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『蓬莱人を殺す108の方法』 作者: sako

蓬莱人を殺す108の方法

作品集: 19 投稿日時: 2010/08/12 18:15:11 更新日時: 2010/08/15 11:06:51
 夏草や、兵供が夢の跡…






 その場所にはかつて大きな屋敷が建てられていた。
 今、残されているのは焼け落ちた柱と石垣ばかり。風化して崩れかかった蔵の壁に雑草が芽吹き、桃色の名もなき花を咲かせている。
 その廃墟の間を彼女は歩いていた。相当に出遅れた盗人ではない。見聞、調査のためだ。
 興味深げに半ばで折れ真っ黒になった柱に打ち付けられていた飾釘のスケッチを取り、この屋敷の間取りはこうであったのだろうな、と当時は水が貼られていたであろう、干上がった池に思いを馳せ。ひとりごちる。



 と、



 彼女は草鞋ごしに何か固いものを踏みつけた。
 炭にまぎれて石でも落ちていたのかと思ったがそうでもない。足先で存在に砂利や炭を蹴飛ばしてみると壊れすでに役目を終えた大きな錠前が土に埋もれているのを発見した。更に辺りを掃除してみるとそこには一枚、地下へ通じていると思わしき扉があった。
 屋敷が焼け落ちた後、その現場を荒らした火事場泥棒よりなお薄汚い盗賊共もこればかりは見つけられなかったのか、と思ったがどうも違う。先程から頭に描いている屋敷の間取りではこの場所は奥座敷があった辺り。そんな場所に作られた地下室ならば金銀財宝、或いは家宝などが置かれていると見て間違いない。野良犬のように鼻のいい盗賊ならば真っ先に見付け出しそうなものなのだが…
 そこまで考えて彼女はある結論に至った。
 見つけたが、あえて手付かずのまま置いておいたのでは、と。
 なるほど、確かに扉を封じていた鍵は自然に壊れたというより手斧か何かで金具をたたき切ったような壊れ方をしている。盗賊はこの扉を見つけ、鍵を壊し、中へ入ろうとしたところで…何故かそれをやめたのだろう。或いは中へ入っていったまま、そのまま帰らぬ人となったか。
 
 蝉が鳴いているような暑い季節にもかかわらず僅かに寒気を感じ、身震いする。

 さて、自分も盗賊のように見なかったことにして帰るべきか否か、と僅かに思案する。
 が、結局、好奇心が勝った。もとより自分は調査のためにこの場所にきているのだ。調べれるものならば、何でも調べたい。
 彼女は適当にしっかりした木を探してくるとそれを梃子に埋もれていた地下室への扉を無理やり開け放った。大地に穿たれた暗黒。そこから黴臭いすえた臭いが漂ってくる。
 扉からすぐ下へ石段が伸びているが、五段目から先はもう闇の中だ。何も見えはしない。彼女は術で打ち捨てられていた荒縄の切れ端に火を放つとそれを闇の中へ放り投げた。石段を照らしながら落ちていく炎。十五段ほど落ちたところで床へ。褐色の踏みならされた土間が見える。ガスや地下水等は溜まっていないようだ。
 彼女はカンテラを用意すると慎重に石段を一つ一つ、確かめるよう踏みしめながら地下へ降りていった。待ち受けているのは鬼か蛇か。ある種の期待に満ちた笑みさえ浮かべて。

 階段を半分も降りると彼女は顔をしかめ、鼻を手で覆わざる負えなかった。
 酷い悪臭。扉を明けたときにも感じたものでがここではやはりそれは何十倍も酷い。黴臭くすえて…いや、違う。この臭いは黴だけではない。この鉄錆のような臭いは血の香りだ。
 血という生命に直結する臭いを感じて僅かに彼女は進むのを躊躇う。思っていた以上に盗賊どもは利口だったのかもしれない。もしくは愚かしすぎてこの臭いの大元になってしまったのかも。近い将来、自分もそうなるのでは、と嫌な想像がよぎる。それでも進もうが戻ろうが危険は同じと、彼女はカンテラで前方を照らしながら闇の中へ進んでいく。


 地下は狭い通路のようになっていた。人が三人も並べばそれだけでいっぱいになってしまうような。左手の壁は塗り固められ頑丈な作りになっている。そうして、右側は…

 ある意味、予想通りのものがあった。
 硬い樫の木を組み合わせて作られた格子。それが階段の踊場から反対側の壁まで伸びている。がっちりと組み合わされ、交点を金具で止められた格子は破砕槌か大砲でもないと壊せはしないだろう。この狭い地下ならばどちらも使えはしまい。脱出も救出も不可能な地下の牢獄。それがこの場所だった。

 さて、誰がこんな場所へ囚われていたのか。若しくは何が、か。一抹の恐怖を抱きながら彼女はカンテラの光を格子の中へ差し入れた。牢の床は前の通路とは違い石が敷き詰められている。壁も漆喰ではなく同じく石。隙間なく組まれたそれらは頑丈な格子同様、脱出不可能の文字を確かに表している。ここまで頑丈な作りにしているということは囚人はまともなモノではないだろう。格子に沿って歩きながら彼女は想像をふくらませる。

 と、カンテラの光が床に無造作に投げ出された足を照らし出した。闇に浮かび上がった白い素足に思わず彼女は悲鳴を漏らし、後ずさる。

 いや、悲鳴はその後にこそ本当に発せられた。






「…誰?」




 格子の向こうから投げかけられた人の言葉。
 ありえるはずがない。ここに誰かが囚われていたのは確かだがそれはすべて過去形で語られるべき話だ。何故ならばこの屋敷が焼け落ち、頭首ともども一族郎党が打首の目にあったのはもう十五年も前の話だからだ。
 地下室の扉は開けられた気配は一つもなかった。おそらく屋敷が焼け落ち、盗賊が鍵を壊してから誰ひとりとしてここに訪れたものはいない。探検にやってきた彼女が始めてだ。それだけの時間、こんな深い闇のなかで生きていける筈がない。
 ならば、この格子の向こうにいるのはいったい…

 恐怖からか。意識に反して今にも逃げ出そうと階段に向けてすり足をし始める。




「いや…」





 その足が、





「もう、殺さないで…」




 啜り泣く声に、



「酷い事しないで…」







「助けて…」

 止まる。




 彼女は僅かにためらった後、手持ちの道具でなんとか牢の鍵を壊した。
 彼女が牢の中に入ってきても囚人は啜り泣くのをやめなかった。もはや涙も枯れ果てたといった風の泣き声で、石造りの牢に小さな吐息が響いて聞こえる。聴くものを心の底から悲しい気持ちにさせる辛い声だった。
 どうしたものかと、彼女は思案したところで牢の片隅に無造作に朽ちかけた小さな机が置かれているのに気がついた。その上には同じく、虫に食われ、ぞんざいな扱いでは紐ほどけてしまいそうな冊子が。啜り泣く牢の主も気になったが彼女は先に冊子に手を伸ばした。カンテラの明かりを頼りになんとか最初の頁を捲る。


『×月○日 死なぬ女を手に入れた。ものは試しにと腹を割いてみたところ、ものの数分で飛び出した腸がひとりでに腹の中へ戻っていく。青い顔押して釣り上げた魚のような息をしていた女もすぐにまともに息を戻し始めた。おぞましい光景に股座の愚息がいきり立つ。これは面白いものを手に入れた。早速、色々と試してみよう』

 最初の頁にはそれが、市中引き回しの上に打首獄門の極刑に処された屋敷の主の署名と共に綴られていた。二頁目も似通った内容。吐き気をもよおす邪悪さで『死なぬ女』とやらを殺し解体しばらし捌き壊し削ぎ研ぎ括り挽き焼き折り砕き穿ち奪い晒し犯すその様子が事細かに書かれている。時折、紙面が血に塗れ文面にまで狂気がにじみ出ているのはもはや宙会の闇を覗くようにおぞましかった。

 すべて読み終わった彼女はこのような書物を世に残すべきではないとその場で火をつけ焼き払う。
 あっという間に消し炭になる冊子。炎は朽ちた机にも広がりぱちぱちと火の粉を爆ぜさせ暗かった牢を明るく照らし始める。

 その光を背に彼女は…死なぬ女に、幾度の死を与えられ、体は死なずとも心を死の淵にまで追いやられた少女のところへ近づく。








「ああっ、いやぁぁぁぁ、ああああぁぁあ!!」
「大丈夫、大丈夫だから。安心して。全部、なかった事にしてあげるから…」

 か細いその体を寄せると、彼女は少女を母の愛のように抱きしめた。

 それが二人の出会い。そして、始まりだった。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
















 塾長がカランカランと鐘を鳴らすのを聞いて慧音は黒板に走らせていたチョークを止めるとパタンと、手にしていた草紙を閉じた。

「はい、今日はこれまで。班長、号令」

 振り返り、ざっと教室を見回し、最後にクラスの代表である坊主頭に眼鏡の男子に視線を向ける。班長は「正座」と少年らしい高い声で号令をかける。鉛筆を手に真面目にノートに黒板の文面を写していた生徒や、逆に落書きをしていた不真面目な子もその時ばかりはそろって一様に姿勢を正し、まっすぐに前を向く。

「礼。先生ありがとうございました」
「「「ありがとうございました」」」

 班長の声に続き、十人ほどの言葉が重なる。深々と頭を下げる生徒達に慧音は満足そうに笑みを浮かべる。
 これで今日の授業は終わりだった。











 チョークについた粉を払い落とし、クラスの女の子に手伝って貰いながら黒板を綺麗にして慧音は片付けをしている。教科書を鞄に詰めて、チョークもセルロイドのケースにしまい、黒板の下の粉受けの隅へ黒板消しと並べてなおす。
 その後ろではさようなら、と早々と家路につく子供や逆に机に集まってこの後、何処に遊びに行こうか相談している生徒もいる。いつもと変わらぬ寺子屋の風景だった。

 慧音はここで非常勤の講師をしている。
 受け持っているのは十〜十二歳ぐらいの子供や、それぐらいの頭の妖精、妖怪たちを集めた中等部のクラスだ。慧音は彼女らに数学のちょっとした応用や科学、社会科や一般道徳などを教えている。評判は「慧音先生の授業は難しいけど面白い」となかなかのもので、その真面目そうな雰囲気は寧ろ保護者たちに受けがいい。他の教師の授業なら隣の子とのおしゃべりに夢中になってしまうような生徒も慧音先生の授業は真面目に受けていることが多い。もっともそれは塾長の次ぐらいに怒ると怖く、得意の頭突きの怖ろしさを誰もが知っているからなのだが…その分を差し引いても生徒たちから好かれ、寺子屋を経営している塾長や同僚たちからの信頼も厚い名物講師だ。

「先生さようなら」
「はい、さようなら。また明日な」

 残って自分の手伝いをしてくれていた少女とその友人の妖精を見送り、さて、後は最後まで教室に残っている悪ガキグループを追返すだけだな、と慧音は後の段取りを考える。職員室に戻って書類を整理して、ああ、帰りに夕飯のおかずを買って帰らないと、と既に考えは仕事ではなく日常生活の方へ傾き始めている。

「コラ、お前たち、遊んでないで早く帰りなさい」

 教科書や各種教材を詰めた鞄を教卓に置いたまま、教室の隅で遊んでいたグループのところへ近づいていく慧音。悪ガキグループは円陣を組むよう、二人がけの机の回りに肩を寄せ合うように集まり、「おおすげぇ」「かっこええ」と少ない語彙ながらも感歎の声を上げていた。なにやら机の上に置かれた物に見入って興奮しているらしい。

「何やってるんだ、お前ら」

 そう、生徒の一人の肩口から机の上を覗きこむ慧音。学習の時は教科書とノート、書道の時は硯と半紙、お裁縫の時はまち針と布が置かれている何人もの生徒に使い古され灰色になった机の上には今は大きな丸印と中心に| |が描かれた半紙とその上に黒光りする鎧を着込んだ武者の姿があった。

「負けるな!」「ほら、そこだ!」「いけいけ、押せ押せ!!」

 いや、武者は例えだ。
 六本のかぎ爪のついた手足。黒真珠を思わせる無機質な瞳。そして、天をつく鋭い角。雄々しいその姿はオスのカブトムシだった。
 二匹いるカブトムシは互いに角を打ち合わせ、ざらつく紙面に鋭い爪をかけ、鍔迫り合いでもするよう押し合っている。二匹は互いに相手を自分の食料、或いは繁殖相手のメスを奪う敵として認知し、排除しようとしている。カブトムシの闘争本能を利用した相撲遊びだ。
 その戦いの様子を眺め、少年たちは(中に一人だけ蛍妖怪の女の子がいるが割愛)こぶしに汗を握り、実際の相撲観賞さながらの熱っぽい視線と声援を二匹の虫に投げかけている。誰がどちらかの勝利に賭けているということはないがかっこいいものが戦っている様子というだけで熱くなれる魂を彼らはまだ持ち合わせているのだ。

「おおっ、あれはキン肉族三大奥義が一つ…マッスルリベンジャー!」

 と、少年たちが熱中していると争いあっていた二匹のカブトムシレスラー…今は力士ではなくレスラー…の内の一匹がその自慢の角を相手の体の下へ滑り込ませ、籠手返しの要領ですくい上げ、見事に投げ飛ばしていた。倒された方のカブトムシはひっくり返り、無防備な腹を見せつつ六本ある手足をぎちぎちと出鱈目に動かし暴れた。誰の目にも明らかな敗北だった。

