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『恋する乙女は切なくて、あの人のことを想うとすぐ涙しちゃうの』 作者: んh

恋する乙女は切なくて、あの人のことを想うとすぐ涙しちゃうの

作品集: 22 投稿日時: 2010/11/22 12:23:18 更新日時: 2010/11/26 00:47:01
   
 










――彼女の父親が、多くの人間に慕われた歌聖であり、自分の要望通り桜の下で眠りについた。死後も慕われ続け、現在は神格化され天界に住む。
                             「東方求聞史紀:084頁」












 ― 壱 ―


「で、なんでまたあんたがいるわけ?」

無音の庭園に、嫌味たっぷりの声が響く。

誰であっても、例えそれが最高の知性と力を持つ存在であろうとも、己の身の置き場に悩んだり、激情に流されて思わず我を忘れたりすることがあるものだろう。声の主である八雲紫もそうであった。
頬を小さく痙攣させ口元を歪めたままの彼女は、この後どう話を続けたものか図りかねるといった様子でその場に立ちすくんでいた。毒ばかりを吐き続けるわけにもいかない。なにせ“あんた”の隣には紫にとって一番大切な人がいるのだから。

「あら紫、いらっしゃ〜い」

西行寺幽々子はそんな紫の逡巡に気に遣うこともなく、いつもどおりの暢気で屈託のない挨拶で馴染みの客人を迎える。そんな気心知れた者へのざっくばらんな態度であっても、屋敷の主である彼女の佇まい、所作は、うっとりするほどの荘厳さを備えていた。

「な、なによ、この私がいちゃいけないっていうの? ここは天界から一番近いのよ。」

こちらもまた紫の逡巡など気に留めることもなく、比那名居天子はきんきんとした、雛がさえずるような調子で後から来た客人の挑発に応じる。幽々子の隣に座っていた彼女の顔は、たちまち紅葉のように真っ赤になった。



枯山水の水面に、はらりと紅葉が落ちる。

ここは秋の白玉楼、色とりどりの木々が厳かに死を飾り立てている。
中庭に据えられた枯山水が、音もなくゆったりと流れる。さながら焼骨のように敷き詰められた白砂の向こうには、燃え盛る木々が己の存在を誇示し合うように鮮やかな赤を照らし出している。彼女達が立つ縁側から見た冥界の景色は、長く伸びる垣根を境界として白と紅蓮の二色に隔てられていた。それはまるで火葬場を思い起こさせるような絶景だった。
そう、この幽玄なる屋敷には死が自然に息づいている。秋に潜む死のイメージを穢れとして覆い隠すのではなく、詫び寂びとして風景に取り込んでしまうこの度量こそ、白玉楼が見せる風雅の極致と言えるかもしれない。


「大いにいけないわ。ガキはとっととおうちに帰って、桃でも食べてなさい。」
「あら、天子ちゃんはその桃を一杯持ってきてくれたのよ。紫もこっち来て食べましょうよ〜」
「ははん。見なさい、これが天人としての当然の礼儀ってやつよ! あんたみたいな野良妖怪には到底マネできないでしょうね、い〜っだ!」

彼女たちの会話は、そんな庭の静謐さとは対極の陽気さに包まれていた。
挑発し返す天子、その群青の長髪が上下左右にぴょこぴょことなびく。挑発を返された紫、その金髪が小刻みに揺れてきらきらと輝いている。その二色の間に咲くウェーブがかった桜色の幽々子の髪は、楽しそうにふわふわとはねている。3つの色と喧噪は、赤と白だけで構成された空間に一種人間臭い奥行きをもたらしていた。

この奥行きを、ある人は完全な調和と均衡に保たれたこの空間を乱すノイズとみなすかもしれない。しかしこうした歪み・不均衡の中にこそ真の美しさがあるとみなす人もいるのだ。“完全”は外から眺めるのがせいぜいだが、“不完全”には我々が思いを馳せることができる余地がある。
事実、天子がしばしばこの白玉楼へ顔を出し、幽々子に会いに来る紫と悶着を起こすこの光景を、趣深い冥界は慈しみを持って歓迎していたように思われた。思わずそんな考えにとらわれてしまうほど、このやり取りはここのところ日常茶飯事になりつつあった。

「はっ、薄い胸張ったって何の御利益もないわね。どうせそこら辺になってるの適当にとって来たんでしょ。はい幽々子これ外のお酒。」
「あらうれしい。『天狗舞』は一番好きよ。いつもすまないわね。」
「なによなによ!! 私だって今度すごーいお酒持ってきてやるんだから。それにひれ伏すがいいわ。」
「どうせネクターとか言い出すんでしょ」
「あら私はネクター飲んでみたいわ〜」
「決まりね! 私の勝ち!! あんたの負けよ!! ばぁ〜かざまぁみろ」

縁側から松虫のように跳ね上がった天子は、紫にもう一度あかんべをすると、顔を真っ赤に高揚させたまま要石に載って空へ飛んでいった。幽々子だけがそんな彼女に手を振って送り出す。

「素敵な紅葉だと思わない? ねぇ紫」
「あらそう? まだ葉が完全に色づくには少し早いと思うけれど。」
「いやいや紫。これくらいの時分が一番瑞々しくてかわいらしいものよ。」
「瑞々しい紅葉? 全く幽々子は何処まで優雅なのかしらね。」
「ふふっ、紫が無粋すぎるのよ。」








   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「ふふふっ♪」
「おや、お帰りですか総領娘様? 随分とご機嫌のようですね。」

うきうきとした表情で天界への帰途へつく天子を呼び止めたのは、龍宮の使いである永江衣玖だった。

「だーかーらー、その呼び方やめてよねかたっ苦しいなぁ。それより衣玖、今度ネクターの造り方教えてよ?」
「構いませんが、一体どういう風の吹き回しですか? 総領娘様は確かネクターお好きではなかったと記憶しておりますが。」
「いーの! 私が飲むんじゃなくて私が振舞うんだから。地上のやつに私の魅力を教えてやるのよ。」

「――総領娘様。下々の者への説法も結構ですが、遊行も程々にしていただきませんと……」
「なによ、衣玖までそんなこと言うわけ? あんな辛気臭いとこでずっとつまんない本読んだり、釣り糸たらしてほうけてろって言うの?」


浮かれた調子の天子に冷や水を浴びせるように、衣玖は努めて事務的に進言する。
せっかくの楽しい気分を害された天子は、むっとしたような表情を龍宮の使いへ向ける。


「総領娘様、御無礼を承知の上で申し上げますが少々臭いがきついですよ。またあんな穢れたところに行っておられたのですか? 冥界の死臭の方がよほどたちが悪いでしょうに。」
「天界よりはましよ!」
「そのような穢れを天上へ持ち込むこと自体、本来は許されないことなのですよ。総領様も気を揉んでおられる御様子。天人は天人らしく、死人は死人らしく、自らのあるべき立ち位置を守るべきです。それでなくとも昨今の幻想郷は種族を超えた交わりが大手を振って歩いている始末。智慧浅きものにはそれが楽園に見えるのかも知れませぬが、あれを退廃といわずして何と申しましょうか。」


卑下するようでも怒気を孕んだようでもない声色、ただ淡々と“見解”を並べ続けるだけの衣玖を、天子は忌々しげに睨んでいた。
その抑揚のない声は、天界と同じ、何ら色のない満ち足りた世界そのもの。それこそ天子が何よりも嫌うものに他ならない。


「……もういい。衣玖になんか頼まない。自分でやるからいいよ」
「総領娘様――」
「黙れ。帰って天人らしく書でも眺めることにする。だからあんたも龍宮の使いらしく、自分の立ち位置を守って空でも漂ってなさい。」








   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「また来たんですか……」


「ふん、感謝なさい。この私が来てあげたのよ! ほら、とっとと茶の一つでも出しなさいよね! ったくこれだから土臭い連中は」
「ほらほら妖夢、早くお客様にお茶をお出しして。」
「はい、ただ今。ハァ……」

客人である比那名居天子と主人である西行寺幽々子に促されて、魂魄妖夢は小さく溜息をつく。お茶汲みは本来別の幽霊の勤めであって、庭師兼剣術指南役であるはずの自分には関係ない気もしなくはないんじゃないだろうかと思いつつ、妖夢は半ば反射的に廊下を駆けていった。これもまた見慣れた光景だ。

「まったくいつまでたっても気が利かない奴なんだから……で、今どこまで話したっけ?……んーと、あ、そうそう。であいつったらさー、こないだもバザーで私の顔見るなりいきなり突っかかってきたのよ。その前だってあのボロ神社へ遊びに行ったときぶん殴られたし……えーと、そうそうそのさらに前の宴会んときだってさ……」

今日も中庭の縁側で天子はまくし立てる。横に座る西行寺幽々子は、雅楽に聞き惚れる様な顔をして彼女のさえずりに相づちを打っていた。

「そうね〜天子ちゃんと紫がここで顔会わせるといつもそんな感じね〜」
「そうよ! この間だって私がせっかく桃持ってきてあげたのにキレちゃってさ、更年期障害なんじゃないのあの紫ババア。カルシウムが足んないのね、今度煮干しでも持ってきてやろうかしら。」
「でも貴方は、本当に紫のことが大好きなのね。ここに来るといつも紫のことばかり話すんだもの……」


白玉楼に一瞬静寂が戻る。それまで身振り手振りで紫への思いの丈をぶつけていた天子は、その時確かに固まった。完全に。


「へ?……ん?…………ぁ?………………な、ななっ、ななな何いい言ってるのよあんたバカなんじゃないの!!! 誰があんなクソババアのことなんかっ!!」


フリーズしていた天子が再起動する。先程にも増して大仰な動きで、彼女はそれを必死に否定しようとした。まるでそうしなければ石になってしまう魔法でも掛けられたかのように。


「あらそうなの?」
「だからそれは確かに最近は寝ても醒めてもあいつの事というか何というか顔ばっかり浮かんできたりもするけれどほらそうよ、あれよあれ!! 決して好きとかそう言うんじゃなくてえっとあのその……ライバル、そう永遠のライバルなのよ!! いつかあいつをえとそのあのこうして……」
「ああしてこうしちゃうんだ?」
「そうよいつかこう……ってだからそういう意味じゃなくてほんとにぶっとばしてやろうって!!」




「――だーれをぶっとばすですって?」
「そりゃあの年甲斐もなくケバい服着た……ってふぎゃああぁぁぁぁ!!」

横からいきなり声をかけられた天子は飛び跳ねるようにして縁側から転げ落ちた。しりもちをついたまま再びフリーズする彼女を余所に、幽々子は新たな客人へ挨拶する。

「紫はろ〜」
「え、ほら誰をぶっとばすって? ちゃんと言ってみなさいよ?」

不良がつけるインネンみたい口ぶりで、眉間を痙攣させながら八雲紫は天子に食って掛かる。インネンつけられた方は身の置き場がないような様子で、あわあわと口だけを動かしていた。

