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『果てしなき流れの果てに』 作者: sako

果てしなき流れの果てに

作品集: 21 投稿日時: 2010/10/31 16:59:18 更新日時: 2010/11/01 01:59:18
「アァ、お姉さまッ、お姉さまッ」











 頭痛/目眩/嘔吐/筋肉痛/寒気/虚脱感

 そんなものに見舞われながら私は目を覚ました。
 まるで二日酔いのようだ。意識は七割がた覚醒しているのに真綿で拘束されているよう体が起き上がらない。筋肉という筋肉がボイコットを起こし、関節全てが錆び付き、神経が意図的に意志伝達をサボタージュしているよう。加えて体の怠さは筆舌にしがたい。こめかみが疼き、眼球がそのまま眼窩に落ち込んでいくよう引きつられる。嘔吐感で胸は詰まり、自分の吐く息にさえ気持ち悪さを憶える。思考は霧がかかったように、しかもそれは猛毒を含み、まともに頭は働かないでいる。つまり、最悪の体調だ。二日酔いの時のそれに近い。昨日、私はしこたま吞んだのだろう。

「……?」

 と、そこまで考えて、私は思いもよらぬ強大な違和感にぶち当たった。驚愕に意識の覚醒レベルは更に上がっていくが、思考がそれに伴わない。

 私は自分のこの体調の悪さを昨日の飲み過ぎだと考えたが、私には昨日、こんなになるまで呑んだ記憶がないのだ。前後不覚になるほど呑んだという意味ではない。一体いつごろ、誰と、何処で、どんな酒を浴びる程呑んだのか、それが全くと言っていいほど思い出せない。
 いや、それ以前に…

「私は…誰なんだ…!?」

 すえ恐ろしい事実に気がつく。
 先程まで自分の意思に反して動かなかった体が跳ね上がった。私は今までとは比べ物にならない頭痛を覚えながらも必死に、本当に必死に昨日のこと、一昨日のこと、一年前のこと、これまでのこと、自分のことを思い出そうとする。

「嘘…」

 だが、私の頭は記憶を保存している部位との連絡路を分断されてしまったのか、それともその保管庫自体が壊れてしまったのか、自分のことは何一つとして思い出せなかった。名前も年齢も職業も国籍も、何処に住んでいたのか、自分とはどういう人間だったのか、何一つだ。

 グレゴリー・ザムザは朝目が覚めると体が芋虫になっていたそうだが、私の場合は私自身が変質し失われてしまったらしい。はたしてそのどちらが不幸なのか。

 私はうずくこめかみを抑え、衝撃のあまり、喉から唸り声を搾り出した。
 体調の悪さなど吹っ飛ぶ衝撃だ。恐怖心と言い換えてもいい。これが話に聞く記憶喪失というものなのだろうか。おそらくはそうだろう。
 昨日までの自分が消え去り、何も無い一点から名前も地位も何も無い別の自分が生まれる状況。まるで、広大な砂漠に…いや、砂漠ですらない。空も地面も、何も無い真っ白な空間に唐突に放り出されたような感覚。足場は愚か重力という確かなとっかかりさえ失われ、捕まるものさえ側になく、永久に落下し続けるような言いようがなく、そうして耐え難い恐怖が私に襲いかかってくる。

 酷い寒気を感じているのに首筋には不快なほど汗が流れている。着ている薄いシャツがじっとりと湿り気を帯び、歯の根が噛み合わずガタガタと打ち鳴らされる音が耳に痛い。

「ひっ…」

 もはや、私の心は発狂寸前だ。頭を掻き毟るよう、爪を立てる。
 この恐ろしい想いから逃れられるのであれば私はいかなる方法でも喜んで受けるだろう。それがたとえ仄暗い死であっても、この恐怖の前には安穏になるのだ。

 虫になったザムザもたしか最後には死んでしまったが、私も同じ運命をたどるのだろうか。

「…?」

 と、ふととりとめもなく恐怖に混乱する頭にまたフランツ・カフカの名作の主人公の名前が浮かび上がってきた。いや、ザムザだけではない。その作者のカフカも私は思い出せる。

「不思議の国のアリス…ルイス・キャロル。銀河鉄道の夜…宮沢賢治。フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス…メアリ・シェリー」

 それ以外にも思い出せる物語とその作者の名前を上げてみた。他にも、火星年代記…レイ・ブラッドベリ、東海道中膝栗毛…十辺舎一九 などいくらでも例に上げることができそうだ。

 自分が着ているシャツを引っ張ってみる。そう、この着物はシャツだ。色はうす緑。私が腰を落ち着けているこれはベッド。寝具だ。シーツの色は白、ホワイトだ。いろいろなものの名前やその使い方、別の言い表し方といったことは素直に思い出せる。

 私は記憶は失われているが、どうやら知識は忘れていないらしい。
 放り出された無重力空間で僅かなとっかかりを掴んだような気分。僅かでも確かな物があるという事に絶望一辺倒だった心に安心という名の潤いが満ちてくる。

 私は何度も深呼吸を繰り返し落ち着きを取り戻そうと努めた。確かに過去の記憶、それまでの自分が失われているのは何よりも恐ろしいことだが、だからといって絶望し、狂ってしまうにはまだ早い。少なくとも体調は最悪ではあるがまだ自分はこうして生きているのだから。

「………ふぅ」

 最後にもう一度だけ深く息を吐いて、浅く目を瞑る。相変わらず心中は不安で一杯だが、それでも何もまともに考えられないというわけではない。私はゆっくりと顔を上げ、目蓋を開くと周囲を見回した。ここが何処なのか、強いては自分が誰なのかを確かめるために。

「ここは…」

 自分が今いる場所はどうやら小さな部屋の中のようだ。四畳半程の狭苦しい真四角の部屋で異様に天井が高い。部屋は全体的に白い色ばかりが使われているようだった。それも目に痛い純白ではなく、僅かにクリームがかった乳白色。床は光沢のある合成樹貼り。壁は合板ではなく何故か椅子の背もたれや腰掛け部分のように布貼りになっており、中にスポンジか綿が詰められている。五十センチ四方程度のブロックで区切られていて、触れてみると柔らかな抵抗を感じた。
 調度品は今、自分が腰掛けているベッド以外には見当たらない。寝転がって頭の上になる部分、ベッドボードには小さな棚が取り付けられていてそこには姉妹だろうか、小さな女の子の人形が二つ並べられていて、その子たちにもたれ掛かるよう、一冊の絵本が置かれていた。ピノキオだ。これも読んだことがあるかどうかは思い出せないが、少なくとも内容は思い出せる。
 次いで私は上を見上げた。私の背丈どころかバスケットボールの選手でも届かないような高い位置に窓がある。けれど、窓には黒くて分厚い遮光カーテンが掛けられており、部屋の明かりは天井に備え付けられた証明だけだ。清潔そうな白い光が降り注いでいる。
 そして…

「扉…」

 あの高い場所にある窓から覗きこんだとすれば向かって左側の壁に私が腰を落ち着けているベッドは接している。そうして、窓から向かって真正面、ベッドの頭から向かって左上に出入り口であろう扉があった。
 壁同様、淡い乳白色で衝撃吸収材が使われている扉。取っ手はなく、窓らしき四角い区切りはあるものの閉ざされているのか外の様子はうかがえなかった。
 その扉の上部、私の足の側の窓よりは幾分低い場所にアルミで出来た通気口が見えた。向こう側にはファンが取り付けられているのかブゥゥンと低く呻るような音が聞こえた。

「…音? 声?」

 と、その音に耳をすませているとどこからか誰かが啜り泣くような声が聞こえてきた。何処だ、とベッドから起き上がる…いや、起き上がろうとした。

「っ!?」

 瞬間、傅く足。体調の悪さは思った以上に深刻なようで私は立つこともままならなかったようだ。床の上に倒れ、反射的に伸ばした手のひらが床を打ち付ける。ビタァンと盛大な音が鳴り響いた。

「お姉さま? お姉さま! お目覚めになったのですか!?」

 その大きな音に反応したのか、そんな言葉が聞こえてきた。ベッドとは対面側の壁からだ。私は床に体を打ち付けた痛みも何処かへ、体を起こすと反対側の壁へ這い寄った。

「そっちに誰かいるのですか?」

 壁に向かって出来る限り大きな声で呼びかける。ただそれだけのことで目眩がし吐き気がこみ上げてくる。クソ、やはり相当に吞み過ぎたらしい。

「お姉さまと呼びましたがそれは私のことなんですか!?」

 それでも私は呼びかけることを止めない。この何もない部屋では私が何者であるのか突き止めるのは不可能そうだ。そう考えていた矢先、降ってでたような手がかり。この壁の向こうに誰がいるのかは知らないが、少なくとも向こうにいる人は私について何か知っているようなのだ。

「アァ、アァお姉さま! お姉さま!」

 半ば狂乱したような声が聞こえてくる。泣いているのだろう。鼻を啜るような音もそこに混じっている。一抹の不安を覚えながらも私はなおも問いかけた。

「貴女は誰なんです? ここは一体何処なんですか? 実は私は記憶を失っているようでして、自分自身が誰なのかまるで思い出せないのです。何かご存じでしたらお願いですから教えてください。私は…一体、誰なんですか!!」

 声を大きく、疑問に思っていることを片っ端から聞いてみる。けれど、壁向こうの人は泣きじゃくるばかりで私の質問には答えてくれない。嫌な予感が鎌首をもたげてくる。これはもしかすると壁向こうの人も私同様、記憶や精神に異常をきたしているのではないか、そんな考えが浮かんでくる。

「アァ、アァ、お姉さまっ、よかった、ほんとうによかった、無事だったのですね」
「フランドールさん、お薬の時間で…って、何してるんですか!?」

 その事を裏付けるよう、壁向こうから第三者の声が聞こえてきた。遅れて泣き喚き、暴れるような物音。一度、強くドンと壁が揺れた。向こうから強く壁を打ち付けたのだろう。じっとしてください、と第三者の悲鳴のような声が聞こえてくる。余りの事態に私は暫く呆然としていたがややあってからハッと自分を取り戻し、また、大声を上げ始めた。

