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『collapse』 作者: pnp

collapse

作品集: 22 投稿日時: 2010/12/22 12:29:34 更新日時: 2011/01/02 21:00:54
 聖白蓮は時計を見た。彼女一人しかいない空間で、物静かに時を刻んでいた時計は、短針が「11」を指し示したばかりであった。
 窓の外を見てみたが、真っ暗で何も見えない。次に僧房の出入り口の方を見やったが、何の変化もない。
 彼女の仲間たちは、宴会に出かけている。白蓮は今回、留守番の役を担っていた。
思えば、魔界から出てきて以来、催された宴会に、白蓮は全て参加していて、彼女以外の誰かが留守番をしていた。
ならば、たまには私が残ろうと、自ら今回の留守番役に名乗り出たのだ。
 出掛けて行く仲間たちに、「あまり遅くまで遊んでいてはいけませんよ」と、子を諭す母親みたいに忠告はしておいたが、やはり効果はなかったようだ。
しかし、それも無理のないことだと、初めから白蓮は思っていた。彼女の仲間たちは、もう子どもではないのだから。
仲間たちもまた、白蓮のそんな言いつけは守らずとも平気だと分かっていた。
どちらも、端から忠告を守らせる気も、忠告を守る気もなかったのだった。


 朝帰りも覚悟していた白蓮だったが、不意に呼び鈴がなり、ぱっと出入り口を向いた。
仲間たちであれば、いちいち呼び鈴など鳴らさずに入ってくるであろう。
こんな時間に来客とは珍しい、などと思いながら、白蓮は客人を迎えに小走りで出入り口へ向かい、扉を開けた。
「お待たせしました」
 開いた扉の向こうには、二名の妖怪がいた。
 一人は桃色の髪と半開きの目、そして胸の前あたりにぶら下がっている赤い眼のオブジェが印象的な少女。
もう一人は、赤い髪から飛び出ている猫の耳と、黒づくめの服が目を引く少女。こちらの方が、桃色の髪の者よりも背が高い。
「こんばんは」
 桃色の髪の少女が口を開いた。
白蓮もこんばんは、と返し、何用ですかと問う。
「私は古明地さとり。地霊殿と言う所から参りました」
「御苦労さまです。私は聖白蓮と申します。して、ご用件は?」
「三名の妖怪を探しています。村紗水蜜、雲居一輪、封獣ぬえ。ここにいると聞いたのですが」
「ええ、ムラサ達なら、ここで暮らしています。しかし」
「今は外出中、ですか」
 白蓮が言うより先に、さとりが三人の行方を言い当ててしまったので、白蓮は心底驚いた。
そんな反応を受け、さとりは胸の前にある赤い眼のオブジェをゆらゆらと揺らして見せ、
「見えるんです。心の中が」
 一言付け加えた。その後、すぐに頭を振った。
「そんなことはどうでもいいのです。いないのならば仕方がありません。三名に伝言を頼めますか?」
「勿論です。どうぞ」
「早急に地底界へ帰還しろ。こうお伝えください」
「え?」
「よろしく頼みました。では、失礼します。行くわよ、燐」
 さとりはさっさと踵を返し、歩み出した。燐と呼ばれた赤い髪と猫の耳は、はいと返事し、さとりの後ろに付いて同じように歩む。

 だが、白蓮はさとりの伝言の内容が、どうしても納得できなかった。
「あの!」
 真意を問おうと、白蓮が去りゆくさとりを呼び止める。
さとりは立ち止まって白蓮を振り返る。眠たいのか、不機嫌なのか、生まれつきか、はたまたその全てか、相変わらずの半開きの目が、ぎろりと白蓮を睨みつける。
「何か」
「地底界へ帰還とは、一体」
「言葉通りの意味です。彼女らは地底界に封じられていた妖怪でしょう。早く戻って来てもらわねば」
 白蓮が魔界へ封じられていたように、水蜜や一輪らも地底に封じられていた。この話は、彼女らから直接聞いたことがあった。
しかし、どうして地底へ戻らなくてはならないのか、白蓮には理解しかねた。
ぬえはともかく、水蜜らは悪事を働いた訳ではない。白蓮を恐れた人間たちに身勝手な束縛を与えられてしまっただけだ。
ぬえだって、人々の憶測が恐ろしい鵺を生み出しただけであって、本来の姿はそう他の妖怪と変わらない。
地底界へ封じられるに値する理由は無い――少なくとも、白蓮はそう思った。
「水蜜も一輪もぬえも、昔と違います。もう地底界にいる必要なんてない」
「必要、不必要の問題ではありません。彼女らは地底界の妖怪なんです。地底界では、よっぽどの理由がない限り、地上への移住を認めていませんから。好き勝手されては、こちらも迷惑なんです」
「では、どうして急に帰還など」
「それはあなたには関係の無いことです」
 さとりはそう一蹴し、再び踵を返した。
 去っていくさとりの背を見た白蓮は、小さな焦燥感に駆られていた。
このまま何もせずにさとりを帰してしまっては、水蜜達を取り巻く環境は何も変わらない。
秘密にしておくと言う手もあるが、それもそう何日も持つ訳ではない。
 しかし、即座に有効な手立てを思い付くことのできなかった白蓮は、
「待って下さい」
 これと言った考えも無いまま、再びさとりを呼び止めた。
さとりはやはり立ち止り、振り返る。ただでさえ不機嫌そうな目が、より一層不機嫌さを増したような気がした。
「まだ何かあるんですか?」
 問われて、改めて白蓮は大した考えを持っていないことを思い知らされた。
しどろもどろしながら、あちこちに目を泳がせ、やっとの思いで問いへの答えを導き出した。
「あの、話し合えませんか?」
 どうにかして彼女を説得し、水蜜達の地底界への帰還を防ごうとした。
だが、さとりは相変わらずの表情のまま、頭を振る。
「話し合う余地などありませんよ。今の彼女らがどんな素行であろうと、彼女らは地底界の妖怪ですから。帰還は絶対です」
「どうしても、ダメだと言うのですか?」
「どうしてもです」
「そうですか……」
 無情なさとりの返答に、白蓮は俯いた。
堪忍したかと、さとりは試しに心を読んでみた。そして、白蓮の諦めの悪さに、思わずため息をついた。
あまり見知らぬ者に対して失礼な態度を取るのは、ペット達に示しが付かないので控えていたのだが、今回は耐えきれなかったらしい。
「抵抗、するんですか?」
「言葉は不要のようですね」
 言うより先に真意に気付いてくれたさとりを見据え、白蓮は手の内に一つの光弾を生み出した。
弾幕勝負の合図だ。
それを見たさとりは、それまでの不機嫌そうな表情を一変させ、待ってましたとでも言わんばかりの笑みを浮かべた。
人差し指を立てて、その先に、白蓮と同じように光弾を生み出した。くるくると人差し指を回していく内に、光弾は段々と大きくなっていく。
「さて、何を賭けましょうかねえ」
 これから始まろうとしている遊戯が楽しみでしかたないのであろうか、さとりの口調はやけに明るい。
ぴんと人差し指を弾いて、光弾を反対の手の上へと移動させ、ころころと掌の上で弄ぶ。
「私が負けたら、この件であなたのお仲間に関わることを止めてあげましょう」
「ええ」
「では、私が勝ったら……そうですね」
 拳大の大きさになった光弾を見つめながら、さとりは暫く思慮を巡らせていた。
そして、不意にばちんと光弾を握り潰した。潰された光弾の破片が、指の間から圧し出されて、地面へと落ちて行く。
「地底界へ同行を願えますか?」
「私が?」
「そうです」
 自分を地底界へ連れて行き、人質として拘束でもするつもりなのだろう――白蓮はさとりの意図をこう推測した。
 勝てば今まで通りの平穏が戻ってくる。負けてしまったら仲間に多大な迷惑をかけることになるかもしれない。
だが、これで戦いを拒否してしまえば、何の進展も無いまま事が終わってしまう。これでは本末転倒だ。
「分かりました。約束しましょう」
「決まりですね」
 さとりはにんまりと微笑んだ。そして、大量の光弾を発生させた。負けじと白蓮も、勝らずとも劣らない大きさの弾幕を作り出す。

 二つの弾幕が衝突し、命蓮寺は閃光に包まれた。


*


 夜道を、五名の妖怪が歩いている。皆、同じ場所を目指している。命蓮寺だ。
自分たちが宴会でバカ騒ぎしている間に命蓮寺で何があったのか、彼女らは知らない。
 完全に酔い潰れてしまい、足元が覚束ない状態の村紗水蜜に、虎丸星が肩を貸している。
意識を朦朧とさせながら、譫言をぶつくさと呟いている水蜜を見て、星は苦笑いを浮かべた。
「飲み比べなんてするから、こんなことになるんですよ」
 無謀にも小鬼に飲み比べを挑んだ結果が、今の水蜜の醜態の原因だ。
星は水蜜の身を案じて注意をしたのだが、酔い潰れている彼女に効果は全くないようだ。
「だって、もうちょっとだったもの、もうちょっとで勝てたもの」
 彼女は善戦したと豪語しているが、実際は小鬼の足元にも及んでいない。酒の所為で記憶が曖昧になっているのだ。
 星はそうか、それはよかったと、虚偽の善戦を称えたが、そのすぐ横を歩いていたナズーリンは、彼女の妄言を鼻で笑い飛ばした。
「何がもうちょっとだ。完敗だったろう」
「何をぉ? 戦わずして逃げ出した癖にぃ」
「勝てない戦いを挑むものじゃないよ。勇気と無謀は別物だ」
「言わせておけば、ナズーリンのくせにっ」
 飛び掛かろうとした水蜜だったが、星の支えを失った途端に地面へ倒れ込んでしまった。
それを見込んでいたらしいナズーリンは、その場から一歩も動くことなく、地面へ倒れ込んでいく水蜜を横目で眺めていた。
星が水蜜を起こし、あんまり水蜜を構わないであげてとナズーリンに忠告した。
 帰宅寸前になって眠ってしまった封獣ぬえをおぶっている雲居一輪は、少し遠巻きにその光景を眺めて、一人微笑を浮かべていた。


 酔い潰れた者、眠ってしまった者を連れて、やっとの思いで命蓮寺に到着すると、手ぶらのナズーリンが命蓮寺の扉を開けた。
「ただいま」
 一応、出発前に白蓮が夜遅くまで遊んでいてはいけないと忠告していたのだが、彼女は何の躊躇いも無く帰宅を伝えようと声を上げた。時刻はもう0時を過ぎている。
忘れていたのだ。まるでそれが当然のことのようだった。
 だが、いくら待てども返事は来ないし、灯りが点くこともない。
「もう寝てしまったのかな」
 相変わらず規則正しい生活をしているな、と感心していると、背後から灯りを付けてと言う一輪の声が飛んできた。
ナズーリンは壁に手を這わせて照明のスイッチを探した。
元来の勘の良さとダウザーの物探しの力が合わさって、すぐにスイッチを見つけ出し、それを押した。
 河童が作ってくれた発展途上の照明技術であるが、大して広くない僧房を照らすには事足りる。小さな電球が、僧房を照らし出した。