「ぁあんたホント神出鬼没過ぎなのよ!! ちょっとは気ぃつかいなさいよ!! ……い、いつから聞いてたの!!?」
「『ホントにぶっとばしてやろうって!』からよ。ん、不良天人様? ぜひ教えて下さらないかしら、次はどちらに別荘建てて不法占拠なさるおつもり?」
「う、うるさいうるさい!! ……あんたよ。そう、耳の穴かっぽじってよーく聞きなさいこの年増! あんたを跪かせてね、あんたんちに居座ってやるまで一生ついて回るっていってんのよ、あ゛〜ちきしょう!!」
「うわキモッ!」
「ふふっ、天子ちゃんよく言った! えらいえらい。頑張れ〜」

天子の耳は真っ赤だった。色づいた葉を愛でるように、幽々子は彼女に声を送る。

「何で幽々子がこの馬鹿の肩持つのよ! 全く……だいたいね、なんで最近冥界に入り浸ってるのよこの洟垂れ天人は! 妖夢、さっさとこの狼藉者を切りなさい!!」
「流石にそれはどうかと……ただ縁側でお茶飲みにくるだけですし。」


妖夢は紫のお茶を淹れに再び廊下を駆け出していった。髪は白いのは心労のせいではない。たぶん。


「そうよ! そう。私はえらーい天人なんですからね! もっと敬いなさいよ? そしたら一生面倒みてあげないわけでもなくはないっていうか……//」
「こいつ妖精並の馬鹿ね。」
「あら、この子はこの子なりに一生懸命頑張ってるわ?」
「これで? じゃあ妖精以下ね。」
「紫、人の話はちゃんと聞いてあげなさいな。」

ぱっと扇子を開いて紫の視線をこちらへ誘い込むと、幽々子は頭に血を上らせた彼女を笑顔で諭した。その表情に思わず紫の表情も緩む。飾り気のない、それでいて代え難い輝きを放つ彼女の笑顔に、さっきまで紫に張り付いていた刺々しさはどこかへ逃げ出してしまったようだった。

素敵な表情を取り戻した紫を讃えるように一つ頷いて、幽々子は再び彼女へ語りかける。

「そうそう紫、今日はうちでお食事していかない? いいお酒が手に入ったの、紫『獺祭』好きでしょう? この間のお礼もしたいし。」
「あら……幽々子はそんな心配しなくたっていいのよ。あんたが私にお礼をする必要なんてないんだから。」
「いいじゃない〜いつもいつももらってばかりで悪いわ。じゃあこうしましょう。お礼とか堅苦しいことなし。私は紫とお酒を呑みたい。だから誘った。それだけよ。」
「そう……気を遣わせてしまってごめんなさい。」
「だからそういうのなし。今夜は冷えるし、天気もほいなし〜って感じだから部屋の中で構わないわよね。妖夢、紫を奥間に案内してあげて。」
「はい。」

口ではそう言いながらも内心は幽々子の提案がうれしかったのだろう、妖夢に先導されて廊下をわたる紫の足取りはとても軽やかに見えた。つい先ほどまでの憮然とした態度が嘘のように、鼻歌交じりで庭を後にする彼女の背中を物憂げに見つめていた天子は、転がっていた身をようやく持ち上げる。

「天子ちゃんもどう? 一緒に食べていきましょうよ。」
「いや、私はいいよ。」

紺色のスカートについた土埃を弱々しくはたきながら、天子は答えた。

「私が行ったらまたあいつ機嫌が悪くなるだけだろうし、せっかくの宴にまた冷や水かけちゃ悪いよ。」
「そんなこと……」

そして色のない表情を幽々子へ向ける。一瞬の沈黙が二人の間に流れた。



「あ、あの、さっきから気になってたんだけどさ、あそこにある石なに?」

先に声を上げたのは天子だった。気まずい空気にしてしまったことを悔いたのか、それとも一瞬の沈黙ですら今の彼女には苦痛だったのか、無理矢理話題をひねり出すように彼女は庭の隅にひっそりと並び立つ御影石を指さした。幽々子は指さした方をちらりと眼をやって、一つ天子へ頷きかけてから答えを返す。


「あれはね、お墓よ。今年の春、冥界に一時預かりになった男女の霊がいてね。なんでも心中だったそうで、地獄へ行く前にお願いがあると言われて。」
「それで墓を?」
「満開の桜の下に一緒に埋められた思い人は転生してもまた巡り合える――そういう言い伝えがあるらしいの。亡骸はないけどせめて墓だけでも建ててくれないかって。」
「そう……そうなんだ。うん、そうか、一緒になれるといいね。」



再びの沈黙。

自殺した霊の転生が困難であることなど、天子も当然知っていただろう。それでも彼女は思わずそう漏らした。そう言わずにはいられなかったのかもしれない。
その他意のない吐露に心うたれたのだろうか、幽々子は静寂でもって目の前の少女を包みこむように、そっと天子の元へ寄り添った。

幽々子は彼女の手をそっと取る。
少しひんやりとしたその温もりを受け取った天子は、一つ息を吸い込むと、意を決したように幽々子に向かって問いかけた。

「ねえ、あんたはさ……あんたはどう思ってるのさ、あの……」
「紫のこと?」
「ん……」
「そうね、好きよ。紫のことは大好き。」
「……ん、あ、それって……」

天子は思わず口ごもる。こういう返答が来ることは十分に予想していたはずなのに、紡ごうとした言葉を彼女は口の中から出せずにいた。そんな天子の反応を見通していたように、幽々子は彼女の言葉を待たずに話を続ける。

「鳥が孵化するときの話は知ってるかしら。卵から孵った雛はね、最初に見たものを親だと思ってついて行くのよ。例えそれがだれであってもね――私もそんな雛だった。現世の記憶を完全に失って、右も左もわからないまま私が冥界へ来たとき、その時からあの子はずっと私の傍にいてくれた。ずっと、ずっとね。」
「へぇ、そう……あいつも意外と良いとこあるんだね、うん……」
「気付けばそれがすっかり自然なことになってしまってね――紫と一緒に過ごすということはそういうことよ。息を吸って吐く、それと同じ。ないなんてありえない。」
「……なんかいいな、そういうの。」
「天子ちゃんはそういう人いないの?」

「いないよ。」

ずっととつとつとした調子だった天子が、幽々子の問いに初めてきっぱりと答えた。

「あっちには私みたいなの相手にする奴なんかいやしない……あんな所だけ人間臭いんだよねあいつら。……上は何もない。まるで鳥かごの中みたいで、ひどくつまらないところ。何にもない癖に何かに満たされてると思ってる薄気味悪い奴しかいない。」

目の前に立つ幽々子から目を逸らしたまま、天子は言葉だけをただ淡々と彼女に放り投げる。

「それが嫌になって地上に降りてきたとき、あいつにこっぴどく叱られた。『美しく残酷にこの大地から往ね』とかさ、かっこつけちゃって馬鹿みたい……でも、あいつが、あいつが初めて私に怒ってくれたの。ちゃんと。あんなに思いっきり感情をぶつけ合えて、思いっきり喧嘩して、終わったら思いっきり呑んで騒いで、あんなの初めてだった。」

淋しげに言葉を続ける少女の肩に手を回して、幽々子はそっとその肩を抱き寄せた。

「――天子ちゃん、もし暇だったらいつでもここへいらっしゃいな。」
「ぇ、あ、でも」
「冬前のこの時期はね、紫はしょっちゅうここへ顔を出しにくるのよ。だからね、貴方も来るといいわ。同じくらいしょっちゅうね。ネクター、楽しみにしてるから、来なきゃダメよ」

「……うん」








   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「あ〜久々に呑んだわ〜」
「ああそんなところで横になってはだめですよ幽々子様。水お持ちしましょうか?」

顔をほんのりと上気させて脚を崩した主人を支えるように、魂魄妖夢は手を差し出した。

「らいじょーぶよー、よぉむぅ」

西行寺幽々子はその体をだらしなく妖夢に預ける。吟醸香と共に、桜色の髪が庭師の膝頭を撫でる。

「ゆ、幽々子様! ちょ、ちょっと……」
「いーのいーの。ちょっとこのまま」

顔を真っ赤に上気させた妖夢は、そのままなし崩し的に幽々子を受けとめる。彼女はよく知っていた。こういう風に甘えてくる時の主人の心持ちを。

「――幽々子様、大丈夫ですか?」
「……それって天子ちゃんのことかな?」
「それもありますが、最近の幽々子様は迷っているように見えます。私はそのことが気がかりで。」

真っ直ぐな精神は、彼女に口をつぐむことを許さなかった。それでも口にした瞬間やぶへびだと気付いたそぶりで顔をしかめる妖夢を、幽々子は膝枕の上からそっと覗き込む。

「――あの子、なんだか放っておけなくてね。」

ぽつりと呟いた幽々子の顔を妖夢の位置からは窺うことができない。それでも声色に先程までの陽気さは感じられなかった。無言の従者へ、主人は言葉を続ける。

「なんだか似てる気がするのよ。」
「似ているというのは幽々子様にですか?」
「そうでもあるし、紫にも、かな。」

幽々子が意図するところがつかめない妖夢は、いつも通りの困惑した表情を浮かべる。それでもやはり実直な彼女は、頭に浮かんだ問いを素直に口にした。

「紫様とどう似ているのでしょうか?」
「ちょっと素直じゃないところかな、あとちょっと意地悪。」
「幽々子様とどう似ているのでしょうか?」
「素直じゃないところと、意地悪なところ。」

再び妖夢はウーンと唸る。そんな反応をしてくれる妖夢が可愛くて、幽々子は彼女の腿をポンポンと叩いた。

「だからね、似たもの同士の紫と天子ちゃんはきっと仲良くなれると思うの。」
「それだと幽々子様も似たもの同士になってしまいますが。」
「あらいいじゃない。3人仲良くできたらもっと楽しいかもしれないわよ?」



「――紫様はそれを望んでいるのでしょうか?」

しばしの間を置いて、妖夢は聞こえるか聞こえないかという小さな声で、はっきりと聞いた。


「私は今幸せだと思うの――紫がいて、妖夢がいて、天子ちゃんみたいな人達が新しく遊びに来てくれて。広くて小さな、まるで鳥かごみたいなこの世界は何物にも代え難い。もしこれが午睡に見た一時の夢だとしても、私は満足している。」

やはり妖夢は幽々子の表情を窺うことはできなかった。

「でもね、あの子は違うの。あの子は此処へ来て楽しそうにしているのに、でもいつも何か満ち足りていなかった。あの子が望んでいるのは何なのか、あの子がどこを見ているのかを、決して私に教えてはくれなかった。だからね、知りたいの。叶えてあげたいの。でもきっと私には叶えられないのでしょうね。でなければ私の横であんな寂しげな表情をするわけがないもの。だから――ふふっ、やっぱり私も意地悪で、ひねくれ者ね。」

