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『呼ぶ声』 作者: 赤間

呼ぶ声

作品集: 22 投稿日時: 2010/12/08 09:23:22 更新日時: 2010/12/08 22:02:49
 その日の空は吐瀉物と尿を混ぜ込んだような色を塗りたくった気色の悪いものだった。能天気にもふよふよ浮いている曇だけ朱色に染まりその間から除かせた橙の日差しが大地を見下ろしている。
 私は博麗神社の客間で縁側から台所へと流れる風を感じていた。禿げ散らかした畳の目には黒ずみが幾何学模様のように広がって、どこまでも古臭くどこまでも胡散臭い空気を醸し出す部屋は見るものにセピア色の眼鏡をかけさせた。今が夕方だからなのかもしれない。

 どろりとした卵の腐ったものに精液をぶちまけて放置したような、あるいは糞尿の詰まったトイレに顔を沈めたときのような臭いが鼻を刺激する。ここ数ヶ月ロクに掃除もしなければ必然かもしれない、と手のつけられていない台所を見やる。一週間ほど前にみた風景とすれ違うような感覚を覚えて、私以外にもまだここに足を運ぶひとがいたのかと驚きに眉を潜めた。彼女の無二の友人である霧雨魔理沙だろうか。まぁ、あれほどまでに寄ってたかる妖怪たちは、ある日を境に掌を返すようにぱったりとこなくなっていたから、きっとそうなのだろう。
 襖の黄ばんだ布地や縁側に佇む木々には生を感じず、路地裏にひっそりと根を張る卑屈な草の方がまだ生きている気がした。あの日彼女が残した欠損は、この神社の惨状が簡潔に物語っているのだと思う。
 たった一日放置しただけでも薄い膜を張るように降り積もる埃と塵は、歳月をかけてゆっくりと――だが確実に蓄積され茸の胞子よろしくぽふんと舞い上がり、喉に引っ掛かって思わず咳き込む。乾いた声が静寂の部屋に虚しく響いた。
「あや……あやなの……?」
 咳が少し大きかったのか、襖の向こうにいる住人に気づかれてしまったらしい。はいそうですよ文ですよと観念した声色で答えると、襖を隔てた向こう側から甘い撫で声が私を呼んだ。
 私はその声が好きではなかった。パサパサとした洋菓子が喉に張りつくようで、何も言わせなくさせる。彼女と会話するとき、必ずかすれた音しか出せなかった。
「あや。きて」
 短い、だがはっきりとした声色は確かに私を呼んでいた。願望を発していた。切実さを孕んでいた。
 鉛のように思い体を起こして、襖に手をかける。
 そこから一歩を踏み出せない。
 腕に力が入らない。

 霊夢に、会いたく、なかった。



 
 博麗霊夢が病床に伏してどのくらいになるだろうか。青々とした葉が思いきり手を広げ、雨に押し潰され、蝉がけたたましく鳴る季節が過ぎた。乾いた人参の皮のように染まりつつある葉は、文には寝小便をして黄ばんだ下着の色にしか見えない。
 意を決して襖を開けると、錆び付いた鉄と代えられていない湿った下着類から漏れるアンモニアの臭いがした。これでもまだ綺麗な方だ。
 霊夢はオイルを差してないブリキのように首を動かして、揺れる文の瞳を見つけてはにっと笑う。水分のないしわくちゃの唇がひび割れて這うように血が流れている。好きなひとの笑顔は年月と彼女の変化により苦痛へと変わっていった。
「久しぶりですね調子はどうですか」
「んー……まぁまぁかな。最近は動いても辛くない」
「そうですか」
「ほら、ね。喋っていても……げほっ」
 起き上がろうとする霊夢を支えるため背中に手をまわすと浮き彫りになったあばら骨が指先にぴたりと張りつく。また少し痩せましたか、と聞くと、ちょっぴりね、と微笑まれた。ぷっくりとした艶のある肌はザラザラと指の腹にまとわりつき、皮がたるんと垂れていた。目の下には隈が、以前来たときよりも深く掘り込まれ元々大きくぱっちりした瞳はその所為で病的なほど大きく広がっているように見える。黄色く変色した額には皺が刻まれていた。まだ二十にもいかぬ少女は還暦を迎える爺婆のように老けて見えた。
 日に日に彼女は衰えていく。異変解決に赴くどころか、昔のように豪勢な笑い声を発することさえできなかった。蚊の鳴くような声だ。蝦蟇のひしゃげたような声だ。聞くに堪えなくて私は耳を閉ざした。
 できるだけ力をかけずに優しく背中をさすって、水を飲ませる。どうして介護人のようなことをしているのだろうかという疑問は過去に押しやった。
 いや、たぶん。そうしなければいけないという使命感に囚われていたのだ。約束したわけではない。懇願されたわけでもない。私は私の思いで、してやらねばならないという同情を彼女に押し付けていた。
「熱ぅいお茶でも淹れましょうか。たまには、飲みたいでしょう? 味噌汁でも作りましょうか。たまには、啜りたいでしょう? 米でも炊きますか。魚でも焼きますか。たまには、ちゃんとした食事をしたいでしょう?」
「ううん。いいの。……なんだか、食べるの、疲れちゃって」
「それはいけない。食べるものも食べなければ、飲むものも飲まなければ、治るものも治りません」
 それでも、いらない、食べたくないと突っぱねる霊夢に、私は落胆しながらも冷たい瞳で霊夢を見ている。
 我ながら拙い嘘だった。