 そこでようやく、彼女らはこの場の惨状を知った。
 まるで爆発でも起きたかのように、床が、壁が、天井が、大きく損壊していたのだ。
正体不明の瑕に囲まれたナズーリンは、一瞬息を飲んだ。
「な、何だ? これ」
 水蜜、ぬえは眠ってしまっていたので反応しなかったが、意識がはっきりとしている三名は呆然と僧房内を見回した。
 ここで何かあったことは、この惨状が大いに語っている。次に彼女らが思ったのは、白蓮の無事だ。
 白蓮を探して、彼女の寝室に一目散に駈け出したのは一輪。
もしかしたら寝ているかもしれない、という考えは頭の中にあったのだが、そんなことは全く考慮せず、乱暴に扉を開け放った。
「姐さん!」
 一瞬の轟音の後、暗く静かな白蓮の寝室には、一輪の荒れた呼吸の音だけが木霊した。
きっちりと整えられた空っぽのベッド。動かされた形跡の無い椅子。窓から入り込んできている月光が、部屋の中を寂しげに照らしていた。



*



 酔い潰れていた水蜜と、夜の内に眠ってしまったぬえ以外、誰一人眠らずに、朝まで白蓮の帰りを待っていた。
途中、厠へ行こうと起き出して来たぬえもその時事情を知り、他の者と白蓮を待った。
しかし、やはりと言うべきだろうか、彼女は戻って来なかった。
 白蓮がどこに行ってしまったのか、彼女らには皆目見当がつかない。だが、何かしら面倒なことに巻き込まれているであろうことは、何となく想像できた。
そうでなければ、出入り口付近の巨大な損壊の説明が付かない。
 憔悴しきっている一輪と、じっと一点を睨みつけ続けている星に、ナズーリンが淹れた茶を置いた。
二人ともありがとう、とは言ったものの、手を付けることはなかった。
 陽が昇って来た頃になって、二日酔いでぐらぐらする頭を撫でながら、水蜜が起き出してきた。
「おはよう」
「ああ、ムラサ。おはよう」
「? 朝からどうしたの、みんな」
 事態を知らない水蜜に、ナズーリンが簡単な説明を入れる。
事の重大さをようやく認識した水蜜は、昨晩から続いていた腑抜けた様子を一変させた。
それでも、手掛かりなど何一つ持っていないので、何か行動を起こせる訳でもなく、おろおろと狼狽するばかりであったが。
結局、その場をうろうろした挙句、水蜜は星の隣の椅子に座り、大きなため息をついた後、頭を抱え出した。頭を抱えたのは、二日酔いによる頭痛ばかりが原因ではないだろう。

 外が明るくなり始めた頃になって、知人を回って白蓮の行方を調査しようか、などと考えだした頃だ。
不意に呼び鈴が鳴った。
 沈み切っていた一同は一斉に顔を上げた。一瞬、皆の脳裏に、白蓮の帰還と言う可能性が過った。
出入り口は鍵を掛けてある。それを見越した白蓮が、解錠を頼もうと呼び鈴を鳴らしたかもしれない――
 ぬえが飛びつくように扉へ向かい、解錠し、扉を開いた。


「おはようございます」
 開かれた扉の先にいた者が、とびきりの笑顔で朝の挨拶をする。いたのは白蓮ではなかった。
白く長い髪と、黄や濃緑の衣服。そして、胸の前で揺れている、青い眼のオブジェ。
 客人の姿を見たぬえは、思わず目を見開き、一歩退いた。ぬえが見せた反応に、誰もが顔を顰め、客人の姿を確認する。
 反応が分かれた。
 昨晩、白蓮の元を訪れた古明地さとりが帰還を命じた三名――村紗水蜜、雲居一輪、封獣ぬえ――は、酷く驚いた様子を見せた。
だが、そうでないナズーリンと虎丸星は、初対面のこの客人を見ても、何も思わなかった。むしろ、酷く狼狽した仲間たちの方が気になるようであった。
「ムラサ、あの子を知っているの?」
 星が問うと、水蜜は視線を客人に向けたまま、黙って頷いた。表情は険しいが、客人の詳細については語ろうとしない。
それも尋ねようとするより先に、一輪がどこか忌々しげな口調で、星の知らない名前を口にした。
「古明地こいし……」
 客人の名前は知れたが、やはりその詳細については分からない。
だが、彼女を知っているらしい三人が、誰もあまりいい表情をしていないところを見ると、この客人はあまり歓迎されていないのが窺える。
 歓迎されていないことは、客人である古明地こいし自身も分かっているようであるが、嫌がられるのは慣れっこなようで、別段表情を変えることもなかった。
相変わらず無垢な笑みを保ったまま、ぺこりと一礼し、再び口を開いた。
「一輪さん、水蜜さん、ぬえさん、お久しぶりですね」
「本当にね。会いたくなかったわ」
 ぬえが嫌悪感を剥き出しにして言った。それでもこいしは笑んだままだ。この笑顔が崩れることはあるのだろうかと、星は思った。
「今日は伝言を届けにきました」
「伝言?」
 ナズーリンが反芻すると、こいしは頷き、先を続ける。
「お姉ちゃんからです」
 お姉ちゃん、と言う単語が出た瞬間、地底界にいた三名の心臓が口から出ようとせんばかりに跳ね上がった。
実のところ、こいしがここを訪れた時点で、誰もが漠然とした不安を感じていたのだ。
そしてその根拠の無い不安は現実となって、今まさに彼女らへ襲い掛かろうとしている。
心密かに身構えている三人をそれぞれ一瞥した後、こいしは姉――古明地さとりに頼まれた言葉を伝える。
「村紗水蜜、雲居一輪、封獣ぬえ。以上三名はすぐに地底界へ帰って来なさい」
 やはりそのことかと、三人は唇を噛んだ。地底界の者でない二人は、急な要請に目を丸くするばかりだ。
だが、それ以上に気にかかることがあった。白蓮の行方だ。
白蓮の失踪はこの件と関係があるとは明言されていないが、誰もが関係していると睨んだ。
「聖はどこへ?」
 水蜜が問うと、こいしはこくりと頷いた。
「地霊殿にいます。でも安心して。弾幕ごっこでちょっと怪我をしただけだから」
「どうして聖を地底界に!」
「詳しくは地底界に戻ってお姉ちゃんに聞いて下さいな」
 どうあっても三人を地底に帰したいらしく、それ以上こいしは何も語らなかった。
「それでは、地霊殿で待っています」
 そう言うと再び一礼し、くるりと可愛らしく踵を返し、去って行った。



*



 土蜘蛛の驚きと喜びに満ちた挨拶。橋姫の憎らしげな視線。鬼達の歓迎の辞。
そんなものを一身に受けながら、五人はようやく地底界を管理している古明地さとりの住まう地霊殿へ到着した。
 巨大な玄関口の傍に備え付けられた呼び鈴を鳴らしてみると、すぐに化け猫の火炎猫燐が接客にやってきた。
扉を開ける前から愉快そうな声で「はいはい、ただいまー」なんて言っていたが、扉を開けて客人の正体を確認すると、目を丸くし、声が更に快活さを増した。
「ああ、これはこれは命蓮寺様ご一行! さとり様がお待ちしていましたよー」
「ご託はいいから、早く主の所へ案内して」
 燐の精一杯の歓迎を、星は鬱陶しげに一蹴した。勿論、燐は皮肉のつもりだったので、星の冷やかな対応も嬉しいようだ。
「あらら、これはごめんなさい。さあさあ、こちらですよ」
 演技がかった恭しい態度で、五人を招き入れる。
近くを浮遊していた怨霊にさとりに来客を知らせるよう指示した後、五人を向き直し、笑顔で言った。
「ようこそ地霊殿へ! そして、おかえりなさい地底界へ!」
 終わりの一句が気に入らなかったらしいぬえが、燐をぎろりと睨みつけたが、燐は鼻で笑ってそれをかわした。




 応接室で五人を待っていたさとりは、見知った三名の他に、見知らぬ二名が付いてきたことに首を傾げた。
「そちらの二名は?」
「私は虎丸星。こっちがナズーリン。命蓮寺で生活をしています」
「そうですか。初めまして、古明地さとりです。地霊殿の主をやっています。伝言を頼んだのは私の妹の古明地こいし。玄関で応対したのはペットの火炎猫燐です」
 星らには別段興味が無いようで、さとりは淡々とした口調で自分の身の回りの簡素な紹介をした。
紹介を受けた二人は、手を振ったり、会釈したりするに留まった。
「しかし、困りましたね。地底界は仲良し同士が寝泊まりする場所ではないのですけど」
「?」
「星さんに、ナズーリンさん。あなた方は地底界に住まう権利が無いです。この後、すぐにお帰り頂きますよ」
「そんなこと分かっている。こんな薄暗い所に、誰が好きで住むもんか」
「ああ、なるほど。尚早でした。お見送りですね、三人の」
「見送りでもありません」
「はあ」
「誰一人として、地底界にはよこしませんから」
 確固たる決意を込め、星ははっきりと言い切った。この一言を受けたさとりは、半開きの目を更に細めた。
胸の辺りにぶら下がっている赤い眼のオブジェ――第三の目も、ぎろりと星を睨みつける。
さとりと星の視線がぶつかる。お互いに視線を外すことをしない。
 暫く無言で睨みあっていた二人だったが、さとりがその静寂を破った。
「こいしはちゃんと伝言できてましたか?」
「私はちゃんと知らせたよ! 水蜜達は早く地底へ帰って来いって」
 自分に非は無いことを強調したいらしいこいしが声を上げた。
「勿論です。妹さんはちゃんと知らせるべきことを知らせました」
「では、あなた方が応じる気がないと言うだけのことなんですね?」
 さとりは声色に凄みを利かせて言い放ったのだが、星は物怖じすることなく、更に脈略も無視し、一番聞きたいことを問い返した。
「聖はどこに?」
 怒気と嘲りが混じり合った口調で放たれた星の一言は、応接室に再び静寂を呼び戻した。
 言葉が出てこないのは、まさか意表を突かれたからと言う訳ではないだろうということは、命蓮寺の誰もが分かっていた。
実際、さとりは星らを見た時点で、白蓮のことについて文句を言ってくるであろうと予測していた。心を読む能力を使わずとも知れることだ。

 ふっと小さくため息をついた後、さとりがある方向を指差した。
誰もがそちらを向いたが、特に何も無い。何を表しているのかと問うように、視線はすぐにさとりへと戻っていく。
「白蓮さんはあっちにある部屋に拘置しています」
「やっぱりあなたが」
 一輪が口を挟んだが、さとりは意に介さず言葉を続ける。
「だけど、ちゃんとした部屋ですよ。ベッドもありますし、求められれば本くらいなら用意できますし、中庭なら散歩も可能ですから、暇も潰せます。食事も三食、栄養バランスを考えてしっかりと与えていますしね。燐は料理が得意なんですよ」
 ふっと微笑んで、さとりが横目で燐を見る。褒められた燐は、えへんと胸と張った。
そんな彼女らの平和なやり取りも、不幸の真っ只中にいる命蓮寺一行からすればいちいち癪に障る動作だ。
「部屋がどうとかなんて関係ない! さっさと白蓮を返して!」
「そう簡単にはできませんよ。弾幕ごっこを行い、正当な手順で拘留させてもらったのですから」
「と言うことは、聖を解放する気がない訳ではないんだね?」
 ナズーリンが問うと、さとりはすぐに首を縦に振った。
「こちらの要求を呑んでもらえれば、すぐに解放しますとも」
「要求とは?」
「村紗水蜜、雲居一輪、封獣ぬえの地底界への帰還です」

