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『ゆびきりげんまん』 作者: 赤間

ゆびきりげんまん

作品集: 19 投稿日時: 2010/08/16 14:00:05 更新日時: 2010/08/20 11:32:12
 忘れちゃだめ。
 そのための、やくそく、でしょう?




















「わっ!」
 気づけばぼぅっとしていた瞳の中に、こいしの全てが入り込んできた。単調なリズムで一歩、また一歩進んでいた足が、錆びた歯車のようにギシリと止まる。
「びっくりした?」
「ええ、とても」
「へへん」
 血管の細部まで見えてしまいそうな、日光を充分に浴びていない、病気のように白い足をぺたんぺたんと踏み鳴らしこいしはさとりと並んだ。白いアスパラガスのような足は、こいしの衣服と見事なコントラストをなしている。
 ぱすぱす。スリッパがタイルを叩けば。ぺたんぺたん。裸足が叩く。
 二人の音色はエントランスを抜け、長い廊下、寝室と場所を変え、長く長く続いていた。振り向けば足音がさとりとこいしの後ろからついてくるのではないかと思えるほど、地霊殿は閑散と――それでいて混沌と混濁とした禍々しい空気に満ち満ちていた。




 客間のソファに腰を沈めると、こいしもそれに倣ってさとりの隣にちょこんと正座する。ソファに身を沈めてしまうと、底なし沼のように身体が沈んでいく感覚に襲われるのだという。
「お姉ちゃん。それ、なぁに?」
 朔の夜から採ってきたような、どす黒いくりくりとした瞳が爛々と輝いていた。視線の先には、ここに来るまでさとりが大切に、それこそ両腕で抱きしめていた開け口も外装のペンキも剥がれて見るに耐えない、昔臭い汚らしい木箱。
 さとりはそれを愛おしそうに、ペンキの剥げた部分を指の腹でなぞった。誇らしげな笑顔だった。
「宝よ」さとりは単純に、一言そう放った。「私の宝だったもの。こころの在りか。今はもう、綺麗ではないけれど」
「へぇ……。廃れても大事にとっておくんだね」
 お姉ちゃんのやりそうなことだ、と。こいしはやけに納得した表情で呟く。
「宝は使うものではなく、とって置くことに意味がある。いつか見落としたものを、また思い出せるきっかけが潜んでいるかもしれない。そう思うと、おいそれと捨てられないの」
「ふぅん」
 こいしの物珍しそうに眺めていた瞳が、夜の帳のように光が失われていくのを、さとりはじっと見つめていた。
 大方、物凄く綺麗なビー玉や傍から見ればがらくたでしかないモノが溢れんばかりに入っていると思ったのだろう。はたまた、美味しいお菓子か。きっと後者だろうと思うが、もしかしたらどちらでもあるかもしれない。
 しかし、いくら入念に手入れをしようと、光はくすんでいくものだ。年月と埃と忘却が蓄積され、重く重くのしかかる。耐え切れなくて身動きするからペンキが剥げる。開けばオルゴールのように溢れ出す音色は、もう幾度開閉しても耳に届くことはなかった。あの頃にあった興奮も好奇心もほんの少しの優越感も、この箱と一緒にしまわれて聞こえなくなったのかもしれない。面白くなさそうに瞳をしょぼしょぼさせるこいしを目の端で捉えながら、さとりはそんなことを思った。
「こいし」
「なに」
「この箱、あげます」
 当然のように唐突に突発に、さとりの口からそんな言葉が漏れた。
 さとり自身驚くほどに、舌は淡々と言葉を綴っていく。あることないこと誇張して。
「私はこれに大変世話になりました。世話になりすぎました。だから、これを捨ててしまうのはあまりにも忍びない。それなら貴方に使ってもらった方が私は――私も、嬉しいですから」
 捨てよう、捨ててしまおうと意識するものに限って捨てられないのだった。
 さとりは捨てられない人なのだ。どんなときでも、どんなものでも、捨てられなかった。ペットもひともゴミも紙くずも、いつか何かに使えるのではないかという淡い期待がふわりと神経に舞い込んできてしまえば、なんと言われようが、怒られようが、易々と捨てるなんてこと――
 考えられなかった。考えることさえしなかった。ふと、今まで大切にしてしまったのが必要ではないのかもしれないなんて浅はかな考えを思いついたとき、全てがいらないものに見えてくるからだ。自分の手の中にある命も地位もこころも居場所も、いらないものに見えてくる。今の自分にとってこれは本当に必要なものなのだろうか。一握ほどしかない理性が、角砂糖のようにボロボロと零れ落ちていく。