「すげぇ、七連勝だ。こいつはもうトウホウフハイの名を受けるにふさわしいムシキングだぜ」

 勝者を褒め称える言葉が次々に少年たちの口から発せられる。窓から差し込む夕日を受け、一人土俵の上に無事な姿をさらしているカブトムシはさながらヒーローの有様だった。
少年たちが瞳を輝かせるのも頷ける。

「ほら、先生。こいつ、昨日、俺が採ってきたんだぜ」

 と、少年の一人、子供にしては体格のいいさんかくおむすびのような頭をした少年がヒーローを掴み、後ろにいた慧音に自慢するよう見せつけてきた。

「あ―――」

 その様子。不意に背中をつかまれ、驚き、わしゃわしゃと六肢を暴れさせるカブトムシ。蛇腹の腹部をうねらせ、固い外骨格を展開し、飛び立とうと葉脈をもつ翅を広げる様に慧音は僅かに嘆息を漏らし目を丸くする。



 慧音にカブトムシを見せた少年に悪気はなかった。
 現に去年の夏は慧音と一緒に少年たちは虫取りに行ったのだ。最初は遠巻きに蝉や蝶々を追いかけている子供たちの姿を見ているだけの慧音だったが、虫が捕れない鈍くさい子供たちの面倒を見ている内に虫かご一杯にカナブンやらクワガタなんかを捕まえたりしていた。そんな夏の思い出。
 この少年もその集まりの中にいた。だから、慧音が昆虫に対して特別な嫌悪を持っていないことはよく知っていた。その虫取りの時にも大きなミヤマクワガタを捕まえて自慢しに言ったときに『すごいな』と褒めてくれたのを憶えている。その時と同じよう、大きく力強く、六本のかぎ爪の一つも失われていない完全な姿のカブトムシを捕まえたことを褒めて貰おうとおもったのだ。
 もう一度言おう。慧音は別に虫が苦手ではない。苦手ではなかった。周知の事実。

「いや…」

 だと言うのに、

「イヤぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!」

 慧音は恐怖の叫びをあげ/バスタブに敷き詰められた蜘蛛馬陸百足蚰蜒竈馬蚜蜚蠊蠢く蟲の湯船体中を傷つけられた状態で蜂蜜を頭からぶっかけられ石鹸或いは乳液の代わりのように手足を縛られた状態で湯船へ蟲風呂へ投げ入れられる全身を這い回る六本足八本足三十本足五十四足自重でそれらを押しつぶす蜂蜜と血液と潰れたそれらが混じり合う新しい餌口吻で舐めとられる鋭い多脚に蹂躙される毒牙が突き刺さる髪の毛の間顔の上鼻の穴尻たぶの隙間傷口膣孔あらゆる場所へ入り込んでくる暴れ身もだえする度にブチブチと蟲たちは潰れ体を汚らしい体液で汚すその私を見て嘲り笑う黒髪の―――/踵を返し一目散にという形容意外似つかわしくない動作で逃げ出す。

 しかし、机が並べられた狭苦しい教室だ。慧音は殆ど振り返りざまに前の列に並べられている机に足を取られその場に転倒した。机を巻き込んで派手に。

「嫌ッ、嫌、イヤあぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」

 そのまま慧音は強かにぶつけた脛をさすろうともせず、体を丸め胎児のような格好に。両手の爪を頭皮に食い込むほど側頭部に突き立て、目を見開いて息が上がるまで悲鳴を上げ続けている。

「せ、先生…」

 カブトムシを手にした生徒がおずおずと慧音に声をかける。他の子供たちは急変した慧音の態度に驚くばかりで何も出来ない。

「いやぁ…いやぁ…ああっ…!」

 折りたたんだ足の間。慧音のスカートが濡れ、僅かに臭気が鼻につき、畳の上に液体が広がっていく。恐怖と絶望の余り失禁、したのだ。

 動揺と混乱の極みにある生徒たちを余所にカブトムシだけはわしゃわしゃと手足を暴れさせていた。やがて、少年の拘束から逃れカブトムシは開け放たれた窓から何処かへ逃げていってしまった。
 異様な叫び声に塾長や他の教諭がやってくるまではもう暫くかかった。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――









「ここは…」

 僅かに鼻につく消毒液の匂いを憶えながら慧音は目を覚ました。
 羽毛のように軽いシーツ。母の胸のように柔らかいベッド。山頂を思わせる綺麗な空気に自分は何処か病院のような所へ寝かされているのだと知る。そして、幻想郷で病院と言えば…

「あ、起きたウサか」

 そう声をかけられる。寝起きでまだ完全に覚醒していない体で億劫そうに首を横に向けると迷いの竹林の幸せ兎、因幡てゐがナース姿で花瓶の水を変えているのが見えた。

「ドクターを呼んでくるウサ」

 てゐはそう慧音に告げると呼び止めるまもなく兎らしいすばしっこさで病室から出て行ってしまった。取り残された慧音は深く瞼を閉じ、ため息。少しだけ心に活力が戻ってくる。

「おはよう…といってももう、夜だけれど。気分は如何、慧音先生」
「おはようございます、こんばんわ、永琳先生」

 程なくしててゐを伴って病室に現れたのは白衣に縁のないするどい楕円の眼鏡をかけた八意永琳だった。
 ここは迷いの竹林にあるお屋敷、永遠亭が経営する幻想郷唯一の病院だ。どうやら、慧音はここに運び込まれたらしい。

「気分は…すこし、ぼうっとしますが大丈夫です」

 質問に答え体を起こそうとしていたところで永琳に止められる。ここは病院で貴女は病人なのだから、と。病人、その響きに少し慧音は心にとげが刺さったような痛みを憶えたが顔には出さなかった。

「ぼうっとしているのは薬の副作用ね。状況は把握しているかしら? 記憶は?」
「いえ…授業が終わったところまでは憶えているんですけれど…」

 ベッドに横になったまま応答を続ける。永琳の後ろではてゐがボードに挟んだプリントに何かを書き留めて言っている。カルテだろうか。

「そう。貴女は授業の後…その、発作を起こしてね。そこへ偶然、薬の販売と患者のお見舞いに行っていた私が居合わせた、あとは…説明しなくても分るわね」

 はい、と頷く慧音。恐らくその後、人の手でここまで運び込まれたのだろう。事細かに説明されなくても想像はつく。

「その理解力からして、それなりに回復はしているみたいね。一応、検査はきちんとさせて貰うけれど」

 そう言って永琳は慧音の腕を取り脈や体温を測ったりする。逐一、そのデータをてゐが書き写していく。

「……どうして、発作を起こしたのか聞かないのね」
「え?」

 その作業の最中、唐突に永琳が訪ねてきた。唐突なのはその質問を永琳がふと思いついたからではない。唐突に言うことで慧音の隙を突いたのだ。案の定、慧音は動揺した声色で疑問符を浮かべてきた。

「普通、記憶に残らないほどの自覚のない発作になんか襲われたら、その理由、その原因について考えたり、怯えたり、誰か医学の知識のある人に相談するものだと思うのだけれど」
「……そう、ですね」

 曖昧に頷く慧音。その態度だけで永琳はおおよそのことを把握した。

「まぁ、貴女の体のことは発作も含め貴女自身が一番よく分っているでしょう。そして、それを治す気がないというのなら医者としてはもう何も言えません」

 辛らつな言葉に慧音は眉をしかめてしまう。まるで怒られている子供のよう。普段なら怒る方の立場なのに、と何処か冷静な部分が皮肉げに笑い、その子供っぽさが慧音を自己嫌悪に陥らせる。それでもなお、永琳の言うとおり、自己責任で慧音はこうなることを望んでいるのだから。

「……」

 眉を伏せ、唇を真一文字に結んだ顔を見て、その心中を察したのか永琳は首を振るった。
少し言い過ぎたようね、と心中で悟られぬよう反省し、まぁ、と言葉を続ける。
「だから、せめて私は医者として逃げ道を用意しておくだけです。“いつでも相談にいらっしゃい”」

 打って変わったような優しい言葉だった。顔には安心するような微笑みが。慧音はベッドに横になったままはい、と頷いた。






「体の方はもう大丈夫そうだけれど、一応、精神安定剤を用意するから。ここで待っていて」

 それから体を起こして冷たい聴診器を当てられたり、検査のために血液を採られたり、目にライトを当てられ瞳孔の反応を診たりして、検査は終わった。その時に慧音は自分が若草色の入院着を着せられていることに気がつき、自分が寺子屋で着ていた服の所在を訪ねた。汚れたから今洗っているところとの回答。それも薬と一緒に渡すわ、と永琳は着たときと同じようにてゐを伴って病室から出て行った。




「……」

 暫くそのまま、ベッドの上に体を起こした状態で何をするでもなく、肩を落としてぼうっとする慧音。永琳に飲まされたという薬の副作用がまだ効いているのか、何もする気にもなれない。薬が抜けきるまでここで休ませて貰っても大丈夫かしら、と考え始めたところで部屋の戸を叩くノックの音が聞こえてきた。
 永琳先生か、看護婦因幡だろうか、と慧音はどうぞ、とノックに返事する。

「こんばんわ、ワーハクタクの先生」
「………」

 挨拶と共に病室に入ってきた人物が余りに意外だったため、思わず言葉を失う慧音。その特異な来訪者の出現に病室の空気ががらりと変わる。慧音が驚いているせいではない。病室の雰囲気…鼻につく消毒液の匂いと埃一つない空気、清潔なシーツと清楚なピンク色の壁紙、清らかすぎて寧ろ嫌悪を催す病室の雰囲気がその来訪者が持つ雰囲気、あるいは威光に塗りつぶされてしまったからだ。
 芳しい香木の香りと紫煙たゆたう空気、薄桃のベールに金箔がちりばめられた壁紙。それが来訪者の持つ雰囲気、尊き血筋の皇族やある種の神性を備えたものだけが持つ厳かなる雰囲気。それが来訪者が纏っている雰囲気だ。

 しかし、それも来訪者が誰なのかを知っていれば頷ける。





―――蓬莱山輝夜
 かつて日の本の国を支配していた豪族や貴族、果ては帝までを袖にした月の姫君。それが来訪者の正体だ。






「貴女は…」

 けれど、慧音の反応はその畏れさせる雰囲気に当てられたものではなかった。言うなれば指名手配犯に町中ですれ違ったような、そんな緊張感が漂っていた。

「そんなに警戒しないでよ。ちょっとお見舞いに来ただけじゃないの」

 慧音の緊張を読んでか、にこりと顔を綻ばせる輝夜。世が世ならその顔を見るためならば権力者が傾国も辞さぬと乱心するような魔性を秘めた笑み。けれど、慧音に効果はなく寧ろ警戒心を助長させるだけだった。
 やれやれ、と肩をすくめてみせる輝夜。

「私も嫌われたものね。まぁ、いいわ。座るけれど、構わないわね」

 慧音の返事より前に壁に立てかけられていた折りたたみの椅子を引っ張ってきて、それを広げそこに腰掛ける輝夜。その仕草の一々が優雅で安っぽい、竹を組み合わせて作られた大量生産品の組み立て椅子はまるで何処かの王朝の献上品の様に見えた。

「お見舞い? お前が? 体調も悪くないのに海の向こうにる政治家を無理矢理呼出して素っ気なく追返すようなお前がか?」
「ああ、それはし忘れていたわね。右大臣辺りでやっておけば良かったわ」

 慧音の敵意むき出しの言葉に皮肉を込めて文面通りに返す輝夜。暫く二人はにらみ合ったまま…睨んでいたのは慧音だけで、輝夜は見つめているという程度の視線だったが、沈黙を保っていた。

「はぁ。まぁ、見舞いは感謝する。もう少ししたら帰るけれど」

 先に沈黙を破ったのは慧音だった。ため息混じりに視線をそらし、社交辞令的ですぐにでも会話を取りやめられるような言葉を続ける。

「そうなの。それは残念。貴女とは一度、じっくりとお話ししたいと思っていたのだけれど」

 僅かに首をかしげて、本当に残念そうに、或いはそう見えるよう綺麗に切りそろえられた眉を八の字に下げる輝夜。輝夜にそんな表情をさせたことにか、僅かに慧音の心が揺らぐ。

「そんな話をするような仲でもなかったと思うが…」
「あら、そう。そんなことはないと思うけれど」

 それでもとりつく島もないように慧音は無下に切り捨てる。けれど、輝夜はあきらめきれないのか、なおも話を続ける。

 否、

「―――共通の知人を持つ者同士としてはね」



「………」

 慧音が話を続けざる得ないような言葉をつなげてきた。慧音の顔が険しくなる。ここでその“共通の知人”という話題を切り出してくると言うことは…知っているのか。秘密諜報員が敵対組織の諜報員を見つけた時の緊張感に満ちる。

「ああ、だから、そんなに警戒しないで。本当に、世間話のようなものをしに来ただけだから」

 それを溶かすよう、輝夜は語りかける。笑みを浮かべ、自分が纏っている高貴な者の雰囲気を少しでも押さえるように。

「私は…ほら、自分で言うのはなんだけれども流刑の身とはいえ“お姫様”じゃない」

 自分の言葉が真実であることを示すように全く別の話題を持ちかけてくる輝夜。慧音はとりあえず、その言葉に耳を傾けることにした。

「お姫様って言うのは回りからちやほやされて、もてはやされ、時に疎まれる人のこと。月にいたころの私はまさにそうだった。私の回りにいる人はみんな私のことを様付けで呼ぶか、影で嫉みを込めて蔑称で呼ぶかそのどちらかだけだったわ。私には従者か敵しないなかったの。地上に堕ちて、ここにやってきて敵の数はぐんと減ったけれど…まだ、私の回りには従者しかいないわ。ええ、永琳も因幡たちも大切な私の家族だけれど、彼女たちは家族兼従者であって、私と対等の、そう、対等の人でははないわ………彼のように」