 なるほど、これは簡単で分かりやすい要求だと、燐がくつくつと笑った。
 一方、明快かつ冷酷な要求を突き付けられた地上の面々は、唖然としたまま固まってしまった。
白蓮を地上へ戻すには、自分たちが地底界へ帰らなくてはいけないと言うのだから、無理もない。
それは即ち、よほどのことが無い限り、もう白蓮と一緒に暮らすことはできないと言うことだ。白蓮が地底界へ送還されるに値する悪事でも働けば、話は変わってくるであろうが。
「そんなの、そんなの酷過ぎる!」
 ぬえがやっとの思いで声を張り上げた。だが、さとりは冷静だ。
「酷いことなどありませんよ。そもそもあなた達の地底界への帰還は義務ですから」
「どうせ無理矢理弾幕で勝負させたんでしょ!? そんなの認められる筈が……」
「いいえ。お互いの要求を出し合い、合意した上での弾幕ごっこでしたよ。嫌なら拒否できたんです。何なら今から白蓮さんをここへ呼んできて証言させましょうか?」
 自信満々のさとりの態度に、反論の言葉を失い、ぬえは悔しそうに唇を噛む。
「それなら、白蓮に会わせてもらえる?」
 苦し紛れに水蜜が放った一言にも、さとりは躊躇うことなく頷いて見せた。
「勿論です。燐、白蓮さんを」
「了解です」
 燐はさっと敬礼した後、できるだけ静かにドアを開閉して部屋を後にした。
無言のまま、沈んだ表情の命蓮寺一行に、
「お茶のお代わりはいかがですか?」
 さとりが問うた。


*


 燐が部屋を後にした数分後、応接室にノックの音が響いた。その音に次いで、燐の声がした。
「失礼しまーす。白蓮さん連れてきましたー」
 応接室内の誰もが扉を注視する。
 がちゃりと音を立ててノブが回り、扉が開かれた。先に入ってきたのは燐。入室と同時に恭しく礼をした。
普段の彼女はここまで改まってはいない。だが、命蓮寺の連中をおちょくるつもりで、努めてこんな態度をとっているのだ。
 礼の後に振り返って、「どうぞ」と一言。
 言葉に次いで姿を現したのは、地上からの客人全員が会いたいと切望していた人物――
「聖!」
 水蜜が反射的に声を上げた。
 仲間の前に姿を現した白蓮は、一瞬嬉しそうな表情を見せた後、すぐに悲しそうな表情になった。
自分が不甲斐無いばかりに、仲間に多大な迷惑を掛けてしまったことを恥じているのだ。
 すぐさま白蓮に駆け寄る五人。こんな様でも、まだ自分を慕ってくれていることに、白蓮は感謝の気持ちでいっぱいになった。
「皆さん……」
 そんな仲間たちに何かを言おうとして、しかし大した言葉は見つからず、
「本当にごめんなさい。私がもう少ししっかりしていれば」
 当たり障りのない謝罪に留まった。
「聖! 何ともないの!?」
 謝罪の言葉もろくすっぽ聞かず、ぬえが問うた。
「ご飯が貰えないとか、虐められてるとか!」
 これで白蓮が、何かしら非人道的な仕打ちを受けていたとしたら、それを叩くことで優位を得ることができる――そんなぬえの魂胆は、
「そんなことはありません。食事も用意してもらえていますし……強いて言えば地霊殿から出られないのが不自由ですけど、これは仕方のないことでしょう」
 脆くも打ち砕かれた。
嘘でもいいから虐められていると言ってくれればいいのに、という言葉を、ぬえは飲み込んだ。
 そんなやり取りを見ていたさとりは、くすくすと笑った。
「必死ですね」
「全くです」
 燐も薄く笑いながらさとりに同意した。
 いちいち人の気を立たせる言動をしてくるさとりらを一瞥した後、今度は星が尋ねた。
「聖、弾幕で負かされてここへ拘留されたと言うのは本当なんですか?」
「残念ながら。合法的な手段を用いられました」
 地霊殿側の対応には、何の非も無いことは、白蓮も感じていた。
出任せでそれを覆してしまうと、悪者は命蓮寺側になってしまう。三人の帰還要請は、地霊殿の主である古明地さとりの、立派な責務の一つであるからだ。
だが、相手側の責務だからと言って「はいそうですか」と従うには、あまりにも残酷な内容だ。今まで営んできた幸せな生活が崩壊するのだから。
 打つ手は無いものかと、誰もが無言で考え込んだが、名案は出てこない。
そんな彼女らの表情を見た白蓮は、堪らず口を開いた。
「私のことはいいですから、みんなは地上で今まで通り……」
 本心では、また地上で皆と暮らしたいと願ってはいるが、それはもう叶いそうにない――早々に白蓮は、幸せの放棄を始め出した。
 星がすぐさま頭を振る。
「そんな訳にはいかない!」
 白蓮のいない命蓮寺がどんな有様となるか、彼女は一番よく知っている。
魔界に白蓮が封じられている間、寺は荒れに荒れて、彼女の手に負える状態ではなくなっていたのだから。
白蓮がいなくては、命蓮寺は成り立たない。命蓮寺が成り立たなくては、幻想郷の多くの者の希望を断つこととなる。
そして何より、苦労してようやく手に入れた、六人で過ごす日々が終焉を迎えてしまう。
白蓮は、彼女らになくてはならない存在なのだ。
「お願いだから弱気にならないで、姐さん」
「聖がいない生活なんて嫌だからね!」
 見え隠れする絶望を撥ね退けようと、皆、口々に言葉を重ねた。
 それが収束した頃を見計らい、さとりがぱんぱんと手を叩いた。しんみりとした空気に全く相応しくない手拍子だった。
「そろそろいいですか?」
 問うてはみたものの、否とは言わせる気が無いようで、反応を見るよりも速く、燐が白蓮を部屋から引っ張り出してしまった。


 白蓮が去り、重苦しい空気が立ち込める中、さとりは星を見据えた。一応、星をこの団体の長だと思っているのだろう。
「あの通り、白蓮さんは元気です。間違いありませんね?」
「ええ」
 悔しいが、それは認めざるを得なかった。
「よろしい。そして、白蓮さんを地上へ戻したいのなら、三名は早急に地底界へ帰還すること。分かりましたか?」
 これに対しては、誰も返事をしなかった。まだ粘るのかと、さとりは大きくため息をついた。
睨みつけるような目で自分を見ている五人をさとりが一瞥する。呆れを通り越し、怒りが込み上げてきた。あまりにも不愉快だった。
「帰りましょう」
 星の一言で、命蓮寺一行は揃って踵を返した。
 去っていく五つの背に向かって、さとりが声を掛ける。
「一週間、待ってあげます。一週間後、帰還の決心を固めなさい」
「誰が帰るもんかっ」
 ぬえが振り返って、ぺろりと舌を出す。この間に開いてしまった僅かな差を小走りで埋めた。
いちいち癪に障るガキだ殺してやろうか――呪詛は口から漏れることなく、胸の奥に引っ込ませた。
「尚、この一週間は期限です。これを越えるようでしたら、こちらも相応の手段を取らせて頂きますから」
 この一言は、帰ろうとしている五人を足を止めた。お前の話など聞く気は無いと言う細やかな反抗心すら失せる一言。
「相応の手段って……?」
 水蜜が問うたが、さとりは肩をすくめた。
「ご想像にお任せします」
「まさか聖を!」
「さあ、どうでしょうね。しかし、今の私は非常に虫の居所が悪い」
 言い終えると同時に、さとりは乱暴に椅子に腰かけた。そして、目の前の紅茶に角砂糖をドボドボと放り込み出した。
何かしていないと、目の前の我儘な妖怪どもをどうにかしてしまいそうな気分であったのだ。
 過剰な糖分を持った冷たい紅茶を一気に飲み干し、カップをソーサーに放るように置いた。
口の周りを手の甲で拭い、一息ついた後、ぎろりと五人を睨みつける。その目は、妹のこいしすら滅多に見ることのない目だ。姉が本気で怒っている――人知れず、こいしは身震いした。
「何が起こっても、文句は言わないで頂きたいです。絶対にです」
「ふざけないで! 聖に何かしたら承知しないんだから!」
「さっきからごちゃごちゃうるさいな! 白蓮を地上へ戻したければ四の五の言わずに地底界へ戻れと言っているんだよッ!!」
 遂に激昂したさとり。第三の目もギンと見開かれた。
ぬえ以外の者は皆、良からぬ雰囲気を察した。ぬえだけは怒れるさとりに触発されて、同じように吼える。
「殺してやる! お前が死ねば聖だって!」
「ああやってみろ! 鵺風情がやれるものならな!」
 ごっこではない戦いが始まろうとしたその瞬間、こいしがさとりを、星がぬえを引き止めた。
「お姉ちゃん落ち着いて!」
「止めなさい、ぬえ!」
 この状態ではもう話は出来ぬだろうと、星らはぬえを宥めつつ、地底界を後にした。


 彼女らが帰った後、さとりは深呼吸し、気持ちを静めた。感情に身を任せて相手を傷つけてしまうと、こちらが不利になってしまう。
危ないところだった――自らの行動を戒めた。
 廊下で応接室の様子を窺っていた燐が、恐る恐る応接室に入ってきた。
「さとり様、大丈夫ですか?」
「ええ。悪かったわね。見っとも無い姿を見せてしまって」
 燐はとんでもないと、首を振った。
 気持ちの昂りが静まったところで、さとりは立ち上がり、テーブルの上の食器を盆に載せ始めた。
「こいし。それから、燐」
「はい?」
「なあに?」
 呼ばれたこいしと燐は、同時に返事をした。
「頼み事があるの。空にも手伝わせなさい。いい? ……」






 命蓮寺は静かだった。
 与えられた一週間と言う猶予は、命蓮寺の面々からすれば、短いようで、長いようで、とにかく、極めて苦しい時間となっていた。
白蓮を助ける術を考えるには短すぎるし、何もできないと指を咥えるだけには長すぎる――
 帰宅早々、水蜜は自室に籠ってしまった。ナズーリンも疲れ切った表情で机に突っ伏し、一輪もお手上げだと言った感じに頭を抱えた。星は皆を気遣い、一人、茶を淹れ始めた。
 そんな絶望感が漂う中で、ぬえの瞳だけがギラギラと輝いていた。
まるで、兎を狩る獣の眼だ。殺意、欲望、決意、そんなものが瞳の中で渦巻いている。
――ああやってみろ! 鵺風情がやれるものならな!
 脳内で何度もこの言葉が響いていた。
今のぬえからすれば、あの一言は、自分への宣戦布告だとしか思えなかった。むしろ、そう思うことで、合法的にさとりを始末できると踏んだ。
もはや白蓮を助け出すには、あの憎き地霊殿の主を黙らせる以外に方法は無いとぬえは思っていた。
 あの冷静であったさとりが、感情的になってあんなことを言ってくれたのだ。好機と取らない手は無い。
「やってやる……私だけでも、聖を……さとりを」



