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『芥川龍之介「羅生門」より作成。『ピカレスクの門』』 作者: sako

芥川龍之介「羅生門」より作成。『ピカレスクの門』

作品集: 25 投稿日時: 2011/03/18 10:18:20 更新日時: 2011/03/18 19:18:20
 三日三晩降り続いている雨は四日目に入ってもまだ止む気配を見せてはいなかった。
 分厚く天蓋を覆う雲は昼でも夜のように暗く、夜はそれこそ墨で塗りつぶしたような闇が広がっている。屋根も石畳も別け隔てなく叩く雨音は絶え間なく、遠方では水かさを増した川がごうごうとうねり声を上げていた。灯を付けている家も少なく、こんな雨の夜に出歩いているのはなにか良からぬモノだとばかりに戸の奥へと入り込んでいてしまった。

 と、

「………」

 その雨の道を一人、霧雨魔理沙は駆けていた。
 バシャバシャと雨水をはね飛ばし、片腕で大きな帽子を押さえながら、泥水に汚れるのも気にせず走っている。街灯の僅かな明りに照らされているだけの街道は雨も相まって見通しが悪く、まるで無限に伸びているのではと錯覚してしまうようだった。その恐怖からか、魔理沙は時折、脅えた表情で振り返った。夜の街に響く足音は一つで、無論、後ろから追いかけてくる幽鬼の類は姿も形もない。けれど、むしろ事実を確認してしまったせいだろうか。魔理沙は姿の見えぬ、足音も発せぬ追跡者の姿を想像してしまい、恐怖心は去るどころかなお濃度を増していった。自分の足がもつれてしまうほど速く走り、ぜぇぜぇと荒い息をついては苦しさと怖ろしさに顔を歪めている。

 と、夜道を走る魔理沙は不意に転びそうになりながらも足を止めた。いや、止めただけではなく踵を返したのだ。それは来た道を戻ろうとしているわけではなく、家と家の間の僅かな隙間にある側道へ入り込むための動作だった。少しだけ道を戻り、両手を伸ばせば左右に建つ家の壁に触れられそうな程狭く暗い道へ入る。こうやって入り組んだ裏路地に入り込めば追っ手をまける、そう考えている様だった。けれど、それが甘いことに魔理沙はすぐに気がついた。狭い通路の先にはごみがうずたかく積まれており、行く手を拒んでいたのだ。とても通り抜けることは出来そうにない。悪態をつき、また踵を返す。別の通路を探さないと。早く逃げないと追いつかれて、

「うわっ!?」

 路地から大通りへ出ようとした瞬間、魔理沙の目線の高さに銀閃が走った。それが触れれば死ぬものだと分っていたからか、魔理沙は無様に尻餅をつくことも辞せず後ろ向きに倒れた。きらりと鋭い銀が街灯の光を受けて煌めく。

「逃げ…逃げるなよ」
「ひっ…!」

 大通りの側から低く、威嚇するような声が聞こえてきた。魔理沙は倒れた姿勢のまま、両手足を無様に動かし、鼠か虫螻のように逃げようとする。だが、当然逃げることは出来ない。通路は行き止まりだ。すぐに塵の山が背につき、逃避はそれで終わる。逃げられないのだと覚り、震えながら魔理沙はゆっくりと顔を上げると果たしてそこには―――

「金を出せ」

 抜き身の刀を携えた悪鬼が一人、立っていた。

「っっ…」

 この暗さでは悪鬼の顔は分らない。だが、その手には恐ろしい凶器が握られていることは一目瞭然だった。

「か、勘弁してくれ…」

 震え、情けない顔をしながら魔理沙はそう拝みこんだ。既に優劣は決定づけられている。抵抗は即ち死で、反抗的な態度は許されない。こうなれば助かるには相手の良心、憐憫にすがりつくしか術はなく恥も外聞も投げ捨てて頭を下げていた。

「な、なぁ、前に一緒に弾幕で遊んだ仲じゃないか。こんなことはやめて…ヒッ!?」

 対し、悪鬼の返答は言葉ではなく脅しだった。地面に向けていた顔を再び上げた瞬間、魔理沙の鼻に刀の切っ先を突きつける。短い悲鳴を上げて魔理沙は半ば体を塵の山に埋めてしまうように逃げた。悪鬼はそれを追うよう刀を動かす。早く出せと言葉より目より多くその動作で物語っているのだ。

「ッ…わ、分ったよ。だ、出せばいいんだろ、出せば」

 もはや言い訳も懇願も通じないことをやっと理解したのか、自棄糞に悪態をつきながら魔理沙は懐に手を入れた。色あせた、けれど、決して使い古されている訳ではない小さな巾着袋が出てくる。魔理沙の財布だ。悪鬼は刀を構えたまま手を伸ばすとその財布をふんだくった。中身が入っていることぐらいは硬貨が擦れ合う音とその重さで分ったのだろう。袋を開けて確かめることなく悪鬼は奪ったそれを懐へしまった。

「なぁ、これでいいだろ? それだけしか持ってないんだ。なけなしの金だったんだぜ。だから、許してくれよ」

 こうなれば命があっただけでも儲けもの。そういう訳ではなかったのだろうが、財布を奪われた魔理沙はそう生命保障の確約を取り付けるために悪鬼に話しかけた。多少、言葉に余裕があるのはもう既に目的のものをくれてやったからだろう。これ以上、脅される理由がない。そう思ってのことだ。

「………」

 悪鬼はそんな魔理沙に一瞥をくれ、黙した。
 魔理沙にとっとと何処となりへ消えるがいい、そういうつもりなのか道を譲るよう、壁の方に体を寄せる。助かったと胸をなで下ろしつつ、魔理沙は立ち上がるとそそくさと立ち去ろうとした。この斬殺空間から逃げ出すために。

―――もっとも、

「あ?」

 斬。

「………逃がすわけないですよ」

 この裏路地に入り込んだ時点で魔理沙の命運は決まっていたようなものだったが。
 悪鬼が壁に身を寄せたのは魔理沙を逃がしてやるためではなかった。狭い裏路地で刀を振るうだけの空間を作るためだった。
 銀色の曲線が魔理沙の体の上を走り抜ける。遅れて魔理沙が次の一歩を踏み出した瞬間、降りしきる雨よりも勢いよく、その胴から鮮血が吹き出した。魔理沙は民家の壁を、裏路地を、そして悪鬼の体を赤く染めながら前のめりに倒れた。立ち上がることはなかった。

「まったく。素直に出しておけばこんな面倒なことにはならなかったんですよ」

 その動かなくなった体をつまらなさそうに見つめながら憮然と悪鬼は呟いた。刀をしまい、魔理沙の亡骸を躊躇いなく跨いで裏路地から出る。ガス灯の青白い輝きに照らされたその顔は―――白玉楼の庭師をしていた半霊半人の少女、魂魄妖夢のものだった。

 降りしきる雨が妖夢の体に付いた赤い血を流していった。
 そして、現れた時同様、妖夢はいずこかへとその姿をくらました。









――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――









 雨の道を独り、魂魄妖夢は歩いていた。
 
 俯き加減に足取りは千鳥。バシャ、バシャと水たまりを気にもせず踏みつけ歩いている。それもそのはずか。小柄なその影は傘も差さず雨合羽も着込まず、濡れ鼠の様で歩いているのだ。これ以上、濡れたところで気など尤めるものか、そういう事だ。

 妖夢がこんな場所を歩いているのはつい数刻前、うろびれた呑屋の大将に店から追い出されてしまったからだ。口内の傷はその際、殴られたためにできたもの。口の中に己の血の味を確かに覚えながら、時折妖夢は定まらぬ己の舌の位置を気にしつつ口をもごつかせた。
 妖夢が店を追い出された理由は至極明快だ。
 金を持っていなかったのである。いや、厳密に言えば燗の一杯ぐらいは呑める程度の砂利銭は持っていた。ただ、一杯だけだと注文した酒を呑み切った頃にはこれだけでは足りぬともう一杯、更にもう一杯と追加で注文し、店がカンバンになり主人が会計を求めたところで逆立ちしても酒代が払えぬことが発覚。激情に駆られた店主の鉄拳によって妖夢は店を追い出されたのだ。

 むしろ、客観的に見れば妖夢は運が良かったほうだろう。警邏隊に突き出されることも、酒の代金に身ぐるみを剥がされることもなかったのだ。ただ、今の妖夢にはそれを行幸と思える心がなかった。疼く傷も血の味もどうでもよかった。雨にぬれて体が冷え切ってしまったことも、どうでもよかった。

「………」

 それでも歩き、体を動かしているのは、なんてことはない。どこか雨やどりできる場所をさがしているだけだ。ただ、雨に濡れず腰を下ろせられるような場所はないものかと、闇雲に歩いているだけだ。
 と、裏通りを抜けると前方に大きな門が見えてきた。ただし、大きいというだけでその門のみすぼらしさはどうしようもなかったが。かつては立派な朱色をしていたのだろう、妖夢が腕を回しても届かぬほどの大きな柱は今は色あせささくれが突き出している。屋根の瓦は何枚も剥がれ落ち、ところかしこから名もなき雑草が生え出してきている。門扉は外れ、開け放たれたままでその前の石造りの階段にはなんだろうか、大きな塵が捨てられていた。浮浪者や餓鬼ぐらいしか寄り付かなさそうなうろびれた場所だった。
 妖夢は僅かに躊躇った後、急ぎ足で大通りを横切った。濡れて滑る石段を危なげに昇り、屋根の下へ潜り込んだ。数刻ぶりに降りしきる雨から妖夢は解放された。

「………」

 髪の毛の先からぽたぽたと床石の上に落ちる雫。暫く妖夢は落ちては石の隙間に吸い込まれていく雨水を眺めていたが、やがて思い出したよう床の上に腰を下ろした。床石は氷のように冷たかったが妖夢は気にしないことにした。尻の下に敷く御座やボロ布もないのだ。そのまま門の壁に背中を預け、肩の力を抜く。

「………」

 相も変わらず雨は降りしきっていた。止む気配はなかった。
 止むまでここにいよう、と妖夢は考える。止んでからどうしようとは考えたくもなかった。

 白玉楼を追い出されてから三ヶ月。妖夢は幻想郷という狭い社会の中でも最底辺の位置にいた。
 服は着の身着のまま。毎夜、夜風と朝露を凌げる場所を探して集落を彷徨い歩く。特定の住居など無く、持ち物と言えば家宝の二振りの剣だけ。寂しさと辛さから逃れるために酒に手を出し、今では脳の芯まで酒気に焼かれていた。金もつい先程使い切ってしまい、頼る当てもなく、路頭に迷うを地で行っているのだった。

 と、ぼうっとあたりに視線を向けていた妖夢は階段の所に落ちている塵が何なのかに気がついた。襤褸と錆びついたトタンに包まれたそれは人の死体だった。行き倒れた浮浪者だろうか。顔は伺えなかったが助けを求めるよう節くれだった手が階段の表面を引っ掻く形のまま止まっていた。
 それまで死んだように無表情だった妖夢の顔に僅かに変化の兆しが見えた。眉を八の字にしかめ、小さく口を開け、首筋に過剰に力を込めたその表情は焦燥と諦念、相反する二つの感情が入り交じったものだった。