 最後の言葉は少しだけ遠い目をして語られた。その哀愁を帯びた表情に慧音は輝夜に向ける感情の角が少しだけ丸くなったのを実感した。

「だからね、私は何でも与えられて不自由しないお姫様なのに、たった一つだけ手に入らないものを欲しいと思っているの。常日頃からね」
「それは…?」

 答えが分っていながらあえて慧音は問うた。輝夜は微笑み答える。

「友達よ。私は対等な、あの唄や手紙をやりとりするような友達が欲しいのよ」

 淀みなく輝夜は、月の姫君として地上では決して味わえぬ贅と趣向の限りを尽くした品々や超科学を有する大賢人、数多の宮仕えの者々を従えていた彼女はそんな素朴な、誰しもが持ち得るものを欲しいと、切に願っていたのだ。

「だったら…」

 慧音は言いかけて、そして、言いよどむ。
 輝夜の目的は理解できる。暗に…いや、どんなに愚鈍な者でもそうと分るほど明確にそう言っているのだ。
 けれど…慧音は言いよどむ。
 果たして輝夜の想いに簡単に応えてもいいのか…

「……」

 微かに脳裏を過ぎる情景―――闇よりなお暗い部屋、血糊を貼り付けた顔で月の狂気に浮かされた笑みを浮かべる…

「輝夜…」

 いや、だから、だからこそか。
 慧音は本人にしか分らない決意を固め、そうして、

「私が…」
「慧音、大丈夫かー?」

 それをまたも突然の来訪者に邪魔をされた。





「妹紅…」

 軽い調子の声色と共にノックもなしに病室の扉を開けて現れたのは藤原の妹紅だった。いつものもんぺ姿に紙煙草…院内は禁煙なので火はついていない、を口に咥え、ベッドの上の慧音の姿を見て少しだけ安堵の表情を見せる。
 が、それも少しだけ。慧音のすぐ側に地上どころか全宇宙、多元世界や平行次元も含めた全ての事象においてもっとも嫌いな女が座っているのを認め、とたん、妹紅の顔は険しくなった。

「輝夜っ! なんでこんなトコに!」

 震える指を輝夜に突きつけ、掴みかかからん勢いの形相を浮かべる妹紅。対して輝夜はあくまでも涼しい顔つきだ。

「あら、知らなかったの妹紅。永遠亭は私のお家なのよ」
「巫山戯んなよ…」

 つかつかと肩を怒らせながら輝夜に歩み寄り、その胸ぐらを掴みあげる妹紅。顔つきは荒武者のそれだが、対する輝夜もついに涼しげな顔を崩し猛将の如き鋭い視線で妹紅をにらみ返す。

「やンのか? あぁ?」

 ドスの効いた凄みのある言葉を吐き、握り拳を振り上げる妹紅。けれど、その拳は振り下ろされることはなく…

「やめるんだ、妹紅!」

 慧音の厳しささえ感じさせられる一声によって止められた。

「慧音は黙って…あ、いや…」

 そのまま激情に任せ慧音の忠告を無視しようとする妹紅であったが、慧音がゆったりとした入院着を着てベッドの上にいるのにやっと思い当たり、言葉尻は溶けるように消えていく。

「そういうこと。ここは病室よ。暴れる場所じゃないわ」

 にやりと勝ち誇ったような意地の悪い笑みを浮かべる輝夜。妹紅は振り上げた拳に僅かに力がこもるのを自ら感じ取ったが、それを振り下ろそうとはせず乱暴に輝夜から手を放した。

「あら、せっかく着付けて貰ったのに…やり直しだわ」

 着衣の乱れを戻しつつ、自分の手ではどうにもならないと輝夜は悟る。そんな輝夜にもはや視線を向けるのも苛立たしいのか、妹紅はくすぶるものを心に抱えながらも天井の隅に視線を注いで何とか無関心を装っている。

「仕方ないわね。邪魔者も現れたし、今日はこれでおしまい」

 輝夜はあからさまなため息をつくと、妹紅にひっぱられ乱れた襟を手で押さえながら立ち上がった。

「それじゃあね、慧音さん。こんどはもっと落ち着いた場所でお話ししましょう」

 それだけを言うと輝夜はどう猛な獣の様に自分を睨み付けてくる妹紅を無視、その脇をすり抜けて病室から出て行った。

「一昨日来やがれ!」

 中指を立ててベロを出し、消えていったその姿を見送る妹紅。そんな妹紅と静かに帰って行った輝夜の姿を想い比べ、慧音は深くため息をついた。



 これ以上、ここにいては妹紅が暴れ出しかねないと慧音は薬も貰わず帰ることにした。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












「あーそれにしても腹が立つ!」

 左右を青々とした竹林に挟まれた山道。地面に敷き詰められた枯れた笹の葉を踏みしめながら、先行する妹紅は肩を怒らせながらそんなことを口にした。乱暴に落ち葉を蹴り飛ばし、慧音を置いてきぼりにするような早足で道を進む姿はどう見ても機嫌が悪いように見える。

「妹紅、少し落ち着け」

 後ろからついてくる慧音が少しうんざりした調子で妹紅の苛立ちを沈めようと話しかける。けれど、当然逆効果で、足を止め振り向いた妹紅はその怒りの矛先を慧音にまで向け始めた。

「これが落ち着いていられるかってんだ。なんだ、アイツの態度は。いつにもまして腹立たしい。それに慧音も慧音だ。アイツのことはよく知ってるだろ。それなのに『もう一度、お話しましょう』なんて言われて」
「それは輝夜が勝手に言い出したことだろ」

 見当違いだ、と妹紅に言い返す慧音。その言葉に少しバツが悪くなったのか、妹紅はすそっぽを向いて「どうだか」とぶっきらぼうに言い放った。

「案外、私が来る前は仲良くおしゃべりしていたんじゃないのか?」
「まさか」

 妹紅の言葉に嫌悪も露わに肩をすくめてみせる慧音。
 とはいうものの…

「慧音?」

 あの時、妹紅が唐突に現れなかった場合、自分はどうしていたのだろう。暗に輝夜に友達になりませんかと持ちかけられ、あの時はその返事に言いよどんだ自分。妹紅が現れなかったとき…なんて話はifの世界だが、はたしてあの時、もしそうだったら、自分は…

「……」

 思考が深みに陥る。
 あの話を持ちかけられたのが永琳やてゐなら慧音は頷いていただろう。永琳とは共に特定の人から先生と呼ばれる間柄。教師と医者ではいろいろ立場は違うだろうが話が合うこともあるだろう。てゐにしたってそうだ。あの白兎はときどき、慧音が受け持っているクラスの生徒と遊んでいる姿を見かける。その延長で自分と仲良くしても不思議ではない。今日は見かけなかったがあの月から来たという兎、鈴仙にしたってそうだ。その三人と自分が仲良くしている姿がイメージできないわけではない。想像が及ぶのなら現実にもなるだろう。

「いや、慧音。まさか本当にアイツと友達になろうなんて考えてるんじゃないだろうな。やめとけやめとけ。あんな性悪女。付き合ったってろくな事にならないぞ」

 知ってるかアイツ、暇だからって一週間の間、休みなくずぅっと兎たちにサッカーさせてたらしいぞ、WCよって、と味噌汁に芋虫でも入っていたかのような顔をして語る妹紅。
 
 慧音は、ああ、知ってる、と適当な返事をする。そう、その話なら知っている。ある意味で当事者だった妹紅より今は詳しく。そして、輝夜が性悪、だと言うことも。
 だからだろうか。慧音は自分とあの月の姫君とが仲良くしている姿を想像できない。想像が及ばないことをするのは酷く難しい。

 けれど…

「いや、交友を広く持つことはいいことだからな。くる者拒まず、去る者追わずの精神で行かないと」

 だからといって無下に断ることが出来るほど話は単純ではない。ある種の旨みがある。慧音はそれを妹紅に悟られぬよう、それでいて自分の考えの一端を教えるよう、そう少し冗談めいた口調で応えた。

「冗談だろ」

 返ってきた妹紅の言葉は少し固かった。いつの間にか慧音は妹紅を追い越し先を歩いていた。

「冗談なものか。妹紅も友人になれとは言わないが、もう少し仲良くしたらどうなんだ。その…喧嘩ばかりしていないで」
「それはどだい無理な相談だ! もういい! お前がそんな奴だなんて思わなかったよ!」
「妹紅?」

 立ち止まり、先ほどとは逆の立ち位置…慧音が前で振り返り、妹紅が後ろで足を止めている、に変わる。
 妹紅は怒り心頭なのか、俯いて両手を握り、ぷるぷるとそれを振るわせている。

「勝手にしろ! あのうんこたれと仲良くしたきゃすればいいだろ! もしそうなったら私はお前とも縁を切るからな! それじゃあな!」

 妹紅! と止める間もあれば、妹紅はいきなり走り出し、慧音を置いてきぼりに、竹林に後ろ姿が見えなくなったところで火の粉を散らしながら飛び立って行ってしまった。
 慧音は追いかけようと一歩、足を踏み出したが進んだのはその一歩だけだった。客観的に見て悪いのは子供のような偏見…いや、実際は独占欲を振りかざした妹紅が悪く、慧音は自分には何一つ落ち度がないと思ったからだ。教師をやっているせいか、ときどき、慧音は不合理なまでに道徳的な考えに至るときがある。和を尊しとするか徳に滅するか、その考えのどちらが正しいのか、神ならざる身では判別はつかないが慧音はそれを選んだ。








 それが失敗だったと知るのは僅か半日ほど後の話。












――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 藤原妹紅は夢を見ていた。
 自分がサスペンス映画の登場人物になったような夢だった。

 僅かな光が差し込むだけの薄暗い部屋。
 部屋は酷く汚く、鼠が這い回り、壊れかけた換気扇のファンが金切り声を上げ、天井に張られたパイプから錆び混じりの汚水が不気味な蛮族が奏でるリズムで床を打つ音が聞こえるだけだ。鉄が腐ったようなすえた匂いと体を汚す廃油の汚らしさに顔をしかめていた妹紅だったが時折、身を捩るだけで起き上がろうとはしていなかった。眠っている、或いは気絶しているのだろう。夢の仲で意識を失っているというのもおかしな話だが現実的に或いは夢想的にそうなのだから仕方がない。
 と、妹紅はうなり声を上げる何かの機械の駆動音に目を覚ました。それと右の手を左の足を引っ張る力に。
 一体、何なんだと目を開け、見も知らぬ場所に自分が寝かされていたことを知り、そして手足に頑丈そうな枷がはめられていることに思い至った。手足の枷から伸びるこれまた頑丈そうな鎖は部屋の隅へ伸びている。機械の駆動音はそこから。妹紅が闇に目をこらしてみればそこに備え付けられているのはウインチ、巻き上げ機械で巻き上げているのは言うまでもなく…

「うわぁぁぁぁぁぁ!!」

 鎖、及いては手足だった。

 叫び声を上げ、このままだと自分がどうなるのか、肩と太股の痛みにそれを悟り、妹紅はもがく。けれど、頑丈な鎖はじゃらじゃらと鳴るだけでいっこうに外れそうにもない。やがてその音もウインチに巻かれ鎖が張り詰め始めると、錆の粉を散らし軋む音に変わっていく。その頃にはもう引っ張られた手足の付け根は灼熱の痛みを覚え、中心にあるお腹も張り裂けそうになっていた。
 痛みと混乱する頭でなおも無駄に暴れ続ける妹紅。と、それまで見向きもしなかった天井に何か描かれた紙切れが貼り付けられているのを見つけた。

 それは円と直線で描かれた抽象的な人体の図で両手足を広げた大の字の格好で描かれている。伸ばされた両手足にはそれを分断するように破線と、それと、図の下に大きな事態で『選べ』と書かれていた。

「…嘘」

 意味を理解し、自分の無理矢理伸ばされている腕、そして足に一枚の符…炭鉱の採掘作業に使われるための爆裂術式…要はダイナマイトの代替品が貼り付けられていることを見て取る妹紅。
 術式は多少、憶えがある者なら村の主婦にでも使えるような簡単な符術だ。それが手足に貼り付けられている意味も、どう使うのかも妹紅は既に理解している。けれど…

「あぁぁぁぁぁ! 放せ! 放せコン畜生ッ!! うわぁぁぁぁぁぁ!」

 それが出来るかどうかは別だ。
 半狂乱に暴れ回り、まだ伸びていない無事な方の手足で手枷をまさぐったり、伸びた鎖を蹴飛ばしたりする妹紅。けれど、無意味。この選択ゲームを完全な物にするために鎖の強固さは十分条件として設定されているのだから。