*



 最初の地底界訪問から三日後の真夜中、ぬえはこっそり地底界を訪れた。
誰もが寝静まっているであろう夜を狙って、さとり殺しを実行しようと決め、地底界に赴いたのだ。
 真夜中ではあるが、さすがは妖怪ばかりの地底界と言うべきか、眠らずにいる者もいた。
そんな者らになるべく見つからないよう、ぬえは地霊殿へと向かってひた歩く。


 かなり遠回りをしたが、――ぬえの感覚的には――誰にも見つからずに地霊殿へ辿り着けた。
地底界で楽しく暮らしている者らの活気も、地獄烏の核融合の轟音も無く、不気味なほど静かで、暗い。
 呼び鈴など押さず、そっと玄関扉を開いて、ぬえは地霊殿内に足を踏み入れた。
自分の息遣いが妙に大きく聞こえてしまうくらい、中も静かだ。吐息が白くなってしまうのではと思える程空気は冷たく、緊張感を増長している。
 足音を殺しながら、ぬえはさとりの居場所を探して歩み、幾つもある扉の傍に掛けてある札を、目を凝らして確認しつつさとりがいるであろうを探す。。
暗くて長い廊下には、自分以外の生物の気配が無い。薄気味悪いのは確かだが、侵入者の身としては安心であった。
このまま誰にも見つからずにさとりを見つけてしまおう――少しだけ歩む足を速めた。
 だが、ぬえが廊下の半ばまで到達した瞬間だった。
 まるで空間から気配が現れたかのように、本当に唐突に、ぬえ以外の生物の気配が現れたのだ。
その気配の無さと言ったら、何者かに後ろから抱きつかれ、胸元にまで手が及んでくるほどであった。
ぬえが気付いた頃には、その誰かに、くすりと笑って挨拶を済ませることができる程の隙を与えていた。
「こんばんは、封獣ぬえさん。こんな夜中に何か御用ですか?」


 いとも簡単にぬえの背後へ立った者の正体は、古明地こいしだ。彼女は無意識を操って、他者に気付かれることなく行動できる。ぬえが気付けなかったのもこの為だ。
 咄嗟にぬえが放った肘打ちを間一髪で避けたこいしは、ゆらゆらと危なっかしい足取りのままぬえと対峙する。
相変わらず何を考えているのか分からない笑顔を浮かべている。攻めるか退くかの判断にも迷ってしまう、全ての感情を隠してしまう笑顔を。
「あんたはこんな夜中に何をしているのよ」
 見つかってしまったと言う焦りをなるべく相手に見せないよう、強気の口調で問うたが、こいしは身動ぎもしない。
「見回りですよ」
「見回り?」
「近い内にあなたがここへ来ることは、お姉ちゃんがしっかり見通していたから」
 ぱちっと鳴らされたこいしの指。同時に、ドアと言うドアをすり抜けて、大量の怨霊が廊下に集結し始めた。地霊殿で飼われている怨霊達だ。
鬼火のような非生物的なものもいれば、腐れた妖精のような形をした者まで、その姿は様々だ。
 あっと言う間に廊下は霊で一杯になった。薄気味悪い霊に囲まれて尚、こいしは微笑んでいる。
 さすがにまずいと踏んだぬえは、退こうと振り返ったが、後ろにも既に敵がいた。
こいしと同じように霊に囲まれているのは、火炎猫燐。死した妖精の頭を、優しく撫でている。
「さあ、行ってきな」
 燐の合図と同時に、廊下の怨霊が一斉にぬえへと襲い掛かる。
怨霊如きに負けるものかと、ぬえは全力でこの怨霊達を潰しに掛かる。もはや静かにする意味も、隠れる必要もない。
たちまち廊下は色取り取りの弾幕が飛び交い、怒号と砂埃の立ち込める激戦地と化した。
 初めはぬえも善戦したのだが、数にものを言わせた怨霊達の強引な戦法に、次第に疲弊していく。
おまけに、怨霊はたとえ撃ち抜いても、暫くすると再び動き出す。彼らには死が無いのだ。
敵は減らないのに、当たらない弾は段々と増えて行く。疲労感が集中力を欠いている所為だろう。
 玉のような汗を額に浮かべ、ぜぇぜぇと息を荒げながらも、ぬえは律義に怨霊殲滅の手を止めない。
ここで怨霊殲滅を諦めることは、白蓮の救出を断念することと同義だ。彼女はまだ、今まで通りの生活をすることを諦めていなかった。


「お疲れ様。結構がんばったね」
 怨霊ばかりに気を取られていたぬえが、轟音の合間に微かに聞き取った声。
声がした方を見てみると、怨霊すら射抜けなくなったぬえの貧弱な弾幕をやすやすとくぐり抜けて、こいしが近づいていた。
咄嗟に標的を怨霊からこいしに代えたのだが、それよりも先にこいしの拳がぬえの腹部に減り込んだ。
 そして、弾幕が途切れた。怒号も沈静し、砂埃は晴れて行く。
 腹部にこいしの渾身の一撃を喰らったぬえは、堪らず床に俯せになって倒れてしまった。
それでもまだ戦う意思はあるようで、どうにか立ち上がろうとしてはいるのだが、体力がそれを許さない。
 燐が怨霊達に労いの言葉を掛けながら、元いた場所に帰そうと駈け出した。
それと入れ違いで、ぬえが今一番殺してやりたいと思っている人物が姿を現した。
「古明地、さとり……!」
 殺気で生物を殺せるものなら、今のぬえならさとりを殺すのは容易であろう。
目つきに、絞り出された声に、少女らしい容姿からは想像もできない殺気が込められている。
嫌われる役目は慣れっこなさとりは、そんなものには物怖じしない。むしろ、こんな状態でまだ生意気な態度のぬえに、ぬえが彼女に抱いていると同等の殺意を覚えた。
「ようこそ、封獣ぬえ。きっとここへ来てくれると、私は思っていましたよ。あなたの心は言っていましたものね。『さとりを殺せ』と」
「こんなことして、ただで済むと思うな!」
「私は自分の命を狙ってくるであろう者から身を護る為に、防犯機能を強化しただけですよ。当初は五名による襲撃を想定していましたので、ちょっと強すぎました?」
「お前さえいなければいいんだ! お前さえ……!」
「人の話を聞かないのね。……まあ、何にせよ、人様の家へ勝手に入ってこれだけ暴れたのです。地上へはそう簡単に帰しませんよ」
 さとりはぬえの髪を引っ張り上げ、牢としての役割を持つ部屋にぬえを放り込んだ。一応、ベッドやテーブルと言った、最低限の家具は整っている。
しかし、白蓮が入れられている部屋と比べれば、その質の悪さは一目瞭然だ。
無理もない。ぬえは白蓮と異なり、さとりから見ればただの悪人でしかない。配慮など必要無いのだ。




 ぬえを監禁し、自室に戻る道の途中、さとりは小さくため息をついた。
「ぬえを獲得したけど、これからどうすればいいかしら」
「白蓮と一緒に捕えておけばいいんじゃないの?」
 居合わせたこいしが提案したが、さとりの表情は晴れない。
「二人も増えちゃ、食費がバカにならないわ」
「ぬえにもご飯あげるの?」
「文句を言われたら面倒でしょ」
 あれこれ考えたが、ぬえの有効な使い方が浮かんでこない。
こちらの手に落ちた以上、ただで再び彼女を地上へ帰してしまっては二度手間だ。白蓮のような交換も利かない。
「ぬえ……鵺……。……そうか、あいつは鵺なんだわ」
「? どうしたの?」
「こいし。明日、伝言を頼めるかしら」







 明くる日の朝、命蓮寺に新たな暗雲が立ち込めていた。
白蓮に次いで、ぬえまでいなくなってしまったからだ。自室におらず、僧房のどこを探しても見つからない。
二人も人がいなくなって、すっかり静かになってしまった命蓮寺。
だが、白蓮とは違い、ぬえがどうしていなくなってしまったのかは、皆、何となく察していた。
「あの子、もしかして地底界に?」
 遂に水蜜が、最も有力と言える説を口にした、その時。
 またも、出入り口の扉がこんこんと音を立てる。
いつかの朝とほとんど同じ光景だ。
 誰も開けようとしない扉は、来客が勝手に開けてしまった。
その先には、誰もが予想した通り、古明地こいしがいた。
「おはようございます。いい朝ですね」
 笑顔の挨拶に、誰も反応しない。「何をしに来たのか」すら、誰も問わなかった。分かっているからだ。
「伝言です。封獣ぬえさんを、こちらで預かっています。夜中からお姉ちゃんを殺しに来たんですよ? ひどいですよね」
「あいつ、やっぱり……!」
 ナズーリンが声を漏らす。いくら白蓮を助ける為とは言え、勝手な行動で余計に事態を混乱させたのが気に入らないのだ。
「伝言ありがとう。それで? 今度は何が望みよ」
「それがですねえ……うふふ」
 こいしは口を抑え、一人で笑っている。
ナズーリンは不機嫌さを隠しきれず、
「薄気味悪い笑いはいいから、さっさと用件を言ってくれ」
 こう吐き捨てると、やはりこいしは笑んだまま、ぱちぱちと拍手をし出した。
「おめでとうございます。白蓮さんが戻ってくるチャンスです!」
 突然、不可解なことを言いだしたこいしに、誰もが怪訝な表情を見せた。
こいしは勿体ぶって、暫くあれこれとお祝いの辞を述べていた。ようやくその辞が終わり、本題に移る。
「大妖怪、鵺。これを地底界に呼び戻せた。お姉ちゃんは、これで妥協してくれるそうです!」
「?」
「ぬえと白蓮さんを交換しませんか?」



*


「今後、ぬえに一切干渉しないと言うのなら、白蓮さんを三日後に地上へ帰してあげるそうです。答えを出さないと言うなら、ぬえをお返しします。ただし、白蓮さんはそのままですよ」
 こいしはそう伝え、地底界へ帰って行った。

 四人はこの件の詳細を聞こうと、地底界へ赴いた。
明朝にも関わらず地霊殿へ赴いてみると、眠たそうな目をしたさとりが出迎えてきた。
「こいしに聞かなかったんですか? あの子が言った通りですよ。ぬえは私を殺しに来た。それを迎撃し、捕えた。鵺程の恐ろしい妖怪を帰還させることができて、私はもう満足なんです」
 昨晩、おかしな時間に起こされたのが原因で、さとりは寝不足で至極機嫌が悪かった。反論の隙さえ与えないで、言葉を紡ぐ。
「それに、どうせ何を言ったってあなた達はこちらの要求になんて応じないんでしょ? 白蓮を返せ。しかし自分は地底界へ戻りたくない。これが続くくらいなら、私が妥協しますって。もう水蜜と一輪は地底界に戻って来なくて結構。ぬえをこちらに渡すのであれば、白蓮さんは地上へ帰しますから」
 そう言いながら、さとりは一枚の紙とペンを、星の前に差し出した。
「この取引が成立したと言う証明書になります」
 星は、証明書に書かれている文章を読んだ。確かにそこには、ぬえと白蓮を交換する、と言う旨の文章が記されている。
これにサインをした瞬間、ぬえは永遠に地底界の住民となり、白蓮は以前提示された一週間の期限の終了と同時に地上へ帰される。
白蓮を連れ戻す為に、ぬえを贄にしろと言うのだ。
 星は、恐る恐るペンを取った。
――白蓮がいなくては、命蓮寺は成り立たない。しかし、ぬえがいなくとも、命蓮寺は成り立つ。
 白蓮とぬえを天秤に掛けてみれば、勿論ぬえが掲げられる。言うなれば、彼女はおまけなのだ。付属品にすぎないのだ。あってもなくても、どっちでもいいのだ。
 しかし、良心がサインを許さない。
ぬえがいなくなって、白蓮が戻ってきたとして、果たして自分たちは幸せなのか?
 だが、命蓮寺の癒しを、白蓮の優しさを欲している妖怪達からすれば、ぬえや、星らの幸せなど二の次だ。
ぬえを呼び戻す。これは、地上で苦しんでいる多くの妖怪たちの希望を断つことに繋がる。

