもらいます。入ったら、そのまま奥に進むこと。私に近付かないこと。この約束はぜったいに守ってください。私の命はあなたたちの行動にかかっています』
燐は紙片を持ったまま、押し黙った。それから自分の肩越しに空を見やった。空はくちびるを薄く引き結び、ゆっくりと頭をゆらした。
緊張した面持ちで、燐は空にもう一度視線を向ける。先ほどと同じように答えてくれたので、燐の心は決まった。
静かに三回、ドアをノックした。
扉の向こう側から金属のこすれるような音がしたと思うと、部屋の光景が二人の視界に広がっていった。
燐と空は、夢中で部屋の中に飛び込んだ。それから、言いつけの通り、まっすぐ二十歩進んみ、そこで壁にあたった。
さとりは扉の影に立っていたようで、彼女たちが入ったと見るやすぐにまた鍵をかけた。
燐と空は、さとりの姿を見た。顔色こそ悪いが、それは普段とまったく変わらないものだった。目立った外傷もない。二人はほほ笑みかけたが、すぐにまた不安げな表情に戻った。体の病気かもしれないし、もっと違う規模の問題かもしれない。思い悩んだ彼女たちは、できるだけ静かな声でさとりに言った。
「あの、さとり様。ご病気なんですか。それとも、なにか別の問題が……?」
「私たち、なにをすればいいの。教えて、さとり様」
さとりは二人の呼びかけに一切答えなかった。
しかし、無視をしているわけではない。彼女は二人をおびえながらも見つめていた。寒さにこらえるように、自分の体を左腕でだきしめながら歯を食いしばっていた。
燐と空は、さとりの様子がどういう意味なのかまったくわからなかった。二人はお互いの顔を見合わせたが、相手が自分と同じだと知り、結局なにも言い出せずにいた。
室内には、三人分の息づきがあるばかりだった。そこに一つの音が割って入った。
さとりの涙声だった。
「だ……だめ……うぅぅ、やっぱり、だめなのよ……堪えられ……」
さとりはさっと部屋の片隅に走り、そこにうずくまった。
燐と空はすぐに駆け寄ろうとしたが、その足はすぐに止まった。彼女たちが言いつけを思い出したのと、さとりの叫び声があがったのは同時だった。
「出て! はやく! 出て行って!」
それきり、さとりは泣き伏した。
燐はとにかく今は出ていくべきだと察し、空の手をつかんで大急ぎで部屋を出た。
扉をしめた瞬間、鍵をしめたときのカチャンという無機質な音が、二人の耳の奥に響き渡った。
燐はどうしようもなく悲しくなり、思いっきり口をひらいて泣き出したくなった。だが、実際に泣くことはなかった。空がすでに顔を真っ赤にして、肺の運動にいそしんでいたからだ。
燐はしばらく部屋の前で立ちつくしたが、空のグワァングワンと波のある泣き声にまじって、部屋の中でゴトゴトとなにかが動いている音が聞こえた。
やがて、扉の下から高価だと一目でわかる便箋がのぞいた。
燐はすぐに内容に目を通したが、冒頭に言いつけがあったので、空を引っ張って自室に大股で戻った。
『燐、空。まずは部屋に戻りなさい。ここまで騒げば、あの子もそのうち来るかもしれない。それに、これを読むには相応の時間が必要になると思います。とにかくあなたたちには、一切を理解してもらいたいのです。そのためのものをすべて、ここに書きあげたつもりです。本当なら先ほどお話できたはずでした。こちらから呼びつけておきながら、追い出すようなことをして、本当にごめんなさい。あれは私のミスです。事態は思っていた以上の速さで成長を続けています。今となっては私でも、自分の体についてまったく無知だということを知っておいてください。これは例えでも言葉遊びでもありません。文字通りです。ここからは落ち着いて、読んでください。もはや、私に時間は残されていないのです。あなたたちに、速やかに行動をとってもらうために。どうか、よく読んでください。
すべては、私のサードアイが閉じてしまったことから始まりました。ですが、その前から自分の体のどこかが、燃えるように熱くなったり、その逆にしびれるように冷たくなったりすることには気づいてました。そのことの意味を知ったのはずっと後になってからですが。体の異常は医者にも診てもらいましたが、なにも問題はないと言うのです。実際、痛みはまったくありませんでした。ただ、熱や寒さを持ったかと思うと、そのまま感覚が溶けていくような虚脱感はありました。たとえば、右腕がそうなったとき、まるで自分のものではないかのように存在が感じられなくなります。そうなると、腕は犬の舌のようにだらしなく伸びたままになり、少しの間だけ使いものにならなくなるのです。