「すいません! そちらの方、もし、こちらに来られるのでしたら話を、話を聞いてもらえませんか! 私は記憶喪失のようでして、ここが何処なのか私が誰なのか、まったく分からないんですよ!」

 壁向こうの二人は自分のことに手一杯なのか私の言葉には何の反応も示してくれなかった。私は苛立ち、向こうがそうしたように壁を殴打し始める。これなら気づいてくれるだろう。

「ふぅ、麻酔が効いて…って、そっちのも!? 先生っ! 先生!」

 暫くして、向こうの部屋から争い合うような音は聞こえなくなったが、第三者であろう女性がそんな声を発した後、足音大きく何処かへ行ってしまった。そんな、と途方に暮れる私。もっとも、その時間は短い物だったが。程なくして私の部屋の扉の前に二人分の足音が聞こえてきた。










――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










「はぁ…やはり、記憶喪失ですか…」

 ベッドに腰掛けた状態で私はシャツを胸元までめくり、さらけ出した胸に聴診器を当てられている。金属の冷たい感触に少し、ぶるりと体が震える。

「ええ、詳しくは精密検査をしてみないと分からないけれど、恐らく間違いないわ」

 私の前に折りたたみの椅子に座って聴診器を当てている女医がそう説明してくれる。名前を八意といったか。変わった名前の医者だ。いや、変わっているのは名前だけではない。白衣の下に着こんだ左右と上下で赤と青の二色に別れたみょうちくりんな服もだ。けれど、腕はいいようで話をしながらてきぱきと手際よく私を検診してくれている。

「はい、ありがとう。じゃあ、詳しく説明させてもらいましょうか」

検診は終わりらしく八意医師は聴診器を白衣のポケットにしまいだす。私も着ているシャツを戻し、検診中、女医に説明された内容を頭の中で反芻していた。

 私はやはり記憶喪失で、瀕死の重傷だったところをこの病院へ運び込まれたらしい。隣の部屋にいる人物は自分の妹で向こうは記憶喪失ではないが精神に異常をきたしている、とのこと。どれも今のところ予想の範囲内の真実だ。問題はここからだ。診察に支障が出るからと八意医師はそれ以上の説明をしてはくれなかった。診察が終わってからゆっくり話す、とも。
 女医はナース…こちらも妙な格好をしていて何故か兎の耳を摸した飾りを頭に付けている、から受け取ったカルテに私の診察結果を書き込んだ。

「どこから話したものかしらね。そうねぇ。こう言う場合はまず、一番ショックなことから伝えるのがセオリーかしら」

 カルテをナースに返すと女医は私に向き合ってきた。私は八意医師の瞳をまっすぐ見つめ返すとそのショックなことを受け止めきれるよう、拳を軽く握り身構えた。喉が日照りにあったように渇き始め、ごくりと私は生唾を飲み込む。

 そうして、八意医師がゆっくりと口を開き、そこから放たれた衝撃の事実は…

「じつは貴女は吸血鬼なのよ」
「へ?」

 荒唐無稽な四月馬鹿にしても酷いものだった。

「えっと、先生。今でも映画館にはポップコーンを売る自販機は置いてありますか?」
「五月蠅い猫好きのロリコン」
「しかし…いくら何でも…吸血鬼だなんて」

 私のこめかみを脂の様に粘つく汗が流れ落ちる。それは先生の言葉がショックだったというわけではなく、先生の言動がショックだったという嫌な汗だ。まるで健康にいいと吞まされたお茶がすこぶる付で不味く腹に溜まり胃から立ち上ってくる不快な匂いに気分を悪くしたような、そんな気分だ。

「………」

 けれど、先生は冗談よ、なんて笑ったりもバツが悪そうに弁明したりもせず、聴診器を締まった方とは別のポケットをまさぐり、何かを取り出してきた。そうして握り拳より一回り程小さなその塊を私に見せつけてくる永琳医師。

「ッ…!!」

 それはにんにくだった。料理に使われるアレだ。独特の匂いと辛み、滋養強壮に効果があるというあの野菜だ。中華やイタリア料理によく使われる食材。この知識も私はきちんと持っている。けれど、その知識以上に、私は…

「せっ、先生、それ…」
「やっぱり、よく効くようね、コレ」

 耐え難い動悸と目眩、そして銃口を眉間に押しつけられたような恐怖を覚えた。
 先生がにんにくをポケットにしまってもなおそれらは続き、私は上がった息を押さえるので精一杯だった。

「吸血鬼については何か憶えているかしら? 吸血鬼とは文字通り、血を吸う化物で闇に生きコウモリに姿を変え人間なんて比べものにならない強い力を持っている。殺すには強い日の光に当てるか心臓を杭で突き刺さねばならず、それ以外に弱点と言えば川のように流れる水を渡れず教会で聖別された清らかな水を振りかけられれば火傷を負い、そうして、…十字架やにんにくを嫌う、といったところね。まぁ、もっとも」

 そう言って八意医師はにんにくを入れたポケットからまた別のものを取り出してきた。

「貴女は反十字教徒じゃないのか、十字架は平気そうだけれどね」

 飾り気のない銀で出来たロザリオだ。私はそれを見て顔をしかめるが十字が不快だったというわけではなく、それについたにんにくの匂いが嫌だったのだ。それに気がついたのか、八意医師は悪戯っぽい笑みを浮かべて、十字架を手の中でくるりと回した後、ポケットにしまった。

「でも、先生、急に私が吸血鬼だなんて言われてもとても信じられませんよ。私がにんにくに酷い不快感を憶えたのも私が吸血鬼だからと言うわけではなく別の理由では? きっと、記憶を失う前に私はにんにくを箱詰めする工場で働いていてそこで事故にあって三日間ぐらい、にんにくに囲まれて身動きが取れない状態に陥ったんでしょう。それのせいでにんにくがトラウマになってただけなんですよ」
「なかなか合理的な解釈ね。でも、残念ながら貴女は人間じゃない。これは本当よ。その証拠は直射日光に当てて貴女を灰にするぐらいしかないんだけれど」

 悪いがそんな中世の魔女裁判みたいな真似はやめてほしい。水の中に沈めて浮かび上がってくれば魔女ということで火あぶり。沈めば魔女の疑いは晴れるがそのまま溺死。裁判にかけられた時点で敗訴確定のただの弾圧だ。もっとも人間がたかが陽の下に出ていったところでそこが夏の海辺でも日焼けするのがせいぜい。日光に当たってはいけない病気…シルバーストーン病だったか、そんな病気もあると聞いたが私がそれを患っているという可能性も否定出来ない。

「まぁ、今すぐには、っていうだけの話よ。最初に説明したとおり、貴女はこの病院に瀕死の重傷で運ばれてきた。不死身の吸血鬼であるはずの貴女が瀕死の重傷でね。ああ、一応、手術中に記録のために撮った写真があるわ。見る?」

 問いかけておきながら八意医師は私の了解をまたずにナースに目配せし、その時の写真をクリップに挟んだカルテを見せてきた。
 その写真を見たことを私は酷く後悔した。少なくとも今日一日、肉を食べたいとは思わないほどに。

 鮮明な写真に写っていたのは瀕死の重傷人などではなかった。ただの死体。いや、その一部に過ぎない。僅かに髪の毛が残っているだけの血まみれで脳漿が覗いている頭蓋とそこから伸びる頚椎。それだけだ。手術もクソもない。これを回すのは医者ではなく検死医か葬儀屋だろう。少なくともどんなに腕のいい、いや、やぶ医者でもこの状況の人間を見て助かる、なんてことは言わないだろう。言い出したとすればそれは医者ではなくあくどい詐欺師か怪しげな宗教団体だ。そして、その違いはあまりない。

 と、写真の二枚目を見たとき、私は訝しげに眉を潜めた。二枚目も同アングルから撮られた死体の写真だ。けれど、死体の様子が少しだけ違って見えた気がした。心のなしか大きさを増しているような。私は三枚目に目をやった。二枚目との違いは僅かなものだが一枚目とのそれは確かなものだった。骨にこびりついている肉の量が明らかに増えているのだ。四枚目、五枚目と写真を見ていく。だんだんと顔面を形成する筋肉が出来上がっていって、その上から肌がまるで張られるように現れている。早い場所ではもう産毛が生えてきているところもある。変化は明らかだ。記されている時刻を見れば二時間毎に撮影されている写真にはだんだんと再生されゆく…私と言われている頭部が写しだされていた。そうして最後の十二枚目…手術開始後二十四時間目の写真にはスヤスヤと眠るように穏やかな顔つきの少女の顔が写しだされていた。

「………」

 写真表面の光沢に私自身の顔が反射し映りこむ。
 その顔は確かに写真の中の再生中の生首の少女と同じであった。

「今のところ出せる証拠といえばそれだけよ。その写真をとってから更に二週間が経過しているけれど今なお貴女の体は人間とは比べものにならない速度で回復していっている。体調が悪い、とおっしゃっていたけれど、原因はそれよ。体調を整えるだけの余力が今の貴女にはないの」

 永琳医師の説明を聞くために私は写真から顔を上げた。けれど、その言葉の半分も頭の中には入ってこない。私がこの写真の少女? この死体同然の状態から二週間をかけてここまで再生した?

