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『恋 の 抑 止 力』 作者: sako

恋 の 抑 止 力

作品集: 16 投稿日時: 2010/05/24 17:42:48 更新日時: 2010/05/27 21:12:51
 










 異変惨事怪異天変地異及び幻想郷の存亡に関係する可能性が僅かにでも存在する事変を客観的考察或いは科学的事実若しくは物的証拠証言内容判断規則その手続及び経験則他者の意見風評噂既存概念などに囚われず主観的且つ外的要因を全て排他した直感によって判断しその運命の系統樹の末端若しくは縁僻地また或いは「バタフライ・エフェクト」から読解理解判定判明した情報条件より因果特異点若しくは「ターミナルポイント」を速やかに発見検索特定判断回答を導き出し、動機理由及び人道的行為絶対王権による勅命又は宗教的啓示「オラクル」その如何是非有無天地善悪の彼岸を問わず、それをぶちのめす者―――これを博麗の巫女という。







霧雨 魔理沙
稗田 阿廿著『幻想郷求聞史記 第壱拾壱巻』に宛てて















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
















「ぽ〜」

 長針と短針が本日二度目の会合を果たしている昼食時、右手にお茶碗、左手にお箸を持ったまま霊烏路 空はぽ〜っとしていた。
 お茶碗の中身は豆ご飯。その他、食卓には焼き魚やお味噌汁、隠元の雪花菜和えなど美味しそうな料理が並んでいる。けれど、空の前に置かれた料理はどれも手つかず。提供されたそのままの姿で段々と冷め乾いていってしまっている。

「お空、食べないのかニャ?」

 ポリポリと焼き魚の尾っぽまで食べながら、そう空に問いかけたのは火焔猫 燐だ。こちらは丁寧に三角食いをしている。お味噌汁も豆ご飯も雪花菜和えも等分に減っている。

「今日はあんたの好きな豆ご飯なのにっ」

 怪訝、とはいかなくとも不思議そうに燐は空に問いかけた。けれど、返ってきたのは、

「うん。あんまり食べたくないんだ」

 そんな気のない返事だった。空はそのままお箸とお茶碗を置くと、どこか力ない動きで立ち上がった。

「ごめん。ごちそうさま」

 一口も食べていないのに、そういって空は居間から出て行ってしまった。
 あんぐりと口を開けその後ろ姿を見送る燐。ぽろりと摘んでいた隠元豆が箸からこぼれ落ちる。

「嘘っ!? いっつもなら三杯食べてもまだお代りっていうのにっ!」

 驚愕の表情を浮かべる燐。天変地異の前触れじゃ、明日は槍が降るぜ、と慌てふためいている。

「さ、さ、さ、さとりさま、お、お空が…お空がヘンですよっ!」

 口からご飯粒を飛ばし、燐は上座に陣取る飼い主に話しかけた。お行儀が悪いわよ、と叱咤したのは古明地 さとりだ。こちらは箸の先しか汚さないという和食のテーブルマナーの模範的な動作で豆ご飯を食べている。

「な、なにかあったんでしょうかっ。あ、ま、まさか病気とか…」

 また血の池地獄に堕ちてた変なモノを拾い食いしたんじゃ、と心配そうな面持ちで燐は震える。その友人の変った態度を我が身に降りかかった災難のように憂う燐の心に感動して、さとりは少しだけ微笑んだ。

「大丈夫よ、お燐。そんなに心配しないで」

 諭すよう、燐にそう言ってさとりは箸を置いた。

「ごちそうさま。私ももういいわ。ちょっと、お空の所に行ってくるから」

 さとりも食卓をたつ。

「あの…さとり様、お空は…病気なんですか?」
「病気? そうね。ある意味、病ね。ああ、でも、安心して。死ぬような…死ぬ話も聞いたことがあるけれど、お空に限ればそういうお話にはならない、そういう病気よ」

 なお、心配そうな顔をする燐にそんな秘密めいたことを言ってさとりは空を追いかけ出て行った。
 後に残された燐はぽかん、と口を開けているだけだった。






「おりりん、私ももういいよ」
「あっ、はい、こいし様」

 最後まで言葉を発していなかったさとりの妹、こいしもお箸を置く。
まったく減っていないお茶碗と、少しだけ減ったもの、空っぽになったもの、そうして、何故か豆だけが残されたもの。今日の昼食は終わったようだった。












「お空、入るわよ」

 扉をノックしてさとりはドアノブに手を触れた。真鍮の取っ手を回し、部屋の中へ。
 旧地獄は地霊殿の中庭にほど近い場所にあるペットたちの居住スペース、その筆頭用の十畳ほどの部屋が空にあてがわられた部屋だった。

 二段ベッドの下段に衣装ケースやお気に入りのレコード盤が置かれ、壁に何故か芹沢博士のポスターが貼られた一見すると余り女の子らしくない部屋。二段ベッドの上で空はあぐらをかいて、食事中と同じようにぽ〜っとした表情をしていた。

「あ、さとりさま」

 さとりが入ってきたことに気がつきあわててベッドから降りようとする空。さとりはそれをいいからと征し、私も上がるから、と言って二段ベッドの淵にかけられた梯子を登った。

 空の隣にちょこんと座るさとり。

「元気がないみたいだけれど、どうしたの」

 さとりはそう、何処か演技めいた口調で空に問いかけた。空は少しだけ目を開いて、あう、と視線を彷徨わせて言葉を探しややあってから口を開いた。

「さとりさま、分かってるんじゃ」
「ふふ、そうね」

 空の言葉に悪戯っぽく笑ってみせるさとり。
 心を読む程度の力をもつさとりは食事中にはもうどうして空に元気がないのか何て分かりきっていることだった。だから、最初の問いかけは問いかけというより会話の発端を作るための言わば前座のようなものだった。

 困った顔を浮かべる空にさとりは優しく微笑みかけると適当な間を作って再確認するよう、空に元気がない理由、その原因を口にした。

「―――霊夢ね」

 巫女の名前を口にするさとり。空はうん、と小さく頷いた。その頬に桜色の赤みがさす。

「さとりさま、なんだか私、あの…霊夢にとっちめられてから、うん、そう、なんだかずっと霊夢のことばっかり考えてるみたいで…それでなんだか、霊夢のことを考えてると胸のこの辺りが、なんだかドキドキして、それで…なんだか、とっても恥ずかしくなって…それで」

 拙い言葉、稚拙な語彙、それらを総動員して空はさとりに説明する。さとりは読心の能力で空が言葉にする前に心に浮かんでいるイメージで大体のことは把握していたがそれでも空がしっかりと話し終えるまできちんと頷きながらその言葉を聞くようにしていた。

「それで…さとりさま、これってやっぱり…ヘン、なことなのかな?」

 しかめっ面。今にも泣き出しそうな顔をして空はさとりに問いかけた。地霊殿で一番えらい、さとりならきっと答を教えてくれると思って。

「大丈夫よ、お空」

 返答にさとりはぎゅっと空の頭を抱いてあげた。

「そういうキモチは年頃の女の子なら誰でも抱くものよ。だから、だから、安心しなさい空。貴女はヘンじゃないわ」

 諭すように、あやすように、さとりは空の少し太めのボサボサの髪を撫でてあげる。優しげに、愛おしく。

「さとりさま―――私は」
「お空、貴女は恋してるのよ、霊夢にね」

 訴えるように視線をあげてきた空にさとりは真実を告げてあげた。えっ、と空は息を飲んだ。

「私が―――霊夢を?」

 しばし、吟味するような時間を作って、ようやく、どういう事か理解して空はぼっ、と脳みそが沸騰したように耳まで自分の顔を赤く染めた。

「あわ、あわわわわわ、さとりさま、さとりさま…私、え、私が、霊夢を?」

 すすす、と目を丸く真っ赤な顔で狼狽える空。混乱しているのだろう。言葉はしどろもどろで、あちらへこちらへ視線を彷徨わせている。心はミルクを流してかき混ぜた紅茶のようにマーブル模様を表している。さとりは、もう、と肩を竦めると空を胸から離した。

「お空、自分の気持ちが分かったら次は自分がどうしたいのか、それを考えるの。わかった?」

 少しだけ怒ったような口調で空の肩に手を置いて、まっすぐとその顔を見据えるさとり。
 はい、と落ち着いた空は頷いた。

 さとりの質問の答は聞くまでもなかった。胸のサードアイに届いていた。






―――霊夢に逢いたい。






 さとりはにっこりと微笑むと空に後ろを向くように言った。

「髪、解いてあげるわ。女の子が―――好きな子に逢いに行くのに、そんなボサボサ髪じゃおかしいでしょうから」

 櫛を取り出しさとりは優しい手つきで空の長い黒髪を整えていった。えへへ、と嬉しそうに空は笑う。













「それじゃあ…ちょっと出るから、お留守番お願いね、お燐」
「は、はい、さとりさま。あ、でも、その…」

 玄関。お出かけの装いのさとりと空を見送る燐。けれど、その表情は少しだけ不安げ。空の元気そうな表情から、昼食の時の不安は杞憂だと分かったようだが、それ以外に新しい問題が起こっていたようだった。

 さとりはみなまで言わずとも分かるから、そういう素振りを見せて燐の心中を読み取る。
 僅かに怪訝そうに眉を潜めた後、分かったわ、と小さく頷いた。

「なるべく早めに返ってくるから、その間、こいしのことはお願いね」

 燐にそう命じるとさとりは空を連れて外へと出て行った。






 行き先は…地上、丘の上に建つ幻想郷の神社、博麗霊夢の所だ。














「あら、あんたが地上くんだりまで出てくるのは珍しいわね」

 そうして地上。縁側で霊夢が一人、お茶を啜っているところへ二人はやってきた。霊夢の前に立つさとりの後ろに空はいるのだが、さとりと空では背丈が大分、違うため殆ど隠れていない。空の背中の大きな翼もそれに拍車をかけている。

「そっちの鳥はよく見るけど…なにしてるの?」

 怪訝そうな顔で霊夢は自分の顔色を伺っている子供のような空に眉を顰めてみせる。霊夢に見つかったと思ったのか、空はうひゃっと声を上げて更にさとりの後ろに隠れるように身体を動かした。けれども、視線はしっかりと霊夢の方を向いている。

「ほら、お空、今日は霊夢と遊ぶためにやってきたんでしょ」

 ぐい、と空の服を引っ張って自分の前に出そうとするさとり。空は逆にさとりの服を掴んで嫌がる素振りをみせる。そんな空にさとりはもう、と憤りをみせた。

「何かのコントかしら」

 つまらなさそうに肩を落とす霊夢。いえ、コントじゃなくて、とさとりは返し、やっとこさで自分の服から空を引きはがすことに成功した。

 ととと、倒れるのを堪えステップを踏むように空が霊夢の前に歩み出る。

「あ、あの霊夢…」

 俯いて自分のスカートの裾をしっかりと握りしめている空。表情どころか意図も読めず、霊夢は怪訝そうに眉を潜めて何よ、と返事する。返答は、なかなか現れない。空は俯いたままあの、その、と踏ん切りが付かないような言葉を繰り返すだけでその続きを一向に口にしない。だから、なによ、と霊夢は怒り口調。それでもなお返事はなく、諦めるようにお茶を口に含んだところで…

「す、す、す好きです、ケッコンしてください!」

 空の告白に盛大に、今し方口に含んだばかりのお茶を吹き出すことになった。空の斜め後ろにいたさとりが被害を受けることになる。

「な、なにいってんのアンタ…」

 口から滴るお茶を拭こうともせず霊夢は空に問うた。霊夢が吹き出したお茶を顔に受けたさとりもある意味、一緒の考えだった。

 さとりの当初の予定は、取り敢ず空と霊夢の心的距離を近づけよう、と言うものだった。まずは友人から始めましょう、そういう算段。ことある事に空に霊夢の所へ遊びに行くように促し、タイミングがあえば逆に地霊殿に霊夢を招待し、適当に理由をつけて二人っきりにして、そうして…そういう考え。こいしが好きそうな少女漫画みたいな劇的な出会いがもう望めないのならそれなら正攻法で、とさとりは考えたのだ。考えたのだけれども…

「まさか、こんな事になるなんて… 空、早とちりしすぎよ…」

 自分のペットの落ち着きのなさをしっかりと読み取れなかったさとりのミスだった。空の頭の中は博麗神社に行くと決まってからずっと霊夢のことで埋まっていたのだ。まぁ、それも仕方ないわね、とさとりは考えていたのだがまさか自分の段取りをすっ飛ばしていきなり告白に移るとは…軽い頭痛を覚え、さとりは霊夢に吹きかけられたお茶をハンケチで拭きつつ、これは駄目かもしれんね、と諦めに達しようとしていた。

 それが、

「ん?」

 杞憂だったことをさとりは悟る。

「いきなりワケの分かんないこと言って…覚り妖怪、アンタのペットでしょ。きちんと躾けて…」
「怒る素振り、というのは私には無意味なモノだと思うのだけれど、霊夢」

 自分に指を突きつけてきて憤りの表情を見せていた霊夢の言葉をさとりは何処かポーカーフェイスのような顔つきで遮る。

「まんざらでもなさそうな、感情が―――読み取れるけど?」

 サードアイをウインクさせてみせるさとり。口元には勝ち誇ったような笑み。ぐぬぬ、と霊夢は恥ずかしそうに顔を赤くしながら唸った。

「し、仕方ないでしょ! 今までそ、そんなこと言われたことなかったし…!」
「あら、博麗の巫女なんてやってるからモテてらっしゃると思ったけれど…案外、そうでもないのね」

 それも少しばかりさとりには憂いだったこと。俗な言い方だが霊夢の競争倍率、というのは相当に高いものだとさとりは勝手に思っていたからだ。けれど、その憂いを払拭するような霊夢の言葉。或いは本当に霊夢の競争倍率は高くて誰もが高嶺の花だ自分には似つかわしくないと身を引いた結果―――誰も霊夢に告白ということをしてこなかったからなのかもしれない。

「え、えっと…さとりさま、霊夢?」

 一人、会話に置いてきぼりにされて不安げに二人を交互に見回す空。さとりは笑い、霊夢はふて腐れたように頬を膨らませる。

「霊夢、告白されたのなら返事をしなくてはいけないのでは?」
「っー、ああ、もう。そうね!」

 ぷんすか。さとりに対し思いっきり顔を逸らしてみせる霊夢。
 ぞこへおずおずと空か近づいてくる。腰を低く、上目遣いで。背丈のある空がそういう態度を取るとなんともアンバランスな雰囲気を晒してる。

「………霊夢」

 不安げに、瞳を僅かに潤わす空。ううっ、と霊夢は困ったようにうなり、ああ、もう、とまた声をあげた。

「お、お友達から始めましょう!」

 覚り妖怪がいるのに、精一杯、霊夢はそれだけを口にした。
 確認を求めるように空はさとりに顔を向け、主の顔が満面の笑みで頷いたことで自分も同じように赤銅の太陽みたいな笑顔を浮かべた。

「やった、さとりさま! ありがとう、霊夢!」

 ばんざい、と手を挙げてはしゃぐ空。テストでいい点数を取った子供を見る面持ちのさとりと出来の悪い教え子に悩む教師の面を見せる霊夢。その対比が面白かった。






「それじゃあ、お空。私は先に地霊殿に帰るから、いい子にしているのよ」
「え、さとりさま帰っちゃうんですか」

 すこし、心配そうな空。まだ、一人で霊夢と一緒にいるのは緊張するらしい。早速訪れた二人っきりになるチャンスだというのに。もう、こういうときは猪突猛進じゃないのね、とさとりは内心で笑う。