 ペンを持ったまま微動だにしない星。見かねた燐が助言をする。
「何を迷ってるんだよー。ぬえは元々、命蓮寺の妖怪じゃなかったんだろ?」
 くつくつと笑った後、更に言葉を続ける。
「前の前に夢見てた生活が戻って来るんだよ? これを逃さない手は無いんじゃないの?」
 言葉の終わりとほぼ同時に、ナズーリンが手に持っていたダウジングロッドで燐に殴りかかった。
燐は素早く身をかわし、ひゅうっと小さく口笛を吹く。
「黙っていろ」
 凄みを利かせたナズーリンの一言。
「怖い鼠ちゃんだな。嬲り殺されたいの?」
 燐は明るい口調で言い返した。
 それ以上の言葉の応酬はせず、ナズーリンは星に囁いた。
「ぬえを捨てるなんてできないに決まっている。サインなんてする必要ありません」
「あんたの意見なんて聞いてないぞ」
 燐が横から口出ししたが、ナズーリンは無視して続ける。
「帰りましょう、ご主人様」


 結局サインはせず、ぬえも白蓮も地底界に置いたまま、四人は地上へと帰ることとなった。
 帰っていく四人に向かって、燐が声を張り上げた。
「後三日だよ! 忘れるんじゃないよ!」





 帰り道、誰も何も言わなかった。
地底界は連日のように、地上へ行くことを許されなくなった妖怪たちが、それなりに楽しんで毎日を過ごしている。
何もかもを投げ出して、いっそ地底界で暮らした方が楽になれるんじゃないか――大賑わいの旧地獄を眺めていた星は、そんな気さえし始めていた。
だが、すぐに自分のこの発想が誤りであったことに気付く。彼女は地底に住む権限が無いのだ。白蓮を連れ戻し、水蜜らをここへ送ったって、結局、一緒に暮らすことはできない。
つまり、どうしたって、元の生活なんて送れなくなってしまったのだ。
 否。送れなくなってしまったのではない。そもそも、そんな生活ができていたことがおかしかったのだ。
今までが異常で、今が正常になりつつあるだけ。これが現実なのだ。
 ようやく開かれた口から漏れてきたのは、気休めの励ましの言葉でも、さとりへの呪詛でもない。大きなため息。
絶望感は加速し、気持ちはどんどん沈んでいく。足取りは重たくなる。幸せそうな旧地獄の喧騒が酷く憎たらしく感じられる。
もう、四人でいることが。六人へ戻る術を考えるのが、億劫に感じられ始めてきた。
「どうすればいいのやら」
 疲れ切った苦笑いを浮かべながら、星が他人事みたいに呟いた。誰も何も言わない。問いに対する答えを持っていないから。


 命蓮寺に帰っても、皆、何も言わなかった。
それぞれの自室に籠って、強引に思考を停止させようと、微睡を深めようと努めていた。

 停止寸前の思考で、水蜜はある決意をしていた。
 呪われた海から自分を解放してくれた聖――。
他者よりも、彼女の白蓮への依存度は強力なものだ。
 いつしか、仲間への気配りすらまともにしなくなり始めていたこの面々では、彼女の決意になど気付ける筈がなかった。


*


 眠ろう、眠ろうと思いつつも、結局まともに眠れなかった星が、珍しく寝坊した。
居間へ行ってみると、他の者は既に皆起きていた。
「おはよう。星が寝坊なんて、珍しい」
 一輪がいの一番に挨拶すると、ナズーリンもそれに続いて簡素に挨拶をした。
星もそれに返事をした後、部屋を見回した。
「ムラサは?」
 連日のように人員が欠けていっている所為か、居間に水蜜がいないことに気付いた星は、酷く焦った。
しかし、すぐに一輪が出入り口を指差して、
「どこかへ出掛けてしまったわ」
 落ち着いた口調でこう言った。口調からして、知らぬ間にいなくなった訳ではないことが分かり、星はほっと胸を撫で下ろした。
だが、ナズーリンはこれが気に入らないらしい。
「こんな時にどこへ行ってしまったんだろう」
「行き先までは聞かなかったわ」
「まあ、出掛けていると言うことが分かっているなら、いいではありませんか」
 皆、一晩過ごしたら鋭気が回復したのだろうか、昨晩程の重苦しさは感じられない。
その雰囲気に飲まれていると、星も少しだけ活力が湧いてくるような気がした。

 そんな中、
「ただいま」
 水蜜が帰って来た。普段の水蜜らしい、どこかのんびりとした声。
「噂をすれば、ご本人の登場だ」
 ナズーリンが苦笑する。
 自分が噂の種になっていることなど知らない水蜜が、小走りに居間へやってきた。
居間にいた全員の視線が、水蜜に集中する。そのどれもが、どこかにやけているので、水蜜は自分の身なりに何かおかしな点があるのかと勘違いし、裾を引っ張ったり、髪を撫でたりした。
「な、何?」
「何でもないですよ。ところで、どこへ行っていたのです?」
 星が問うと、水蜜はああと呟いた後、一枚の紙を星に見せた。そして、にっこりと笑んでみた。
 だが、紙を凝視した星は水蜜とは対照的に、目をビー玉よりも丸くした。何かを言おうとして、しかし言葉は出て来ず、ぱくぱくと口だけが動く。

「聖が帰ってくるわ」
 水蜜が言った。目尻に、雫を湛えながら。






 電灯を点けても薄暗く、時々爆音染みた音が木霊して耳に痛く、歩き回るには狭すぎ、動かないには退屈すぎる――
そんな、どうしようもなく住みづらい部屋の中で封獣ぬえは、動くか待つか、起きるか眠るかの判断すらできずに、何をしているのかさっぱり分からない時間を過ごしていた。
部屋に時計が無いので時間の確認もできない。
与えられる食事から、何となく昼夜を推測することができた。
いくら地底界と言えども、朝からステーキを食い、夜がパンとサラダとヨーグルトとハムエッグと言った軽食で済ませる、なんて家庭はなかなかないだろう。
でも、頭のおかしい地霊殿の主ならありえるかも、などと、ぬえは心中で毒づいていた。
 一番最後に食べた記憶のあるステーキの味を思い出していると、突如燐がノックもせずに部屋へ入ってきた。
「おはよう、ぬえ! いい朝だよ、ほら」
 そんなことを言いながら燐が扉の向こうを見せるが、見えるのは無骨な土の壁の前に立っているさとりだけである。
ぬえは無言で燐を睨みつけていた。冗談としても面白くないし、そもそも面白くても笑う気分ではない。
 燐は朝食をぬえの前に置き、さっと後退した。入れ違いでさとりがぬえの前に立つ。
「ご機嫌如何ですか? ぬえ」
 さとりに問われたが、ぬえは完全に無視し、パンを齧り始めた。さとりには目もくれない。
会話などしたくないし、言葉を発さずとも、さとりと会話できるからだ。
「最悪ですか。まあ、それはそうですよね」
 心を読んで見えたぬえの心の声を返答として受け、さとりは独り言みたいに会話をする。
そして、一呼吸置いた後、こう切り出した。
「報告することがあります」
 どうせろくなことじゃないんだろうと、やっぱりぬえはさとりを無視した。次にサラダに手を付け始めた。
無視されていることなど気にせず、さとりは話を続ける。
「あなたにはもうすぐ、ここを出て行ってもらいます」
 ぬえの食事の手が、一瞬だけ止まった。意外といい知らせであったからだ。
だが、やはり視線と意識は朝食に向いたままだ。
用が済んだならさっさといなくなれ、食事が不味くなる――報告を聞いて芽生えた感情はこれだ。
悔しいが、燐は料理が上手なようだ。視線に晒されたまま食事するのは、気分がいいものではない。
 そんなぬえの心の声を、さとりは全部お見通しだ。
だが、嫌な気はしなかった。
この生意気な妖怪が絶望に飲まれる瞬間、一体どんな顔を見せてくれるのか――さとりは楽しみで楽しみで仕方がなかったから。
「聖白蓮の解放と同時に、あなたは地底界の妖怪になります」
「は?」
「命蓮寺が取引に応じてくれたのですよ」
 そっと、一枚の紙を放る。ゆらゆらと、小枝を離れる枯れ葉のような軌道を描きながら、紙はぬえの手元へ落ちる。
それは、封獣ぬえをこちらに地底界に渡せば、聖白蓮を地上へ開放する、と言う取引の成立を証明する紙。
 地底界の代表者の名前には『古明地さとり』と記されている。隣には同じように、命蓮寺の代表者の署名欄があった。
そこには、見慣れた名前が書いてあった。
『村紗水蜜』 と。


 唖然としたまま紙に目を落としていたぬえが、ゆっくりと、さとりの顔を見上げた。
 目が合うと、さとりは笑んだ。嘲笑だった。
『お前は命蓮寺に捨てられたのだ』
 さとりの笑顔は、そう物語っていた。


*


 壁に穴が開くのではないかと思える程に強く、一輪が壁をぶん殴った。
幸いにも、傷ついたのは壁と、一輪の手だけに留まった。もう少し彼女が理性を失っていれば、その拳は壁でなく、水蜜を捉えていたことだろう。
当たりさえしなかったものの、憤怒を表すには十分すぎる効果があったようで、水蜜は目を丸くして硬直してしまった。
 猛烈な怒りと悲しみに打ちひしがれている一輪は、身を震わせながら口を開いた。
「どうして?」
 一輪の気迫に完全に怖気づいている様子の水蜜は、薄く笑いながら首を傾げる。
「い、一輪? 何を怒って……」
「どうしてあんな取引に応じたの!? 私たちの意思も確認しないで!」
 声を荒げる一輪。委縮しながらも水蜜は、つっかえつっかえ喋り始めた。
「早かれ、遅かれ、こうなるべきだったんだよ。私たちは」
「こうなるべきだった? ぬえを地底界に置き去りにして、白蓮を地上へ戻して暮らすべきだったと!?」
「火炎猫燐が言ってたじゃない」
 ぽつんと、水蜜の口から漏れた一言。
「ぬえは、元々私たちの仲間じゃなかった」
 本心が姿を表した、とでも言うべきなのだろうか。
憎き敵であった筈の者の言葉を引っ張り出し、肯定して吐き出される、水蜜の思い。
「ぬえがいなくても、私たちは幸せだった! 私たちは楽しく暮らせていたじゃない!」
 震える声を強引に矯正するかのような、暴力的で、力任せの金切り声。
「前の前に戻るの! 聖が封印される前に!」
 ほろりと、目尻から雫が零れ、頬を伝う。
その雫は、一体何を表しているのか。ぬえへの深謝か。一輪への恐怖か。遂に見え始めた希望か。
 それはもう、一輪には分からなかった。
「大丈夫だよ! 私たちは、まだ大丈夫! やり直せる! だから、分かって。分かってよ、一輪」