「まぁ、混乱するのも無理はないと思うわ。再生中の貴女は普通の人間とあまりかわりないもの。だから、貴女は人間の常識でしか物事を考えられず、そのせいで吸血鬼としての記憶を失った…と思うの。まだ、憶測の段階だけれど。このまま貴女の体が吸血鬼として完全に再生すれば記憶も元にもどる可能性もあるわ」

 Windows7の1TのHDDに保存しておいたものを98の10Gに移し変えても大部分が使えないのと同じ理由なのかもしれない。吸血鬼と人間では体の性能が違うのだからありえない話ではない。
 しかし…

「自分が化物だと知らされてショックをうけてるの?」

 八意医師が話しかけてくる。そのとおりだ。目覚めて、記憶を失っていて貴女は人を襲って血を吸う化物ですと説明されてすんなりと受け入れられるわけがない。まだ、犯罪者です、とでも説明されたほうがマシだ。けれど、八意医師はそんな私の心中をどうでもいいという風になんともいえない表情を浮かべて、人差し指を立ててこう話を続けてきた。

「気にするような問題でもないわよ、それって。だって、ここには貴女のような化物が沢山いるんだから」
「え?」
「私も完全な意味で不老不死の蓬莱人だし、そこにいる優曇華も月兎よ」

 意味が分からないことを言う八意医師。自分たちも人間ではない? 今度こそ女医の言動に私は目眩を起こした。

「私たちだけじゃないわ。ここは幻想郷。迫害され住処を追われた妖怪たち…河童や天狗、狼男にバックベアード、はては宇宙人から神さままでが集って、人間たちと仲良く弾幕ごっこをして遊ぶ楽園―――アヴァロンよ」

 八意医師の説明に頭痛を憶える。これも私の記憶が一切ないからなのだろうか。女医の話に全く付いていけない自分がいる。

「…だいたい話は分かりました」

 それでも私はそう口にするしかない。理由は言うまでもない。

 記憶がない自分にとってこの幻想郷とやらは辛うじて言葉が通じる程度の異国の地に近い。私が吸血鬼であるということや私以外にも化物がいる云々、なんて話は置いておくにしても右も左も分からない場所ということに変わりはない。放り出されていきなりヴァンパイアハンターを名乗るロングコートの男に襲われる…なんて話も女医の話を信じるならあり得ないことではないだろう。そこまで行くとイタい妄想なのだろうが、それでも私には予備知識もなしに見ず知らずの場所へ放り出されても大丈夫だなんていう自信はまるでない。ならば、女医たちの話を信じて言うとおりにしてここに留まるのが今とれる最善の策だろう。なすがままされるがまま、とりあえずは情報収集に努めるしかない。

 そこまで考えると幾分、気分が楽になってきた。これ以上失うもののない者の強みだろうか。なるようになれと半ばやけ気味ではあるが生きる活力のようなものが湧いてきた。

「それで、暫くは…先生の言うように私が吸血鬼の力を取り戻すまではここの病院に置いてもらえるんですかね?」

 とりあえず当面の安全性を確認するために問いかけてみる。最悪、この部屋から一歩も出られないとなってもこの体調の悪さがある程度軽減するまでは動きようがない。

「ええ、当然よ。我が病院は患者の性別年齢病状地位種族を問わず命を助けられる者は助けるわ。病室もこんな殺風景な所じゃなくまっとうなのを用意しましょう」

 女医の後半の言葉は特にありがたかった。この真っ白で殺風景な部屋は天井が高く家具の殆どがないのに妙な圧迫感を感じるのだ。こんな所にいては気が滅入ってしまって、治るものも治らなくなるだろう。
 八意医師はナースの優曇華に視線を送り、二言三言指示を出す。新しい病室を使えるようにしておけ、ということなのだろう。
 一つ返事で部屋から出て行く優曇華。八意医師をシショウと呼んでいたのが気になったがあだ名か何かだろうか。

 その後、私は優曇華が戻ってくるまで間、八意医師からもう少しだけ記憶を失う前の自分自身の事やこの幻想郷のことを教えてもらった。
 幻想郷は極東の島国の余り人が足を踏み入れない山中にあり結界によってほぼ完璧に外界と隔離されていること。妖怪たちが数多く生息しているのだから人間にとっては地獄の様な場所かと思っていたが決してそうではなく、治安や文明レベルは明治初期辺りの地方の町程度のこと。もっとも安全なのは日中や町中だけで、やはり夜間に山中や裏路地、曰く付きの場所に立ち入れば命の保証は出来ないということ。けれど、妖怪たちも傍若無人ではなく妖怪退治を専門とする人間たちもいるということ。幸い吸血鬼専門のヴァンパイアハンターはまだ幻想郷入りはしていないそうだ。吸血鬼本場の欧州では未だに現役なのでこんな所までやってこないそうだが、それは余計な話だったか。

「お嬢さま…ですか」

 そうして、自分の話。
 記憶を失う前の私はこの幻想郷でも有力な大家のお嬢さま兼当主だったそうだ。私が瀕死の重傷を負ったことは幻想郷中でニュースになったらしい。

「病室の準備できました」 

 事件のあらましは、と訪ねようと思ったところで優曇華が戻ってきた。それを確認すると八意医師は立ち上がり、続きは明日ね、とある意味で一方的に話を打ち切った。もう少しだけ聞かせて欲しいと思ったが、その時私は自分が異様に疲れていることを知った。思った以上に興奮して体力を使ったらしい。体がだるく、目蓋が重い。これはもう、今日は休んだ方が良さそうだ。

 優曇華に付き添って貰い、私はベッドから起き上がる。
 ふらつく足。まるで生まれたての子鹿だ。いや、あながち間違いではない。私の体の首から下は現に初めて立って歩くという動作をしようとしているのだから。今はまだ数歩程度しか歩けないだろう。八意医師もそれが分かっているのか車椅子を用意してくれていた。それに乗り込み、優曇華に押してもらって私はやっとこの病室以外の風景を目にすることになる。


 ………その前に、

「先生、最後に一つだけ聞きたいことが」

 扉を開けて出る寸前に視線も向けず、八意医師に問いかける。

「何かしら?」
「名前…私、自分の名前を聞いていません」
「そう言えばそうだったわね」

 失念していたわ、と女医。そうして、八意医師は勿体ぶるような真似をせず、簡素に私の名前を口にしてくれた。

「貴女の名前はレミリア」

「レミリア」

 それが私の名前らしい。口に出したところで違和感のあるものだと言うことは分かる。今の私は記憶喪失の患者Aであって吸血鬼のレミリアではないからだ。体が治りきれば彼女に私は戻ることが出来るのだろうか。
 とりとめもなくそう考えていると八意医師が更に言葉を続けてきた。

「貴女の名前はレミリア・スカーレット。そして、隣の病室にいるのが妹のフランドール・スカーレットよ」

 聞いてもいないことを続けて話す女医。スカーレット、レミリア、フランドール。ファミリーネーム一つにファーストネームが二つ。私は最後に緩衝材に包まれた壁に視線を向け、目を覚ました部屋…ある意味で分娩室を後にした。






 その日は案内された病室に辿り着き、ベッドに上がるや否かというタイミングですぐに眠ってしまった。
 やはり、相当に疲れていたのだろう。けれど、私はベッドに体を横たえている最中、何度も夢を見た。確かな形のあるような夢ではない。忘れてしまっただけかも知れないが私は夢の中で何度も何度も妹に、フランドールに呼ばれたのだ。

 アァ、お姉さま、アァ、お姉さま―――。と













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












「ねぇ、優曇華さん、貴女は記憶を失う前の私のことを知ってるの?」

 次の日の朝、食事を持ってきてくれた優曇華にそう問いかけてみた。配膳中の優曇華はびくりと身をすくませた後、おずおずとこちらの様子を伺うように視線をあげてきた。ウサギみたいな行動。いや、優曇華は月の兎…だったか。

「えっと、ええ、まぁ、それなりに」
「へぇ、前の私はどういう人だったの? 教えてくれませんか?」

 永琳女医は私の体が吸血鬼として完全に再生すれば記憶も元に戻る可能性がある、と言っていたが所詮は可能性だ。最悪の場合、私は今の私の記憶を持ったまま吸血鬼のレミリア・スカーレットにならなければいけないのだ。だったら、過去の私と今の私の齟齬を埋める作業を今からしていっても遅くはないだろう。それに過去の話を聞けば何かの拍子に以前のことを思い出すかも知れない。

「そ、そうですね…」

 けれど、優曇華はどうにも歯切れが悪い話し方をする。態度もまるで脅えているようでこちらに視線を向けようともしない。いったい、どういうことなんだろう。

「もしかして、私って怖い人だったのかしら」

 吸血鬼と言えば廃城に住み棺桶を寝床に狼男を配下に従え夜な夜な人々を襲う化物だ。十字架やにんにくといった弱点は確かにあるがそれでもただの人間が相手できるような存在でもないだろう。永琳医師の話ではここ幻想郷はそれなりに安全な場所だというがそれでも公然と人間を襲う化物が存在しているのだ。
 この優曇華も月兎というが見た目は人間と変わりない。長い耳が生えているぐらいだ。とても強い力があるようには見えない。この脅えようはもしかすると優曇華は過去に私のような化物に、いいや、下手をすれば私自身に襲われた事があるのかも知れない。

「………」

 質問しておきながら私はすこしバツが悪くなり押し黙ってしまった。もし、私の考えが本当なら優曇華は辛い仕事を任されていることになる。いや、下手をすれば病気の人間と変わりない力しかない私に復讐を企てるかも知れない。今度は私自身が脅える番だった。腹をくくったつもりではいたがそれは私自身の事や知識の上でのことだけであって、直接的な危害をかけられるはずがないと鷹をくくっていたからだ。

 どうする、やはり逃げ出すか? けれど、体調は昨日より幾分マシになった程度でまだまだ非道い状態だ。とてもじゃないがベッドの上から動く気分になれない。だが、背に腹は代えられない。

「くすくすくす」

 と、そんなことを頭の中で考えていると優曇華がうつむき加減に笑っているのに気がついた。なんなんだ、どうしたんだ、と訝しげに私は優曇華に目を向ける。

「いや、あの、すいません…その貴女のそのしおらしい態度がなんだか不思議に見えて…くすくすふふ」
「むぅ」

 笑われて少し気分を害する。まぁ、それでも優曇華のこの態度なら私の考えは杞憂だったのだろう。やれやれ、と私は頭を振るう。

「えっと、記憶を失う前の貴女の話でしたね。そうですね。我が儘なお嬢さま、っと言ったところでしょうかね」
「我が儘なお嬢さま?」
「ええ、そうです。うちの輝夜様も結構我が儘で有名でしたけれど、幻想郷で我が儘で傍若無人と言えば大抵、貴女のことを指していましたよ」