 なんとかならぬものか、と妖夢は考える。いっそ、白楼剣と楼観剣を売ってしまおうか、そんな考えが頭をよぎる。命より大切なものだと祖父から譲られ、命より大切だと思っていた家宝の刀。それを売ってしまうなんて。だが、背に腹は変えられぬのではないか、妖夢は考える。背に腹を変えなかった末路があの浮浪者の死体だ。アレもどこかで額に土をつけて誰かに金を貸してくれと頼み込んででも生き延びる道を選んでいればあんな風に塵のように捨てられて死ぬ定めには至らなかったのではないか、そう考える。自分もそうなる前に生き延びるための手を尽くさなくてはいけないのでは、そう考える。考えるだけだ。どうしても、決心がつかなかった。

 いっそ、何もかも諦めてあの浮浪者の死体の隣で自分も捨てられたように死んでいくのも構わぬのではないか、そんな諦念も鎌首をもたげ始めてきた。こんな惨めな生活にはこれ以上、耐えられそうにない。かといって以前のような暮らしにおいそれと戻れるとは妖夢は露程にも考えられなかった。そんな資格は自分にはないのだと心の底から思っていた。それほどの事をしてきたのだ。だから、むしろあんな惨めな死に様を晒すのがいっそ自分にはお似合いではないのか、そんな自嘲気な考えも浮かんできた。屑は屑らしく屑の様に打ち捨てられて死ぬがよい。
 けれど…

「畜生…死ぬのは、嫌だ…」

 なによりそれが本音だった。

 大切な物を売ってまで生き延びたいとは思えず、かといって死にたくもない。
 結局、あの浮浪者もそんな宙ぶらりんな考えの果てに塵のように死んでいったのでは。新しい考えが妖夢の中に浮かんできた。浮かんできただけで、その考えではどうあっても暖かな家もおいしいまんまにもありつけそうにはなかった。

「………」

 いつしか妖夢は瞼を閉じてしまっていた。歩き疲れたのか、それとも考えるのをやめただけか。兎に角、妖夢はうつらうつらと船を漕ぎ始めた。壁に背中を預け、静かに吐息を繰り返す。雨はまだまだ石畳を打ち、止みそうになかった。





 それからどれぐらいの時が流れたのだろう。
 物音に妖夢が目を覚ますと自分のすぐ前に一人、禿頭の男が立っていた。中肉中背で、目の下に墨でも塗ったのかと思うような濃い隈を作り、あまり身なりの良い格好はしていなかった。こんな裏路地に相応しい男だった。

「…ッ、起きたか」
「………」

 寝起きで虚ろな頭で誰だろう、と妖夢は考える。けれど、覚醒に従って頭が働き出しても依然として男の顔に見憶えはなかった。まったく知らない赤の他人だと気がついたのは完全に目が覚めてからだった。

「何か用ですか」

 寝ているところを起こされたせいか、不機嫌そうに問いかける。男は左下、右下と視線を彷徨わせた後、ああ、と口を開いた。

「お嬢ちゃん。お嬢ちゃんみたいな女の子がこんなところで寝てちゃいけないよ」

 唇を円弧に目を細めながら男はそう言う。笑っているつもりだろうか。蟾蜍の方が余程可愛いと思える顔だった。

「…こ、ここしか寝る場所がないんです」

 どう反応していいのか分らず妖夢はとりあえずそう応えた。男はそりゃいけない、と尚も作り笑いを浮かべる。妖夢に歩み寄り、腕を伸ばしてくる。

「俺の家はすぐそこなんだ。どうだ、ここじゃ寒いだろうから泊まってけよ」

 降りしきる雨の向こうの通りを親指で指し示す男。汚いところだがここよりはマシだろ、と話を続ける。馴れ馴れしい態度。もう手を伸ばせばすぐに妖夢に触れることが出来る距離まで近づいてきている。

「け、結構です」

 たとえ社会的地位がこんな所まで落ちてしまおうと見ず知らずの人に情けをかけられるというのはどうにも妖夢のプライドが許さなかった。それに、男からなにやら不穏な雰囲気を感じ取ったのだ。だが、そんな妖夢の考えがまるで読めないのか男は頷くことなく、遠慮するなよ、と執拗に自分の家に来るよう提案してきた。妖夢の心に苛立ちが募る。放って置いてくれればいいのに。

「ん、お嬢ちゃん、口の所怪我してるじゃねぇか。消毒してやるよ。まぁ、焼酎ぐらいしかないんだが、それでもないよりマシだろ、な?」
「だから、結構ですって!」

 男が伸ばしてきた手を打ち払い、顔を背けてこれ以上話しかけるなと目を瞑る妖夢。ここまであからさまに否定的な態度を取れば男も諦めるだろう、そう踏んだのだ。だが、その考えは甘いと言わざるえなかった。男は笑みを崩し、一瞬、呆けたような顔をするとすぐ様眉間に皺を寄せて。おいおい、と喉の奥から絞り出すような声を出してきた。

「こっちは親切で言ってやってるのにんだァ、その態度は。調子こいてんのかアァ?」

 悪態をつき、ドスの利いた声を上げる男。煩わしく五月蠅いその声に妖夢は眉を顰めたが何も言わなかった。言えばそれだけ何かを言い返される思ったからだ。もっともそうして黙りを決め込んだところで結果はあまり変わらなかっただろうが。おい、何とか言えよ、と男は怒声をあげ、妖夢が尚も無視すると雨音に負けない大きさで舌打ちした。

「そうかよ。そーゆー態度とんのか…こんなとこで寝ちゃいけねぇって分ってて寝るんだな」
「………」
「だったら、何が起こっても文句はねぇよな」

 いい加減にしてください、そう怒鳴り返そうとしたところで男が妖夢に掴みかかってきた。いきりたった獣の様な荒々しさに妖夢は驚き、声を上げる。

「何するんですかっ!」
「アァ? ナニにきまってじゃねーか! 手前ェが悪いんだぜ、こんな場所で寝るなんてよ!」

 男の拘束を振りほどこうと妖夢はもがくが、節くれ立った指はまるで万力のように強く妖夢の腕を押さえつけていた。

「くっ…放して、くだ…放せっ!」

 ギリギリと締め上げられる腕の痛みと恐怖に顔をしかめる妖夢。もがき、拘束から逃れようとするが男の腕力の方が強い。容易く組み伏せられてしまう。男は妖夢の首筋に顔を寄せるとスンスンと鼻を鳴らした。匂いを嗅いでいるのだろう。顔を寄せられたことで何日も洗っておらず脂まみれになり毛虱の住処になっている男の頭の臭いを妖夢も嗅ぐはめになった。

「へへ、へ、やっぱり女ってのはいい臭いがするもんだな」

 下卑た笑みを浮かべる男。ついで妖夢の首筋へ吸い付き、舌苔を擦り付けるよう舌をそこへ這わせてきた。生理的嫌悪に怖気を憶える妖夢。男はそれだけでは飽きたらず、妖夢の両手を片腕だけで押さえるともう片方の腕を自由にした。自由になった腕で妖夢の体をまさぐり始める。最初は服の上からだったが、それではもどかしいと思ったのか男は裾から服の下へと手を差し入れ妖夢の肌に直に触れてきた。

「おっぱいはちいさいな。まぁ、いい。久しぶりの女だ。しかも病気持ちのたちんぼじゃねぇ」

 節くれ立ち肉刺や疣が出来た手の平を荒々しく動かし、妖夢の胸の辺りを触る男。下着代わりに身につけていたさらしを無理矢理に解き、直に乳房とは言えぬような平たい丘をなでまわし、そしてその桜色の頂を乱暴に摘んでくる。痛いのか、妖夢の顔に苦痛のそれが浮かぶ。そして、それを上回る嫌悪が張り付いていた。

「暴れるなよ。キモチイイだろ、なぁ、なぁ?」

 男は首筋から顔を離すとそう妖夢に言った。無論、そんなはずはなく否定する様、妖夢は顔を背けた。丁度、横を向いた妖夢の頬へ口づけと言うにはあまりに荒々しく汚らわしい行為をしてみせる男。べたり、と嫌な臭いのする涎が妖夢の頬にこびりつく。そのまま男は妖夢の顔に吸い付きながら胸元をまさぐっていた腕を今度は下方へと伸ばした。スカートの裾から腕を差し入れ、ドロワーズのゴム紐を掴みずり下げてくる。まさか、と妖夢は目を見開く。やめろ、とその口が動くのと同時に男の汚れた指が妖夢の秘裂に触れた。固く閉ざされたそこへ割って入ってくる男の指先。自分でも触れたことのない場所を触られ、妖夢は顔を引き攣らせた。

「オラオラオラ、俺の手マンはどうだぁ、あぁ?」

 突き入れ引き抜く動作をくり返す男の指。そんなもの痛いだけだったが、それでも悲しいかな。刺激を与えられたそこは分泌液こそ出ないものの柔らかくなり始めていた。男はにやりと笑み、黄色く変色した並びの悪い歯を見せた。そのまま男は妖夢の中から指を抜くと自分の着物に手をかけた。もどかしそうに帯を緩め、股からいきりたった逸物をさらけだしてくる。ひっ、と妖夢がそれを見て悲鳴を上げた。妖夢が男性器を実際に見るのはこれが初めてだった。ただ、それが排泄用の器官というだけでないことは知っていた。これから自分の身に起るであろうことも。

「嫌ッ嫌ッやめて、やめてくださ」「ウルせぇよ」「…むぐっ!?」

 悲鳴を上げていた口に乱暴に口づけされる。これも初めて。男の口内から流れ込んでくる唾液は側溝に溜まった泥水のように汚らわしく、一瞬で妖夢は気分を悪くした。歯を食り口を固く閉ざそうとするが伸びてきた男の舌先が唇を無理矢理割って中へ入り、ちゅうちゅうと音を立て唇を吸われる。口を無理矢理塞がれていることで息が出来なくなる。鼻で息を吸えば男の酷い体臭が鼻孔を襲い、頭をくらくらさせた。

「へへへ、じゃあ、そろそろ…」

 妖夢の唇から離れ、男は自分のモノに手をあてがうと、腰を寄せていった。嫌だ嫌だ助けて誰か助けて、と妖夢は泣き叫ぶが降りしきる雨音がその悲痛な叫びをかき消してしまう。もっとも近隣の家の住人が聞いたところではたして助けに来てくれたかどうか。鈴口から淫水を滴らせる亀頭がぴたりと妖夢の秘裂に触れる。先程、指でほぐされたせいか、妖夢の秘裂は容易く分れ、亀頭の先を飲み込んだ。ただし、先だけだ。ぐっぐっ、と男が腰を前進させるが孔はそれ以上の進入を拒む。男が力を抜けよと怒鳴る。だが、初めての、そうして無理矢理の性行為に妖夢の体は強張るばかりだ。苛つき、声を荒げ、乱暴に腰を突き出してくる男。みちり、みちりと膣壁を傷つけながら男根は突き進む。そして、

「あ、あ゛…」

 何かが破られた、と妖夢は感じ取った。それは大切な何かで、純血の証だった。秘裂と突き刺された男根の間から血が滲み始める。同じく涙も。乱暴され犯されているのだという事実を今更ながらに実感し、妖夢は涙を流し始めた。