 空を飛べない巫女を誰が構おうか。
 彼女は老衰とされていた。二十歳にもいかぬ少女が、だ。これが博麗の巫女の終焉なのだ。これが博麗霊夢の最期なのだ。
 あれだけ霊夢、霊夢、と名を呼び続けていた人妖は一瞬にして掌を返した。宙に浮かんでいた霊夢は、そのまま地上へと落とされた。
 確かに妖怪と言うものは元来移り気なのだから、同じ妖怪の身である文としてはわからないこともない。
 それでも近しい、彼女の唯一無二の友人が。いつもなら、毎日といっていいほどそこにいたはずで。
 まあ、彼女にも来難い理由があるのだろうけど。

 福音の響く境内は、閑古鳥が鳴くようになった。神社もろとも巻き込んだ喧騒は嵐が去った後のように閑散とし、立つ鳥は跡を濁す。言葉を上手く重ねられなくても、体が動かずとも、あの喧騒が笑い声が今でも耳の中で渦巻くように何度も何度も再生されるのだと。壊れたテープレコーダーみたいね、と彼女は筆を執りそう紙に綴っていた。それを見つめて、私は口を開かずにはいられなかった。
「もういいんじゃないでしょうか。霊夢」
 もう終わっていい。巫女として死ななくてもいい。
 そりゃあ今までとは多少扱いが酷くなるだろうし、精神的に辛くなるかもしれない。だが、それはあくまで杞憂なのだ。杞憂のまま終わらせることはできるはず。
「次代も、八雲紫が血眼になって探しています。それまでには、もう、すっぱり切ってしまって、いいんじゃないでしょうか」
 真剣だった。真剣の中に、冷酷さがのたりのたり揺れている。
 実際もう用なしなのだ。ただ生きているだけの人間が、どうしてこんなところにいるのか不思議に思うほどだった。
 いつまでここに居座るつもりなのか。汗がひとつ私の頬を撫でる。
 霊夢はカピカピに固まった唇を震わせて、ふふ、と笑った。
「わかっているわよ。こんな汚いところで死臭を撒き散らしながら死ぬなってことなのでしょう? でもねえ、無理なのよ。こればっかりは」
「……どうして」
「ここで、あんたに殺されてしにたい」


