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『永遠の実りの秋/刹那の暮れの秋』 作者: sako

永遠の実りの秋/刹那の暮れの秋

作品集: 19 投稿日時: 2010/07/24 13:20:06 更新日時: 2010/07/24 22:20:06
 妖怪の山。赤と黄色の葉が茂り、栗と橡の実がなり、熟れた柿やアケビがぶら下がっている不思議な大木。回りには小さな薩摩芋畑が作られ、根本からはいろいろな種類の茸が生えている。その大木の幹に取り付けられたこぢんまりとした紫色の扉の奥、紅葉と薩摩芋を表札にしているのが幻想郷の秋を司っている姉妹、穣子・静葉の家だ。


 大木の幹を上手くくりぬいて造った二つの部屋。向かって玄関からは奥が寝室だ。部屋のほとんどを占めるベッド…床の上に直接、布団とシーツを広げただけの万年床、その上に秋姉妹は二人互いに相手の足の方を枕にするようすやすやと眠っていた。陰陽の紋か星座の69の様。仲むつまじい様子が見て取れる。

 と、

「うぅん〜、すべすべ〜」

 寝ぼけているのか姉の静葉が手を伸ばして妹の穣子の足をなで始めた。くすぐったいのか、まだ頭の中は夢の中の穣子はもぞもぞと足を動かして静葉の魔手から逃れようとするが眠っているくせに力強い姉の腕はしっかりと妹の足をつかみ、逃がさないようにした。

「これ…私の…」

 静葉は穣子の足を抱き寄せると頬ずりし始める。目を瞑ったまま恍惚とした幸せそうな表情を浮かべる。対して穣子の方は何処かうなされているようだった。八目鰻がたっぷり入れられた桶に足を突っ込んでいる夢でも見ているのだろう。
 やがて頬ずりしているだけでは飽き足りなくなったのか、静葉は更に強く穣子の足を寄せるとそれをまるで抱き枕のように自分の胸に抱き、そうして、舌を…

「ひゃぁぁぁぁぁ!? お、お姉ちゃん!?」

 そこまでしかけたところでさすがに穣子が目覚めた。慌てて身体を起こし、ぬめぬめボディのおおみみずに襲われていたのは夢だったとやっと理解した。

「もう、お姉ちゃん。また」

 唇を尖らせてぷんすか。寝ぼけた姉に怒る穣子。けれど、静葉はまだ眠ったままだ。えへへ、と笑ったまままだ穣子の太ももを枕に眠っている。たらり、とよだれが穣子の太ももの上に流れてきた。

「わっ、お姉ちゃん、ばっちいよ! ばっちい!」

 さすがにそれには参ったのか、慌てて穣子は静葉の手から逃れる。殆ど蹴り飛ばすような勢い。それだけされてやっと静葉も目を覚ました。

「ぬん…ふぁぁぁぁぁ。おはやう、みのりん」

 大きなあくびをしながら身体を起こし朝の挨拶。穣子はもう呆れ顔でおはよう、と返すしかなかった。

「もう、お姉ちゃん。寝てるときは私の足をおもちゃにしないでって言ったでしょ」

 まだ、寝ぼけているのかも、と穣子は自分の足を守るよう、シーツを抱き寄せると、布団の上で三角座りになり、膝の上にあごを乗せて、目を細めて静葉を睨み付ける。

「あれ、私、また、やらかしちゃった? う〜ん、でも、仕方ないじゃない。無意識なんだから」

 静葉は目頭を擦りながら弁明する。並んで寝てたはずなのに、ごめんね、と謝っているが余り反省している様子ではなさそうだ。

「でも、私が無意識に穣子の足で遊んじゃうのも無理ないわよ。だって、私、みのりんの足、好きすぎるから」

 えへ、と笑う静葉。

「私の大根足と違ってとぉっても綺麗なんだから」

 それは誤魔化すための言葉だったけれど、穣子には必要以上に効果があったようで、一瞬、え、と唇を形作った。

「もう、お姉ちゃん、ばか言って…」
「ほんとだよ」
「……お姉ちゃん」

 そっと腕を伸ばす静葉。シーツの間から出ている穣子の足の先に優しく触れる。

「可愛らしいこの爪も」

 親指の白磁のお猪口の様な爪に触れる。

「テンの子みたいな指も」

 丸っこい親指を優しくつまむ。

「さるすべりみたいにすべすべの肌も。春に採り忘れていたうどみたいなほそい足首も」

 静葉の腕が上へ。水面でも撫でているような滑らかさで登っていく。

「白樺の木みたいなきれいな形の足も…」

 膝立ちに、身を乗り出すように静葉は穣子に近寄る。ほんのりと穣子の頬が紅葉する。

「つくりたてのお団子みたいな膝小僧も、鮎のお腹みたいな膝の裏っ側も」

 シーツを捲って、穣子のスカートもまくり上げ、静葉は穣子の足に身体を寄せる。穣子は逃げるように、両手を布団について背中の方に重心を移す。けれど、視線は静葉に向けられたまま。静葉もじっと穣子の顔を見ている。

「両方とも左足なのも、私は好きなの…穣子」

 静葉の左手。穣子の右側の左足の指に、絡み合うよう、はめられていた。

「お姉ちゃん…」

 つぶやきは、膝への口づけで返された。

















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








………LongLongAgo

Time IN a Spling.






(まだ、姉妹が神様じゃなかった頃のお話)








――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












 いまだ日の本の国が源平の争いの最中にあり、清盛公がご存命であった頃の話。山間のその村には少しばかり変わった風習があった。
 村に一つっきりの古い社の境内、まだ、暗いところでは雪が残っているような季節にふきのとうが霜を裂いて芽を出し始めた、その次の晴天の日、選ばれた村娘の一人が耕された畑を素足で横切るという儀式だ。

 儀式は太鼓と笛の音と選ばれた者以外の娘っ子たちの舞踏、御神酒の振る舞いと祝詞と共に行われ、今年の作物の吉凶を占い、豊作を願うというものだった。
 選ばれた巫女娘が無事、畑を渡りきればその年は豊作。もし途中で躓いたり、石を踏んづけて怪我をすれば…そういう取り決めの儀式だ。

 と、言っても儀式が行われる神事用の畑は毎年、同じ場所だし、儀式の段取りが決まってからは村人がしっかりと耕し、一年の間に生えた雑草を引っこ抜き、石の一欠片でも落ちていないか眼を皿にして探し回っているので失敗した事など、村で一番長生きの婆様のそのまた婆様の代からないときている。ある意味、出来レースのような儀式だった。

 けれど、それでも成功は成功なのか、はたまた偶然か、村は開村以来、殆ど凶作に見舞われたことはなかった。もとより豊な大地で、嵐や日照りとも無縁そうな地域にあり、凶作など天変地異でも起こらない限りならないような場所だった。朝廷の争いとも無縁で村は徐々にではあるが確実に豊かに発展を続けていた。


 巫女娘が無事畑を渡り終えれば、後はやんわやんわとした酒盛の始まり。村にとってこの儀式はただのお祭りの一環でしかなかった。

―――そうして今年も儀式が始まる。









「じゃあ、お姉ちゃん、私、行ってくるね」

 行ってらっしゃいと村の外れに住む静葉は、戸口に立って手を振るう妹の穣子を見送る。
 
 姉妹は早くに両親に先立たれ、身寄りもなく二人で暮らしていた。普通の寒村ならば、姉妹はまともに食事を得ることもなく、草の根を囓って生き延びているところだが、そんな様子はない。庭にある小さな畑はしっかりと耕され、姉妹の顔はどちらとも艶やかだ。栄養失調の様子など微塵もない。こんなか弱い姉妹でも十分に養えるほどの蓄えがあることからも村の裕福さは見て取れた。

 穣子が出て行ったのを見て静葉はふうとため息をつく。穣子は近々、開催される村祭り…その主行事である畑渡りの前座、豊穣の神を呼び寄せるための舞の練習をしに村の集会場へ行ったのである。親が他界してからも何度かやってきたことなので穣子自身には何の憂いの表情もなかった。踊り子の役目は小さい頃からやってきているので、今では音楽さえ流れれば一挙一動、間違うことなく一人でも最後まで踊りきることが出来る。それは姉の静葉も同じだったが…今年は静葉は踊りの練習をしなくても良いことになっていた。代わりの大役を村長に命じられたからである。

 穣子が家を出て、暫く経った頃。静葉は少し緊張した面持ちで、じっとしているのに耐えられず、部屋を掃除していた。そこへ戸口を叩くものが現れる。ついに来た、と静葉は喉を鳴らして来客を出迎えに出た。

 戸口に立っていたのは男二人に初老の女性一人。村長の妻の刀自さまとその息子二人だ。これから静葉は村の一番奥、山間に建てられたお社の中で数日、刀自さまと一緒に暮らさなくてはいけないのだ。
 物忌のため。酒肉を絶った野菜と山菜ばかりの精進料理を食べ、毎朝、冷たい湧き水で身体を清め、祭りの当日、儀式の時まで人目につかないようお社にこもる。そう、静葉は今年の儀式のための巫女に選ばれたのだ。

 刀自はその静葉の身の回りの世話をするため、息子二人は山の中のお社まで二人を届けるため、静葉を家まで迎えにやってきたのだ。
 準備はいいかと、問いかける刀自。準備も何も持って行くものは自分の身体一つだったので、はい、と静葉はすぐに頷いた。











 その日から始まった物忌がいつ終わるのかは神のみぞ知る、と言ったところだった。
 祭りのだいたいの日取りは決まっているものの、いつ行われるかは前述の通り、天気任せ。その間、話し相手になるのは障子の向こうの刀自の婆さまだけで、静葉は一日中、薄暗いお堂の中でじっとその日が来るのを待っているしかなかった。
 誰の顔も見ないのがこんなに辛いことだったなんて、とお堂の真ん中で正座してじっと待っている間、静葉は思った。目を瞑ると浮かんでくるのは妹の穣子の顔で、ああ、あの子は今頃、舞の練習をしているのかな、と昨年、自分が習っていたときのことを思い出しながら、その姿に妹の顔を重ねていた。


 儀式の日は静葉がお堂に入ってから四、五日経ってからだった。刀自の話では例年並。村に伝わる話では一ヶ月、お堂に籠もりきりだった巫女もいるらしい。それに比べれば全然たいしたことはない、と静葉はお堂の隣の部屋に用意された駕籠の中に入る。駕籠は長途、静葉の年頃の女の子が一人、入れる程度の大きさで、漆塗りのしっかりとした造りの箱だった。中に入って扉を閉めてしまえば外から光が入ってくることはなく、完全な暗闇に包まれる。静葉は扉がきちんと閉まっていることを今まで散々、刀自に説明されたとおり確認すると、準備が出来たことを知らせる鐘を鳴らした。その音を聞いて部屋の扉が開く音が聞こえ、板間に二人分の足音が響いてくる。村まで静葉を運ぶ役目の人だ。その役割は村長の二人の息子に命じられたと聞いている。中にいる静葉は当然、本当に外にいるのがよく見知っている、家で力仕事出来る大人が必要になったとき、お願いを聞いてくれたあの二人なのか、知るすべはない。程なくしてかけ声もなく揺れ始める駕籠に不安を覚えながらも、静葉は言われたとおり、じっと黙っていた。

 それから小半時。駕籠は二人の屈強な男に抱えられながら山を下りていく。運ばれている間、暇だったのと、心中の不安を誤魔化すために静葉は今、あの苔だらけの石段を下り始めたところ、あの田んぼのあぜ道を折れたところ、庄屋さんの家の前を通り過ぎたところ、と自分が何処を運ばれているのか想像しながら答え合わせのないゲームを楽しんでいた。


 一際大きな揺れを最後に駕籠の揺れが止まった。想像の世界に実を浸していた静葉がはっ、と顔を上げると外から小さな声で着きました、と村長の息子の兄の方が声をかけてきた。村に帰ってきたのである。

 それから程なくして、儀式は始まった。
 和太鼓に甲高い笛の音が聞こえ、踊り子たちが大地を踏みしめ舞う雰囲気が漂ってくる。これが終われば私の出番、と静葉は一抹の不安を覚えながらも、それよりももう少しでこの拘束から解放される安堵に胸を膨らませながらその時を待った。終わったら真っ先に穣子のとこへ行こう、そう、今は踊っているであろう妹の姿を思い浮かべた。

 そして、踊り子たちの舞踏と音楽が最高潮に達した頃、お日様が天頂を指し示した瞬間、ある種の厳かさをもって駕籠の扉が開かれた。

 まぶしい、と静葉は目を細める。数刻ぶりに見た光に閉じていた瞳孔がぎりぎりと錆び付いた動きを見せ、瞳が痛い。目が慣れるまでこうしていようかとじっとしていると、扉を開けた村長が小声ではようせんか、と怒ってきた。慌てて駕籠から降りる静葉。

―――あ

 ひんやりとした土の感触が足裏から伝わってくる。

 お社に連れて行かれたその日から静葉は草履も足袋も履いてはいない。
 草履はともかく足袋なんて滅多にはかない代物だったので、素足で五日間、生活するのは別段、不便ではなかったが、その間に受けた足を清めるための按摩や足湯には少しばかり辟易した。変な臭いのする薬湯に毎日足を浸し、今日も、祭りの開催が決まってから刀自の手で足をマッサージされたのだ。しかも、障子に開けられたそれ専用の穴越しに。これが酷くくすぐったく、静葉は按摩のたびに笑い転げ、刀自にこっぴどく叱られたのだった。

 それもこれで終わり、と静葉は教えられた段取り通り、一歩を踏み出す。しっかりと耕された畑の土は羽毛の布団のように軟らかく、お日様の光に暖められて風呂の湯のように暖かかった。

 次の一歩。
 土に埋もれる足が気持ちいい。頬を撫でる風も春を告げているように心地いい。微かに花の香りを憶える優しい風。さんさんと降り注ぐお日様の光も暖かく静葉は優しい気持ちになった。自然と顔がほころび、駆け出したくなる気持ちを抑えながらゆっくりと、ゆっくりと決められた歩調で畑を横切っていく。

 まるで湯船にたゆたっているような気持ち/暖かな毛布に包まれているような心地/お母さんの胸に抱かれているような…

 あっ、と静葉の頬に涙が伝わる。母の面影が脳裏をよぎる。もう、いまはいない、お天道さまのところへ逝ってしまった母と…父の顔が。
 けれど、その涙は悲しさのために流されたものではなく、ただ、懐かしく、ただ、優しく、うれしさの余り流された涙だった。

―――栄え、育み、生きる喜び

 その気持ちに静葉は満たされていた。
 今までの巫女たちと同じく、これまでの巫女たちと同じく。



















 けれど、













「!?」










 これからは















 ない













「…あれ、お姉ちゃん、どうしたんだろ?」

 聴衆の一人として姉が無事、畑を渡りきるのを眺めていた穣子が疑問符を浮かべる。同じく、監督役の刀自も、夫の村長も。遅れて穣子と同じ踊り子たちや楽器の担い手、それに他の村人たちも訝しげに眉を潜め始める。

「っう…」

 二百を超える視線が集まる先、峰を八つも作れば埋まってしまうような小さな畑の中心、静葉は右足を前に踏み出したまま、押し固まり、両肩をぶるぶると震わせていた。

 どうしたのか、穣子をはじめとする者は心配そうに、まだ、刀自を始めとする村の堅物たちはなにをやっとるか、と怒りを視線に乗せ始め、その声が聞こえたのかやっと静葉は再び歩き始め、儀式を再開した。

 けれど―――

 その歩き方は何処かびっこをひいているよう。
 右足の扱い方を忘れたようなぎこちない歩き方で、気がつくとまっすぐ渡らなければならない道筋が左へずれていた。

 対面で静葉が来るのを待ち構えている浄め役の女…刀自の妹で、畑を歩いて来たために土で汚れた巫女の足をお社の近くに湧いている水で清める役目の者、が訝しげに眉を潜める。まさか、と本人さえ知らずの内に唇が動く。

 ほどなくして、静葉が対面にたどり着く。ほうぼうの体で、まるで何百里も歩いて来たような疲れた表情でどっと神具の古びた椅子へ座り込む。
 その足下へ綺麗な水が張られた桶が持ってこられる。本来ならそれに恭しく礼をしてから足を清めなくてはいけなかったのだが、もはや誰もかれもそれどころではなかった。
 体力を使い果たしたように肩を落としている静葉。険しい表情の刀自たち。親類が大事故に見舞われたとの知らせを受けたように配そうな顔を浮かべる穣子。
 儀式の段取りも無視して浄め役が惚けている静葉の足を取り、土で汚れた足を桶に沈める。痛い、と静葉の口が鋭い悲鳴を漏らした。聞こえなかったように浄め役が静葉の足を洗い始める。すぐに足の裏についていた土が水の底へ沈み始め、そうして…

「え―――なに?」
「滲み…る」

 澄んだ水に朱が混じる。




 自分が芽にしている者が信じられないと浄め役は目を見開き、慌てて桶の水をかき混ぜ、それをさもなかったことのように誤魔化す。出来るはずがないのに。薄まった朱と舞い上がった土で透明だった水はあっという間に濁る。

 けれど、当然、それでは済まない。濁った水にまだ、更に朱が、紅い布を川の流れに乗せたように伸びてきた。静葉の足の裏から。

「ッ!」

 鬼気迫る表情で浄め役は静葉の足を押さえる。それで止めようとするように。無意味に無駄に無慈悲に無理に、無為に。

「何だこれはぁ!?」
「ご、ごめんなさい…」

 足についた傷はそんなことでは治らないだろうに。

「お畑を…わ、渡ってたら、い、石…とんがった石、石を踏んづけ、踏んづけたみたいで…それで、それで…」

 堰を切ったように静葉の顔から涙があふれ出す。弁明じみた言葉はしどろもどろで、要領を得ない。けれど、話を聞くまでもなく、誰の目にも明らかに、

「畑渡りが…?」

 そう、儀式は失敗した。静葉は畑の真ん中でそこにないはずの鋭い石を踏みつけ、怪我をし、そうして、もはや、意味はないのに誤魔化そうと畑を横切ってきたのだ。

 ぽろり、と水中で静葉の足に突き刺さっていた鏃のように鋭い石の欠片が抜け落ちた。足から流れる朱は、止まらなかった。















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――















「お姉ちゃん、そろそろ起きようよ」
「………」

 あれから一ヶ月余り、すっかり春の陽気に包まれ始めた村。けれど、村外れのこぢんまりとした家に住む秋姉妹の顔は優れなかった。
 特にもう、日も高くなりつつあるというのに薄いせんべい布団に頭までくるまってじっと狸寝入りをしている姉の静葉の方は。

 あれから、儀式が失敗し、村はまるで太陽が西から登り始めた様な混乱に見舞われた。
 当然だろう、誰も、村一番の長生きの刀自の婆さまでさえも見たことも聞いたこともない出来事が起こったのだから。

 儀式の失敗。言い伝えでは村が凶作に見舞われるという。

 それはまさしく前述の喩えの通り、今まで信じていたものが足下から音を立てて崩れるような話だった。
 気の強いものはそういうこともあるだろうと、引きつった笑いを浮かべていたが、殆どの村人…とくに女たちは凶事の兆しを示す出来事に不安を浮かべ、普段から神事に興味がなさそうにしている荒くれたちは儀式のやり直しを提案し、逆に自分たちが誰よりも怪力乱神を恐れている事を如実に語っていた。殴り合い寸前まで及びかけた言い争いは長く続き、刀自のやり直しはできんし、今年の春祭はこれでしまいじゃ、という鶴の一声が上がるまで終わらなかった。
 その間、静葉は早々と刀自の命を受けた者の手によって家まで送り返され、足の裏の傷は話合いの内容の是非に関係なく放っておくことは出来なかったため、すぐに治療を受けた。その間、村人や穣子が話しかけても静葉は俯いて、黙ったままだった。