「へへっ、初物かやっぱり。こいつはついてるぜ」

 もはや抵抗する気力も失せたのか、妖夢の体から力という力が抜け落ちてしまった。これ幸いにとずっと妖夢の腕を押さえ続けていた手を男は放し、自由になった両手で今度は妖夢の服の裾をめくり上げた。露わになる胸。少年と見まごうほど薄い胸板だったが、構うものかと男は舌を這わせ、むしゃぶりつき、両の手で鷲掴み、爪痕や歯形を残す。

 剛直は、一度最奥まで入り込んだところで今度は来た道を引き返していた。破瓜の血が潤滑油となり多少、動きは滑らかになっていた。だが、まだ狭い孔を無理矢理押し広げられる動作には苦痛を伴うのか、妖夢の口からは短い悲鳴が断続的に漏れだしていた。男の腰の動きは緩急も強弱も左右もない、単純なものだった。ただ、己の快楽を貪るためだけのものだろう。時間にして僅かに数十秒後。男の腰の動きが速く荒々しい物に変わった。男の顔つきも獰猛な獣が獲物を追い立てているそれから獲物の肉を喰らっている時の顔に変わる。それが更に崩れ、恍惚としたものに代わりそして…

「うぅっ…で、出るっ!」

 一際強く男は腰を打ち付けるとそのままの姿勢でぶるり、と体を震わせた。睾丸がきゅっとしまり、狭い尿道内を黄濁した精液が駆け上っていく。吐き出された精液がピッタリと閉ざされた妖夢の子宮口にぶちまけられ、膣孔を満たす。ナカに出された事にあ、あ、あ、と妖夢は震えた。

「き、きひ、ああっ、気持ちえがった…ああ、だが、こんなんじゃまだ収まりがつかねぇな。ひひっ、もっとしてやんよ」

 妖夢から己自身を引き抜く男。朱混じりの泡だった精液が小さく口を開いた膣孔から流れ出してくる。その様を見て出すものを出して半分萎えていた男の逸物がむくりと頭を上げた。凄惨な様に興奮したのだろう。もう、二三度は出来そうなほど元気だった。男は今度は妖夢の口でしようと考えたのか、体勢をかえ体を離す。と、

「ん?」

 妖夢が修羅のような形相で自分を睨み付けているのに気がついた。まだ、反抗する気力が残っていたのかと男は嘲りの笑みを浮かべ、脅しつけてやろうと今度は妖夢をにらみ返す。

「んだ、その目っ゛!?」

 台詞を言い終わる前に不意に訪れた衝撃に男は自分の舌を噛み切ってしまうのではと思えるほど強く歯を食いしばった。眼球が飛び出すのではと思えるほど目を見開き、過剰に力を込めぶるぶると震えている。その下半身、再び活力を取り戻し始めた己自身をつぶすよう、妖夢の足蹴が繰り出されていたのだ。

「―――ッ!!」

 声にならぬ悲鳴を上げ、そのまま尻餅をつく男。怒張した男根を蹴りつけられるなど想像を絶する痛みだ。暫くの間、男は荷馬車にでも踏みつぶされたような顔をしながら打ち震えていた。

「こン、尼ァ!!!!」

 幾分、痛みが和らいだところで入れ替わりに怒りが沸き上がってきたのだろう。男は体を起こすと血走った目で妖夢を睨み付けた。だが、その視線が妖夢を捉えることはなかった。代わりに見たものは憤怒に駆られ赤面した顔だった。それが自分の顔―――刀の表面に映し出されたものだとは男はついぞ知り得ることがなかった。






「ハァー、ハァー、ハァー……………っ」

 頭を垂れ、荒々しく呼吸をくり返す妖夢。さらけだされた胸も隠さず、白濁液を滴らせる股座もそのままに呆然としている。

「私…私…何を…」

 カタカタと歯の根の合わぬ口を何とか動かし、そう独白する。顔面はいつもより青白く、本当に死人のようだった。特に利き腕はまるで神経が途中で断絶したよう、ピクリとも動いていなかった。妖夢自身もその腕の感覚が消失してしまっていると感じているだようだった。何が起こったのかまるで分からない。そんな顔をしている。否、実際にその通りだった。目が覚めて下品な男に言い寄られ、乱暴され、そうして…認識はそこで途切れている。怒りに任せ男の股間を蹴り飛ばしたその直後からの記憶が綺麗さっぱりと抜け落ちてしまっている。

 いや、それも間違いだ。
 意図したくがない故に妖夢はその一瞬の出来事を無かった事にしてしまおうと無意識の内に自分の記憶を喪失してしまっただけだ。実際は自分が何をしたのか覚えているし、分かっている。ただ理解したくないだけだ。けれど、起こったことはやはり目を擦って、瞬きしても起こったことであり、現実は変わらず、そうして、妖夢の感覚が消え失せた利き腕には血に濡れた白楼剣が、妖夢の前には逆袈裟に胴を斬られた男が―――

「いっ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」








 降りしきる雨の中を走る妖夢。
 頭を振り乱し、喘ぐように呼吸を繰り返し、バシャ、バシャと泥水を撥ね飛ばし走っている。向かう先などない。目的などない。ただ、怖くなって―――そう、怖くなって逃げているだけだ。

「ハァハァハァ」

 手には楼観剣が抜身のまま握られている。刀身に付いていた血糊はこの雨で洗い流されてしまっていたが、こびり付いた人脂は雨水程度では流れず鏡面を曇らせていた。

 人脂、人の脂、人を斬った時についた脂。
 そう、今しがた妖夢は人一人斬り殺してきたところなのだ。それは最早、疑いようのない事実でやっと感覚が戻ってきた妖夢の利き手には確かにその時の感触が残っていた。練習に俵巻を斬り落とした時とも、弾幕ごっこの最中、相手に傷を負わせるために斬りつけたときの感覚とも違う、明確に死につながる斬撃の感触。人を斬ったときと同じような手応えではあったがそこにはやはりはっきりとした線引きが記されている。その感触を手に覚えさせたのは今宵が初めてだった。奇しくも、いや、何の悪意か、花を散らしたのと同じこの夜に。

 まだまだ世間知らず、修行中の身ではあるが妖夢は殺人がどんなに悪いことかぐらい分っているつもりだった。その人の人生のその先を奪ってしまう、あらゆる罪悪の中でも最も重い犯罪。幻想郷には人食いの妖怪も数多く生息しているが彼女らはある一定のルール下…例えば謎かけに答えられなかった時やある決まった日時に通ってはいけない道を通るなど禁じられた行為を行った者しか襲い殺し食べてはいけない決まりになっている。彼女らは自由な殺人を許されている訳ではなく許可された範囲だけで獲物を狩っているだけなのだ。それ以外の殺人/妖怪退治は種族職業の貴賎の分け隔てなく処罰の対象だ。そして、殺人罪の罰は理由の如何を問わず、打ち首。半ば閉鎖社会で住人の数が限られている幻想郷では殺人の罪は何より重い。弾幕ごっこの最中なら妖夢は赦しをえられたであろうが、この場合は無理だ。事故では片付けられない。

 これが弾幕ごっこの最中なら或いは問題なかったのかも知れない。現に妖夢は殺すことはなかったが、今まで何度も対戦者をその愛刀で斬りつけてきた。無論、そこにはもしかすると殺してしまうかも知れないが、それは仕方がないことだ。そういう心構えがあった。弾幕ごっこの最中での死は事故として扱われる。遊びであるが故に責任も自分自身しか持ち得ないのだ。

 けれど、今回は違った。強姦されたからと言って幻想郷では殺人の正当性は認められない。
 初めての殺人はゲームの最中ではなく、衝動にかられてのものだった。

 衝動。殺意衝動。そう殺意だ。あの時確かに妖夢は自分を殺した男に紅蓮のような赤黒い殺意を抱いていた。男の股間に一撃をみまい、後はもう一打加えて男を昏倒させることもその場から逃げ出すことも出来たのにも関わらず、剣を抜き、その鋭い切っ先で逆袈裟に切り裂いたのだ。殺意のままに。あの一瞬、妖夢の心は殺意に満たされていた。ドス黒い破壊衝動。そんな汚らわしく気持ちの悪いものが自分の内側から生れるものだと妖夢は愕然とし、そして体がそれに操られ勝手に動いたことになお恐怖した。辛い修行に耐え、頭のいい主人の命令には二つ返事で応えてきたのはそんな感情を決して抱かぬよう、心身ともに鍛えるためではなかったのか。貧すれば窮する、ということなのだろうか。否、だからといって…

「ハァハァハァハァ…っ!?」

 雨の中を無我夢中で走り続けていたせいか、不意に妖夢は泥濘に足を取られ無様に倒れた。受け身も取ることが出来ず、顔からもはや一面が水溜まりと化した地面に突っ込む。泥水が口の中に入ってくる。打ち付けた体が痛み、今までの緊張もあってか妖夢は思わず泣き出してしまった。泥の汚れを流すよう、涙が頬の上を伝わり落ちる。

「ううっ、ううっ…」

 歯を食いしばって震えているのは何も痛みに耐えているからではないだろう。本当に痛いのは心。たとえあんな外道とは言え、己が手にかけてしまったことを後悔し、そして、露見した時、己に与えられる厳しい罰に脅え、妖夢は震えているのだ。

 ここが人生の終着か、と妖夢は土を握りしめて震えた。
 白玉楼を追い出され、三ヶ月もの間、乞食同然の生活をし、そうしてその果てに殺人という罪を犯してしまった。極刑は免れず、哀れ自分は墓にさえ入れてもらえない死に方をするのだ。

「ううっ、クソっ…!」

 強く握りすぎた拳の間から血が流れ出す。
 こんな結末を迎える人生を歩んでいたのか。こんな終わり方をする人間だったのか自分は。
 あまりの悔しさに体がねじ切れそうなほど過剰な力が籠もる。

「嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だッ!」

 駄々っ子のように暴れ、大声を上げる。だが、聞き入れてくれるものも救いの手を差し伸べてくれるものもいない。頼れる人もなく神にも仏にも見放され、深夜、この雨の降る通りで妖夢は一人っきりだった。心の底から独りっきりだった。

「畜生…」

 妖夢は悪態をついて体を起こした。
 そう自分は今独りっきりで誰も助けてくれる人がいないことに今更ながらに気がついたのだ。
この最悪の状況から抜け出すには自分で何もかもしなくてはいけない。妖夢は服の袖で顔を拭い、洟をすすると落とした楼観剣を拾い上げ鞘に戻した。そうしてそのまま妖夢は苦虫を噛み潰したように顔をしかめたままぐるりと踵を返すと元の道を戻るよう走り始めた。




 裏通りとはいえ町中だ。遅かれ早かれ誰かが変わり果てた男の姿を誰かが見つけるのは明白。そうなれば幻想郷中に妖夢の凶行が露見することになる。そして、そうなってしまえばもう一巻の終わりだ。あわれ妖夢は断頭台の露と消え、その人生は咎人として終える。なんとしてもそれだけは避けたい結末だった。ならば、どうする? 犯行が露見しないようにするしかない。そう、妖夢は男の死体を隠すためにこうして逃げてきた道を早足で戻っているのだ。







