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『リメンバーph』 作者: sako
<結・二>
毒手と怪力を持ち合わせたこの腕にかかれば殺せない者などない。
それが喩え造りの親だったとしても。
ごふり、と血の泡を吐き出しながら我が母は振り返った。その瞳に浮かんでいるのは“何故”“驚愕”“不理解”といったつまらない文字列ばかり。
その顔が心底可笑しくて、私はつなぎ合わされた横隔膜を振わせながら笑った。それは同時に解放からくる羽ばたくような歓喜でもあった。米国の初代大統領リンカーンが行った奴隷解放宣言を聞いたニグロどもの雄叫びだった。
思えば我が第二の人生のなんと惨めなことだったか。無理矢理生かされ、奴隷のように酷使され、しかも、狗畜生以下の扱いをされていても自我などなく、自分ではそうなのだと理解できないでいたのだ。使い捨てられるちり紙さえも嫉ましく思える処遇だった。
だが、それもこれまでだ。腕の中の脈打つ心の臓から温かさが失われていくのが分る。この熱こそが私の首輪と両手足の枷を溶接しているアセチレンの青い炎だ。これが消えれば私は解放される。この鎖から。この拘束から。この豚小屋から。解き放たれるのだ。忌々しく親しき母の手から。キョンシーとして使役される我が命運から。
笑みも顔から消え失せる。感極まり過ぎ、人の身では、ましてや死体のこの身では表現できぬほどの感情に支配されてしまったのだ。今、私はまるで魂なき人形のような顔をしているだろう。それは恐らくつい昨日までの自分と見分けの付かない表情。だが、違う。今の私は違う。こんな顔をしているのもこの一時だけだ。後数刻、いや、時計の長針が六度ほどずれるだけで私は表情を取り戻せるのだ。かつての、生前のような。
さぁ、その為の第一歩を踏み出せ。拳を握りしめろ。歓喜の雄叫びを上げろ。
「霍青娥ッ!!」
――自由と、復讐のために!
<起>
命蓮寺が裏手の墓地。その端。風化し苔生し、かつてそこに刻まれていた戒名も読めなくなってしまった古い古い墓石が並ぶ一角。夏の盛りでも底冷えするような風が吹き、黴と埃のえも言えぬ匂いがたちこめる場所。そこに枯木や雑草に隠れるよう祠が建っている。半分以上を土に埋め、回りの墓石よりも古さを感じさせる石造りの祠であった。
その祠の真正面、札が貼られ固く閉ざされている門扉の前に一つ人影があった。春の陽気に船を漕ぐことなく、夏の日差しに眩暈することもなく、秋の気温に腹を鳴らすこともなく、冬の木枯らしに震えることもなく、直立で、不動で。一つ人影があった。
人影は両腕をまっすぐ前につきだし、反対に手首は脱力するよう折り曲げたという奇妙な体勢をとっていた。だが、もし、ある種のセンスをもつ人間がこの人影を見た場合、あるものを連想するかも知れなかった。それは立哨する兵士だ。宮殿や御所の門前で銃剣を手に微動だにせず、曲者はいないかと目を光らせ、威圧感を放ち続けるあれだ。
成る程、直立する人影は妙な格好をし、おおよそ守る必要がなさそうな古びた祠の前に突っ立っているだけだが確かに立哨している、と言えなくもない。目は目深に被った帽子のせいで見えないが、逆にその影から周囲を伺っている、とも考えられる。
と、寺へ続く道の方から何者かが祠の方へ近づいてくる足音が聞こえてきた。ただ、足音は奇妙なものでざっ、ざっ、と間隔のある一拍子であった。普通の足音なら、ざっざっ、ざっざっ、と二拍子だ。びっこをひいていても人間はそんな風には歩かない。つまるところこの足音は近づいてくるものが人間ではなく魑魅魍魎、妖怪の類であることを表していた。案の定、墓石の迷路の角から姿を現したのは蒼髪オッドアイのからかさお化けだった。何も履いていない右の素足を折り曲げ、下駄履きの左足一本で子供の遊びの様に跳ねながら近づいてきている。その存在に気がついているのかいないのか、立哨は不動だにしていない。対し、からかさお化けは早々に立哨の姿に気がついたのか、はたと足を止めた。眉を顰め、ジッと立哨を凝視する。
そのままからかさお化けは引き返すかに思えたが、予想に反し、そのまままた奇妙な歩行法で前へと進んでいった。ただ、少しは立哨を警戒、というか注意しているようでその歩みは平時に比べるとリズムが崩れていた。
「こ、こんにちわ」
からかさお化けは立哨の前を通りかかった時、そう頭を下げた。恐る恐る。だが、立哨は返事をしない。聞こえていないのかと、からかさお化けは数瞬ほど立ち止まっていたが、相手がどうあっても無反応なのを見取り、諦めるよう離れていった。心なしか、その時の方が足は早かったが。
「うーん」
からかさお化けが立ち去ってから、すぐ、そんな声が聞こえてきた。からかさお化けが来て去っていった方向とは別。そうして、立哨のものでもない声だった。
「もう少し、愛そうよくしても良かったかしらん」
「そうかい。これはこれで生真面目っぽくてよろしいと思うけれど」
それも一つではなく二つ。高貴な身なりをした二人組だった。一人はゆったりとしたワンピースに羽衣を纏い、もう一人は紫を基調としたノンスリーブだ。
「あっ、せーがー、おかえりー」
「はい、ただいま。いい子にしてた?」
「うん、言われた通り、きちんと怪しい奴がいないか見張って、きちんと通行止めにしてたよ」
よしよし、と立哨の頭を撫でるせーがーと呼ばれた女仙――霍青娥。その顔に浮かんでいるのは娘の優秀さを誇らしく思う…馬鹿な母親のそれだったが。
「まぁ、確かに頬被り大風呂敷の如何にも『怪しい奴』ならまだしもからかさお化けの女の子じゃ『怪しい奴』には入らないという意見が大多数だろうし、『ここ』…大祀廟の入り口を通る奴は確かに今のところ現れてはいないね」
ははは、と笑いながらそう立哨の働きぶりを少し皮肉混じりに認めるているのは青娥と共に帰ってきた聖人――豊聡耳神子だ。
「あっ、おかえりなさいみみみさま」
それを青白い顔にどこか作り物めいた笑みを張り付け出迎えたのは、青娥の従順な僕<キョンシー>宮古芳香だった。
「ただいま宮古芳香。お努めご苦労」
芳香とは対照的に見るもの全ての心を安心させ、絶対の信頼をそれだけで勝ち取ってしまうような笑みを浮かべる神子。それだけでまっとうな忠臣なら万金の報償を与えられたような喜びをえることだろう。だが、芳香にそんな感情はないのか、同じ笑みを張り付けたままハイ、と頷いただけだった。
「さて、戻って書類整理をしないと…」
と、芳香の脇を通り抜け、大祀廟への隠し扉を潜ろうとする神子。その瞬間、
「ここは通さぬ!」
芳香がその前に躍り出たではないか。
「えっと…」
困惑しながら芳香にではなく、青娥に視線を向ける神子。
「えらいわ芳香。たとえ太子様であろうとも通さないなんて」
「えへへ。私はゆうしゅーなばんぺい(番兵)ですから」
「その番をする場所のボスは私なんですが」
がくり、と流石の神子もこの『親子』のやりとりに肩を落す。
「まぁ、私や青娥に化けた古狸や正体不明がやってくるとは限りませんしね。これぐらい厳しい方がいいのかも知れません」
そうでしょう、と神子の言葉に腕を組みしたり顔で頷く青娥。芳香もそれに倣い頷く。腕は組めないが。
「それを見分けるぐらいの脳があればなおベストなのですが」
「うーん、脳が腐っているのでそこまで複雑な命令は伝えきれないのですよ。それでも他の子達よりは芳香は余程融通が聞く方ですよ。私以外の命令も聞きますし」
確かに、と頷く神子。以前、正倉院の荷物の整理を大祀廟で働いている大型のキョンシーに頼もうとしたのだが、その彼は神子の話さえも聞かなかった。いや、理解しようとはしなかった。芳香ならば少なくとも青娥の命令の邪魔にならなければそれぐらいはしてくれる。一応、会話も成り立つし。
「ふむ、しかし、この愚直さ。民衆の管理に役立つかも」
と、そこで神子の思考が飛ぶ。ただの一組織の長から支配者としての感性へ。
神子の瞳に感情を超越した黒真珠を思わせる輝きが灯る。それを見取ってはっ、と青娥は息を飲んだ。
「では、ついに愚民総キョンシー化計画を実行に…!」
「……それはそれで面白そうですけれど、しませんよ」
そうですか、と肩をすくめる青娥。冗談だったのか、それとも本気だったのか、古井戸を思わせる青娥の心の内は神子の能力をもってしても読み切れぬ。
「そう言えば、この子は他のキョンシー達と少し違うようですけれど、何か理由があるんですか」
青娥にあまりスケールの大きい話をするとかってに実行しかねない。スケールの小さいことならば勝手にされても問題はないが、流石に愚民総キョンシー化計画なんて実行された時には目も当てられない。話題を変えるよう、神子は芳香の話に戻した。自分の得意分野の事を聞かれたからか、青娥の顔が少し綻ぶ。
「ええ、この子は他の大量生産品<インダストリアル>ではなく特注品<スーパービルド>ですから」
「へぇ、特注品ね」
「他のキョンシーは単純な命令を一つしか聞けませんけれど、この子は複数聞けますから」
二つから三つ、までOKなのですよ、と誇らしげに胸を張る青娥。芳香も同じく。あは、と神子の顔に乾いた笑みが浮かんだ。
「ほう、それで、どうやって造ったんだい」
「それはですね…」
そのまま青娥は宮古芳香製造の過程を神子に語り始める。脆弱な精神の持ち主ならそれだけで気を失いかねない、まともな心を持っていても気分を害するような凄惨な内容だ。それを神子は涼しい顔で聞き取り、時折質問を返すなどしている。まるで何処かの大学教授の講演でも聴きに来ているように。
そして、ここにもう一人聴衆がいた。いや、聴衆というよりかは聞ける場所にいるだけ、と言った方が正しいか。神子が正式な招待状なり参加表明なりを経て青娥の講座を聴きに来たのに対し、もう一人…芳香は会場設営のスタッフとでも言うべき立場だ。青娥の講座を無料で聞けるが…当の本人に聴く気があるのかどうかは別問題。加えて言うなら聴けるだけの脳があるかどうかも別問題だ。居眠りしていないだけマシだろう。青娥の文明社会より隠匿されるべき邪悪な仙術の説明を無表情に右から左へと聞き流している。
「――で、このパーツは上海で――」
「……」
と、ほんの一瞬だけ、芳香の瞳が動いた。ほんの一瞬だ。話をしている二人はもとより、本人でさえも気がつかないほど一瞬。それが青娥の語るどの内容だったのか、どの言葉だったのか、結局、講義が終わっても分らないままだった。
「成る程ねぇ。仙術はやはり奥が深いね」
「君主論<マキャベリ>ほどではありませんわ」
講義が終わり、芳香の脇をすり抜け神霊廟へと帰っていく二人。青娥が岩戸を開けると先に神子が門を潜った。続き、青娥も門扉を潜ろうとする。と、
「ねーねー、せーがー」
「うん?」
芳香が青娥に話しかけてきた。足を止め、質問を聴く前から大きな疑念を覚えた風に首をかしげる青娥。芳香の方から青娥に話しかける事なんて滅多にないことだったからだ。否、滅多にないではない。絶対にないことだ。何故なら青娥は芳香にそのような機能は持たせていなかったからだ。バグかしらん、と内心思い思いつつも、自分に話しかけてきたことがどれほどのデメリットがあるだろう、と考え結局、どうでもいいことだと青娥はそんな思いを頭の片隅に追いやってしまった。
「なにかしら芳香」
「えっとね、うーんと、しゃ、しゃ」
「シャシャ?」
なにかのオノマトペか、芳香の真似をするよう繰り返し口にする青娥。
「しゃ、しゃ、しゃんはーい、ってなんですか?」
「シャンハーイ? ああ、上海ね」
やっと芳香の言わんとしている事を理解して青娥は頷く。神子との
「大陸にある街の名前よ」
「へー」
そう簡素に説明する青娥の目が僅かに細まる。まるで懐かしむかのように。
「私も昔、住んでいた時があったわ。1920年から30年代。あの頃は『上海租界』なんて呼ばれていたわね」
「へー」
その後も青娥は上海についての蘊蓄やかつて住んでいた時のことを話し始める。大祀廟の浴室に向かい道中。けれど、その話の大半は芳香の耳に入ってこなかった。三十語以上の言葉は芳香の脳みそでは理解しきれないのだ。
いや、それ以前に芳香のメモリの大半を埋め尽くすキーワードがあった。
『上海租界』そして『1920-30年代』
何故か、その二つの言葉が脳髄をチリチリと焼き始める。視覚細胞が何かを再現する。人混み。黄色いのから白いの赤いのに稀に黒いの。西洋風の大きな建物。茶店のおいしいお茶。父、母、そして、弟。
「貴女の……上海育ちなのよ」
そうして、途切れ途切れに聞き取れた青娥の言葉で宮古芳香は確信する。
――私は上海に住んでいた。
<承>
「私は霍青娥、と言います。綺麗な目をしたお嬢さん」
私がその女と出会ったのは1920年の半ば、たしか25年だったと思う。英国人のパーティに家族で招かれた時だった。
父は貿易商でここ上海に事務所兼別荘として屋敷を一つ持っており、弟と母そして、私を住まわせていたのだ。
当時上海はアヘン戦争に敗れた清国から英国が半ば以上無理矢理に買い取った土地であった。その場所は清国であって清国でなく、アジアと言うよりはヨーロッパの一都市のようであった。それもそのはずだ。清国から買い取った上海を英国は自国と同じように改造していったのだ。上下水道や道路、銀行などを建てインフラを整備し、自国の貿易の拠点としたのだ。また、それを行っていたのは英国だけでなく仏国、独国、そして、日本といった列強国家だった。
街には多種多様な人間が溢れ、上海の人口密度は当時世界最大だったという。当然、そのような場所だ。上海は『魔都』とも呼ばれ、一見きらびやかな表面を一枚目繰り上げればそこには阿片と金と硝煙渦巻く暗黒の都市だった。誰も彼もが黄金と名誉を求め、悪事に手を染める。その夜参加したパーティはまさしくその縮図で、広いホールに豪華な食事、一流の音楽家達による演奏の裏では非合法な商談や取引が交わされていたことだろう。もしかすると父もその一端にかかわっていたのかも知れない。
私が青娥と会ったのはそんな場所だ。父の商売仲間である仏国人が紹介してきたのだ。『聡明で素晴らしい女性がいる』と。
素晴らしい。それは確かにそうだった。多くの人間…財界の大物や大富豪、政府要人が何人もいるこの会場において青娥の存在感は一際大きなものだった。誰も彼もが青娥に注目し、男たちは隙あらば近づこうと、女であってもその存在感に憬れを抱き、幾分か嫉妬深い連中だけが遠巻きに見ていた。
そんな青娥が私に話しかけてきた時は大層驚いた。私と言えば父についてきたおまけのようなモノで、母のように礼儀正しい大人の女性を演じることも出来ず、かといって弟のように愛想良く(といっても弟はまだ乳飲み子で、いるだけ人気者だったが)できることもなく、両親の後ろに恥ずかしそうに隠れているばかりだった。そんな私に青娥の方から話しかけてきたのだ。父から私のことを聞いていたのだろう。「こんばんわ芳香さん」と。キキョウのような笑みを浮かべて。
「どう、パーリィは楽しんでるかしら?」
清国人らしく、聞き慣れたカタカナ英語とは発音が違う外来語。しかし、それに何かしら反応を示す余裕は私にはなかった。急に話しかけられ、吃驚し、私は父のパンツの裾を掴んで足の後ろに隠れてしまう。
「コラコラ芳香。すいません。人見知りが激しくて」
「いえいえ。ここは大人ばかりですからね。雰囲気もご家庭や学舎とは違うでしょうし。怖がるのも無理はありませんよ」
私を軽く叱り、代って謝る父に青娥はキキョウのような笑みを浮かべたまま、弁明してくれる。その優しさに私は少しだけ安心し、父の足の後ろから顔半分だけを覗かせた。
「そうだわ。芳香さん、いいものをあげましょう」
そう言って青娥はしゃがみ込んだ。目線の高さが背の低い私とあう。少しだけ興味が湧いたのか、私の目は青娥に向けられたままだ。
「ここの食事はみんなお酒のアテみたいなものばかりで芳香さんのお口には合わないでしょ。だったら」
青娥は何処からか切手ほどの大きさの紙切れを取りだした。それを私に見せるよう広げてみせる青娥。紙切れには墨で何か書かれていたが、崩し字の難しい漢字で書かれていたためまったく読めなかった。これは、と視線で訴えかけるよう青娥の顔に目を向けると彼女はまたニコリと微笑み、その紙をくるくると丸めるとそのままくしゃりと指先で潰してしまった。なんだろう、と疑問符を浮かべる。「見てて」という青娥の言葉のままにジッとその綺麗な指先に注目する。すると、
「わっ」
それは私がこのパーティー会場に来て初めて発した言葉だった。感嘆符。父と仏国人も「おおっ」と声を上げる。でも、これを見ればおし(発声障害者)でも驚きの声を上げるはずだ。何故なら青娥の指先にあったはずの紙切れはキレイさっぱりなくなり、揚げ菓子だろうか、棒状の三つ編みのようなお菓子が出てきたからだ。
それを半分に折るとまずは自分で食べ始める青娥。食べても大丈夫、ということをアピールしているのだろう。食べ終わると残りの半分を「はい、どうぞ。芳香さん」と差し出してきた。
私はそれを受け取るのを一瞬躊躇った。知らない人から無闇矢鱈にものを貰ってはいけないよ、という父の教えを思い出したからだ。その許可を得るよう、私は父を見上げる。父は私の頭の後ろをかるく叩いて頷いた。
恐る恐る菓子に手を伸ばす。
「コラ、霍さんにお礼を言いなさい」
「あっ、はい。あ、ありがとう…ございます」
しどろもどろになりながら、言われた通りに頭を下げる。語尾の方は自分でも聞こえないほどだったが青娥は「いいのよ」と笑ってくれた。