  ◆


 は。とため息にも感嘆にも似つかわないひとつの息がくだを巻いた。どんな冗談かと腹を抱えて笑いたくなった。しかし彼女の津々とした瞳がどうしようもなく私を射抜くので、笑うことさえできずに頬を引きつらせていた。
「冗談はよしてくださいな」
「冗談。――冗談ならないこともないわ」
 その言葉はひどく哀愁に濡れて私の手の甲へと流れ落ちた。きらきら光って、それでいてぬらぬら滑っている。強情な彼女から初めて漏れ出した感情が私の心を強く打ち付けた。
 冗談ならないこともない。彼女はそれぎり言葉を発さず、ぽっかり空いた鼻の上にある二つの空洞に僅かな光をくゆらせながら私の言葉を待っているかのようだった。今まさに、そう、今、殺してくれるのを待っているかのようでもあった。
 私は霊夢の右手を力強く握り締めた。思い切り良く、最大の力で。すると若枝が折れるような音がして、彼女の右手はあっさりと粉砕した。痛いとも言わなかった。ただそれが彼女の盛大なる覚悟である、変えられない証拠となったのだ。
「もっと痛いですよ。しぬのなら」
「構わないわ」
「私が構います。だって私は加害者になるのですから。殺人として捕まるなんて、嫌なんですよ」
「逃げてしまえばいい。そしたら私はいつの日か忘れ去られるだろうから」
 巫女の交代なんてそんなものだ、と続けて呟いた。確かにそうですねと私も頷いて、それでも殺したくは無いと思った。今まで私の奥底で震えていた冷気も吹き飛ばされて代わりに熱気が湧き出してきた。火の粉のように舞い上がるそれを掴んで温めることさえ潔しとしなかった。私は心に閉めた蓋の裏側にこんな気持ちを貼り付けていたのだ。
 厭らしく薄汚いものを拾ってしまったと、今更ながら後悔した。
「貴方は覚悟を見せてくれましたね」
 霊夢の折れた右手は綺麗な白紙を皺になるほど掻き回したもののように拉げ崩れていた。ひとつ触ればその拍子にぼろぼろと形が無くなってしまうのではないかと思った。私は今彼女の右手を殺したのだ。
 右手を殺すことと持ち主を殺すことに、いったいどれだけの差異があるというのだろう。その事実に驚愕した私は、然し妙に納得した。これは彼女の覚悟であり決断であるからして、私の淫らな感情に振り回された結果ではないということである。
「覚悟?」
「殺される覚悟です」
「そんなものはないわ。私は思い切りがいいけれど、それに対する度胸が無いから」
「その右手はどうしてしんだの」
「文が勝手に殺しただけ」
 私はその言葉に息を飲んだ。それから喉に痰が絡みついて中々取れてくれなかった。霊夢はあらあらと言ったぎりヒビのある唇を歪にした。この状況でも、彼女は笑っていられた。
「ねねね。早く」
 強請る視線が私の瞳と交わった。彼女の目端に溜まった目脂とシミと深い堀の崖に、きらきら光る雫が止まらず溢れている。羨望の眼差しだった。然し絶望でもあった。私は直視することができずに目を逸して、神経のもげた右手を取った。力なくだれたそれに、頬を摺り寄せる。
 手の甲と接吻を交わしながら、舌を少しだけ出して唾液を絡ませた。指の線に沿って指先へと舌を移動する。指紋の剥がれたつるつるした指の腹を口に含んだ。骨が砕けて一部を腫れ上げている。気にせず口内で犯した。
「んあっ……」
 長く伸びた爪には垢が詰まっている。白くそれでいて黒い線を這わす爪を噛み切った。がちがち歯と爪が噛みあう音が薄暗い部屋に響く。時折届く霊夢の嬌声は、私の頬を濡らす薬味に他ならなかった。
 ちゅ、ちぅ、と指先を吸ったり唇で挟んだりして弄りながら霊夢の味を堪能した。甘やかで深みのある味。塩気と垢のざらざらした味わい。柔らかい指の腹と、骨の拉げた岩のような感触。霊夢の全てを感じるには、指先で充分だったのだ。
「ふ、んふ……はぁっ」
 含んでいた指先を唇から離すと、霊夢は名残惜し気に顔を歪めた。
「貴方の味もこれで仕舞いですか。なんだか、悔しいですね」
「体まで貪っていくかと思った」
「私のものにしてしまったら、きっと私はもう本当に殺せなくなる」
「文らしいわね」
 ふくく、と霊夢は笑った。少女の頃に見たあの笑顔が一瞬だけ戻ってきた気がして私ははっとした。然し既に面影は消えて、皺くちゃの婆がそこにはあった。


「声、聞こえてる?」
 闇に包まれた部屋で、暗闇に慣れた瞳を動かして霊夢を見据えた。頷くと、彼女は笑った気がする。
「私文に会えて、よかったわ」
「私も。霊夢に会えて、暇が潰れました」
 はっきりと霊夢の輪郭が線となり目に映る。昔に戻れた気がした。宴会で酔いつぶれた彼女をひょんな心持で介抱したあのときから、私は目を奪われてしまっていたのだ。年相応の、彼女の魅力と妖艶さに。
 揺れる霊夢の首筋に手を這わす。びくりとひとつ震えて、喉が持ち上がり、また沈んだ。脈打つ血液。いつかその鼓動は止むのだと思っていた。それが今だとは知らなかった。知り得なかったのだ。
「あや。きて」
 短い、だがはっきりとした声色は確かに私を呼んでいた。願望を発していた。切実さを孕んでいた。
 私は静かに頷いた。皺が取れて、彼女は美しい女になった。
 馬乗りになり、指に力を籠める。くぅと鳴る声に心が粟立つ。
 ヒビ割れたくちびるは尚半月を描いていた。
 私はそこに自らのそれを重ねた。
あなたがいればしんでもいい
赤間
作品情報
作品集:
22
投稿日時:
2010/12/08 09:23:22
更新日時:
2010/12/08 22:02:49
分類
霊夢
1. 名無し ■2010/12/08 20:15:06
すばらしい
私、こういうの大好きよ

でも字が小さいと目がしょぼしょぼしちゃってねえ
2. NutsIn先任曹長 ■2010/12/08 21:16:50
省みられぬ英雄の末期に訪れた、死肉をついばむカラスが一羽。

英雄を愛するカラスは、喝唖と啼いた。
3. 名無し ■2010/12/08 23:05:15
素晴らしい
それしか言えない
4. 穀潰し ■2010/12/09 01:28:12
溜息しか漏れねぇ……。
こんな綺麗な文を書きたい。
5. 名無し ■2010/12/09 21:17:13
これは愛の話以外の何ものでもありえない
文章もすごく心に響くものだった
6. 名無し ■2010/12/10 20:38:40
醜い霊夢は嫌いだ。でもこの霊夢が持つであろう心は好きだ。
それを愛する文は美しく、そしてこの物語は美しい。
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