妖夢には誰のことを言っているのかわからなかった。幽々子はそれきり口をつぐんで、何も話そうとはしなかった。













――そうねぇ……貴方に足りないものは、
  って、幽々子には言わなくても判るわよね。
                「東方萃夢想:八雲紫」












 ― 弐 ―


「またいる――」


「あ、きたきた。見なさい、これがネクターよ。私が造ったんだから。どう? ぁ、あんたも、どうしても飲みたいっていうんなら……ちょっとぐらいは飲ませてあげてもいいわよ」

自信満々に薄い胸を張って、しかし最後には消え入りそうな声で比那名居天子は白玉楼を訪れた八雲紫に呼びかけた。天子の隣では、笑顔の西行寺幽々子がそのネクターとやらを口にしている。声を掛けられた紫は表情を曇らせたまま、ぶっきらぼうな口調で返す。

「そんなもの飲んだら馬鹿が伝染るわ。幽々子もやめときなさい、お酒なら私が何でも好きなの持ってきてあげるから。」
「あら、でもこれとっても美味しいわよ。とってもあま〜くて、でもちょっとすっぱいの。紫も呑みましょう?」
「とうとう幽々子にも馬鹿が伝染ってしまったわね。酸っぱいネクターなんてただの出来損ないじゃない。」

紫はわざとらしく大きな溜息をつく。“出来損ない”という言葉に一瞬影をさした天子の顔を照らすように、幽々子は言葉を挟んだ。

「紫はお馬鹿さんね〜天子ちゃん?」
「えっ、あ……そ、そうね! 本当に馬鹿よ。ばかばかばか! 知らないっ!」

秋空のようにめまぐるしく表情を変えながら、天子は群青色の長髪を揺らして顔をぷいと横へ向ける。そんなそぶりを見て幽々子は袖越しに笑い声を上げた。それはどこから見ても微笑ましい光景。

だが二人を見つめる八雲紫は、ひとり苦虫を噛み潰したような表情をしていた。



――なんだ今のは、今のうちとけた空気は……何なんだこの糞餓鬼は……最近私よりも早くこの冥界に来て、この白玉楼の、中庭の、縁側の、幽々子の隣りに座りやがって……そこは私の席だぞ。私が、幽々子が、千年かけて育んできた、大事なその席に、何であの忌々しい天人が座っているんだ?



悶々とした表情で立ちすくむ紫の姿を見かねて、幽々子は彼女の手を引いて縁側に腰掛けるよう誘った。一つ息を吐いて、紫は愛しい彼女の提案を快く承諾する。千々に切れそうな心をなんとかもたせながら。
腰掛けた縁側から見える枯山水の波紋、それは紫の心と同じようにぐるぐると渦を巻いていた。ふと鼻を突く甘い酒の臭い。彼女はこみ上げる嘔吐感を必死にこらえる。

「紫。ほらそんな顔しないで、ね?」

いつもの笑顔を向けて幽々子は紫へネクターをつぐ。つがれた液体は不透明でどろりとしており、永遠の命をもたらすような滋養を持ち合わせているようには見えなかった。
横で口を付ける幽々子にもそんなことは分かっているはずなのに、彼女は果物のどぶろくを実に美味しそうに飲んでいた。彼女が味わい、愛でているのは酒そのものだけではなく造り手の心なのだろう。そんなことは紫にも分かっているはずなのに――ほんのり色づいた柔らかな唇が白濁した液体と口づけする。紫の背中にぞっと悪寒が走った。


「でもよくお酒なんか造れたわね〜 誰かに教えてもらったの?」
「まあね。大体は自分で勉強したんだけど、細かいところは知り合いに教えてもらったんだ。」


天子は幽々子の向こうの杯にちらちらと視線を遣りながら問いに答える。

「天人は基本暇だからね、色んなこと知ってる奴がいるんだよ。これ教えてくれたのは確か昔歌詠みやってた奴で、なんか最近酒造りにはまってたらしくていろいろ教えてくれたんだ。そいつは結構面白い奴で、何だっけな、ああ若い時はけっこう立派な身分だったらしいんだけど、突然そういうのを何もかも全部捨てて家族とも別れて、出家してただ歌ばっかり詠んで暮らしたらしくてね。仕舞いには生前の望み通り桜の下で息を引き取ったんだそうだよ。えーとどんなの詠んでたっけ……そうたしか『願わくば花の下にて――」



   バチイィィン!!



乾いた音が無音の冥界に響く。頬を赤く染めた天子は、自分を叩いた紫へ呆然と目をやる。


「え……な、なに」

「いい加減にしろ……いい加減にしろこのアバズレが!!」

「ゆ、紫……あなた何を……」

「許さない……絶対に。貴様なんか、とっとと私たちの前から消えろ!! 目障りだ、消えろっ、消えてしまえっ!!」

口を付けぬままだった杯を叩き割り、紫は憤然とその場を立ち去ろうとする。
遠ざかる彼女を引き留めるように、天子はとっさに紫の袖を掴んだ。


「触るな!!」


すがりつく手を、紫は思い切り払いのけた。腰が抜けたように天子はその場にへたれ込む。
その拍子に、腰元に忍ばせていた小壺が音を立てて割れた。甘い香りと共に中に白濁した液体が飛散する。思いを寄せる彼女に渡そうと、心をこめて造ったネクターが。

狂ったような激情に苛まれた紫は、その美しい顔をグシャグシャに歪め声にならない呻きをあげながら、空間の裂け目の中に融けていった。








   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「――ごめんなさい。私、何もできなかった。」


白玉楼の奥間は闇に覆われていた。わずかに灯る行灯の光に照らされて、幽々子は周りの闇よりも一層暗い影の差した顔を天子へ向ける。

「いいんだよ。別にあんたが悪いんじゃない。私が、私が全部悪いんだ。私が馬鹿だったのが悪いんだよ」

真っ赤になった瞳を光の中にゆらめかせて、天子は抑揚のない声を返す。彼女を包む服も、また色のない服だった。
いつもの極彩色の一張羅は転んだ拍子に酒浸しになってしまった。せめての償いにと幽々子からお湯と服を貸してもらった天子は、借り物の不釣り合いな羽織をもてあましながら群青の長髪をだらりと垂らし、幽々子の前で丸くなっていた。


「私、私やっぱりダメなんだね。悪いことして、あいつの大事なものに傷つけようとして嫌われて、もう一生許してもらえないんだね……ヒック グスッでも…あいつのこと……ック…好きなんだよ……忘れられないんだよ……どうしたらいいの……分かんないよ」


湯浴みしてきたとは思えないほど腫れぼったいままの眼をうるませて、天子は肩を振るわせる。自分も泣いてしまいそうになるのを必死にこらえながら、幽々子は彼女の肩を引きよせた。

「ごめんなさい、私が甘かった。紫は天人という種族をよく思ってないだけだと思っていた――そんなそぶりは前から見せていたから。だから天子ちゃんと暫く顔を合わせれば、きっとそんな誤解は解けると、簡単に考えてしまっていた。」

幽々子にいつものゆるゆるとした雰囲気はない。まるで行灯の中の蝋燭のように、彼女の心は呵責の念に燃やされながら、己を融かしつくしてしまいそうだった。



「明日、紫の所へ行って謝ってくる。」

くぐもった空気を断ち切るように、幽々子は決然とした声で言った。

「――そうだね、謝らないとね。私も謝るよ。ちゃんと謝る。どんな言葉を並べても償うことなんてできないかもしれない。けど、それでも謝らないと。」

その声に背中を押されたのか、あるいは彼女のその心が幽々子の決意を呼んだのか、それは分からない。ただ天子も覚悟を決めたような強い口調で幽々子に続いた。


「そうね。じゃあ明日私が伝えておく。天子ちゃんの意志を。」









   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


結界のチェックを一通り済ませた八雲藍は、主人の眠る自宅へ戻ろうとしていた。
主人である八雲紫が冬眠の準備に入るこの時期は、特に入念な監視が必要であった。毎年冬眠の直前に結界の張り直しと補修の術式を行うため、一年の内でも最も結界の力が不安定になるのがこの秋頃なのである。些細な綻びを見逃すと後々厄介なことになり、また主人の仕事も増える。式としてそれだけは避けたかった。主人の仕事が倍になるということは自分の仕事が十倍になるということなのだから。

それにしても、藍の胸に昨晩の風景がよぎる。いつものようにうきうきした様子で白玉楼へ顔を出したはずの主人はなぜかすぐ帰ってきた。それだけではなくひどく錯乱した様子で、帰るなり部屋に閉じこもりついに一度も出てこなかった。こうなっては藍が何を言ってもとりつく島もない。普段から気むずかしいところのある人だが、それにしてもあれほどの狼狽ぶりは異常だった。

その異常さは今日の結界にも表れていた。博麗大結界の維持・管理は紫の能力による所が大きく、それ故彼女の心身の変化が結界の状態にも如実に反映する。即ち彼女の調子がよければ強く、衰弱していれば弱まるといった風に。今日は結界の緩みがいくつも見つかり、外界からも多くの物が流れ込んでいた。主人の心の揺らぎを見せつけるようなその光景に、藍も心穏やかではいられなかった。


雑念に気を取られながら飛んでいると、既に家は目前にあった。藍はその手前で珍しいものを見つける。それは滅多にない訪問者、藍もよく知った人だった。

「幽々子様……ですか?」
「ああ藍ちゃん、こんにちは」

一瞬見間違うほどに堅く険しい顔をした西行寺幽々子は、声を掛けてきた大切な人の式へ丁寧に会釈した。





「紫様、お目覚めでしょうか。」

ふすまの向こうから藍の声がする。八雲紫は布団から半身を起こした格好で、その声を耳にしていた。透けるように白かった彼女の顔には、ひどいクマができ、宝石のような瞳は、真っ黒に落ちくぼんでいる。
主人からの返事はない。藍は言葉を続ける。

「幽々子様がいらっしゃっております。」

虚ろな顔がぴくりと跳ねる。藍の言葉は彼女にも予想外だった。顔を埋めていた枕を脇へ放り投げ、紫は慌てて自分を取り繕う。

「藍、本当なの?」
「お目覚めでいらっしゃいましたか。はい、確かに。今客間でお待ち頂いております。」
「……わかりました。すぐ行くと伝えなさい。」
「承知しました」

布団から立ち上がり、せめて身なりを整えようと鏡台の前に座る。鏡に写る自分はずいぶんと酷い顔をしていた。手に持った櫛がぶるぶると震え、手入れもせずに布団に潜り込んだせいでぐしゃぐしゃに絡まりきってしまった髪を梳くことすらままならない。彼女に会うのがこんなに恐ろしいのは初めてだった。








   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「お待たせ幽々子。」

ふすまを静かに開けて、紫は客間に足を踏み入れた。お茶請けに手をつける様子もなく正座していた幽々子は、家主へ静かに礼を返す。

「おはよう紫。」

障子紙は夕焼けの朱色に染まっていた。紫はふらふらと歩を進めると、崩れ落ちるように幽々子の前に腰掛ける。二人分のお茶を丁寧に淹れなおした藍は、一言も発することなくそのまま客間を後にした。