 我が儘で傍若無人な吸血鬼のお嬢さま。戯れに何人ものの人間の首を切り落としてそこから流れ出る血でプールでも満たしたりしたのだろうか。

「そうですね。よく、妙なことをしていましたよ。月に侵略する、とかいって木造張りぼてのロケットを作ったり、外に出られないからって安楽椅子探偵ごっこをしたり」
「……そうですか」

 どうやら記憶を失う前の私はよほどにお茶目な人物だったようだ。

「まぁ、でもよかった。実は私、以前、優曇華さんに酷いことをしたのではと思ってしまって。そんなことがなくってよかったです」
「? いえ、もう何年も前の話ですけど、私、貴女にフルぼっこにされましたよ」
「へ?」
「ええ、メイド長と一緒に」
「……」

 また頭が痛くなってきた。どうやら、ここでは私の常識が非常識で私の非常識が常識らしい。これに馴れろと言うのか。できれば、記憶が戻ることを切に願う。



 幸い、と言っていいかどうか。優曇華が用意してくれた食事は普通のものだった。オートミールにノンオイルのドレッシングがかかったちょっとしたサラダ。それにバナナが半切れ。分かりやすい病院食だ。私はてっきり吸血鬼なのだから輸血用のパックでも用意されるのかと思っていたが、その事を話すと優曇華に笑われた。今の貴女は人間と変りありませんからそんなもの飲んだらお腹壊しますよ、と。だったらこのトマトジュースは何なんだろうと問い返したかったがやめておいた。私は恐らく今の自分の胃にとって初めての食事をしっかりと味わうよう、ゆっくりと食べ始めた。




 そんな風に優曇華や八意医師から話を聞く日が何日か続き、徐々にではあるが私は回復していった。
 相も変わらず体に力は入らないが何とか自力でトイレに行くぐらいは出来るようになったし、起きていられる時間も長くなった。

 そんなある日のこと…




「どうぞ」

 私の病室の扉をノックする音が響いた。はい、と私は返事をする。引き戸を開いて現れたのは…

「こんにちは」「失礼…します」「しつれいしまーす」

 三人の女性たちだった。
 八意先生やナースの優曇華ではない。見知らぬ女性たち。いや、私が知っていた女の子たち。

「いらっしゃい…えっと…ノーレッジさんに十六夜さんにホンさん…ですよね」

 かつての私、レミリア・スカーレットの親友と従者二人がお見舞いに来てくれたのだ。
 三人の来訪に私が多少戸惑いつつも快く迎えたのは過去の記憶が戻ったから…ではない。あらかじめ前日に八意医師から連絡と説明を受けていて心の準備が出来ていたからだ。
 メイド服の女性が十六夜咲夜。私のお屋敷…紅魔館のメイド長だという。長身の華人服の人が紅美鈴。同じく屋敷の使用人。そして、消去法で友人の魔女と聞かされていたパチュリー・ノーレッジがあのゆったりとした服装で何処か眠そうな顔をしている彼女だろう。

「おじゃまするわ」

 ノーレッジを先頭に三人はぞろぞろと私の病室に入ってくる。すこし狭苦しいが人数分の椅子を用意してあるので問題ないだろう。私はベッドから体を起こして三人を出迎えた。

「元気そうで何よりだわ」

 そう言ったのはノーレッジだ。けれど、その顔には戸惑いの色が張り付いている。うつむいている十六夜は分からないが紅美鈴も同じ顔をしている。彼女たちだけではない私もまた同じ顔をしていることだろう。

「え、ええ、お陰さまで」

 心的な距離を測りかね、しどろもどろに余所余所しく定型文的な言葉を返してしまう。かつての私の家族だった見知らぬ人たち。そんな相手とどう接すればいいのか、私の頭に残っている知識では答えは出せない。お見舞いに来てくれた彼女たちも同じだろう。先に八意医師から私の症状について事細かに説明されたのだろうが実際に顔を合わせてみればこうだ。よく見知った顔が見知らぬ言動を取っている。その猛烈な違和感を拭うことは出来ないのだろう。

 挨拶だけで会話は途切れてしまい、なんともいえないみょんな空気が病室に漂い始めた。誰も彼もが何か話題はないのかと視線を泳がせ、話すきっかけを探している。
 と、

「あ、あの、これ…お嬢さまに…」

 俯いていた十六夜がおずおずとお見舞いの品をさし出してきた。籠に入れられたフルーツ。お見舞いの品の定番だ。ありがとう十六夜さん、と言ってフルーツを受け取ろうとすると籠に乗せられていたりんごの上に雫がぽつぽつと落ちてきているのに気がついた。

「十六夜さん…」

 顔をあげるとそこには黒い隈をひいて、涙で潤いを帯びている赤い瞳があった。鼻をすすり、涙で頬を濡らし、十六夜は泣いているのだった。

「よかった…お嬢さま…ご無事で…」

 ひときわ大粒の涙をこぼすと十六夜は私に抱きついてきた。お見舞いの品の籠が十六夜の手から落ち、フルーツたちが床を転がる。

「お嬢さまっ、お嬢さまっ…咲夜は…咲夜は…」

私の胸に顔を埋め嗚咽を漏らす十六夜。涙のしずくがシャツにしみ、強く抱きしめられた胸が苦しい。けれど、私はそんな彼女を体力的にも心情的にも突き飛ばせる訳もなく、ただ戸惑いの表情を浮かべるしかなかった。
 十六夜の言葉は啜り泣く声にかき消え今では嗚咽が漏れるばかり.私よりも年上の女性が私の胸の中でおいおい泣いている。こんな時、どうすればいいのか過去の記憶のない私には分からなかった。知っている知識の中にも解決方法はない。
 助けを求めるよう視線をさ迷わせていると紅美鈴が咲夜さん、と声を上げて駆け寄ってきた。大丈夫ですか、と慰めるよう肩を抱く。

「咲夜はね…」

 そんな二人の様子に見入っているとノーレッジが静かに口を開いた。

「貴女のことをずっと心配していたの。月並みな言葉だけれど、食事も喉を通らないぐらいにね。毎日足げにここに通って、貴女のお見舞いに着て、その度に面会謝絶です、って追い返されて。馬鹿よね。貴女が元気になったらすぐに連絡しますって言われてるのに。でも、それぐらい咲夜は貴女のことを心配していたのよ。完璧主義で合理主義者で人前で絶対に激しい感情なんか表さないこの子が今、こんなにも取り乱すぐらいにね」

 そう十六夜のことを語るノーレッジ。その彼女の目にもじんわりと涙が浮かんできている。

「本当に、本当に、馬鹿みたいに心配していたんだから。貴女は多分、八意永琳から咲夜のことをお屋敷の使用人としか聞かされていないんでしょうけれど、それは大きな間違いよ。ただの使用人が貴女のためにこんなに涙をながすかしら? こんな顔をするかしら? 貴女は咲夜の大切な人で、咲夜は貴女の大切な人なのよ。レミィ、貴女が記憶を失っていてもそれは、それは本当に変わりない真実なの。いいえ、咲夜だけじゃないわ。そこにいる美鈴も家に置いてきたこあも、そして私も貴女のことを大切に思っている。だから、咲夜の代わりにもう一度言うわ。


 ほんとうに、貴女が無事でよかった…






 ッ―――とノーレッジの白い頬の上をこの上なく美しい雫が流れ落ちていった。
 気がつけば十六夜を介抱していた紅美鈴もざめざめと泣いている。
 その涙の意味を私はやっと理解できた。彼女たちはレミリア・スカーレットの使用人や友人ではない。血の繋がりはないかもしれないけれど、それよりも確かな家族という絆で結ばれた大切な仲間なのだ。

「お嬢さま…」

 十六夜が涙で泣きはらした顔を上げてきた。私は空を掴むように上げていた手を折り曲げると優しくその十六夜の頭を抱いた。

「ありがとう。私は大丈夫だから」

 柔らかな銀糸の中に自分の顔を埋め、耳元に囁きかける。過去から断絶し、レミリア・スカーレットではない私が出来る精一杯の家族らしい行動。

「お嬢さま、お嬢さまっ」

 また、十六夜が泣き始めた。私は幼子をあやすよう、その頭を優しく撫でてあげる。そのたびにぎしりぎしりと心が軋む。彼女が泣いてくれているのは私自身ではない。かつて、この体に収まっていたレミリア・スカーレットという吸血鬼のためだ。ここにいるのは彼女と同じ顔と体をした今のところただの別人だ。吸血鬼ですらない。そんな彼女の胸に顔を埋め十六夜咲夜はざめざめと泣いている。レミリア・スカーレットが無事だったことを喜んで。私ではない彼女の為に。いいや、十六夜だけではない。ノーレッジも紅美鈴もまぶたを腫らし、頬を濡らして涙を流している。彼女のために。レミリア・スカーレットのために。
 とてつもない疎外感を覚える。この中で私だけが彼女のために涙を流す資格をもっていないのだ。
 けれど、私はその心情を吐露したり彼女らに気づかれたりしてはいけない。もし、バレてしまえばそれは彼女らの美しい涙を無為にしてしまう。穢してしまう。汚してしまう。だからこそ、私は十六夜たちの涙を真実であり続けさせるために嘘をついた。



 ―――体は治ったし、記憶は失われてしまったけれど、私はあなた達の家族よ、と。



 出会ってまだ数分、服の趣味も何が好物なのかも、犬派なのか猫派なのか、どんなお話が好きで今までどんな人生を歩んできたのか、何一つ知らない赤の他人のために、私は嘘をついた。










 その日の面会はものの十分ほどで終わってしまった。
 八意医師が私の体調を考えて、面会終了を告げに来たのだ。
 十六夜はもう少しだけ、と粘ったが最後は紅美鈴やノーレッジの言葉を聞き入れまた明日、と手を振って私の病室から出て行った。

 今日ほど、明日の訪れが怖いと思った日はなかった。










――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――








「…………………」

 明け方頃。私はベッドに横になったまま薄ぼんやりと目を開けて天井を眺めていた。合板で出来た真っ白な天井。ここのナースたちはきれい好きなのだろう。しみ一つなく、空虚ささえ覚える白が広がっている。