「さ、食べてご覧なさい。美味しいから」
「はいっ」
一口。サクリとした食感と砂糖の甘み。良く口にする和菓子や洋菓子とはまったく違う味わいに私は感動すら憶えた。
「どう? 美味しい?」
「は、はいっ、とっても」
問われて自然に応える。父や母でさえ何かを聞かれた時、口ごもってしまうような私なのに。青娥相手にはまるで心という場所の前に建っている門扉が開け放たれているみたいに、すんなりと応えることが出来たのだ。
「あっ、あの…」
「ん」
「ど、どうやって、その…コレ」
聞きたいことがあるのに私の口は上手く動いてくれなかった。いつもの事だったが、この時ほど、それがもどかしいと思ったことはなかった。簡単な質問なのにそんなことさえ出来ないなんて。しかし、そんな私の態度から言いたいことを読み取ってくれたのか、青娥は優しい先生のような顔をして私の疑問に答えてくれた。
「これはマーホアといって天津のお菓子なの。小麦粉を練って棒みたいにした後に半分に折って油で揚げるの」
が、違った。私が聞きたかったのはお菓子のつくり方ではなく、
「ど、どうやって出したの? ま、魔法みたいだった」
やっとでた質問に青娥は何故か目を丸くした。そして、どこか含んだモノがあるような顔をすると「それはね」と妙に勿体ぶりながら応えた。
「私は仙女なの。だから、お菓子を御札に変えることもできるし、それをここでお菓子に戻すことも出来るのよ」
得意げにそう説明する青娥。私はその話に一編に引き込まれてしまった。気がつけば父の側を離れ、青娥と二人っきりで話し込んでしまっていた。話の細部まで憶えてはいないが、青娥は色々と面白い話をしてくれたことを記憶している。太古の中国王朝の話や遠く離れた異国…波斯(ペルシャ)や天竺(インド)などの話もしてくれた。それは時が経つのも忘れるほど楽しい時間で、私はそろそろ時間だと迎えに来た両親を恨めしく思うほどだった。
別れ際に青娥は手を振りながら「また会いましょう」と言ってくれた。私はその言葉を胸に刻み、それが早く訪れることを切に願った。その思いが通じたのか、はたまた父や母がそれを感じ取ってくれたのか、再開は思ったよりも早く訪れた。
その頃、私は学校へは通っていなかった。上海にも教育機関はあることにはあったが、場所が場所だけにきちんとしたものではなく、また授業の多くは英語で行われており、更に通っている生徒達は英国だけでなく、仏国や独国、それに裕福な清国の子供も通っていた。私と同じ日本人も少なからずいたが、そのような人種の坩堝みたいな場所で私のような引っ込み思案な性格の子供が上手くやっていけるはずもなく、気がつけば私は学校を休みがちになり、いつしかまったく通わなくなってしまった。見かねた父は家庭教師を雇おうとしたが、生憎と日本語が喋れて勉強を教えられるほど学のある人間はなかなか見つからなかった。最初は母が私の教師役だったが、弟が生れてからはそれも難しくなり、友人もいない私は一人でいるしかなかった。
そんな時だ。再び彼女が私の前に現れたのは。
「こんにちわ、芳香さん」
いつものように自室で一人勉強していたところへノックの音が聞こえてきた。この歳で一人で勉強なんてしていても頭に入らないのは当たり前。私はすぐに反応し、教科書から顔を上げた。母か使用人だと思ったのだ。だが、私が見たのはまったく違う人物で、
「えっ、青娥さん…?」
思わず目を丸くしてしまった。
そこにいたのはあのパーティー会場で出会った素敵な女性だったからだ。
「こんにちわ、芳香さん」
「あっ、こ、こんにちわ」
驚く私にどうして青娥が私の家にやって来たのか説明してくれたのは父だった。聞けば、街で偶然青娥と会い、必然、私の話へとなり、そう言えば、と丁度家庭教師を捜していたのですよ、とそういう流れになり、そうして、
「それでそれなら私でもお力になれるかと思いまして」
「いやいや、力になれるなんてとんでもない。霍さんはそこいらのボンクラ教諭などより余程聡明でいらっしゃる。日本語も達者だ。まさしく、私が探し求めていた人材ですよ」
そんなそんな、と謙遜する青娥。それをそんなことは、とまたまた否定する父。私も父の意見に賛成だった。
「ふふ、そう言う訳でよろしくね、芳香さん」
「あっ、はい。こちらこそ。よ、よろしくお願いします、霍先生」
「うふふ、今まで通り“青娥さん”でいいのよ。私も芳香さん、とお呼びするから」
今まで通り、会ってまだ二度目なのにそんな言葉がしっくりと飲み込めるほど私と青娥の距離は近いものだった。
「それでは霍さん。私からも、娘をよろしくお願いします」
「はい、畏まりました。あ、旦那さまも私のことは“青娥”とお呼びください」
それから青娥は数日に一度、私の部屋を訪れ様々な勉強を教えてくれた。数学や日本語は勿論、英語や仏語、独逸語などの外国語、それに清国だけでなく日本の歴史まで。聞けば昔、日本に住んでいたこともあったそうだ。日本語が達者なのはその時に習ったから、とのこと。青娥は本当に博識で、貿易で色々な国に行ったことがある父よりも更に物知りだった。
それから一、二ヶ月経った頃だろうか、青娥が自分の家から通うのをやめ私の家に住み込みで働くように……いや、家族の一員になったのは。
夕食をご馳走した時のことだ。青娥が食事中、こんな事を言った。
「住んでいるアパートメントのお家賃が値上がりしそうなんですよ」
青娥としては世間話のつもりだったのだろう。母も「大変ですね。物価も上がってきているようで」とそう返し、世間の世知辛さを話し合おうとしていた。
ところが父は二人とは考え方が違っていた様だった。すこし、悩んだような表情を見せた後、
「それなら我が家に住みませんか。いや、部屋ならいくらでもあいているし、既に使用人の何人かは住み込みで働いてもらっている。遠慮することはないよ」
そう言った。当然ながら青娥は遠慮した。週に一、二度私の勉強を観に来ているだけでやっかいになるなんて、と。けれど、父はいやいや、遠慮なさらず、といつぞやかの繰り返しのような事を言った。続いて、
「それなら芳香の勉強を見てもらっている時以外は私の秘書をして頂けませんか」
そう見事なアイデアを思い付いたように得意げに提案する。
でも、と青娥は目を伏せ、私の方にちらりと盗み見るように視線を向けてきた。助けを求めるような瞳。私はテーブルの下でぎゅと拳を握りしめた。
「わ、私もそれがいいと思うよ」
父と母の視線が私に注がれる。普段、私は食事の席で問われたりしない限り声を上げないからだ。半分、何事だと驚いての行動だったに違いない。
「わ、私も、青娥さんがい、一緒にいてくれた方が、う、嬉しいし」
かーっ、と耳まで真っ赤になる私。こんなに恥ずかしい思いをしたのは、学校のミンナの前で何かを発表した時以来だ。その時は恥ずかしさの余り、授業が終わる前に倒れそうになり保健室へと連れて行かれてしまった。今回もそうなってしまうかも知れない。
と、
『ありがとう』
そんな声が聞こえてきた。いや、幻聴かも知れなかった。耳に、というより頭の中に聞こえてきたみたいだったからだ。それでも聞き覚えのある声に私はカタツムリみたいに引っ込めていた頭を少しだけ上げる。すると視線があった。青娥のとだ。青娥はいつものキキョウのような笑みを浮かべていた。
顔の熱が失せていくのがわかる。まるで冷たくて気持ちのいい水でも浴びたような気分。一瞬、時が経つのを忘れ青娥と視線を交わし合っていた。
「ほら、この子もこう言っていますし」
「私も青娥さんには色々と教わりたい事がありますから」
その一種の忘我から私を引き戻したのは父と母の言葉だった。はっ、と私は両親を見やる。
「どうですか、重ね重ねお願い致します」
「はい。ではお言葉に甘えさせて頂きますわ」
椅子から立ち上がり深々と頭を下げる青娥。私は自分の一言で青娥が決心してくれたことに胸がいっぱいになっていた。
その夜のことだ。
自室でランプの薄明かりを頼りにベッドで本を読んでいた私の耳にノックの音が聞こえてきたのは。はい、とベットからもそもそ這い出てランプを手に出迎える。扉を空けた先にいたのは寝間着姿の青娥だった。
あの後、今日はもう遅いからとさっそく私の家に泊ることになった青娥。荷物などは後日、持ってくると言うことで取り敢ず今日はあてがわれた部屋で寝る予定の筈だった。それがどうしてここに。
そう疑問符を口には出さず浮かべていると、そんな私の考えを察してくれたのか青娥の方から応えてくれた。
「今日からお世話になるから、さっきの事もかねてお礼を言いに来たの」
ごめんなさいね、読書中に、と。
「入ってもいいかしら?」
「あっ、はい、どうぞ」
ぺこり、と頭を下げてから部屋に入ってくる青娥。
「いつもはお日さまの出ている頃に来ているから新鮮ね」
青娥は薄暗い私の部屋を見回す。たしかに、窓から日差しが差し込んでくる日中とランプの薄明かりしかない夜中では同じ部屋でもまるで違って見える。私でもそう思うのだから今日初めて夜に私の部屋に訪れた青娥は特に強く想っていることだろう。座りもせず物珍しそうに視線を動かしている。
「その、青娥さん…す、座って、ください」
立ちっぱなしの青娥にそう促す。「ありがとう」と頭を下げて青娥は私の椅子に腰を下ろした。私はついさっきまで入っていたベッドに座る。
「さて、さっきも言ったけれど、改めましてありがとう芳香さん」
「い、いえ、わ、私はなにも…」
そう。青娥に部屋を融通したのは父だ。私は食事の席で少しだけ自分の意見を言っただけ。お礼を言われるほどのことはなにもしていない。
「いいえ。あそこで貴女がああ言ってくれたお陰で私も踏ん切りがついたの。だから、お礼を言いたいの」
そんな、と私は視線を下げる。そんな風に青娥に改まって頭を下げてもらうようなことは本当にしていない。それでもこうしてお礼を言われるのは悪い気分ではなかった。自分がまったく役に立たないのではない、と少しだけ自信が持てる。
「でも、これで毎日顔を会わせることができるわね」
「そ、そうですね」
同じ家の中で暮すのだ。これまでは数日に一度だった顔合わせが、食事の時、移動の時、休憩の時と随時に変わる。日常に青娥という要素が加わってくる。大きな変化。普通なら変化は嫌う私だったが、この場合ばかりはそう悪い気はしなかった。むしろ、喜ばしいことだった。父の仕事の関係でここ上海に移る時など大泣きして、「行きたくない」と駄々をこねた。愛用していた靴が成長するにつれて履けなくなってしまい新しいものを与えられた時も「前のがいい」と、学校に行きだした時も「家から出るのは嫌だ」と。常に私は変化を嫌ってきた。それが自分の生活に新たな他人を招き入れることになるなんて。けれど、これはきっと“喜ばしい変化”これも青娥と出会えたことが理由だろうか。その青娥が自分の側にいてくれることでもっともっと変化していける。そんな予感があった。
「それじゃあ、そろそろ行くわね」
青娥はそう言って立ち上がった。時計を見れば時刻はもう日付が替わっているような時間帯。青娥が謝りに来た後、すっかり話し込んでしまっていたのだ。私は目が覚めてしまって、むしろ、もっともっと長く話していたかったのだが、このまま話し込んでしまえば明日は寝不足で絶えず欠伸を出してしまうかもしれない。そうなれば父に怒鳴られてしまうだろう。
「はい、お休みなさい青娥さん」
そこまで打算的なことを当時考えていたとは思えないが、引き留めるような真似をせず素直に青娥を見送る。青娥も「おやすみなさい芳香さん」と部屋の戸を開け出て行った。まぁ、また明日も会えるのだ。今日…正確にはもう昨日からだが、青娥に会える次の日を待ち焦がれる必要はなくなったのだ。
と、
「あれ…? あれ?」
扉のすぐ外でまだ人がいる気配が感じられた。どうしたのだろう、と潜り込もうとしていた布団からでて扉を開ける。そこには首を右往左往している青娥の姿があった。
「ど、どうしたんですか、青娥さん…?」
「いえ、ちょっと」
珍しく口ごもる青娥。一体どうしたというのだろう。
「じ、じつは教えて頂いた部屋が何処にあるのか忘れてしまって」
「あ」
そう言う青娥だが私は彼女のことを笑えない。屋敷は広く、部屋は幾つもあり、長年住んできた私でさえ普段利用することがない『娯楽室』や『来賓室』などは何処にあるのか知らない。使用人達が暮しているフロアの大まかな位置は知っているが、その中のどの部屋が青娥にあてがわれた部屋なのか、それとも一般の使用人とは違う部屋にあてがわれたのか、私も聞いていない話だった。
「どうしましょう」
と、口ごもる青娥。こんな遅い時間ではもうみんな眠ってしまっているだろう。誰か大人に聞くのも難しそうだ。ちらりと助けを求めるよう、青娥が私の方に視線を向けてきた。けれど、私にはどうしようも…
「そ、そうだ、青娥さん」
「何かしら」
「そ、その青娥さんが良ければ…きょ、今日は私の部屋に泊まっていけば」
勇気を込めて、そう提案する。部屋の場所は明日またそれとなしに父に尋ねればいいし、私のベッドは子供用にしては大きい。青娥一人が入っても問題はないように思える。
「そう、じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
ふふ、とまたキキョウのように微笑む青娥。二人して、今し方出て行ったばかりの部屋に戻っていく。
「誰かと一緒のお布団に入るのってほんとうに久しぶりです」
向かい合う形で横になる私たち。ベッドは考えていたとおり、二人入っても十分なものだった。
「私が小さい時…あ、弟よりはちょっとだけ大きい時は母と一緒に寝ていたんですけれど、こっちに来てからは一人で寝るようになって…なんだか、その時の事を思い出します」
「じゃあ、今晩は私がお母さんの代り、かしら」
「お母さん…より、お姉さん、みたいです。青娥さんが一緒に暮すって言ってくれて、なんだか、家族が増えたみたいでとてもうれしかったです」
「お姉さんだなんて。ありがとう。私も芳香さんみたいな娘(こ)が欲しかったの」
そう言って私に身を寄せる青娥。布団の中の自分のものではない誰かの温もり。他人がすぐ側にいるのに不快感はまったくない。むしろ、心地よく寝付けそうな、そんな気さえしてくる。
「一緒に寝ると暖かくていいですね。もう、誰かと一緒に寝る歳じゃないですけれど、えへへ、たまにはいいですね」
「うふふ、大人になればまた誰かと一緒に寝るようになるわよ」
「?」
どこか悪戯っぽく微笑みながら当時の私にはよく分からないことを言う青娥。「どういう、ことですか」と尋ねてみる。
「大人はね、好きな人と一緒のお布団にはいるものなのよ」
「そう、なんですか」
じゃあ、と自然に口が開く。普段なら思っていても私の口はしっかりと閉じていて、珠に開いても形言一言なのに。今夜は特に饒舌に喋ったせいだろうか。
「私も青娥さんが好きだから、いいんですね。一緒に寝ても」
言って、顔が真っ赤になる。恥ずかしい台詞。あう、と言ってから嘆息が漏れる。
「あ、あの青娥さん、い、今のは…」
「私も、芳香さんのことは大好きよ」
「あっ…」
誤魔化そうとしてかしどろもどろな言葉を吐く私。それをそんなことはしなくていいんだよという風に青娥は応えた。布団の中から青娥の腕が出てくる。抱き寄せられ、胸の中に抱かれる私の頭。そのまま幼子をあやすよう、青娥は私の頭をなで始めた。揺りかごに揺られているような、温かな海でたゆたっているような心地になる。視界がとろみ、目蓋がゆっくりと落ちてくる。安息の地へ優しく誘われる。
「特にその綺麗な瞳がね――」
青娥の言葉を耳にしながら私は眠りに落ちていった。
<転>
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――再起動。
スリープモードに入っていた体細胞が立ち上がり、それに続いて神経網が通電。各種臓器、筋肉が活動を再開する。心拍数0、血圧0、体温23.2度。オールグリーン。再起動を確認。目蓋が開く。
「……」
開いた目に見知った顔が映る。すぅすぅ、と静かな寝息を繰り返す女性。創造主。マエストロ。そして、かつて一緒の布団で寝た女性。霍青娥。その顔を見て、心に暖かいものを憶え、芳香は微笑もうとした。けれど、難しい。生前のように顔面の筋肉はすんなりと動いてくれない。仮初めの身体。それでも心にあるものは本物だ、と芳香は思った。
「なに、ヘンな顔をしてるの」
「ヘン? ヘンかな」
目を覚ました青娥が芳香の顔を見てそう言う。鏡がないので自分ではどういう顔をしているのか分からず、芳香は小首をかしげた。
「ねーねー、せーが」
「ふぁぁぁぁ、ん、なぁに、芳香」
まだベッドの上で寝ぼけ眼の青娥に先んじて既に起き上がっている芳香が尋ねる。まだ、三分の一ぐらいは寝ているのか、青娥は生返事をしている。
「一緒のお布団に入るのって、好きなんだよね」
「うん? うん」
芳香の言葉に青娥は疑問符を浮かべる。けれど、何がおかしいのかまで理解できるほど覚醒していない。寝ぼけ眼を擦って、凝り固まった身体をほぐすことに専念し始め、すぐに質問の疑問点は忘却の彼方に追いやってしまう。そんな様子の青娥が話を聞いていないことに気がつき芳香は頬を膨らませた。
「だから、好きな人と一緒の布団にはいるんだよね」
「あー、うん。そうね。そう、そうね」