 水蜜のそれが伝染したかのように、一輪の双眸からも涙が流れた。
くすん、くすんと、嗚咽が響く。
 一輪は、頭を振った。
「もう、無理よ」
 水蜜の目が、またも一杯に開かれる。
無言のまま、水蜜は手を差し伸べる。離れてしまいそうな一輪を。時事と言う荒波に呑まれて、揉まれて、消えてしまいそうな一輪を引っ張り上げる為に。
 だが、その手は何も掴むことができなかった。
「もう終わりだよ! 私たちは!」
 涙を拭いながら、一輪は振り返り、自室へと駈け出した。
乱暴に開かれ、そして同じように閉じられた扉。開閉の音は、居間にいる三人の耳に、やけに大きな音に感じられた。


 嵐は治まった。
 ほんの一時であったと言うのに、その爪痕は、修復さえ許さないくらい深く、大きなものだ。
「……悪くないもん」
 傷跡のど真ん中に佇んでいる舟幽霊は、譫言みたいに呟いた。
「私は悪くないもん! 私は、私は正しい! 私は間違ってなんかない! みんな、みんなこれを望んでたんでしょ?」
 荒波の中で仲間を見失い、いつの間にかすっかり大人しくなった海原で独りになっていた舟幽霊は、縋る思いで仲間を探し始めた。
「ねえ、ナズーリン?」
 名前を呼ばれたナズーリンは、気まずそうな顔を見せた。
望んでいなかった、と言えば嘘になる。しかし、絶対に望めばそれはきっと罪となる。
皆、それが分かっていた筈だ。分かっているからこそ、答えを出し渋り続けたのではないか。
 何も言わず、ナズーリンは俯き、消極的肯定を示した。
「星!」
 ナズーリンがその気で無いと知り、水蜜は反射的に、残った星に賛成を求めた。
星は、魂が抜けたみたいに、呆然と突っ立っていた。
水蜜の視線に漠然と気付いた時、ふと我に返り、
「ああ、うん」
 一言呟いた。抑揚の無い声。賛成とも反対ともとれない。もはや、単なる空気の振動でしかなかった。
 そんな空気に振動に、水蜜は笑顔を見せた。
「よかった」

 二人の血の通わないやり取りを目の当たりにしたナズーリンは、思わず身震いした。





 水蜜の帰還から、約一時間が経過した時だった。
乱暴な開閉を受けた扉が、再び同じように開閉した。
 その音で、全てを投げ出したい気持ちに駆られたまま、テーブルに突っ伏して眠っていた星が目を覚ました。
長時間、自分の腕に目を埋めていた為、視界が妙にぼやけていた。
そんな視界のまま、目を凝らしてみると、見慣れた人影がすたすたと歩いていくのが見えた。
「一輪……?」
 星は椅子を立ち、速足で歩いていった一輪を追いかける。方向的に、彼女が向かっているのは玄関口だ。
「一輪、どこへ行……」
 一輪の姿を見た星は、言葉を最後まで発することができなかった。
彼女は大量の荷物を持っていた。大きな鞄を背負い、背負いきれないものは手に持ち。
 星の声が届いたのだろう。一輪は立ち止り、くるりと振り返る。その瞳は、哀愁に満ちていた。
「星。今までありがとう」
「え……何?」
 無理な背負い方をしているらしい背中の荷物に生じたずれを修正し、一輪は尚も言葉を続ける。
「私はもう、ここにはいられないわ」
 仲間が去ろうとしている。一人二人がいなくなって大騒ぎになった、かつての仲間が、自ら去ろうとしている――
悪い夢であってくれと星は願うが、これは現実だ。
「待って、待って下さい。まだ、全てが終わった訳ではありません。聖が戻ってくれば、もしかしたらぬえを救う方法を……!」
「そうなったらいいわね」
 一輪は、精一杯笑って見せた。全てを投げ出し、身勝手に去っていく自分にできる、最後の応援だと思った。
 再びずり落ちてきた背中の荷物を背負い直し、一輪は踵を返す。
「さようなら」
 それから一度も振り返ること無く、一輪は命蓮寺を後にした。


*


 三人になった夕食の席は、寂しいものだった。
誰も一切口を利かず、半分失敗したみたいな星の手料理を貪る。ただでさえ不味い料理が、雰囲気と言う調味料を加えられて更に不味くなる。
かちゃかちゃと、食器同士がぶつかり合う音ばかりが、長々と寂しげに木霊していた。
 そんな中、ようやく人の言葉が聞けた。
「御馳走様」
 食事の終わりを告げる、水蜜の一声だった。

 そそくさとその場を後にする水蜜。星とナズーリン、二人きりの場となった。
 ここぞと言わんばかりに、ナズーリンが星に喋りかける。
「ご主人様」
「ん」
「これからどうするおつもりですか?」
 ナズーリンは真剣に尋ねたのだが、
「さあ」
 星はまるで他人事のようにさらりと言ってのけた。
「さあって……一輪もいなくなって、ムラサもあの状態です。何か手を打たないと!」
「聖が帰ってきます。それからでいいんじゃないですか?」
「……本気ですか? このまま聖が帰って来て、何もかもが解決してくれると、本気で思っているんですか!?」
「もう私になんてできることはありませんよ」
 そう言って星は、くすっと笑った。
ろくに手を付けていない料理が載った皿を持って台所へ行き、その全てをゴミ箱にぶち込み、水の張った桶に食器を放り、そのまま寝室へ向かって行った。
 取り残されたナズーリンは、苛立ちを出来る限りフォークに込めて、床へ思い切り叩き付けた。
だが、フォーク如きでは、彼女の苛立ちの四分の一も受け持ってはくれなかった。
 冷めたことで究極の不味さを手に入れて、もはや食べられる物ではなくなってしまった星の失敗作を皿ごと床へ落とし、ナズーリンはぐずぐずと咽び泣いた。
全てが変わってしまったこと。そして、もう戻れないこと。それを思い知らされたから。
立ちはだかる残酷すぎる現実に対して、ちっぽけな彼女は抵抗の術など持っている筈もなく、ただただ泣くしかなかった。





 翌日の朝、何をするでもないのに、星は癖で早く目覚めた。
眠る気はなかったから、そのまま起き出して居間へ行ってみると、ナズーリンがいた。
 思わず、星は苦笑した。
――なんで、私ばかりなんだろう。

 ナズーリンの姿は、昨日の一輪とほぼ同じだった。小さな体に、要領よく沢山の荷物を背負っている。
 星と目が合ったナズーリンは、驚くでも、悲しげにするでもなかった。
「待っていたよ、ご主人様」
「待っていた?」
「最後くらい、挨拶をしたかったから」
 荷物を置き、ナズーリンは深々とお辞儀をした。
「今までありがとうございました。あなた方と過ごした日々は、とても楽しかったです」
 星は何も言わないで、ナズーリンを見据えていた。
「私は臆病者です。一輪が出ていかなければ、こうしようとは思わなかったでしょう。嗤ってくれて構いませんよ」
「どうしてですか? あなたまで、ここを見捨てるんですか」
「……怖いんです」
 星は首を傾げて、その先を促す。
「聖が帰ってくるのが怖いのです」
「どうして? あの聖が帰ってくるんですよ。地底界の妖怪など……」
「そうです。あの仲間想いで、お節介で、優しい聖が帰ってくるんです。ここに!」
 ナズーリンの口調が激しくなっていく。
「ぬえは地底界に取り残された。一輪は出て行った。水蜜は気が触れる寸前で、あなたさえ善悪の判断もつかない脱け殻だ!」
「ナズ――」
「そんなあなた達を見てッ!!」
 星の言葉を遮って、ナズーリンが吼える。主従の関係が、あれよあれよという間に崩れて消えていく。
「こんな、こんな私達を見て……聖が今まで通り笑ってくれると思いますか?」
「……まだ、希望は断たれた訳ではありません。まだ……」
「なら、あなたはそうすればいい。私はそんな不安定なものを当てにしたくない」
 そう言いきるとナズーリンは荷物を背負い、星の横をすり抜けた。
星は、彼女を見ることもしなかった。虚ろな目で、前方を眺めているだけだった。
「お元気で。さようなら」
 素っ気無い分かれの句を言った後、ナズーリンが命蓮寺を出た。


 御供の鼠が、尻尾を伝って、彼女の肩に移動してきた。
その鼠を撫でて、ナズーリンはふっと笑んだ。
「さあ、どこへ行こうか」





 人知れず起き出していた水蜜は、星とナズーリンの話を聞いていた。
遂に二人になってしまったのだな――水蜜は先に立つ困難を思い、ため息をついた。
 ナズーリンが出て行ってから一歩も動いていない星に、水蜜が語りかける。
「二人になっちゃったね」
「……」
「大丈夫、大丈夫。聖が帰って来て三人。大丈夫だよ」
「ええ」
「がんばろうね、星。幸せになろうね」
「ええ」
「絶対だよ。絶対だからね」
「ええ」





 明日には聖が帰ってくる――星はため息をついた。
どうして聖が帰ってくるのがこんなに憂鬱なのだろうか。最初はこの瞬間を、皆で望んでいた筈であったのに。
 ナズーリンの言葉が蘇る。
――聖が今まで通り笑ってくれると思いますか?
 この件に関わった中で、恐らく最も深いため息が漏れた。
「笑ってくれる筈がない」
 口に出してみて、改めてそう感じた。
 こんな状態の寺を聖に見られた時、どう弁明すればいいのか、星は考えた。
水蜜はきっと、「自分は正しい」の一点張りで譲ろうとしないだろう。埒が明かない。そうなれば、聖の怒りの矛先は、恐らく自分に向けられる。
 考えれば考える程気が滅入ってしまった。どうして自分が叱咤されなくてはいけないのか、まるで理解ができない。
 自分も全てを捨てて逃げ出してしまおうかとも考えてみたが、行く当てなどないし、水蜜があまりにも不憫に感じられてしまう。
彼女に全てを押し付けて逃げ出すことは、星にはどうしてもできなかった。持ち前のバカ正直さが裏目に出た瞬間と言えるだろう。
 それでいて、もうこれ以上責め立てられるのは嫌だった。
 水蜜は「がんばろう」と言ったが、何をがんばるのか、これ以上どうがんばればいいのか、星には理解ができなかった。
さんざん苦しみ抜き、悩み抜いた挙句、更に苦しみ、悩み、足掻けと言う水蜜。



 誰もいないどこかへ行きたい。何も考えなくてもいい場所へ行きたい――。
 考えに考えた結果、気付いた。現実に、そんな場所は存在しないと。







 夜が訪れた。
 お腹を空かせた水蜜は、食堂の椅子に座ってじっと星を待っていたが、いつまで経っても彼女が食事を作る気配がしない。
とうとう待ちかねて、席を立ち、星の私室へ向かった。
 とんとんとドアをノックする。
「星ー。ご飯まだぁ?」
 扉越しに問うてみたが、返事がない。
開けるよ、と一言添え、扉を開ける。