「………」

 そんな天井を眺めながら私は自分自身について考えていた。私は一体、何なんだろう、と。
 私が記憶を失ったレミリア・スカーレットだということは分かっている。だが、今の私はレミリア・スカーレット本人ではない。レミリア・スカーレットというPCを修理中、仮に起動させるため内部のプログラムをつなぎあわせて作った仮のOSだ。大事な記憶へのアクセス権限はなく、マシンの性能の10%も使えていないへっぽこな人格。

「………」

 八意医師の話ではこの体が吸血鬼として完全に回復すれば私は以前の、レミリア・スカーレットとしての記憶を取り戻す可能性がある。それはまだまだ不確定な話だが、もしそうなった場合、今のこの私の人格や一週間足らずの記憶はどうなってしまうのだろう。思い出した記憶と人格に統合されるのか、それとも使えないデータとして消去されるのか。いいや、恐ろしいのはそれだけではない。逆にレミリア・スカーレットとしての記憶が戻らなかった場合、私はこれからレミリア・スカーレットとして生きていかなくてはならないのだ。十六夜やノーレッジの視線に注意し、彼女らの想い出と齟齬がないようにしなければいけない。昼間、彼女らが見せたあの涙に報いるためにも、この体はレミリア・スカーレットであり続けなくてはいけないのだ。

「……」

 覚醒の後に憶えた無重力空間に放り出されたようなあの恐怖心がまた浮かび上がってくる。今度のそれは過去がないことに対する足下のおぼつかなさではない。私自身の未来がないことに対する恐怖だ。
 記憶が戻ろうとも戻らなくとも今、この脳みその中に詰まっている私の人格は遠からず私自身だけのものではなくなるだろう。
 誰もがそれを求め、私自身、それがもっとも正しい流れだと認めている。





 けれど…








「いやだ…」

 私という人格は死ぬべき定めにある。けれど、どこの世界に自分が死ぬべきと言われて心の底から納得できる人がいる?












――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――









「……?」

 レミリア・スカーレットが、その体に仮に収まっている彼女が己の行く末について悩んでいるその頃…ナースの詰め所に甲高いブザーの音が鳴り響いた。
 眠たげに眺めていた雑誌から顔を上げる優曇華。

「はぁ…また?」

 苛だたしげにため息をついて優曇華は雑誌を閉じた。壁に備え付けられた電光板のランプの一つが赤々と点灯している。各病室のナースコールや自力では動けない重体患者のバイタルサインと連動している警報装置だ。けれど、優曇華は慌てた様子を見せない。二つしか点灯する可能性がないランプの内一つを一瞥するように確認すると椅子から立ち上がった。

「666号室。やっぱりまたか」

 椅子に引っかけてあったカーディガンを羽織り、鍵のかかった棚からピストル型の注射と麻酔のアンプを取り出す。

「本当に面倒臭いなぁ」

 また、ため息混じりにぼやいて優曇華は詰め所を後にした。





 薄暗い廊下を懐中電灯で照らしながら歩く優曇華。廊下は酷く静か。優曇華の足音以外は何も聞こえない。当然だ。誰もいないのだから。病室は空っぽいで注意する部屋はたったの二つだけだ。

「フランドールさん、大丈夫ですか」

 と、問題の666号室までやって来た優曇華は軽い調子で扉を開けた。この病室に入院しているフランドールという少女は精神障害を煩い、発作的に暴れだしたり自傷にはしることがある。その頻度はとても高く、病院としては可哀想ではあるが彼女をこの特別病棟に入れた上で更に両手足を拘束し、更に頭部への打撃を防ぐためにヘッドギアとマスクまで付けなくてはならなかった。それでもなおフランドールは拘束された状態でも昼夜を問わず暴れ、時として呼吸困難や心拍数の異常増加を起こしたりしているのだ。この所、その頻度は更に高く、優曇華はこうして三日連続で彼女の様子を見に来ているのだった。ポケットに入れたピストル型の注射と麻酔はその為だ。今のところ、フランドールが落ち着くには薬の力に頼るしかない。適当に診察した後でそうやって今日も眠らせようと優曇華は部屋の中へ入り…そうして、今日はそれだけでは済まないことを思い知った。

「ふっ、フランドールさん!?」

 ベッドの上、両手足を拘束されているフランドールはびくびくと数十分前に水揚げされた瀕死の魚のように体を痙攣させていた。

「ちょ、大丈夫ですか!!?」

 慌てて駆け寄る優曇華。ベッドの上のフランドールは体を横向きにしている。寝ていると言うよりは倒れているといった方が描写としては正しい。その頭の付近、毎日取り替えられて清潔なはずのシーツが異様に汚れていた。フランドールの顔の下半分を覆っているマスクの隙間から何かが漏れ出している。すえた匂い。吐瀉物だ。びゅーずるずると鼻風邪の酷い時のような音を立てフランドールは何とか呼吸している。だが、吐瀉物で空気穴が詰まったマスクではまともに息は出来ないだろう。これがアラームの原因か、と優曇華はマスクを取り外そうとする。

「ああっもう、こっちは頭の方のベルト!? ちょ、フランドールさん、じっとしてて!」

 混乱しているのか、フランドールは優曇華の邪魔をするように頭を振り回す。それでもなんとか四苦八苦しながらフランドールのマスクを外すことに成功した。

「うっえぇぇぇぇぇぇぇぇ…」

 瞬間、口の中で行き場をなくし留まっていた胃からの逆流物をベッドの上に盛大にブチ撒けるフランドール。その後もゲホゲホと咳き込み、苦しそうに激しい息をしている。

「だ、大丈夫」

 もう少し助けるのが遅ければフランドールは死んでいたかも知れないのだ。優曇華がおずおずと声をかけるがフランドールは咳き込むばかりでまともな反応を返さない。

「と、とりあえず師匠を呼ばないと…」

 これは自分の手に余る、と判断し優曇華はなんとなしに自分が入ってきたばかりの扉の方へ目をやった。開けっ放しの扉。向こうから廊下の薄明かりが入り込んできている。そこへ…

「え?」

 不意に荒く臭い息を耳元に吹きかけられ優曇華は振り返った。それがいけなかったのかどうでもなかったのか、判断のしようはない。振り返った優曇華が見たのは…

「ガァァァァア!」

 糸を引く涎。乱杭歯の間に挟まった汚物。真っ暗な洞のように見える喉。目の前に大口を開けたフランドールが迫っていたのだ。
 それを前に優曇華が出来たことと言えば疑問符を一つあげることだけだった。そのままフランドールは虎鋏のように口を閉じ、がぶり、と優曇華の鼻を囓った。囓り、噛み切り、喰らった。

「ひびゃぁぁぁっぁぁぁ!!!?」

 悲鳴をあげ倒れる優曇華。その顔は流血で真っ赤だ。叫び声が間抜けなのは顔面にあるべきもの…鼻がないせいだ。余計な空気が漏れだし、まともな発音が出来ないでいる。血まみれの顔面を押さえ優曇華は床の上でもがく。じゅしゅぅ、じゅしゅぅと鼻炎患者のように水音を立てて息を繰り返す優曇華。吸う度に血が喉の方へ吸い込まれていき吹き出す度に血が飛沫を散らす。

「たふぇへ…」

 聞き取れない声で助けを求める優曇華。だが、無駄だ。
 フランドールはベッドから飛び降りるとそのまま床の上でのたうち回っている優曇華の上に膝から着地。ぐぇっ、とお腹を潰され優曇華が悲鳴をあげる。灰の中の空気全てが押し出され、優曇華の動きが一瞬止る。その隙にフランドールはまた大きく口を開けるとがぶり、と優曇華の白い喉元に噛みついた。まるで獣の…いや、吸血鬼の動作だ。鼻と同じく深々と歯を肉に突き刺すとフランドールはそのままその部位を引き千切った。優曇華の喉から夥しい量の血が噴き出して床に血溜りを作る。優曇華はその上で溺れるようにもがいた後、二、三度痙攣するよう息を吸ってから絶命した。

「ハァハァハァ…」

 暫く優曇華の上に馬乗りになって息を調えていたフランドールだったが、回復もそこそこに体を折り曲げるとまた口を開いた。優曇華の亡骸に更なる暴行を加えようとしているのかと思えばそうではない。自分の足を縛り付けているベルトを外そうとしているのだ。強靱な布で作られていたベルトだったが意外に金具の部分は弱くフランドールはそこを噛み潰すことで何とか足の拘束を解くことに成功した。ぺっ、と折れた金具と優曇華の血が混じった唾を吐き捨てる。次は腕の拘束だが、こちらはそもそも口が届かない。適当に涎と優曇華の血で服を汚しただけでフランドールは拘束を解くのを諦め、結局そのままにして立ち上がると血の足跡を残しながら自分の病室を後にした。

「お姉さま、アァお姉さまっ」

 廊下を走るフランドール。目的地は…













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











「…?」

 うとうととしかけていた意識が覚醒する。
 今、誰かに呼ばれたような…

「気のせい?」

 目蓋を開けて病室の入り口の方へ視線を向けるが当然、誰もいない。僅かに開いた扉から廊下の薄明かりが差し込んできているだけだ。
 そのせいだろうか。妙な肌寒さを憶えているのは。

 私はもぞもぞと布団から這い出ると扉を閉めるためにスリッパを履いた。足下がひんやりと寒い。私は一度、身震いしてから自分の身体を抱きしめるような格好で扉を閉めに行った。

 と、

「………」

 ふと、また、誰かに呼ばれたような気がして、ドアノブを掴んだところで私は動きを止めてしまった。
 気のせい? 幻聴? ストレスから聞こえもしない呼び声を聞いているのか。
 いや…

「この声、何処かで」

 私は扉をゆっくりと開けた。部屋の中よりも更に気温は低いらしく、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。廊下は非常灯の明かりがついているだけで薄暗く、少し扉を開けたぐらいでは様子は伺えない。私は少しばかり恐怖を覚えながらも半開きだった扉を開いて肌寒い廊下へと出た。