「……昨日はごめんなさい」
「私こそごめんなさい」


しばしの沈黙の後、どちらがどちらかわからないような謝罪を交わす。

「紫、昨日のことは私に責任があるの。」

しかし先に言葉を続けたのは幽々子の方だった。

「え……?」
「あの子は、天子ちゃんはね、とってもいい子よ。とても純粋で心が真っ直ぐで。ただちょっとその伝え方を知らないだけなの。」

紫は顔を引きつらせたまま石像のように固まった。

「だから昨日のこと、いやここ最近の白玉楼でのことは全部私が悪いの。あの子のことばかり考えて、紫の気持ちに思いを馳せることを私は怠ってしまった。私は貴方にきっと甘えすぎていたんだと思う。」

紫の顔は今にも卒倒せんばかりに真っ青だった。

「だから、紫が怒りを向けるべきは私。あの子じゃないわ。もちろんあの子にも過ちはあるし、それは紫にとって許せないものかもしれない。でもあの子は貴方に謝りたいと、そう言ってるの。本当にあの子は心の底から反省して、貴方に謝りたいと言っている。許せない部分はきっとあるのでしょう。でも、どうか貴方もあの子の気持ちを汲み取ってあげてほしいの、お願い。」


お茶から上る湯気で、紫の視界が、幽々子の顔がぐにゃりと歪む。いつもならその心を慰撫してくれる彼女の顔も、今の紫には不気味なものにしか見えなかった。昨日布団の中で何度も何度も否定しつづけたあの煩悶が、また彼女の頭にずいともたげる。そいつは彼女に残る傷だらけの理性を喰らい尽くそうと、笑みを浮かべて舌なめずりしていた。


 
――なに? 幽々子はなにを言っているの? ……そんなわけがない。そんなことがあってたまるわけがない。私が幽々子のことを深く愛しているのと同じぐらい、幽々子も私を愛している。千年前から、いや私が生まれたときから幽々子と私は運命で結ばれていたんだ。


ナノニ ドウシテ


あれは 見まちがいじゃ なかったの?


昨日、怒りに我を失って白玉楼を飛び出して帰宅した後、やはり幽々子に失礼を詫びなくてはと思い直してもう一度白玉楼へ戻ったときに見たあれは、幽々子とあの天人が奥間で抱き合っていたあの光景は見間違いじゃなかったというの? 幽々子がこんな顔してわざわざ私の家まで来て私に頭を下げるということはつまりそれって――嘘よ嘘よ! そんなはずが……
でもあの女は、風呂上がりで、幽々子の羽織を着てたじゃない? それも奥間で。あそこに入れるのは私だけだったはずなのに、千年の間あの部屋に迎えられた客人は、私ただ一人だったはずなのに。
嘘だ嘘だ嘘だ幽々子が、この子が私を裏切るわけがない。幽々子とは、約束したんだ。そのために私はこの千年、全てを捧げて生きてきたんだ。こんな粗末な鳥かごみたいな世界を創ってまで幻想を守ったのも、二人だけの時間を手に入れるためじゃないか? 幽々子が裏切るわけがない。


――そうだ あいつだ


あの女狐が、優しい優しい幽々子をおぞましい手でたぶらかして手込めに掛けたんだ……なんて可哀想な幽々子。貴方は何にも悪くない。それなのに誰も傷つけまいと、全部自分の責任にしようとしているんだ。でなければ幽々子のことを足蹴にして見捨てた上、身勝手に桜の下でくたばって娘に忌まわしい力を押しつけたあのクズの話を得意げに持ち出すような、あんな卑劣な売女を、あの比那名居の糞餓鬼を幽々子が庇うわけがないじゃないか。


……あのけだものが 許さない 絶対に許さない……


カチカチと音を立てていた奥歯の隙間から、彼女はようやく言葉を引き出した。


「――わかったわ。でも幽々子はきっと何も悪くない。お願いだから貴方が気を病んだりしないで。これはあいつと私との問題よ。今度会ってちゃんとケリをつけるわ、ちゃんとね……」
「ありがとう紫、天子ちゃんと会ってくれるのね。きっとあの子も喜ぶわ。……でも紫、お願いだから天子ちゃんのこと“あいつ”なんて言わないで。あの子は紫と同じように、私にとって大切な人なのだから。」








   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


「紫様、大丈夫ですか? 顔色が優れませんが。」

幽々子を見送った藍が客間に戻ると、紫はそのままの格好でまだ座っていた。能面のような顔には生気の欠片もなく、まるで菊人形か何かにでもなったのかと思えるほどだった。
心配して主のもとへ駆け寄る藍を不意に真横から衝撃が襲う。それは空間の裂け目越しから伸びる、主人の拳だった。

「『紫様、大丈夫ですか?』――あはっ、あんた馬鹿なの? ああ馬鹿だったか。所詮畜生上がりだものね。」

鼻血を垂らしてもんどりうった藍の尾を踏みつけると、罵倒と共に紫は踵でぐりぐりとその尾をすり潰した。悲痛な呻き声が薄暗い部屋に響く。
どこから取り出したのか、愛用の日傘を手にしていた紫は眼前に転がった自分の式をそれで容赦なく叩いた。何度も何度も。

「ほら黙ってんじゃないわよ、女狐が! 畜生なら畜生らしく下卑た声できゃんきゃん鳴いてみろよ!」

「……紫様、後生ですから……」
「貴様ごときが軽々しく私の名前を呼ぶなあっ! 身の程をわきまえろ糞餓鬼が! 死ね、死んでしまえ!! 二度と幽々子に近づくなこの売女が!!」

尚も式を据え撃とうとする紫の右手を、藍はがっしと掴んだ。食いしばる歯の間から絞り出すように彼女は声を上げる。

「どうかお願いです。紫様……どうかそんなにご自分を傷つけないで下さい……」
「はあぁ!? ボロ雑巾なのはお前だろうが!」

「この八雲藍、どれだけ体に傷を負おうと怯みなどしません。しかし精神に傷を負った主人を前に強く在ることなどできませぬ。私は八雲紫の式なのですから。」

怒りに染まった紫の眼が、初めて目の前に立つ人物の姿を捉える。それは体中から血を垂らした自分の式であり、あの呪うべき女ではなかった。自分より幾分体の大きな藍に腕を持ち上げられて、紫はバランスを崩したように足をもつらせた。

「ご、ごめん藍、藍ごめんなさい……私なんか勘違いして……」
「お願いです。紫様のお体はご自身だけのものではない。私も、そして幻想郷に生きる全ての人妖にとって紫様は不可欠な存在なのです。事実今日も結界は緩んでおります。だから落ち着いて。どうかご自愛の程を。」


竦み上がった主人を強い眼光で見据えながら、藍は言った。その声を聞いた紫は捕まれた手を荒々しく払い飛ばす。その眼には哀しいまでに正気が戻っているように見えた。

さっきまで泣きそうな顔で怒っていた紫は、今度は怒りに震えた顔で涙を流しながら、再び寝室へ駆けだしていった。












――他人から理解されないのは、十割方その人の性格の問題です。
  良い事ではないですよ?   
                  「東方緋想天:永江衣玖」












 ― 参 ―


寂寞たる秋の庭園に、白砂を踏みしめる音が響く。

冥界の隅に咲く枯れ落ちた桜の木の下で、比那名居天子は居心地の悪い様子で熊のように辺りをうろついていた。そんな彼女の前に空間の裂け目が広がる。ずるりとそこから姿を現したのは、待ち人である八雲紫だった。

漆黒の亀裂から飛び降りた紫の足下に、真っ赤に色づいた紅葉がはらりと落ちる。天子の前に詰め寄る彼女はそれに思いを馳せることもなく踏みつぶした。最早彼女にとって情緒などどうでもよかった。

「あ、あの、今日はあんたに、謝りたいと思って……」
「謝る、ですって?」

意を決したように、天子は紫をしっかりと見据えて口を開いた。緊張のためか途中で声がひっくり返ったことを気に掛ける風もなく、また紫のこれ見よがしな舌打ちにめげることもなく、自分の想いを真っ直ぐ告げる。


「この間、失礼なこと言って怒らせてしまって、えと、あの……ごめんなさい。わたし、だめなんだ。私馬鹿だからさ、自分でもわかんないうちに人を傷つけちゃうんだ……」


天子は深々と頭を下げた。

カタカタと、紫の肩がふるえる。


「あと、この間、神社を壊して、ごめんなさい。貴方の大事なこの幻想郷に傷をつけて、貴方の気持も考えないで自分のわがままで身勝手なことをして、本当に――ごめんなさい」


「ごめんなさい」という度に、計三度天子は頭を下げた。最後はもはや頭が地面につくのではないかというほどの深い礼だった。

わなわなと、紫の体が痙攣する。


「……そうね。『投我以桃、報之以李』 貴方の礼に、私もそれにふさわしいものを返さなければね――」





   バキィィ!!





ぶるぶると、紫の拳が震える。

殴り飛ばされた天子は、何が何だかわからぬという顔をして、紫を見上げた。

「あ、ひ……ごめん、ごめんなさ――」
「だまれ。だまれだまれ!!」

天子の声を掻き消す勢いで紫は叫ぶ。礼には礼で返すのならば、非礼には非礼で以て返さねばならない。
天子が真っ先に言わなくてはならないはずの謝罪は、ついぞその口から出てこなかったのだから。

「私の一番大事なものに手を出しておいて、一番大切なものを穢しておいて、あんた、そんな戯言で逃げようってわけ!? 何より大切な、命よりも大切なものを私から奪おうとして、それでいて私に謝ったつもりでいるわけ!?」
「ゆ、紫。ご、ごめん、もう絶対そんなことしないから――」
「黙れと言ってるだろ!! 貴様に一体何がわかる? 私とあの子の関係を。私たちの海よりも深い絆を。私と幽々子がどれだけ深く愛し合っているかを!!」
「え、そん、だって幽々子は――」
「黙れ!! 貴様が『幽々子』などと気安く呼ぶな!! あぁ穢らわしい穢らわしい……あはっ、そうか。そうだったのか。もしかして知らなかったのか? ああ知らなかったんだぁ? ふふっ、馬鹿な子……いいわ教えてあげる。幽々子と私はね、千年の昔から契りを交わした間柄なのよ。幽々子がね、私にそう“約束”してくれたの。あはは、わかる? ぽっと出の腐れ天人なんかが立ち入る隙は一切ないの。わかったらもう二度と私達に近寄らないでくれる? “総領娘様”」


紫は高らかに言った。どす黒い顔には揺るぎない自信が充ち溢れていた。
金色の髪をなびかせ、琥珀色の眼で正面に立つ女をありったけの侮蔑を込めて見下しながら、彼女は女としての勝利を確信した。


――そうだ、そうなんだ。確かにあの子はそう言った。“生前”そう約束してくれた。あの子は、私のことだけを愛してくれているんだ。こんな奴が幽々子の心の中にいるはずがない。そうだ、やっぱりあれは私の勘違いだったんだ。このけだものが、私の可愛い幽々子を卑劣な手で籠絡しにかかっただけだったんだ、そうにきまってる! ああごめんね幽々子。貴方にほんの欠片でも疑心を抱いた自分を呪うわ。そんな愚かな私は燃えて灰になってしまえばいい。ああ幽々子、本当にごめんなさい!! どんな言葉でもってしても償えないわ。ああごめんなさい、貴方のことを愛している――ただただそう告げたいだけなのに。たったそれだけのことなのに。ああっ本当になんて言えばいいんだろう!!


