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『グレイゴースト』 作者: sako

グレイゴースト

作品集: 21 投稿日時: 2010/10/23 20:24:16 更新日時: 2010/10/24 05:24:16
 シヴァ女王の瞳を思わせる冷たい灰色の月が浮かぶ夜天。
 暗幕にそれ以外の飾りはなく、星の瞬きは見えない。
 その伽藍堂の内側、風は強く、気温は低く、空気は薄く、水平線の彼方まで広がる灰色の海の上を一艘の船が進んでいた。





 船は木造。帆を張った中型の和船だ。四角い帆に強く風を受け、ぴんと張られたロープと極力鉄釘を使わず組み上げられた船体がその力に軋み声を上げている。まるで滑るような速度で波間を進んでいる。流線型の舳先には波が強く打ち付け、しぶきを…あげてはいない。

 波が打ち付け爆ぜる音も、海洋のうねりもこの“海”にはなかった。静かな海なのだろうか。否。海面にはさざ波さえも立ってはいない。
 突き進む和船の舳先が割いているのは波ではなく、霧のような薄もやだ。船が進む度に薄もやが舞い上がり風に飛ばされ霧散していく。細かな水の粒子だ。ならばこの海は暖かな内海へ冷たい外海の水が流れ込む入り江の様な場所なのだろうか。いいや、それも違う。この船以外に無限に広がる海原に船の姿はなく、灯台の明かりも見えず、がぁーがぁーと不気味な声で鳴く海鳥の翼もない。

 代りに海上を飛んでいるものと言えば、船から離れること数キロ、鋼鉄の翼を持った飛行機…ボーイング757だ。

 そう。ここは海の上ではない。その遙か上。地上を睥睨する天の高み。地上一万メートルの上空。船は雲海に浮かんでいるのだった。










――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










「ごめんなさい、こんな仕事に付き合わせちゃって」
「いいんですよ。気にしないでください」

 その船の後部にある船室。広さだけを見れば六畳間程度、けれど壁と一体化した棚や羅針盤、車輪を思わせる舵で人二人程が入ればもう一杯の狭苦しい部屋に村紗水蜜と雲居一輪&雲山の三人はいた。ムラサは羅針盤の針を時折確かめながら船の舵を操り、一輪は背もたれのない折りたたみの椅子に腰掛けムラサの背中を見ている。雲山はその頭の上辺りに浮かんで外の景色を眺めているようだった。



 三人は今、寺の仕事で幻想郷はもとより日の本の国を離れて華の国へと向かっている。さてはどんな重要任務をおびているのかと言えば、なんてことはない。寺の資金集めと信者同士の親睦を兼ねた食事会を開こうという話になり、その話題作りとして聖が封印される前によく寺で食していた精進料理を皆に振る舞おうということになったのだ。けれど、何せ聖の封印前と言えば数百年以上も昔の話だ。その時の苦楽を分かってもらおうと精進料理はなるべく当時と同じ食材を使って作りたいところ、とそういう話になったのだが、食材のいくつかは何かと物資が不足しがちな幻想郷は元より、今の日の本の国では生憎と手に入りにくいものがある。よく似た食材を代りに、という話も持ち上がったのだが、せっかくだから出来る限りの努力はしよう、と三人は許可を得て今なお幻の食材が手に入るかの食の国を目指して海を渡っているところなのである。

 食材が手に入りそうな場所自体はナズーリンがペンデユラムとウイジャ盤、それに地図を使って調べ上げていてくれるので問題はないが、それでもこうして何百キロも遠い場所へ何万メートルの高さまで昇って行くのは大仕事だ。食材も現地に行って素直に手に入るとは思えない。その点を加味してムラサは一輪にすいません、と謝ったのだ。
 もっとも…

「他ならぬ聖の手料理が食べれるという話なのですから、私は何の苦も憶えていませんよ」

 えっへん、と胸を張る一輪。そ、そう、ありがと、と何処か引きつった笑みを浮かべながら応えるムラサ。
(い、言えない…実は料理を作るのはナズーリンと星だってことは…!)
 用事で催し物の内容を決める会議に出席できなかった一輪とは違い、食事会の詳しい内容を知っているムラサは古くからの同士、親友と言っても差し支えがない仲間を騙しているような気分になって、嫌な汗をかいた。


 と、ムラサが遙か遠く、船からみて右の方に視線を向ければボーイングは地平線の彼方、僅かに両翼や尾翼に見えるライトの輝きを残し殆ど見えなくなっていた。船との距離はどんどん離れていっているようだ。向きからしておろしあ国に向かっているのだろうか、とムラサは思う。

 幻想郷から外の世界へ出ること自体はよほど危険視されている人妖でない限り問題はないが、それには一つ、絶対のルールがあった。“外の世界の住人に幻想郷の存在を知らしめてはならない”というものだ。これはもちろん、安全管理のためでムラサたちも幻想郷で寺を興すさいに八雲紫…ではなくその式、八雲藍から耳が痛くなる程言い聞かされた。まぁ、当然と言えば当然のルールだ。外の世界で失われつつあるものが流れ着く幻想郷。それが外の世界の連中に知られてしまえば存在意義自体が揺らぎかねない。
 今はまだ、事を荒立てる気はないと考えた聖は飛倉の破片、そのまた破片を使って作った小型星蓮船に更に不可知の法術をかけ三人を外の世界へ送り出したのだ。
 ムラサは聖の力には絶対の信頼を持っていたが、逆にそれに任せっきりになることを警戒し自分の危機管理が甘くならないよう、石橋を叩いて渡るような慎重さでボーイングの様子をうかがっていたのだ。

 そうして、地平線の向こうに翼の輝きさえも消えて、ムラサはふぅ、とため息をついた。向こうから姿が見えなくても消えたわけではない。近づきすぎれば“眼”のいい人間に見つかるかも知れないし、ぶつかればそれこそ大惨事だ。その危険も去り、安堵のため息を漏らしたのだ。

「人類も進歩したものね」

 飛行機が消えた東の空を眺めながらムラサはぽつりと漏らす。

「私が人間だった頃は海に出るのも一苦労だったのに」

 もう、何百年も前の話だ。当時、人の交通移動の手段と言えば陸上なら馬や駕篭、海ならば木造の船だけで、空を飛ぶなんて夢のような話だった。いや、地上でさえ山を越えるとなれば一苦労で、太洋を渡るなんてことはそれこそ決死の大冒険だった。そう考えれば数百年の時の流れと人類の進歩は偉大である、と船乗りの性分か、何かと乗り物については興味があるムラサは感慨深く思う。