 部屋の中は、真っ赤だった。床、壁、家具、全てが赤色に染められている。
その赤の中心に、星が横たわっていた。その喉には、汚らしい刺傷が幾つも刻まれている。
手には、やはり真っ赤になっている包丁が握られている。
 全ての重圧から解かれるべく、星は自らの命を絶った。その表情は、何も表してはいなかった。
安からかでも、苦しげでもない。全くの無表情だった。

 水蜜がすとんとその場に腰を落とした。自分を置いたまま、星までも去ってしまったことが、あまりにもショックだったようだ。
 泣きながら星の亡骸に縋り付く。揺らしても叩いても、当然のことながら、星は目覚めない。
僅かに残った温もりを感じようと、水蜜は星の亡骸に抱きついて過ごした。空腹などどうでもよくなっていた。
その生命の余韻も、時と共に確実に薄れていく。薄れていくに連れて、星の死が現実的になっていくのを感じた。



*


 星が単なる冷たい人形と化した頃、玄関の呼び鈴が鳴った。
 水蜜はぱっと起き上がり、けたたましく鳴り響く呼び鈴のある玄関の方を見やった。
 心臓が大きく脈を打ち出す。こんな所を誰かに見られたら、何を言われるか分かったものではない。
慌てて星の死体を片付けようとしたが、死体を仕舞う場所が見当たらない。更に、ぶちまけられた血の処理は、そう易々とできるものではない。
 結局何も手に付かず、慌てふためくばかりの水蜜の耳に、声が聞こえてきた。
「誰か開けて!」
 水蜜は体を震わせた。
声は、聞き慣れたものであった。聞き慣れていたからこそ、彼女はこんなにも震えているのだ。
どこか幼げで、快活な少女の声。紛う筈がない。封獣ぬえだ。彼女が地底界に差し渡した、大妖怪鵺の少女の声だ。
 地底界にいる筈の彼女が、どうして命蓮寺にいるのか。水蜜はますます混乱し始めた。
 おまけに、彼女はぬえに対して大きな負い目を抱えている。彼女を地底界に置き去りにしたのは、他ならぬ水蜜だと言っても過言ではないだろう。
そんな状態なのだから、この突然のぬえの来訪は、報復をしに来た為ではないか、と警戒するのは無理もないことだろう。
 玄関口にはぬえ。後ろには星の骸。
罪に板挟みになった水蜜は、どうすることもできず、縋る思いで星であったものに抱き付いて震えた。




 地底界から逃げ出した封獣ぬえは、自分を捨てたらしい命蓮寺を訪れていた。
捨てられただの何だのと言えども、結局彼女の居場所はここしかなかったのだ。
ぬえの行方を考えたら、彼女を知る者であればまず思い付くであろう命蓮寺に向かったのは、帰巣本能みたいなものであろうか。
 呼び鈴を連打し、扉を何度も叩き、声を張り上げる。
「ねえ! 誰もいないの!? 開けてったら!」
 やけに切羽詰まっている様子なのは、地底界からの追手がいるからであろう。
中に水蜜しかいないのを、彼女は知らない。だが、水蜜しかいないのを知っていても、きっと彼女は助けを求め続けたことだろう。
 水蜜は、彼女を中に入れる勇気がなかった。ぬえの感じている恐怖を汲み取ってやれる程、心に余裕はなかった。
自分を恨んでいるであろう者が、外でここを開けろと叫んでいるのだ。恐ろしくない訳がない。
 ぬえが助けを求めていることには薄々感づいていた。しかし、開ける勇気はやはり湧いてこない。
 そんな風に間誤付いている内に、
「一輪! 星! 水蜜! ナズーリン! 誰でもいいから、早く……」
 不自然にぬえの声が止んだ。追手が、ぬえを捕まえたのだ。

 肩に乗せられた小さな手。
ぬえが恐る恐る振り返ると、赤い髪の化け猫がにっこりとほほ笑んでいるではないか。
「地底界から出るなとさとり様に言われなかった?」
「……!」
「さあ、地底界へ帰ろう。ねっ」
 ぬえの襟首を引っ張って、扉から遠ざけようとする燐。
ぬえは必死に抵抗し、尚も叫び続ける。
「ねえっ! 誰もいないの!? お願い開けて! 助けて! 地底になんていたくない! 私もみんなと暮らしたいの!」
「ダメダメ。みーんな、あんたなんて要らないってさ」
「みんな……みんな本当に私が嫌なの? みんな私が嫌いなの!? 一緒にここに住んでいいって言ってくれたじゃない! ねえっ!」
「……ほらね、返事がない。諦めなよ」
「嫌だ! 地底になんていたくない! 嫌だあ!」
 泣き叫んでいるぬえに気付いた沢山の妖精が、物珍しそうに見物を始めた。
それらに、燐は苦笑いしながらぺこぺこと頭を下げる。
「ごめんね。ちょっとこの子はかわいそうな子でね。すぐおさらばするから。さあさあ、帰りましょうね、ぬえちゃん。みんな迷惑してるからね」
 子を宥める親のような口調で、燐はぬえに帰還を促す。心中では穏やかな口調とは裏腹に、さとりによる凄惨たる制裁を想像して胸を弾ませている。
 ずりずりと引き摺られて、どんどん遠くなっていく命蓮寺に、ぬえはいつまでも叫び続けていた。
 段々と小さくなっていくぬえの叫び声を聞かされた水蜜は、ぼろぼろと泣きながら体を震わせる。
ぬえの声が命蓮寺に届かなくなっても、水蜜の頭の中で、叫び声はいつまでも響き続けていた。

「もう終わりだよ。私たちは」

 彼女が聞いた、一輪の最後の言葉を反芻してみた。



*



 太陽が昇り切って明るくなり始めた頃、一輪は地底界の入口である大穴の前に立っていた。命蓮寺を出た時と、全く変わらない量の荷物を持って。
地上に居場所がないのは、彼女もぬえも同じであった。だから、彼女は地底に帰ることに決めたのだ。
彼女の性格や、人当たりの良さを以てすれば、新たな居場所は見つけることはできるであろう。しかし、地上に居たいと言う気分になれなかった。
見る限りでは、地底界の生活も悪くはなさそうな印象を受けたし、彼女が散々地底界への帰還を拒み続けた最大の理由は、命蓮寺の仲間がいたからだ。
だが、もう仲間はいない。地上に固執する理由がなくなってしまった。
それに、地底界にはぬえがいる。寂しがりなぬえの心の支えになってあげられれば幸いだと言う狙いもあった。
 さとりが簡単に許してくれるかどうかが不安であったが、地底界に戻るに越したことはないだろうと、前向きに考えていた。



 地底界の薄暗い道を歩んでいると、
「やあ。久しぶりじゃないか」
 頭上から声がした。
見上げてみると、土蜘蛛の少女が、蜘蛛糸で垂れ下がりながら声を掛けてきていた。真っ逆さまに吊るされていて、拷問のようにしか見えない。
顔見知りとは言え、随分と失礼な話し方だと一輪は思ったが、何しろ前例の無い話し掛けられ方なので、正確な判断はできなかった。
「久しぶりね」
「大魔法使いさんはもう地上だよ」
 白蓮はもう地上へ解放されたことを知り、一輪は安心したような、悲しいような気持ちになった。
途中で出会ってしまったら、どうして地底へ残るのか、命蓮寺はどうなったのか、根掘り葉掘り聞かされそうだったからだ。
しかし、今後もう出会うことがないと言うのも、素直に喜ぶことができない。
 土蜘蛛の少女は、一輪の大荷物に目をやり、首を傾げた。
「大荷物だね。地底界へ帰って来たの?」
「まあ、ね」
「ものすごく嫌がってたって話を聞いたんだけど、どういう風の吹き回しなの?」
「いろいろあったの」
 説明するのは面倒であったし、そもそもしたくもなかった。土蜘蛛の少女もその気持ちを汲んでくれたようで、それ以上の追求はしなかった。
「まあ、前も地底界に住んでいたんだ。そんなに気負いすることはないよ」
「ええ」
 和やかな土蜘蛛の少女の対応に、一輪の口元が思わず緩んだ。
一輪の緊張がほぐれたことを確認した彼女は、うんうんと頷くと、蜘蛛糸を切り、空中で半回転し、地面へ見事着地した。
「前よりも楽しい所になってるよ」
「そうだといいけど」
「そうだといいじゃなくて、そうなんだよ、実際にね。今日もあっちにある広場でイベントが開催される」
「イベント?」
「いろいろやるけど、今日は処刑だね。私はあんまり興味ないんだけど」
 屈託なく笑む土蜘蛛の少女は、さらりと言ってのけた。
一輪は思わず顔を顰める。
「……処刑?」
「そう。今日は地上へ逃げ出した妖怪の処刑だって鬼どもが騒いでたね。『小っちゃい大妖怪』だとか」
 地上へ逃げだした小っちゃい大妖怪――
 手に持っていた荷物がするりと手から抜け落ちて行く。
「どうしたの?」
「広場はどっち!?」
「あっちだよ。ここを真っ直ぐ行けば着くけど……本当にどうしたの?」
 土蜘蛛の問いには答えず、背の荷物も放り投げ、一輪は広場に向かって走り出した。
「そんなに処刑が好きなのか。見かけによらず、残酷な人なんだなあ」



 言われた通り進んでいると、広場らしい場所が見えてきた。
不自然に人が密集しているので、すぐに広場だと察することができた。
 鬼が前列。その後ろでいろんな妖怪たちが、背伸びをしたり、飛んだりして、人ごみの中央で行われている何かを見ようと必死になっている。
絶え間ない歓声。その合間に聞こえる、司会らしい妖怪の声。
妖怪達に囲まれているのは、断頭台だった。見紛う筈がない特徴的な形。遠目からでも容易に確認できる。

 妖怪達の壁の向こうで、こちらに猛然と新入りの妖怪が走って来ていることなど知る由もない火炎猫燐は、断頭台の刃を落とすスイッチを押すタイミングを測っていた。
酔っぱらっている鬼たちは、刃が落ちる瞬間を今か今かと待っている。
 燐としては、なるべく多くの人に見せてあげたいと言う思いやりから、鬼達が短気を起こさないぎりぎりの所まで粘り続けるつもりでいた。
だが、これ以上客は増えそうにないと思い、声を張り上げた。
「長らくお待たせしました、皆さん!」
 燐が言うと、鬼もそれ以外の妖怪も、わっと歓声を上げる。
「この大妖怪、封獣ぬえは、さとり様の言いつけを無視し、幾度も地上へ逃げ出した罪深き妖怪です。さとり様のご指示により、斬首の刑と処すことが決まりました!」
 聞こえているか聞こえていないかは不明だが、歓声は更に大きくなった。
 一方、断頭台に縛り付けられているぬえは、顔面蒼白で、自分の死の瞬間を待っていた。
やるなら早くやってくれ、なんて思えなかった。彼女は生きていたかった。
居場所もないし、大好きだった仲間たちからは嫌われてしまっていても、それでも生きたいと願っていた。
 その思いが、かえって野次馬達を熱くする。他人の不幸は蜜の味とは言ったもので、絶望するぬえの表情は、まさに不幸そのものであった。
「最後に残す言葉はある?」
 燐が問うと、会場は一気に静まり返った。燐の声は通っていたらしい。
 問われたぬえは、
「死にたくない」
 震える声で答えた。
 この一言を受け、再び湧き上がる歓声。
ぱちぱちぱちぱちと、惜しみない拍手が送られる。誰かが指笛を吹いた。
「はい、ありがとうございました! あちらの世界では、どうぞお幸せに!」
 燐はぱっと手を上げた。スイッチを押すぞ、と言う合図だ。
 だが、その瞬間、