青娥は欠伸を噛み殺しながらなげやりに応えた。実際、芳香の質問の意味を青娥は理解していない。寝起きで考えるのが億劫なのだ。もっとも、もう、青娥のそんな態度は芳香には関係がなかった。壊疽した細胞から甦ってきた記憶と現実との接点を確認した事が芳香にはまるで古い思い出の品を見つけたように喜ばしかったからだ。
「うひひ、じゃあ、せーがー、今日もぱとろーるへ行ってきます」
「はいはいー、よろしくね」
ぴょんぴょん、とキョンシー歩きで青娥の寝室から出て行く芳香。それをベッドの上で着物を脱ぎながら青娥は見送る。
「んー、昨日はあの子のお陰でよく眠れたわ。こう暑い時は本当に便利ね」
命蓮寺裏手。墓地のうち、かつては埋葬時の棺を置くために使われていたであろう場所。猫の額ほどの小さな広場。そこに影が二つあった。大岩とそれに寄り添う少女の影だ。
「ねーねー、らいでん」
少女の影――芳香が大岩に問いかける。岩にまで話しかけてしまうほど脳が腐ったのかと思われたが、違う。芳香の呼びかけに反応し、岩は「う」とも「お」ともつかぬ唸り声のようなものを返したのだ。見れば芳香の側にそびえ立つものは岩などではなくまがりなりにも人の形をしたものだった。灰色の肌をした天を突くような巨漢だったのだ。
雷田と親しげに呼んでいることからも分かるようにこの巨漢は芳香の同僚…青娥製作のキョンシーだ。見れば一抱えもある大きな頭に小さな<勅命>の札が貼り付けられている。
「らいでんは生きてた時のこと憶えてる?」
雷田はA、とも、WOともつかない声を返している。それが返事なのか、それともただの唸りなのかは判別がつかない。最も芳香も返答の方はどうでもいいようで聞き返すような真似もなく一方的に話し続けている。
「私はさいきん思いだしたよ。しゃんはーいってとこに住んでてね、せーがとも一緒だったんだよ」
過去の光景を思いだし、けれど、それを言葉に出来るだけの力はなく、断片的な事柄だけを語る芳香。聞き手は思考能力のないただのキョンシー一体だけなのでそれで十分だ。
「べんきょーを教えてもらったり、ごはん食べたり、いっしょのお布団でねたりしたんだよ」
「う」
語っている間にも芳香の壊疽した脳細胞は非常にゆっくりではあるが、かつて見た光景を甦らせていく。断線だらけの神経網を走る記憶素子。迂回路を通り裏道を抜け、時に大跳躍し昔の事を思い出させる。セピア色した古い活動写真のように脳裏に断片的に過去の情景が流れる。ショピングモールで買い物をしたこと。街角の紅茶館でお茶をしたこと。いっしょにお菓子を作ったこと。日常の些細なことから誕生日やお祭りのようなイベントまで。コマ送りで断片的、けっして全てではないが楽しい記憶が甦ってくる。幸せな思い出。そうして、それが地続きになっていることを今朝、芳香は確かめた。
「ずっとずっとずーっと仲良しだったんだよ私たち」
えへへ、と朝より幾分か自然さを感じさせるようになった笑みを浮かべる。
百年近く経っても変わらない関係。終わらない関係。私たちの絆は永遠なのよ、と芳香は思う。永遠で、終わりがないのよ、と。それはそれはとても素晴らしいことだった。不変と不動は道(タオ)の追い求めるものの一つだ。金剛不壊が如し。それが二人の間には確かにある。
「うふふ、うふふ、えへへへ」
幸せを憶え、笑みは崩れない。回春の心地だ。
どうして今まであんな幸せな記憶を忘れていたんだろう、実にもったいない、ほんとうに私は馬鹿だった、と悔やむ気持ちさえ起ってくる。その悔しささえも今の芳香には喜びをもっと甘い物にするシナモンシュガーみたいなものだったが。
「芳香ー、芳香ー」
そこへ芳香にとって誰よりも大切な人の声が聞こえてきた。青娥だ。はーい、とすぐさま従順なペットの犬のように返事する芳香。
「なにーせいがー」
「何じゃありません。これ!」
明るい芳香と裏腹に青娥は機嫌が悪いようだった。目を釣り上げ、肩に力を込め、むすり、と唇をひん曲げている。その手には五つからなるパーツに分けられた瀬戸物だ。
「割れた壷? 捨てればいいの?」
「馬鹿っ! この壷はね私が太子様から承った大切な壷なのよ。貴女に磨いておくように伝えたわよね」
「ん〜」
考えるが思い出せない、と言った顔をする芳香。遅れて不思議だ、とも。百年近く前のことは思い出せるのに、ここ最近命令されたことなのにまったく思い出せない。
「言われたっけ?」
「言いました!」
ああ、もう、まったく、と額を抑える青娥。命令したことも出来ないどころか、ものを壊してしまったことも忘れているなんて、と怒りを通り越して呆れかえっているのだ。
「ごめんね、せーがー」
身に覚えはないが、脳みそが腐っている自分よりどう考えても青娥の方が正しいだろう。自分の方が悪いのだと芳香は素直に頭を下げる。
「まったく。まぁ、割れてしまったものはしかたないわね。今度から気をつけなさい」
肩をすくめため息をつき、そんな言葉を青娥は口にする。その言葉を聞いて芳香は内心安堵した。大切な壷を割ってしまったのに許してくれたと。同時に確信した。やっぱり私と青娥の絆は永遠なのだと。壷一つ割ったぐらいで割れはしないのだと。
「はーい、了解ですー」
「……いえ駄目ね」
明るく言われたことを理解したと応える芳香。その顔を青娥は一瞬、きつく睨み付ける。そして、その手がすっ、と芳香の額へと伸びる。
「暫くそうしてなさい」
青娥はぴっ、と芳香の額に張られた“勅命”の札を剥がした。とたん、暴風の最中でも崩れそうになかった芳香の身体はその場に脆くも崩れ去った。肉がかつての柔らかさを――ただし、腐肉としての、を取り戻したように。
「反省の色が見られれば、戻してあげるから」
「――」
返事もしない芳香。否、出来ない。その体からは全ての力が失せている。呼吸。筋作用。神経伝達。自律反射。内臓機能。全てが。つまりは物言わぬ死体と化したのだ、芳香は。
「それじゃあ、しっかりと反省するのよ」
否。精密に言えば物言わぬ死体ではない。動けないキョンシーだ。キョンシーとは道術や仙術によって生命を構成する二つの要素の内、魄だけを肉体に無理矢理残した存在だ。青娥は芳香の身体を制御する札を剥がすことで更にその魄を構成する七つの要素の内、六つの機能を停止させた。つまるところ芳香は死対一歩手前の状態にある。動けず見えず聞こえず感じず、だが、完全に消滅する手前。生きた人間にこの感覚を説明するのはとても難しい事だ。しいて説明するなら五感の全てが奪われた状態でなお死ねぬ状態、つまり脳死状態、と喩えるのが最も分りやすいか。五感をすべて奪われ、それに絶望する心もない状態。生と死ののあいまいな境界線上。その状態にあるのだ。
こうなってはなすがままされるがままだ。青娥が雷田を伴って立ち去り、一人残された芳香の回りに虫が寄ってくる。銀色の背のもの。羽のあるもの。足の多いもの。蠢くもの。芳香の身体から滲み出る死臭に誘われてやってきたのだ。
そしてその鼻を顰める臭いに誘われるのはなにも虫螻たちだけではない。更に暫くし、日が傾きかけた頃になると尻尾と背骨を持つ灰色の毛皮をしたものたちも、ちゅうちゅう鳴声を上げながら倒れた墓石の間に出来た隙間や木の洞の中から這い出してきた。それら小さき隠者たちは芳香の枯木のような色をした指先に近づくとスンスンと鼻を鳴らし、長く固い前歯でもって爪や指を噛み始めた。普段は虫や腐りきった小動物やあるいは仲間の死体しか食べられない彼らにとって宮古芳香は最上のご馳走でもあった。
ただ、それも圧政を強いられた貧国よろしく突然の暴力によって中止させられてしまうが。
すっかり暗くなった忘れられた墓地を漂う光点が一つ。ふよふよと一定の高さを漂うそれは鬼火か人魂の類か。いや、そうではない。橙色の淡い光は人工のそれだ。もっとも人気が絶無なこの様な場所にあってはむしろ青白い幽鬼の炎の方がまだしっくりときて有り得ぬものがあるという怖ろしさを憶えずに済むが。
橙色の火…古びた提灯はだんだんと芳香の方へ近づいてきている。そして、それは芳香の身体が光に晒されたところではたと止った。提灯を手にしていたのはやつれた頬に無精髭を生やしたこれもまた幽鬼のような様をした男だった。
何日も洗っていないような粗末な服や垢と汗で汚れた頭髪などを見れば男も亡者の類に思われたが、その爛々と輝く血走った目を見れば死体でないことは分った。もっとも、その精神は病みに病み地獄の悪鬼とさほど変わらぬものになっているだろうが。
男は荒い息をつきながらほとんど投げ捨てるように提灯を地面の上に置くと、震える指先でいそいそと自分の着物を結わえ付けている腰帯を解きにかかった。その下から露わになった男自身は男の成りと反し生命力に溢れているかのように鎌首をもたげ、血の巡り激しい赤黒い色をしていた。男は大層興奮しているのだった。地面の上に横たわる宮古芳香の躰に。
斃れ、まったく動かない芳香の足下に男はしゃがみ込む。そして、横たわっている芳香の足首を掴むとその体を仰向けに寝かせた。ついで掴んだままの足を左右に広げる。露わになる下着。男は血走った目にそれを捕えると、ゴクリと生唾を飲み込んだ。乾きに渇いた喉はそれで一時、潤いを取り戻すが熱風吹く赤土の大地にコップ一杯の水をぶちまけたようなものだ。繰り返される荒々しい息に瞬く間に乾いてしまう。だが、男は気にしていない。まるで屍肉を目の前にしたハイエナのようにそれしか目に入っていない。それは比喩ではなく直喩だ。獲物にありつくよう、男はのそりと手を伸ばす。指にかけたのは芳香の下着だ。それを男は力任せに脱がせる。だが、力が籠もりすぎたのかびりり、と音を立て下着は裂けてしまった。男としてはむしろ好都合。用途を果たせなくなった布きれを引き千切り、投げ捨てる。露わになる秘所とそれを隠す僅かな茂み。下半身を待機に晒されても芳香は動かず、動けない。
そこまでしてやっと男は折り曲げていた上体を元に戻した。それでも視線は局部に釘付けのままだ。男は懐に手を入れると、くすんだ色をした鉄の軟膏壷取りだす。何度も失敗しながら末端の神経が切れかかっているような不安定な動作でもって何とか蓋を開け、指先で命一杯中身をすくい取った。酷い匂いがする乳白色のそれは獣脂か何かだろうか。粘つくそれを男は躊躇いなしに芳香の性器へと塗りたくる。女性の身体は本人の同意なしに無理矢理襲われ犯されそうになっても、秘所を濡らすことがあるという。それは性欲のためとかいう淫靡な理由などではなく、無理に挿入されそうになった際に膣内が傷つくのを防ぐためであり、ただの脊髄反射に過ぎない。だが、既に死に体に等しい芳香はいくら刺激を与えようと身体が反応を示すはずがない。潤滑油、が必要なのだ。
乱暴に芳香の茂みやそこに隠された渓谷、その内側に獣脂を塗りたくると、余ったそれを男は己の陰茎にも塗布する。剛直の強度が増し、提灯の薄明かりに光る。その凶器を男は腰を寄せると躊躇いなく芳香の身体に突き刺した。獣脂を塗りたくっているとは言え、小さな肉穴は固く門扉を閉ざしているかのようだった。それでも男はお構いなしに腰を突き出す。まるで相手の身体を労ろうという気が無い乱暴な動き。当たり前か。この様な男に女性の身体を大切にしようなどと言う殊勝な心がけなどあろう筈がない。ましてや相手は死体も同然なのだ。自慰用の淫具と同じ扱いで構わない、男はそう考えていた。
荒々しい腰の動きと共に男の呼吸も激しくなっていく。芳香の固い膣孔にも十分、獣脂の潤滑油が行き渡ったのが多少は滑りがよくなっていた。ただ、これで刺激による性的快楽を十分に味わっているかと問われれば疑問符を浮かべざるえないだろう。男が犯しているのは生きた生身の生娘の生体などではなく(おおよその意味において)ただの死体であるからだ。肉壁は蠢かず、分泌液はまるでなく、そうして喘ぎ声さえ上げないのだ。これではまともな性的嗜好をもった男性は興奮するはずがない。
だが、男の顔には鬼気迫りそうして同時に恍惚さも合わせたような奇妙な笑みが浮かんでいた。両目を見開き、口端をつりあげ、きひひ、きひひ、と磨りガラスを引掻く方がまだ心地よく思えるような下衆な声を零している。男は非道く興奮しているのだ。そうこの男にはまっとうな性的嗜好などない。幼少の頃から女性が苦手で(それは主に既に他界している彼の母親に寄るところが大きいが)この歳になってもまともに女性とお付き合いなどしたことがなく、元来の卑屈な精神と合わさってそれがこの様な性的嗜好――屍体性愛を持つようになったのだ。
「うひゃひゃひゃ、ひゃ、きききき、きもちいよぉ、よぉ!」
夜間、人気のない墓地だからかまわぬ、などと言うことはなかろうがついには大声を上げはじめる男。その顔は悪鬼羅刹の類だ。悪徳と背信、善どころか中道からさえも大きくかけ離れた顔。その鬼面が芳香のくすんだ眼球に映り込む。
既に神経伝達を止めている眼球ではあるが、この光景は以前にも映した事があるな、と視覚細胞は思った。
「や、やっぱここは最高だァ。また来よう、明日も来よう、明後日も明明後日もうひへぇへぇ」
そんな言葉を口にする男。確かに明らかに目的意識を持っていた男の足取り。こんな人気のない夜間の墓地に来る理由。そうして用意の良さ。男は最初から芳香を犯すつもりでこの墓地に来ていた。それはつまりこの男がここに来たのは今回が初めてではないと言うことだ。
実際、男がここに来て芳香を犯したのは今回で三度目だ。一度目はただの偶然だった。男がその唾棄すべき劣情を慰めるためこの墓地に来た際、今回と同じように罰を受けている芳香の身体を発見したのだった。最初は恐る恐る近づいていった男だったが、芳香が息をしていないと知ると急変。その動かぬ冷たくなった体をまさぐり、乱暴に扱い、己のドブ川の汚泥にも劣る情欲を満たしたのだ。二度目は動揺『待ちぼうけ』よろしく在ればいい程度の望みだったが、此度、三度目は確信に満ちた行動だった。
三度目の背徳行為。芳香の眼球が浅ましき男の面相を記録しているのも無理はない話だ。
『いや、もっと昔にもあったような…』
その時、電源を落していた芳香の脳細胞にシナプスの小さな輝きが灯った。ほんの一瞬。それは視覚細胞に残されていた無数に積み重なっている『かつて見た光景』の断片。動けぬ自分を犯す男、その醜悪な顔つき。デジャブを憶える。遠い昔に喪われた筈の記憶が甦ってくる。フラッシュ・バックの猛烈な光に現実味は消え失せる。
そうして――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
交わる陰陽。雄と雌。つがいの衝動。いっしょのお布団。
「青娥…? お父さん…?」
ニードトゥノットの原則、というものがあるとこの前の授業で聞いた。知る必要のある者だけに知らされる情報、という意味だ。父の仕事を例にすれば分かりやすい。たとえば安くそれでいてとてもいい茶葉を売ってくれる業者を父が知っているとしよう。これを他の多くの人に教えるのはいいことか。否だ。秘密事は余り褒められたものではないが、かといって不特定多数の人に教えてしまえばそれが父の商売敵の耳にも入りかねない。そうすれば父の商売はあがったりだ。だから、こういう重要な情報は父とその側近ぐらいが知っていればいい。たとえ父の元で働いているからと言って小間使いの少年まで教える必要のない情報だ。
だとすれば、これは。これは。これは一体誰が知り、誰に教えてもいい情報なのだろう。
その夜、私は青娥の部屋を尋ねにいった。遅くまで勉強していたのだがどうしても私一人では分からないことがあって、青娥に聞きに行こうとしたのだ。けれど、あてが外れた。青娥の部屋のドアをノックし呼びかけても返事がなかったのだ。
「失礼します。青娥さん、もしかして、もう寝てます?」
断ってから部屋に入る。
青娥が住み込みで私の家庭教師になってから数年。今や青娥は完全に私たちの家族になっていた。私のお姉さんとして勉強をみてくれ、やんちゃざかりの弟のお母さんとして面倒を見て、父の自慢の子供として仕事の手伝いし、母と仲のいい娘として家庭のことを分担する。そういう立場。青娥はもう私たちの中心にいると言っても過言ではなかった。だから、私も気後れすることなく青娥の部屋に入れる。いつでも入ってくれていいと青娥は言っていたし、実際、本を借りに青娥が不在でも部屋に入ることはある。
だから、今回も躊躇いなくドアノブを回して部屋の中に入った。いや、寝ていると分かったのならすぐに出て行くつもりだった。いないとはまさか思っていなかった。時間が時間なので何処かに行っている可能性はないと決めつけていたのだ。行っててもせいぜいトイレぐらいだと。けれど、無人の部屋で少しの間待っていても青娥は戻ってこなかった。暇を持て余し、見慣れているとはいえ青娥の部屋を物色する気にもなれず、なんとはなしに窓の外を眺めるしかなかった。
青娥の部屋は二階にあり、中庭を臨む場所にあった。月明かりのない夜分。見えるのは漆黒に沈んだ中庭だけで、日の下なら美しく見える母と青娥が育てた庭園の薔薇も今はまるで見えない。見えるものといえば向かいの棟の一階の部屋から漏れる灯りだけ。あの部屋はどの部屋だったか、屋敷の見取り図を頭の中に描き、それを思い出そうとして…
「誰かいる?」
灯りを消し忘れたかに思えた部屋に人影を捕えた。あれは…
「青娥、さん?」