「まぁ、私たちもこんな高いところへは聖の船がないとこれませんけれどね」

 そう言いながら一輪が湯気が立ち上る取っ手のないカップを差し出してくる。ありがとうといってムラサは受け取り、一口戴く。砂糖たっぷりで甘く温かい紅茶だった。寺から持ってきたのだろう。寺を出発してから数時間、飛行機が併走していたせいでずっと舵を握りっぱなしで疲れていたムラサの体にはとてもありがたかった。息を吹きかけ冷ましながらちびちびと飲む。

「確かに。私、飛ぶの苦手だから。一輪はそうでもないんじゃないの?」
「いえ、そんなこと無いですよ。頑張ればこれるかも知れませんけれど、雲山と一緒でも来るのが精一杯ですね。聖やあの居候している鵺なら余裕なんでしょうけれど」

 幻想郷の少女たちは空を飛べると言ってもそれは自由自在にではない。走ったり泳いだりするのと一緒でやはりムラサのように飛ぶのが苦手で余り高く、余りは約飛べない娘もいるのが事実だ。基本、飛翔能力は自身の力に比例するが諏訪子のように力は高いけれど飛行は苦手、というキャラクターもいる。

「でも、寂しい場所ですね、ここって」

 窓辺により、外を眺めながら呟く一輪。窓の外には相も変わらず冷たい月と暗い夜空、灰色の雲海が広がっているだけだ。風景に代わり映えはない。先ほどまでは飛行機が併走していたが今はそれさえもない。一時間後、窓の外を眺めても同じ風景が広がっているだろう。

「寂しい場所ね。ああ、そうか、どこかで感じたことがあるって思ってたらそうだ」

 一輪の言葉に続けて口を開くムラサ。飛行機はもう去ったため、舵を固定し休憩するよう壁にもたれ掛かりながら紅茶を戴く。

「何です?」
「海、に似てるんだよ。それも陸から離れた沖合。うん、確かにこの代わり映えのしない何処か寂しい風景はあそこに似てる」

 記憶に辛うじてこびり付いている生前に見た風景を思い出しながらムラサは説明する。一面の青い海(灰色の雲)と空。波(気流)に揺れる船。海鳥(飛行機)の一つも見かけない孤独な場所は確かに海の上と一緒だった。
 最早、顔も思い出せない船員たちや港で出迎えてくれる人々、けれど、死んでも忘れようのない潮の香りを思い出しながらムラサは想い出に身を浸し、紅茶の味を楽しんでいた。

「そういうものですか。もっと、地上に近いところを飛べればまだ、風景が変わって面白いんでしょうけれど」

 飽きてきたのか、一輪はそんなことを言う。けれど、それを小馬鹿にするようにムラサは鼻で笑った。

「びしょ濡れになって雷に打たれたあげく墜落してもいいなら高度を落とすけど」

 悪戯っぽく片目をつぶってみせるムラサ。
 船がこんな高いところまで昇っているのは伊達や酔狂ではない。分厚い灰色の雲の下、地上は今、激しい雨が降り注ぎ稲光が輝く嵐に見舞われている。あの激しさではいくら聖の加護を受けているとはいえ、こんな小舟ではムラサの言葉が冗談ではなくなるだろう。その危険を避けるため、ムラサはこうして船をこんな高々度まで上げてきたのだ。ムラサの言葉の意味を理解し、いえいえ、と首を振るう一輪。

「まぁ、雲山は喜んでいるみたいですし、こういう代わり映えのない風景もいいかもしれませんね」

 雲山がいつものいかめしい顔面ではなく、きもち表情を綻ばしているのは退屈な風景のせいではなく一面に広がっている雲のお陰なのだが、一輪はそんなことを言った。

「どうせ、まだまだかかるのでしょう。のんびり行きましょうよ、のんびりと」

 そうだね、と一輪の言葉に頷くムラサ。飲み終えたカップを一輪に返し、舵へと向かう。

「………」
「………」

 また、船内に沈黙が広がる。代わり映えのしない風景同様、船の中も飛び立ってこの高さまで辿り着いてから同じような雰囲気がずっと続いていた。誰も彼もがどうにも居心地の悪さを憶え、会話が弾まず自然と途切れてしまうようなほの暗い雰囲気が。

 そのせいか飛行機は去り、今のところ後はまっすぐ飛ぶだけにもかかわらず、ムラサの顔は少しだけ険をおびていた。まっすぐ前方を見つめていては、時折、思い出したように無垢の月を眺めている。

「どうかしたんですか?」

 一輪がそう声をかけてきた。ムラサの様子に心配して、というよりはこの嫌な空気を壊そうとして無理矢理に話題を作ろうとした感じだ。けれど、ムラサもそれがありがたかったのか、うん、と言葉を返す。

「月が、なんていううかね」
「お月様ですか」

 二人して空を見上げる。天蓋のほぼ中央に月は座していた。
 のっぺりと灰色をした丸い月はまるで夜空に開けられた穴の向こう側が覗いているみたいだった。じっと眺めていれば、その“向こう側”から何者かが覗き返してくるような、そんな妄想を思い浮かべずにはいられない不気味さが今夜の月にはあった。

「あの月…昔、何処かで…」

 そして、ムラサはそれ以上にあの月には既知感があった。あの太洋と同じ、代わり映えのない風景が続く雲海と違い、ただの一度だけ垣間見たような。記憶の細い糸を辿りながらムラサは人間だった頃を思い出す。

(そうだ、アレは確か…)
「うわっ、嫌なことを思い出した」
「なんです?」
「あの月、どこかで見たことがあるなーって思ってたら、うん、確かに前に一度見たよ。その後起こった出来事がインパクト強すぎて忘れてたけど」
「その後と起こった出来事ですか」

 そう、とムラサは頷く。
 暇つぶしにはもってこいの昔語りだ。一輪が興味深そうに顔を寄せてきた。
 あれは、と語り始めるムラサ。









――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








 あれはもう何百年も昔、ムラサがまだ人間で船乗りとして多量の物資や人を運び、それで日々の生活を賄っていた頃。ムラサは自分たちが拠点として使用している港町で仕入れた物を海向こうの国へ売りに行ったその帰り道での出来事だ。