 暗い廊下は端が伺えず、まるで無限回廊に迷い込んだような錯覚を覚える。何処まで行ってもこの廊下は続いているのではないか。まさか。私の病室を背に左へ進めば喫煙室。右に行けばトイレ。その向こうには私が目覚めた特別病棟がある。暗いから無意味な想像が働き、ありもしない事を考えてしまっているだけだ。

「あれ、向こうの電気。切れかかってる…?」

 と、私は廊下が妙に暗い理由に気がついた。非常灯の電灯の寿命が来ているのだ。ちかちかと点滅する電灯。そのせいで余計に廊下の明暗がはっきりと別れて見える。まるで影絵の世界だ。黒い画用紙を切り取ってライトの前にかざし、白い壁に作られた幻の世界。だからか、そこに誰かが立っているように見えてしまったのは。

「……っ」

 知らずの内に顔が引きつり、生唾をゴクリと飲み込んでしまう。なぜだか知らないが私の本能が危機を知らせている気がする。早く扉を閉めて病室に戻れ。鍵をかけてシーツを頭から被り、丸まって朝の到来を待てと。
 けれど…

「アァ、お姉さま、お姉さまっ」

 私は聞いてしまった。
 幻聴ではなく。本当に私を呼ぶ声を。あの私が目を覚ますきっかけになった壁の向こうから聞こえてきていたあの声を。

「えっと…」

 どうしたものかと私は戸惑う。
 お姉さま、と私を呼ぶ声。あの声の主が話に聞いていたレミリア・スカーレットの妹、フランドール・スカーレットなのだろう。けれど、彼女が十六夜たちのように私のお見舞いに来てくれたとは思えない。フランドールは精神を病み、特別病棟で治療中。家族でさえ一切の面会を許されていない状況だと優曇華から聞いていた。恐らく今後ずっと病室から出ることもないだろう、ということも。だから、考えられるのは一つ。フランドールは一目を盗んで私に会いに来たのだ。健気、と言うべきなのだろうか。けれど、壁越しに感じたあの狂気。フランドールのことを話す時の優曇華の不安げで脅えた表情を思いだし、そうしてこの廊下の薄ら寒い空気に触発されたのか、健気なんて言葉はまるで彼女には似合わないと思った。あれは健気などと言う優しい感情でここに来たのではない。アレは…アレは…

「お姉さま…」

 フランドールが近づいてくる。点滅するライトのせいでその歩みはコマ落ちしたフィルムの様に見える。知らずの内に私は一歩、後ずさっていた。

「えっと、フランドールさん、でしたよね。その、私の妹の…」

 フランドールはどんどん近づいてきている。ぴたぴたと足音を立てて。私はそんな彼女を押し止めるように声をかけた。けれど、フランドールの歩みは止らない。酔ったようにふらつく歩みでなおも進み続け、そうして、ついに私がしっかりと視認できる位置まで近づいてきた。ぴかぴかと明暗を繰り返すライトにフランドールの姿が浮かび上がる。

「え?」

 その姿を見て私は一瞬、自分の正気を疑った。姿を現したのは自分と同じ年ぐらいの幼い少女だ。それはいい。妹なのだから当然だろう。でも、私はフランドールの姿を直接見るまではまだ安易に考えているところがあった。フランドールがあの特別病室から抜け出してきたのだとしたら、適当に諭して、優曇華辺りを呼んで帰ってもらおうと思っていたのだ。けれど、それが甘い考えだったことに気がつく。

「なに、それ…」

 フランドールは異様な格好をしていた。
 真っ白で丈夫そうなつなぎを着せられている。いや、つなぎと言うより着ぐるみだ。手と足の先まですっぽりと覆う形になっている特殊な形状の服だ。太股の部分にはベルトだろうか、潰れた金具がついた紐がぷらぷらと揺れており、両方の手は逆側の肩の辺りでベルトでしっかりと固定されている。まるで輸送中の囚人のような格好だ。こんな小さな子供にそんな格好をさせるだけでも精神の拮抗がぐらつきそうなのに、あろう事かフランドールは…

「噛みついてきたの。兎のお姉さんに」

 口の周りから胸の辺りまでを自分のものではない血で真っ赤に染め上げて。

 見れば足下も血で汚れている。
 抜け出してきた、は恐らく間違いだろう。アレは、アレは、人一人殺してここまでやって来ている。

「ひっ…!」

 組み伏せられ喉元にがぶりと噛みつくフランドールの姿がイメージされる。まるで吸血鬼。いや、そうだ。忘れきっていたが私が吸血鬼だというのなら当然、妹のフランドールも吸血鬼で、そうして、まだ再生中の私とは違い、妹のフランドールは精神を病んでこそすれその体はまごう事なき吸血鬼の体なのだ。

「いっ、イヤァァァァァ!!」

 本能的な恐怖にかられ私は踵を返すと一目散に逃げ出した。

「っ、お姉さま! 待って、待ってください! アァ、アァ!!」

 フランドールが追いかけてくる。一瞬で追いつかれるかと思いきやフランドールの足は普通の少女のそれだった。いや、両手を縛られているせいでバランスが上手くとれていないのかなお遅い。それでも自分の逃げるペースを作れる程、私には余裕がなかった。走りにくいスリッパを脱ぎ捨てると、私はフランドールを引き離そうと走る速度を上げた。

「誰かっ! 誰か助けてください!!」

 ついでに大声を上げる。とても自分一人の力で解決できるとは思えなかったからだ。
 私は髪を振り乱し、荒い息をついて廊下を走り抜ける。

「お姉さま! まって! お姉さま!」
「助けてッ!! 誰か! 先生を! 八意先生を呼んでください! おそっ、襲われてるんです!!」

 尚も大声をあげ助けを求める私。けれど、助けはおろか病室から顔を出す者さえ現れなかった。ナースたちも駆けつけてはくれない。病院は私とフランドールがたてている音を除けばそれ以外の音は皆無。異様に静まりかえっている。みんな深い眠りについて気づかないでいるのだろうか。そんな馬鹿な。絶対にあり得ない話だ。これだけ騒がしければ野次馬根性で外の様子を伺う輩が出てきてもおかしくないだろう。現に私はそうしたのだ。なのに、なんなんだこの病院は。いや、幻想郷というのは何が起こっても我関せず無視を決め込むのが常識なのか。それともみんな、私を追いかけてきているあの子が吸血鬼だと知って脅えて顔を出さないでいるのか? ナースたちも? 冗談じゃない。私も吸血鬼だから自分で解決しろとでも言うつもりなのだろうか。無理に決まっている。今の私は人間とさほど変わらない程度の力しかないんだ。あんな…あんな化物に捕まったらそれこそどうなるのか分かったものじゃない。

「お願いです! 誰か! 誰か助けてください!!」

 声の限り叫ぶ。全力疾走を続けながらそんな真似をして体が無事で済むはずはなかった。心拍数は倍速で上がり、心臓が痛みを訴え始める。酸素の不足に肺は悲鳴を上げ、喉がゼイゼイと嫌な音を立てる。
 それでも、

「何で誰も、誰も、誰も出てきてくれないんだ!?」

 助けは現れなかった。
 永琳も優曇華もレミリアの家族も誰も誰も誰も誰も。

「ハァハァ…?」

 いや、それ以前に、

「ちょっと、まって…」

 今上げた五人と私を追いかけてきているフランドール以外に、私は誰か他の人物の顔を思い浮かべられなかった。
 それは忘れているというわけではなく、そもここは病院だというのに私は他の患者や優曇華以外のナース、八意医師以外の医者を目にしたことがないのだ。記憶を失い目覚めてから一週間足らずの私の対人関係はそれだけだ。トイレに行く時、よく顔を合わせる隣の病室のお婆さんとかリハビリがてらに院内を歩き回っている時に挨拶してくれるナースだとか八意医師が忙しい時に代りに私を見てくれる医者だとか、そういった人に私は一度だって出会っていないのだ。
 これはいったいどういう…

「っ、明かり…」

 と、闇雲に走っていると窓から強い明かりを漏らしている部屋を見つけた。確かナースの詰め所だ。あそこに行けば宿直のナースか誰かがきっといるはず。私は悲鳴を上げる体にむち打って詰め所まで走っていった。

「すいません! 助けてください!」

 その勢いのまま、扉を開け中に転がり込む。事務机が並べられた十畳程の広さの部屋だ。机の殆どは並べてそのまま使っていないかのように綺麗で、たった一つだけ医療関係の本やカレンダー、ペン立て、それと雑誌が裏向きに置かれている机があったがそれだけだ。棚も同じ。殆どは空っぽで唯一、鍵がかかった棚に医薬品らしきアンプルや小瓶が入れられているだけだった。まるでつい最近、作ったような雰囲気。けれど、どこか既知感がある。いや、私はこんな真新しさを感じる風景を日常的に目にしている。真新しいトイレットペーパーが置かれたままのトイレ。傷一つない綺麗な廊下。染みや埃が全くついていない天井。この病院の殆どがそんな風につい最近、建てられたかのように真新しいことに今更ながらに私は気がついた。

「はぁはぁ…なん、なの…?」

 追いかけられることとは別の恐怖が浮かび上がってくる。強烈な違和感が変化したそれだ。これだけ騒いでいるのに誰も出てこず、私は八意医師と優曇華以外の病院関係者を見かけたことがなく、自分以外の入院患者も私を訪ねてきたあの三人以外の来客も見ていない。逃げ込んだ詰め所は殆ど使われた形跡がなく、真新しいまま。なんなんだ。なんなんだこの病院は? 何かが、何かがおかしい。

「っ…」

 けれど、そのおかしさを解明している場合ではなさそうだ。私が逃げてきた方向からまた足音が聞こえてきた。フランドールが追いついてきたのだろう。どうする? これ以上闇雲に逃げてもいつかは追いつかれるかも知れない。そこら辺のロッカーにでも潜んでやり過ごそうかと部屋を見渡す。と…

「あれは…」

 私が入ってきた方とは別の出入り口の向こう側の廊下に誰かいるのに気がついた。廊下は薄暗く、加えて窓の下半分はプライバシー保護のためかスモークガラスになっていてよく分からないがどうやら長い黒髪の女性らしい。八意医師ではない。私が唯一知っているどの人たちとも違うようだ。けれど、天の助けと私はその人物を追いかけて詰め所から出た。