 だが…

「っ…」

 戻ってきた門の前には男の亡骸以外にもう一つ、人影があった。それはよく見えなかったがなにやらごそごそと動いており、生きている人間なのは間違いなさそうだった。どうしよう、と物陰に隠れながら様子を伺う妖夢。こんなに早く自分の犯罪がばれるとは思っていなかったのだ。否、無意識のうちにそうはならないだろうと希望観測を抱いていたのだ。
 謎の人影は男の亡骸の側で何かしているようだった。降りしきる雨と霧のせいでよく見えない。姿は子供かと見まごうほど小さかったがこんな場所にこんな時間に子供がいるはずがない。少しだけ考えてままよと妖夢はその人影に近づいていった。

「あの…」
「ヒッ!?」

 後ろから声をかけるとその謎の人物は短い悲鳴をあげすくみ上がった。ぎこちない動きで振り返る。謎の人物の正体は老婆だった。こんな場所に相応しい襤褸を身に纏い、垢と埃で強張った頭巾の下から腐り萎びた桃のような顔を覗かせている。落ちくぼんだ眼窩にはめられた眼球の左は白濁していて何も写していないようだった。

「こ、こんなところで何をしているんですか?」

 とりあえずこの老婆が一体何者なのか妖夢は確かめようとした。老婆が何をしてるのか分れば早々にここから立ち去るよう誘導できるかもしれない。そう考えたのだ。兎に角、老婆に何処かに行ってもらわないと男の死体を何処かに隠すことなんてできないからだ。

「わ、ワシかえ…」

 妖夢の質問にしわがれた声で応える老婆。しわくちゃだった顔に更に深い皺を刻み、あうあうと口をもぐつかかせている。

「そ、それよりお前さんはなんなんじゃ? こんなところでなにしとるんじゃ」

 逆に質問してくる老婆。よもや、その死体を隠しにきたのですとは言えず妖夢は口ごもってしまう。互いに似たような態度を取る妖夢と老婆。お互いに腹の探り合いをしているような…
 と、それまで歯に物が挟まったような顔をしていた老婆が表情を一変させた。白濁していない方の目蓋を開き、ああ、と声を上げたのだ。

「お前さんその刀…まさか」

 老婆の視線が妖夢が持つ白楼剣や楼観剣の鞘に注がれる。深く刻まれている皺のせいで老婆の表情は読めなかったが、何処か笑っているようだった。なんだ、と思わず妖夢は刀の柄に手をかけながら一歩後ずさってしまう。

「こやつを斬ったのはお前さんかえ?」
「ッ!?」

 老婆の思いがけぬ言葉に妖夢は驚きの表情を隠しきれなかった。そうしてそれは言葉にせずとも是と応えているにも等しい顔だった。しまった、と顔を手で覆い隠すがもう遅い。老婆はそうかえ、そうかえと繰り返し頷いてみせる。恐らく老婆は男の死体に刻まれた刀傷と、そこに偶然現れた帯刀した妖夢を結びつけてすぐにその考えに至ったのだろう。

「やっぱりお前さんか」
「あ、ああ…」

 妖夢は呻るような声を上げる。今まででも首に縄がかかっていたような状態だったのに、ついに床板が外れ絞首刑に処されたような気分になった。目の前が暗くなったのは想像による頸動脈の圧迫から脳に酸素が通わなくなった、からではないだろう。血の気が失せていく音を確かに聞きながら妖夢は呆然とするしかなかった。
 これでお終いだ。男の死体が誰にも発見されていないのであればまだ浮かぶ瀬もあった。けれど、既に妖夢の殺人は他人の知ることとなっている。あわれ、想像通り妖夢は絞首台へとかけられるのだ。

「人殺しか。そいつは酷いことをするな」

 きひ、と老婆の口からそんな音が漏れた。あろうことか、それは笑い声だった。老婆は頭巾の下から妖夢の顔を見上げてくる。

「人殺しはいかんなぁ。死罪ものじゃ。お前さん、とんでもないことをしでかしたのぉ」
「ううっ…」

 嫌みったらしく老婆はそんな言葉を投げかけてきた。軋む妖夢の心。吐き気さえ催すほど妖夢の心は深い絶望に見舞われていた。

「まぁ、でも…ここにはワシとお前さんしかおらん」

 と、不意に老婆は話題を変えるような言葉を口にした。あ、と妖夢が顔を上げる。老婆と視線が合う。覗き込んだ老婆の瞳には邪悪な光が輝く。妖夢は老婆が何を言おうとしているのかまるで理解できなかった。理解しようと努力するほど落ち着いてもいられなかった。もはや、身の破滅だと血の気の失せた顔を震わせ、愕然としている。


「こんな雨の夜の出来事じゃ。黙ってりゃ、下手人が誰なのか巫女でもわかりゃぁせんよ」
「………?」

 疑問符。混乱する妖夢の頭に老婆の言葉が流れこんでくるが一向に理解出来ない。不安が圧倒的に優っているからだ。そんな風に混乱しているさまを見せつけていると老婆が不意に舌打ちした。

「察しが悪い奴じゃの。黙っておいてやろうかと言っとるんじゃ」
「え…?」

 そして、続いて口にしたのはそんな悪魔の囁きじみた言葉だった。

「ここにはワシとお前さんしかおらん。二人とも黙っとりゃ誰にも判りぁせん」

 妖夢に近づき、老婆はそう語りかけてくる。その言葉は本当に人間の口から発せられているのかと疑ってしまうほど酷く聞こえにくく小さいせいで雨音にかき消されてしまうほどの声だったが何故か明瞭に妖夢の耳に届いてきた。ごくり、と妖夢は生唾を飲み込む。

「見ればお前さんはまだ若そうじゃ。身なりはアレじゃがええ刀も持っておる。おおかた何処かの屋敷のお抱え武士だったんじゃろ。こんな所におる人間じゃねぇ、そう見えるぞ」

 妖夢の体を頭のてっぺんからつま先まで見回しながらそう老婆は言う。片方しか瞳が映らないが故か。その観察眼に妖夢は驚きを隠せなかった。

「そんな人がこんなチンピラを殺したいうてとっ掴まるのはおかしな話じゃ。だから、黙っといたろ、と言うとるんじゃ」
「………」
「何、遠慮することはない。ワシは老い先短い老害じゃ。墓に入る前にええことぐらいしたくなる。ただなぁ…」

 そこで老婆は言葉を切った。永久歯が何本も抜け落ちた歯を見せるよう笑ってくる。

「ワシがだまっといたる代わりにお前さんも誠意、みせてくれや」
「………」

 やっと妖夢は老婆が何を言わんとしているのか理解できた。要は脅しているのだ、妖夢を。強姦魔を殺してしまったことを黙っておいてやる代わりに金品なり何なりを寄越せと。この老婆は臆面もなくそう言っているのだ。

「………ッ」

 泣き出しそうな、怒り出しそうな、そんななんとも言えぬ表情が妖夢の顔に浮かんでくる。つい先程まで自分は人生のどん底にいる。そう妖夢は思っていた。だが、どうやらそれは間違いだったようだ。そこだと思っていた場所にはまだ先があって、そこには業突く張りな夜叉が潜んでいたのだ。妖夢は悔しさのあまり、自分の唇を血が流れ出るほど強く噛み締めてしまったが、それが事態を好転させることはなかった。

「取り敢えずは、そうさな。何ぞ旨いモンが喰いたいから、ほれ、金貸してくれ」

 きひきひ、と笑う老婆。枯れ枝のような手のひらを襤褸の下から出してくる。人差し指がなかった。貸してくれ、と言っているがそれは恐らく、否、絶対に返ってくるお金ではないだろう。そして、それ以前に…

「持ってないです」
「あ?」
「お金、持っていないです」

 妖夢は無一文なのだ。老婆に渡せる金銭など逆立ちしたって出てくる訳がない。

「……ほうかえ。じゃあ、スマンがワシは口が軽い。ついうっかりこのことを誰かに、例えば警らの連中に言ってしまうかもしれんな」
「本当に…持ってないんですっ」

 妖夢が言い逃れようとしていると思ったのか老婆は更にそう、先程よりももっと直接的に脅し文句をつけてきた。だが、ない袖は振れず、妖夢は両の拳を握りしめたまま頭を左右に揺らした。

「持ってないじゃと!? ヌシぁ、ワシが片目ェ見えんから知らばっくれようとしとんじゃろ!」

 激高しそんな老体のどこから発しているのだと思えるほど大声を上げてくる老婆。

「金がないんならその刀ァ寄越せ。そんなけええ刀なら結構な値になるじゃろ!」

 楼観剣を指差し吠える老婆。とっさに家宝の刀を守るよう、妖夢は半身をずらす。

「こ、これは駄目です!これは命より大切な…!」
「じゃったら、とっとと警らに捕まって首刎ねられて死んでしまえッ!」
「っう…!」

 助かるために家宝の刀を売れ。
 それは今晩、最初にこの門の下に入り込んだ時にも考えた選択肢の一つだ。だが、今回は更に強制力が増している。実質的な死と尊厳の死が肉薄している。両方の皿にとてつもなく重いものをのせられ妖夢の心の天秤はきしみ声を上げた。これではどちらを選ぼうが、どちらとも選ばないでいようが妖夢の心が壊れてしまうのは明白だった。

「ほら、さっさと寄越さんか!」

 老婆の一喝。妖夢は己の大臼歯を砕かんほど顎に力を込め、忌々しく老婆を睨みつけた。だが、事態が好転するはずもない。暫し妖夢は老婆を睨みつけていたが結局、根負けした。泣き出しそうな顔をしながら腰に差していた白楼剣を鞘ごと抜き取り老婆に渡した。

「そっちのもじゃ!」
「くっ」

 そっちとはもう一本の刀、長刀楼観剣だ。あろうことか老婆は妖夢の刀二本ともを貰おうと言っているのだ。無論、そこに拒否権などという文字はない。妖夢は煮え湯を飲まされた顔つきで楼観剣の鞘を結わえつけている紐を外すと、それも老婆に手渡した。今度こそ妖夢は命以外の全てを失ったも同然だった。

「………」

 強烈な喪失感。手足の一本、いや、四肢全てが奪われたような気分だった。有り金を全て無為に使ってしまったことよりも、花を無理矢理散らされたことよりも、何よりも家宝の刀を失ったことが辛かった。しばらくの間、妖夢は抜け殻になってしまったかのようにその場で呆然と立ち尽くしていた。

「カカカ、じゃあなお前さんよ。また、何かあったらお前さんに助けてもらうかもしれんがの」

 そう老婆は笑うと強欲な捨て台詞を吐いて、妖夢の脇をすり抜け何処かへと消えようとした。もはや為す術はない。そう、妖夢は老婆の言葉を一つも耳に入れず、取り敢えずさっさと男の死体を何処かへ隠してしまおうと考え…

「…?」

 ふと違和感に囚われた。
 男の亡骸がうつ伏せに倒れていたのだ。
 記憶を反芻してみる。今ならはっきりと思い出すことが出来る。妖夢は自分に襲いかかってきた男の股間を蹴りつけた上で逆袈裟に白楼剣で撫で切りしたのだ。ならば、男は仰向けに近い形で倒れるはず。なのに男は今、うつ伏せに倒れているではないか。これは一体どういうことだろうか。事の真相を確かめるため妖夢は屈みこみ男の死体を調べようとする。その事に気が付きあっ、と老婆が声を上げた。はたして、ひっくり返した男の胸には右脇腹から左肩にかけて走る刀傷の他に深々と柄のあたりまで一振りの包丁が突き刺さっていたのだ。見覚えのない古びた包丁だった。なんだこれは、と妖夢はよくよく男の体を調べようとする。見れば明らかに刀で斬りつけた事や包丁を突き刺したのとは全く別の力で男の衣服が乱れているのに気がついた。この乱れ方はまるで懐の中身を調べようとして襟を引っ張ったという感じだった。懐の中身。普通、そこには何を入れる。そう、財布だ。妖夢は血塗れの男の腹のあたりを見たがそこに財布らしき袋は見当たらなかった。