「ええ、こいしが調子悪いそうなの。ごめんなさいね、お空」

 申し訳なさそうに、瞳を伏せるさとり。えっ、と声を上げる空。

「こいしちゃん、体の具合が悪いの?」

 心配そうな顔。さとりは少ししまったと思いながらもそんなことをおくびにも出さず、大丈夫よ、と返した。

「大したことはないと思うから。お空は霊夢と遊んでいなさい。せっかくの機会でしょ」

それでもなお心配そうな空の顔。





と、
 ぐぅぅぅぅぅぅ〜
 


そんな地鳴りの可愛らしい版、みたいな音が鳴り響いた。

「あ、お腹なっちゃった」

 自分のへそ(らしきあばた)の辺りを押さえて空が呟く。そう言えばお空はお昼を食べていないんだった、いつもはご飯を三杯も食べる子が一食抜かせばあんな風に大きなお腹の音が鳴るわね、とさとりは涙を浮かべるほど笑う。

「あははははは、ごめんなさい霊夢。うちのペットに何か食べ物をあげてくれる? お腹が空いているみたいだから」
「そうみたいね。まぁ、丁度いいわ。おやつにしようと思っていたところだから、おあがんなさい」

 立ち上がる霊夢。空は一度だけさとりの方を向いた後、うん、と頷いて靴を脱いだ。縁側へあがる。

「それじゃあ、お空。しっかりね」
「はい、さとりさま。でも、しっかりって何をしっかりするんですか?」
「そこに巫女に聞きなさい」

 さとりの言葉にしかめっ面を浮かべてべーっと舌を出す霊夢。しっしっ、と犬でも追い払うように手を振る。

「じゃあね、霊夢。お空のことをお願いするわ」

 そう言ってさとりは地底へと帰っていった。





「えへへへ、霊夢っ」
「あーっ、もう、ひっつかないでよ。暑苦しいから」




 そんなやりとりを聞いて少しだけ顔がほころぶ。
 けれど、その顔も地上にいる間だけだ。
 地底へ下る階段へ足を踏み入れたとき、さとりの顔には少しだけ不安の色が浮かんでいた。それは地霊殿を出るとき燐が浮かべていたものと同じものだ。






『こいしさまの具合が悪いんです』






 玄関先で燐から読み取った考えだ。それと顔色の悪い妹のイメージも。
 大事はないのだと思うのだけれど、とさとりは少しだけ足を早める。

「あの子…昔から病弱だったから…ちょっと、心配ね」

 帰る道中、旧地獄街道に門を構えている闇医の所へ寄っていこう、とさとりは考えた。
















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――














へぇ、こうなってるんだ―――
―――くすぐったいよ
減るものじゃないしもう少し触らせなさいよ―――
―――う、うん。っあ♥
変な声だして。へぇ、成る程―――
―――な、何?
別に。ふむ、ここが弱点なのね―――
―――弱点って、そんなとこ攻撃されても大丈夫だよ
そう、じゃあ、試してみる? ―――
―――ふあああああっ
ほら、弱いじゃない。まぁ、でも、かわいそうだからもう止めてあげるわ―――
―――えっ…
何その声。もっとして欲しいの………? ―――
―――う、うん






「っだらぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 さとりは奇っ怪な叫び声を上げると読んでいたハードカバーの冊子を床に放り投げ、自失から飛び出た。肩を怒らせながら廊下をのしのしと進み、目当ての部屋を犯人が籠城している扉を蹴破る警察官の勢いでドアを開けた。

「ああっ、霊夢♥」
「ほらほら、これがキモチいいんでしょ」

 扉を開けた先に見えたのは一人がけの椅子に二人で座っている霊夢と空の姿だった。椅子に座った霊夢の膝の上に空が乗っているかんじ。そうして、霊夢の手は空の背中から生えている大きな翼の付け根に埋もれていた。わしゃわしゃと十指を巧みに動かして空を刺激している。
 その様を見て、叫んだ、さとりは。

「何をやっとるかぁ、貴様等ぁ!!」

 瞬間、びくりと身体を縮こませる空。

「さ、さとりさま…!?」
「チッ!」

 驚いた表情でやっと空は自分の主人の姿を認める。対して霊夢はあからさまに仏頂面を浮かべてあまつさえ舌打ちさえしてみせた。

 空の告白から数週間、今ではすっかり二人は仲の良い恋人同士といった様子でたびたびデートでかけ、機会があればこうして一緒にいるようになっていた。
 今日もお昼過ぎぐらいから霊夢が空を訪ねてやってきていたのだが…






「霊夢、貴女、私が覚り妖怪だと分かっていてそ、そ、そういう事をやっているでしょう」

 さとりが読み取る心の声というものは物理的な距離以外にもその対象の集中具合にも比例して増減する。音楽でも聴きながら料理をしている人の心の声を聞けば、献立や料理内容のこと以外に料理人が聞いている音楽の内容が混じり、料理のことに関する声はノイズ混じりの聞きにくい小さな声になる。逆に一心不乱に走る者の声を聞けばそれは大きな『早く!』『早く!』といった叫び声のようなものになる。
 自分の部屋で静かに読書をしていたさとりにとって霊夢と空、二人のやりとりは耳元でイチャつかれているも同然の事だったのだ。

 顔を赤くして止めなさい、と指を突きつけるさとり。

「止めなさいって…これを?」

 と、霊夢は、はむ、と空のぼさぼさの髪に隠れた耳を甘噛みした。

―――ひゃああああ、霊夢ぅ♥

 瞬間、サードアイ元で絶叫されたような衝撃を受けるさとり。一瞬で脳内がピンク色のハートに埋め尽くされ、その中心には生まれたままの姿の霊夢と空の姿が…

 うあぁぁぁ、と半狂乱になりながら頭上に浮かんでいるもやもやをかき消すよう素振りを見せるさとり。

「兎に角、まだ、日も高いのにそういうことをするのは止めなさい。不健全です」

 両手を握りしめてさとりは憤慨の表情をみせる。えーっ、という不満の心の声が空から聞えたが無視。物欲しそうに霊夢の方へと振り返っているがそれも無視。霊夢はというと心は読めるくせに空気は読めないのね、大体、ここは地下で日の高さなんて関係ないじゃないの、なんて辛らつな言葉が聞えてきている。
 さとりはダン、と力強く扉に拳を打ち付けると分かったかしら、と強い口調で二人に同意を求めた。異口同音にはい、と応える二人。心中と態度からはまるでその言いつけを守るつもりはないという考えが読み取れたが結局、さとりは折れて力なく空の部屋を後にしたのだった。







「まさか、あそこまで仲良くなるなんて…いえ、ここはペットの望みが叶ったことを喜ぶべきなのかしら」

 だからって、あんな…あんな破廉恥な、とさとりは顔を赤くしつつ廊下を進む。
 自分の部屋に戻ろうとしたところでまた空の可愛らしい悲鳴(心の声)を聞いて少しげんなりしたように肩を落とした。

「………もう」

 まるで盛りのついた猫のよう。猫といえばお燐にはお空の霊夢みたいな話はないのかしらと、ふとさとりは考え、そこから更にもう一人の地霊殿の住人、自分の妹の事へと想いが至った。
 あの告白の後、さとりは闇医の蛇頭にこいしを診せたのだが原因は不明だった。恐らく風邪でしょうな、と鈍色の鱗をした無免許持ちの医者は青い舌をちろちろと伸ばしながらそんな事を口にした。幾つか風邪に効く漢方と滋養強壮に効く高麗人参の入った養命酒を処方してもらったのだが…残念なことにこいしの体調は余りよくはならなかった。
 最近は寝たきりになっており食事の回数も減っている。顔を見に行く度にやつれていっている…ような気さえする。

 さとりは思案げに目を伏せると方向を変え妹の部屋の方へと歩いていった。あそこなら空の部屋からも遠く、煩わしい恋人たちの愛の語り合いも聞えないだろう。それにサードアイを閉じているこいしの心の声はさとりにも聞き取れない。ある意味、一番、地霊殿で静かな部屋はこいしの部屋なのだ。避難するついでにベッドの上の妹を元気づけてあげよう、そう思ってさとりはこいしの部屋の扉をノックした。
 少し、元気のない返事を聞いてさとりは扉を開ける。
 赤や紫、青色のハート模様の壁紙が貼られたファンシーな感じのする部屋。ぬいぐるみや玩具を敷き詰めたベッドの上にこいしは身体を横たえていた。

「こんにちは、こいし。具合は、どう?」
「あ、お姉ちゃん、こんにちは。今日は桃色太陽の気分だよ」

 そんなさとりには少し理解できない言葉を返すこいし。けれど、優しげに微笑んだ目元を見てさとりは大丈夫そうね、と安心の気持ちを浮かべた。

 椅子を一脚、引っ張り出してきてさとりはその上へ腰掛ける。

「そう。早くよくなるのよ。よくなったら…お空とお燐と四人で、地上の温泉へ入りにいきましょう」

 元気づけるようにそう楽しげな未来を提案する。
 ベッドの上の妹の姿は弱々しく、そのイメージは困難なものだったが、だからこそか、さとりははっきりとした口調でそう告げた。

「うん。私ね、てぃかうこーんするんだ」

 楽しそうにシーツの下から手を出してきてそれを広げてはしゃぐこいし。動作は弱々しく緩慢であったが、心の底から身体が良くなることを望んでいるようだった。

「そうね。温泉饅頭を食べて、お花見―――はもう遅いけれど、新緑の風景を眺めて…」
「うんうん。私はぷろぐれめたるも歌いたいな、ああ、あとどなるけばぶも食べたい」

 そんな会話が続く。椅子の上とベッドの上。場所は違うけれど、確かにこの時、姉妹は一緒だった。心の読めるさとりと心を閉じたこいし。けれど、二人の心は通じ合っていた。






「………」

 いつしか、こいしはしゃべり疲れたのか浅い眠りに入っていた。さとりは立ち上がるとシーツをかけなおしてあげ、優しくこいしの頬へ口づけしてあげた。

「早く良くなってね、こいし」

 そうして自室には帰らず椅子へ戻るように腰掛けた。静かに微笑を湛えながら妹の寝顔を愛おしげに眺める。








 思えば、姉妹らしいこと何て久しくしてこなかった。
 さとりは椅子に座ったままそう考える。
 地獄の管理人に任命されたときぐらいからか…

 罪人の亡骸を灼熱地獄の炉心にくべ、その魂を罪状に従って八熱地獄の各地へ送還する。その監査役。その仕事はとても忙しく妹になって構ってはいられなかった。そうして、ここの地獄では罪人共の魂の処理が追いつかなくなり、十王たちの取り決めで地獄が移転となり、今度は逆に廃墟と化した旧地獄の管理という閑職じみた仕事を命じられた。余りの暇さに憂いを覚え、雇い入れていた牛頭馬頭に覚りの能力を疎んじられ傷つく日々。そうして、次々と些末な理由で雇用人たちを馘首にして、動くことがなくなり、閻魔大王たちにすら存在を忘れ去られ、気がつけば自分の周りには心と体が直結しているような動物たちしかいなくなってしまった頃―――その頃だろうか、こいしがサードアイを、心を閉ざしてしまったのは。

 原因は今も分からぬまま―――あるいはさとりのようにこいしも心と体が乖離した素振りを見せるような輩が身近にいるのが耐えられなくなったからなのだろうか。そうしてそれが肉親であるさとりも同様であることをさとりよりも早く気づいてしまったからなのだろうか。




“世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら目と耳を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ”




 こいしはその両方を実行したのでは。さとりは今ではそう思うようにしている。そうして、だからこそ今では自分も同じ事を、ただし前者だけ―――自分を変えろ、それを実行しようと思った。
 きっかけは恐らく、この前の紅白/白黒襲撃事件…地上では怨霊と間欠泉の騒ぎと呼ばれているその事変のせい。あの事件を機会にさとりは数百年ぶりに心と体がてんでばらばらに動く者と出会い、そして、数百年ぶりにお日様の光りを見たのだった。

 変化する風景、心地よい風、暖かな日差し。全てこの薄暗く寒い地底にはない代物だった。変り映えのない風景だけが続く地底では決してみられぬ風景。いや、変化に乏しい地底でさえもこのところは地上から旅行客が来たり逆に自分やお空の様に地上に出たりするものが現れるようになった。お空の恋も、その一つだろう。全てが変りつつある。だとすれば、その流れに乗るのも自然な考えではないのか、この倦怠の日々、そうして、妹との他人行儀な生活にも変化をつけるべきでは。さとりはそう考える。
 空の背中を押して、こいしの面倒を見て、そうして自分も変っていくべきだろう。
 そうすれば、妹も変って、また私に心を開いてくれるかも知れない。






―――あるいはそれはもう必要ないのかも知れないけれど。





「………」

 そんなことをさとりは考えていた。なかば、夢の中で。
 いつしかこいしにつられるようにさとりもうつらうつらと船をこぎ始め、気がつけば椅子に座ったままうたた寝を始めていたのだった。
 幸せそうな寝顔。空の恋が成就して、妹ともうち解け始め、覚りの能力をそれほど疎ましいと思わない人たちに出会い、全てが目まぐるしく変っていく。その変化をさとりは心地いいものだと思っていた。







『大好きだよ。大好きだったよ、お姉ちゃん』








「んっ…こいし…?」

 そんな声を、心の声を聞いたような気がしてさとりは目を開けた。焦点の定まらない薄ぼんやりとした視界の先、うっすらと瞼を開くこいしのサードアイを目にする。

 いや、さとりの心を呼び起こしたのは確かにその幻聴じみた何かだったかも知れないが、さとりの肉体を起こしたのは、別の、聞くに耐えない、怨嗟と慟哭を呼び起こすような、音、だった。




「ゲホッゲホッ、うえっ…げっ…うぇ…ゲホゲホゴホゲホッ…ゲッ…!!」



 激しく咳き込む声。苦しそうな呼吸。胸を掻きむしる喘ぎ。そうして…

「だす…だずげで…お姉ちゃん………!」

 自分を呼ぶ妹の悲痛な叫び。

「こいしっ!?」

 一刹那で覚醒し、さとりは飛び起きる。立ち上がり、こいしのベッドに駆け寄り…その惨状を目の当たりにした。

「ッ、こいし!」

 枕の周りに置かれた人形たちを汚す吐瀉物。消化途中のお昼に食べた物、黄褐色に染まったそれに交じり…いや、むしろソレの方が比率が多い、ベッドの上は暗赤色の半液体によって染め上げられていた。

 吐血。こいしは咳き込み血を吐いているのである。
 その量はハンカチを汚す程度、などではない。まるで内臓全てが溶け出して口からあふれ出ているのではと錯覚を起こすほど咳き込む度にこいしは大量の血を吐いた。すえた腐った肉のような非道い匂い。鼻がもげるようなアンモニア臭もする。いや、この匂いは吐瀉物のソレではない。
 さとりはその時、こいしの身体から咳き込む音以外に酷い文字にするのも躊躇われるような音が出ているのに気がついた。シーツに覆われたこいしの下半身。みればそこは内側からじんわりと赤黒い何かを染み出させている。

「うっ…こいし、ごめんなさい、シーツ、めくるわね…」

 今更ながらにそんな断りを入れ、さとりは無意識的にシーツのまだ清潔を保っている部分を掴んでめくりあげた。露わになったこいしのか半身は赤黒く汚れていた。
醜悪な音と共にこいしのショーツを押し上げ、口からあふれ出る吐血のようにそれが、血便がこいしのお腹から出ていた。