 あの日、ムラサの部下である船員たちの顔色は一様に優れていなかった。
 船酔いしたわけでも積み込んでいた保存食が腐っていたわけでもない。皆、気が立ち暗い顔をしているのは貿易が失敗したからだ。
 
 大枚を叩いて仕入れた物の多くが売りに行った先ではロハに近い金額でしか売れなかったのだ。片方の港で仕入れた物を別の港で売りさばき、そこで得た売価でまた特産品などを買ってまた別の港で売り、その際に発生するマージンで利益を得ているムラサたちにとってこの失敗は痛手だった。乗組員とてただで船を操っているわけではないし、船自体も金をかけず永久に動くはずもない。細かな点検や整備にもお金が要るのだ。

 売り上げが悪くて喜ぶ従業員がいるはずもない。
 船の中の雰囲気はすこぶる付で悪く、殺気だった空気が充満し、些細なことで諍いや争いが始まった。船長のムラサを始めとする監督役はそれを収めるために四苦八苦し、そのストレスが部下に伝わり、また船の空気が悪くなるという悪循環に陥っていた。不幸中の幸いだったのは海の様子だけで、なんとか予定通りに帰港だけは出来そうだった。




――あの船に出くわさなければ。




 陸から離れて三日目。残り一日で拠点にしている港に帰れるとなったその日の夜。夜天には丸いお月様が浮かんでいた。灰色の見る者を不安にさせる嫌な感じの月だった。


 その日の晩は酷く冷え込み、霧も出ていたので見張り番には暖かくするよう、それと同じぐらい注意するようムラサは船員に言い聞かせた。

 問題が起こったのは多くの船員たちが寝静まった深夜だった。霧の向こうから近づいてくる船があるとムラサはたたき起こされたのだ。

 深夜とはいえ、この海路を走っている船はムラサたちが乗る船だけではない。他の船に出くわすこともあるだろう。規定通り、向こうにもこちらの存在を告げて安全に航行しろ、とムラサは寝起きと船の空気の悪さから苛立たしげにそう命令したが、見張りの船員はそれがですね…と口ごもった。
 部下の反応に訝しげに眉をひそめるムラサ。考えてみればおかしな話だ。ムラサの船に乗っている部下たちはみんなベテランだ。夜中に別の船に出くわしたからといってわざわざ就寝中の船長を起こすような真似はしない。現場の判断だけで的確に判断するだろう。それをそうしないということは…
 
 そこまで考えムラサは船の雰囲気が何処か物々しい事に気がついた。夜中だというのに船の中を走りまわる足音。ざわめき声。そういったものの総括。この雰囲気は何度か味わったことがある。ムラサたちのような貿易船に対して略奪行為を働く海賊に出くわした時のものに近かった。
 
 まさか、と見張り番の肩を掴んでムラサは海賊がでたのか、と問いかけた。けれど、見張り番はいえ、と首をふるうばかりで要領をえない。兎に角、見に来てください、と手を引く見張り番に促され、ムラサは甲板へと駆け上った。

 甲板には既に多くの船員たちが出てきていた。寝起きの者も多いというのに皆、一様に不安と緊張がない混ぜになった様子で船の進行方向を見ている。
 どうしたんだ、と言うと船員の一人が説明するより見てもらったほうが早いです、と前方を指さした。

 その方向にあったのは報告にあったとおり船だった。ムラサたちが乗っている船の三倍はありそうな大きな船だ。ムラサたちが活動している辺りではあまり見かけない三角の帆を張った船で、外国のものであろうことは容易に想像できた。えすぱにあ国やぽるとがる国の船があんな形だったな、とムラサは昔、少しだけ見かけた異国の船を思い出した。
 
 けれど、ムラサの記憶にある異国の船と今出くわしたこの謎の船とは一つ、大きな違いがあった。
 記憶にある異国の船は長旅を終え遥か極東の島国にたどり着いたというのに新造同様の輝きを持っていたのに対し、今夜出くわした船はまるで何百年も使い続けられていたように朽ち果てていたのである。
 
 船体には船体には腐りかけた藻や白骨死体を思わせる藤壺が張り付き、張られた帆は長い年月を風雨に晒され続けたのか穴だらけでまるで怨霊が纏う死衣を思わせた。マストには擦り切れたロープが垂れ下がり、樹上から獲物を狙う蛇のように風に揺れている。
 
 難破船か、とムラサは思ったがどうやらそうでもないらしい。船の舳先、翼を失い堕天し悪魔に成り果てたように崩れかかった女神像の手には今も明々と輝くランプが握られている。夜間、衝突を避けるための警告灯だ。乗組員が死に絶えた難破船ではそんなランプを灯すものもいないだろう。

 ムラサは見張り番を呼びつけ、連絡はとったのか、と尋ねた。
 無線機などないこの時代、遥か遠くにいる船にこちらのことを伝えるには日中なら手旗信号、夜間ならカンテラを使って相手に連絡をとる。
 見張り番ははい、もちろんです、と応えたがですが、とそこに続け、反応がなかったんです、と悪いのは自分ではないといった風に事情を説明した。

 なるほど、あの船なら乗組員は日に焼けた赤い肌と青い目をもつ異国の住人だろう。言葉が通じないのと同じく、カンテラの明かりを使った連絡も通じなかったのかもしれない。そのことをムラサは見張り番に追求する。けれど、やはり見張り番はいえ、と首を振った。

――何をしても反応がないんですよ。

 そう信じてくださいよ、と説明する見張り番。
 それもどうやら嘘ではないようだ。
 今もなお、船員たちはカンテラを手に何とか進路が重なっていることを相手側の船に伝えようと闇に向けて光を放っている。けれど、あの正体不明の異国の船からは何の反応も返ってこない。ただただ、女神像の手のランプが風に揺れているだけだ。

 その後も汽笛に使っている法螺貝を吹いて、反応を伺ったが結果は同じだった。どうしましょう、とムラサに注目が集まる。

 取り敢えず、偵察をだそう、とムラサは皆に命令した。
 船があの有様では本当に難破船かもしれない。反応がないのは船員が死に絶えたか、栄養失調や病気で床に伏せて動けなくなっているからかもしれない。ほうっておくことも考えたが、いくら異国の船とはいえ共に海を行き来するもの同士。見捨てるのは目覚めが悪い。