「ご老体」
「ひっ、な、なんじゃ!?」

 そそくさと帰ろうとしていた老婆を妖夢は呼び止めた。老婆の返事は声が上ずっていた。明らかに動揺している。

「私に会う前、ここで何をしていたんですか?」

 問いかけは事実確認に近い。
 そもそもこの老女と男の関係は一体なんなのだ。少なくとも老婆は男の死に対して驚いたり嘆いたりしている様子はない。親しい間柄ではないだろう。それは男の死を公言しないと言っていることからも判断できる。だったら、なぜ、この老婆は男の側にしゃがみ込んでいたのだろう。そして、何をしていたのだろう。

 そして妖夢は本当にこの男を斬り殺してしまっていたのか。手応えは確かにあったことを妖夢は憶えているが、それが致命傷に至る一刀の手応えだったのかどうかは実際の所分らない。人など斬り殺したことはないのだ。深く斬りつけたとは思っているが…もし、男が妖夢の一撃で死んではいなかったら? その後、何者かに包丁を突き刺され男は絶命してしまったとしたら。既に瀕死だった男が包丁で刺された理由が財布を奪うためだったとしたら。そこにもし何も知らない妖夢がのこのことやって来たらとしたら。悪意ととっさの判断能力があれば妖夢を騙すことも出来る。そしてその全てが老婆の行動に繋がる。

「…ううっ」

 妖夢の鋭い視線をうけてたじろぐ老婆。それだけで回答に十分だった。立ち上がり、老婆に近づく妖夢。

「……とりあえず、私の刀、返して貰えますか」

 妖夢は手を伸ばした。言葉は要求ではなく命令だ。更にもう一歩、老婆は逃げるように後ずさった。妖夢から奪った刀を返すものかと言わんばかりに抱きしめる。

「イヤじゃ、な、なんで返さなあかんのじゃ!」

 強く否定の意を示す老婆。

「これはもうワシの物じゃ! ワシがお前さんから貰ったもんじゃ! だいたい、いいのか、ワシにそんな態度とって! そ、そいつをお前さんが斬ったのは事実じゃろうが!」
「貴女が止めを刺したのもですよ」
「ッう…!」

 今度は老婆が苦虫を噛み潰したような顔になる番だった。妖夢が詰め寄るたびに磁石の同じ極を近づけたよう、後ずさる。ついには軒下からでて、雨が降りしきるさ中へ身を出した。

「糞が! ああ、確かにそいつに止めを刺したのはワシじゃ! だがな、どうせ放っておいても死んだわ。お前さんがえらく深く斬りつけていたからな。それにそいつはこの辺りじゃ有名な悪じゃった。ヤクザもんで盗みや恐喝、強姦、悪いことはなんでもして皆から恨まれておったわ! そんな奴が死にそうになっとったんじゃ! 誰だって助けんでこれ幸いにと止めを刺すじゃろ!」
「そしてついでに財布も盗むと」
「当たり前じゃ! 死人になんで金がいる! 生きてる人間が使ってこその金じゃろ! ワシはなんも悪いことはしとらん! どうせ助からん奴に包丁を刺してやったのもせめて苦しまんようにしてやろうと思ってのことじゃし、財布は落ちてたのを拾ったも同然じゃ! この刀もお前さんから貰ったものじゃ! 絶対に、絶対に返さんぞ!」

 わめき散らす老婆の声はもう妖夢の耳には届いていなかった。妖夢は肩の力を抜き、ああ、と嘆息を漏らす。
 なんという生き汚い悪人だろう。平気で嘘を付き、死にかけの人間を殺し、自分は正当であると大声で言い訳する。生き汚い人間だ。そこに誇りはなく、正義はなく、義理もない。だが、と妖夢は考え直す。この老婆は生きている。自分のすぐ側に倒れている男やあの階段のところで塵に埋もれている浮浪者、そして、おそらくはすべてを失った未来の自分と違って。この老婆は生きているのだ。醜くも、汚くも、卑しくも、浅ましくも。生きているのだ。
 はぁ、と妖夢はため息を付いた。成程、こんな底辺では何かを持って生きて行くことは不可能なのだ。それは正義であったり心情であったり家宝であったり財産であったり、様々な形態をしているが兎に角、こんな場所では、こんな貧しい場所では心身ともに貧しくないと生きてはいけないのだ。余計な物をもったまま生きていけるほど、この場所は安全な場所ではないのだ。確かに、と妖夢は思い出す。楼観剣と白楼剣をさっさと売っていれば金は手に入っていた。身の安全を顧みなければそこの男の家に厄介になることもできた。襲われそうになったとき、とっとと刀を抜いて斬り殺しておけば処女を奪われることはなかった。斬り殺した後、無様に逃げ出さなければ老婆に騙されることもなかった。





 ―――身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ





「ああ、もう、いいですよ別に」

 結局、それがこの三ヶ月の間、妖夢が底辺の生活を続けてやっと得られた真理だった。
 ここでいう身とは肉体のことではない。己や他人の尊厳といった形のないものも含めた全てだ。生きるために何かを捨てていけ。獣のように浅ましく、餓鬼のように貪欲に、盗人猛々しく、生き延びるために平気で悪をなす悪鬼になれ、と。そういう事だ。

「奪い返しますから」
「へ?」

 一瞬で老婆の元まで間合いを詰める妖夢。遅れて老婆が素っ頓狂な声を上げる。妖夢に突き飛ばされたからだ。 階段の前に立っていた老婆はそのまま後ろ向きに倒れる。両腕が空いていればまだ受身もとれたかもしれないが、あいにくとその手は妖夢から奪った二振りの剣を後生大事に抱えたままだった。階段の角で強かに後頭部を打ち付けそのまま老婆は道までずるずると滑り落ちていった。

「あ…ッ……ッ!?」

 両足だけを階段に乗せた状態で仰向けに倒れている老婆。頭が漬かっている水たまりが徐々に赤く染まり始めている。パクパクと掬い上げた金魚のように口を開閉させているが、恐らく息ができないでいるのだろう。見開かれた目に雨粒が落ちてきているが瞼を閉じようとしない。

 その老婆にゆっくりと妖夢は近づいていった。老婆の側でしゃがみ、その手にある自分の刀を取り返す。刀は老婆の手にまるで力がこもっていなかったため熟れた果実をもぐよう、簡単に奪い取れた。ついで妖夢は老婆の着物の帯紐を無理矢理ほどくとそこに後生大事そうに隠されていた二つの財布…一つは血塗れのものも奪った。妖夢はその場で財布をひっくり返し、中の僅かばかりの小銭だけを抜き取ると塵でも捨てるよう、動けなくなった老婆の腹の上に空になった財布を投げ捨てた。後は興味がないと言わんばかりに立ち上がり、何処かへと去ろうとする。
 と、

「ううっ…」

 老婆が手を伸ばし妖夢の足首を掴んできた。そこまるで力はこもっておらず、蔦か何かに引っかかった程度の抵抗しかうけなかった。けれど、妖夢は足を止め、ジッと老婆の顔を見下ろした。

「か、かえ、せ…」

 かすれた声で老婆はそう言う。地獄の底から聞こえてくるような怨みがかった低い声色だった。だが、そんな声、既に冥府魔道に身を堕した妖夢には鳥の囀り程にも靡かない声だった。

「断る」

 言い捨て、妖夢は逆手持ちに白楼剣を引き抜くと、それをそのまま老婆の喉目がけて振り下ろした。ぶすり、と刀の切っ先が流木じみた老婆の喉元へ吸い込まれる。握りしめた柄から確かに老婆の大切な何かを断ったという手応えを覚えた後、妖夢は手首を返しつつ喉から白楼剣を引きぬいた。赤黒い血が老婆の喉から溢れ出したが、それで老婆が溺れることはないだろう。既にその体は生命活動の一切を停止していたからだ。

 妖夢は今しがた殺した老婆に目もくれず、奪った小銭を懐にしまうと雨降る夜の道へと消えていった。門の前には三つ、死体が残された。









――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――









 戸が開き雨音が聞こえたかと思うと一人、濡れ鼠になった客が入ってきた。縁の欠けたお猪口で安物の温い燗を呑んでいた客たちは誰だ、と顔を上げたが来客の顔を見てすぐにその視線を下げた。店主もいらっしゃいませ、のませという言葉を発せなかった。

「おやじ、燗を」

 席に着くより早く来客――魂魄妖夢はそう店主に言った。はい、と白髪混じりの長髪を無造作に後ろで束ねていた店主は何処か力無さ気に応えた。そんな店主や他の客たちの態度も気にすることなく、妖夢は椅子にどかりと腰を下ろした。程なくして湯煎にかけられていた徳利とお猪口が妖夢の前に差し出される。待ってましたと言わんばかりに熱々の徳利を火傷しないよう気をつけつつ持ち上げ、お猪口に熱せられた酒を注ぐ妖夢。酒はけっして良いものではなかったが、冷え切った体に熱い酒は大層具合が良かったのか、すぐに妖夢は顔を赤くしてご満悦の表情になった。

「………」

 対し、他の客たちの顔はそれはもうまるで通夜の時分の有様と言った様子だった。先程までしこたま呑んでいたはずだろうに、赤ら顔の農夫や行商たちの顔は一気に平時のそれ、ともすればそれ以下の青さになり、言葉数もいっぺんに零に等しいぐらい少なくなった。まるで呑屋の席に凶暴な虎でも現れたかのような有様だった。客や店主たちは兎よろしく声を潜めじっとし、なるだけ気配を悟られぬようしている。そんなに居心地が悪いのならさっさと出ていけばいいのに、と思うかも知れないがそれも無理な話だ。出て行くという行動自体が目を付けられる要因になりかねない。虎が満足して帰るのを待つしかない。そんな状況だった。

「オヤジ、もう一杯」

 一人、つまみもなく妖夢は笊のように酒を呑み続けていた。




 それからどれぐらいの量を呑んだのだろうか。気がつくと腕を枕にして眠っていた妖夢は控えめな店主の声で起こされた。惰眠を貪っていたところを邪魔され、妖夢は忌々しく店主を睨みつける。店主は怯え、おどおどした口調でなんとかそんな目をやめてもらうよう起こした理由を説明した。

「す、すいません、もう今日は店仕舞いでして…」

 見ればなるほど、妖夢以外に店に客の姿はなかった。チッ、と舌打ちし妖夢は懐に手を入れる。そしてさし出してきた店主の手のひらの上にじゃらじゃらと適当に硬貨をばらまいた。

「ひっ!?」

 その硬貨をみて店主は短い悲鳴を上げた。酒の代金に貰った金は濡れていたのだ。雨や酒ではない。朱に。ドロリと粘つき、鉄の匂いがする赤い液体、血に。
 怯える様子の店主を不思議そうに見ていた妖夢だったがやがて合点がいったのか、ああ、と声を上げた。