「ひ―――あ、ぐ」

 言葉とも付かぬ声を漏らし、こいしは身体を硬直させる。白目を剥いてガタガタと震え、弓なりに仰け反るような体勢を取る。その顔色、いや、顔と問わず全身の肌の色は死人のそれのように青紫に染まっていた。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁこいしッ! こいしッ!!?」

 絶叫。地霊殿の窓全てを震わせるような声をあげて、さとりは自分の手が汚れるのを厭わず、こいしの身体に触れた。肩と頭をもち、妹の安否を確かめるように身体を揺する。ずるり、と指の間に絡まったこいしの癖毛が抜けた。それはこいしの髪の毛へ絡まっていた抜け毛が偶然、さとりの指に絡みついたのではない。さとりの指に絡みついた髪の毛全てが毛根からすべて抜けたのだ、なんの抵抗もなく。

「なん…なのよ…ああっ、もう」

 吐瀉物に汚れた左手/痛んだ癖毛が絡みついた右手を眺め、わなわなとさとりは震えた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 訳も分からず、慟哭をあげる。半狂乱になって自分の頭を掻きむしり、頭を荒波に攫われたように振りしだく。

「っ! やめなさい、さとり!」

 それを止めたのは霊夢だった。
 さとりの悲鳴を聞いて駆けつけたのだろう。後ろには空の姿もある。

「こいしちゃん…!! っ、霊夢、どうしよう、こいしちゃんが…こいしちゃんが…!」
「アンタまで狼狽えないで…ああもう、暴れるな!」

 さとりの両腕を押さえながら霊夢は顔を青ざめさせる空に一喝する。それで空は少しだけ我を取り戻した。

「っああ、もう、クソ。さとり、後で一発殴り返させてあげるから…ごめんね!」

 腕の中で暴れるさとりの首筋に霊夢は手刀を一閃させる。あ、と短い悲鳴をあげてさとりは糸が切れた人形のように霊夢の腕の中へ倒れた。

「空、あんたはあの猫を呼んできて。で、二人でさとりの妹の面倒を見てて。さとりのことは取り敢ず、放って置いていいから。私は医者を呼んでくるから! わかった!?」

 わかった、と空が頷くと同時にさとりの身体をその場に横たえさせ、霊夢は走り出した。一路、竹林の永琳の所へ。








 けれど―――ああ、畜生。
 それは間に合わなかった。















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――














「ひぐっ、えぐっ、ううっ、こいしちゃん、こいしちゃん…」

 霊夢の腕の中で嗚咽を漏らす空。目を赤く腫らし、鼻を啜り、涙や鼻水で霊夢の巫女服を汚している。けれど、霊夢は何も言わない。空を胸に抱いたまま、優しく、その震える身体に腕を回し静かに、ただ黙ってあるがままにしていた。

「うぐっ、霊夢ぅ…こいしちゃん…こいしちゃんが…」

 顔を上げて涙の溜まった視線をなげかける空。霊夢は言葉を返さず、ただ、黙って空の頭を支えるとその唇に自分のそれを静かに重ね合わせた。
 空は一瞬、驚いたように目を見開いたが、そのまま霊夢の首に自分の腕を回して唇を重ね合わせつつ涙を流した。流し続けた。







「……………お空は、大丈夫そうね」

 その様子を見てさとりは静かに、二人に気づかれることないように空の部屋の前を後にした。
 あれから意識を取り戻したさとりは、同時に落ち着きも取り戻し、燐や空と一緒に必死にこいしの看病をした。けれど、素人手で何が出来るものか、霊夢に連れられ八意医師が地霊殿に到着したことにはもう、こいしの身体は冷たくなり始めていた。

 もっと早くに私が気づいていれば、とさとりは自分をなじったが、永琳は頭を振るい、仮に私が霊夢と同じぐらい早くにこいしさんの所へやってこれたとしても、私に出来たのはせめてこいしさんがこれ以上、苦しまないよう、モルヒネを打つか安楽死させてあげるか、それぐらいしかできなかった、と諭した。
 そうして、余りに凄惨な最期を遂げたこいしの亡骸を永琳は一旦、原因を調べるために預かり、あの子が帰ってきたのは一昨日。それからさとりたちは大急ぎでお葬式をあげ、荼毘に付しこいしを葬ってあげたのだ。式は霊夢などさとりたちの知り合いも多く手伝ってくれ、参列者も魔理沙や山の上の神など大勢訪れた。これも変化の一つなのかな、とさとりは嘆き悲しんでいる子心とは別の部分でそう思った。以前なら仮に自分が死んだとしても身内以外、誰も式には参列しないと思うからだ。そういう意味ではこいしは少しだけましな時期に亡くなったと言える。

「馬鹿、死ぬのにマシな時期なんてあるわけないじゃない…」

 ひとりごちてさとりはお空の部屋から歩き、ペットたちの居住区になっていた館の最上階、燐の部屋へとやってきた。
 空は霊夢に慰められていた。今は泣きじゃくっているけれどきっと立ち直れるだろう。確信するようにさとりはそう思った。自分は、どうだろう。余りに急な出来事に未だに心は混乱しているが、どこか妹の死に納得している部分がある、そうさとりは考える。思えばあの子は昔から病弱な子供だった。よく高熱を出したし、変な物を食べて蕁麻疹を起こすなんてしょっちゅう。だからこそ、ある意味、さとりは心構えが出来ていたのかも知れない。身体の弱い妹≒死に近い妹。そんな図式。きっと、事態を把握して自分はあとで涙を流すだろうけど、心が砕けるほどじゃない、そう思う。薄情なのだろうかと、少し自嘲げに思うけれど、ならばこそ自分のペットたち…残った家族の事を心配してあげなくては、そうさとりは考えた。



 お空は大丈夫だった。じゃあ、お燐は?
 さとりは燐の部屋の扉をノックする。

「お燐、入るわよ」

 ドアを開けるとベッドに腰掛けていた燐がはい、と返事した。
 後ろ手に何かを隠しながら。

「……お燐」

 不安げな声色で大切な家族の名前を呼ぶ。動揺は隠せない。そうして、それは燐にも伝わっていた。

「あ、あのさとり様っ、その…最近、抜け毛が酷くってですね。へへっ」

 心が読めなくても作り笑いと分かるそれを浮かべて、背中に隠していたものをおずおずとさとりに差し出す燐。それは鼈甲の櫛だった。螺鈿の飾りが入れられた綺麗なもの。歯が一本だけ欠けているが、いっそ、その不完全さが可愛らしくさえ思える調和の取れたデザインそしていた。けれど、それをさとりは訝しげな視線で眺める。



 なぜならばその二十余りの歯の隙間にはびっしりと、

「えへへへ、さ、最近、抜け毛が多くってっ」

 燐の赤毛が絡まっていたからだ。



 さとりの頭の中にイメージが甦ってくる。泣き叫び、嘔吐する妹。駆け寄る自分。頭に触れた指に絡みつき、ずるりと苦もなく抜け落ちる翡翠の髪の毛。それが燐の紅玉の髪の毛へと変異する。そのイメージ。

「お燐…」

 言葉なく櫛と燐の顔を交互に見つめるさとり。燐は照れた笑顔を無理矢理作って、いそいそと櫛に絡まった髪の毛をゴミ箱へと棄てる。

「あはははっ、きっ、きっと季節外れの抜け毛の季節ですよっ。ほら、毎年あたいとお空の抜け毛で掃除が大変になっちゃうじゃないですかっ」

 懐かしむような顔をして、お空なんか髪の毛長いですからもう、ベッドの上から廊下の隅っこ、冷蔵庫の中なんかに落ちてたりしますもんねっ、と言葉を続ける。内心で、そんなはずはない、と不安を抱えているにも関わらず。

「そ、そうだっ。さとり様、お空は…お空は大丈夫なんでしょうか?」

 と、燐は話題を変えに入った。抜け毛の話から自分の親友へと思考が移ったからである。

「あの子、感情的ですから…その…こいし様のこと、とても気に病んでいませんか」

 それは抜け落ちた大量の髪の毛のことから気を逸らすためのとっさの話題ではなかった。燐の心配そうな面持ち。燐は本当に空のことを心配して、そう、さとりに訪ねたのだ。

「…大丈夫よ、お燐。お空は霊夢が慰めてくれているわ」

 そっとさとりは燐の頭を抱える。自分の胸に燐の顔を埋めさせ、優しく、その紅玉の髪を撫でてあげる。

「だから、お燐。貴女も泣きたくなったら私の胸を借りなさい」

 ううっ、と声を上げる燐。堪えようとこめかみに力を入れるがもう駄目だ。頭の中、記憶の中、薄く笑う翡翠の髪をした女の子の姿が甦ってくる。もう、見ることの出来ない女の子の姿が。

「こいし様…っ、こいし様っ………」

 堰を切ってあふれ出す涙。目頭に溜まった雨より悲しい滴は頬を伝わり、さとりの服の上へ流れ落ちる。嗚咽を漏らして、燐はさとりの服を握りしめて涙を流す。死んでしまったあの子の為に。その辛い別れを冷ますように。

「お燐…っ」

 さとりも燐の頭を強く抱きしめ、静かに自分も涙を流す。燐を見つめるサードアイも綺麗な滴を一つ、作っていた。

 今は悲しみが体中に満ちている。まるで冬の間に山に降り積もった雪のように。それを涙として、溶かし、流してしまうまで彼女たちは悲しみに明け暮れることだろう。心の春の訪れを待つために、二人は涙を流した。






「明日…一緒に、永琳先生の所へ行きましょう」












 けれど、かの名医、永琳でさえもそれは匙を投げるしかない謎の病状だった。
 脱毛以外にも全身を襲う気怠い感覚。体力、食欲の低下。微熱、風邪に似た症状。初期はその程度だったが日が経つにつれ、燐は酷い頭痛や目眩、腹痛に襲われ、下痢、嘔吐を繰り返し、関節の痛みを訴えた。
 その様子を見てもさとりは不安に苛まされることはあれど、驚愕に襲われることはなかった。
 どれも、あの時のこいしと同じ病状だったからだ。
 ならば結末は―――さとりは頭を振るってそんなことはない、そうはさせまいと主従が逆転したように燐の面倒を看た。

 そして、それは燐の親友、空においても同じ事だった。
 空はさとりほど燐の身体を労ることは出来なかったが、今日はこんな事があったよ、明日はあんな事をしようと思う、と燐の心を励ますよう、毎日、訪れ楽しそうに話しかけた。
 永琳も医師の名誉にかけて何度も足を運んで燐の身体を検診し、何本もの注射や幾つもの内服薬を与え、その無限に等しい知識の限りを尽して燐を救おうとした。
 霊夢も微力ながら健康祈願のお守りをプレゼントしたり、病魔を打ち払う祈祷を行った。






 ああ、けれど、無情なるかな。
 四人の努力にもかかわらず、燐の身体は一向に良くなる気配を見せなかった。
 日に日にやせ衰えていく身体。自慢だった赤毛も色あせ、お手入れを欠かさなかった肌は砂漠のように荒れ果てていく。瞳の輝きは失われ、そうして、椿のような笑顔が消えてしまった―――













―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――













「―――――――――」

 博麗神社の裏手。幻想郷と外の世界の境目へ向いている縁側。そこに空は腰掛けたまま、俯いてじっとしていた。
 何をするでもない。いや、何もする気になれないといった様子。小さく唇を開けて、ぼうっと踏み石の上で歩き回っている蟻の姿を見ていた。いや、それさえも見ていなかった。

「なに―――ぼうっとしてるのよ」

 と、その空に後ろからかけられる声。霊夢だ。手にはお盆、湯気が立つ湯飲みを二つとあえて奇数にしてある最中が載せられている。

「あ、霊夢…」

 霊夢はかがみこみ湯飲みと最中の入ったお皿を縁側の板間の上に置くと自分も空の隣へ腰を下ろした。
 どうぞ、と言ってずずっとお茶を啜る。

「霊夢…お燐、元気にならないね」

 そう、自身も元気のなさそうな声で空は呟いた。お茶には手をつけない。

「そうね」

 お茶を啜って最中を食べる。

「あんなにみんな頑張ってるのに…さとりさまも永琳せんせーも霊夢も…」

 俯いたまま、絞り出すように、染み出すように少しだけ言葉を続ける。

「貴女もね」

 短い言葉。最中を食べきり、お茶を飲干して、ふぅとため息をつく。視線は前を向いたまま。

「あの、私…私、どうしても考えちゃうんだ。私が馬鹿だからなのかな。お燐がこいしちゃんみたいに―――」

 亀裂が走る。心という名前の堤防に。これまで何度も決壊してきた堤防。その度に作りなおし、また心を蓄えてきた。けれど、それが出来るのはいつまでだろう? いつまでそこに水は流れ込んでくるのだろう? やがて訪れるのはひび割れた泥と乾いた魚の死骸が広がる水無の湖。また、心を摩耗させる嗚咽を漏らそうとして、






「―――鳥頭」






 ぱしん、と頭がはたかれる。




「霊夢…?」

 いつの間にか霊夢は庭に出ていた。表情は呆れている様子。今し方、空の頭を叩いたばかりの手を拭うように払いあわせ、露骨にため息をついた。

「早くそれ、食べなさいよ。今から山に入らなきゃならないのに、空腹のままじゃ遭難したときに真っ先に死ぬことになるわよ」
「え―――?」

 疑問符。霊夢の頭の回転に空は追いつけない。

「それってどういう…」
「魔理沙とかパチュリーに身体にいい薬草とか茸の話を聞いてきたから、今からそれを穫りに行くっていう話よ」

 そう言って霊夢は一冊の本を取り出す。紅魔館の大図書室から借りてきた薬草学の本だ。間には魔理沙編集の菌糸類のメモが挟まれている。後は籠と、せいぜい軍手でも用意すれば準備は万全だった。

「お燐に―――栄養がついて美味しいものを作ってあげましょう」
「う、うん!」

 力強く頷くと空は片手でお皿に残っていた最中を全部ひっつかみ、纏めて口の中に入れた。当然のようにむせる。呆れながらも霊夢はお茶を渡して、空の頬に少しだけ残っていた涙の痕を拭ってあげた。















「お燐、はいるよ〜」

 それから山で薬草や茸、山菜の類を沢山穫ってきた二人は地霊殿の厨房を借りて薬膳がゆを作った。ヨモギやハコベラ、それに霊夢秘蔵の干物を入れたお粥は湯気を立たせとても美味しそうだった。
 お盆にそれと永琳の作ったお薬を乗せて空は燐の部屋の扉をノックした。

「開いてるわ」

 しわがれた素っ気ない返事。最近、燐はそんな調子だった。殆ど笑顔を浮かべなくなり、口数も少なくなり、時折、苦しそうに独りで泣いているのを空は見かけた。そんな燐を見るのが空はとても嫌だった。空の中で燐とは天真爛漫でブラックジョークが得意でさとりとは違ったお姉さん肌をみせる火車の娘。そういうイメージだった。ベッドの上で苛立ちを隠そうともせず眉を顰めたまま疼く様な痛みに耐えて必要なこと以外喋らないお燐なんてお燐じゃない、空はそう考える。そして、少しでも昔の燐に戻ってくれればと、期待を抱いてお粥を作ってきたのだ。