「ぬえ!!」

 人ごみを割って入ってきたのは、雲居一輪。
 その場にいたほとんどの者が呆気に取られた。後ろから厚かましく割り込んでくる妖怪に視線を集中させる。
 だが、二人だけ、その登場を喜んだ者がいた。

「一輪っ!」
 絶望に塗れたぬえの表情が一変した。心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。
こんなに幸せそうに笑うぬえは、白蓮がいなくなった夜の宴会以来のことだった。
嫌われていたと思っていた命蓮寺の者が、自分の元へやってきてくれたのが、堪らなく嬉しかったのだ。

「おや」
 燐もまた、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。
――これはこれは。おいしい演出をありがとう。
 心中で一輪に礼を言い、スイッチを押した。



 落下する巨大な刃が、幸せそうに笑うぬえの顔を切り取った。
ころんと地面を転がったぬえの頭は、本当に幸せそうな表情をしていた。



*


 久しぶりの陽光にも、ようやく目が慣れ始めた頃、白蓮は命蓮寺に辿り着いた。ほんの一週間程度の外出であったが、妙に寺が懐かしく感じた。
 明確な理由は説明されなかったが、突然地上への開放が決まった。目が慣れないと眩しいからと、こいしは帽子まで持たせてくれた。
本当は悪い者達ではないのだと、白蓮は思った。
 またも仲間たちに多大な迷惑を掛けてしまったことを、まだ彼女は悔いていた。
 今度こそ、今度こそ彼女らに恩返しをしよう。
心にそう誓った。
 そっと、玄関扉に手をやる。


 何も知らない白蓮が、
「ただいま」
 長旅からようやく帰宅できた少女みたいな気持ちで、扉を開いた。
 pnpです。

 54kbの書きかけを放棄した後に作り始めたSSがもう完成してしまいました。
 書いてて「これは楽しい」って心の底から思えないと、SS書くのって捗りませんね。
 本当に書いていて楽しかったです。特に、水蜜がぬえを見捨てた辺りから。
割とかっこいい地霊殿勢も書けましたしね。(空ちゃん出番なくてごめんね)
妙にみんな仲がよさそうな命蓮寺はこうあるべきであると思います。仲がいいからこそ。


 ご観覧、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++

>>1
最悪を提供できたようでよかったです。

>>2
あんまり自分を卑下なさらぬ方がよいですよ。なるべく感動を与えられるよう、これからもがんばります。

>>3
疲れた心を地獄へ落とすことはいいことなのでしょうか^^;

>>4
空は頭悪そうなので、出しどころがなかったです。 書き掛けの話は、もう復活しないかもしれません。

>>5
どうしようもない状況は意識しましたから、爽快感はあったかなあと思います。 書き掛けの話は(ry

>>6
本当ですよね。離散する為にあるようなものですよあの結束力は。

>>7
ありがとうございます。

>>8
一番幸せなのは文面上はナズかもしれない。特に何も無く寺を出て生きているだけですから。 死んだら死んでいるだけさ。

>>9
視点のブレは、私も不安でしたが、やっぱり少しおかしかったですか^^; 一応直しはしたんですけど。

>>10
ありがとうございます。完璧には程遠いかもしれませんが、喜んでもらえてよかったです。

>>11
みんな聖聖言ってますもの。 みんないるから機能するんじゃないかなあと。

>>12
ナンバー2がいない組織はダメと言うのは聞いたことがあります。 とにかくワンマンチームはいくないです。

>>13
話の構成上の隙は、私の力不足の証でしょう。精進したいです。

>>14
もうちょっとさとりさんがお怒りの理由を掘り下げていくべきでしたかねえ。

>>15
考えなしに動きまわる者が少なそうですからね。悩みに悩んでるのにろくなことが起きなければ、気が滅入りそうですね。
pnp
http://ameblo.jp/mochimochi-beibei/
作品情報
作品集:
22
投稿日時:
2010/12/22 12:29:34
更新日時:
2011/01/02 21:00:54
分類
命蓮寺
地霊殿
1/2ちょっと誤字とか修正
1. 名無し ■2010/12/22 23:17:49
pnp氏のSSは読んでいてもこれは楽しいと最後まで読み続けちゃうできです
うん、確かにお空にはもっと出番をー! とは思ったけれどね
ああ、しかしこういうのはすっげえ好みだ。
行動した者達はみんな最善を目指していたはずなのに。
逃げた者達はこれ以上悪くなることが耐えられなかっただけなのに。
最悪をありがとう。
2. ヨーグルト ■2010/12/22 23:18:26
最近の作品(もちろん自分のをのぞいて)はすばらしいものがおおすぎます。
いいぞ! もっと感動を分けてください!!
3. NutsIn先任曹長 ■2010/12/22 23:32:02
ぱちぱち。いんや〜、素晴らしい!!
残業でクタクタの私の心が地獄へきりもみ急降下ですよ!!

知的なさとりさまとクールな仲間達、素敵!!
それに引き換え、命蓮寺の面子のなんと浅はかなことか!!
情に流されず、しっかり状況を見据えれば、打開策もあっただろうに。
笑っちゃうまでの空中分解っぷり!!

一番の戦犯であるひじりんが一番素敵な笑顔を浮かべるエンディング、最高です!!





とりあえず、命蓮寺と地霊殿の豚共は、血反吐を吐いて地べたに這い蹲っていただきましょうか。
4. 機玉 ■2010/12/23 00:19:22
お見事、非の打ち所の無い救いようの無さでした、とても面白かったです。
命蓮寺メンバーの行動がことごとく悪い結果に突き進む様が爽快だ。
空が出なかったのは残念といえば残念でしたが全く気にならないレベルでした。
書きかけ中の話も楽しみに待たせていただきます。
5. 名無し ■2010/12/23 01:17:54
まさに『他人の不幸は蜜の味』
途中からニヤニヤしながら読んでいました

書きかけの次回作も楽しみに待ってますよ
6. 名無し ■2010/12/23 01:22:45
命蓮寺のほのぼのはぶっ潰してやりたくなるほのぼのなんですよね。清々しいほどの脆さでありました。

後お姉ちゃんに怯えるこいしちゃんかわいい
7. 名無し ■2010/12/23 07:49:35
この救いようの無さはやみつきになりますね。
8. 名無し ■2010/12/23 10:25:48
この中で唯一幸福に逝けたのが、悲劇の発端を作ったぬえだというのが皮肉な話だ。
でも結局誰にも悪意はなかったですね。皆、自分の責務や情で行動しただけなんだから。
だからこそ救われない。そして一輪さん可愛い。
9. 名無し ■2010/12/23 10:35:32
この言葉に表せないような不愉快さは最高だ。
視点のぶれがちょっと気になった感じでした。
さとりと白蓮の弾幕勝負の内容もちょい書いて欲しかった。
命蓮寺筆頭の超人が容易く負けたのがこの話の始まりなんだから。
10. 名無し ■2010/12/23 21:20:42
寺の蓮中の聖がいなくなった後の団結力のなさ、無能っぷりが半端ないぜ
ずっと聖ばかりにひたすら頼りっぱなしの木偶だったんだろうなぁw
後地霊組のやつらのキャラのたち具合がカリスマ溢れてて最高でした!
11. 名無し ■2010/12/24 02:12:49
白蓮とその仲間達
ナンバー2がいない組織はダメポ・・・
12. 名無し ■2010/12/24 05:35:23
素晴らしいSSでした。
命蓮寺はやはり幸せになれない感じの団体ですね。
危機に追い詰められリーダーを失い崩壊していく情景が、非常に鮮明に浮かんできました。
完璧です、完璧なまでに、こうなったら、こうなって、壊れていくんだろうな、と心のそこから幸せに思いました。
ぬえの殺し方も完璧なら、聖の戻し方も完璧。星の死に方も完璧なら、残った一人の采配も完璧。
まあナズーリンだけは少し違和感ありましたが。もうちょっと強いイメージというか、監視役ですぜ?お前真面目にやれよ……。もしこの物語にハッピーエンドが用意されるとしたら、ナズーリンが頑張るところしか想像できません。わりかしハッピーエンド至上主義でもあるので、作者様が気まぐれでハッピーエンドを作るのを待ってます。……ねーかwwwwwww
しかし、この地底はずいぶんと強烈かつ残虐ですね。
幽鬼のようなこいしちゃん、少しキレ性のさとりちゃん、頭おかしい燐の、それぞれのキャラがきっちりと立っていたように思えます。
こちらも一つ残念なのは、頭おかしい燐は頭おかしい燐で、地底の空気の紹介という意味もあるのでしょうし、幽鬼のようなこいしちゃんはとっても好みだったのですが、少しキレ性のさとりちゃんが、なんか妙でした。
そもそも事の始まりが強制力もなんもなさそうな謎の命令だったため、「要するに、さとりは命蓮寺滅ぼしたかっただけなの?え?さとりちゃん、冷静なフリして頭おかしいの?」という疑問が最後まで尽きませんでした。……説明されてないですよね?
その上冒頭のキレ方で、完全な小物臭があり、ぬえを交換させるという素晴らしいシチュエーションの演出も、どうもさとりの魅力に繋がっていってないように思えました。
まぁ、きっと貴方の見た地獄はこうなっているのでしょう。そこはそれ、この見解の違いがこの素晴らしいSSを産み出してくれたのならば、毘沙門天にでも感謝しようというものです。
究極の作者得を拝見させていただきました。ありがとうございました。
13. 名無し ■2010/12/24 17:40:18
 相変わらず救いの無い話で最高でした。
命蓮寺が空中分解して行く様が素晴らしかったです。

さとり視点で読んで見て、唯でさえ酔っ払い小鬼が地上を闊歩してるのに更に三人も封印された凶悪妖怪が地上に移住して、地底界の監督責任を紫か映姫に突付かれていらついてるのかな?と思いました。
もしくは、あの3人を引き合いに出して地上への帰還を望み始める連中が出始めたとか

次回も最低で救いの無い最高の作品を期待します。がんばってください!
14. sako ■2010/12/27 10:42:53
ライクアローリングストーンズ
よかれと思ってとった行動が全て裏目に出るのはある種のピタゴラスイッチを見ているようでしたね。
犠牲は確かに美しいがそれが事態を好転させるとは限らない。むしろ安易な自己犠牲は思考放棄した逃げでしかない、その事がよく分かりました。
幻想郷の組織が崩壊する話はたくさんありますがやはり命連寺組は頭のいい連中が多いのでこういったよかれと思ってやったことが裏目にでるお話がピタッと合いますね。
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