 だから期待していた。
 こいしにこの箱を渡すことで、自分は何か報われるのではないだろうかと。
 自分が散々踏みにじってきた過去を、次はこいしが受け継いでくれるのではないだろうかと。


「……いらない。ゴミだから」


 だが、そんな一抹の期待は泡となり、さとりの口へと戻ってきただけであった。
 ぶくぶくと気泡を大きくして口内を犯されていく。思い通りにならないことなど、たった一度もなかったから。
 こいしが拒絶することなんて、たった一度も。
 好意を無駄にすることなんて。
 今まで、一度も、そんな。
「そう、ですか……」
 さとりはすみれ色の髪をだらんと眼前に垂らしたまま、睫毛を小さく震わせた。
 妹はどこふく風で、薄い緑の見える黒い眼はさとりを見つめているだけだった。

「お姉ちゃん。早く戻ってきてよね」

 こいしの気配は拡散した。





  ■





 ――私の家はゴミ屋敷なの。
 唇から漏れるタルトの甘い甘いシロップを指で掬って舐めながら、私は目の前できょとんとしているフランの表情を見て笑う。
「お姉ちゃんがね、捨てられないひとなの。ずっとずっとずぅっと、私たちにとってはただのゴミでしかないものを集めているの。水分もなくなって粉々になった花束もまだ持っているのよ。……異常よね」
 連日蒐集に忙しいお姉ちゃんは、話し相手になるどころか私に気づくことすらしない。炯々とした瞳で、いつ終わるかわからないゴミ集めを一心不乱に行なっていた。ギラギラと輝く眼はイキモノを見ていない。無機物で、死んでいて――いつか廃れ朽ちるものばかり、獲物を狙うハンターのように飛びかかっては捕まえて、満足そうにエントランスへ積み上げていく。
 ここ最近、お姉ちゃんと会っていないけれど。
 まだゴミの塔は建てられているのだろう。
 まだあの鼻を突き刺す強烈な臭いは健在なのだろう。
 慣れたものだな、と。
 私はいつになく冷静に紅茶を啜っていられた。
「さとりさん。だっけ」フランが臆面なく言い放つ。「パチェが言ってた。気持ち悪いって」
「……まぁ、今のお姉ちゃんは私でも近寄りがたいかなあ」
「ふぅん」
 フランはさも面白くなさそうに顔をしかめた。期待に添える言葉が無くて悪かったわね、と微笑む。
 こう思えば、私もツマラナイひとだ。お姉ちゃんと一緒で。
 こんなところで似ていることを痛感させられるなんて心外もいいところ。八つ当たりをしてしまったカップが、ソーサーの上で短く叫んだ。
「しかも本人は真面目だと思っているみたいだし。そこが厄介なのよね、きっと」
「あ、それならウチのお姉様もそうだよ。理由をこねくり回すのは好きみたいだけど、説得力に欠けるかなぁ。その分、絶対的な力で補ってるみたいだけど、心と体は違うものだからいつか崩れるわ。そうなれば私は晴れて自由の身だし、いいんだけどね」
 なんだ。
 いきなり姉の不幸を嬉々として語りだした。そりゃあ私が話を振ったけれど、お前の姉なんか知らないよ。犬にでも食わせておけばいいんじゃないかしら。
 私は聞き手が欲しいのに。
「もう少ししたら、また全部捨てるんだろうなぁ……。それはそれで、お姉ちゃん自身は解決したつもりなんだろうけど。燃やせばいいしさ」
「燃やしたらそれで終わり。じゃないの? ハッピーエンドでしょ?」
 絵本の読みすぎ。
「お姉ちゃん、おかしいから」さも当然と言わんばかり、するりさらりと口からまろび出た言葉に、フランは目を丸くしていた。「私もおかしいけどね」
「どこがどうおかしいのかわかんない」とフラン。
「数ヶ月――酷いときは一年近くかけてエントランスに積み上げたゴミをふとしたきっかけもなくいきなり捨てちゃうのよ、お姉ちゃん。捨てて、棄てて、捨てきって。自己嫌悪に陥って――また集めるの。大切なものを一緒に捨ててしまったような気がするから、今度はそうしないようにって」
 発言しながら、なんて呆れた行動だろうかと私は一笑に付した。