なんとも不思議なことではありましたが、疲れているせいだろうと私は気にも止めませんでした。そして、あるときサードアイがふるえ、熱量はぐんぐん大きくなり、私の意思とは関係のないところへ行ってしまったのです。この不思議な現象は、私の体のいたるところで起きていました。右腕ということもあれば、足の小指だったり、右のまぶただったこともあります。それが今度はサードアイで起きたのだと、ただそれだけのことだと私は思っていました。その考えも、五分やそこらで私の手元に戻ってくるはずの迷子の体が、一日経ってもどこかへ行ったっきりになってしまったことで、すっかり変わってしまったのです。
私はサードアイに依存しています。それは人間や獣が、動くために足に依存していることと同じ意味なのです。覚りの一器官であるサードアイを失った私は、なにもかもが怖くなってしまいました。情けないとは言わないでください。突然、目が見えなくなってしまったら、口がきけなくなってしまったら、なにも聞こえなくなってしまったら、誰だっておそろしい思いをするものです。誰かと会うのも堪えられないほど怖くなりました。相手がなにを考えているのかまったくわからないのです。もはや、聞こえてくる言葉も、それが真実か嘘かなど問題ではなく、まったく別の次元の不愉快な音のようにしか思えませんでした。私は四六時中、目まいと吐き気におそわれながらも、ただサードアイが私の意思のもとに戻ってくることを祈り続けました。しかし、そんな願いをあざけるように、サードアイは閉じたままで、体の熱や寒さは次第に頻度を増していき、ただ動かなくなるどころか、誰かまったく別人の意思が入り込んだかのように、好き勝手にうごめくようにまでなったのです。
空。あなたは私の体が他人のものになったところを見ています。覚えていますか。あんな嫌なことがあったのだから、すっかり忘れているかもしれません。あなたのたいせつな宝物の一つを見せてもらっていたときのことでした。突然、私の右腕が凍えるようにふるえたかと思うと、その宝物の山のてっぺんをなぎ払ったのです。私は冷静に、ただ山が打ち崩れる様を眺めているだけでした。空がわぁっと泣き出してから、ようやく私は自分の腕が仕出かしたことなのだと気付いたくらいです。
燐。あなたは最近、私の様子が変だと気付いていましたか。どんなときも両腕で自分の体を抱いているようにしていたと思います。あれには、二つの意味があるのです。サードアイを隠すこと。そして、私の腕が他人に取られないよう抑えていること。ですが、それもあまりによわい抵抗なのだとすぐに知ることになりました。私の意識をひょいとまたぐようにして、他人の意思がひとたび入り込めば、もう黙って見ていることしかできないのですから。不思議なことに、誰かが私の体を動かしているとき、まるで抵抗しようという気が起きなくなります。私の体を自由にいじくる誰かの道具になったかのように、それがきわめて自然的なことのように思えてしまうのです。
あなたたちが部屋にやってきたときにも、私はなんとか体が自分のものであるうちに話そうと思いましたが、サードアイがない状態では、やはりあなたたちでも私には無理だったのです。追い打ちをかけるように、あのとき私の両腕がかっと燃え上がるように熱くなり、なにが起こるかわからない状態でした。私の口が自由でなかったら、あなたたちの細い首をしめつけていたかもしれません。
私はこのおそろしい事態の解決のために、まず自殺を考えました。しかし、私がナイフを右手に持ち、自分の体に突き立てようとすると、決まって誰かの意思が入り込むのです。首に縄を巻こうとしても同じです。大量の薬剤を飲み込んだとしても、すぐに胃が私の手元から離れて、嘔吐をうながすのです。私は絶望的になりながらも、次に入り込む他人について考えました。これには心当たりがあります。今更、こうして書くことでもないのですが、あらためてその名前を記しておきます。
古明地こいし。