「はいっ、お燐。今日のご飯。霊夢とね、一緒にね、お粥作ってきたんだ。山菜とか茸とか一杯入った身体にいいお粥だよ」
「…そう」

 一旦、テーブルの上にお粥を置いて、燐が身体を起こすのを手伝う空。燐は礼も言わず、されるがままだった。

「はい、温かい内に食べてね」

 燐の膝の上へお粥の載ったお盆を乗せる空。燐は朱塗りの杓子を手に黙々とお粥を口に運ぶ。

「美味しい?」

 笑顔で空が問いかける。返事は―――






「なによ、コレ」






 そんな固く冷たい物だった。

「…え?」

 予定していなかった言葉に一瞬、空の頭は真っ白になる。

「コレよ、コレ。あんた、あたいに…こんな物を食べさせようとしたの」

 すっと杓子を付きだしてくる燐。半ば溶けたご飯粒や短く刻んだ薬草の中に一匹、小さな羽虫の死骸が浮かんでいた。

「あんた、自分が鳥だからって、あたいに虫なんて食べさせようと思ったの…」

 視線を空に向けることなくそう低く、呪うような声を投げかける燐。えっ、えっ、と空は狼狽える。
 山から穫ってきたものをそのまま料理に使う以上、異物の混入は避けられない事だった。いや、丁寧に洗えばその可能性はぐんと低くできるのだろうけれど、食事の時間が押していたこと、それに余り必要以上に洗いすぎると薬草の効能が薄れると言った理由から空は完全に綺麗になるように料理しなかったのだ。もちろん、こんな羽虫の一匹、喩え病人であろうと口にしたところで健康には何の害もなく、気がついたなら避ければいいだけのことだったのだが…燐にはソレがとても気に障る出来事だったようだ。

「大体…あたいがこんなに苦しんでるのに彼女とイチャついてばかりで…ああ、どうせあたいをダシに山菜採りなんて言うデートに出掛けたんでしょ、そうでしょ!」

 燐は歯を食いしばり、憎悪を滾らせた言葉を濁流のように言い放つ。空が狼狽えながらも違う違うよ、と言うがまるで聞く耳は持たないようだ。

「どうせ、虫を入れたのもわざとでしょ。あたいの面倒を見るのが嫌になって嫌がらせのつもりで入れたんでしょ。さとり様がいない時を見計らって…ああ、畜生、どうせさとり様もあたいと一緒の家にいるのが嫌で外に遊びに行ってるに違いない! みんな…みんな、あたいが死ねばいいと思ってるんだ!!」

 血のような涙を流し、燐は吠える。目に見えるもの、聞こえるもの、自分自身でさえも憎悪するように。荒く息をついて、軋み痛みをあげる節々に顔を歪めている。

「違う、違うよ! そんなこと思ってないよ、お燐! 絶対に! 私は、私たちはお燐に早く良くなって欲しいから…!」
「なるわけないじゃない! どうせ、私はこいし様と同じ風に苦しんで死んじゃうんだ!」
「違う…!」

 頭を振るって半狂乱になる燐を止めようと空は手を伸ばす。けれど、その腕は手痛く払われ、そうして、

「やめてよ! 同情なんて!!」

 悲痛な叫びと共に燐は膝の上に乗っていたお盆を空めがけて投げつけた。器からあふれ出る熱い粥。それは円弧を描いて、近づいていた空の身体にべちゃりと降りかかる。

「熱っ!!?」

 悲鳴と破砕音。床の上へ器とお盆が落ちるのと同時に空は倒れた。

「あ―――」

 赤くなった肌。汚れた服。苦悶に眉を顰める親友の顔。その悲惨な様を見て燐は凍りついた。

「非道いよ…お燐…」

 非難するような空の瞳。それと呆然とするお燐の視線が絡み合う。






「おく…」
「うわぁぁぁぁぁぁん!」

そうして、空は立ち上がると一目散に逃げ出した。ぽたぽたとお粥を滴らせながら、火傷した腕を押さえて。

「まっ、待って、お空。ごめんなさい、あたい…なんて事をっ…」

 追いすがるように腕を伸ばす燐。けれど、病に冒された身体はぎこちなくしか動けない。燐が手を伸ばしたとき、既に空は背中の大きな羽を廊下から覗かせているだけだった。それも一瞬、泣声と一緒に走り去る音が遠くなっていく。

「お空! お空! ああっ、あたいの…馬鹿ッ!」

 布団から這うように出て、よろよろとふらつきながら燐は空の後を追いかけようとする。割れた器の破片や未だに温かいお粥を踏みつけてしまう。それでも、生まれたての子鹿のようなか弱い足取りで燐は進んだ。自分の愚かな行動を罰するように、修験者の足取りで。或いはゴルゴダの丘へ登る罪人の足取りで。

「っう―――」

 その足がふらつき、倒れる。久方ぶりに布団から出て歩いたから、病のせいで体力が低下していたから、そういう理由ではなかった。

「キモチ…悪い…」

 視界を歪ませるほどの嫌悪感。五寸釘を頭蓋に打ち付けたような痛み。ただの数歩、歩いただけなのに両方の足は痺れはてていた。そうして…

「あれ…指…?」

 自分の手のひらを見る燐。その内の第五指、小指が倒れたときに床に突いたのだろう。あらぬ方向へ曲がっていた。だというのに…



「痛く…ない…?」



 指は何の痛みも感じていなかった。そういえば、陶器の破片を踏んづけて熱いお粥に浸したはずの足の裏も何も感じていない。ナニコレ、と燐は震える。まるで、痛みを感じる神経が途中で途切れてしまったみたいだ。

「あ、あ、あ…」

 あり得ない身体の異常に震える燐。
 また、視界が歪む。今度は堪えきれない嘔吐感に襲われた。
 ゴミ箱に、そんな選択肢も思い浮かべる間もなく燐はその場で盛大に嘔吐した。出てきたものは胃液ばかりで先ほど食べた僅かばかりの粥が殆どそのままの姿で戻ってきた。続けて、二度三度と燐は咳き込む。そして、吐瀉物の上に、赤黒い腐った血を絡ませた痰を吐いた。

「うあぁ…」

 非道い臭気。鼻が曲がりそうになる。それが…自分の中から出てきた。しかも、この匂いを嗅ぐのは二度目である。一度目は…あの凄惨たる様を見せていたこいしの亡骸。目を見開き、餓鬼もかくやという形相のまま果てたあの可愛らしかった覚り妖怪の妹と自分の姿が重なる。
 嫌だ、と涙を流しながら燐は頭を振るった。
 親友を傷つけてしまった自己嫌悪/悶絶するような非道い死に様に対する恐怖/自分の身体が病魔に冒されているという嫌悪。様々な負の感情がうねるように混ざり合い、あっというまに燐の心は漆黒に染まっていく。ヘドロやタール、腐った経血のような強い粘度と臭気を持った絶望という名前の汚濁。それが心に満ちる。

「いや…いやぁぁぁぁぁ」

 掻きむしるように腕が頭へと伸びる。ごわついた髪の間に滑り込ませた指が何かを絡め取る。






「あ、ああっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」



 それは自慢の赤毛だった。赤毛だったものだった。














「熱耐性があって良かったわね」

 ぐずる空を宥めながら軽度の火傷を負った身体を優しく霊夢は拭いていた。あらかた綺麗にしたところで、軟膏を塗ってあげる。その頃にはもう、空は落ち着いていたようだった。
 あの後、廊下で泣きじゃくる空を見つけた霊夢は怒りの炎を瞳に湛えながらも、火傷を負った空を部屋まで引っ張っていった。

 勝手知ったる他人の家で、霊夢は空に上着を脱いでおくように言うとすぐに火傷用の軟膏と綺麗な布巾をもって戻ってきた。後は冒頭の通り、泣きじゃくる空をあやしながら、身体を綺麗にしてあげ、火傷の治療をしてあげていたのである。
 その時には断片的な空の嗚咽混じりの言葉からどうしてこうなってしまったのかを霊夢は覚っていた。

「よし、もう大丈夫ね」

 むき出しの空の肩に口づけして、霊夢は励ますように微笑んだ。ありがとう、とたわわな胸を無理矢理スポーツブラに収めている空が頷く。

「じゃあ、空はちょっとここで待ってなさい」

 そう言いつけて霊夢は部屋を出ようとする。新しい上着を羽織りながら、空がどこに行くの、と心配そうに問いかけてくる。

「…トイレよ」
「霊夢、幾ら私が馬鹿だからってそんなすぐ分かる嘘をつかないでよ…お燐、の所でしょ。私も…私も行くよ」

 振り返ることなくさらりと言った言葉をすぐに嘘だと空は読む。理論的な導きではなく、深い付き合いをしているからこその経験則だった。霊夢はため息をついて立ち止まり、分かったわ、と不満げに言葉を返した。



 霊夢の後ろを付いていく空の足取りは重い。十三階段を上る死刑囚のよう。きっと、お燐は気に病んでいるに違いない、…そう考えると足取りが重くなるのも当然だ。自分は本当にせっかく作ったお粥をひっくり返されたこともその所為で火傷したことも気にはしていないが、恐らくお燐はその事を非道く気に病んでいるだろう。

 きっと、間が悪かっただけ。今の内に階段を上る空は考える。どうやって燐を慰めるのかを。
 虫の居所が悪かったんだ。それは私の所為でもお燐のせいでもない。強いて言うなら病気のせい。それだけ。
 自分の中で考えを纏める。
 だから、昔のように、私と一緒に笑って…
 切に、そう願いながら、霊夢が開ける扉のノブを凝視していた。

「あれ…いない?」

 疑問符。部屋を見渡して霊夢は訝しげに眉を潜める。
 乱れた布団。床を汚す冷えたお粥。陶器の破片。それに、すえた匂いを放つ吐瀉物。燐の部屋で目につくものと言えばそれだけ。後は箪笥や机、そんなものが目に入るが当の部屋の主の姿は見あたらない。
 隠れるような場所なんてないのに、何処かに行ったのか、と視線を彷徨わせ霊夢は窓に面する位置に備え付けられた机の上に血痕と陶器の欠片、お粥の汚れを認めた。

「………まさか」

 窓は開いていてカーテンが風に揺れていた。後ろでは空がどこに行ったんだろう、お燐、とクローゼットを開けたりしている。霊夢は空を置いておいて窓際に寄り、下を確かめて一瞬だけ顔をしかめた。

「霊夢、お燐、そこにいるの―――?」
「いないわ」

 空の言葉に即答する。固い、有無をいわさない声。

「どうやら、トイレにでも行ったみたいね。仕方ないから、部屋に戻りましょ。あ、そろそろお腹が空いてきたから私たちもご飯にしましょうか。兎に角―――」
「霊夢、お燐、そこにいるの―――?」

 同じ言葉で霊夢の台詞を遮る空。けれど、それは先ほどのものより確信に満ちていた。

「だから、いないって―――」
「嘘。ああ、お燐、雨樋の上に隠れて私を脅かすつもりなんだ。で、霊夢に見つけられたから、私を脅かすタイミングを失敗しちゃって出るに出れないんだ。そうでしょ。そうなんでしょ、霊夢、お燐」
「違うわ。だから、一旦、部屋に戻って…」

 窓際へ近づこうとする空の身体を押さえる霊夢。けれど、体格はがぜん空の方がいい。空が力を出せば素の体力だけで霊夢が空を止めれるわけがないのだ。

「霊夢、どいて。私が…逆に、お燐を脅かしてやるんだから…」
「空、止めて…お願いだから、止めなさい。窓の外を…見ないで…お願いだから…」

 必死の抵抗。けれど、空しく、盲目的な空は霊夢の制止も聞かず、窓の外、地面の方を見てしまった。






「あ、お燐…」






 石榴のように頭を咲かせた/裂かせた空の親友の姿がそこにあった。





 あ、と不意に電池が切れた玩具のように力を失い、引きとめるために引っ張っていた霊夢の力に負け、一緒に倒れてしまう空。

 その時、一陣の風が窓から吹き込み、机の上に置いてあった一枚の便箋を宙に浮かせた。
 ひらひらと木の葉舞をみせて、偶然にも空の傍らに落ちる便箋。
 そこには急いで書いたような拙い文字で空とさとり、二人に宛てた言葉が描かれていた。







『ごめんなさい』





 燐の遺書だった。















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











「お燐のいた…お燐は、そこの空の隣の部屋へ運んでおいたから」
「そう…ありがとう」

 中庭の一角、そこに霊夢とさとりと永琳は三人、顔を付き合わせて立っていた。すぐ側、中庭のハーブ園へ至る道になっている石畳の上にはペンキをブチ撒けたような紅が広がり、地面へ吸い込まれていた。
 さとりはその紅を一瞥し、悲痛な面持ちをして小さく頭を振るった。

「霊夢、お空は…?」
「お燐のところにいるわ。多分…泣いてる」
「そう…」

 まだ泣けるお空が羨ましいと、さとりは少しだけ思った。
 自分はもう駄目なのかもしれない。妹に続き、最愛のペットまで死んでしまったというのに何故か涙が出てこない。心を満たしているのはもう許してくださいという諦念と真逆の疑念から生まれた憤怒だ。どちらも非業な運命に対して髪ならざるこの身が覚える感情だ。
 さとりは力なく、ただ、呆然と庭の景色を眺めていた。

 と、

「さとりさん、お燐さんのご遺体なのだけれども…」

 石畳に広がる血のすぐ側にしゃがみ込んでその辺りを調べていた永琳が問いかける。燐の薬を貰いに永遠亭へ赴いたさとりと一緒に、ついでに検診をしましょうとついて帰ってきたのだ。

「死因は脳挫傷と頭蓋骨の陥没…とうのは分かるのだけれども、こいしさんやお燐さんの身体を蝕んでいた病気のことをもっとよく調べてみたいの。こいしさんの時のように。ご提供、戴けないかしら」

 さとりに歩み寄ってそう説明する永琳。目には知的な光りと謎の病魔に対する憤りの炎が見える。根っからの医者らしい永琳の言葉だった。

 けれど、さとりは小さく頭を振るい、ごめんなさい、先生、と応えた。

「先生のいいたいことは分かります。あんな酷い病気ですもの。もし、他の誰かが同じ病を患ったときのためになんとしても今の内に治療のとっかかり、せめて、原因ぐらいは突き止めたい、と、そうお考えなのでしょう」

 ええ、と永琳は頷く。

「でも…でも、先生。それはあの子の身体を切り開いて腑やなんやらを調べる、ということなんですよね。こいしの…妹のように」

 すこし上がり気味の語尾。確認を求める言葉にしては感情が隠しきれていないようなそんな感覚。あ、と永琳は自分の失態を恥じた。

「さとりさん…」

 謝ろうと声をかけるがさとりの言葉は止まらなかった。

「あの子は…あの子は包帯を幾重にも巻いてこの家に帰ってきたんですよ。いえ、亡くなったときも非道い有様でしたけれど、身体を綺麗にしてあげれば、せめて棺に入れるときぐらいは綺麗なままの身体で弔えたはずです。それを…それをお燐にもしろというのは…あまりに、酷じゃありませんか、先生…」

 気がつくとさとりは涙を流していた。俯いて、嗚咽を漏らし、指が白くなるほど強く握り拳を作って、小さく震えている。石畳の上に涙の雫がこぼれ落ちた。石畳の上に広がる紅と透明。そのどちらもが嘆きの現れだった。

「………………」

 永琳は涙を流すさとりに声をかけることが出来ずに、ただ、沈痛な面持ちでたたずんでいた。
医者として失格ね、と自嘲げに内心で笑う。患者以外にも患者の家族の心をケアするのも医者の役目だというのに。長く生きすぎているせいか、病気や怪我の治療をクリアすべきゲームのように思うようになってしまっていたようだ。永琳はこの沈黙を自分への罰と考え、堪え忍んだ。
それから暫く、木枯らしが吹く地霊殿の中庭にはさとりの泣声だけが谺していた。