「すいません! どなたか存じませんが助けてください!」

 外に出るなり声を上げるが謎の人物は既に何処かに行ってしまったのか姿が見当たらない。どこに行ったのだろうと辺りを探していると後ろから勢いよく扉が開けられる音が聞こえてきた。

「お姉さま! お姉さま!」

 フランドールだ。私は忌々しげに顔を歪ませるとまた走り出した。この辺りはリハビリがてらの散歩でも来ない場所なので作りがよく分からず闇雲に走る事になるが知っている場所へ引き返す余裕もない。後ろから近づいてくる足音に急かされるよう、私は荒い息をつきながらも必死に走った。

 突き当たりを右へ、渡り廊下を通り、浴場の前を走り抜け、長椅子が並べられた受付へ。右に逃げるか、隠れるか、一瞬逡巡して、そこが病院の入り口だと気がついた。閉ざされたガラス戸の向こうへ竹林が見える。一瞬、躊躇った後、私は入り口の扉を開けて病院の外へ逃げ出した。外はぼんやりとだが明るくなってきている。夜明けが近いのだ。私は永琳医師から聞かされた吸血鬼の特性、私の体のことについて思い出していた。

―――直射日光に当てて貴女を灰にするぐらいしか…

 そうだ。この体が直射日光で灰になってしまうなら同じ吸血鬼であるあのフランドールもまた日の下にさらけ出せば灰になるはず。自分は何処か陰に隠れてあいつを朝日が当たる場所へ誘い込めば或いは。
 危険な賭だったが誰も助けに出てきてくれない以上、それしか手はなかった。
 病院前の庭に当たるとこの踏み石を一足飛びで駆け抜け、両サイドを背の高い孟宗竹で囲われた山道へ。素足では足の裏が痛かったが無視し、駆け抜ける。

「はぁはぁはぁはぁ…」

 胸が苦しい。尖った石でも踏みつけたのか足の裏が痛い。体は疲労困憊で今にも倒れそう。目覚めると記憶喪失になっていて、自分は吸血鬼だと医者から聞かされ、私の純粋な自我は喪われることが運命づけられている。今まで入院していた病院はおかしな場所で私が知っている人以外は誰もいず、つい最近作られたような真新しさだった。そうして、後ろからは気が狂った妹が追いかけてきている。あの妹が私に追いついて何をするのかは分からない。けれど、身の危険を感じることは確かだ。だから逃げる。私は逃げる。死にたくはないからだ。

「はぁはぁはぁはぁ、あははははははっ!」

 そうだ、死にたくない。死にたくないのだ、私は!
 私はレミリア・スカーレットという吸血鬼で十六夜咲夜やパチュリー・ノーレッジ、紅美鈴がその帰りを待っている? それがどうした!? レミリア・スカーレットなんてクソくらえだ! 私は私だ! 名前もない! 一週間足らずの人生しかない! 友人も親族もいない! たった三週間前に生まれたばかりの赤子のような人格! それが私だ! それでも、それが私なのだ! この体が吸血鬼として完全に再生して、レミリア・スカーレットの記憶が戻り私の自我が飲まれるのか消されるのか分からないがそんなのは嫌だ。そうならなくてもこのままレミリアとして生きていくのもごめんだ。私は私なのだ! 私という確固とした一つの人格なのだ! 例え仮初めであろうとも、私は、私として生きていたいのだ。死にたくはないのだ。だから逃げる。ああそうだ。逃げてやる。レミリアにならなくてはいけない運命からも、追いかけてきている妹からも、この幻想郷という楽園からも! 私は逃げて…

「え…?」

 狂喜に浮かされ走りながら笑っていた私の顔が凍り付いた。
 竹林を抜け、そこに出てしまったからだ。



 八意医師から幻想郷は1800年代後半程度の文明レベルだと教えられていた。藁葺き屋根や粗末な木製の小屋が建ち並び、田園が広がり、未だに馬が主要な交通手段になっているような場所をイメージしていた。

 けれど、竹林を抜けたそこにそんなものはなかった。
 竹林を抜けた先は切立った崖で、その向こうにあったのは…朽ちた無数の塔だ。




 一体、何でできているのだろう。規則的な並びで全く同じ高さと形をした塔が地平線の彼方まで並んでいる。廃墟、なのだろうか。遙か眼下に見える塔には人の営みを表す灯の光が全く見えない。これだけ遠くても分かる。あの無数の塔には誰も住んでない。何も残っていない。文字通りの廃墟が地平線の向こう、恐らく地球上全てを覆っている。
 酷い悪夢を見ているような光景。けれど、足の裏の痛みが上がった息がこれが現実だと教えている。

「あああああああ…」

 私は愕然とし、呻るような声を上げた。一体、どういうことなんだ。ここは一体、どこなんだ。

「お姉さまっ! お姉さまァ!」

 そんな私を急かすよう、竹林の向こうから声が聞こえてきた。そうだ逃げないと。私は周囲に視線を向けた。おあつらえ向きに岩が一つ、崖のすぐ側に転がっていた。地平線の向こう…恐らく東側がぼんやりと明るくなり始めている。夜明けはもうすぐだ。私は急いでその岩のところまで行った。

「お姉さま…どうして、逃げるんですか…?」

 岩に身を隠すとフランドールが竹林の中から現れた。眼下に広がっている無数の塔には驚いた様子も見せない。知っていたのか、それとも気が狂っているこの妹には狂ったこの光景はどうでもいいものに映っているのか。
 私は少しでも隠れるよう岩肌に身を寄せ、きつくフランドールを睨み付けた。

「来ないで! 私は貴女の知っているレミリア・スカーレットじゃないわ。私は私だけの人格を持って生きたいの! 貴女や十六夜咲夜なんかとは関係なしにね!」

 フランドールの言う“お姉さま”を否定する言葉を叫ぶ。日の出まであと僅かだ。少しでもフランドールを動揺させ、足止めさせればそれで彼女は朝日を浴びて灰になってしまうだろう。

「そんな…やっぱり、やっぱり、そうなの…」

 私の目論見通りフランドールは足を止めてくれた。けれど、その反応は私が予想していたものと少しばかり違っていた。何を言ってるの、という感じの否定の言葉が返ってくると思っていたのだが、フランドールは何故か肯定ととれる意味の言葉を返してきた。

「やっぱり、貴女はお姉さまじゃなかったのね! 前からそう思っていたの! おかしいと思ったんだ!」
「そう。ええ、その通りよ。私は貴女のお姉さまじゃ…」
「お姉さまに聞いたら『何言ってるのよフランドール』なんて言って…お姉さまは私のことフランって呼ぶ筈なのに」
「……?」

 話が噛み合わない。私はフランドールにそんな事を聞かれたこともないし、そんな風に応えたこともない。一体、何の話を。狂っているが故にまともな会話もできないのか、と訝しげに眉を潜めたところで…一つの考えに至った。フランドールの言っているお姉さまとはこの場合、前の私、記憶を失う前のレミリア・スカーレットのことなのか。

「だから私、貴女のことを偽物だと思ってぎゅっとしてばーんってしたんだ。そしたら咲夜とパチュリーにものすごく怒られて、私…自分が間違ったことしちゃったって思ってすっごく反省してたのに………それなのにやっぱりお姉さまは偽物で、私の方が正しくて…」

 ぎゅっとしてばーん…?
 つまり、レミリアが瀕死の重傷を負ったのはこのフランドールのせい、だということなのだろうか。確かに吸血鬼であるレミリアをあそこまで痛めつけるのは同じ吸血鬼のフランドールなら可能だと思うが。

「兎に角、やっぱり貴女は偽物なんだ! お姉さまじゃないんだ! うん、そうだ。そうに決まっている! 咲夜もパチュリーも騙されて…ううん、違う。きっとあの二人もめーりんもこいしちゃんもみんなみんな偽物なんだ! だからどっかおかしいんだ! みんなみんなみんなヘンなんだ!!」

 私の質問には当然答えてくれず、フランドールは髪を振り乱して訳の分からないことを叫ぶ。その様はまさしく気狂い。狂気に苛まされる狂人の狂態だ。

「ああっ、もう! みんなみんなみんなぎゅっとしてばーんってしちゃうんだから!」

 フランドールが腕を構えてくる。まずい、と私は身構えた。ぎゅっとしてバーンが一体何なのかは分からないが、吸血鬼のレミリアを頭だけが辛うじて残るほどの威力を持った魔術か何かなのだろう。そんな一撃、人間と変わりないこの体で受ければひとたまりもない。今度こそこの体は死に絶え、私自身は愚かレミリアでさえ死んでしまう。だめ、やめて、と声を上げるが狂気にかられたフランドールには最早他人の言葉を聞く力は残っていないようだ。フランドールは私に翳した手に力を込め、それを閉じようとする。

 刹那

「えっ…?」

 はっ、とフランドールが声をかけられたように振り返った。
 その方向には誰もいない。けれど、代りに、地平線の遙か向こう、おおよそ一億五千万キロ彼方から太陽がその神々しい光をおおよそ十二時間ぶりに地上に降り注がせるために昇ってきたのだった。暖かな日差しがフランドールの顔を照らし出し、そのほんの一瞬の後、

「熱ぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!? 熱いよぉぉぉぉぉぉぉぉぉお!!!」

 フランドールは炎に包まれた。余りの熱量に私は思わず腕で顔をカバーする。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 炎の勢いは余りに強く、フランドールは暴れ回り灯を消そうとするが無意味だった。なぜなら炎は体の内側から吹き出しているからだ。皮膚が焼きすぎたソーセージのように張り裂け、そこから火炎が吹き出し、大きく開けられた口からは炎の塊が吐息の勢いでもって吹き上がっている。強力な火炎の前にフランが着ていた服は瞬く間に燃えかすとなり、私の前に一個の火炎魔人が現れた。暫くフランドールは火の粉を散らしながらもがき苦しんでいたがやがてその場に膝をつき、項垂れ祈りを捧げるような格好のまま動かなくなった。それに伴いあれだけ強かった火の勢いもあっという間に弱まり後に残されたのは辛うじて人の形を残した灰の塊だった。