もちろん、彼女の性格や境遇、それから私のこいしに向ける感情だけで、彼女を犯人扱いすることはしません。ですが、この症状がまだひどくなる前に、こいしが私の前に現れたことで疑問は確信に変わりました。こいしは私の体についてすでに知っていましたが、それは問題ではありませんでした。彼女は誰にも近づくことのできない知識の形式を持ち合わせているのですから、なぜ知っているのかなどと愚かなことを聞く必要はないのです。こいしは言ったのです。私が助けてあげると。すぐに嘘だとわかりました。あの子はただ私を同類にしたいだけなのです。私の体を余すところなく、自分のものにしたいだけなのでしょう。こいしは地上でいろいろと調べたり、探したりしたことを私に話し、こうしたら治るかもしれない、こうすれば良くなるとあれこれ教えてきましたが、すべて聞き流しました。彼女の言ったことはなにひとつとして覚えていません。今もこいしは、どこかに出かけていて、そこで知った無益な話を、帰ってきたら私に教えてくるのでしょう。無駄なことです。まったく、意味のないことです。
しかし、本当にそうだろうかと最近思い始めたのです。あの子は本当は、この事態にまるで関係がなく、心の底から私のことを心配して気遣ってくれてるのではないかと。たった一人の肉親を想う、妹の愛情を受けているのではないかと。そう思うようになってきたのです。そのように自覚したとき、私は込み上げる吐き気を抑えようとしました。どうしようもない不快さが血管の中を這いまわり、体中がかゆくて仕方なくなりました。そうです。私の脳すら、もうこいしの意思に侵されているのです。幸い、すぐにそのような考えから覚めることができました。猶予はもうあまりに残されていない。いずれ、私の体が完全に支配されたとき、あの子の自慰を手助けする薄汚い人形でしかなくなるのです。
私はどうにか自分の体がまだあの子のものでないうちに、あなたたちに助けを求めることができました。
お願いです。どうか、あの子を殺してください。それができないなら、私を殺すことです。
それ以上の救いはありません。私が自分の意思を持っている間に死ねるのであれば、私の命があの子に汚されることなく助かることになるのですから。
どうか、あなたたちの手で私の命を助けてください。
これが主人としての最後の命令です』
さとりの手紙を読みおえた二人は、お互いの顔を見合わせた。
「どう思う?」
「わからない。わかんないよ。こいし様がそんなことするようには思えないし」
「じゃあ、さとり様が嘘を?」
「さとり様は嘘なんてつかないよ!」
空が声を荒げたとき、同時にかん高い悲鳴が館の中に響き渡った。
燐は叫んだ。
「さとり様の部屋だ!」
二人は勢いよく部屋を飛び出し、先ほど来た道を駆け戻った。
さとりの部屋の扉はひらかれていた。
扉を突き破る手間がはぶけたと燐は思った。そして、空とともに凄まじい速さのまま室内に入り込んだ。
部屋には、さとりとこいしがいた。
さとりは下半身でこいしを床に押さえつけ、その細い首に自由な両手を巻き付けていた。
「私の体はあなたのものじゃないの! 私は今、自分の意思で動いてみせてる。これが私のしたいことよ……!」
「ぁ、めぇ……っ、やめ……え……」
こいしのひらかれた目は涙をいっぱいに溜めこみながら、さとりになぜと問いかけていた。
さとりは、自分が狂人だと思われていることを知り、ひどく苛立ちながら、爪をこいしの首に食い込ませた。血がにじみ、爪の間にはがれた皮膚がはさまった。
燐と空は、主人の凶行を目の当たりにして、一瞬迷ったが、つぎの瞬間、同時にさとりに飛びかかった。
「さとり様! やめてください!」
「お願いです! おちついて!」
両腕をそれぞれ二人にかかえられたさとりは、苦しげにうめいた。
そして、しばらくなんとかして振りほどこうと精いっぱい暴れたが、二人の拘束が解かれることはなかった。
「あなたたち! どうかしてるわ、あなたたちの脳もこの子の意思に侵されてしまったのね!」
さとりはそう怒鳴ると、ぎらぎらとした憎悪の目つきで、咳きこむこいしを睨みつけた。
それからすぐに、怒りと恐怖がさとりの意識を断絶した。
数日後、気絶したままのさとりが目を覚ました。
そしてすぐに、燐と空、そしてこいしを自室に呼びだした。その顔は朗らかな笑みで彩られていて、三人にあらためて今回の騒ぎについて、頭を深く下げて謝った。
それが嘘ではなく、本当の気持ちであり、さとりの精神はすっかり元に戻ったのだと燐と空は理解した。
サードアイがひらいているのだ。
「気のせいか、顔色まで良くなりましたね」
「前より元気になったんじゃないですか」
「もう、そんなこと言わないでよ……」
彼女たちは笑いあい、それから安心した表情でさとりの部屋を後にした。
室内にはさとりとこいしだけが残った。
「ねえ、お姉ちゃん」
こいしは帽子を深くかぶり直し、ちいさな声で言った。
「どうして、目を閉じてるの?」
「どうして?」