 お姉ちゃんが捨てられないひとならば、私は捨てたいひとなのだ。


 この地下室はなんとなく、あの臭い立つエントランスに似ているのだと思った。内装も広さも住人も、当てはまるところなんてないけれど。広々としたエントランスに佇む、感傷や悲壮をか弱い背中に背負いこんだ、あの人影と。影や色さえひとからげにするすっぽりと覆い尽くす闇の中で、ひとり幸せと安らぎを求め続ける、両腕に抱えきれないほどの愛と憎悪を抱きしめた、このひとが。
 接点というにはあまりにも食い違い過ぎる不格好な歯車。
 私が彼女を見つけたのは、ほっそりとした、今にも千切れそうな、だが確実に繋がっている影を踏んづけていたからなのかもしれない。
 すると急に、この部屋が一変してエントランスへと成り代わる幻想に襲われた。薄暗い黒から、目のチカチカするほど明るい我が家へ。私とフランが動かずとも、景色はめまぐるしく変わっていった。早苗の言っていた、えいがのようだ。オモシロイ。
 しばらくぼぅっとして景色を楽しんでいると、フィルムを巻く音がチリチリと脳を刺激してエントランスを映し出した。

 ゴミ屋敷としか言葉が出てこない。白いモノや黒いビニール、果ては黄色に染まった湿潤なシーツまで積み重ね折り重なっていた。
 フランの後ろに人影が見える。それは小さく、それでいて万人を寄せ付けない気迫に満ち満ちていた。拾ったモノを積み上げ、死体を積み上げ、食べ残しを積み上げ、排泄物まで積み上げているのではないかと思う程に、甘ったるくそれでいてこめかみに釘を打ち付けられたかのような痛みを覚えさせられた。鈍魔する意識の中、不可解で不思議な臭いが頭をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
 ふと、お姉ちゃんが乱雑に掴んだ、死体を瞳に焼き付けた。

 死体。
 誰かの死体。

「お姉ちゃん!」私は思わず声を上げていた。ひき止めようとしたわけではない。何故か、見つけたその背中が懐かしくて。抱きついたときに、ポキリと折れてしまいそうな細い体に腕を回して、ふわりと広がる薔薇のようなクラクラする甘美な匂いと柔らかな服を皺くちゃにして体温を絡めたあの感覚が戻ってきて。昔どこかに無くしてきたものが手に入ったような気持ちを覚えて。「お姉ちゃん。お姉ちゃん!!」私は叫ばずにいられなかった。それは喉が拉げて、締め上げられて、微かに漏れる吐息のようだった。叫んだつもりだったけれど、つもり≠フまま。もし今お姉ちゃんが振り向いて私に気づいたとしても、どんな顔をして会えばいいのかわからない。なんて声をかければいいのかわからない。
 心臓からじくじく油のようなものが漏れ出して、全身へ廻っていく。思考は滝のように襲い掛かって止まらないのにそれを口にできずにいる。歯がかみ合う音は不規則で、座っているのに膝は疼いていた。腕が攣ってしまうほどに前へ突き出して、動かないフランの向こう側へと手を伸ばさんとする。