「あっ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁ、畜生! 畜生!」

 ぎちぎりと軋み出す肩/太股。既に腱はいかれ骨にも軋みが伝わっている。伸びきった肉は裂け始め肌が張り詰め内出血を起こしている。時間は…もうなかった。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 雄叫びを上げ、深く目をつぶり、そうして、マッチで導火線に火をつけるよう、爆裂術式を展開させる妹紅。薄暗い部屋を刹那、昼の明るさに照らし出す閃光。鼓膜を破く轟音。肉が焦げる臭気。そうして、弩の様に張り詰めた鎖に引っ張られ飛んでいく一抱えほど在る肉塊―――左の太股。

「あーっ、あーっ、ああ…」

 目を見開いたまま短い呼吸を繰り返す妹紅。その下方ではなおもウインチが鎖を巻き上げる音が聞こえ、続いて巻き上げきったところで足首の骨を砕き、肉を裂き、足を折る嫌な音が聞こえてきた。ぐちゅり、などと形容できる音を最後に後はカランカランとウインチが鎖の先に着けられた手枷を振り回す音だけになった。

「はっ、はは…あははははは…」

 命が助かったこと、それと自ら足を切り落としたという興奮のためか、妹紅は乾いた笑い声を上げる。或いは狂気に浮かされた笑みだった。
 右手を巻き上げるウインチはなおも動き続けているが、まだ手足に張られている術符で壊してしまえばどうにかなるだろう。自ら千切らされた足は死の淵という極限状態に先ほどまで立っていたお陰か未だ痛みを伝えておらず、出血も傷口が焼け焦げているお陰で少ない。そのダメージを余所に妹紅は自分の右手に張られた術符を剥がそうと左手を伸ばしかけ…そこで、先ほどの物と同じ、機械の駆動音を耳にした。

「え?」

 疑問符の回答は引っ張られ始める左の腕だった。
 『選べ』という字と四肢を分断する破線。その意味を今度こそ妹紅は完全に知ることになる。






 最後の、一本になるまで、選び、続けろ、と言うことだ。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 叫び声を上げ飛び起きる妹紅。
 全身のけだるさ。酷い頭痛。気持ちの悪い寝汗。そして、動悸息切れをおこしかかっている体。目覚めは最悪の物だった。

「はっはっはっ…」

 上がった呼吸を整えつつ何とか頭を整理しようとする。
 けれど、全ては夢の仲の出来事だ。もはや、あの凄惨たる光景は忘却の彼方。自分の手足があることに安堵を覚えるがその理由はまるで思い至らない。
 よっぽど酷い夢だったのか、と生唾を飲み込み…片手からこれまでの怖ろしさを忘れさせるような柔らかく暖かな感触が伝わってきて…

「んっ、妹紅…くすぐったい…」
「ひぇぇぇぇ!? け、けーね!?」

 自分の手のひらの下に慧音の大ぶりの乳房が置かれていることに気がついて大声を上げる。雪を思わせる滑らかな肌、つきたての餅のように軟らかな肉は妹紅の手の形に容易く歪み、頂の苺を思わせる突起は掌の中で確かな存在を感じさせる、その感触に妹紅は胸の高鳴りを憶え、ごくり、と違う意味でまた生唾を飲み込んだ。

「け、慧音? 隣に!? っていうか何で一緒の布団で寝てるんだ?」
「…なんでって、伽の後は一緒に寝るものじゃないか」

 伽ってことは全く記憶にないけれど昨日、自分は慧音と寝たって言うことなのか、性的な意味で、と妹紅は紅蓮のように顔を赤く熱くさせ、あわわわ、としどろもどろに狼狽える。
 布団の下の慧音はそんな妹紅の様子が可愛らしかったのか、ふふっ、と微笑を浮かべた。

「…続きでもするか?」
「ううっ、い、いや…」

 上目遣いに、慧音にそう言われ、狼狽えながらも何とか否定する妹紅。

「あ、朝からそんなふしだらな生活はどうかと思うんだ、うん」

 ごそごそと布団から這い出つつ、そう応える妹紅。普段は勝ち気なのにこういうときは弱気なのだから、と慧音がまた笑みを浮かべた。

「ほら、今日も仕事だろ。起きようぜ」
「そう…だな。うん、先生が遅刻じゃ、生徒に示しがつかないからな」

 枕元に置いてあった服を着ながら妹紅は慧音にも起きるように促す。けれど、慧音は返事をしただけで布団から出ようとはしない。恥ずかしいから、ではないだろう。

「慧音…?」
「あ、うん。昨日の後遺症かな。なんだかちょっと体の調子が悪くって。いや、大丈夫、すぐに起きるよ」

 そう言って布団を捲るも、その動作はゼンマイが切れたおもちゃのように緩慢な慧音。一動作毎に休憩が必要でどう見ても大丈夫そうには見えなかった。顔色も酷く悪い。慧音の語る言葉が真実だとは妹紅にはとても思えなかった。

「…やっぱり、調子悪いんじゃないのか。このところ元気ないし、疲れがたまってるんだよ、きっと。しばらく休んだほうがいいんじゃないのか?」

 塾長には私が伝えっておくから、と妹紅。

「そうだな。昨日、薬貰い忘れてたし。永琳先生のところへもらいに行ってから…しばらく、休むのもいいかも…」

 慧音がそこまで言いかけたところで戸を叩く音が聞こえてきた。しばし、顔を付き合わせ見つめ合う二人。こんな朝早くから来客なんて珍しかったからだ。

「私がでるよ」

 無理に起き上がろうとする慧音を庇って制するように先に立ち上がる妹紅。はいはい、ただいま、と言いながら土間の障子戸を開け、つっかけを履いて家の戸を開ける。はたして、来客は―――

「あら、貴女が出てくるのは予想外だったわね、妹紅」
「っ…それは、それはこっちの台詞だ! 輝夜!」

 朝日というこれほどまでに似つかわしくない輝きを背に柔和な、けれど底知れぬ笑を浮かべ立つ月の姫君だ。
 いきなりの来訪に妹紅は一瞬、狼狽えを見せるもすぐにいつもの調子で掴みかからんように輝夜を睨みつける。

「慧音は中かしら?」

 それを軽くいなすと輝夜は妹紅の脇を通り抜けるよう、家の中へと入っていった。履物のまま畳の上へ上がろうとするいかにも箱入り娘らしい失敗を妹紅に咎められつつも止まる様子を見せない。

「おはよう慧音。具合、悪そうね」
「輝夜…」

 布団から上半身だけを起こし、目を丸く来訪者を迎える慧音。当惑と警戒、その二つの心が渦巻いているようだ。

「何のようだ、なんて台詞はもう聞きあきたわよ。今日は届け物に来たのだけれど、ついでにお見舞いも必要そうね」

 そう告げる輝夜。続けて座ってもいいかしら、と今回は了承を求めてくる。
 あ、ああ、と躊躇いがちに慧音は応えようとするがそれは屋根の上の雀たちを驚かせる裂帛の声にかき消されてしまった。

「かぁーぐぅーやぁー!!」

 輝夜の背中を蹴り飛ばそうと土間から勢い良く飛びかかる妹紅。けれど、輝夜は後ろに眼でも付いているように半身をずらし、華麗にグレイズする。

「チッ! よけんな!」
「いやよ、痛いもの」

 畳の上に着地してすぐに反転、輝夜を睨みつける妹紅。
 かかってこいよ、と挑発的な態度を取る妹紅を無視して輝夜はその場に腰をおろす。

「第一、またこの台詞だけれど『こんな場所でやる気?』」
「あ…」

 輝夜に指摘され、この場所が辺りに何もない大空や永遠亭名物の無限回廊などではなく、六畳ほどしかない狭苦しい民家だということを思い出した。そして、その部屋の主は…

「妹紅、お前も座れ」

 昨日に引き続き、病人でベッドの上に体を横たえているのだ。
 慧音に言われ、妹紅はわずかに布団の上の慧音と輝夜の顔を見比べた後、しぶしぶ畳の上に腰をおろしあぐらをかいた。

「しばし停戦だ」
「当然でしょう。まったく、見境のない猪武者なんだから」

 輝夜の言葉にぐぐぐ、と握りこぶしを作り耐える妹紅。

「それで、輝夜。見舞いはありがたいが届け物というのは?」

 怒りを堪える妹紅はそれで手一杯でなにもできないだろう。ともすれば休火山のようにいつ爆発するかわからない。仕方なく慧音はまだ、会話をかわせそうな輝夜に話を振った。

「ええ、貴女、昨日、永琳からお薬を貰い忘れてたと思ってね。それを持ってきたの」

 はい、と懐から紙袋に入れられた錠剤を渡してくる輝夜。慧音はありがとうと受け取ったが未だに信じられないものを見ている様子だ。

「何? 私だってたまには外に出ることもあるし、他人のために働くこともあるわよ」

 慧音の訝しげな視線を読んだのか輝夜はそう続ける。

「それにね、昨日も言ったけれど、貴女とは仲良くしていきたいから。その口実ね、これは」

 そこに来て輝夜は顔を綻ばせ、笑みを浮かべて見せた。屈託も裏表もなさそうな物静かな笑み。見るものを安心させる効果があるようだ。今までの反応を恥じ入るよう、慧音は輝夜を直視できなくなり、視線をそらす。

「あーっ、慧音! だから言ってるだろ! こいつなんかと仲良くなったって何一ついいことなんてないんだからな! 百害あって一利なしだ! いいや、百じゃすまないな。千だ、万だ!」

 と、なんとか借りてきた猫のように黙っていた妹紅がついに耐えきれなくなったのか、そう口を挟んできた。子供ぽい物言いに軽く慧音は頭痛を憶える。

「あら、選ぶのは慧音よ。貴女にとやかく言う筋合いはないはずじゃないの、妹紅」

 輝夜の言葉に「いいやあるね」と何故か絶対の自信を持って応える妹紅。腕を組み、人の話を聞き入れない態度は頑固親父そのものだ。

「慧音もそう思うだろ、なぁ?」

 話を振ってくる。
 慧音はどう答えるべきかと逡巡、まっすぐと輝夜に視線を向けた上でこう答えた。






「いや、こちらからもお願いしよう輝夜。『友達になってくれ』」






 しばし、沈黙が流れる。オーディエンスは誰もその回答が返ってくるとは思っていなかったからだ。妹紅はもとより輝夜でさえ目を丸くしている。

「よろしく」

 そうして、沈黙を破るように慧音は輝夜に向けて腕を差し出す。握手の合図。輝夜はあっけにとられたようにその手を見つめ、はと我に返り、いつもの静謐な能面のような顔を作った。

「こちらもね、よろしくけいn」「駄目ってんだろぉ!」

 輝夜が差し出された手を取ろうとした瞬間、間に割ってはいる妹紅。慧音の手を大事そうに握り、輝夜の手を蠅でも追っ払うように打ち据える。

「妹紅!」
「慧音! だから言ってるだろ! こんな奴と付き合うなって! まだ付き合うっていうんなら絶交だからな!」

 慧音の方に向き直り、怒りを露わに叫ぶ妹紅。けれど、その怒りの理由、余りに自己中心的な考えに慧音もついに堪忍袋の緒を切らせる。

「子供みたいなことを言うな! だいたいだな、もういい加減そうやって輝夜を毛嫌いするのをやめろよ。何十年も、何百年も! 不老不死だからって、不毛にも程があるぞ!」

 普段から子供の相手をしているからだろう。大の大人が子供のような理由で怒り出すことに慧音は不快感を押さえきれない様子だった。あり得ないほどに声を荒げ、妹紅に言い返す。

「五月蠅い! こいつのせいで私は人生を狂わされたんだ! 忘れるものか! どれだけ経ってもこの怒りは衰えなんてしない! お前には分らないだろう、慧音っ!」
「ッ!!」

 怒りで視界が真っ赤になる。赤熱するほどに熱した石に柄杓で水をかけたように怒りは瞬間で沸騰し気化する。『お前には分らないだろう!』その言葉がトリガーだ。導火線だ。核分裂の最初の原子の一手だ。

 慧音は激情に駆られたまま腕を振り上げそうして悲鳴懇願助けを求める声『今度のゲームはあてっこよ。どーっちだ? が、十七匹に増えただけよ』小さな妖精たち鋼鉄製の口枷手枷足枷その中の一人に鍵を飲み込ませているツールは錆びたナイフだけ部屋の出入り口には鍵がかけられている制限時間は三十分天井には通気口脅える妖精少なくとも一人が死ななくてはならない通風口からは三十分後芥子のような名前のガスが出てくる選べ選べ可愛らしい妖精の中から正解を見つけるまで選べ選べさぁその金髪の子のお腹の中かな? それともそっちの黒髪? もしくは向こうの氷精? 大妖精? プレゼントと一緒。箱の中の猫と一緒。開いてみないと分らない。さぁ、より多くと自分を助けるためにそのお腹を切り開きなさいさび付いたナイフを握った腕を振り上げたことを怒りに任せ腕を振り上げたことで思いだ違う否否否自分じゃない私はしていない否誰もそれはしていないありえん無視しろ拒絶しろ分離させろ飲み込み噛み潰し…

―――その歴史もなかったことにした!!