 それから一ヶ月の間、時間は何事もなく過ぎていった。

 一抹の不安を抱えながらも村人は日々の生活へと戻っていき、芽吹く春、育つ夏、そうして、収穫の秋と耐えるべき冬を迎えるための準備を始めているのだった。

「ほら、今日はお種さんの手伝いに行く日でしょ。いいかげん起きて!」

 継ぎ接ぎだらけのぼろっちい布団をひっぺ返し、ううっ、とうなり声を上げて丸まろうとする姉をげしげしと足蹴にし、半分文字通りに静葉をたたき起こす穣子。

「さっ、行くよ」
「………うん」

 穣子の意気込みに折れたのか、妹に腕をつかまれ引っ張り上げられ、やっと静葉は頷く。それでも、かなり無理矢理といった様子。

「ほら…お姉ちゃん、がんばらないと…」

 いや、本当に無理矢理だったのは静葉ではなく、穣子、だったのかもしれない。









「おはようございます」
「あ、ああ、おはよう。穣子ちゃん、静葉…ちゃんも」

 それから農作業の用意をして自前の鍬や鋤を手に件のお種さんの畑まで来た二人。畑の持ち主のお種はいなかったが、姉妹のようにお種の畑仕事をする代わりにその出来た野菜のいくらかを取り分として貰う農婦の人たちが既に畑にはいた。既に鍬を振り下ろし、雑草を取り、仕事を始めている。

「…お、おはようございます」
「………」

 妹に習って少し、元気なげだが挨拶をする静葉。農婦たちの返事がなかったのは先に挨拶したから不必要だと思われたのか。

 静葉たちはそれから仕事を取り仕切っている監督役に説明を受けて、自分たちの分担の仕事を始めた。草むしりと石を取り除く仕事。力のない幼い姉妹に丁度いい仕事だった。
 姉妹は地面にしゃがみ込み、冬の間にすっかり固くなってしまった畑の上にまばらに生えている草を抜き始め、転がってきた小石をゴミ捨て用の笊に投げ入れていく。

 手早く丁寧に仕事を続ける二人。もう、何年もやってきていることで今更、辛いなどということはない。手つきも手慣れたもので視線と腕の動きは一拍ずつずれており、常に次の目標を見定めながら動いていた。
 黙々と真面目に仕事をこなす。

「………」

 いや、違う。
 黙っているのはこの場所にわだかまっている不穏な空気に気圧されてのことだった。
 空はどんより曇っており、もう、桜が咲いてもおかしくない季節なのに風は冷たく、肌寒い。足下から登ってくる冷気に、姉妹は、いや、農婦たちは絶えず動き回り、身体を温めなくてはいけなかった。

「ああっ、もう」

 そのくせ妙に雑草はしっかりと地面に根を張り、その葉を短いながらもしっかりと広げていた。小石の数も妙に多く、穣子は確立の関係でいくつも投げ入れるのを失敗して駕籠から石をはみ出させていた。

「………」

 いや、果たしてそうだろうか。
 天気は悪い。気温も低い。そのくせ仕事は多い。けれど、姉妹の気が酷く負の方向へ落ち込んでいるのは、妹が妙にイライラして、姉が毒でも飲んだように押し黙っているのは果たしてそのせいなのだろうか。

「………」

 それでも淡々と仕事を続ける姉妹を時折、疑心暗鬼に駆られたように観察する目。一つや二つではない。十は下らない視線。姉妹と一緒に働いている農婦たちだ。おいちょカブでまるで親の手札の善し悪しを伺っているような、チンチロで如何様に注意しているイカサマ師のような、そんな視線。姉妹を一別してはすぐに自分の仕事に視線を戻す。時間にすれば一瞬程度、けれど、それが折り重なり合い、殆ど常にと言っていい時間、か弱い姉妹はそんな攻撃的な視線に晒されてた。

「お姉ちゃん、大丈夫…?」
「…うん」

 姉妹はその視線に気づいているのかいないのか。それでも背中にのしかかるような圧力に気分を悪くしながら、けれど、黙っていわれた仕事を続けるしかなかった。黙って仕事を続けていれば、まるで、報われると思っているように。





「はー、やれやれ。どっこいしょういち」

 けれど、終わらない仕事などと言うものはまだこの時代、存在していなかった。姉妹が綺麗にするように言われた場所は二区画ほど、二人がかりで一時間も黙々と続けていれば終わるような広さしかなかった。
 穣子は立ち上がってざっと辺りを見回し、自分たちの仕事の出来映えに満足すると力強く頷いた。もう、雑草一本、石ころ一つ落ちていない。

「お姉ちゃん、そっちは終わった?」
「うん、だいたい」

 穣子の言葉にそう頷く静葉。外に出て暫く経ったお陰か、朝方より幾分、元気を取り戻しているようだった。それでも当てが割られた仕事の内、六、七割を穣子が終わらせており、静葉は調子が悪いのか三割ほどしかこなせていなかった。

「班長、終わりましたよ」
「あ、ああ、ご苦労さん」

 疲れている様子の静葉をそっとしておいて穣子は一人で監督役のところへ行く。

「次は何処をしましょう? それとも、今の場所、耕し始めましょうか?」

 普段、こういった目上の人に話を聞いて、仕事の段取りを取り付けるのは姉の役目だった。大抵、穣子は静葉の後ろではい、はい、と相づち打つように頷いているだけだった。けれど、今日はそれじゃあ役不足。具合の悪そうな静葉に変わって穣子は率先して動き始める。

―――お姉ちゃん風邪かも。だったら、ここで私が頑張らないと、いざっていうときにお薬かうお金も栄養たっぷりのご飯も手に入らなくなっちゃうから。

 決意を胸に、奮闘する気迫を見せる。
 しかし―――

「ああ、うん…そうね…ええっと…」

 班長は歯切れの悪い言葉を返すばかり。視線を川の淀みで泳いでいる雑魚のように右往左往させ、何か言葉を探しているようだった。時折、助けを求めるように他の農婦に視線を向けては、気圧されるような睨む目つきに追い返される。 

 いつもはお姉ちゃんが聞いているから、変に思われているのかな、と穣子は訝しむ。そうして、やっと、班長が決意を固めて喉の奥から出してきた言葉は穣子にとって余り聞いたことのない言葉だった。

「うん…そう、今日は…その、もう、いいよ。上がってくれて」

 え、と穣子は唇が丸くなるのを止められなかった。

「そんな。まだ、向こうの畑とか、あっちの草むしりとか、種まきとか、全然終わってませんよ」
「そう…ね、でも、まぁ、後は私たちで何とかなるから」

 視線が泳いでいる。明らかに嘘と分る言葉を吐く班長。むっ、と穣子は憤りを覚え、すかさず反論しようとした。

「でも…っ?」
「………」「………」「………チッ」

 その体が射竦められたように止まる。なおも食い下がろうとする穣子を射貫く視線。他の農婦たち。仕事の手を休め、じっと穣子の方を見て…睨んでいる。気圧され、後ずさりし、ううっ、と穣子は声を震わせる。

―――何? どうして…? でも、ここでしっかり働かないと…

「穣子…」

 再び、金剛石のように押し固めようとした決意が後ろから柔く砕かれる。穣子が驚いて振り返ると何処か青白い顔つきの静葉が彼女の肩に手を置いて立っていた。

「いいから、今日はお言葉に甘えて帰ろう」
「お姉ちゃん!」

 他ならぬ姉の裏切りに班長の意味が分らぬ言葉よりも、いわれのない敵意よりも酷く傷つく穣子。可愛らしい眉をハの字にして姉に怒鳴るような勢いで声をあげる。

「体調、悪いの。今日はもう帰って休みたいのお姉ちゃん」

 対してあくまで静かに、けれど、深い沼の底の静けさで答える静葉。

「……うん、わかった」

 体調が悪い、自分も予想していた事の回答を本人から口にされては引き下がるしかない。穣子はあからさまに不満な顔つきだけれど、仕方なく頷き、細く冷く、土に汚れた姉の手を取った。

「それじゃあ、班長さん。申し訳ないですけれど、お先に」
「あ、ああ、お疲れさん、穣子ちゃん。しず、はちゃんもお大事にね」

 逃げるように静葉の手を引きながら、わざとらしく深々と頭を下げる穣子。目上の者に対する態度ではない。けれど、班長の言葉も同じようなものだった。特に後半、とってつけたように静葉の名前を挙げたところは。









「あれ? あん娘たちはぁ?」

 姉妹たちに入れ替わるように腰の曲がった老婆が現れる。

「あ、お梅さん。こんつわ」

 この年寄りが畑の持ち主のお梅だった。村の重役が集まる会合に出かけていて、その間、姪っ子の女性に監督役を頼み、会合が終わったのでこうして戻ってきたのである。

「娘っ子は? 静葉と穣子はどっした?」

 戻ってくるなり自分が雇っている者に挨拶も労いの言葉もかけず、そう再び監督役に問いかけるお梅。監督役の姪っ子は顔を青白くしてぶるぶる震えた後、端的にこう説明した。

「あん子らは帰ったよ。姉の方が体調が悪いさ言ってた」

 瞬間、干涸らびた干し柿がごときお梅の顔が岩塩のように険しくなる。

「なんじゃと!? ああ、そうかい、そうかい。こん仕事の途中でほおっぽりだして帰るっちゃ無責任よの。ああ、やっぱり畑渡りさ失敗したんも、そーゆーことか」

 白く石灰岩のようだった顔をマグマ溜りのように赤くしてお梅は吠える。梅さんが機嫌悪ぅなるとなかなか治らんのに、と農婦たち全員は既に帰ってしまったあの姉妹を恨むような感情を心に作った。













 その日はそんな感じで終わった。
 あからさまに憤っていた穣子も、落ち込み具合が悪い様子を見せていた静葉も村人たちの敵意、村に広がっている不穏な空気は静葉が畑渡りの儀式を失敗したからだと言うことは分っていた。ここ何十年、村の長老たちでさえも見聞きしたことのない凶兆に怯え皆、不安に苛まれているのだろうと。自分自身たちさえ含めて。
 それでも穣子は七十二日、静葉もそのうちそんな雰囲気は収まるだろうと考えていた。
 暖かくなって忙しくなり始めれば、以前のようにあっちの畑の草むしりにかり出され、向こうの田んぼの苗植えに引っ張られ、山にワラビや竹の子採りに連れて行かれる。そんな風に元通りになると考えていた。
 或いは、その年の気候が例年通りならそうなっていたかもしれない。
 静葉たちが成年して、嫁入りし、子供が出来たときに『お母さんがあんたぐらいの時、こういうことがあったのよ』と昔話に花を咲かせることになっていたかもしれない。




 そうはならなかったが。






「…今日も、ですか」

 それから更に数ヶ月、何度目かの絶望を受けて、穣子は宙に腕を伸ばし、それを所在なさげにその場に置いたままにした。ある農家の軒先、玄関になっている土間の前、毎年、手伝いに来ていた家だ。そして、引き戸の敷居を境界線に隔てるように穣子と家の奥さまが立っている。穣子は呆然と、奥さまは申し訳なさそうな表情を浮かべている。

「ごめんなさい、今年は…その、人手、足りてるから」

 そう事情を説明する奥さま。目が泳いでいる。左下から右上へ。嘘を言っている時の眼球の動き。それを穣子は悟れなかったが、相手が嘘を言っていることはすぐに見抜いた。
 この家は大きな畑を持っているが女系の家系でいつも男手が足りず、毎年のように多くの村人をお手伝いに雇い入れている家なのだ。それが今年に限って『人手が足りない』なんてことはあり得なかった。では、どうして奥さまはそんな嘘をついたのか。答えは、

「キヨ、あん娘はもう、帰ぇったのか?」

 家の奥から聞こえてきた。旦那の声。声色から読み取れる感情は嫌悪。まただ、と穣子は唇をかみしめる。

「まったく、静葉のヤツ、アイツのせいで今年は散々だ! 全然、天気が優れねぇじゃねぇか」
「アンタッ!!」

 大きな声の陰口。あからさまな敵意と侮蔑を拭くんだ声。慌てて奥さまが叫び、旦那の言葉を遮るがしっかりと穣子の耳には届いていた。わなわなと拳を握り、震える穣子の姿を見てはっ、と奥さまは息を潜め、申し訳なさそうな顔を取り繕う。

「ご、ごめんなさいね穣子ちゃん。そういうわけだから、じゃあ」

 謝ってぴしゃりと戸を閉める奥さま。穣子はもう、弁明を求める声も戸を開ける力も失ってしまっていた。

「アンタ、あの子まだいたのよ!」
「あ? チッ、盗み聞きかよ、姉妹そろって悪どい奴らだな。だから早く追い返せって言ったんだ、あんな疫病神の妹なんて」

 戸の向こうからそんな声が聞こえてくる。俯いて握り拳をつくったまま穣子は踵を返した。怒りは浮かんでくるもののそれを何処かに発散しようという気持ちはわき起こってこない。

―――どうせまた積もるんだから

 そう、この無下な扱いは今日が初めてではなかった。春先から徐々にそして確実に穣子、静葉の姉妹に対し、こういう態度を取る村人の数が増えていった。春先では風当たりが強かった程度だった村人たちの態度にあからさまな害意、敵意が含まれ始めてきたのだ。軒先で仕事を断られ、道ですれ違って挨拶しても返事をしてくれず、この前、静葉は家に向かって石を投げ入れられたと言っていた。日に日に姉妹を疎んじる瞳の数が多くなる。

 事の発端は静葉が畑渡りの儀式を失敗したからだったが、それがこうも悪化したのは静葉のせいではないと穣子は天を睨みつける。

 天蓋は鈍色。分厚い雲が立ちこめている。日の光もか弱く、もう、そろそろ梅雨時だというのに、大気はまだ春先の冷たさを保っているようだった。

 この処の天気はどこをサンプリングしてもそんな感じだった。雪は三月の終わり頃まで降り、四月の半ばまで山の高い高いところの影では残雪が見え、五月に入ってもまるで暖かくならなかった。桜が咲くのが遅く、曇りの日が続き、時折、酷い雷雨が降り注ぎ、山に雷が落ち、村の農業は遅々として進まなかった。

 種を植えても芽吹かず、苗は植えた傍から枯れていく。山も同じような状況なのか、猪や猿が下りてきては畑を荒らし、土筆や蕗の薹も寒さにやられたのか、余り頭を覗かせなかった。心なしか村を舞う蝶の数も今年は少ない気がする。悪天候続きの毎日。それを村人は静葉のせいだと思ったのだ。やっぱり、と。

 初春の頃は今までと同じく、姉妹の手助けをしてくれる優しい人たちは沢山いた。気にしなくていいよと、何も起こらないから、と姉妹に、特に静葉に優しい言葉をかけてくれた。仕事も去年の同じように与え、出来た作物や山でとれた動植物を分け与えてくれた。けれど、その数、その質は悪天候の日が続き、いつまで経っても例年の春らしい気候にならないのに反比例するように減っていった。そして、逆に勢力を伸ばしていったのが悪意と敵意を持った連中だ。

 最初に静葉を疎んじるような態度を取っていたのは村の重役、信心深い年寄り連中ばかりだった。そういった連中は権力こそあれ、村の実務…農作業から退いている連中ばかりだったので、時折、頭ごなしに怒られることはあれど静葉たち姉妹の仕事が減り他の村人の態度が悪くなることはなかった。けれど、悪天候が続くにつれ、農作業が出来ず、山へ猟や山菜採りに行けなくなってくるとそれを生業にしている殆どの村人たちの態度が変わってきた。静葉が畑渡りを失敗したから言い伝えの通り、村が不作凶作に見舞われていると。それが真実なのかどうかは神ならざる身では因果を証明できない。けれど、現実問題として天候の悪化という人間の手には余る問題を前に人々は為す術もなくうなだれ、その恨みの捌け口を何処かに探すしかなかったのだ。

 疫病神、疫病神と行った先で陰口を叩かれる静葉。
 その数はどんどん、どんどん、と流行病のように増えていく。
 こんな狭い村では何より協調性親和性が求められる。二人、三人と的めがけて石を投げ始めれば、他の人も投げなくてはいけない。そうしなければ自分自身が的にされるからだ。


 静葉が家から出なくなったのは当然だろう。
 村中からの敵意の視線。どんな鈍感な人間でも気づくほどの鋤の切っ先のような鋭い視線に幼い子供でしかない静葉が耐えられるわけはない。
 日がな一日、静葉は薄暗い部屋に引きこもり、継ぎ接ぎだらけのせんべい布団を頭から被って、冬眠中の蛙のようにじっとしていた。

 その姉の姿にまるで病床に伏せているかのような目を向ける穣子。出来ることならなるべく長い時間、一緒にいて姉を励ましてあげたいところだったが、そうもいかなかった。現実問題として貧乏な姉妹は常に働いて、他人から施しを受けないととても生活していけないからだ。去年や一昨年は二人して頑張って働いてそれなりに何とか生活していけるレベルだった。けれど、今年は…? 静葉はたぶん、来年まではこのままだろう。静葉の心の傷は深く、来年、別の村娘が巫女に選ばれ、また村の農業が豊作にならない限りは。今年働けるのは自分一人だけ、と穣子は握り拳をつくる。


―――お姉ちゃんの分まで私が働かないと


 決意は固く、お百度参りをするように力強かった。
 けれど、村人の仕打ちはその決意を砕くように鋭かった。

 村の公の場に姿を現さなくなった静葉。それは長続きする雨と刺さぬ日の光に嫌気を催している村人たちにとって鬱憤の捌け口がいなくなったということに等しかった。陰口は相手に間接的に聞かせるもので、悪口は相手に直接聞かせるもの、そうしないと心に溜った陰鬱を吐き出せず、何も面白くないからだ。そうして、家に引きこもり、外に出なくなった静葉の代わりに、否応がなしに働きに出なくてはならない穣子へとその矛先は変わった。

 働きに行った先で罵られ蔑まれ疎まれる日々。頼まれる仕事の量はそのたびに減っていく、下衆な連中はそれを知ってか穣子に肥の汲み取りや用水路の掃除などきつく危険で汚らしい仕事を押しつけてくる。それでも仕事の貴賤を選べれるほど余裕のない穣子はどんな仕事でも頷くしかなかった。その姿が村人には浅ましく映ったのか、最初は姉の静葉を間接的に罵っていた言葉が直接、穣子にもおよび始めた。

「お姉ちゃん…」

 天を見上げて呟く。
 はらり、とこぼれ落ちたのは涙だったのか。
 いや、違う。冷たい地面の上に幾つも染みができはじめ、程なくしてざぁざぁと雨が降り始めた。瞬く間に視界を不良にし、幾つも水たまりを作り始める雨。今日はこれで何処も仕事をしなくなるね、といっそ安堵を覚えながら穣子は全身をびしょ濡れにしながら帰り始めた。

 降り注ぐ雨に前髪がおでこに張り付き、体は冷えていくが走る気力も湧かない。寧ろ編め音を聞いていれば余計なことを考えずにすむと穣子はわざと、歩みをとろく、ゆっくり帰ろうと考えた。

「ううん…駄目よそんなの」

 頭をふるって雫を飛ばす。
 そんな卑屈な考えでは駄目だ。私が気張って、頑張らないと、と力強く頷く。
 そして、穣子は雨の中を駆けだし始めた。
 バシャバシャと水たまりを跳ね、服が汚れるのも気にせず、腕を振るい、足を高く上げ、まつげを越えて流れてくる雨に目をしばたかせながら走った。

 雨音と体を動かせたお陰で少しだけ気が晴れた。天気とは真逆に。




「きゃっ!?」

 両側を林に囲まれた山道、曲がり道になっているところで穣子は出会い頭に誰かとぶつかり思わず尻餅をついてしまった。雨で視界が悪いのに全力で走っていたせいだ。
 お尻をびしゃり、と泥水で汚し、いててて、と鈍い痛みに顔をしかめる。

「こっ、こらぁ!!」

 腕を振り上げて怒鳴るが下手人の姿はもうなかった。雨の向こうにバシャバシャと水たまりを跳ねる音だけが聞こえる。

「あーっ、もう、最悪」

 泥だらけになった自分の姿を眺めて肩を落とす穣子。もしかするとあれも村人の嫌がらせの一つだったのかもしれない。だとすれば効果は覿面だ今日は作業がなかったから洗わなくていいと思っていた服が泥だらけで洗濯を余儀なくされてしまったからだ。

「お尻痛い…」

 打ち付けた腰をさすりつつ立ち上がる。不幸中の幸いか。倒れた場所は水たまりの上でその下は泥になっていた。それらがクッションになり、穣子は傷らしい傷も負わなかった。早く帰ろうと少し進み、丁度、曲がり角が終えたところで木々の間から覗く自分たちの家を見ようとして、