「私のじゃない。安心しろ」

 そう言って妖夢は店から出て行った。
 妖夢の姿が見えなくなったことで店主は安堵の溜息こそ漏らさなかったが、少しは落ち着きを取り戻した。血塗れの金で代金を払われた程度、妖夢が客としてやってきたなかでは相当マシな方だったからだ。



 あれから三ヶ月、妖夢はすっかりこの辺りでは有名なヤクザ者となっていた。否、ヤクザなどという職業的に暴力を振るう輩に例えるのは生ぬるい。アレは悪鬼だ辻斬りだと路地裏では囁かれ合っている。先ほど、この呑屋に妖夢が客としてやってきた途端に店の雰囲気が悪くなったのもそのためだ。妖夢があの呑屋を始めとするこの界隈で起こした暴力沙汰は数知れず、刃傷沙汰も多い。いや、それどころか未だ公僕のあずかり知らぬことではあるが妖夢は僅かばかりの金を手に入れるために強盗をもやっているのだ。それは未だにまともな目撃者がいないため、はっきりと断言できるものは誰もいなかったがほとんど公然の秘密と言っても差支えのないものだった。成程、人斬り強盗と一緒に酒を呑めるような肝っ玉の大きな連中はまずいないだろう。そういった輩は既に妖夢の琴線に触れ、病院送り―――或いは墓の下へと送られてしまっている。この辺りでは誰も妖夢に逆らい喧嘩をふっかけるようなものはいなくなってしまった。今や妖夢はこの界隈の暴君、悪鬼である。
 
 それならば幻想郷の治安を維持する警邏隊や巫女にでも言えばいい。いくら凄まじい剣の腕と残忍な性格をしていても幻想郷の抑止力には敵うまい。
 だが、そういう考えはこの界隈にはなかった。この辺りに住んでいるのは皆、脛に傷持つ悪党、小悪党ばかりだ。蜂退治を頼んで一緒に油虫である自分たちも駆除されては本末転倒、たまったものではない。そういう考えだ。店主が血塗れの硬貨…魔理沙の物だった、血も含めて、を黙って受け取ったのはそういう理由もある。加え店主の場合は妖夢の事を警邏隊に言うようなそんなある意味で客を売るような真似をすれば、店に来ている他の客たちからも『自分たちの悪事も店主に告げ口されてしまうのではないか』そう思われ、そういう理由で客足が遠のいてしまうのを恐れたのだ。店主自身、清い身だとはとても言えぬのもある。

 かくして妖夢は外道としての道を直向きに歩み続けていた。
 自分の命も楼観剣、白楼剣も捨てられぬ代わりに人としての尊厳をかなぐり捨ててしまったのだ。もはや正道を歩けるならば裏街道で卑しく生き延びる。その考え。

 気に食わぬものを殴り倒し、用心棒や殺し屋の様な仕事を請け負い、時に罪の無い一般人から金品を奪う。悪鬼――まさしく妖夢は悪としての道を歩いていた。










「………」

 降りしきる雨の中妖夢は一人で歩いていた。
 雨の冷たさにすっかり酔は抜け、また体が芯から冷え始めていた。帰って寝ようか、河岸を変えて呑み直そうか、それとも女でも抱きに行こうか。取り留めもなく雨に打たれながらそう考える。

 この三ヶ月、妖夢は非常にいい気分だった。その前の三ヶ月の間のどん底だった生活が悪い夢だったとさえ思えるような気分だ。金は容易く手に入り、誰も自分が不快な気分にするようなことはしてこない。衣食住は約束され、蔑むような視線を向けられるどころか時には尊敬の眼差しさえ向けられることがあるのだ。妖夢は有頂天だった。今ではこの悪の道こそが自分が真に歩むべき道だったのではと思えるほどに。

「ふふっ、ははは、はははははははっ!」

 可笑しさのあまり声を上げ始める妖夢。げらげらげらげらと唇を円弧に、歯をむき出しにし、眉尻をひん曲げゲラゲラと笑った。本当に、最高にいい気分といった様子だった。

「ん?」

 と、妖夢は前方から何かが近づいてきているのに気がついた。人ではない。もっと大きな何かだ。ぐちゃぐちゃと規則正しくぬかるんだ道を踏みならす音が聞こえる。巨重。馬…馬車か、と妖夢は判断した。

「こんな夜更けに…?」

 馬車は幻想郷では代表的な輸送手段だ。農作物や木材などを運搬するのに使われている。けれど、狭い幻想郷だ。どれだけ大量の荷物を載せたとしても一日もあれば馬の足なら西の端から東の端まで荷を運ぶことが出来る。わざわざこんな雨降る晩に荷馬車を走らせることはあまりにも稀だ。理由は予想するだけでも限られる。状況を問わず届けなければいけないほど急を要するものを運んでいるのか、はたまた…

「………」

 妖夢は口端を歪めると家と家の間にあった隙間のような路地に身を隠した。暫くの間、そこでじっとする。程なくして予想通り荷馬車がやって来た。

「………」

 馬車は一頭だてだった。雨合羽を着こんだ御者が手綱を握り、静かに馬を歩かせている。馬が引いている荷車は大きなものでこの雨のためか屋根付のなかなか立派なものだった。相当、荷物を載せているのだろう。雨でぬかるんだ道に深々と轍を残している。
 更に馬車には荷台の座席に御者以外にもう一人、前後に一人づつ随伴者がいた。一人でも十分制御できる馬車に四人も付いているところを見るに荷は相当、大切な物のようだ。

 ふむ、と妖夢は考える。
 手持ちの金は先程の吞屋で使いつぶしてしまった。用心棒や殺しの依頼は受ける予定がない。この処降り続いている雨のせいで強盗自体はしやすくなったものの、そもそもの獲物が出歩かないという状態に陥っている。そんな状況であの荷馬車は鴨が葱を背負ってやって来たというべきか。格好の獲物だった。
 妖夢は笑むと路地裏に姿を消した。この辺りの地理はすっかり頭に入っている。馬車の先回りをしようという魂胆だ。







 荷台の座席に深く腰掛け、リグル・ナイトバグはまっすぐ雨の道を見据えていた。
 ぬかるんでいるとは言え一本道をまっすぐに進むだけの仕事。馬に任せっきりでも問題ないはずだが、それでも最大限の注意を払っているのは荷に万が一があってはまずいからだろうか。雨に打たれて寒いだろうに、しっかりと手綱を握り締めている。

「リグルさん、そろそろ代わりましょうか」

 不意にリグルの隣に座っていた男がそう、口を開いた。リグルは一瞬だけ男のほうに顔を向けた後、いいえ、大丈夫です、と応えた。

「幽香さんには僕が命じられたんです。最後まで頑張ります」

 そう決意を込めて応えるリグル。左様ですか、と男は頷き返し、視線を側道の方へ向けた。

「ん?」

 と、男は降りしきる雨の向こうに何かを感じ取った。道に並行し並び立つ荒屋の間と間を何かが横切ったような気がしたのだ。

「どうかしましたか?」
「いえ、猫か何かを見間違えたのでしょう」

 リグルに問いかけられるが男はそう返した。この雨の中、最大限の注意を払いつつ向日葵の丘の向こうからこの界隈までひたすらに馬車を走らせてきたのだ。疲れているのは妖怪のリグルではなく自分の方だな、と相席の彼女に聞かれぬようため息を漏らしまた前方に視線を向けた。

「ん?」

 その目が捉えたのは黒い影…ではなく、雨を切り裂く銀閃だった。
 闇夜を裂き飛来するそれは円運動を描いていた。くるくるくる。くるくるくる。
 遅れてリグルもそれに気が付き、馬を止めようとしたところで、馬の足に深々とその銀閃…投擲された白楼剣の切っ先が突き刺さった。甲高い嘶きを上げ、足に深手を負った馬は均衡を崩した。

「うわッ!?」

 そうして馬はそのままその巨体を横に倒す。運悪く並んで先導していた男が倒れてきた馬の下敷きになり悲鳴をあげる。

「な、何なの!?」
「襲撃ですよ! 畜生!」

 未だに事態が飲み込めぬリグルが声を張り上げる。荷台に並んで座っていた男はほとんど条件反射にそこから飛び降り吠えた。きっ、と睨みつけた雨の道の向こうから襲撃者――妖夢がその身を颶風と迫ってくる。

「お、重いッ…!?」

 ぬかるみをものともしない速度で走ってきた妖夢は馬の足に突き刺さった白楼剣を速度を落とすことなく抜き取り、更に馬の下敷きになっていた男の首筋をその剣先でなで斬りにした。首をぱっくりと切り開かれ、結局、その男は馬の下から脱することなくその生涯を終えた。
 拾い上げた白楼剣を構えた格好で妖夢は荷台にへと迫る。凶気に満ちた視線の向こうには荷馬車から降り幅広の刀、段平を構える男の姿があった。

「オォォーーー!!」

 雄叫びを上げ段平で勢い良く斬りつけてくる男。刀身が薄い段平の一撃は早い代わりに軽い。先手を打ち、妖夢に兎に角手傷を負わせる。そうすれば自分がやられようとも隣で座っていたリグルや殿軍を務めていた仲間が襲撃者を倒してくれる。そういう男の作戦。非情ではあるが非常に有効な作戦だった。だが…

「甘い」

 正道を外れ外道を歩む妖夢にはそんな捨て身の戦法さえも通じなかった。男が上段から向かって妖夢の左脇までを切り裂く斬線を放つが、その瞬間には既に妖夢の姿はそこにはなかった。小柄な妖夢が回避に入ろうとも攻撃できるよう大きく振るった斬撃の更にその下を妖夢は飛び込むような勢いでくぐったのだ。地面すれすれを滑空し男の脇をすり抜ける妖夢。加えすれ違う瞬間、男の両の足首を切り落としていた。男が悲鳴を上げ前のめりに倒れるのと、妖夢が地面に片腕を付き、体を一回転させつつ立ち上がるのは同時だった。間髪入れず妖夢は離れてしまった男との間合いを詰めなおし、地面めがけ三段突きを繰り出す。ザクザクザクと背中を突き刺されこの男もまたその命を無残に散らした。

「テメェェェェェ!!!」

 怒号。同時に野太刀が一直線に振り下ろされる。殿軍を務めていた男が仲間の仇を伐とうといきりたち襲いかかってきたのだ。間髪、体を反転させ白楼剣でその一撃を受ける妖夢。二者はそのまま鍔迫り合いの形で対峙し合った。

「こンのォ!!」

 けれど、均衡は一瞬。流石に体格に劣る妖夢では鍔迫り合いのような力比べば分が悪かったのか、男の裂帛と共に弾かれてしまう。

 妖夢が己より非力だと判断した男は野太刀の柄を握り締めなおした。このまま連続して攻撃を与えていけばいつか相手は力尽きる。その瞬間こそがその胴体が真っ二つになる瞬間だ。そんな気概。