「……ごほっ、ごほっ」






 そこへ歪な音が混じる。目を伏せていた永琳の眉尻が上がる。

「さとりさん…?」

 声をかける。返事はすすり泣きに交じる咳き込む声だった。
 永琳はさとりに駆け寄ると介抱するよう、背中をさすってあげた。泣いているせいで、唾液を飲み込むタイミングを間違えたのだろうか。さとりは口を押さえ、更に二度三度、咳き込んだ。違う種類の涙が出てくる。

「………っ」

 泣くのをやめるさとり。替わりに、その顔には

「さとりさん?」

 絶望が浮かんでいた。
 口元から離した手には血の飛沫が付いていたからである。

「そんな…」

 さしもの永琳もこれには言葉を失った。ある種、予想できていたことだったのだが、無意識的にか、いや、永琳は意図的にその可能性を無視していたのだ。






 地霊殿の主、さとりもこいしや燐と同じ病を患っている。






 愕然と、永琳は動揺を堪えるために自分の口元を押さえた。

「ううっ…」

 気分悪そうにその場にかがみ込んでしまうさとり。はっと、その力ない動作で永琳は我を取り戻した。取り敢ず、家の中に入れないと…そう考え、手助けしてくれる人の姿を探す。

「霊夢、さとりさんが…っ、霊夢?」
「なによ………」

 元気のない言葉。非道く悪い顔色。霊夢は壁に手を着いて荒い息を繰り返していた。
 ここにもう一人、謎の病魔に身体を蝕まれている人物がいたのだ。














「………」

 四角いちゃぶ台の上の広げたプリントを一つ眺めてはため息をつき、一つ眺めてはうなり声を上げる、そういうことを永琳は永遠亭にある自室で繰り返していた。

「霊夢もさとりさんも白血球の量が異常に少なくなってきている。白血病―――? それにしても原因が…」

 地霊殿の井戸水は正常なものだった。さとりに断って採取した地霊殿の床板や廊下の隅に溜まった埃にも強力な毒物などは検出されていない。通常、地霊殿の住人たちが食べる食材にも問題はなかった。といううか、地霊殿で仕入れている食材は旧地獄街道で販売されている一般的な物だ。今のところ、地霊殿以外であの病が発生したという話は耳にしていない。では、いったい、この医者が匙を投げたくなるような酷い症状は―――
 その思考のループを繰り返し、永琳は常人ではとても観測が及ばない速度でああでもない、こうでもないと脳内議論を戦わせていた。けれど、結果は見えてこない。あの非道い症例は毒物による物だと、大方のあたりはつけているのだけれど… 今、永遠亭にある分析装置の精度の低さが悔やまれる。月にある最新の物ならばものの五分で毒物の種類の判別どころか解毒剤まで作ってくれるというのに。そう無い物ねだりをし始める永琳。

「師匠、お茶が入りましたよ」

 そこへ襖の向こうから声がかけられた。はい、と永琳が返事すると襖が静かに開けられ、弟子の鈴仙がお盆を手に部屋の中へと入ってきた。

「私が言うのもアレですけど、根を詰めすぎてはッてぇぇぇうぇ!?」

 ちゃぶ台の上に湯飲みを置こうとして奇っ怪な声を上げる鈴仙。机の上に広げられていた資料は大半は文章や化学式、グラフや表が書かれたプリントだったが、ソレに埋もれるように何枚か鮮明な色遣いの写真が参れ込んでいた。映し出されていたのは壊疽し黒ずんだ色を診せる腑の類だった。

 永琳の手伝いで、手術に携わることもある鈴仙でさえも思わず目を背けたくなるような凄惨な写真。それはこいしの亡骸を検死したときに永琳が収めておいた写真だった。

「ど、どど、ど、ど、どうぞ」

 明後日の方を向いたまま湯飲みをちゃぶ台の上に置こうとする鈴仙。その下にプリントが引いてあることを見つけ、あわてて永琳は大事な資料をどける。ついでにグロテスクな写真も。

「ありがとう。でも、鈴仙。医者がそんなことでどうするの。医者が気持ち悪がってちゃ、傷口の消毒もできないでしょうに」
「いやぁ、そうですけれど、やっぱり私、血とかそういうのは苦手で…」

 面目なさそうに頭を押さえる鈴仙。

「あの、地霊殿で流行ってる病気の資料ですか、それ」
「え、ええ」

 鈴仙が持ってきたお茶を啜りつつも新しい資料を手に、仔細に眺める永琳。食事中に新聞を読む薪割りの親爺のような感じだった。

「拝見させてもらってもいいですか?」

 てもちぶたさになり、鈴仙も永琳の返事を待ってからちゃぶ台の上の資料をとる。上から難しい専門用語の数々を何とか思い出しながら読んでいく。

「白血球の著しい減少。激しい脱毛。程度の火傷のような紅斑、希に水疱が発生する。初期は風邪に似た症状、それから著しい体力の低下を経て、最終的に内臓が壊死、血を伴った嘔吐、下痢を繰り返し、死に至る。うわぁ、最悪の病気ですね、これは…」

 ただの言葉の羅列でさえも目を背けたくなるような単語ばかりだった。鈴仙は顔をしかめつつ、永琳に問いかける。

「致死率は…?」
「今のところ100%よ」

 素っ気なく応える永琳。

「絶対って。師匠のお話だと、火車の…ええっとお燐さんでしたっけ。お燐さんは自殺だったのでは?」
「………言いたくはないけれど、あの子も恐らく、あのまま行けばこいしさんと同じ運命を辿っていたわ」

 最後の検診ではこの先、燐が生き残るのは神懸った奇蹟が必要だと、永琳は診断していた。そうして、今のままではさとりも霊夢も、同じ運命を辿る可能性が―――高い。なんとかしなければ、と永琳は決意を更に固める。






「でも、この資料と同じ内容、どこかでみた事あるんですよね…」

 プリントをめくり、次の資料に目を通し始めた所でぼそり、と鈴仙はそんなことを呟いた。なんだっけな、と言う独白が、

「何ですって、鈴仙!」

 永琳の叫び声に消される。ちゃぶ台から身を乗り出し、鈴仙に詰め寄る。

「わっ、師匠、なんですか一体!?」
「いいから、思い出しなさい! どこで、いったい、いつ、この病気と同じような症状を見たの!?」

 大声を上げる永琳に対して鈴仙は狼狽えるしかなかった。第一、そんな詰め寄られては思い出せるものも出せなくなってしまうではないか、と抗議するような視線を向ける。

「ああっ、今、私は人生で初めて他人の知識をあてにしようとしているところなのよ!」

 けれど、殴りかからんような勢いの永琳に気圧され、鈴仙は後ずさるような素振りを見せてしまった。恐怖の感情を抱く。まるで、月にいた頃、外の世界の人間が月に攻め込んできたときのような…

「あ…、そうだ。月だ、師匠、私、月で同じような資料を見たんでよ」
「月で…? けれど、私は」

 月の科学技術の資料なら全て頭に入っている、と永琳。何故ならその資料そのものを作ったのは他ならぬ永琳だったからだ。

「はい、ですから、私が月から…その、出て行く少し前です。確か…そうですよ。地上の民と戦争することになって、敵の戦力を調べるために偵察部隊が持ち帰った外の世界の人間の兵器の資料の中で見つけたんです」
「BC兵器? 確かに、地上の民はこと、生物学においてはある種、月の科学力を大きく上回っているけれど…」

 それでも自分が検出できないウイルスや細菌、それに毒物なんてものが有り得るのだろうか、と永琳は眉を顰め…そうして、自分がまったく見当外れの考えをしていたことに思い至った。

「ああっ、そうか。でも、そんな…」

 頭を抱え、唸る永琳。

「………N兵器」

 キノコ雲。そのイメージが浮かぶ。

「はい。地上の民が開発したもっとも下劣で汚らしい最悪の武器。その資料の中で…えっ、でも、まさか」

 鈴仙も言葉を詰まらせる。昔、読んだ資料では20ktの爆弾一つで街一つが壊滅した、とあった。それだけでも驚異的な威力を誇っているというのに、その最悪の爆弾は更に熱線と爆風以外にも治療不可能に近い重度の障害を生存者に与えると記されていた。爆心地からほど近い場所にいた人間は内臓機能が壊疽し、吐血や血便を繰り返し死に至り、ある程度の距離でも脱毛や体力の低下、風邪に近い症状を引き起こしたと言われている。そうして、逆算すればその障害というものが酷似しているのだ。燐やこいしの命を奪い、そして、霊夢とさとりの身体を蝕んでいる病と。

 もし、そんな物が一発でも幻想郷で爆発すれば…ぞっとする想像に鈴仙は身を震わせる。

「け、けれど、師匠。いくら地底だからってそんな爆弾が爆発したとあっちゃ、誰だって気がつきますよ」

 この前の地震騒ぎも結局、天人が起こしたものでしたし、と鈴仙。けれど、永琳はもう、鈴仙の言葉は聞いていないようで、口に手を当て深く考え込んでいる。




 地霊殿にだけ発生している謎の病気―――その正体、放射線障害。
 一人が死に、一人が耐えきれず自殺し、二人が同じ症状を見せ始めた―――最後の一人は?
 病に冒された三人は同じ屋敷に住んでいた。最後の一人はここ最近、一人元気な者と付き合っているらしい―――症状の進行度具合は最後の一人が最も早いように思われる。
 一昨年の暮れ、博麗神社のすぐ近くでわき起こった間歇泉と一緒に出てきた怨霊、その事件と顛末―――真犯人が原因に授けた物、扱い悩む炎。







「……鈴仙、少し出掛けるわ」



 ややあって、永琳は立ち上がるとそんなことを口にした。

「分かりましたけれど…どちらへですか?」
「妖怪の山の上、守矢神社に。あの二柱に聞かなければならないことが出来たみたい」

 厳しい顔つきの永琳。とても、原因の一端を掴んだとは思えない表情だった。











 帰ってきた永琳は疑念を確信へと変貌させていた。けれど、それから三日も永琳は部屋に籠もったまま、出てこようとはしなかった。かの天才の脳髄をもってしても平和的な解決方法を見つけることは出来なかった。永琳は自分のふがいなさを呪った、そうして、運命というものも。















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――













 客間代わりに使われている遊戯室。そこへさとりは一人、椅子に腰掛けていた。
 目の前のテーブルにはティーカップが二つ。呑みきったものと手つかずのもの。手つかずのものはさとりの前に、からになったものは反対側の、今は誰も座っていない椅子のところへ置かれている。
 そうして、テーブルの中央、そこには紙袋とそれとは別に小さな褐色をした小瓶が一つ、置かれていた。紙袋の中身は体調を崩しているさとりようの薬。どちらも永琳が持ってきたものだ。

「………」

 その小瓶にさとりは黙して視線を注いでいた。まるで、待ち構えていればその小瓶に手足が生えて動き出すのでは、そう思っているかのように。

 むろん、そんな冗談みたいなことは起きない。
 いや、いっそ、そんな冗談でもあればマシなのに、とさとりは陰鬱な面持ちのまま考えていた。
 そんな冗談よりも非道い現実をさとりはたった今し方帰ったばかりの永琳から告げられたからだ。
 度重なる悲運の果てに突きつけられた更なる絶望。もはや涙も驚きも絶望も枯れ果てていた。今、さとりの心を満たしているのは諦念のみ。それと僅かばかりの決意だけがさとりの心にはあった。

「はぁ…」

 ため息をついて椅子に深くかけ直す。徹夜明けのような倦怠感に襲われている。いっそこのまま眠ってしまって、全てが夢であれば良かったのに。お燐がお空を起こす声で目を覚まし、食堂に行くとこいしが先に待っていて「お姉ちゃん、ウツボノカズラだね」なんて事を挨拶代わりに言うような、そんな展開。けれど、そうはならないのだ。もう、二度と。

「ただいま〜」

 その時、玄関から元気のいい声が聞えてきた。びくり、と驚いたようにさとりは身体を震えさせた。
 空が霊夢のところから帰ってきたのだ。

「あ、さとりさま、ここにいたんですか」

 暫くすると空が扉をあけて現れた。
 後ろには…

「………」

霊夢もいる。

「おかえりなさい、お空。霊夢も、こんにちは」
「ただいま」「ええ、こんにちは」

 元気よく応える空と涼しい顔の霊夢。

 燐が亡くなってから数週間、空は以前の元気の良さを取り戻していた。いや、完全にではない。今でも夜中に一人で泣いていることがあるし、その元気の良さが「さとりさまに心配かけちゃ駄目」という主人を案じての事だということはさとりには分かっていた。恐らく、心が読めなくても。私は主人失敗ね、とさとりはばれないように自嘲する。

「………それは?」

 問いかけたのは霊夢だ。テーブルの上の紙袋と小瓶、特に小瓶に視線を注ぎさとりに問いかける。

「お薬よ。永琳先生から頂いたの」

 簡素に応える。なんの、なんて説明は必要ない。あらゆる意味で。けれど、自分と同じ覚り妖怪なら裏があることぐらい容易く読み取るだろう。或いは、博麗の巫女である霊夢も。

「お空、私は暫く霊夢と話があるから、部屋に戻ってなさい」

 間を置いて、さとりはそう切り出す。

「えっ…じゃ、邪魔しないからここにいていいでしょ、さとりさま。端っこで遊んでるから」

 燐が亡くなってから空は一人でいることを極端に嫌うようになっていた。いや、一人でいることというよりも、自分が好きな誰かが一人っきりでいることを嫌ったのだろう。独りっきりで死んだ燐のことを想って。今日も、永琳が地霊殿を訪れるまで朝からずっとさとりの側について離れなかったのだ。少しでも早く、長く霊夢と一緒にいたいであろうに。霊夢と一緒に帰ってきたのはもしかすると我が儘を言って霊夢に付いてきてもらったのかも知れない、そうさとりは考えた。

「いいから。空、今日は私も遅くまでいると思うから、晩ご飯の用意をしてきて。難しい話をしなくちゃならないの」

 難しい話、その言葉に料理の中にキライなピーマンが入っていたみたいに顔をしかめる空。わかったよ、と頷くととてとてと駆けだしていった。

「美味しいご飯作るからね〜」

 その言葉に霊夢は手を振るう。






「すっかり扱いが慣れてきたみたいね、あの子の」

 空の姿が消えてから霊夢にそう語りかけるさとり。

「まあね。付き合いも長いから」

 ひのふの、と指を折って数え、もうすぐ一年か、と霊夢は思いをはせる。

「一年目の記念に、あの子に何か送るの?」
「まさか。コクられたのは私の方よ。もらうのならむしろ私の方だわ」
「その割には髪飾りとかブローチとか、そういったイメージが浮かんでるみたいだけれど」
「…私が欲しい物リストよ」

 ふふ、とつんけんどんな態度を取る霊夢に頬を綻ばせるさとり。
 それには―――お互い、心が読めるだけの能力と洞察力があるのに、なんて会話をしているのだろうという自嘲も含まれていた。

「待ってて。お茶を淹れてくるから」

 そう言ってさとりはテーブルの上に残されていた空と手のつけていないカップをお盆に乗せて部屋から出て行った。熱いのをお願いね、と先ほどまで永琳が座っていた椅子に腰掛ける霊夢。



 暫くして、さとりはお盆に新しく淹れなおしたお茶をもって戻ってきた。

「霊夢…?」

 椅子に座って待ってると思っていた霊夢の姿が見あたらず、さとりは部屋を見回す。何てことはない、霊夢は部屋の隅にある観葉植物の前に立っていただけだった。

「どうしたの、そんなところ………で、」

 テーブルの上にお茶を置いて、その時の霊夢の表層心理を読んで思わずさとりは顔を蒼白にする。

―――キモチワルイ

 非道い嫌悪感。はっと、霊夢の方を振り向くと、震えているのが見えた。それと嗚咽。霊夢は観葉植物の鉢の上へ胃の内容物を戻しているのだった。あわててさとりは霊夢に駆け寄る。