「え―――」

 穣子は言葉を失った。

 林の向こう。こじんまりとしたあばら屋から一筋、灰色い煙が立ち上っているのを捉えたからだ。

「火…事…?」

 穣子たちの家に風呂はないし、竈も小さいものなのでどれだけ火を炊こうと出てくる煙は僅かばかり。あんな、雨の中でもしっかりと分るほど煙は出てこない。そして、今は庭でたき火が出来るような天気でもない。ならば必然、この驟雨の中、雨風を諸戸もせずモクモクと立ち上っている煙はそれほどの火力があるものに他ならない。そこから導き出される答えは背筋を薄ら寒く、鼓動を跳ね上げさせるものだった。

「お姉ちゃん!」

 叫んで走り出す。最短距離を。普段通りの道を辿るならこの後、まだ、二度ほど曲がり角を曲がって蛇行する道を進まなくてはいけないのだ。それぐらいなら林の中を突っ切った方が早い。穣子はけれど、そんな合理的な考えを思いつくより先に走り出していた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 静葉を呼びながら林の中を走る。
 杉の枝が穣子の腕や頬を切るが気にはしていられない。足下を木の根に捕られないようにだけ注意して、穣子は藪をかき分けて急ぐ。

「お姉ちゃん!!」

 途中、一段、高くなっている所をシダ類を踏みつぶしながら降りる。もう、家は目と鼻の先だった。そこで何処が燃えているのかを確認する。
 出入り口のすぐ側、囲炉裏用の薪を並べている所だ。雨風から薪を守るために屋根の一部分が伸びているところ。火元はその薪のようだった。既に炎は屋根まで達しており、降り注ぐ雨をジュウジュウと気化させながら赤い舌をちらつかせていた。

「っ、もう、ままよ!」

 炎に肌を炙られながら静葉は家の中へ問い込むような勢いで入っていった。早く、早くお姉ちゃんを助けないと。その気持ちが勇気を奮い起こし、無謀な行動を取らせたのだ。

「お姉ちゃん!」

 狭い家だ。すぐに姉の姿は見つかった。
 奥の部屋、寝所に使っている場所の隅で布団を被ったまま片膝を着いてじっとしている。

「お姉ちゃん、火事よ! 速く逃げよう!」

 布団をはぎ取り、静葉の手を取る。けれど…

「………」

 静葉はまるで腰から根でも生やしているようにじっとして動かない。穣子が腕を引っ張ってもそのままだ。そのまま引きずって行こうかと一瞬、穣子は考えたが、部屋の真ん中辺りまで静葉を運んで、それをゴミ箱へ捨てる。動く意志のない人間を引っ張るというのは予想以上に難しく、火元は出口のすぐ側。一刻を争うこの瞬間、とても静葉を引っ張って逃げるなんて事は無理だと思ったからだ。

「お姉ちゃん、しっかりして、お姉ちゃん!」

 跪いて肩を揺さぶる。がくがくと穣子にされるがままに頭を揺らす静葉。虚ろな瞳に静葉の焦りの表情が写る。

「っ、お姉ちゃん、ごめん!」

 謝ってから穣子は腕を振り上げた。おくれてぱぁん、と乾いた音が部屋にこだまする。

「えっ…み、穣子?」

 はたかれた頬を押さえ、やっと静葉は言葉を発した。目の前には涙目で、肩を怒らせ、静葉を睨み付けている穣子がいる。

「お姉ちゃん、火事だよ!」
「か…じ?」

 言われてぱちぱちと炎が爆ぜる音を耳にする。部屋には黒煙がもうもうと立ちこめている。ケホケホ、と穣子が咳をしたところで大丈夫、と静葉が駆け寄ってきた。

「逃げよう、穣子」
「うん、お姉ちゃん」

 手を取り合って、煙を避けるため姿勢を低くしたまま玄関へ急ぐ二人。なんとかたどり着いた出入り口は既に炎に包まれつつあった。

「…い、今ならまだ」

 炎の前に立ち止まり、ゴクリとつばを飲み込む穣子。燃え上がる炎の熱線に産毛が焼かれる。熱い、と静葉が手のひらで顔を覆う。

「穣子、先に行って。私もすぐ行くから」

 静葉の提案に分った、と頷く穣子。助走をつけるため、二三歩下がって距離をつくる。
 炎の揺らめきに目を見張り、タイミングを計る…今だ!
 
 ダッ、と走り出す穣子。その様子を見守る静葉。時間の流れが緩やかになる。爆ぜる火の粉。空気の揺らめき。コマ送りで世界が見える。戸の隣につくられた薪置き場、その柱が倒れてくるところも。

「穣子…っ!」

 刹那の見切り。先行する穣子を追いかけ静葉も走り出す。否、飛び出す。穣子の助走が飛び出すための勢いなら静葉のそれは突撃する兵隊のそれ。一刹那で穣子の背中に追いつき、両手を突き出して、妹を突き飛ばす。

「きゃっ!」

 悲鳴。後ろからの衝撃に足を取られ、前のめりに倒れる穣子。かろうじて腕を前に出して、前転の動作で受け身を取る。

「っあ…熱っ!!!」

 何が起こったのか分らずも、穣子は体を起こそうとすると後ろから静葉の悲鳴が聞こえてきた。お姉ちゃん、と驚いて振り返ると軒先に倒れている姉の姿が見えた。倒れてきた柱から穣子を守るために突き飛ばしたのだ。そして、自分が身代わりに…

「お姉ちゃん!!」

 自分の体の痛みも無視して立ち上がると倒れた静葉の側に駆け寄る。倒れてきた柱は静葉の左足の上にのしかかっている。倒れてきた勢いと雨で火は収まっているもののぶすぶすと煙を上げる柱はかなりの熱さを保っている。肉が焼ける臭いに今は吐き気さえ催す。穣子は家の壁に立てかけてあった鍬を手に取るとそれを使って柱をどけ、静葉を助け出す。

「お姉ちゃん…」

 安全な位置まで静葉の体をひっぱていき、そこで脱力したように地べたに座り込む穣子。激しい痛みのためか放心しほとんど気絶状態の静葉を抱きかかえ、燃え盛る炎へ視線を投げかける。熱い炎と冷たい雨の対比。相反するはずのそれらはまるで互いに協力しあっているよう穣子の目には写った。どちらも勢いが衰えそうには見えなかった。

「どうして…」

 疑問が口をついてでる。
 家の出口はすぐ台所と兼用の土間につづいているが今朝は竈には火をつけていない。朝ごはんは昨日の残りの雑穀と芋の茎の粥を居間の囲炉裏で温めて食べた。家を出る時はきちんと消していった。入口そばの薪置き場は火の気のない場所だ。それにこの雨では油でもまかない限り、あんなに勢い良く火はつかないだろう。嫌な想像が如実に穣子の脳内をよぎる。

「どうしてよ。私たちは…お姉ちゃんは、そんなにひどいことをしたわけ…おうちに、おうちに火をつけられるぐらい悪いことをしてきたの…」

 火事の原因は放火だ。
 おそらく来る途中でぶつかった男が犯人。穣子は姉の体を強く抱きしめて慟哭を上げる。



 立ち上る煙を見たのか、数人の村人が雨傘をかぶってやって来た。
 けれど、誰も――雨にぬれてうなだれる姉妹には声をかけなかった。
 ぱちん、と火が弾けて、屋根の一部が崩れ落ちた。














「それじゃあ、ここがお前たちの部屋だから」
「馬小屋…じゃないですか」
「馬小屋だった部屋さ。ここしかないんだ。悪いけど、我慢しとくれ」

 あれから火事で家を失った静葉と穣子の姉妹は村長の家へ引き取られることになった。焼け落ち、炭と燃えかすの山になった家の前で呆然としている姉妹を見かねて、というより弱者と化した村の住人を長が率先して無下に扱うことはできないという対面的な判断だったようだが。
 それでも何処か屋根のある場所に入らなければ野垂れ死んでしまう自分たちにはありがたい話なんだろうと穣子は思った。たとえ、宛てがわれた部屋が前の自分たちの家よりもボロで汚く狭くても。村じゅうから疎まれている自分たちには。

「それじゃあ、早速だけれど、働いてくれるかえ」
「わかりました」

 それにあれだけ苦労していた食い扶持の問題も同時に解決した。村長は姉妹を居候として招き入れたのではなく、住みこみの働き手として雇い入れたのだ。

 仕事の概要は大体が今までと同じく農作業の手伝いだったが、内容はよりハードなものだった。それでもあるかどうかわからない楽な仕事よりも確実にご飯にありつける大変な仕事のほうが今の穣子には有難かった。額に汗し、爪に火をともし、黙々と働いた。味のしない不味い汁を貰うために。

 それでも穣子はまだ幸せだったほうだろう。
 長雨続きの村では農作物が育たず、いよいよ、栄養失調で体を壊し、ひどい病気に罹る者が現れ始めた。布団の中で冷たくなっている年寄りや生まれたばかりの赤子がみつかり、また、大雨であふれた用水路を見に行った人や川に仕掛けた魚と利用の罠の具合を調べに行った村人が鉄砲水に流され文字通り、帰らぬ人となった。村では連日、お葬式が催され、人々は村を見下ろす共同墓地に集まるたびに『静葉のせいだ、静葉のせいだ』と呪詛のような言葉を漏らした。

 そして、当の静葉は……



「行ってくるね、お姉ちゃん」

 以前は馬小屋だった汚らしいあばら屋の戸の前に立ちながら穣子はあいさつする。畳の代わりに敷いたわらの上、焼けた我が家の跡からなんとか引っ張り出してきた継ぎ接ぎが更に増えた布団にくるまりながらじっとしている静葉に。

「……」

 けれど、返事はない。
 だらしなく伸ばされた静葉の足には痛々しい火傷の痕が残っている。火に炙られ収縮した筋肉に引っ張られたのか、折れた骨が治るとき、妙なくっつき方をしたのか、静葉の右足は歩行が困難なほどねじれ曲がっていた。ケロイド状の皮膚、曲がった骨格、黒ずんだ傷痕。まるで病気の木の幹のように見えるそれを穣子は沈痛な面持ちで眺める。これのせいで静葉は穣子のように働けなかった。

「……今日も頑張ってくるから」

 いや、違う。足が動けなくても仕事などこんな農村にはいくらでもあった。縄を結い、賄いの手伝いをし、農耕器具の刃を研ぐ。なんなりと仕事はあったはずだ。それをしない…出来ないのは静葉が心の病を患ってしまったからだ。

 儀式の失敗とそれに合わせたような例年にない凶作、そこから起こった度重なる村人からの執拗な嫌がらせに静葉の心はついに耐えきれなくなり、対外との接触を閉ざしてしまったのだ。岩戸に隠れた天照のように。
 その兆候は6月の辺りからあった。火事の日は特に酷かったことを穣子は覚えている。あの時、無数のヒビが入り血を止めどなく流していた心が火をつけられ家を燃やされたことが原因でついに自然治癒不可能なほど崩壊してしまったのだ。

「足、早く良くなるといいね」

 いや、それは原因の更にその原因だ。本当に導火線になったのは別のこと。醜く焼けただれた静葉の足のほうだ。
 穣子を助けるために大怪我を負ったその足は偶然か、必然か。あの時、今年の初め、畑渡りの時に鋭い石を踏みつけ傷を負った方の足だったのだ。
 この奇妙な符号に静葉は村人からの陰湿な言葉や悪質な仕打ちよりも酷いショックを受ける。自分の足のこの酷い怪我は儀式を失敗したことによる神様からの罰なのでは、と。人智を超えた存在でなければこんな回りくどく、そして、確実に罰なのだとわかる傷など付けないだろうと。

 かくして静葉は重い病を患った病人と同じ状態になってしまった。自主的に行動することはなく、日がな一日、心を閉ざしたまま。穣子が姉の分も働きますから、どうか姉の分の食事も用意してくださいと言わなければ、村長の手の者によって静葉は遠からず食事を与えられなくなり、やがて衰弱死する遠まわしな処刑の目にあっていただろう。

 いや、それは今でも、穣子が面倒をみている今でも同じだ。
 動かない人間というのはかくも弱いものなのか。穣子は静葉に自分と同じ、自分以上の食事を与えているが動いていないのに体重は増えるばかりか減る一方。頬はこけあばらが握りこぶしのように浮き、肌は干上がった湖の色をしている。遠からず、静葉は村の貧困層の体力的に弱っている人間たちと同じく死を迎えることだろう。どんなに美味しい物を食べさせても、どんなに体にいいものを呑んでも、死にかけた心に引っ張られ、体は死に絶えてしまう。

 だから―――

「じゃあね、お姉ちゃん、頑張って。もう少しで…」

 心を癒す、せめて長生きさせるための言葉を穣子は静葉に聞かせる。あまりいい言葉ではない。けれど、少しでも肩の荷が降りればいいと、そう願って。その言葉を

「今年も終わりだよ。もうちょっとでお正月で、もうちょっとしたら次の巫女さんを決める日になるよ」

 そう、静葉が凶作にしてしまった今年は終わりを告げるのだ。あと残すところ三ヶ月ぽっち。それだけの期間を過ぎてしまえば、ある意味、静葉が担当だった今年は終わってしまう。来年、また、別の巫女が担当する次の新しい年が来るのだ。その日が来れば何もかも一区切りついて終わる。雨が振ってずっと寒い日が続く凶作の今年も、村人たちの恨みがこもった心ない仕打ちも、神さま直々に静葉に与えられた罰も、なにもかも。

「それじゃあ、行ってくる、ねお姉ちゃん」
「……行ってらっしゃい、穣子」

 戸を閉める音にかき消されるほど小さな声で静葉は穣子を見送った。
 穣子は働きに出かける。今年を終わらせるために。芽吹かなかった春、育たなかった夏、実りのなかった秋を終わらせるために。

 誰もが、そう、姉妹を疎んでいる村人たちも、公務と本心の板挟みになってイラついている刀自と村長も、二人のか弱い姉妹も待ち望んでいる今年を終わらせるために。

 それを嘲笑っているのは――















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――









 全く収穫のなかった秋が終わり、山も家も畑も、家族のお墓も何もかもも真白に染め上げる冬が訪れ、年の暮れが近づいてきた頃から村は少しだけ活気づいた。
 正月の準備に追われ、冬の寒さに凍え、今年の凶作ぶりを忘れてしまっていたのかもしれない。いや、本当はその今年がやっと終わることに誰もが歓喜しているのだ。

 植えたばかりの苗の根を腐らせ流してしまう長雨はもう見なくて済む。
 芽吹いたばかりの芽を凍えさせてしまう寒さを感じなくて済む。
 やっと育ち始めた野菜を食い散らかしてしまう山の害獣を見なくて済む。


――あの忌々しい今年の巫女の代が終わる。


 それだけを胸に例年以上に、今年の不運を吹き飛ばすため、来年を良いものにしようと村人たちはわざとらしく大声を上げ笑いあい、酒を沢山のみ、歌って、助け合いの精神を思い出しながら正月の準備を進めていたのだ。

 そいつはもしかしたら来年も凶作なのでは、そういう不安の裏返しでもあったが。









 そして年明け。
 昨日と同じなのに何処か神聖さを覚える朝日が村を照らす。
 明けましておめでとうございます、今年もよろしくお願いします、とあいさつが交わされ、この日のために用意した上等な料理と酒が皆に振舞われる。今日ばかりは誰しもが心から喜び、それを謳歌し、大いにはしゃいだ。

 いつもどおりの正月だった。

 そして、それも終わり、三箇日が過ぎ、とんどの祭り、正月の飾り…門松やしめ縄が休耕中の畑で組んだ櫓と共に焼かれ、天に還されてもいつもどおりだった。畑仕事も今はまだ出来ないので村の辻では雪玉を丸めて遊ぶ子供たちの姿がところかしこに見え、家の中では囲炉裏を囲んで老人たちが話に花を咲かせていた。

 穣子も正月の余った料理をお裾分けとしてもらい、このところ安定している静葉と一緒に食べた。「美味しいね穣子」と静葉は笑った。

 それから暫くはいつもどおりの一月だった。二月の頭まではそうだった。










 二月に入って始めてのある決められた一日。
 山の中のお社、そこのお堂の一つ、静葉が物忌のために使ったのとは別室に数人の男女が集まっていた。
 皆、高齢。その中には当自や清め役だった刀自の妹の姿もある。村の行事神事に携わる権力者たち。それが一堂に会し、円陣を組み祝詞を唱えている。

 繰り返される単純な語句に自他の精神の境界を曖昧にさせ、ある種の恍惚状態へと入る刀自たち。お堂は凍えるほど寒いのに額から汗を流し、一心不乱に祝詞を唱え続ける。
 やがて、その調律が最高潮に達し、もはやそれが声ではなく音、音楽に様変わりした時、その基をもって刀自は立ち上がると決められた動作で道筋を辿り、お道の一番奥、上座に位置するご神体のところまで歩いていた。もはや名も忘れ去られた古き神に一礼し、お神酒を口に含み、また、一礼。そうして刀自は神前に備えられるように置かれていた赤染の絹地の袋を手にとった。じゃらじゃらと僅かに音のなるそれを掲げもう一度、礼。来た時と同じ動作で持って元の位置にへと戻っていった。
 その間も他の者達は祝詞を唱え続ける。その中央、円陣の内側には一枚、古びた皮紙が置かれていた。何の動物の皮かも分からないそれには拙く見える筆跡で川や道、山、道祖神など村の重要なものの位置が書かれている。それと四角で囲われた屋号を示す文字。

 これは地図。拙いながらも村の戸を表している地図だった。

 刀自はその地図の上へ神前から持ち帰った小袋を掲げ祝詞を唱える。手にした袋を地図上で円を描く用に動かす。それは自分の意志ではない何かに自分の手、しいてはそこに握られた袋の位置を好きにさせる動作だった。

 うつむき、周りの者同様、一心不乱に祝詞を唱え続け、そして、刀自はここぞ、という時期で絹の小袋をひっくり返す。

 ざぁ、と流れでてきたのは雑穀だった。稗、粟、黍など色とりどりの小さな粒が滝のように流れ出る。地図の上に落ちてきたそれらは跳ねて床に転がりながらも大部分は描かれた村の上へ降り積もる。豊作のイメージ。
 そうして、その中に僅かながらに、雪のように白く、水晶のように澄んだ粒が紛れ込んでいる。それはこの時代、まだ貴重だった脱穀された精米だ。この村でも作られている量は僅かでほとんどは帝へ献上、若しくは神事に使われ、人の口に入ることは稀。そんな貴重な食物の一つがただの一摘みとはいえ使われているのである。

 他の雑穀と同じく、地図の上に落ちてきた精米は先に落ちていた稗などに当たり、地図の上を転がっていく。そして、適当なところで止まった。
 小袋の中身をすべて出し終えて、祝詞の締めくくりの言葉を唱えると最後に皆は厳かな気持ちで一息をつき、今まできつく閉じていた目を開いて、この儀式を終えた。

「なん…だと…」

 そう、儀式。これも村に伝わる儀式だ。より正確に言うなら儀式の前座。畑渡をする巫女を選定するための儀式である。
 袋からこぼれ落ちた数粒の白米が落ちた先に、描かれた屋号を囲む四角…村に建つ家を表す記号があればその家の初潮を迎える前の女児が巫女役として神に選ばれたとされる、選定の儀式だ。米粒は幾つかあり、選ばれた戸が二つ以上だった場合は地図の上のお社に近い方、何処の家の上にも落ちてこなかった場合は再度やり直しという取り決めもある。もっとも、ルールの上では今回はそのどちらも関係がなかった。大抵の年がそうであるように今年の選定の儀式も米粒は一つの家の上にしか落ちなかったからだ。

 けれど…村の重鎮たちの顔には同様と驚きが多分に入り交じっている。
 落ちた場所には今現在、家は建っていないからだ。去年の秋口に火事で焼失しており、普通ならば無くなった戸口は濯いで消すのだが、今回ばかりは凶作のせいもあって村の誰もが失念してしまっていたのだ。

「凶兆にもほどがあるわ」

 いいや、違う。誰しもあえてそこには手を触れたいと思わなかったからだ。ある種の腫れ物。出来ることならば目に入れたくない。えして無視する、そういう場所だったからだ。

「冗談にもほどが…」

 米粒が落ちた場所は地図の端、そこから先は山と隣村への道しか描かれていない場所、――今は焼け落ちた跡だけが残り、朽ちるままに放って置かれる、去年の初夏ごろまで一軒のあばら屋が建っていた場所だ。