 ムラサたちは小舟を用意すると腕っ節と度胸に定評のある五人を選び、彼らを異国の難破船に向かわせた。幸いにも海は霧が出ているが穏やかで、風もほとんどなく船は止まっているも当然だった。




 偵察隊を見送ってから数分、難破船の甲板からランタンの光による信号があった。偵察隊が船にたどり着いたのだ。偵察隊には何があってもすぐに戻ってくるよう命令してある。暫く待っていると、ランタンの光が瞬き偵察隊から『誰もいない』というメッセージが届いた。つづいて、『すごい物をみつけた』とのメッセージも。

 すごい物? ムラサたち、船に残ったメンバーは首をかしげる。あんなボロ船に何が残されているというのだろう。すっかり風化して使い物にならなくなった積荷か、極限状況で狂って殺しあった乗組員の死体が残されているのが関の山だろう。もう暫く、偵察隊が戻ってくるのを待っていたムラサたちではあったが偵察隊はなかなか戻ってこなかった。業を煮やし、『早く戻ってこい』と信号を送るムラサ。そこまでしてやっと小舟はムラサたちの船の所まで戻ってきた。

 けれど、小舟に乗っていたのは僅かに二人だけだった。
 どうしたんだ、とムラサが心配そうに訪ねると偵察隊の二人は気でも違えたのだろうか、にっこりと今まで見たことのないような笑みを浮かべた。

 ――それがよぉ、キャプテン、すごい物を見つけてさ、残りの三人はそれをかき集めるのに残ったのさ。
 
 にやにや笑いながらそう説明する二人。いかがわしさと苛立ちに、いいからそのすごい物ってのは何だ、と怒鳴るムラサ。可愛らしい見た目とは裏腹におっかなく容赦がないムラサの雷に他の船員たちは身をすくめたが、その二人は変わらず笑っているだけだった。そして、ムラサの怒りなど意に介さない様子で懐をまさぐり、そうして、

 ――これさ、キャプテン。

 取り出したのはこの暗い夜中でも目を覆わんばかりに輝いて見える黄金で出来た装飾品だった。首飾りや王冠、指輪、ブローチ。そのどれもこれもが金で出来ており金剛石や紅玉、翠玉といった様々な宝石があしらわれている。こんな装飾品には疎いムラサではあったがこれらがとんでもない価値を持っていることは容易に想像がついた。

 ――これ以外にも抱えきれないぐらい一杯、あったぜ。

 興奮冷めやらぬ調子で偵察隊の男が説明する。その興奮が伝わったのか、甲板に集っていた船員たちも口々にすごいすごい、と声を上げ、船はつい一時間前の陰気さは何処へやら。かつてない熱気に包まれた。

 ――キャプテン、こりゃ天からの恵みだ。小さい舟で往復してたんじゃ埒があかねぇ。この船をあの宝船に横付けして一気に全部、もらっちまおうぜ。

 そう提案する偵察隊の男たち。いや、提案ではない。もはや決定事項に近かった。早く行こうぜ、と他の船員たちからも声があがり、皆はすっかり貿易の失敗から立ち直り目の前の財宝の輝きの虜になっていた。

 ムラサは財宝を乗せた異国の船がこんな場所を難破船よろしく彷徨っているという事実に対し、疑問を憶えたが結局、銭勘定が勝った。

 そうと決まれば船員たちの行動は早かった。時刻は深夜でつい先ほどまで寝ていた連中も多いだろうに、丘の上で長い休暇を取った後のように皆は素早く自分の持ち場につくと船を動かし始めた。





 ――ヨーソロー

 船同士を接近させるというのは何かと危険が伴う仕事だ。逸る気持ちを抑え、ムラサたちは何とか自分たちの船の三倍は大きい宝船…既に船員たちの間では難破船ではなくこの名称が定着していた、宝船に接近する。

 日中の強い日差しと潮気を含んだ風に煽られすっかり色あせてしまった壁を間近に、ムラサたちは自分の船を宝船の船体に横付けする。
 そのさいに僅かに宝船の船体にぶつかり、ムラサたちの船が揺れた。立っていられなくなり、誰もが腰を落とした刹那、何か丸い物が頭上の宝船の甲板から落ちてきた。なんだろう、と拾い上げるムラサ。
 それは老人の横顔が描かれた黄金のコインだった。コインはずしりと重く、いかな鋳造技術なのか、髪の毛よりも細い筋が刻まれていた。これも途方もない価値があるのだろう。否応がなしに宝船に残っている財宝への期待が膨らむ。

 先行していた偵察隊の三人に宝船に乗り込むための縄ばしごを結わえ付けてもらおうと呼びかけたが返事はなかった。宝探しに夢中なんだろう、と誰もが笑った。仕方なく、フック付のロープを投げ、それを引っかけ、縄昇りが得意な船員を行かせることにした。

 船員全員が宝船に乗り込むことを望んだが、ムラサは用心のため半数を残すことにした。代りに宝は完全に山分けで猫ばばした奴は次の航海でずっと厠掃除の刑にする、と忠告。それで臆病者と面倒くさがり屋と引っ込み思案は折れてくれ、何とか十人程だけで宝船に乗り込むことが決まった。

 ロープを軋ませ、ムラサは宝船へと乗り移る。
 甲板の上も船の外壁同様、酷い荒れ具合だった。
 朽ちた樽。錆び付いた鎖。割れた窓に取っ手のない扉。そして、そんな光景の中、一際輝いて見える金のネックレスやペンダントが落ちている。我先にとそれを拾い上げようとする船員たちをたしなめ、ムラサは早速、船内の探索を始めることにした。

――それにしても先に行ったあの三人は一体、何処で油売ってるんだ。

 船を近づかさせ、甲板でこれだけ騒いでいるというのに呼ぶ声さえ聞こえないとは。よほど、船の奥深くまで足を伸ばしているのだろう。あの三人の捜索も仕事の内だな、とこの時、ムラサは軽く考えていた。