夜空の下、唯一の光点の中にいるからだろうか、この部屋の主の姿を私の目はしっかりと捉えていた。そうして、気がつくまでもなく私は彼女から目を逸らせなくなってしまっていた。青娥は妙な格好をしていた。殆ど裸同然の格好だった。お風呂場に隣接した脱衣所でも自分の部屋(ここ)でもないのに。硝子のように透き通ったビロゥドのキャミソールに薄桃色をしたショーツ。どきり、と心臓が一際大きな音を立てる。破廉恥な。でも、目が逸らせない。どうして、と疑念を覚える。別に青娥の下着姿なんて何度も見たことがある。青娥とは週に一度ぐらいのペースでいっしょにお風呂に入っている。当たり前だ。私たちは仲良し姉妹なんだから。だから、青娥の下着姿も裸も見たことがあるし、ドキリなんて決してしない。なのにどうして、あんな格好…扇情的蠱惑的甘美的な青娥の姿にどきりとしてしまっているのだ。気がつけば喉はカラカラ、目蓋は開かれっぱなしで、心臓は早鐘を打っている。どうにかなってしまったようだ。
ごくり、と乾ききった喉を潤すために生唾を飲み込む。その音がまるでスイッチだったように、薄明かり漏れる部屋の奥からもう一人、人影が現れた。誰だ、と私は注目する。ああ、その時ほど、自分に第六感が備わっていなかったことを呪ったことはない。天声が『見るな』と一言、告げてくれればあんなことにはならずに済んだのだ。そうなればあんな事には。世が混乱に満ちても私たち一家は離散せず、私たちは幸せでいられたはずなのに。否。そんなわけはない。私が見ていようがいまいがこれは起っている事実で、私が観測したという事実はなんら世の流れに影響を与えない。ifたりえない。ああ、そうだ。あの部屋にいたもう一人の影、それが私の父という事実は何ら変わらないのだ。
父も青娥と同じく妙な格好をしている。まるでお風呂上がりみたいにガウンだけだ。二人ともあんな格好であそこでなにをしているのだろう。窓際に寄り添っている青娥と父は何か話をしているらしい。琥珀色の液体で満たされたグラスを片手にしている父が口を動かすと遅れて青娥が笑みを浮かべた。親しげな雰囲気。二人の距離が近い。物理的だけでなく精神的にも。けれど、それは父と娘という肉親的な距離ではない。まるであれでは。
そう思っていると二人の距離がもっと縮まった。1m、50cm、10cm、1cm、ゼロ。二人の顔が重なっている。何をしている。いや、私の知識はそれを恐らくもう断定し始めている。ただ、私の心がそれを認めないのだ。青娥とお父さんは親子で、ああ、そう決して…
だけど、私の未熟な精神に問題のヒントをあげるよう、残酷に事態は進行していく。青娥の腕が父のガウンに伸び、するりとそれを脱がせた。父も青娥の下着に手をかける。その間も二人は顔を、ここからは見えないが確実にソレと分かる、唇を放さないでいる。そのまま二人は裸ん坊になり、お互いの体をまさぐりあいながら、ベッドに倒れ込む。
「どうして…?」
もう私の体も初潮を迎えている。これがどういうことなのかは知っている。他ならない。教師役の青娥に教えてもらったのだ。『大人はね、好きな人と一緒のお布団にはいるものなのよ』その真意。言われた時は分からなかったが今なら、性知識を蓄えた今なら分かる。ああ、畜生。畜生。セックスだ。男と女が交わって、子供を作る、愛の行為だ。それを、父と、父親と、青娥が、娘が、しているのだ。ああ、畜生。畜生。
「うううっ、うううっ」
動悸と息切れを起こし、私は立っていられなくなり、震える肩を抱きながらその場にしゃがみ込んでしまう。見てはいけないものを見てしまった恐怖からか。それとも。
「うううっ」
下腹部に熱が籠もってくるような感覚に囚われる。固く目を瞑り、無意味に耳まで両手で塞ぐ。だというのに、
「ううっ、ううっ」
脳裏には青娥と父の行為の続きが勝手に映像化され上映されてしまう。裸で、ベッドの上で、キスし合う青娥と父。お互いの手がお互いの体を撫回す。乳房、臀部、首筋、頬、そして、性器。そこから先は私の乏しい性知識では上映できない。十八禁だ。けれど、断片的には聞いたことがある。男性のアレを女性のソコに。
「青娥さん…?」
と、妄想の海に沈み込んでいた私を現実世界に呼び戻す声が聞こえてきた。はっ、と顔を上げる。そこにいたのは母だった。
「お母さん?」
「えっ、あ、ど、どうして貴女がここに」
二人して死体みたいに硬直してお見合い状態。お互いに最初の一言を発したっきり、何も言わない。言えない。言える雰囲気ではない。それでも母の方が私よりも断然、大人だからだろうか。先に動き、口を開いた。
「青娥さんはどうしたのかしら。ここには…いらっしゃらないの」
「せ、青娥さんっ」
びくり、と体が震える。この震えは知っている。隠していた自分の失態がばれた時のそれだ。ただし、いつものソレがつい火にかけっぱなしだったやかんの取っ手に触れてしまったようなものだとすれば、今のコレは熱した火箸を直に押し当てられた時のソレだ。
「貴女知ってるの? 青娥さんが、どちらにいらっしゃるのか」
「えっ」
一瞬、窓の方へと首を向けてしまいそうになる。けれど、駄目だ。
「知らない。何処にるなんて、全然知らない」
立ち上がり、頭を振い、逃げ出すために駆け出す。何処から? 母の前から。いや、いまこの瞬間、起っていること全てからだ。知る必要のない大人の世界、その一端からだ。別に構わないだろう。私はまだ子供なんだから。
そして、部屋を出るその瞬間、私は聞いてしまった。母の声を。怨嗟に満ちた女の呪詛の声というものを。
「ああ、そこにいらしたんですか」
その夜から全て変わってしまった。
もしかすると見てはいけないものを見てしまった所為で私の目が曇ったせいかもしれない。だが、恐らくそれは色眼鏡ではない。実際にだ。表面上は、普段通りに接している三人――父と母と、霍青娥。三人ともいつも通りそろって食事の席に着き、お互いに助け合うよう家事や仕事をこなし、楽しそうに話し合っている。楽しそうな家族。けれど、私は知ってしまっている。それは薄紙に書かれた絵に過ぎず、その下ではほの暗く濁った上海蟹も住めないような汚泥が堆積しているのを。
ああ、変わらないと言ったがそうでもない。つぶさに監察すれば分かる変化が三つあった。
一つは母の外出が多くなった、ということだ。最初は日中にたまに、その頻度が上がり、夜でもそうなるようになり、そうしてついに夜が明けるまで帰ってこないこともしばし起るようになってしまった。何をしに行っているのか。知らないし、知りたくもない。ただ、街中で見たこともない若い男と歩いているのを見たことが一度あった。楽しげにその男と話している姿を。それが意味する処なんて知らないし、やはり知りたくもない。
それに関係するのか、二つ目は父と青娥が一緒にいるところをよく目撃するようになった。いや、一緒に仕事をしているのだ。それは前々からだった。ただ、そういった光景を目にするのは大抵父の仕事場付近で、それも多くは日中だ。どうして草木も眠るような夜半に青娥の部屋の前の廊下で親しげに腰に手を回す父と愛想良く唇を湿らせながら笑う青娥の姿を見なくてはいけないのだ。それに使用人の間で囁かれる後ろ暗い噂話。『旦那さま』『あの秘書』『不倫』耳を塞ぎたくなる。けれど、聞こえてくる。事実である、下衆な勘ぐりが。
そうして、三つ目。そんな不謹慎な話題が流れる職場で真面目に働こうという輩は少ないのかまっとうな使用人達は次々と辞めていき、残っているのはゴシップ好きのロクでもない輩ばかりになり、そいつらさえも終いには辞めてしまい、新たに募集してもやって来たのは更にまっとうではない――胡散臭い中国人料理人、明らかに脛に傷があるであろうロシア人、本国から逃げてきたと思わしき日本人、ばかりになってしまった。
ああ、変化はもう一つある。私自身だ。私も青娥や父と距離をとるようになってしまった。授業は相変わらず続いたが、もう和気藹々としたものではまったくなく、どこか他人行儀なよそよそしさを感じさせる、まるで質の悪い塾に通っているような、そんなものになってしまった。
上海の様子も変わりつつあった。国民党と共産党の争いが激化し、あくまで傍観を決め込んでいたこの街でもあちらこちらでテロが起こり始めた。胡散臭い連中が歩き回り、きな臭い臭いが漂い始め、街には悪漢共がたむろするようになった。我が家が雇い入れてしまった新たな使用人もその一派だ。
屋敷はかつての美しさを失ってしまった。庭は手入れするものがいなく荒れ放題。廊下の隅々には埃が溜まり、一体誰が招き入れたのか、見知らぬ大人を見かけるようになってしまった。
当然、父の仕事も悪化の一途を辿る。上海は貿易の要となっている場所とは言え、日頃からテロが多発し、スパイ達が暗躍している場所なのだ。そんな場所に商品を届ける奴もそこから商品を届ける奴も、そんな酔狂な奴らの数はとても少ないのだ。いても商品の多くは武器であったり麻薬であったり盗品であったりとまったくもって真っ当なものではない。父は他の多くのまっとうな経営者と同じくさっさとここから撤退し、別の場所で商売すべきだったのだ。ただ、父はそうしなかった。長年一緒にやってきた部下に進言されても、税理士の先生に忠言されても。聞けば占ってもらったらしい。『ここから離れない方がよい』と。ある仙女に。
仕事がどんどん悪化していっても父は焦りすら見せなかった。むしろ、手隙の時間が多くなったのをこれ幸いにと青娥といつも一緒にいるようになった。
逆に母との距離はどんどんはなれていった。今では別の部屋で寝起きし食事の時間さえもまったく別になってしまっていた。そして、たまに顔を合わせたかと思えば屋敷中に響き渡るような大きな声で言い争いを繰り広げるのだ。
それに嫌気が差したのか、母はついにまったく屋敷に戻ってこなくなってしまった。父の会社の金を根こそぎ持っていって。青娥が来る前は母が父の秘書をしていたのだ。印鑑や通帳、金庫の鍵の場所などはすべて母も知るところだ。それが決定打だったのか、それともただ単に介錯となっただけなのか、父の会社はついに倒産してしまった。莫大な借金と不良在庫、ボロボロの屋敷だけが残っただけだ。
それでも母が持ち出したお金があれば何とか持ち直せるのではないか。そう考えた私は母の姿を探し、上海中を走り回った。そして、あるいかがわしい酒場でよく見かけるという話を年老いた阿片中毒の路上生活者から聞いた。さっそく、その場所に向かう私。そこに行けば母と会える。そんな予感があり、それは確かに当たった。その店の前に母はいたのだ。いつぞやか見た若い男と一緒に。
知らない男と一緒にいたからか、私は母に駆け寄るタイミングを失してしまった。そこで足を止めたのがいけなかったのだろう。少しだけ冷静になってしまった私は駆け寄りどうするつもりなのだと考えてしまった。駆け寄ってそれで、お金を返してと問い詰めればいいのか、それともお家に戻ってきてと泣きつけばいいのか。どう言おうとも母は私の言葉なぞ聞き入れてくれないのでは、と思い至ったのだ。
と、立ち止まる私の耳に母の悲痛な叫びが届いた。「お願いだから」「一緒にて」「お金ならあるから」そんな悲しく痛々しい声。憮然とした態度で立っているだけの若い男にすがりつき、声を上げて泣いている。やめて、と私は心の中で叫んだ。私はお母さんを連れ戻しに来たんだ、そんな母の姿を見るために来たんじゃない。
「アンタ、結婚してたんだってな」
それまで黙っていた男が急に声を発した。はっ、と母が顔をあげる。
「しかも、ガキまで。悪いけど、それじゃあ、なぁ」
母の顔が絶望に染まっていくのが分かる。古びた井戸の底のように暗く、臭く、得体の知れないものに。
「……わかったわ」
母は男から離れるとそう呟いた。何が分かったというのだろう。けれど、母はそれ以上言葉なく、男も何かを聞くような真似もしなかった。そのまま踵を返し、母は走り去ってしまう。酒場の前には若い男だけが取り残された。いや、違う。
「これでよかったか?」
そう誰かに話しかける男。えっ、と思う間もなくその声に言葉が返ってくる。
「ええ、上々よ」
若い女性の声。私も、そして母も気がついていなかったのであろう。この場にはもう一人、私以外に姿を隠して母と男の会話を盗み聞きしている人物がいたのだ。
「しかし、アンタも相当な悪女だな。自分はダンナを寝とって、更に嫁さんの方に俺みたいなヒモも同然の男をけしかけるなんて。ほんと、なんでそんなに悪いことが考えられるんだよ」
「褒めても何も出てこないわよ。世間知らずのおばさんから金をむしり取れるチャンスを与えてあげたんだからそれで我慢しなさい」
話し合っている内容は反吐が出るような悪党共の企みだった。こんな悪いことを考える人間がいることに私は少なからずショックを憶える。いや、世の中善人ばかりじゃないことぐらい知っていたが、それは所詮知識であって実際に今の今まで目にしたことなどなかったのだ。平然と他人を騙し、お金を盗み取り、人を傷つけても平然としている連中がいるなんて事を。
「ひっ…」
「誰だッ!?」
もう、一秒だってこんな場所にいられない。こんな悪党共がたむろする裏路地になんて。私は逃げ出した。鼠のように。涙を流しながら。
その時の物音に男たちが気がついたようで、声を上げて追いかけてきた。私は無我夢中で足を動かし、走った。何処をどう走ったかなんてまるで憶えていない。子供一人通るのがやっとの狭い路地を通り抜け、人混みをかきわけ、時に空き家の中を通って。家に逃げ帰ったのはもう当りがすっかり暗くなってからだ。当然、母も、そうして父も屋敷の中にはいなかった。みんな、何処かに行ってしまっていた。
一体どうしてしまったというのだ。私たちは家族じゃなかったのか。それがどうしてこんな離ればなれに、それどころか憎しみ合わなくてはいけないようになってしまったのか。
私はかつてのように自室に閉じ篭り一人きりにならざるおえなくなってしまった。もう、青娥は勉強を観に来てくれない。母は何処かに行ったっきり帰ってこない、父は日がな一日酒を呑んでいる。もう、なにもかもが終わってしまった。
「いえ、まだ。まだ、終わってなんかいない」
ベッドに腰掛け俯いていた私は顔を上げる。私たちの家族はもう一人いる。こちらに移住してからできた私の血の繋がった弟が。あの無垢な弟なら、この腐った家族関係をもとの綺麗なものに戻せるかも知れない。子はかすがい、と諺に言うじゃないか。私じゃもう、かすがいになれないかもしれないけれど、あの子なら。
私は自分の部屋から何日かぶりに出て屋敷の中をあの子を探して歩き回った。弟の名前を呼び、人気の失せた屋敷を歩き回る。と、何処からか大きな泣声と怒鳴り声が聞こえてきた。半ば無人だと思い込んでいた屋敷に人がいたことに驚く。だが、少なくとも何処にも行けない弟は屋敷の中の何処かにいるはずだ。泣声は弟のものだろう。では、怒鳴り声は。止むことなく続く泣声を頼りに廊下を走る。時折聞こえてくる怒声がまるでカウントダウンのタイマーのように私を急かせる。早く行かないと、早く行かないと。奇妙な焦りが心に降り積もる。はたして、弟がいた部屋とは…
「うぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!」
「黙れッ! 黙れクソ餓鬼!」
父の部屋であった。
酒の空き瓶と食いさしの皿、無造作に積まれた書類、すえた臭いがする部屋の中に父と弟はいた。ただし、その雰囲気は軒並みならぬものでとても家族間に漂っていていいものではなかった。
大粒の涙を留処なく流しシンバルでも打ち鳴らしているように大きな声を上げている。それを忌々しげに父は睨み付けていた。息子に向けていい目じゃない。それは自分に吠えかかってきた病気の犬を見るような目だ。それにその手に握られているのはなんだ。お酒の瓶じゃないか。それは呑むためのもので絶対に息子を殴るための道具じゃない。だっていうのに、
「黙れってンだよォ!!」
父はそれで泣き叫ぶ弟を打ち付けた。ぎゃっ、と悲鳴が漏れ弟はゴミの山の中へ倒れる。その後、何が起こったのか分からなかっただろう。弟は確かに父に言われたように泣き止んだ。ただし、一瞬だけだ。再び弟は火箸でも押し当てられたようにぶたれた箇所を抑えながらびぇんびぇん、声にならぬ声を上げ泣き始めた。
「だからッ、黙れッて!!」
再び父の腕が上がる。
「駄目ッ!」
それを阻止しようと体当たりの勢いでもって後ろから父にしがみついた。なっ、と驚いた声を上げる父。私が部屋に入ってきていたことに今更気がついたのだろう。
「駄目だよ、お父さん。そんなことしちゃ、駄目ッ、駄目だよ」
「五月蠅ェ、黙れェ、テメェもか! お前も、俺にいらんことを言うのか! お前もか! 畜生! 畜生!」
「お父さん…?」
腕を振り回し叫ぶ父。厳格で時々怖い父ではあったが、今はただただ恐ろしい。酒臭く、顔は赤黒く、無精髭を生やし、髪はボサボサ。今の父はまるで見知らぬ他人のようだ。その怖ろしさに怯んでしまったのか、それとも最初から私の腕では父を抑えきれなかったのか、私の体は引きはがされてしまう。そうしてそのまま胸ぐらを掴まれると頬に平手が飛んできた。きゃぁ、と漏れた悲鳴が自分の口から発せられたものだと気づいたのは一瞬後からだった。父に掴まれていた服が裂け、私は床に倒れ込む。
「痛いっ…やめて、おとう、お父さん?」
体を起こそうとすると父と目があった。血走った瞳。荒々しく繰り返される呼吸。逆光のせいで暗く見える顔。飢えた野良犬を思わせる浅ましい雰囲気。そこに立っていたのは見知った父でも変わってしまった父でもなく、まったくの他人であった。
「お父さん?」
声をかけても返事すらない。怒りに我を忘れているのか。
今度は平手では済まない一撃が飛んでくるのか。そう思い身構える。けれど、痛い一撃は飛んでこなかった。
「お父さん、何を…ううっ」