「と、刀自。これはノーカンですよ。あそこにはなにもない。今は誰も住んでいない。神託の米が戸口のないところに落ちればやり直し。そういう決まりではありませんか」

 年老いた男が一人、そう刀自に提案する。他の皆もそうだそうだと、同意を示し、頷いている。刀自も僅かに反応が遅れたが、そうじゃな、と頷く。

「あん子は今ぁ、うちにおる。ここには誰もおらん。そういうことじゃ。しゃぁない。選定のやり直しぞ」

 普段なら面倒に思える選定の義のやり直しも今は寧ろ安堵のための材料になった。誰もが、胸をなで下ろすようにため息をつき、視線を下げる。

 そそくさと散らばった雑穀を片付け、穢れてしまったそれらを破棄。新しいものを用意し、最初と同じく、円陣を組み祝詞を唱え始める一同。過剰に熱が籠もり、余計な力が入っているのは無用の期待のせいか。
呪言がお堂の中に満ち、長い年月を経てえた黒光りする床や柱が振動したかのように見える。最高潮。やはり同じ手順で刀自は立ち上がると新たに用意されたご神託用の雑穀が入れられた小袋を手に戻ってきた。今度は、そう願いを、僅かな邪念をこめつつ先ほどと同じように地図の上に雑穀をばらまく。
 そして…


「なん…だと…」


 期待を込めて見開かれた目は驚愕に歪んだ。
 二度目、今度も脱穀された精米は地図上、戸口の一つの上にしか落ちていなかった。後は辻や川の上、畑などに乱雑に散らばっている。精米が落ちた場所は一度目とは違う場所だった。当然だろう。確立から言えば適当に振りまいた米が同じ場所に落ちるなど天文学的な数字になるはず。だから、これは数学的には正しかった。

「ワシの家…じゃと」

 因果として正しいかどうかは別として。
 精米が落ちた場所は今、刀自達がいるところからほど近い、山のすぐ麓にある屋敷、と呼んでも差し支えないほど大きな家だった。そこは村長と刀自、その息子二人と嫁が暮らす家だ。息子二人とその妻の間にはまだ子供はいない。兄の方が去年、男児を設けたが生まれてすぐに亡くしてしまった。以来、早期、代継が求められているのだが、今回はそれには関係ない。女児がいない、巫女役をつとめられる女児がいないということが問題なのだ。そう、名目上、刀自の家には女児はいない。刀自の家族には。

「ま、またやり直しですな。こういうこともあるもんですな」

 ははは、と先ほど、刀自に選定のやり直しを助言した男が引きつった笑いを浮かべる。他の皆も同様。苦しげに眉をしかめているか、驚きに目を開いているか―――刀自のように僅かな怒りと恐れを滲ませているかのどれかだった。

「そうじゃな…やり直しじゃ」

 頷く刀自。けれど、彼女は心の底で無駄なことだと諦念を浮かべていた。
 現に何度繰り返そうと、袋からこぼれた白米はカオス理論を無視してたった、二つの場所、そのどちらかにしか落ちなかったからだ。

 一つ、村外れの今は何も家が建っていない場所。
 一つ、女児がいないことになっている刀自の家。

 そのどちらかにし精米は落下点を定めなかった。
 そして、十数度のやり直しを繰り返した果てに、

「ッ! これは…!」

 十数粒の米は全て、地図上の、刀自の、家の、上に、落ちてきていたのだ。真っ白く塗りつぶされる刀自の家。
 ありえぬ…数学的に、この時代、まだ、そんな考えはなかったが、それでも明らかにおかしいと恐れおののくぐらいにはありえない結果でまるで神は駄々をこねる愚昧な人間共をきつく戒めるようにその結果を表したのだ。

「静葉…今年も、あの子なのかい」

 一昨年までの元気な顔と、去年の絶望に満ちた顔、それが交互に刀自の顔に浮かんできた。
















「それじゃあ、行ってらっしゃい。お姉ちゃん」

 いつもとは逆の光景。刀自やその息子二人に連れて行かれる姉の姿を穣子は不安とそれを覆い隠すための取り繕った笑顔を向けて見送った。去年は出来なかったこと。去年とは逆の光景だ。

 選定の義から一ヶ月。ついに祭の前座である巫女の物忌が始まった。日にちは例年より幾分早く、春の訪れが近いことを予感させた。けれど、祭の期待に胸を膨らませている村人は棺桶に片足を突っ込んでいる老人から言葉も分らぬ幼子まで誰一人として抱いていなかった。
 狭い村だ。選定の儀式が終わって数日もすれば今年の巫女が誰なのか、すぐに噂は広まってしまった。刀自や村長が人を集めて公表したわけでもないのに。その辺りから年が明けて、新年の浮かれぎみの雰囲気が急に沈み、また、村に陰鬱とした空気が漂い始めたのは。誰の顔にも不安、そう、不安だ。去年と同じになるのではという不安が色濃く浮かび上がっている。去年と同じ、静葉が巫女に選ばれて、去年と同じ結果になるのでは、と。

 その不安を抱えていたのは村人だけではない。他ならぬ静葉自身もだ。
 あれから年の暮れから年の明けまで、静葉の心は安定していた。自分の番だった去年が終わり、やっと肩の荷が下りたような気分になっていたからだと思われる。それが、穣子と「今年の巫女さんは誰かな」なんて話していたところへ刀自がやってきて、静葉一人を呼び出し、帰ってきたときはまるで寒中水泳でもしてきたかのように顔を青く、体を震えさせていたのだ。穣子が何があったのか聞いても返事はなく、その時は状況から何があったのかを判断したのだが。
 それから静葉は十二月以前と変わらぬ、寧ろより非道くなった状態に陥ってしまった。穣子の言葉にも反応はなく、食事も殆ど摂らずに一日、部屋の隅で小さくなっている。そんな状況。なんとかしようと穣子は努力したがまったく無駄だった。その間にも時間は流れていき、そして、当日。静葉は刀自達に殆ど引っ張られるような格好で山のお社へと連れて行かれた。その足取りは非道く緩慢で、びっこを引いていた。結局、山に登るのには駕籠が必要だった。




「ほら、さっさと降りろ!」

 急かされやっと静葉は駕籠の中から出てきた。
 緩慢な動きは操り人形か。逐一、命令しないと静葉は何一つ自主的に動かなかった。篭を置いたお社の境内からお堂までの僅かな距離、白砂の石をかき分けながらびっこを引きながら進む。
 左足を前に出す。右足を引きずり、前に持って行く。一呼吸置いて、力の入らない右足を何とか固定。左足をまた前に出す。その繰り返し。杖をつく老婆の方がまだ早いのではと思えるほど緩慢な動き。そして、

「あっ…!」

 白砂に埋もれていた踏み石の角を踏み外し、バランスを崩す静葉。普通ならそんなもの、バランスを崩すほどのものでもなかったのだろうが、右の膝より下が全く使い物にならなくなってしまっている静葉には無理な話だった。短い悲鳴の後、踏ん張ることも出来ず静葉は白砂の上に顔から倒れた。強かに顔を打ち付け、鼻から血を流す。

「ううっ、痛い…」

 涙が溢れてくる。痛みより、自分の無様さに。情けなさに。絶望に。

「……」

 その弱々しい姿を見ても刀自は心配する言葉、助け差し伸べる手の一つも出さなかった。ただ、眉をしかめてその様子を眺めているだけ。静葉の駕籠を運んできた刀自の二人息子は死にかけの猫の子でも眺めるようニヤニヤと下卑た笑みを浮かべている。

「……早く起きな」

 暫くの間があってやっと刀自は倒れた静葉にそう声をかけた。静かだが怒りの籠もった声。笑っていた息子二人も思わず、表情を凍らせる。静葉は擦りむいた手のひらで白砂の丸い石を握りしめるとゆっくりと体を起こした。流れる涙と鼻血をそのままに静葉はそのまま再びゆっくりと歩き始める。
 長い間、風雨にさらされ、白骨化したような真っ白な木の段を上りお堂の扉を開ける。むっ、と黴臭い埃っぽい空気が流れ出てきた。

「さて、去年もしているようだから説明は省くが、しっかりと身も心も清くなるよう努めるんだよ」

 登り切り、静葉が一歩、お堂の中へ入ったところで刀自が近づいてきた。といっても、階段の下まで。きつく、睨み付けるような視線をお堂の中の静葉に向け、そう激励…に聞こえる言葉を投げかける。その手には何故か、しっかりとした造りの角材が一本、握られている。杖には使えない長さと太さのものだ。

「去年、お前が失敗したのはお前がまだ穢れていたからじゃ。ワシはそう思う」

 それがなんなのか説明せず、刀自は言葉を続ける。一度は止めた足を再び進め始め、静葉がそうしたようにゆっくりと階段を上ってくる。踏み板がきしみ声を上げる。静葉にはそれが何か悪いもの…夜道で後ろから襲いかかってくる悪い妖怪の足音のように聞こえた。

「だから、ことしの物忌は厳しくする。外の悪い気を入れないようにするから、今年はワシも、ワシ以外のものも儀式の日まではここには近づかん」

 それは、と静葉の口が動く。声は出なかったが。

「だから、すまんが物忌の間の手伝いは出来ん。暫くは一人で頑張ってくれ」

 それ以上の説明もなく、刀自はお堂の扉をしめた。まってと、静葉が腕を伸ばすより先に更にそこへ閂…刀自が手にしていた固く、とても静葉の腕力では折れそうもない木材がかけられる。

「それじゃあ、静葉。頑張るんだよ」

 投げかけられた暖かい言葉は寧ろ嫌味か。
 ざっざっ、と白砂を踏み遠ざかっていく三つの足音が静葉の耳に届く。いかないで、まって、と静葉は分厚い戸を叩くが足音は止まらない。
 静葉が嗚咽を漏らし、床の上にへたり込んだとき、既に足音は綺麗さっぱり、聞こえなくなっていた。
 自分の手も確認できない暗いお堂の中、静葉の叫び声だけがこだましていた。















 それから三日。村の空気は少しも変わらないままに畑渡りの準備は始まった。
 巫女役に選ばれなかった女児は舞を、男衆は笛や太鼓の練習を始め、残った男児やその母親、男達の妻がその手伝いや祭の準備、男達が抜けた分の仕事の穴を埋める。毎年のこととはいえ日常外の、しかも、祭の準備とあれば例年なら皆も寒さに負けず活気づいてくるのだが、今年ばかりはそうも行かなかった。まるで近々、戦争の為の農兵の徴収が始まるとこの一帯を治めている豪族から連絡がやってきた後のような、そんな暗く、出来れば明日の朝日が昇って欲しくないと願うような雰囲気に満ちていた。女児の舞には切れがなく、男衆の楽器にも覇気が感じられない。通夜のような湿った空気が漂っていた。

 そんな村内でも一際、険しく暗い表情をしている者が二人いた。
 その二人は同じ家に住み、同じ料理を食べ、同じ理由で顔を険しくしていたが、その心中は全く別のベクトルをしていた。
 穣子と刀自。二人は今回の巫女役、今年も巫女役に選ばれた静葉の事で頭を悩ませていたのだ。


 あれから家に戻ってきた刀自の姿を見て穣子は疑問を覚えた。巫女役の世話をするために刀自もお山に残るのが通例だからだ。どうしてと、居ても立ってもいられず穣子は刀自に怒られるのを覚悟でその理由を聞きに行ったが「今年は体調が悪いので他のものに頼んだ」と簡素に答えられただけだった。けれど、穣子が知る限り刀自のように巫女役の世話が出来そうな人は刀自の妹ぐらいしかおらず、その妹も仕事に行くときに毎日のように村で見かけた。とても、偶然、忘れ物を取りに村に戻っている風には見えなかった。何かあったんだ…いえ、なにかあるんだ、と穣子は静葉がいる山のお堂に今すぐにでも駆け出したい気持ちを募らせていった。けれど、それはできない。静葉は今、物忌の真っ最中。世俗から離れ、山の新鮮な空気を吸い人払いをして身を清めているのだ。自分が行けば畑渡りの前に失敗してしまう。ばれるばれないの話ではなく近づけるか近づけないかの話なのだ。日々、険しくなる刀自の顔に詳しいことは聞き出せず、穣子は仕方なく、刀自の言動をつぶさに観察して、姉がどうなっているのか、探る事ぐらいしかできなかった。

 そうして、その盗み見られている刀自自身は…












「今日も曇りか」

 分厚い、鉛のような雲に覆われた空を見上げて刀自は胸をなで下ろした。普段とは逆の反応。天気が悪いのに気分が良くなる。そんな矛盾した感情を呼び起こしている。それはここ三日、山のお社から帰って毎朝の反応だった。年寄りらしくいつも早起きな刀自だが、この数日はいつも以上に早く目覚め、庭に出ては東の空を睨み付けている。朝日を拝んでいると言うよりはそれは重要な記録を続ける研究者のそれだった。しかも、ありのままを伝えるのではなく自分の意図していたとおりになるよう、それを願っているタイプの。でも、その顔が険しいのは…

「でも、昨日より明るい。クソ、こんな時に限って…」

 研究が思うようにならず手段を選ばず不正に手を染めようとしている研究者の風上にも置けぬ卑劣漢のそれだった。

 それは次の日の朝、現実のことになる。


 朝早くから屋敷の一室、一番奥の次男の私室には三人の親子が膝をつき合わせるような狭い位置で集まっていた。
 ふぁぁ、と欠伸をしたのは長兄。自分の部屋だというのに居心地を悪そうしている次男、そして、昨日よりさらに険しい顔をしている刀自だ。兄弟は朝早くから刀自に呼びつけられ、更に次男は部屋を会議の場として提供しろと言われたのだ。
 会議、そう会議だ。この集まりは会議。それも秘密の。屋敷の中でも特に暗い位置にあるこの場所に三人が集まっているのはあることを話し合うためだ。

「それで、刀自。何なんだ?」

 ぶっきらぼうの口調の兄。家長でもある刀自の前で片膝を立て、傲慢な態度を取っている。兄の態度に弟は嫌悪の視線を向けるが、意に介されない。こちらは真面目に正座している。自分の意志が繁栄されないと知って、次男はため息をついてこの会議の代表、刀自に視線を向けた。息子達二人の視線を受けてなおもひるまず、刀自は湯気が上る熱い茶を一口飲むと、開け放たれた小窓から外を一瞥してから二人に向き直る。そうして、やや重々しい口調で言葉を紡いだ。

「お前達、今年の畑渡り…静葉は出来ると思うか?」

 言葉は問いかけだった。兄弟は一瞬、眉を潜めた後、お互いに目配せしながら異口同音に返す。

「母さん、あの子じゃ…」
「無理だな。破脚のびっこひき。去年と同じ…いや、去年よりみっともなく終わるに決まっている」

 二人の言葉にそうじゃな、と刀自は頷く。もう一口、熱い茶を飲んで机の上に戻す。

「お白砂の上を歩かせて確信がいったわ。あん子は歩けやせん。張り立ての板間ん上でも無理じゃろ。どんなに石を除けて柔らこう耕した畑でもな」

 あの時、駕籠からお堂の所まで静葉を歩かせたのは刀自の嫌がらせではなかった。いや、それも多分に含まれていたがどちらかといえばそれは静葉の足の具合を確かめる最後の調査だったのだ。結果は言わずもがな。大した距離でもないのに静葉は無様に躓いてしまった。

 ありありと想像できる。畑渡りの儀式の最中、二百の視線が交差する中心、畑のど真ん中で強風に煽られたようにふらつき、体を揺らしている静葉の姿を。そして、そこから一歩、二歩と進んだところで静葉の足は…

「……」

 刀自達は互いに視線を下げ険しい顔つきになった。
 また、去年と同じく不作の年になるのか、と。気が滅入るような長雨と実らぬ苗に項垂れるしかないのか、と。

 やああってからおもむろに刀自は立ち上がった。年寄りとは思えぬしっかりとした足取りで窓の側へ。そこから外を覗く。

「ワシはだからあることを思いついた。あん子が無理なら別の娘、たとえば穣子の方に御旗渡りの巫女をやらせてみてはどうじゃろうと」

 そう語り始める刀自。
 それは、と弟が口を開く。

「無理でしょう、母さん。静葉ちゃんが巫女なのは選定で決まったことだ。村の神さんが決めたことだ。僕らがとやかく言えることじゃない」

 そう、既にわかりきっていることを説明する弟。選定の義は絶対。いや、それすら無視してあの時、何度もやり直しを行ったのだ。それでも結果は恐ろしいことに、そう、心底震えたくなるほど恐ろしいことに決定は絶対的だったのだが。

「そうじゃ。けれど、それは静葉が生きてりゃっう話じゃろ。いや、今んまんまでも殆ど歩けやせんのじゃからワシら人の都合とすりゃ、静葉には畑渡りは無理な話だ。けんど、神さんは足がひん曲がってびっこひいとるぐらいじゃあかん、ともうしよる。だったら、あん子が歩けんんっうとこを、誰の目にも、神さんの目にも見せつけなきゃならん。そうせんと神さんは納得せんと思うたんじゃワシは」

 だから、と一度前置きをする。果たしてこの先を言っていいのかどうか、この年老いた女傑ですら悩む。
 いや、息子らはワシが静葉をお堂に一人置いてきぼりにしてきたことをしっちょる。だったら、その理由もたぶん、考えちょろうて。
 その悩みを自己解決し、それでも内に眠っている良心の呵責を何とか堪えながら刀自は先の言葉を続けた。

「だから、ワシはあん子が飯も食べれんで真っ暗なお堂ん中で死ぬよう、放っておいてきたのじゃ」

 犯罪の告白。けれど、やはりというかそれを聞いた二人の顔に動揺は少なかった。兄など、えげつねぇな、婆さま、と嘲りの笑いを浮かべている。

「今日で四日目。あと、二、三日もすれば、いや、弱っちょる静葉なら今頃はもう、逝っちょるかもしれん。けんど…そうじゃなきゃ…」

 拙いことになる、と刀自の唇は形作る。何故、と疑問を投げかける兄弟。その答えの代わりに刀自は身を引いてやった。二人の目が、窓の外を眺めれるようになる。木枠と葦を編んで作った蓋の僅かな隙間から見える空。朝日を受けて紫色に見え、そこには雲など一つも浮いていなかった。おおよそ十日ぶりの晴れ模様だった。

「チッ、後、二日でも天気が悪けりゃよかったのに」

 舌打ちする兄。咎めるように弟は視線を向ける。

「兄さん、いくら何でもそれは…でも、これで仕方ないね。今年も…静葉ちゃんが…」

 ホッとしているような、後悔しているような、そんな矛盾する表情、アンビバレンス的な顔をする弟。昔から虫も殺せない優しい少年だった弟は今でも村の厄災の原因ともなった静葉には一抹の同情を抱いている。同時に、去年の凶作の辛い思いでも覚えている。ある種それは刀自も感じていたことだった。
 けれど…

「いいや、そうでもないぜ」

 兄は違ったようだ。にひり、と猟に出かける前の気分が高揚しているときのような表情を浮かべて立ち上がる。

「刀自、俺が様子を見てきてやる。ああ、でも、その時、刀自さまが鍵をかけ忘れてて静葉のヤツが山賊かなんかに襲われてても俺は知らねぇからな」

 げひげひ、と笑う長兄。その台詞は予想や想像ではなく予定だ。もう、長兄はこの後、山に行くための準備の中に鉈か切れ味のいい短刀を用意しようと考えている。

「兄さん!」

 兄の真意――刀自が誘導した…に気がついて声を上げる次兄。けれど、鋭い、猪のような兄の瞳に睨み付けられ、弟は上げかけた腰を中途半端な位置で止めざるえなかった。

「お前は妹―――穣子の方の様子を見てろ。静葉が駄目になったらあの娘なんだからな。まぁ、俺はあの娘も嫌いだから両方とも野盗に襲われて、もう一回、巫女ぉを選びなおしになるようなことになったほうがいいと思うがな」
「ッ―――分ったよ」

 兄の邪悪な言葉に弟は頷くしかなかった。刀自はこれで予定調和だといわんばかりにもはや会話には参加していない。冷めた瞳で窓から外の風景を眺めているだけだった。









「―――」

 その窓の下。息を殺しながらも目を見開き、両方の拳を真っ白になるまで握りしめている影がある。

「お姉ちゃんが危ない」

 穣子だ。この所、刀自の行動を伺っていた穣子は偶然、刀自がこの部屋に入っていくのを目にし、何をしているのだろうと会話を盗み聞きするため、ここにやってきたのだ。刀自が窓に近づいてきたときはヒヤリとしたが刀自の背丈では窓のすぐ下に隠れている穣子を見つけることは不可能だった。そのまま文字通り壁に耳ありを続けた結果、穣子は三人の会話からとんでもないことを察し、身を震わせた。いくら幼い穣子でも分る。刀自の長兄の感情―――殺意が本物であるということは。