 なんてこと。
 その事実に気づいて、今すぐにでも自分を殴ってやりたかった。壁に頭を叩きつけて、膝から下を捥いでやりたい。
 私は、お姉ちゃんに。
 今すぐにでもお姉ちゃんの所へ駆け出してしまいたかったのだ。




「お姉ちゃ――!」
「こいしッ!」
 叫びが悲鳴へと変わる直前になって、フランが私の肩を揺すっていることに気づいた。
 ふっ、と指先から意識が離れていく。うすらぼんやりとした意識と部屋の中で、赤い瞳が不安げに揺れているのを見た。
 ああ、戻ってきたのだと思う前に。「こいし?」フランの言葉を聞き取る前に。
「ぁ、ああ、あああああああああああああああああああああぁぁぁああ――――――!!!!」
 さざ波のように寄せては返す、ゆらゆらとした気持ちが。心に灯った小さなわだかまりが広がっていくのを感じて。
 次には、引っ掻く程の音が叫びとなって、声にならない声で泣いていた。悲しかった訳ではない、辛かった訳ではない、寂しかった訳でもない。ただ、ただ、ただ。
 洪水のように押し寄せる想いに耐え切れなくなっていた。体中がぶるぶる震え、喉が言葉を捜している。自身を掻き抱くほどに、その感情は強くなっていった。頭で整理ができず。思考をそのまま口にする。駆け出さんとばかりに疼きだす膝を殴って黙らせた。誰かの手が伸びて、肋骨をすり抜け心臓を捻り潰すほどに強く、強く掴まれた。

 私の体は妖怪に支配されているのだろう。
 この妖怪の名前を私は知っている。

 妖怪の名前は愛というんだ。







 ■







 大昔の話をしよう。


「大切なものは捨てられないの」
 おぼろげな回想の中を泳いでいた。
 ぼんやりとした思考が風に揺られてふわりふわり漂っていた。私は木の下に座って空を見ている。薄い雲が空一面に広がった曇りの日。頬にピタリと張り付く花びらは淡く儚い色をしていた。緩いピンク色。
「大切なものを捨てなければいけないという決まりはありません。もしもそれがたくさんありすぎて、部屋を埋めるようになったとき、自分はこれほどまでに愛されているのだということを、理解しなければいけません」
「愛されている?」
 オウム返しのように、単語だけを反芻すると、いつの間にか正面に立っているピンク色をした覚りは柔和な笑みを浮かべて頷いた。
 言っていることの意味がわからなくて、今度は自分から問いただす。「愛されているって、どういうこと?」
「……大切なものとは、見つけるものであり拾うものであるのと同時に、貰うものでもあるからです」覚りはつらつらと言葉をしたためていく。「贈り物にどれだけ愛が籠もっていようが小指の爪の皮ほども籠もっていなかろうが、それは確かに受け取ったものです。受け取った側は、捨てられないという義務感に取り付かれていく」
 そしていつかは、取り殺されるのです。
 最後にそう付け足して、覚りは肩でくるくると舞う花びらを一枚掴み、私に手渡す。
「私は今貴女に贈り物をしました」花びらを指差して、「花びら一枚ですが、私の心が籠めに籠められた一枚です。……でも、これだけなら貴女は捨ててしまうでしょう。なんだこんなもの、と捻り潰して土に還すでしょう。だけど、もしここで貴女に可愛らしい櫛を贈ったとします。そうしたら、大切なものと認識して、大切な箱の中に入れて、大事に取っておく。……」
「そうじゃない。生きているモノは朽ちるのが怖いから」私は咄嗟に口を開いていた。反論するわけではないし、覚りの理論が気に入らないわけでもなかったけれど、どうしても言わずにはいられなかったのだ。「だから、最初から廃れたものとか、朽ちたものとか、無機物とか、死体とか、――そういうのが、捨てられないだけ」
 何度も何度も何度も見てきた。生きて、生きて、噎せ返るような生≠散らして朽ちていく人間を、動物を、妖怪を――覚りを。