「大丈夫―――?」

 背中をさすり介抱してあげる。げほげほ、と咳き込みああ、うん、と曖昧な返事をする霊夢。

「ごめんなさい。でも、絨緞の上にブチ撒けるよりはマシでしょ」

 さとりが差し出したハンケチで口元を拭う霊夢。その顔色は驚くほどに、悪い。血の気の失せた頬に薄紫に染まった唇。瞳は徹夜明けのように充血している。そこまで体調を崩していたなんて、さっき、お空と一緒に帰ってきたときは分からなかった、とさとりは思う。

「霊夢…」
「どうやら、あんたより私の方が症状が重いみたいね」

 ケホケホと咳き込む霊夢。口に当てたハンケチは血の色に染まっていた。これ、使えないから棄てちゃうわね、と霊夢はいった。

「……………ちょっと、お空の処へいってくるわ」

 それが切っ掛けだったのか。さとりはそう言うと唇を真一文字に結んだ。あふれ出しそうな涙を必死に堪えるような、そんな顔。さとりは霊夢から離れるとテーブルの上に置いてあった物へと手を伸ばした。お茶でも自分用の薬でも、そのどちらでもない、茶色の小瓶へ。

「待ちなさい。私に、話があるんじゃなかったの?」

 その腕を瓶をつかみ取る寸前で霊夢が押さえる。万引きの現場でも取り押さえたように。

「霊夢…」
「………」

二人の視線が交差する。いや、睨み合うといった方が正しいか。どちらも視線を逸らさず、先に逸らした方が負けだといわんばかりに、じっと凝視し続ける。

「離しなさい」
「嫌よ」
「っ!」

 先に視線を逸らしたのはさとりだった。唐突に腕を振り抜き、霊夢の拘束から逃れる。そうして、そのまま一考だにしない素振りでテーブルの上の小瓶をひっつかむと大股の足取りで出口へと向かおうとした。

「待ちなさい」

 その前に躍り出る霊夢。荒い息、蒼白の顔。けれど、険しい目つきでさとりの進行を阻害する。

「邪魔しないでよ、霊夢。貴女にも分かっているんでしょ」
「さぁ? 何のことかしら。せめて、主語をつけて説明してくれないと理解できないわよ。私は覚り妖怪じゃないんだから」
「巫山戯ないでよッ!」

 激高。さとりは小瓶を握りしめて叫ぶ。

「私に嘘が通じると思ってるの! ううん、それ以前に、貴女は多分、私より、いいえ、もしかすると永琳先生より先に真相に気がついていたんじゃないかしら? 貴女なら、博麗の巫女ならそれぐらい簡単なはず。それを…貴女は黙っていたんでしよ! このところ、私を避けていたのは心を読まれるのが嫌だったから!? それとも、時が解決してくれるなんて馬鹿なことを考えていたの!?」

 霊夢に詰め寄り、そう怒鳴り散らすさとり。穏和な彼女にしては考えられない激高ぶりだった。いや、さとり自身も自分自身の行動が信じられないだろう。けれど、そうでもしないと、普段と違う自分を作りでもしないととてもこの後しなくてはならない事が出来ないとさとりは確かに自覚しているのだ。

「まさか! でも、あんたや永琳みたいな真似だけは絶対にしたくないわ。馬鹿馬鹿しいにも程がある!」

 応酬するようさとりをにらみ返す霊夢。今にも殴りかからん勢い。体調は今にも倒れそうなほど悪いというのに怒りがそれを凌駕している。さとりも同様だ。互いに脂汗を流しながらお互い一歩も引かないと睨み合っている。

「それが今まで悪い妖怪を退治してきた貴女が言う台詞なの!」

 腕を振るって訴えるように叫ぶさとり。一度、退治されたからこそ分かる。妖怪を退治するために戦っている霊夢は一個のミサイルのようだ。まっすぐな視線。直死以外の危険を度外視する強力な度胸。相手の言葉に一切耳を傾けない金剛の自己。怪と対峙する者はかくあるべし。余計な感情動作全てを切り捨てて挑まなければ化物の餌に過ぎない人間など脆弱の極みであるのだ。勝利のために自身を一個のミサイルに変えろ、かつて対峙した霊夢の姿はさとりにはそう写っていた。それが…今はどうだ?

「悪い妖怪を退治してきたからいうのよ! あの子は…あの子は悪くないわ」

 視線を逸らし弱みを見せる霊夢。さとりにはそれ以上、サードアイから雑多な霊夢の心中の声を聞いている。博麗の巫女とは思えない脆弱さだ。余計な感情、無意味な行動。病魔に弱った身体を無視しても、こんな霊夢などどんな妖怪にも容易く喰べられてしまう、そう思わせるか弱さがあった。それ故にさとりは更に怒りを募らせる。自分が、弱いはずの自分が、こうも余計な部分を切り捨てて事を運ぼうと思っているのに。傷つきながら一番辛い選択をしようと思っているのに。それをこの巫女は…ッ!

「馬鹿なことを言わないで!」

 言葉、それと同時に、いや、言葉より早くさとりは腕を振るっていた。ぱぁん、と乾いた音が遊戯室に鳴り響く。




「ッ―――!」

 はたかれた頬を押さえて目を見開く霊夢。頬の痛みよりも叩かれた事実の方がショックだったようだ。さとりが読み取っている霊夢の心中が一瞬、真っ白になる。けれどもそれも一刹那。仕返しをするように霊夢も腕を振り上げた。

「やったわねッ!」

 間髪、自分の腕を振り上げて防御するさとり。勢い余って霊夢が倒れる。

「この―――!」

 そこへ足蹴をくれてやるさとり。痛い、と短い悲鳴をあげる霊夢。

「あの子は人に災いをなす悪い妖怪なのよ!」
「分かっているわよ! そんなことぐらい!」

 立ち上がろうと身体を起こしつつ霊夢は叫ぶ。

「永琳から話は私も聞いてる。後は、ちょっと考えれば何が、誰が原因か何てことぐらいチルノでも分かるわ! でもね! だからって、そんなの…そんなの、あんまりにも非道いじゃない!」
「っ―――!」

 立ち上がろうとする霊夢を突き飛ばし、さとりはその上へ馬乗りになる。霊夢の胸ぐらを掴みあげて脅すように怒鳴る。

「非道いことぐらい分かってるわよ! でも、それしか方法がないでしょ! 永琳先生が言うには、段々と力が強くなってるらしいし、いずれは誰も近づけなくなる。分厚い、鉛でできた部屋に入れておかないと何百、何千って言う人が私や貴女、お燐やこいしみたいになってしまうのよ!」

 霊夢が足を振り上げると、それを器用にさとりの腕の下へ通した。何をするのか、さとりには読めていたが格闘技なんてものを知らないさとりには為す術はなかった。霊夢がさとりの肩に引っかけた足に力を込めると、容易く攻守が逆転。今度は霊夢が上になった。

「じゃあ、そうすればいい! 首輪でも何でもつけて、ここの地下にでもそんな部屋を作ってやればいい! あんた、飼い主でしょ!」

 上からさとりの頭を殴打しつつ、霊夢は反論する。髪を振り回し、汗を流し、涙を浮かべながら。

「そんな非道いこと出来るわけないでしょ! 私はあの子の主人なのよ! 飼い犬が他人様に大怪我させたんなら主人はペットをどうにかしなくちゃならない! そういうことよ!」

 さとりも負けじと振り下ろされた霊夢の腕を掴む。

「償わせればいい! あの子は犬畜生なんかじゃないんだから! こんなもので…殺してしまうなんて早計だし、余りに愚案だわ!」

 さとりの逆の腕、小瓶を握っている方を霊夢が掴み返す。

「それが無理だって言ってるでしょ。だったら…せめて安楽死させてあげるのが飼い主の勤めよ!」
「永琳の差し金!?」
「違う! 私の、私自身のせめてもの慈悲よ!」

そうして、そのまま膠着。二人は言い争いの最初のように睨み合い視線を先に逸らした方が負けの形に入る。

「―――!」
「………!」

 もはや言うことはないのか、ぎりぎりと互いに相手の手首を締め付けあう。腕が蝋のように白くなる。

「霊夢。多分、私たちはすごく愚かなことをしている。今は私が賛成派、貴女が反対派だけれども、貴女はきっと、私が賛成しなかったら貴女の方が賛成派に回っていたわ。そして、逆に私が反対派に。私たちはそうやって相手に、自分に責任を押しつけようとしているのよ」

 無様ね―――、とさとりは自嘲げに笑った。

「けれどね、霊夢。貴女と私には一つ、決定的な違いがあるわ。むしろ、それがあったから私は先に賛成派を―――あの子を殺すことを選んだのよ」
「なによ―――ソレ」

 強く霊夢の瞳を見据えるさとり。少しだけ、霊夢はたじろいだ様子を見せた。それを見たからなのか、さとりは目を伏せ、一息つくような態度を取った。






 そうして、そいつを、口にした。









「あの子は―――私の妹とペットを殺したのよ。あの子のせいで、こいしとお燐は死んだのよ」









 そこが私と貴女の決定的な違い、家族を―――殺されたかどうか、それが。





 がしゃん、と何かが絨緞の上に落ちる音が聞えた。同時に非道く混乱した心の声をさとりは聞いた。二人の視線が音のした方、遊戯室の入り口に向けられる。

「私が―――殺した? お燐とこいしちゃんを―――?」

 そこにはエプロンを身につけた空が立っていた。
 料理が出来上がったので二人を呼びに来たのだ。霊夢もさとりも言い、争うのに夢中でその事に気がついていなかった。落したのお玉だった。床の上でお玉がころり、と転がる。

「どういう―――ことなんですか、さとりさま。え? 私が… え? え?」

 顔面を蒼白に、カタカタと震える空。

「空っ!」

 あわてて霊夢が駆け寄る。けれど、それからどうしろと言うのだ。近づいて手を伸ばして、その手が空に触れるか触れないかというところで止まる。

「言った通りよ、お空」

 霊夢の後ろでさとりがスカートに付いた埃を払いながら立ち上がった。

「貴女、山の上の神さまから八咫烏の力を授かったそうね。その力が放射線―――分かりやすく言うと目に見えない毒の光線ね、それをまき散らしているらしいの」

 淡々とした口調。感情を押し殺し、要件だけを伝えるための言葉。さとりの視線は床に、霊夢は空を眺め、そして、空は…どこも見ていなかった。絶望を凝視していた。

 そうして、

「こいしとお燐―――それに私たちが、霊夢と私が病気に罹ったのはその毒にやられたせいよ。だから…」











 貴女が殺したの、あの二人を―――











 そう、冷徹にさとりは告げた。真実を。残酷に。ありのままの。

「さとりッ!!!!!!」

 強く握りしめた拳が空を切る。鋭い打撃。それを頬に受けてさとりは口端から血を飛ばしながら倒れた。
 或いは、甘んじてさとりは霊夢の拳を受けたのかも知れない。

「さとりさまっ!」

 倒れたさとりにあわてて駆け寄ろうとする空。その身体を霊夢が途中で押さえて止める。

「空、行くわよ」
「えっ、でも…」
「いいから」

 有無を言わさぬ霊夢の言葉。未だに混乱の極みにある空は従うしかなかった。
 倒れたさとりを放って置いて二人は遊戯室を、地霊殿を後にした。
 後にはさとりだけが取り残された。その手に、毒薬が収められた小瓶は―――














―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――














 淀んだ空気。異様な静けさ。立篭める闇。
 明かりは僅かに、柱にかけられたカンテラだけ。室内に鯨油の燃える匂いが僅かに満ちている。
 その薄闇の中、博麗霊夢は縁側に腰掛け、外を眺めていた。
 目に見えるものは何もない。ただ、漠然と闇が広がっているだけで、この暗さの中にあれば闇夜でも昼間のように見通す吸血鬼の瞳を持ってさえも、さほど見える風景に違いはないだろう。
 博麗神社を取り囲むように闇は巡っている。時刻は恐らく昼。壁に掛けた大時計が正午を告げているが、天蓋は黒く、日の輝きもない。

 それもそのはず。庭の向こう、四間ほど先、丁度、榊の低木が生え始めている辺りから向こうとうものは現在存在しないからだ。
 博麗神社は今、結界のまっただ中にある。純粋数学を使用した空間断絶結界。人の出入りは愚か、光、音、あらゆる波動、無論、魔導の類でさえも空間そのものを断絶することによって立ち入りを禁止している。言うならば霊夢がいるこの神社は現在、この神社一つで幻想郷が存在する宇宙とは別の宇宙に置いてあるようなものなのだ。こと、進入不可を原則とすれば幻想郷を包む博麗大結界さえも容易く凌ぐ最上位の結界が神社の周り、地面の下さえもとおり、大きな球体を描く形で張り巡らせてあるのだ。

 張ったのは無論、霊夢。今から一週間ほど前に、持てる技術の全てを駆使してこの場所、博麗神社を外界と切り離したのだ。
 何のため? その理由は一概には言えないが、誰のためなのかはすぐに応えられる。

「霊夢、ご飯…できたよ」

 静かに障子が開いて、隣の部屋から声がかけられた。
 空だ。霊夢は彼女のために、ここを、博麗神社を外界と切り離したのだ。

「霊夢…?」
「ん…ああ、ごめん、ちょっと寝てたみたい。すぐに行くわ」

 二回目、名前を呼ばれて霊夢はやっと返事した。やっと、声をかけられているのに気がついた。どっこいしょ、と立ち上がり、空に続いて食堂へ向かう。

「美味しい? 霊夢?」
「ええ、美味しいわよ」

 味覚が消えた舌でもそう答える。蝋燭の明かりだけで照らされた食卓。冷えた残り物の味噌汁で生炊きの米を戴く。会話は殆どなかった。




 霊夢は空に聞かれたこと、自分が本当にこいしや燐を殺したのか、さとりや霊夢の身体を悪くしているのか、その質問に全て応えた。もっとも、それは補足説明みたいなものばかりでこの謎の死病については全てさとりの口から聞かされたことで空は納得していたようだ。

「私が、殺したんだ―――」

 話を全て聞き終えて、ぽつりと空は漏らした。けれど、それだけだった。
 後は何をするでも…謝罪することも、泣きわめくことも、否定する事も、自決することもなく、霊夢と同じように、なすがままの生活を送っている。
 寝たいときに寝て食べたいときに食べて、そんなただれた生活。昼もなく夜もないこの闇の世界ではそういう生活しかできないのも事実だが。





「ごちそうさま」

 やがて、お茶碗に盛られたご飯の内、三分の一程度を食べて霊夢は箸を置いた。味噌汁は結局、一口しか啜っていない。
「やっぱり、美味しくないよね。これ…」

 べー、と自分が作ったものに不味そうに舌をだしてみせる空。どのみち、この暗闇の中、まともな材料も最初の三日で底を突いたとあればどんな名料理人でも美味しいご飯は用意できないだろう。
 けれど霊夢は流れるように嘘をつく。美味しかったわよ。今日はちょっと食欲がないの、と半分だけ嘘を混ぜた言葉を。

「今日はもう、休むわ。貴女も、適当に休みなさい」
「あっ、霊夢」

 腕を伸ばす空。霊夢の背中にこれからどうするの? もう、お米がきれそうなんだけど、ご飯どうしよう。そんな言葉を投げかける。けれど、霊夢は返事をしなかった。出来なかった。余裕がなかった。




「ッ…クソ。しゃんと、しなさいよ、私」

 ふらつきながら真っ暗な廊下を進む。間取りは体が覚えているし、壁に手を着いているから足取り自体に問題はなかった。あるとすれば、体調の方だ。

「ッ―――うぇぇぇぇぇぇぇ………!」

 厠の扉を開けるなり霊夢は盛大に戻した。濁流のように僅かに胃に収めた昼食が流れ出る。殆どは原形をとどめたまま。いや、仮に戻さなかったとしても霊夢の胃袋はこれを消化できなかっただろう。もはや、霊夢の内臓はその機能を十全に果せなくなっていた。

 嗚咽と一緒に血の塊が口の中から出てくる。鼻が曲がるような非道い匂い。掃除していない厠の方が十倍はマシと思えるほどの。それが、後から後から出てくる。腐って溶けた内臓のなれの果て。霊夢は汚れるのも厭わず、タイル張りの厠の床に手を着いて、便座の中に身体の中のもの全てを吐き出すような勢いで戻し続けた。

―――畜生、苦しい。死ぬほど苦しい。

 瞳から苦悶の涙が溢れる。息が出来ず、酷い頭痛に頭が割れそう。周りが暗いのが幸いしている。明るければ融解したような歪んだ視界を目の当たりにしているだろうから。

「うぁぁぁぁぁぁぁぁ…」

 吐き出しているのは何だ? さっき食べた味噌汁か? 胃液と腸液と唾液のカクテルか? 内臓の融解物か? それとも命か?