「…慧音?」

 瞬間、叩かれると思った妹紅は目を瞑ってそれに耐えようとした。けれど、一秒経てど二秒経てど衝撃はやってこない。恐る恐る瞳を開けると振り上げられた手はゆっくりと地面に落ち、妹紅の目の前には蒼白になった慧音の顔があるだけだった。

 そうして…

「うおぇぇぇぇぇぇぇぇぇ…」

 慧音は布団の上へ盛大に戻した。
 胃液ばかりの吐瀉物。臭気を上げるそれには朱色さえ混じっている。原型をとどめているものはなし。殆どは消化寸前で後は腸へ送り込まれるのを待っていた流動だ。けれど、それだけでも布団を汚すには十分ですえた匂いが部屋に広がる。

「げほっ、けほっ…っあ」

 二度ほど、咳き込んでから慧音は体を支える力を失ったのか、その上へ倒れた。べちゃりと、綺麗な顔が汚れる。

「慧音! 慧音っ!!」

 慌てて妹紅がその肩を揺さぶるが反応はない。これ以上、汚物の上に頭を置いておくのは忍びないと妹紅は自分が汚れるのも構わず起こした慧音は目を開いてはいたがその精神は宇宙の最奥を漂っているようだった。

「どうしたんだよ! おい! 慧音っ!!」

 叫ぶ妹紅。けれど、その声は慧音には届かない。虚ろに空を見つめたまま慧音は身動き一つ取らず、死んだようにじっとしている。

「妹紅、落ち着きなさい」

 そこへ輝夜が妹紅の肩に手を置き声をかけてきた。殆ど条件反射に近い形でそれを振り払い睨み付ける妹紅。

「黙れ! 今、お前の相手をしている暇は…」
「黙るのは貴女の方でしょ。貴女や私じゃ慧音を助けることは無理よ。早く永琳の所へ連れて行きましょう」

 輝夜に諭されやっと妹紅は理性的に考えることが出来るようになった。けれど、それでもまだ混乱は続いている。妹紅は慧音を抱きかかえるとそのまま準備らしい準備もせず家から飛び出していった。

「やれやれ」

 その姿を肩をすくめながら見つめる輝夜。自分も追いかけようと腰を浮かし…

「慧音のあの顔、あの表情、何処かで見たことがあるわね。何処だったかしら」

 そう独りごちる。
 追いかけなくてはいけないのに足を止め輝夜は考え込む。

 そうして、ややあってから頷くのだった。

「―――ああ、アレの時、妹紅が浮かべている顔と同じなんだ」

 そう納得し、自分の中の符号をそろえ回答を導き出したところで輝夜は唇を三日月の形に歪めた。

「成る程。蓬莱人にしても頑丈だと思っていたら…そういうこと」

 私に永琳が、永琳が自分で何とかするように妹紅には慧音がいたのね、と一人残っていた輝夜は胸のつっかえが取れたように健やかな表情になった。けれど、そのうすら笑い…三日月の唇に喜楽の感情の一切を感じられない瞳は見るものの心を凍えさせ、身震いさせるような冷たく怖ろしい笑みだった。

「さぁ、私も帰らないと。面白いことになってきたのに」

 ふふふ、と声を上げ輝夜は自分も慧音の家を後にした。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








 永遠亭の病院に運び込まれた慧音はすぐさま永琳による治療を施された。
 大事には至らなかった。








 妹紅は考えを改めた。
 慧音を説き伏せるより相手を遠ざけたほうが簡単だと思ったからだ。









――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











 深夜、慧音は病院のベッドの上で目覚めた。

「……?」

 誰かの声が聞こえたからだ。
 なんだろう、と耳を澄ませてみる。
 けれど、聞こえてはこない。
 風に揺れる笹の葉擦れの音も見回りの看護婦の足音も他の入院患者の寝息も、すべては湖の底に沈んでしまったかのように静か。耳が痛くなるほどの静寂につつまれここではいっそ音がある方が不自然だと思えてしまう。

「……また?」

 そこへ微かに流れ込んでくる音…声。
 魚も住めないような澄みすぎた純水へ血の雫を一滴、落としたような、そんな声。静けさは揺るぎなく、純粋さはコンマ以下でしか失われていない。けれど、確かに水は/静寂はもう純水/無音ではなくなってしまったのだ。

「……」

 湖を汚したのは誰か。静寂を破っているのは何か。
 怒りや疑問のような感情は一つも浮かびはしなかったがただその音の所、声の主の所に行かなくてはいけないという使命感だけが慧音の心に浮かんでいた。
 薄ぼんやりとしか見えない闇の中、慧音はベッドからごそごそと這い出した。丁寧にそろえられていたスリッパを足先の感覚だけで探して履き、ぺたぺたとリノリウムの床を音を立てながら歩き始めた。




 病室を出て闇雲に歩く。

 ぺたぺた、ぺたぺた。

 意識は脆弱。精神の大半は夢うつつの中にたゆたっているよう。ぼうっと眠たげな顔をしながら慧音は足音を立てて病院内を歩き回る。まるで夢遊病患者。ある意味間違いではない。

 ぺたぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺた。

 耳に届くのは自分の足音だけ。それ以外のものなんて時が止ってしまっているみたいにじっとしている。トイレにでも起きてきたのだろう。点滴用の袋が引っかけられたキャスター付きの棒を持ったままの老人が廊下の真ん中で彫刻のように押し固まっている。その横を通り過ぎながら慧音はそう考えた。
 考えてすぐにどうでもいいと切り捨てた。
 自分は声を探しているんだ。早く行かないと。そんな一抹の焦りと使命感だけでともすれば眠りこけてしまうような呆けた頭を働かせ足を進める。

 ぺたぺたぺたぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

 それにしても声は聞こえない。
 もう×んでしまったのだろうか。いいや、その点については問題ない。彼女の体は■■■■なのだから。けれど、心は違う。心までは■■■■にはなれない。むしろ、出来ない。一体、どういう仕組みなのか分からないがそれがルールだ。

 ぺたぺたぺたぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

 早く見つけないと。
 また、悲しそうに辛そうに泣いている彼女を見るのはとても辛い。何とかしてあげられるのは私だけなのに。こんなところで迷ってる暇なんてないのに。

 ぺたぺたぺたぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

 何処? 何処? 何処なんだ? 何処にいるんだ? 呼んでくれよ。お願いだから。

「妹紅…」

  ぺたぺたぺたぺたぺたぺたいぎったずげぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

「あ…」

 足音に彼女の声が混じった。
 瞬間、走り出す慧音。
 ぺたぺたとリノリウムの床を踏みしめていた足音はばたばたと騒々しいものに。これではもう他の音は何一つ聞こえない。けれど、大丈夫。今ので何処にいるのか分ったから…!



















「あら、おはよう。私の友達」

 その部屋に妹紅はいた。傍らには輝夜に姿もある。

「何を…している」

 輝夜の白々しいほどの態度を無視して慧音は眉に力を込め、睨み付けるような視線を浮かべながら問いかける。ともすれば倒れそうになる体を必死に支え、なんとか自制心を保つ。

「何って…妹紅が貴女に酷い事を言ったからその復讐、躾ね。ああ、でも勘違いしないで手を出したのは彼女が先なんだから」

 まるで悪びれた様子もなく、弁護士のようにわざとらしい真面目くさった口調で言葉を返す輝夜。慧音はその輝夜を見て、続いて足元に倒れている妹紅へ視線を向けた。

 倒れている妹紅は何も身につけておらず全裸で胎児のように体を丸めている。ともすれば神聖さえ覚えるような格好。けれど、その光を写していないうつろ気な瞳からは悲哀しか感じられなかった。

 悲しげにやるせない気持ちをこらえるよう、歯を食いしばり指が蝋のように白くなるまで強く握り締める慧音。苦痛に歪んだ瞳からは一筋、涙が流れ出していた。

「輝夜…私と『友人』になるのはかまわない。けれど、一つ条件がある。それを…呑んではくれないだろうか」
「ええ、別にいいわよ。私は寛容だもの」

 頷く輝夜。慧音はその条件を口にする前に倒れた妹紅に近づき、今や赤子よりもか弱い存在になってしまった彼女の体を抱き上げた。

「妹紅を…これ以上、虐めないでやってくれ…」

 切実な願い。まるで、死病を患った老人の命を助けてくれと天に請うような、そんな願い。面を上げ、涙を流し、慧音は懇願する。

「お願いだ、輝夜」

 ぽたりと妹紅の頬の上へ慧音の涙が流れ落ちた。

「ふふ、そうね。それぐらいかまわないわ」

 貴きものの余裕か。微小をたたえ慧音の申し出を了承する輝夜。
 はう、と死刑宣告を逃れた囚人のようなため息を漏らす慧音。けれど、輝夜の話はまだ終わっていなかった。

「でもね、慧音。ヤメテ欲しい理由はわかるけれど、私が妹紅をいじめる理由、それには貴女も一枚噛んでいるのよ」

 え、と慧音は顔を上げる。その驚いた顔を見て輝夜は唇を三日月に歪める。新しいおもちゃが手に入って喜ぶ子供のように/新しい奴隷が手に入って喜ぶ支配者のように。

 そうして、語られる真実に慧音は打ちひしがれた。
 まさか、そんなと、自分の弱さ、妹紅の弱さ、そして、輝夜の強大さを呪った。
 罵詈雑言を並べ輝夜を罵り、そして、それでもなおどうしようもないことを悟り、最後は妹紅の胸に顔を埋めて泣いた。




「すまない妹紅。助けてあげられるのは…これで最後だ」

 がぶり、むしゃむしゃ、ごっくん













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











 昼時、妹紅は慧音を食事に誘おうと思って彼女の元を訪れた。
 けれど、にべもなく断られてしまった。
 素っ気無い態度。
 妹紅としては久しぶりにデートのようなことしたいと思っていたのだが、慧音の態度からはむしろ妹紅を鬱陶しがっているような素振りさえ見える。
 慧音の冷たい言葉に、どうしたんだ、私が何か気に触るようなことを言ったのか、と妹紅は問い詰める。



 返ってきた言葉は…

―――いや、ちがう。そうじゃない。けれど、もう妹紅とは遊べないんだ。私は今、輝夜と付き合っているから……












――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――









「うぁぁぁ、嫌な夢見た…」

 目覚めるなり、軽くうずくこめかみを抑えつつ泥でも吐くように妹紅は盛大に溜息をつく。風邪なんかをひいているわけではないのだが(といううか死ななくなってからは当然だが病気とはとことん無縁だ)全身がけだるく、重い。
 おかげで妹紅は目覚めてからも暫く布団の上で体を起こしたままじっとせざるえなかった。動く気力が湧いてこないのだ。

 夢見が悪かったせいか。いや、違う。
 このところ妹紅はこんな気分に苛まされていた。
 何をするにしても気力がわかず、仕事にしている迷いの竹林の案内役や妖怪退治もほとんど断り、日がな一日家の中でごろごろばかりしている。まるで自分がぶたになったような気分だ。

「太ってないよな…?」

 服を捲り上げお腹のお肉をつかんでみせる。いや、そもそも全く何も口にしなくてもこの体は痩せたりはしないのだ。同じ理由で食っちゃ寝していても太ることはないだろう。

 だから、気分の問題。蓬莱人でも心だけは健康ではいられない。今みたいに陰鬱になることも悶々とした怒りを抱えることもある。ここ百年ぐらい、幻想郷にやってきて慧音と付き合い始めてからはあまり覚えなかった感情だがそういうこともある。

「……」

 と、思考が慧音に及んだところで沈んでいた気分が更に深く重く沈み込むことになった。

「慧音…」

 あれから慧音を永遠亭の病院に運んでから妹紅は彼女に会っていない。慧音が倒れる前、口論になったことが妹紅の気分に暗い影を落としているのだ。もしかすると慧音があんなことになったのは自分のせいなんじゃ…それでなくても冷静になって考えるとあの喧嘩の原因は自分自身にある、どんな顔をして会えばいいのか…そう考えるとお見舞いにも行くことが出来ず妹紅はうじうじとした日々を送らざるえなかった。

「もう、一週間か…」

 カレンダーに目を向けてはぁ、と溜息をつく。日に焼けて色褪せたカレンダーは今の妹紅そのものだ。陰鬱な気分にいっそ吐くまで呑んですべてを忘れてしまいたい、と破滅願望じみた考えに及びかける。

「いや、ダメだダメだ」

 その後ろ暗い考えを追い払うよう妹紅はぶんぶんと首をふるう。いつまでもこんな気分じゃいられない。慧音との関係も。

「もう一週間だ。慧音も退院してるだろ」

 すこしばかり遅いかもしれないが退院祝いを口実に慧音のところへ行こう、と妹紅は二日ぶりに布団の中から出てきた。
 気合を入れるために頬をひっぱたき、勢い良く立ち上がり、のしのしとあえて肩を怒らせ大股で部屋を横切る。さぁ行くぞ、と玄関の戸に指をかけたところで、入り口のすぐそばにある洗面台の鏡が目につき…そうして、鏡の中の女の子が目やに、ボサボサの髪、だらしない服装のままだったことに気がついた。

「お風呂入って着替えてからにしよう」

 開けかけた戸を締めなおす妹紅であった。








 それから体を隅々まで洗い、新しい服を用意し、しっかりと身だしなみを整え終えさぁ、出かけるぞと意気込んだときには小一時間ほどの時が経過していた。
 もう、お昼時だな、と慧音は道を急ぐ。

「お昼ね」

 夢の中の出来事がデジャヴュのように感じられる。
 まさか、などという考えがぽつりと心に小さな影を落とすが道を急ぐ気持ちで掻き消してしまう。

 準備とは裏腹にものの十分ほどで慧音の家にたどり着いた妹紅。飛んでいったのだから早いのは当たり前だ。
 一応、戸をノックする前に身だしなみを整え、深呼吸、心を落ち着かせてから意を決し声をかける。