 私は次第に、イキモノと触れ合うことが苦になっていた。出会うひと全ての印象は、『このひともいつか死ぬんだ』という裏切りにも似た感情を湧きあがらせた。死なない、死ぬとしても、きっと天寿を全うして死ぬよ、という声は全て水疱に帰した。覚りは私の前で殺されていくのだ。きっと、たぶん、目の前にいる覚りも。
 私だっていつか死ぬのに。
 そこには依然としてご都合主義が鎮座している。
「貴女も死ぬんでしょう……?」
「ええ。死にます。老衰か事故か殺人か自殺かわかりませんが、いつか死にます。無残な、語ることも騙ることもしない骸となります。貴女の好きな、死骸に」
「――ッ」
 不意に。
 頬へ一本。水が伝わるのを感じた。
 雨が降っているのだと思った。
 空を見上げたまま、押し黙る私を覚りはそっと抱きしめた。
 クラクラする薔薇の香りが神経を巡り巡って行く。ぐるりぐるり廻っていく。
「それでも最後まで、貴女と一緒に生きていたくなりました」
 彼女は耳元でそう囁いた。




「生きる?……」
「そうです。きっと、もう、この世に覚りは私と貴女ぐらいしかいない。二人で生きていきましょう」絡めた腕を離して覚りはじっと私を見つめる。死んだ瞳の奥には確かに紅色がたゆたっていた。
「私の妹になりなさい」

「ぁ……え」
「補っていくのです、二人で。支えあっていくのです、二人で。交代しましょう、貴女と私の役目を。貴女の望む朽ちたものを私が集めましょう。それが大きな屋敷のエントランスいっぱいになっても、ずっと集め続けます。貴女がいらないと言うその日まで」
「ぅ、そ……」
 声が出なくなるほどに雨は頬を濡らして、首筋に伝わる冷やっこい感触に肩をすくめる。唇を雫が這って、味覚が訪れた。

 嘘だと思った。
 嘘だと思わなければやっていけなかった。
 繰り返された過去を踏みにじってまで、ぼんやりとした灯りに手を伸ばすのが怖くて。
 また裏切られるのではないかと思って。
 またひとりになるのではないかと思って。

「私は嘘をつくのが下手です。覚りですからね」
 だが私の心は焼けるほどに、言葉を一文字足らず刻み込んでいた。
 これが運命というものならばきっと信じてしまうほどに。
「私にはもう見えないけど」
「しかし、第六感は研ぎ澄まされている。それが危険信号を発していないのなら、私はとりあえず合格といったところでしょうか」
 彼女は抑えきれない衝動を行動に塗り替えた。左手の小指を、そっと私のと絡ませる。
「貴女を裏切りません。これから、その約束をしましょう。契りをしましょう。今日のことを忘れないために」
 何が約束だ。
 何が契りだ。
 何が、忘れない、だ。
 きっと明日には忘れている。身を寄せ合って眠りこけた次の日には、奇異の目で私を見るんだ。
 このひとはただ仲間が――同じ泥水を飲むような仲間が欲しかっただけ。それに当てはまるのが、私だっただけ。
 そこに愛はない。


 それでも私にだって繋がる何かが欲しかったのよ。


「もしも私が約束を破った日や、約束を忘れた日には、この小指を噛み千切りなさい」
 絡んだ小指をきつく繋いだ。繋ぎ目が白くなるほどに、強く、強く。
 それがお姉ちゃんとの出会いだった。







 ■







「痛ッ……」
 ガサガサとがらくたを整理していると、紙で小指を切った。
 痛みを感じた数秒後に、じくりじくりと血液が張っていく。指紋をなぞるように、ゆっくりと。
 なんとはなしに見つめながら、私はいつまでこうしているのだろうかと思う。