 もう、のどから何も出てこないのに霊夢は大口を開けて、目を見開いて、えずきを繰り返す。
 苦しさの余り胸元に爪を立てる。サラシが解れ、肌に裂傷が走る。顎は外れそうなほど開かれている。自分の血が氾濫する音が耳の中でごうごうと聞える。見開いた目は、眼孔からこぼれ落ちそう。きちり、と瞼が張り裂けそうになる。顔面は深紅から蒼白に、そうして、黄銅へ信号機のように切り替わる。DEATHがYellowなんて腐ったげな冗談、死ぬ、死んでしまう。霊夢は震え恐怖し、博麗神社の霊夢ちゃんぼっとん便所に頭から堕ちておっ死(ち)んだ、なんて無様な姿を幻視する/未来視する。現実にすり替わりそうになる。それを―――






「ッあ―――!」






 後ろに倒れることで防いだ。

 土間の上に転がり、酸素を求めアトランダムに呼と吸を繰り返す。口端から血糊を飛ばす。それでも、かろうじて生きていてくれる心の蔵と肺腑が霊夢の命をつなぎ止めてくれる。
 と、






『ああ、良かった―――まだ、死なないのね』
「アンタ―――は…!?」

 その生存を祝福する声が頭上から見下ろしてくる霊夢によってかけられた。瞳だけを端にめい一杯寄せてその姿を確認する霊夢。冷笑を浮かべて見返す霊夢。

『よかった。死んでないのならはやく役目を果たしなさい霊夢。アレは、あの子は幻想郷を滅ぼす悪い妖怪よ』

 倒れた霊夢の傍らにもう一人の霊夢が立っていた。この闇の中であって何故か輪郭を浮きだたせはっきりと見える霊夢。映し鏡よりなおそっくりなもう一人の自分の登場に霊夢はついに自分の脳みそが壊れたのだと思った。

「なに、いってんの…?」

 荒い息をつきながら敵でも見据えるようなきつい眼力で霊夢を睨む霊夢。やれやれ、と頭を振るう霊夢。

『それはこっちの台詞よ。そこまでやられて。吸血鬼に腕を切られたときは仕返しに半身を吹っ飛ばしてやったじゃない。亡霊嬢に撃たれたときはアストラル体を消滅一歩手前まで滅多打ちにしたじゃない。月の姫君を追い詰めた時なんて幻の月ごと十七万四千二百八十三回不死身の姫君を殺してあげたじゃない。どうして、今回はそうしないの? 前みたいにあの子を成層圏の辺りまで―――今度は大気圏の果てまで第三宇宙速度ですっ飛ばせばいいじゃない』

「馬鹿言ってるんじゃないわよ。あの子はそんなことする必要がある子じゃないわ。何度も言ってるでしょ! あの子は悪くないって!」
『それが? 理由なんて関係がない。それがルールじゃないの』

「黙れ! 私の偽物が! 知った風な口を聞くな!」
『偽物? おかしなことを言うのね。私は貴女よ、博麗霊夢。いいえ、違うわね。博麗の―――』

 最後の言葉は霊夢の耳に聞えなかった。その前に幻は消え去ってしまっていたからだ。
 けれど、霊夢の動揺は止まらなかった。






「畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生っ!!」

 土間に倒れたまま、きつく拳を握りしめ震えていた。
 ああクソ、これが、これがそうなのか。永琳とさとりが味わった地獄。運命を、天上のソイツを呪って首の骨を折って口汚くののしりたくなるような、そんな絶望。

「畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生、畜生っ!!」

 それに目を背けてきたけれど、もう、駄目だった。
 ひぐっ、と霊夢は鼻を啜ると、ふらつきながらも立ち上がった。

「空、ごめん。あんた………殺さなきゃ、ならないみたい」

 涙と共に零れたものは、決意だった。














―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――













 はぁーはぁーはぁーはぁー
 荒い呼吸を付いて、闇の中を進んで、空にあてがった部屋へ。
 言葉もなく静かに扉を開けて空の姿を探す。
 いた。
 お腹が一杯になったから眠くなってしまったのだろう。座布団を枕に、畳の上ですやすやと寝息を立てている。
 好都合、と静かに近づく。
 空が寝返りを打つ。一瞬、すくみ上がる。けれど、起きる気配はない。仰向けになった空。白い喉が見えた。人体の急所。地獄烏でも同様のそこ。
 空の身体の上へ跨ると、そこへ手を伸ばした。
 両方の腕で包み込むように首に指を回す。
 そうしてそのまま、喉を押しつぶすよう、大動脈を堰き止めるよう、気管を抉るよう、首を絞める。
 後はこのまま、力を込め続けていれば―――全てが終わる。楽に、なれる。



 だっていうのに、



「ありがとう、霊夢」



 何だってこの子は今から殺そうという相手に笑顔を向けるのだろうか。














―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――













気がつくと霊夢は空から手を離して涙を流していた。
 ぽたり、ぽたり、と空の顔の上に霊夢の涙がこぼれ落ちる。たぶん、世界で一番綺麗で悲しい滴。

「嫌だよ、嫌だよ、殺したくなんてないよ。もっと、イチャついてたかったよ。いろんなところに遊びに行ったり、一緒にお風呂に入ったり、花火をしたり、御酌してもらったり、ピクニックに行ったり…そういう、そういうことがしたかったよ」

 きつく目を閉じ、両手を握りしめて震える。

「なんで、どうして殺さなきゃならないんだ。おかしいよ。強くなるのにちょっと狡しただけじゃないか。死刑になるほど悪い事じゃないだろ。なのに、なんで…ああっ、もう、あんたなんて好きになるんじゃなかった…」

 顔を上げて、目を見開いて、大粒の涙が頬から落ち、首筋を伝わって、胸元へ流れ込む。

「告白されたとき、ドキっとしたけれど、その時は適当に飽きたら分かれればいいのに何て考えてたのに、だんだんとあんたのそのちょっと馬鹿なところとか、案外料理が上手いところとか、髪の毛の匂いだとか、おっきな羽とか、そんなところが気に入るようになって、気がつくと会えない日がなんか寂しくて、自分から会にいったりしようか何て思って、でも、恥ずかしくて、強がって見せて、ああ、でも、よけいに辛くなって、それでもう…ああ、私、あんたにぞっこんになっちゃたんだなぁ、って分かったところなのに…なんで、どうして…こんなの、非道いよ…非道すぎるよ…」
 
支離滅裂に、心の赴くままに霊夢は言葉を紡ぐ。涙は止めどなく、嗚咽は止まらなく、それでも、殺意は押さえられず、決意は変えられず、最後まで愛は潰えず。ああ、そうして、

「霊夢…っ!?」

 霊夢は震える空に口づけし、

「空、好きよ。大好き」

 そうして、告白した。

「っ、あっ、あ…わ、私も、好きだよ、大好きだよ、霊夢」

 霊夢の言葉に応えて、涙を流し震える空。二度目の口づけはどちらからともなく交わされた。














 空の厚めの唇に何度も吸い付き、甘い息を漏らす。やがて、霊夢の唇は下へ。自分の指の痕が残る空の首筋へ。青痣の上に赤痣を刻み込んでいく。ふぁぁぁぁ、と幸せそうな声を上げる空。

「霊夢ぅ♥」

 ねだり、甘えるような声。霊夢は薄く微笑むと、空の胸へ手を伸ばした。胸にある紅玉のような器官のために妙な形をしている空の上着。そのボタンを上から一つ一つ霊夢は丁寧に外していく。やがて、すべて外し終えると三つの峰が露わになった。二つの乳房とその間に挟まれた紅玉。空の大ぶりの胸は色気のないゴム生地で出来たスポーツタイプのブラに包まれている。それも霊夢ははぎ取る。たゆん、と身をうねらせる乳房。身を凝らせた少し色素の濃いの乳首が現れる。

「霊夢のも…見せて…」

 空が手を伸ばして、霊夢のスカーフを抜き取る。霊夢はそでを脱ぎ捨てると万歳の体勢を取ってジャケット嬢になっている前掛けを脱ぎ捨て、インナーの紐をほどき、それも脱ぐ。幾重にも巻かれた白いサラシ姿。霊夢は脇の下で止めていたサラシの一端をほどくとするすると長い一枚布をはぎ取っていった。

「霊夢のおっぱい、かわいいね」
「あんたがでかすぎるだけよ…っ♥」

 小振りの霊夢の胸を愛おしげに押さえるように触る空。ぎこちない動きは、触り方が分からないからなのか。けれど、適当に指を這わせていると時折、霊夢がくすぐったいような声を上げてしまう場所を見つけ、空はそこを重点的に刺激するよう指を動かした。桜色の突起に指を乗せ、ぐりぐりと虐めるように円を描く。くすぐったそうに霊夢は笑みを浮かべる。

「霊夢、私にも…」

 やがて、身体の疼きに耐えられなくなったのか、空が甘ったるい声でねだる。くすり、と小首を傾げると霊夢は空の腕を取ってその身体の上へゆっくりと倒れ込んだ。弾力のある、空の胸へ顔を埋める。

「心臓の音が聞える。なんだか、落ち着くわね」
「お母さんのお胎の中にいるときを思い出してるんじゃないかな?」
「あなた、卵生でしょ」

 冗談。応える前に霊夢は唇だけで空の色素が濃いめの乳首を吸った。あっというまに標高を上げる空の胸。逆の峰も霊夢の手のひらは容易く登頂する。頂をつまみ上げ、軽く引っ張る。唇で弄んでいる方は、歯で甘噛みし、その先端を舌先で弄る。

 負けじとか、空も頭を持ち上げて、自分の胸へ顔を埋めている霊夢の頭へ顔を近づけた。髪の毛の中へ鼻を埋めて霊夢の匂いを鼻一杯にかぐわう。

「いいにおい」
「何日もお風呂に入ってないのに」
「でも、いいにおいなの」

 霊夢ちょっと身体起こして、と空は促す。言われるまま、身体を起こす霊夢。空は身体を起こして、霊夢を自分の膝の上へのせると更に腕を上げるように言った。

「私、霊夢の匂い、好きだから」

 っ−、と顔を赤らめる霊夢。空が今度は霊夢の腋の下へ顔を埋める。舌を伸ばして、そこに浮いている弾のような汗を舐め取る。うぁ、と熱に浮かされたような声が自然と霊夢の口から漏れた。

「わっ、私も…」

 逆の腕を伸ばして、空の長い髪を一房、手に取る霊夢。それを鼻先に近づけ、

「あんたの匂い、好きだから」

 顔を赤らめながら応える。太陽の様に空は笑った。
 そのまま、霊夢の身体を押し倒し、顔や首筋、こめかみ、鎖骨、どことなしと唇を這わせる。霊夢の匂いを脳裏に刻み込むように、深く早く息を吸う。
 霊夢もなすがままではない。空の身体に手を伸ばして、いろんな部分に触れる。胸、腋、首筋、背中。そうして…翼の付け根。

「ひやぅ、霊夢っ♥」
「やっぱり、ここね」

 うぞうそと羽毛に包まれた柔らかい骨をまさぐる。余りの気持ちの良さに空はとろけたような顔になった。その顔を愉しみながら、霊夢は更に刺激を強くする。空の胸にしゃぶり付き、首筋にキスマークを残し、肩に軽く歯形を残す。まるで、空の身体に自分自身がいたという証明を残すように。自分のものだという証拠を刻みつけるように。

「はっ、はっ、はっ、霊夢ぅ♥」

 気がつくと空は自分の股を霊夢の太腿へすりつけていた。スカートをめくりあげ、直に。汗ではない粘液に霊夢の太腿は光っていた。

「もうそろそろ、する?」
「うん、うん…」

 霊夢の言葉に何度も、涙を流しながら頷く空。わかった、と霊夢は優しく応えた。
 お互いにスカートを脱ぎ捨てて、ゆっくりと下着をずらす。ドロワーズとボクサーパンツ。どちらも秘所が当たる部分は湿っており、離れるときに糸を引いていた。
 裸、生まれたままの姿になる二人。

「かわいいわよ、空」
「れ、霊夢も…綺麗だよ…」

 指を絡ませあい口づけ。はっ、はっ、と自分の吐息を相手に送り、相手の呼吸を自分で吸い込む、そんな付かず離れずの口づけ。そうして、ふたりは、身を寄せ合った。
 濡れそぼった互いの秘所をあわせる。口づけを交わす唇のように。ひくつき、紅潮し、濡れた秘裂を。

「ぁつ、あ、霊夢ぅ♥ 霊夢ぅ♥」
「空、空、空ぉ♥」

 ずちゅり、ずちゅり、水音。貪るように、二匹の蛇が絡み合うように、舌先を、性器を、擦りつけあう二人。いきりたった淫核がその頭をぶつけ合っている。固く尖った乳首もそう。より強い刺激を求めて、より近い距離をもとめて二人は身体を重ね合わせる。

 そうして…

「霊夢、霊夢、私、そろそろ…」
「うん、うん♥ 私も…強く、動くから、それに、合わせて…」

 動きが激しくなる。距離も、もっともっと、近くなる。
ああ、そうだ。自分は、空と一つになるために、そうしたかったから、嫌な現実から目を背けて逃げてきたんだ。これが、望みだったんだ。こうやって、恋人同士ですることをするのが、望みだったんだ。やっと、願いが叶ったんだ。やっと…何度も、遠回りして、辛い思いをして、それで、やっと…
じゃあ、空は…………?