 それが男が無駄な想いだったと知ることはついぞなかった。
 男に突き飛ばされた妖夢はしかし、顔に笑を浮かべていた。残忍な笑み。右腕だけで白楼剣の柄を持ち、左手は既に肩の上まで持ち上げている。そう、妖夢はわざと力を抜き男に突き飛ばされたのだ。自由な左手が掴んだのは背中に背負った長刀楼観剣の柄。妖夢はその長い刀を引き抜くと同時に己の全身を腕に変え、大上段から地の上まで一気に振り下ろした。その一撃は落雷が如き威力を持っていて、野太刀を構え直した男を脳天から股下まで真っ二つにした。

「…」

 真っ二つにされた男の腸は器である体が倒れきるまで綺麗にそこに収まったままだった。水たまりの水を跳ね上げると同時に腸や肺、臓が零れ落ちる。

「………」

 残心。外道に落ちても剣の腕は衰えていないのか、妖夢は静かに息を吐き捨て、それからゆっくりと楼観剣を鞘に戻した。次いで一呼吸つくことなく静かに右の白楼剣を水平に馬車の先頭の方へ向ける。

「ヒッ…!」

 切っ先のその直線上にはリグルの姿があった。恐ろしいのか、顔をひきつらせ、肩を小さくしている。

「っううう…!」

 だが、その顔が気弱そうだったのはほんの僅かな時間だった。リグルは目頭に溜まった涙を拭うと険しい顔つきで襲撃者/妖夢を睨みつける。

「に、荷は絶対に渡さないぞ!」

 吠えた言葉は相手を威圧するためというより自分の使命を思い出し、そして、絶対にそれを全うするんだという自己暗示じみたものだった。
 対し、剣を向ける妖夢は目を細めるとふむ、と嘆息を漏らした。

「これだけの警備と貴女の態度。さぞや大事なモノが積まれているんでしょうね、この荷馬車」
「っ!?」

 リグルは荷を渡さないと息巻いた。それは荷が奪われる可能性があるもので、且つ、荷を運ぶのを邪魔をするなと言わなかったことから目的地まで届けるのに一刻を争う物でないということも推測できる。だとすれば荷はひどく高価で、しかも、こんな時間に運んでいるのだから違法性の高いものに違いない。妖夢はその順序で荷台の中身を予測した。自分が失言してしまったのではないかとリグルは狼狽える。

「何を積んでる?」
「お、お前になんて言うもんか!」

 妖夢の問いかけを切り捨て、腕をふるうリグル。雨合羽が広がりそこから巨大な蛍を思わせる弾が飛び出してきた。雨の道を翠の光で照らす光弾。光は強く、この闇夜に慣れた瞳では直視出来ない輝きだった。目眩ましも兼ねた攻撃は確実に妖夢を仕留めようと四方八方から迫る。だが…

「弾幕ごっこか…久しぶりだ」

 それを苦も無く躱してみせる妖夢。飛来する弾幕に向かって自ら突き進み、衣服の端をかすめながらも一気に間合いを詰める。ちくしょう、とリグルは悪態を付き、後ろに下がりつつ第二波、第三波と弾幕を放つがそれらが妖夢の体を捉えることはなかった。紙一重で躱され、刃の峰で受け止められ、斬り払われ、妖夢を足止めすることすら叶わない。

「奮ッ!」

 手を伸ばせば届くような距離まで迫った妖夢は裂帛と共に鋭い一撃を放った。降りしきる雨さえも斬る一刀。その斜線上にはリグルの腕があった。血飛沫を散らし放り投げられたように飛ぶリグルの腕。それが道の上に落ちるのとリグルが倒れるのは同時だった。

「う、う、腕が! 僕の手が…!」

 地面にうずくまり打ち震えるリグル。傷口を無事な方の手で抑えていたが、肩から先が失われたそこからはおびただしい量の血が流れ出ていた。あっという間にリグルの足元の水たまりが朱に染まる。
 そこへ妖夢の更なる非情な攻撃が続いた。後ろからのしかかり、リグルを押し倒したのである。次いで妖夢はリグルの頭を鷲掴みにし、水たまりの中へ押し付け溺れさせようとする。

「モゴ…ゲフッ…!!」

 口の中へ泥水を吸い込みながらももがき暴れるリグル。だが、片方の腕だけではそれもままならない。加えてこの傷だ。多量の出血で体からは活力というものが失われてしまっている。ものの数秒ほど息ができなかっただけでリグルはまるっきり抵抗する力を失ってしまった。妖夢はリグルが完全にぐったりとしているのを確認すると半ば無理矢理に水たまりから頭を引き上げた。

「えほっ…えほっ…」
「立て」

 泥混じりの咳をするリグルの耳元へ血の暖かさを感じさせない冷たい声色で告げる妖夢。リグルがそれをすぐに実行しないと見るやいなや再び頭を押さえつけ、顔を水中に沈めた。

「もう一度言う。立て」

 今度は引き上げると同時に顔に白刃を突きつける。三度目はない。そういう脅し。リグルはカタカタと歯を打ち鳴らしながらもなんとか言われたとおり立ち上がった。

「荷台の後ろへ」

 リグルの頭を掴んだままそう命令する。頭を押さえつけられているため振り向くことも出来ず、また、妖夢はいつでもリグルを突き刺すことが出来るよう、しっかりと白楼剣を構えていた。反抗は不可能で、それをする気力もとうに失われている。リグルは言われるがまま、片腕を失ったせいで均衡感覚が上手く取れず、多量の出血もあいまってふらつきながらも歩き始めた。

 荷馬車の後ろに回りこんだところで妖夢はやっとリグルを開放した。荷台の方へ突き飛ばすように頭を掴んでいた手を放す。慌てて荷馬車にもたれかかり、はぁはぁと浅く早い呼吸を繰り返すリグル。

「鍵を開けろ」
「………」

 言うとおり荷台には強固そうな南京錠がかけられていた。綺麗な細工が施された南京錠で、おそらくは何か魔術的な仕掛けが施されているのは一目瞭然であった。はたしてこの南京錠は妖夢の渾身の一太刀でも断ち切れるかどうか分からず、無理な開け方をすればどんな仕掛けが…例えば爆発したり、鍵を開けようとした不審者に強力な呪いをかけるような、そんな術が施されているかもしれないのだ。妖夢があえてリグルを殺さず生かしているのは安全に鍵を開けるためだったのだ。

 けれど、リグルは動かなかった。代わりにそれだけは許してくれという懇願とお前のいうことなど効くものかという反抗が半分ずつ入り交じった視線を妖夢に向けてきた。
 妖夢はこれだけ傷めつければ飼い犬のように従順になると思っていたのに、リグルのそのあくまで荷を守るという態度に少しだけ感心した。従者の鏡。もはや自分は与ることの出来ない誉れだ。けれど、羨ましいとも思わなかった。白楼剣を持ち上げるとその切っ先をリグルに近づける。

「開けたくないというなら別に構わない。お前を斬り殺して鍵を奪うだけだ。だが、もし、お前が鍵を開けてくれるというのなら、慈悲だ。助けてやる。その傷だ。妖怪と言っても早々に治療しなければ致命傷になる。どうだ、悪い取引じゃないだろう」

 譲歩するよう、少しだけ声色を和らげる妖夢。リグルはその提案に眉をしかめた。血の気が失せ、白濁しつつある意識の中、なんとか思考を回し、はたしてその提案を受け入れていいものかどうか考えているのだろう。

「…お前にこれを運ぶように命じた奴は死んでも荷を守れと言ったのか?」

 最期の一押しに、と妖夢はそう言った。一瞬、リグルは呆けたような顔をしてすいません幽香さん、と小さく口にした。決心がついたのだろう。
 片腕でポケットをまさぐって南京錠と同じ細工が施された鍵を一つ取り出す。片腕では難しいのだろう。苦労しながらそれをなんとか鍵穴に挿し込み、カチャリと回す。仕掛けと術が連動して動き、錠が外れた。
 お次は、と口にする代わりにリグルは青白い顔を妖夢に向けてきた。

「戸も開けろ」

 用心深く、そこまで命令する。既に何かを判断する力も失せてきているのか、リグルは今度は躊躇いなしに言われたことを実行した。南京錠を留め金から外し、そのまま道の上へ落とし、観音開きの戸の片方を開いてみせた。妖夢は用心しながらも荷台に近づき、中を覗き込む。積まれていたのは沢山の木箱だった。

「中身は?」
「……ま」

 尋ねるとリグルはすぐに応えた。けれど、その声はあまりに小さく、降りしきる雨の音に容易くかき消されてしまった。何、と聞き返しながら妖夢は聞き取れるようリグルの口元に耳を寄せる。もはや、リグルは絶対に反抗してこないし、出来ないと思っての行動だ。案の定、従順にリグルは荷の中身について説明しだした。

「幽香…さんが、育てたもの…それを旧地獄街道の倉庫街へ隠しに行く…途中だった…乾燥大麻」

 すぅっと妖夢の目が細められた。
 乾燥大麻。大麻。麻薬。幻想郷に置いても違法薬物に指定されている物。それが荷馬車いっぱいの木箱に詰められているのだ。茶葉のように乾燥した大麻樹脂一摘みは末端価格にして数千円の価値がある。妖夢はその知識をこの三ヶ月、裏街道で生きることで得た。袋いっぱいの大麻を奪いあって殺し合いが起きることも珍しくはない。現にそういった争いに用心棒として妖夢も参加したことがあった。大麻の価値は身を持って知っている。それがこんなに多量にあるのだ。さしもの妖夢も興奮を隠し切れなかった。

「くく、くくくく…」

 唇を弧月に、顔をひきつらせ笑う。
 成程、こんな夜更けに人目を忍んで護衛を連れて、大きな荷馬車で運ぶ価値のあるものだ。これだけの量を売り払えれば数十年いや百年は遊んで暮らせるだけの大金を得ることが出来るだろう。木箱の中に押し詰められた茶色の滓が今や妖夢には黄金の塊に思えた。そんなものを自分は奪い取ったのだ。これに狂喜せずして何に狂喜しよう。ケラケラと妖夢は腹を押さえ大きな笑い声を上げ続けた。

「大麻ァ? あは、あはははは…そいつはすごい。本当にすごい。最高にすごい。まったくもってハラショーだ」

 落ちぶれるのに三ヶ月。這い上がるのに三ヶ月。そして、今夜、こんな大金が手に入った。三ヶ月後には幻想郷の裏側を統べている連中の仲間入りをしているかも知れない。いや、妖夢にはその絵図らが確かに想像できた。

「っ…あ、あの…」

 と、笑い声を上げる妖夢に怖ず怖ずとリグルが声をかけてきた。その顔色は白いを通り越し青く、繰り返される呼吸は浅く早いものだった。一陣の風でも吹けば倒れてしまいそうな…命の炎は風前の灯、といった風だった。

「ああ、そう言えば助けると言っていたな。しかし…」

 ふむ、と考える。確かに妖夢は今、一枚だけ治癒の術符を持っていた。それを傷口に貼りつければリグルは一命を取り留めることが出来るだろう。だが…

「すまない。馬の怪我を治してやらないと私はこれ全てを運べそうにない。だから…」

 死ね。

「あ?」

 雨合羽を貫き、リグルの背中から白刃が現れた。それは血で紅く濡れていたが降り注ぐ雨が瞬く間に汚れを洗い流してしまった。リグルは自分の体を貫く刀と薄ら笑いを浮かべている妖夢の顔とを交互に見て、こふ、と血の塊を吐き出した。そうして、妖夢が今しがた突き刺した白楼剣を引き抜くと同時に荷馬車にもたれかかるよう倒れた。虚ろな瞳は何も映さず、リグルがもう一度、体を起こすことはなかった。