 好きでもないのに。義務でもないのに。報われるわけでもないのに。いつまでこんな終わらないマラソンのようなことを続けているのだろうか。そこに私の意志はどこにもなかった。体を動かしているのは、どこからか拾ってきたちっぽけな使命感。心を食んでいるのは、どこからか拾ってきた妹の存在。
 何かを忘れているのではなかろうかとも思ったが、そんなことはないと頭を振る。今まで生きていくつ季節が廻ったかなんて覚えているはずもないけれど、膨大な過去の中で特に目立ったイベントなど片手で足りるのだ。それらは全て出会いと別れの物語のみで創られた、単調な平行線の物語。

 もうやめてしまえばいいのに。

 悪魔の囁きを私は無視した。聞き入れることを脳が拒否しているようだった。私の頭はそろそろ本当におかしくなってしまったのかもしれない。甘く酸っぱく苦く辛い刺激臭にやられてしまったのかもしれない。でもそうするように仕向けたのは私で、頭がおかしくなったのは本当のようだった。
「おねえ――ん――」
 ふと、あの子の声が聞こえた気がして、魚を素手でつかんだ後のように生臭いてのひらをスカートで拭いた。
 いつでも抱きしめられるように。
 一人でいるには寂しすぎる、美しいが居心地の悪い、狡猾でしたたかなエントランス。ゴミ広場に。
「おねえちゃ――」
 呼吸すらも苦しい密度の悪臭に、新鮮な空気を送り込もうと顔を上げれば、そこにはこいしの全てが――
「受け止めてぇぇええっ!!」
「わっ! わ、ぁ、ちょっこ、い」
 棒切れのように細い腕を掴んで抱きとめようとした。
 しかし勢いと私の筋力はどちらかというと勢いのほうが強くて。とどのつまり、押し倒される。
 ぐちゃ、と何かが潰れる音がして液体が染み出す。服が濡れた。
「お、お姉ちゃん――は――は――」
 まるでここまで全力疾走してきたみたいに、こいしは肩で息をして、灰色の髪の毛は首筋と頬にピッタリと張り付いていた。触れれば芳しく、それでいて毒のある危険な花の香りがする。
「おね、おねえ、ちゃ――」
 私はこの顔に見覚えがあった。
 そうだ、この子は、私が拾ったときも、こんな顔をしていた。
 あのときと同じ。笑顔の剥がれた、泣き出しそうな、耐えているような、全てを見限ったような、死んだ瞳。
 怠惰に生きている私と同じように。
 汚らしい薄汚れた手を取って、穢れが蓄積された体を絡めて、生きることにしがみついた。こいしには姉が出来て、私には妹という存在が出来てしまったのだ。このまま呆気なく死んでしまえば、生きることを諦めたら、片割れが屍に喰らいつくだろう。どうにもならない感情をこねくり回して――矛先を死体に向けるだろう。
 だからなかなかどうして生きていけるというものだ。
「お、姉、ちゃん」
「……はい」
 ゴミというゴミの中に押し倒されて、私は身動きが取れずにいた。これは何の匂いだろうか。甘いような酸っぱいような……ツンと鼻を刺激して、脳天に木槌を打ちつけられたような頭痛に襲われる。このまま瞳を閉じてしまえばきっとどろ沼のように沈む気がした。腕も、脚も、節々も痛みを訴えている。