紫は、口を三日月のようにつり上げて笑みを浮かべる。それは顔が真っ二つに裂けたのではないかと思うほどの満面の笑みだった。


天子は、涙を一杯に溜めて歯を食いしばる。
秘かに思いを寄せていた人から罵倒された悲しみ、それを黒々と塗りつぶすほどの憤激が、彼女の腹をもの凄い勢いで駆け巡っていた。



           裏切られた

          信頼していた
         いい人だと思ってた
     あんなに心の内を話せたのは初めてだった
  自分の気持ちをわかってくれる人に会えたと思っていた



なのにあの女は、私が滑稽に踊るのを、高いところからせせら笑っていただけだったんだ





天子は跳ねた。

その速さに、勝利の美酒に酔っていた紫は反応できなかった。
帽子だけを紫の前に残して、天子は義憤に身を任せて走る。自分の心を踏みにじった裏切り者が住む白玉楼へ。


天子は跳ぶ。

蹴り上げた脚は枯山水の水面をえぐり、妖夢の警戒をも一瞬で跳躍する。


天子は駆ける。

あの女は奥間にいた。暢気に座ってやがる



「ああ、天子ちゃ――」


「さいぎょおおぉじゆゆこおおおぉぉぉ!!!」



狐のように、天子は足音も立てずに有無を言わさぬ素早さで幽々子の首に掴みかかった。

「愉しかったか! ええ愉しかったのか!? ああ愉しいんだろうなあ……私が右往左往してるのを見て、その扇の奥でずっと嘲ってたってわけだ。」

二人のことが気かがりでずっと長くして待っていた首が、へし折られんばかりの勢いで絞めあげられる。手に持っていた扇子は床間の掛け軸に当たってばらばらになり、帽子は床板の上まで吹っ飛んでいった。

「『馬鹿な女』『惨めな女』と腹の中で思いながら、昼は同情じみた顔で私の話を聞いて、夜になったらそれをあいつとの睦言の種にして愉しんでたんだろ!! 爛れ腐ったその体をいやらしく振りながら私を嗤ってたんだろ!! そうなんだろっ!! くそっ、くそくそっ! くたばれこの売女!!」

倒れ込む幽々子の上に天子は馬乗りの体勢でのしかかった。群青の長髪がだらりと幽々子に覆いかぶさり、彼女の視界を奪う。霞むその目に映るのは、天子の眼、憤怒に燃える臙脂色の眼だけだった。


    パァン!!


後ろのふすまが吹っとぶ。そこから飛び出したのは魂魄妖夢と、白く輝く業物だった。


「幽々子様から離れろぉ!」


問答無用の一閃が天子の肩口に振り下ろされる。鎖骨を両断する楼観剣、しかしそれ以上刃が進むことはなかった。天人の強靱な肉体に食い込んだまま微動だにしない刃に、妖夢の判断が一瞬鈍る。
その間隙をついて、天子は左の手で幽々子の首根っこを掴みながら、右の拳を妖夢の顎めがけて振り上げた。


「そうか……お前も知ってたんだな? 私が帰った後、この女と一緒に私のことを嘲っていやがったんだな。畜生っ……どいつもこいつもおんなじだ、信じたあたしが馬鹿だった。天界のやつらと一緒。表では親しげに、裏では人を貶めることばかり考えてやがる……ちきしょうちきしょうめっ!!」


はるか後方のふすまを巻き込みながら吹っ飛ぶ妖夢へ向かって呪詛を投げた天子は、そのまま向き直り幽々子の首を更に締め上げた。依然楼観剣が食い込んだままの肩口からは鮮血がしたたり、幽々子の白群の着物を赤く染める。その爪が幽々子の白く華奢な首にめりこみ、震える指が朱に染まる。手のひらを通して伝わる頸動脈の拍動、それは確かに小さくなっていった。


「そうなんだろ! その小綺麗なにやけ面を薄皮一枚ひっぺがしゃ、毒と糞と塵しか入ってないってことだろ!! 貴様が正直に言いさえすれば、あんただったら私だって諦められたんだっ!! それを……死ね! 貴様なんか死んでしまえ!!」


透けるようだった顔が鬱血し、毒々しい紫に変わる。かつて桜色だった唇は、泡にまみれながらもなお何事かを天子に伝えようとしていたようだったが、それが声になるはずもなかった。


「私の想いを踏みにじって、弄んで……許さない、絶対に許さない……殺してやる、殺す、ぶっ殺してやるうぅっ!!」



天子の手首を握っていた幽々子の手が、ついに力を失う。
立ち上がろうとする天子、その小袖にかろうじてまとわりついていた死人の指を彼女は思い切り払いのけた。

黒々とした情念を幾重にも塗り込めた顔をしながら、天子は足下に転がった亡骸を見下ろす。
全身を小刻みに痙攣させて、彼女は勝ち誇ったように引きつった嗤い声を上げた。


不気味な動きで肩をわななかせていた天子は、ふと何かがその肩の上にふわりと舞い下りたのを感じた。

「――!?」

それは蝶。光輝く蝶だった。

「何だよ……なんなんだよこれは!?」

我に返った彼女の視界には、部屋を埋め尽くさんばかりの蝶がいた。それは天人の命すら容赦なく喰らい尽くす、反魂の蝶。

晩秋の部屋を彩る気違いじみた蝶の群れは、無惨に立ちすくむ天子を包みこむように彼女の周りを優しく舞っていた。










――はやくにげて……



――ひひっ、許すもんか……絶対に忘れないからな……覚えてやがれ。死んでも許さない、必ず呪い殺してやる……












   〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


八雲紫は天子が尻尾を巻いて逃げ帰ったのだと思っていた。世間知らずのお嬢ちゃんが勝手に勘違いして暴走しただけ、今では顔を真っ赤にして天界に籠もってるだろうとほくそ笑んでいた。だから白玉楼で幽々子の能力が、全てを死へと誘うあの呪わしい力が解放されたのを見た時、彼女は一瞬何が起きたのかわからず呆然と屋敷の方角を見つめることしかできなかったのである。


気が動転したまま奥間へ駆け込んだ紫が見たのは惨めな姿で柱にもたれる西行寺幽々子と、穏やかな表情で永遠の眠りにつく比那名居天子だった。


「幽々子、幽々子どうしたの? 幽々子大丈夫!?」

紫は幽々子に駆け寄る。無機質な表情のまま涙だけをぽろぽろと流していた幽々子は、焦点の合わない視線だけを紫へ向けた。返ってきた言葉は「またやってしまったまたやってしまった」という意味を為さぬ反芻だけ。
幽々子を抱擁したまま、紫はその隣で突っ伏したまま微動だにしない天子の亡骸を憎悪に満ちた目つきで一瞥する。事の次第を理解した彼女はまた幽々子だけに視線を向け、懇ろに語りかけた。


「ああ可哀想な幽々子。我を失ったこの気違いに襲われたのね。もう大丈夫、私がいるわ。貴方は何の心配もいらない。だってこれは正当防衛だもの。全部私がなんとかする。」

紫は幽々子の背中をそっとさすりながら、優しい言葉を掛け続ける。

それが果たしてどれだけ続いたのか、幽々子はぞっとするほど低く、冷たい声で紫に問いかけた。



「紫――この子に何て言ったの?」

本当にそれは幽々子が言ったのかと最初疑うほどその声があまりにも不釣り合いで恐ろしくて、紫は思わず後ずさる。相変わらず無機質な表情のままただ冷たい瞳だけをじろりとこちらへ向ける幽々子に向かって、彼女は必死にその問いへの答えをひねり出した。

「な、何って……現実を教えてあげただけよ。そんなことより幽々子、まず貴方の治療を――」

「やめて、近寄らないで!!」

今度は幽々子が後ろへ飛び退く。紫は何が起こったのかわからないという風に立ちすくんでいた。


「えっ、え?」

「私のことなんかどうだっていい。紫、前にも言ったはずよ。貴方は人の話を聞くべきと――あんた、この子の話をちゃんと聞いたの?」

「何を言ってるのかわからないわ。少し冷静になりましょう幽々子。こんな奴の話なんて聞く必要も――」



   バチイィィン!!


乾いた音が無音の冥界に響く。頬を赤く染めた紫は、自分を叩いた幽々子へ呆然と目をやる。


「え……な、なに」

「いい加減にして……いい加減にしてよっ!! そう……紫は、あんたはいつもそうだ。他人のこと分かってるつもりで何にも分かってない。誰の声も聞いちゃいない。」

「ゆ、幽々子……あなた何を、何を言ってるのよ……ああ、ああそうねショックで混乱しているのね……今医者のところへつれていってあげるから一緒に――」


「やめてって言ってるでしょ!! 近づかないで気持ち悪い!!」


憎悪に満ちた目つきで、体にまとわりつく不快なものを振り払うかのように幽々子は近寄ろうとする紫を拒絶した。
顔面蒼白の紫は、どうしたらいいのかわからないといった様子で、惨めったらしく身の置き場を探すようにうろたえる。



「あんたはこの子の想いを聞いたの? 一度でも耳を傾けた? この子があんたのことどう想ってたかを、あんた知ってたとでもいうの?」

「ゆ、幽々子、落ち着いておちつきましょうよ。い、今気が休まるものを持ってきてあげる、何かほしいものがあれば言って? すぐ持ってきてあげる、何でも持ってくるからだから少しおちついて――」


遠ざかる彼女を引き留めるように、紫はとっさに幽々子の袖を掴んだ。



「いやっ、触んないでよっ!!」



すがりつく手を、幽々子は思い切り払いのけた。腰が抜けたように紫はその場にへたれ込む。


そんな姿を歯牙に掛けることもなく、幽々子はなおも声を荒げた。

「ねえ、答えてよ? あんたは、私の想いを知っているの? 私がいつも何を思ってあんたの横にいたのか知っているの? どうして私に隠し事をするの? ねえ、どうしてあんたはいつも心を開かずに、平気な顔して私の傍に座ってるの? いつもいつも右の眼で私を見て、左の眼で別のものを見て、なぜ私のことを見てくれないの? ねえどうしてよ、どうして答えてくれないのよっ!!」