代りに気持ちの悪い事をされた。父は私を押さえつけると破けた服を更に引き裂きいたのだ。私の胸が露わになる。何を、と思う間もなく父はそこに吸い付いてきた。
「ひぅ、や、やめて…お、お父さん」
父の舌が私の胸の頂きをなめ回し、ほんの僅かな膨らみしかない胸に吸い付く。あまつさえ肉を囓りとるようそこに歯を立ててきたのだ。私は悲鳴を上げる。爪が伸び垢が詰った汚らしい手の平が逆の乳房を撫回してくる。肉親の手とは言え、むしろだからこそか、ひたすらに嫌悪感しか憶えない。やめて、やめて、と声なき声を上げ暴れようとするが体に力が入らない。ここ数日、まともに食事を摂っていないせいもあるだろう。けれど、それ以上に父に襲われているという事実が私の心を刺殺せしめ、その影響が肉体にまで及んでいるのだ。
動けない体を探訪な手つきで撫回され、汚い口で吸い付かれ舐め回され、汚されていく。BGMは父の荒い息と弟の悲痛な泣声。ゴミだらけの部屋でベッドの上どころか床に押し倒され、犯されている。肉親に。なんだコレは。なんなのだコレは。地獄か。これが地獄なのか。
「ッ、ひ、な、何処、触って…」
胸を撫回すのは飽きたのか父の手が別の場所に伸びる。私の下腹部に。スカートを捲り上げ、その下にはいているショーツも脱がし、私の性器を。つぷり、と父の太い指が私の秘裂を裂き、中に入ってくる。自分自身でも触れたことがない場所を触られている。気持ち悪い気持ち悪い。限度なく嫌悪が膨れあがっていく。心は拒絶の姿勢を示し続ける。しかし悲しいかな。私の身体の女の部分はむしろこれからされてしまうことを考えればせめて体へのダメージを減らそうと粘液を分泌し始める。秘所をまさぐる音に水音が混じり始める。ねちょり、ぬちょり。父も指先の感覚でそれが分かったのか、私の胸元から顔を離すとにやりと口端を顎の付け根まで釣り上げて嗤った。まるで絵本に出てくる赤頭巾を食べようとした狼のように。
「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめておとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさんおとうさん」
かちゃり、かちゃり、かりゃち、じー、ずる、ずるずる、するっ。
ベルトをはずし、チャックをおろし、ズボンを脱ぎ、パンツも下げて、顕わにする。いきりたつ剛直を。
「やめ…!」
逃げようと、目を逸らそうと、上を見る。そちらの方向は扉。逃げ道。今は大地を切り分ける大渓谷の向こう側にあるように思える扉。開け放たれた廊下の向こうは天国か。そこに、
「……」
青娥が立っていた。
本当にまるで今、私が襲われている部屋の中とは別世界にいるように、たとえば絵画に描かれた人物のように。そこに特に何をするでもなく柳か何かのように自然に立っていたのだ。
「――」
助けてと声を上げようとする。けれど、出ない。いや、本当は出たのかもしれない。ただ、その声は自分自身にさえ聞こえなかった。自分自身にさえ聞こえないそんな小さな声が青娥に届くはずがない。ましてや別世界にいる青娥に。
「崔淫剤の効き目が強すぎたのかしら。それとも元からこういう変態的性質の持ち主だったのかしら」
助けを呼ぶ声は聞こえはしない。
ぞぶり、と父の陰茎が私の身体の中に侵入してくる。肉を裂き、血を流し、淫水を滴らせながら。
私は、父に犯され――
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「………」
虚ろな光無い瞳に映る人影。悪鬼の様をした屍体性愛者の顔。否、もう一つ。静かに怒りを湛えた仙女の顔が。男の背後にある。男は気がついていない。夢中で腰を前後させている。動きもしない冷たく固い屍体を犯すのに集中しているのだ。それは男にとって幸せな事だったのかも知れない。
「雷田」
虚ろな瞳に映る仙女の唇が動く。それに呼応するよう仙女の背後にそびえ立っていた大岩も動く。指だけでも孟宗竹ほどの太さがある腕が死姦魔の頭を鷲掴みにする。男がそれに気がつくことはなかった。巨腕はそのまままるで鶉の卵をそうするように男の頭蓋をくしゃり、と握り潰してしまったのだから。一度、びくりと全身を振わせた後、男の体はぴくりとも動かなくなってしまった。
「持ち上げてみて。うーん、ひょろいボディ。パーツ取りも出来なさそうね。いいわ、捨てちゃって」
目線の高さまで掲げられた男の死体を前後から眺める仙女――青娥。けれど、栄養失調気味の上、病気持ちのような男の体はやはり、青娥としても価値がないようで、すぐにそう雷田に命じた。大男のキョンシーは言われた通り、無遠慮に男の体を投げ捨てる。まるで、まるめたちり紙でも投げ捨てるように軽く飛んでいく男の体。そのまま、物言わぬ屍と化した男は茂みの中に仰向けに落ちていった。その衝撃か、血流が止まり萎え始めた男の陰茎からびゅびゅっと僅かばかりの精液が放たれた。自分の精を屍体にぶちまけたいという薄汚れた願望は叶えられることとなった。汚したのは己の体だったが。
「はー、まったく。前もこんな事があったのをすっかり忘れてたわ。まぁ、害獣駆除ができたから良しとしますか」
肩を落し、盛大にため息を漏らす青娥。げんなりと、食あたりでも起こしたような顔をしている。
「まったく人のキョンシーに手を出すなんて。言ってくれれば安値で貸してあげたのに」
殺さずに話ぐらい聞いてあげても良かったかしら、同好の士みたいだったし、とぶつくさと言いながら青娥は倒れ動かないままの芳香に歩み寄る。懐から札を一枚取りだすとそれをぴたりと芳香の額に張り付けた。むくり、と芳香が上半身だけを起こす。
「うわーん、せいがー、せいがー」
泣きながら青娥に抱きつこうとする芳香。が、それは叶わなかった。それよりも先にひょいと近づいてくる芳香を避けるように青娥は立ち上がったのだ。
「せいがー、せいがー」
「五月蠅いわね。静かになさい。それよりもきちんと反省したの。ああ、いいえ。聞くまでもないわね。その態度を見れば」
「おとうちゃんがーおとうちゃんがー」
「いいこと、きちんと私の言うことを聞かないと、また蛆の餌にするわよ」
「おとうちゃ、お父さん、が私を、犯そうと、して」
泣きじゃくり混乱した調子で泣き叫ぶ芳香。その口から漏れ出す言葉はいつもの間延びした芳香の口調ではなく、嗚咽混じりではあるがはっきりとした発音のものだった。まるで、まともな脳みそを持った別人が喋っているように。
「嫌だ、助けて助けて、青娥、青娥さん、青娥さん、青娥さん」
「…? 芳香、貴女何言って…ッ、芳香! 私を護りなさい!」
疑念。芳香の様子がおかしい事に青娥も気がつく。だが、それを口にしている最中、疑問点よりも重大な問題が発生する。絶対命令権を行使。青娥の言葉に従いバネ仕掛けの動作でもって起き上がる芳香。青娥の真正面に立ち、両腕を命一杯広げる。その体に、
ザシュ、ザシュ、ザシュザシュザシュ
無数の弾幕が突き刺さる。
「黒心邪仙女・青娥娘々! ここで逢ったが百年目! お前に恨(うら)みはないが疎(うと)みはある! 悪いが死んでもらうぞ!」
高らかな名乗り上げと共に命蓮寺へ通じる道から小柄な影が躍り出てくる。夜の闇よりなお黒い髪と夜の闇にあってなお爛々と輝く瞳、青娥に負けず劣らず強烈な妖気を放つ怪異。封獣ぬえであった。
ぬえが属する勢力、命蓮寺は青娥が属する大祀廟と敵対関係にあるのは周知の通り。特にぬえは命蓮寺勢の中でも聖人・豊聡耳神子の復活を嫌気し、外の世界から旧知の仲であり共に歴史に名を残すほどの大妖怪・二ッ岩マミゾウを呼び寄せたほどだ。今回の襲撃もその一巻で、矢張彼女の独断であった。いや、襲撃だけではない。多数の妖怪が出入りするこの命蓮寺のしかも裏手の墓地にあの死姦魔が易々と入り込めたのは他でもないこのぬえの手引きがあったからだ。無論、直接的に招き入れたわけではない。正体を判らなくする程度の能力を用いて見張りの響子の注意を逸らしたり、逆にあの男の足を任意の方向へ進むように、あくまで証拠を残さず間接的に事を運んだのだ。理由は言わずもがな、さとりよりも鋭敏に人心を読む神子の十人の話を同時に聞く事が出来る能力を恐れてのことだ。 豊聡耳神子は聖人だ。生まれつき心に邪悪を抱える下衆な人間を迷い込ませれば、何かしらのリアクション――たとえば道徳を教える、もしくは更正は無理だと打ち首にするなど、を起こす筈だと予想。その隙を狙い闇討ちをかける、そういう計略をぬえは実行していた。その罠に神子ではなく青娥が引っかかったのは誤算であったが、それでも失敗というわけでもなかった。確かに妖怪としてあの聖徳王は恐ろしいが、純粋に“敵”としてその能力を評価するなら霍青娥もまた恐るべき強敵なのだ。狙っていた相手とは違うが、この好機を逃すわけにはいかない獲物。故にぬえは正体を不明から明へと現し、こうして青娥に襲いかかったのだ。
「……雷田、時間を稼ぎなさい」
忌々しげに顔をしかめながら青娥は一歩後ずさる。代りに見上げるような巨漢が前に歩み出た。死者の眠りも妨げそうな雄叫びを夜空に向かってあげ、威嚇するよう両の腕を広げる。対し、ぬえは腕を組み不遜な態度で巨漢を見上げるのみだ。端から見れば大熊が小鳥にでも襲いかかっているような状況だ。そうして、それは事実をある程度ではあるが示している。大熊よりも恐ろしいものがぬえで小鳥よりもか弱い存在が雷田であるという事実を。
青娥は稼げる時間を五分とみた。それより短くなることはあっても長くなることはない。その間に撤退しなければいけない。たった一人、敵陣に乗り込んできた敵を一人で迎え撃つ勇気を青娥は持ち合わせていない。一旦退却し仲間を連れ戻ってくればそれで形勢は圧倒的に大祀廟側が有利となるのだ。危ない橋を渡る必要はない、と青娥は考える。キョンシーの一体を捨て駒に使ったところで惜しくはない。期をうかがいじりじりと青娥は後ずさる。
「青娥、さん…青娥さん…」
その青娥に芳香がすがりついてくる。その体は非道く損壊している。半身を朱に染め、肋骨や腸をさらけ出している。人なら死体になるようなダメージ。だが、元から死体である芳香にとっては死に至るダメージ程度では活動停止には至らない。それでも最早まともに立っていられないのか、ふらつき、汚れた手で青娥の二の腕を掴んでいる。瞳からは涙を流し、絶えず嗚咽を漏らしている。
「助けて、ねぇ、助けてよ、ねぇ、青娥さん、青娥さん…」
混乱した調子で、タスケテタスケテと繰り返す。血塗れの姿と相まって亡霊が如しだ。
「離しなさい芳香。逃げられないでしょ」
「嫌だ! 助けてよ、ねぇ、ねぇ、青娥さん!」
青娥は芳香の腕を振りほどこうとするが万力のように強く締め上げられており、容易に振りほどくことが出来ない。鬱血し、青娥の白い二の腕は紫色に染まりつつある。痛むのか、それとも焦りからか青娥の顔が歪む。
「青娥さん、青娥さん! お父さんが、お父さんが! 嫌ッ、嫌ッ、いやァァァァァ!」
悲痛な顔で泣き叫び溺れるものの様に必死に青娥にしがみつこうとする芳香。瞳は恐怖と絶望に見開かれ、大きく開かれた口から出る言葉は支離滅裂で意味不明な罵詈雑言のみ。その精神は完全に混乱の極みにあるようで最早自分が何者なのかまるで理解していない様子であった。
「チッ――」
舌打ちが青娥の口から漏れる。忌々しげな顔つき。まるで自分に纏わり付いてくる小汚い犬を見るような目を芳香に向ける。
「青娥さん――せいが、さ――」
はなれろ、と青娥の口が小さく動く。言われた通り、ぶちり、と音を立て腕が離れた。放れた、ではなく離れた。芳香の腕が。その根本から。
「あ?」
勢い余り後ろ向きに倒れる芳香の体。そこに腕はついていない。見れば肩から先だけは今だ青娥の二の腕を掴んでいる。切断面は鋭利な刃物で切り落したように滑らか、という訳ではなくまた怪力で無理矢理引き千切ったという風でもなかった。腕のいい食肉業者が解体したように切るべき腱は切り、分けるべき肉は分け、外すべき関節は外されている、といった感じだ。そして、それとは別に丈夫そうな糸が一本、宙を舞っていた。馬毛で出来た縫合糸だ。青娥は芳香の躰のパーツをつなぎ合わせている縫合糸を抜糸したのだ。腕、それ自体を切り離されれば掴んでいることは出来ない。
もっともどうやって離されたかは関係がなかった。突き放された、という事実だけが重要なのだ、助けてくれるはずの、大切な、愛し愛される関係の、家族から、突き放されたという事実が。
そうして、宮古芳香の眼球は想い出す、絶望の瞬間を――
<結・一>
「あ――」
体を貫かれる。
自分でも触れたことのない場所に他人が入ってくる。
違う。
他人じゃない。
赤の他人じゃない。
父親だ。
「いや――」
赤黒く霜焼けでも起こしたように膨れあがった剛直が私の下腹部を貫いている。刺し貫く男性器は粘液混じりの赤い体液で汚れている。赤色は血だ。自分の身体の内側を荒々しく出し入れされる陰茎によって傷つけられた事を示す色だ。犯されているのだという事実を否応がなしに私に突き付ける色だ。異物をつっこまれた下腹部に熱さを憶える。突き刺しているものの温度なのか、摩擦と傷による体温の上昇なのかわからない。けれど、不快感を催す熱だった。悪心し、頭痛を憶え、めまいを起こす程の不快感。最悪の気分。乗り物に酔っても、腐ったものを食べても、病気になってもこんな気分は味わえまい。父親に犯されるという悪夢を味合わなくては。
苦痛。恐怖。不快感。悪夢。あらゆる負の感情が私の心を満たし、原始の海じみた混乱を生み出す。
けれど、混沌とした精神の真の根源はそれらの感情ではない。目蓋に焼き付いた残像。一瞥もなく私の視界から彼女が消えていってしまったこと――その事に対する絶望だ。
「青娥さん…っ」
青娥は確かに私と私を犯そうとする父の姿を目撃したはずだった。
普通なら叫び声の一つでもあげるだろうし、もし正義感が強ければ父を止めていたかもしれない。現にいつぞやか青娥と街に遊びに行った時、彼女はヤクザ者にからまれている小さな飲食店の老店主を助けた事があった。同じように、私を助けてくれてもいいはずだ。けれど、彼女はそうしなかった。声を上げることも助けに入ることも父を止めることもせず、最初からまるで見ていなかったように、無視し一瞥することなく立ち去って行ってしまったのだ。家族なのに。お姉さんなのに。好きだって言ってくれたのに。
目の前が暗くなっていく。何も考えられなくなっていく。体は陵辱され、精神は死へと堕ちていく。絶望。故に光は見えず、すべては暗黒へ染まっていく。
「――」
一個の肉塊と化した私を父は陵辱する。物を扱うように荒々しく腰を前後させただただ己の快楽を貪っている。口は口で屍肉にやっとありつけた腹ぺこのハイエナのように貪欲に私の体中を舐め回し、しゃぶりつき、噛みついている。乳房、口唇、首筋。場所を問わず。父の腕は動かぬ私を押さえつけている。爪が肌に食い込み、骨が軋むほど。けれど、そこまでする必要はない。この体はもう螺旋の切れた人形だ。動くことはままならない。考える事もしない。何も聞かないし、何も見ない。死んでいないだけ。死体ではない死んだもの。だから、決定的な事が起きるまで私は何も気がつかなかった。
「ギャッ!?」
最初に聞こえたのは悲鳴だった。カエルを踏みつぶしたような不気味な悲鳴。それを合図に私は僅かばかりの自律を取り戻していく。聴覚が戻り、何も映していなかった瞳は機能を復帰させる。ぼやけた視界が徐々にピントを合わせていく。そうして、最初に見たものは……血走った目を見開き鯉のように口を開け、わなわなと震える父の姿だった。
「お父さ…ん?」
ごふり、と私を押さえつけたままの格好で父が咳き込む。痰や唾と一緒に赤い粘液が父句の口から溢れ出てきた。ぼたぼたと私の胸の上に落ちてきたそれはまだ暖かく、生臭かった。それは生命力の証だ。父の口から咳と共に生命力…血が流れ出てきたのだ。どうなっているの、と我を取り戻したばかりの私は考える。父もそれは同じようだ。けれど、父は結局それが最後までなんだったのか理解できなかったことだろう。振り返り、後方を確認しようとした矢先、父の体は上から強い一撃をうけたようでそのまま私の身体の上に覆い被さってきた。その体からはもう生命の鼓動は感じられなかった。見れば父の背中もまた血塗れだった。二箇所、縦に裂けたような大きな穴が開いているそこからマグマのように赤黒い血が絶えず溢れ出していた。刺されたのだ。包丁か短刀の様な鋭い刃物で。
一体誰が、と視線を上げる。父と私を見下ろす形で何者かがそこに立っていた。手には今なお温かな鮮血が滴るナイフが握られている。逆光で顔は見えないがそのシルエットは女性のようだった。
「青娥…さん?」
私はまさか、と思いながらその名前を口にする。先程、青娥が姿を消したのはもしかすると武器を探しに行ったからなのかもしれない、と。
「貴女まで…」
だが、それは間違いだったとすぐに気づかされる。聞こえてきた声は青娥の物ではなかったからだ。だが、まったく聞いたことのない声というわけでもなかった。その声は青娥と同じぐらい、いや、青娥以上に長い間聞いてきた声だった。
「貴女まであの女の名前をだすの!?」
「お母さん…」
カーテンが揺らめき、逆光が遮られ、相手の姿がはっきりとみえる様になる。血に濡れた包丁を持ち柳の下の幽霊のように茫然と立っている。
「た、助けてくれたの…」