「早く何とかしないと…」

 声を聞いていると兄は早々に部屋を去ってしまったようだ。すぐにでもその後を追いかけ…いや、先回りして静葉を助け出したいところだが、部屋にはまだ弟と刀自がいる。下手に動けば二人に隠れているのがばれてしまう。けれど、じっと待っている余裕はなく、穣子は非道いジレンマに襲われた。

―――何とか、何とかしないと。

 気持ちばかりが先行し、焦る最中、長兄に遅れて刀自が部屋から出て行く声と足音が聞こえた。後一人、次男が何処かに行くかなにかすればすぐにでも…
 けれど、待てども待てども次男が部屋から出て行く気配はなかった。
 暫くじっとしていると物音が聞こえなくなって、穣子が気がつかないうちに次兄が何処かに行ったのかと思えば、そうじゃないと教えるように部屋の持ち主の独り言が聞こえてきた。

 畜生、と悪態をついたり唸るようなそんな声。
 何をイライラしているのだろうか、と穣子が訝しげに思っているとごそごそと次兄が動き出す衣擦れの音が聞こえてきた。
 やった、出て行くみたい、そう思った矢先、次兄の足音が部屋の外ではなく部屋の内側、自分が隠れている窓の方へ近づいてくる。しまった、と思うまもなく次兄は窓から顔を外に出してきた。ふと、天気の具合をもう一度、確かめたくなったのだ。

「あ…」
「穣子、ちゃん?」

 視線が交わる。まるで蛇に睨まれた蛙。どちらが蛙でどちらが蛇なのか。その判別は二人が同時に固まっているせいで出来なかったが、そのまま数秒ほどの時間が流れた。どちらとも動けず押し固まったまま。その石化を解いたのは二人ではなく、第三者の怒声だった。

「コラ! なにしちょるか! あん子…穣子がおらん。お前も早う探せ」

 それは刀自だった。どうやら穣子の姿を探しているようで声には怒りが籠もっている。

―――ああ

 もう駄目だ、と穣子は観念した。次兄に見つかり、そこにさらに刀自までやってきてしまった。普段からノンビリしている次兄なら適当な嘘をついてだませただろうが、疑り深い刀自が来たからにはもう駄目だ。隠れんぼをしていたなどという言い訳も通じないだろう。

「ああ、母さん」

 あきらめて、自ら名乗り出ようと穣子が腰を浮かし始めたところで唐突に次男は首を引っ込めた。部屋に戻り、入り口に立つ刀自に向き直る。

「分ったよ、すぐ、僕も探しに行くよ」

 と、次兄はそんな信じられないこと…穣子はもとより、事情を知れば刀自も、そして、誰より次兄自身が信じられないことを口にしていた。穣子を見つけたのに、いない、と次兄は言い放ったのだ。
 次兄はそのまま刀自に合流するよう、部屋の外へ出て行こうと窓際から離れる。

「あっと、その前にふと疑問に思ったんだけどさ…もし、穣子ちゃんも畑渡りに失敗したら…どうするの?」
「あ? そいつは…穣子も静葉と同じようにするだけじゃ。いや、寧ろ、先にそうした方がええかもしれん。いっそ、他のまともな娘にでもやらせた方が…」
「…分ったよ、母さん。とりあえず穣子ちゃんを捜そう」

 そうじゃな、と頷く刀自。続けてワシは厠の方を探してくる。お前は倉の方を、と指示を飛ばし、ダダダと板間の廊下を力強く踏みしめながら去っていった。その後ろ姿を見送ってため息をついたのは次兄の方だった。
 そうして、咳払いをした後、次兄はこう続けた。

「これは僕の独り言だけど、穣子ちゃんはもう村を出て行った方がいい。この先、どうなるにせよ村は穣子ちゃんがとても暮らしにくいものになると思うから。君ぐらいの器量良しなら何処でも暮らしていけるだろ。無責任な物言いだけれど、そうした方がいいと思うよ穣子ちゃん」

 独り言、だというのに言葉の最後の方は明らかに誰かを、窓の下に隠れている女の子に告げている言葉だった。次兄は窓の向こうから聞こえてきた小さな「ありがとうございます」という言葉に満足げに頷くと、わざとらしく背伸びをしながら「何処に行ったの〜穣子ちゃん」なんて台詞を吐きながら部屋から出て行ってしまった。

 声が聞こえなくなってからもう一度、ありがとうございます、と部屋の主人、村の中で最後まで優しかった人にお礼を言って穣子は注意を最大に、誰にも見つからないよう急いでかけだした。
 走り出すその先は……















 山の上のお社、その主たる建物であるお堂の中、完全な闇と無音に包まれた世界。その中心に静葉は体を横たえていた。
 その様は邪神に捧げられた供物のよう。生け贄。今にもその体を貪ろうと闇の向こうから名状しがたい形状の腕が伸びてくるよう。
 常人ですら耐え難い暗闇と無音の世界。既に静葉の精神は瀕死の状態であった。体の方も同様。閂がかけられたお堂に閉じ込められて四日目の朝。既に体力は顕界に達しつつあった。この三日間、口にしたものといえば神棚に供えられていた榊をいけるための壺に残っていた僅かな腐った水だけ。夕暮れ時、微かに差し込んできた日の光を頼りに何とかそれだけを見つけ出し、喉を潤したのだ。けれど、それも昨晩、底をついた。からからに渇いた喉。ひび割れた唇。室内とは言えお堂は凍えるように寒く、布団すらない状態では寒さの余りまともに眠ることすら出来ず、覚醒と気絶じみた睡眠を繰り返し、時間の概念すらない状態で静葉は辛うじて生を繋いできた。
 それも程なく終わりを告げそうだ。自分の死期を悟ってもはや泣き喚くような体力も残されておらず、ただ、じっと静葉はその時を待っていた。いや、寧ろ待ち焦がれていた。去年の年明けから続くこの絶望、もはや死でもってしか逃れられぬと諦念を抱き、死による決着に淡い期待を抱いていたのだ。もう、恐怖はない。夜明けを待つようにただただ自分の死を願っていた。






 と、

「……?」

 闇の向こう、微かに自分を呼ぶ声が聞こえた。
 ぴくりと体が動き、それで自分がまだ死んでいないことを確認する静葉。虚ろげな頭をもたげ、耳を澄ませる。

―――迎えにきたぞ

「……ああ」

 そうだ、と静葉は思い出す。自分は今年の村の畑渡りの儀式の巫女役に選ばれていて、体を浄めるためにここにいたのだと。外にいるのはお迎えの人。はやく×××にいわれたとおり、隣の部屋の駕籠の中へ入らないと…
 もはや、正常な判断など出来ない頭でおぼろげにそう考えながら静葉は残った力を振り絞って立ち上がり、体をふらつかせながらも移動した。

「右足が…変…」

 弱った体以上に右の足が思うように動かない。半ば引きずるような形でなんとか前に進んでいると、不意に閂が外れる音がして、観音開きのお堂の扉が勢いよく開かれた。

「―――ッ!」

 数日ぶりに目にする日の光に網膜が焼けるような痛みを覚え、瞼を閉じてしまう。

「なんだ、まだ生きてたのか。しかも、結構元気そうじゃねぇか」

 何処かで聞いたことのある声、刀自の息子の一人、兄の方の声だ。うっすらと瞼を開けると逆行に見える姿は確かに彼。去年も駕籠の運び役はこの人だったので何もおかしくはないが、お堂の扉が開かれるのは自分が駕籠の中に入ってからのはず、そう静葉は訝しげに考え、徐々に慣れつつある瞳でつぶさに長兄を観察する。
 刀自の長兄は一人のようだ。駕籠は二人がかりで持ち上げるもののはず。何もかも説明通りではない…去年とは違っている。
 おかしい、と恐怖を覚え、自然と体が一歩後ずさった瞬間、お堂の中へ土足で入ってきた長兄はそのまま走り出し、一気に静葉との間合いを詰めてきた。その顔は下品に歪んでおり、明らかな悪意、それも憎悪からくるものではなく、別種の下衆な感情、劣情からくる笑みを浮かべていた。
 訳が分らず、それでも覚えた恐怖心が確かなものとなり、踵を返し、逃げようとする静葉。けれど、弱り、片足を引きずる体で何が出来るのか。一歩も進まぬうちに静葉は腕を捕まれるとそのまま無理矢理、振り向かされ、ぱぁん、と頬に一撃、平手を打ち付けられた。

「きゃっ!?」

 そのまま転倒。艶の浮いた床の上へ転がされる。強かに打ち付けた体の痛みに、立ち上がることすら出来ず床の上で震える静葉。その死にかけの蛙のような様が面白かったのか、長兄は腹を押さえケラケラと喉の奥から絞り出したような笑い声を上げた。

「ああ、面倒臭ぇな。弱ってんだったらそのまま死んどけよ」

 言葉と共に長兄は床に倒れたままの静葉を足蹴にしだした。脇腹、腰、背中。適当に狙いも定めず、石蹴りでもするように何度も何度も静葉の体を蹴りつける。衝撃の度に悲鳴が漏れ、もはや出ないと思われていた涙が嗚咽と共にあふれ出してきた。それが長兄の加虐心を擽ったのか、更に凄惨な笑みを浮かべると、より高く足を振りかぶり、よりつま先を固く、太ももの健の間や腹など人体の急所を狙うようになった。もはや逃れるすべもなく、せめて痛みを和らげるためにか、本能的に静葉は体を丸め、胎児のような格好になる。それでも気にすることなく長兄は足蹴を続けた。

「恨むんなら! お前を選んだ! 神さまを恨むんだな!」

 丸まられては腹部を蹴ることが出来ない。長兄はしかたなくか、静葉の火傷を負い、曲がった足に狙いを定めると執拗にそこを蹴りつけ始めた。静葉を痛めつけるという点ではそこは正解だったのか、静葉の悲鳴がより大きなものになる。歪んだ骨に衝撃が走り、神経を万力で挟まれたような痛みが脊髄を通り、脳まで一気に走り抜けていく。

「ほら、その曲がった足で逃げてみろよ。歩けるわきゃねぇだろ。ああ、どうせ、このまま普通に畑渡りしても失敗してただろうな、ソレ」

 ゲラゲラゲラゲラ/ゲシゲシゲシゲシ
 耳障りな笑い声/耐え難い打撃
 静葉はそれらから逃げだそうと亀のように床を這って離れようとする。

「まぁ、いいさ。お前はここで死んで代わりに妹が歩くんだから。あの妹ならいけるだろ。お前と違って足、曲がってないからな。ああ、でも、俺としては妹の足も曲がってる方がいいなぁ。いけるかいけないか、そのぎりぎりぐらいで。そっちの方が賭け事として面白いじゃねか。そんでよぉ、成功したら失敗するまでやり続けさせて、失敗したら…」

 ぐっ、と弓を引き絞るように、腰を捻り長兄は大きな溜を作る。

「お前みたく虐めてやれるのによぉ!」

 そして、一撃。ぎゃっ、と悲鳴を上げて静葉は床の上を転がった。執拗に蹴り続けられた右足は腫れ上がり、火傷の痕が裂けて血が流れ始めている。そうして…

「おっ」

 蹴りつけられ床を転がったせいで袴の裾が破れてしまった。露わになった白く細い太もも。幼く固い尻たぶがそこから見える。長兄は普段は隠されているそれをみて今までとは違う、けれど、方向性としては同じ劣情を催した嘆息を漏らした。

「へへへ、どうせ殺すんだったらその前に…そうだ。野盗の仕業に見せかけるんなら乱暴されてた方が…いいよな」

 黒い感情に自分の股間が膨らみ熱く滾るのを感じ、長兄は鋭い爪で一撃し倒れた獲物に近づく虎の悠然さで静葉に歩み寄る。痛みに震え、ああああ、と嗚咽を漏らしている静葉の後ろ…両足をまたぐようにしゃがみ込むと固く節ばった手で彼女の細い腰を押さえつけた。

「ああっ…!?」

 そうしてそのまま長兄は静葉が身につけていた巫女装束の下、朱染めの袴を片手でもどかしそうに脱がし始める。腰紐を乱暴に解き、解ききれず固結びになってしまったのを無理矢理、引きちぎり、全て脱がせるのも面倒くさく、膝の辺りまでずり下げる。

「いやぁぁぁぁ!!」

 何をされるのか理解したのか、今度こそ恐怖の悲鳴を上げて暴れる静葉。けれど、長兄の力は熊のように強く、いくら暴れても逃れることは出来ない。それどころか、暴れるなと一括され、固く握った拳を背中に叩きつけられた。

「うあぁあ」

 恐怖/絶望。
 灰褐色の感情に心が塗りつぶされ、目を見開いた静葉は失禁してしまった。露わになった下半身、まだ固く閉ざされている秘裂からちょろちょろと黄金色の暖かな液体が溢れ、ぬ無理矢理脱がされた袴を汚し、臭気を伴った湯気が立ち上る。

「どうせ濡れねぇだろうからな。濡らす手間が省けたぜ」

 言って長兄は未だに小水を流し続ける静葉の女陰に指を伸ばす。黄金の液体で指先を濡らすとそれをそのまま閉じた今だ毛も生えていない小さな谷へ進入させる。無理矢理、押し広げ進む様は乱暴な開拓か。原生林を伐採し、獣を追い立て、山を崩すような人の邪悪さ。中指を一気に奥までつき入れると、静葉の甲高い悲鳴を無視して、残りの指の内の一指、人差し指も突き刺し、二指でもって小水を雑に肉壁に塗りつけ、押し広げる。無論、女としてまだ成熟していない静葉の体はいくら刺激受けようと男を受け入れる体になるわけがない。長兄もそれを知ってか、むしろ、好んでか、静葉の女陰を嬲りつつ、残った片手で器用に自分のもんぺを引き下げると、はち切れんばかりにいきりたった己自身を取り出した。小さく開かれた鈴口からはもう淫水が玉のように浮き始めている。

「へへ、アイツが嫌がるからこの所、ご無沙汰だったからな。たっぷりと出してやるぜ」

 アイツ…とは長兄の妻だ。第一子を去年の冬の頭頃に亡くし、次なる子を求められている二人であったがここ数ヶ月ほど、二人の夜の営みは行われていない。それは第一子を流してしまったせいで妻が妊娠と出産に恐怖を抱いているせいだったが、その原因は全てこの男にあった。去年の凶作のせいで第一子は産声を上げることなく生まれたと村民には説明されていたが真実は違う。長兄は妻の妊娠が発覚した後も、執拗に夜の相手を求め、しかもそれが優しい愛を語り合うようなものではなく、乱暴な獣の様なまぐあいだったのだ。そんなもの胎内の子供の健康にいいはずがなく、お腹の子は十月十日より早く、成長する前に流れ出て死産。それから息子の加虐癖の一部を知っている刀自は落ち着くまで暫く、二人の性交を禁止。むろん、好色な長兄が耐えきれるはずもなく、刀自の目を盗んでは自分の妻や村娘にちょっかいを出そうとして…全ての場合においてそれは失敗。己の獣性を抑圧され、長兄は張らぬ常に悶々としたものをかかえ、苛立ちと共に日々を過ごしていたのだ。夜霧に紛れて誰か、村娘でも犯してやろうか、そう犯罪者じみた…いや、犯罪者そのものの思考が頭をもたげ始めた頃、こうして、そこまで危険を犯さずに犯せる女が目の前に現れ、長兄はにやりと下衆らしい笑みを浮かべたのだ。

「餓鬼だが、穴が開いてりゃそれでいい。お前さんも、せめて一花ぐらい咲かせて死にたいだろ」

 股から咲く破瓜の赤い花だがな、とゲラゲラ笑うと長兄は己の男根、その切っ先を小刀でも押しつけるような凶悪さで指を抜いたせいでまた口を閉ざしつつある静葉の秘裂になすりつける。淫水の糸が伸びる。

「そら。これでお前も女だ」

 そうして、了解も呼び動作もなく長兄のいきりたったモノが静葉のナカヘ差し込まれた。ぶちぶち、ぶち、と肉と皮が避け、未開通の証でもある一枚の皮膜が破られる。かは、と静葉は短い悲鳴を漏らし、床板に爪を立てた。ぱきりと人差し指の伸びた爪が割れる。

「糞、狭いな。力抜けよ。動かしにくいだろうが!」

 長兄の怒声もすでに耳には届かない。体内に異物を入れられるという耐え難い感覚に静葉は声を押し殺して泣くばかりだ。そんなことを意にも介さず長兄はひっひっひっという短い呼吸の繰り返しに合わせ腰を前後させる。ずちゅり、ずちゅり、と汚らわしい水音が漏れる。長兄の淫水と静葉の小水、破瓜の血が入り交じって出来た潤滑油がかき混ぜられる音。けれど、それは滑らかと言うには程足りず、静葉の柔らかな秘裂はいきりたった剛直に貫かれる度に細かな裂傷を幾つも作った。

「ははっ、やっぱり、女は無理矢理犯すに限るな!」

 やがて、興が乗ってきたのか、長兄の動きに激しさが増す。ぱぁん、ぱぁんと皮太鼓のように己の腰骨を静葉の尻に打ち付け、勢いよく腰を突き出す。最奥を貫かれ、静葉はのけぞるような格好で悲鳴を漏らし、白目を向きながら口端から涎の飛沫を散らした。

「そら、位置、買えろ。非道ぇツラを見せやがれ」

 剛直を差し込んだまま静葉の体を裏返す長兄。正常位だが、両者の精神はとても正常ではなかった。狂気と恐怖。獣欲と絶望。その対比、特に絶望に歪んだ静葉の顔を見て長兄は満足を得たのか、修羅もかくやという凄惨な笑みを見せた。その顔に化粧を施してやると言わんばかりに二度三度と、握った拳で顔面を殴打する。鼻がつぶれて血が滴り、頬に裂傷を刻み、目の周りに熊のような痣を負わせる。長兄の吐き気を催すような趣味の一つだ。彼の妻がよく頭巾を被っているのはこのせいだ。長兄の精神には性欲と暴力がとても親しい位置にある。

 そして、さらなる邪悪な快楽をえようと長兄は腰を打ち付け続けながら、嗚咽を漏らし続け上下する静葉の喉へ両手を伸ばす。藁を束ねるように十指に力を込め細い骨張った首を鷲づかみにする。ぐぇ、と喉を潰され蛙のような悲鳴を漏らす静葉。そのままゆっくりと指に過唐津力をあげつつ、尻に火でもつけられたかのように激しく長兄は腰を前後させた。絞首の死期にか、静葉の膣壁が収縮する。なお狭くなった膣孔に長兄はうっ、と歓喜の悲鳴を漏らす。

「ーッ! ーッ!」
「そら、そろそろイク…ぞ。ははっ、中に、胎内に出してやるからな!」

 一段と激しさを増す腰の動き。膣壁の更なる伸縮を求めてか、静葉の首にかけた指の力も強くなる。咽頭を押しつぶし、大動脈を圧迫。
 苦しさにあえぎ、静葉は己の首の皮ごと、長兄の指に爪を立てるが、か弱い女子の力が如何ほどのものか。太く、節くれ立った指はまったくはがれる気配を見せない。
 ぐるり、と眼球が裏返るのではと思えるほど白目を向き、顔を真っ赤に染め上げ、静葉は陸にあげられた魚のように酸素を求め仰ぐ。その顔が赤紫に、そうして、青紫になるに従って全身から力が抜け落ちていく。ぱきり、と乾いた音が鳴る。
そうして、長兄は一際力強く打ち付けたかと思うとそのままの姿勢でぶるり、と一度、腰を振るわせた。呼応するよう、二度三度、悲鳴とも嘆息ともつかない声と共に白目を剥いた静葉が痙攣する。

 ぞぶり、と引き抜かれた長兄のモノは体液と泡だった白濁液に汚れていた。口を開けた静葉の秘裂から同じカクテルがどろりと溢れてくる。宣言通り、長兄は内側で果て、その滾った邪悪な欲望の滓を純真無垢だった静葉の中へ注ぎ込んだのだ。


「あははっ、あは、かかかかかかか!!」

 ケタケタと、汚れた己自身を拭おうともせず、悪鬼の如き哄笑をあげる長兄。その様は人鬼。善良な人間なら目を瞑り、耳をふさぎ、一刻も早く立ち去りたくなるような邪悪さに満ちていた。