 帰ってきた偵察隊の言葉通り、船内は文字通り宝の山だった。
 朽ちた扉を開ければその先には黄金の装飾品が無造作に並べられ、木箱をこじ開ければ中に砂利のように大小様々な宝石が詰め込まれており、倉庫の南京錠を斧で壊せば中には金貨が山のように積まれていた。全部、自分たちの船に乗せてしまうと重みで沈んじまうぞ、と誰かが冗談を言ったが、あながち間違いではなかったのかも知れなかった。この大きな異国の船には本当に船室という船室、船倉という船倉に金銀財宝が詰め込まれていたのだ。
 船から持ってきた箱や袋にそれらを詰め込んでは運び出す作業が繰り返された。やがて、袋も木箱も足らなくなり、自分たちの上着を脱いでそれを風呂敷代わりに財宝を包み始めたが、それでもまだ足りなかった。財宝はとりあえず、と甲板に集められたがものの数十分でそれらは山のように積まれることになった。

 これだけあれば今回の取引の失敗を賄えるどころか、それをしてなお余りある程の財宝だった。ある者はこれで船を新調しよう。船員も増やしてムラサ大船団を作ろうと夢を語り、別の者はとりあえず帰ったら花屋町の遊郭を貸し切って酒池肉林の宴を開こうと提案した。他の者も口々に望みを語ったが、全てを叶えるには十分な財宝があった。

 誰も彼もが黄金と宝石の輝きに目を奪われ、狂喜にかられた。ムラサでさえ向こう数年は遊んで暮らせるな、と甘い考えを抱いていた。




 その

――ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!


 幻想を

――どうした!?

 打ち壊す

――待…うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!

 悲鳴が、あがった。





 財宝を運び出す作業が一瞬、中断される程の悲鳴が船内に響き渡った。皆は顔を見合わせる。断続的に脅えたような震える声が聞こえてきた。

 ムラサたちが驚き、叫び声のあった部屋に駆けつけるとそこには船員の一人が腰を抜かしたように床にへたり込んでいた。顔は血でも抜かれたように真っ白になり、心なしか髪の毛さえも色が薄くなっているように思えた。一体、何があれば度胸も腕っ節もある海の男がこんなふうに成り果てるのだろう。その異常さに誰もが言葉を失っていた。

――おい、お前、大丈夫か?

 真っ先に我を取り戻したムラサが怯えている男に声をかけた。そこでやっと男はムラサたちがやって来ていることに気がついたようで、緩慢な動作で振り返りつつ船長、と震える言葉を発した。

――何があったんだ?

 男は涙を浮かべた目でムラサたちに視線を向け、状況を説明しようと口を開く。けれど、そこから言葉が出てくることはなかった。心がつい先ほど起こった出来事を記憶の中から締め出そうと制動をかけているようだった。代わりに男は震える指先で部屋の奥を指し示した。船の後部にあるこの部屋は他の部屋と違い金銀財宝のたぐいはその欠片さえも落ちてはいないようだった。代わりに部屋には更に奥に続く扉が備え付けてあり、閉め忘れたように僅かに開いていた。

――あれは…?

 と、その時、ムラサは扉の向こうから何かが飛び出ているのに気がついた。なんだろうと、ランタンをかざし闇に目を凝らした瞬間、すっとそれは扉の向こうへ引っ張られたよう、音もなく消えてしまった。

――……

 けれど、ムラサは見た。
 引っ張らられて消える寸前。それがなんだったのかを。
 日に焼けた肌。短い爪。針金のように太い毛。色褪した麻布で出来た服の袖。あれは行方不明になってる偵察隊の…

――待て

 と、船員の一人が勇気を振り絞ってか、扉に近づいているのに気が付き、ムラサはそれを止めるように声をかけた。ぴたり、と今まで自分が何をしようとしていたのか理解出来ないといった様子でその男は足を止める。
 男は勇気を持って扉の向こうに座している謎を解明しようと思ったのではない。その扉の向こうにいる何か、に魅入られ操られて扉を開けようとしたのだ。その場にいた全員が背骨に氷柱を差し込まれたような猛烈な悪寒を覚える。

 まずいまずいぞ、と何の変哲もない朽ちた扉が虎口のように見えてきた。ユークリッド幾何学には属さない歪な方程式で描かれた木目が悪意を持ってうねったように見え、地球上には存在しない金属で作られた鋲が敵意を顕に鈍く輝いたように見えた。扉の向こうから百年も前に封をした棺桶の中身のような冷たい空気が流れ出してきた。その空気は何か軽金属を燃やしたような妙なきな臭さがあり、そうして、






 そうして、皆の恐怖に呼応したのか。扉は軋む音を立てゆっくりと開き始め…









――逃げるぞ










 ムラサは扉が開ききる前に腰を抜かしていた男の手をとると踵を返した。

――キャプテン?
――逃げるって言ってんだよ!!

 船員たちも事の異常さを理解し、我先にへと自分たちの船に戻るために走り出した。最後尾からムラサも後を追うように走りだす。




 後はただの逃走劇だ。
 あの謎の扉があった部屋に行かなかった船員たちも仲間たちの動揺を見て取って同じように逃げ出した。皆、黄金の輝きに目を眩ませていたが、確かに心の何処かでこの船はおかしいと思っていたに違いない。恐怖は瞬く間に伝播し、海の男たちはまるで鮫に追いかけられる小魚の群れのように我先にへと逃げ出した。




 腰を抜かしていた船員の手を引いて廊下を走るムラサ。背後からは物音こそ聞こえないが、何か危険な存在が迫ってくるような強烈なプレッシャーが襲いかかってきていた。決して振り返りはしまい、とムラサは逃げることだけに専念した。けれど、手を引く彼は耐えきれなかったようで、船室から飛び出す刹那、走りつつも後ろ髪を引かれるように振り替えり、そうして…









――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――









「ムラサ…」
「何?」

 ムラサが話している途中、一輪が横槍を入れるように口を挟んできた。中途半端なところで腰を折られ、睥睨するように顔を伸ばすムラサ。

「舟幽霊の貴女から怪談を聞いても、怖くないですよ」
「ですよねー」

 ムラサもうすうすそう感じていたのか破顔し、そう応えた。あはは、と二人は笑い合って怪談を話すようなムードはすっかり消え失せてしまった。

「まぁ、一応、最後まで話すと私と一緒に逃げてきた奴は最後に何を見ちゃったのか、気違いになっちゃって。私と三、四人がかりで押さえつけて何とか船まで運んだんだけど、船医が目を離した隙に海に飛び込んで自殺。私たちは私たちはで残り一日だっていうのに酷い嵐に見舞われちゃってさ、もう散々。何とか手に入れたお宝で船員の補充とか船の修理とかしたんだけど、やっぱり、ツキが落ちたのかね。そこから先は何をしても失敗と不幸続きでどうにもうまくいかなくってさ」