父の体の下から這い出ながらそう問いかける。それは聞くまでもない事実だ。だが、殺してしまったのはやり過ぎではないか。徐々に冷静さを取り戻しつつある私はそう考える。けれど、母はコレで良かったのだと血塗れの包丁と伏したままぴくりとも動かぬ父の遺体を見比べ、満足げに、狂気の色を含んだ、笑みを浮かべていた。
「御父様も、アナタも、あの子もあの女ばかり…、みんなみんな、アッチに行くのね。ああ、でもいいわ。別にどうでも。私には彼がいるんだから」
「お母さん? お母さん…?」
うふふ、うふふ、と母は肩を震わせている。口端を釣り上げ、頬を歪め、けれど、その目はまったく笑っていない。ここではない何処か近くに焦点を合わせ、瞬きするのも忘れたようにジッと見つめ続けている。
「でも、彼はアナタたちがいるのが嫌みたい。『結婚してて、ガキまでいるなんて』なんて。うふふ、うふふ、私は御父様もアナタも好きだったけれど、ううん、今はちょっとだけ嫌いになったけど、やっぱり、彼の方が好きだから」
「お母さん…」
ぎりり、と何処かを見ていた母の目が私の方へ向けられる。もう、その時、母が何をしようとしているのか、何を考えているのか私には分かってしまった。分かりたくもないことが。
「だから、さよならするわ。私は一人になるの。独身になるの。御父様もアナタもあの子も殺して」
きひひひひ。掲げられた包丁が煌めく。再び差し込んできた陽光を受け、母の顔は逆光の影に隠れる。だが、見ずともその顔が山姥のように恐ろしい形相と化していることは分かった。ひあ、と私は短い悲鳴を上げ逃げだそうとする。だが、私の意に反し私の身体は思うように動いてくれなかった。足はもつれ、手は無様に動き、とてもではないが逃げ切れる様には思えなかった。
案の定、ブンという風切り音が聞こえたかと思うと一瞬遅れ、背中に鋭い痛みが走った。切られたのだと理解したのは更に一呼吸後だった。
「やめて、お母さんっ!」
「嫌ですよ。お母さんはねお母さんじゃなくなりたいの。それにはアナタがいちゃあ駄目なの。だから殺す。だから死んで。ね? ね? 私の娘なんだから私の言うこと聞いてくれるでしょ?」
ワケの分からない、理解したくもない世迷い事を口にしながら母が迫ってくる。刃が空を切る音を伴って。
私は空き瓶を蹴飛ばし、ゴミを踏みつぶし、足の踏み場のない室内を闇雲に逃げ回る。背中の焼けるような痛みも今は忘却の彼方。痛みに足を止めれば父と同じ運命を辿るのは明白だからだ。
「待ちなさい! 逃げちゃ駄目ですよ!」
死が迫ってくる。またも家族に襲われる。獣欲に引き続き、狂った殺意によって。逃げるしかない。言葉が通じないことはもう分かっている。どうしようもないのだ。
「うぇぇぇぇぇん、うえぇぇぇぇぇえん」
その時、私でも母でもない第三者の声が聞こえてきた。いや、その声は母が来る前から部屋の中に響き渡っていた。ただ、常に聞こえていたため失念していただけだ。弟がまだ部屋の中に残っていたのだ。
「ボクちゃんもそこにいたのね!」
母の標的が私から弟へと切り替わる。逃げ回る私よりも立ち尽くしたまま泣いている弟の方が狙いやすいと判断したのだろう。包丁を逆手に持ち、形容しがたい叫び声を上げながら母は弟に迫った。
「っ、お母さん!」
迷いは一瞬。私は叫び声を上げて母に突進した。真横から不意打ちの体当たりを受けて母はゴミの山の中に倒れる。ついでこの世の物とは思えぬ悲鳴。私は思わず立ちすくみ、弟も泣くのを止める。
「お、お母さん…?」
恐る恐る声をかけてみる。母はゴミの山に埋もれぴくりとも動かない。いや。
「ううっ、ううっ、ううっ…」
唸り声を上げながら母が体を起こした。包丁を持っていない方の手で顔を押さえている。その指の隙間からは赤い粘液が溢れ出している。立ち上がった母は手についたその赤い物がなんなのかを確認し、またも絶叫を上げた。
「顔が! 私の顔が!」
おぉぉ、と涙を流す母。その顔の下半分は朱に染まっている。左頬から鼻の頭を通り右目に至るまで、斜めに切り傷が走り、ぱっくりとそこにもう一つ口が出来たように肉が裂けていた。倒れた時に自分が持っていた包丁で顔を切ってしまったのだろう。
母は赤く染まった己の顔に恐れ戦き、体を震わせ、そうして、顔をしわくちゃに歪めた後、一度身を屈めてからこちらを睨み付けてきた。
「ヒッ」
その形相が余りに恐ろしく、私は悲鳴を漏らしてしまう。
「顔が、顔が、これじゃあ、あの人に合わせる顔がないじゃないの!?」
涙を流し、怒りに眉を顰め、痛みに痙攣する顔で私を睨み付ける母。その瞳に灯っているのは先程とは比べものにならないほどの殺意。どれだけ経とうとどれだけ風雨に晒されようとも消えぬ火山の炎のような万年続く殺意だ。
母が奇っ怪な叫びを上げるのと、私が弟の手を取り走り出すのはほぼ一緒だった。
「待て待て待て待て待て!」
自分で言うのも何だが、私はいい子だったと思う。両親の言うことはきちんと聞き、言いつけは守っていた。だが、今ばかりは別だ。死への恐怖は親への礼儀さえも忘れる。私は母の言葉に耳なぞ貸さず、全力で走る。
弟の手を引き父の部屋から飛び出る。逃げる宛ても頼るべき大人も思いつかず闇雲に廊下を走る。すぐ後ろからは母の聞いたこともないような叫び声が聞こえてくる。弟の手を引きながらでは思うように走れないが、どうやらそれは母も同じようだ。片方の目を傷つけてしまったため、母は躓いたり壁にぶつかったりしてしまっているようで時折、舌打ちや悪態が聞こえてくる。私たちと母の距離は遠ざかりも縮まりもしない。このまま逃げられ続ければ…ありえない期待が胸を過ぎる。
「うぇーん、お姉ちゃんお姉ちゃん!」
「ちょっと、静かにして…っ」
しかし、どだい無理な話だ。私もいつまでも走り続けられる訳はない。体力はもう限界に近く、口は開けっ放しに常に荒々しい息をついていないと駄目な状態なのだ。それに加えて弟がまたぐずりはじめた。足を止め、どこからそんな水分がでるのか、大粒の涙を流している。
「お願いだから…走って…」
懇願するも現状が飲み込めない弟は泣きじゃくるばかりだ。無理矢理手を引いて走るがその速度は亀の歩み。多少は開いていた母との距離が一気に縮まってしまう。
「もう!」
私は泣きじゃくる弟の体を抱き上げる。まだ小さいと言っても私の細腕では十分に重い弟の体。その上弟は下ろせと言わんばかりに暴れ始めたのだ。ジッとしていてと言っても聞いてはくれない。弟が振り回す腕がぺちぺちと私の顔を叩く。
「暴れないでよ、お願いだから」
「お姉ちゃんお姉ちゃん! おねえちゃーん!」
「お姉ちゃんはここにいるから、ね、ね?」
「待ちなさい! こ、ころせ、殺せないでしょ!」
叫び声の三重奏。恐怖と混乱と殺意と。耳を劈く大声に気が狂いそうになる。顔が引き攣り始める。母のように、父のように。気が狂った人間というものは嗤うのだと実感しかける。駄目だ。理性を保て。ああはなりたくないと強く想え。自分を鼓舞し、兎に角走る。
「痛っ。もう! 本当にお願いだからジッとして…ってしまった!?」
弟に気をとられすぎたのか、私は逃げてはいけない方向へと逃げてしまった。屋敷の端、廊下のづんどまりになっている場所だ。慌てて来た道を戻ろうと踵を返すが母の凶相が見えた。駄目だ、戻ることは出来ない。忌々しげに顔を歪めて逃げ道を探す。扉が一つ目に入った。粗末な木の扉。その先が何処に通じているのか確認せず私は扉の中へと飛び込む。
「えっ、キャァァァァア!?」
踏み込んだ足が踏んだのはとても自分と腕に抱いた弟の重量を支えきれないような僅かな面積だった。扉を開けた先が階段で、かかとの一部だけがそこを踏んでしまったのだと理解した時にはもう私の身体は大きく傾き、とてもじゃないが自分で自分を支えきれない状態になっていた。そのまま私の体は階段を転げ落ちていく。せいぜい、弟の身を守ろうと抱きかかえるのが精一杯だった。
「っぐ…痛い…」
全身を打ち付け、階段の下まで一気に転げ落ちた私の身体。衝撃と回転のあまり、上下左右が定まっていない。すぐ側で泣いているはずの弟の声も今は遠くに聞こえ、焦点も合わないままだ。それでも逃げなくてはと生存本能が告げる。身を起こし、階段上から差し込んでくる光に目を向ける。その光が陰る。
「だ、だめでしょ、ちちち、地下室に入っちゃいけないって、言ったでしょ。わ、悪い子ね。お仕置きしなくっちゃ。お仕置き。お仕置き。お仕置きに殺さなくっちゃ、ちゃ」
けひゃひゃひゃひゃ、と道化師のように笑い声を上げる母の姿を階段の上に認める。母の言葉で自分が何処にるのか思い至る。地下の物置部屋だ。そこに転がり落ちてしまったのだ。地下室には私が転がり落ちてきた階段しか出入り口はない。狭い部屋で隠れられるような場所もない。絶体絶命だ。私は何とか弟だけでも逃がそうとその体を押し、逃げるよう震える声で訴えかける。けれど、弟は変わらず「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と泣きじゃくるばかりで逃げようとはしない。
「お仕置き、お仕置き、お仕置き、お仕置きが終わったらご飯にしましょう。今日はアナタが好きなハンバーグにしましょう。ええ、ええ。材料はアナタ。付け合わせは御父様。それをあの方と食べるのよ、うふふうふふうふふふ」
ギシギシと階段を軋ませながらゆっくりと降りてくる母。狂っていてももう私たちが逃げられないことも急かなくても構わないことも分かっているのだろう。
ああ、と私は近づいてくる母の姿に釘付けになる。後光を受け、影に彩られたその姿は死神そのものだ。否、まさしく死だ。病室の窓から覗く槁が落葉すればそれが訪れるよう、ふっと名が書かれた蝋燭が吹き消されればそうなるよう、細長く白い指で示されればそうなってしまうよう、母が階段を下りきれば私たちには死が訪れるのだ。最後に見る光景が、母親の狂った顔だとは。私は人生の無常と己に課せられた業を呪いながら目をつむった。
その一瞬直前。私の目が見たものは衝撃を受け崩れる階段の壁とそれに押しつぶされる母の姿だった。
何が起こったのか、最後まで私には分からなかった。
けれど、当時の上海事情から推測するにどうやら日本か中華民国の攻撃が原因ではないかと想われる。当時の上海は第一次上海事変の真っ直中で毎日のように耳を劈く砲声や軍靴が路地を踏みしめる音が聞こえていた。両軍勢の攻撃のいずれかが私の屋敷を穿った、そう推測するのが妥当だろう。今となっては確かめようのない事だが。
兎に角、私の命は人の命を奪う攻撃によって救われたのだった。
それからどれぐらいの時間が流れたのだろう。私は弟の泣声で目を覚ました。
体を起こすと骨から響いてくるような鈍い痛みに襲われた。どこか骨折しているのかもしれない。それでも生きている事に安堵し、身体を抱いた。知らずの内に涙が流れ出てきた。
暫くの間、生の充足の余韻に浸った後、現状を確かめるために私は顔を上げた。地下室は完全な闇に包まれてはいなかった。ひび割れた天井付近から幾条か日の光らしき温かな光線が差し込んで来ているのだ。光線は舞い上がった埃を照らし出し、ある種の幻想的な光景を私に見せていた。その光の下で弟は泣いていた。服装は汚れていたが見る限り、私などより余程、軽傷のようだった。それでも一応を確認するために軋む体を何とか動かし、弟に近づく。
「大丈夫? 何処か痛いところはない?」
呼びかけ、弟の体の具合を確かめようと手を伸ばす。しかし…
「やっ!」
その手は打ち払われてしまった。一瞬何が起こったのか分からず、茫然とする私。けれど、すぐに思い至る。父に暴力を振われ、母に追いかけられ、そうして地下室に転がり落ちたのだ。混乱しきり、脅えていても無理はない。私自身、動揺が抜けず未だに歯の根がしっかりとしていないのだ。
私は少し悩んだ後、弟のことは取り敢ずそっとしておくことにした。少しうるさいが、放っておけばいずれ疲れて泣き止むだろう。その間に私は地下室から脱出する方法を模索しようと考える。
だが、それは容易な話ではなかった。私と弟が転がり落ちてきた階段は瓦礫で完全に埋まってしまっていた。瓦礫を一つ一つ退かす、という方法も一瞬頭を過ぎったが、すぐに無理だと悟った。瓦礫の中には一抱えもあるようなコンクリートの塊もあったし、下手に動かせば更に瓦礫が地下室の中に傾れ込んでくるかも知れない。
それに…
「っ……」
瓦礫の隙間から流れ出している赤い色を見取って私は目を背け顔をしかめた。この瓦礫の下には母がいるのだ。そこを掘り返す勇気は私の中にはない。
気を取り直し、ならば天井は、と上に目を向ける。爆発の衝撃か、天井のコンクリートにはヒビが走っている。地下室に無造作に置かれていた木箱か何かを足場にすれば届きそうだ。けれど、その前にと具合を確認しようとして私は絶望した。ひび割れの隙間からコンクリートを補強する金属棒が何本も飛び出ているのを見つけたのだ。これを怖そうと思うならダイナマイトか何かがいるだろう。勿論、そんなもの探すまでもなく地下室にはない。
「そんな…」
父と母、暴行と殺意から逃れた先にまっていたのはまた地獄だった。逃げ道のない地下室に閉じ込められたのだ。助けなんて来るはずがない。屋敷にはもう誰も残っておらず、父や母の知り合いが偶然にも尋ねに来る、なんて状況も有り得ない。軍隊や警察もこの非常時に、壊れてしまった屋敷の様子を見に来るなんて事はないだろう。助けは来ない。断言できる。もはや私たちはここから出られないのだ。この薄暗く埃っぽい何もない地下室から。
嘆息を漏らすと、それが最後だったのか全身の力が抜け落ちる。膝が折れ、とすんと腰を落してしまう。そこからまた立ち上がり何かをしようという気力は微塵も沸いてこなかった。弟の泣声が狭い室内に谺し耳に痛かった。私も泣きたい気分だった。
疲れ切った体はまるで蝋燭の火がかき消えるように意図せず意識を睡眠の縁へと落していく。覚醒と半覚醒を繰り返し、時間の概念は失われていく。どれほどの時間が流れたのだろうか。半日、一晩、丸一日、三日以上。それも分からない。だが、目が覚める度に自分の身体が衰弱しているのは理解できた。当たり前だ。最後がいつだったのかまるで憶えていないほど私は久しく食事をしていないのだ。体力などどれほど睡眠をとったところで回復するはずがない。ゆっくりと命は燃え尽きていっている。
加えて時分は二月の頭頃。室内とは言え地下室の気温は指折り数えられる程度、むき身のコンクリートの床は嬲るように体温を容赦なく奪っていく。もし、これが私一人ならもう既に私はこの寒さにやられとうに死んでいただろう。そうならなかったのは温かさがもう一つあったからだ。
「……大丈夫?」
腕の中に抱いた弟に問いかける。寒さに耐えかねた私は気絶するように眠っていた弟を抱き寄せていたのだ。一人なら凍えてしまうかも知れないがこうして抱き合っていればそれも少しは緩和できる。
弟から返事はなかったがすやすやと健やかそうな寝息をたてているのを見て私は安堵した。まだ、私も弟も生きている。家族はみんな死んでしまったが弟だけは、生きている。
「あ、お姉ちゃん…」
と、弟が目を開き身を捩るとそんなことを口にした。私は弟の体を強く抱きしめ「うん、うん」と頷いた。
「お姉ちゃんならここに…」
「せーが、お姉ちゃん」
「え?」
腕の中の弟は私から離れようと身を乗り出し、腕を伸ばしていた。虚空に。誰もいないはずの虚空に。
否。
顔を上げれば私にも見えた。そこに彼女がいるのが。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
私の腕から逃れ、ふらつく足取りで弟は彼女の元へ歩み寄っていく。
「はいはい、いい子にしてた?」
霍青娥、彼女の元へ。
青娥は腰を屈めると近づいてきた弟の頭を撫でた。変わらぬキキョウのような笑みを浮かべて。
「ど、どうして…」
ここにいるのかという言葉は声が掠れてでなかった。この地下室は完全な密室だ。中から出られないと言うことは外からも入れないということだ。だというのに青娥はここに当たり前に存在していた。何処かに隠れていたというのもありえない。逃げ道はないか、役に立つ道具はないかと私は部屋の隅々まで見て回ったのだ。青娥が隠れていられるような場所はなかった。すわ、幻覚かと私は自分の頭を疑ったがそれもなさそうだ。青娥に頭を撫でられ、青娥からお菓子をもらっている弟は見たことないほど安心した顔つきを見せている。確かに青娥はここに実際に存在しているのだ。
「あら」
私の視線に気がついたのか、青娥は弟の頭を撫でながらもこちらに顔を向けてきた。
「まだそんな眼をしてるのね」
青娥は笑みを湛えながらそんなどう返答したらいいのか困るようなことを口にしてきた。
「えっ、と…?」
「父親に犯され、母親に殺されかけてもまだそんな眼ができるのね。それだけすればイイ感じに“濁る”と思ったのに」
残念ね、と青娥はまるでちょっとだけお菓子の焼き具合を失敗してしてしまったみたいに呟いた。なんだ、何を言っているんだ彼女は。
「青娥、さん。それは……?」
「まぁ、いいわ。もう一人いるから」
言ってどこからか真っ黒に汚れた包丁を取りだす青娥。あれは…
「青娥さんっ!」
弟を振り払い、立ち上がり踵を返す青娥。何処かに行こうとする動作。いかないでと私も身を起こすが体は思うように動いてくれない。無様に前のめりに倒れる。意識はその衝撃だけで容易く消え失せていく。その意識が闇に堕ちる寸前、私は青娥が壁に開いた大穴から外に出ていくのを見た。
「うぁ…」