「―――はぁ」

 私はその凄惨たる様に見入り、目を見開いていたが、ついにフランドールが動かなくなったことを知って大きく息を吐いた。






「これからどうするか…」

 暫く私は項垂れたままじっとしていたが、すぐにそうやって休んでいるわけにもいかないことを思い出した。
 太陽はどんどんと昇ってきている。それに伴い私が隠れている岩の影もどんどん小さくなってきている。レミリア・スカーレットとして生きることを否定した私だがこのままでは早くもそれに失敗し、フランドールと同じ運命を辿る事だろう。何とかして安全な場所まで逃げないと。
 そう、ここから逃げる方法を考えていた私の耳に一つ、足音が聞こえてきた。はっ、と顔を上げると病院の方から八意医師が歩いて来ているのが見えた。しまった、見つかってしまった、と私は臍を噛む。けれど、仕方がない。こうなったらフランドールに襲われたと説明し、一旦、病院まで連れて行ってもらおう。また、日の光が差さない安全な夜にでも逃げ出せばいいのだ。私は精一杯、助かったと安堵したような表情…いや、事実そうなのだが、そんな表情を浮かべて八意医師を迎えた。

「た、助かった。先生、早く病室まで連れて行ってくれませんか…」
「………」

 安堵のため息と共にそう口にする。けれど、八意医師はそんな私の言葉に耳を貸さないようにフランドールの亡骸まで近づき、無造作にまだ煙を上げている灰の塊の中へ指を突き入れた。そのせいで辛うじて人の形を保っていた灰の塊は脆くも崩れ、風に煽られ、あの墓標じみた廃墟の方へと流されていってしまった。

「ふむ、とりあえずトリガーによるアポトーシスプログラムは正常に発動するみたいね。実験する必要のないプログラムだと思ってたけど、まぁいいわ」

 指に僅かについた灰を弄びながらそんな訳の分からないことを口にする八意医師。

「えっと」
「ついでに言語コードも試してみましょうか。アンインスト、レミリア・スカーレット」

 やっと先生は私の方へと視線を向けてきた。けれど、その視線は私という個について向けられたものではなかった。言うなれば幾つも並べられたシャーレに向けるような、実験対象を見る時のような何の感情もこもっていない視線だった。いや、女医のその視線はこれが初めてではない。八意医師はいつもこの視線であらゆるものを見ていたではないか。私は愚か優曇華も、病室の壁も、外の風景も、常に。まるで実験の途中とでもいう風に。

「先生…?」

 救いを求めるように手を伸ばす。その手の先、爪にぽっと灯が灯った。赤々と輝く小さな炎。まるで蝋燭の火のようだ。それと同時に体に妙な暑さを憶えた。いや、熱さだ。まるで、先ほどの火柱に包まれたフランのような…

「あ」

 見れば私の体もまた炎に包まれていた。体のあちこちから真っ赤な火炎が吹き上がり、ごうごうと体を燃やしている。とても耐えられそうにない熱さだ。ああ、確かに、この熱量ならどんなに頑丈な体でも灰になってしまうだろう。でも、どうして? 私はフランみたいに日の光に当てられていないのに…

「ああ、そうか。先生が燃やしたのね」

 何となく合点がいった。私は私自身やこの世界、幻想郷について八意医師からしか話を聞かされていない。それはつまり、全ては八意医師の手のひらの上だったということだ。始めから。何もかも。

「畜生…もうちょっと長生きしたかったのに…」

 私はそれだけ口にすると前のめりに倒れた。もう駄目だ。火の勢いが強すぎて、とてもこれ以上は生きていられない。せめて、最後に、と私は顔を持ち上げ、おそらくは一生、見ることの叶わなかったお日様の輝きを目にした。ごうっと、体が炎に包まれ私は絶命した。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――












 ダークタワーが建ち並ぶ地表を太陽が照らし出している。その一点、広大な地球からすれば針で突いたような一点だけ、他とは色の違う場所があった。海もなく山もなく、ただ真っ黒な廃墟の塔が立ち並ぶこの地球上で唯一、森の緑や川の青、花畑の赤が見える小さな小さな里。人や妖怪が弾幕ごっこで遊んでいる小さな小さな楽園。けれど、それらもまた廃墟の塔と同じ人工物だった。

 ―――幻想郷。かつて、住処を負われた妖怪たちの楽園であった場所を再現したこの箱庭が地球上で唯一の色であった。

 その一角、永遠亭と名付けられた場所の一室でこの作り物の幻想郷で唯一オリジナルである八意永琳は片膝をついて、企画書を眺めながらため息をついた。

「んー、やっぱり、フランちゃんのsun値下げ過ぎだったみたいね」

 ぼやいて、プリントを投げ捨て、思うところがあるようにふと視線を彼方へ向ける。そこには規則正しく人工の羊水に満たされたシリンダーが無数に立ち並んでいた。その中には裸の人が…男も女も子供も大人も妖怪も、年齢性別種族を問わず収められている。

「まさか、自分自身が偽物なのに家族が偽物だって気がつくなんて。なんて矛盾かしら」

 そう言って八意永琳は立ち上がるとシリンダーの一つに歩み寄った。高さ三メートルを超えるそのシリンダーの中には生まれたままの姿のフランドール・スカーレットと同じ形をした何かが収められていた。これはフランドールではない。なぜなら同じフランドール・スカーレットが収められたシリンダーがその後ろにもそのまた後ろにも無数に並んでいるからだ。フランだけではない、姉のレミリアも従者の咲夜も、霧雨魔理沙も河城にとりも、永遠亭の鈴仙・U・イナバも因幡てゐも、同じように幾つもシリンダーに入れられ並べられている。向こうの別の機械ではナノマシンを使用した擬似的な幽体でプリズムリバー三姉妹や西行寺幽々子がグロス単位で作られていた。

 タンタンとシリンダーに備え付けられたディスプレイから羊水に浮かんでいる再現フランドールの数値を調節する八意永琳。そこへこつこつと足音を立て何者かが歩み寄ってきた。

「永琳、失敗したの?」
「ええ、姫様、すいません。ちょっと調整不足だったみたいで」

 現れたのは今は無き月の姫君、蓬莱山輝夜だった。失敗したの、という言葉とは裏腹に輝夜の言葉には永琳を責め立てるような色は含まれていなかった。

「それで、実験がてら記憶を完全にリセットして知識だけを残したレミリアさんを作ってみたんですけれど、これがなかなか面白くて。過去の記憶もないのに自分自身の生存を最優先させようとする意志が生まれましてね。自我の定義というものを考え直さなくてはいけないかも知れませんね」

 そう語る永琳ではあったが輝夜は余り興味がないようで、あからさまに欠伸をしてその話を右から左へと聞き流していた。

「まぁ、何でもいいけど頑張ってね。私、もう一度、あの幻想郷を見てみたいから」
「ええ、お任せください姫様。九百九十九万九千九百九十九年前の幻想郷。見事、再現してみせますから」

 胸を張る永琳に期待して待っているわ、とだけ言い残して輝夜は戻っていった。
 後には八意永琳と数千体の幻想郷の住人を再現したイミテーションどもだけが残されていた。





 遙かなる未来の地球。全ての生物が死滅し、人類の文明の遺跡が風化されるままに朽ちていく世界。かつての楽園、地上の幻想郷も子孫たちが作り上げた月の理想郷も滅んだ終末の更にその果て。自らの力で時の環の流れから脱した永琳は幻想郷で暮らしていた時同様、輝夜の我が儘を聞いて日々を過ごしていた。朽ちることも果てることもない体でそんな日々を送っていた。永久の暇つぶし。永劫の趣味。久遠の倦怠。他にすることは全てやり尽くした。他にできることはもうなにもない。ほかにする気も起きない。
 それでも、自分の数億年に達する人生からすればたかだか一千万年の月日などほんの短い間でしかない。

 さぁ、愛する姫を喜ばせようとまた永琳はフランたちの調整に入る。
 












 今度の、三体目の姫様はどこまで私に暇を潰させてくれるのだろうか、と考えながら。




END
ブラディマリーの見ながら書きましたなんちゃってSF


Pixivに投降しようとしたら三万字オーバーですって言われた。
三万字制限とかいくら何でも少なすぎるぞ。せめて原稿用紙100枚ぐらいはOKにしてくれ、ってここで文句言うべきことじゃないよねー
sako
http://www.pixiv.net/member.php?id=2347888
作品情報
作品集:
21
投稿日時:
2010/10/31 16:59:18
更新日時:
2010/11/01 01:59:18
分類
レミリア
フラン
永琳
うどんげ
1. 名無し ■2010/11/01 03:02:50
もこうがいない時点で、ただ一人の、って時点で、あれ?とは思ったけどw
未来永劫暇つぶしなんてきついなあw
2. 名無し ■2010/11/01 03:06:51
某同人誌を思い出した
3. NutsIn先任曹長 ■2010/11/01 08:31:16
死にたくない。
生存本能を持った瞬間、それは命となる。
暇とは、永遠に生き続ける事。
最高の暇潰しは、自分が他者に殺されること。

この永琳は、果たしてオリジナルだろうか。
4. 名無し ■2010/11/01 23:03:40
億単位まで生きるってキツイよね。
まぁ、ある意味では憧れたりもする。
5. 名無し ■2010/11/02 03:53:32
地球まで滅びて宇宙に放り出されたらどうなるのかな
やっぱりカーズ様みたいに考えるのを停止するんだろうか
6. 名無し ■2010/11/03 21:27:00
良かった…永遠に生きるぐーやともこたんは居ないのか…
しかし「て」がタイトルに入っているのは誤字なのか変換がめんどくさかったのか
7. 名無し ■2010/11/04 18:08:03
この話を思い出す同人誌っていったい何なんだろう…
この手の暇つぶしなら全宇宙の知的生命体を馬鹿にして回るのが一番だと思います
8. 名無し ■2010/11/13 18:52:56
私も同人誌を二冊思い出した…
片側はギャグだけどもう片方は↑の方と同じ同人誌だと思う…
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