もはや紫は指で軽くつつけばガラガラと音を立てて壊れてしまいそうだった。いや彼女は既にほとんど壊れてしまっていた。哀しいのか悔しいのか怒っているのか判らない顔には、とうとう笑みさえ浮かんでいた。


長い長い沈黙――幽々子は壊れてしまった者へ最後の言葉を浴びせる。


「……もう、いいよ……あんたなんか消えてしまえばいい、もう会いたくない!! 顔も見たくない!! 目障りだ、消えろっ、消えてしまえっ!!」


狂ったような激情に苛まれた幽々子は、その美しい顔をグシャグシャに歪め声にならない呻きをあげながら、奥間を飛び出した。












――怨霊の眼には何が見えているのでしょう?
  何故、人を襲う事が出来るのでしょう?
           「東方緋想天:鈴仙・優曇華院・イナバ」












 ― 四 ―


何であれ終わりは訪れる。今年の秋もまた終わりを迎えようとしていた。

かつて美しさを競い合うように色とりどりの衣をまとっていた木々も、今や幹と枝だけを無様に晒すだけとなっていた。
色の失せた庭園の中で、白砂の鮮やかさだけが一種名状しがたい毒々しさを放っている。それは、ありとあらゆる存在が朽ち果てたはずの世界で“死”だけが過剰なまでの存在感を誇示している、そういった不快極まりない未来の姿を喚起させるものだった。


そんな白玉楼の中庭から少し入ったところに、屋敷の主人である西行寺幽々子の寝室がある。中央に敷かれた大きな布団は、やはり薄暗い部屋の空気に溶けこむことを拒絶するように白く輝いていた。
幽々子はその布団の上で、やつれきった表情を浮かべながら半身を起こしていた。透けるように白かった彼女の顔にはひどいクマができ、宝石のようだった瞳は真っ黒に落ちくぼんでいる。かつて見る者すべてをうっとりさせてしまうほど優美だった一つ一つの所作は、今では見ているこちらが心配になるほどの危うさに満ち満ちていた。

うつろな表情の彼女の横には、畏まった様子で座る八雲藍がいた。白玉楼の主人はしどけない身なりのまま、布団から出ることもなく客人を迎える。藍はここへ来たことをひどく後悔した。幽々子のこんな姿を見ることは今の彼女にとってただただ苦痛でしかなかった。

この部屋へ自分を案内した妖夢はどうなのだろうか――ふと藍は思う。
彼女もまたやつれた表情を浮かべていたが、眼は死んでいなかった。むしろ今まで以上に前を見ていた。
藍は妖夢に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。自分自身が大怪我を負っただけでなく、変わり果てた主人の側に常に寄り添いながら世話をしなければならないというのに、それでもなおその瞳に真摯な火をともす妖夢――自分が彼女のように振舞える自信が今の藍には持てなかった。


「紫様は……まだ帰っておりません。」
「そ。」

暢気な、というよりはどこかほうけた調子で、幽々子はぼそりと呟く。

「ただ、きっとまだどこかにいらっしゃるはずです。まだ幻想郷の結界は形を為していますから。」

せめて話題を良い方向へ持っていこうと、藍は懸命に明るい口ぶりで言った。幽々子はそれに答えることもなく、焦点の合わない視線を漂わせながら、ぼそぼそとしゃべり始めた。


「――最近ね、亡霊を見るのよ」
「亡霊?」
「そ、亡霊。いつも寝ようと思うと枕元にたってるの。あの子はすごく険しい顔で、でも蔑み見下すような顔をして、ずーっと立ってるの。ずぅーっと」

幽々子は突然空笑いを始める。藍は思わず顔を背けた。

「で、私がそれを無視するようなそぶりを少しでも見せると、とり憑いてくるの。私にまとわりついて私の顔に顔をぴたりと貼り付けてきて、にやぁって嗤うの。まるで顔が真っ二つに裂けちゃうんじゃないかってくらい口をつり上げて。」

「幽々子様、落ち着いて下さい。どうかお気を確かに。自分が何者であったか思い出して下さい。冥界の姫であり、霊を統率出来る貴方が亡霊にとり憑かれるなど、そんな滑稽なことがありえるわけが」

「段々怖くなってね、一生懸命謝るの。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいどうか成仏して下さいってね。そうするとね、天子ちゃんはすごい剣幕で私を罵倒するの。裏切り者、女衒おんな、人非人、醜女、やり手ババアってね。それで毎日毎日耳元で囁くの。殺人鬼め、精を喰らうだけじゃもの足りず、魂まで喰らうかと。たくさんの亡霊が私が今まで殺してきた死霊が桜の下で死んだ人達がみんなこっち見てそう言うの。私は殺したくなかったのに。そんな力いらなかったのにあんな桜だいきらいだったのになのにどうしてなんでどうしてなんでなんで――」

「幽々子様、お願いですからどうか落ち着いて下さい。比那名居天子が地獄へ行くことは既に決まっています。あの閻魔からもちゃんと確認をとりました。亡霊になどなるはずがない。彼女の亡骸は今妖夢と私で厳重に保管しています。もう間もなく龍宮の使いである永江氏が、その亡骸の処遇に関する天界からの言伝を持ってこちらを訪れるはずです。だからどうかお気を確かに。貴方はこの冥界を統べるお方。それがこのような――」

「ああ見て。あそこにいるわ。私をじぃーっと見てる。ずぅーっと見てるの。あああっちにも、あぁすぐそこにもいるじゃないの! 死霊がぴたりと貼り付いてまた私にお願いしてる。どうして殺してくれないのって。どうしてなんでしょうねぇ。答えて? ねえ? ああまたそんな酷いこと言わないでお願い」


虚空に向かって謝罪の言葉を投げ続ける幽々子、藍は最早掛けるべき言葉を失っていた。
押し黙る式の代わりに、音もなくふすまが開く。
藍は思わずそちらへ視線を向ける。ぬるりと飛び出したその顔を見て、彼女は此処へ来たことを心の底から後悔した。


「あらごきげんよう幽々子。元気してたかしら」

声の主は八雲紫だった。帽子もかぶらずに金髪を乱れ散らしたまま、なのになぜだか行儀よくちょこんと正座して彼女はにこにこ嗤っていた。

「紫様……?」

久方ぶりに会った主人に掛けるべき言葉を、やはり藍は見つけることができなかった。
ところどころ破れた異国風のドレスは、まだら模様の真っ赤な染みに彩られていた。その模様は彼女の顔にまで広がり、乾きかけの糊のようになって乱れた髪を吸い寄せている。べっとりと頬に貼りついた金色の毛は口端にまでかかり、穏やかで妖艶な笑みを不気味に飾り立てていた。

しかし、藍が主人の無事を安堵する言葉を掛けることも、はたまた血みどろの主人を見て怪我を心配する言葉を掛けることも戸惑わせたのは、彼女が手に持っていた“モノ”のせいだった。それは首だった。銀色の短髪に黒いカチューシャを付けた生首だった。先程この部屋まで案内してくれた魂魄妖夢の成れの果てだった。藍がかろうじて出した言葉は、主人へのものではなかった。


「よう……む……?」


「妖夢? ああ今さっきそこで会ったわよ。でさーあの子ったらいきなり刀を向けるものだから、半分に折って鞘をあげたのよ。ほら、体とー……あとなんでしたっけ。そうあの半霊、あれ素敵な鞘でしょう? 刀を鞘に納めて、余ったとこだけ持ってきちゃった。行きずりにぃ〜ひとえだ折りし梅が香のぉ〜深くも袖にしみにけるかな〜〜ヤイヤイ♪ 妖夢も嬉しいでしょ、ね? どう幽々子? 梅の香りするかなこの袖? あたしきれい?」

「妖夢、あそこに亡霊が群れを成しているわ。斬って、斬っておしまいなさいっ!!」

真っ赤に染まった血生臭い袖を振り回しながら愉しそうに語りかけてくる紫へ視線を向けることもなく、幽々子はあさっての方を向いてわめき散らしていた。

「あそうそう、ほ〜ら素敵なお土産を持ってきたのよ。この眼窩に指を突っ込んでね、こうくるくると回すとね……あら藍、そんなところにいたの? 早くお茶でも入れて頂戴。くるくるー……ところでなんでしたっけ? まあ幽々子! どうしたの布団なんかに入ったままで。」

「お願いだからそんなこと言わないで、私を責めたりしないで……私は誰も殺したくなかったのよ……いやぁ」

「そんなところに居ては気が滅入るでしょう。二人で出掛けましょうよ。うき世にはぁ〜とどめおかじと〜ランララン♪ どこがいいかしら? ああ、向こうの丘なんてどう? 素敵な茂みをかき分けて、お寿司を食べに行きましょう。私は赤貝が食べたいわ。あなたはどう? それとも熊にしましょうか。冬眠前はきっとおいしいわよ。郭公の雛を殺して吊るしておけば、きっと喜んでおいでなさるでしょうね。それとも犬のふぐりの方が食い付きがいいかしら。桃? それはもうとれないわ。だって今は秋ですもの。ああ幽々子には水牛のほうが必要かしら?
それとも思い切って遠出する? 広い川で伊勢海老釣って食べましょうか。あ、伊勢海老はよくないわね、近くに名張があるわ。じゃあ播磨に行って鍋でもつつきましょうか? 幽々子好きでしょう、夜鍋。」

「誤解よ! 貴方をだまそうなんて、私そんなことしてない!! ああ、あんな所からも覗いてる。ずっとこっちを見てる。おぞましい眼で、見てるうぅ!」

「ほら幽々子。指でくるくる混ぜていたら穴からおいしそうな水菓子が出てきたわよ。こっちの穴にあなたの分もあるから一緒に食べましょうよ。あら藍そんなところにいたの? はやくお茶を淹れて頂戴。まったく何の役にもたちゃしないんだから……
 まあ幽々子、褥の上で顔を真っ青にして、大丈夫? まるでつわりみたい。はやく医者に見せないと。私も一緒に行ってあげる。病める時も〜健やかなる時も〜ってやつね。腋から汗をかいたら気をつけた方がいいわ。服の垢もきれいに拭き取ってね。私も子供がほしいなあ。そうだこの頭をこうやって服の中に入れて……ほらほらみてみて、懐妊よ。懐妊、懐妊、ごか〜いに〜ん! 幽々子の子供がほしいけど、つわりで苦しんでるから今はこれで我慢しときましょう。」

「違うの、貴方を裏切ったりなんか、そんなことしてないの……奴らが近付いてくる、とり憑いてくるの……やだ触らないで。ごめんなさいごめんなさい――」

「……随分と、菊の花が飾ってあるのね?……菊が好きだとは知らなかったわ。今度無花果を持ってきてあげる。味噌であえておひたしにすると美味しいって聞いたわ。幽々子がそんなものを好きだとはしらなかった。だれが教えたんだろう? 誰が、誰が?……ねえ幽々子、まさかあんた牡丹まで好きになったんじゃないでしょうね? とんだ悪趣味よ! あんなけばけばしくて淫らな花! あの優雅な幽々子はどこへいってしまったんだろう。」