「幽香…さん」

 それがリグルの最後の言葉だった。見開かれたままの目に雨が何粒も降り注いだ。



 妖夢は白楼剣についた雨水と血を払うとちん、と鯉口を打ち鳴らして鞘にしまった。
 後は特筆するような出来事は何も起こらなかった。
 一枚だけ持っていた治癒の術符で馬の怪我を治すと妖夢は荷台に乗り込み、手綱を握って馬を走らせた。妖夢の行き先は誰も知らなかった。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――











 その日は久しぶりの快晴だった。天を覆っていた分厚い雲は何処かへ吹き飛び、一面の青空が広がっていた。
 だが、その場所に集まっていた民衆は青空とは裏腹にすぐれない顔をしていた。
 不安、嫌悪、好奇心。表情はバラバラであったがいずれも負の感情に属するものだった。どよめき、中には視線を逸らしている者もいたが、その注意は一点に向けられていた。昨日の雨でできた水たまりが残る道の上にはぬかるみに埋もれるよう無造作に打ち捨てられたように転がされている四つの死体に。

 死体はいずれも刀のような鋭い刃物で斬り殺されており、片腕が無くなっているものや両足首が綺麗に切り落とされているものなどはまだマシな方で、酷いものになると頭のてっぺんから股の下まで真っ二つにされていたり、重いものに潰された上に喉を掻っ切られたりしているものもいた。

 最近、この辺りを騒がしている辻強盗の仕業だろうか。いや、あの死体の格好とか武器を持っているところをみろ。組織同士の抗争かもしれんぞ、などと集まりに集まった民衆は手前勝手に話し合っていた。

 そんな会話には耳も貸さず、黙々と警邏隊は野次馬を整理し、事件現場の検分に当たっていた。もっともあまりに凄惨すぎる状況に、隊に入ったばかりだろうか、若い警らは道の端の側溝にえろえろと朝食を戻していたが。先輩の隊員がそれに心配と呆れとを入り交じらせた目を向けていた。

 糞、と警邏隊の隊長は憤り、拳を打ち鳴らす。こんな凶悪な事件を巻き起こした犯人に向けた怒りだった。絶対に打首にしてやるぞ、と意気込む。ですが、と隣に立っていた副隊長が隊長を落ち着けさせるよう静かに言葉を続けてきた。これだけ一編に人死にが出たのは久しぶりです、これは博麗の巫女に相談したほうがいいのでは、と。それは治安維持部隊である警邏隊の面目を潰してしまうような提案だったが、事実、彼らにこの事件が手に余りそうなのは明白だった。彼らが普段、取り扱っている事件はスリや酔漢同士の喧嘩程度なのだ。こんな凶悪事件など隊の古株でも経験したことがないかもしれない。かもしれん、と隊長は苦虫を噛み潰した顔でゆっくり頷いた。この後の警邏隊の会議でこの事件は殺人異変だと断定され、博麗神社へ連絡が入ることになった。


 表街道で生きる者たちの反応は概ねそんな調子だった。博麗の巫女が動くならすぐに解決されるだろう。殺人鬼は哀れ、巫女にとっちめられるのだと。
 ならば、裏街道に生きる者は?

「………」

 野次馬共の垣根の中、一人だけ違う顔つきの者がいた。
 折りたたんだ日傘を手に、じっと事件現場を見つめている。
 チェックのロングスカートとチェックのベストを着て、麦わら帽子をかぶった品の良さそうな女性だった。後ろ姿だけを見ればどこか良家のお嬢さまと思われたかもしれない。
 だが…

「……舐められたものね」

 その一見、喜怒哀楽の楽を湛えているように見える顔の裏には地獄の業火もかくやと思われるほどの憤怒が渦巻いていた。うねり泡立ち蒸気を上げる憤怒という名の溶岩。握る傘の柄には花崗岩さえ握りつぶしてしまえるのではと思えるほど力が込められていた。

「ボス、調べが付きました」

 と、人ごみをかき分け背の高い黒ずくめの男が女性の後ろにへと現れた。女性に顔を近づけ、何事かを耳打ちする黒ずくめ。女性はええ、そうなの、とあくまで落ち着いた口調で男の報告に耳を傾けていた。

「わかったわ。すぐにみんなに伝えて。下手人を私の前に連れてきなさい、と。いい、殺しちゃダメよ。生きて、出来るなら五体満足の状態で。お願いね」

 話をすべて聴き終えると女性は男のほうに一瞬だけ視線を向け、そんな命令を告げた。分かりました、と男は言われたことをしっかりと頭に刻みつけ、また人ごみをかき分けてもどっていった。ふぅ、と女性はため息を付いて軽く瞳を閉じる。
 事件現場ではそろそろ遺体の回収作業が始まっていた。

「………」

 女性は再び瞼を開けると、何の躊躇いもなく現場を仕切っていた縄を跨ぎ内側へと足を踏み入れた。あまりにも自然な動作だったためそれを意識した民衆はごく僅かだった。野次馬整理の警備も気づくのが遅れ、女性は誰にも邪魔されることなく担架に乗せられる女の子の妖怪の側まで歩み寄ることができた

「あ、あんたちょっと…」
「失礼」

 やっと気がついた警邏隊員が注意しようと声をかける。それを無視する形で女性は担架に乗せられた女の子の顔に手をやった。優しく撫でるように見開かれたままの瞼を閉じさせてあげる。

「もう眠りたいでしょうに。いつまでも起こしているのは可哀想よ」
「あ…」

 女性に指摘され、すいません、ありがとうございますと恥じ入るよう声を上げる隊員。女性がこんな行動を取ったのは死者を蔑ろには出来なかったからだろう。遺体を物のように扱っていた他の隊員たちも考えを改め、動きを丁寧なものに変えた。

 それを見ると女性はそれでは、と頭を下げ、日傘をさし、踵を返し現場から離れて行った。僅かに名残惜しそうに後ろ髪を引かれながら。












 仕切りを越える前に女性は誰にも気づかれないぐらいゆっくり、小さく口を開いた。

「リグル、仇は必ずとるから…」

 可愛らしかったあの娘の名を呟き、風見幽香は復讐を決意する。翡翠の瞳には憎悪と憤怒が渦巻いていた。














――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――













「ははっ、あははははははは…」

 同刻。朽ちた門の裏手、壁にもたれかかりながら妖夢は昨晩手に入れた大麻を煙草にしてそれをぷかぷかと吹かせていた。その顔には薬物の効果以上に歓喜の笑が張り付いていた。いまいち視点の定まらぬ瞳の先には今にも枯れそうな樹の幹に手綱を結わえ付けられた馬がいた。馬には荷馬車が取り付けられており、その中には換金すれば数千万とも数億ともなろう量の乾燥大麻が収められている。社会の最下層、浮浪者寸前の状態から悪の道を直向きに進みのし上がってきた妖夢が手に入れた途方もない額の富だった。

 それを考えれば妖夢の顔に卑しい笑みが浮かぶのも無理からぬ話だった。

 だが…妖夢はこの時、まだ、悟ってはいなかった。

 悪の道を進むということはそれは必ず正義の力…幻想郷に置いては警邏隊や博麗の巫女と争わねばいけないということを。そして、正義と違い悪と対峙するのは相反する正義だけではなく、同族の悪もまた敵に回ることになるのだと。違法薬物を売買している他の勢力…科学合成麻薬を製造している八意永琳や図書館の魔女が作った魔法の薬を売りさばいているスカーレット・シスターズと敵対しなければいけないということを妖夢は識らなかった。

 なにより商品を奪われ、あまつさえ大切な人を殺された風見幽香が自分の命を狙っているということなど、知るはずもなかった。

 はたして、自分がたどり着いた真理ー―こんな底辺では心身ともに貧しくなくては生きてはいけない、それを忘れてしまい巨万の、とても両手では抱えきれぬほどの富を手に入れてしまった妖夢に明日はあるのだろうか。





 風に吹かれて消えて行く煙草の煙のように妖夢の未来は定かではなかった。


「あははは、あはははは…」






END
 皆さんお久しぶりです。
 地震やら例大祭中止やら花粉症やらありましたが、私は元気です。

 ところで私がここ産廃創想話に投稿し始めてから丁度、三月末で丸一年になります。
自分のような三文物書きの作品を読んで頂き、コメントをくださった皆様、アイデアややる気を分けてくださった他の作者さまには心から感謝しております。
 今後とも産廃SSは変わらず、続けていこうと思っておりますのでなにとぞ、よろしくおねがいいたします。
sako
http://www.pixiv.net/member.php?id=2347888
作品情報
作品集:
25
投稿日時:
2011/03/18 10:18:20
更新日時:
2011/03/18 19:18:20
分類
妖夢
強盗
人斬り
悪漢小説
1. 砂時計 ■2011/03/18 22:36:42
この後妖夢はアウトローを突き通すんですね、わかります。
つまり、Youmu DEAD REDEMPTION。
続きが読みたいと思うようになったぜ
2. 名無し ■2011/03/19 00:23:17
幻想郷が暗黒街になっちまってるが…まあ産廃では珍しくないねw
最後は妖夢が凄惨な目に遭って終了かと思いましたが、それを暗示する薄暗い終わりもなかなかいい味出してました。
原作の羅生門もそんな終わり方でしたしね。あと、妖夢の人生ももう終わったも同然か。
3. 名無し ■2011/03/19 01:23:08
退廃的なエロさが素晴らしいです
抜きました
sakoさんのSS好きなのでこれからも応援します
4. NutsIn先任曹長 ■2011/03/19 04:18:04
破滅までの刹那の快楽に目覚めた妖夢の話、しかと読ませていただきました。

最低は最高だと、どこぞのライダー義兄弟の弟が言っていましたっけ。
ちなみにその後兄貴が、『おれの妹になれ』と続くでしょうが。
…まずい、地獄兄弟と並んで、黒い着流しにサソード・ゼクターを持ったみょんちゃんの雄姿が脳裏をよぎった…!!

本当に、生真面目な良い子ちゃんの妖夢は、堕ちて修羅になる姿が様になります。
同じ底辺の者同士なら、蛇を魚と偽って売ろうが、死体から髪の毛を引き抜こうが、追いはぎをしようが恨みっこ無しですが、
自分より上位の者を敵に回したら、踏み潰されるのが道理。
はてさて、みょんちゃんは、無様にくたばるまでに何人不幸にする事やら…。

庭師の行方は誰も知らない。
5. ハッピー横町 ■2011/03/19 19:36:28
妖夢がこの先悪として大成するのか、ただの小悪党として惨めに死んでいくのか――もう見えているような気もしますが、果たして。
今後もsakoさんの活動を応援してます。
6. イル・プリンチベ ■2011/03/21 16:59:48
たぶんこのみょんはゆうかりんにフルボッコにされてると思われます。
闇社会には闇社会でのルールがありますので、みょんはその暗黙の了承を知らず知らずのうちに破ってしまうでしょう。
7. 狂い ■2011/04/19 06:01:15
莫大な金を上納して地霊の面子に加わればいい
魂魄妖夢に明日はある
忌み嫌われた地下住人をも謀って、心も身も落ち続ければ良いさ
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