「ゆ、ゆび、」
 こいしは私の上に馬乗りになったまま、唇をわなわなと震わせてどうにか言葉を紡ごうとしていた。緑がかかった、私と同じウェーブした髪がはらはらと舞っている。その間からのぞく首筋は、得体のしれない磁力を放っていた。腕を伸ばして今にも首を絞めてしまいたい衝動に駆られる。
 今まで見たどのこいしよりも美しくて、思わず手を伸ばした。背筋を舐められる感覚を覚える。戦慄しているのだ。
 この状態から彼女を抱きしめることが出来ないのが、たまらなく悔しい。
「も、もう、いいよ。もう、いい……」
「……?」
 はて、どうしたのだろうと思考が脳をぐるっと一周する前に、こいしは私の左小指を口に含んでいた。今さっき紙で切ってしまったところだ。
 舌のざらざらとした感覚さえも私を興奮させる材料に他ならなかった。切れ目からのぞく柔らかそうな肉を舌で穿り返されるたびに、ゾクゾクと快楽が足の裏から駆け上がってくる。こいしはそこに尖った犬歯を立てた。
「っつぁ……!?」
「ん……ちゅ、く……」
 毛細血管を突き破り、ときどき噛む位置を変えながら、それでも骨をもらった犬のように私の指を手放さない。
 皮がぺろりと剥がれた、むき出しの肉を舐められる。ぺろぺろ。乳を強請る子犬のよう。たまらずあふれ出る血液と、ぬめぬめとしたこいしの唾液が絡まって、私の頬にパタリと落ちた。ざらついた舌が慰めるように舐めてくる。口内でびくりと震えた。
「あっ……、こぃ、し……」
「おねえひゃん。おねえひゃん、もうひひよ」
 こいしの瞳は、何かを伝えようとする辛辣な色をたたえていた。私に対しての懺悔のようでもあり愛の告白のようでもあった。私はどちらの気持ちも掬うことができず、ただただこいしに指を食われていく。
 どんどん溢れてくる血液を舌で転がし、指先は唾液でふにゃふにゃと皺になる。それ以上に押し寄せる痛みがあまりにも酷くて、気を失いそうだった。
 ゴリゴリと磨り潰す音がする。ああ、ついに骨まで行ってしまった。
 痺れるような眠気に誘われて瞳を閉じる。混沌とした匂いに混ざって、どこか遠くの記憶が舞い戻ってきたような気がした。
(――「もしも私が約束を破った日や、約束を忘れた日には、この小指を噛み千切りなさい」――)
 あ。
 そうか。そうだったのか。
 私は忘れていた。大事なことを忘れてしまっていた。忘れてしまわぬように張った線をいつの間にか通り越して、こいしを置き去りにしてしまったのだ。
 なんて無責任な姉だろう!
 交代しようと言ったのは私だ。約束しようと言ったのは私だ。終わらせたいとき、こうして噛み千切れと言ったのも私だ!
 ゆっくりと瞼を開ける。相も変わらないゴミだらけの空間が歪んで、プレゼントの山に見えた。可愛いクマのぬいぐるみ。柔らかで暖かい毛布。甘い甘いバターたっぷりのクッキー。喉を潤す美味しい紅茶。笑い合える楽しいペットたち。
 そして、目の前で笑う愛しい愛しい我が妹。
 欲しがったのは私で。
 与えてくれたのはこいしだった。