「あはははは、よかったぜ。久々にたぁっぷりと、出せた。お前もえがっただろ。ああ、もう聞こえてないか。死んじゃったからな!
 まぁ、いい。さて、まだ暖けぇだろうから、もう一回ヤってから、適当に裏の林にでも捨てて…」
















「 お 姉 ち ゃ ん か ら 離 れ ろ 」



 かこん、と気持ちのいい音がお堂の中に鳴り響く。側頭部に衝撃を受け、体をかじすかせた長兄は、あ、と疑問符をあげ、こめかみに手を伸ばす。ぬるり、とした暖かいものが指先に触れ、べこり、とその部分が腹の柔らかい部分でも押したようにへこんだ。
 なんだ、一体、と長兄は半身に振り返り、後ろに誰が立っていたのかをやっと確認した。


「お姉ちゃんから離れろ!」

 その顔めがけ、穣子は二打目を放つ。閂……固い樫の木の芯で作られたそれを大きく振りかぶり力の限り振り下ろす。へぶし、と長兄は顔を殴打され、血と砕けた歯を飛ばしながら倒れる。

「お姉ちゃんから…離れろ…!!!」

 トドメと言わんばかりに倒れた長兄の顔面めがけ角材の角を振り下ろす。鼻頭に角がめり込み、長兄の顔面がひしゃげる。血と何かよく分らない体液が閂にこびりつく。

「はぁーはぁーっ、お姉ちゃん!」

 閂を捨てると穣子は緊張と激しい運動で上がった息を調えようともせず無残な姿の姉に駆け寄った。動かぬ静葉に必死に声をかけ、肩を揺さぶるが反応はない。白目を剥いたままの瞳。渇いた涙と涎の後。大きく開けられた口から伸びる紫色の舌。

「お姉ちゃん…そんな…そんなぁ…お姉ちゃん!」

 絶望に打ち震え、静葉の瞳から大粒の涙が幾つも流れ落ちてくる。鬼哭とはこのことか。穣子は床に膝をついて、オイオイと泣いた。喉からは声にならない声が漏れて、頬は涙であっという間に濡れて、右の太ももには短刀が突き刺され、血が流れ出してきた。

「!?」
「てへぇ、ころひへやる…!!」

 余りの衝撃に逆に痛みすら覚えず、違和感だけを頼りに振り返る穣子。果たしてそこにいたのは顔を崩しながらもこちらを血走った目で睨み付けてくる悪鬼…あの長兄だった。

「なッ!!?」

 逃げようと立ち上がったところで太ももに突き刺された短刀が引かれる。恐ろしい切れ味を持つ短刀は穣子が履いていたもんぺごとその下の肉を容易く切り裂いていく。赤い肉と桃色の筋と白い脂肪が露わになり、遅れて鮮血がほとばしる。バランスを崩して、倒れそうになったところへ短刀を握った腕で一撃を受ける。ぶすり、と傷口のすぐ側に深々とナイフの一撃を受け穣子ははじき飛ばされる。

「ころひ、ころ、ころひころ、ころひひここころろろろ…!!!!」

 怨々と血まみれ、歯の抜けた口で叫び声を上げる長兄/悪鬼。理性やその他、精神と肉体の両方のタガが外れたのか、顔面の痛みも何もかも忘れ、ただ、殺意のままに叫び声を上げ、血に塗れた短刀を握りしめる。鮮血が切っ先からしたたり落ち、脂に汚れた表面が日の光に煌めく。ひっ、と穣子は悲鳴を漏らして逃げようとするが遅い。足首をがっ、と捕まれると其所を…かつてさつ英雄が射貫かれ果てた場所を切り裂かれた。ぱちん、と顕界まで引き延ばしたゴム紐を中程で断ち切ったような音が聞こえた。

「イヤァァァァ!!」

 悲鳴。やっと痛みが襲ってきた。けれど、脳神経を役耐え難い激痛の情報量にすぐに脳も悲鳴を上げ、情報をシャットアウトする。そんなことはお構いなしに更に悪鬼は何度もいたぶるよう、掴んだ穣子の右足をなますに切りつける。胡瓜の蛇腹切りのやり損ないのように幾筋もの裂傷が走る。やがて、切り裂くのに飽きたのか、悪鬼は短刀を逆手に持ち、殴打するようにそれを何度も振り下ろす。太もも、膝裏、脛、所構わず。切っ先が骨に当り、欠ける。切れ味が悪くなる。それでも止まらない。血と肉片が散り、板間が鮮血に染め上げられていく。

「やめて! 痛い! 痛い! 痛い! ああっ!! ああっ!!」

 目を見開いて悲鳴を漏らす穣子。暴れるが悪鬼の拘束は強力だ。執拗に右足だけを切り裂かれ、その衝撃にがくがくと体を震わせる。急激に失われていく血液に視界が黒く染まりかけ、魂が壊滅的な暴力に犯され死んでいく。

「ひぎ、いぎ、ぎぎぎぎぎぎぎぎぎ…」

 食いしばった歯の間から漏れる嗚咽。びきり、と歯が欠け、口端から血が混じった泡を吹く。見開かれた目からは眼球が飛び出しそうだ。恐怖と絶望の悲鳴を漏らし続ける余り肺の中の酸素はすっからかんに。酸欠になり赤く染まっていく視界の中、穣子は斃れた静葉へ必死に手を伸ばそうとした。

「お姉…ちゃ、ん…」

 ブラックアウト。伸ばした指先はむなしく床板を叩き、穣子の意識は闇の中へ沈んでいく。













「なんだこれ…」

 悲鳴を聞きつけお堂に駆けつけるなり、刀自とその次男は混乱の極みにはまり、そんな言葉を漏らすことしか出来なかった。

 お堂の中には悪鬼が一人。もはや、気を失った穣子の右足にひたすらに、刃が中程で折れ、もはや、刃物としての用途を著しく損なった小刀を短刀を振り下ろし続けている。その顔にはおぞましいほどの狂気の笑みが張り付いている。

「お前…何をしとるんじゃ」

 さしもの刀自もそうおそるおそるしか狂気に犯された自分の息子に声をかけることが出来なかった。弱い六十を超え、半世紀を生きてきてなお怯えおののく事があるのかと、自分自身に疑問を覚えながらもなんとか声を振り絞る。と、声が聞こえたのか、長兄はぴたりと短刀を振り下ろす手を止めた。

「に、兄さん…?」

 尋常ならざる精神の兄に弟も恐る恐る声をかける。でも、母さんの言葉には反応していたし、気が狂った訳じゃ、と甘い考えを浮かべ、次の瞬間、長兄がいきりたった獣の形相でこちらに向かって飛びかかってきたことでそれが間違いだったと知る。

―――ぐぅるぅあぁぁぁぁぁあぁ!!!?

 奇っ怪な叫び声と共に長兄は刀自に飛びかかる。女傑と呼ばれていようと所詮は還暦を過ぎた老婆。屈強な男の力の前に容易く押し倒されてしまう。

「ひぃぃぃぃ!」

 刀自の顔に絶望が浮かぶ。脳裏をよぎったのは獣に食い荒らされてもああはならんと思えるほど無残な様を晒している穣子の足だった。アレと自分の体が重なる。確かな死を覚え、刀自は引きつった笑みを浮かべ、その刹那…!

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 折れた短刀を振り下ろされるより早く、下の息子に間髪、助けられた。刀自の上に馬乗りになった長兄に体当たりし、そのまま二人してもみ合いながら床の上を転がっていく。

「うわぁ、あああっ、あああああ!!」

 上を取ったのは次男の方だった。恐怖に駆られ弟は握り拳を作ると無我夢中で兄の顔を殴打した。所構わず。鼻水と涙を散らしながら、悲鳴を漏らし、どんどん、どんどん、と左右の拳を出鱈目に打ち付ける。兄はもう、狂いきっているのか手にした短刀で反撃することはおろか防御すらとらない。やがて、何度目の殴打の時、こめかみの辺りを捉えた一撃が妙な感触を覚えさせる。つきたての餅に登記の欠片を混ぜ込んだような…
 長兄はぷぎ、と豚の様な悲鳴を漏らすと鼻から何か桃色の固形物を混じらせた鼻血を流し、一度だけ痙攣するとそのままぴくりとも動かなくなった。死んだ、のだ。

「なんだよ…なんだよ一体…」
 兄の亡骸の上で弟は打ち震えた。涙を流し、恐ろしい出来事に体を揺らす。そして、なお恐ろし事にまだ事態は解決していないのだ。

 次兄と刀自がここに来たのは村人に急かされたからだ。
 空も澄んでいて日も高くなりつつあるのに、巫女をお社から連れてこなくていいのか、と。言ってきたのは刀自に言われるまでもなく、祭と儀式の準備を進めつつあった村の若い衆のまとめ役だった。
 とっさに刀自は兄の方を先に向かわせている。今から次男と一緒に迎えに行くところじゃ、と嘘七割、本当三割の言葉をついた。お前達は準備を終わらせておけと。かくして山行きの準備をすませると二人は山路を急いだ。どのみち、すぐに戻ってこいと伝えていた巫女役の静葉の亡骸の第一発見者であるはずの兄が戻ってこないのだ。一体どうなっているのか調べに行かなくてはならず、しかも、他のものには任せられない仕事だった。
 焦りを顔に貼り付け山に登る刀自。それとは対象的に次男は少しだけ安堵の表情を見せていた。村の者は総出で祭と儀式の準備に出払っている。一番の障害だった刀自はこうして自分と一緒に山へ登っている。これなら穣子ちゃんは、簡単に村から逃げ出せただろうと。自分たちが登っている山とは反対方向、そちらから伸びている村唯一の出入り口たる道を穣子が一人、駆け抜けていく場面を想像しながら。

 けれど、山中のお社についたところで次男もまた、刀自と同じく焦りを覚えた。お堂の中から悲鳴が…反対側に逃げたと思っていた穣子の悲鳴が聞こえてきたのだ。何事かと、刀自と顔を見合わせ、一緒に踏み込んだお堂には確かに静葉の亡骸と兇手役をかってでた兄の姿、そして、ここにいてはいけないはずの穣子の姿があって…後は前述の通り。もはや、余りの出来事にまともな思考が出来ず、否、如何な高僧でも乱心を起こしそうなこの状況に凡夫である次兄は頭を抱え震えるしかなかった。辛うじて出来たことは兄の狂気に吞まれないよう、必死に心を保つことだけだった。

「なんじゃ…これは…」

 次男とな時間層を漏らす刀自。尻餅をついたまま、起き上がろうともせず、見開いた目で虚空の一点を見つめている。

「祟り…か? 神さんが怒っとられるんか?」

 体を起こして、あれたお堂の中を見回し、刀自はそう呟く。

「分らない。けど、これで儀式は…興の畑終わりは失敗。巫女役を選びなおさな――」
「阿呆なこと言うな!!」

 兄の亡骸から逃げるように離れ、刀自の独り言に続ける次男。その胸の内はある種の安堵に満ちていた。兎に角、最悪の結果だったのかもしれないがこれで終わったのだと。それが言葉の途中で刀自に一喝、止められる。

「そんな馬鹿な話があるか…こいつわ、こいつわ、静葉を巫女にせなんだ罰じゃ、神さんの怒りじゃ、祟りじゃ。現に、静葉を殺せ言うたお前の兄は…死ぬより酷い目におうたみたいじゃないか…はよう、畑渡りをせんとこれは…去年より非道いことが村に起こりよるぞ…!」
「でも、静葉ちゃんはもう…」

 ちらりと横目で倒れたままの姉妹の姿を眺め見る。非道い乱暴を受けた姉の方はとうに息絶えているようで見るに堪えない。妹の穣子の方は辛うじて生きているようだが、早く手当をしないと清明が危ぶまれる非常に危険な状態であることは医者ではないにしても次男の目にも明らかだった。

「おい、裏の納屋に斧ぉ、置いてあったはずじゃろ。アレをもってこい。後は…縫い針か何か…」

 後半からはぶつぶつと呟くような声で聞こえなかった。狂気の熱に浮かされたような刀自の言葉に次男は眉をしかめる。けれど、

「えっ!?」

 それを裏付けるよう唐突に鳴り響いた遠雷に身を震わせた。見れば、山の向こうから雲が伸び、先ほどまで晴れ渡っていた空はだんだんと灰色に犯されつつあった。

「はよう、はよう、畑渡りをせんと…畑渡りを…静葉を歩かせんと…」

 がちがちと奥歯を打ち鳴らせ、自分の体を抱く刀自。その身開かれた目は血走り、とてもまともな精神を保っているようには見えなかった。そして、その狂気は次男にも感染する。

「斧と縫い針を持ってくればいいんだね、母さん…」

 見開き、瞬きを忘れた瞳を刀自に向け、返事を待たずに次男は駆けだした。
 ああっ、と穣子が目を覚ました。

















 そして、山の麓。儀式の畑の周り。待ちぼうけを食らっていた村人達であったが誰も、気の短い酒屋の大将でさえもいつまで経っても始まらない畑渡りの儀式に苛立ちは覚えていなかった。代わりに、

「曇ってきたなぁ…」

 空を見上げ不安を吐露している。
 もとより誰も今年の儀式がまともに終わるとは思っていなかった。去年のあり得ぬ凶作に続き、巫女は同じ静葉、それに彼女が足に火傷を負いびっこを引いていることは村の誰もが知っていた。このままでは去年と同じように失敗してしまうのでは、そう不安に思うのは無理もない。儀式の始まりが遅いのは取り仕切っている刀自が何か秘策でもって儀式の性交を確実な者にしているのでは、そんな噂も流れたが、水を張った瓶にしたたらせた油のように容易く不安を払拭することはできない。誰もが声を押し殺して、更に先ほどまで晴れていたはずの空に、今では分厚い雲に覆われつつある空に嫌な想像を浮かべつつただ舞っているしかなかった。

 と、

「あ、振ってきやがった…」

 渇いた畑の土の上に黒いシミができあがる。一つ、二つ、四つ、八つ、十六、三十二、六十四、百二十八、二百五十六、五百十二、千二十四、二千四十八、とその数は増えていき、数え切れなくなったところでざぁぁぁぁ、と初春の冷たい雨が降り始めた。
 これは溜らん、とむしろある種の安堵を浮かべながら村人達は天幕の下や軒先に駆け込む。儀式は中止か、と胸をなで下ろしていると誰かがお山の方を指さして叫び始めた。来たぞ、巫女が降りてきたぞ、と。

 声に反応して雨の中へ首を伸ばす人々。確かに見ればお山の蛇行する石段をゆっくりと駕籠を担いだ二人が下りてきている。しかも、よく見れば先頭は刀自のお婆で、後ろは次男ではないか。
 予想外の出来事に儀式の時の自分の役割も忘れ、村人はじっと二人…いや、三人が降りてくるのを待っていた。はたして、駕籠の中にいるのは誰なのか、と凍えるような怖ろしさを覚えつつ。

 やがて、二人の手で運ばれた駕籠は所定の位置へ下ろされた。
 老体にこの雨の中の駕籠運びの仕事は厳しかったのか刀自は荒い息を繰り返している。けれど、それを意に介さないといった様子で、例年同様、決まった順序で、山や畑に頭を下げつつ、儀式を進める。
 そうして、軋む音と共に観音開きに開け放たれた駕籠の中から頭を覗かせたのは―――

「あっ…あ、あ…」

 穣子であった。血の気の失せた真っ白な顔をして、雨に降られながら、短く嘆息を漏らし続けている。その様は白痴か。悠久の彼方に精神を霧散させたように惚けた顔を浮かべながら、降り続ける雨の粒子を眺めている。

「ほら、出るんじゃ。はよう、渡れ」

 隣に座して控える刀自が告げる。言葉は耳に届いたのか、僅かに穣子は顔を傾ける。

「静葉はもぉ歩けん。やから、代わりにお前が渡にゃいかん。お前が渡りきって、静葉が渡った事を証明せにゃならんのだ。渡って、今年こそ村を豊作にしてくれ。静葉の代わりに、渡るんじゃ。渡りきるんじゃ」

 狂気じみた口調の刀自の言葉。雨音で、その声を聞いていたのは穣子と次兄しかいなかったが、遠目に見ていた村人達にもその狂気は伝わってきた。

「なんでなんでなんでなんでなんでだよ、なんでなんでなんでなんでなんで穣子ちゃんに穣子ちゃんに穣子ちゃんに静葉ちゃんの静葉ちゃんの静葉ちゃんのああああああああ」

 逆側に控えている次兄の精神はもはや崩壊しきっている。濡れた地面に跪いたまま、自分の頭を掻きむしっている。ブチブチと頭髪を引きちぎり、額に流れる雨に朱色を交わらせている。

「さぁ、早う渡るんじゃ。姉の、静葉の足で…!」















「お姉ちゃん…」

 刀自の言葉に従うように穣子はまず、自分の左足を地面に下ろし、そうして、続けて“左足”を下ろした。










 ひっ、と村人の中から悲鳴を漏らす者が現れる。そうでなくとも、剛毅の者でさえも息を吞み、言葉を失う凄惨たる様がそこにはあった。

 本来は右足があるはずの穣子の右の左足。それは丁度、太ももの部分で荒縄や縫い針、釘と板などで無理矢理、本来の足の代わりに繋がれていた。
 接合部分からは僅かに血が流れ、先に流れて赤黒く固まっていた血糊の山を更に大きくする。大量に血が流れ出ていないのは股の付け根辺りで荒縄でしっかりと縛り、止血されているからか。駕籠から降りた静葉は両方の左足でしっかりと大地を踏みしめていた。






 接合部分より下はまともな左足。それの本来の持ち主はこの場にいるはずだった今年の巫女役、静葉のものだ。お社の中で刀自と次男の二人は静葉の無事な方の左足を切断。ボロボロになった穣子の右足を除去し、そこへ繋いだのだ。外科手術とはとても言えぬ乱暴な結合。当然のように筋肉や神経はおろか、骨格も繋がっていない。ただ、穣子の太ももへ繋がっているだけの足だ。その狂気じみた様―――この時代、まだ描かれていないメアリー・シェリーのフランケンシュタインの怪物を思わせる外科手術に村民は恐れおののいた。何をしているのだと。けれど、その狂気に気圧され誰も声を上げることは出来なかった。ただただ、あるがままの狂った恐ろしげな光景を眺めているだけだ。






「あ、ああああ…」

 そうして、降りしきる雨の中、穣子は儀式を開始した。

 緩慢な動きで左足/本来のそれを前に出す。ぞぶり、と雨を吸ってすっかり泥と化した畑の土に足が沈む。褐色に濁った冷たい水がにじみ出てくる。

 次は右の左足。放っておけばそのうち、外れてしまうのではと思えるほどぞんざいな繋ぎ方をされた右の左足。けれど、しかし、その足はきちんと本来の足であるかのように自然と持ち上がり、大地を踏みしめるために曲がり、普通の足と同じように動いた。左の左足と同じく、前に進むために、その少し前に置かれる右の左足。泥の中へ足は沈み込む。


―――その刹那







「見ろっ!」

 誰かが天を指さして叫んだ。その指の先、曇天の一角、分厚い雲に穴がうがたれ、そこから暖かな陽光が一筋、差し込まれているではないか。光はまっすぐと降りてきて儀式の畑の一角を指している。その場所は穣子の左足。二度目に踏み出した右の左足の方だ。

 日の光は如何ほどの熱量を持っているのか。光に照らされた場所からはあっという間に雨水が蒸発してしまった。それも、蒸発という言葉以外表せる日本語がないだけで、本来の蒸発とは似ても似つかぬ現象だった。すっかり雨水がなくなってしまった地面は丁度いい湿度を保ち、籾でも一撮み植えればすくすく育ちそうな状態のいい畑の土になっていた。

 何だ、アレは、と村人達が異口同音に語り出す中、穣子は次の一歩を進め始める。左の左足/右の左足。進む度に分厚い曇天に穴がうがたれ日の光が降り注いでくる。奇跡の歩みによって畑は春の姿へと変貌していく。

 左の左足を前に、続けるようにぎこちない動きの右の左足をだす。足跡が柔らかな畑の土の上に残っていく。綺麗に形取られた左の左足の足跡と、くぼみの回りから新緑を芽吹かせている右の左足の足跡。緑が畑に広がっていく。どこからか白い羽の蝶が飛んできて穣子の足跡に咲いた小さな花にとまった。