 それで私は難破して死に、それでも死にきれず舟幽霊になって…後は、と語るところまで語り終えるムラサ。ふぅん、と一輪は頷いて見せた。

「まぁ、こうして怪異の仲間入りをして考えて見ればどうってことのない話だよ。あのボロボロの宝船は実は金銀財宝を餌に乗り込んできた人間を捕って食っちまう化物船だったてだけさ」

 そんな話、海の上じゃいくらでもある、とムラサは語る。

「鯨を食べる大王イカやシーサーペント、美しい歌声で船をおびき寄せて怪物の餌にしてしまうローレライ。船の墓場のバミューダ。古の昔に海底に沈んだ大陸。海は怪異の宝庫だからね。山中異界なんて言葉があるけど、海も十分、魔界だよ」
「空の上もそうですね。この辺りなら竜宮の使いや龍神、天人。それにあと、天使なんかもこの辺りが住処じゃなかったですっけ?」
「あの人達は人間を捕って喰ったりはしないでしょ。ああ、そう考えると人里以外だと確かにこの空の上が人間にとっちゃ一番安全な場所なのかもね」

 そうムラサは思いついた自論を得意げに語る。
 ふと見上げた空には相変わらず無貌の月が浮かんでいた。

 旅の行程は残り三分の一。どうやら無事、目当ての場所までたどり着けそうだった。


















――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











 否。

「あれ…?」

 と、ムラサは握っている舵のきれの悪さに気が付き首をかしげた。おかしいと速度計を見れば船は明らかにその速さを落としていた。

「どうかしたんですか?」

 一輪が訪ねてくる。ちょっと、と答えムラサは船の具合を確かめるよう舵を大きく切ろうとした、しかし…

「む、おかしいな」

 舵はまるで錆びついてしまったかのように緩慢にしか動かなかった。向きを固定するための留め金をかけたままだったかとムラサはよく調べてみたがそんなことはなかった。仕方なく、体重をかけ全力で操舵輪に力を込めるがびくともしない。

「あの…雲山がやりましょうか、って」

 一輪が少し躊躇いがちに訪ねてきたが、ううん、とムラサは首を振るった。

「雲山の力じゃ舵の方が壊れそう。たぶん、外は寒いから船底に氷が張ってるんだと思う」

 きっとそれで船の進行方向を決める舵が凍り付いてしまっているのだろう、とムラサは説明する。

「一輪、ここは大丈夫だから代りにちょっと外を見てきてくれない」
「おやすいご用です」

 そう言って扉を開ける一輪。開け放たれた扉の方へ気圧の違いから部屋の空気が一気に流れ出していく。その流れに引っ張られ雲山が外に出てしまう。慌ててその後を追いかける一輪。

「ううっ、これは寒いっ!」

 この高さなら気温は氷点下五十度を優に下回る。御仏の加護を受けた法衣を着こんでいるとはいえ、その寒さはとても耐え難い。一輪は船内では脱いでいたフードを被り直すと、早く戻ってこようと急いで船尾に向かった。ムラサは一輪を見送ると扉を閉め、再び動かなくなった舵に向かった。

「うーん、もう少し高度を上げれれば一輪に調べてもらうのも楽に出来るんだけどな」

 船は今、丁度雲海を水面に見立てて船体の三分の一程をそこへ沈めている。舵は雲の下だ。船を少しでも上昇させれれば舵の具合を調べやすくなるのだが。
 一輪たちが舵を調べている間、急に船を動かすわけにはいかず、ムラサは計器の数字を見つめ、デジタル的に船の不調の原因を探ろうとした。

「出力は上がってるのに速度が出ていない? なんだろう、どうしたんだ」

 その数値が少しずつおかしくなってきていることに気がつきムラサは訝しげに眉を潜めた。こんな数字が出るはずがないのだ。これは舵が凍り付いているだけではないのかも知れない。一輪たちがその原因を突き止めてくれればいいのだが。こんな高い場所でトラブルなんて、とムラサは少し不安げに唇を尖らせた。

「大丈夫かな、一輪たち…」

 速度を表すメータの針がどんどん左…ゼロの方へと傾いていっている。失速し墜落するような心配は必要ないが、これはあり得ない事態だった。舵が凍り付いて動かなくなることは分からなくもないが、飛倉の法力を聖の法術で制御したこの船は船体そのものが推進装置になっているのだ。その推進力というものはは物理的な力ではなくもっと形而上学的な力で、仮に全体が氷漬けになってもこの船は走り続けることが出来るようになっている。それが止ろうとしているのだから、事態はもっとムラサが考えているよりも深刻なのかもしれない。

 計器の数字を眺めていても埒があかないとムラサは舵をまっすぐになるよう固定すると壁に掛けてあった分厚いコートをひっつかみ、それを羽織って船外に出ようとした。

「うわっ!?」

 瞬間、暗礁に乗り上げたように大きく揺れる船。ムラサは手を伸ばし、何かに捕まろうとしたが失敗。強かに尾てい骨を床に打ち付ける。
 と、いたたた、と腰をさするムラサの耳に破砕音が飛び込んできた。見れば操舵輪を固定する金具がはじけ飛んだのだ。床の上に転がった金属の部品を見て、ぞっと、背筋に冷たいものを走らせるムラサ。なにか、あったのだ。

 ムラサは急いで立ち上がると、コートのボタンを留めるのももどかしく、肩から羽織っただけの格好で甲板へと飛び出した。吹き付ける冷たい風と気圧差に耳が痛くなるが無視し吹き飛ばされないよう、手すりをしっかり掴みながら急いで船尾に向かう。