「慧音、いるか? 私だ、藤原の妹紅だ」

 少し硬い声色に失敗した、と妹紅は自分で自分を恨む。けれど、言ってしまったものは仕方がない。後は慧音が出てくるのを待つばかり…と妹紅は直立不動の姿勢をとるが、待てども待てども返事は愚か家の中から誰かが出てくる気配も感じられない。

「慧音?」

 悪いと思いつつ戸に指をかけて開けてみるが部屋の中は暗いまま。中に誰もいませんよ状態である。
 どうしたんだろうと妹紅は暫く頭を捻り、

「ああ、学校か。仕事に行ってるんだな」

 その結論にたどり着く。むしろ、そのことを考えなかった自分は間抜けだな、と笑った。

「あれ? 慧音センセの彼女じゃねえか。どした、こんなとこでよ」

 と、慧音の家の前でさてどうしようかと考えていた慧音にそう声をかけてくる人物が現れた。慧音が務めに行っている寺子屋の塾長だ。

「あ、塾長先生。こんにちわ。いや、あのこんなとこでって、そういうことなんだけど」

 挨拶をして、そんな風に返す妹紅。歯切れの悪い言葉は恥ずかしいからではなく、ふと心に湧いてでた違和感のせいだったが。

「……ああ、慧音センセの忘れ物取りに来たんだな」
「いや、慧音に会いに来たんだけど…授業中だったみたいだな」

 わずかだが、天の助け。慧音が何処へ行ったのか知るチャンスだと妹紅は塾長にそう話しかける。そうだ、と答えれば授業終了まで時間を潰してその後会いに行けばいい。もし、そうじゃないと言われたならまた別の手を考えるしかないが。

 けれど、塾長が次に口走った言葉は妹紅の理解を超えていた。

「あ? 何言ってるオメエさん。慧音センセは引っ越したんだろ。ウチも辞めちまっただろ」
「え?」

 何かひどい嘘を言われたように、目を丸くして驚いてみせる妹紅。その様子を見とってあっ、と塾長は声を上げ、しまった、と言わんばかりに眉をしかめた。

「もしかして、知らなかったのか?」
「あ、ああ…」

 何とか頷くが声が震えているのが自分でもわかる。塾長はある種の憐憫さえ感じさせる表情を浮かべて言葉を続けた。

「そ、そうか…一昨日ぐらいに慧音センセの遣いだって名乗る奴が学校に来てよ『急用で引っ越すことになりました。つきましては学校の方も辞めさせていただきます。誠に勝手ではございますがどうかご容赦の程を』って感じの手紙をワシに渡してよ。字も捺印もちゃんと慧音センセのものだったけど…家に行ってみてももぬけの殻だし。こりゃ、なんかみょんなトラブルでも抱えて夜逃したんかと、みんなで話おうてたんじゃが…そうか…恋人のお前さんも知らんのか」

 すまんことを言った、と謝る塾長。気にするな、と返す余裕は妹紅にはなかった。

 引っ越した?
 仕事も辞めて?
 どういう事だ?

 疑問だけがぐちゃぐちゃと泥のようにかき混ぜられる。自我喪失し、妹紅はその場へ糸が切れたように倒れそうになる。

「塾長…」

 それを必死に堪える。

「その…手紙を持ってきた奴ってのはどんな奴だったか、憶えてるか?」

 絶望するにはまだ早い。
 少なくとも妹紅が信頼する慧音は自分で勝手にそんな風に手紙だけで済ませて逃げるように消える人物ではなかった。

「あ、ああ、兎だったよ。妖怪兎。竹林にいるような奴だった」

 塾長の言葉は成る程、よく考えれば手がかりでも何でもない言葉だった。考えればそこにしか行き着かないに決まっている。

 永遠亭。そこに慧音は恐らく囚われている。
 そうして、慧音が引っ越ししたなんて偽装工作を妖怪兎に命令する人物なんて一人しかいない。

「蓬莱山輝夜ッ!!」


 怒りに滾る拳を握り、妹紅は火の粉を散らしながら飛び上がっていった。
 幾度目かの、そして、本物の怒りに駆られ妹紅は仇敵の住処、永遠亭に向かってひたすらに飛んだ。











――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










 どんな障害が待ち受けていようと絶対に突破してみせると意気込んでいた妹紅は永遠亭につくなり肩すかしを食らった。

 すんなりと輝夜の所まで通されたのである。

「それではごゆるりと」

 応接間で待つように言われ、更に冷たいお茶まで用意された。
 普段の妹紅ならこんなものいるかと机をひっくり返し、闇雲に永遠亭の中を駆け回るのだが、今日ばかりは勝手が違った。超科学で作られた永遠亭はどんな仕掛けか来る度に様子を変え、無限と思えるほどの広さを屋敷の中に有しているのだ。その内装はさながら大迷宮。闇雲に突っ込んで道に迷い、気がつくと竹林に投げ捨てられていることがしばしあった。腹いせと衝動的な襲撃ならそれでも構わないだろう。また、また攻め込めばいいと、次の機会に期待を込めることが出来る。けれど、今回は違う。たとえどんな妨害があろうとも慧音を助け出さなくてはいけないのだ。今朝の夢のせいか、心痛に立ちこめる不安と姑息な輝夜の悪事に対する怒りに妹紅は逆に自分でも驚くほど冷静になっていたのだ。

 これが罠なのはわかりきっている。けれど、闇雲に突っ込んでもまず慧音は助け出せない。相手の隙を突いて何とか慧音を捜し出すしかないのだ。その為にはあえて相手の罠に乗る必要も出てくる。肉を切らせて骨を断つ。そういう情報戦もあるのだ。

 けれど、妹紅は冷たく汗を浮かべたお茶に手をつけることなく、あぐらをかいてじっと応接間で待っていた。

 待つこと十分。まさか、謀られたと妹紅の疑心が首をもたげ始めたとき…

「ごめんなさい。遅れたわ」

 そんな声と共に音もなく障子が開かれた。
 輝夜の声だ。
 間髪入れず、飛び出しそうに逸る心を抑え妹紅は下げていた視線を上げる。
 と、

「え?」

 信じられないものを目にして妹紅の思考は氷山のごとく、押し固まった。

 開けられた襖から現れたのは一代の車いすだった。竹林で取れた竹を使って作られたリクラニングチェアにも似た形状の車いす。それを押しているのはおかしなことに輝夜だった。普段あらば面倒なことなど何一つしないと貴族厳とした態度をとり続ける輝夜には似つかわしくない表情を浮かべている。労力を苦もなく、寧ろ誇らしいと胸を張っているような表情。
 そうして、その輝夜が押す車いすの上には…

「けい、ね…」
「あ…う」

 口の端からだらしなく涎を流し、白痴のように呆けた顔をした慧音が乗せられていた。

「輝夜ァ!!!」

 瞬間、臨海突破。
 机の上に乗り出し、拳を振り上げる妹紅。その手は紅蓮に燃えさかり輝いている。
 その裂帛、怒濤の如き勢いをまるでつまらない児戯でも見せられたかのように輝夜は視線を細め手を振る。絶対に砕けぬ御仏の鉢を展開する。究極障壁に阻まれ妹紅の拳はけれど輝夜に届く僅か手前で押しとどめられる。

「慧音に何をしたァッ!!」

 それでも激情は止らない。止められた拳に力を込め、自分の腕が炭化しようと火力を上げる妹紅。その様を輝夜は何の表情も浮かべることなく、ダイヤモンドの輝きの後ろで眺め続ける。

「慧音のこの状態のことを指しているの? ああ、だったら、私は何もしていないわよ。こうなったのは慧音の意志だし、その原因は貴女よ、妹紅」
「巫山戯るな! いいから出てこい! 灰になってもまたそこから灰になるまで焼いてやる!」

 吠える妹紅。もはや火力は甚大で、部屋のあちらこちらに飛び火し、火事を起こしている。焼け焦げる障子に煤ける天板。机に炎が移り、ぱちぱちと音を立てて畳が爆ぜる。その僅かに向こう。輝夜の張った障壁を隔てて部屋の三分の一はもとのままだ。どれだけの熱量をもってしてもこの壁は破れない。轟炎と静寂。裂怒と冷徹。その対比。壁一枚を隔て輝夜と妹紅は対峙する。

「巫山戯てなんていないわ。慧音と仲が“良かった”貴女なら慧音の力も知っているでしょう? 歴史を喰らい無かったことにする程度の力」

 なかなかに便利な能力よね。集落の歴史を無かったことにして隠してみせたり、と輝夜は言葉を続ける。

「それがどうした!」
「そう。やっぱり貴女、田舎貴族の娘ね。頭が悪いわ。じゃあ、話を変えるけれど、貴女と私のこんな感じの殺し合い、勝率はどうなっているのか知ってる?」
「あ?」

 唐突な輝夜の言葉に妹紅は疑問符を浮かべる。火力は威力の低下こそしなかったが妹紅の僅かな動揺を汲み取ったのか上昇する勢いを弱めた。

「知るか。私もお前も死なない以上、どう足掻いても五分五分だろ」

 それも今日までだがな、と妹紅は怒りを決意に変えて口走る。輝夜はダイヤモンドの輝きの向こう、子供のような妹紅の物言いに肩をすくめてみせる。

「ああ、そんな頭の悪い考えだから自分の勝率も計算できないのね。貴女の勝率はね、妹紅。0%よ。二十七万五千二百三十八回、その勝負の中で貴女が勝ったことなんて一度もないわ」
「適当なことを言うな!」
「ええ、回数は本当に適当よ。けれどね、妹紅、貴女、その幾万回もの私との殺し合いの中で一つでもどんな戦いだったのか、説明できる勝負はあるのかしら」
「下らないこと…を?」

 言うなとは断言できなかった。思い出そうとしてそこで思考が止る。確かに妹紅は輝夜と幾度となく殺し合いを続けてきた。百や千では数えられない数を。けれど、一つとしてその戦いの詳細を語ることは出来ない。数が多すぎるからと言うわけではない。現に、つい先日、初めて慧音が倒れここに運び込まれた日の夜、妹紅は慧音に詰め寄ろうとする輝夜に怒りを覚え、その激情のままいつものように襲撃をかけたのだ。いつものように。そう、いつものように。けれど、その戦いも、そのいつものうちどれも結果までは、いや、課程すら思い出せない。ごっそりとそこだけ記憶が抜け落ちているような…いや、記憶ではない。端からそれがなかった様にごっそりとそげ落ちてしまっているのだ。

「まさか…」
「くす」

 動揺に炎の勢いが弱まる。その隙を輝夜は逃さなかった。龍の顎が妹紅を捉える。左腕右腕左足右腹右足首。五歯が容易く妹紅の体を破壊する。血飛沫と火の粉を散らして妹紅の体は部屋の反対側まで飛んでいく。自分がたきつけた炎の上に落ち、犬を絞め殺したような悲鳴を上げた。
 ギリギリ死なない程度の威力。それでも四肢をもがれ、脇腹をえぐられた格好で妹紅は自分の血で炎を消しながらもがいた。

「無様無様無様♪ ああ、でも、これがいつもの調子なのよ妹紅。貴女はいつも毎度その度に私にこんな風に殺される。私と貴女の実力は実際の所、天文学的な数字で離れているわ。誇張でも自画自賛でもなく、真実として。そして、貴女は負けてもなお、絶対に敵わない私に挑み続けている。滑稽よね。無様すぎると言っても過言じゃないわ。どうして、そんなことが出来るのかしら? 死なない蓬莱人だから? いつか勝てるようになると信じて? それともただ単に諦めが悪いからかしら? いいえ、違うわ。貴女は私に負けて酷い目に遭わされて再起不能になるような酷いトラウマを植え付けられて完膚無き程までに敗北する。蓬莱人は死なない? そうね。永琳に一度、聞いたのだけれど私や貴女のような蓬莱人の不老不死の仕組みは蓬莱の薬に含まれていた極小機械細胞が服用主の体の情報…それこそ爪の長さからまつげの本数、大腸菌の数まできちんと記憶してその情報を周囲の空間に書き込んで予備とし、服用主の体に何かあった場合、その情報を服用主の体の方へ戻すって言う仕組みらしいわ。ええ、ごめんなさい。言われたことは全部憶えているけれど、その内容は全く理解できないわ。何かしらね極小機械細胞って。まぁ、だから、永琳が言うには蓬莱人を殺すには空間をどうにかする…この宇宙を構成している十一次元をどうにか出来る程度の能力が必要らしいの。今のところ、永琳の計算だとそんな力をもっている人は宇宙の何処を探してもいないそうよ。コズミックビーイングとか言うらしいけれど。ああ、話がそれたわね。閑話休題。兎に角、貴女は私に負け続けた。そして、それでもなおめげずに私に殺し合いを挑み続けている。それはどうして? その理由は簡単よ。前提条件からして間違っている。妹紅、貴女は私に挑み続けているんじゃないの。まだ、私の力を知りもしない最初の一戦に挑み続けているのよ」

 長たらしく途中で酷く横線にそれる輝夜の話。けれど、妹紅はその話を聞き入っていた。大事な試験の前にその内容を教えられている生徒のように。

「どうしてって顔ね。ええ、もったいぶらずに言ってあげるわ。その命も、もうすぐ終わりでしょうし。そこまでダメージを与えちゃうと再生するのに時間がかかるからね。長く生きている妖怪は精神の新鮮さを保つために何十年か周期であらかたの記憶を忘れる仕組みを持っているらしいわ。私や永琳も適当な時期にそれと同じ働きをする薬を飲むようにしているわ。精神衛生を保つためにね。けれど、妹紅、貴女はどうなのかしら? ああ、いえ、もったいぶった言い方になっているわね。さっさと話を終わらせるわ。まぁ、ここまで話せば頭の悪い貴女でも殆ど理解できるでしょうけれど、貴女のね、精神安定剤はね、妹紅。この慧音なのよ」