「そんなこと言わないで……私はそんな口に出すのもおぞましいことしていないぃ。ひぃぃっ布団の中にまで入り込んできてる! 妖夢、妖夢はなにをしているのっ!?」

「あら幽々子、どうしたの褥なんかに身を預けて。そう……冥界の管理で疲れているのね。毎夜お勤め大変でしょう。昨夜はどなた? どなたを逝かせて差し上げたの? 何度昇天させてあげたの? おい藍、とっとと茶でも引いてこい。この女狐が。
 ああ幽々子大好きよ! 本当に本当に本当に。じゃあここで幽々子への想いを一句。風にちる〜花の行方はしらねども〜おしむ心は……なんだっけ? ところでこのお腹に入ってるのは邪魔ね。捨てときましょう。ああ私は、なんで私は冥界と顕界の門を開けたままにしてしまったのだろう? おかげで幽々子は穢れてしまった。あそこは私だけのものだったのに。だんだんばらの階段を上がって、小さな門をくぐって、その先にある扇型の素敵なお屋敷――そこにいていいのは私と幽々子だけだったのに!」

「やめて。そんな酷いこと言わないで。私は淫らなことなんてしてない、色情魔なんて酷いよぉ……やだやだ死霊の群れがとり憑いてくる。もう来ないで、来ないでよっ!!」

「それにしてもこの部屋は狭くて暗いわ。幽々子、こんなところにいたらきっと気も塞いで頭もおかしくなってしまうわよ。こんな鳥かごのような部屋。あら素敵な調度品ね。あの壺は織部? まあきれい。まるで小宇宙、神が創り給えし楽園のようね。でもあれも割ってしまえばただの土、中身はただのがらんどう。覗けば覗くだけ空しくなるばかり。創った奴もあわれなもんね。やっぱり外へ出掛けましょうよ。二人でどこかへいきましょう? お歌でも詠みながらね。ヨイヨイ♪ 思ひしるぅ人あり明のよなりせばあぁ〜つきせず身をばぁ〜恨みざらましぃ〜ア・ソレソレ♪ かかる世にぃ〜〜影もかはらずすむ月をぉ〜〜みる我が身さへっ恨めしきかな〜〜エイヤッ! あら藍いたの?」


「この世の終わりよ!! いやあぁぁ殺される、憑き殺されるうぅぅ!!」


支離滅裂な会話は、幽々子の絶叫と共に幕を閉じた。布団から跳ね起きた亡霊の姫は、居もしない亡霊を振り払うように体をばたつかせながら部屋を飛び出していった。
もう片方の気違いは、首を“くの字”に傾けたまま、どろりと腐った琥珀色の瞳だけを動かして部屋から駆けだした幽々子を追うと、やおらに立ち上がる。

「紫様!」

前に立ち塞がり呼び止めようとする藍を、紫は踏みつぶした。重いものが潰れるような鈍い響きが、畳を揺らす。

「おい、なんだお前いたのか? 何でこんなところに……ああそうかぁ、そういうことかぁ……幽々子はあの乳臭いクソアマだけじゃぁ飽き足らず、こんな獣ともまぐわっていたってことかぁ。あの醜女の汗臭い腋だけじゃあなくて、こいつの獣臭い股ぐらも舐め回してたんだぁ……ふふ可愛いなぁ幽々子は。おい教えろよ。幽々子の具合はどんななんだ? 貴様なんぞが私より幽々子のことを知ってるわきゃぁないが、あっちの方はどんな感じなんだ? さぞかし甘露なんだろうなぁ、あぁ可愛い声を上げるんだろうなぁ……えへへ……おい言えよ」

藍の顔に自分の顔をぴたりと貼り付けて、紫は心の底から愉しそうな様子で、にやぁっと嗤った。





――ひぃっ、ひいぃぃ……

ふすまを蹴破って奥へと進む幽々子の足がもつれる。無様に転がった彼女が辿り着いた先は、あの奥の間だった。
部屋の隅までなんとか体を引きずると、彼女は必死に真言を唱え始める。

「おん あぼきゃ〜べいろ〜しゃの〜うまかぼ〜だら〜まにはんどま〜じんばら〜はらば〜りたや〜うん〜〜」

その声に混じって、重たい物を引きずる音が次第に近付いてくる。幽々子は髪を振り乱しながらまた真言を唱えだした。


「ほっとけにはぁ〜さくらのっ花をたてまつれぇ〜〜エイヤッサッ♪ もー幽々子ったらぁ〜どこへいくのよぉ」

幽々子がやってきた方向から、艶やかな表情をした紫がゆっくりと姿をあらわす。鼻歌交じりの彼女の右手には、先程まで自分の式だったものがあった。

「お願いします殺さないでぇ……じぃーっと睨んでる。死霊の群れが、隙を窺って私をとり殺そうと、ああこんなところからも!!」

「幽々子朗報、朗報よ。今さっきかっ捌いてこの目でちゃんと確認してみたけど、こいつも孕んでなかったわ。幽々子は無罪、なぁんもわるくない」

右手で引きずっていた藍を無造作に放り投げて、紫は部屋の隅で丸くなって震える幽々子の下へ駆け寄る。左右で焦点のずれた眼を爛々と輝かせて愛しい人を覗き込む紫、そんな彼女に視線をあわせることなく、幽々子は亡霊へ向かってただひたすら許しを請うた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……私は貴方に憧れていたの。貴方の瑞々しい想い、かつて私にもあったであろうその想いを大切にして欲しいと、そう願っていただけだったの、それだけだったのに……」

「ああ幽々子、でも私は貴方に謝んないといけないの。本当にごめんなさい。貴方のこと疑ってしまったの。本当にごめんなさい。本当に馬鹿よね私……でも私貴方を愛してる。だからたとえ幽々子が誰と肌を重ねようと、褥の上であのぶよぶよに脂ぎった女郎共相手に舌を絡めて腰をくねくね淫らに振ろうと、私そんなのこれぇーっぽちも気にしない。幽々子への想いはそんなもんじゃ揺るがない。ああ幽々子大好き!! 私が今まで生きて見知ったあらゆる高貴なもので例えたとしても、貴方への想いを表現するには足りない。そうなの、だから舌足らずでごめんなさいね。でも好きよ。好き、大好き、大大大大好き!!」

「どれだけ言葉を並べようとも……何を差し出そうとも貴方は私を許してくれないでしょうけれど、でも信じて。私は貴方を応援したかった、この思いだけは純粋なものだったの! 決して貴方の想いを汚そうなんてことは考えてなかった! お願い信じてよぉ……あひぃ」

「ねえ幽々子。だーいすきな幽々子。だからお願い。今生のお願いよ。私にもあれをちょうだいな。こんなにも貴方のことを愛しているのに、誰よりも貴方のことを想っているのに、あいつだけもらえて私にはくれないなんてそんなの酷いじゃぁない。お願いよぉ」

「ひいぃ、殺すつもりなんてなかった。これっぽっちもなかったの。私がみんな悪かったの。あの子の気持ちがわからなくなって、私じゃダメなんだと気付いて、その時貴方が来て、きっと貴方ならあの子の本当の笑顔を引き出せると思って、でもみんなみんな私の独りよがりだった! 誰の気持ちも考えない浅はかな考え、こんな最低の女恨まれて当然。でも貴方を殺すなんて……貴方を殺したくなかった。天子ちゃん、貴方だけは。ああみんな見てる、私が喰い殺した魂たちが、列を成して私をとり殺しにきた!! ごめんなさいごめんな――やめて。いや、いややめてよぉっ!!」

「そんなの許さない、あの天人だけだなんて。私だけ除け者なんて絶対に。私にも……ね? おねがい、私も殺して。あいつみたいに私を殺して? ねえ、ねえってば……お願いだから殺してよぉっ!!」













――あれでしょ? よく判らない事言って判ってるフリしてるだけでしょ?
                    「東方非想天則:チルノ」












 ― 伍 ―


「ちるをみて〜帰るこころやっさくら花ぁ〜むかしにかはるしるしなるらむ♪」

死臭漂う冥界の奥の奥、血肉の腐臭がたちこめる無音の一室に、亡霊のさえずりだけがこだまする。金色の髪をだらりと垂らしながら、独りうずくまる八雲紫はうきうきとした表情を浮かべて大切な人を待ち続けていた。

「うらみじぃとぉ〜思う我さへつらきかな〜とはで過ぎぬるぅ心づよさをぉ〜〜アーエイヤッサアッ♪ ハイッ!……フッフフーン……いにしえのーかたみになると聞くからにーいとど露けき墨染めの袖ぇーフフフフーン……♪」

額の所に人魂模様の三角頭巾が付いた帽子を、彼女はまるで自分の赤子のように慈しみを込めて抱きしめていた。暫く顔を合わせていない愛おしい彼女の忘れ物。そこに付いた微かな残り香を楽しむように、紫は帽子に顔を埋めて頬ずりを繰り返す。その姿は恋する少女そのものだった。


   カタリ

「ゆゆ――」


ようやく開いたふすまの向こうから顔を出したのは、しかし紫が待ち焦がれていた人ではなかった。羽衣をなびかせながら、龍宮の使いである永江衣玖は涼やかな表情をして、奥間にいた紫へ軽く会釈した。

「なんだ貴様は」
「ここにいらっしゃいましたか。お久しぶりです。簡単な報告をと思いまして。」

夢見心地の表情を一変させて、縄張りに入り込んだ小動物へ吠えかかる野犬のような形相をする紫を軽く受け流しつつ、衣玖は言葉を続けた。

「さきほど総領娘様の埋葬を済ませて参りました。ご迷惑かとは思いましたがこちらの冥界に埋葬させてもらいました。なにせ天界は穢れを厭う故、例え同じ天人の亡骸といえど持ち込むことは憚られたようでありまして。ただ天人が下界で亡霊にとり殺されるなどまさに前代未聞、ゆえに天界でもその処遇についてかなり揉めたこともありまして、このように報告が遅れに遅れてしまった次第で。総領様は最後まで一人反対なされていたのですが。」
「そんなことはどうでもいい。幽々子は、幽々子は何処だ!?」

掴みかからんばかりの勢いで吠える紫に、自分の報告が邪険にされたことに少し不機嫌そうな衣玖は答えた。

「幽々子?……ああ冥界の管理者をなさっている方でしたね。彼女とは先ほどまで一緒でしたよ。」
「本当!! ああ幽々子、幽々子はどうしたの? どこどこ、ねぇ何で一緒じゃないの? 私もようやくあの子と同じになれたのに、幽々子が殺してくれて、亡霊になっていつまでも一緒にいられるようになったのに」