「一輪、大丈夫!?」

 後部甲板から身を乗り出し、船の軌跡が刻まれた雲海に向かって叫ぶ。ものすごい勢いで後ろに流れていく雲。速度が落ちていると言ってもまだまだ飛行機のような速度は出ている。雲に向かって叫んだ言葉も置いてきぼりにされる。それでもムラサは一輪を呼び続けた。
 けれど、変わらず船の軌跡が見えるだけで一輪も雲山も雲の海から顔を上げることはなかった。

「一輪! 一輪! もういいから上がってきて!」

 一輪を呼ぶ声も懇願するそれに変わる。喉を痛めても構わないと声の限り叫び、ムラサは雲海の僅かな変化を見逃さないぞと目を懲らす。

 と、

「いち…えっ!?」

 一瞬、灰色の雲の下を何かが横切ったような気がした。焦っているせいで雲のたなびきを見間違えたのか。いや、そんなはずは…と、そこまで考えていた瞬間、再び船の揺れがムラサを襲った。今度は手すりをしっかり掴んでいたお陰で倒れるようなことはなかったが、一瞬の出来事にひやりと汗をかいた。

「っつ、何が…」

 心なしか、船が速度を取り戻した気がする。いや、気のせいではない。元船乗りのムラサは体に当たる風の強さでおおよその船の速度ぐらいは測れるのだ。船は明らかに加速していた。

―――まるで、船を捕らえていた何者かから解放されたように…!

「……」

 一輪を呼ぶことも出来ず、半ば自我亡失に雲海を眺め続けるムラサ。
 そこへ僅かな光明が差し込むよう、雲がぽこりと盛り上がり雲山がその頭を出してきた。雲を形成して作った手には一輪の腕が繋がれている。一輪が顔を出さないのは気絶しているからなのだろうか。ムラサはどうしたの、一輪は大丈夫なの、と問いかけようとして、そうしてそれを見た。

「いち、りん…?」

 いや、見ることが出来なかったと言うべきか。
 雲山が引き上げた一輪の腕は肩から先が見当たらなかったのだ。何処にも。雲山が引っ張り上げたのは一輪の腕だけだったのだ。

「雲山…一輪は…?」

 ムラサが問いかける。けれど、それは意味のない問いかけだった。答は既にムラサの中で出ている。雲山も黙っているのも人語が喋れないからではない。雲山も分かっていたからだ。二人とも“ソレ”を認めたくはなかったのだ。認めたくないからこそ事実を無視するような行動を取っているのだ。まるで箱の中の生死は箱を開けなければ確定しないように。

 けれど、やはり、それは確定された真実だった。

 二人から離れること数メートル後方。不意に何かが爆ぜるような音が鳴り響き、一瞬、灰色だった雲は別の色に染め上げられた。それは赤。真っ赤。赤。紅。朱。あか。アレと同じ色。アレと同じ赤い色に。アレ…血と同じ赤い色に染まったのだ。

『―――』

 振り返り、その色を眺めた雲山の表情が変わる。困惑と絶望から憤怒と激情に。
 雲山はその場所にとどまると周囲の雲を吸収し、自分たちの船よりも大きな姿を取った。頭だけでなく腕も形成し、屈強な巨人の姿になる。雲山は握り拳をつくるとそれを雲の中目がけて振り下ろした。城塞破りの鎚のような破壊力を受けて爆ぜる雲海。雲山はその殴打を左右の腕で交互に連続して繰り出す。家の一つや二つどころか集落でさえも瞬く間に瓦礫の山に帰るような攻撃。けれど、暖簾に腕押しか、雲が乱れるだけで何かに打撃が当たることも、何かが悲鳴をあげることもなかった。
 いや、それどころか…

『―――!』

 暴れていた雲山は急に仰け反り苦しみだした。人で言えば胸を掻きむしる動作なのか。巨大化した自分自身の中へ腕をつっこみ内部をかき混ぜる。まるで、体の中へ入り込んだ幻覚の蟲を引っ張り出そうともがく麻薬中毒者のようだ。
 だが、やはり蟲は幻なのか、それとも捕らえられない程素早いのか、雲山は自分の体の中へ腕を突っ込むのをやめ、耐えきれなくなったのかもがき苦しみながら暴れ出した。助けを求めるよう、天に向けて腕を伸ばし、その先に月が浮かんでいるのを見て取って、そうして、

『―――!!!』

 顔の形を絶望のソレに変えるとそのまま風の流れに飲み込まれるよう、雲で出来たその体を霧散させた。それが雲山の最後の行動だった。

「あ、ああああああ…」

 歯の根の噛み合っていない口から悲鳴とも嘆息ともつかぬ声を漏らすムラサ。何が起こっているのか、まるで理解で規定にといった様子で、腰を抜かし、ただただ無様に震えている。

「何? 何なんだ!? 何でこんなところで船の動きが悪くなるんだよ。なんで、後ろから捕まえられたみたいな動きしたんだよ。畜生、畜生! なんなんだ一体? 二人は…一輪? 雲山? 二人は、二人はどうしたっていうんだよ。まさか、まさか、まさかまさかまさかまさかまさかまさかまさかまさか…死っ、死ん、死んだっていうのか。殺されたって言うのか? じゃ、じゃあ、次は…」

―――私?

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!?????????????」

 気がつくとムラサは悲鳴を迸らせながら操舵室に駆け込んでいた。
 今ならまだ逃げられる、と考えたからだ。何から、なんてことは考えない。けれど、雲山が止ってくれたお陰でその隙に船は相当な距離を稼ぐことが出来た。ここから更に加速すれば何とか逃げ切れるはずだ。ムラサは舵を取ると、船体が軋み壊れるのではないかと思える程急激に船首を下げ、逆に船尾をあげてみせた。急降下するつもりなのだ。船本体の加速に加え重力の力も利用すればこの船でもジェット機並みの速度が出る。その速度を利用して逃げ切ろうと思うのだ。