 見れば村のあちこちでも同じ現象が起こっていた。すっかり耕され、余計な石ころの一つもない畑が浮かび上がり、綺麗に水が張られた雑草一つ無い水田が生まれ、収穫を忘れ去られていた玉葱が陽光に当てられるとすくすくと育ち始め、両手の平では収まりきらないほどの実りをつけ始めた。
 肌寒かった空気もどんどんと暖かくなり、頬を撫でる風は気持ちのいいものに。心を安らかにさせる小鳥の鳴き声がどこからか聞こえてきて、畑の畦からモグラが顔を覗かせてきた。
 奇跡が起こっていた。

 あり得ぬ出来事に恐れを抱いていた村人達もこの出来事に歓喜の声を上げ、一人、また一人と儀式の畑の周りへ集まっていった。
 今年は豊作…いや、奇跡のお陰で大豊作だと、誰しもが胸に希望を抱いていた。








「あ…暖かい…」

 畑の真ん中を酔ったように体を左右に揺らしながら進む穣子。心地よい風と、足裏から伝わってくる柔らかな土の感触に顔を綻ばせている。恍惚とし、酔いしれたように惚けた顔をし、自我の境界をかすれさせたその様はまさしく神代の昔から伝わる巫女の様。蝶と桜の花びらが辺りに散り、幻想的で優美な光景を形作っている。とても、この世の風景とは思えないような雰囲気を漂わせている。

「お姉ちゃん…」

 ゆらゆらと風に揺れる花のように体を揺らしながらゆらゆら歩く。奇跡を起こしながら、春を目覚めさせ、夏を育て、穣子は畑を渡る。そうやって奇跡を起こしながら穣子は畑を渡る。

「お姉ちゃんの代わりに…私が、頑張らないと…」

 その為に。

 言われたからだ。静葉の代わりにお前が渡れと。もう、誰にそう言われたのかなんて思い出せない。姉の足で渡って、畑渡りを成功させろ、って。去年は失敗したけれど、今年、そう、今年、きちんと渡れればもう、あんな風にお姉ちゃんが虐められることはない。今年きちんと私が渡って、お姉ちゃんが渡ったところをみんなに見てもらって、それで、きちんと、一昨年とかその前の年、いつもみたいにお芋が沢山できて、田んぼに稲が実って、お山で沢山、アケビや栗が採れて、そんな、そんな風に豊作になれば、お姉ちゃんは虐められない。また、今までみたいに私と静かに暮らせる―――






「おい、こいつを見てみろよ。大根がもう、出来てるぞ!」
「こっちには茄子が実ってるぞ。青々としてなんと立派な…」

 村のあちこちでは様々な作物が実っていた。豆や青菜、柿にイチジク。水田も黄金色の穂をつけ、収穫の時を一纏めにしたような奇跡が起きていた。

「お芋さんが沢山採れたら…一緒に、食べようね…お姉ちゃん…」

 一人の女の子がお姉さんのことを想って呼び起こした奇跡だ。人は叶わぬ願いを叶えるために人であることをやめ、そうして、奇跡を呼び起こすのだ。
 けれど…

「でも、お姉ちゃん…何処に行ったんだろ…足、無いのに…」

 畑を渡りきり、穣子はお社の方を眺めながら呟いた。
 誰もが穣子が渡りきったことを喜んでいたが、本当に喜んで欲しい人はそこにいなかった。









 それから次の年も穣子は奇跡を起こした。
 静葉が戻ってこなかったからだ。穣子はそれを自分が至らないからだと、思った。村の実りが、まだまだ足らないからだと。このぐらいでは畑渡りは失敗なんだと考えて。






 翌年も、その翌年も穣子は奇跡を起こした。
 村は季節に関係なく暖かな気候を保ち、いつでもどんな野菜や果物でも収穫できるようになった。
 そうして、もっと村に実りをもたらせば、それが成功で、静葉が帰ってくると穣子は信じたからだ。静葉に帰ってきて欲しい一心で。

 だが、村人はそうは考えなかった。
 穣子の力で放って置いてもすぐにすくすくと育つ作物。そいつは朝枕元に毎日、輝く小判が置かれているようなものだった。
 村はいくらでもすぐに育つ作物を自分たちで消費し、余った分は近隣の村や町に売り、今まで以上に栄え始めた。大きな畑を持つ者は巨万の富を持つようになり、そこで働いていた者も中間管理職として相当のおこぼれを預かった。誰も彼もが怠惰に暮らしていながらも、どんどんと発展していく村。もっとだ、もっとだ、と村人は飢えた民衆のようにいきりたち穣子に畑渡りを強要する。

 移植された右の左足はすぐに駄目になってしまった。
 代わりは刀自の命令で村の同年の娘から集められた。村の繁栄と確実な実りのために犠牲を惜しんではならない、という意見をのんで。
 いや、実際は違う。人知を越えた奇跡に人々は歓喜し、何よりそれが失われることを恐れたのだ。何か違ったことをすれば明日にでもこの奇跡は終わってしまうのではないかと恐怖を抱いて。村娘の足がなくなれば人買いや人攫いから女子を買ってその足を切り落としたりもした。どんな手を使ってでも穣子に畑渡りをして貰い、村に常に実りをもたらして貰わなければいけなかった。

 いつしか穣子への期待は信心へ、そうして、狂信にへと変わっていく。
 聖者、現人神、神、穣子の立場が変わっていく。
 静葉を待つために成長を止めたことがそれに拍車をかけた。姿形が変わらぬものなど神以外に何が存在する?
 刀自も死に、次男が発狂死しても堅牢に作られた村のシステムは穣子を束縛し続けた。村には実りがもたらされ続けた。





 だれも、穣子の望みを叶えないまま/誰も穣子にまともなことを告げぬまま。
















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

















 いまだ日の本の国が戦国の世にあり、光秀が第六天魔王・信長公を討ち取った頃の話。山間のその村には少しばかり変わった風習があった。









「精が出ますね」

 その旅の人は村で唯一、畑仕事をしている村娘にあぜ道の側からそう声をかけた。

「あ、はい。こんにちわ」

 鍬を下ろし、手ぬぐいで滴る汗を拭いながら少女は旅人に挨拶する。

「広い畑ですね。ここ一人を貴女が?」

 芋の蔓が伸びる畑をざっと見回し旅の人が訪ねる。少女はいえいえ、そうでもないですよ、と首を振り、そうして更に続ける。


「ここだけじゃなく村全部なんですよ」

 四方を山に囲まれいるとはいえ、広大な広さを誇る田畑。少女はそれを全て自分一人で切り盛りしているのだと、説明した。日傘を差した下、片方の目を見開いて驚いた様子を見せる旅人。

「まぁ、それこそ大変ですね。しかし、どうして? こんな広さ、とても一人では出来ないでしょうに」
「いえ、頑張ればなんとかなりますよ。それに畑を綺麗にして、沢山、お芋や菜っ葉を育てていないと………お姉ちゃんが虐められちゃうんですよ」

 そう、どこか寂しげに両足が左足の少女は笑った。

「そうですか。それは残念。貴女は優秀なファーマーの様だから是非、ヘッジファンドしたいと考えていたところなんですけれど…」
「?」

 聞き慣れない言葉を耳にして少女は疑問符を浮かべ、首をかしげる。




 と、

「紫さま、お宿の方の手配が整いました」

 旅人の従者と思わしき者が駆け寄ってきてそう告げた。ふりかえり、ありがとう藍、と従者を労う言葉をかける旅人。働き者の妹に別れを告げようと畑の方へ向き直ると既にそこにはあの少女の姿はなかった。




「……」
「どうかなさいましたか、紫様」
「いいえ、早くお宿に向かいましょ。お腹ペコペコよ」














「ごちそうざま。ご主人、とても美味しかったですよ」

 その日の夜、村で唯一の宿に泊まった旅人は夕飯に出された料理に舌鼓を打った。
 食事はどれもこれも野菜ばかりで肉っ気や魚は使われていなかったが、十分に食べ応えがあり、旅人とその従者はぺろりと平らげてしまった。
 今は食後に酒と肴に山で採れた枇杷を頂いているところだった。

「ここは噂通り、お野菜が美味しいですね。なんでも年がら年中、どんなお野菜でも採れることとか」
「へぇ、その通りでして。それもこれもみのり様のお陰です」

 旅人の言葉に頭を下げ、椀にとくとくと酒を注ぐ宿の主人。

「みのり様?」

 濯がれた酒を手にしながら旅人は気になる言葉を耳にして問い返す。

「この村の守り神でして。なんでもその昔、凶作に見舞われた村のために自分の足をば切り落とした娘っ子がおったそうで。それを不憫に思うたお釈迦様が村を毎年、豊作になるようしてくださったそうでして。以来、その娘っ子は村の守り神として祀られとるんですよ」

 宿泊客が来る度にこの話を説明していたお陰か、主人の言葉は淀みなくわかりやすかった。一献頂きながら旅人はへぇ、と興味深げに頷いてみせた。

「ただ…」

 と、逆接を続ける主人。口調も明るい営業的なものから小さく暗い心情の吐露のようなものに変わる。

「ただ?」
「ああ、いえ、何でもありませんよお客さん。ささっ、どうぞ、もう一献」

 自分で言っておきながら話をそこで中断する主人。何かにじっと耐えるよう俯いたまま。旅人はその主人の後頭部を思ありげな視線で眺めている。従者はぱくぱくと皿に盛られた枇杷や柿をつまんでいる。何とも言い難い微妙な空気が部屋に満ちていた。

「……村に実りをもたらしてくださるみのり様なのですが、実は生け贄を所望する荒神さまでもありまして」

 やああってからしずしずと主人が口を開いた。説明口調ではあるが、その声は重く沈んでいる。内容が暗いものだからだろうか。それにしては迫力が真に迫っている。旅人は吞むのをやめて、従者にも静かにするよう手振りで示し、主人の言葉に耳を傾ける。

「…村に双子の姉妹が生まれました場合、姉の両足を、妹の右足を捧げなければいけないのですよ。先の自ら足を切り落とし、救っていただいたことの村からのお礼、ですね。昔は姉の方はそのままうち捨てられ、案山子になった妹の方は現人神として村で養っていたそうですが…今では姉も妹も足を切り落とした後は出来る限りの治療を施し、両方とも村の手厚い加護を受けることになりますが…
 その儀式が来週の頭には行われるんですよ」

 説明的な言葉ではあったがどこか歯切れが悪い。口にしている言葉以外に本心があるのではと思われる言葉。ずずっ、と音を立てて旅人は酒をすする。まるで、主人の言葉の先を促すように。
 また、えも言えぬ沈黙が流れ始めた。




「失礼します。お風呂のご用意が…あ」

 沈黙を破ったのは部屋にいる三人ではなく、障子を開けて現れた少女だった。板間の廊下に三つ指をついて、顔を上げたところで押し固まってしまっている。六つの瞳に見つめられ、気圧されたように狼狽えた表情を見せる。
 そばかすが残る野暮ったい顔つきの少女はその顔には宿の主人の面影が見て取れた。

「お姉ちゃん、そのお部屋の人じゃないよ。隣の部屋だよ」

 廊下の向こうから少女とよく似た声が聞こえてきた。旅人の部屋の障子を開けた少女は顔を赤くして、すいません、と謝りつつ戸を閉めた。
 閉じた障子の向こうからは「もぅ、お姉ちゃんってば慌てん坊なんだから」「だって…向こうの部屋だって言われただけじゃわかんないよ」なんて愛らしい姉妹の会話が聞こえてきた。

「申し訳ありません。私の娘…たち、でして」

 主人の弁明にいえいえ、と旅人は顔を綻ばせる。

「可愛らしい娘さん達ですね」
「いえいえ、そんな。あの通り、姉はそそっかしくて…妹の方が出来はいいのですが頑固なところがありまして。ああして手伝いをさせているのですが、遊び盛りなんでしょう。すぐにああやって二人で無駄話なんかを叩いて…」
「でも、可愛いのでしょう。目に入れても痛くないぐらいには」

 旅人に見透かされたようにはは、と取り繕いではない自然な笑みを零す主人。けれど、笑みが止まるとまた、暗い表情にもどった。

「あの…お客さん。お客様は確かさる場所に町を作るべく、集落を取り仕切れるような人材を探して諸国を行脚なされていると…」
「ええ、まだまだ、先の話ですが、一部の特異な存在の存命を考え、東北の一部に今上帝より彼の地方の一部を借り受け、そこに町…といってもこの村の倍程度のものと考えているのですが…を創る予定です」

 それは旅人がここに宿を取るときに主人に説明した言葉の続きだ。その内容を主人を始め、使用人の全員が殆ど、理解できなかったが京の帝の息がかかっていると言われればたとえ嘘であろうと疑うそぶりさえ見せられない。幸いに宿の賃は前払いで全額貰っているので狂人の余迷い言だろうがやんごとなきお方の密命だろうが関係ないのだが、ここに来て主人は旅人が人を集めて日の本の国のあちこちを旅して回っているという言葉を思い出した。もしかすれば、と一縷の望みをかけて断腸の思いで話を切り出したのだ。俯いたまま話を切り出したのは主君に陳情する下々の者のよう。もとより、旅人は従者さえ引き連れて浮きよい離れした雰囲気を漂わせていたので、ここがくたびれた宿の一室でなければそういう場面だと思われたかもしれない。

「う、ウチの娘たちはどうでしょうか。二人とも器量よしで…いえ、まだ、若いので至らないところはあると思いますが、必ずや旅のお方の望む働きを見せてくれると…」
「ご主人」

 話を途中で遮る旅人。はっ、と主人は顔を上げる。失礼なことを言ってしまったと、顔には肝を握られたように脂汗を流し、後悔の表情を浮かべている。

「も、申し訳ございません。出過ぎた真似を…」
「いえ、謝るのはこちらですわ。申し訳ないですがご息女を連れて行くことは出来ません。残念ながらあの二人は私の判断基準に照らし合わせれば『不可』です。あの娘は人の世の人の町で生を終えるべき人物です。勘違い無きよう、これは貶し言葉ではなく寧ろほめ言葉です。あの娘二人はご主人と一緒にこの宿を切り盛りするのが、天命というほど、似合っているのです。そう、ですから…」

 言葉が途切れる。否、主人には途切れたように感じられた。



「生け贄に捧げられるあの姉妹を連れて行くことは出来ません」



 そうして発せられる真実。苦虫でも噛み潰したように顔をしかめ、主人は己の膝の上で指先が白くなるほどきつく拳を握りしめた。

「わ、私の家は私の親父の代からここに越してきて宿を開いたのです…みのり様の話を初めて聞いたとき、私はまだ幼くそういうものかと考え、父が亡くなりこの宿を継いだ時も私は成長しましたが村の特異な儀式の話に対する考えは余り変わっていませんでした。妻を娶って、彼女が身ごもっても、まさかな、そんな程度にしか…けれど…」

 気がつくと主人は俯いたまますすり泣いていた。握った拳の上に涙の雫が落ちる。大の大人が酒もなしに涙を流す姿にかけられる言葉はないのか旅人は黙して、任せるがままに主人の言葉を待つだけだった。

「生まれてきた子が、双子で…しかも、女児だったとき、その考えはがらりと変わってしまいました。今までただの伝統…ここ数十年は行われてこなかった生け贄の儀式です。まさか自分の代で…しかも、自分自身の娘たちに当たるとは露ほども考えなかったのは決して私が愚かだからではないでしょう。そんな可能性、誰だって考えたくはありませんよ。けれど、それが現実になって…村人は名誉なことだと、私の家や娘達にいろいろと良くしてくれました。儀式で足を切り落とすと言っても人身御供にする訳じゃない、殺すわけではない、と村の重役には何度も説かれました。その後の保証もきちんとさせて貰う、と。でも、けれど…」

 たん、と机の上に手をついて、身を乗り出すような形で主人は吠える。

「何処の世に我が子の足が切り落とされるのを黙ってみていられる親がいられましょうか。死ぬわけではないと皆は言いますが、寺に残されていた文献を閲覧させていただくと殆どの場合、姉妹は…特に両足を落とした姉は死ぬ運命にあったと書かれていました。当たり前です。あんな幼い子が両方の足を切り落として無事でいられはずがありません。妹の方も片足を失ったことが心に影を落とすのか、精神を病むことが多いとありました。あの子らは双子として生まれた瞬間、そうなる事を運命づけられているのです。この年になるまでどうにかならないものかと私は考え続けてきましたが、一見平和そうに見えるこの村も実際は派閥争いや陰湿な取り決めが多く、それに今年も去年も、川上からの鉄砲水でいくつか畑が流されてしまいました。畑はすぐに治るのですが、ご存じの通り、村の回りの土地はほんの数里ほど離れた場所なのかと目を疑うほど、荒れ果てています。村が栄えているのは村の回りの土地の養分を吸っているからだと唱える者もいます。それを回復させるには生け贄に足を捧げるしかないと…
 私は何とか儀式をやめさせようと根回しをしましたが、陰湿な習慣に包まれたこの村ではとても、私個人の力ではどうすることも出来ません。村を出て行くことも考えましたが周囲の反対にあい、出口が限られているこの村では夜逃げすらままなりません。
 なんとか…なんとか、お助け願えませんでしょうか! せめて姉の方だけでも! 朝廷の命を受けておられる貴女様なら村の者も基地出汁しにくいと思います。何もあなた様が創る町に娘を入れてくれと言っているわけではありません。何処か遠くの村か町にでも連れて行ってくだされば…!」

 一つの休みも入れず、一気に囃したてる主人。それほど必死なのだろう。これが娘二人を助ける最後の機会なのだと、主人自身も理解しているのだろう。けれど…

「娘さんお二人の不運はお察ししますが、私には何とも…
 部外者である私がここに泊まっていることぐらい、狭い村です、もう村中に知れ渡っていることでしょう。そして、ならば、貴女と同じ考えに至るものも少なからずいることでしょう。既にこの部屋を監視している者の目を私の式が二つほど、見つけております。娘さんを連れて私がこの村から平和的に出て行くことはまず無理です。
 仮に娘さんの二人、或いはどちらか片方を連れていけたとしても残されたあなた方の運命はそれは悲惨になることが予想できます。良くて村八分。今まで通りの平和な営みは決して送れなくなるでしょう。けれど、それでもマシな方。悪ければそのみのり様の名の下、あなた方は処刑されてしまう。それもとてもむごたらしい方法で。このまま娘さん二人を生け贄に捧げるのがおそらく、もっとも被害が少ない選択でしょう」

 的確に主人の言葉を論破する旅人。主人のある意味勝手な物言いとは異なり全て真実をついた、丁寧な口調とは裏腹な冷酷無比な言葉だった。その意味をさとり、がくりと崩れ落ちるように主人はあげていた腰を落とす。

 もはや万策尽きたと、項垂れる主人。どの選択肢をとってもこの男は死んでしまうことだろう。肉体的な意味だけではなく精神的な意味でも。何が不幸なのかと問われればこの村で生活していたこと、それだけだ。
 自殺か一家無理心中の算段を立て始める主人。それとも今旅の人の言うように成り行きに任せるほかしかないのか。どれを選んでも後悔が残る暗く選べない選択肢を選ぼうと頭を悩ませる。

「ですが、ご主人」

 と、苦悩する男に旅人はそう言葉をかけてきた。

「一つだけ、娘さんの足を切らずに、しかも、家族の方も村中から迫害されず、しかも、私が探している人材が見つかるというすばらしい方法が、一つだけ、一つだけあります」

 そんな魅力的な提案を。

「そっ、それは…!」

 どんな方法なんです、とにべもなく飛びつく主人。まるで生簀の鯉のよう。にやりと旅人は底の知れぬ笑みを浮かべ、

「それにはまず二股に分かれた根野菜…大根か人参が必要ですわ」

 そう理解しにくいものが要ると答えた。笑みを浮かべたその顔はまるで邪悪な契約を持ちかける悪魔のようだった。









翌日、朝の一番から村中を走り回って旅の人に言われた物を買い集めていた。米や雑穀、干し芋や菜種油。漬け物。馬を二頭と引き車。それに最初に提示された二股に分かれた大根。実際の所、物に溢れている村で前者の米や馬は簡単に買い集めれることが出来たが、二股の大根がやっかいだった。村で採れる野菜は総じて形が良く、収穫高も有り余るほど豊富なので少しでも虫が食っていたり形が悪かったりする物はすぐに捨てられてしまうからだ。それでも何とか一本だけ、特別に仕入れて貰うと宿屋の主はそれを旅人たちへ渡した。