「霊夢―――イクよ…っ♥」
「っ、あああ♥ キて、もっと、もっとつよく、空。ああああああっ♥」

 一際大きく腰を打ち付け合って、強く、身体を抱きしめ合う二人。鍵のように絡み合ったか半身はもう二度と離れないという二人の想いの表れか。同時に二人は絶頂に達した。













―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












「っ―――寝てたの、私」

 霊夢が微睡みから目を覚ましたのは妙な明るさからだった。いま、何時だろう、と半ば寝ぼけつつ、眼を擦りながら身体を起こす。
 どうやら、自分は裸ん坊でベッドの上で眠っていたようだった。薄手のシーツを身体に纏いながら、覚醒を促すように周囲を見渡す。
 と、霊夢はそこでやっと部屋が妙に明るいことに気がついた。
 ランプの火が照らす暖色系の輝きではない。蒼い、少し、寒さを覚える、けれど、何処か優しげなそんな光りがぼうっと、部屋を照らしているのだった。

「あ、霊夢、起きたんだ。おはよう〜」

 そうして、その光りの中心にそう挨拶された。青白い淡い光り、それは空の身体から放たれているように見えた。

「空、それ…」
「えへへへ、綺麗でしょ」

 立ち上がって、裸のまま、ぐるりと回ってみせる空。身体から蒼い光を放ち、羽を振りまく姿は天使のようで、単純な語彙では形容できないような美しさがあった。

「………………………」

 霊夢も言葉を失い、ただ、光り放つ空に観いていた。

「どう? 偶然だけど、これが私のお付き合い初めて一周年のプレゼント」
「あ、そういえば…」

 そこで霊夢は思いだした。さとりに連れられ自分の前に空が現れたのがちょうど、一年前だったと言うことを。

「そう、そうだったわね。ごめんなさい。すっかり忘れてたわ。私、空の恋人失格ね」
「そっ、そんなことないよ!」

 驚いたように霊夢の言葉を否定する空。あわてて霊夢の側に駆け寄ってくる。

「霊夢はちゃんと私のカノジョだったよ。お付き合いしている間、とっても楽しかったし、霊夢はいろんな事を教えてくれたし、それに、それに…こんな身体の私でも愛してくれたもん」

 切実で、真っ直ぐな瞳。それだけで、言葉はいらないほど、霊夢は自分がどれほど空に愛されているのかを覚った。

「だからね、コレはプレゼント。最後に、綺麗な私を見てもらおうって言う。そういう」

 えへへ、と蒼い燐光を散らしながら空は満面の笑みを浮かべた。
 何故か、霊夢は自分が泣いているのを知った。そうして、もう一つ、自分の内に感じる波動があることを。

「馬鹿っ、だったら、私、もらいすぎじゃない。二つももらっちゃうなんて…不公平よ」
「二つ?」

 空の問いかけに霊夢は応えなかった。替わりに愛おしげに自分のおへその下辺り、空と愛を交わしあった場所を撫でた。そこから感じる波動。今はまだ、何も出来てはいないだろうけれど、やがてすくすくと育つ新しい命の伊吹に。

「そっか。よかった。こんな私でも残せるものがあるんだね」
「何言ってるのよ、これから二人で…空?」

 霊夢の言葉の途中で何故か空は離れた。両方の腕を後ろで合わせて、翼を畳んで何故か澄ましたような態度を取る。

「霊夢に私、謝らなくっちゃいけないことがあるの」
「なによ、別にどんなこと言ったって私は怒らないから」
「二つあるんだ。一つは…今日まで、何もせずにいたこと。うん、ごめん。私、今日という日が来るまで死ぬのは嫌だって思ってたんだ。非道いよね、こいしちゃんやお燐を殺しちゃったのに、霊夢とさとり様を酷い目にあわせてるのにこんな…こんな我が儘言っちゃって。でも、私どうしても、一年だけ、霊夢と付き合ってたっていう“真実”が欲しかったんだ」
「ふん、それぐらい。この後、何年もあんたの我が儘を聞いてなきゃいけないのに、一々、気にしてられないわよ」

 つんけんどんな態度を見せる霊夢。けれど、目頭には涙が溢れ始めている。まるで、この先の空のことを理解しているように。本当に理解しているから。

「えへへ、ありがとう霊夢。でね、もう一つ、何だけど…これは先に謝っておくね、霊夢」

 そこで一旦、空は言葉を切った。少しだけ屈んでテーブルの上に置いてあった何かを手に取り、深呼吸して、なにか、そう決意を固めるような間を作った。

「空…?」
「ごめんね、霊夢。私、これ以上、生きていられないよ」

 え、と霊夢が小さく言葉を漏らす。それより先に、空は手にしていた物…褐色の小瓶の蓋を開けて、中身を嚥下していた。

「空!?」

 あわてて霊夢は立ち上がろうとする。けれど、身体に力が入らない。弱り切った身体で空と身体を重ねたツケが今更になって返ってきたのだ。それでも、なんとか、必死に布団の上を這って空に近づこうする霊夢。

「これ、霊夢が持ってきたんでしょ。ううん、多分、霊夢は自分で考えないでもって来ちゃったんだと思う。だって、霊夢は幻想郷の平和を守る博麗の巫女だから。
 うん、だから、そう。たぶん、私が霊夢に惹かれたのはそこだと思うの。いつか、自分が悪いことをしちゃったとき、自分の意志じゃなくてどうしても、そう、仕方のないときに。それを止めてもらうために…私は霊夢を選んだんだと思うんだ。
 ごめんね、霊夢。謝ること、三つあったよ」

 しゃがみ込んで、霊夢の手を優しく取る空。霊夢が顔を上げる。涙を流し、嗚咽を漏らす悲しそうな顔。ああ、好きな人にこんな顔をさせてしまうなんて、自分はどんなに罰当たりなんだろう、と空は考える。

「それじゃあ、ありがとう霊夢。さとりさまにもそう伝えておいて。お薬、ありがとうございました、って。さとりさまが、私のために永琳先生からもらってきたんでしょ。うん、だから、霊夢は絶対にさとりさまを怒らないで。さとりさまも霊夢と一緒で、私のためにしてくれたことなんだから」

 うあぁぁぁ、と滂沱の涙を流す霊夢。その身体をそっと優しく空は抱きしめる、

「私、向こうへ行ったらこいしちゃんとお燐にも謝らなくっちゃいけないから。たぶん、私は地獄に堕ちちゃうから二人に会うのはとっても難しいと思うけど…それでも、謝らなくっちゃいけないから」

 だめ、だめ、と幼子のように駄々をこねる霊夢。行かないで、と頭を振りし抱き、切に願う。ああ、けれど、もう、それは決定事項なのだ。











「ありがとう霊夢。私を愛してくれて―――」











 最後に、空はそれだけを霊夢に告げた。

 霊夢は身体を起こして、せめて最後に、と口づけを交わそうとする。けれど、霊夢の唇が触れたのは光りの粒子だけだった。カァ、と三本足の烏がチェフレンコフの光りと一緒に、空の魂と一緒に天へ上っていく。
 最後に残されたのは一羽の、烏の、亡骸だけだった。






「どうしてッ…空」

 亡骸を抱いて泣き続ける霊夢。
 せめて、せめて、自分が博麗の巫女じゃなければ―――こんな悲し想いをせずに済んだのに。
 霊夢は自分の運命を呪った。
 結界が、晴れて、一週間ぶりに窓に光が差し込んだ。















―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――















 そういった意味では何代か前の巫女、博麗霊夢というのはもしかすると博麗の巫女ではなかったのかも知れない。


霧雨 魔理沙
神社裏手の苔むした塚に花を添えながら、独白














―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――















「ママ−、早く」

 小高い丘の頂き。一本、大きく枝葉を広げている楡の木の下で小さな女の子が私に向かって手を振っている。私は、大きな声で待ってて、と応えて杖を突きながら丘の頂上へ向けて伸びる道を一歩一歩、びっこを引きながら慎重に登っていった。

 あれから数年、あの時生まれた子供はすっかり大きくなった。
 ぼざぼざの長い髪の毛に、黒い、時折、赤みを見せる真っ直ぐな丸い瞳。二人の母親の様を色濃く受け継いでいる。

「もう、ママ、遅いよ」

 遅れて頂上へやってきた私にそんな事を言ってくる。けれど、怒っている様子はない。むしろ、身体の小さな自分の方が先に頂上にたどり着いた、そんな自慢げな声が聞える。この性格はどちらの母親に似たのかしら。
 私は、ため息をついて、楡の木に背中を預けてそこに座り込んだ。
 山間から降りてくる春の風が心地いい。運動で火照った身体を冷ましてくれる。

「ほら、ママ、休んでないで遊びましょ」

 せっかく座った私の袖を掴んでぐいぐいと引っ張ってくる。この強引さは…間違いない、彼女の方の血だ。
 私は息を整えつつ、ごめんね、もう少し休ませて、と謝った。
 それにもう一つ、何度も注意していることをこの子に教えてあげる。あまり、頭が良くないところはきっと私のペットに似たんだろう。

「私はママじゃないって言ってるでしょう。私の事は…さとりお姉ちゃんって呼びなさいって」
「分かりました、ママ」

 軽く頭痛を覚える。

 まあ、無理もない。彼女の母親…霊夢が亡くなったのは彼女を生んですぐだ。むしろ、出産までもたないと、永琳先生は診断したのだ。
 




あの後、一週間ぶりに結界から開放された神社に私はいの一番に乗り込んだ。お空と霊夢が消えてからずっと神社の前で待ち構えていたから当然の順位だ。
 そして、私は神社の一室で気を失った霊夢とお空の亡骸を発見した。
 お空の亡骸を葬って、それから三日後、意識を取り戻した霊夢は私に驚くべき事を告げた。

『空の子供が出来たの』

 優しげに微笑んだ顔を私は今でも覚えている。あれは、母親だけが浮かべることの出来る慈愛に満ちた笑顔だ。

 その後、母胎が持つわけがないと言う永琳先生の言葉を断固として拒否し、結局、先生も折れ、霊夢は万全の体制でお胎の中の子供をすくすくと育てていった。まるで、自分の命を分け与えるように。これが自分の最後の仕事なんだと、だから頑張りなさいと自分に言い聞かせて。
 その甲斐か、神の奇跡か、永琳先生の手腕か、お胎の中の子供はすくすく育った。やせ衰えていく霊夢とは逆に。
そうして、出産には私も立会った。すこし、未熟児だったけれど、元気に大泣きする可愛らしい女の子だった。
霊夢はその子を抱いて、そうして、それから三時間ほどたって息を引き取った。
最後の言葉は『これが、空と私の子供なのね』だった。






それから五年、私はその子を引き取り、育てている。
自分のペットの命を救えなかった、せめてもの罪滅ぼしとして。私一人を置いてみんな逝ってしまった家族の替わりとして。




 遠く、草原の中を走り回っている元気な私の家族たちの大切な子供の姿を眺める。
 そうして、神に願う。あの子は…あの子だけは、私たちのような悲運が、どうしようもなく、運命を呪いたくなるような出来事に出くわしませんようにと。


春の風を身体に受けながら、私は次第に深い眠りにへとついていった。
このところ、なんだか、とても怠い。春眠暁を覚えずということだろうか。






―――さとりさま、ありがとうございます。






 そんな、懐かしい声を聞いて私は深い深い眠りの淵へ沈み込んでいった。
 六人家族で、楽しく、ピクニックする幻想を見つめながら………





END














 草原、幼い少女が走り回っていると唐突に目の前の空間に裂け目が現れ、そこから一匹の妖怪が姿を現した。

「おばさん、誰?」
「初めまして、私は八雲 紫。これから、貴女の面倒をみる足長お姉さんよ―――

――――――――――――――――――――――――――――――――――――新しい博麗の巫女。

給料日前で強制休肝日。
酒だ酒を持って参れ。


試験的にタグにあらすじを入れてみたんですがどうですかね?


あと、オチはMGSシリーズ恒例のED後の黒バックに交わされる会話っぽく読んでいただけると幸いです。

10/05/27>>追記
ありゃ、ゴッド☆お姉さんsの評判が悪い…
こりゃ、完璧俺の描写ミスですなぁ。
『山の上の神たちにも放射能は想定外で、魂レベルで八咫烏と融合してしまったため、殺さなければ空から放射能を取り除くことは出来なかった』とかなんとか入れるべきでした。
頭ん中だけでこんなけ書くと粗が出てくるなぁ…

あと、クソ長い粗筋も消しときました。
なんか、タグだけで話の内容が分かるようないい方法があればいいのだけれど…




それと…ゆかりん…
sako
作品情報
作品集:
16
投稿日時:
2010/05/24 17:42:48
更新日時:
2010/05/27 21:12:51
分類
霊夢
MGSpwも奈々様とも関係がないです。
八雲紫
1. 名無し ■2010/05/25 03:43:29
いつかは放射能の話が出るんじゃないかとは思っていたがまさかsakoさんがこんなに切ない話を書いてくれるとは思わなかった。

ガチで目が潤んだあたり俺は排水口住人を自称出来ないかもしれん………

良いものを読ませていただきました。

感謝m(__)m
2. 名無し ■2010/05/25 09:45:11
酒めっちゃ飲めるようになれば一人でもこれだけのモノが
作れるようになるんかなー、今からでも酒特訓しようかなー
と東方を最初にプレイした時も思って、今もまた思った
いい作品でした。sakoさんの作品いつも楽しみにしてますぜ

タグは二行以上になると作品一覧のフレームが崩れる(自分の環境だけ?)ので
ちょっとびっくりはする、かも
3. 名無し ■2010/05/25 10:29:54
神様や奇跡を起こせる奴が途中から出てくると思ったが別にそんな事はなかったぜ!
4. 名無し ■2010/05/25 16:57:54
放射能汚染は怖いな。次の世代にも影響を与えるから。
5. 名無し ■2010/05/25 19:26:02
芹沢博士のポスターのくだりで笑ったw
6. 名無し ■2010/05/26 00:54:11
チェレンコフ光でもっとどうしようもない感を煽って
髪の毛の分量を2、3倍増量したら怖いよグロテスクだよかなりクるよ

最後に諏訪子が出てきて、祟りは受け継がれたねとか鬱っぽく言ったら本当に救いのないところだったものの
それはコンセプトとずれるしアレですな
7. 名無し ■2010/05/26 01:20:45
これを言っちゃうるさくなりそうだが
神さん達は地霊殿の住民を皆殺しにしたも同然だな。償うこともできない程
8. 名無し ■2010/05/26 02:40:31
霊夢は一体どうやって妊娠を…気合ですね、わかります。
さとり達もZONEのストーカー達並のウォッカで放射線障害が治る体質だったなら…。
9. 名無し ■2010/05/27 02:25:10
力作すぎてコメしづらい話の典型
いやあとても良かった
10. 名無し ■2010/05/27 20:03:12
守矢の描写が一切ないのが怖いな
永琳が「平和的な解決方法を見つけることは出来なかった」というのも
11. 名無し ■2010/05/29 22:26:36
ゆかりんでないなーと思っていたら最後にやっと……
なんとかしてやれよw
12. 名無し ■2010/06/02 22:02:10
とても感動できる良い話だったと思います。
どうやったらこんな作品が書けるんですか?
ああもう何か言おうとしてたけど思い出せないや・・・
13. かさ ■2010/06/03 13:16:05
長すぎ
14. 機玉 ■2010/06/05 00:56:38
悲劇が起きた原因は空の能力だったけど、空が能力を手に入れてなかったら霊夢と会う事もできなかったかも知れないんですよね。
ああ、考えれば考える程切なくなる話だ……
でも空と霊夢が愛しあえて良かったです。
15. 名無し ■2010/06/05 11:34:43
いいセンスだ
ピースv(^^)v
16. 名無し ■2010/09/05 01:23:40
泣いた
新しい博麗の巫女に幸あれ
17. kyoune ■2010/11/16 16:36:08
なんて切ない物語……。
18. ハッピー横町 ■2011/02/02 16:20:58
誰も悪くないのに報われず、誰も悪くないのに救いの手は差し伸べられない。
切ないです……。
19. 名無し ■2011/10/01 21:12:56
さとりが霊夢と空の子供を育てた五年の間に、守矢の人たちがさとりの所を訪れたことがあるはず。
その時にさとりがどういう対応をしたのかが気になります。
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