 船体が悲鳴をあげ、操舵輪がムラサの手から離れ暴れようとする。それを押さえつけ、踏ん張り、雲の中へ船を突入させるムラサ。

「っうううう!!」

 雲の中に入ると船体の軋みは激しさを増した。重力と雲の中で今なお吹き荒れている嵐に船体が持たないのだ。もしかすると空中分解してしまうかも知れない。けれど、構いはしないとムラサは更に船を加速させる。そんな起こりえるかも知れない恐怖より、今現在、自分の命を狙っている“何か”の方が万倍も怖ろしかったからだ。
 なおも船体は歪みを見せ、天板の一部や手すりなどが破損し、船から離れて飛んでいった。操舵室にはめ込まれている窓もまたびしりとひびが入り砕け散ってしまった。飛び散った破片に頬を切られながらも、止血する余裕すらなく、ムラサはもはや暴れ馬の手綱のようにまるでこちらの言うことを聞いてくれない操舵輪を必死に押さえつける。割れた窓から激しい雨風と冷たい雲が流れ込んできた。窓越しでも不良だった視界はこれで完全に閉ざされた。顔にさえ吹き付けてくる激しい雨にムラサは目を開けることさえ出来ず、鼻や口から入ってくる雨水にむせるような感情を覚える。ムラサが呼吸を必要そしていないのが幸いだった。時折、薄目を開けても見えるのは闇ばかりで意味をなさず、どのみち、地表まではまだまだ相当あるとムラサは躊躇いなく、否、その躊躇いさえも躊躇いなく船を更に更に加速させた。入り込んでくる雨粒が痛いほど顔や腕に打ち付けてくる。最早、舵は取っているのではなく、飛ばされないためにしがみついているだけに等しかった。
 そこへ…

「ッ―――!?」

 妙な匂いが雨水混じりに鼻に届いた。
 きな臭い、まるで軽金属を燃やしたような有毒そうな鼻の奥が痛くなる匂い。
 何処かで嗅いだことがある匂いのような…

 現実逃避に近い思考を広げていたムラサはその刹那、僅かな開放感を憶えた。急降下していた船はついに分厚い雲を突き抜け、下界にまで降りてきたのだ。

 逃げ切った…とムラサは舵から手を離す。




 それが、はたしていけないことだったのかどうか、確かめる術はない。ムラサが操舵輪から手を離したその瞬間、船は役目を終えたように中空でバラバラになったのだ。竜骨が砕け、甲板が割け、汽笛が吹っ飛び、ムラサもまた操舵輪を握ったまま空中へ放り出される。聖の強力な加護を受けた船もこの無茶苦茶な操縦には耐えきれなかったのだ。

 いや、それだけではない。

 見れば船尾の舵やプロペラ、船底には明らかにこの急降下以外でついたと思わしき妙な傷がいくつかあった。乱杭歯で噛みついたような、鋭い爪で引掻いたような、力任せに握り潰したような。




「あ………………」



 結局、ムラサは最後までその傷を付けたのが一体何者なのか、自分の乗った船を押さえつけ、そうして追いかけてきた相手は誰なのか、一輪と雲山の二人を殺したのは何だったのか、知ることは出来なかった。
 代りに中空に投げ飛ばされた刹那、ムラサは確かに見たのだ。
 自分のすぐ側で輝いている不気味な灰色の月を。それが瞬きするのを。

「ひっ…」

 短い悲鳴をあげるムラサ。けれど、それが外の世界へ漏れることはなかった。次の瞬間、ムラサはばくりと一飲みにされてしまったからだ。









 その僅かな一瞬にムラサは思い出していた。
 かつての仲間…あの宝船に乗り込み、そして一緒に逃げ出してきたあの、精神を病んで自ら夜の海に飛び込み死んでしまったあの仲間のことを。

 彼は自分たちの船に戻ってきてもまだ狂ったように脅えたままだった。
 天に昇った灰色の月に異様に脅えながら、「アイツが! アイツが見ている!」と叫び、そうして、船員たちの拘束が緩んだ隙に海に飛び込んだのだ。まるでお月様から逃げるように。今のムラサと同じく月の輝きがない場所へ逃げるように。




END
 東方でモンスターパニック系ホラーを書くのは難しい。
 なにせ妖怪、幽霊は当然ながら吸血鬼や殺人鬼、はては宇宙人までいるのだから。

 といううことは幻想郷の連中を脅えさせるにはそれ以上のキャラクターを持ってこなくてはいけない。具体的に言うと這い寄る混沌とか円盤生物とかキラーマジンガとか。もしくはまんじゅう。
 あ、ちなみに私はX箱360が怖いです。大復活と一緒とかマジ止めて。


 ところでTwitterを初めて見たのですが、pixivの時も思ったんですけれど、そーゆーのってこーゆー場で伝えてもいいもんなんですかね。公私混同は避けるっていううか。
sako
http://www.pixiv.net/member.php?id=2347888
作品情報
作品集:
21
投稿日時:
2010/10/23 20:24:16
更新日時:
2010/10/24 05:24:16
分類
C.ムラサ
一輪&雲山
幽霊船
UMA
ホラー
1. NutsIn先任曹長 ■2010/10/24 07:21:54
最大の恐怖。
わけのわからないもの。

『あれ』が何か解った時、私も、消える…。こ、こええ〜〜〜〜〜!!

ウルトラマンレオの円盤生物シリーズだと、ブラック指令は確か子供達の集団リンチで死んだんでしたっけ?

P.S.『ウォークン・フェアリーズ』で、やられた、と思いました。
まるで、敵に至近距離まで近づいていざ撃とうと64式小銃を構えたら、リアサイトが倒れていたときぐらいに。
あと、語尾に『サー』を付けるとは。sako様は礼儀を知っておられる。
2. 名無し ■2010/10/24 10:58:15
月の陰謀か!
3. 名無し ■2010/10/24 11:59:00
ムラサって人間だった頃から船長だったのか。

……男の娘だったとしたら俺得
4. 名無し ■2010/10/24 13:58:02
キラーマジンガは怖さの質ちげえだろw

しかしあいもかわらず文章力たけえ
木目のところとかすごくホラーな雰囲気出ていた
幽霊妖怪を怖がらせるパニックって考えてみるとおくぶかいよな
下手に原因を怪奇現象だとしてでなくかっこたる妖怪とかに求められるあいつらだからこそ、
真に意味不明なことは怖がりそうだな
5. 名無し ■2010/10/24 19:53:05
最後まで読みましたけど、冒頭読んだ時の予想とは全然違う展開でした。
ボカァ、てっきり可憐ながらも男気溢れるキャプテン・ムラサが取引失敗の腹いせに屈強な乗組員どもから陵辱を受けてクリムゾン張りの強気だったのに一晩でチンポ奴隷にでもされた過去話なのかと…
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