振り子のように表情をまた一変させて、尻尾を振る子犬のような声を出す紫とは対照的に、衣玖はあくまで事務的な口調のまま言葉を返す。

「その件で下界は大わらわですよ。貴方が死んだことで幻想郷を囲う結界もいつまでもつことか。今博麗の巫女を中心に幻想郷の有力者たちが一丸となって色々手を尽くしているようですが、まあ崩壊は時間の問題でしょう。貴方もその有力者の一角だったのですから、もう少し自分の立ち位置を鑑みた自覚のある行動をとって頂きたかったですね。龍神様もいたく失望しておられました。」
「黙れ! あんな鳥かごどうなろうと知ったことか、カナヘビの戯れ言など捨て置け! 私は幽々子と一緒にいるんだ。あれは幽々子との新居のつもりで創ったんだ。でも私は馬鹿だった……最初からこうしてりゃあよかったんだ。こうすればずぅっと一緒にいられたのに。余計な奴らに足を引っ張られて決心が鈍っちまった。ああ幽々子になんて悪いことをしたんだろう。もっと早くこうしていれば千年もかからずに済んだのに。あの子を救えなかった償いがいくらでもできたのに。ごめんね幽々子、ずっと淋しい思いさせて本当にごめんね。これからはいつまでも二人っきりで暮らそうね……さあどこだ、幽々子はどこにいる!? 早く呼んでこい!!」




「彼女は成仏なさいました」




嘲るようでも、涙を誘うようでもなく、衣玖はさらりとそう言った。ミミズのようにグニャグニャと蠢いて幽々子への思いの丈を綴っていた紫の顔は、その言葉を聞いた瞬間ぴたりと止まってしまった。まるで衣玖に魔法をかけられて石になってしまったかのように。

いつもはきわめて簡潔な説明しかしない衣玖も、この時ばかりは流石に思うところがあったのか、口をあんぐりと開けたままの紫へ説明を続けた。

「天界からの言伝を持ってこちらにお伺いしたのですが、なぜか気配が全く感じられない。仕方なく裏手に回って人を探しておりますと、倉の前に彼女はいらっしゃいました。それはそれは酷い有様で、柔らかだった御髪は藁づとのようにぼさぼさ、珠のようだった御顔は山姥のよう、御召し物は着ていないも同然といった状態で、さながら屋敷に迷い込んだ野良犬といったなりでした。
 仕方なく彼女に総領娘様の処遇をお伝えしますと、彼女は狂ったような声を上げて泣き叫び、すぐに埋葬しよう、供養をしようと言うのです。確か死霊がどうとか仰っていましたが、なにせ完全に正気をなくしておりましたので、言葉の意味はよくわかりませんでした。ただ桜の木の下に埋めようと、この冥界で一番大きな桜の木の下に埋葬しようとうわごとのように繰り返しますので、総領娘様の亡骸を探しだして一緒にその桜の下まで運びました。」

「ま、まさか、それって……」

「確か西行妖という妖怪桜でしたかね。百姓娘のように鍬を振り下ろしておりましたよ、私がやるという言葉も聞かずに。そうしたら亡骸がいくつも木の下から出てきまして、その中の一つが彼女の亡骸だったようなのです。」

「うそよ……うそ……」

「冥界の姫であられる彼女の力を考えれば、自分の亡骸を御覧になった程度で消滅するなど本来ありえないことだったでしょう。ただ余程衰弱しておられたのか、それとも未練もとうに尽きていたのか、本当にあっけないほど簡単に成仏なさいました。ほらご覧なさい。桜の花びら。あの妖怪桜が満開になったのです。季節はずれの狂い咲きでね。」


「…や゛、ぅぞ、う゛そ……」

「そのままというわけにもいかないので、掘り返した亡骸と、総領娘様の亡骸を一緒にまとめてその桜の下へ埋め直しておきました。それが今し方済んだのでこちらへ報告に参った次第でして。」

「あ゛、あぇ……じゃ、ゆゆこはてんしといっしょにまんかいのさくらのしたで……ぁ、ゃ、うしょ……」


「そんなに悲嘆に暮れるものではありませんよ。別に貴方のせいではない。確かにそれぞれに非があったという考え方も、できないことではないでしょう。

 もしも彼女が一人前の剣士であったなら、主人に襲いかかる狂者を、あるいは主人の迷いそのものを断ち切れたのかもしれません
 もしも彼女が主人を主人としてではなく一人の女性として見れていたのなら、彼女は主人の心の拠り所となれたのかもしれません
 もしも彼女がもっと素直に自分を表現できたのなら、思いを寄せる人ともっと幸福な出会いをすることができたのかもしれません
 もしも彼女が余計な思案を巡らさずに自分の意志を実直に示していたのなら、彼らの間に誤解は生まれなかったのかもしれません
 もしも彼女が過去に囚われず思い人のありのままを真っすぐ見ていたのなら、彼女の想いは受け入れられていたのかもしれません
 
しかしそれが何だと言うのでしょう? 我々は誰一人として“完全”ではありえない。この程度の過ちは多かれ少なかれ誰しもが犯しうるものです。むしろそうした欠点こそが我々の人格を形作っていると言ってもいい。そんなものに事の責任を負わせるなど馬鹿げている。だからこの結末は――おっと少しおしゃべりがすぎてしまいましたね。
それでは報告も済みましたので、私もあるべき所へ帰るとしましょう。では貴方もお元気で。この狭い、鳥かごのような部屋の中、永遠に晴れることのない未練を胸に抱きながら、ひとりきり、いつまでもお幸せに。かつて八雲紫だった亡霊の君。」



ぱたりとふすまが閉じて、また静かになった。




――あ゛ ぁ あ゛ひ……い゛やああああぁぁぁああああああぁあああぁぁああああああぁぁぁぁぁぁ





 
ある晩のことでした。

いつものように布団に入り、求聞史紀のゆゆ様のページを開いて

「今日こそゆゆ様が振り向いてきっとおいらにバニシュデスをかけてくれるお おっおっ」

とwktkしておりますと、ふいに最初に引用した文が目に留まりまして、ああこれでss一本書けるなと思い、予定を変更して本を閉じ、話の構想を練りながら眠りにつきました。

すると枕元に一人の少女が現れてこう言うのです

ゆゆ×ゆか×てんとかマジウケルwそんなのイマドキ流行んないですって。ぶっちゃけあの人たちに幸せなんて訪れるわけないじゃないですか。
やっぱ今ヤバイのは守矢ですよ。二人の神の間で揺れる風祝の愛と涙の物語、これですこれ。マジヤバイですって。全米が泣いちゃいますよ。フルーツ(笑)

朝目覚めると彼女はおりませんでした。きっと神様からのお告げだったのでしょう。その御神託に深い感謝の意を表して、前半部だけ参考にしてこれを書きました。


皆様コメントありがとうございました

>NutsIn先任曹長さん
完全不完全の話は入れるか最後まで迷ったのですが、入れたせいでぼやけたかもしれません。

>2さん
やはり紫が少し出すぎですね。チルノのこの台詞はベスト3にはいるくらい好きです。

>3さん
衣玖さんは書く前はイメージが弱かったのですが、結果的に楽しかったです。

>4さん
やはり紫やりすぎでした。すみません。あそこを一番最初に書きました。

>5さん
やっぱり最後の衣玖さんが説教臭いですね。

>6さん
愉快な悲劇になればいいなあと思って書きました。

>7さん
もう少しフラグを前に出して、幽々子×天子エンドにしようかとも思いましたが、これぐらいにしました。

>狂いさん
藍は難渋しました。藍と紫の関係をもう少しきっちり書ければ、紫の不自然さを多少緩和出来たかもしれません。

>9さん
丁寧なコメント痛み入ります。他の拙作まで読んで頂いたみたいで本当に嬉しいです。
今まで紫を書く際は幻想郷システムの代理人としての面を意識することが多かったのですが、今回は完全に私怨が入ってしまいました。
別の面を書くべきかと思ったこともあったのですが、それ以前の解釈レベルでの私の力量不足に関する正鵠を得た指摘だと思います。ありがとうございます。
レミリアに関してはできるだけ「道化」として扱おうと考えてはいました。なので私自身の認識では持ち上げていたつもりはありませんでした。道化は主役になれませんから。
ただ、そう言う印象を持たれたということは、やはり私の表現に問題があったと言うことだと思います。不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。なにとぞご容赦下さい。
んh
作品情報
作品集:
22
投稿日時:
2010/11/22 12:23:18
更新日時:
2010/11/26 00:47:01
分類
幽々子
天子
妖夢
衣玖
花王愛の劇場
11/26コメント返信
1. NutsIn先任曹長 ■2010/11/22 23:01:56
不完全なものも、お互い欠けているものを補えば、完全となります。

不完全なものに不完全なものを重ねた途端、コンボ発生!!
破滅だ!!破滅だ!!破滅だ!!ヒャッハーーーーーッ!!!!!

合間合間の台詞の引用が良いアクセントになってました。
幸せが来ないのなら、不幸も来ないように現状維持!!これしかない!!

私の脳内神は、寝不足の時に酒と濃い目のインスタント・コーヒーを奉ると、降臨します。
2. 名無し ■2010/11/23 00:03:26
ま た も り や か ! >あとがき
というお約束は置いといて大作楽しませていただきました!
おもろかったああ! そして辛かったあ……
なんて悲しいすれ違いか。特に天子がめちゃんこ可愛かったせいですごく辛い
不幸の連鎖っぷりとその因果がぱねえ
……いや、ぶっちゃけ俺はこれ全部紫のせいじゃんと思うんだがw 衣玖さんにゃあ悪いがw
そして何気に挿入のタイミングが上手いせいでチルノの言葉がすげえ重く聞こえる
3. 名無し ■2010/11/23 00:06:11
前半と後半のギャップがすげえ
発狂ゆかりんがゆゆ様追っかけるところ超こええ…直視できない
しかしこれだけドロドロした人物関係の中にあってただ淡々と出来事を述べる衣玖さん素敵だな
4. 名無し ■2010/11/23 00:16:07
普段はゆかりん大好きだがあえて言わせてもらおう
人 の 話 を き け よ こ の バ バ アァァァ
天子が切なすぎて可愛すぎる…
あとフルーツ、お前は絶対に許早苗
5. 名無し ■2010/11/23 14:22:42
何て教訓的ないい話・・・
ゆかりん頑張れー、地獄よりはきっと楽だ!
6. 名無し ■2010/11/23 20:07:46
「ざまぁw」とは言えない…言う気がおこらない
なんと素晴らしい悲劇
7. 名無し ■2010/11/23 21:06:34
>貴様が正直に言いさえすれば、あんただったら私だって諦められたんだっ!!
これガチで切ないなぁ…
天子ちゃんが天使すぎただけに結末が辛い…
8. 狂い ■2010/11/24 02:30:22
藍様が健気過ぎて生きるのがつらい
9. 名無し ■2010/11/25 01:07:58
つまらん。がっかり。最初はワクワクしたのに。
つーか終始紫がイライラしてんのが不自然すぎてムリ。
狂っていく過程も唐突すぎ。
なんかこいつの作品いつも紫が変に貶められてる感じ。
そのくせレミリアなんかは持ち上げてるし。
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