こいしの言葉に、さとりはゆったりと探るような視線を相手に向けた。
さとりの胸元にあるサードアイは、彼女の両腕にかかえられ、大事そうに守られている。
「なにを言ってるの。サードアイはちゃんと目をあけてるでしょう?」
言いながら、さとりはサードアイをゆっくりと撫でまわした。
こいしはすぐに言い返した。
「ちがうよ。そっちじゃなくて、二つの目」
さとりの両目は閉じられていた。眠るようにおだやかな顔。その閉じられたまぶたは今にもひらきそうなやわらかさを持っていた。
だが、こいしにはそうは思えなかった。あのまぶたは二度とひらかれることはなく、顔の一部として根付き続けるのだろうという奇妙な確信を彼女は得ていた。
さとりはあっさりとした調子で答えた。
「ああ……ちょっと疲れてるだけなのよ。べつにいいじゃない」
「よくないよ。ねえ……あなた、お姉ちゃんなの?」
さとりはかすかなほほ笑みを口の端に浮かべながら、こいしを見つめた。
その笑みは徐々に、顔に広がってゆく。閉じた二つの目も奇妙なほどに歪んでいて、歓喜の様相を見せているようだった。
「あなたったら、なにを言ってるの。馬鹿なこと言ってないで、自分の心配をしたらどう?」
室内にしばらく沈黙が続いた。こいしがなにか言うのを待っていたさとりは、ため息をついて、言った。
「その目のことよ」
さとりのサードアイは今や、爛々とかがやいていた。その視線から逃れるように、こいしはゆっくりと下を向いた。
サードアイと目があった。
こいしのサードアイは、皮膚越しに見る血管のように青く、しずかに脈打っていた。わずかな切れ目のように、薄くひらかれたまぶたから、きらめきのようなものがこいしの目に映る。じっと横たわって、芽吹きを待つ種のように、それは見えた。
こいしの体は知らず、さとりからじりじりと離れていった。だが、すぐに壁に行きつき、きっと結んでいたくちびるは、ぽっかりと穴をあけた。
「どうして、その子を起こしてあげないの?」
さとりは、おかしそうに言った。その声には、自分の仲間に手を差し伸べるような親しみがあった。
いつの間にか、こいしの目は冷たい涙で濡れていた。
「あなたの体が迷子のままで、泣いてしまっているじゃない」
さとりはそう言って、こいしにゆっくりと歩み寄った。
たまに自分が以前書いた話を読み直すことがあるのですが、読んでいて、これは本当に自分が書いた話なのかと思ってしまうときがあります。
キーを叩く腕が、話を考える脳が、私の意思から飛び出し、自由にふるまっているのではないか。
そんな考えから、この話を書きました。
自分の体は自分のものだという自我の信仰は強固なものです。これを打ち崩すような器官となると、フランドールの羽や、古明地姉妹のサードアイ、豊聡耳神子の髪の毛などがそうなのではないかと思います。
-10月26日追記-
ご感想、ありがとうございます。
以下はコメント返信です。
>>1
思考を跳躍せしめる脳と直結した目が、どうしてあるがままを見ていると言えるでしょうか。
>>2
覚りという種族はシャム双生児として生まれ、一方が必ず息絶える。そして肉体は縮み、目玉と神経だけを残して、果てる。サードアイは意思持つ一人の妖怪。という想像。
>>3
意識あるままに意思だけ奪われる恐怖を味わわせたい。そして周囲からそういう年頃なのかと思わせて孤独にさせたい。
>>4
文字通り心を閉ざしたこいしには、戻る道も進む道もありませんね。
>>5
さとりさん、なにかあったらすぐ妹のせいにする癖があるから困ります。
>>6
メディスン系ともあまり違いはないかもしれませんね。豊聡耳さんの髪の毛はミミーと呼ばれる寄生生物です。
智弘
作品情報
作品集:
30
投稿日時:
2012/08/21 17:10:11
更新日時:
2012/10/26 18:34:31
分類
産廃百物語B
古明地さとり
古明地こいし
こいしちゃんは無害かわいい
だれも真実を見ようとしない、見る事が出来ない。
目を瞑っているのかもともと目には真実を見抜く力など無いのか。
だが、こいしは、多分、元に戻ろうとしないだろうね……。
姉を『視て』しまったから……。
壊してまわると思ったけれどそんなことはなかった。
もはや「姉」というのかもわからないさとりさんかわいい。
これは一つの身体に二つの意思ですか…。
自分の意思が本当に自分のものなのか、確信できなくなるのは悲しいことですね。
さとりはその不安に屈し、眼を閉じたのかもしれません。
>>>豊聡耳神子の髪の毛
えっ