 主人から貰い受けた大根を篭に入れ、旅人は朝廷の名を振りかざし、立ち入り禁止とされている村の北側の山へ、調査と称して入っていった。

「藍〜待ってよぉ〜」

 山は長年、人の出入りがなかったせいか、非道く歩きにくかった。苔むした石段があるものの、その上はシダ類に覆われ、先ゆく従者が借りた鉈を振るい露払いをしなければとても進めなかった。

「大丈夫ですか?」

 先ゆく従者に情けない声を上げる旅人を労うよう、案内役として連れてきた宿屋の娘の長女が声をかける。だ、大丈夫よ、と旅人は親指を立ててみせるが汗だくの顔はとてもそうは見えない。

ヤブ蚊や山蛭が寄ってきて旅人はうぇ、と声を上げるが先ゆく従者は振り向きさえしない。付き添いの娘が払ってあげるが虫は群れを成してやってくる。
 やがて、先ゆく従者の姿が旅人たちの視界から消え、茂みの向こうから見つけましたと余部声が聞こえてきた。がさがさと茂みをかき分けて旅人たちが進むとそこは開けた場所で、余り、草木は生えず、枯れた落ち葉が積み重なっている所へでた。

「こちらです、紫様」

 そう指さした方向、広間の奥、半ば朽ちかけたかつては社だったと思わしき建物があった。長らく誰も手入れしていなかったのだろう。風雨に晒され色あせた柱。底の抜けた階段。屋根は落ち穂と苔に覆われ、茶色く枯れかけた葉をつける木が何本か根を張っている。片方の戸が失われ、もう片方も錆びた蝶番で辛うじて支えられている中を覗くと、お堂の中も腐敗の進行を止められなかったのか、黴のすえた臭いが漂ってきた。それを意に介することなく、腐っていいつ底が抜けてもおかしくないお堂の中へ、先ゆく従者と気をつけるよう娘の手を取る旅人。
 中には日の光が全く差し込んでおらず、非道く暗い。従者が懐から御札を一枚取り出すとそれを掲げ一言二言、呪文を唱える。ぽっと提灯のように赤い光が御札にともった。わっ、と生まれて初めて目にする呪術に娘は声を上げる。
 
 弱々しい光の下、室内が陰影濃く照らし出される。

 もはや何もかも喪われた御神体、抜け落ち、地肌を晒している床、かつては駕籠であったであろう芥の山、そして、それらの中央、うち捨てられるように部屋の中央、白骨化した死体が横たえられていた。

「これですかね。四百年経ってもこれだけしか朽ちていないとは…一体どういう加護で?」

 近づき、亡骸を調べ始める従者。
 骨の持ち主は子供だったようで大人のそれに比べると頭蓋骨などは幾分小さいように感じられる。従者の台詞はこんな山中、死体を放っておけば三日と経たず獣に食い散らかされ、残った血肉も虫が苗床にしてしまうからだ。骨だけになったとは言え、殆ど手つかずで置かれているのは奇跡としか言いようがなかった。

「ここはある種の聖域、結界の内側だから。山にあるものはもちろん、部外者や妖怪達でさえもそうそう手出しは出来ないわ」

 何故か自慢げに説明する旅の者。自分も亡骸に近づき、その様子を子細に眺める。宿屋の娘は恐ろしいのか離れた場所で死体以外の場所を、それでも闇を見るのも恐ろしので従者が手にしている札の炎に視線を注いでいた。

「でも、これ見てみなさいな。片方の足がないわよ。右かしらね。左の足も変に曲がっている。折れた後の治療が拙かったのかしらね」

 そう言って白骨死体の足の方に溜ったゴミをどけ、真っ白な骨を露わにさせる旅人。説明の通り、右の足は太ももの半ばでなくなっており、左の足も脛の骨が歪にゆがんでいた。

「この子が昨日の子のお姉さんでしょう。成る程、確かにこの足じゃ村には帰れないし、畑も渡れないわね」

 かわいそうに、と目を細めて旅人は呟く。



 それからあらかた検分を終え、誇りに汚れた手を払いながら旅人は立ち上がると、一人怯えてじっとしていた宿屋の娘に向かい合った。

「それじゃあ…そろそろ私たちは帰ることにするけれど、お父さんにはもう、全部伝えてるから安心してね」

 そう、娘の肩に手をかけながら優しく話しかける旅人。言っている意味が分らず、宿屋の娘はえ、え、としどろもどろな言葉を返してしまう。

「暫く形を借りるだけだから。あの子のままの形だと今の時代とのつながりが弱すぎて顕現できないの。骨は無事だったから後は肉をつけるだけ。足はそのお大根を使わせて貰うわ。だから、二、三日の辛抱だと思うから」

 旅人の説明は続くが宿屋の娘の理解はまるで追いつかない。話す速度が速い訳でも、言っている言葉が難しいわけでもない。言っている意味が理解できないのだ。そうしている間にも従者が白骨死体の回りに符や石を並べ、なにやら魔方陣のような物を床に描いている。

「ごめんなさいね。髪の毛を一本、貰うわ」

 一言謝って、それでも了解を得ずにぷちん、と娘の髪の毛を引き抜く旅人。いたい、と娘は頭を押さえる。
 引く抜いた髪の毛を手に、それを白骨死体の胸の上へはらりと落とす旅人。続いて腰骨から伸びる足を形成していた骨を全て払いのけ、代わりにそこに二股の大根を置く。
 それで儀式の準備は完了だ。

「―――――――――。」

 そうして、できあがった儀式の場の前に立ち、何か呪文を唱える従者。黙し眼を瞑って、印を結び、法力をこめる。妙な風邪が吹き上がり、怖ろしさの余り宿屋の娘は後ずさる。

「えっ!?」

 瞬間、紫色の眼を潰すほど強烈な光が輝き、思わず娘は眼を瞑ってしまう。
 そうして、ややあってからゆっくりと瞼を開けた先には…

「嘘…私…?」

 殆ど全裸に近い格好で床の上に横たわっている自分自身の姿があり、驚きの声を漏らした。





「あ、服、忘れてたわ」

 裸体で横たわる顕現された宿屋の娘の姿似を見てあちゃー、と旅の人は自分のおでこを叩いた。

「と、とりあえず藍。御札一枚ちょうだい。せめて前貼りでもつけてあげないと可愛そうよ」
「マスターの思考の方が可愛そうだと思いますが…」

 ため息をつきつつ従者は自分がこの子の服を宿屋のご主人から貰ってきますから、と足早に駆けだしていく。
 その間、旅人は手品のような出来事に腰を抜かし、放心状態にある宿屋の娘を解放してやることしかできなかった。










 お山から帰ってきた宿屋の娘の様子がいつもと違うことにすぐに主人は気がついた。貴女の感性は正しいと旅人は言う。この娘は貴女の娘ではなく偽物で、本物は今、お山のお社に隠している。村の中に同じ顔形をした者が二人もいればパニックになってしまうから、そうしたのだと。この娘が貴女の本当の娘の代わりに足を生け贄にする儀式に出ることになる、と更に旅人は説明を続ける。話の要領はえなかったが主人はこの自分の娘によく似た子供は娘の身代わりなんだと理解した。旅の人は本当はそうじゃないけれど、おおむねその考えでOKよ、と答えた。それから儀式の日の当日、どうすればいいかも全て説明された。

 その日はすぐにやってきた。















「……」

 どうしてこんな場所にいるのだろう、と宿屋の娘の形をした彼女は考える。
 未だに自分が誰なのか分らないまま、眼にする風景に既知感と真逆の違和感を覚えながら。

 回りには大勢の人がいる。皆、浮かれたような、狂気をえたような顔つきをしている。その全員が自分に視線を注いでいるような、首筋の辺りにチリチリとしたものを覚える。この感じ、昔何処かで…そう考え、頭を満たしている深い霧に阻まれ詳細が思い出せない。けれど、余りいい思い出ではなかったようで考えれば考えるほど、気が重くなってくる。

「大丈夫、お姉ちゃん」

 ふと、隣で自分と同じように巫女装束を着せられ、木で組まれた高台に乗せられている妹の姿が眼に入った。自分のことより私のことを心配してくれている。その健気さに胸を打たれると同時に、姉であるはずの自分のふがいなさに腹が立ってくる。

 そうだ、と彼女は頷く。
 自分はお姉さんだったのだと。
 けれど、それは隣のこの子じゃない。
 別の、別の子だ。

「私の…妹…」

 探すように視線を巡らせる。
 大勢の人。恐ろしい沢山の村人。自分を虐めていたあいつら。
 いいえ、これも違う。村人はあのときと同じく非道く盲目的で理性的な行動なんて一つもとれてないみたいだったけれど、少なくとも敵意は向けてこない。もう、自分を虐めてくることはないようだ。

 そうか、と安堵のため息を漏らす。
 後はその事を妹に…妹の×××に言ってあげないと。ほら、あの子、まだ、私が虐められると思って一人で頑張っているに決まっている。そうだ。あの子があんなに大変な目に遭っていたのは私が虐められていたからだ。私はきっとあの時…お姉ちゃんは大丈夫だよ、ってそういう所を見せてあげなきゃいけなかったんだ。

「うあ…」

 あえぐような声を漏らすと生け贄の斬腿台から彼女は腰を浮かせた。儀式の段取りを話し合っていたもの達がぎょっと目を見開く。何をしていると怒声があがる。けれど、無視。そうだ、彼女は証明しなくてはいけなかったからだ。

 自分が大丈夫だと言うことを。

 彼女は立ち上がると人の背丈の倍はある斬腿台から飛び降りた。足を挫きそうになる。駄目。足は大切にしないと。そうだ。ルールを思い出してきた。足を傷つけたり、転んだりしないようにしながらきちんと畑を渡るんだ、と。

 何人か、彼女が斬腿台から逃げ出したのを見つけて慌てて飛びかかろうとした。が、何もないところで彼らは無様に転んでしまう。見ればその足には人型に切った紙が張り付いている。まるで、そうはさせまいと引き留めるように。

「はっはぁ…」

 斬腿台のすぐ前はかつて、畑渡りに使われていた場所だった。もう、そこは畑ではないただの広場になっていた。けれど、構うものか。彼女の目にはそこはしっかりと耕された柔らかな土が広がる畑だった。

「み…み…」

 その畑の向こう。緑色の蔓が伸びる尾根、そこへ鍬を突き立てている影が一つ見える。土を掘り起こし、蔓を引っ張って、紫色の大きなお芋を引っこ抜いた拍子に盛大に尻餅をついているあの子。あの子が、あの子が私の…

「穣子…!」

 妹の名前を呼んで静葉は歩き始めた。畑へ、幻の、あの時、渡れなかった二度目のは田渡の儀式のための畑へ。

「はぁはぁはぁ…ああ、もう…歩きにくいなぁ」

 新しい足はまだ馴染んでいないのか思うように動いてくれない。それによく見ればふっとくて非道く不格好だった。前の足はすらりと伸びていてとても綺麗だったのに。でも、構わないかと、静葉は前に進む。前の足なら穣子が持っているし、あの子の足の方が断然、私の足より前から綺麗だった。だから、いいんだ、と。

 まて、と他の大人達が静葉を止めようと迫ってくる。式神に取り付かれた人も足に張り付いている紙を引っぺがして破き、多勢を成して迫る。鬼気迫る表情は生け贄の巫女に逃げられるのを阻止せんがため…だけではない。明らかに何か恐怖を、そう、この村の実りが終わってしまうのでは、収穫の秋が過ぎ、落葉の秋が訪れるのを拒むような、そんな恐怖があった、





 けれど、






「あっ…」







 もう、










 遅い。









 前に出した一歩で畑の土を踏みしめる静葉。
 軟らかな土の感触が足裏一杯から伝わってくる。
 日の光に照らされてお布団のように柔らかくて暖かい土。それが足を指の間まで包んでくれる。心地いい。まるで、柔らかいぼんたんを着せられ、お母さんの背中で眠っているような、そんな感じがしてくる。母なる大地、その言葉が真に感じられる。

―――けれど

「いつまでもお母さんと一緒にはいられないのね」

 はらり、と静葉の頬を涙が伝わる。
 それは悲しみの涙だ。優しい誰かの加護の下から離れなければいけない、そういう決別の涙。そうだ、自分はこのぬるま湯のような心地よさから出て行かなければならなかったんだ。自分の意志で。自分の感情で。こんな甘ちゃんだったから妹に、穣子に迷惑をかけてしまったんだ、と。もう、終わらせようと、穣子に頑張って貰う必要はないんだ、と静葉は涙を流す。

 頬を伝わりあご先から雫となって涙がぽつり、と地面へ落ちる。
 穂を風で揺らす雑穀の苗の上に。
 青々としていたそれはさぁっと漂白したように葉を褐色に薄め、稲穂の先についていた籾を風に散らした。

 もう一歩、静葉が進み涙が溢れれば今度はそこまで葉を伸ばしていた茄子の枝に雫が触れた。はちきれんほどに実っていた茄子の実が熟れて地面に落ち、葉も枯れ落ちていく。静葉が一歩進む度にそれは繰り返され、暖かかった風も冬の知らせのように冷たくなってきた。日輪が遠く、天には哀愁漂う薄い雲が広がっていく。晩秋の夕暮れ。見るものの心に涙を打つ寂しげな空が広がっていた。

 見れば他の畑にもそれは伝播していた。
 熟れていた実が完熟し、地面に落ちて潰れていく。葉は黄色く染まり、かさかさに渇いて吹きすさぶ一陣の風に飛ばされていく。山も赤く染まり始める。風に揺れ、流れる川を紅く染め上げるほど紅葉の葉が落ちていく。飛び降り損ねた楓の一葉が風に揺れている。銀杏も全て土の上に落ちてえも言えぬ臭いを発していた。

 村中が秋だった。秋の終わりの頃だった。夕焼けにカラスが鳴き、そろそろ家路につこうかと思わせるそんな秋だった。

 ああ、と涙を流しながら目の前の奇跡を享受できず、何人もの村人が膝を折る。落日の日。四百年にわたり村に実りをもたらしてきた永遠の秋が終わりを告げたのだ。









「お姉ちゃん…」
「うん、ただいま、穣子」

 ひしと姉妹は抱き合った。
 柔らかな地面を踏みしめる二人の足は両方とも素足だった。土に汚れてはいたけれど、とてもとても綺麗な足だった。

















 同刻、山の中程にある忘れ去られたお社の前でも姉妹の再会劇は行われていた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 姉に抱きつき涙を流しているのは宿屋の下の娘だ。その様子を苔むした石に腰掛けながら宿屋の主人が、傍らには微笑を浮かべる女将が眺めている。

「これにて一件落着ですわね」

 そう、手にした扇で村を指し示したのは旅の人―――八雲紫だった。
 村はあの畑渡りの儀式の畑があった場所を中心にすっかり晩秋の様を見せている。休耕に入った畑。葉を殆ど落としてしまった木。岩に引っかかり川底に沈む落葉。赤とんぼの群れ。村が久しく見ていなかった光景だ。

「あ、ありがとうございます。学のない私たちには何が起こっているのかさっぱりですが、兎に角、娘二人を助けていただいて本当にありがとうございます。本当に…なんと言っていいのやら…」

 感謝の言葉を伝えようと、けれど、自分の語彙では伝えきれないほどの感謝の意を抱いて宿屋の主人が紫の方へ歩み寄ってきた。ええ、ええ、皆まで言わずとも、と主人を宥める紫。

「しかし、ご主人、これからが大変なのですよ。お伝えしたとおり、貴方たちは今日にでも村から逃げ出さなくてはいけません。今日の出来事が貴方の上の娘さん…実際はみのり様のお姉さんによって引き起こされた出来事ですが、妖精を見る眼も持たない村人には今日の出来事は全て娘さんの特異な行動のせいだと考えるでしょう。復讐という名前の八つ当たりを受ける前に逃げるのです」

 わかりました、と頷く主人。もう、村外れの道には馬と先日買いそろえた食料や持ち運びできて換金しやすい物が摘まれている。逃げた先でそれらを売り払えば、何処にでも根を下ろせるだろう。
 四人の家族は深々と頭を下げると紫達より先に山を下り始めた。後は混乱に乗じて逃げるだけだったが、それはおそらく成功するだろう。遠目に村を見れば暴れている村人の姿があった。見れば火の手が上がっているところも。これから到来する初めての冬を前に食料を集めるべく。暴動が始まっているのだろう。無駄なことを、と水を注ぎ込んだ巣穴から這い出てくる蟻を眺める様で紫は邪悪に笑む。

「しかし、紫様、なにもここまでしなくても。あの妹…穣子様ならご説得すれば私たちについてきてくれたのでは?」

 そうすればここと同じよう、永遠の繁栄が約束されている物のようですのに、とそう今まで黙っていた従者―――式、八雲藍が話しかけてきた。

「馬鹿ね。それだとここの二の舞じゃない。ここみたいに放っておいても滅ぶわよ」
「ああ、確かに静葉様とセットでないと…放っておいても?」

 言いかけて自分の考えのミスに気がつき問い直す藍。

「そうよ。あの宿屋の主人が言っていたじゃない。この村の回りの土地は枯れているって。この村の実りのために回りの土地の養分が吸い尽くされているって。あれは本当の話よ。叶わぬ願いを叶えるために神に至ったと言っても無限の力を得る訳じゃないわ。むしろ逆。自然に任せる以上の余計な力を使うせいでこの辺りの土地はもう、回復不能なぐらい枯れ果ててしまっているわ。程なく、今までのツケを返すように非道い寒波と鉄砲水がこの村を襲うでしょうね。もとより、歪すぎるのよこの村は。風習も、風土も、何もかも。放っておいても今日にでも天罰が下ったわ」

 ぱちん、と扇を勢いよく閉じる紫。と、その時、藍は何処かで紫が設置した術式が解除される音を聞いた。

「今のは…」
「川上で水を堰き止めていた天然ダムの強化術式を解除したの。私が止めていないと今日の昼には村は鉄砲水に襲われていたでしょうから」
「じゃあ、放っておいてもその混乱い乗じてあの宿屋の親子は逃げられたのでは…?」

 素直に疑問を投げかける藍。紫は扇子をまた開いてそれで口元を隠しつつ、出来の悪い弟子を諭すような視線を浮かべて、藍を見据えた。

「馬鹿ねぇ、それだと穣子ちゃんと静葉ちゃんが仲間にならないでしょ。フラグ管理がなってないわよ、藍」

 クスクスと笑う紫。
 山の麓からは姉の静葉に手を引かれて穣子たちが上ってきているところだった。

「良く来たわね、静葉ちゃん、穣子ちゃん、歓迎するわよ」

 そう、手を振って二人を迎える紫。
 幻想郷の誕生まではまだもう少しかかりそうだった。




END
えらい難産だった…

あと、プロットを考えているとき、素で静葉と穣子、逆だと思ってた。

あ、みのりんの足がJガイルの旦那設定はある意味、公式ですよ〜
sako
作品情報
作品集:
19
投稿日時:
2010/07/24 13:20:06
更新日時:
2010/07/24 22:20:06
分類
秋姉妹
みのりん「お姉ちゃん、私、神さまになっちゃった」
静葉「神さまで農業に従事する奴隷だから“かみのう”でいいんじゃない」
1. 名無し ■2010/07/24 22:30:17
ええ話や…………よかったね、静葉に穣子
地味じゃなくなったよ

長文お疲れ様です、おもしろかった
2. 名無し ■2010/07/24 23:54:48
すげええ…
あの立ち絵からここまでの話を書けるなんて…
ゆかりんもいいキャラしてて非常に読み応えがありました
3. 名無し ■2010/07/25 10:18:07
圧倒されるお話でした
4. 木質 ■2010/07/25 18:57:42
秋姉妹をこんなに愛らしく感じたのは初めて
5. 名無し ■2010/07/26 01:08:44
まさに豊穣と終焉の話だった
胸に色々こみ上げてくるけど言葉に出来ないな
本当に感動した
6. 名無し ■2010/07/26 07:04:47
村社会の閉鎖的で陰湿な風習怖い
いいお話でした眼福
7. 名無し ■2010/07/26 11:16:54
神農(しんのう)という名の神様いるよ
8. 名無し ■2010/07/26 14:22:37
文学すぎる…力作すぎる…
こんな場末にあるのはもったいないぐらいだ
9. 名無し ■2010/07/26 16:01:20
うおおおしずはああ
10. 名無し ■2011/02/02 16:25:12
人がカミサマに成る物語は、いつも物悲しいです……。
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