 私たちは絶対に守れない約束をした覚えはない。
 守るために約束をするのだ。保険に保険をかけて、大事に大事にしまっておいたのに。
 私はそれに気づけなかった。忘れていた。踏みにじっていた。こいしはもう、壊れてしまったのだと勝手に勘違いをして、すれ違うたびに彼女自身の所為にした。私がこうしてがらくたを集めるのも、そして止められないのも、こいしの所為だと。そこに、私の意志はないのだと。
「っは、ぁ……、は……こいし。こいし。こいし」
「お姉ちゃん……?」
 考えにたどり着いたとき、どうしてか涙が止まらなくなった。無我夢中で泳いで、結論という名の島にたどり着いたら、もうあとは眠りこけるだけで。
 今までごめんなさいと言おうとしたのに。
 口を開いた瞬間、関を切ったように涙が溢れてきた。


 ありがとうやごめんなさいなんて、私たちにとっては今更で、滑稽にも程があるから。
 こいし。こいし。
 ありがとう、
 ごめんなさい、


「愛してる――ッ」






 ■







 ぐるぐるに巻かれた包帯を見越して窓を見上げると、こいしが物珍しそうな顔でこちらを見ていた。
「おはようお姉ちゃん」
「おはよう。……皆は?」
「後片付け」
 相変わらず主語のない物言いに頭がもにょもにょする。
 形容し難い表情をしていたのか、こいしはにししと笑って「エントランスの」と付け加えた。
「そう。悪いことをさせたわね」
「悪いこと? 確かに、皆はお姉ちゃんの行動に戸惑っていたけれど悪いことだとは思ってないと思うよ」やけに透き通る声をしていた。「私のためだもの」
「う……。い、いや、まぁ。その、間違ってはいないです」
「でしょーう? くすくす。くすくす。お姉ちゃん、可愛い」
「こいしも可愛いですよ」
「わーい」
 じゃれつくついでに押し倒されたので、そのままベッドに倒れこんだ。
 こいしはまだくすくすと笑っている。私は仰向けのままこいしの襟首を引っつかんで強引にキスをした。
「わぷ……ん、ちゅ」
「……ふっ、……は」
 歯の隙間まで舌を這わせられる。上から攻めてくる舌を苦もなく受け入れて、唾液の混ざり合った液体が唇の端から零れ落ちていった。余った分は泡となり、口の中でぶくぶくと空気を吐いている。こいしは顎から垂れる私のものを指で掬い唇に貼り付けた。
 はぁっ、と水中から顔を出したときのように呼吸のし辛い、口の中にあった空気全てを吐き出すような声が漏れる。
「これも契りです。一種の契約みたいなものです」
「私は同意してない」
「一方通行ですね。悲しい」
 そこまで悲しくもないが、そんな演技をしておこう。
「貴女が噛み千切ったこの指も、――言えばぶーたれると思いますが――一方通行の契約破棄だったということです」
「ぶー」
「ほらね」
 私が笑うと、口端から唾液が垂れた。こいしは嬉しそうに、それをちゅうちゅうと音を立てて吸う。
「お姉ちゃんは、なんでそんなに約束を大事にするのかなぁ?」
 ニタニタと笑いながらこいしは意地悪をした。
 私は大きく咳を一つ落とす。
「約束は守るものですからね。それを守らねばならないという義務感に取り付かれます。そして――」
「そしていつかは取り殺される。でしょう?」
 その台詞、どこがで聞いたことがあります。と言うと、お姉ちゃんの言葉を拝借致しました。なんていたずらっ子よろしく舌をべーっと出しながらこいしはまた意地悪をする。
「ま、そういうことです。契りに使った小指も今は貴女の体の一部になっているようですが」
「いい響き。私とお姉ちゃんの愛の結晶」
「たわけ」
 何とはなしに包帯で巻かれた、今は亡き我が小指があった部分をそっと撫でた。そこに形はないけれど、こいしがそこにいる気がした。
 これでいいのかもしれない。
 いや、むしろ、これでいいのだと思う。

 私たちはいつになっても、断ち切ることのできないモノで繋がれるのを嫌うから。
 傍にいればいい。
 隣にいればいい。
 ひねくれ、折れ曲がり、ひしゃげ、かき混ぜ、千切り、また繋ぎ合わせた、私たちの愛。
 もう失うことはないだろう。
 最も失ってはいけないものを、私は妹から噛み千切られたのだから。

「さて、そろそろごはんにしましょう。何が食べたいですか? また昔のように、みんなで鍋でも――」
「お姉ちゃん」
 初めて見る表情だった。
 泣きそうに顔をくしゃくしゃにして、笑いたそうに唇を吊り上げる。
 それはありがとうでも、ごめんなさいでも、愛しているでもなく。

「おかえり」






 ただいま。
ゆびきりげんまん うそついたらはりせんぼんのーますっ ゆびきった



初めまして赤間といいます初投稿です。嘘です。
元赤犬です。改名しました。なんかワン●ースに同じ名前がいてみるたびに吹くとか言われたので。
よろしくです。
赤間
作品情報
作品集:
19
投稿日時:
2010/08/16 14:00:05
更新日時:
2010/08/20 11:32:12
分類
こいし
さとり
1. おうじ ■2010/08/17 00:06:49
深いなあ…と思って読んでたのにあとがき(ワン○ース)でふいた
2. 村崎 ■2010/08/17 18:04:43
非常に精緻で綺麗な文章を書かれますね
「覚り」であること、姉妹の関係、うまく絡めて書き切っている作品でした
名前 メール
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