 そう言って車いすの上で今この瞬間も精神を忘却と禊ぎの世界へ追いやっている慧音の頭を優しく抱いてみせる輝夜。いやらしい、加虐的な笑みが顔に張り付いている。

「ただし、貴女の場合は周期は関係ないわね。私にこっぴどくやられて、それで心を殺されて。ええ、蓬莱人は死にはしないわ。でも、心だけは別よ。永劫の果てに精神は摩耗し消滅するし、絶え間ない地獄のような責苦の前には容易く屈する。慧音はそんな状況に陥った貴女のために、“負けて死んだ”貴女を生き返らせるために、その原因だった出来事…私との殺し合いの歴史を喰べて無かったことにしてきたのよ」

 語る言葉に返せる言葉はない。もはや、瞳を明けている力さえも妹紅からは失われているからだ。それでもなお、輝夜は話を続ける。

「誰だって食べ過ぎはよくないわよね。慧音のあの狂態や嘔吐はそれが原因よ。歴史と言っても慧音にはある意味、食物だもの。それが慧音自身にも影響を与えるのは当然の帰結よ。他愛のない、日常ならそれでも大丈夫なのかもしれない。誰でも経験するような出来事の歴史を喰べてそれの影響が出たとしても、せいぜい、既知感を憶える程度だろうからね。ああ、でも、違う。慧音が喰べていた貴女の歴史は違うわ妹紅。貴女の歴史は腕をもぎ、腸を引きずり出し、糞便を踏みつけた靴を舐めるよりも屈辱的な地獄のような歴史よ。そんなものを喰べたら、腐ったものを食べてお腹を壊す様に心が壊れるのは当然ね」

 可愛そうに、と悪食で心を壊してしまった慧音を優しく労るように撫でる輝夜。その行為には悪意が満ちあふれている。

「いえ、でも、貴女だけのせいとも言えないのよね実は。私がこのことに気がついたのはつい先日、慧音の家に遊びに行ったときなのよ。それまで私は貴女が貴女自身が持っている自浄作用だけで心の平温を保ってきたと思っていたのよ。そのすさまじい再生能力に私は正直嫉妬したわ。体ぐらいなら私でもすぐに治せるけれど、心はねぇ、ちょっと。だから、私はそれにイライラして他の私が虐めたい子…鈴仙や永琳より少し強めに貴女をいたぶったのよ。でも、貴女はその度に何もかも忘れたようなそぶりでまた私の前に現れるんだもの。本当にもう、アレにはイライラしたわ。まるで昨日殺したはずの油虫がまた現れたみたいに。だからね、私の攻めてもだんだんと激しいものになって今ではただの一回で貴女の心を還付無く程までに破壊できるようになっていたのよ。ああ、また、話がそれるところだったわね。ええ、つまりはそういうことよ。慧音はね貴女を助けるつもりで貴女の歴史を喰べて無かったことにしていたのだけれど、どうやらそれが裏目に出ていたようね。だって、治せば治すほど、それを知らない私がもっと激しくもっと残酷に貴女の心を壊すのだから」

 語りながら輝夜は思い出す。一週間前、自分に『もう、これ以上、妹紅に酷いことをしないでくれ』と懇願する慧音に真実を突きつけたときのことを。
 あの後、最後にもう一度だけ妹紅が壊れる原因になった歴史を喰らい、それまでで十分に顕界だった慧音は喰べ過ぎた妹紅の悪しき歴史に押しつぶされ自身の精神が壊れてしまった。けれど、その崩壊の引き金を作ったのは巡り巡って妹紅の心が壊れていく原因を作っていた慧音がその真実を知らされたからではないか。輝夜はそう考えてほくそ笑む。

「さぁ、説明は以上よ。ああ、そう言えば慧音に貴女を傷つけないよう言われていたのを忘れていたわ。ごめんなさい。でも、正当防衛でしょ、これって。ええ、だから―――」

 後数分。それだけ経てば死んでしまう妹紅に輝夜は語りかける。そんな簡単な終わりで私が満足するものか、と瞳を輝かせながら。
 そうして、その日、もっとも残酷なことを輝夜は口にする。

「だから、続きは慧音にやって貰うわ。慧音、妹紅を殺しなさい」
「あ?」

 疑問符は妹紅のもの。妹紅だけのものだった。
 慧音は…

「……」

 虚ろな目をしたまま立ち上がり、今まで自分が乗っていた車いすを何とか持ち上げる。竹で出来た車いすは見た目より軽かったが、それでも相当な重量を有していて…

「慧音…やめ…」

 妹紅の首の上に振り下ろせば容易く頸椎が砕けた。

「ご苦労様」

 死んだ妹紅を前に満足げに笑む輝夜。慧音は暫く先ほどと同じ白痴の顔つきで呆然としていたが、妹紅の首の上に振り下ろした車いすが手から離れるのを感じ取ってはっ、と目を開けた。

「妹紅! 妹紅! ああっ!また、また、こんな酷い目に… まっ、待ってろ、今助けてやるから…! 私に殺された歴史なんて私が無かったことにしてやるから」

 狂った台詞を叫んで妹紅の亡骸に駆け寄る慧音。そうして、また、いつもと同じように歴史を喰べてしまう。

 むしゃり、ごくごく、ぱくり、ごちそうさま。

「ああ、また、説明のし直しじゃない。面倒くさいわ」

 つまらなさげに、けれど、そこか楽しそうに輝夜は呟いた。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












「やめろ…やめてくれ…」
「そう言われてもね。これは慧音がやっていることなのよ。ええ、彼女は私の友人だからね。貴女としていたみたいなものとは違うけれど、これも親愛の証よ」

 手枷足枷を填められ自由を奪われた状態で妹紅は冷たい石畳の上に寝かされていた。その視界、憎悪と悲哀のない交ぜになったカオスな視線の先には、畳の上に腰を下ろししげどなく足を伸ばす輝夜と、その足を丹念に水飴でも舐めるように舌を這わせている慧音の姿があった。
 輝夜は着物をはだけた格好。拘束された妹紅は全裸。そうして、慧音はどちらかと言えば後者に近い格好をさせられていた。
 今の慧音は身につけているもの殆どなく、獣人の姿を取っている。頭の上から鋭く伸びる角。ぼさぼさに伸び毛色の変わった髪の毛。尾てい骨の辺りから伸びる尻尾。満月の夜、強い月光を浴びる興奮するとこうなってしまう体に今、慧音は変わっていた。けれど、今は満月の夜ではない。風に揺れる数本の蝋燭があるだけのこの地下牢では今日の月の顔が何か分るはずもない。それでも慧音が人の形をやめているのは躰の昂ぶりと月の姫君が持つ月光と同じ種類の魔力のせいだ。
 体質が変わったせいで慧音は荒い息をついて輝夜の細く柔らかい足にしがみつき、その肌に自分のそれをすりあわせている。妹紅の位置から丸見えの股の間は淫液に濡れ、流れ出る液体は太股の辺りまでを塗らしている。時折、慧音は輝夜の足に自分の股をすりつけると切なげな声を発し、それを慰めるよう、自分の手を伸ばして自らの密壺を指で乱暴にかき混ぜた。浅ましい姿。清楚で、布団の中でも闇雲に快楽を求めるようなことをせず妹紅との愛の語らい愛を何より大事にしていた慧音からは想像もつかない姿。妹紅はそんな変わり果てた慧音の姿を視て猛るように吠え、自分の腱がちぎれるような力で手枷を外そうともがく。けれど、強固な手枷はびくともせず、輝夜の足にしがみつく慧音はこの形態だと複数在る乳房をもみし抱き、ついに尻穴にまで指を伸ばし、下劣な手淫を繰り返した。ただ、それだけではどうやっても達せないのか、時折、涙を流し懇願するような目で輝夜を見上げる。妹紅が何度その名前を強く呼ぼうとも振り返りもせずに。

「ふふ、私が永琳としていることを少し教えてあげたらね、こうなってしまったのよ。今の慧音は大抵、昼間みたいに木偶に成り果てているか常に快楽を求めて自分を慰めるのをどうやってもやめないの。ああ、まったく、友人として恥ずかしい格好ね」

 くすくすと笑いながら輝夜は慧音の頬を流れる涙をすくい取り、それを慧音自身に舐めさせる。輝夜の白い指を加えた刹那、慧音は身体を震えさせ軽く気をやる。月の頭脳が編み出した淫猥なる責苦に慧音の身体は改造し尽くされ自分自身でいくら慰めても果てることは出来ず、輝夜が僅かにでも触れてやればそこから絶頂に達するようになってしまったのだ。
 輝夜が慧音を抱き寄せ、その縦に三つ二対並んだ乳房の一番上の大ぶりのものを形が変わるほど強く握り、その黒い切っ先に突き通された心中の輪を引っ張り上げると慧音は悲鳴を上げ、白目を剥いて何度も果てた。ぽっかりと開かれた女陰からはひっきりなしに潮が吹き上がり、尻穴も何かが入れられることを待ち望んでいやらしくもひくついている。

「ああ、そうだわ。慧音、お腹が空いたでしょう。ご飯の用意をしましょ」

 と、慧音の身体を弄んでいた輝夜は急にそう提案してきた。もっと弄って欲しく慧音は輝夜を見上げたが命令は絶対だ。慧音は立ち上がると部屋の隅の棚から汚らしい縁の欠けたお椀を手に戻ってきた。

「今日は食事の準備を妹紅にも見てもらいなさい。ほら、妹紅の前にお椀を置いてそこにするのよ」

 はい、と頷く慧音。一体何を、訝しむ妹紅の前に慧音が汚らしいお椀を置く。妹紅はその間も慧音の名前を呼び続けるが反応は当然のようにない。はと、妹紅は自分のすぐ前に置かれたお椀に目が行ってその瞳をしかめた。汚らしいお椀の中にはその食事の食べ滓らしきものが残っていたのだ。けれど、それを食べ滓と言っていいものかどうか。ちじれた毛や黄色く濁った粘液、そして茶色い固形物。そんなものが食べ物であるはずがないと妹紅は吐き気を堪え歯を食いしばり…お椀の上に慧音が尻を下ろすのを目撃してしまった。

「さ、準備なさい慧音」

 腰を浮かせ膝を抱える体勢で輝夜に言われるがままにふっ、と気張り下腹部に力を込める慧音。何をしている、と妹紅は混乱の極みに陥るが、見開いた目は閉じることが出来なかった。やがて、浅黒く色素吸着した慧音の肛門が盛り上がり、そうして、黒い塊が頭を覗かせ始めた。ぷす、ぶすぅ、という音と共に臭気も溢れ始め、慧音の肛門から出てきた黒い塊がぼとり、ぼとり、とお椀の中へ落ちる。
 排泄物や精液、陰毛、その他、汚らわしい汚物がこの慧音の“食事”なのだ。
 全てを出し終えた慧音は、ほぅ、と安堵のため息を漏らし経った今し方、自分が無様にもひり出したばかりの汚物へ視線を向けた。豪勢な料理を見るような食欲と驚きに満ちあふれた視線だった。
 ついで慧音は了解を求めるよう輝夜に視線を戻す。輝夜はさ、おあがりなさい、と言おうとしたところで迷いを見せ、一瞬考え込んだ後、目の前で慧音の排泄行為を見せられがたがたと震えている妹紅へと視線を投げかけた。

「そうね、今日は疲れてお腹が空いているでしょうから、慧音。妹紅のも貰いなさい」
「ッ!?」

 何を、と言おうとするより早く妹紅は慧音に取り押さえられてしまう。何処にそんな力があるのか、慧音は妹紅を持ち上げるとその尻を自分の汚物が溜り湯気が立ち上るお椀の上まで持って行った。

「やめろ! やめてくれ慧音ッ!!」

 妹紅は暴れるが四肢を拘束されリザレクション上がりで体力がない今の状況ではどうすることも出来ない。慧音は器用に足を開いて妹紅の腰をそこへ下ろすと片手で身体を押さえつつ、もう片方の手の指をなぶると唾液を十分にまぶし、それを妹紅の尻の方へと伸ばした。

「ひぅ!?」

 普段は出るだけの場所に入れられる感覚にみょんな悲鳴を上げる妹紅。刺激に、著yが脈動し、中へ詰まっていたものが下へ下へと流れていく。そうでなくても冷たい石の上に転がされていたのだ。お腹の調子は感情に反してとても悪かった。

「ひあ、やめ…けいっ、ね」

 程なくして妹紅の言葉に涙が混じり始める。酷い羞恥。けれど、刺激を与えられた身体は敏感に反応してしまって、

「うあぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!」

 ぶりっ、びちびちびちびちびち…

 慧音が出した上へ妹紅も粗相してしまう。お腹の調子が悪かったせいだろうか、水分を多量に含んだそれはスープのようにお椀の中へ溜っていった。

 妹紅が嗚咽を漏らし始めたころ、便は何度かの放屁の後に出きってしまったのか止ってしまった。確認するよう慧音は輝夜を見上げ、輝夜はそれに頷いて応える。ぱぁっと顔を明るく、慧音は抱きかかえていた妹紅の身体をぞんざに投げ捨てると汚物のスープが溜ったお椀の前へ正座してみせた。