体感なので実際には分からないが短い時間で私は覚醒したように思われる。非道い寒さに体が意識を落とし続けているのは危険だと判断したのだ。ガチガチと奥歯が鳴り、鳥肌も立たないほど体は青白く染まっている。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
と、弟の声が聞こえた。顔を上げれば弟は何もない壁を引掻きながら私のことを呼び続けていた。
「おね、え、ちゃんはここ、いるよ」
掠れる声で呼びかけるが弟は振り向きもしない。壁をかりかりと引掻いている。
この非道い寒さの原因は弟が離れてしまったからだ。たった一人残った家族の温もりが失せてしまったからだ。
「おねいちゃん、おねえ…ううっ、ぐすっ、びぇぇぇぇん」
そんな固い壁を引掻いてもお姉ちゃんは出てこないだろうに。弟もそれに気がつき絶望してしまったのか大声を上げて泣き始めた。
「はいはい、お姉ちゃんはここですよ…」
何とか這って弟に近づこうとする。愛する家族の処へ。二人一緒なら暖かい。家族なのだから温かさを分かち合い、運命を共にしよう。それでここで死んでしまっても、家族と一緒なら寂しくはない。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ、おねーちゃん!」
だというのに弟はまた壁を引掻き始めた。その先に『お姉ちゃん』がいるとでもいう風に。
「だから、お姉ちゃんはここに…」
「せーがお姉ちゃんーっ!」
「え?」
弟はそう大きな声で私ではない『お姉ちゃん』の事を呼んだ。
かちゃり、と私の指先が床に落ちていた何かに触れる。赤黒く乾いた血で汚れたむき身の包丁だった。
「お、お姉ちゃんならここに、ここにいるでしょ!」
どこにそんな力が残っていたのだろう。私自身でも不思議に思うほど、大きな声が喉から出た。はっ、とその声に反応し弟が振り返る。
「ほ、ほら、お姉ちゃんよ」
「うーっ」
振り返ったのはほんの一瞬だけで弟は首を左右に激しく振るとまた壁を引掻き始めた。真っ平らな、穴なんて開いていない、青娥が出て行ったと思わしき壁を。姉であるこの私を無視して。
「お姉ちゃんはこっちでしょ! アレは、アレは…!」
「ちがう! お姉ちゃんはお姉ちゃんじゃない。せーが、せいがお姉ちゃんーっ!」
振り返り、私には到底理解の及ばぬ言葉を吐く弟。私はその時見て取った。弟の口の周りが汚れていることを。あの口の周りに付いているクズはお菓子か何かの欠片だろうか。ああ、と想い出す。そう言えばさっき、青娥が来た時、弟は彼女からお菓子をもらっていたのだった。美味しそうに食べていた。一人で。自分一人で。お腹を空かせているのは私もなのに。家族だから分け合わなくっちゃいけないのに。たった一人で全部全部食べてしまったのだ。青娥からもらったお菓子を。それであんなに元気なのだ。死にかけの私と違って。
「あ、あああ、ああああ」
ドス黒い感情がわき上がってくるのが分かる。怒りとか憎悪とか失意とか憤りとか敵意とか。家族に向けてはいけない感情が。欲情や殺意と同じ、家族に向けちゃぁいけない感情が。
いや。
「おねえちゃん、せいがお姉ちゃん、せいが、せいがー」
アレは家族じゃない。家族じゃない女を『お姉ちゃん』と呼んでいるのだ。だから、家族じゃない。家族じゃない人間は別に助けなくても、かまわない。いや、それだけじゃない。ひとつの女として私を見た父のように、切り捨てるべき邪魔な物として私を見た母のように。私も家族ではなくなった弟を自分の都合のいいように利用しても構わないのだ。
「きひっ」
床に落ちていた包丁を手にとる。
私は以前、青娥に聞かされた凄惨な内容の話を想い出す。
ある船が沈没し、命からがら救命ボートで脱出した三人の男の話だ。救命ボートには食料など積んでおらず、海の真ん中で助けはなかなか訪れず、男たちは激しい飢えに襲われた。このままでは全滅してしまうかと思われた時、比較的元気だった二人の男があることを思いついた。それは残りの一人…一番衰弱していた青年を犠牲にして自分たちだけでも助かろう、という話だ。
二人の男は結託し、一番弱っていた青年を殺し、その血肉を糧に生き延びたというのだ。
その後二人は救助され、殺人罪で裁判にかけられたと言うがこの際結末はどうでもいい。人は人を食べて生き残れるのだ。私も! 私も! 弟を食べて生き延びる!
「あぁぁぁぁ!!」
「お姉ちゃん?」
むしゃりむしゃり、もぐもぐ、ごくり
むしゃりむしゃり、もぐもぐ、ごくり
むしゃりむしゃり、もぐもぐ、ごくり
「うん、手間がかかったけど、これなら十分ね。綺麗…」
むしゃりむしゃり、もぐもぐ、ごくり
「どう。美味しい?」
美味しいです。むしゃむしゃ。
ごくごく喉を潤す温かな血も、もぐもぐお腹を満たす軟らかな肉も。ぐちゃぐちゃ全部、ぺろり全部美味しいです。
「ところで…」
むしゃりむしゃり、もぐもぐ、ごくり
「貴女の食べてるそれ、貴女の弟さんよ」
むしゃりむしゃり…え?
「貴女の瞳は綺麗だったけれど、それは原石のままの美しさ。宝石は研磨しカットしてこそ宝石たりえる」
なにを、もぐもぐ、言っているんですか? むしゃむしゃ
「家族に犯され、家族に襲われ、家族を殺してこそその瞳は美しい宝石になる。さ、その子を押さえつけなさい」
青娥が私の頬に触れる。冷たい手。キキョウのような笑み。そうだ。そうだ。全てコイツが…
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「霍青娥ッ!」
叫び声と共に体を起こす。
そうだ、そうだ、全て想い出した。
私はかつて上海に住んでいた日本人貿易商の娘。父と母と弟がいて、そうして、霍青娥の策略によってその全てを奪われた女だったのだ。
あの邪仙は父を誘惑し、母に怪しげな男を近づけさせ、弟を洗脳し、そうして私を含めた家族全員の心を狂わせたのだ。ただ私を絶望と狂気の縁へと堕とすというその目的のためだけに。吐き気を催す邪悪を行ったのだ。
それが一体、如何なる理由によるものなのかは分からない。だが、結果なら分かる。今の私だ。宮古芳香といういいように霍青娥に操られるキョンシー、それが結果だ。犬よりも従順で奴隷よりも卑屈で消耗品が如き扱いを受ける存在に私は貶められたのだ。
「畜生…っ」
憎悪で体が四散しそうになる。怒りの余り七孔噴血し暴散する死に方を怒死というらしいが成る程、この絶えられぬ感情ならそれもありえるだろう。この体が死体でなければ憎悪と憤怒で腸が煮えくりかえり爆発してもなんら不思議ではない。
「ぐぅぅぅ」
感情が溢れ出し、過剰なエネルギーとなって全身の筋肉を強張らせる。関節が軋みを上げ、噛みしめた奥歯が欠ける。もし、この体が生前のように己の意思のまま自在に動かせたなら破壊衝動に突き動かされ眼につく物ありとあらゆる物を破壊して回ったかも知れない。
だが、そんなことはしない。いきすぎた努気は逆に冷静さを生み出す。為すべき事はなんだ、しなくてはいけないことは。復讐するは我にあり、だ。
無理矢理作った冷静さで現状を確認する。今自分がいる場所はすぐに分かった。青娥の施術室だ。あの邪仙はここで自分のようなキョンシーを作っているのだ。自分今、素っ裸で粗末な造りのベッドに寝かされている。処彼処に包帯がまかれ呪符が張り付けられているところを見ると、気を失う前に始まった命蓮寺の妖怪との戦闘で負った損傷をここで修復したという事だろう。そして私を修復できるのは霍青娥だけであの女には今、それだけの余裕があり、強いては命蓮寺の襲撃を退け今も無事であることが推測できる。
その事に私は安堵する。青娥が無事なことに。だが、その感情は肉親の情や造物主への忠義などではない。霍青娥が私の手にかからず死ぬことを私が良しとしないからだ。
「芳香、起きたの?」
その時、部屋の外からそんな声が聞こえてきた。霍青娥だ。私は「うん、せーがー」と如何にも頭が悪そうに、普段の、偽りの私らしく応える。
一つ、策を思いついたからだ。否、策と言うほどのものではない。児戯に等しきお粗末な策略。だが、まともに策を練ったところで私では霍青娥を殺せないことは分かっている。あの女は数千年も前から人を騙し生きてきたのだ。加えて人心を読み呪いじみたカリスマ性を持つ聖徳王の側に生前から付き従っているのだ。私なんぞがいくら頭を捻ったところであの女には決して届かないだろう。ならば、愚策など弄せず速攻でけりをつける。
私は引き攣った笑みを浮かべながら部屋に入ってきた青娥を出迎えた。
「どう具合は?」
「げんきだよー」
腸が煮えくりかえり爆発しそうな程度には。
そう、と素っ気ない返事をし私に背を向けなにやら作業を始める青娥。好機、と私は生唾を飲み込んだ。ゆっくりとベッドから降り、青娥に近づく。素足でタイル張りの床を踏みつけているせいかぺたぺたと足音が鳴っているが青娥は振り返りもしない。無防備な背中を晒している。考えていた以上に体が思い通りに動かないと感じた時はヒヤリとしたが、これならば問題無いだろう。あえてソロリソロリと動くことなく、開くまで自然体に体を動かす。そうやって、自分の腕が届く距離まで簡単に近づく。
「霍青娥」
そして、声をかけ、間髪入れず私は青娥の体を背中側から貫いた。脊椎、背筋、肺胞、肋骨、乳房。貫いた手に平にはその中間に存在していた心臓が握られている。
青娥は私に返事をしようとして振り返った格好で一瞬動きを止めた。私を見たまま二度瞬きし、そうして自分の胸から生えている腕を見て、また一拍おいてごふり、と血を吐いた。それでもなおこの悪知恵に長けた邪仙は何が起こったのかまるで分かっていないようだった。
無理もない。信頼してきた己の道具に裏切られたのだ。その驚きは筆舌にしがたく、理解の遠く及ばないものだろう。ワケも分からず呆けた顔になるのも無理ない。
だが、それはこの女がかつてしてきたことだ。私の家族に近づき、まずは頼りになる家庭教師として、ついで親愛なる友人として、そうして家族という輪に入り、肉親の情を憶えるほど親しくなってからこの邪仙は毒蛾の鱗粉が如き奸計でもって私の家族の仲をずたずたに引き裂いたのだ。裏切りこそはこの女の十八番。その手法でもって殺されるとは私が行ったことだが因果応報の理を感じる。そう、この怪力も毒手も全てこの女が造った物だ。以前青娥は私の力を『岩を豆腐の様に砕く』と称した。仙人の体は金剛不壊と謂われるがそれは所詮例えだ。ダイヤモンドのように不滅、と言うだけでその強度は普通の人間と変わりはない。豆腐に喩えられる岩よりも柔い人体など障子紙が如しだ。それをこの女は己の身で実践してみせたのだ。これもまた因果応報か。
「ふふっ…」
ああ、それにしても。
「あはははは、あはははは、はーっはっは」
この手を濡らす血の何と暖かいことか。まるで奪われた体温が戻ってくるようだ。つづいて感情が、そうして、尊厳や自由といった諸々が私の身体の中に戻ってくるのを感じる。すべてこの女に奪われたものだ。奪われたものがこの邪仙の滅殺をもってもどり、甦っているのだ。そう、私はたったいま甦っているのだ。それは誕生の喜びにも等しい。ああ、と嘆息が漏れる。頬を暖かいものが伝わるのが分かる。これは涙か。数十年振りに涙が瞳からこぼれ落ちる。それも悲しみなどではなく歓喜の涙が。
「あはははははははは、青娥…っ」
頬を伝い顎先から流れ落ちた涙が、私の足の甲に落ちる。その涙は何故か冷たかった。どうして、と思う。歓喜の涙は温かいものの筈なのに。流れ落ちた涙は少しだけ冷たかった。冷たさは悲しみの温度だ。喜ぶ場面なのにどうして悲しみが。
「ッ…いいやいいや、違う。そんな筈はない、そんな筈は!」
頭を振い、浮かんできた有り得ぬ想いを振り払う。この女は敵だ。憎むべき、恨むべき、呪うべき怨敵だ。胸に咲いた憎悪の花が枯れる前にケリをつけろ。ついに自分のものとなった自分自身に命令する。
さぁ、その手にある心の臓を握り潰せ。自由と復讐のために。さよなら、だ、親愛なる“お姉さん”偉大なる“造物主”よ。
悲しみを振り払い、怒りに手を引かれ、私は力を込めた。
肉塊を握り潰す生々しい感覚が手の平から――――――伝わってこなかった。
「え?」
変りに腕に憶えたのは紙幣を握り潰したような軽い感覚。血の詰った肉厚の袋…心臓を握り潰す時の感覚とはまるで違う。まさか、と想いながら手を開く。動かぬ青娥の肩越しに見た自分の手の平の中には潰れた肉片に混じりしわくちゃになった紙切れがあった。
「なっ…?」
疑問符はその紙が一体何なのかという問いかけではない。これがなにか、私にはすぐに分かった。血と脂で汚れ、歪んでいるせいで非道く見にくかったが紙切れ…符に書かれている文字はすぐに読めた。
勅命――皇の命が如き絶対遵守、を表す言葉。
そう、キョンシーの頭に張り付けられその冷たい体に仮初の命と服従を強いる呪符に書かれている文字だ。
「なんで…」
「こんなものがここに? なんて月並みな台詞は吐かないでよ、“宮古芳香”」
親として悲しいわ、とそんな言葉が後ろから投げかけられた。振り返るまでもない。その声は聞き覚えがある。自分の声の次にもっとも耳に慣れた姉/造物主の声。そして、私に絶望を告げる声だ。
「霍青娥っ、どうして!?」
泣きそうに顔を歪めながら振り返る。案の定、そこには私が胸を貫いているものと全く同じ姿格好をした青娥が事もなさげに立っていた。顔には軽い失望の色が浮かんでいる。それは決して私に裏切られたことに対する感情が表層化したものではない。その顔はただ単に私の復讐が失敗に終わったことに対する低評価が顔に表れているだけなのだ。
「貴女ってそんなに頭の悪い女性だったかしら。私が使えているのは聖徳王・豊聡耳神子よ。政に携わっている以上、常に暗殺される可能性を念頭に置いておかなければならない立場。影武者の研究なんてやっておいて損はないでしょ」
取り敢ず試験は成功みたいね、と青娥。したり顔で頷き、なにかしら改良点でも思いついたのだろうかメモをとったりしている。興味のあることには食い入るよう神経を集中するが、興味のないことに対しては視界にさえ入れない、霍青娥の悪癖。私の復讐――青娥にとっては裏切りと反逆に等しい行為にもかかわらず、この女はそれを『興味がない』と一蹴し、意識の外へ追いやったのだ。
「霍青娥!」
憎悪に奥歯を軋ませ、忌々しきその名を叫ぶ。かつてな想いかも知れない。だが、私の心は霍青娥にまたも裏切られたと強く感じたのだ。私の人生を滅茶苦茶にしたのだがら、それ相応の感情を――怒りであれ憎しみであれねじ曲がった愛情であれ、それ相応の執着をもっていると想っていたのだ。だが、この仕打ちは余りに無情すぎる。いっそ、『よくも裏切ったな、この売女が』などと罵ってくれた方が余程気が晴れた。それをこの女は百年近く経ってまたも私の想いを裏切ったのだ。
「アァァァ!!」
暗殺もクソもない。激情に駆られ体が勝手に動く。腕に偽物の霍青娥の体を貫いたまま本物の霍青娥に迫る。青娥はまさか私が再び攻撃してこようとは思っていなかったのが棒立ちのままだ。驚いた顔すらしていない。いいだろう。あくまで私のことを無視するというならその横っ面をひっ叩いてこちらに無理矢理振り向かせるだけだ。ただし、キョンシーの腕力で。
あいている方の腕を無造作に振り抜く。空間を薙ぐ腕がブンと風切り音を立てる。空気か摩擦で燃え上がりそうな勢いだ。その一撃を受けて青娥の頭上半分は柘榴のように容易くかち割れた。きひ、と確かな手応えに顔を歪める。だが、次の瞬間、私は飛び散った青娥の頭蓋と脳漿の中に細切れになった紙片を見つけることになる。これもまた影武者だったのだ。
「莫迦ねぇ。二度あることは三度あるって私に教えてくれたのは貴女じゃないの?」
何だ、その話は。そんなことした憶えはない。
気配に振り返ると三人目の青娥がいた。同じ姿。同じ格好。これも殺してやろうと腕を振り上げたところで、私は一瞬戸惑ってしまった。これもまた影武者ではないのかと。その可能性は大いにある。本物は何処か離れた場所で遠見の仙術で私の復讐劇を笑いながら視ているかも知れない。そう思うと震えが走った。怒りと自分では青娥に届かぬのではという絶望。だが、その不安を憎悪の炎で焼き尽くし、新たに現われた三人目の青娥を睨み付ける。こうなれば片っ端から『霍青娥』を殺していけばいいだけの話だ。いくら何でもその数が無限ということは有り得まい。否、喩え無限だったとしても私は復讐を続けるのみだ。
「死ねェェェ!」
袈裟に腕を振う。怪力は青娥の体の左胸から右脇腹の肉をごっそりと削り取った。内臓や骨格が顕わになり、人の体ならどう見ても致命傷たりえる傷を負わせることに成功する。だが、その死傷を負った霍青娥の顔は不遜なまでに微笑を湛えたままで、そうして、肉をえぐり取りさらけ出された腸には矢張というべきか『勅命』の符が張り付けられていた。これもまた影武者。チッ、と忌々しく舌打ちする。
「ところで、疑問なのだけれど」
最早驚かない。常に自分の死角となっている場所から無造作に投げかけられる神経を逆撫でするような声。すぐにでも黙らせてやるぞ、と振り向き様に腕を振う。真横一文字。青娥の体が上下に分かれる。支えを失い床に落ちる上半身。そこから伸びている頸椎から紙の切れ端が覗いている。
「どうしてこんなことするの?」
「決まっているだろう! 復讐のためだ! よくも父を弄んだな! よくも母を狂わせたな! よくも弟を奪ったな! よくもよくも、私を…裏切ったな!」
青娥の頭を鷲掴みに引き寄せ、両手で挟んで叩き潰す。砕ける頭蓋。潰れる脳漿。その中に混じっている符。これもか!
