ストロベリークライング

作品集: 13 投稿日時: 2010/03/30 08:31:21 更新日時: 2010/03/30 08:33:18
 岡崎夢美は教授である。
 若干18歳にして、比較物理学の教授である。

「痴……k油rrRgbB@v」「^

 しかし、振りかえると彼女はまたほどけ始めていた。

 椅子に座ったその姿勢のまま、細く細く、蜘蛛の糸よりも細くぱらぱらになった彼女の上半身は、ブラインドから差し込む西日に晒されて、きらきらと優しく光っている。のりの効いた白いシャツに、赤いベストを羽織り、また赤い髪を後ろで束ねていた。しかし残った身体も、横にほつれが生じて、ところどころ隙間ができて、ばらけ始めているのが見て取れた。

「ご主人様」

 ちゆりが呼び掛けると、デスクにかろうじて残っていた左手の、人差し指がピクリと震えた。

「……ご主人様、」

 もう一度呼び掛けて、その左手に自身の指を絡ませる。


 この世界は、自分の目を通してしか、見ることができない。
 そんなことは当たり前のことかもしれない。しかし、これも当たり前のことだが、個人の目なんてものは簡単に狂ってしまう。錯覚や思いこみなどによる認識の変質は、さほど珍しくもなくみられる現象であるし、ドパミン分泌に少しの異常を来たすだけで、そこに存在しないはずのもの、音などを感知してしまうようになる。科学であれ、非科学であれ、「自分の目で見たものしか信じない」というのは危険なことなのだろう。

 だとすれば、岡崎教授も、彼女を追放した学会も、その双方がとても危うい土台に、それと気付かず立っていたのかもしれない。


「…………、」

 ちゆりの鼓膜が、夢美の声をわずかに察知した。
 ただそれは正確には声ではなく、その残り香のようなものだったのだろう。夢美の上体はすでに糸状に拡散しており、声帯を失った彼女は、声を出すことなどできなかった。

 そのときになってようやく、夢美は自身の状態に気が付いたようだった。
 ぴくっと、絡ませた指がまた震えた。喉元のあった位置に、ほどけたひもが寄り集まって、凝集していく。またその少し上のほうで、白い糸がかたまって、三センチ足らずの球体をつくろうとしていた。

 ちゆりの喉の奥に、水色に湿ったガラス玉が詰まってゆく。
 震えるのはあとだ。今じゃない。ちゆりはそう思った。


 自分の器のあるかぎり、真実なんてものは見えないのだろうと、ちゆりは思っていた。
 昔からそうだった。べちゃり、と足元になにか潰れた感触がする。これが本当のことなのだ、とか、正しいのはこちらだ、とか、いくらそれに自信をもったところで、それも本当は歪んだ世界のなかでしか通用しない真実なのかもしれない。当たり前のことだ。
 どれだけ論理的な世界に生きて、それを確かなものと信じていても、ある日べろりとそれが裏返っても不思議ではない。あるいは裏返ることがなくても、何の不思議もない。
 それがちゆり一人の、幼いころからの宗教だった。

 べちゃり。

 そんな彼女が岡崎夢美の学説に興味を持ったのも、自然なことであった。
 統一世界論に記述される、論理で解釈をなすことのできるこの世界は、その見えないところにある魔力を含む非統一世界の一部であって、今は偶然それが見えていないだけなのかもしれない。あるいは、やはり魔力などというものは存在せず、この世界は論理的で平穏なのかもしれない。
 どちらを支持したとしても、矛盾はなかった。だからこそ、ちゆりは夢美の世界論に興味を持ったのだった。
 決して、彼女の言う魔力というものの存在を信じたからではない。


 ましてや、「幻想郷」など。


「幻想郷の、賢者というひとがね、」

 糸は絡まりもつれあって、喉から上唇までを再生し、岡崎夢美の声がそこからこぼれていた。
 やや低く、しっとりと濡れた声だ。

「可能性空間移動、という概念を教えてくれたわ」
 
 べしゃり、という音が。
 真っ赤に熟れたイチゴが、ちゆりの足もとに散っていた。


 毎日毎日、ちゆりはイチゴを一パック買ってくる。
 そうなったきっかけは、よくわからなかった。惰性なのかもしれない。少なくともちゆりは、そう思っている。
 イチゴをほおばるときの夢美の表情は、ぱあっと花開く少女の悦びであった。彼女は基本的に直情型で、喜怒哀楽を非常にわかりやすくストレートに外へとダダ漏れにするタイプだったが、それにしてもイチゴを口に運ぶときの様子は、底の抜けるような多幸感に溢れていて、見ているちゆりまでもがストロベリー色の幸せに浸ることができた。


 惰性だったのかもしれない、とちゆりは思う。

 イチゴのパックは横倒しになり、中身はデスクの上に転がっていた。
 べしゃり、と音をたてて、またひとつ床へと落ちる。
 過度に水分を含み、ぐずぐずに爛れたイチゴが、その中身を醜く撒き散らした。
 飛び散ったものの中には、赤い髪の毛や、西日にきらめく細い、長い蜘蛛の糸のようなものの塊が混ざっていた。


 夢美の糸は、きらきらと部屋のなかを漂っていた。
 眼球を形成しようとした糸のかたまりは、そのまま形を変えて扁平な灰色の何かになり、結局ほどけて散っていった。
 ふわふわと舞いあがった細い糸が、ちゆりの金髪に絡まっていた。見れば、肩や手首にも、数本の糸が巻きついている。いつだったか、夢美の指がそこをなぞったときの感触と、なにも変わらなかった。御主人様のにおいだ、とちゆりは震えた。
 最近のちゆりは、夜もほとんど眠れなくなっていた。もしもこのまま、彼女の感触とにおいに包まれてベッドに入れたなら、久しぶりにちゃんと眠れるのではないだろうか。そんなことをちらりと考える。

「ご主人様」

 彼女の現実を、幻想と混ぜ込んでしまったのは、少なくともそれを加速させてしまったのは、きっと自分だ。
 現実も幻想も、どちらも大差ないだろうという態度をとりながら。


「行くわよ、ちゆり」

 顔の下半分で、夢美が喋る。

「……どこへ?」

 見えているものが真実かどうかなんて、やっぱりわからなかった。
 ほどけて漂う糸となった夢美も、ブラインドから差し込む西日も、時間を見失った永遠の研究室も。

「幻想郷に決まってるじゃない」

 私にもそれが存在していると嬉しいな。
 ちゆりは心から、そう思う。


 ぐちゃ。
 イチゴが転がって、床に落ちる。
 ほどけた夢美の心が床に落ちる。
 ギリギリで飲み込んだ、ちゆりの湿った球体の呼吸でさえも、ぼろぼろと落ちていく。


 夢美の目が再生していなくてよかったと、ちゆりは鼻の奥でそう感じていた。
ちゆり
作品情報
作品集:
13
投稿日時:
2010/03/30 08:31:21
更新日時:
2010/03/30 08:33:18
分類
東方夢時空
岡崎夢美
北白河ちゆり
1. 名無し ■2010/03/30 08:34:48
オアシスだ
2. 名無し ■2010/03/30 12:04:08
幻想郷に行くのはいいけど、帰ってこれるの?
3. 名無し ■2010/03/30 12:10:41
凄く綺麗なSSだよな
4. 名無し ■2010/03/30 12:18:55
なんだか怖いよ
5. 名無し ■2010/03/30 16:21:33
飯さんの長編が読んでみたいな
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