 まっすぐ伸ばされた背筋。自然に膝の上に置かれた両手。静かに閉じられた瞳。格好と場所、そして料理がこんなものでなければ満点をつけたくなるような正しい姿勢だった。
 そして、両手の平をあわせいただきます、と丁寧に告げる。醜悪なまでに完璧な態度は真面目らしい慧音の凶悪なパロディだった。

 そのまま慧音は手も使わず犬のように自分たちがひりだした汚物の中へ顔を埋め、固形物を租借し、流動体をすすり、ぐちゃぐちゃと汚らしい音を立てる。
 輝夜はその様を見て腹を抱えて笑い、妹紅は青い顔をしたまま悲しそうにその様を眺めていた。

「―――ああ、そうだ、輝夜」
「何?」

 と、食事の最中に妹紅は急に輝夜に話しかけてきた。妙に抑圧のない妹紅の声に輝夜は笑うのをやめ応じる。

「慧音がこんな変な風になってしまったのって…私がお前に酷い目に遭わされた歴史を喰べたからなんだろ。だったら…それを元に…私の所へ返せば、全部、元通りになるんじゃないのか?」

 慧音の歴史を喰べて無かったことにする力は不可逆変換的な能力ではない。現に、歴史を喰らい存在を無かったことにした集落は永夜事件解決の後、元に戻されている。それと同じことをしろと妹紅は言っているのだ。けれど…

「分っているのかしら、妹紅。それって、貴女が一度だけでも心の死を迎えた歴史を全部元に戻すってことなのよ。それを間接的に体験していた慧音でも心を病んだものなのよ。全部返せばどうなることやら」
「分ってるさ。でも、でも、それしかないだろ…ッ!」

 妹紅は涙を流しながら懇願する。敵に、殺しても殺し足りないほど憎らしい敵に向かって、そう願っているのだ。自分自身の心の破滅さえ受け入れて。

「ふぅん、そう。ああ、まったく、貴女たちは本当に滑稽ね。せっかく助かったのにそれを無下にして、返せだなんて。ええ、まぁ、いいわ。それで貴女の気が済むならね。全くの無駄だとは思うけれど。いいわ、慧音。してあげなさい」

 滑稽でつまらない出し物でも見せられたように輝夜は眉をしかめる。けれど、どうにか了承してくれたようだ。手にしていた扇子で指し示すと慧音は食事を中断。倒れていた妹紅の元へと歩み寄っていった。その間に、伸びていた角は引っ込み、髪も短く、尻尾も抜け落ちていく。能力を使うために人の姿に戻ったのだ。

「慧音…ううっ!」

 そうして、その頭を抱き寄せると汚物で汚れた唇を妹紅のそこへ押し当ててきた。酷い臭気と嫌悪に妹紅は一瞬、慧音を突き飛ばしそうになるが何とか堪える。汚れきった慧音の下が伸びて、妹紅の口の中へ割ってはいってくる。そうして…

「う、がぁ、ああああああ!!」

 唾液と共に流し込まれるナニか。
 それは歴史。慧音が溜め込んでいた妹紅の凄惨たる歴史だ。
 それは毒であり、暗黒であり、病魔であり、憎悪であり、そうして死でもあった。
 食道を流れ落ちていく間にまるで乾いたスポンジに水を水を振りかけたようにその歴史は妹紅の身体に馴染んでいく。当然だろう、元はと言えばそれは妹紅の持ち物なのだから。脳裏の浮かんでいくる残酷なる場面。走る馬に引きずられた濃硫酸を尻へ流し込まれた生きたまま鳥葬にされた自分自身で指を切り落とすよう強要された頭を丸坊主に刈られた状態で河川敷へ首まで埋められた眼球に熱したハンダ鏝を突っ込まれた自分の太股の肉でステーキを作らされ自ら食した死んだ殺した殺された焼かれた焼いた千切ったもいだ最裂いた引き摺り出した飲み込んだやったやったやったたたたかかかいれあ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


 濃縮した地獄という酒を一気に飲まされた気分。
 ある種の酩酊を憶えるように妹紅は頭を振るう。

 いつの間に自分から離れたのだろう、妹紅は近づいてきた輝夜の足下に横たわっている慧音に視線を向けた。黒に塗りつぶされていく意識の中、僅かに残っていた理性が慧音のみを案じる。ああけれど、これで終わった…



「何を言ってるの妹紅」

 輝夜はそう残酷に告げるとしゃがみ込み、汚物まみれだった慧音の顔を布巾で拭ってあげた。くすぐったそうに顔を和ませる慧音。あらかた綺麗にすると輝夜は慧音を抱き寄せ、その唇へ自分のものを重ね合わせた。

「え…?」

 見せつけるようにつかず離れずを繰り返し下を絡ませあう輝夜と…妹紅。員核に通されたピアスを力強く引っ張られても慧音は恍惚とした表情を浮かべたままだった。

「だから言ったでしょう。無駄だって。慧音をこんな風になるように調教したのは貴女の歴史を喰べた後なのよ。つまりこれは慧音自身の歴史。これは失われることはないわ」
「そん…な…」

 その言葉を最後に妹紅は雄叫びを上げ始め、何度も何度も石畳の上へ頭を叩きつけ始めた。ついに精神が死に絶えるほどの凄惨たる歴史に心が折れ、忘却のための死を望むようになってしまったのだ。
 三打目で額が砕け、血が飛沫を散らす。それでもなお、妹紅は叫び声を上げながら自分の脳みそを潰して、何も感じないで済むよう、尽力する。びちゃりびしゃりと血が飛ぶ。けれど、蓬莱の薬の再生の方が頭を砕く作業より早かった。蓬莱の薬は重要な器官の再生ほど早くなるように出来ている。自力で石畳に頭をぶつけても、僅かに死んだ脳細胞がすぐに再生してしまうからだ。その勢いでは蓬莱人は自殺できない。脳を壊す方法の自殺なら猟銃を加えて引き金を引くぐらいしか手段はないのだ。
 その事に気がついたのか妹紅は血まみれの顔面で天井を見上げながら獣じみた方向を上げ始めた。殺してくれと叫んでいるのか、死にたいと願っているのか、もはや理性など欠片も残っていないであろうことは容易に判断できた。
 そうして…

「ああ、その方法があったのね」

 不意に現れた部屋を照らす光に輝夜は呟きを漏らす。
 部屋の陰影を際立たせ、輝夜やその腕に抱かれた慧音の顔を照らす炎はまるで儀式のかがり火のよう。否、そのもの。輝夜の視線の先、先ほどまで妹紅がいた場所には人間大の燃えさかる塊が置かれている。

 言うでもなくそれは…自らの術で自分の身体に火を放ち炎を燃え上がらせた妹紅自身だった。
 石畳の上に座り、後ろ手に上を向いて大きな口を開けたまま燃えさかっている慧音の姿はプノンペンで戦争反対のために自ら灯油を被り火を投じたブティストの僧か。叢雲のように揺らめく炎は開け放たれた口の中まで勢力を伸ばし、内と外から妹紅の身体を炭に変えていく。
 人肉が焼け焦げる匂いに僅かに輝夜は鼻をひくつかせると、乱暴に慧音を突き飛ばし立ち上がった。

「はぁ、まったく。つまらないオチね。焼死なんて優雅さに欠ける死に方を選ばないでよ。手足を拘束された状態でどうやって自殺するのかが見物だったのに。こんなつまらない死に方をするなんて興ざめもいいところだわ」

 苛立たしげに吐き捨てると、もう輝夜は興味を失ったのか地下牢から出て行こうとした。

「もういいわ。今日はお開き。このまま慧音も妹紅も一週間ぐらい放っておきましょ。どうせ、自分を焼き切るような魔力なんてすぐに尽きるでしょうし、お腹を空かせた慧音がいい具合に焼けた妹紅を見てどうするのか、それを観察するのも悪くないわね」

 そんな邪悪なことを考え、輝夜は牢屋の扉に手をかける。がちゃり、とバイオメトリクス認証のオートロックが外れ、扉があく。ああ、お風呂に入って寝ましょうと、そんなことを口にした輝夜の後頭部に、

「喰らえ輝夜ァァァ!!」

 灼熱の炎に包まれた拳がたたき込まれた。
 いきなりの衝撃に受け身も取ることが出来ず、床の上に倒れ、燃え広がった炎に顔面の半分を焼かれながら叫び声を上げる輝夜。

「妹紅…! どうして!?」

 身体を起こし、襲撃者の姿を睨み付ける輝夜。そこに立っていたのは全身を炎に包まれながらもしかと二本の足で立っている妹紅の姿だった。
 炭化した片方の腕が半ばでちぎれ、手枷の鎖にぶら下がっている。その腕を振り回し、妹紅は輝夜に不意打ちをお見舞いしたのだ。

 揺らめく炎越しに向けられた視線をにらみ返し、知るか、と妹紅は鼻を鳴らす。

「ああ、でも、いっぺんに返ってきたせいで現実感が湧いていないのかもな。それとも多すぎて自分が酷い目に会うことに何とも思わなくなったのかもしれないな」
「冗談…! そんな馬鹿な話、あるわけないでしょ!」
「ああ、だから“知るか”だ。いや、もっと分りやすい理由があったな。“やられっぱなしじゃ私の気が済まない”ああ、これのお陰で私は立ち上がることが出来たんだ」

 ぐっ、と握り拳を突き出しそこへ焔を集める妹紅。ちっ、と輝夜は舌打ちし、立ち上がる勢いで逃げようとする。けれど、妹紅がそれを逃がす道理はなかった。打ち出された炎はまるでナパーム弾。輝夜の半身を焼き、地下通路の壁に大穴を開ける。






「さぁ、何万回目の殺し合い、そして、私の初勝利になる戦いの始まりだ!」
「戯れ言を!!」














――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








「こっぴどくやられましたね」

 永遠亭の庭。その一角…だった場所。今は燻る倒木や火がついたままの小屋の残骸に囲まれ、中心部はクレーターのようにえぐられている。その端、崩れた石灯籠にもたれかかるよう、あるいは埋もれるような格好で輝夜はそこにいた。

「永琳…」

 見上げて返事をするが声には力がない。当然か。今の輝夜には下半身と呼べるものが内のだから。飛び出た腸は炭化し、逆に出血がまるでないのが幸いしているようだった。すぐには死に至らないダメージ。辛うじて輝夜は意識を保っていた。

「苦しいでしょう。一度、頸椎を折りますから、身体が治った後にお目覚めになるようにしますわね」

 そう言って永琳は輝夜の首に手を伸ばす。
 と、

「永琳」
「なんでしょう、姫様」
「私はね、本当に友達が欲しかったのよ」

 不意に永琳に語り始める輝夜。永琳は輝夜の煤で汚れた首に指をかけたまま動きを止める。

「貴女や鈴仙、てゐのことは好きだけれど、だけど駄目ね。家族だもの。私は時には喧嘩するような仲間が欲しかったのよ」

 静かな言葉は輝夜が死にかけているからだろうか。いや、違うわね、とだんだんと明るみを増してくる東の空を想いながら永琳は考える。

「でも、駄目ね。どうやったら友達を作れるかなんて…もう、忘れてしまったわ。殴り合いで友情は育まれるなんて言うけれど…嘘っぱちだったし」

 はぁ、と悲しげに漏れたため息は朝の空気に溶けていった。
 そうですね、と永琳は応え、ポキリと輝夜の首の骨を折った。


















 地下牢から延びる階段。
 そこを慧音は“死なない少女”の腕に肩を回しゆっくりと気遣うように登っていた。少女の顔はやつれてはいるもののもう、絶望の陰りは見えない。

「そう言えば、君。名前は?」
「…妹紅。藤原の妹紅」
「そう。私は慧音。上白沢慧音だ。よろしく妹紅」

 階段を上った先は丁度、夕日が沈んでいく瞬間だった。何もかもが輝いて見え、新しい出会いを祝福しているようだった。





 その逆。
 同じように妹紅は慧音の腕に肩を回し階段を上っていた。
 あの時を再現するように。あの時のお礼を今するように。



 階段を上った先は丁度、朝日が昇ってくる瞬間だった。何もかもが輝いて見え、再生する二人の関係を祝福しているようだった。




END
なんか久しぶり。

うあー、何とかコミケ前にUP出来たぜ…

しかし、まだまだ調子悪いなぁ。Dr.スランプ


>>10/08/16
ウボアー
コミケお疲れ様でした〜
sako
作品情報
作品集:
19
投稿日時:
2010/08/12 18:15:11
更新日時:
2010/08/15 11:06:51
分類
慧音
妹紅
輝夜
NTR
※スカ描写有り
1. 名無し ■2010/08/13 22:07:40
これは良いけねもこけーね。
ハッピーエンドで後味もよかったです。ごちそうさまでした。
2. 名無し ■2010/08/13 22:33:40
ラストが痛快だったぜ!
3. 名無し ■2010/08/13 22:56:13
ある種の食あたりか、なるほど
もこけーねもだけど何よりも輝夜が魅力的だった
エゲツなさでも切なさでも"姫”だった
4. 名無し ■2010/08/15 06:12:51
みんな幸せそうじゃないか
5. 名無し ■2010/09/12 15:49:52
なんというハッピーエンド
面白かったぜ
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