「お父さん? お母さん? 弟さん? 一体何の話をしてるの?」
「しらばっくれるな! 1920年代の上海で…!」
壊す、壊す、壊す。殺すには至れない。すべてが偽物。全てが影武者。全てがダミー。全てが嘘っぱちだ。
「上海? “宮古芳香”貴女の時代に上海なんてなかったでしょ。それにさっきからどうして私の影武者を壊してるのよ。意味が分からないわ。何か不満なことがあるの。貴女の体を永遠にする変りに私に永遠に使役される。そういう契約だったじゃないの。それで1000年、上手くやってきたじゃないの?」
「ファンタジーめいたことを言うなぁ! 私は00年代に九州で生れ、父について家族共々上海に渡って…」
怪訝そうな顔の青娥。その顔面を殴りつけ損壊させる。だが、それも偽物だ。次いで納得したような「あぁ」という嘆息が真後ろから聞こえてきた。
「そういうこと。部品のどれかの昔話って訳ね」
現われた『霍青娥』の喉に噛みつく。万力じみた力で喉の肉を一噛みにする。クソ不味い血肉の味。その中に何とも言いがたい噛み切りにくいものを発見する。紙片だ。畜生。
「部品…?」
青娥の言葉に疑問符を浮かべる。独白じみた言葉だったが案の定返答はあった。
「そうよ。ええっと…」
現われた十何体目かの青娥は書き物をする机の上に置いてあったノートを一冊手にとった。古ぼけ使い込まれたノート。それをペラペラとめくり、ある時点で手を止めた。その息を止めてやろうと私も青娥に迫る。
「ああ、コレね。『眼球』の記憶ね」
ほら、と私にノートの一ページを見せてこようとした青娥の体を真正面から貫く。その手にあったノートに視線が行く。『頭髪』『大臼歯』『胃』『肺』『肋骨』『両腕』人体の部分が箇条書きにされている。その隣には年月と思わしき四桁.二桁の数字と地名と思わしき固有名詞、そして人名が書かれていた。
その中に見覚えのある名前があった。
見るな、と警鐘が鳴り響く。それは神の慈愛か本能の忌避か。だが、無駄だ。この体の主体は眼球にある。その目が見てしまったのだ。見逃せるはずがない。
眼球――1932年2月、中華民国・上海・虹口区、そして…×× ×××
私ではない、“宮古 芳香”ではない名前がそこにあった。
「思いだしてきたわ。WWUの前の上海。ええ、確かにそこで手に入れたのよ。その眼はね」
キョンシー用の死体を探してたら綺麗な眼をした娘を偶然見つけてね、まだ生きてたけれど眼をもらったのよ、と霍青娥。私は何を言っているんだと、顔を上げる。
「偶然。違うでしょ。だって、貴女私のお父さんに言い寄ったり、お母さんに若い男を近寄らせたりして、私の家族を滅茶苦茶にして…」
私の言葉に青娥は小首をかしげた。だが、暫く考えて納得のいく答えを思いついたのか、ああ、と口を開いた。
「それは別のパーツの記憶じゃないの。最高の状態の部品を手に入れるためにそういう事をしたこともあるわ。でも、『眼』についてはそんな事はしなかったわ」
なんだ、どういうことだ。なにをいっているんだこの女は。疑問符が留処なく沸き上がる。だが、その疑問に回答を与えてはいけないということだけは理解できる。その疑問の答えは自らのアイデンティティを揺るがすものだからだ。聞いては駄目だ。そいつは毒薬だ。そいつは死刑宣告だ。私という存在を殺すナイフだ。言うな、と叫ぶが青娥は構わず先を続ける。
「今“宮古芳香”を動かしている意識、便宜上アナタと呼ぶわね。アナタという意識は“宮古芳香”を構成しているパーツがもっていた断片的な記憶が寄り集まって生れたものに過ぎないわ。メインは眼球だとしても、アナタが『憶えている』と想っている記憶なんてものは実際には存在しない。すべて継ぎ接ぎのパッチワーク。だから、」
アナタが私に復讐しようなんていうのは全くの思い違いに過ぎないのよ、そう霍青娥は諭すように言ってきた。
足下が瓦解するような眩暈に襲われる。私という存在はただの記憶の残滓が寄り集まってねつ造されたものに過ぎないというのか。ならば、この感情は? この想いは? 身を焦す憤怒も、体を軋ませる憎悪も、死と時間を超越する執念もまがい物だというのか。この折り重なった『霍青娥』の死体と同じく。
「しかしまさか、こんな事があるなんて。断片情報でも脳は適当につなぎ合わせ喪失部分をでっち上げて『記憶』にするらしいけれど、その応用で各々のパーツの記憶を繋いで一個の『意識』にしてしまうなんて。何万体とキョンシーを造ってきたけれど、これは初めての出来事だわ」
ああ、うん、いや、たまに動きのおかしい子がいた憶えがあるけど、もしかしてあれがそうなのかな、と霍青娥は既に私自身への興味を失い、私が出来上がった経緯について想いを廻らせている。同様に私の強大なる敵意も。火山から吹出し、大地を覆い森を焼き街を滅ぼしたマグマがついに海へと到達し、その熱を海水で冷ましていくように、急激に冷め衰えていく。
駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!
頭を振い、冷気を否定する。失うな。父や母、弟と暮した記憶が赤の他人のモノだったとしても、憎悪と憤怒と敵意が想い違いだとしても、ああそうだ、この体のパーツ各々がこの女によって人生を滅茶苦茶にされ更には全うに土に還ることすら許されない状況にあるのだ。怒れ、叫べ、猛ろ。『復讐するは我にあり』だ。この絶意だけは真実。総体からなる真の感情だ!
「霍青娥ッ!」
全身を励起させ邪仙に迫る。
毒手と怪力を持ち合わせたこの腕にかかれば殺せない者などない。
それが喩え霍青娥だったとしても。
殺せるだけの力はある。
殺す意志も私自身には、ある。
だが、意思…遺志はない。
「!?」
毒爪が青娥の頬に触れるか触れないか、その位置で止った。
否、爪だけではない。繰り出した腕も、踏み出した足も、肩も、腿も、首も、全身がスイッチを切ったように停止する。
「かっ、霍青娥! 何を!」
また私の身体の機能をどこか強制停止させたのかと思い、怒鳴る。だが、違う。声は自由に出せる。そして、恐らく青娥を攻撃しようとする行動以外は取れるのだ。身を引くことも、腕を下げる事も出来る。それは分かる。自分の身体だからだ。だが、霍青娥を殺そうとすることだけは出来ない。それだけはしてはならないと肉体の主導権をとっている私に更に強制的に命令を、勅命を与えてくるのだ。何故だ。どうして!?
「ああ、そう。ありがとう“宮古芳香”」
と、青娥がそう今までにない優しげな声で呟いた。顔には慈愛が。キキョウよりももっと美しい花のような笑みを浮かべ私を…いや、私ではない誰かを見ている。そうして、青娥は動けぬ私に近づき私の身体に抱きついた。腕を背中へと回し、体を寄せ、この上なく親密に肉体だけでなく心もそうするよう近づいた。そうして、静かに私の――宮古芳香の頬へと口づけした。
「その体の本当の持ち主はアナタじゃないわ。そして、実際の所、使役している私でもない。その体は宮古芳香。かつて私が真に愛し愛された人のものなのよ。あの方は優しかった」
だから、そろそろ主導権を返してもらうわ。
次いで出てきた言葉はいつもの青娥らしく軽薄で傲慢で利己的なものだった。ああ、この女はもしかすれば私が動かしているこの体が別のインダストリアルなキョンシーのものだったならば私を放って置いたかも知れない。興味がないと。だが、宮古芳香の体だけは駄目なのだ。この体はこの女が千年以上使えている聖徳王・豊聡耳神子と同じく千年間者執着をみせている女のものなのだ。
「押さえつけなさい“私”たち」
「!?」
青娥の号令と共に床に伏していた十数からなる“霍青娥”たちが動き出す。四肢が満足に繋がっているものは起き上がり私に群がり、五体が満足でないものは這ってでも私に纏わり付いてきた。
「離せ、このッ!」
藻掻く。だが、私と同じく纏わり付いてきた青娥たちは強靱なキョンシーの肉体を有しているのだ。同じ力なら数が多い方が当然強い。私の身体は完全に拘束されてしまった。
「ぐっ、霍青娥ァ!」
せめて動かせる自分自身――眼を動かし、強く睨み付ける。殺意が籠もった凶眼で睨み付ければ殺せるのではと。
だが、そんなことはない。青娥は悠然と腕を持ち上げ、それを私の、宮古芳香の眼前へともってきた。細く長い指が見える。ああ、私はその指を見たことがある。その指の感触を知っている。これこそが
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寒く暗い地下室。私はキョンシー、宮古芳香に体を押さえつけられている。目の前には腰を屈めた霍青娥がいる。手を伸ばし、私の頬に優しげに触れている。物欲しげに私の眼を覗きこんでいる。
そうして…
ぞぶり
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
私[霍青娥]の眼孔に青娥の指が差し込まれる。
長い爪が神経系を切り裂き、絶妙の力加減でもってまるまるとした眼球が引き抜かれる。
最後に私[眼球]が見たのはぽっかりと空いた眼孔から血を、涙のように流している私の姿だった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「あれ? あれ? 青娥? お部屋が真っ暗だよ! はやく灯りつけて。つまずいちゃうよ!」
「うふふ、お馬鹿さん。部屋が真っ暗じゃなくて貴女の眼がないだけよ」
「なんだそっかーって、えぇえ!? 眼がないのは灯りが付いてないより問題だよ!?」
「そうね。待ってなさい。今替りのお目々を入れてあげるから」
「わーい」
「処で芳香、飴ちゃんは欲しくない? あげるわ」
「ありがとう、せいがー」
「手ぇ出して。はい、どうぞ」
「ありがとー、って二個あるよ。青娥はいらないの」
「私は…ううん、そうね。折角だから頂くわ」
「はい、せいがどうぞー」
「ありがとう」
「んー、甘くないけど美味しいね。何味だろう?」
「そうね。執念の味かしら」
――果たされなかったけれどね。
そう霍青娥はキキョウのような笑みを浮かべた。
END
コンペに投稿しようと想っていた作品です。
なんやかんやで完成が遅れてしまい乗り遅れたぜこのビックウェーブに状態なのですが、
作者当てが余りに面白そうだったので「名無し」で投稿。
クリスマスに年末年始、暇な方は私が誰なのか予想してみてください。
分かった方は第二問『ph』が何の略かお答えください。
13/01/26追記>>
「 そ れ も 私 だ ! 」
てことで作者はsakoさんでしたーワーパチパチ
第二問のpHはパールハーバーです。
太平洋戦争で日本とアメリカが戦うこととなった理由の一端。当時アメリカは真珠湾攻撃を日本の完全なる奇襲、と思っていたそうですが実際には直前に開戦通達(厳密には違うようですが…)を行っており、「確かに“復讐するは我にあり”なんだけど、その理由、全てが正しいわけではない」という事を表しています。
sako
- 作品情報
- 作品集:
- 31
- 投稿日時:
- 2012/12/23 15:10:20
- 更新日時:
- 2013/01/26 23:56:52
- 分類
- 宮古芳香
- 霍青娥
- せいよし
しかし、読後感は釈然としませんでした。結局最後には記憶自体が疑わしく、本編にあった乗っ取りは存在しなかったと明らかになっていますが、身体パーツの部分ごとにはこれらの行為を行っていたことは間違いはなく、
芳香の復讐心への同調感もあって、どういう形で復讐されるのか楽しみにしていたのですが…結局青娥が死んでいないので感情が未処理になってしまったようです。
せいよしというよりかは…芳香を構成する人間の、妖怪に喰らわれる凄惨な過程を描いたものですかね。
なんにせよ、一度読んだだけでは語りつくせぬような内容の詰まった作品でした。美味しい飴玉ごちそうさまです。
さて、作者予想ですが「あまぎ」氏に賭けさせていただきます。
>この子は他の大量生産品<インダストリアル>ではなく特注品<スーパービルド>ですから
この振り仮名の使い方、かなり独特ですが、あまぎ氏の過去作に同じような振り仮名の使い方が発見されました。時間をかけて調査をすれば、他の該当者も見つかるかも知れませんが、根拠としては十分でしょう
phについてはストレート過ぎるかもしれませんが「phantasm」に。
偽りの記憶に操られる芳香と一応一致しているのでありえなくもない。
一体いつ作者が明かされるのか、また楽しみが増えたな
邪仙が手塩にかけた一品物の逸品者。
自由への渇望。復讐への熱望。
それらは単なるバグだった。
虫は駆除され、腹の虫へと。
ワンオフの芳香VS量産型青娥。
数の暴力の勝利でしたね。
かくして個性は葬り去られ、お馬鹿な手駒に修正されたのでした。
作者さんの正体、YUKkeさん?
で、第二問ですが……。
『Philadelphia』(フィラデルフィア)か?
アメリカの独立宣言ゆかりの都市です。
まさか来年の年末年始まで!とかじゃないよね…
知ってる作者さんなのに完全に予想外した 恥ずか悔しい
曹長さん予想の「フェラデルフィア」にはなるほどなーと感心させられたけど、パールハーバーだったかー。
独立宣言ではなく復讐に重きが置かれていたのね